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天主教の原像 : 明末清初期中国天主教史研究

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(1)

天主教の原像 : 明末清初期中国天主教史研究

著者

桐藤 薫

学位名

博士(歴史学)

学位授与機関

関西学院大学

学位授与番号

34504甲第463号

URL

http://hdl.handle.net/10236/00028983

(2)

関西学院大学審査

博士学位論文

天主教 の原像

― 明末清初期 中国天主教史研究一

(3)

要 旨 天 主 教 の原 像 ― 明末清初期 中国天主教史研究― 本稿の 目的は、中国において永きに渡って支配的であつたキ リス ト教を邪教 と見なす観念、 その雛形 となる天主教 (カ トリック

)邪

教論の成立過程、及びその論理を解明す ることである。 清王朝時代の宗教政策は、正統思想である儒教以外の諸宗教 をその性質に応 じて正教0異端0 邪教に分類 した。その宗教集団の儀礼対象が儒教思想の天 と同一存在であれば正統に準ず る正 教の地位 を与え、それ以外の神 々を儀礼対象 とす るのであれば異端の宗教 とし、 さらにその宗 教集団が反政府勢力であれば邪教 と位置づけた。天主教は清王朝の時代に正教 と認定 され、そ の後に典礼論争 を経て異端の宗教 とな り、最終的に邪教 と認定 され る経緯をた どる。 よつて本 稿では前編 「天 と天主」において、天主教が正教 とな り、その後に異端 と認定 され る過程 とそ の思想的要因を、中国宣教の噌矢であるイエズス会宣教師マテオ0リ ッチがキ リス ト教の神で ある「天主」(Deus)と 儒教思想の 「上帝」を同一存在 と定義 した 「天主即上帝論」を焦点に当 てて考察 した。後編 「宣教師即侵 略者論 の形成」では邪教 の認 定条件 である反政府 勢力 につい て、宣教師 とポル トガル人 (仏郎機

)と

の関わ り方 に焦点 を当て、宣教師即侵略者論が形成 さ れ る過程 、お よびその論理 を解 明 し、終章では前編 と後編 で導 きだ した結論 を もとに、康 熙帝 よ り異端 宣告 を受 けた後 に天主教邪教論が成立す る経緯 を明 らかに した。 前編 では天主即上帝論 を考察す るなかで、先行研 究 にお けるこれへ の見解 にい くつかの修正 を試みた。 これ まで天主即上帝論 は、儒教思想 とカ トリック教義 を至高神 レベル で一致 させ 、 カ トリック教義 は儒教思想 に違背 しない として中国知識 人の天主教へ の改宗 を促進す る理論 と 見 な され て きた。 しか しマテオ・ リッチの提唱 した天主即上帝論 は、儒教的世界観 に よ り解釈 され てい る 「天」や 「上帝」 の観念 を、儒教思想 を解体 してそれ らの観念 をカ トリック的世界 観 に則 して再解釈す る理論 であ り、それ に よ り唯一至高神 である

Deusの

観念 を漢語 によつて中 国人 に理解 させ 、神 の福音 を この地 に宣教 しよ うと試 みたので ある。 ところが、儒教経典への 批判 を必然的 に含 む この理論 は、儒教経典 に普遍 的真理 が含 まれ る との価値観 を持つ 中国知識 人 には一切通用せず 、天主 を儒教経典 の上帝 に附会 させ る教義一致 の理論 と見な され、天主は 上帝 と見 な され 、そ して儒教思想 では伝統的 に天 と上帝 は同一存在 で あるこ とに よ り、天主 は 天 とも解釈 され たのである。 こ うして

Deusは

漢語 では 「天主」に加 えて 「天」 と「上帝」 と表 記 され るこ とにな り、 この翻訳語 自体が天 と天主が同一存在 で あるこ とを示 していた。 しか し これ に よ り天主教 は、清王朝 において正教 の認定 を獲得す るに至 ったのである。 ところが典礼 論争 の結果、時の ローマ教皇 によ り

Deusの

翻訳語 は「天主」のみ に限定 され、「天」と「上帝」

(4)

が禁止 され るこ とに よ り、天主教 は正教の認 定を失い、異端 の宗教へ と転落す るのであつた。 後編 では明末期 のイエ ズス会宣教師 とポル トガル人 との関わ り方 を焦点 に当て、その事跡 を 追 うこ とで宣教師即侵 略者論 の形成 を解 明 した。 イエズス会 の 中国宣教 は中国人 との対話お よ び 中国の伝統習慣 の尊重 を基調 とす る適応布教 を宣教指針 として展 開 した。 そのなかで、宣教 師 が 中国人 に侵 略者 との疑惑 を抱 かれ る と宣教活動 が侵 略行為 の一環 として捉 え られ るため、 侵 略者疑惑 を抱 かれ るこ とを宣教活動上の最大の障害 と位 置づ けていた。 ゆえに東南 アジア諸 国 を蹂躙 した経歴 を持 ち、 中国人か ら侵略者 と警戒 され たポル トガル人 (仏郎機

)と

の接触 を 極力避 ける必要 が あつた。 しか し宣教資金 についてはマカオのポル トガル人 に よる送金 に依存 せ ざるをえず 、宣教師 は定期 的 に彼 らと接触 していたのである。南京教案 において 中国 当局が 宣教資金 の補給ルー トを調査す るこ とに よってマカオのポル トガル人 の存在 を割 り出す と、宣 教師 は仏郎機 ので ある との嫌疑 をか け られ 、万暦帝 の詔勅 によ リマカオヘ強制送還 され る。徐 光啓 は時 の懸案 であった満州族対策 として明王朝 の軍隊の武装強化 を図 るた め、 ヨー ロッパ式 大砲 を軍隊に導入 し、その技術指南役 として宣教師 とマカオのポル トガル人 を推薦す る強兵論 を献策 した。 この強兵論 が裁 可 され るこ とで宣教師 の強制送還 は解 除 され 、宣教師 はポル トガ ル人 とともに中国へ再入国す る。 これ によ り中国宣教 は息 を吹 き返 した ものの、以後、宣教師 は中国人か らポル トガル人 と一体 に語 られ るよ うにな る。 こ うして仏郎機 の持つ侵 略者像 が宣 教師 に投影 され ることにな り、宣教師即侵 略者論が形成 されたのである。 終章では、天主教 が康 熙帝 か ら異端宣告 を受 けた後 の時代 に焦点 を当て、天主教邪教論 の成 立過程 を考察 した。舜正帝が即位 して間 もな く福建省 において天主教弾圧事件 が発生す る。 こ の事件 自体は衆正帝が天主教 を国家の統制下に置 くことが 目的であ り、舜正帝 は宣教師 を反政 府勢力 と見なす ことはなかったため、天主教 を邪教 と認 定す ることはなかつた。 ところが1748 (乾隆11)年の福安教案 において、福建巡撫周学健 が宣教師即侵略者論 によ り宣教師 を呂宋 (仏 郎機

)と

繋 が りを持つ侵 略者 とし、国家存続 を脅 かす反政府勢力 とす る論 旨で論駁す る。 これ が乾隆帝 に よつて裁 可 され るこ とで宣教師 は反政府 勢力 と判断 され ることになつた。 それ に と もなって天主教 は邪教 と認 定 され、天主教邪教論 が形成 されたのである。 す なわ ち、天主教邪教論 とは「何者 によつて説 かれ てい るか」が論点 となつてい るのである。 アヘ ン戦争以後 、仏郎機 は ヨー ロ ッパ帝国主義諸 国に置 き換 え られ る。 ヨー ロッパ帝国主義諸 国 に よる中国侵 略が展 開す る とともに天主教 は侵 略者 の宗教 と認識 され、天主教邪教論 が 中国 国内において定着す るこ とにな る。 その後 、 中華ナ シ ョナ リズムが覚醒 し、反帝国主義運動 が 中国各地 で巻 き起 こる と、天主教会 において も欧米人か ら自立 した教会形成 を志す ムーブ メン トが沸 き起 こる。 これ が達成 され るこ とで 中華民族 よる天主教会、す なわ ち中国天主教愛 国会 が成 立 した。 こ うして主教邪教論 は過去 に欧米人 によつて教会形成がな され た時代 の天主教観 として人 々に記憶 され ることになつたのである。 これが天主教 の原像 である。

(5)

