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全文

(1)

禅宗哲学序論

著者名(日)

井上 円了

雑誌名

井上円了選集

6

ページ

249-326

発行年

1990-04-10

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002900/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

園了著

(3)

羨\え灘・ t.’t 1.冊数

  1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)   182×127皿皿 3.ページ   総数:211   緒言: 1   目録: 2   資料:63〔禅宗歴史他〕   本文:145 4.刊行年月日   底本:初版 明治26年6月19日 5.句読点   なし 、,,・a・ (巻頭) 十六年六月十六日印刷  年全月十九日嚢・行       ・灘繰

W錘講﹁・馨

東軍穆*稟 冑‖  根

6.その他   (1)章のはじめに列記されてい   た節の見出しを,節ごとに配置 するなどの変更を行った。 ② この本はr禅宗真宗二宗哲 学大意』(四聖堂,明治34年2月 27日,「寺院統計表」などを除く) に再録され,その際に読点など の加筆訂正がなされたので,本 書では同書を参考にした。 (3)著者作成の書き下し文に 「」を付し,一部のかなを濁音 とした。

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緒 言  余禅宗を知らず、あに禅学を知らんや。ただその一種異風の宗旨なるを知る。近頃二、三の書についてその大 意をうかがうに、高妙の哲理を含有するをみる。今その理を開示し、題して禅宗哲学と名付く、なお禅宗の哲理 というがごとし。しかして本書はただその一端を摘示するのみ。故に題して﹃禅宗哲学序論﹄という。他日、本 論を著してこれを詳論することあるべし。しかれども余が禅学を講ずるは、師についてその意を得たるにあらず。 また余が禅書を読むも、年月を積みてその理を究めたるにあらず。本書の成るもまたわずかに数日の間にあり。 故にその論、誤謬の点なきを保し難し。しかれども世間いまだ哲理に照らして禅学を講述したる書あらざるをみ て、本書を世に公にするに至れり。もしその誤脱のごときは、請う、禅学に精進せる士これを補正せよ。   明治二六年五月二〇日      著 者 誌 禅宗哲学序論 249

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禅宗歴史      第一 インド伝灯  在昔、釈迦牟尼世尊、成道ののち四九年、一日霊山会上にありて、華を枯じて衆に示せり。在会の人天みなその意を解 するあたわず。ひとり摩詞迦葉ありて破顔微笑せり。世尊曰く、われに正法眼蔵浬薬の妙心あり、今汝に付嘱す、汝まさ によく護持すべしと。故に迦葉をもって禅宗第一祖とす。これより二八伝して達磨に至る。 _  _      ⊥ _」」    ⊥    /、 “ ノ、    ノ、 迦葉 弥遮迦 富那夜奢 羅脹羅多 婆修盤頭 不如密多 第二

毛三七二七二

シナ伝灯 阿難 婆須密多 馬鳴 僧迦難提 摩撃羅 般若多羅

八三

八三八三

商那和修 仏陀難提 迦毘摩羅 伽耶舎多 鶴勒那 達磨

西九四九四

優婆麹多 伏駄密多 竜樹 鳩摩羅多 師子

豆6五〇五

その伝灯左表のごとし。 提多迦 婆栗湿縛 迦那提婆 閣夜多 婆舎斯多  達磨は南インドの王族より起こり、六十余年、五インドを教化したりしのち、その師般若多羅の遺訓を奉じてシナにき たれり。実に梁の大通元年なり︵西暦紀元五二七年︶。達磨武帝のためにその法を伝えんとせしも、帝これを会得せざりし をもって、すなわち北魏に入り、嵩山の少林寺に至り、面壁九年、ついに大同元年に入寂せり。これをシナの第一祖とす。 達磨その法を慧可に伝え、五伝して弘忍に至り、その門下より南北両派を分かてり。その伝灯左記のごとし。   一 達磨  二 慧可  三 僧燦  四 道信  五 弘忍  弘忍の門下に慧能、神秀両人出で、慧能は南宗を開き、神秀は北宗を開けり。  南宗はのちに分かれて五家七宗となり、北宗は純一にして宗派を分かたず。五家とは潟仰宗、臨済宗、曹洞宗、雲門宗、 法眼宗、これなり。これに楊岐宗、黄竜宗を加うれば七宗となる。  ここに南宗の伝灯を挙ぐれば、その開祖慧能はシナ第六祖にして、大鑑禅師または曹渓大師と称す。その門下に二流を 250

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禅宗哲学序論 出だし、一を南岳懐譲とし、一を青原行思とす。南岳の門下に臨済、潟仰二宗を出だし、青原の門下に曹洞、雲門、法眼 三宗を出せり。また臨済の門下に楊岐、黄竜二派を分かてり。まず南岳はその法を馬祖道一に伝え、道一はその法を百丈 懐海に伝う。懐海の下二流に分かれ、一を黄壁希運とし、一を潟山霊祐とす。希運の門弟を臨済義玄という。これ臨済宗 の開祖なり。霊祐の門弟を仰山慧寂という。しかして潟山、仰山の二師の法を伝うる者、これを潟仰宗と名付く。つぎに 青原の上足に石頭希遷あり。希遷の門下、天皇道悟および薬山惟撮を出す。惟綴はその法を雲巌曇晟に伝え、曇晟はこれ を洞山良扮に伝えり。良伏別に一宗を成す。これを曹洞宗と名付く。故に良伶は曹洞宗の開祖なり。しかして道悟ののち、 竜潭崇信、徳山宣鑑、雪峰義存、次第に相承し、義存ののち、雲門文堰あり。これを雲門宗の高祖とす。また玄沙師備あ り。師備の法孫に当たるもの法眼文益あり。この宗風を伝うるものを法眼宗と名付く。  今ここに五家七宗中、特に臨済、曹洞二宗の伝灯相承を表示すれば、左のごとし。

大藁︵南宗開祖戸竃川㌶学u竃難雛蕗賎誘籠

     第三 日本伝灯  日本に流伝するところの禅宗は現今、臨済、曹洞、黄壁の三宗なれば、今この三宗の伝来を述ぶるをもって足れりとす。 しかりしこうして、昔時、北宗禅を伝えしものあれば、その由来を一言せざるべからず。北宗開祖神秀の孫弟に道溶と名 付くるものあり。聖武天皇天平八年、シナより日本に渡来して、北宗禅を行表に授け、行表はこれを最澄に伝えり。故に 伝教大師の伝うるところの禅は北宗なり。これ別に宗派を開立するに至らず。しかして現今伝うるところの臨済、曹洞、 黄葉はみな南宗禅なり。左にこの三宗の歴史を掲ぐべし。  臨済宗 本宗はわが国栄西禅師のシナより伝うるところにして、臨済義玄を開祖とするをもってその宗名起これり。義 玄のことは前に述ぶるがごとし。義玄の嗣を興化存奨とし、存奨の嗣を風穴延沼とし、延沼の嗣を首山省念とし、省念の 嗣を扮陽善昭とし、善昭の嗣を慈明︹石霜︺楚円とす。楚円の弟子中、楊岐方会、黄竜慧南の二人おのおの一宗を起こし、 共に中興の祖となる。さきに臨済門下に楊岐、黄竜二宗を分かつというは、これなり。黄竜の法統は晦堂祖心、霊源惟清、 51       2 長霊守卓、無示介誰、心聞曇貴、雪庵従理、虚庵懐散を経て日本に伝われり。栄西禅師伝うるところ、これなり。楊岐の

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法流は白雲守端、五祖法演、円悟克勤、虎丘紹隆、応庵曇華、密庵威傑に伝わり、これより破庵祖先、松源崇岳の二家を 分かち、祖先の法は無準師範を経て日本に入り、崇岳の法は無明慧性および運庵普巌とに分かれて、また共に日本に入 祝 る。しかして本邦南宗の伝来は文徳天皇の御宇、馬祖門下に属する斎安国師の上足、義空禅師、日本にきたりて洛西に檀 林寺を創して禅宗を唱えたるを嗜矢とす。しかれども時機いまだ熟せざりしをもってシナに帰れり。その外、伝教等の諸 師唱えしものは、前に述ぶるがごとく北宗禅にして、かつ一宗を開立するに至らず。ひとり明庵栄西禅師ありて、再びシ ナに入り、虚庵禅師について臨済門下の正宗を伝え、帰朝して洛東建仁寺を創せり。時に建仁二年なり。これを本邦臨済 宗の開祖とす。そののち禅道ようやくさかんにして、北条、足利二氏執政の間最もその盛を極めたり。すなわち建長元年 北条時頼、建長寺を起こして、宋の蘭渓禅師をまねいて開山とし、仁治年間九条道家、東福寺を創して弁円禅師を請じて 開山となさしめ、文永一〇年北条時宗、円覚寺を建てて宋の無学禅師を推して開山とし、永仁年中亀山法皇、竜山の離宮 を改めて南禅寺となし、無関禅師を聰してこれにおらしめ、嘉暦元年赤松円心、大徳寺を開きて宗峰禅師をしてこれにお らしめ、建武元年花園法皇、花園の離宮を変じて妙心寺となし、関山禅師をその開山とし、暦応二年光厳天皇、足利尊氏 に勅して天竜寺を創して、夢窓国師をその開山とし、延文五年佐々木氏頼、永源寺を建てて寂室禅師を開山とし、永徳三 年足利義満、相国寺を起こして春屋禅師をこれにおらしむ。以上、一〇刹相伝えて、現今一〇派をなす。すなわち左のご とし。   建仁寺派 天竜寺派 相国寺派 南禅寺派 妙心寺派   建長寺派 東福寺派 大徳寺派 円覚寺派 永源寺派  以上各派の開山および本山所在地は、のちに別項を掲げて略示すべし。かくしてくだりて徳川氏の時代に至れば、愚堂、 無難、正受、白隠等の諸師ありて、よく宗風を扶持せり。  曹洞宗 本宗は道元禅師のシナより伝うるところにして、洞山良倫を開祖とす。良伶は洞山に住し、第六祖慧能は曹渓 に住せり。故に第六祖を曹渓と称し、良扮を洞山と称す。この曹と洞との二字をとりて、曹洞宗の名称起これり。洞山よ り雲居道膚、同安道 、同安観志、梁山縁観、大陽警玄、投子義青、芙蓉道楷を経て、九伝して丹霞子淳に至る。子淳の 門下上足を真歌清了といい、そのつぎを天童正覚という。清了を悟空禅師と称し、正覚を宏智禅師と称す。共に洞門の中

