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<寄稿>トロント大学留学記(2) : カナダの「当たり前」と「ギブ・アンド・テイク」

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<寄稿>トロント大学留学記(2) : カナダの「

当たり前」と「ギブ・アンド・テイク」

著者

武田 建

雑誌名

関西学院史紀要

26

ページ

199-259

発行年

2020-03-15

URL

http://hdl.handle.net/10236/00028598

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トロント大学留学記(2)

 

  

カナダの「当たり前」と「ギブ・アンド・テイク」

武田

 

XII  ここはカナダだ   1   生活習慣の違い   2   「イヤー」と「いや(嫌) 」   3   英語いろいろ   4   カナダの英語、アメリカの英語   5   英語にも関西弁? XIII  北米の食べ物     1   ターキーディナー   2   クリスマスの料理   3   家庭料理

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  4   ハンバーガーとハンバーグ   5   お弁当   6   バーベキュー   7   健康志向 XIV  カナダの3大スポーツ   1   雪国カナダ   2   スポーツ大国カナダ   3   カナディアン・フットボール   4   カナダの野球 XV  ミッショナリー・ファミリー   1   ノーマン先生のお嬢様とのダンスパーティー   2   ウッズウォース先生のご長男夫妻   3   グレアム先生ご一家との「ギブ・アンド・テイク」 XVI  生涯の友との出会い XVII  初めての夏休み   1   身体障害児のキャンプ   2   アウトドア・プログラム   3   亡き父は宣教師   4   タッチフット

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XVIII  「ギブ・アンド・テイク」の二年目   1   大事件勃発   2   実習先では   3   カナダ化された?   4   財布の中が空っぽだ!   5   小銭が貯まった!   6   キャンプ・ホワイトパイン   7   二度目の冬休み   8   文通結婚   9   風邪ひいてまんねん   10   熱は下がっても   11   二種類の大学院   12   私の修士論文   13   暇な夏学期   14   リッチな子どもキャンプ   15   さらばトロント

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XII   ここはカナダだ   日本から遠く離れたトロントで留学生活を送る中で気付いたことをまとめておこう。日本人で も、 二一 世紀の今ならこれほど戸惑うことはなかったかもしれない。しかし、一九五〇年代後半 に初めて日本を飛び出した私には、カナダの「当たり前」は驚きの連続だった。 1   生活習慣の違い   太平洋を渡れば、言葉は当然英語だし、習慣も違う。この国では、お辞儀をせず握手する。店 でお釣りを貰う時、日本の店員は渡されたお金から代金を「引いて」 、「はい、お釣り」と渡して くれる。しかし、北米のやり方は、客が買った品物の価格に「お釣り」を「足していって」 、「ハ イ、いくら」である。引き算の日本と足し算の北米であるが、それは単なる「やり方」の違いに 過ぎない。   この国では、 食事の時に、 皿や小鉢をテーブルから持ち上げると、 行儀が悪いと言われる。コー ヒーや紅茶を飲む時、音を立てると卑しまれる。それがこの国のしきたりだ。     英語の本は横書きで、この国では本を左から右に開いてゆく。日本の本は上から下に読み、右 から左へ開いてゆく。これも習慣の違いなのだろう。ことによると、価値観だって同じようなも のかもしれない。そう考えればいいじゃないかと割り切ろうとするのだが、心の隅では何となく 違和感を覚えるのだった。

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2   「イヤー」と「いや(嫌) 」   トロントのYWCAで実習している同級生から、ご婦人方のプログラムで「日本の話」をしに 来いという誘いがあった。講義についてゆけない私のために、ノートのコピーを作ってくれてい る仲間である。断ることは出来ない。   日本から持ってきたスライドを見せながら、日本人の生活様式を説明する。多くの家は、畳の 上に低いテーブルを置き、座布団というクッションを敷き、その上に座ってご飯を食べる。ライ スはお茶碗という小さなボウルに入れ、 手で持ち上げて食べてもいいのだ。夜は、 布団というマッ トレスを畳の上に敷いて寝る。朝になると、布団を押入というクローゼットの中に仕舞う。カナ ダの人は、相手を呼び寄せる時に「カモン」と言って手のひらを上にし、指を自分の方に動かし て呼ぶ。でも、日本では、相手の方に手のひらを向けて手招きをする。英語で「イヤー」と言う と「イエス」だが、日本語で「イヤー」というと「嫌」だから「ノー」の意味だ。大して面白く もない冗談でも、みんな極力笑ってくれる。それが「礼儀」なのだ。我が家と家族の写真を見せ ると、 「ビューティフル」ときた。これも「礼儀」なんだろう。   同じカナダ人だが、私が実習している地域の人たちとはどこか違う。相変わらず英語は上手に 話せないのだが、 不思議とコミュニケーションが取れる。何故だろう? ことによると、 ここ(Y WCA)の人たちと私がホワイトカラー、ミドルクラス的な、貯蓄、勤勉、清潔、整頓、学習と いったことを重んずる価値観を共有しているからかもしれない。話す言葉は違っても、価値観と いうのは、ある程度文化を超え、相通じる共通の部分があるのではないだろうか。

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3   英語いろいろ   関西学院中学部や高等部の生徒の時、文部省検定教科書で英語を習っていた。それだけが「正 しい」英語と思っていたし、スペリングも発音も、世界中どこへ行っても「英語はひとつ」であ り、 「同じ」と思っていた。   だ が、 カ ナ ダ で は、 単 語 の 綴 り 方、 つ ま り ス ペ リ ン グ が 日 本 で 習 っ た そ れ と は 違 う ぞ と 思 う こ と が あ っ た。 「 な に か の 中 央 」 の こ と を「 セ ン タ ー」 と 言 う。 野 球 の 外 野 で も 真 ん 中 を 守 る 人 は「 セ ン タ ー」 だ。 私 が 日 本 で 習 っ た ス ペ リ ン グ は CENTER で あ る。 と こ ろ が カ ナ ダ で は CENTRE と E と R を ひ っ く り 返 し に 書 く。 隣 人 の こ と は NEIGHBOR 、 そ れ が 近 所 に な る と NEIGHBORHOOD である。しかし、 カナダでは NEIGHBOUR とか NEIGHBOURHOOD と書く。 U が 余 分 に 入 っ て い る。 「 そ ん な 英 語 は 日 本 で は 習 わ な か っ た ぞ!」 と 言 っ て も、 こ の 国 で は 昔 からそういった決まりになっているというのだ。   北米の大学は、学生に沢山リポート(彼らはタームペーパーと呼んでいる)を提出させる。大 抵の科目は、一学期に一つのペーパー提出が求められる。運悪く、意地悪な先生のクラスをとる と、二回もタームペーパー、つまりリポートの提出が求められる。しかし、あらゆる面でカナダ の大学が「しんどく」て、日本が楽だとは言えない。カナダの大学にはゼミナールがない。した がって、学士論文の提出もない。その代わり、履修した教養科目、あるいは専門科目でイジメら れるから、 しんどさは同じようなものである。私が観察した限り、 カナダの学生は、 試験とリポー トの提出に追いかけられている。   リポート提出は、結構大変である。文献表や引用文献なども、論文並みにきっちり書かなくて

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はならない。そんなのが中間と期末に計二つ提出なんて言われたら、たまったものではない。先 生は、提出されたリポートを速やかに読んで、点数とコメントをつけて学生に返さないといけな い。後に私がアメリカの協定校へ教えに行った時、 それを自分でやってみて、 北米の先生も楽じゃ ない…と、しみじみ感じたものである。   教師の中には、学生の書いたペーパーの内容について、点数だけではなく、丁寧にコメントを 書いて下さる先生も少なくない。内容へのコメントだけではなく、ご丁寧に私が書いた英語の用 語やスペリングまで訂正して下さる先生もいる。前述したように、私のアメリカ英語を英国式に 直 す 先 生 も い る。 気 に な る の で、 日 本 か ら 持 参 し た 英 和 辞 典 を 開 け て み る と、 CENTRE の RE や NEIGHBOUR の U の 後 に は( 英 ) と 書 い て あ る。 何 の こ と か と 思 っ た ら、 「 英 国 の 英 語 」 と 書いてあった。   中 学 入 学 以 来、 ず っ と 習 っ て き た 英 語 と 違 う 英 語 が あ る な ん て 一 体 全 体 ど う い う こ と だ? 「 け し か ら ん!」 と 言 っ て も、 周 囲 が そ う 書 く の だ か ら ど う す る こ と も で き な い。 「 郷 に 入 っ て は、 郷に従え」である。読む時にはまだいい。だが、書く時には、中学一年の時からの習慣をそう簡 単には変えられない。   綴 り だ け で は な い。 日 本 人 の 私 に と っ て、 自 分 の 考 え を 英 語 で 表 現 す る こ と は 極 め て 難 し い。 大抵の先生は、そのことをわかってくださり、留学生だから少々英文が拙くても、大目に見て判 読して下さる。しかし、 前稿 (『関西学院史紀要』 第 二五 号、 二〇八~二一〇頁) のモーガン先生は、 授業中に私が見せた「しかめ面」で相当頭にきていらしたのだろう。一つひとつ私のアメリカ式 スペリングを英国式のそれに訂正して下さっていた