目 次 序 章 .… … … 2 第 1節 中華世界 と天主教の避近.…… ¨… … … ¨… … … …… … ¨… … …02

(i)唐

元時代の天主教.…¨… … … ¨… … … ¨… … ¨… … ¨… … …・2 (五

)明

清時代の天主教 。… …… … … … ¨… … … …… … … … ¨… … ¨… … …… … …3 (面

)ヨ

ー ロッパ帝国主義国 とキ リス ト教.………… … …・………¨………・………・04 (市

)中

華民族の宗教へ.…… … … …… … …… …… … … ¨… … ¨… … ¨…5 第

2節

研究史

I

―パ ラダイム・ シフ ト以前一.…… … … …… … … …6

3節

研究史 Ⅱ ―パ ラダイム・ シフ ト以後一.…… … ¨… … … …… … … ¨… … … …8 第

4節

研究方法論お よび本稿の構成.…… … …… … … ¨… ¨… …… … … …10 前 編

天 と天 主 は じめ に .…………014 第

1章

天 主 即 上 帝 論 の 原 型 .… … … ¨… … … …… … …… ¨16 第

1節

ラテ ン語の “Caelum"と 漢語の 「天」.…… … ¨… …… … … ¨… … ……… …16 第

2節

天主訳の登場 。… … … ¨… … … ¨… … … … …18 第

3節

「一位天主」の解釈をめぐつて.¨… … … …… … … ¨… … … … ¨… … …… … …… …19 第

4節

天主即上帝論の原型.…… … … …… …… … … …… … 22

5節

天主即上帝論における上帝観.…¨… … … ¨… … … ¨… … … …… … ¨… … ¨24

6節

天主即上帝論における天観.…… … … ¨… … … ¨… … …26

2章

天 主 即 上 帝 論 の 展 開 .… … ¨… … …… … … 28 第 1節 天主即上帝論への思惑.…… ¨… … … …… … … ¨… … … …… … … … ¨…028 第

2節

経典の壁.…… … … ¨… … …… … … …… … … … ¨… … … …… … … ……31 第

3節

天主即上帝論の転換.…… … … …… … ¨……… … ¨… … … …33

4節

天主即上帝論 と天学

(1).…

… … …… … … … ¨… … ¨… … … …… … …… … … ……36 第

5節

天主即上帝論 と天学 (2).¨ … … … …… … … ¨… … …… … … …37

3章

天 主 即 上 帝 論 の破 綻 .… … … 41 第 1節 天主即上帝論 と正教.¨… … … …… … … …41 第

2節

天主即上帝論 と『 天主実義』.…… … ¨… … … …… ¨… ¨… … … 43

3節

天主即上帝論 と典礼論争 ―異端宣告一.…… … … …… … … …… … … ¨45 お た)り に .¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨・・・・¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨・・・・¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨049

(6)

後 編

宣 教 師 即 侵 略 者 論 の形 成 は じめ に.…………・50

1章

イ エ ズ ス会 宣 教 師 の 中国 宣 教 ― 侵 略 者 疑 惑 を め ぐつ て一 .………… 52

1節

仏郎機 。……… ………¨……… ……… ……… ¨52 第

2節

適応政策 と侵略者疑惑.…………… ………¨……… ……… ………53

2章

侵 略 者 疑 惑 と宣 教 資 金 .… … ¨… … …… … ¨… … … …55 第

1節

資金源.…………… ……… ……… ……… ……… …… ………… 55

2節

資金補給の方法.…… ……… ……¨………¨……… …… ……¨…56

3節

資金補給に伴 う問題.……… ……… ……… 59

3章

侵 略 者 疑 惑 と南 京 教 案 .… ¨… … … …… … … ¨… … … …61 第 1節 資金源への調査.………… ……¨………¨………¨…… ……¨…………061 第

2節

資金源 と仏郎機.¨……¨………¨………¨……¨……… ……63 第

4章

侵 略 者 疑 惑 と徐 光 啓 .… … …… … …… … ……… … … …65 第

1節

宣教師弁護論.…………¨………¨……… ………¨… …… ………65

2節

強兵論 一方針転換―.…………¨………¨………¨……… …66

3節

宣教師即侵略者論の形成.…………¨……… ……… ……… ………・68 お わ りに.… .…………・………・……… ………・………71 終 章 天 主 教 邪 教 論 の形 成 一侵 略者 の宗 教一 .¨… … …… … ¨… ¨… … ¨…72 第

1節

邪教の定義.……¨………¨……… ……… ……¨…… ……¨……72

2節

天主教邪教論の形成。………… ……… ……¨……… ……… ………¨¨76 結 論.…… … ¨… … … …… … … …… … ¨… …… … … …80 後 注.…… …… … … ¨… ¨… … ¨… … …… … … …… … … ¨…83 引用 文 献 一 覧 .¨… … … ¨… … … …… … … …… ¨98 引 用 史 料 一 覧 .¨… … … …… … … …… … …… … … ¨104 史 料 篇 .… … … ¨… … … …… … … …… 106

(7)

凡 例

1.本

文お よび注 において、史料 の原文 0人名・ 史料名 は常用漢字 を用いて表記す る。

2.西

暦0頁数・雑誌 の番号 を表記す る場合 は算用数字の表記法 に従い、漢語史料 の巻数0年号0 日付 な どを記す場合 のみ漢数字の表記法で記す。 3。 字句 についての補足説 明には

( )を

、字句 を補 う際 には 〔 〕を、引用文献の略号には

[ ]

を、それ ぞれ用い る。 4。 引用史料 にお ける傍点 は断 りがない限 り筆者 に よる。 5。 欧文史料 にお ける斜体部分 は原文の様態 を踏襲す る。

6.先

行研 究 はすべて本稿末尾 の 「引用文献一覧」 に付 した略号 をもつて示す。 7。 本稿 で使用す る欧文史料 Дη″猟cda″θは、イエズス会宣教師マテオ・ リッチが残 した報 告書 をタ ッキー・ ヴェン トー リ神父が編集 し、さらにパ スクァー レ 0デ リア神 父が校正 を施 した史料 である。当史料 を引用す る際は特 に注記す ることな くデ リア神 父の校正 に従 つて字 句 を補い、また改める。

(8)

天主教 の原像

(9)

序 章 第

1節

中華世界 と天主教 の遅近 本稿 の 目的は、中国 において永 きに渡 って支配的であつたキ リス ト教 を邪教 と見 なす観念、そ の雛形 となる天主教 (カ トリック

)邪

教論 の成立過程 、お よびその論理 を解 明す ることである。 天主教邪教論 は豊富な先行研 究 を誇 る中国天主教史研 究のなかで も、これ まで議論 の対象 とは されて こなかったテーマである。議論がな され なかった ことには、い くつかの理 由が考 え られ る。 す なわち中国では、キ リス ト教 のアジア宣教が ヨー ロッパ帝国主義国の植 民政策 と同時並行 して 展 開 され たため、宣教師 を帝 国主義諸国の侵略の尖兵 と見な し、キ リス ト教 をその侵略の手段 と して邪教 と位 置づ け るのは、わ ざわ ざ検証 を要す るまで もない事柄 であった1。 ゆえに これ はキ リス ト教観 の前提 として中国人の脳裏 に刻 まれ ていた と言 える。一方 で欧米諸国では、中国天主 教研 究 は教会史の一環 として形成 され て きた伝統があるために2、 天主教宣教 を善 とす る暗黙 の 前提 が抜 きがた くあ り、天主教批判 を本質的に内包す る天主教邪教論 は意図的 に議論 が避 け られ て きた事情があ る。 そ してその後、

1980年

代 に起 つた 中国天主教研 究の方針転換 、す なわちパ ラダイ ム0シフ トに よつて異文化間の相互理解 を基本視点に据 えた研究方針へ と転換す ることに 伴 い、天主教邪教論 は今 日にお ける相互理解 を阻害す る要因 として、かえつて触れ に くいテーマ になった と考 え られ る。この よ うに天主教邪教論 は、これ ほ ど周知の観念であ りなが ら、検証 さ れ ることな く今 に至 るまで取 り残 されてきたのである。 では、これ を俎 上 に乗せ ることが、今 日の中国天主教史研 究 において一体いかな る意義 がある のか。 まず 中国天主教史全体の概略 を確認 してか らその意義付 けを検討 したい。

(i)唐

・ 元時代 の天主教 キ リス ト教 が 中国に初 めて伝来 したのはいつか。文献史料か ら確認 できるのは唐 時代 に伝来 し た景教である。景教 とは唐・元時代 に中国に広 まった天主教の ことで あ り、これが ヨー ロ ッパで はネ ス トリウス派 と呼ばれ ていた ことが明 らかに されてい る3。 コンスタンテ ィノポ リス総主教 であったネス トリウス

(381頃

481以

)が

、聖母マ リアの呼称 を 「神 の母」ではな く 「キ リ ス トの母」にす るべ き と主張 した ことによ り、エ フェソス公会議 (431年

)で

異端 宣告 を受 けて エ ジプ トヘ追放 され、その後ネス トリウスを支持す る者 たち、すなわちネス トリウス派はバ グダ ッ ドに総主教座 を設 立 した4。 ネ ス トリウス派 は中国、南イ ン ド、モ ンゴル高原 において宣教活 動 を展 開 し、 これ らの地帯の民族 の多 くがネ ス トリウス派天主教 を信奉す ることになった5。 中 国では

