戦前・戦後の教育実践を語る―報徳教育・福沢プラ
ン・井上喜一郎―
著者
須田 将司
著者別名
SUDA Masashi
雑誌名
東洋大学文学部紀要, 教育学科編
号
38
ページ
37-52
発行年
2012
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00004163/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止
戦 前 ・戦 後 の 教 育 実 践 を 語 る
一報徳教育・福沢プラン・井上喜一郎−
須 田 将 司*
本 稿 は 、戦 後 新 教 育「 福 沢プ ラン 」
につ い て、そ の 基 盤 となっ た 戦 前 の 報 徳 教 育 お よび そ
の 後 の 実 践 の展 開を 捉 える べく行った 聞き取り調 査 の 記 録 集 で ある。以 下 の4 点 が 明 らかと
なっ た 。① 戦 前 の 報 徳 教 育 をリードした 米 山 要 助 校 長 が 戦 後「 福 沢 プ ラン 」
を 形 成 する 井上
喜 一 郎 を 招 い たこと、② 報 徳 教 育 の「 芋こじ 」
の 理 念を ベ ースに 戦 後 新 教 育 を 模 索して い っ
た 井 上 喜 一 郎 校 長 や 福 沢 小 教 員 集 団 の 姿 、③「 芋こじ」
以 来 の 話し 合 い の重 視 が 子ども の
「 主 体 的 必 然 性 」の 育 成 につ な がっ たこと、④ 話 し合 い 学 習 に より知 識 や 価 値 観 が 動 く
「可
動 的 均 衡 点 」
とい う授 業 論 が 生 み 出され たこと。ここ から 、話し 合 い や 関 わり合 い を 追 究し
た 教 育 実 践 が 、戦 前・戦 後 を貫 き
「深 化 」
して い った 姿 を見 出 すことが できる。
キ ー ワ ー ド :井 上 喜 一 郎 / 報 徳 教 育 / 福 沢 プ ラン/ 主 体 的 必 然 性 / 可 動 的 均 衡 点
は じ め に
本 稿 は 、戦 後 新 教 育「福 沢 プ ラン」の 教 育 史 上 に
お ける 存 在 意 義 を 再 考 す るた め 、そ の 前 後 の 教 育
実 践 に 射 程 を 広 げ て 行っ た 聞 き取 り調 査 の 記 録 集
であ る。
二 宮 尊 徳 生 誕 地 に 隣 接 す る 福 沢 小 学 校 で
は 、1938( 昭 和13) 年 度 に 報 徳 教 育 の 第 一人 者・米
山 要 助 校 長 に より全 村 教 育 的 な 実 践 が 展 開し 、国
民 学 校 令 期 に は 錬 成 論 と適 合し つ つ 児 童 常 会・母
子 常 会 など の 実 践 が 展 開され た1。こ の 過 程 で 至 誠・
勤 労 一分 度・推 譲 や「芋 こじ」
とい った 報 徳 思 想 の 理
論 や 方 策 が 学 校 教 育 実 践 に 転 化 されてお り、戦 後
に 校 内 昇 進 で 校 長 となっ た 井 上 喜 一 郎 は 、そ れ ら
を 手 掛 かりに 民 主 教 育 を 模 索し たこ とが わ か って
い る≒ 井 上 喜 一 郎 校 長 がリード す る初 期 社 会 科 と
して の 実 践 は 、1951( 昭 和26) 年 に『 農 村 地 域 社 会
学 校 』
として 、さらに は 経 験 主 義 的 な 社 会 科 へ の 批
判 や 障 害 児 教 育 、道 徳 教 育 とい っ た 諸 問 題 にも 向
き合 っ た 成 果 が1960( 昭 和35) 年 に『「 わか る」
ことの
追 求 』
として まとめ られて い る≒ そ の 実 践 に 根 ざした
研 究 は 井 上 喜 一 郎 が 転じ た 松 田 小 学 校 で 理 科・社
会 科 両 面 に わた る授 業 研 究 として 展 開し 、
「 松 田 小
方 式 」、
「可 動 的 均 衡 点 」
という独 自 の 教 育 理 論4、そ
して「社 会 科 の初 志 を つ らぬく会 」
や「全 国 初 等 理 科
*す だ まさし 東 洋 大学 文学 部教 育 学 科
S7教 育 研 究 会 」
を 担う実 力 派 教 員 を 輩 出 するに 至 る。
福 沢 小 に 関 わっ た 者 に よる 回 顧 はこ れ ま で も 複
数 行 われ てきてお り、最も 早 いもの は1960( 昭 和35)
年10 月刊 行 の『「 わ かる」
ことの 追 求− 』に 所 収さ れて
い る井上 喜 一 郎 の 福 沢 の 教 師 の 十 五 年 」
と、指 導 者
として携 わ った 浜 田陽 太 郎 を 司 会 に 以 下 の12 名 に よ
る
「旧 職 員 座 談 会 」
で あ る≒
安 藤 初 麿( 在 職: 昭 和13.3.3 ∼32.11.1)
宇 佐 美 安 雄( 昭 和20.9.30 ∼25.8.31)
大 鐘 新 平( 昭 和21.9.30 ∼27.4.1)
草 柳( 遠 藤) 君 子( 昭 和22.4.30 ∼30.3.31)
渡 辺( 高 橋) 冨 美 恵( 昭 和22.7.31 ∼25.3.31)
石 田( 永 田)則 子( 昭 和23.3.31 ∼30.3.31)
田 代 義 男( 昭 和24.3.31 ∼27.4.1)
石川 滋( 昭 和24.3.31 ∼26.4.1)
山 口 金 治( 昭 和26.4.1 ∼30.3.31)
森 谷 美 登 利( 昭 和25.11.30 ∼27.4.1)
小 野 謙 司( 昭 和27.4.1 ∼30.3.31)
梅 原 福 司( 昭 和27.5.1 ∼29.3)
そ の 後 、神 奈 川 県 南 足 柄 市 史 編 纂 の 過 程 で1991(
平 成3) 年7 月11 日にlO 名 の 元 教 員 を 集 めた 座 談 会
が 行 わ れ『 市 史 研 究あし が ら』に 掲 載 さ れて い る≒
前 出 の 井 上 喜 一 郎 、安 藤 初 麿 、大 鐘 新 平 の ほ か 、
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「 東洋 大学 文 学 部 紀 要 」第66集 教 育 学 科 編XXXV
Ⅲ(2012 年)
ここで 新た に 以 下 の7名 の証 言 が 得ら れてい る。
加 藤 フク(在 職: 昭 和13.3 ∼37.3)
石 田公 夫( 昭 和23.3 ∼37.3)
露 木 喜 一 郎( 昭 和24.3 ∼33.3 、44.9∼45.4)
関
弥 一( 昭 和25.3 ∼27.6)
瀬 戸 清 治( 昭 和25.3 ∼40.4)
杉 田 屏(昭 和30.3 ∼40.4)
中 津 川 裕 安( 昭 和33.3 ∼41.9)
な お 管 見 の 限 り、こ の うち 加 藤 フ ク氏 の 回 顧 談(2006
年8 月18 日)、露 木 氏 の 回 顧 談(1985 年 、1990
年11 月13 日、1995 年2 月20 日、2003 年8 月28 日)を 確
認して い る7。また 、南 足 柄 市 史 編 纂 事 業 で は 、こ れ
以 外 にも 戦 前 の 福 沢 小 学 校 長・米 山 要助 のご 子 息・