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4   カナダの英語、アメリカの英語   カナダ人の話す英語は、大雑把に言うと、アメリカの英語によく似ている。   オンタリオ州の西にウィンザーという街がある。そこに住むカナダ人の相当数は、毎日、川を 渡ってデトロイトに行き、自動車工場で働く。川一つ隔てて住み、一家の稼ぎ頭の夫なり妻がデ トロイトに通勤すれば、自然にその話し方はアメリカ英語の影響を受ける。だから、デトロイト で働くカナダ人のことをウインザー・アメリカンなどと呼んでいる。でも、私の怪しげな耳では オンタリオ州の英語と、 そのすぐ南の米国オハイオ州やミシガン州の人の英語と区別がつかない。   太平洋沿岸のブリティッシュ・コロンビアの人たちは、少し違う。西部訛りというか、西部の 発音があるようだ。同じように、カナダの東の端の人の英語は、オンタリオ州の英語とはちょっ と違う。ややゴツゴツ感があるように聞こえる。   でも、カナダ英語の東と西、そして中央との差は、アメリカの東海岸、西海岸、中西部、南部 との差のように大きな違いはない。私が聞き取れないのは南部の英語である。カナダに住んでい ると、アメリカ南部の人と顔を合わすことは比較的少ない。しかし、後年、学長を辞した後、一 年間、 交換教授でテキサス州ダラスの南メソジスト大学へ行った時、 生まれて初めて南部に住み、 南部の人の英語を聞いた。キャンパス内はそうでもないが、一歩外へ出ると、南部訛りに途方に 暮れることが少なくなかった。   ある時、国際交流部の方がドライブに連れ出して下さった。ダラスから遠くない、小さな田舎 町でレストランに入った。ウェイトレスが出てきて、本日のスペシャリティーを説明してくれた が、 全 く 何 も 分 ら な か っ た。 あ と で 聞 い た ら、 た だ の サ ー ロ イ ン ス テ ー キ だ っ た   そ れ す ら 私

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には分からなかったのである。 5   英語にも関西弁?   日 本 に だ っ て 方 言 が あ る し、 「 訛 」 も あ る。 全 て の 日 本 人 が N H K の ア ナ ウ ン サ ー の よ う に 標 準語を使っているわけではない。また、 どこに力を入れて発音するか、 アクセントの違いもある。 我々関西人は、 「英語」と発音する時に、 「エイゴ」の「エイ」よりも「ゴ」に少し力を入れて発 音する。しかし、東京の人は「エイ」も「ゴ」も同じ調子、というか同じアクセントである。   同じことは英語にだっていっぱいある。前号で紹介したが、南部から来た学生が「君たちも来 る か?」 と 言 う と、 「 ユ ー・ ア ー・ オ ー ル・ カ ミ ン グ?」 に は 聞 こ え な い。 私 に は「 ヨ ウ カ ン 」 つ ま り「 羊 羹( よ う か ん )」 に 聞 こ え る。 黒 人 に は 彼 ら 独 特 の 話 す リ ズ ム と 抑 揚 が あ る よ う だ。 それが慣れていない私の耳を混乱させるのだ。   日 本 以 外 の 国 か ら 来 て い る 留 学 生 の 英 語 も 難 し い。 イ ン ド の 学 生 は 英 語 が 流 暢 だ。 よ く 喋 る。 インドは、独立するまで大英帝国の植民地であった。だから、カナダと同じである。当然、英語 はお手のものだ。彼らが早口に話すのを聞いていると、私には「ぴりぴり、あいあい」と言って いるように聞こえる。   オーストラリアから来た学生の英語も分からない。I(アイ)とかY(ワイ)という字がある と、 彼 ら は そ れ を 全 部「 ア イ 」 と 発 音 す る よ う だ。 「 こ ん に ち は 」 は「 グ ッ ド・ デ イ 」 で は な く 「 グ ッ ド・ ダ イ 」 で あ る。 で も、 こ ん な の は 序 の 口 だ。 8 が「 ア イ ト 」 で あ る と は 驚 い た。 彼 ら は EIGHT と い う 字 を 見 る と、 「 エ イ 」 で は な く「 ア イ 」 に 見 え る よ う だ。 オ ー ス ト ラ リ ア の 学

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生に「7の後の8」 (エイト ・ アフター ・ セブン) 、「9の前の8」 (エイト ・ ビフォアー ・ ナイン) と 聞 か せ て お い て も、 「 ア イ ト 」 と し か 言 わ な い。 一 体、 彼 ら の 目 と 耳 と 頭 は ど う な っ て い る の だ ろ う か。 こ れ は、 良 い と か 悪 い と か の 問 題 で は な い。 我 々 関 西 人 が 標 準 語 を 話 す 時 に、 関 西 弁の抑揚をつけているのと同じである。   そ の 昔、 大 英 帝 国 は 受 刑 者 を オ ー ス ト ラ リ ア に 送 っ て い た よ う だ。 彼 ら は、 軍 隊 や 警 察 に 自 分 た ち の 会 話 を 聞 か れ て も 分 か ら な い よ う、 意 図 的 に 分 か り 難 い、 自 分 た ち だ け に 通 じ る 発 音 を 工 夫 し た よ う だ。 昔、 日 本 の 薩 摩 の 国 で も 同 じ よ う な こ と を や っ て い た と 聞 い た こ と が あ る。 言葉が異なり、皮膚の色は違っても、人のすることはみんな同じなんだ。   XIII   学生(北米)の食べ物 1   ターキーディナー   北米のクリスマスと感謝祭のディナーといえば、 必ずターキー、 つまり七面鳥である。正直な ところ、 何故カナダでクリスマスと感謝祭にターキーが食べられるようになったかはよく知らな い。 一七世紀に英国からアメリカに来た移民たちはニューイングランドに入植した。 そこはカナ ダ に 結 構 近 い と こ ろ だ か ら、 冬 は と に か く 寒 い。 も ち ろ ん、 冬 の 到 来 も 早 い。 最 初 に 入 植 し た イギリスからの移民は、 全員凍死、 あるは餓死してしまったそうである。 それを見かねたネイティ ブ・ ア メ リ カ ン、 俗 に い う イ ン デ ィ ア ン が、 七 面 鳥 と ト ウ モ ロ コ シ を 届 け て く れ た そ う で あ る。 そ の お 陰 で、 入 植 者 は 生 き 延 び る こ と が で き た と い う。 私 が 中 学・ 高 校 時 代 に よ く 見 た ア メ リ

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カ映画の西部劇のように、最初から白人と先住民とが戦っていたわけではなかったのだろう。そ の証拠に、ターキーとトウモロコシを貰った翌年は、移民してきた人たちがターキーをつかまえ て、ヨーロッパ風に料理して、先住民にお返しをしたそうである。   ニューイングランドで先住民から七面鳥を贈られ、収穫感謝の日とクリスマスに、それを食べ て祝った入植者たちの新しい食習慣が、どうしてカナダに伝わったかは知らない。しかし、先住 民から七面鳥を贈られたマサチューセッツ州のプリモスから北にゆくと、 カナダはそう遠くない。 だから、プリモスで七面鳥を食べた話や経験がカナダに伝わったとしても不思議ではない。こん な話を関学に来ている 「カナダ研究」 の先生方はご存知なのだろうか? 一度、 お尋ねしてみたい。   正直なところ、私は七面鳥の肉というのはあまり美味しいとは思わない。私以上に我が家の女 王様は「まずい」と信じている。だから、私が留学から帰国して五年後、我が家が一家をあげて デトロイトへ勉強に行った時も、親愛なるカミさんは七面鳥の代わりにチキン(鶏)を使ってい た。肉が固い、 味が悪いなど、 客観的な理由があるのかと思っていたが、 単に彼女が七面鳥嫌い、 ただそれだけの理由のようだ。 2   クリスマスの料理   ターキーディナーにつきものなのがスタッフィングである。 七面鳥のお腹にクランベリー ・ ソー スという赤くて甘いジェリーのようなものとか、 パンのようなものをはじめ、 クルトン、 玉ねぎ、 人参、それにさまざまな香辛料を詰め込んでいる。ここら辺は、それぞれの家庭のお母さんの腕 の見せどころなのであろう。お腹に詰めこむから「スタッフィング」と呼ばれるそうな。肉の味

