はじめに
食器にみる列島中世の地域性については,1970年末以降,日本中世土器研究会が中心となって在 地の食膳・煮炊・調理・貯蔵器の組織的な調査を継続し,西日本の様相がかなり鮮明になってきた。 また,中世前期に椀形食膳器と土製煮炊器が欠落する東日本では,やや後発ながら80年代後半から, 東国土器研究会・北陸中世土器研究会などにより在地土器の地域色に着目した研究がすすめられた。 それは,具体的には食器の地域性=地域「型」の設定を普遍化する手順で進展し(1),「型」に映し 出された地域の面的拡がりを生産・流通史にかかわらせて論じる視点が主流であった。 ここでは,先行業績をふまえ,西日本の「土器塊」を指標に地域論としての明確な問題意識をも ち,中世食器の地域性の理論化と実証を深めた森隆の一連の意欲的な論考から,今日的な課題と克 服の方向性を探ってみたい。森は,土器塊に表徴される時空間を表現する概念として,数国ないし 数郡ていどの土器生産技術=「型式」を共有する地域「型」を示準とし,それを超える数ヵ国以上 の大地域を「系」,1国ないし郡以下の小地域を「群」とし,系一型一群の序列的分類基準を設け ている(2)。そこで構想される「地域」とは,地勢をベースとし,特定の技術と生業活動を紐帯と する地縁社会であり,現実には「型」の細別が至難な「群」は理念的に生産工人集団の最少単位と なる。森はさらに,技術社会史の視点から,伝統と革新の競合と融合が古代と異なる中世的な地域 形成の特質であり,中世は基本的に「開かれた技術大系」の時代であった(3)として,西日本の瓦 器椀を畿内系と九州系に大別し,前者は「楠葉型」→内圏(大和・和泉型)→外圏(紀伊・伊賀・ 近江・丹波型)へ,後者は内圏(筑紫型=大宰府)→外圏(豊前・肥後・天草・肥前南部型)への 求心構造の技術伝播をモデルとして提示している。また,「型」の分布領域と史的環境から中地域 に生産構造較差を付与するため,①狭域特殊型(楠葉型:広域点的領域,黒色土器B類二準官窯の 系譜,特定権門・官衙に奉仕,都市近郊型,高級磁器型特産品),②中間特殊型(大和型:一国と 周縁領域,寺院工房,製品の保守・斉一性),③広域等質型(和泉・筑紫型瓦器,吉備型土師器, 播磨型須恵器:複数国領域,系の中核,民需品主体製品の均質性),④縁辺在地型(その他の狭域 型:一国以下ないし一郡領域,在来色顕著)の諸類型を設定している。 森の作業は,個別報告を地域論として体系化しようとする点で高く評価できるが,椀と」不・小皿 とのセット構成,厨房具いケ〉の食器)という性格上もっとも在地色が濃厚な煮炊具の地域性と の相関は,課題としてもち越されている。また,土器塊は中世前期で消滅するので,中世後期の地 域性と前期との異同の解明には,やはり土製食膳具(塊・皿)と煮炊具(鍋・釜)の組み合わせの 把握が要請される。この点は東日本でも同様であって,中世前・後期の土師器杯・小皿と後期の内[中世食器の地域性 総括]・・…吉岡康暢 耳土鍋・釜が定量比を含め統一的な指標となる。そのばあい,森は生産・流通体制を重視するが, 食器の地域性は社会集団の飲食行為=食習俗の所産であり,饗応・信仰などを含む消費の場での食 器の使い分けや廃棄のあり方の視点も同等の比重でとりこんでゆく姿勢が必要であろう。 また,こうした在地土器を介する地域性の追跡が中・小の地域区分にとどまらず,その集合体と しての大地域区分の基礎となることは確かであるが,中世の民族問題とかかわる北方・南島と列島 中央,あるいは東と西,日本海域・太平洋域といった列島の地域史を規定する大地域性が,広域流 通陶磁(舶載陶磁・国産陶器および土器の一部)の分布に端的に表現されていることはいうまでも ない。このことは,中世の食器が都市型組成に示現される高度の産地・器種別複合として現れ,通 常在地食膳・煮炊器(調理器)+移入調理・貯蔵器の基本構成をとることに明示されており,大流 通と中・小流通の相互関係を基軸に展開する中世日本の分業構造の当然の帰結といえる。ただし, 在地土器に表徴される地域性と広域流通陶磁に示された地域性は,領域の広狭のみならず生産・流 通機構が同一といいきれないだけに,補完関係を前提としつつも単一の地域社会に短絡化できるか どうかを吟味しなければならない。 さらに,食器を素材とする地域性の終着点として,地域を構成する都市・館・寺社・村落・墳墓 等遺跡群間の落差を,土器・陶磁器組成から読みとる遺構論と一体的な遺物論の展開が,歴史的な 地域社会像の創出に要望されることになろう。そこでは,都市の食器と村落の食器,ひいては中世 の身分と階層を表現するステータス器種の抽出や,〉ハレ、とぐケ“の食器といった食器の社会的 機能の考察が不可避の作業となってくる。中世の土器食膳・煮炊器の日常性と非日常性については 見解が分かれており,地域性の評価とも緊密にかかわってくる。この点については,「研究活動の 記録と課題」でふれたように,近年ようやく食器の定性・定量分析データの蓄積とともに,各種遺 構でみられる廃棄パターンや使用(修覆・転用)痕の観察に留意され,文献史料の活用も図られる ようになった(4)が,確定までにはなお紆余曲折の議論を要しよ、う。 以下,列島を10地方に大別して中世食器の地域性を要約し,つぎに機能論に一定の展望を試みつ つ,列島中世の地域性をめぐる若干の問題を述べて責をふさぎたい。 (1)北海道 北海道の食器による地域区分は,一般に擦文土器の地域色により道南西,道央,道東北に大別さ れているが,オホーック式土器の存在を加味して,道東北部は東部と北部の流氷地帯に区分されよ う。擦文アイヌ時代⑤の食器は,基本的に食膳具=土師製杯・椀・有台椀,煮炊具=土師製甕 (大・小),用途と普及が限定された可能性のある貯蔵具=須恵器瓶・甕(10∼11世紀)の組成であ る。中世アイヌ時代の食器組成は,村落遺跡の調査例が皆無に近い現況で確定できないが,擦文土 器の後半に土製食膳具が減少し,東北に連動して列島中央の中世前期のある時期に消滅して,食膳 具が漆器,煮炊具が鉄鍋に置換されたという見通しをもっている。したがって,列島中央で盛用さ れた中国陶磁,土・陶製播鉢および壼甕類が使用された形跡は認められず,無土器地帯として近世 アイヌ時代へ推移していったことになる。ただし,とくに中世後半に和人の道南西部への侵植が顕 現化すると,和人が居住する交易拠点では列島中央と同一の食器組成がもちこまれるが,カワラケ 不在地域として東北北部とともに固有の地域設定が行われるばあいが多い。 ところで,さきの擦文土器の消滅を指標とする中世アイヌ時代への移行年代については,10世紀
