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春山行夫の詩的認識をめぐって(一)

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はじめに 前稿(本誌第八八号)ではいわゆる「新精神」という概 念について考察した。具体的には、パリにおいて一九一七 (大正六) 年に講演 「新精神と詩人たち」 を行うことによっ てそれが世に広まる端緒となったアポリネールの言説を軸 に、そのもともとの起源が講演に遡ること四年前、アメリ カで開催された国際現代美術展アーモリー・ショウで使用 さ れ た エ ン ブ レ ム の「 THE NEW SPIRIT 」 に あ る こ と を 確認し、それが当時最新の欧米の絵画や塑像など視覚的な 芸術作品を対象としたものであり、本来は詩の領域に限定 されぬものに対する評価であったことを確認し、それにあ わせてフランスを中心としたモデルニスムおよび後続のパ リ・ダダ、シュルレアリスム周辺を含めてその概念の検討 をおこなった。 また、 日本においてその「新精神」は、 雑誌「詩と詩論」 を中心とした現象に対して、周囲からの、いわば後付けの かたちで適用されてゆく、という杉浦静による綿密な日本 語の資料調査を経た見立て (「解説」 杉浦静 『レスプリ ・ ヌー ヴォーの展開』 二〇一〇 (平成二二) 年八月   ゆまに書房) を紹介した。 杉浦が指摘するように、確かに昭和三年九月に創刊され た 「詩と詩論」 誌上には 「新精神」 または 「レスプリ ・ ヌー ヴォー」に類する言葉が極端に少ない、という事実を指し 示 し て は い る。 し か し 杉 浦 の 発 想 に は、 「 新 精 神 」 が 詩 に まつわるもの、または未来派やキュビスムのような欧州の

春山行夫の詩的認識をめぐって(一)

 

 

 

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前衛とそれに連動するダダやシュルレアリスムなどの影響 を受けた昭和初年代を中心とする日本での「モダニスムの 詩」に関連するもの、という従来の「新精神」への理解の 枠組みによって形成された要素が、いわば先入観として入 り込んでいた可能性も十分にある。 それというのも、その前衛を含んだ一九二〇年前後の前 衛を主体とする「モダニスムの詩」に関連するものとして の「レスプリ・ヌーヴォー」 、という前提を外せば、 「新精 神」という言葉自体の使用例は、案外簡単に見つかるから である。 春山行夫の「新精神」使用と概念への理解 「 詩 と 詩 論 」 創 刊 号 で あ る 第 一 冊( 一 九 二 八( 昭 和 三 ) 年九月   厚生閣)に収録された春山行夫の有名なエッセイ 「 日 本 近 代 象 徴 主 義 の 終 焉   萩 原 朔 太 郎・ 佐 藤 一 英 両 氏 の 象 徴 主 義 詩 を 検 討 す 」( 以 下「 日 本 近 代 象 徴 主 義 の 終 焉 」 と略す)のなかに、 「新精神」は次のように登場している。 使用状況を把握しやすくするために、少し長めに引用を行 う。   實にかくのごとく、何故に常にポエジイはその表現 に於て、その精神特別の表現様式を必要とするか?そ してその様式は如何なる効果を豫想しつゝ創生される か?を、一般的な場合から考察して、以て、近代象徴 主義の誕生と展開の經路を批判するのは、この場合の 興味ある問題たるを失はぬ。   それに就て、僕は佛蘭西の美學者で社會批評家たる ジャン ・ マリイ ・ ギュヨーの 浩 [こうかん] 瀚 な藝術批評である「社 会學より見たる藝術」の「原理」の部分で、曾て浪曼 主義がその發展の過程に於て採つた環境の轉置に對す る解剖を思ひ出す。次にその大要を摘出して見よう。   浪曼主義がその勃興にあたつて、鬱勃とした 新 精 神 を盛るべき藝術の様式が、あまりにも類型的 であり、環境また一方ならず平俗慣習的なもので あつて、殆んど清新な美的感情による新藝術の敏 感な感受性を盛るべからざるを慮り、若い浪曼主 義者たちが最初に痛感したのは、いかにしてこれ らの枯れ萎んだ官能に潑溂とした高揚の生氣を添 へ、日常生活とともに陳腐と化した環境に新味を 注入し、慣習の扉を打破つて生命の新しい黄金色 の太陽を目醒ますべきかといふことであつた。そ のために彼等は、まづその手段として、生命の乏

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し い 卑 属 へ の 反 抗 と し て、 「 時 間 的 遠 隔 」 と「 空 間に於ける轉置」を用ひ「環境の新設、自然及び 奇趣の感情」を駆使し、更に純粹な感情を現實の 塵に染めることを避けるために「思出の詩趣」に 訴へて藝術的想像作用を喚起し、空間に想像を轉 置して事件を未知の世界に運び、或は「奇趣の對 照 」 に よ つ て そ の 注 意 を 集 中 し よ う と す る な ど、 夥 [ か た ] 多 の手段を發明したのである。   といふのであるが、この經路は 總ての新精 神 が旣成 藝術を追放して新しい生活 を案出しようとする自然的 な現象として、ある種の共通な法則を具へてゐると見 られよう。   僕の考へるところでは、ボオドレエルも確かにかや うな經路の下に、ポーのポエジイを彼の時代の特産物 としたグロテスクな美學と、かれが刺戟劑によつて捷 ち得た、彼自身が「人工楽園」と呼んだエキゾチック な官能の世界に轉置したのであつた。 (「詩と詩論」第一冊・七〇~七一頁、傍線引用者。以 後特に注記の無い場合も同様。 ) この一文はまず、春山が「十九世紀末から今世紀の黎明期 へ か け て、 全 世 界 の 文 學 界 を 風 靡 し た と い つ て よ い 」( 同 六五頁)とする、ポーとその影響を強く受けたボードレー ルを軸として、フランスでのロマン主義から象徴主義にお ける詩の発達の経緯を軸に評価を行っている。つまりそこ には、フランス詩における詩的認識の変容を「自然的な現 象として」主張する態度がある。そしてその影響が日本に おいて「日本近代象徴主義」となって展開した際の諸傾向 を 比 較 し た う え で、 春 山 は「 か く て 近 代 詩 は 轉 囘 す る。 Ego → cubi へ の 不 斷 の 流 動 を 示 し な が ら 」( 同 八 三 ) と、 そ の 主 観 的 傾 向( Ego ) か ら 客 観 的 傾 向( Cubi ) を 持 つ 内 容へと 更新 4 4 されてゆく べき 4 4 ことを主張する、という内容で あった。 ここに春山の詩的認識の特徴の一つがある。確かに西欧 では後期ロマン主義と言えるボードレールから象徴主義へ の展開がみられるが、その(外国語であるフランス語で構 築された)詩的認識の変遷を、春山は日本における、日本 語を主として構築される詩に適用するという点がそれであ る。 「 全 世 界 の 文 學 界 を 風 靡 し た 」 と い う ボ ー ド レ ー ル や 象徴主義の影響が日本に入った、という事情とは別に、詩 に対する捉え方そのものに春山なりの認識の特質があるの ではないだろうか。 春 山 は フ ラ ン ス に お け る ギ ュ ヨ ー( Jean-Marie Guyau )

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の著書『 L'ART AU POINT DE VUE SOCIOLOGIQUE 』 ( 一 八 八 九( 明 治 二 二 ) 年 Félix Alcan 刊 ) の 一 節 ( 1 ) を 自 ら 要 約 し た 文 章 を 用 い、 芸 術 の「 一 般 的 な 場 合 」 に お い て、 一 方 の 極 に 達 し た 様 式 は ま た そ の「 新 精 神 」、 つ ま り「 新 たな思考」によって、乗り越えられてゆくことを述べてい る。それは「ある種の共通な法則」である、という歴史的 な 更新 4 4 の意識として用いられる。 やはりここでも、 「新精神」 は詩の領域に限定されてはいないこと、そして「總ての新 精神」 という表現からもわかるように、 春山が言及する 「新 精 神 」 と は、 い わ ば そ の 時 点 で 主 流 と な っ た「 旣 成 藝 術 」 のすべてに関わる「新しい生活を案出しようとする自然的 な現象」 、つまり更新をその理念の中核とした、 「ある種の 共通の法則」と理解されていることが了解できる。 こ れ は ま た 前 稿 に お い て 参 照 し た 、 一 九 一 七 ( 大 正 六 ) 年 のアポリネールの講演「新精神と詩人たち」について杉浦 が「革新の理念を語ったもの」と的確に評した内容と一致 しているといえよう。 再度手短に一九一〇~二〇年代のフランス詩壇における 「 新 精 神 」 の 関 連 事 項 を 時 系 列 に 従 っ て 確 認 す れ ば、 ア ポ リネールがアメリカで開催されたアーモリー・ショウにて のフランス芸術への評価を伝える記事のなかで、そのアメ リカ側の「