湯 山 厚 氏 にも聞き 取りを 行 い 、戦 前 の 福 沢 小 の 姿 に
迫 る貴 重 な 証 言 を 得 て い る(そ の 内 容 は 第1 節 で 後
述)
。
一 つ の 学 校 の 実 践 につ いて 、こ れ ほど多 く当 事 者
に よる証 言 が 残 され て い る 事 例 は 稀 で あ る。し かし
な がら 、そ れ ら は 昭 和20 年 代 の『 農 村 地 域 社 会 学
校 』刊 行 前 後 の 姿 に 集 中して い る 。もちろ ん 、そ れ
が初 期 社 会 科 実 践 史 上 に 遺 す べき価 値 を有して い
ることは 言 うまでも ない 。だ が 一方 でそ の枠 組 み が 、
基 盤 となっ た 報 徳 教 育 の 存 在 や「 松 田 小 方 式 」
に ま
で 至 る 教 育 実 践 の 模 索を 一 連 のも のとして 捉 える 視
点 を 閑 却してき たともい える。むし ろ 戦 後 新 教 育「 福
沢 プ ラン 」の 形 成 過 程 や 問 い 返し を 含 む 地 道 な 足
取りを辿 ることこそ 、教 育 学・教 育 史・社 会 科 教 育 の
研 究 上 に 意 義 あ る 知 見 が 得 られ るの で は ない か と
考える9。
こうし た 射 程 で 福 沢 小 の 戦 前・戦 後 の 教 育 実 践
を 通 観 す るとき、1938 年 から1963 年 まで 在 職し た 井
上 喜 一 郎 校 長 の 姿 が クロ ー ズ アップ され てくる。筆
者 は2010 年 度 以 降 、
〔 井 上 喜 一 郎 文 書 〕
を 発 掘10す
る一 方 で、元 福 沢 小 学 校 長・一 寸 木 肇 氏 や 早 稲 田
大 学・露 木 和 男 氏 の 協 力 を 得 て、前 出 の 湯 山 厚 氏
や 松 田 小で 井 上 校 長 を 支 えた 社 会 科 主 任・松 本 健
嗣 氏 と理 科 主 任・小 林 清 氏 へ の 聞 き取り調 査 を 行っ
た 。彼らは み な「福 沢 プ ラン 」の 前 提 に 報 徳 教 育 を、
そ の 後 の 展 開 として「松 田 小 方 式 」
を 挙 げ る点 で は 共
通してお り、本 研 究 の 趣 旨 に 添 った 貴 重 な証 言 を 得
ることがで きた 。本 稿 で は 、今 後 の 本 格 的 な 検 討 へ
の 素 材とす べく、そ れ らの 証 言・知 見 をここに 収 録 す
るもので ある。
なお 、録 音 か ら 書 き 起こし た 原 稿 を、本 人 お よび
同 行 者(一 寸 木 氏・露 木 氏) に 事 実 関 係 や 内 容 の 確
認 を 頂 き、最 終 的 に 筆 者 の文 責でとりまとめ た 。
1 、 戦 前 の 福 沢 小 校 長 ・ 米 山 要 助 氏 を 語 る (1) 解 説 湯 山 厚 氏 は1924 (大 正13) 年 生 、 米 山 要 助 校 長 の 三 男 で あ り 、 幼 少 のこ ろ 湯 山 家 の 養 子 と なっ た 。 神 奈 川 県 師 範 学 校 を 経 て、 敗 戦 直 後 の1945 (昭 和20) 年10 月I日 に 国 府 津 国 民 学 校 訓 導 と な る。 学 校 劇 や 国 語 教 育 に 造 詣 が 深 く 、 著 書『 学 級 づ くり の 仕 事 』( 明 治 図 書 、1959 年) 、『 構 成 劇 の 作 り方 』( 晩 成 書 房 、1985 年) が あ る。1969 年12 月 に 退 職 後 、卒 業 文 集 の 印 刷 製 本 工 場 を 営 む 傍 ら、 日 本 演 劇 教 育 連 盟 委 員 と して も 活 躍 、 都 留 文 科 大 学 や 駒 深 大 学 の 講 師 を 歴 任 し だI 。 湯 山 氏 は 、 前 掲 の 南 足 柄 市 史 編 纂 の 聞 き 取 り 調 査 で 、戦 前 の 村 長「 市 川 実 太 郎( 中 略) とお や じ が くっ つ い て 、 狭 い 郷 土 教 育 とい うよ うな 話 に 値 す る か わ か ら ぬ け れ ど も 、い わ ゆ る 極 め てロ ーカ ル なコ ミュ ニ テ ィ ー ス ク ール の 構 想 が 出 て き た 」と の 回 顧 が あ る 。 本 調 査 で は こ の 点 に 更 に 踏 み 込 み 、ご 子 息 か ら み た 米 山 要 助 の 仕 事 ・エ ピ ソ ード につ い て 振 返 って い た だ い た 。 そこ に は 、 紆 余 曲 折 を 経 て 教 員 の 道 を 歩 ん だ 姿 、 面 倒 見 の よ い 姿 、『 赤 い 鳥 』や 自 由 教 育 に 取 り 組 ん だ 姿 、 井 上 喜 一 郎 の人 物 を 見 出 して 福 沢 小 学 校 へ と招 い た こ と な ど、 文 字 資 料 に は 残 さ れて い な か っ た 貴 重 な 情 報 を 得 るこ と が で き た 。(2) 湯山 厚氏 への 聞き取り調 査
日時:2010 年11月13日
場所: 話者自宅
聞き手: 須田将司、一寸 木肇( 当時: 上大井 小学 校
長)
① 米 山 家 の 経 歴 一系 譜
湯 山: 僕 の 祖 母 は 二宮 金次 郎 の本 家 か ら嫁 に 来 て い
る。ま た 、僕 は 四つ の時 に 湯 山 家 に養 子 に 来て い
る。 父親・米 山 要助 に「猿 山 の伯 母 に慰 め に行って
来 よう」と誘 われ た。そ の日は小 田急 の開 通 式 で、
兄 弟 は みな それ に 出 かけ てい た。 父 親 が 私を 連 れ
て 出か けようとする のに対 し、母 親 は 本 能 か 、も の
すごく反 対し たの を覚 えてい る。手 を引か れて 田 ん
ぼ 道 を歩 き、イナ ゴが飛 び 出し たこ と、蓮華 の花 が
咲 いてい たことなどを かす か に覚 えて いる が、父 親
とどんな会 話 を話したの か全 然 覚 えてい ない。
戦 前・戦 後 の教 育 実 践を語 る
一寸 木: 二宮 金 次郎 の血 を引い てい らっし やるので す
ね。 湯 山 先 生 は 米 山 要助 氏 の何 番目 の子 に なる の
で す か。
湯 山:男 が 四人い た 。僕 は 三番 目。昔 は分 家 させるほ
どの余 裕 も ない から 養子 にや るとい うのはそれ な り
の得策 だったのですよね 。
僕 の父 親( 米 山要助) は農 家 の長男。 体も小 さか
ったし 、将 来 は百姓 に と考えて いたところ急 に身 長
が 伸び てしまった。 農 家 にとって兵 隊に とられ る の
は働 き手を 何 年 かとられ ることだ か ら、田植 えの時
期な ど大 変 困 るので、 兵 役 を逃 れ る意 味で 師範 学
校進 学 の話 が出てきた 。師 範 学 校は3 か月から 半年
兵 役を や れ ば よいとい う恩 典 があ った。それで、普
通 の人 よりも2∼3年遅 れて入 学した。そ れ が教 育 界
へ入った 動 機 とい うわけで す ね。
一寸 木: 先 生の 時 代 は鎌 倉 だったので すよ ね。僕 たち