755年

に始 ま る安史の乱の際、その鎮圧 を命 じられ た郭子儀 (697‐

781)が

ウイ グル族 に 軍事的支援 を求 め、彼 らの活躍 に よって反乱軍は討伐 された。その時 に郭子儀 の参謀 として戦果 を挙 げたのが景教徒 の伊斯 (生没年不明

)で

あ り6、 その軍功 を称賛 して

781年

に 「大秦景教流 行 中国碑」が建 立 され る7。 これ について明末期 の史料 では、郭子儀 が率いた ウイ グル族 を天主 教徒 とす る記録 があ るため8、 恐 らく伊斯 とは ウイ グル族 の族長かあるいはそれ に準ず る地位 の

(10)

人物 であ り、天主教徒 とは甘粛省0青海省一帯で活動 していたネス トリウス派 の ウイ グル族 であ ったのであろ う。次 にモ ンゴル時代 になると、ネス トリウス派 は『 元史』 において 「也里可温」 (JIBれる人)と表記 され9、 さらにモ ンゴル の皇族 のなかに も信者 がいた ことか ら分か るよ うに、 モ ンゴル統治下には多数 の信者が存在いた と推定 されてい る10。 しか し、景教 はあ くまで ウイ グル族やモ ンゴル族 な ど中央アジアの遊牧騎馬民族 に支持 され た 宗教であ り、民族 の枠内に限定 された宗教の様相 を呈す るため漢民族へ広 ま ることはなかつた。 ゆえに明の太祖朱元章 (在位 1368‐

1398)が

モ ンゴル民族 を北へ駆逐 して漢民族 の王朝 を打 ち 立てた と同時 に、景教徒 が中国本 土か ら姿 を消す ことになるのは必然的な現象であった11。 (五

)明

清時代 の天主教 明代 にお けるカ トリック教会 の中国宣教 は、イエ ズス会宣教師マテオ・ リッチ (1552‐ 1610、 利璃費

)が

1582(万

10)年

、広東省 肇慶 に宣教拠点 を構 えた ときか ら始 ま る。イエズス会の 海外宣教 はポル トガル王国の海外植 民政策 の一環 に位置づ け られてお り、天主教宣教 とは現地人 に対 して宗教的・文化的に ヨー ロピア ン0スタイル を強要す ることでポル トガル王国へ忠誠 を誓 わせ る一種 の統治手段 であつた12。 しか し、中国宣教 の場合 は宣教師た ちがポル トガル王国の軍 隊に先行 して入 国 したため、軍事力 を後盾 に ヨー ロピア ン0ス タイル を中国人 に強要す る宣教活 動 は不可能であった13。 そ こで採用 され たのが適応政策であ り、宣教師たちは本来な らば偶像崇 拝 として禁止 され るべ き祖 先祭 祀や孔子祭祀 といつた 中国伝 統儀礼 を中国人天 主教徒 が行 うこ とを許容 し、また

Deusの

翻訳語 として 「天主」に加 えて、儒教思想 の至高神 である 「天」0「 帝」を使用す ることに よつてキ リス ト教の神 を儒教思想 の天 を同化 させ 、カ トリック教義 は儒教 思想 に違背 しない とい う教義一致論 を展開す るな ど、中国伝統文化 に対 して寛容 な態度で宣教活 動 を展開 した14。 主 な改宗対象 は社会的ステー タスの高い 中国知識人で あ り、数学・地理学・天 文学 な どの ヨー ロッパ科学 を紹介す ることで彼 らの関心 を引き付 けつつ、改宗の機 会 を窺 つたの であ る。後 に 「明末天主教三柱石 」 と呼 ばれ 、宣教師 の宣教活動 を献身的 に後押 しした徐光啓 (1562‐ 1633)、 李之藻 (1565‐ 1630)、 楊廷綺 (1557‐

1628)は

、宣教師か ら洗礼 を受 けて天主 教徒 となつた ものの、いずれ も実際 にはキ リス ト教 とい う宗教 にではな く、宣教師 の紹介 した ヨ ー ロ ッパ科学 に関心 を寄せ ていたのである15。 リッチの適応政策 は、後 にフランシス コ会・ ドミニ コ会 な どのカ トリック修道会 か ら猛烈 な非 難 を浴びて典礼論争へ と発展す ることにな り、

1722(康

61)年

、時の ローマ教皇 ク レメンス

11世

(在位 1700‐

1721)は Deusの

翻訳語 を 「天主」のみに限定 し、中国人天主教徒が 中国伝 統儀礼 を行 うこ とを禁止す る教皇令 を降 した。 この ローマ教皇の判 断 に対 して清朝皇帝康 熙帝 (在位 1661‐

1722)は

キ リス ト教 に対 して異端宣告 を降 し、 さらに葬正帝 (在位 1722‐1735) は

1723(舜

正元

)年

、天主教禁教令 を発布す るこ とになる16。 この禁教令 はアヘ ン戦争後、 フ ランス と

1844(道

24)年

に締結 された黄哺条約 まで続 き、天主教 は非合法宗教、す なわち邪 教 として宣教師の中国入 国は一部の例外 を除いて厳格 に制限 され たのである17。 明清時代 の特徴 として、リッチ を始 め とす るイエズス会宣教師は、カ トリック教義 を漢語 の書籍 に よつて 中国の

(11)

知識人 に紹介 し、天主教 がいかなる宗教であるかを説明 した。す なわち、中国天主教史において 明清時代 とは、 中国において基本的な天主教観 が次第 に形成 されてい く時代であったので ある。 また、 この時期 に宣教師た ちが ヨー ロッパ本 国へ書 き送 つた書簡や 中国事情 を記 した書籍 は、 フランス百科全書派 の哲学者 たちに多大な影響 を与 え18、 フランスでは 「シナ趣 味」が流行19、 同時 に巨大市場 としての中国への関心 に も繋が り、これ は後 に ヨー ロッパ帝国主義 国による中国 侵 略の野心 を呼び起 こす ことになるのである20。 (面

)ヨ

ー ロ ッパ帝 国主義国 とキ リス ト教 プ ロテスタン ト系 ロン ドン宣教会の ロバー ト・モ リソン (1782‐1834、 馬礼遜

)は

中国プ ロテ スタン ト宣教の嗜矢 として注 目され るが、当時の清王朝が宣教師の中国入国 を厳格 に制限 してい たため、彼 自身、中国内地で宣教す ることはできなかつた21。 む しろ彼 がマ ラ ッカの英華書院 に おいて『 英華字典』や漢訳聖書である『神天聖書』を編纂 した ことが、後続 の宣教師たちに多大 な便宜 を与 えた功績 として重要視 され てい る22。

19世

紀、天主教 に加 えてプ ロテスタン ト(基督教

)の

中国宣教が始 まる。天主教 と基督教両 者 を含 めた表現 を本稿 では 「キ リス ト教」としよ う。アヘ ン戦争以後、キ リス ト教宣教 は ヨー ロ ッパ帝国主義国がそれぞれ清王朝 と調印 した各条約 の保護 下で展開す る23。 この時期 に中国人信 者 が飛躍 的に増加す るが、その うちの多 くの者 の入信 の動機 が、キ リス ト教徒 にな る と条約 の保 護 によつて裁判 の際 に有利 にな る とい う打算的な思惑 にあ り、キ リス ト教 は通称「裁判 に勝つ宗 教」 と呼ばれ た24。 また中国人平信徒 が どの よ うな信仰生活 を守 つていたかは、福建省福安市の 事例 によって窺 い知 ることがで きる。福建省 においてキ リス ト教 は宗族 の宗教 として一族 の連帯 感 を維持す る装置 として機能 してお り、信仰 は宗族 の構成員 に代 々継承 され 、宗族 の人数 が増加 すれ ば、信徒 の人数 もそれ に比例 して増加す る仕組み になつていたのである25。 近代 コ ミュニケ ー シ ョンが未発達の当時において、キ リス ト教 は信仰者 に地域 の枠 を越 えた連帯感 を生み出す こ とはな く、宗族 内に限定 され た閉鎖的連帯感 を生み出す に止 まつていた と言 える。 また、中国キ リス ト教史 において特 に注 目され る事項が 「太平天国の乱」である。指導者 0洪 秀全 (1814‐

1864)は

キ リス ト教の教義 を独 自に解釈 して拝上帝会 を創設す る26。 土地の均等分 配 を 目的 とした天朝 田畝制度 は、キ リス ト教 において人間は神 の前で平等 とす る理念が27、 中国 独 自の平等思想 である大 同の理念 と融合 し、社会全般 に実現すべ き政策 として構想 され た28。 そ れ は太平天国の批判 的継承者 を 自任す る孫文 (1866‐1925)29、 そ して毛沢東 (1893‐