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がしみ込んでいるから結構いける。もちろん、ターキーと一緒にさまざまな野菜も焼かれる。こ れが昔からの伝統のようだ。   ま あ、 日 本 で 言 え ば お せ ち 料 理 の よ う な も の か も し れ な い。 決 し て 美 味 し い と は 言 え な い が、 あ れ を 食 べ な い と 我 々 日 本 人 が お 正 月 気 分 に な れ な い よ う に、 北 米 の 人 た ち は、 ツ リ ー を 飾 り、 七 面 鳥 を 食 べ な い と、 感 謝 祭 や ク リ ス マ ス の 気 分 が し な い の だ ろ う。 北 米 の ど こ に い よ う と も、 この時ばかりは両親のもとへ帰る人が多い。日本のお盆とお正月を想い出す。   もちろん、キリスト教徒は教会に行くだろうが、教会に行かない家庭でもターキーを焼いてい るようだ。鳥の肉だから、私には鶏も七面鳥も同じように見えるのだが、我が家の女王様は、鶏 の方がターキーより断然美味しいと主張なさる。私は家に置いて戴き、ご飯を食べさせて貰って いる身分だから、賛成はしても反論など考えたこともない。   それは、我が家のプライベートな話である。料理するのは、普通、各ご家庭の女王様のお役目 であるが、ターキーを小さく切り、ひとりひとりに分けるのは一家の主である王様の役目のよう だ。 前 号 に 書 い た が、 私 を ク リ ス マ ス 休 暇 に 招 い て く だ さ っ た サ ー ロ ー 家 の お 父 さ ん が「 ケ ン、 肉 は ダ ー ク? そ れ と も ホ ワ イ ト?」 と 尋 ね た。 何 の こ と か と、 タ ー キ ー を し げ し げ 見 る と、 な るほど同じ七面鳥の肉でも、腿(もも)のところはちょっと黒っぽいし、胸のところはちょっと 色が薄い。脚の骨の付いているところは、ドラムスティックと呼ぶらしい。ドラム、つまり太鼓 を叩く棒に似ているからだろうか。

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3   家庭料理   料理に家庭料理というジャンルがあるのか、私は知らない。ただ、今朝も通勤の途中、ある酒 場の前を通ると、 「韓国家庭料理」という看板がかかっていた。我が国にだって、 「家庭料理はあ るぞ」と思うのだが、改まって「何が家庭料理か?」と尋ねられるとその定義は難しい。そんな 堅苦しいことを言わなければ、みそ汁に、おひたし、魚の煮物か焼き物などは、さしずめ家庭料 理の代表だろう。それならば、北米にだってあるはずだ。     まず、さまざまなサラダ、スープにシチュウ、いろんなジャガイモ料理に、とうもろこし、肉 や魚を煮たり、焼いたり、炒めたり。その種類は思いの外多い。   私のクラスメートの相当数はすでに結婚していた。大きな大学は、独り者の学生のために独身 寮を用意しているだけではない。結婚している学生には、既婚学生用の寮というかアパート群を 用意している。ドアを開けて中に入ると、ソファー、勉強机に椅子、台所には、冷蔵庫や小さな 食卓と椅子、寝室にはダブルベッドにクローゼットもある。独身寮より広い。しかし、独り者は 住まわせて貰えない。欲張ってはいけない。   大学生や院生は、慢性的な金欠病である。北米の学生は、ほとんどが自分で大なり小なり学費 を稼いでいる。特に、カナダの大学は五月の半ばに年度末試験が終わり、九月の始めまで夏休み である。学生は、この間に一所懸命働いて学費を稼いでいる。女子学生でも、結構肉体労働の仕 事を夏休みにやっている。そういったアルバイトの方が事務的なアルバイトよりもずっと収入が 良いからだ。   最近でこそ、女性の給与が男性のそれに近づいてきた。しかし、私が留学した頃は、まだまだ

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男女均等は理想の社会であり、働く女性が男女均等を叫んでいた時代である。だから、男子大学 院生の奥さんたちは、安い給与だが学内の事務の仕事に就き、なんとか工面して、夫に大学や大 学院を卒業させ、高級を稼いで貰うまで「欲しがりません、勝つまでは」と、ひたすら節約と倹 約をモット―に毎日を送っていた。彼らは、私のように独身で、スカラシップを貰っている大学 院生を独身貴族と思って憎んでいたようだ。   そんな経済状況であるから、院生たちの家での食事は簡単で安上がりのものが多い。その代表 がスパゲッティ&ミートソースだ。スーパーでスパゲッティを買ってきて、鍋に水を沸かして放 り込み、何分かすれば出来上りである。あとは、缶詰のミートソースを温めるか、肉や野菜を加 えて「自家製」ソースを作ってかけるかである。私の経験では、北米の人はあまりスパゲティを 炒めることはしないようだ。ナポリタンといった感じのものは、 お目にかかったことがなかった。 本場イータリーではどうなのだろう? 4   ハンバーガーとハンバーグ   もう一つ、安上がり料理の典型はハンバーガーとホットドッグである。私にとって、はじめの うち紛らわしかったのが、 ハンバーグとハンバーガーだった。 ひき肉を固めて焼いたのがハンバー グであり、 焼いたひき肉をパンの間に挟むのがハンバーガーである。今では、 日本も全国津々浦々 にマクドナルドが店を出しているから、読者に混乱はないだろう。だが、一九五六年と言えば大 昔である。我が国に、ハンバーガー屋さんもピザ屋さんも全くない時代の話である。   当時、ピザはほとんどの日本人にはアンノウン、つまり未知の食べ物だった。六年数ケ月に及

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ぶ長期留学の最後、私はホテル&レストラン経営専攻の有名学部を持つミシガン州立大学の大学 院で、博士の最終試験に追われ、フーフー言っていた。近所の部屋にホテル&レストラン経営専 攻 の 四 年 生 が 二 人 住 ん で い た。 彼 ら が、 「 ケ ン、 日 本 で ド ミ ノ・ ピ ザ の チ ェ ー ン を 作 れ。 お 前 は ミ リ オ ネ ヤ ー に な れ る ぞ 」 と 言 っ た こ と を 想 い 出 す。 し か し、 当 時 の 日 本 で は、 ピ ザ な ど と い うメリケン粉の「空飛ぶ円盤」状の食べ物は全く未知のモノだった。そんな食べ物を売ろうとす れば、 たちまち私は倒産して、 借金取りに追かけられていたに違いない。これは先見の明なのか、 無謀の策か、それともそれを実践する才覚の無かった私の恨み節だろうか。   ハンバーガーと最後を引っ張れば、平たくしたひき肉を焼いて、あの丸パンの間に挟むやつで ある。一方、 ハンバーグと後ろを引っ張らなければ、 ひき肉を焼いただけのもので、 我が国では、 昔からご丁寧に「ハンバーグステーキ」と呼んでいる。この外、ハンバーガーのパンの間に、肉 だ け で な く チ ー ズ を 入 れ た の が チ ー ズ バ ー ガ ー だ。 何 故 か、 チ ー ズ ハ ン バ ー ガ ー と は 言 わ な い。 そんなことは、その頃の日本では大して問題にも、話題にもならなかっただろう。日本にマクド ナルドが来たのは、ずっと後の一九七一年である。   ことによると、チーズハンバーガーなるものは私の造語かもしれない。ある時、何故か無性に チーズバーガーが食べたくなった私は、 近所の安レストランで「チーズハンバーガー」と言って、 シ ェ フ に「 チ ー ズ バ ー ガ ー か? そ れ と も ハ ン バ ー ガ ー か? ど ち ら だ?」 と 笑 わ れ た こ と を 想 い 出す。初めての留学。それは、毎日失敗と赤恥の繰り返しであり、未知との遭遇だった。