は 横浜 だった わけ です け れども。
湯 山: 鎌 倉 です。 神奈 川県 師 範 学 校、県 立だった わけ
で す ね。「かまし」つて言っていたけ れ ども、父 親 が
通ってい たころ は、学 校らし い 学 校 が なか った。 父
親 は年 齢 が上 だった ので みん な の面 倒を見て いたら
し い のだ が 、同 級 生に は 神 奈 川 師 範 始まって以 来
の 優 等 生 が集 ったとい う。 内藤 卯三 郎( 愛 知教 育 大
学 初 代 学長) 、詩 人の 福田正夫 、柳田 謙 十郎 など。
戦 後 、柳 田 謙 十 郎 が 共 産 党 に 入っ た 時 、親 父
が「なん だ柳 田、 共 産 党に はい っ たの か」と言 った
ら 、柳 田が「お まえに話してもわ からん」と。父 親も
「そ うだ な」と答 えてい た。
一寸 木: 豪 快 なお 父さんで す ね。
湯 山: だけ ど、最 年 長 だった のでみ んな の 面 倒をみて
い た。
② 米 山 要 助 氏 の 仕 事 一 桜 井 小 ・福 沢 小 ・東 京 都 一戦 後 の 村 長 一 一 寸 木: 以 前 、 米 山 要 助 氏 が 戦 中、 東 京 に 行 っ て い た 話 を 聞 い た こ と が あ っ た の で す が。 湯 山 : 父 親 は 桜 井 小 学 校 で 非 常 に 大 き な 報 徳 教 育 の 全 国 大 会 の 主 催 を し た 。 当 時 の 桜 井 小 学 校 は 宗 繁 寺 の 隣 に 傾 き か け た 校 舎 が あ って 、 上 郡 一 の 小 さい 学 校 だっ た 。 小 さい 学 校 の 校 長 だ け ど一 生 懸 命 や っ て、 随 分 集 まっ た。 僕 の 娘 が 岐 阜 県 の 瑞 浪 に 嫁 に 行 って い る ので す が 、そ こ に 出 入 りし て い る おじ い さ ん が「 私 は 米 山 要 助 先 生 の 講 演 を 聴 き に 行 き まし た」 とい う ほ ど。 そ し て 桜 井 小 学 校 か ら 福 沢 小 学 校 に 行 っ た 。 福 沢 村 の 怒 田 に 市 川 実 太 郎 とい う篤 農 家 が お 39りまして、そ の 時 報 徳 教 育に 関 心を もって いた 。そ
れで、学 校 を含 めて 報 徳 教 育 で村 お こし をしよ うと
考 え、父 親を引き抜 いたので はない かと思う。
写真1:
米 山 要助( 左) と市川実 太 郎( 右)
※ 福 沢小 学 校 蔵 、1939 (昭 和14) 年ま た、報 徳 教 育 の 関係 で梨 本宮 と関係 のあ った
広 橋 真 光 と知り合 い 、そ の関 係 で 福沢 小 学 校 の校
長 か ら東 京 都 社 会 教 育 課 主 事 に 転 出す る わ け で
呪
そ の 頃( 昭 和14 年 末 ∼15 年) い わ ゆ る 戦 時 体
制 、隣 組 制 度を 作 る。そ の時 の 隣 組 の心 得 な どの
ハ ンドブックを 父 親( 米 山 要助) が 作 成した 。 昔 の
五 人 組の 制度 を、銃 後 の守 りを固 め るた め に 生 か
す とい う。そ の 際 、あ の「とん とんとん か らりと 隣
組 」の作 詞 を 徳川 夢 聾 のところ にたの みにい っ たそ
うだ。作 曲 は飯 田信 雄 のところに 頼 みに行った のだ
と。 さりげ なく話 す か らね 、あまり自慢 話 をし ない
男 だった。
須 田:広 橋真 光とは どの ような関 係 だった ので しょ う
か。
湯 山: 島 根 県 の知 事 じやな いけど…、県に 籍 があ り戦
前は 内務 省 の高級 官 僚だった。
須 田: そ の方 が東 京に 来いと。
湯 山: お そらくそ の招きで東 京 に行 ってい ると。当 時、
県 視 学 が「お 前 は 福 沢 小 学 校 では もったい な い」
と、そ の 頃 上 郡 で 一 番 大 きか った 山北 の川 村 小 学
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「東 洋 大学 文 学 部 紀 要│ 第66集
教 育学 科 編XXXV]ir(2012
年)
校 の 校 長 に 、 とい う話 を して い た 。 そ れ を 父 親 が 丁 重 に 断 っ て い た の を、 隣 の 部 屋 で 私 は 聞 い て い ま し た 。 弟( 米 山 磐 氏 )は 、 ところ が 東 京 で は 社 会 教 育 課 主 事 と言 い な が ら東 条 英 機 の 私 設 秘 書 だ っ た の で は な い か と 言 って い ま 肌 正 確 に は 父 親 も 話 さな か っ た か ら わ か ら な い け れ ど も。 話 は と び ま す け れ ど も 、 終 戦 は8 月15 日 で す よ ね 。13 日 の 日に 父 親 が 帰 って き た 。「御 前 会 議 が 長 引 い て」と。 一 才 木: 御 前 会 議 に 出 て い た ? 湯 山: 出 て は い な い と 思 い ま す け れ ど も 。そ れ で 日 本 が 負 け た と 。「家 か ら 一 歩 も 出 て は い け な い 」と 言 っ て8 月14 日 は 足 止 め を くっ ち や っ た の を 覚 えて い ま す二 僕 は 日本 が 負 け た とい うの を8 月13 日の 夜 に 知 っ た わ け で す 一 寸 木: そ の 時 は もう決 ま っ て い た わ け で す ね 。 湯 山: そ れ で 、 東 京 都 の 役 人 を や めて 、ま あ 事 情 が あ っ た の で 、 大 政 翼 賛 会 で す か ら 。 本 来 は 公 職 追 放 な の だ け れ ど も。 あ れ は 文 献 か な に か が 大 概 証 拠 に な る の だ け れ ど も 、 親 父 は 報 徳 教 育 な ど で 随 分 講 演 を や っ た り、 何 か 文 章 を 書 い て い る 。 とこ ろ が そ れ は み な 古 屋 安 定 さ ん の 名 で 出 して い る か ら 追 放 に は な らな か っ た 。 一 寸 木: 古 屋 安 定 さん とい う の は 。 湯 山: 桜 井 小 学 校 の 教 頭 だ っ た 。 上 郡 に は 二 宮 先 生 研 究 会 とい うの があ っ た 。 児 童 が 一 円 ず つ 善 種 金 と い っ て 納 める 取 り組 み な ど も 行 っ た 。 そ の 時 の 会 長 が 古 屋 安 定 さん 。 一 寸 木: お 父 様 は ゴ ーストラ イター に 徹 し た と。 湯 山: そ うで す ね 。 名 前 を 出 して い れ ば 公 職 追 放 だ っ たで し ょ うね 。 一 寸 木: 古 屋 先 生 は 公 職 追 放 の 憂 き目 に 。 湯 山: 古 屋 さ ん は な ら な か っ た の で は な い か な 、 定 年 間 近 だっ た の か。 一 寸 木: 戦 後 の 福 沢 プ ラ ン に は 直 接 か か わ っ た の で す か? 井 上 喜 一 郎 先 生 と の 関 係 な ど は 。 湯 山 : そ の 媒 介 項 とな る の は 奥 津 重 輝 。 杉 田 真 の 父 親 で す 米 山 要 助 の あ とは 奥 津 重 輝 さ ん が 引 き継 い で 、 ところ が 定 年 間 際 だっ た の で 、 実 際 に は 戦 後 の 福 沢 小 を 担 っ た の は 井 上 喜 一 郎 だ っ た 。 彼 は 結 核 で 休 職 し た りして 、 周 囲 か ら 雇 い 続 け るこ とに 疑 問 の 声 も あ っ た らし い の で す が 、 父 親 は「あ い つ は 人 の 倍 仕 事 す る 」と 言 っ て か ば っ た 。 福 沢 に 行 っ て も 同 僚 で し た ね 、や っ ぱ り ね 。 報 徳 教 育 が も とに な って 、 戦 後 み ん な ぱ っ と切 り替 わるで しょう。 社 会 科 中心 のコア・カリキ ュラム。