1976)ヽ

と受 け継 がれ 、後 の三民主義 の一つである民生主義や人民公社 の結成へ と展開す る。反乱 自体 は 失敗 に終 わった ものの、洪秀全 の掲 げた理念 は以後の指導者 の もとで実行 され るのであつた。 キ リス ト教 の急速 な拡大 に伴い、それへ の反動 として発生 したのが義和団事件 な どの反 キ リス ト教運動 である。帝国主義諸 国がキ リス ト教宣教 を侵略の手段 としてい るとし、キ リス ト教 は侵 略者 の宗教 として憎悪 と排撃 の対象 となつたので ある30。 ぃゎゅるナ シ ョナ リズムの時代 に突入 す るが、この中国ナ シ ョナ リズムが覚醒 した主な原 因は、ヨー ロッパ帝国主義国が資本 の輸 出の ため、中国内地 に鉄道 を敷設 し、電信 を導入 した ことに よ り、中国において近代的 コ ミュニケー

(12)

シ ョンが格段 に向上 したためである31。 この コ ミュニケー シ ョンの向上が、これ まで血縁・地縁 を重視 した地域主義 の中国人 に対 して地域 を越 えた連帯感 を生み出 させ 、後 の新観念「中華民族」 に繋が るナシ ョナ リズムを 自覚 させ るに至 った32。 そ してナシ ョナ リズムの矛先 は、皮 肉な こ と に ヨー ロ ッパ帝 国主義国や キ リス ト教 に向け られ ることになったのである33。 孫文 は三民主義 (民族・民権・民生

)に

よ リナ シ ョナ リズム とデモ クラシー を結合 させ 、辛亥 革命 (1911‐

1912年

)を達成す る34。 この時代 の流れ に呼応す るよ うに、キ リス ト教会 も二 自(自 治0自養・ 自伝

)の

方針 の も と、外 国勢力か ら離脱 した 中華民族 の宗教 にな るべ く模 索 を始 める のであった35。 (市

)中

華民族 の宗教ヘ

20世

紀初頭 のキ リス ト教宣教 は外国人宣教師が主な担い手であ り、福祉 (主に孤児救済)・ 医 療・教育が活動 の中心であった36。 この時期 に多 くの ミッシ ョン・スクールが創設 され、中国人 神 父の養成 に力が注がれ るこ とに よ り、中国人聖職者 の数 は飛躍的 に増加 した37。

1919年

の五 四運動、

1925年

の五0三〇事件 に よつて中国ナ シ ョナ リズムが再び高揚 し、反帝国主義・反 キ リス ト教運動が盛 ん とな るに ともない、外 国人宣教師が国外 に退去す るよ うになる と、中国人 に よるキ リス ト教会 の形成 、す なわちキ リス ト教の中国化 (本色化

)が

本格的に行 われ るよ うにな った38。

1949年

、毛沢東 に よ り中華人民共和国の建 国が宣言 され る と、教会指導者 たちは時の 首相 であ る周恩来 (1898‐

1976)に

よ り帝国主義諸国 との関係 を絶つ ことを要請 され39、 その翌 年 の

1950年

に呉輝宗 (1893‐ 1979)が新時代 のキ リス ト教会の方針 を明 らかにす るため、「中国 基督教会宣言」

(1950年

7月

)を

発表 し、中国基督教三 自愛国委員会 (プロテス タン ト系

)が

成 立す ることになる。「自治」・「自養」。「自伝」、す なわち三 自愛国運動の方針 の もと名実共々、 欧米教会 か ら自立 した教会が誕生す ることにな り、カ トリック系の天主教教友愛国会 (後の中国 天主教愛 国会

)も

これ に続 いた40。 ここで天主教教友愛国会 において問題 となるのがバチカンとの関係 である。当団体は、教規 0 教義上は ローマ教皇 に服従す るが政治的・経済的 にはバチカ ン との関係 を断 ち、司教の任命 につ いては独 自に行 う立場 を明確 にす る41。 これ が司教任命 問題 として現在 に至 るまで続いてい るの である42。 以後 、 中国 キ リス ト教会 は共産党政府 の指導下にあつて始 めて中国政府公認 とな り、 制 限付 きの活動 が認 め られ る状況が現在 まで続 いてい る43。 以上が 中国天主教史の概略である。まず、唐 。元代 の天主教である景教 と明末期 の天主教 との 間には、明 らかな断絶が存在す ることが指摘で きる。その断絶 の後、明清時期 において宣教師が カ トリック教義 の漢訳本 を出版 し、また中国知識人 と交流す ることに よ り、中国において天主教 とはいかなる宗教 か といつた天主教観 が次第 に蓄積 され、舜正帝期以降、天主教 は邪教 となるの であった。アヘ ン戦争以後、宣教師が ヨー ロッパ帝国主義国の締結 した条約 の保護 の もとで宣教 活動 を展 開す ることによ り、キ リス ト教 は ヨー ロッパ帝国主義 国の宗教 として認識 され る。条約

(13)

保護 を 目当てに入信す る受容現象、ナ シ ョナ リズム運動 の矛先 とな る反動現象、両者 のベ ク トル は異 なる とはい え、いずれ もキ リス ト教 を ヨー ロッパ帝国主義 の宗教 とす る認識 では一致 してい る。その後、ヨー ロッパ帝国主義国の中国侵略が次第 に激 しさを増す とそれ に比例 して中華ナ シ ョナ リズムが高揚 し、排撃の矛先がキ リス ト教 に向か うと、キ リス ト教 を侵略者 の宗教、す なわ ち邪教 とす る観念 が再燃す る。その後の欧米教会か ら独 立 した 中華民族 によるキ リス ト教 の形成 を 目指 したムーブメン トである中国化運動 は、キ リス ト教界か ら帝国主義分子であ る欧米人 を一 掃 し、帝国主義諸国 と決別す ることで侵略者 の宗教か らの転換 を図つたのである。これ は言い換 えれ ば邪教論 の払拭 である。この よ うに、アベ ン戦争以後のキ リス ト教史はキ リス ト教 を邪教 と す る認識 に基づいて中国人 に よる排撃運動 、そ して中国化運動 とい うダイナ ミックな変動 が起 こ つてい るのである。それ ゆえ、清王朝時代 に形成 された天主教邪教論 を取 り上げることは、明末 清初期 の 中国にお ける天主教観 が明確 にな るのみな らず 、アヘ ン戦争以降の中国キ リス ト教史 を 理解す る うえで も不可欠 な要素である。そ して何 よ り、今 日の中国社会 において このまま邪教論 が議論 され ないままであれ ば、将来的 に中国において再びナ シ ョナ リズムが高揚 した際に突如 と して邪教論が再燃 し、キ リス ト教が排撃の対象 となることが起 こ りうる。しか し邪教論 の論理 を 解 明す ることに よつて これ を相対化 しておれ ば、万一その よ うな状況 となつた場合 に も理性 的な 議論 を行 う可能性 を繋 ぎ止 めることになる。対立状態 の渦 中においてな され る他者理解 こそ、異 文化間対話 とい うものであろ う。キ リス ト教 を邪教 とす る論理 の雛形 である天主教邪教論 を解 明 す る意義 は ここにある。以上の問題意識 を持 つた うえで、本稿 では明末清初期 に焦点 を当て、天 主教邪教論 の成 立過程お よびその論理 を解 明 したい。 第

2節

研 究史

I

―パ ラダイ ム・ シフ ト以前― 「パ ラダイム・ シフ ト」 とは、

1980年

代 に起 こつた明末清初期 中国天主教史 にお ける研究の 方針転換 である44。 天主教邪教論 を考察対象 とした研 究は、す でに述べた通 り、管見の限 り見 当 た らない。ここでは中国天主教史の研 究史 を振 り返 るなかで、パ ラダイ ム 0シ フ ト以前 と以後の 研 究史の特徴 を把握 したい。 まずパ ラダイ ム・ シフ ト以前の研 究史か ら検討 して行 こ う。 パ ラダイム0シフ ト以前、中国において天主教研究が精力的に行 われ たのは中華民国期である。 中国 を代表す る宗教学者 である陳垣氏は、『 元代也里可温考』において、『 元史』に現れ る 「也里 可温」が天主教徒 を意味す る とし、元王朝統治下において天主教徒 が存在 した ことを明 らかに し た45。 陳垣 の弟子 に当た る方豪氏は杭州天主堂の修道院 出身の神父であ り、

1950年

代 に拠点 を 台湾大学へ移 して研 究活動 に従事す る46。 数多 くの研 究成果 を残 してい るが、なかで も『 中国天 主教史人物伝』 は現在 にお いて も十分 に参考価値 の あ る著作で あ る47。 このほか、朱謙 之氏 は

1940年

に『 中国思想対於欧州文化之影響』 を出版 してい る48。 この時代の中国人研 究者 は欧文 史料 を閲覧できる環境 にな く、多 くを漢文史料 に依拠 した研 究であつた。