後半∼11世紀半ばに漆椀,ついで11世紀後半∼12世紀初めの鉄鍋への置換が段階的に進行したとす る三浦圭介の見解と,擦文土器の編年軸と湖州鏡(釧路市材木町5遺跡),宋銭(泊村茶津4号洞 窟,別海町浜別海遺跡1号竪穴など)の共伴例から12∼13世紀とする北海道の研究者の意見が対立 し,およそ1世紀ないし1世紀半のずれを生じている。筆者は終焉の下限を12世紀中∼後半まで幅 をもたせ三浦説を支持するが,なお,道内各地の擦文土器編年が一元的に整理されていない上に, 終焉年代の地域差も考慮すると今後の検討をまたねばならない。また,10∼11世紀の津軽が,五所 川原窯産須恵器貯蔵器の全道的供給に端的に示現される対蝦夷向けの交易物資を含む,農業・牧 畜・製鉄・製塩基地として発達を遂げたことは確かであるが,岩木山麓の製鉄遺跡群中に鋳造遺跡 が存せず,漆器についても交易専用生産の証跡が確認できていない。津軽の諸産業は12世紀まで存 続せず,中世との断絶性の大きさも,古代から中世への移行の理解を困難にしている。 北海道への鉄鍋の移入コースは状況的には日本海ルートが想定されるにもかかわらず,生産流通 基地能登半島を含む北陸は無耳鉄鍋A類の分布圏に帰属するようで,内耳鉄鍋C類の出土圏が青 森・岩手と関東・甲信越に限られている〔五十川伸矢〕ことも留意すべきであろう。なお,内耳土 鍋は鉄鍋の普及と前後し,それを模倣して11世紀後半に出現するようで,道内の擦文後・末期の遺 跡からも散発的に出土するが,内耳に作る「樹皮鍋」(桜樺皮製)がアイヌの「ニートッシュ」を はじめ北方諸民族にある〔馬場脩〕ことは,始用年代や普及率,機能性の問題があるが,煮炊の補 助具として注意する必要がある。 また,11世紀代の東北北部∼道南部に少数ながら固有の器種として使途不明とされてきた「把手 付土器」は,8∼10世紀の史料に散見する「佐志奈閑」(『禿具森古文書』),「刺名倍」(『召菱集』), 「銚子」(『和名抄』)の土製模倣品とみられ,多賀城・秋田城から鉄製品が出土している。この型式 の鉄鍋は福島県武井地区向田A鋳造遺跡(9世紀前半以降)で鋳型が確認されており,酒器とする には注口として作出されておらず,体部の形態からも把手付の小形鉄鍋と考えられる。当該型式の 鉄鍋鋳型は向田A遺跡で少数しか出土しておらず,8∼10世紀代の官衙・寺院等への供給品が,10 世紀後半から11世紀代には民需品化し,11世紀後半以降内耳鉄鍋と交代してゆく状況の反映と理解 できよう。 なお,アイヌが中世以降陶磁器を日常食器としてまったく使用しなかったかどうかも検討課題で あるが,中世後期の中国陶磁・瀬戸美濃陶器(食膳具),国産陶器(調理・貯蔵具)の分布は,① 13世紀末∼14世紀前半(余市町大川遺跡など〉,②14世紀後半∼15世紀中葉(函館市志海苔館など), ③15世紀末∼16世紀末(上ノ国町勝山館など)の3段階を経て,道南西部の点的拡散からいわゆる 道南十二館を中心とする「館」と膝下の港湾「町」での集中的使用へ発展し,勝山館へ収束する。 この分布圏はアイヌと和人の共存地域で若干しか出土しない遺跡にアイヌ村落の可能性を残すもの の,日常食器としての流通は考えられず,『新羅之記録』をはじめとする松前藩の記録にみえる余 市一鵡川を和人居住区とする記載と正確に一致するので,定量ないし多量出土する遺跡は和人遺跡 とできる。道南部は,このようにアイヌと和人居住区の共存ないし錯在状況から生まれた異質の食 器組成が拠点的に混合する道央・道東北部と対照的な地域を形成している。 さて,北海道の地域区分でいまひとつの課題は,かって藤本強が「ボカシ」地帯として提起し, 近年の北方史研究の進展のなかでしばしば強調される,いわゆる北緯40度線(米代川一馬淵川)以
[中世食器の地域性 総括]・・…吉岡康暢 北の東北北部と道南部を「北日本」という一体的な地域圏として包括的に捉える構想の評価である。 この領域の道内での北限の指標はかならずしも明確でないが,続縄文文化の南下をうけた擦文土器 圏の拡張が,いわゆる北海道式古墳,保塞村落などとともに共通項とされている。しかし,三浦が 説くように,この地域の一体化現像が顕現するのは擦文編年後半の10世紀後半∼11世紀代であり, 津軽産須恵器の道内一円流布と表裏の関係にある。 しかも,擦文ないし模倣土器は津軽地方を中心とする60ヵ所を超える遺跡では甕類に限られ,す べて客体的な存在である〔三浦圭介〕。もちろん背後にある生活財の交易レベルでの活発な交流を 過少評価できないが,中世のとくに後半に生起する片務的交易に連続するものでなく,天野哲也の 「特殊な生産物を求めて道内各地から擦文人がやってきた痕跡」という指摘が妥当であり,東北北 部を擦文土器圏に含めるのは適当でないと思う。津軽海峡は9世紀以降,異人種・民族の境界とし ての側面が濃厚で,そのことは,都市の不在,貨幣経済の未発達,水稲栽培をはじめとする木工醜 櫨,鉄製錬などの生産技術や乗馬の習俗,文字文化,仏教イデオロギー(火葬)が定着せず,擦文 文化をうけ中世にアイヌ固有の民族文化の形成が一段とすすんだとみられることで明らかであろう。 このようにみてくると,中世北海道の地域区分はとりあえず後半に和人居住区を含む道南西部と, ほぼアイヌ単一地域として推移した道央・道東北部に大別できよう。 (2)東 北 東北は,通常奥羽山脈を横断する北部・中部・南部に区分されてきた。しかし,遠隔地交易物への 依存度が民需品レベルで飛躍的に高まった中世では,中世n期に日本海域と太平洋域に陶製調理・ 貯蔵器の特産地が形成され,海運を介する流通ネットワークが主,奥羽山脈の峠道を介する陸路は 従となったので,主として国産陶器の生産技術系列を指標に,西部日本海域と東部太平洋域に大別 するのが適当で,さらに土師器の出土量比と在地窯のあり方によって,北部(北奥・出羽北辺)と 南部に区分できよう。前項でふれたように,道南部と東北北部を固有の政治・生活領域として包括 する立場からすると,古代後皿期にみられた津軽が生産基地の地位を喪失した反面,青森県十三湊 遺跡に代表される北辺の対蝦夷流通基地が顕現する点で独自の地域を設定できなくはないが,ここ では中世アイヌと和人の共存を前提とする「北日本」の過大評価を避け,東北のなかで相対化させ ておきたい。 当地方の食器は,食膳具二漆器+土師器+舶載陶磁+国産陶器(瀬戸美濃,後期),煮炊具=内 耳鉄鍋(後期に南部の一部で内耳土鍋),調理・貯蔵具=国産陶器+在地土師・瓦製調理器として 概括できる。その特色は,①塊形土製食膳具の欠落,②n期の京都系土師器皿T種(手捏ねカワラ ケ)の一円的な波及と拠点的な大量消費,在来の土師器R種(醜櫨カワラケ)杯・小皿のそれへの 同化(器種・器形・法量の互換性),中世後半のR種(韓櫨製カワラケ)への回帰と減少,③前半 の土製煮沸具の不使用(内耳鉄鍋の普及),④移入陶製調理・貯蔵具の比重の大きさ,という点で 東国全体に共通する。なかでも,①京都系土師器の消長が北部平泉の求心性と表裏をなし,中世後 半には北部で不毛,南部で希薄地帯化,②平泉への中国陶磁の集中(前半)と城館主層の大量備蓄 (後半),③在地煮炊器の未発達と移入煮炊器の圏外という点で,関東・甲信,北陸と一線が画され る。④調理・貯蔵具は,西部は珠洲および珠洲系(須恵器),越前(姿器),東部は渥美・常滑(姿 器)および在地須恵器・姿器折衷系で占められ,かつ在地陶器,瓦器(後期の播鉢)が一定の量比