THE NEW SPIRITS

」をエスプリ ・ ヌーヴォー と飜訳しつつ記事にしたのが一九一四(大正三)年春のこ と、それから数年後の一九一七(大正六)年十一月にパリ で「新精神と詩人たち」と題して講演を行い、これが活字 化されてアポリネールの急逝後にメルキュール・ド・フラ ンス誌上に掲載されたのが翌一九一八(大正七)年十二月 のことである。これから十年が経過した一九二八 (昭和三) 年 九 月 の 日 本 で 刊 行 さ れ た「 詩 と 詩 論 」 第 一 冊 誌 上 に て、 先に引いたように「總ての新精神が旣成藝術を追放して新 しい生活を案出しようとする 自然的な現象」というかたち で、春山が「新精神」を認識しつつ使用することになる。 アポリネールが講演を行ってから「詩と詩論」創刊まで のその十年の間に、春山は何らかのかたちでアポリネール の「新精神と詩人たち」を読むか、またはその梗概を知っ ていた可能性は十分にある。あるいはマルセル・ソヴァー ジュのような同世代の詩論家からの間接的な情報として受 け 止 め て い た、 と い う 可 能 性 も 存 在 す る だ ろ う。 と ま れ、 そこに見られる「總て」の「旣成藝術を追放」というその 春山の評言が多少過激ではあるが、これは論理的な支えを 得 た、 と い う 春 山 の 自 負 と 理 解 す べ き と 考 え ら れ る。 「 新 しい生活」が象徴するように、芸術が現代性を獲得しよう と し て 革 新 を 模 索 す る さ ま を 表 現 し た の で あ り、 「 旣 成 藝 術」の何を「追放」しようとしたのか、それを意識せずに

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「 詩 と 詩 論 」 グ ル ー プ と 旧 詩 壇 と の 対 立 構 造 に 安 易 に 重 ね てとらえては意味がない。 つまり「詩と詩論」創刊時点における春山の理解する新 精神とは、後年の理解のような特定の詩派をさすものでは なく、アポリネールの講演の主旨として杉浦が端的に示し た内容と一致する、文学の流れの上においてひとつの極か ら踏み出す 「革新の理念」 として認識されていたといえる。 それはまた、 春山が理解していた「新精神」の内実と、 「詩 と詩論」グループが日本に与えた影響として、のちに 彼ら 4 4 自身からではないかたちで名付けられた 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 (と杉浦が指摘す る )「 新 精 神 」( ま た は「 レ ス プ リ・ ヌ ー ヴ ォ ー」 ) と を 区 別する必要を明確に示している。 第一冊の該当箇所にあらわれる「新精神」について言え ば、 「 自 然 的 な 現 象 」 を 指 す 春 山 の 表 現 で あ り、 い わ ゆ る レスプリ・ヌーヴォーとは異なると杉浦が判断した可能性 があり、当該の差異は指摘されることはなかったが、少し 先走って言えば、これが詩の創作の過程を「ポエジー」と 「ポエム」 、つまり詩的精神という思考の領域と、 それによっ て構築されて存在する詩篇とに区分して理解することを原 則とする春山の詩的認識である「ポエジー論」の中核にも 関わってくるという点で、 実は重大なことがらなのである。 「レスプリ ・ ヌーヴォー」という後年からの、 いわば「伝説」 化された日本の初期モダニスム詩観から少し離れて、外国 語資料を読むことで当時の自身の日本語の言説を形成して いったという可能性を考える、 との観点から春山行夫の 「詩 と詩論」を中心とした動向を探ることは無意味ではあるま い。 ここで、前稿でも触れた近年の「詩と詩論」研究の嚆矢 として一九九六(平成八)年三月に登場した澤正宏・和田 博文編『 都市モダニズムの奔流   ―「詩と詩論」のエスプ リ ・ ヌーボー―』 (翰林書房   以降 『都市モダニズムの奔流』 と略す)で取り上げられた春山詩論の問題の射程を手短に 確認してゆく。二〇年ほど前の著書だが、近年では澤の当 該書での主張を全面的に肯定した上で勝原晴希が「詩と詩 論 」 前 後 の 春 山 詩 論 を 展 開( 『 モ ダ ニ ズ ム の 大 河 Ⅰ 』 二〇一〇 (平成二二) 年十一月   ゆまに書房) してもおり、 その見立ては現在も基本的に変わらないと考えられる。 巻頭に配された澤正宏の 「詩史の断層」 では、 「詩と詩論」 が登場した一九二八(昭和三)年と同年末に登場した萩原 朔太郎の『詩の原理』を春山詩論と対置することで、春山 が「詩と詩論」で展開したという「詩学」の特徴と限界を

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論 じ て い っ た も の で あ る。 冒 頭 で は 朔 太 郎 の『 詩 の 原 理 』 を 「 内 容 論 」 と「 形 式 論 」 と に 二 分 し て 詩 の 本 質 に 迫 る ことであり、内容であれ形式であれ、 詩の表現に関わ る問題はすべて「主観」と「客観」の二分法で割わり 切 っ て、 前 者 の な か に 詩 の 本 質 を 定 義 づ け る こ と で あった。こうして彼は、 「内容論」においては、 「詩と は実に主観的態度によつて認識されたる、宇宙の一切 の存在である」という結論を、 「形式論」においては、 「詩の表現における定義は如何?   詩は音楽と同じく、 実に情象する芸術である」という結論を、それぞれ記 すこととになる。 (六頁) と ま と め、 「 主 観 」 と「 客 観 」 と い う 二 分 法 と し て 朔 太 郎 は主観にその力点を置く詩論であることを論じたうえで、 都 市 モ ダ ニ ズ ム の な か に 出 現 し た 現 代 詩 に 関 わ る 主 義、 主 張 の ほ と ん ど に は、 詩 の 本 質 に 迫 ろ う と す る、 いわば朔太郎のように、 ポエジー(詩の本質) を原理 主義的に(即ち、 詩学として )追究する姿勢は見られ な か っ た。 こ う し た 傾 向 の 中 に あ っ て、 『 詩 の 原 理 』 と同年の一九二八年九月に刊行された春山行夫編集の 『詩と詩論』 (略)は、朔太郎の詩観を顚倒させたとこ ろに詩の本質を求めるというように、反朔太郎の旗色 を前面に打ち出し、都市モダニズムを背景に現代の詩 学を打ち建てようとしてスタートした季刊詩誌であっ た。 (八頁) と、 「 現 代 の 詩 学 を 打 ち 建 て よ う と し て ス タ ー ト 」 し た も のが「詩と詩論」である、 とする。つまりは「原理主義的」 な「詩学」が「詩と詩論」に存在した、と澤が理解してい ることが了解される。この点に関しては、実は春山の「詩 論」と「詩学」の認識の差異をめぐる問題が存在するのだ が、その認識は澤には見られない。また、先に「 「内容論」 と「形式論」とに二分して詩の本質に迫る」という言い方 も し て い る が、 澤 が こ の 段 階 で、 ポ エ ジ ー を「 詩 の 本 質 」 として捉えている点にも注目すべきである。 『 詩 と 詩 論 』 の 主 張 は、 そ の 第 一 冊 に 挿 入 さ れ た、 春 山行夫の執筆と推定される 「『詩と詩論』 創刊について」 というパンフレットに簡潔に示されている。これによ ると、この詩誌は一一人の同人が「一団となって結合 し 」、 「 一 新 紀 元 を 劃 す る 」「 わ が 国 詩 壇 の 転 換 」 と な