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禅宗哲学序論 興なり。悟空禅師より天童宗珪、雪賓智鑑を経て天童如浄に至る。時にわが国道元禅師シナに入りて、如浄に就き洞門の 正宗を伝え、帰朝して四条天皇天福元年、山城宇治の興聖寺を開き、嵯峨天皇寛元二年、越前永平寺を創せり。これを日 本曹洞宗の開祖とす。その宗特称して高祖という。高祖より孤雲懐弊、徹通義介を経て螢山紹理に至る。これ能登総持寺 の開山なり。これを太祖と称す。二祖の伝記およびその伝灯はのちに至りて述ぶべし。  黄築宗 本宗は後光明天皇承応三年、隠元禅師シナより来朝し、山城国宇治に万福寺を創立してこれを開く。故に隠元 を開祖とす。しかしてこれを黄壁宗と名付くるは、さきに挙ぐるところの南岳懐譲の法統中、黄壁希運と名付くるものあ り。けだしこれを宗祖とするによる。かつ隠元禅師はシナ黄壁山に住せしをもって、黄壁の名称を用うるなり。師退隠の のち歴世シナよりきたりて、その法嗣となれり。本宗は最初臨済宗の一派に属せしも、現今は独立して一宗をなすに至れ り。しかしてその宗義は臨済宗と異なることなしという。 禅師伝記      第一 達磨大師 付門弟  達磨大師は南インド香至王の第三子にして、姓は婆羅門種なり。もと菩提多羅と名付く。のち二七祖般若多羅本国に至 り、王の供養を受け、師の密 を知る。よって試みに二兄と施すところの宝珠を弁ぜしむるに遇うて、心要を発明す。す でにして尊者いいて曰く、汝諸法においてすでに通量を得たり、それ達磨は通大の義なり、よろしく達磨と名付くべし。 よって改めて菩提達磨と号す。六十余年インドを教化し、梁の大通元年般若多羅の遺訓を奉じて、海にうかびて広州に至 る。広州の刺吏粛昂これを館し、表をもって奏聞す。すなわち武帝これを迎う。帝問いて曰く、朕、即位以来寺を造り経 を写し、僧を度することあげて数うべからず、なんの功徳かある。師曰く、ならびに功徳なし。帝曰く、なにをもって功 徳なきや。師曰く、これただ人天の小果、有漏の因、影の形にしたがうがごとし有といえども、実にあらず。帝曰く、な にをか真の功徳という。師曰く、浄智妙円にして体おのずから空寂なり、かくのごとき功徳、世をもって求めず。帝曰く、 なにをか聖諦第一義となす。師曰く、廓然無聖。帝曰く、朕に対する者はだれぞ。師曰く、知らず。帝領悟せず。師すな 53       2 わち機のかなわざるを知り、遅留数日、ついに江をわたりて魏にゆき、嵩山少林寺に寓止し、面壁して坐し、終B黙然た

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り。人これを測ることなし。よってこれを壁観婆羅門という。魏の孝明帝これを聞き、三召すれども至らず。すでにして 門弟群をなす。なかんずく道副、尼総持、道育、慧可の四人は、最も抜群なるものなり。大同元年、師まさに入寂せんと す。道育、慧可等、請うて曰く、ただ願わくば慈忍久しく世間に住せんことを。師曰く、われ化縁すでにおわり、伝法人 を得たり、われすなわち逝かんと。端坐して寂す。門人全身を奉じ、熊耳山定林寺に葬る。自ら言う、寿百五十余歳なり と。  達磨大師かつて門弟にいいて曰く、汝らなんぞおのおの所得を言わざるや。ときに門人道副こたえて曰く、わが所見の ごときは、文字を執せず文字を離れずして道用をなす。師曰く、汝わが皮を得たり。尼総持曰く、汝いま解するところは 慶喜して阿閤仏国を見、一見して更に再見せざるがごとしと。師曰く、汝わが肉を得たり。道育曰く、四大本空五陰非有 にして、わが見処一法の得るべきなしと。師曰く、汝わが骨を得たり。最後に慧可、礼拝してのち位によりて立つ。師曰 く、汝わが髄を得たり。以上四人これを皮肉骨髄の四師という。これにおいて達磨大師、慧可を顧みて告げて曰く、むか し如来正法眼をもって迦葉大士に付す、展転嘱累してわれに至る、われいま汝に付す、汝まさに護持すべし、ならびに汝 に袈裟を授け、もって法の信となす、おのおの表するところあり、よろしく知るべしと。可曰く、請う、師指陳せよ。師 曰く、内法印を伝えて、もって証心に契し、外袈裟を付してもって宗旨を定むと。  慧可禅師、字は神光、姓は姫氏、武牢の人なり。幼より志気群ならず、ひろく群籍に通じ、よく玄理を談ず。常に家事 を業とせずして、山水の遊を好み、のち仏書をみて超然として自得し、宝静禅師によりて得度す。年四〇、神告ありて曰 く、まさに聖果を証せんとす、ここに滞るなしと。師曰く、神すでに汝を助く、行きて道を求むべし、われ聞く天竺の達 磨、近頃少林にあり、よろしく行きてこれによるべしと。慧可、少林に至る。達磨、端坐して顧みず。たまたま天大いに 雪ふる。慧可、雪中に立つ。積雪膝を過ぐるに至る。磨問いて曰く、汝久しく雪中に立つ、なにごとをか求むるや。慧可 曰く、ただ願わくば大慈甘露門を開き、広く群品を度せんことを。磨曰く、諸仏無上の妙道、噴劫にもあい難し、あに小 徳、小智、軽心、慢心、真乗をこいねがわんと欲して、いたずらに勤苦を労せんや。慧可、謁励を聞きて喜びて自らたえ ず。すなわち利刀をもって自ら左腎を断ち、達磨の前に置く。磨曰く、諸仏最初、道を求む、法を重んじ身を忘る、汝い ま腎をわが前に断つ、求むるもまた可なり。慧可その言をうけて、すなわち名を慧可と改む。達磨これに衣法を授けて法 254

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禅宗哲学序論 嗣となす。故に慧可はシナ伝灯第二祖なり。かつて北斉に至る。一居士に遇う。姓名を言わず。慧可曰く、この心これ仏、 この心これ法、法仏無二、僧宝またしかり。無名氏曰く、今日始めて知る、罪性、内にあらず、外にあらず、中間にあら ず、その心またしかり、仏法無二なりと。慧可これを器とし、すなわちために剃髪していう、これわが宝なり、よろしく 僧環と名付くべしと。具戒を授け、かつ告げて曰く、大師天竺よりきたり、正法眼蔵をもってひそかにわれに授く、われ いま汝に付すと。故に僧燦はシナの第三祖なり。慧可、鄭都において宜にしたがって行化し、三十余年を経たり。すなわ ちあとをくらまし俗に混す。最後に莞城県匡救寺に行きて法を説く。聴者雲集す。沙門弁和なるものあり。寺中において ﹃浬漿経﹄を講ず。学徒、慧可の説を聞きてようやく引き去る。弁和、憤怒にたえず。これを邑宰に誘る。宰被らしむる に横害をもってす。慧可恰然として逝く。実に開皇=二年なり。寿一〇七歳。      第二 弘忍および神秀、慧能諸師  シナ第五祖弘忍禅師、姓は周氏、薪州黄梅の人なり。児時異僧あり。見て曰く、この子ただ七種の相を闘きて如来にお よばずと。のち第四祖道信に遇うて法を伝わる。弘忍禅師かつて付法の時至るを知り、衆に告げて曰く、正法解し難し、 いたずらにわが言を記持して己が任となすべからず、汝らおのおの自ら意にしたがって↓偶を述べよ、もし語意冥符せば 衣法を付せんと。ときに会するもの七百余僧、その上座に神秀と名付くる者あり。学内外に通じ、衆の推仰するところと なる。神秀もまたその右に出ずるものなきを自負し、あえて思惟せず、偶を作り数度呈せんと欲して堂前に至る。つねに 心中悦惚として全身汗を流し、呈せんと欲すれどもこれを得ざること前後四日、=二度に及べり。これにおいて思えらく、 しかず廊下に向かいて書き示さんには、もし師の見て可なりといわば、すなわち出でて礼拝していわん、これわが作なり と。もし不可なりといわば、去りて山中に向かいて年を数えんと。この夜三更ひそかに灯を取りて、偏を南廓の壁間に書 して、所見を呈して曰く、﹁身はこれ菩提樹、心は明鏡の台のごとし。ときどきに勤めて払拭して、塵埃を惹かしむること        なかれ。﹂︵身是菩提樹、心如二明鏡台べ時々勤払拭、勿レ使レ惹二塵埃一︶︹*111時︺と。ときに忍師この偶を見て、これ神 秀の作なりと知りて、すなわち嘆じて曰く、後代これによりて修行せば、また勝果を得んと。各人をして念請せしむ。と きに慧能、碓坊にありてたちまちその偶を諦するを聴きて、すなわち同学に問う、これなんの章句ぞ。同学曰く、汝知ら 55       2 ずや、師法嗣を求めておのおの心偏を述べしむ、これ神秀上座の述ぶるところなり、忍師深く歎賞を加え、必ずまさに付