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5   お弁当   学生の中には、 寮や下宿まで昼食を食べに帰る者が少なくない。独身の学生が寮に入った場合、 朝、昼、晩と三食つきである。要するに寮費と一緒に昼食代も払っている。だから、当然、教室 から寮の食堂まで帰ってくる。だが、結婚している学生や、個人のアパートに住んでいる学生は 弁当持参である。   彼 ら は 我 が 国 の よ う な 弁 当 箱 は 使 わ な い。 そ れ は、 お 米 の 弁 当 が な い 北 米 で は 当 然 の こ と だ。 でも、 厳密に言えば、 箱の上に手提げがついたランチの入れ物は存在する。そこに、 サンドウィッ チ を 入 れ、 コ ー ヒ ー の 入 っ た 魔 法 瓶 を 持 っ て 仕 事 に 行 く の は、 工 事 現 場 や 工 場 で 働 く 人 が 多 い。 学生の中でそれを使うのは、 大学院の「小父さん学生」である。ほとんどの学生は、 サンドウィッ チを紙に包んでそのまま持ってくる。ちゃんとビニールとか、すべすべして水を通さない紙に包 んでくるのは、結婚している学生か、女子学生だ。男子がアパート住まいだと、スーパーで買い 物した際に入れて貰った紙袋の再利用が多い。食物をキッチンペーパーで包んであれば高級な方 だ。ナプキンは持ってこない。でも、校舎のなかのトイレに行けば、タオル代わりの茶色のペー パータオルが箱の中にいくらでも置いてある。欲しいだけ無料でいただく。   サンドウィッチの種類は多い。チーズ、ハム、サラミ、時にはベーコンと一緒にレタス、トマ ト、胡瓜といった野菜を挟むのも、お腹が出た小父さん院生の間ではポピュラーである。もちろ ん、マヨネーズにケチャプ、あるいはマスタードも塗ってある。なかには、ピーナッツバターだ け塗ってくる者もいる。ちょっと寂しいと思うのだが、北米の子どもの間では、それにジャムを 加えたのが圧倒的な人気のサンドウィッチである。

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  大学院生は収入がないから、拡大解釈をすれば、子どものうちに入るのだろう。研究室や院生 のラウンジでも、 ピーナッツサンドを見かける。デザートに、 クッキーや食べ残しのケーキをもっ てくるのは、 貴族のレベルである。 仲間にそれを分かち与える羽目になる。 多くの男子学生は、 スー パーで買った、硬くて酸っぱい小粒のリンゴぐらいだ。まあ、サンドウィッチを食べたら、歯に 食べ物がくっつくから、それを掃除するにはもってこいということか。 6   バーベキュー   カナダ人もアメリカ人もステーキが好きだ。自分の家の台所で焼くのが普通であるが、春から 夏、そして秋にかけては、バーベキュースタイルで庭に出て焼くことが多い。もちろん、牛のス テーキのような高価な肉でなくても、豚でもチキンでもオーケーだ。ソーセージがあれば、子ど もは大喜びである。大人だってそうだ。ただ、我が国と違って、魚や貝を焼くバーベキューは少 ないように思う。   私がトロント大学に通ったのは大昔のことだ。その頃、北米では東の大西洋沿岸か西の太平洋 沿岸の人だけが魚を食べ、大部分の人たちは、魚は「フィッシー」つまり「魚臭い」といって敬 遠していた。しかし、栄養学が進んだのか、その教えが広がったのか、白身の魚が身体によろし い、 特に、 高血圧や肥満の解消に、 肉を止めて魚を食べようという運動、 ではないがPRが始まっ た。ことによると、お寿司の普及もその一翼を担っていたのかもしれない。   で も、 一 九 五 〇 年 代 の 半 ば か ら 六 〇 年 代 の 始 め に 中 西 部 で 魚 を 食 べ る 人 は 少 な か っ た。 た だ、 大学の寮の食堂では、金曜日の夕食は魚に決まっていた。プロテスタントの家に育ち、メソジス

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トの関西学院に中学部から大学院まで通った私は、 カソリックの文化のことは分かりかねる。た だ、 カソリックの人は金曜日に肉を食べたらいけないらしい。だから魚を食べているようだ。詳 しいことは知らないが、寮の食堂では、金曜日に魚が出る。   私は、 子どもの時から魚は苦手だった。だから、 あまり良い日本人とは言えないと反省してい る。ましてや、 カナダ人学生でも嫌がるような「寮の魚料理」はご免こうむりたい。幸いなこと に、 実習先で、 金曜夜はティーンエイジャー対象のダンスがある。その催しのため、 実習生に動 員がかかる。私はダンスが上手に踊れない。留学前に即席のレッスンを受けたが、 普段普通に会 話している女性でも、 いざ組んで踊るとなると、 何故か緊張する。もっとも、 その頃、 ティーン エイジャーが踊るのは、 私が日本では見たこともないような、 ぐるぐる回ったり、 飛んだり跳ね たりするようなダンスであった。 夏に見た唯一のミュージカル映画 「ウエストサイドストーリー」 に出てくるようなダンスだ。だから、 ダンスの夜は、 もっぱら飲み物や食べ物担当であった。監 督なのかサーバントなのか知らないが、 ソフトドリンクとちょっとしたスナックの管理をするの が上手になった。 7   健康志向   私がトロント大学に留学した一九五六年ごろの北米の大学院では、 授業中に教員や学生がタバ コを吸うのが当たり前であった。今から考えると、 あんなタバコの煙と匂いの中、 朝から午後遅 くまでよく授業に出ていたなと思う。   今、 カナダでもアメリカでも、 人びとはタバコを忌み嫌い、 タバコを吸うと肺ガンになるとあ

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ち ら こ ち ら で 宣 伝 を し て い る。 「 喫 煙 者 は こ の 国 か ら 出 て 行 け!」 と 言 わ ん ば か り の 権 幕 だ。 こ の半世紀の間に、よくもこんなに一八〇度転換できるものだとしみじみ感じる。   タ バ コ だ け で は な い。 学 生 た ち の パ ー テ ィ ー か ら ウ イ ス キ ー と か ウ オ ッ カ の よ う な 強 い お 酒 も姿を消した。せいぜいワインかビールである。ワインは昔ながらのものだが、ビールには低カ ロリーのダイエットビールというのが出まわっている。北米のレストランやバーに行って「ビー ル」というと、 すぐ「何ビール?」と尋ねられる。 「面倒だな」と思うが、 日本だって「銘柄は?」 と聞かれるからお相子である。私は、 「関学卒業生を一番多く採用している会社のビール」と言っ て、時々お店の人を困らせるのだが、そんな冗談はカナダでもアメリカでも通じない。そのかわ り、 「私は日本から来たばかりなので、アメリカやカナダのビールの名前は知らない」というと、 相 手 は 片 っ 端 か ら ビ ー ル の 名 前 を 言 っ て く れ る 」。 ど っ ち み ち、 北 米 の ビ ー ル は 日 本 の ビ ー ル に 比 べ る と ア ル コ ー ル 度 数 が 低 く、 水 の よ う な も の だ。 「 不 味 い 」 と は 書 か な い が、 ど れ も 同 じ よ う な 味 だ。 大 同 小 異 な ら、 面 倒 く さ い か ら「 フ ァ ー ス ト・ ワ ン 」 つ ま り「 一 番 最 初 に 言 っ た 奴 」 と言うことにしている。あとは「来てのお楽しみ」である。   今の北米はどこへ行っても、朝な夕な、誰もがみんな走っている。彼らが昔の日本のことを軍 国主義と呼ぶならば、さしずめ今の北米は健康主義である。誰かが「走ることは健康に良い」と 言 え ば、 誰 も 彼 も が 走 り だ す。 「 タ バ コ は 身 体 に 悪 い 」 と 言 う と、 全 て の 公 共 の 場 で は タ バ コ は 吸えなくなる。