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る運動になること、このために彼らは「混乱、頽廃そ の極に達せる、今日のわが詩壇」の詩に「眼を向け」 、 「 過 去 詩 壇 の 無 詩 学 的 独 裁 を 打 破 し な け れ ば な ら ぬ 」 ことも付加される。こうして最終的には彼らが「未来 性を確立せしめる」 、「古い詩的精神を揚棄したところ の 新しい詩的精神」による「ポエジイ 」をめざしてい ること、またこの「ポエジイ」によって他のジャンル との連携を図ろうとしていることなどがわかる。   こ れ ら を 要 約 す れ ば、 こ こ に は、 一 つ に は、 『 詩 と 詩論』は詩誌をとおした新詩運動の展開の場であるこ と、 二つには、 この場で 新詩精神 つまり レスプリ ・ ヌー ボ ー に よ る 今 日 の ポ エ ジ イ の 確 立 を め ざ し て い る こ と、 (九頁   以下略) まず、澤の中で新精神は「新 詩 4 精神」である、という認識 が 存 在 し て い る。 「 過 去 詩 壇 の 無 詩 学 的 独 裁 」 と い う 表 現 は ま た「 旧 詩 壇 」 と い う 表 現 と し て、 「 詩 と 詩 論 」 に 掲 載 された春山言説のあちこちに散見される。澤は 「過去詩壇」 または「旧詩壇」と「詩と詩論」同人という対立構造を読 み 取 り、 そ の 先 に、 「 詩 と 詩 論 」 の 編 集 と し て 同 誌 を 代 表 した春山によって共通の新しい 「詩学」 が建てられている、 と理解したと思われる。この理解は同じ『都市モダニズム の奔流』の編者和田博文による「都市モダニズム文化とポ エ ジ ー」 で も 表 明 さ れ て い る。 和 田 は 春 山 の「 詩 と 詩 論 」 で の 一 連 の 詩 論 を「 春 山 の 総 否 定 論 」( 同 五 八 頁 ) と 断 じ たうえで、次のように述べる。 だがポエジーの考え方は、同人間で統一されていたわ けではない。 旧世代が「無詩学」だという断言は、自 分たちに「詩学」があるという確信と表裏をなしてい る 。しかしその内実はといえば多様だった。シュール レアリスムやフォルマリズム、 新散文詩やシネポエム、 やや遅れて入るノイエ・ザハリヒカイト。雑誌の魅力 は、 レ ス プ リ・ ヌ ー ボ ー の 多 様 性 か ら 生 ま れ て い る 。 多様性は同時に、雑誌が抱え込んだ爆弾でもあった。   ポエジーについては、様々な言説を『詩と詩論』か ら 抜 き 出 せ る。 ( 略 ) ど う に で も 解 釈 で き る 言 葉 や、 どうにも解釈できない言葉は、人を苛立たせても、論 理の不一致を顕在化させないからである。   しかし「意味のない詩を書くことによつてポェジィ の純粋は実験される」 (春山行夫「ポエジイ論」 、第五 冊)という一文は、意味が明確であるために、賛同も 反発も呼び寄せるだろう。 (五九頁)

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和田はポエジー、つまり澤の規定によれば「詩の本質」へ の考え方が同人間で統一されていたわけではない、とした うえで、初期「詩と詩論」の有力な同人であった北川冬彦 の同誌からの離脱を暗示し、それを内部の同人間における 「亀裂」と捉える。また、 ポエジーの不統一は、 春山の「意 味のない詩を書くことによつてポェジィの純粋は実験され る」という有名な一文が「賛同も反発も呼び寄せる」とす る。同文の掲載された第五冊 (一九二九 (昭和四) 年九月) から、創刊時点の同人制度を廃し、寄稿者へと改めたこと が、結果的に「編集責任者」としての春山の重要度が増す こ と に な る、 と い う 認 識 に つ な が っ て ゆ く。 ま た、 「 意 味 のない詩」は同じ編者である澤によっても中心的な問題と して取り上げられてゆく。再び澤の論に目を転じる。   『 詩 と 詩 論 』 に は 春 山 行 夫 の 編 集 方 針 が 隅 々 ま で 行 き渡っている 。従って、この雑誌の主張は彼の詩に対 する思想であり、ここではそれを彼の詩論とその実践 としての作品とを中心にして、 「意味のない詩」 、フォ ルマリスム、散文詩から詩的散文へという観点からさ ぐってみた。 (一五頁) 春山行夫にとってこの詩誌は、音韻のリズムを必要と せず、しかも言葉に意味を認めない詩が、さまざまな 形態をとっている新らしい形式としてどこまで書ける かの実験の場であった(一六頁) 『 都 市 モ ダ ニ ズ ム の 奔 流 』 で は、 詩 誌「 詩 と 詩 論 」 は「 春 山行夫の編集方針が隅々まで行き渡っている」という認識 を前提とし、 「旧詩壇」 の 「無詩学」 な状態に 対置すべき 4 4 4 4 4 「詩 と詩論」側の「詩学」の存在の可能性を、 「意味のない詩」 と、春山の詩論である「フォルマリスム」というキーワー ドに集約していった。同人及びのちの寄稿者の作品ではさ まざまなかたちで「意味のない詩」が試みられている、と 指 摘 す る 澤 は、 「 主 観 」 と「 客 観 」 を「 顚 倒 」 し た 点 に の ちの春山の行き詰まりがあると指摘し、和田は第八冊を前 にして、初期からの同人であった北川冬彦らの離脱という 現実的な出来事を背景に 「詩と詩論」 の弱点を探っている。 つまり「春山行夫の編集方針が隅々まで行き渡っ」ている はずの 「詩と詩論」 誌上に、 春山の編集方針 (つまり 「フォ ルマリスム」や「意味のない詩」につながる作品群)に対 し、イレギュラーな意見や作品が登場する事実をその見立 ての論拠としている。 本稿の筆者は、澤・和田両者の見立てや解釈全体を 否定 4 4 しようと考えている訳ではない。例えば近代的自我の「主

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体性」を表現する上では、フォルマリスムという方法が持 つその客観性それ自体によりある意味で一定の限界を持つ こ と も 理 解 し て い る し、 モ ダ ニ ズ ム 詩 が 展 開 し た の ち に、 一方ではいわゆる「感情」の復権が現象としてあらわれた ことや、もう少し射程を広げれば、昭和十年代にモダニズ ム詩の洗礼を受けた鮎川信夫が戦後、例えばその批評「現 代詩とは何か」で展開したモダニズム詩への批判などから もうかがえる、ある種の行き詰まりがのちには確かに存在 し て い る。 だ が、 「 詩 と 詩 論 」 の 特 に 初 期 に 問 題 を 集 約 す れ ば、 『 都 市 モ ダ ニ ズ ム の 奔 流 』 で 明 瞭 に 展 開 さ れ た 解 釈 のはしばしに、概念とその実情の確認を通じた点検を試み る 余 地 は あ る。 た と え ば、 「 意 味 の な い 詩 」 の 一 文 の 含 ま れた「ポエジイ論」は一九二九(昭和四)年九月の「詩と 詩論」の第五冊に登場するが、それは本来、同年六月の北 園克衛の詩集『白のアルバム』に「北園克衛について」と 題して発表されたものでもある。だが、北園の具体的な作 品 や 北 園 へ の 批 評 と し て の 側 面 を ど の よ う に と ら え る か、 に つ い て は 明 示 さ れ て い な い こ と、 「 詩 と 詩 論 」 と い う 詩 誌の始発から終息までの出来事のなかで春山の存在が重要 視 さ れ な が ら も、 「 意 味 の な い 詩 」 や「 フ ォ ル マ リ ス ム 」 と い う 当 時 の 春 山 の 詩 的 認 識 は 何 に よ り 影 響 を 受 け た の か、 な ど の 根 本 的 な 問 題 に は あ ま り 触 れ ら れ て は い な い。 それはあたかも、詩史の歴史的な現象の変転の結果を前提 とし、春山と「詩と詩論」を中心とした日本語の言説のト ピックのうえに重点を置いたかたちでその解釈と整理とが 完 結 さ れ て い る、 と い う 印 象 が 強 い。 「 詩 と 詩 論 」 を 通 じ た出来事の経過はその通りなのだが、その出来事をめぐる 解釈には、まだほかの可能性が残されているようである。 それらのことを踏まえたうえで、本稿ではまず「詩と詩 論」で春山が展開したポエジーという概念の捉え方から検 証を始める。 「詩と詩論」初期段階の春山のポエジー 春山が「新精神」という言葉を用いた「詩と詩論」第一 冊の「日本近代象徴主義の終焉」にはまた、次のようなポ エジーへの言及がある。   既にあるポエジイが、詩あるひは文學作品へと扶植 せられるには 、常にその 精神 が表現様式から一層深く、 全人的に行動せられて、始めてその本質が完全に顕現 せられる。このことは、その全人的な主觀によつて古 いポエジイが、 その採り來つた表現様式の法則の故に、 著しく硬化した形式主義を時に反對の岸へと驅逐し去