を占める点で関東・甲信と異なる。 平泉政権解体後の土師器の推移は,東・西部とも大差なく,中世皿期に 激減し,北部では13世紀半ばごろ消滅する。T種は陸奥南部の一部(田 村地域)のようにW期前半まで遺存するところもあるが,ほぼm期のうちに大形品は杯化し,R種 へ回帰する。ただし,皿期には南部のほぼ全域で鎌倉タイプのR種杯・皿が認められるのは,注意 を要する。IV期の南部は遺跡による偏差があるが,総じて関東に準ずる地域として定着するのは, H期の京都系カワラケの西進に匹敵する。東都鎌倉のほぼ東国全域をとりこんだ強力な自立的かつ 求心的な政治・文化的動向として評価すべきであろう。本期の事例として,北部の青森県尻八館で 1点,岩手県笹間館で15,000m2の調査区で10数片があげられるが,南部ではIV期を中心とする福 島県の一連の城館をみると,食器総量のなかで相当量土師器を消費する遺跡(南古館53%,荒川館 33%)と僅少な遺跡(北古館3%,長沼城11%)が錯在し,近接した北古館と南古館などの量差の 説明は難しい〔西山真理子〕。なお,土師器は前・後半を通して一般村落でも若干数ながら普遍的に 出土することが知られている。土師器は,V期にはR種の法量分化がすすみ,近世1期にかけて大 半は灯明用あるいは儀式用の重ね皿として定量消費されている(福島県梁川城三の丸跡,若松城三 の丸跡など)。 つぎに,中世後半では中国磁器と瀬戸美濃陶器のあり方が問題となる。後期の瀬戸美濃には,平 椀・天目塊・小皿のほか卸皿・折縁深皿・播鉢=調理器,香炉・花瓶=宗教器など多器種を含むた め平準的データがえにくいが,道南から東北北部におけるV期の拠点的城館(上ノ国町勝山館,青 森県浪岡城,同根城)では,中国陶磁2.5∼4.4対瀬戸美濃陶器1ほどで中国陶磁が卓越し,IV・V 期前半の太平洋域中部(岩手県大瀬川館・同柳田館・同境関館)でもユ.8∼2.9対ユで中国陶磁の優 勢は変わらない。ところが,東部南辺のIV・V期を中心とする城館では,中国陶磁が卓越した遺跡 (福島県元屋敷遺跡)もあるが,ほぼ拮抗するもの(北古館・長沼城・荒川館,中国陶磁1.7∼1.1 対瀬戸美濃陶器1)と瀬戸美濃陶器優勢の遺跡(南古館・久世原館,中国陶磁1対瀬戸美濃陶器 1.6∼3.9)があり,土師器と中国陶磁の量比はかならずしも相関しないものの,相対的ながら太平 洋南部における瀬戸美濃陶器の供給量は関東に近い状況が看取されよう。 陸奥南部で関東・甲信,東海同様,主として瓦製の上野型に類する内耳 土鍋が使用されたことが知られているが,その分布圏は中通り(福島・ 郡山)と隣接する田村地域および出羽の米沢盆地にかかるゾーンに限られることから,伊達氏の支 配領域との関連が考えられ,近世1期まで存続するという〔飯村均・第1部2項〕。福島地域では瓦 製揺鉢も目立つようで,揺鉢の生産地は東北の各地に存在が見込まれ,根城では約20%が在地産揺 鉢と推定される(筆者算定)。 東部は,中世H期の在地須恵器系陶器は少量の狭域供給にとどまってい 調理・貯蔵具 たが,皿期には陸中の一連の姿器系陶器(宮城県伊豆沼・三木・白石 窯)と会津大戸陶器の流通圏が形成され,磐城南部にも小地域ごとに稼動していることが判明して きた。その供給圏は,水系,盆地などさまざまの小地域を舞台としており,史的背後事情の解明が 必要である。在地陶器の消費量は,生産地付近および中核港湾から離れた周辺では常滑製品と拮抗 あるいは凌駕するとみられる。これらの在地窯も14世紀後半には廃窯し,常滑窯単一の供給圏とし
[中世食器の地域性 総括]・・…吉岡康暢 て推移する。一方,西部はn期に米代川を北限とする狭域供給圏が連鎖した点は東部と同じだが, 中世皿・IV期には珠洲系窯は停廃して珠洲製品単一の流通圏となり, V期に越前製品がこれを継承 し,北海道から北東日本海域一円に供給圏を確立し,皿期のあり方と対照的である。 (3)関東・甲信 関東・甲信は,東海道ルートの関東南部と東山道ルートの関東北部および甲信に大別でき,さら に土師器・内耳土鍋の型式と中世後半の陶製・瓦製調理・貯蔵器の産地別量比を指標に,関東南部 は相模・南武蔵と房総,関東北部は上野・北武蔵と東北南部に連係する常陸・下野,甲信は北陸 (越後)に通ずる北信濃と関東,東海と結ばれる甲斐・南信濃に区分できよう。当地方の食器は, 食膳具=漆器+土師器+舶載陶磁+瀬戸美濃陶器(後半),煮炊具=内耳鉄鍋+内耳土鍋(後半), 調理・貯蔵具=移入国産陶器+在地瓦質土器の組成である。その特色は,中世前半の土製塊形食膳 器,煮炊器の欠落で東北と共通するが,①土師器の全期間全域での定量使用,②鎌倉における各種 土器・陶磁器の大量消費,西国産食器の搬入と拡散(皿期),③中世後半の土製煮炊具の普及(関 東南部は希薄),④調理・貯蔵具の東海産陶器への全面依存,⑤関東北部・北信濃を中心とする在 地瓦質調理・貯蔵具の狭域供給(皿期)と概括できる。 中世1期の様相が全体に不明瞭であるが,土師器R種の椀・杯・小皿の 組成に一部地域(上総など)では黒色土器も残るようである。また,甲 斐・中南信の1期には柱状高台皿が盛用される。この器種組成がn期に京都系土師器T種皿を受容 して急速に同化がすすみ,地域・遺跡ごとの量比差がみられるものの,T・R両種が併用されるよ うになるのは東国全体の状況である。ただ,房総では皿形器形への転換がみられないうえにT種が 認められず,R種地域として推移する点で特異である。以後の土師器の消長は,鎌倉のそれが13世 紀後半にR種に統一されるのをはじめ,東国全域でR種へ回帰するなかで,常陸のようにn期以来 T種が卓越し,客体的ながらIV期まで残る地域性も存する。皿期は, R・T種両型式とも鎌倉タイ プが関東・甲信の主流を占め,鎌倉の求心力の強さを反映しているが,上野・常陸のように在地色 の強い地域がみられるのは,当期の量的拡大再生産と消費膨張が,地域経済・文化の発達によって 支えられていたことの証と考えられるから,両国の相対的な自立性として評価できよう。鎌倉での 土師器消費量は,13世紀中葉からの100年間で2,160万個と試算されている〔斉木秀雄〕が,大量消 費の状況は臨海地(前浜)に集団居住区を開拓した下層町人も土師器を相当量消費しており,中国 陶磁の普及度とあわせ,都市的消費志向が直裁に反映している。 IV期は内耳土鍋・播鉢類の在地生産が高揚し,食器の地域性も一段と複雑な様相を呈するように なる。上野では土師器R種が東西でそれぞれ内湾する皿形と外反する杯形の分布圏が形成され,上 総では南武蔵・相模と共通する底の広い皿形と常陸・下野に近い深身の」不形が混用されている。こ うした小地域性と3法量ほどに分化する傾向は,V期に引きつがれるが,関東・甲信の杯形,厚手 のR種が大勢を占めるなかで,相模西辺の小田原城跡では京都系土師器皿の影響下に,薄手で体部 丸腰タイプの皿に転換し,T種が定量併用されている。この時期の京都系土師器は,東京都八王子 城など北関東まで点的に波及しているが,とくに後北条氏系城館で集中的に使用される状況は認め られないようである。こうした土師器皿のあり方は,基本的に近世1期へもち越されR種が一般的 で,江戸の大名屋敷ではT種が消費されている。