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XIV   カナダの三大スポーツ 1   雪国カナダ   一一月後半になると、カナダは雪と氷におおわれる。もちろん、西の端にあるバンクーバーや その周辺は、太平洋の黒潮の影響で雪は降らない。カナダで唯一、冬でも雪に縁のない天国であ る。しかし、雪の代わりに年中雨が降る。土地の人に言わせると、冷たい雪よりも暖かい雨の方 がずっと良いそうだ。秋から冬にかけて雨が降るのも憂鬱だと思うが、そこの人たちは雨の方が 雪よりも遥かに「ましだ」と言う。それを疑うのは、関西学院が阪神地区のど真ん中に位置して いて、気候が極めて温暖なところにあるからだろう。それがどれだけ幸せなことであるか感謝せ ず、当然のことと思っているのではないだろうか。私たちは、阪神間の気候にもう少し感謝の気 持を持たなくてはいけないと自らに言い聞かせている。   トロントの市内は五大湖のひとつオンタリオ湖に面している。湖のそばということは、寒さを 和らげる働きをしてくれる。だから、阪神地区だけを生活の場としてきた私にとって、極寒と思 える寒さも、多くのカナダ人からみると、まだ「暖かい」部類にはいるのだろう。一度、同じ寮 に住む神学生に連れられ、半日車で走って、彼が実習している田舎の教会にいってみたら、その 寒いこと寒いこと。骨の髄まで刺すような寒さだった。それでも、 その神学生は「こんなものは、 まだまだ序の口だ」という。一月から二月にはもっともっと寒くなるらしい。全くもって、恐ろ しいところへ来てしまったものだ。   恐れをなした私は、昼間のうちに逃げ出して寮へ帰ってきたが、夜になると温度が下がり、大

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きな木が凍りついて「パーン」と大きな音を立てて割れてしまうことがあると言う。   カナダの中でも、東のノバスコシア州から西のブリティシュコロンビア州までのように、アメ リカと国境を接しているところはまだいい。北には、米国領土のアラスカにつながっているテリ トリー・オブ・ユーコンをはじめ、三つの「準州」と呼ばれる、巨大な土地が横たわっているら しい。地図で見ただけで、そんな土地には行ったこともない。ただ、トロント大学の大学院で社 会福祉の修士のプログラムを終える頃、後期課程に進みたいと言ったら、三年間の実務経験が必 要だと言われた。   しかし、 日本人、 つまり「外国人」の私は、 修士課程修了後三年間カナダで働こうと思っても、 学 生 ビ ザ で 入 国 し て い る か ら 働 く こ と は 許 さ れ な い。 大 学 事 務 室 の 偉 い 方 は、 「 ケ ン、 ユ ー コ ン ならば働けると思うが、一度調べてみようか?」と言って下さった。ユーコンが社会福祉の修士 号をもつプロフェッショナルな専門家を探していたらしい。そのご厚意は有難いが、トロントの 寒さでも目を白黒させている私が、 アラスカの隣のユーコンで働いたら、 秋の半ばで凍死するか、 寒 さ で 発 狂 す る に 違 い な い。 「 私 は、 母 校 関 西 学 院 大 学 か ら 教 育 学 専 攻 で 修 士 の 学 位 を 戴 い て い るので、博士のコースは、それを生かせる大学院を選びます」と申し上げた。私のユーコンでの 冒険は、未完成どころか、全くの不発に終わってしまった。 2   スポーツ大国カナダ   日本では必ずしも知られてはいないが、カナダはスポーツ大国といってもよいだろう。国民栄 誉賞を授与されたフィギアスケートの羽生結絃選手は、トロントでカナダ人コーチに師事してい

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る。私が留学していた一九五〇年代から六〇年代、アメリカのプロ・アイスホッケーつまりNH Lでは、選手もコーチも、ほとんどカナダ人で占められていた。今でこそ、ヨーロッパ、特にロ シアの選手やアメリカ人も食い込んできているが、 当時は、 カナダ以外の国籍の選手は稀だった。 したがって、モントリオールとかトロントにあるチームだけではなく、どのアメリカのチームで も、選手はほとんどカナダ人だった。 3   カナディアン・フットボール   カナダのフットボールは、カナディアン・フットボールと呼ばれている。アメリカン・フット ボールと全く同じ防具を付け、同じようなユニフォームを着て、同じ格好をしている。それもそ のはず、カナダとアメリカのフットボールの防具やユニフォームに違いはない。   アメリカのフットボールは、英国のラグビーが米国に伝わったのが始まりと言われている。最 初は、ラグビーと同じで、ヘルメットも他の防具も付けていなかったが、事故防止のため防具が 次 第 に 改 良 さ れ、 ま た ル ー ル も 改 正 さ れ、 今 の よ う な 形 の ス ポ ー ツ に な っ た の で あ る。 何 故 か 一五名でやるラグビーが一一名と、 サッカーと同じ人数に減った。さらに、 大きく変わったのが、 パスを前に投げてもいいルールになったことだ。こういった点は、カナディアン・フットボール といわれるカナダの競技にもすべて取り入れられている。ちょっと見たとところ、カナダのフッ トボールとアメリカのそれは、全く違いがないように見える。   しかし、慣れてくると、カナダとアメリカの違いが少しずつ分かってくる。まず、アメリカの フットボールは一一名でやるが、 カナダは一二名だ。何故かRB、 つまりボールを持って走るバッ

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クの選手が一人多い。アメリカ式では、 攻撃に四つのダウンがあるが、 カナダでは三つしかない。 フィールドは、ラグビーのフィールドをそのまま使かうから、幅が広いし、タテが一一〇ヤード と少し長い。三つのダウンしかないから、パスが多くなる。フィールドの幅が広いから、オープ ンプレーも増える。アメリカの四つのダウンのフットボールに比べると、ボールを縦にも横にも 投げるギャンブル性に富んだ試合運びになる。攻撃チームは、三つのダウンしかないので(攻撃 側 は 守 備 側 に 少 し ば か り 手 加 減 を し ろ と 言 う の だ ろ う )、 守 備 の ラ イ ン は、 ボ ー ル か ら 一 ヤ ー ド 後ろに下がっていなくてはならない。攻撃のラインは、守備の第一線の選手に体当たりしてもい いが、守備の後ろの方を守っている選手へ体当たりに行くことは許されない。その代わり、攻撃 のバックス陣は、 ボールがスナップといって、 センターがボールを股の下から後ろへ投げる時(つ まり、プレーが始まる瞬間)に、前後左右に向かって走ることが許されている。それも、バック スならば全員動いて(前方には一人だけ)もOKである。これは攻撃チームに有利なルールだ。   カナダの大学にも、このカナダ式フットボールのチームはある。だが、アメリカのように、有 望選手に授業料、寮費、食費、洗濯代などを払うスカラシップは出していない。だから、カナダ の高校フットボールのスター選手は、アメリカの大きな大学に進むことが多い。カナダ人は外国 人用の高い授業料を払わなくてはならないが、チームが払ってくれるのだから、アメリカ版「親 方日の丸」である。   カナダにもプロ・フットボールがある。アメリカのプロ・フットボールに上位でドラフトされ るような選手でも、チームに残ることが出来ないと、国境を越えてカナダのプロ・チームに「都 落ち」してくる。そして、カナダで一旗揚げることが出来れば、またアメリカのプロからお呼び

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が かか る。 そ うい う 意 味で、 カ ナ ダ のプ ロ・ フ ット ボ ール は ア メリ カ の プロ チ ー ム(N F L )の 一 種の下 部組 織と 言 えな いこ とも ない。 もち ろん、 カナ ダの 人か らは ブー イン グが 起こ るだ ろう が …。そ の対 策 とし て、 カナ ダの プ ロは、 ア メリ カ 人選 手を 無 条件 で 何人 も雇 え ない 規 則を 作 っ て いる。 確か、 一 チー ム につ き一 二 名は 何 処の 国 の外 国人 で も契 約 する こと が 出来 る が、そ の 数 を 超える と契 約す る こと は出 来な い。こ れは アメ リカ 人選 手に は厳 しい が、カ ナダ 人選 手を 守る ためには重要な規則である。 4   カナダの野球   カ ナダに も メジ ャー リー グの フラ ンチ ャイ ズが ある。 昔は、 モン トリ オー ルに もメ ジ ャー リー グ のチ ー ム があ っ た が、今 は ア メ リカ に 移 って し まっ た。 現 在 では、 ト ロン ト・ ブ ルー ジ ェ イズ の みが メ ジ ャー の チ ーム だ。 そ の ほか に、 マ イナ ー が各 地 に ある。 も っ とも、 私 が 留 学し て い た 頃 は、カ ナダ に メジ ャ ーの チー ム は存 在 しな か った。 せい ぜ い、ト ロ ント に 3A のチ ー ムが あ っ た ぐら いだ。 し かし、 当 時か らカ ナ ダ人 は メジ ャ ーの 試合 を 自宅 の テレ ビで 見 て、贔 屓 チー ム の 勝敗に一喜一憂していた。   今 は、日 本 人 選手 が メ ジャ ー で 活 躍す る 時 代で あ る。で も、 私 が 高校 生 の頃 だ か ら、 一九 四 〇 年 代の 終わ り 頃、日 本 のプ ロ野 球 は3 A のチ ー ムに 歯が 立 たな か った。 高校 二 年生 の 時、 サ ンフ ラ ンシ ス コ・ シー ル ズ とい う 3 A のチ ー ム が、 シ ー ズン 終 了 後、日 本 に 遠征 し て きた。 学 校 帰り に 見に 行 っ たが、 日 本 のプ ロ の オ ール ス タ ーは、 3 Aに 手 も 足も 出 な かっ た。 そ の後、 南 海 ホー クスにいたマッシー ・ 村上がサンフランシスコのジャイアンツでリリーフ投手として活躍したが、