1949年

、 中華人民共和国が成立す る とキ リス ト教研 究の環境 に変化 が現れ る。 中国の学界 は

(14)

政治方針 を強 く受ける傾 向にあ り、

1950年

に朝鮮戦争が勃発す ることによつて中華人民共和国 とアメ リカ との敵対関係が決定的になると、キ リス ト教はアメ リカ帝国主義の宗教 として政府に よる厳格な管理を受ける49。 それにともなってキ リス ト教研究は公然 と行われ ることはな く、例 外的に候外慮主編『 中国思想通史』に所収 された 「明末天主教輸入甚慶 “西学

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有甚座歴史意 義?」 力`ある程度であ り50、 さらに文化大革命の時期になるとこの分野は完全に禁区 となるので ぁった51。 朱謙之は『 中国思想対於欧州文化之影響』を増補改訂版である『 中国哲学対於欧州的 影響』を

1962年

に脱稿 したものの出版す る機会を得ず、脱稿後

20年

余 してよ うや く出版の運 び となったのは、この時代環境が原因であつた52

-方

で欧米諸国での研究は、教会関係者を中心に研究活動が行われた。代表的な著作 としてケ

ネス・スコッ ト0ラ トゥー レッ ト氏の『 中国キ リス ト教宣教史』 Kenneth Scott Latourette,∠

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Chin′、アンリ・ベルナー ド氏の『 マテオ

0リ ッチ神父 とその

時代の中国社会』 R.R Henri Bernard,Zθ Pare″崩 "υ 五百θご θιル6b`ガだ 働 力abθ ぁ

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屍ノゼ″ の、ジ ョージ・ ダン氏の『 巨人たちの時代 ― 明末期イエズス会士たちの物 語 一 』

George H.Donne,an髪

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がある。彼 らはいずれ もキ リス ト者 であ り、ベルナル ド氏 とダン 氏 に至 ってはイエズス会の神 父である。彼 らは中国宣教 に携 わった宣教師が欧文で記 した伝記や 書簡 な どを主要 な史料 として使用 し、キ リス ト教が異邦人の地である中国に拡大す る過程 を考察 してお り、これ らの研 究は現在 で も中国天主教研 究にお ける古典的名 著 として参照すべ き研 究成 果 となってい る。 ただ し、 当時の天主教研 究 についてニ コラス 0ス チ ュアー ト氏 は、「

20世

60年

代初期 まで、 ヨー ロ ッパ の学者 の主要な関心は、宣教師が どの よ うに してキ リス ト教 を中 国に紹介 したのかである。研 究者 のほ とん どは聖職者 であつたので、通常は宣教師たちの功績 に 関心 を持 つたのである。主 に西洋史料 を用いてお り、研 究のなかではキ リス ト教 を弁護す る 目的 が少 な くな く、例 えば中国典礼問題 では各 自の修道会や教派の弁護 のためであったのである。53」 と述べ るよ うに、パ ラダイム 0シ フ ト以前の欧米 にお ける天主教研 究は、天主教が世界 に拡大す ることを善 と前提 とした うえで、神 の福音 が中国へ宣教 され るプ ロセ スを検証 し、その宣教活動 に当たつた宣教師た ちの偉業 を讃 える研究であつたのである。総 じて言 えば、欧米学界では中国 天主教研 究は、あ くまで教会史の一環 として位 置づ け られ てお り、天主教 を相対化 して捉 えるこ とは発想 として持 ち合 わせ ていなかった と言 える。ゆえに、天主教邪教論が研 究対象 とな らなか つたのは当然 と言わなけれ ばな らない。 なお、中国キ リス ト教史研 究の史料 には漢語 とロマ ンス諸語 の二大史料群 がある。漢語史料 は 上海 市棺 案館 や 台湾輔仁 大学 を中心 に所蔵 され てお り、欧文史料 はイエ ズス会文書館 Jesuit

Archives、 パ リ外 国 宣教 会 資料館 Paris Foreign Mission Archives、 バ チ カ ン教 皇 図書館

Biblioteca Apostolica Vaticanaな ど世界各地 に所蔵 されてお り、欧文史料 は現在 において も未 刊行史料 が多い。中国 と欧米諸国の間で海外渡航 の 自由が制限 されていた当時の時代環境 を考 え る と、当時の中国人研 究者 が漢語史料 を中心 とし、欧米研 究者 が欧文史料 を中心 とす るのはやむ を得 ない。この よ うに中国 と欧米では研究の棲 み分 けがあ り、双方の立場 と見解 には容易 に統合

(15)

で きないイデオ ロギー的障壁 があ り、なおかつ史料環境 もそれ に拍車 をかけていたのである。 しか し日本 は、この研究動 向か ら比較的 自由に研究活動 を行 つていた。日本 では史料環境 に恵 まれ た一面があ り、漢籍 は言 うまで もな く、欧文史料 について も東京文京 区駒込 にある東洋文庫 が豊富に所蔵 してい るため、これが研 究活動 に多大な便宜 を与 えた。佐伯好郎氏は主に漢文史料 を使用 し、また欧米研 究者 の研究成果 を引用す ることで宣教師側 の視点 を補 いつつ 、唐代 の景教 か ら清代 までの 中国キ リス ト教研究 を纏 めてい る。その中心的な関心 は、佐伯氏 自身がキ リス ト 者 であることもあ り、中国にキ リス ト教が根付 くか どうかを検証す ることにあつた54。 石 田幹之 助氏の『 欧米 にお ける支那研 究』 は、

18世

紀 に中国宣教 を行 つたイエズス会宣教師たちが ヨー ロ ッパ本 国に送 つた書簡や報告書 を史料 とす る中国研究、お よびそれ に源流 を持つ欧米にお ける 中国研 究の系譜 を明 らかに してい る55。 後藤末雄氏の『 中国思想 のフランス西漸』はフランス語 史料 を中心に使用 し、中国の仁愛政治や民本主義の思想 が ヴォルテール Voltaire(1694‐ 1778) な ど百科全書派 の思想 に多大 な影響 を与 え、フランス革命 の思想的原動力 となつた とい う興味深 い指摘 を してい る56。 矢沢利彦氏は清初期 の典礼論争 の過程 を漢文史料 とフランス語史料 を併用 して明 らか に した57。 そ の後 、氏 はイエ ズス会 士 に よる『 啓発 的 で興 味深 い書簡集』Zθι

tts

6diia″ "s θι CuFieuSθsの抄訳である『 イエズス会士 中国書簡集』を出版 し、現在 の 日本人研 究 者 はその研究 に多大な恩恵 を蒙 つてい る58。 平川祐弘氏の『 マ ッテオ・ リッチ伝』(全

3冊

)は

、 マテオ0リ ッチの手記で ある『 イエズス会 に よるキ リス ト教の中国宣教 について』お よび漢文史 料 を併用 して、 リッチの中国宣教の過程 を詳細 に追 つてい る59。 以上、諸氏の研 究成果 は欧文 0 漢文史料 を併用す る点が他国の研 究者 には見 られ ない長所 として挙 げ られ る。ただ し、いずれ の 研 究 も読解 した史料 の解釈 を提示す るのみ に止ま る傾 向があ り、そ こに分析 を加 えて掘 り下げて い くスタンスに乏 しい ことが惜 しまれ る。 第

3節

研 究史 Ⅱ 一 パ ラダイ ム0シフ ト以後一

1980年

代 のパ ラダイム・ シフ トによ り、中国ではキ リス ト教研 究が次第 に行 われ始 めた。 こ れ は文化大革命 の収束の後、

1980年

代 の鄭小平 (1904‐

1997)主

導 に よる改革開放政策 による 市場経済導入 に伴 い、欧米諸 国 との経済交流が始 まつた時代背景 と実質的に連動 してい る。欧米

諸国において も、

1978年

にエ ドワー ド

eWOサ

イー ド氏が『 オ リエ ンタ リズム』EdwardlW Said,

a物

″″農 “ において展開 したポス ト・コロニアル理論 の影響 が中国 キ リス ト教研 究 にも影響 を 与 えた と考 え られ 、欧米 中心主義か ら脱却 した研 究が行 われ始 める。その代表作 はジャ ック・ジ ェルネ氏が

1982年

に出版 した『 中国 とキ リス ト教 ― 最初 の衝突― 』

Jacques Gernet,Chθ

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″セ刀 である。これ は欧文史料 とほぼ等量の漢語史料 を 突 き合 わせ なが ら宗教社会史的・比較文化的角度 か ら分析 が試み られ てお り、中国側 に視座 を置 くことで 中国にお けるキ リス ト教の反応 を検証 し、さらにそ こか ら中国社会 の特質 を浮かび上が らせ た研 究であ る60。 そ して結論 において、キ リス ト教が拡大す ることに伴 って必然的に発生す

(16)