中国陶磁はIn期後半∼Iv期に出土量が大幅に減少し,一部瀬戸陶器が代替するようになるが, v 期には他地域同様,城館で中国陶磁が大量に消費されている。中国陶磁と瀬戸美濃陶器の補完関係 の推移を知るデータに恵まれないが,皿∼V期を通して瀬戸美濃陶器優位地域であり,それが関東・ 甲信内部で地域性を誘発する要因にはなっていないと思われる。 10世紀末ごろまでほぼ国を単位とする長甕・小甕型式が併立し,11世紀 代まで粗製,厚手の長甕が各地で少量みられるが,上野では須恵質長釜 が目立ち,別型式の土師製長釜は甲斐・信濃でも中世1期まで存続した。H・皿期には在地の土器 煮炊具は認められないが,鎌倉を核とする相模・東京湾岸域へは南勢鍋,肥前石鍋が搬入され,鎌 倉ではいずれも定量消費されている。IV期は西国に連動して関東・甲信一帯で内耳土鍋が出現し, V期まで盛用される。内耳土鍋には土師製(常陸・下野・甲斐・信濃)と瓦製(その他の諸国)が あり,関東北部では「常陸・下野型」,「上野・北武蔵型」,甲信では「甲斐・信濃型」の諸型式が 設定され,中地域区分の指標となる。これらは14世紀後半のうちに出現したとみられるが,普及は 15世紀前半である。ところが,関東北部・甲信に対し下総を除く関東南部は,在地の内耳土鍋が確 認される(上総)ものの出土量が少なく,南武蔵へは北武蔵・下総の製品が流入しているようであ る。しかも,相模・南武蔵・房総では南勢産と推定される土釜も少数併用され,きわだった中地域 色をみせている。内耳土鍋には当初から深身の鍋形と浅めの鉢形が存し,V期後半には例外なく焙 烙鍋に転じ,近世1期以降へ続く。 中世n期以降,東海・濃飛とともに東海産陶器(渥美・常滑・瀬戸美 調理・貯蔵具 濃)の一円流通圏として推移し,とくに中世前期はほぼ全面的に依存す る大地域を形成した。しかし皿期には,関東北部と北信で瓦製甕・壼・揺鉢,木曽川中流域(岐阜 おひなた県中津川窯)と南比企丘陵(埼玉県大日向窯)に狭域向けの姿器系陶器窯が稼動し,全体に東北東 部より低調ながら在地の土器生産が一定の発達をみせ,多様な小地域性を現出している。そして, 常滑窯が貯蔵具主体の集約生産体制に移行するW・V期には,瀬戸美濃産食膳・調理具が広範に消 費されるとともに,在地窯は貯蔵具生産を停め,関東北部・甲信を中心に瓦質ないし土師質の調理・ 煮炊具と一部で暖房具(火鉢)・宗教具(香炉・花瓶)・喫茶具(茶釜・風炉)などの生産へ移行 した。 このうち,関東北部で点的に出土する常滑と東播製品の折衷的模倣を思わせる瓦製に近い須恵器 甕・壼と,大日向窯については実態未詳であるが,東北東部のごとく常滑製品に拮抗する供給量を 保持した形跡はない。ただ,利根川を挟む上野南東部∼下野南西部と北武蔵に狭域流通した別型式 の瓦質土器(壼・播鉢主体)は,内耳土器と別の地域圏を形成する。また,北・中信は皿期に日本 海域の珠洲陶器流通圏に組みこまれ,一方南信は常滑製品に代わって東濃の中津川製品が播鉢を主 体に供給され,顕著な小地域性をみせる。加えて佐久平・松本平あたりを南限とする北・中信では, 珠洲写しの瓦製播鉢が併用され,IV期以後の在地生産の第2段階に連なる地域性を準備している。 (4)東海・濃飛 東海は,東海道ルートの東海沿海域と東山道ルートの中部高地西半に大別でき,さらに土師器・ 内耳鍋の型式と煮炊器の定量比,中世前期には姿器系食膳具(山茶塊皿)および調理・貯蔵具の産 地構成を指標に,東部(東遠江),西部(西遠江・三河・尾張),南部(伊勢),北部(美濃・飛騨)
[中世食器の地域性 総括]一…吉岡康暢 に区分でき,全体に西国と東国の緩衝地帯ないし東国への入口地帯として位置づけられる。本地方 の食器は,食膳具=漆器+舶載陶磁+国産陶器(姿器系→瀬戸美濃陶器),煮炊具=内耳?鉄鍋+ 土鍋(後期は+内耳土鍋・釜),調理・貯蔵具=国産陶器の組成をとる。その特色は,①中世前期 の陶製塊皿の多量使用,②土師器皿の相対的な少なさと後期の城館での大量消費,③前期の中国陶 磁出土量比の低さと後半の瀬戸美濃陶器の優勢,④主として前期の土製煮炊器(南勢鍋・釜)の中 流通,後半の内耳土鍋の地域性,⑤姿器系陶器(瀬戸・渥美・湖西・常滑・東濃・東遠)の広・狭 域向け調理・貯蔵具の単一流通(土師・瓦製品不在)と概括できる。 古代の灰粕陶器主流地帯にあって傍流であった土師器R種椀・杯・小皿 と黒色土器椀(伊勢)の系譜が,中世n期に京都系土師器の影響下にT 種皿形へ転化するのは東国共通の事象であるが,東遠江はR種の量比が高く,以西はすべて中世を 通してT種主体で推移する。H・皿期の土師器の消費量は中枢的な寺社(伊勢・熱田神宮など)で 大量使用されるのに対し,一般村落では食器総量の2∼3%にとどまるようである。この傾向はV 期の城館(岐阜城・清洲城など)でも顕著で,再度京都系に同調し80∼90%の量比を占め,きわめ て遺跡格差の大きい使用状況がうかがえる。また,陶製食膳具は,各生産地で灰粕陶器からの連続 的な変化が辿れ,13世紀中葉まで70%を超える遺跡がめずらしくないが,14世紀初葉までに瀬戸と 東濃窯以外の窯跡で生産を停止する。両窯の製品,とくに後窯の製品は高台を喪失し,低平・小形 化しつつ東海西部に供給圏を確保するものの消費量は激減し,食膳具としての実態を失いつつある 状況がうかがえる。IV・V期には,瀬戸美濃灰粕平塊・小皿・天目塊→丸椀・丸皿・天目境が量産 され,前期の陶製椀を代替する供給量は確保されておらず,機能面での連続性を疑問視する意見が あるが,品質格差二価格差から生じる使用頻度の違いを考慮すれば,消費層の問題は残るものの, 同一の機能とみてよい。 中世1期までいわゆる清郷タイプの長i甕,伊勢では長甕と中世につづく 球胴甕があり,後者は1期に南勢鍋として定型化される。n期には常滑 陶器鍋・釜も若干出土している。南勢鍋は伊勢で多量使用されるとともに,東海各地と鎌倉へ定量 移出されたが,美濃・飛騨では関東なみに出土量が僅少で,在地で内耳土鍋も生産されたようであ るが,土製煮炊具希薄地域のまま推移する。南勢鍋の供給量は田期後半に急激し,IV期には東海か ら関東南部の沿海域に南勢産とみられる土釜が少量出土するようになる。鍋同様口縁に2孔1対の 吊り孔が焼成後穿たれた個体が多いことが指摘されている。この段階では瀬戸産灰粕内耳鍋・釜も みられるが,生産量は限られている。IV期後半∼V期に普及する内耳土鍋は,「遠江型」「尾張型」 が定量使用されたが,消費量は下総を含む関東北部・甲信に及ばない。当期には尾張を中心に大形 土釜も少量ながら見出され,茶釜も出土する。V期後半に内耳土鍋が焙烙化するのは他地域同様で ある。調理・貯蔵具に瓦製品がまったく存しないのは,20ヵ所以上にのぼる大小の陶器生産地が稼 動した東海の特色であり,陶器の流通圏の流動は食膳具を含め東海内部の小地域性を規定する重要 な指標となるので,狭域窯製品の流通圏の解明に期待をつなぎたい。 (5)北 陸 北陸は,北陸西部(越前・加賀・能登・越中)と東部(越後)に大別でき,さらに土師器の型式 と量比,在地陶製・瓦製調理・貯蔵具のあり方を指標に,畿内周辺に接する越前・加賀,富山湾の