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るやうな悲劇の原因を胎み、事實、自らをも時に破産 に置くやうな極点を示す。實に、この一元的發程に止 揚されたポエジイこそ、現代に於ける新らしい詩の主 動力ですらある。   この意味で、ポーの提唱したポエジイを、その手法 たる象徴の名に於て純粋、且つは全人的に行動したボ オドレエルの藝術こそは、その當然の帰結として、結 果に於て尠からぬ主觀的、獨斷的錯誤に陥つたとはい へ、まづ最初の踏襲者として認めねばならぬ多くのも のをもつ。 (六九頁) ま ず 同 文 七 八 頁 の 表 中 で 春 山 は「 ポ エ ジ イ( 自 由 詩 )」 と いう理解を明示している。その上で注目すべきは、春山の 言うポエジーと、具体的に構築された作品(ポエム)との 関 係 で あ る。 「 既 に あ る ポ エ ジ イ 」 が「 詩 あ る ひ は 文 學 作 品へと扶植」されるのだから、ポエジーとは扶植される以 前の存在、つまりは作品として構築される以前の 思考 4 4 のレ ベルにあるもの、いわば詩的な「精神」であることが了解 される。実際に春山は「詩と詩論」第二冊(一九二八(昭 和三)年一二月)に掲載された「ポエジイとは何か   高速 度詩論   その一」 の 「詩的精神と散文精神」 というセクショ ンで、 「この詩的精神をわたしはポエジイと呼ぶ。 」(二五〇 頁上段)と言及してい る ( 2 ) 。 一九三一(昭和六)年二月には春山の詩論集として『詩 の研究』が刊行されたが、そこには「はしがき」に続く冒 頭に書下ろしと推定されている「詩の對象」が一~三二頁 にわたって配されている。これはその時期の詩論を集成す る前提として、いわば当時の春山の詩的認識を端的にまと めたもの、とみなし得る内容と判断できるのだが、そこで はポエジーと作品との関係を、精神的なものと物質的なも の、とにそれぞれ属することを明示している。   詩 の 精 神 の 状 態 と 詩 の 構 成 要 素、 即 ち 一 方 は Spiritual で 他 方 は Material な も の。 こ の 二 つ を 知 る ことについて、今日の詩人は歴史的努力をしなくては ならない。さうして、詩に於けるかうした努力を、若 し我々が、天成の素質による詩人としての努力以外に 必要とするとすれば、その努力は、批評といふ努力の 領域に属するといふことは、自明となるであらう。   由來、 批評といふ領域に於て取扱はれる詩の歴史は、 つねに詩の二つの方向、即ち精神の状態と、有形的な 形態との二つの要素の、 絶えまない起伏の歴史である。 (三~四頁)

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も う 一 つ 重 要 な の は、 「 批 評 」 と い う 要 素 で 語 ら れ る べ き 領域として、詩を精神の状態と構成要素とに分けて認識し た 点 に あ る。 そ の 先 で 春 山 は「 今 日 の 詩 」、 つ ま り 詩 と い う領域を現代にアップデートする方法としてこれらをとり あげ、 今日の詩とは何を指すか、これを極く簡単にいふなら ば、 いかなる精神がいかなる形態を採るか といふ別個 の批評の立場にある。この別個の批評の立場とは、換 言すれば全體としての詩を指すものであり、従来の慣 例に從つて、精神としての、または形態の詩といふも の か ら こ れ を 區 別 す る な ら ば、 Poésie と い ふものに當る。 と、その詩的認識を一歩進めて、ポエジーを精神(詩的精 神)と形態(詩篇)で成り立つ「全體としての詩」とも捉 えている。これは具体的には「詩と詩論」において、それ 以前までは目次に掲載記事のカテゴリー区分を「詩」とし ていたものを、 一九二九 (昭和四) 年の第三冊からポエジー によって書かれた詩篇( poème )、 というニュアンスで「ポ エジイ」と表記するようになることでも了解される。この 認識が春山のポエジー説、そして「詩と詩論」全体を支え たと言える、ポエジー運動へとつながってゆく。 と は い う も の の、 客 観 的 な 視 点 に 立 て ば、 「 詩 的 精 神 」 と「構築された作品」という次元の異なる二つの関係を別 個にポエジーとポエム、とのみ言えば無用な混乱は起きぬ のに、とも思うのだが、そこには春山がそ の詩的認識の中 核にフランス語とフランス詩の流れを手本として据えてい る、という事情もおそらく深く関わっている。この点につ いては後にとりあげる。 ま た、 春 山 が「 精 神 と し て の 詩 」 と「 形 態 と し て の 詩 」 と「 Poésie 」 と を 区 別 し て い る の は、 そ の 直 前 の 一 節 で、 『 フ ラ ン ス 文 学 史 序 説 』 な ど で 知 ら れ る ブ リ ュ ンチエールが「浪漫主義の詩人は、あまりに精神の状態に 重きを置き過ぎて、個々の藝術のレゾンデエトルに重きを 置かなかつた」と述べているとし、また「最近日本で自由 詩の反動として現れた新散文詩運動などといふものは、單 に形態だけに力を入れて形態の革命だけが詩の革命だと思 ひこんでしまつた」と、かつての同人・北川冬彦の提唱し た「新散文詩運動」を批判しつつ、精神の状態と形態の革 命とが相互に関連してゆかねばならぬ、という「全體とし ての詩」たる「ポエジイ」として捉えることの重要性への 認識のあらわれといえる。 北川冬彦の「新散文詩運動」への批判は一九三一(昭和

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六)年一月の「詩と詩論」第十冊の春山行夫「新散文詩運 動の清算」に明瞭にあらわされており、その翌月に厚生閣 書店版『詩の研究』初版が刊行されていることからも、こ の『詩の研究』のⅠに収められた「詩の對象」は同書の成 立に近い段階で執筆されたことが想定される。 それはまた、 「詩と詩論」創刊当時の春山の詩的認識から多少とも進化 ・ 発展した可能性があることも指し示す。 そ の「 詩 と 詩 論 」 創 刊 か ら 五 〇 年 と い う 節 目 に、 「 詩 と 詩論」と後継の「文學」誌とが合わせて復刻されるという タ イ ミ ン グ で 発 表 さ れ た 春 山 の エ ッ セ イ が、 「 ポ エ ジ ー 論 の出発」 (「別冊吟遊   モダニズム50年史   総特集   詩と 詩論」一九七九(昭和五四)年六月)である。そこで春山 はポエジーを端的に「詩的思考」と明記してもいる。つま り、春山のいうポエジーとは「詩的精神/詩的思考」と捉 えることができる。 入沢康夫の捉える「ポエジー」 春山の五〇年後の回想の出る十年ほどまえ、つまり「詩 と詩論」創刊の時期から四〇年ほどののち、詩人・入沢康 夫はその著書において、 詩を表する際に多用される「実感」 とあわせて、 「ポエジー」について次のように述べている。   この実感という言葉は、意味も適用範囲もまた適用 次元も、決して論理的 ・ 分析的には決定されておらず、 まさに 「実感」 されているに止まっている。それはちょ うど、あの「ポエジー」という言葉と同じく、以心伝 心的なものである。ところで、ここで急いで(という のは、そそっかしい人というものは常にいるものだか ら)つけ加えておくが、 ここでいま考えている方向は、 「 実 感 」 と か「 ポ エ ジ ー」 と か い う こ と を 否 定 し、 詩 を書き、詩を読むのに「実感」や「ポエジー」がいら な い と 言 お う と い う こ と で は な い の で あ る。 問 題 は、 「実感」という言葉や、 「ポエジー」という言葉は、詩 について多少とも突っこんで考えようとするとき、あ まりにも大まかにすぎる点がある。何の語義決定もな しに「詩には実感が必要である」または「詩にはポエ ジーが必要である」ということに対して、異論はあり ようがないのだ。ただし、このことを口にする人の一 人一人に、その「実感」とか「ポエジー」とかの意味 するところを問いただしてみれば、各人各様、千差万 別で収拾がつかなくなるのではないだろうか。   おそらく詩についての「実感」とか「ポエジー」と かいう言葉は、 同 ト ー ト ロ ジ ッ ク 語反復的 にならずには概念規定の極