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法伝法せんとす。慧能曰く、その偶云何と、同学ために請す。慧能やや久しうして曰く、美なることはすなわち美なり、 了することはすなわちいまだ了せずと・同学呵して曰く・庸流なにをか知らん・狂言を発するなかれ・慧能曰く、子信ぜ鰯 ずば、願わくば一偏をもってこれを和せん。同学答えず、相見て笑う。慧能、夜に至りて一童子に告げて引きて廊下に至 り、自ら燭をとりて童子をして秀偶のかたわらに一偶を写さしめていう、﹁菩提もとより樹にあらず、明鏡もまた台にあら ず。本来一物なく、いずくにか塵埃を惹かん。﹂︵菩提本非レ樹、明鏡亦非レ台、本来無二一物べ何処惹二塵埃ハ︶、ときに一山 の上下この偶を見て、みな大いに嘆じて曰く、これ実に肉身の菩薩なりと。忍師のちにこの侮を見て、これ慧能の作なる を知るも、衆の慧能を害せんことを恐れて、故らに曰く、これだれの作ぞ、またいまだ見性せずと。ついにその偏を擦し 去れり。衆、師の語を聞きてしかりとし、またこれを顧みるものなし。すでにして夜に入り、忍師ひそかに人をして碓坊 より慧能を召さしむ。しかして告げて曰く、諸仏出世一大事のために機の大小にしたがってこれを引導し、ついに十地、 三乗、頓漸等の法ありて、もって教門をなす、しかれども無上微妙秘密円明真実の正法眼蔵をもって上首大迦葉尊者に付 す、展転伝授すること二八世、達磨に至りて此土にきたり、慧可大師を得て相承してわれに至る、いま法宝および所伝の 袈裟をもって汝に付す、よく自ら保護して断絶せしむることなかれと。慧能ひざまづきて衣法を受く。これシナ伝灯第六 祖にして、南宗の開祖なり。第五祖弘忍は唐高宗上元二年に入寂す。大満禅師と語す。北宗開祖神秀は中宗神竜二年に入 寂す。大通禅師と誰す。南宗開祖慧能は容宗先天二年に入寂す。大鑑禅師と識す。      第三 南岳懐譲禅師  南岳懐譲禅師、姓は杜氏、金州の人なり。年一五にして荊州玉泉寺に行き、弘景律師によりて出家す。一日自ら嘆じて 曰く、それ出家は無為の法たり、天上人間、勝処あるなし。ときに同学禅師の志高きを知り、師を勧めて嵩山安和尚に謁 せしむ。和尚これを啓発す。すなわちただちに曹渓にまいりて六祖に参す。祖問う、什麿の所よりきたる。曰く、嵩山よ りきたる。祖曰く、什麿の物か悠座きたる。曰く、﹁一物を説似するにすなわち中ならず。﹂︵説似一物即不中、︶、祖曰く、 かえりて修証すべしや否や。曰く、修証はすなわちなきにあらざるも、汚染せばすなわち得ず。祖曰く、ただこの不汚染 は諸仏の護念するところ、汝すでにかくのごとし、﹁われもまたかくのごとし。﹂︵吾亦如レ是︶と。禅師、諮然として契会し、 左右に執事すること一五年、唐の先天二年、衡岳に行きて般若寺におる。玄宗天宝三年に入寂す。大慧禅師と誼す。

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禅宗哲学序論      第四 青原行思禅師  青原行思禅師は吉州安城の人なり。姓は劉氏。幼時出家し、群居して道を論ずるごとに、禅師ただ黙然たり。のち曹渓 の法席を聞きて、すなわち行きて参礼し、問うて曰く、まさになんの所務か、すなわち階級に落ちざらん。祖︵第六祖︶ 曰く、汝かつて什座を作しきたる。禅師曰く、聖諦もまたなさず。祖曰く、なんの階級に落ちん。曰く、聖諦なおなさず、 なんの階級か、これあらん。祖深くこれを器とす。会下の学徒おおしといえども、師その首におる。唐玄宗開元二八年坐 化す。のちに弘済禅師と誼す。      第五 臨済義玄禅師  臨済義玄禅師は曹州南華の人なり。姓は邪氏。黄案希運に参じ、三度仏法の大意を問い、三度打たれてついに辞して山 を下る。希運、指して高安大愚の所に行きて去らしむ。師、大愚に至りてついに黄壁の用処を見る。これによりて再び黄 壁に回る。師資、契会す。大機大用卓として一時に冠たり。のちに郷にかえりて趙人の請いにしたがいて、城南臨済禅苑 に住す。唐蕗宗威通八年に至りて入滅す。慧照禅師と蓋す。      第六 洞山良伏禅師  洞山良伏禅師は会稽の人なり。姓は愈氏。幼時師に従って﹃般若心経﹄を念ずるによりて、無塵根の義をもってその師 に問う。師、骸然としてあやしみて曰く、われ汝が師にあらず。すなわち指して五曳山霊黙禅師に行かしむ。年二一、嵩 山に具戒す。ついに雲巌に嗣法して、青原第四世の嫡嗣となる。唐蘇宗威通一〇年に入寂す。悟本大師と論す。      第七 栄西禅師  栄西禅師は明庵と号す。姓は賀陽氏。備中国加陽郡吉備津宮祠官の子なり。八歳父に従って﹃倶舎頒﹄を読む。聡敏群 児にすぐ。=にして郡の安養寺静心に師事し、一四にして落髪し、叡山の戒壇に登る。一九にして蔵経を閲す。仁安三 年夏、商舶に乗じて海にうかび、宋国明州界に着す。すなわち孝宗乾道四年なり。これより台嶺に登り、﹃天台新︹天台宗︺ 章疏﹄三十余部六〇巻を得て帰り、座主明雲に呈す。明雲、疏を見て嘉歎す。そののち文治三年再び宋域に入り、インド に赴かんと欲し、事をもって果たさず。すなわち虚庵禅師について伝法す。虚庵曰く、伝え聞く、日本密教はなはだ盛ん 57       2 なりと。﹁端悦宗趣の一句はいかん。﹂︵端侃宗趣一句如何︶、師対して曰く、﹁初発心時、すなわち正覚を成ず。生死動かず