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日本に連れ戻されて消えていった。南海の首脳陣は、日本人がメジャーで活躍することが如何に 日米関係の上で大切かよりも、自分のチームの一勝が欲しかったのであろう。   次は、野茂英雄である。私が関学の理事長をしていた時に、関西テレビが毎年スポーツ大賞を 出していた。野茂選手が新人賞を受賞した時、審査委員長の特権で私が賞を渡したことを想い出 す。大きなお尻をした若者だった。それだけのご縁だ。彼がメジャーに渡り、オールスターに選 ばれ、セレモニーの後、参加した子どもたちと握手をしている姿をテレビで見て、感激で涙が止 まらなかった。そして、今はエンジェルスの大谷翔平君の二刀流である。この分なら、日本もや がてカナダやアメリカのお尻を摑かまえることが出来そうだ。 XV   ミッショナリ・ファミリー 1   ノーマン先生のお嬢様とのダンスパーティー   今 で も カ ナ ダ の 大 学 寮 で、 年 に 一 回 ダ ン ス が あ る の だ ろ う か? そ ん な も の は と っ く の 昔 に 寮 の行事から外されていると思う。しかし、一九五〇年代のカナダの大学寮ではダンスパーティー なるものが開かれていた。念のために、もう一度紹介するが、私の寮はカナダ合同教会の神学大 学院男子寮である。私の感覚では、大学院生がダンスパーティーなどやることなんか考えられな い。寮のダンスは、 あくまで学部生どまりであるべきだ。院生になったら、 入学したその日から、 卒業の前日まで勉強に追われるのが宿命だ。これが私の言い分だ。   しかし、この寮に住む神学専攻の大学院生には彼らの言い分がある。学部時代からのガールフ

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レンドを郷里に残し、トロントに出てきて三年間。ひたすら神学の勉強に励み、秋には牧師とし て 教 会 に 赴 任 す る。 そ の 前 に、 自 分 が ど ん な 所 に 住 み、 ど ん な 仲 間 と 暮 ら し て き た か を ガ ー ル フレンドに見せたいと思う気持ちは分からないでもない。もう一つの理由は、私たちの寮がある チャールズ・ストリートを少しいったところに、同じカナダ合同教会が開いている女子のキリス ト教教育指導者養成のための学校と寮があった。男子独身神学生のデートのお相手は、もっぱら この寮に住む女子キリスト教指導者の卵である。この二つの寮の出身者が結婚すれば、二人で教 会を守ってくれる。合同教会もうまいことを考えたものだ。そうした関係を維持促進するために は、男子寮でダンスパーティーを開き、女子寮のレディースをお招きすることは不可欠なプログ ラムなのだろう。   だ が、 私 は 日 本 か ら き た 留 学 生 で あ る。 キ リ ス ト 教 の 女 子 指 導 者 の 卵 な ん か 見 た こ と も な い。 「 春 に な っ た ら ダ ン ス 」 と 聞 い て も、 外 は 大 雪 だ。 ま だ ま だ 先 の 話 だ と 思 っ て い た ら、 あ と 二 週 間となった。ルームメイトが心配して、 「ケン、パートナーはいるのか?」と聞いてくれる。 「誰 かクラスメイトに頼むから大丈夫」と答えたが、彼女らにはそれぞれパートナーがいるし、夜大 学までロングドレスを着てくるのは地理的に難しそうだ。私は車の運転がまだ出来なかった。迎 え に 行 く す べ が な い。 「 困 っ た な …。 ダ ン ス の 日 は ど こ か に 逃 げ 出 そ う か 」 と 思 い 始 め た 時、 一 人の美人を想い出した。関西学院の外人住宅に住んでいらしたノーマン( W. H. H. Norman )先 生のお嬢さん、 ナンシー(

Anne Catherine Norman

)である。上ケ原でもここでも、 たまにキャ ン パ ス で す れ 違 う と、 「 ハ ロ ー」 と 挨 拶 を し て く れ た。 彼 女 の よ う な 美 人 は、 よ ほ ど 前 に お 願 い していないと、デートの予約は取れないだろう。 「善は急げ」だ。すぐにナンシーに電話をする。

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要点を紙に書いて、それを読んでのお誘いである。私の窮状を察して、OKしてくれた。これだ けでもう疲れてしまった。     ベッドの上に横たわって疲れを癒しながら、夏に見た西部劇の映画の中で、騎兵隊の隊長が士 官 と そ の 奥 方 の た め に ダ ン ス パ ー テ ィ ー を 開 い た シ ー ン を 想 い 出 し て い た。 そ の パ ー テ ィ ー は、 実は若い士官と幹部士官の娘さんたちのためでもあった。私はその映画のシーンに加えて、ダン スの時にスカウトのインディアン青年がこともあろうに幹部士官の娘さんとパーティーに現れた シ ー ン を 想 像 し、 そ の イ ン デ ィ ア ン と 自 分 を 重 ね 合 わ せ て い た。 一 九 五 七 年 の 春 の こ と で あ る。 人種的偏見の壁はまだまだ厚くて高かった。   ダンスパーティーの日がやってきた。さすがノーマン家のお嬢様である。ダンスが下手な私の 気 持 ち と 立 場 を 察 し て、 私 が ど ん な 勉 強 を し、 ど ん な 実 習 を し て い る か に 話 を 向 け て 下 さ っ た。 これなら、私だって多少は話ができる。そして、彼女の専攻のことを尋ねていると、寮生たちが ガールフレンドと一緒にやってきて、二人の会話に割り込んできた。関学を離れて以来、初めて ナンシーさんと言葉を交わしているのをぶち壊されたが、それもパーティーの一部である。その 晩、 私のパートナーになって下さったナンシーさんには感謝してもしきれない。 それこそ 「メニー ・ サンクス」である。   そ れ か ら 一 ケ 月 ぐ ら い た っ た あ る 日、 母 か ら 送 ら れ て き た 手 紙 に、 「 関 学 関 係 の 方 か ら、 貴 方 がノーマン先生のお嬢様とダンスに行ったことを聞きました。良かったね!」という言葉があっ た。まさに「子の心、親知らず」だ!