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めて困難な言葉なのだろう。そして、そうであるとす れ ば、 こ う し た 概 念 を 用 い て 詩 の 問 題 を 考 え る の は、 ほとんど不可能なことになるだろう。これらの言葉と 織りまぜて詩を論ずれば、なるほど、おそらく通りの よい議論にはなるだろうし、 「実感」的には何やら判っ たような気になり合うことも可能だろうが、問題の掘 り起こしや、解きほぐしには、全くといっていいほど 役 に 立 た な い と 思 う。 「 良 い 詩 と は 実 感 に あ ふ れ た 詩 だ 」 と 言 っ た り、 「 す ぐ れ た 詩 は 強 烈 な ポ エ ジ ー に つ らぬかれている」と言ったりしてみても、それは当た り前のことで、何も言わぬのと同じことではあるまい か。 何 か を 言 う た め に は、 こ こ で 道 が 二 つ に 岐 れ る。 つ ま り ①「 実 感 」「 ポ エ ジ ー」 と い っ た 語 を の 使 用 を なるべく避けること。②これらの語を用いる場合、そ の適用の次元を正確にしていくこと。 (入沢康夫 『詩の構造につての覚え書   ぼくの 《詩 作 品 入 門 》』 一 九 六 八( 昭 和 四 三 ) 年。 引 用 は 一九七七(昭和五二)年七月の増補版第一刷12 章 一 三 二 ~ 一 三 四 頁。 こ の 際、 元 版 の 1 1、 1 2 章を11章としてまとめ、新規追加分として12 章が増補された。この新規追加・改訂は一九七〇 ( 昭 和 四 五 ) 年 の 青 土 社『 入 沢 康 夫〈 詩 〉 集 成 』 収録時には行われていた。 ) 入沢が括弧付きで用いる「実感」や「ポエジー」は、この 時期にはその抽象性のため詳細に詩を論じる際には「全く といっていいほど役に立たない」もの、という入沢の実感 に基づく認識が客観的に語られている。 入沢は言及していないが、澤の概念規定にみられるよう に「 ポ エ ジ ー」 は ま た、 「 詩 の 本 質 」 と い う 言 葉 で 語 ら れ るようにもなる。入沢の用いる 「ポエジー」 を 「詩の本質」 に置き換えて、 例えば「詩には「詩の本質」が必要である」 と し て も、 大 ま か に 意 味 は 通 じ る だ ろ う。 そ し て、 そ の 「 同 ト ー ト ロ ジ ッ ク 語反復的 」な性質も変わらないが、 「必要である」とい う言い方から、詩には欠くべからざる要素という認識で用 いられていることもわかる。 そこには、春山らの「詩と詩論」の影響で、旧来の韻律 を主体とした日本語での詩から「韻律」という要素を詩の 成立要件の後景へと押しやったことになったのちの、言語 で構築された作品が詩的な要素を含んだいわば「詩篇」と み な さ れ る た め の 成 立 要 件 4 4 4 4 が、 昭 和 四 十 年 代 に は す で に、 「 詩 の 本 質 」 と い う 言 葉、 つ ま り「 ポ エ ジ ー」 と い う 理 解 に置き換えられていったことが容易に読み取れる。それと 同 時 に、 「 当 た り 前 の こ と で、 何 も 言 わ ぬ の と 同 じ こ と で

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はあるまいか」と語るように、その高い抽象性が一方では 批評として運用する際の限界を入沢に感じさせてもいる。 こ こ で 重 要 な の は、 の ち の 世 代 に と っ て ポ エ ジ ー が 「 同 ト ー ト ロ ジ ッ ク 語反復的 」 な 「詩の本質」 と捉えられてきたことに対し、 春 山 自 身 は ポ エ ジ ー を 精 神 の 領 域 に あ る 詩 的 思 考 と 捉 え、 い わ ゆ る「 ジ ャ ン ル と し て の 詩 」 の 構 造 を、 「 詩 的 思 考 / 詩篇」とも認識していた、という事実である。そこには当 然、理解の差異がある。澤はポエジーを「詩の本質」と捉 えているが、 具体的な春山の言説にそれを適用してみよう。 同じ「日本近代象徴詩の終焉」を見ると、 次のようにある。   こゝで僕は中間休止として、 現代藝術の本質に於て、 そ の 色 彩 の 最 も 鮮 明 な Ego と Cubi の 二 傾 向 に 就 て、 明細な歴史的用語的説明を試みるべきであるが、その 詳細な部分は、これも煩を避けて、後日獨立した文章 として書くことゝし、こゝではポエジイをこの二傾向 に分類した僕流の根本的な解釋に就て一言したい。 ( 註 ) 僕 は こ の 點 に 關 し「 日 本 近 代 詩 に 於 け る ポ エ ジ イの發展」と題し、詩論を發表するつもりである。   ポエジイの本質 がかやうな観方の下に分類されるや うになつたのは、今世紀―即ち一九〇〇年代の文学評 論が、前世紀の頽廃主義的藝術の反逆児たる未來派を 先頭としてポエジイが世界大戦後に及んで本質的に進 出し來つた過程を捉へて、初めて抽象した合言葉(引 用 者 註   ego-cubi を 指 す。 主 觀 に 対 す る 客 観 性、 と い う対比)であつて、この言葉をこの言葉の前に發生し た象徴主義詩の上に冠して、その批判を試みようとす る僕の意図は、明瞭に象徴主義詩の精神を、近代の純 粋詩の段階にあるものとし、それが正當に今世紀にま で傳統してゐる本質に就て述べてゐるのであつて、こ の 點、 單 に 過 渡 期 と し て の 前 世 紀 流 の 象 徴 主 義 詩 の、 一般的汎稱に於て總括される多くの世紀末的詩に就て いつてゐるのではない。 (七五頁) 試みに傍線部のポエジーを澤の言う「詩の本質」として解 釈しようとすると、 「「詩の本質」の本質」という、見事な 「 同 ト ー ト ロ ジ ッ ク 語 反 復 的 」 た る 一 例 と な っ て し ま う。 こ こ は 当 然 な が ら「 「 詩 的 精 神 / 詩 的 思 考 」 ま た は そ れ と 詩 篇 と の 関 係 」 の本質」という意味あいとして理解されるべきではないだ ろうか。のちに検討するが、その文章の続きに「主観と客 観性」とある点や「純粋詩」という言葉を春山が何の注釈 もなく使用している点も実は重要である。また、このポエ ジーにおける「二傾向に分類した僕流の根本的な解釋」と 考え方の細論が、第二冊の春山行夫「ポエジイとは何であ

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るか   高速度詩論   その一」と第三冊の「無詩學時代の批 評的決算   高速度詩論   その二」の成立へつながることを 示唆している。 、方 の「 先にみた「 「精神としての詩」と「形態としての詩」 」と いう、一つ一つの前提条件を理解したうえで読み進めなく ては、その場で用いられた言説の背景とするニュアンスを 読み分けられない。このように、いわば読み手に混乱を生 みやすい「似たような表現」の多用が初期「詩と詩論」に みられる春山の言説の特徴としてある。また「ポエジイと は何か   高速度詩論   その一」で示した「この詩的精神を わ た し は ポ エ ジ イ と 呼 ぶ。 」 と い う 春 山 の ポ エ ジ ー へ の 認 識も、本文において「ポエジイ」を登場させながら、その ほぼ最終部(二二三~二五二頁にわたる同論の二五〇頁に ある)でやっと明確に言及し、それ以後同じ定義を同文で は明確に繰り返さないことも特徴として挙げられる。その 「 精 神 」 も 元 来 が 多 義 的 な 語 彙 で あ る。 つ ま り、 春 山 は 同 じ定義を繰り返し言及せず、一度規定したことはすでに理 解された、いわば前提の条件としてその概念を利用するの である。 一度「詩的精神」が春山の言うポエジーだと理解できれ ば、春山がさまざまな文章で用いている「精神」が、場合 によってはポエジーと響き合う「思考」の意味で用いられ ていることを発見できるのだが、一方でポエジーという言 葉があまりに多義的な外来語であり、これを運用する上で の難しさもある。また、澤が春山ら「詩と詩論」と対立す る存在とした朔太郎自身も、その『詩の原理』で「詩的精 神」という言葉を多用しているのだから、話はより厄介に なる。 春 山 の 語 り 方 の 問 題 点 は、 一 度 そ れ を 語 っ て し ま う と、 同じ表現を用いてその概念に潜む構造を繰り返し丁寧に語 ることが極端に少ないことにもある。先にみた 『詩の研究』 の「Ⅰ   詩の對象」も、初期「詩と詩論」で論じた「詩的 精 神 」 を「 ポ エ ジ イ 」 と 理 解 す る 基 本 的 な 図 式 を、 「 詩 の 精神の状態」とは言い換えるものの、それによって生まれ た「詩篇」の意味をそこに統合して「ポエジイ」を説明し てしまう。その意味の重層性を語義の「前提」としてしま うことで、受け取る側に理解の混乱が起こってしまう。 「 詩 と 詩 論 」 の ご く 初 期 に 春 山 が 展 開 し た「 ポ エ ジ イ 」 という多義的なその言説の存在は時代を経ることで、おそ らくそれが当然のことながら、現象として様々な形で伝説 化してゆくことはさけられないであろう。 その一方で、 ジャ