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して浬薬に至る。﹂︵初発心時、即成正覚、不動生死、而至浬磐︶と。虚庵、慰誘して曰く、子の言のごときはわが宗と同じ。 師これより心を尽くして、鎖仰親夷するもの数歳なり。すでにして虚庵、天童に移る。師また従行す。紹煕二年秋、虚庵 を辞す。庵、書して曰く、日本国千光院大法師、宿に霊骨あり、︹中略︺洪にこの法を持し、万里を遠しとせずして︹中略︺ わが炎宋に入り、宗旨を探蹟す。乃至︹中略︺むかし、釈迦老士まさに円寂せんとし、正法眼蔵、浬薬の妙心をもって摩詞 迦葉に付属す。これより二八伝して達磨に至り、六伝して曹渓に至り、また六伝して臨済に至り、八伝して黄竜に至り、 また八伝して予に至る。今もって汝に付す、汝まさに護持すべしと。師、拝謝してはしり出て、慶元府に至り船に乗じて 帰朝す。ときに建久二年なり。師の道ようやく都鄙に行わる。師、衆に示して曰く、わがこの禅宗は単伝心印、不立文字、 教外別伝、直指人心、見性成仏、その証、散じて諸経論中にありと。建仁二年、将軍頼家その徳に感じて、地を王城の東 にトし、大禅苑を営み、建仁寺と名付く。建保三年七月五日入寂。千光国師と論す。寿七五歳。臓六三。師は知見広大に して、三たび大蔵を閲し、法道の寄をもって己が任となす。故に顕密の教、補弼するところ多し。禅門に至りては前すで にこれを伝うるものありしといえども、宗旨を開立せるは師をもって始祖となす。かつて曰く、われ没して五〇年に禅宗 大いに興らんと。文応、弘長より以来、宗法果たして興る。誠にその言のごとし。      第八 道元禅師 付紹瑳禅師  道元禅師、姓は源氏、京都の人なり。村上天皇の商、源内府の子なり。八歳にして母をうしなう。喪におりて世の無常 を観ず。九歳にして﹃倶舎論﹄を閲す。=二歳にして叡山に上り、一四歳にして落髪具戒し、一五歳にして栄西禅師に参 す。禅師遷化ののち明全禅師によりて菩薩戒をうけ、ふたたび大蔵を閲す。貞応二年、明全禅師とともに入宋して、天童 如浄禅師に参じ、ついに曹洞の宗旨を伝受す。一日、如浄巡堂し、僧の坐睡するを見て、呵して曰く、それ坐禅は身心を 脱落せんがためなりと。道元禅師、傍らにありてこれを聞き、諮然として大いに悟る。早農、丈室にいたり、香を焼いて 悟るところを告ぐ。如浄すなわち印証す。従持すること四歳、ことごとく洞上の秘要を得たり。その帰るに臨み、如浄ま ねいて入室せしめ、付するに芙蓉楷祖の法衣、宝鏡三昧五位の顕訣、および自賛の頂相嗣書をもってす。かつこれに嘱し て曰く、汝、本邦にめぐり深山遠阪に隠れ、国王大臣に近づくことなかれと。師、拝揖して発す。洋中蝿風にわかに起こ る。衆、色を失う。師、普門品を調す。風濤たちまちやむ。太宰府に着く。本朝安貞元年なり。すなわち京都に上りて建 258

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禅宗哲学序論 仁に寓す。天福元年、弘誓院正覚等、地を宇治に相して禅苑を構営し、興聖宝林寺と名付く。師を請じて開山第一世とな す。寛元二年雲州の太守、波多野義重、勝地を越前志比に得、師を請じて開山始祖となす。すなわち吉祥山永平寺、これ なり。建長五年八月二八日、偶を書して曰く、﹁五十四年、第一天を照らす。箇の跨跳を打して、大干を触破す。嘆、潭身 もとむるところなし。活きながら黄泉に陥る。﹂︵五十四年、照二第一天︵打二箇跨跳↓触二破大千べ嘆渾身無レ処レ覚、活陥二黄 泉べ︶と、筆を投じて坐化す。寿五四、臓四一。明治一二年勅して承陽大師と誼す。  紹理禅師、字は螢山。越前国多禰郡の人、姓は藤氏。生まれて常児に異なり、やや長じて塵中におるを楽しまず。年一 三、永平孤雲和尚に投じて祝髪納戒す。和尚その志を察し、すなわち曰く、この子、大人の作あり。他日、人天の師とな らんこと必せり。和尚遷化ののち、徹通義介禅師によりて随侍す。一八歳にして通を辞し、はじめて寂円和尚に謁し、の ち宝覚慧暁の諸老に見ゆ。再び帰りて義介禅師に従い、講究七年、一日のごとし。悟道ののちついに嗣法す。五四歳のと き、後醍醐天皇の勅詔に応じて一〇種の疑問に答う。天皇大いに悦び、特に甚服を賜う。諸岳総持寺はもと律寺たりしも、 住持定賢師の道を慕い、変じて禅寺となし、師をまねいて開基となす。ときに詔あり、その寺をもって賜紫出世道場とな す。正中二年八月、疾を洞谷に示す。一五日夜半、侍者をよびて沐浴浄髪、衣を整え衆に示して曰く、﹁念起らばこれ病、 続かざるはこれ薬なり。一切の善悪はすべて思量なく、わずかに思量を渉ること白雲万里なり。﹂︵念起是病、不レ続是薬、 一切善悪、都無二思旦果纏渉二思量一白曇一買万里、︶、すなわち偶を書して曰く、﹁自ら耕し、自ら種うる閑田地は、いくたびも 売り来り買い去りて新たなり。限りなく霊苗の繁茂したる処、法堂の上に挿鍬人を見る。﹂︵自耕自種閑田地、幾度売来買 去新、無レ限霊苗繁茂処、法堂上見二挿鍬人↓︶、筆を投じて入寂す。寿五八、法齢四六。仏慈禅師と謹し、のちまた弘徳円 明国師と誼す。      第九 隠元禅師  隠元禅師、諄は隆埼、姓は林氏。明国福州の僧なり。承応元年、将軍家綱公、足利氏の故事に准じ、禅刹一宇を創建せ んと欲して、道徳優長の僧をシナにもとむ。長崎興福寺の住持逸然、命を受けて、これをシナ径山寺費隠の法嗣、黄粟山 隠元禅師に通じてその渡来を請う。禅師すなわち応諾し、三年七月帰化して、山城国宇治に黄壁山万福寺を創す。これを 本邦黄壁宗の始めとす。それ禅師は九歳にして学に就き、一六歳にして、仰ぎて天文星宿を感じて、自ら仏道を学ぶの心 259

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生ず。そののち閾中黄壁礼賜紫、鑑源寿公禅師に詣で、祝髪授戒す。ついで天童の密雲禅師に投じ、参学すること五歳、 のち径山費隠禅師の室に入りて嗣法す。そののち黄粟席を空うするをもって、師を請じてこれに住せしむ。のちまた福厳 捌 および竜泉にうつり、ついに再び黄壁に帰る。しかしてわが国に来朝せしは六三歳の時なり。延宝元年四月三日入寂。寿 八三。その病革なるに当たり、勅して大光普照国師の号を賜わる。    本山および開山      第一 臨済宗        一 建仁寺派  本山は建仁寺と称し、京都市下京建仁寺町にあり。開山は栄西禅師なり。伝記前に出づ。        二 天竜寺派  本山は霊亀山天竜寺と称し、京都府葛野郡天竜寺村にあり。開山は疎石禅師、すなわち夢窓国師にして、崇光天皇観応 二年に入寂せり。寿七七、法膿六〇。        三 相国寺派  本山は万年山相国寺と称し、京都市上京今出川御門前にあり。開山は妙苗禅師︵春屋︶、すなわち善明国師にして、後小 松天皇嘉慶二年に入寂せり。寿七八、法臓六四。        四 南禅寺派  本山は瑞竜山南禅寺と称し、京都府愛宕郡南禅寺村にあり。開山は仏心禅師︵無関︶、すなわち大明国師にして、伏見天 皇正応四年に入寂せり。寿八〇歳、法臓六二。        五 妙心寺派  本山は正法山妙心寺と称し、京都府葛野郡花園村にあり。開山は慧玄禅師︵関山︶、すなわち円成国師にして、後光厳天 皇延文五年に入寂せり。寿八四、法臓六四。        六 建長寺派

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禅宗哲学序論  本山は巨福山建長寺と称し、相摸国鎌倉郡山之内村にあり。開山は道隆禅師︵蘭渓︶、すなわち大覚禅師にして、宋国人 なり。後宇多天皇弘安元年に入寂せり。寿六六。        七 東福寺派  本山は東日山東福寺と称し、京都市下京本町にあり。開山は弁円禅師︵円爾︶、すなわち聖一国師にして、後宇多天皇弘 安三年に入寂せり。寿七九。        八 大徳寺派  本山は竜宝山大徳寺と称し、京都府愛宕郡東紫竹大門村にあり。開山は妙超禅師︵宗峰︶、すなわち興禅大灯国師にして、 光厳天皇延元二年に入寂せり。寿五六。        九 円覚寺派  本山は瑞鹿山円覚寺と称し、相摸国鎌倉郡山之内村にあり。開山は祖元禅師︵子元、別号無学︶、すなわち仏光国師にし て、宋国人なり。後宇多天皇弘安九年に入寂せり。寿六一、法臓四九。       一〇 永源寺派  本山は瑞石山永源寺と称し、近江国愛知郡高野村にあり。開山は元光禅師︵寂室︶、すなわち円応禅師にして、後光厳天 皇貞治六年に入寂せり。寿七八。      第二 曹洞宗  本山は越山、能山の両本山あり。越山は吉祥山永平寺と称し、越前国吉田郡志比の庄にありて、道元禅師すなわち承陽 大師の開く所なり。能山は諸岳山総持寺と称して、能登国鳳至郡門前村にありて、螢山紹理禅師の開く所なり。両禅師の 伝記は前に出づ。      第三 黄葉宗  本山は黄壁山万福寺と称し、山城国宇治郡五ケ荘村にあり。明国人、隠元禅師の開く所なり。禅師の伝記は前に出づ。 261