一衣帯水地帯をなす能登・越中,北信・関東北部(上野)と出羽に連結する越後に区分できよう。 当地方の食器は,食膳具=漆器+土師器+舶載磁器+瀬戸美濃陶器(後期),煮炊具=鉄鍋(+前 期に一部土鍋少量),調理・貯蔵具=国産陶器(後期に一部で瓦製調理器)の組成である。その特 色は,①土師器の相当ないし定量使用,②中国陶磁消費量の高さ,③土製煮炊具の欠落,④須恵器 系(珠洲)→姿器系(越前)広域窯の東日本海全域への供給と前期の須恵器・盗器両系狭域窯の稼 動と概括できる。食器の枠組みは東国に帰属するが,組成は全体に単一で,①京都系土師器の一円 的な二次波及は西国に通じ,②∼④は関東・甲信,東海・濃飛と異なり,東北西部に連接する日本 海域ゾーンを形成している。 古代までの土師器・黒色土器塊・杯・小皿の組成は,中世1期に柱状高 台皿,東部で東国系とみられる有台皿や磁器写しの小皿が加わって多器 種化するが,n期に京都系土師器の本格的な洗礼をうけ, T種が段階的に定着し,地域性が均一化 され皿(大小)の組成に転ずる。土師器皿の量比は中世前期の加賀では90%代を示し,以東では西 高東低であるが,越中で京都系皿の導入段階のT種はほぼ拠点遺跡に限られるという。皿期には在 地化と地域化がすすみ,T・R両種が併用された越後では,西部,中央,北部で, A頸城, B刈羽・ 三島,C阿賀北タイプが設定されている。 Bは鎌倉タイプに同定でき,北部は出土量の僅少さに加 えT種箆切り底タイプで占められるなど,固有の小地域性を保持している。 IV期は3法量に分化し,小形皿の灯明具としての使用例が急増するとともに,城館と一般村落で の消費量の格差が顕現する。また,地域偏差も表面化し,当期の越後は上野型式のR種で斉一化が 図られ,その趨勢は越中に及び東部で関東色が濃厚となる。V期は越後北辺を含む北陸全域が再度 京都系の影響下に入り,西部の城館では福井県一乗谷朝倉氏遺跡に代表される大量消費がみられる が,朝倉氏館で90%以上を占め,越中の城館では灯明皿の使用例が目立つ。T・R両種が併用され た越後では,北部で出土量が極端に低いが(岩船郡牧目館で3%),以後近世1期へ段階的にR種 へ回帰することが知られている。 中国陶磁は,西部の拠点遺跡では11世紀後半から白磁が定量出土し普及率の高さを示し,以後も 遺跡の格差を示す指標となるが,IV期以降,瀬戸美濃陶器の流入後も石川県西川島遺跡(中国陶磁 1対瀬戸美濃陶器1.2)のような村落部のデータがあるものの,IV・V期の港湾・城館では,中国 陶磁2.5対瀬戸美濃陶器1ていどの比率で中国陶磁卓越地帯として推移しており,東国の太平洋域 と対照的である。 須恵器成形技法で作られた古代の土師器長i甕・小甕は,9世紀後半以降 段階的に減少し,中世1期のうちに消失する。以後n・皿期に加賀で土 鍋が若干出土し,珠洲窯で鍋釜が焼成されるとともに,肥前石鍋と畿内系の瓦製鍋釜が,IV期に越 後で内耳土鍋が点的に出土するていどで,在地製品は皆無に近くほぼ完全な鉄鍋地帯であった。 中世1期に在地の須恵器や産地未詳の甕が寄せ集めで消費される不安定 調理・貯蔵具 な状況から,東日本海全域がH∼IV期に珠洲, V期後半から越前のほぼ 単一の流通圏となり,東太平洋域とともに東国的な調理・貯蔵具のあり方を示す。在地の狭域窯は, 南加賀で皿期の陶器組成の過半を占めた以外は,越中(八尾窯)・越後(北越窯)の須恵器・姿器 系窯とも量比は僅少で,IV・V期に越中以東でみられる瓦製播鉢の供給も,珠洲・越前陶器の一部
[中世食器の地域性 総括]・・…吉岡康暢 補完にとどまった。 (6)畿内周辺 畿内と周辺は,土製食膳具,煮炊具を指標に東北部と南西部に大別され,さらに東北部は東部 (山城・近江)と北部(若狭?・丹波・丹後),南西部は西部(和泉・河内・摂津)と南部(大和・ 伊賀・紀伊)に区分できよう。ただ,土師器皿に具象される京都の求心性と,瓦器椀,釜鍋の流通 を介する地域間の相互交流によって食器圏が複合し,複雑な地域相をみせている。当地方の食器は, 食膳具=漆器+瓦器(一部黒色土器)・土師器+舶載陶磁(後期は+瀬戸美濃陶器),煮炊具=鉄 鍋+土釜・鍋,調理・貯蔵具=国産陶器+瓦器(後期)の組成である。その特色は,①古代後皿期 以来の京都系土師器圏の形成,②京都を除く瓦器椀の盛用と地域型の競立,③釜主体の土製煮炊器 の定量消費と地域型の併存,④移入陶製調理・貯蔵具の供給と在地瓦器の発達と概括できる。 古代の土師器・黒色土器塊・杯・小皿の組成が,中世1期に大局的に瓦 器塊(小皿)+土師器皿へ転化し,基本セットを構成する。また須恵器 の生産地は,播磨西部(相生窯ほか),備後(沼隈窯)などにも存したが,12世紀前半代のうちに 淘汰され,東播(三木・神出→魚住窯)と備前,備中(亀山窯)が特産地化した。瓦器塊は,河内 (楠葉)・大和・和泉で先発し,それぞれの影響下に丹波と紀伊・伊賀・近江(蒲生郡)で独自の 型式を成立させている。周縁の近江(野洲郡)と丹波・丹後では黒色土器で代替したが,本地方の ほぼ全域が瓦器境圏を形成するなかで,京都のみ使用量が著しく低い。楠葉型と和泉型はそれぞれ 1・n期前半と1・皿期前半を中心に畿内でも国域を越え,さらに瀬戸内へ拠点的,四国へ面的に 供給され,西日本における中世的食器の指標となる瓦器椀,土師器塊の成立を主導した。13世紀後 半代に急速に小形・粗質化して多くは皿形の器形に転じ,14世紀半ばごろ一斉に消滅する。 土師器皿は京都系を軸に展開し,14世紀半ばで平安様式系列は止揚され,13世紀に出現した別系 列(産地)の」不形白色土器と交代し,15世紀初めには3,4法量に分化して皿形となり,近世1期 以降も存続する。京都系土師器は,古代後皿期から中世1期のうちに畿内から周辺国へ拡大し,12 世紀中葉と15世紀末葉に再度列島規模で波及するが,n期の直接的な影響が西は播磨,東は東国一 円をとりこんで進展したのに対し,V期は九州を除く西国のほぼ全域に及び,東は日本海域で越後, 太平洋域では相模西辺にとどまった。畿内周辺でも近江は京都系の忠実な模作で終始し,大和と中 世皿期までR種が残った紀伊は,1・H期には京都系を模倣しながら皿・IV期に一時的に在地色を 強めており,河内・和泉は在地独自の型式が主体をなした地域である。また,伊賀では中世1期ま で,西摂では前期にはR種杯皿,西近江でもR種皿が併用された。こうした趨勢も,瓦器椀が消滅 する後期には京都系皿の範型におさまる斉一化が進行し,地域色は喪失の方向を辿った。 舶載陶磁は,都市部を除けば1∼3%ていどの出土量にとどまる。中世後期には,瀬戸美濃塊皿 類も少量ながら広範に供給され,舶載陶磁と拮抗する遺跡もあるが,とくにV期の城館・寺院や都 市部では,舶載陶磁5∼8対瀬戸美濃陶器1ていどで,舶載陶磁が卓越しているようである。 古代の球胴甕と摂津・河内・和泉・大和などで固有の型式が辿れる球胴 釜が,ほぼ中世1期のうちに定型化するとともに,周辺諸国での派生型 式を誘発して展開し,両者が併用された京都・近江以外の諸国での土釜主流の煮炊具組成が本地方 の大きな特色である。大和では土鍋もみられるが大和型土釜の伝統を墨守し,河内・和泉は土釜の