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2   ウッズウォース先生のご長男夫妻   関西学院関係のミッショナリーとそのご家族は大勢おられたと思うが、 広いトロント市だから、 そ う し た 方 々 に お 目 に か か る 機 会 は 非 常 に 少 な い。 ト ロ ン ト の 隣 の ハ ミ ル ト ン と い う 都 市 に は、 私にトロント大学へ行くように強く勧めて下さったアウターブリッジ先生ご夫妻がおられた。た だ、問題はトロントからハミルトンまでどうやってゆくかである。車があれば、一時間ばかりの ドライブだ。しかし、車なしで行こうと思えば、ダウンタウンからグレーハウンドのバスに乗る しか手はない。もっと困るのは、ハミルトンの停留場に着いてから、どうやって先生の教会まで 行くかである。貧乏学生の私は、おいそれとタクシーを利用するわけにはいかない。貧乏と言う のは何かと不便をもたらす。   私の世代はお目にかかったことはないが、 原田の森から上ケ原の時代にウッズウォース( H. F. Woodsworth ) 先 生 と い う ミ ッ シ ョ ナ リ ー が お ら れ た。 旧 制 大 学 の 法 文 学 部 長 を し て い ら し た 方 で あ る。 そ の ご 子 息 の ケ ン・ ウ ッ ズ ウ ォ ー ス( Kenneth Woodrsworth ) 氏 は 弁 護 士 で、 ト ロ ン トにお住まいであった。さらに驚くことに、奥様はトロントYWCAの総幹事で、私が通うトロ ント大学の社会福祉大学院のパートタイムの学生さんでもあった。カナダ合同教会の奨学金を戴 いて関西学院からきた留学生として、できるだけそのご家族と親しくさせて戴きたいという気持 ちが私にはあった。   ご一家はトロントの西の方にある、ハイパークというとてつもなく大きな公園のそばの美しい 住宅地に住んでおられた。そこへお招き戴き、ご馳走になったり、公園の中を散歩したりするの は楽しいし、いい気分転換になった。ただ、そういった時間は楽しいけれども、ちょっとありが

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た 迷 惑 で も あ っ た。 英 文 の 教 科 書 を 読 む の も、 参 考 書 に 目 を 通 す の も、 「 な め く じ 」 の 歩 み よ り も遅い私が、休日だからといって勉強を休み、宿題の参考文献に目を通しておかないと、翌週の 授業の理解にどれだけこたえるか、カナダの人にはなかなか分かって貰えない。それを友人知人 の気持ちを傷つけることなく、どうやってやんわりと伝えるか、これまた頭痛のタネであった。   ト ロ ン ト の 二 年 間( 一 九 五 六 年 九 月 ~ 五 八 年 八 月 ) の 学 生 生 活 の 後、 私 は さ ら に 米 国 で 四 年 ほ ど( 一 九 五 八 年 九 月 ~ 一 九 六 二 年 六 月 ) の 大 学 院 生 活 を 終 え、 関 学 の 社 会 学 部 で 教 え 始 め た (一九六二年一〇月から社会学部専任講師) 。その頃、このケン・ウッズウォースご一家が関学に 半 年 余 り お い で に な っ た( 一 九 六 四 年 )。 私 は、 専 任 講 師 と い う 社 会 学 部 の 中 で 一 番 低 い 身 分 と 地位にあった。ということは、大して学部の仕事をしなくてよい、かなり気楽な立場だった。ケ ンは法学部で講義をしているようだったが、奥さんのジーン( Jean )と社会福実習一と二といっ て、四年生が一年間、週一日の実習に出る前の面接集中訓練のような授業を一緒に担当した。彼 女は日本語が出来ない。しかし、非言語コミュニケーションの天才だった。私が学生とロールプ レーをやり、学生同士が模擬面接をしているのを見て、実に的確に面接者の問題を指摘し、なお かつ「こうすれば、もっと良くなる」と教えてくれた。私はその指摘を出来るだけ丁寧に学生諸 君に日本語で伝えたつもりだが、学生諸君が学んだことより、私自身が学んだことの方がはるか に多かった。   さらに、授業終了後、社会学部の教授控室に座り、二人でその日の授業を振り返った。良かっ た点、悪かった点を指摘し、どうすればもっと良くなるか話し合い、次の授業に生かした。その ことが、後の私の授業の進め方に大きな助けになった。新人教員がベテランの先生からスーパー

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ビジョンを受けているようなものだった。感謝してもしきれない。 3   グレアム先生ご一家との「ギブ・アンド・テイク」   確か春学期になってからだったと思う。長らく日本で国際養子縁組のお仕事で活躍してこられ た ロ イ ド・ グ レ ア ム( Lloyd B. Graham ) 先 生 が ト ロ ン ト 大 学 の 社 会 福 祉 大 学 院 で ド ク タ ー の 学 生として勉強しておられることが分かった。なんと、博士の学位を取得なさったら、我が関西学 院大学で教鞭をとられるということである。 こちらから連絡を取らなくてはと思っているうちに、 先 生 の 方 か ら 電 話 を 戴 い て し ま っ た。 「 日 本 の キ リ ス ト 教 関 係 の 組 織 で、 国 際 養 子 縁 組 の 仕 事 を し て お ら れ る 先 生 が 今 ト ロ ン ト に き て い る か ら 紹 介 し た い 」 と い う こ と だ っ た。 嫌 も 応 も な い。 グレアム先生にお目にかかる絶好の機会である。   先生ご一家のお住まいは、私の寮からそう遠くないところのようだ。毎朝、福祉の大学院に行 く道を逆の方向へ少し歩いて、二つ目の角を曲がれば先生のお宅付近である。今では、トロント の 街 で も 有 数 の 高 級 レ ス ト ラ ン や 豪 華 な ブ テ ィ ッ ク が 並 ぶ ヨ ー ク ヴ ィ ル と い う 一 角 に な っ て し まったが、当時は古びた、そして淋しげな住宅地といった感じだった。   ストリートと番地を書いたメモを見ながらたどり着いたお宅のドアをノックするまでもなく中 からドアが開いて、日本人の男性が迎えて下さった。お名前は忘れてしまったが、グレアム先生 の在日時代からご一緒に国際養子縁組のお仕事をやってこられた先生だ。 自己紹介をしていると、 グレアム先生と奥様のエブリン( Evelyn )さん、 それに二人のお嬢様のジャネット( Janet )ちゃ ん、エドリン( Adrienne )ちゃんと、一家総出で迎えて下さった。

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  お恥ずかしい話だが、私の専攻はケースワークではなく、グループワークであるから、児童福 祉施設は多少見たり聞いたりしていたが、里親や里子、そして養子、それも国際的な養子縁組の ことなど全く知らなかった。アジアの国から幼い子どもや赤ちゃんが不法なルートで人手に渡る のを防ぎ、受け入れ先のご両親をはじめ家族を調べ、必要な教育と準備をしたうえで養子縁組を 「正規なルート」を通じて行うことがいかに重要であるかを教えられ、 「なるほど」と思った次第 である。思わぬところで児童福祉の勉強をさせて戴いた。   児童福祉の実習ではないが、子どもが好きな私は、すぐにジャネットとエドリンと仲良くなっ た。彼女らは片言以上の日本語を話せる。もっとも私の方も彼女らの日本語には及ばないが、少 しは英語をしゃべれるようになりつつあった。だから、お二人と話す時には英語と日本語のチャ ンポンだった。私の英語の発音がおかしいと、遠慮なく直してくれた。お二人は私の「可愛い英 語の先生」でもあった。   私たちが楽しく遊んでいるのをご覧になって、 先生ご夫妻がお出かけの時には、 私をベビーシッ ターに呼んで下さるようになった。お留守番の間は、私にとっては、お嬢さま二人と遊べる楽し い時間であったが、それは同時に勉強時間が少なくなるリスクを伴っていた。ご自分が博士課程 に在学中のグレアム先生はそのあたりを十分に理解して下さっていて、お帰りになると、お礼の 代わりに私の勉強や宿題を手伝って下さった。だから、このアルバイトは私にとってはお金以上 の大きな助けになった。私は、人間のパーソナリティやその発達とか、ケースワークとグループ ワークといった対人援助の理論と方法は、 関学の学部と大学院で十分叩きこまれてきた。しかし、 福祉の理論とか組織、予算や管理といったマクロの領域のことはチンプンカンプンである。グレ

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ア ム 先 生 は、 い わ ば 福 祉 の 家 庭 教 師 を し て く だ さ っ て い る よ う な も の だ。 こ の「 ギ ブ・ ア ン ド・ テイク」は、両者にとって大いに割の良い取引だった。   一九五八年夏、グレアム先生はトロントの社会福祉大学院からドクター ・ オブ ・ ソーシャルワー クの博士第一号を取得なさって、 社会学部教授として上ケ原へ赴任なさった。 しばしの別れと思っ たが、私の留学が長引いて、実際には四年間ものお別れになってしまった。 ⅩⅥ  生涯の友との出会い   一年生の初日、彼は薄いブルーがかった上着を着て、紺のネクタイをきりりとしめていた。初 めての登校日というので、どの学生もみんなそれなりにきちんとした服装で教室に集まった。黒 い髪と大きく高い鼻、一見してユダヤ系カナダ人とわかる容貌で、名前はマーヴィン・グッドマ ンと言った。   授業が始まると、控えめだが的を得た鋭い質問や発言をするので、私はある種、尊敬の念で彼 を遠くから見ていた。週に一回YWCAでおこなわれる「アーツ・アンド・クラフト」というグ ループ活動で使うプログラムの授業では、各学生がキャンプや青少年活動で経験したゲームや歌 を披露する機会が沢山あった。彼のキャンプ経験と私のそれとはどこか似ていたのだろう、同じ ような歌やゲームを出し合うようになっていた。二人の気が合うとか共通の話題があることに加 えて、スマートな(頭の良い)彼への尊敬や憧れの気持ちもあっただろう。翌年の春にはクラス の中でも仲良しのペアになっていた。