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非教管住寺

師師長職院

山福富福岐愛山群茨埼東

形島山井阜知梨馬城玉京

寺院統計表

第 六 四六臨第

 七六一五五済

各二三〇二二 三

臨 済 一〇二 =二六  三八  四三 三二一 三五五 五六二  八六  一九  九〇

 =

曹洞

一四〇七七 =一五六     一 =一五五 一〇〇〇五 曹 洞 二二八 五六五 二〇九 三五九 六〇四 九九四 二三六 二七一 一〇六 四八八 七五五 黄 壁  一五   四   一   九   一  =二  二四   二   〇   一   二 黄 壁 六〇三 三一六   一 二七二 一九八

合計

三四五 七〇五 二四八 四= 九二六 一一 六二 八二二 三五九  一二五 五七九 七六八

合計

二〇八三二 一五七二四    一二 一七七九〇 一〇四七五 神奈川

秋宮新石滋三静長栃千

田城潟川賀重岡野木葉

臨 済 三八五  八四  五七  九九 六五四 一八二 一六三  一三  一五

二四

 一七 曹 洞 五〇九 三九七  一九三 五三〇 一四三九 四五九 二一一  一二〇 六八一 五〇二 一三三 黄 壁  四七   九   三  一五  二九  =二  五二   〇   四   九   二

合計

 九四一  四九〇  二五三  六四四 二一二二  六五四  四二六  =三二  七〇〇  六二五  三五〇 262

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禅宗哲学序論

大福長愛徳島広兵奈京岩

分岡崎媛島根島庫良都手

鹿児島 北海道

総計

一三 五八五  一四 三〇四 一二四 一五六  二六 二四五  三二 ==二 二=二

 二

  一 三一〇 四〇九 七八 四三三 一八二 三三〇  二三 一七九 一二〇 =二八 二一四

 五

 五九

  一四一一     三二四

一〇八八一五三一〇一三〇五

  四三一四 四三七一〇三

六四〇六三五八〇六一三四

一七五九三九二七六八五四六

六一五二 一四〇七七 六〇三 二〇八三二 ︵以上は明治二五年一〇月刊行の統計年鑑による。︶    第三 臨済各派寺院統計 建仁寺 相国寺 妙心寺 東福寺 円覚寺

 五八

 八五

三六五〇 三五〇  一五〇 天竜寺 南禅寺 建長寺 大徳寺 永源寺 七八 四四七 四八四 二〇八 一二〇

沖宮熊佐高香鳥山岡和大青

         歌

縄崎本賀知川取口山山阪森

 一二七一ニー七一一八

六〇三六一〇三六一五二七

一〇五 一二八 七八 一八五 二四九 一九六

 四

 =二 二五八 一四〇 五七

 〇

   ニ  

ーニ 

ー五

〇〇六九〇〇三七五三五四

  一四  二三三三ニー

 六六六二二二五〇〇六一

六七九三四四二ニー六五六

︵以上は明治二三年各宗合議所の調査簿による。故にその合計は、前に挙ぐるものと相合せざるも、怪しむことなかれ。︶ 263

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臨済宗意大綱 ︵﹃人天眼目﹄による︶      第一 臨済門庭  臨済宗は大機大用、羅籠を脱し案臼を出づ。虎のごとくに際き竜のごとくにはしり、星のごとくに馳せ電のごとくに激 し、天関を転じ地軸をめぐらし、天に沖る気を負い、格外の提持を用う。巻寄、檎縦、殺活、自由なり。この故に、三玄 三要、四賓主、四料簡を示す。金剛王宝剣、鋸地獅子、探竿、影草、一喝不作一喝用、一喝賓主を分かち、照用一時に行 ず。四料簡とは中下根の人きたれば、︹境を奪いて法を奪わず、中上根の人きたれば、︺境を奪い法を奪いて、人を奪わず。 上上根の人きたれば、人境ふたつながらともに奪う。出格の人きたれば、人境ともに奪わず。四賓主とは師家に鼻孔ある を主中主と名付け、学人に鼻孔あるを賓中主と名付け、師家に鼻孔なきを主中賓と名付け、学人に鼻孔なきを賓中賓と名 付く。曹洞の賓主と同じからず。三玄とは玄中玄、体中玄、句中玄なり。三要とは一玄中に三要を具す。自らこれ一喝の 中に三玄三要を体摂するなり。金剛王宝剣とは一刀に一切の情解を揮断す。鋸地獅子とは言を発し気を吐きて威勢振立し、 百獣恐棟し、衆魔脳裂す。探竿とはなんじらに師承あるか師承なきか、鼻孔あるか鼻孔なきかを探る。影草とは欺護して 賊となりてなんじの見か不見かをみる。一喝して賓主を分かつとは一喝中に自ら主あり賓あり。照用一時に行ずとは一喝 中に自ら照あり用あり、一喝一喝の用を作さずとは一喝中にかくのごとき三玄三要、四賓主、四料簡の類あり。大約、臨 済の宗風かくのごとくなるに過ぎず、臨済を見んことを要すや。青天に震震をとどろかし、陸地に波濤を起こす。︹﹃人天 眼目﹄は五山版と考えられる。︺      第二 臨済要訣  大雄の正続、臨済の綱宗、黄壁に西来意を問うによりて痛く烏藤三頓を与えて、ついに大愚に往きて打発して、親しく 肋下の三拳をふるう。言下にすなわち老婆心、切なるを見て、はるかに知る、仏法多子なきことを。奔雷の喝を奮い猛虎 の髪をとり、赤肉団辺を近開して至る所に白拮の手段を用う。星を飛ばせ竹を爆し石を裂き岸を崩す。水凌上に行き剣刃 上に走る。全機電巻き、大用天旋る。赤手にして人を殺し単刀直入、人境ともに奪い、照用並び行ず。明頭来、暗頭来、 仏もまた殺し祖もまた殺す。古今を三玄三要に弁じ、竜蛇を二主二賓に験ず。羅籠を透脱して意解を存せず。金剛王宝剣 264

(20)

禅宗哲学序論 を操りて竹林の精霊を掃除し、獅子の全威を奮いて群虎の心胆を振裂す。末梢に正法眼蔵、膳駿辺に滅却す。徹骨徹髄、       メ 血脈貫通、頂きに透りて乾坤独露す。綿々漏らさず、器々相随う。けだしその宗祖高明、子孫光大なり。これ臨済の宗風 なり。︹*ー伝︺       古徳綱宗頒   横に鎮郷を按じて煩赫として光り、八方の全敵讃りに荘 たり。竜蛇並びに隠れて肌鱗脱す。雷雨同じく施して計略   荒なり。仏祖点じて泪滴の響をなす。江山結抹して並びに芽芳たり。廻途索真として郊堀遠し、舶を失する波斯楚郷   に落つ。       大慧頒   全機を突出して理事玄なり。東村の王老夜銭を焼く。等閑に路を得て明らかなること日のごとし。歩を挙げて頭を回   して直きこと絃に似たり。玄要ならび行じて別路なし。機縁わずかに兆せば伝うるに堪えず。従来大道に拘束なく、   手にまかせて拮じきたれば百事全し。       景福順頒   長江雲散じて水稻々、忽爾として狂風あれば浪すなわち高し。漁家玄妙の意を識らず、ひとえに浪裏に風濤を麗ぐ。      第三 四賓主   賓中の賓  双眉を展べず眼に筋なし。他方役役として知己に投じて、衣中無価の珍を失却す。︵一︶   賓中の主  尽力して追尋すれども処所なし。昔年なお自ら些些を見る。だれか知る今日双瞳瞥なることを。︵二︶   主中の賓  わが家広大にして実に論じ難し。求むるところ倍かならずして高下なし。貴賎同途にして一路平らかな         り。︵三︶   主中の主  七宝肪ることなし金殿宇、千子常に聖顔を囲続す。諸天順わざれば輪を飛ばせて挙す。︵四︶       翠岩真煩   賓中の賓  語を出して相因らず。いまだ諦審に思惟せず、牛に騎て孟津を過ぐ。︵一︶       65       2   賓中の主  相牽て日卓午、展拓して自ら能することなし。しばらく他の門戸を歴る。︵二︶

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主中の賓 主中の主 賓中の賓 賓中の主 主中の賓 主中の主    第四 奪人不奪境、 奪境不奪人、 人境両倶奪、 人境倶不奪、   南越両秦を望み、寒山拾得に逢う。擬議すれば乙卯寅。︵三︶   当頭坐してすべからく怖るべし、万里流沙を渉り、だれかいう仏と祖とを。 雪豆頒 ︵四︶     仏鑑勲頒 甕頭酒熟して人みな酔う。 にあり。︵奪人不奪境︶。 鶯は春の暖かなるに逢うて歌声滑らかなり。人は時の平かなるに遇うて笑瞼開く。幾片の落花か水にしたがいて去る。 一声の長笛雲を出しきたる。︵奪境不奪人︶。 堂堂たる意気雷書を走らしむ。凛凛たる威風霜雪を掬う。将軍令下りて荊蛮を斬る。神剣一揮すれば千里あけす。︵人 境両倶奪︶。 聖朝の天子明堂に坐す。四海の生霊ことごとく枕を安ず。風流の年少金樽を倒す。満院の落花錦よりも紅なり。︵人境 倶不奪︶。   喜び少なく唄ること多し。丈夫の壮志まさになんびとにか付すべき。︵一︶   玄沙の猛虎、半合半開、ただ自ら相許す。︵二︶   故を温ねて新しきを知る。互換相照らし、獅子噸陣す。︵三︶   正令斉しく挙す。長剣天に俺る。だれかあえてまさに禦ぐべき。︵四︶   四科簡 翠岩真和尚頒   日月自ら流通す。山河および大地、片雨蛮天を過ぐ。   禅を問えばなんの処か親しき、相逢うて祇揖せず。暁夜に関津を渡る。   鼓を声して紅楼より墜す。縦横に巨関を施す。だれかあえて当頭に立たん。   閻浮に転ずること幾遭ぞ。南に面して北斗を看る。いかでかこれが曹に合うことを得ん。         林上煙濃やかにして花まさに紅なり。夜半灯なくして香閤静かなり。鰍輻垂れて月明の中 266