みを使用したが,鍔の位置が胴部最大径より上部にあり鍋と機能上の差異は認めにくい。種々の属 性を具備した土釜の型式・系譜が比較的明瞭なのに対し,土鍋の型式設定は容易でないが,山城型 と共通の特徴をもつ受口口縁タイプのバリエーションが畿内北部から日本海側に広く認められる。 なお,西摂は本地方に含めてあるが,前期は播磨系,後期は河内・和泉系鍋を使用している。土 釜・鍋の出土量も地域によって一様でなく,河内・和泉と大和でもっとも多量に消費されたようで, 他の諸国では土釜・鍋とも定量存するが,京都での比率は低く,丹波・丹後で少ないのは日本海域 通有の事象のようである。土釜・鍋とも瓦器椀ほどでないが国域を越えて供給されており,V期の 大和型釜が京阪を中心に摂河泉まで流通するのは顕著な事例である。全体にIVないしV期に型式が 交代ないし更新され,16世紀後半には出土量が急減し,鍋形から焙烙形へ転じて近世を迎えている。 前期は東播甕・壼・播鉢が主流を占めるが,京都と瀬戸内沿海で十瓶山 調理・貯蔵具 製品も少量見出される。中世n期以降,東部(京都・山城・近江)を中 心に常滑甕が流入し,皿期には常滑貯蔵器+東播(魚住)調理器が西国の基本セットとなる。北近 江・丹後へは越前陶器も移入されている。後期には東・北部が搬入陶器への依存度が高かったのと 対照的に,西・南部で瓦製調理・貯蔵具,大和で暖房・喫茶・宗教・灯明具も生産された。河内・ 和泉では,13世紀後半に土釜とともに東播写しの瓦器甕が出現し,14世紀末ごろから播鉢も量産さ れ16世紀にかけて独自の小地域圏をなし,甕は近世の湊焼に引きつがれてゆく。大和では瓦器境消 滅後,多様な瓦器を生産し,大和火鉢が列島規模で流通したことはよく知られている。紀伊にも在 地の瓦器播鉢が存在するようである。 後期の西国に一円流通する備前甕・壼・播鉢は,京都や紀伊で定量出土し重点的な供給状況をう かがわせるが,全般に15世紀にやや目立ち,16世紀には大量流通し,瓦器生産地域では重層的な消 費形態をとったと考えられる。16世紀には西部で丹波,東部で信楽i甕・壼・播鉢が瓦製調理・貯蔵 具を駆逐してゆく。 (7)山 陽 土・陶製食膳・煮炊具の型式と在地の陶製・瓦製調理・貯蔵具のあり方を指標に,東部(播磨・ 東備前・美作)と中・西部に(西備前以西)に大別され,東部はさらに東播磨と北・西播磨,中・ 西部は中部(西備前・備中・備後),西部(安芸と周防・長門)に区分できよう。当地方の食器は, 食膳具=漆器+須恵器+土師器+瓦器(移入,一部)+舶載陶磁,煮炊具二鉄鍋+土鍋・釜,調理・ 貯蔵具=国産陶器+瓦器(後期)の組成である。その特色は,①中・西部は中世前期の京都系土師 器の圏外,②紐漉櫨成形技法による須恵器・土師器椀の地域型の連鎖,③畿内と対照的に土師・瓦 製土鍋の多用と地域型の発達,④東部で陶製調理・貯蔵具専用地域の顕在と中・西部で瓦製調理器 の盛行と概括できる。 古代の須恵器・土師器・黒色土器塊・杯・小皿の組成が,中世1期に単 純化しつつ定型化され,東部で播磨(東播)・備前・美作(勝間田)型 の須恵器椀・小皿,中部で畿内瓦器塊に触発された吉備型土師器塊と杯・小皿(ヘラ切底),西部 で在来の伝統を保持しつつ改組した防長型土師器境(無高台)・杯・小皿(ヘラ切底)へ移行する。 畿内周辺との差異は,瓦器と須恵器・土師器という器質差にとどまらず,聴櫨成形技法をベースに 塊・杯・小皿の器種組成を保持する在地性の濃厚な食器圏を形成した。塊形食膳具の終末は,東部
[中世食器の地域性 総括]一・・吉岡康暢 の須恵器がほぼn期,中・西部では安芸がもっとも早いようで,防長も13世紀代のうちに消滅し, 吉備型のみ14世紀代まで存続する。 中世後期は,上記の土師器セットが3,4法量の皿形に統一され,京都系土師器の挙動に基本的 に連動するが,東部が前半に引きつづきほぼ忠実な模作に終始したのに対し,中・西部はR・T両 種が併用されたが,16世紀後半の防長をはじめとする城館では真正の京都系がみられる。舶載陶磁 の量比は畿内に準じ,草戸千軒遺跡でも1∼2%ていどにとどまる。瀬戸美濃陶器は,前期には瓶 子・卸皿,後期に天目椀・小皿・折縁盤・仏器などが点在するにすぎない。 食膳具の地域性に対応し,古代の球胴甕をベースに各地域で独自の土鍋 型式が創出された。たとえば播磨では,中世皿期に叩き成形の鍋・釜が 定型化され,V期に器形を更新し,後半には近隣の諸国へ移出された。一部山城系の土釜も併用さ れたが,叩き成形に須恵器卓越地域の特色がみられ,n期には須恵器生産地の小形閉塞窯で土師器 釜が専焼されている(明石市魚住40号窯など)。中部は瓦製・土師製のくの字・受け口縁鍋(一部 足鍋,安芸型土釜)が使用され,V期には,亀山産の瓦製くの字口縁鍋に交代し,内耳鍋・把手付 鍋・茶釜などが広汎に消費され,近世1期まで少量出土する。西部のうち安芸は特異で在地産土釜 で推移し,防長はH期から近世1期まで瓦製足鍋を主体としくの字口縁鍋と併用され,後期には体 部叩き成形を採用し,V期には瓦製揺鉢とともに筑前・豊前から肥前東部の沿海部に流通している。 ら ここでも16世紀には内耳鍋を含む複数型式の土製煮炊具や茶釜など多器種が生産された。 中世n期は東播揺鉢が目立つが,備前東部以外でも常滑・備前甕が定量 調理・貯蔵具 消費され,中部(福山市草戸千軒遺跡)は皿期には常滑・備前・亀山貯 蔵器がほぼ等量で,東播(魚住)・備前調理器とセットをなして供給されている。美作と伯香・因 幡は中国山地を越えて勝間田製品の流通圏となったが,皿期には自給的生産に転じ,IV期以降在地 瓦製品へ移行するようである。後期には備前陶器が段階的に普及するが,中部の調理器は亀山など の在地製品が優勢で,V期には備前甕+亀山揺鉢が主体となる。美作・防長でも皿∼V期に播鉢を はじめとする瓦製品が常に定量を占め,西国に共通する広域用陶器と狭域用瓦製品の共存がみられ た。 (8)四 国 四国は,畿内との交渉を基調とする一方で,山陽とも緊密に結びついているため,四国それぞれ の地域性が認められるが,移入食膳器と在地食膳・煮炊器のあり方を指標に,独自色の強い讃岐と 畿内西部・山陽中部に連係する阿波・伊予とこれに準ずる土佐に区分できよう。讃岐には古代須恵 器窯が発展した十瓶山窯が稼動して中世前期の広域窯の一翼を担い,土師器・黒色土器・瓦器とと もに多彩な食膳具で構成されたのに対し,他の三国,とくに阿波・伊予は在地の土製食膳・煮炊具 が発達したとはいえ,塊形食膳具は移入品への依存が高い点で共通する。本地方の食器は,食膳具 =漆器+土師器・瓦器・黒色土器+舶載陶磁,煮炊具=鉄鍋+土鍋・釜,調理・貯蔵具=国産陶器 +瓦器(後期)の組成である。その特色は,①大勢的に京都系土師器の圏外,②定量移入された畿 内産瓦器椀(楠葉型少量,和泉型主)および山陽産土師器椀(吉備型)+在地土師器杯・小皿が基 本組成,③くの字口縁土鍋の地域型の発達(足釜,一部で土釜併用),④移入陶製調理・貯蔵具を 補完する在地土器の弱体と須恵器特産地(讃岐・十瓶山窯)の存在と概括できる。
古代後皿期の須恵器・土師器・黒色土器椀・杯・小皿の組成が,中世1 期に単純化し各国で顕著な地域差をみせずに定型化される。しかし,12 世紀後半を画期とする和泉型瓦器椀,ついで吉備型土師器椀の流入が加わって,在地製品は大幅に 減少する。ただ,須恵器特産地を擁する讃岐では,その系譜を引く瓦器塊(西村タイプ)が普及し, 13世紀にかけて在地の土師器・黒色土器椀と和泉型瓦器境が競用される複雑な様相を呈した。なお 阿波東部では,十瓶山系須恵器と在地瓦器境の存在が知られている。 上記の在地食膳具は,14世紀以降,中部土佐のごとく土師器皿T種が伝播する小地域を内包する が,ほぼ纏櫨成形品で中世1期に生起した土師器の底部切り離し技法の変化は,糸切り→箆切り→ 糸切り+箆切り(讃岐,中讃は箆切りのみ),糸切りのまま(阿波),糸切り+箆切り→糸切り(伊 予),箆切り→糸切り(土佐)の地域性が認められる。中世後期の土師器は皿形主体に転換するが, 阿波および16世紀前半に京都系土師器皿が多用された土佐では,深身の杯(大小)が併用されるな ど,在地色の強い器種が作られた。 古代の球胴甕や摂津型釜は,中世H期にはくの字口縁土鍋主体示向で統 合され,後期には多様な地域的展開を遂げる。n∼V期にかけて量比差 があるものの足釜が定量消費され(阿波は皿期のみ),和泉型釜も瓦器塊に随伴して各国へ流入し ている。阿波では皿1・IV期に京都系土釜がみられ, IV・V期には体部叩き成形による固有型式の土 鍋・釜が流布し,讃岐・土佐でも独自の土鍋型式へ発展している。 十瓶山産の甕・壼・揺鉢は,四国でも讃岐以外は出土量が少ないようで, 調理・貯蔵具 京都と大宰府を結ぶ畿内・瀬戸内での点的な出土にとどまっている。本 地方の調理・貯蔵具は,大局的に西国に共通し,中世1期を画期とする東播甕・揺鉢から,皿期の 常滑甕+東播播鉢セットへ移行し,これに亀山・備前が加わる組成であるが,段階的な量比の変化 は明瞭でない。後期は,備前が15世紀以降目立つようになり,16世紀には調理・貯蔵具の主体を占 める。一方,讃岐ではIV期に土師・瓦質折衷の甕・播鉢・鍋・足釜を共焼した在地窯(綾歌郡国分 寺町楠井窯)が稼動し,阿波でも東播や備前写しの瓦製揺鉢が存するが,全般に山陽ほど在地製品 の比重は大きくなかったようである。中国陶磁の量比は畿内・山陽に準じ,後期の瀬戸美濃陶器も 散発的である。 (9)山 陰 山陰は,土製食膳・煮炊具と移入陶器および在地瓦器調理・貯蔵器を指標に,東部(因幡・伯 書)と西部(出雲・石見)に大別できる。本地方の食器は,食膳具=漆器+土師器+舶載陶磁(後 期は+瀬戸美濃陶器),煮炊具=鉄鍋+土鍋・釜,調理・貯蔵具=国産陶器・瓦器の組成である。 その特色は,①京都系土師器の一定の影響,②柱状高台皿の多用と土師器無高台椀・小皿セットで の推移,③土製煮炊具(土師器土鍋主体)消費量の低さ,④東海・山陽産調理・貯蔵器の移入と在 地須恵器・瓦器の併用と概括できる。 古代の土師器・須恵器塊・」不・小皿は中世1期に土師器のみに淘汰され るが,組成は新たな柱状高台を加え遺存する。n期には在来の土師器R 種に京都系土師器T種が定量伴い,それに誘発され椀(杯)+小皿の組成が成立する。京都系土師 器の受容,無高台椀と柱状高台皿の多用は,日本海域に通ずる要素といえる。土師器はIV期に皿型
[中世食器の地域性 総括]・…・・吉岡康暢 化するが,V期には京都系土師器が二次的に波及し,在地のR種皿との量比は遺跡によるばらつき がみられるものの,相当量を占めている。瓦器塊は和泉型が点在するていどである。 舶載陶磁は平均的に山陽・四国と大差ないようであるが,瀬戸美濃陶器は相対的に出土量が多い。 古代から中世への転換相が不分明であるが,中世H期には定型化を完了 するようで,伯因と石雲では様相が異なる。伯因では畿内系の受口口縁 土鍋,山城系瓦製土釜と在地独自のくの字口縁土鍋が併用され,畿内系の2器種が後半までつづく。 対する石雲は,くの字口縁土鍋を主,受ロロ縁土鍋を従とし,後期には前者が在地色の強い型式へ 発展するが,在地の土釜は見当たらないようである。西部へは山陽産足釜・鍋が少数流入している。 全体に土製煮炊具の出土量が少ないのは,日本海域に通有の事象といえる。 中世前期には,東播甕・壷・播鉢と常滑甕が移入されているが,伯因へ 調理・貯蔵具 は美作・勝間田産調理・貯蔵具の供給が目立つ。出雲と伯因では,亀山 系瓦製貯蔵器がかなり出土しており,在地で鍋・釜・足釜を併焼していたとみられる(松江市別所 遺跡)。本地方も在地製品の比重がかなり高いようであるが,実態は詳らかでない。因幡の沿海部 では越前陶器が出土し,日本海域の地域間相互交渉がうかがえる。 (10)九 州 九州は,主として煮炊具を指標に,北部(筑後・東肥前),東部(豊前・豊後・日向),西部(西 肥前),南部(肥後・大隅・薩摩)に区分できよう。当地方の食器は,食膳具=漆器+土師器・瓦 器+舶載陶磁,煮炊具=鉄鍋+土鍋(釜),調理・貯蔵具=国産陶器+土師器・瓦器+舶載陶磁の 組成である。その特色は,中世n期を画期とする大宰府系R種土師器による一定の斉一性,当地固 有の土師器と一体的な瓦器の地域型の競存,②大宰府・博多を核とする中国陶磁食膳・調理・貯蔵 器の卓越,③中世前期の土鍋,石鍋圏,後期の移入品を含む外(内)耳土鍋地域の顕在,④在地の 煮炊・調理器生産の早期稼動と多様な小地域型の発達,⑤狭域向け須恵器生産地の存続(前期)と 概括できる。 古代の土師器・黒色土器(一部須恵器)塊・杯・小皿の組成が,筑前固 有の底部押出し技法の普及や箆切り底から糸切り底への技法の転換に地 域偏差(東部10世紀後半∼11世紀後半,北・西部12世紀中葉)を孕みながら中世1期まで遺存する が,11世紀末には土師器椀と器形・技法を共有する瓦器境が筑前・豊前・肥後に出現する。n期に は国単位の地域性が希薄化し,土師器境は消滅し皿形(大小)に統合されるとともに,舶載陶磁の 供給量が少ない地域では,瓦器椀が皿期まで存続するとされる。ただし,日向では杯・小皿のセッ トが1∼IV期までつづきV期に皿形に転ずるが, IV期には箆切り底が復活(西都市以南では糸切り 底と併存)するなど在地色が濃厚である。V期には豊後をはじめ各地で京都系皿T種が受容されて いる。肥後には須恵器系の下り山窯(球磨郡錦町,12世紀前半)が存在し,白磁模倣の玉縁塊を含 む食膳具が定数焼成されているが,消費地では確認されていない。 中国陶磁器が一貫して食膳具で高い比重を占めるが,瀬戸美濃陶器は九州全域で散見にとどまる。 束・南部は不分明であるが,古代の球胴甕を主,球胴釜を従とする煮炊 具は,中世1期に若干の地域差をもって土鍋へ転換し,H期には地域型 として定着する。北部では,中世前期に口縁端に刻目・縄目を押圧するL字口縁鍋が肥後北部まで