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  彼はトロント生まれ、トロント育ちである。ジューイッシュの教会のメンバーであり、大学は トロント大学のなかでもヴィクトリア ・ カレッジと違って、 宗教とは関係なく設立されたユニバー シティー・カレッジ出身だった。トロント大学の中では、ノンデノミネーショナルな(教会の教 派と関係ない)学生が通うカレッジである。   授業が終わって夏休みに入ったばかりだった。マーヴから電話があり、姪のゲイルを連れて動 物 園 へ 行 く か ら 一 緒 に 行 か な い か 誘 わ れ た。 も う 試 験 も な い、 リ ポ ー ト の 提 出 も な い、 「 私 は 自 由 だ!」 。 二 つ 返 事 で「 連 れ て っ て 」 で あ る。 動 物 園 に 行 く の は 久 し ぶ り だ。 マ ー ヴ の 子 ど も じ みたパフォーマンスに合わせて、私の気持ちも子ども時代に戻っていた。姪のゲイルに「アンク ル・ケン」と呼ばれるのも、新しい嬉しい経験だった。そして、この日がこれから始まる夏休み の良い幕開けでもあった。 XⅦ   初めての夏休み 1   身体障害児のキャンプ   カナダ合同教会の留学生担当者から「この夏どう過ごすのか?」というお尋ねが来た。教会と し て は、 自 分 の と こ ろ で 奨 学 金 を 出 し て い る 留 学 生 が 夏 休 み 中 に 良 か ら ぬ ア ル バ イ ト を し た り、 と ん で も な い こ と を し で か し た ら い け な い と い う 心 配 が あ っ た の だ ろ う。 そ こ で、 「 オ ン タ リ オ 身体障害児協会」 というれっきとした 「慈善団体」 が実施している障害児のためのキャンプから、 社会福祉大学院を通し、 リーダーとして来て欲しいと言われていると申し上げて、 了承してもらっ

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た。教会の奨学金を戴いていると、 お金を戴くような活動をする時にはいろいろ気を遣う。多分、 教会本部が一番心配していたのは、八月に二週間、合同教会が貧困家庭の子どものキャンプをト ロント郊外で行うので、そこにリーダーとして参加できるかどうかだったのだと思う。そのくら いの融通は障害児キャンプに言えば聞いて貰える。   トロントから汽車で二時間ぐらい西に行くと、ロンドンというちょっとした街がある。障害児 キャンプはその郊外にあった。キャンプの名前はウッドイートン。キャンプと言っても、身体障 害児用の施設であるから、車椅子での移動を真っ先に考えて設計したのだろう。本部棟の前に大 きな芝生の広場があり、それを囲むように、車椅子が自由に動ける幅を持ったコンクリートの広 い舗装道路がある。さらに、その外側にキャンパーが泊まるキャビンが二〇メートルぐらいの間 隔で建っている。そのなかは子ども部屋が二つとリーダーの部屋が一つ、そしてシャワーとトイ レがある。   朝と夕方は、 ディレクター以下、 スタッフもキャンパーも全員が国旗の「旗揚げ」と「旗下げ」 のため、芝生の上に整列する。キャンプで唯一、命令一下全てのことが規律正しく行われる時間 である。当時、カナダはまだ英国の植民地だったから、国歌はあのゴッド・セイブ・ザ・クイー ン で あ る。 「 な ん だ、 こ こ は 英 国 領 な の か 」 と 私 は 思 い、 カ ナ ダ 人 の ス タ ッ フ は き っ と「 女 王 様 に 忠 誠 を お 誓 い し て い る 」 の で あ ろ う。 朝 の 旗 揚 げ に 対 し て、 夕 方 は 旗 下 げ だ。 こ の 時 は「 お お、カナダ」という歌を唄う。今ではカナダは独立国家になったが、この旗下げの時に歌ったメ ロティーと歌詞が、そのまま国歌になっている。私にとっては、留学時代、特にこのキャンプの 想い出と結びついたメロディーであり、国歌である。今、この年になっても、カナダの国歌「お

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お、カナダ」を聴くと、このキャンプでの旗下げを想い出す。   この頃、私はカナダが英国から独立するなんていうことは考えてもいなかった。街の映画館で その日の最終上映に行くと、映画が終わった途端、画面にエリザベス女王様のお姿が大きく映し 出され、それまで映画を見ていた全員がスクリーンの上の女王様に向かって、直立不動の姿勢で 右の掌を胸に当て、国歌「ゴッド ・ セイブ ・ ザ ・ クイーン」を歌うのであった。太平洋戦争の後、 徹底的に反戦思想を植え付けられ、国旗国歌は見ない、聞かない、歌わないという占領政策のも とで学生時代を送ってきた私には、何となく異様な光景のように見えるのだった。 2   アウトドア・プログラム     このキャンプでは、障害児のケアが最重要事項である。だから、全てが子どもの健康と安全を 中心に計画され、動いている。キャンパーの多くは身体的な障害をもっているけれど、もう少し 動けるのではないだろうかと思う。だが、病院で入院患者を扱うように、このキャンプでも「無 理しない」 「安全第一」が前面に押し出される。キャンプ長も、副キャンプ長も、看護師さんだ。 だから、子どもの身体的なケアが最大の関心事なのである。一方、キャンプのプログラムは、い きおい大学生、ないし高校生のキャビンのリーダーに任せっきりである。その一つが、アウトド ア・ライフというプログラムだ。子どもたちがキャンプのすぐ隣の森の中で一泊するプログラム だ。夕食後、その森でキャンプ ・ ファイヤーを焚き、マシュマロを焼き、火のまわりで歌を唄い、 ゲームをする。夕食後のプログラムだからせいぜい一時間か一時間半のキャンプ ・ ファイヤーで、 それが終わればキャビンに帰って寝るのだと私は思っていた。しかし、キャンプ長に聞くと、ア

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ウトドア・ライフだから戸外で寝る経験をさせるというのである。なんだか、極端から極端にス イングするような話だ。   カナダの夜は夏でも結構冷える。 私はキャンパーたちが薄着であることが心配だった。 だから、 夕食時、子どもには必ず厚手のセーターかジャケットを持参させるよう、各キャビンのリーダー に徹底した。このキャンプには、キャンプ経験のあるリーダーが少ないことが心配だ!   夜はと ても寒い。キャンプ ・ ファイヤーを一晩中絶やすことは出来ない。でも、ファイヤーというのは、 誰かが火の見張りをしていないと消えてしまう。すると、途端に寒くなる。私は、一晩中火の番 を し な く て は な ら な い 羽 目 に 陥 っ た。 も ち ろ ん、 途 中 で 寝 て い る 時 も あ る が、 「 お し っ こ 」 と い うキャンパーもいるし、火が消えてしまったら大変だ。   これが毎晩であるから、私は疲労困憊である。そんな時、隣のキャビンのリーダーで、プログ ラム ・ ディレクターをしているボブ ・ ストーン(

Robert Franklin Stone

)がキャンプ長にアウト ドア・プログラムの現状を説明してくれた。ディレクターは、私の仕事のオーバーロード、つま り仕事過多の問題だから、私に手当てを出すと言ってくれた。でも、そういう問題じゃない。毎 晩寝ないでキャンプ・ファイヤーのお守りをしている現実を説明し、やっと分かって貰った。改 善策は、オーバーナイトのプログラムを毎晩ではなく一晩おきにするか、男子のリーダーが二人 か三人交代で一晩ずつファイヤーの世話をするという案だ。万歳、二人の男子リーダーが手を挙 げてくれた。これからは、三人でローテーションを組める。   キャンプ・ファイヤーの時、リーダーはお話をするか、キャンプソングをリードしなくてはな らない。私は下手な英語で「桃太郎」や「浦島太郎」の話をすることにしていた。もちろん、日

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