教 科 とは 、周 辺 教 科 とは何 か など 言って い ました
ね。そ れで、井上 喜 一郎 の福 沢 小 学 校 が 農 村 部 。
コア・カリキュラムの東 京 版 が 樋 口澄 雄 とい った か
な。
須 田: 東 京 の桜 田小 学 校。
湯 山: 公 立 は桜 田小 学 校 。 私学 は 確 か 、和 光 学 園 、
海 後 勝 雄 さんが 校 長 。あ のころ は 大 学 教 授 に なる
べき人 間が 私学 の小 学 校 長を やって いた。
須 田: 米山 要助 校 長は 戦 後 の社 会 科が はじまっ た時 、
井上喜一 郎先 生 だちと関 わりは。
湯 山:い わ ゆる 社 会 科 教 育 は 、 米 山要 助 か 戦 前 に福
沢に 井上 喜一 郎 を連 れて 行ったことがもとに なり、
中 間 項に 奥 津 重 輝 が入って、実 際 に は すべ てプ ラ
ンニ ング は井 上喜 一 郎 がや っ た。 随 分 派手 に全 国
大会 をや っていま すよね。
須 田: そ の後、米 山 要助 氏は 桜 井村 の村 長に 。そ の村
長 時 代に 、福 沢 小 学 校 につ いてコメントして い たこ
とは?
湯 山: お そらくない でしょうね。
須 田: 東 京時 代 の 仕事 の話 は残 っています か。
湯 山: あまり自慢話 しな か った か らね 。大 磯に 島 崎 藤
村 を訪 ね だり。それ か ら八 王子 の 奥に も、あ の大 菩
薩 峠 の中里 介 山 を訪 ねてい ま肌
大 政 翼 賛 会 の 頼
みでしょう。
須 田:そ うすると大政 翼賛 会 の仕 事 をか なり請 け負っ
て いたとい う。
湯 山: あ のころ は 全 部 、 大 政 翼 賛 会に 入 らな け れ ば
ね 。それ か ら、どうい う風 に 政 府 とつ な がっ てお っ
た のか 、東 京 都 の 社 会 教育 主 事 であ りなが ら国 政
とか なりつ な がって い たとい うことは言 える。 政 務
次 官とか 事 務 次官 な どの 次官 会 議 の 連 絡 を して い
たらし い。東 条 総 理 大 臣 の秘 書として。そ うい うこ
とは ちょっと言って いた。 聞 いて いた のは 僕 と、米
山 磐との二 人。 幼 か った からあ まりよく覚え てい な
し\
須 田:東 京 都 にいった のは佐 々井信 太郎 氏との つな が
りかと。
湯 山: つな がりは あまりな かっ たよ うだ 。イ
左々井 信 太
郎 さんはまじめ な研 究 家 で 評 価して いた。し かし 加
藤 仁平 氏 は 評 価 して い なか った 。京 都 大 学 の下 程
勇 吉 氏も自宅 に訪 ねてきたのは 覚 えてい ます けれ ど
も、父親 はあまり歓 迎しな かった。だ が加 藤 仁平 さ
んとは 付き合ってはいた12
戦 前・戦後 の教 育 実 践を語 る
③ 福 沢 プ ラ ン を 受 け 継 ぐ 流 れ 一 寸 木: 社 会 科 の 話 で す け ど、 初 志 を つ ら ぬ く会 につ い て の 関 係 な ど を 教 えて くだ さ れ ば 。 湯 山: コ ア・カ リ キュ ラム 連 盟 が 生 活 教 育 連 盟 に な って い く。 埼 玉 大 学 の 川 合 章 、 海 後 さ ん な ど。 一 寸 木: 上 田 薫 な ど は 。 湯 山: 上 田 薫 さ ん は 良 心 的 だっ た 。 長 坂 端 午 、 重 松 鷹 泰 。 重 松 鷹 泰 は 文 部 省 か ら 名 古 屋 大 学 に 。 勝 田 守 一 さん は 東 大 に 行 き 、そ れ か ら 教 科 研 の 方 に 行 っ て し ま う。 城 戸 幡 太 郎 さん が 戦 前 に 作 って い る の で す よ ね 。い わ ゆ るア メリカ のプ ラ グ テ ィズ ム 。デ ュ ーイ あ た り を 。 一 方 、 右 とい う か が コア・カ リ キ ュ ラム 連 盟 。 強 い て 分 け る と左 が 教 科 研 とい うか 。 一 寸 木: 初 志 の 会 は どこ に位 置 づ くの で す か 。 湯 山: 結 局 、コ ア・カ リ キ ュラ ム 連 盟 に も 物 足 り な い 。 ちょっ と違 うとい うとこ ろ か ら 出 てく る の で は な い か と思 い ま 肌 私 か ら 見 れ ば 、 教 科 研 の ほ うで は な く て 、石 山 脩 平 さん の 初 志 を 継 ぐ とい うわ け で す ね 。 一 寸 木: 松 本 健 嗣 先 生 は 昔 、 福 沢 小 学 校 に い て 、 井 上 先 生 の 薫 陶 を 受 け て い る わ け で す よ ね 。 な お か つ 初 志 の 会 を あ る意 味 で 現 在 ま で 引 っ 張 っ て き た 人 で す よ ね 。 湯 山: 松 本 先 生 は 、 僕 にや や 近 い 、 左 で は な い け れ ど も、ち ょっ と 違 うタイプ だっ た 。 む し ろ 、 井 上 喜 一 郎 とい う の は 非 常 に 要 領 の い い 印 象 。 報 徳 教 育 の 一 番 最 後 とい うの は 、 あ と か た も な くな って し ま うの だ け れ ど も。 松 田 で は 、 あ の人 は 要 領 い い か ら 理 科 と 両 股 か け て い ま し た ね 。 井 上 喜 一 郎 の 社 会 科 の 部 分 を 引 き継 い だ の は 松 本 健 嗣 で 、 理 科 の 部 分 は 小 林 清 で す ね 。 僕 の 分 析 が 違 って い な け れ ば 。 須 田: 宇 佐 美 安 雄 先 生 は 。 湯 山 : 福 沢 小 学 校 で は 井 上 喜 一 郎 の 一 番 の 子 分 だっ た 。そ れで 、 井 上 喜 一 郎 が 桜 井 の 小 学 校 にや っ た と い う感 じ 。宇 佐 美 先 生 は 非 常 に 勉 強 家 で すよ 。 井 上 さ ん が や は り 桜 井 小 学 校 とい うの は や っ ぱ り 報 徳 教 育 を と 。 当 時 は は っ きり とは や って い な か っ た け れ ども 、 宇 佐 美 安 雄 で あ とを 継 が せ よ うと考 え た の で は 。 そ うい う点 で は 、 米 山 要 助 と井 上 喜 一 郎 と宇 佐 美 安 雄 とは つ な が って い る 。④ 米 山 要 助 氏 の 横 顔