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禅宗哲学序論    第五 四喝     沿陽昭の頒 金剛の宝剣最も威雄。一喝よく推く万初の峰、遍界乾坤みな色を失す。須弥倒に卓つ半空の中。︵ある時の一喝は金剛 王の宝剣のごとし︶。 金毛据地衆威存す。一喝よく胆魂喪わしむ。岳頂峯高うして人到らず。猿白日に蹄きてまた黄昏。︵ある時の一喝は鋸 地金毛の獅子のごとし︶。 詞鋒の探草当人を弁ず。一喝すべからく知るべし偽と真とを。大海澄澄として万象を含む。牛跡を将いて清深に比す ることを休めよ。︵ある時の一喝は探竿影草のごとし︶。 一喝当陽勢い自ら彰る。諸方ことごとく好商量あり。衝に盈ち路に溢れて歌謡する者、古往今来常を変ぜず。︵ある時 の一喝は一喝の用を作さず︶。     智海普融平の頒 一喝金剛の剣を用うる時、寒光礫櫟として坤維を射る。語言擬議すれば鋒刃に傷けらる。遍界の蜀饅知るや知らずや。 (一

j

一喝金毛軽く地に鋸る。檀林襲襲として香風起こる。しかも爪距かつて施さずといえども、万里の妖狐みな遠く避く。 ︵二︶ 一喝まさに探竿の草となす。南北東西いたらざることなし。短長軽重錨鎌を定む。平地荘荘としてすべからく嘉倒す べし。︵三︶ 一喝は一喝の用を作さず、三世古今別共なし。落花三月睡り初めて醒む。碧眼の黄頭みな夢を作す。︵四︶    第六 三玄三要     扮陽頒 第一玄  照用一時に全し、七星光燦燗、万里塵煙を絶す。      67       2 第二玄  鉤錐利にして更に尖なり。擬議すれば聴を穿ち過ごし、面を裂きて双肩に椅る。

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第三玄  妙用方円を具し、機にしたがいて事理を明かし、万法体中に全し。 第一要  根境ともに亡じて朕兆を絶す。山崩れ海蜴きて瓢塵を酒ぎ、寒灰を蕩尽して妙なるを空となす。     蹴 第二要  鉤錐察弁して巧妙を呈す。縦去奪来摯電の機、厘を透る七星光晃耀。 第三要  釣を垂れ、ならびに釣を下すことを用いず、機に臨む一曲楚歌の声、聞く者をしてことごとく来て返照せ      しむ。     慈明頒 第一玄  三世の諸仏なにをか宣べんと擬す。慈を垂れば夢裏に軽薄を生じ、端坐すれば還て断辺に落つることを成      ず。 第二玄  霊例の柄僧も眼いまだ明らかならず、石火電光もなおこれ鈍なり。揚眉瞬目に関山を渉る。 第三玄  万象森羅宇宙寛し。雲散じ洞空じて山岳静かなり。落花流水長川に満つ。 第一要  あに聖賢の妙を語らんや。擬議すれば長途に渉る。眸を撞ぐれば七たび顛倒す。 第二要  峯頭に健を敲いて召す。神通自在にきたる。多聞は門外に叫ぶ。 第三要  起倒人をして笑わしむ。掌内に乾坤を握る。千差すべて一照す。       古徳綱宗頒 ぶ      ホ  横二按鎮郷一垣赫光、八方全敵護荘々、竜蛇並隠肌鱗脱、雷雨同施計略荒、仏祖点為二滑滴響へ江山結抹並苓芳、廻途 索莫郊堀遠、失レ舶波斯落一一楚郷ハ︹*111横按二鎮郷一 *211荘︺       大慧頒 突二出全機一理事玄、東村王老夜焼レ銭、等閑得レ路明如レ日、挙レ歩回レ頭直似レ絃、玄要双行無二別路ハ機縁綾兆不レ堪レ 伝、従来大道無拘束へ信レ手拮来百事全、︹*目無二拘束こ       景福順頒       ホ       ぱヨ 長江雲散水酒々、忽爾狂風浪便高、不レ識漁家玄妙意、偏於二浪裏’麗二風濤一︹*1‖活 *211識二 *3U意ハ却︺    第三、四賓主

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禅宗哲学序論      双眉不レ展眼無レ筋、他方役役投二知己ハ失二却衣中無価珍↓︵一︶ 賓中賓             尽力追尋無二所処一昔年猶自見二些些べ誰知今日双瞳瞥、︵二︶︹*11今日誰知目双警︺賓中主      我家広大実難レ論、所レ求不レ悟無二高下一貴賎同途一路平、︵三︶主中賓      七宝無レ彪金殿宇、千子常囲二縫聖顔ハ諸天不レ順飛レ輪挙、︵四︶主中主       翠岩真頒      出レ語不二相因⊃未二諦審思惟べ騎レ牛過二孟津ハ︵一︶賓中賓      相牽日卓午展拓自無レ能、且歴二他門戸ハ︵二︶賓中主      南越望二両秦ハ寒山逢二拾得べ擬議乙卯寅、︵三︶︹*11西︺主中賓      当頭坐須レ怖、万里渉二流沙べ誰云仏与レ祖、︵四︶主中主       雪豆頒 賓中之賓 少レ喜多レ唄、丈夫壮志、当レ付二何人べ︵こ       ぱ 賓中之主 玄沙猛虎、半合半開、唯自相許、︵二︶︹*11惟︺ 主中之賓 温レ故知レ新、互換相照、獅子噸陣、︵三︶ 主中之主 正令斉挙、長剣椅レ天、誰敢当レ禦、︵四︶    第四、四科簡       翠岩真和尚頒       ぱ 奪人不奪境、日月自流通、山河及大地、片雨過二蛮天へ︵一︶︹*‖遷︺ 奪境不奪人、問レ禅何処親、相逢不二祇揖↓暁夜渡二関津へ︵二︶ 人境両倶奪、声レ鼓墜二紅楼ハ縦横施二巨閾へ誰敢立二当頭ハ︵三︶ 人境倶不奪、閻浮転幾遭、面レ南看二北斗ハ争得レ合二伊曹パ︵四︶       仏鑑歎頒 甕頭酒熟人皆酔、林上煙濃花正紅、夜半無レ灯香閤静、鰍鑓垂在二月明中一︵奪人不奪境︶ 269

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鶯逢二春暖一歌声滑、人遇二時平一笑瞼開、幾片落花随レ水去、一声長笛出レ雲来、︵奪境不奪人︶ 堂堂意気走二雷霊、凛凛威風掬二霜雪べ将軍令下斬二荊蛮べ神剣一揮干里血、︵人境雨倶奪︶        ホ  聖朝天子坐二明堂べ四海生霊尽安レ枕、風流年少倒二金樽ハ満院落花紅二於錦↓︵人境倶不奪︶︹*111桃 *211似︺    第五、四喝       沿陽昭頒 金剛宝剣最威雄、一喝能推万何峰、遍界乾坤皆失レ色、須弥倒卓半空中、︵有時一喝如金剛王宝剣︶ 金毛鋸地衆威存、一喝能令レ喪二胆魂へ岳頂峯高人不レ到、猿蹄二白日一又黄昏、︵有時一喝如鋸地金毛獅子︶        ぱ 詞鋒探草弁二当人べ一喝須レ知偽与レ真、大海澄澄含二万象↓休下将二牛跡比申清深い︵有時一喝如探竿影草︶︹*‖跡一︺ 一喝当陽勢自彰、諸方儘有二好商量へ盈レ衛溢レ路歌謡者、古往今来不レ変レ常、︵有時一喝不作一喝用︶︹*目真︺       智海普融平頒 一喝金剛剣用時、寒光櫟櫟射二坤維べ語言擬議傷二鋒刃ハ遍界閥饅知不レ知、︵二 一喝金毛軽鋸地、檀林襲襲香風起、錐三然爪距不二曾施ハ万里妖狐皆遠避、︵二︶ 一喝将為二探竿草ハ南北東西無レ不レ到、短長軽重定二維鉄ハ平地 々須二葬倒へ︵三︶ 一喝不レ作二一喝用ハ三世古今無二別共べ落花三月睡初醒、碧眼黄頭皆作レ夢、︵四︶    第六、三玄三要       沿陽頒