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ンルとしての詩の構造を端的に示す「ポエジー=詩的精神 =詩的思考」とそれによって構築されたポエムとの関係性 をあらわすことで、いわば詩人各個の詩論を方法として支 える機能を果たしていた春山の 「ポエジー」 という概念が、 四十年後の入沢の言うように、 「詩を書き、 詩を読むのに 「実 感」や「ポエジー」がいらないと言おうということではな い」という、いわば「詩の成り立ちに不可欠なもの」とし て理解されるようになる。後年復刻の出るまでは時間の経 過とともに春山や「詩と詩論」の言説の原典を包括した参 照が困難となる事情も手伝って、元来は抽象性の高い概念 に 立 体 的 な 解 釈 を 付 加 し た 春 山 の「 ポ エ ジ ー = 詩 的 精 神 」 という理解は、現代詩のさまざまな局面で「ポエジー」の みが「詩の本質」という「 同 ト ー ト ロ ジ ッ ク 語反復的 」な性質の解釈とと もに独り歩きしてゆく図式がおそらくそこにはある。それ と同質の先入観が、春山詩論に登場する「ポエジイ」を扱 う澤に無かったとは言えないだろう。 だが、その先入観を慎重に取り去れば、このポエジーの 主 張 こ そ が、 「 詩 と 詩 論 」 に お け る 春 山 の 主 張 の 基 本 で あ る 可 能 性 が 生 じ て く る。 「 詩 と 詩 論 」 の 春 山 の 言 説 の 中 核 にポエジーという概念の提唱がある、という認識に異論が あ る 者 は い な い だ ろ う。 「 旧 詩 壇 」 の「 無 詩 学 」 と し て 春 山が激しく批判を加えた旧来の詩観に対して、澤や和田が その編著で「詩学」として対置しようとしたフォルマリス ムや「意味のない詩」ではなく、そのポエジーとポエムの 関 係 を 指 す ポ エ ジ ー 説 そ の も の が、 「 詩 と 詩 論 」 に 関 わ っ た一人一人の詩的思考を支え、たとえ意見の相異があった と し て も そ れ ぞ れ の 詩 的 認 識 を 支 え る 装 置 と し て、 「 詩 と 詩論」の中核に置かれていたのではないのか。 澤 の 理 解 を も う 一 度 引 用 す れ ば、 「 彼 ら が「 未 来 性 を 確 立せしめる」 、「古い詩的精神を揚棄したところの 新しい詩 的精神」による「ポエジイ 」をめざしていること」と、 「詩 的精神」による「ポエジイ」と自ら春山の言説を集約しな がらも、そこで「ポエジー=詩の本質」という自身の理解 を相対化することはないままに 「 新詩精神 つまり レスプリ ・ ヌーボー による今日のポエジイの確立」と、そこに春山が 用いてはいない概念「レスプリ・ヌーボー」を澤は代入し てしまうのである。 この微妙な理解のずれにより、澤や和田が対置しようと していた春山らの 「詩と詩論」 がわの 「詩学」 として、 「フォ ルマリスム」や「意味のない詩」が中核に据えられる研究 が集中してゆくことになる。改めて澤の前掲論を見れば、 このさまざまな様式で表現される 「意味のない詩」 を、 『 詩 と 詩 論 』 の フ ォ ル マ リ ス ム と し て 定 着 さ せ る こ と

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が、編集者春山行夫の大きな仕事であったことになる (一二頁) と、北川冬彦らが「詩と詩論」から離れた出来事の遠因を 「『詩と詩論』には春山行夫の編集方針が隅々まで行き渡っ ている 。従って、この雑誌の主張は彼の詩に対する思想で あ」るという見立てにうまく接続しつつ、フォルマリスム が「詩と詩論」のいわば 当初からの春山の編集方針 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 (もち ろんこれは創刊号である第一冊を含む、ということであろ う)を支え、そして編集にあたる春山がほかの詩人たちの 作品を含め「フォルマリスムとして定着させる」ことを主 たる目的とした、と主張する。しかし、その「フォルマリ スム」はいわば春山の個人的な詩論である。そのかわりに ポエジーを中心とした「ポエジー説」を「旧詩壇」の「無 詩学」に対置されるものとするならば、澤の解釈の妥当性 には大いに疑問が残る。また、和田の言うように同人や寄 稿者の「賛同も反発も呼び寄せ」る可能性を持つ「意味の ない詩」 やそれにリンクする 「フォルマリスム」 を詩誌 「詩 と詩論」全体の「詩学」の中核にすえ、春山の方針とは異 な る 立 場 や 意 見 を 見 つ け て そ の イ レ ギ ュ ラ ー 性 を 指 摘 し、 春 山 が「 フ ォ ル マ リ ス ム 」 や「 意 味 の な い 詩 」 を「 詩 学 」 として主導した「詩と詩論」での限界、と捉えていたその 見立ての基盤も同様に揺らいでくる。 ここで再言しておくが、 本稿は 「フォルマリスム」 や 「意 味のない詩」を軸とした澤や和田による春山詩論の解釈の すべてを 否定 4 4 しているのではない。春山により隅々まで行 き渡ったとされる「詩と詩論」の編集方針と春山独自の詩 論である「フォルマリスム」との関係性や、基本的に本来 は北園克衛の詩集についてものされた「意味のない詩」と いう表現とを安易に「旧詩壇」の「無詩学」に対する「詩 と詩論」の「詩学」として中核にすえるという解釈の妥当 性をまず問題にしているのである。 の『 』に ここで焦点を少し転じて、同時代に近い詩人のポエジー とポエムの理解を参照する。山田兼士はその著書『百年の フ ラ ン ス 詩   ― ボ ー ド レ ー ル か ら シ ュ ル レ ア リ ス ム ま で 』 (二〇〇九 (平成二一) 年五月   澪標) の三八~三九頁にて、 ポール・ヴァレリーの『文学』の一節をとりあげている。 詩 ポエジー 想 しか含まない 詩 ポ エ ム 篇 を構築することは不可能だ。 もしある一篇がポエジーしか含まないとすれば、そ

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れは構築されていないわけだ。それはポエムではな い。 その原文を合わせて訳出し、その一行目への註を次のよう に付している。   「 詩 想 poésie 」 と「 詩 篇 poème 」 の 区 別 は 重 要。 詩 的な性質や運動の総体が「ポエジー」で、作品として 構 築 さ れ た も の が「 ポ エ ム 」。 ポ エ ジ ー は 至 る 所 に あ るが、 ポエムとしてこれを構築するためには、 ポエジー 以外の要素(例えば散文)が不可欠。 また二行目にある二つ目の「構築」への註には次のように ある。 詩を構築物とする考えは『悪の華』のボードレールや 「 書 物 」 の マ ラ ル メ を 引 き 継 い で い る が、 ヴ ァ レ リ ー はこれをさらに極限にまで押し進める。 ここでポエジーの飜訳語としてあてられた「詩想」とは詩 を想うこと、つまりは詩的精神/詩的思考と春山が理解し た内実と一致している、と言えるだろう。また、このヴァ レリーによるアフォリスム集である『文学』には堀口大學 による飜訳(一九三〇(昭和五)年十二月)がある。   詩 ポエジイ 以 外 の も の を 何 等 含 ま な い 詩 ポエエム を 築 き 上 げ る は 不 可能である。   あ る 一 篇 が「 詩 ポエジイ 」 だ け し か 含 ん で ゐ な い と し た ら、 そ れ は 築 か れ て ゐ な い か ら で あ る、 即 ち そ れ は 「 ポ エ エ ム 詩 」 ではない。 (堀口大學譯 『文學 (詩論) 』 第一書房   三一頁) あわせて原文も引用しておく。 Construire un poème qui ne contienne que poésie est impossible. Si une piece ne contient que poés ie , elle n’est pas construite ; elle n ’est pas un poème . (引用は Pleiade 叢書版 『ヴァレリー作品集』 二巻 (以 降 Œ Ⅱと 略 記 す る ) 五 五 二 頁   一 九 六 〇( 昭 和 三五)年   ガリマール書店) 山田はポエジーとポエムを、詩想と詩篇と明瞭に訳出して いるが、一九二五(大正一四)年九月に訳詩集『月下の一