須 田: 米 山 要助 氏 が 報 徳 とい う時 に よく語 って いた言
葉 は。
湯 山: 一 円融 合 会 の 佐々井 典比 古 さん 、神 奈 川県 の
41 副 知 事 を や っ た 人 、 大 変 能 吏 で 人 格 者 だっ た 。 米 山 要 助 は 典 比 古 さ ん を 評 価 し て い た こ とは 確 か 。 変 な 風 に 二 宮 尊 徳 を 担 ぎ ま わ さな い 。 ア カ デ ミッ クに 取 り上 げ るとい う点 で 。 ま た 父 親 は 音 楽 が 得 意 だっ た ようで『 赤 い 鳥 』な ど も 読 ん で い た ようだ 。 そ の 頃 、 課 題 作 文 に 対 し 自 由 作 文 を 北 原 白 秋 が 始 め る 。 父 親 も 子 ど も に 詩 を 書 か せ て 、 自 分 は 作 曲 をし て 子 ど も に 歌 わ せ 石 実 践 をし て い た 。 し か し 、 家 で 歌 うな と。 文 部 省 は 教 科 書 以 外 の 歌 を 歌 って は い け な い こ とに な って い るか ら。 須 田: そ うい う意 味 で は 米 山 要 助 氏 は 自 由 教 育0 実 践 者 で も あ っ た わ け で す ね 。 湯 山 : き ち ん とし た イ デ オ ロ ギ ー な ど は な か っ た け れ ど も 、 白 秋 の 影 響 は 受 け て い ま す。 そ れ と 、書 画 、 美 術 に 対 し て も 興 味 が あ っ た 。 牧 雅 雄 と い う 彫 刻 家 ・画 家 の 絵 が 桜 井 小 学 校 の 校 長 室 に 置 い て い た。 平 塚 の 骨 董 屋 に も出 入 りして い た。 須 田・一 寸 木: 今 日 は あ り が とうご ざ い まし た 。2 、「 芋 こじ 」を 土 台とし た「福 沢 プ ラ ン」
(1 )解 説
松 本 健 嗣 氏 の 経 歴 は 、そ の著 書『「未 熟も の」とし
ての教 師一 失 敗 か ら学 び 続 けるー 』巻 末 に よれ ば 以
下の通りであ る13.
1931
(昭 和6)年 生ま れ 、神 奈 川県 中井 町 立 中村
小 学 校 を振 り出し に、 足柄 上 郡 内 の小学 校 を異
動 し、最後 は中井 町 立井 ノロ小 学 校 長として 定年
をむ かえる。(中略 )福 沢小 学 校 、松田 町立 松 田
小 学 校 で 戦 後 教 育 の開 拓 者として名 を馳 せ た井
上喜 一 郎 校 長 の薫 陶 を受 け た 。また 、「社 会 科
の 初 志 を つ らぬく会 」に 入 会 し、上 田 薫 、 重 松
鷹 泰 、山田 勉 、市川 博 、影 山 清 四郎 の 諸先 生や
全 国各 地 の気 鋭 の教 育 実践 者 や研 究 者 など から
強 烈 な 影 響 を受 け、子ども の 世界 の奥 行 き の深
さと豊さに眼 をひ らいた。
松 本 氏は 福 沢小 学 校 に1959 (昭 和34) 年 度 から1963年
度ま で在 籍し 、1964年 度 からは松 田小 学 校に 移り、井
上 喜一 郎 校長 のもとで 社 会 科 の実 践 研 究 を深 化 させ
てい った 人物 であ る。福 沢 小時 代・松 田小時 代 の 記 憶
を 中 心に 、井 上 喜一 郎 校 長 の教 育 哲 学や 授業 論・教
師 論ま で 幅広く語 って いただ いた 。
42
「 東洋 大学 文 学 部 紀 要 」第66集 教 育 学 科 編XXXV
Ⅲ(2012 年)
松 本 氏 は 自 身 の 国 民 学 校 児 童 の 記 憶 を 振 り 返 り、 奥 津 重 輝 訓 導( 後 に 福 沢 国 民 学 校 校 長) の 授 業 に 報 徳 教 育 の「 芋 こじ 」の 理 念 を 見 出し て い る 。そ こ に 指 摘 さ れ て い る 限 界 性 と 教 育 理 論 ・実 践 として の 可 能 性 か ら 報 徳 教 育 を ベ ース に 戦 後 新 教 育 を 模 索 して い っ た 井 上 喜 一 郎 校 長 や 福 沢 小 の 姿 が 浮 か び 上 が って くる よ う で あ る 。 夜 通 し 話 し 込 む 福 沢 小 の 教 員 集 団 、 協 力 的 な 保 護 者 の 姿 、「 主 体 的 必 然 性 」に も と づ く 話 し 合 い 活 動 や 学 級 経 営 の 姿 。 こ れ ら に は 、 互 い に 関 わ り 合 い 、 高 め 合 うこ と へ の 追 究 を 見 出 す こ と が で きる 。 松 本 氏 は 、こ こ に「お れ が 教 えて や る 」に 堕 し や す い 教 育 実 践 へ の 警 鐘 を も重 ね 、普 遍 的 な 意 義 を 見 出 して い る 。 い わ ば 戦 前 ・戦 後 に お け る「芋 こ じ 」教 育 の 系 譜 と も い うべ き 流 れ は 、 本 研 究 上 に お け る 報 徳 教 育 。「 常 会 」実 践 の 歴 史 的 存 在 意 義 の 検 討 に 際 し 、 当 事 者 性 の 高 い 証 言 として 重 要 なも のとな っ た 。 そ れ と同 時 に 、 授 業 論 や 教 師 論 として の 広 がり を 有 す る こ とも ま た 示 唆 さ れ た とい え る。(2) 松 本 健 嗣 氏 へ の 聞 き 取 り 調 査
日時:2011 年3月2日
場 所: 話 者 自宅
聞き手: 須 田将司、露 木 和男( 早 稲 田大 学)
① 奥 津 重 輝 先 生 の 記 憶
− 「 芋 こじ 」を 生 か し た 教 育 −
松本: 私 は 奥 津 重 輝 先 生の 授 業 を 直接 受け た 。そ の
時 の 授 業 のな かに 、後に なって 考えて みると、「芋
こじJ の思 想 が 生きて い るよ うに 思 う。 1942 (昭 和17)
年、 国民 学 校5年 生 で国 語 の 授業 を受 け たのだ
が、そ のや り方 が報 徳 教 育 の思 想 を 表した 授 業 で
は なか った かと思う。今 考えると非 常に ユニ ー クな
授 業 だった 。要す るに、教 師 が 一人ひ とりを 育てる
のでは なく、ぺ ひ とりが一人ひ とりを育 ててい る。
これ が「芋 こじ」の精 神 だと思う。しか も、そ れ が戦
時 中に 行 われていたということは 驚くべきことだ 。
写真2
福 沢小 第10代校 長・奥 津重 輝
※福沢小学校『開校 百周年記念誌』2001
年
報 徳 思 想 の 根 底 にあ る のは 、人 間 は一人 ひ とり
がよさを もって い るとい うことで ある。そ れ を 互い
に 見つ け、磨 きあってい くの が、ま さに 授 業 であ る
とい う考 え方 であ る。 戦 後 教 育 のな か に話 し 合 い