第第第第第第

要要要玄玄玄

照用一時全、七星光燦燗、万里絶二塵煙ハ      鉤錐利更尖、擬議穿レ肥過、裂レ面筒二双肩一︹*U便︺        ホ  妙用具方円、随レ杭明二事理へ万法体中全、︹*1日具二方円一 *2‖機︺    ぱ      ぱ  根境倶亡絶二朕兆ハ山崩海喝酒二瓢塵ハ蕩二尽寒灰一妙為レ空、︹*111忘 *211始得妙︺       ネユ     ボ エ      エ 鉤錐察弁呈二巧妙一縦去奪来製電杭、透レ画七星光晃耀、︹*111機 *211厘 *311なし︺  ポ      ホ      ぷヨ 不レ用垂釣井下レ釣、臨レ杭一曲楚歌声、聞者尽教二来返照へ︹*1日用二垂レ鈎井下。釣 *211機 *311反︺ 270

(26)

禅宗哲学序論

第第第第第第

要要要玄玄玄

 慈明頒 三世諸仏擬二何宣ハ垂レ慈夢裏生二軽薄ハ端坐還成レ落二断辺ハ 霊例柄僧眼未レ明、石火電光猶是鈍、楊眉瞬目渉二関山べ 万象森羅宇宙寛、雲散洞空山岳静、落花流水満二長川べ  ぱエ        宣語聖賢妙擬議渉二長途べ撞レ眸、七顛倒、︹*111話二聖賢妙一 峰頭敲レ健召、神通自在来、多聞門外叫、 起倒令二人咲へ掌内握二乾坤↓千差都一照、︹*11笑︺ 曹洞宗意大綱 ︵﹃人天眼目﹄による︶ *211撞頭已顛倒︺      第一 曹洞門庭  曹洞宗は家風細密にして言行相応ず。機にしたがいて物に応じ、語につきて人を接して他の来処をみる。たちまち偏中 に正を認むるものあり。たちまち正中に偏を認むるものあり。たちまち相兼帯す。たちまち同、たちまち異なり。示すに、 偏正五位、四賓主、功勲五位、君臣五位、王子五位、内紹外紹等のことをもってす。︹偏正五位、︺正中偏とは体より用を 起こす、偏中正とは用より体に帰す、兼中至とは体用並び至り、兼中到とは体用ともに浪するなり。四賓主とは臨済に同 じからず、主中賓は体中の用なり。賓中主は用中の体なり、賓中賓は用中の用、頭上に頭を安んず。主中主は物我ならび に忘じ、人法ともに浪す、正偏の位にわたらざるなり。功勲五位とは参学の功位、非功位に至るを明かす。君臣五位とは 有為無為を明かすなり。王子五位とは内紹は本自ら円成し、外紹は修あり証あることを明かすなり。大約、曹洞の宗風は 体用偏正賓主に過ぎず、もって向上の一路を明かす。曹洞を見んと要するや、仏祖未生空劫の外、正偏有無の機に落ちず。      第二 曹洞要訣  新豊の一派、荷玉流を分かち、始め水を過ぐるによりて渠にあうて、無情説法を見る。当今、触れず、手をのべて玄に 通ず。五位正偏を列し三種の滲漏を分かち、夜明簾外、臣位を退きて、もって君に朝す。古鏡台前子身を転じて父に就く。 雪は万年の松径をおおう。夜半正明、雲一峰の峰轡を遮る。天暁不露、道枢綿密にして智域困深なり。空劫已前を黙照す。 271

(27)

湛々たる=頭の風月、威音那畔に坐徹す。澄々たり満目の姻波、不萌枝上に花開き、無影樹頭に鳳舞う。機糸掛けず、箇 の中金針をならび鎖す。文彩縦横、裏許暗に玉線を穿つ、双明唱え起こす。鋒を交うる処天然あることを知る。兼帯たち 勿 まちきたる枯木の上、だれかよく主とならん。正位を存せず、なんぞ大功を守らん。今時を及尽す。むしろ尊貴にとどめ んや。情塵の見網を裁断し金鎖の玄関を掌開す。妙叶全く該き歴々として類中に跡を混ず、平懐常実明々として炭裏に身 を蔵す。巻寄功勲に落ちず、来去ついに変易なし。異苗をして翻茂せしめんと欲せば、貴ぶらくは霊根を深固するにあり。 もし柴石野人にあらざれば、いかでか新豊の曲子を見ん。       古徳綱宗偏   荊棘の叢林、三三五、煙雲径を軍むいずれかよく尋ねん。鳥鶏雨を冒して陽焔を衝く。赤煉楼を穿ちて唖音を和す。   広沢の盧花雪を蔵して密なり。給を垂る鈎艇轡深を弄す。軒に当て賠賠として秦鏡なし。髪を散じ眉を斜にして翠苓   を下る。       古徳宗旨頒   洞下の門庭理事全し、白雲岩下に安眠することなかれ。縦饒枯木に花を生じ去るも、芒郊を返照すれば銭に直らず。       沿陽頒曹洞機   楼閣千秋の月、江湖万里の秋、薩花異色なし、白鳥汀洲に下る。       門風偶   刹刹塵塵処処に談ず。弾指を労せず善財参ず。空生また消息を通ずることを解す。花雨巌前鳥衝まず。   月夷り風吹いて草裏に埋む、他の毒気に触れればまた還て乖く、暗地にもし死口を開かしむれば、長安旧によりて人   のくることを絶す。   死の中に活を得るこれ常にあらず、密用は他家別に長あり、半夜の燭譲一曲を吟ず、氷河の紅焔かえって清涼。   一法元なし万法空ず、箇の中なんぞ許さん円通を悟ることを。まさにいえり、少林の消息を断ちて、桃花旧によりて   春風に笑う。       自得暉頒

(28)

禅宗哲学序論 宮楼沈沈として夜色深し。    第三 五位     悟本五位頒 正中偏 偏中正 正中来 兼中至 兼中到 正中偏 偏中正 正中来 兼中至 兼中到 正中来 正中偏 偏中正 兼中至 兼中到 灯残り火尽きて知音を絶す。木人位転ず玉縄の暁。石女夢回りて霜、襟に満つ。  三更初夜月明の前、怪しむことなかれ。相逢うて相識らざることを、隠隠としてなお昔日の嫌を懐く。  失暁の老婆古鏡に逢う。分明観面更に他なし。更に頭に迷うてなお影を認むることを休めよ。  無中に路あり塵埃に出ず。ただよく当今の諄に触れざれば、また前朝断舌の才に勝らん。  両刃鋒を交えて廻避せんことを要す。好手はまた火裏の蓮に同じ。宛然として自ら衝天の気あり。  有無に落ちずだれかあえて和せん。人人ことごとく常流を出でんと欲す。折合してついに炭裏に帰して坐  す。 克符道者頒  半夜の澄潭月まさに円かなり。文殊の厘裏に青蛇吼う。毘盧を驚得して故関を出でしむ。  演若が玉容古鏡に迷う。笑うべし、牛に騎りて更に牛を覚むることを。寂然として動せず毘盧の印。  鳳子竜孫釣台に坐す。高僧当今の誰に触巻すれば、花冠を蔵却して笑い一同。  驚怒り竜奔りて九江沸く。張審孟津の源を尋ね得て、昆寄を推倒して依債なし。  竜旗御街に排出すること早し。ほぼ仙伎を開く鳳楼の前、尋常諒当今の号に触る。 扮陽昭頒  金剛の宝剣天を払いて開く。一片の神光世界に横わる。晶輝朗耀として塵埃を絶す。  露歴の機鋒眼を着けて看よ。石火電光もなおこれ鈍。思量擬議すれば千山を隔つ。  輪王正令を行ずるを看取せよ。七金千子すべて身にしたがう。途中になお自ら宝鏡を覚む。  三載の金毛爪牙備わる。千邪百怪出頭しきたるも、峰吼一声すればみな地に伏す。  大に無功をあらわして作造することを休む。木牛歩歩として火中に行く。真箇の法王妙中の妙。 草堂の清の頒 273

(29)