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群』を刊行し、一九二二(大正一一)年にフランスで刊行 されたヴァレリーの詩集『魅惑』からの日本におけるごく 初期のヴァレリー詩篇の移植者となった堀口大學の訳出を 見れば、ポエジーもポエムも同じく日本語の「詩」と置き 換えており、そこに付したルビによって両者の差異を指示 している。 この詩想と詩篇とを区別した構造的な捉え方は、詩的思 考と詩篇との異なる次元で成り立つとする春山の詩的認識 と基本的に合致していること、またこの昭和初年当時の日 本語の側の概念として、この構造への理解が十分に浸透し ていたとは考えにくいとも言える。 ち な み に こ の ア フ ォ リ ス ム の 初 出 は 一 九 二 九( 昭 和 四 ) 年のフランスの季刊誌 「コメルス」 の夏号 (通巻二〇号) で、 同年のうちに単行本化され、翌年の八月にはガリマール書 店 か ら 四 〇 五 〇 部 限 定 の 単 行 本 と し て 刊 行 さ れ て い る か ら、春山とほぼ同時期のヴァレリーの理解の表明ともみな すことができる。 この山田によるヴァレリーの訳出への解釈に近く、また 日本語の「詩」という言葉の持つ二面性への認識は、近年 谷川俊太郎によっても示されている。 谷川俊太郎の詩集 『詩 に就いて』 (思潮社・二〇一五(平成二七)年四月) 「あと がき」を引用する。   日本語の詩という語には、言葉になった詩作品(ポ エム)と、言葉になっていない詩情(ポエジー)とい う二つの意味があって、それを混同して使われる場合 が多い。それが便利なこともあるが、混乱を生むこと もある。   詩を書き始めた十代の終わりから、私は詩という言 語活動を十全に信じていなかった。そのせいで詩を対 象にして詩を書くことも少なくなかった。本来は散文 で論じるべきことを詩で書くのは、詩が散文では論じ きれない部分をもつことに、うすうす気づいていたか らだろう。   詩も人間の活動である以上、 詩以外のもろもろと無 関係ではいられない。詩を生き生きさせるのは、言葉 そのものであるとともに、無限の細部に恵まれたその もろもろなのではないだろうか。 谷川の詩への関わりを端的に示すとともに、 「詩情」も「詩 作 品 」 と も と も に 包 括 し て し ま う 日 本 語 の「 詩 」 が、 「 便 利なこともあるが、混乱を生むこともある」とする。基本 的には春山の詩的認識と共通するように見えるが、谷川は 「詩情」 という言葉を用いている。それはともすれば 「敍情」 ( こ こ で は 叙 事 に 対 す る 概 念 と し て 用 い る ) と い う、 深 い

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感動をあらわしたり情緒に連動したりする言葉を用いてい る点に差異がある。つまり、人間の主体性を主軸に捉えつ つ、それが直接的には「詩作品」にはならぬこと、そのあ わ い を つ な ぐ も の が「 そ の も ろ も ろ 」、 だ と 考 え ら れ る の である。 また、ヴァレリーがポエジー以外のものを含まない詩篇 が存在しないと述べたことと、谷川の「そのもろもろ」と のあわいにも関連があるものと思わる。詩篇は詩的思考そ のもののみでは成り立たない、と言うのである。一歩解釈 を進めてヴァレリーの視点を援用すれば、春山の言う「意 味のない詩を書くことによつて、ポエジイの純粋は実験さ れ る。 」 と い う 見 立 て も、 詩 的 思 考 を 純 粹 化 し よ う と す る 実 験 自 体 に よ っ て、 「 意 味 の な い 詩 」 の 成 立 の 不 可 能 性 が 暗 示 さ れ て い る、 と も 読 め る。 と す れ ば 問 題 は、 「 純 粹 」 という表現の理解と 「不可能」 をめぐる解釈となりそうだ。 とはいえ、そういったヴァレリーの考え方が、フランス語 の資料として一九二九(昭和四)年の夏に雑誌に登場した ことと、その六月に春山は「意味のない詩」の一節を含む 一文を発表し、九月には詩誌「詩と詩論」が創刊から二年 目を迎えようとしていたことにはまた、なんらかの関連が ひそんでいるようである。 詩論と詩学の差異 『 都 市 モ ダ ニ ズ ム の 奔 流 』 に お け る 重 要 な 論 拠 の 一 つ で ある「旧詩壇」の「無詩学」に「詩と詩論」の「詩学」が 対置される、という見立てが成立しない、と考えられる根 拠はいくつか存在する。まず、春山自身が「詩学」という 概念を、初期の「詩と詩論」においては基本的に否定的な 言説にしか用いていない点である。先に見た引用とほぼ同 一の第一冊の後記に見られる「いまこゝに舊詩壇の無詩學 的獨裁を打破して、今日のポエジーを正當に示し得る機會 を得たことは、何といふ喜びであらう」という表現にして も、そもそも日本語では「無詩論」という表現があまり見 受けられないために「無詩 学 4 」を用いただろうと推定しう るし、その表現の背後には「詩学」すらない、という批判 的な春山の認識があることも容易に理解できる。 また、春山によるアンドレ・ブルトンの「現實の貧困に つ い て の 序 論 」 の 飜 訳 に は「 詩 學 po マ マ et ique の 弊 害 は 終 焉 しさうもない。 」( 「詩と詩論」第三冊   一九二九(昭和四) 年三月   六八頁)という一文がある。フランス語の名詞と し て の poétique に は、 日 本 語 の「 詩 学 」 と「 詩 論 」 い ず れもがその語義として該当するのだが、 春山はその「詩學」 と い う 訳 出 の 後 に「 po マ マ et ique 」 を 置 い て い る。 だ が こ の 一

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文の原文は L’abus poétique n’est pas près de finir . となってお り、 冒 頭 の abus は 名 詞 で し か あ り え な い た め に 続 く poétique は 形 容 詞 と し て 機 能 し、 「 詩 に 関 す る 誤 用( ま た は乱用)は終息には程遠い」というニュアンスがそこには 見出せる。念のため、 当該箇所を巌谷國士訳で確認すれば、 やはり「詩的濫用はまだ終わりそうにない。 」( 『アンドレ ・ ブ ル ト ン 集 成 』 第 六 巻   二 一 三 頁   一 九 七 四( 昭 和 四 九 ) 年七月   人文書院)としている。それを「詩學の弊害」と 解釈する春山には、 ある意味で「詩學」が弊害を持つもの、 という認識がある可能性もある。つまり、 春山の中には 「詩 学」と「詩論」という日本語が、 フランス語の「 poétique 」 を理解の背景とした場合において、差異が存在するとみて よい。 ただし、初期「詩と詩論」の中で詩学が肯定的に用いら れる例が限定的に存在してもいる。第二冊の「ポエジイと は何であるか   高速度詩論   その一」の二三五頁上段にお いて、 蒲原有明氏は最もこれらのポエジイを發展させるに適 當した詩人であつたが、不幸 佛蘭西詩學をやらなかつ たために駄目であつた し、同様に、岩野泡鳴もその詩 學を狭義な英國流韻律法のメソツドの領域に於て應用 したのみで死んでしまつた。そして、當時佛蘭西の新 しいポエジイを移植して日本の藝苑に比類ない珍しい 花束を捧げた上田敏も、今日までに於ける堀口大學氏 の業績と同じく、これらの根本的な方面には殆んど手 を着けなかつたといつてよい。 と述べている。春山にとっていかに「佛蘭西詩學」が特別 なものかがうかがえる。引用では略したが、この文章に付 された堀口大學への注記には重要な春山の認識がある(と いうよりは、 「フォルマリスム」が当初からの「詩と詩論」 で の 春 山 の「 詩 学 」 で は な く、 「 詩 と 詩 論 」 の な か で 段 階 的に「詩論」として認識されていった可能性を指し示す比 較の材料となる)ので、これは改めて取り上げる。 気を付けなくてはならぬことは、仏蘭西詩学が英国流の 韻律法よりも上位と認識されていることと同時に、春山に とっては日本の「詩」が、外来の詩的思考が移植されたも のの歴史として、いわゆる和歌の系列を汲む「歌」とは峻 別して理解されている可能性がある点、である。この、外 来のもの(そこには日本に深く根付いていた「 漢 4 詩」も含 めた)という近代の「詩」の意識があってこそ、フランス 語 と い う 体 系 の 異 な る 言 語 に よ っ て 構 築 さ れ た 詩 = ポ エ ジーとして、日本語を用いた詩の構築を探る方法にフラン