分布圏を広げた。後期には15世紀代まで深身の玉縁口縁鍋が多用され16世紀後半には外耳鍋が主体 をなし,その系譜を引く深身素縁の瓦製丸鍋,近世1期につづく中国鉄鍋に近似した浅鉢形鍋も併 用されている。くの字口縁鍋が主流で,14世紀前半から在地の別型式へ転じ近世1期まで存続する など,中域・狭域の地域性が顕著である。また,西肥前は11∼15世紀を通して西彼杵半島産の石鍋 圏であって,前期には北・西部,肥後でも定量出土し,大宰府では土鍋より出土量が多いという。 IV期以降は自給的供給にとどまり, V期には筑前・東肥前の玄海灘一帯から西肥前には周防型足鍋 が流布し,肥後中心の外耳鍋圏と併立した。 中世1・n期は,東播甕・壼・揺鉢が主流に,常滑,十瓶山などの製品 調理・貯蔵具 も少量移入され,とくに北部では中国黄褐粕壼・播鉢(一部朝鮮陶器) の使用が目立ち,遺跡・地域別の量比差を考慮しても九州の一円的な特色といえる。皿期は西国共 通の常滑甕・壼+東播播鉢が広域流通したが,北部と肥後では13世紀前半から在地の揺鉢(肥前で は皿期に茶釜)が出現し,皿期には在地の生産体制が確立する。樺万丈窯(荒尾市)では播鉢・鍋・ 釜から甕・壼・摺鉢生産へ移行するようで,肥後・豊前などでは常滑・東播・備前製品は劣勢であ る。後期には煮炊器を含め土師製から瓦製に転ずるが,東・南部でも一国で複数産地の卸し目を有 する瓦・土師製播鉢が茶釜・把手付鍋・火鉢・風炉・花瓶・香炉などとともに生産された。このた め,15世紀代の備前甕・播鉢は少量で,普遍的な流通は16世紀に下る。後半も中国貯蔵器,少量な がら朝鮮・タイ陶器が国産陶器を補完している。 (11)沖縄・南西諸島 沖縄・南西諸島は,政治・文化的に列島と異相の大地域をなし,別個の食器および食習俗圏を形 成した。当地は通常,トカラ・沖縄・先島諸島に大別され,地域区分は在地土器(グスク土器)を 指標に具体的な検証がすすめられているが,移入食器への依存度が高まる中世(グスク時代)は総 体的に斉一性を強めているので,包括的に要約する。当地の食器は,食膳具=土器+舶載陶磁(+ 漆器?),煮炊具=鉄鍋+土鍋・釜,調理・貯蔵具=在地須恵器(前期)+舶載陶磁+移入国産陶 器(後期)の組成である。その特色は,土製食膳・煮炊器(グスク土器)の一体生産と供給,②中 国陶磁食膳・貯蔵具の比重の高さ(後期),③土器主体(前期)の多器種な煮炊器の使い分け,④ カムイ 須恵器貯蔵器(徳之島町亀窯産),石釜(前期),中国陶磁,備前陶器(後期)の一円流通に在地 製品の欠落と概括できる。グスク土器は10∼11世紀に定型化され,洪武5年(1372)の対明進貢貿 易を契機とする中国陶磁と鉄釜の移入によって消滅に向かうとされるが〔安里進〕,それ以前の私 貿易の展開をも考慮した消長の確定が必要であろう。また,グスクの食器組成は列島の城館主層に 近似し,一般遺跡と異なることは十分予想できるが,データに恵まれない。 土製椀(大小)が主体で,有台境・玉縁椀はまれである。須恵器境(亀 焼)にもグスク土器と器形・法量が同じ塊があるが,消費地では目立た ないようである。後期に城館主層が中国陶磁を集中的に所有するのは列島中央,北方と変わらない が,民間への普及度は不透明である。 くの字口縁平底甕,内湾口縁鉢,くの字口縁鍋,石鍋写しの内湾口縁釜 に分類されており,稲福上御願遺跡・糸数グスク出土グスク土器の量比 は,食膳器10∼20%,煮炊器40∼50%,貯蔵器20∼40%ほどである〔安里進〕,後期には鉄鍋に置
[中世食器の地域性 総括]……吉岡康暢 換されると推定される。グスクで畿内・山陽の土鍋・釜がまれに出土する。 亀焼窯では揺鉢は少なく,消費地でもほとんど出土しないようである。 調理・貯蔵具 IV期後半からV期に備前揺鉢が定量流通しており,薩摩でも出土してい る叩き石・石皿も存するので,列島とは量的に大きな懸隔があるが,粉食加工は行われている。貯 蔵具は中世前期は大甕・中小壼など亀焼製の多様な貯蔵器と土製小壼,後期は中国陶磁と備前陶器 が定量存するようである。 註 (1)一橋本久和「中世土器の地域色と流通」『考古学 研究』26−4(1980),菅原正明「畿内における土釜の製 作と流通」『文化財論叢』(1983)などの先行文献がある。 (2)一森 隆「中世土器の生産にみる地域型の提唱と 工人集団の系譜について一西日本の土器塊生産を中心に 一」『中近世土器の基礎研究』珊(1992)ほか。 (3)一この点は筆者も中世窯業生産の一特質として指 摘してきた(『中世須恵器の研究』1994,16頁以下)。 補注 11地方の記述にあたっては,第1部の各項および 下記文献をはじめとする個別論文・報告書を参考にした が,文献の大部分が各項で列挙されており,再度引用す る煩雑さを避けるため割愛させていただいた。 (4)一鋤柄俊夫「畿内における古代末から中世の土器 一模倣系土器生産の展開一」『中近世土器の基礎研究』 IV(1988),同「平安京出土土師器の諸問題」『平安京出 土土器の研究』(1994)ほか。 (5)一「アイヌ」は,一般に近世以降の北海道の住民 をさす用語として用いられている。しかし,旧石器併行 期以降,北部のオホーック人を除けば固有の形質的特徴 を保持しており,列島中央(「和州」)および北方隣接圏 との経済・文化交渉を介して,生活様式を変容させつつ 民族文化が段階的に創造された点を重視すれば,将来ア イヌ独自の時代指標で冠名されるまでの期間,列島中央 の時代区分との対応関係を軸に,擦文アイヌ時代一中世 アイヌ時代一近世アイヌ時代ととりあえず仮称するのが 妥当視される。 日本中世土器研究会 『中近世土器の基礎研究』1∼XI (1985∼96) 同 『概説 中世の土器・陶磁器』(1995) 日本貿易陶磁研究会 『貿易陶磁研究』1∼16(1981∼96) 東国土器研究会 陳国土器研究』1(1988) 北陸中世土器研究会 『北陸の土器・陶磁器・漆器』な ど研究会資料集(1988∼94)