正中偏  了角の昆需室裏に眠る。石女の機稜声軋軋、木人袖を舞いて庭前に出ず。 偏中正  澄潭印出す婚光の影、人人ことごとく影中に向かいて円かなり。影滅し潭虚うしてだれか影を弁ぜん。 正中来  火裏の蓮華朶朶として開く。根苗あにこれ尋常の物ならんや。妙用は応世の才に同じきにあらず。 兼中至  交戦の機鋒忌諄を絶す。丈夫彼彼英雄を逞うす。点著するにきたらざれば粉砕と成る。 兼中到  鉄牛喫し尽くす欄辺の草、かえって牧童に問うなんのところにか居す、鞭は東西を指して一宝なし。     宏智の覚の頒 正中偏  書碧たる星河冷ややかにして天を浸す。半夜の牧童月戸を敲く。暗中に驚破す玉人の眠り。 偏中正  海雲依約す神山の頂、帰人の髪髪白くして糸のごとし。差ずらくは秦台に対すれば寒くして影を照らすこ      とを。 正中来  月夜の長鯨甲を蜆して開く。大背天を摩りて雲羽を振るう。鳥道に翔遊して類して該ね難し。 兼中至  観面に須いず相い忌誰することを、風化傷うことなし的意玄なり。光中に路ありて天然に異なる。 兼中到  斗柄横斜にして天いまだ暁けず。鶴夢初めて醒めて露気寒し。旧巣飛出して雲松倒る。     自得の暉の頒 正中偏  混沌初めて分る半夜の天、転側せる木人夢を驚かして破す。雪薦眼に満ちて眠を成さず。 偏中正  宝月団団として金殿寒し。明に当て犯さず暗に身を抽んず。眸を回せば影は西山の頂に転ず。 正中来  帝命かたわらに分けて化才を展ぶ。呆日初めて昇りて世界静かなり。霊然としてかつて繊埃を帯びず。 兼中至  長安の大道閑かに遊戯す。処処私なくして空空に合す。法法帰するところを同じうして水水に投ず。 兼中到  白雪断ずる処家山妙なり。騒竜明月の珠を撲砕す。箆嵜海に入りて消耗なし。       古徳綱宗傷    ポ    ア      ホる 荊棘叢林三三五、煙雲軍レ径執能尋、烏鶏冒レ雨衝二陽焔↓赤煉穿レ楼和二唖音︵広沢盧花蔵レ雪密、垂論鈎艇弄二弩深ハ 当レ軒賠賠無二秦鏡へ散レ髪斜レ眉下二翠牛ハ︹*111生 *211二 *311重レ輪 *411湾︺       古徳宗旨頒 274

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禅宗哲学序論       ポ        洞下門庭事理全、白雲岩下莫二安眠ハ縦饒枯木生レ花去、返二照芒郊一不レ直レ銭、︹*111反 *211荒︺       沿陽頒曹洞機    ポ 楼閣千秋月、江湖万里秋、盧花無二異色べ白鳥下二汀洲べ︹*11家︺       門風偏         刹刹塵塵処処談、不レ労二弾指一善財参、空生也解レ通’・消息、花雨巌前鳥不レ街、 ︹*‖卿︺ 月爽風吹草裏埋、触二他毒気一又還乖、暗地若教レ開二死旦長安依レ旧絶二人来べ︹*11﹁勿然﹂あり︺        ホ  死中活得是非レ常、密用他家別有レ長、半夜髄髄、吟二曲︵氷河紅焔却清涼、︹*111還他別有長 *2‖発︺        一法元無万法空、箇中那許悟二円通↓将レ謂少林消息断、桃花依レ旧咲二春風へ︹*11笑︺       自得暉頒 宮楼沈沈夜色深、灯残火尽絶二知音べ木人位転玉縄暁、石女夢回霜満レ襟、︹*11漏︺    第三、五位       悟本五位頒 正中偏 偏中正 正中来 兼中至 兼中到 正中偏 偏中正 正中来 兼中至 三更初夜月明前、莫レ怪相逢不二相識ハ隠隠猶懐二昔日嫌べ 失暁老婆逢二古鏡バ分明観面更無レ他、休二更迷レ頭猶認P影、︹*目尋︺ 無中有レ路出二塵埃ハ但能不レ触二当今謹↓也勝二前朝断舌才ハ 両刃交レ鋒要二廻避べ好手還同二火裏蓮べ宛然自有二衝天気べ 不レ落二有無一誰敢和、人人尽欲レ出二常流べ折合終帰二炭裏一坐、  克符道者頒        ホ      ヨ 半夜澄潭月正円、文殊画裏青蛇吼、驚得毘盧出二故関べ︹*1‖厘 *2‖驚二得毘盧﹁ *311園︺ 演若玉容迷二古鏡ハ可レ笑騎レ牛更寛レ牛、寂然不レ動毘盧印、  ぱハ       鳳子竜孫坐二釣台一高僧触替当今講、蔵二却花冠一笑一回、︹*1U竹 *211高僧不触当今︺ ホ       ぱ  驚怒竜奔九江沸、張驚尋二得孟津源べ推二倒昆畜一無二依僑ハ︹*111驚 *211絶︺ 275

(31)

偏正

中中

正偏

兼兼正偏正 兼兼正偏正 兼兼偏正正 兼

中中中中中 中中中中中 中中中中中 中

到至来正偏 到至来正偏 到至正偏来 到

竜旗排二出御街一早、略開二仙杖一鳳楼前、尋常諄レ触二当今号へ︹*11常却謹︺  沿陽昭頒       ゑ 金剛宝剣払レ天開、一片神光横二世界ハ晶輝朗耀絶二塵埃べ︹*11繊︺ 露震機鋒着レ眼看、石火電光猶是鈍、思量擬議隔二千山ハ︹*11著︺   ぷ      ボ  看三取輪王行二正令︵七金千子総随レ身、途中猶自覚二宝鏡ハ ︹*111法 *211金︺       ネ  三載金毛牙爪備、千邪百怪出頭来、嘩吼↓声皆伏レ地、 ︹*111歳 *211妖︺ 大顕二無功一休二作造べ木牛歩歩火中行、真箇法王妙中妙、  草堂清頒 了角昆畜室裏眠、石女機稜声軋軋、木人舞レ袖出二庭前べ ︹*11空︺     ホ      ホ  澄潭印出蛤光影、人人尽向二影中一円、影滅潭虚誰弁レ影、︹*111桂輪 *211潭枯誰解省︺        オ 火裏蓮華朶朶開、根苗宣是尋常物、妙用非レ同二応世才へ︹*‖大用非同応世材︺ 交戦機鋒絶二忌諄↓丈夫彼彼逞二英雄ハ点著不レ来成二粉砕一︹*11互︺          ぱ       ネ  鉄牛喫尽欄辺草、却問牧童何処居、鞭指二東西一無一二宝へ︹*111問二牧童一 *211指点東西一宝︺  宏智覚頒 審碧星河冷浸レ天、半夜牧童敲二月戸ハ暗中驚破玉人眠、︹*U夜半木童︺      ホ ぽ      ホヨ 海雲依約神山頂、帰人髪髪白如レ糸、差対二秦台一寒照レ影、 ︹*ln仙 *211婦 *311垂︺ 月夜長鯨蜆レ甲開、大背摩レ天振二雲羽↓翔二遊鳥道一類難レ該、 観面不レ須相忌講、風化無レ傷的意玄、光中有レ路天然異、 斗柄横斜天未レ暁、鶴夢初醒露気寒、旧巣飛出雲松倒、︹*11葉︺  自得暉頒       ポ 混沌初分半夜天、転側木人驚レ夢破、雪薩満レ眼不レ成レ眠、︹*11前︺         宝月団団金殿寒、当レ明不レ犯暗抽レ身、回レ眸影転二西山頂↓︹*n冷︺ 276

(32)

正中来 兼中至 兼中到         帝命労分展二化才ハ呆日初昇世界静、霊然曾不レ帯二繊埃ハ︹*1‖傍 *211沙︺     ホ       ホ  長安大道閑遊戯、処処無レ私空合レ空、法法同レ帰水投レ水、︹*1‖長 *211帰︺ 白雪断処家山妙、撲二砕騒竜明月珠ハ昆畜入レ海無二消耗↓︹*11好︺ 禅宗哲学序論 277

(33)

第一段 緒 論

       第一節 発 端  時間を窮めて終極なく、空間を尽くして際涯なきものは宇宙なり。その間謁然として浮かび、浩然として行わ るるものは理想の精気なり。この気たるや実に霊妙不可思議にして、発して森然たる万有の上に現れ、結んで湛 然たる一心の中に開く、日月はその気の凝塊にして、人類またその気の結晶なり。仰ぎて眼前を望めば、山青く 水清き所、おのずから霊妙の趣あるを感じ、伏して心内を顧みれば、夜深く人静かなるとき、またおのずから霊 妙の光あるを見る。これ理想の光景にあらずしてなんぞや。故に燗々たる哲眼をもって徹照しきたらば、一物と して霊ならざるなく、一事として妙ならざるなく、一大宇宙ことごとく理想鏡裏にありて現立するをみるべし。 これをもって心田の地いずれを穿ちきたるも、ところとして理想の水を湧出せざるなく、物天の雲いずれを払い 去るも、時として理想の光を開現せざるなし。これ実に霊々妙々不可思議といわざるべからず。この不可思議の 哲理を推究論定するものは哲学にして、この不可思議の玄門を開示し、かつこれに到達する要路を指導するもの は仏教なり。しかりしこうして、その門路一ならず。漸次に昇進する法を説くものあり、頓速に悟入する道を講 ずるものあり、客観上に安心を談ずるものあり、主観上に成仏を勧むるものあり。これ仏教中に諸宗の分立する ゆえんなり。今、禅宗は単伝直指真参実証の法と称して、主観上より不可思議霊妙の理想界に頓入直達する一種 の別法なり。故にこれを教外別伝とす。もし人この門に入りて自己の心地を開発しきたらば、身心共に霊々妙々 278

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