学 習 が方 法 として取 り入 れら れた が、そ れ ほ ど深 く
教 育 活 動 の なか に 根 付 か な かっ た。そ れ は ひ とつ
の知 識 を教 えるた め方 法としての話し合 い 活 動で あ
る。 話 し合 い は あくまで も方 法・手 段。 ところ が「
芋 こじ」の 精 神 と云 うの は 、磨 き合 うこと自 体 に 意
味 があ る。話し 合い な がら、お 互い が磨き合 ってい
く。その 過 程 で、友 だ ち を見 直すこ とがで き る。「
あ あそ うか 、いい 考 えしてい る。あ の 子に は いじ わ
るされて い るが 、見どころ かおる」と。 話し合 い をし
な がら意見 の対 立 が 生ま れると、資 料 をもう一度 読
み 直してみ る必 要が 生ま れ る。あ るい は自分 の考 え
の 浅 さに気づ き、自 分を 見直 す。こ のように 話 し合
い の 中 で友 達 に 間い か け たり、自分 に 問い かけ た
り、教 材 に 問い かけ たりし ながら自分 の 考えを 新 し
く組 みたて直 していく。それ は奥 津先生 がや られた
「芋こじ」学 習 のな かに 色 濃く思 想 として 流 れて い
る。 国 語 の 授 業 のな かで の レープ 学 習 をや っ た の
に はそ うい う意 味 があ る。 単なる 手段 で はなく。今
見 直してみても、戦時 下に 奥 津先 生の 授業 を受 けら
れた のは 幸せ だった なと思う。戦 後 華 や かに 導入 さ
れた話 し合い 学 習 があまり有 効に 生か され な かっだ
の は 、話し 合 い 学 習 の 精 神 を深 く考 えな か った 現
場 の責 任だ と思 う。
戦 前・戦 後 の教 育 実 践を語 る
② 戦 前 の 児 童 常 会 の 限 界 性 か ら 考 え る 松 本: 戦 前 の 子 ど も た ち は 息 苦 し く な か っ た の か な と い う気 が す る。 常 会 の 話 し 合 い の な か で 親 か ら 認 め て も ら っ た り、 お 互 い に い い とこ ろ を 認 め 合 っ た り が 行 わ れ たそ うだ が 、 何 か 一 つ の 望 まし い 人 間 像 み た い な も の を 目 指 して い た ように 思 う。 もし 、 夏 目 漱 石 の「 坊 ち ゃ ん」み た い な 、お もし ろく な い か ら 尻 ま くって や る 、 とい う子 ど も が い た とし た ら 、は じ きと ば され て しま う。 じ っ として い な け れ ば い け な い 。 そ うい う息 苦 し さが 無 か っ た の か な 。 当 時 の 子 ど も の 証 言 が な い か ら わ か ら な い け れ ど( 戦 前 の) 。 そ ん な 心 配 が 一 つ あ る 。 そ れ は 一 つ の 時 代 の もっ 限 界 だっ た の で は な い か と。 し か も 、現 在 も 私 もそ うい っ た 教 育 に 陥 りや す い 危 うさ を もっ て い る 。 昔 も 今 も 教 育 と は 子 ど も を 育 て る こ と だ 、と 信 じ て 疑 わ な い 。つ ま り、子 ど も を 操 作 の 対 象 とし て 見 て い る 。「こ うい う指 導 を す れ ば 、こ うい う教 材 を 与 え れ ば 、 子 ど も は こ うな る」と 考 え 、子 ど も そ の も の の 内 面 に は 向 か っ て い な い 。 し か し 、子 ど も は 育 て る も の で は な く 、育 つ も の な の だ 。そ うい う力 を 本 来 も って い る 。 だ か ら 、 教 師 や 親 は 子 ど も が 本 来 もっ て い る 育 つ 力 とい うも の を 十 全 に 育 て ら れ る 場 を 用 意 し て や る こ とし か で き な い 、 とい う自 覚 の も と に 子 ど も を 見 な い と い け な し万 有 名 な イタ リア 料 理 の 有 名 な シ ェ フ が 、「料 理 人 は 食 材 を 引 き 出 す の で は な く 、 食 材 が 本 来 の うま さ 、 良 さ を もっ て い る か ら 、 料 理 人 はそ れ を 迎 え に い く だ け だ 」と 言っ て い る。 「食 材 の 味 を つ くる」、 な んて とん で も な い 。 本 来 食 材 が うま さ を 持 っ て い る の だ 。 一 流 の 域 に 達 し た 人 は そ う考 え て い る の か と頭 の さ が る 思 い が し た 。 教 師 も 子 ど も に 謙 虚 で な け れ ば な ら な い 。「お ま え ら 教 え て や る の だ」と、そ うい う謙 虚 さ を 失 っ た と き に 、 教 育 は 荒 廃 に 向 か う の だ と 思 う。③ 職 員 間 の「 芋 こじ 」的 雰 囲 気
須 田: かつ て 露木 喜一 郎 氏 に 、職 員 室に「芋 こじ」的
雰 囲気 が あった と伺 ったことがあ る。この点につ い
てのご 記 憶は あります か。
松 本: まだ 宿 直 制の時 代 、毎日誰 かは 宿 直 室に泊まる
が、決しひ 人じ ゃ ない。 必ず 何 人 か 残 って、酒 を
飲 みな が ら教 育 談 義 をしてい た 。「今 日、こうい う
指 導 をして みたら子ど もはこうなっ た」、「い や、そ
∠□の場 合はこうしたらいい 、お れ はこうしてい る」と色
々教 え合い 、熱く 語り合 った。そ うい う雰 囲気 の中
で 新た に意 欲 が湧 いたり、次の 日に試 して みた り。
要するに「芋 こじ」ですよね。もちろ ん職 員 会議 のと
きも話し合 い は するの だけ れ ども、そ れ より七宿 直
室 での 話し合 いが 一番 、鮮 明に残 って い る。そ うい
う雰 囲 気 が 福 沢 小 に も、松 田 小 にもあ った。 私 は
そうい う雰 囲 気 を 幸い にも味 わうことがで きた 。宿
直 制 がなくな って、学 校 があ る意 味 では 貧しく なっ
た。 時 代 がそ うだ か ら仕 方 がな いけ れど。瑞 校 で
酒 飲 んで 帰るな んてでき ないしね。
松 田 小で 私 か 宿 直 のとき、 井上喜 一 郎 先生 が 校
長 室 から出 てき て、「お 、なんだ」と言って机0 上 に
腰 かけ て教 育 につ いての話 を 始め る。そ の時、 私も
い ろい ろ と質 問 もし た。 時 間の 経つ のも忘 れ て い
た。 鮮 明に 覚えてい る のは に れ から帰 らなけ れ ば
なら ない、今 何 時 だ? 」、「もう朝 の4時 です 」、「な
んだ 、早く言 わな いか 」と言って 自転 車で 家に 帰ら
れた 時 のこと。そ の 数 時 間後 、始業 前 にきちん と学
校に 来 て何 も無 かった ような顔 で いた。
私 か井 ノロ小 の校 長 に なっ た時 、一度 朝ま で や