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スの詩学を接続した、ということになる。その発想のもと で、春山の第二冊から第三冊にわたる「ポエジイとは何で あるか   高速度詩論   その一」と「無詩學時代の批評的決 算   高速度詩論   その二」 の二つの批評は成り立っている。 「 無 詩 学 時 代 」 と い う 春 山 の 認 識 を 春 山 自 身 の 言 説 か ら 探ってみよう。春山が厚生閣書店から刊行した 『詩の研究』 ( 一 九 三 一( 昭 和 六 ) 年 二 月 ) は の ち、 一 九 三 六( 昭 和 十一) 年に第一書房から再刊される。その際に 「はしがき」 の 内 容 は 一 新 さ れ、 「 詩 と 詩 論 」 か ら 時 を 経 た 自 身 の 詩 論 を軸に来し方を振り返っている。   日本に近代詩が發生してから、既に相當の年月が経 つてゐるが、これを詩的思考といふ點から見ると、そ の基礎は淺く、正統は新らしい。 (一頁)   いつの時代の詩を語つてゐるといふ明確な時代感覚 もなく、乃至は單に個人的意見の披瀝に終つてゐる種 類の詩論は實に夥しい。 (二頁) 第一書房版『詩の研究』の第一刷では五頁だった「はしが き」は、一九三九(昭和十四)年六月の第二刷には一一頁 まで増補される。その増補分にはまた、   そ の 頃、 僕 は 旣 成 詩 壇 を「 無 詩 學 時 代 」 と 呼 ん だ。 十九世紀に流行した「自由韻文」が、どういふわけか 「 自 由 詩 」 と 呼 ば れ て 日 本 で 流 行 し て ゐ た 。 た れ も が そ れ を 十 九 世 紀 の 流 行 で あ つ た こ と を 知 ら ず に ゐ た。 たつた一種類の詩だけが日本を風靡してゐた 。僕達は まづ自由詩を征伐した。なにが詩の本質であるか、今 日の詩とはいかなる状態にあるか、それをあきらかに す る こ と が 當 面 の 仕 事 で あ つ た。 「 無 詩 學 時 代 」 を 清 算するためだけではなく、新らしい詩の正統時代を建 設するために、それはどうあつても必要であつた。こ の新しい詩の正統といふ意味が、いはば僕たちのいふ ポエジイであつた。 (六頁)   あらゆるものを拒否することによつて生存してゐる ものは未開人であり、あらゆるものを開拓してゆく人 は文明人である。詩人のなかにもたしかにこの二つの 種族がある。   感受性の問題と同時に、教養の問題が新しい詩人に とつて必要となるだらう。それは單に詩人であるため に基本的に必要であるのではなく、今日の世界人とし て、文化人として、基本的に必要なのである。   無詩學的詩人 はあらゆる詩以外のものを拒否するこ

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とによつて詩の傳統をつくり上げる。 ある種の歌人や 俳人が 、 今日の詩人でなくて 、 單に歌だけしか書けな い歌人であり 、 俳句だけしか書けない俳人の傳統をし か持たない やうに、大部分の詩人は一種類の詩的形態 だけに縛られて時代から取り殘されてゐる。 さうして、 さ う い ふ 過 ぎ 去 つ た 時 代 を 代 表 す る あ る 種 の 詩 人 が、 文學を拒否し、批評を拒否するばかりでなく、詩その ものの正統性をさへ拒否している。 (七~八頁)   ポ エ ジ イ 運 動 は、 單 に 韻 文 の 延 長 で し か な い 詩 ( Poem )を書く運動ではなく、文學、批評の領域に於 いてと同時に、小説や繪畫の如き藝術にまで 根本的な 變 革 を 與 へ た 二 十 世 紀 的 な 新 精 神 で あ つ た こ と を、 人々は知らねばならない。 (九頁) 春山の認識する「新精神」とは「根本的な變革を與へ」よ うとする「変革への理念」であることが改めて確認できる と同時に、かつての日本詩壇で「自由韻文」という「たつ た一種類の詩だけが日本を風靡してゐた」 ことを春山が 「無 詩學時代」 と呼びならわしていたという認識が了解される。 こ の 回 想 を 見 れ ば、 『 都 市 モ ダ ニ ズ ム の 奔 流 』 で 試 み ら れ た「過去詩壇」の「無詩學」に対する新しい「詩学」 (「詩 論 」 で は な い こ と に く れ ぐ れ も 留 意 を。 ) と い う 推 定 が 基 本的に無効であり、細部で各自の詩論が合致しなくてもそ の方法を担保する 「ポエジー説」 (詩誌 「詩と詩論」 では 「ポ エ ジ イ 運 動 」) そ の も の が す え ら れ た と い う 可 能 性 が 見 え る の で あ る。 「 だ が ポ エ ジ ー の 考 え 方 は、 同 人 間 で 統 一 さ れていたわけではない」と語る和田は、ポエジー説と詩的 思考としてのポエジーとの差異を見落としている。実は詩 的思考の内実の多彩さを指ししめす現象を、不統一と捉え たともいえる。 いわば、ポエジー説は詩誌「詩と詩論」のオペレーティ ング・システムに該当し、同人及び寄稿者はそれぞれの詩 論(例えば春山のフォルマリスムなど) 、つまりアプリケー ションをそのうえで構築して運用し、それぞれがバージョ ンアップを繰り返しつつ比較的自由に展開していったよう にも見受けられる。また、アプリは一つだけ、とは限らな いだろう。そのことと現実的な同人のあいだの認識の齟齬 と離反という出来事とは、多少とも距離を置いて総合的に 理解する必要がある。 目的をもって試みようとした理念と、 現象として歴史化する事象とに差異があることもまた当然 で あ る。 「 詩 と 詩 論 」 で の さ ま ざ ま に 不 統 一 な ま ま の 詩 論 において意識された「法則」のなかに存在する要素が現代 詩 を 支 え る レ ベ ル に ま で 磨 か れ て 初 め て、 い わ ば「 規 則 」

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化としての「詩学」が結果として導き出される可能性は存 在するのではないだろうか。その歴史的な結果の一つとし て春山は現在まで続いてきた「佛蘭西 詩學 4 4 」を評価してい るものと思われる。 ポエジーを批評するための概念の整理 ここで「詩と詩論」創刊から五〇年をへて発表された春 山の「ポエジー論の出発」で、その主張を再度確認してゆ こう。   詩を書くには詩の理論を知らねばならない。それは 当然の原則で、 それの第一歩は詩を書くことは、 ポエー ム(いわゆる詩)とポエジー(詩的思考)という二つ の 次 元 か ら 成 り た っ て い る こ と を 認 識 す る こ と に あ る。 『 詩 と 詩 論 』 が 日 本 で は じ め て 明 確 に し た の は ポ エジー論への主知で、この時代の詩人ほど自分の書く 詩を主知しようとして、各人がそれぞれのポエジーを 追及した時代はかつてなかった。 (六頁) この場合の主知とは何を意味するのだろうか。変に「主知 主義」という言葉に引きずられる前に、それは「知性・理 性などの知の機能を、他の感情や意志の機能より上位に置 くこと」であって、それに対立する概念の「主意」や「主 情」という、いわば意志や感情を優先しがちな詩的認識を 否定する関係として、ではなく、この場合、それら意志や 感情をより客観的に認識する、という意味合いと捉えてお けばよい。つまりはポエジーとポエームとで成り立つ「ポ エジー論」の構造をよく理解する、ということにもな る ( 3 ) 。 ここで言われる「詩を書くには詩の理論を知らねばなら な い。 」 は、 単 に 詩 を 理 屈 と し て 知 っ て い る こ と や、 独 自 の 理 論 を 作 れ ば よ い、 と い う こ と で は な い。 「 知 ら ね ば な らない」という表現には、それがいつの時代の、どのよう な 詩 の 方 法 で あ る の か と い う 詩 の 歴 史 的 位 置 を 明 確 に し、 その方法を自覚的に現在に適合させたうえで作品を構築す べ き、 と い う 意 図 が 存 在 し て い る。 そ れ を「 当 然 の 原 則 」 と語る点に、春山の強固な「更新」への意思があらわれて いる。   芸 術 は 絶 え ず 次 元 を 高 め る 作 用 を 持 っ て い る の で、 天才的な芸術家はしばしば霊感的に次元の異る作品を 創造する。そういう作品を生みだす流れをエリオット は正統的な進化と呼び、それと技能をみがくことを専 業にした伝統とを区別した。 (六頁)

参照

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