る現地文化 との衝突のなかで、両者 の相互理解 と和解 を提起 してい る61。 この よ うに教会関係者

以外 の研 究者 が登場 し始 めた ことで、明末清初期 のキ リス ト教研究はキ リス ト教 を相対化 した研 究へ と転換す るのであった。中国 と欧米諸国がイデオ ロギー的拘束か ら解放 され る と、その反動

として異文化間の相互理解 を中心 とした研 究が主流 とな るのは 自然 の成 り行 きだ と言 える。

この異文化間対話 の議論 は、サ ミュエル 0ハンチ ン トン氏Samuel R Huntingtonが

1993年

に ご∝

ettИ

」筋加 において発表 した論考 「文明の衝突?」 “The Clash of C市ilizations?"を さら

に練 り上 げ、

1998年

に発 表 した著作『 文 明 の衝突 ― 世界秩序 の再構 築― 』 勤 θ 助 動 〆 α7■■iza滋刀s′″ご励θ品知

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N麒

"浅

ソ の影響が大 きい。 この著作は 「文明」 に着眼 点 を置いて冷戦後 の世界構造 を分析 し、将来的に起 こる と予測 され る文明間の衝突 に警鐘 を鳴 ら してい る62。 そのなか

1996年

に 「カ トリックの現代性」 と題 してデイ トン大学で講演 を したチ ャール ズ 0テ イ ラー氏Charles Taylorは、イエズス会宣教師マテオ0リ ッチが中国文明への敬 意 をもとに展開 した宣教活動 を、現代 にお けるカ トリック宣教 のモデル0ケー ス と位置づ け、リ ッチ式宣教方針 (Riccian Approach)を提唱 してい る63。 この議論 に拍 車をかける事件 が2001 年 に発生す る。 ニ ュー ヨー クで発生 した9。11事件 であ る。 この事件 によ り『 文明の衝突』 の内 容が現実味 を帯び るに伴 い、実際 に9。11事件 が文明の衝突であったか どうかは ともか く、マ ス・ メデ ィアは これ をキ リス ト教 とイスラム教 に よる文明 (宗教

)の

衝突 と単純化 して捉 え、世界 中 に情報 を発信 した。これ によ り異文化間対話 と和解 を呼びかける試みが世界的潮流 とな り、明末 天主教研 究 もその潮流 に飲み込まれ ることになる。中国 において明末清初期 中国天主教研 究 を牽 引す る李天綱氏が、その著作 において「異 なる文化が遭遇す ることが必ず しも所謂『 文明の衝突』 とはな らない こ とを、明末天主教 と中国文化 の遭遇 にお ける相互理解 と相互交流の努力は、我 々 に例証 を提供 して くれ る。今 日の文明の衝突 を経験 してい る我 々に とつて、これ はなお も啓示的 意義のあ る例証 である。64」 と記 してい ることは、当時の中国にお ける研究方針 を顕著 に現 わ し てい る。 この よ うにパ ラダイ ム 0シ フ ト以後の明末清初期 中国天主教史は異文化対話のモデル・ケース として扱 われ るよ うになった。世界各国が グローバル化 の波 に飲み込 まれ ることに伴 って世界の バ ランスが崩壊 した現在 の国際関係 において、文明の衝突が現在 の我 々に とつて真剣 に検討すべ き重要 なテーマであることは理解 で きる。しか し中国天主教研 究 自体が対話重視・相互理解 とい った今 日的課題 の教訓を引き出す手段 とす るな らば、それ はまず結論 あ りきの教条主義的研究 と 本質的に異な る ところはないのではないか。 もちろん、この よ うな研 究動 向のなかで も実証主義的研究は多数存在す る。張国剛氏の『 従 中 西初識到礼儀 之争』は、ヨー ロッパ人の中国観 の形成 を視座 に明末清初期 の中国天主教史 にアプ ローチ してい る。黄一農氏の『 両頭蛇 ― 明末清初的第一代天主教徒―』は一次史料 に加 え、著 者 自身が フィール ドワー クを して得た情報 を資料 として、明末清初期 の一代 目の中国人天主教徒 の天主教への帰依 の動機 を精緻 に検証 しつつ、リッチの中国宣教か ら清初期 の典礼論争の収束ま での過程 を考察 してい る。このほかに研究動 向の中心 とな りつつ あるのが、天主教 の地域 での受 容 のあ り方 を検証す る区域史研 究である。 張先清氏の『 官府 、宗族与天主教

-17-19世

紀福

(17)

安郷村教会的歴史叙事―』はその代表作であ り、福建省福安市において天主教が当地へ宣教 され、 その地域の人々に受容 され る経緯を考察 している。 日本では、パ ラダイム0シフ ト以後の纏まった研究は極めて少ない。岡本 さえ氏の『近世中国 の比較思想 一異文化 との避逓―』では、明末清初期の天主教史を検証 しつつ、清代の禁書政策 が中国での学問の停滞を招き、清末の華夷の逆転を引き起 こしたことを指摘 している65。 柴 田篤 氏は『天主実義』の 日本語訳に着手 し、またこの書籍の周辺事情を整理 し、その研究成果を東洋 文庫か ら『天主実義』と題 して出版 している。中国天主教史研究は多数の言語を駆使す る必要が あ り、その習得には多大な時間を必要 とす る。その時間的な負担を軽減す るためにも、重要史料 の 日本語への翻訳は研究の進展において極めて重要である。後藤末雄氏はイエズス会宣教師 ヨア キム・ブー ヴェの『康熙帝伝』の全訳を完成 させ、川名公平氏はマテオ0リ ッチの『 イエズス会 によるキ リス ト教の中国伝道について』とアル ヴァー ロ0セメ ド『 中華帝国、お よびイエズス会 宣教師たちによるこの国における宣教活動の開始』の一部を 日本語訳 して、『 中国キ リス ト教布 教史』(全

2冊

)と

題 して出版 している。すでに提示 したが、矢沢利彦氏は『 イエズス会士中国 書簡集』を、福島仁氏はイエズス会宣教師ニコラス・ ロンゴバルデ ィ『 孔子 とその教えについて の考察』の 日本語訳を完成 させている。また、中国の学界においても同様の翻訳作業が進んでお り、これ らの研究成果は中国天主教史研究の進展に大きく寄与 している。 第

4節

研 究方法論お よび本稿 の構成 本稿 は異文化対話 の よ うな明末清初期 に行 われた相互理解 を検証す るのが 目的ではない。実証 主義的な見地か ら漢語 0欧 文史料 を併用 して明末清初期 にアプ ローチ し、天主教邪教論 の形成 を 帰納法的 に考察す るのが 目的である。 まず史料 の扱 いについて言及 したい。言 うまで もな く史料 は著者 の主観 に よる産物 である。こ と宗教 の場合 は、その宗教 の評価 をめ ぐって著者 の主観 に著 しく左右 され る。欧文史料 の場合 は スチ ュアー ト氏が指摘 した よ うに、その記述内容 には宣教師のそれぞれの思惑 にもとづいて著 さ れ た史料 であ り、特 に『 啓発的で興味深い書簡』 じ θιtts 6diia″ "s θιθuttθ υsθ

slは

イエズス 会士デ ュ・ アル ド (1674‐

1743)の

手 によつて所 々原稿 に手が加 え られ てい る66。 この よ うな史 料 を使用 して客観 的な事実 を抽 出す るには、複数 の視点か ら一つの対象へ向かつて照射す る以外 に方法 はない。よって本稿 では可能 な限 り複数 の欧文史料、ない し漢語史料 を突 き合 わせ て使用 したい。なお、い くつかの欧文史料 については、先行研 究の研究成果 に よつてすでに 日本語訳が な され てお り、本稿 で もその 日本語訳 を参照 してい る。ただ し、使用す るすべての欧文史料 は原 典 に基づいて私訳 を施 してい る。翻訳 も一種のテ キス ト解釈 であるため、様 々な研 究成果 によ り 新 たな視点が明 らか になれ ば、 日本語訳 の内容 にも多少 の修正が必要 となつて くるか らである。 しか し翻訳 にあたつては、先行研究 に多 くを負 ってい ることをここに記 してお く。 次 にキ リス ト教 とい う宗教 を研究対象 とす るにあたつて、宗教 に関す る予備 的考察 を してお き

(18)