ってみようと思った が 出来 なかっ た( 笑) 。ただ し、
校 長 室 が 先生 方同 士 の 研 究 の 場 になり、校長 室 の
黒 板 が 書 き込 みで い っ ぱ い に な った りしたこ と が
日常的 に な った。そこま でし ない と「子 どもに 関 わ
る具 体的 な 仕事 をした」とい う充 実 感 を感 じな かっ
た。そ れは 井上校 長 から 教 わったものだと思う。
④r 農 村 地 域 社 会 学 校 」として の 福 沢 小
須 田: 戦 後も常 会 をや って いた と思 うので す が 、息 苦
しさは無くなってい たのでしょうか。
松 本: 親 と子どもが同 じ部 落 公 会 堂 に集まり、地 域 担
任 教 師と親 が集 まってい ろん な話し合 い をした のだ
け れ ども、 雰 囲 気 としてど うだっ た か。あまり 記 憶
には ない。
須 田:司 会 も含 め 、子 ども同 士 で 行 わ れた のでしょ う
か。
松 本: 地 域 別 で 子ど もだ け、校 庭 で や った 常会 もあ
る。
須 田:『農 村 地 域 社 会学 校 』を 読む と日々の生 活 態 度
を見 直す ような話 し合 い がな され た ように読 め るの
で す が。
松 本: 地 域 社 会との つ な がりで、はっきりと印 象 に 残
って い るの は、福 沢 の 親 に は あった かい 雰 囲 気 が
あ ったこと。 だか ら、学 級行 事 を やるときにも 親 が
44
「東 洋 大 学 文 学 部 紀 要 」
第66 集 教 育 学 科 編XXXV
Ⅲ(2012 年)
本 当 に よく手 伝 って く れ た 。 須 田: そ れ は 親 子 常 会 で 先 生 方 と顔 を 合 わ せ て い る か らで しょ うか 。 松 本: そ う、 割 合 に 垣 根 が な い 。 福 沢 に は 大 き な 銀 杏 の 木 が あ り、 あ の 実 は い い 値 で 売 れ る とい うこ と で 、 学 級 費 に し よ うと 銀 杏 拾 い と出 荷 の 作 業 を し た こ とが あ っ た 。 銀 杏 は 手 が か ぶ れ る とひ ど い 。 そ う い う大 変 な 仕 事 に も 親 は 集 ま って き てく れ て 、 一 緒 に や っ てく れ る 。 な か に は 、「子 ど も に そ ん な こ とま で や らせ る とは とん で もな い 」と不 満 を もつ 親 も い た らし い が 親 同 士 で 話 し あ って 納 得 して い た 。 担 任 の 自 分 は 知 ら な く、 後 か ら 聞 い た ほ ど だっ た 。 須 田: 農 村 とい う部 分 で の 付 き 合 い の 深 さ が あ っ た と も 思 う。NHK の 「教 師 の 時 間 」で 浜 田 陽 太 郎 先 生 が 、福 沢 は 地 域 柄 とし て 報 徳 が よく 残 り 、子 ど も が 働 くとい う姿 が 残 って い て 生 活 を 土 台 とし た 教 育 が や り易 か っ た と 話 して い た の だ が 、 松 本 先 生 が 赴 任 さ れ たこ ろ の 福 沢 小 の 印 象 は い か が で しょ うか 。 あ ま り報 徳 と言 わ な くな って い た 時 代 で し ょうか 。 松 本: あ ま り聞 か な か っ た 。 時 代 が 変 わ っ た の か 。子 ど も が 田 ん ぼ に 行 き 手 伝 う必 要 が な く な っ て い っ た 。 機 械 も 入 って き て い るし 。 か つ て は 農 繁 休 業 が あ っ た が 、そ ん な 必 要 が な い。 農 家 を や っ て い な い 子 も 増 えて き て い た 。 須 田: 福 沢 小 学 校 の 学 級 経 営・学 校 経 営 の 上 で も 報 徳 の 教 え 、 と は あ ま り 言 わ な くな って い た の で し ょ う か 。 松 本: あ まり 言 わ な い 。 善 種 金 の 説 明 を す る とき に 触 れ るぐ らい だっ た 。 須 田: 湯 山 厚 氏 か ら 、 米 山 要 助 校 長 か ら 奥 津 重 輝 校 長 、 井 上 喜 一 郎 校 長 、宇 佐 美 安 雄 先 生( 後 に 桜 井 小 学 校 長 )と 報 徳 を 受 け 継 い だ 流 れ が あ る 、 と 伺 っ た が、 井 上 先 生 は 報 徳 を 語 る こ とは あ っ た の で し ょ うか 。 松 本: あま り 報 徳 の 話 は 聞 か な か っ た。 露 木: 井上 喜 一 郎 先 生 は ど な た に 一 番 影 響 を 受 け た の で し ょうか 。 な んて あ ん な に 哲 学 を 。 松 本: 思 想 的 に は 河 合 栄 次 郎 の 影 響 を 強 く受 け て い る。 哲 学 者・経 済 学 者。 あ とは 福 沢 諭 吉 か 。 要 す る に 空 理 空 論 で は な く実 学 志 向 だっ た 。⑤ 井 上 喜 一 郎 の 教 育 哲 学
写 真3
福 沢小 第11代 校 長・井上 喜一 郎
※ 福 沢小 学 校『 開校 百周 年記 念誌 』2001年
須 田: 福 沢 小 と松 田 小 で ど の よ うな 教 育 理 論 の 連 続 や 発 展 が あ っ た ので し ょ うか 。 松 本: 井 上 校 長 の 教 育 哲 学 の 根 底 に あ る の は 、い わ ゆ る「主 体 的 必 然 性 」だ っ た 。 言 葉 が 分 か りに く い の だ け れ ど も 、子 ど も が「何 を 必 要 として い る の か 」、そ の 必 要 と す るも の を 自分 で 調 べ た り、 人 の 話 を 聞 い た りし て 、 自 分 の な かで 組 み 立 て 直 し て 新 し い も の を 生 み 出 して い く。そ の プ ロ セ ス に「主 体 的 必 然 性 」が あ る。 理 科 で も 社 会 科 で も 、子 ど も 同 士 が い ろ い ろ な 話 し 合 い を し た り 、一 つ の 教 材 に つ い て「 私 は こ う思 う」と や り 合 っ た りす る 時 に 、 必 ず「ズ レ」が 生 じ る 。そ の とき に「 待 て よ」と 自 分 や 友 だ ち の 考 え を 見 直 す。もう 一 度 資 料 を 見 直 そ う、 とい うきっ か け に なっ てくる 。 だ か ら「今 、 子 ど も が 何 を 必 要 とし て い る か 」そ れ を 見 極 め る こ と が 授 業 の 前 提 に な る。 二 人で い た の で は 、 本 当 の 意 味 の に れ が 必 要 な ん だ 」とい うの が 生 ま れ て こ な い 。 だ か ら 集 団 が 必 要 で 、 集 団 の 中 で そ うい うも の が 生 ま れ てくる 。 だ か ら 学 級 を そ うい う雰 囲 気 に 創 り上 げ て い くこ と、 逆 に 集 団 が そ う い う 雰 囲 気 を も っ て 授 業 を 活 かし て い く 。 学 級 経 営 と 授 業 と は 別 々 で は な く て 同 時 相 即 で、 お 互 い が お 互 い を 育 て て い く 。 学 級 経 営 上 、そ うい う 関 係 づ くりを 随 分 大 事 に し まし た 。 松 田 小で は 、 特 に 私 か 感 じ た の だ け れ ども 、研 究 発 表 会 を や る とい うこ と が 前 か ら わ か っ て い る 、そ の 時 は 少 な く とも 二 学 期 の 後 半 、社 会 科 を 発 表 す る の だ け れ ど も 、 社 会 科 と同 時 に 国 語 も 算 数 も 理 科 も 体 育 も 、 同 じ よ うに 大 事 に して- 生 懸 命 に 指 導 し た 。 社 会 科 の 授 業 を 公 開 す る の だ か ら 社 会 科 だ け 一 生 懸 命 にや り、戦 前・戦 後 の教 育 実 践を語 る