たい。宗教 は各宗教・教派 に よってその様態 は様 々である。現世 の利益 を願 うのみの宗教 もあれ ば、人間の活動全般 に幅広 く関与 し、神義論 の よ うな高度 に抽象的な教義論 か ら、食事規定な ど 日常の生活規定まで様 々な レベル に浸透 してい る宗教 もあ り、宗教 を一義的 に定義す るのは極 め て難 しい。 しか し、宗教 を どの よ うに評価す るかについてある程度事前 に整理 しておかない と、 過去 に儒教 は宗教か否 か とい う議論 において、宗教の定義 され ていない状況 で議論 されたために 無用な議論 の混乱 を引き起 こ した ことと同様 の状況 にな りかねない67。 そ こで本稿では、まず宗 教 を二つ の要素 に基づいてカテ ゴ リー化 を し、諸宗教 の特質 を相対化す るこ とによつて議論すべ き事柄 を浮かび上が らせ たい。す なわ ち、これ は宗教 自体 を定義す るものではない。諸宗教 の特 質 を明確化す るための手段 である。その二つの要素 とは 「内的精神 としての信仰」と「外 的形式 としての儀礼」で ある。これ らを座標軸 に据 えて、い くつかの諸宗教 を実験的に分類す る と次の 図の よ うにな る。 【宗教分類図】

Y軸

:外

的形 式 と して の儀 礼 一昌 低 X 軸 ¨ 内 的 精 神 と し て の 信 仰 C類 儒教 道教 中国仏教 神道

D類

無神論

A類

キ リス ト教 イス ラム教 ユ ダヤ教 イ ン ド仏教 B類 武道・ 華道・ 茶道 老荘思想 低 内的精神 としての信仰 とは、言い換 えれ ば「超越的存在 に絶対的価値 を置 き、超鉄的存在 か ら 自己を客体 として捉 え、自己を低 くして絶対的価値 を追求す る姿勢」の ことである。

A類

として 分類 したキ リス ト教0イ ス ラム教0ユダヤ教・仏教では超越的絶対者 に対す る精神 的な帰依 は絶 対条件 であ り、また

B類

として分類 した 日本 の「道」(柔道・剣道 な どの武道や華道 、茶道 な ど) も、宗教儀礼 の様式 こそ確 立 していないが、技 の道 を追究 し続 ける精神 の持 ち方 は極 めて信仰 に 類似 した様態 を持つ。 外的形式 としての儀礼 とは、超越 的存在 を崇拝対象 とした行為 としての儀礼である。カ トリッ

(19)

クで言 えば ミサ、寺院へ の参拝 、祖先崇拝 な どが これ に相 当 し、大規模 に組織化 された宗教 にな れ ばなるほ ど、この儀礼 は重要視 され る傾 向にある。

C類

に分類 した中国の諸宗教である儒教・ 道教 0中 国仏教 、日本 では神道 、これ らは この儀式 を重要視 し、中国社会では現世的な利益 を授 か る 目的で一般人は道観や寺院 に参拝す るのであ り、日本 の神道 で も神社 で これ と類似 した こと が行 われ てい る。また神道 は歴 史的 に国家 との結びつ きが強 く、信仰 は国家への忠誠 に置 き換 え られ るこ ともある68。

D類

は二つの要素 をいずれ も含 まない無神論 、または宗教的無 関心である。 無神論 は、欧米諸国の よ うにキ リス ト教が伝統的 に強烈 な磁場 として働 いてい る地域 においては、 神 の存在 を否定す るにはそれへの積極的な対決姿勢 を必要 とす るが、 日本の よ うに

A類

に類す る宗教が根付 いていない地域 では対決す る対象 はな く、ただ宗教 に対 して無関心である、す なわ ち宗教的無関心 と表現す る方が的確 であろ う。 この図は諸宗教の特質 を相対的 に分類 したにす ぎないが、これ によ り中国の諸宗教 の特質が鮮 明になって くる。中国の諸宗教 はいずれ も宗教儀礼の形式 を持つが内的精神 の信仰 が とりわけ希 薄であ り、信仰 とい う言葉 は儀礼の尊重 とその実践の真面 目さといつた行為や、善行 の報 いに現 世的利益 を享受す る手段 として捉 え られ、超越的視点か ら自己を客体化す ることはない。この点 が同 じ信仰 とい う言葉 を使 いなが らも、

A類

の宗教 とは異 なる点である。本稿 ではキ リス ト教 を 扱 うとはいえ中国をフィール ドとす るため、

C類

の議論 が中心 となる。よつて本論 において外的 形式 とい った具体的事象 に関わ る側面 に論点が集 中す ることになるのは、この中国にお ける諸宗 教 の特質、言い換 えれ ば中国の宗教観 の特質のためであ る。 本稿 の構成 は、この序章 を含 めて前編・後編・終章、そ して結論 で構成 され る。明末清初期 に おいて天主教 はまず正教 と認 定 され、その後 に異端、そ して邪教へ と認定が変化 してい く。天主 教邪教論 を解 明す るにあたつて、前編「天 と天主」では天主教が清王朝 において正教 と認定 され、 その後 に異端 の宗教 となる過程、お よびその思想的要因 を明 らかにす る。後編 「宣教師即侵略者 論 の形成」では、宣教師が「帝国主義諸国の尖兵」としての認識 に通ず るこの論理 の形成過程 を、 明末期 のイエ ズス会宣教師の宣教活動 とポル トガル人 との関わ り方 に着眼点 を置いて解 明す る。 そ して前編 と後編 で導 き出 した結論 によ り、終章 において天主教邪教論 が形成 され る過程 を解 明 したい。

(20)
(21)

は じ め に 前編 の課題 は、天主教が清王朝統治下において正教 と認定 され なが らも、その後 に異端 の宗教 へ と認定が転換 され る過程、お よびその思想的要因を検証す ることである。 宗教 の性質 を分析す るにあたつて、先 に述べた通 り、便宜的 に内的精神 としての 「信仰 」と外 的形式 としての 「儀礼」を座標軸 に据 えてカテ ゴ リー化す る と、中国の諸宗教 は概 ね儀礼偏重の 傾 向にあ り、超越的存在 に絶対的価値 を置 き、その超越 的存在 の視座 か ら自己を客体 として認識 す る信仰観 は極 めて希薄 である1。 また、信仰 とは内的精神 の問題 よ り、む しろ儀礼 の尊重 とそ の実践 の真 面 目さといつた行為 に よつて計 られ る傾 向がある2。 この よ うに中国の諸宗教 は儀礼 とい う行為 に重 きを置 くために、宗教 に関す る議論 も必然的に行為 とい う具体的な現象 に論点が 当た るこ とにな る。清王朝の宗教政策 において、正統思想 である儒教 に準ず る宗教 は正教 と呼 ば れ 、正教 の条件 はその儀礼 の対象が儒教思想 の天 と同一存在 である点 に求め られ た3。 す なわち、 天主教の場合 は「天主」(Deus)の位置づ けが問われ ることになる。ここで天主教 の「天主」と、 儒教経典 の 「上帝」と同一存在 である と定義付 けた 「天主即上帝論」がキー ワー ドとして登場す ることになる。 天主即上帝論 とは、イエズス会の中国宣教 のパイオニアであるマテオ0リ ッチが提唱 した理論 であ り、キ リス ト教 の神 であ る天主 を儒教経典の上帝 と同化 させ ることで、儒教思想 とカ トリッ ク教義 の一致論 (以下、「教義一致論」 と省略す る

)を

展開す るための中核理論 とした と評価 さ れ る4。 この理論 は と りわけ近年流行 した異文化対話 を基調 とす る先行研究 に注 目され、カ トリ ック教会 の海外 宣教 にお けるイ ン 。カルチ ュ レー シ ョン (inculturation)、 す なわ ちキ リス ト教 の土着化 のモデル 0ケー ス として扱 われた5。 ただ し異文化対話研 究の場合、結論が相互理解や 現地文化 の尊重 といつた今 日的課題 の解決策へ と誘導 され る傾 向が難点 としてあるが、そのなか で黄一農 氏の『 両頭蛇』は、異文化対話研 究の流行 に左右 されず、実証的に この議論 を考察 して い る数少 ない研 究である。そのなかで天主即上帝論がカ トリック修道会間お よび ヨー ロッパ各国 の海外覇権争 い といった政治的対立に利用 された ことを結論 として提示 してい るが6、 ゃ は り天 主即上帝論 の基本理解 については他 の先行研究 と同様 に教義一致論 の中核 と位置づ けてい る7。 ここで今一度 、問い直 してみたい。果た して リッチの天主即上帝論 は本 当に教義一致論 を 目的 とした理論 なのだろ うか。確 かに リッチは『 天主実義』において天主即上帝論 を提唱 し、天主 と 上帝 を同一存在 と定義 してい る。 ところが『 天主実義』を詳細 に検討すれば、天については儒教 思想 と全 く異なつた独 自の解釈 を施 してい るに もかかわ らず、この点 について言及 した先行研究 は管見の及ぶ限 り見 当た らない。言 うまで もな く天 は儒教思想 の核 心観念である。教義一致論 を 目的 としてい るな らば、果 た して天 について独 自の解釈 を施す だろ うか。この天の解釈一つ を と つて もを、天主即上帝論 は考察の余地が残 されてい るよ うである。この課題 を解決す るため、本 稿 では、天主即上帝論 は成 立段階 とその後 の展開 とでは、その内容が根本的 に相違す る、す なわ ち時代 に よる変質が発 生 してい る との視点 に立 ち、天主即上帝論 の成 立か らその後 の展開、そ し て破綻 までを通 して検証 してい く。

(22)

天主即上帝論 はその後 に清初期 に発生 した典礼論争 の中心的議題 とな り、

Deusの

翻訳語 とし て 「天主」以外 に 「天」 と「上帝」を認 めるか否かをめ ぐってカ トリック修道会間 において論争 を惹起す るこ とになる。この翻訳語 の問題 は言語的問題 だけでな く、儒教思想 の天 と天主教 の天 主の関係性 をめ ぐる問題 で もあ り、それ は同時 に正教の認定に も関わ る問題 に発展 しうる要素 を 手 んでい るので ある。以上の問題意識 を持 つた うえで、本論 では天主即上帝論 を論点 とし、天主 教 の認 定が正教 か ら異端へ転換す る過程 を考察 していきたい。

(23)

1章

天主即上帝論の原型

1節

ラテ ン語 の “

Caelum"と

漢語 の 「天」

ラテ ン語 “

Caelum"

は “

sky"や

heaven"を

中心的な意味 とす る名詞であ り、漢語 では こ

れ を一般 的 に 「天 」 と翻訳す る。 ただ し、厳密 に言 えばカ トリック教義 にお け るラテ ン語 の “Caelum"と 儒教思想 にお ける漢語 の 「天」では、それぞれ 内包す る意味合 いはやや異な る。本 節 では

Deusの

翻訳語「天主」0「天」0「上帝」を考察す るに先立 ち、カ トリック教義 にお ける「天」 と儒教思想 のそれ相違 を整理 してお きたい。 キ リス ト教 の起源 は、言 うまで もな くユ ダヤ教 にある。律法主義 を貫 くユ ダヤ社会 において、 律法の規定か らすれ ば汚れ と規定 され た特定の病気や身体障害、職種 な どを理 由に コ ミュニテ ィ の周縁 に追いや られた人々に対 し、イエスは これ らの人々こそ神 の救いの対象 となるとし、律法 の精神 の核心 を説 くことで、枝葉末節 にこだわ る当時のユダヤ教のあ り方 に対 して痛烈なア ンチ テーゼ を加 える8。 そのた めにユ ダヤ教 の指導者 たちに敵視 され 、十字架刑 に処せ られ てその生 涯 を閉 じる。イエ スの死後、その弟子 たちに よつて初代教会が形成 され、パ ウロがイエスの死 に 神学的位 置づ けを加 えることによ り、イエスをメシア として信 じることでユ ダヤ教 と峻別 され、 キ リス ト教 が誕生す る9。 その後 、使徒 た ちの宣教活動 に よ り、キ リス ト教 は ローマ帝国支配地 の人々へ着実に広が り、 ローマ皇帝 による迫害期 を経て

313年

に公認 、

392年

に至 って ローマ 帝国の国教 とな り、カ トリック教会が誕生す ることにな る10。 カ トリック教会が使用す る聖書はラテ ン語訳聖書であるが、初期 は様 々な翻訳が存在す ること に よ り混乱 を引 き起 こ した。聖書学者 であるヒエ ロニ ュムス (342‐

420)は

ローマ教皇ダマスス

1世

(在位 366‐

384)に

よ り標準的 なラテ ン語訳聖書の作成 を要請 され、ベ ツ レヘ ムで修道院長 の職責 を果た しつつ聖書のラテ ン語訳 を進 め、

405年

頃 になつて完成 させた11。 これ が ウル ガー タ聖書 (Vulugata)で あ り、カ トリック教会 は これ を唯一の公認 の聖書 と認 めるこ とになる12。 ウルガー タ聖書 にお ける天

(Caelum)は

、 ヒブル語聖書、ギ リシャ語聖書 を踏襲 して神 が創造 した可視 的な空間的観念 として定義 し、またそれ 自体は直接的な崇拝対象 とはな らず、ただ物理 的 に存在す る空間 として描写 され てい る13。 一方、儒教思想 の天観 はこれ とは全 く異 なる。天は周王朝が最高神 としてそれ を崇拝 した こと に起源 を有す るが、周王朝 に先立つ殷王朝の最高神 「上帝」の観念 を継承 し、呪術 的な鬼神信仰 の要素 を多分 に含む14。 この鬼神信仰的天観 を さらに政治思想 にまで展 開 したのが、周 の武王 を 補佐 した周公 旦 (?‐

?)と

され てい る。天 は有徳 の人士 に天命 を下 して地上の統治 を委託す る と論理構築す ることに よ り、天命 は暴虐 で無徳 な殷 の紺王か ら有徳 な周 の武王へ改まつた (改革 天命)と して、周王室が殷王室 を放伐 して中原支配 を行 う正 当性 を宣言す る根拠 とした。その後、 天 は永遠不変 に循環す る自然、また 自然 の一部である人間の運命 をも掌握す る理法 とい う観念が 次第 に形成 され15、 前漢 の儒学者 0董仲舒 (前 176?― 104?)に至 つて 「天人相 関説」が提唱 さ れ、自然 の理法である天、そ して人

(=皇

帝)の振 る舞 いは相 関す る とい う理論 が提示 され た16。

(24)

皇帝 は天命 を受 けた天子であ るため、天へ の祭祀が重要 な国家儀式 とな り、明清時期 には紫禁城 や天壇 に皇帝が天子であるこ とを演 出す る様 々な舞台装置が設 け られ た。また天 と上帝は同一存 在 である とす る観念、す なわ ち 「天即上帝」が形成 され 、天 と上帝 を祀 る諸儀礼 は天子のみが主 宰す ることがで き、天 を祭祀す ることで天子 の権威 を文武 百官 に示す手段 とした。ゆえに天 は権 威 の源泉であった。す なわち中国思想 において、天は空間的観念以上 に森羅万象 を司 る自然 の理 法 とい う性格 が色濃 く、また同時 に政治的な最高権威 で もある17。 ヵ トリック教義 では神 中心の 世界観 とすれ ば、儒教思想 では天 中心の世界観 と言 えよ う。 イエズス会宣教師マテオ・ リッチは 自らの中国宣教 を記録 した報告書『 イエズス会 によるキ リ ス ト教の中国伝道 について』(以下、「報告書」 と表記す る

)に

おいて、この中国の伝統的 な天観 を次の よ うに解説 してい る。 とい うのは、彼 らの書物 を見 ると、彼 らはず つ とある至高神 を崇 めてお り、それ は天の王、 あ るいは天 と地 と呼ばれ てい る。ど うや ら彼 らに とつて天 と地 は一つ生命 を もつ と考 え、そ れ がその魂 としての至高神 とともに生命体 を形成す ると考 えてい るよ うだ。18

中国人が 「天の王」(“Re del Cielo")0「天」(“Cielo")0「地」(“Terra")を至高神 として崇拝

し、さらに天 と地 をただの空間的・物理的観念 ではな く、これ らを生命 ある存在 と認識 してい る こ とを取 り上げ、それ らのカ トリック的世界観 との相違点について言及 してい る。また この「天 の王」(“Re del Cielo")に ついては次の よ うに解説す る。 文人たちは、この天 とい う至高神 を認 めてはい るが、礼拝す るため寺院 を建 てた り、礼拝所 を定めた りす ることはない。・……む しろこの天の王へ はただ皇帝のみが仕 え、生 け贄 を捧 げ なけれ ばな らない と考 えてい るので、も しも他 の者 がそれ を しよ うと望 めば、皇帝の権 限 を 犯す もの として罰 され る。このため、皇帝 は非常 に豪奢 な寺院 を北京 と南京 のふたつの宮殿 に持 ち、その場所 で年 の定め られ た時期 に皇帝 自生 け贄 を捧 げ る習慣 があつた。19 明末期 の場合 、皇帝 は年 中行事 として冬至 には天壇 で畏天上帝 を、夏至には地壇 で皇地祗 を祭 祀す る20。 ここでは 「天 の王」 (“Re del Cielo")を天壇 で祀 ることについて言及 してい るため、 「天の王」とは 「上帝」を意味 している。士大夫たちは天を祭祀す ることはな く、皇帝のみが上 帝 を祭祀す る権 限を持つ ことに言及す るが、このパ ラグラフにおいて リッチはまず 「天」とい う 語句 を使用 し、その後 は 「天 の王」の語句 に言い換 えて表現 してい る。これ は儒教思想 にお ける 天即上帝 の認識 の現れ と言 うことができ、リッチが儒教的世界観 にお ける天観 と上帝観 について 極 めて正確 に理解 していた こ とを窺 わせ る。す なわち、 リッチは ラテ ン語の “

Caelum"と

漢語 の 「天」の意味の相違 について完全 に理解 してい るのである。

参照

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