他 の 教 科 を 軽 く流 すよ うで は だ め 。 だ か ら掃 除 の 時 間 も 他 の 教 科 の 時 間 も 同じ 。 掃 除 の 時 間 も とく に 方 々を ま わ って 、 ス コップ を 持 っ へ 緒 にや っ た りして 、そ う い う生 活 の 中 で は じ めて 社 会 科 の 授 業 と い うも の が よ くい く 。そ れ は 自 分 の 経 験 か ら 学 ん だ こ と。 私 か 校 長 に な っ た 井 ノロ 小 で 、研 究 発 表 会 を もつ に あ た って 、 先 生 方 に も そ れ を 要 求 し た 。 発 表 す る 時 に 国 語 を や る とい う人 もい て 、理 科 、 社 会 、算 数 もい る。 「 国 語 だ か ら とい っ て 国 語 ば か りを や って い る とろ く な こ とが で き な い よ。や る の な ら 少 な く とも一 学 期 か ら 掃 除 も他 の 教 科 も十 全 にや って 、そ の 中 で 国 語 を や る とい うこ と で は な い と、子 ど も は 育 た な い よ 。 子 ど も は 部 分 で 育 つ の で は な い 、 全 体 で 育 つ の だ 」と。 えて し て 、子 ど も は 部 分 で 育 つ と思 っ て し ま う。 い つ も 子 ども は 全 体 として 育 つ の だ か ら 、学 級 経 営 は 本 当 に 大 事 に し まし た 。 須 田 : 上 大 井 小 の 山 崎 先 生 か ら 、 松 本 先 生 と井 上 先 生 の 指 導 は 一 貫 して い て 「15 分 の 掃 除 に 全 力 を 尽 くすj 、 松 田 時 代 は 学 校 全 体 が そ うい う雰 囲 気 だっ た 、 と伺 っ たこ と が あ りま す。 ⑥ 研 究 者 と の 関 わ り 須 田: 松 本 先 生 が 福 沢 小 学 校 に 在 職 中 、 ど な た が 指 導 者 として い らして い た の で しょ うか 。 松 本: 私 か 知 っ て い る の は 、 重 松 鷹 泰 先 生 、長 坂 端 午 先 生 、 上 田 薫 先 生 、 浜 田 陽 太 郎 先 生 で す ね 。 研 究 発 表 会 で 講 演 さ れ る わ け だ け れ ど も 、 重 松 先 生 、 上 田 先 生 ふ たり か ら「子 ども の 事 を よく 見 て 居 ら れ る な あ」と感 銘 を 受 け た 。 当 時 、 戦 後 社 会 科 が 華 々しい 頃 だ か ら 、教 材 論 が 幅 を 利 か せ て い た 。 とこ ろ が 重 松 先 生 や 上 田 先 生 は 徹 底 し て「子 ど も は ど う な ん だ 」と言 う考 え が 根 底 に あ っ た 。 実 に 子 ど も を よく見 て い ら っし や る とい う感 じ を 受 け た 。 須 田: 毎 年 研 究 大 会 に 来 ら れ た の で す よ ね 。 松 本: そ の 時 に 研 究 物 を は じ めて 渡 す の だ け れ ど も 、 講 演 の な か に そ の 内 容 や 当 日 の 授 業 の 様 子 が 取 入 れ ら れ て い る 。 大 学 の 先 生 に は 事 前 に 講 演 内 容 を 用 意 す る 人 が い る が 、そ れ とは 違 うか らこ ち らも も の す ご く緊 張 して い る。 だ け ど 短 い 時 間 で 的 確 に 捉 えて 、 全 体 化 して い る 点 に 感 銘 を 受 け た 。 私 も 何 度 か 取 り上 げ ら れ て 、「や っ た 」と 宙 に 舞 うような 思 い で 感 激 す る。 あ れ も一 つ の 教 師 の 育 て 方 か な と。 ⑦ 授 業 研 究 に つ い て 松 本: 若 い人 を 育 て る の は 、「お れ が 教 え てや る」、 と い うの で は 絶 対 に だ め。 指 導 案 を 一 緒 に 作 る。 こ う 45 い う教 材 を 使 い た い 、 子 ど も は ど うい う風 に み る の だ ろ う か 、 と 予 想 す る。 そ の と き、 指 導 案 を 作 る と 言 うこ と は 教 材 と 同 時 に 子 ど も を 見て い る こ と に な る 。 こ の 子 は ど うだ ろ う。 教 材 研 究 で あ る と 同 時 に 子 ど も の 研 究 。 一 緒 に 知 恵 を 出 し 合 って 作 った ら 、 出 来 上 が っ た 時 に は 先 輩 や 、 校 長 か ら 教 えら れ た の で は な く 、[ 一 緒 につ くっ た 、俺 が 作 っ た ]と 納 得 感 が あ る 、そ れ が い い 授 業 に な る とも の すご く 自信 に なる 。 だ か ら 授 業 研 究 の とき に す す んで 「私 が や る 」と言 わ な い よ うな 人 は 、そ うい う経 験 が な い か ら だ と思 う。 そ れ は 大 事 なこ とだ ね 。 露 木: 東 京 都 や 相 模 原 も そ うだ が 、教 員 養 成 を が ん ば っ て い る 。そ の 発 想 は と に か く「若 い 人 は こ れ を 覚 え なさ い 」とい う体 制 を 造 ろ うとして い る 。 仕 込 んで い く。 あ れ じ ゃ うま くい か な い 。 須 田: 若 い 人 の力 を 信 じ て い か な い と。 松 本: 社 会 科 の 初 志 の 会 の 支 部 で あ る「土 曜 会 」で は 、 徹 底 して 授 業 記 録 を も とに 子 ど も の 姿 を 考 えて き た 。そ こ で の 討 論 を 通 して「口 八 丁 手 八丁 」を 大 事 に 育 て て き た 。 口 八丁 とい うの は 理 論 的 な 武 装 、手 八 丁 と い うの は 具 体 的 に 授 業 を 意 味 の あ る よ うに 展 開 で きる 力 量 。 そ の 両 方 を 育 て よ うと 心 掛 け て き た 。 須 田: 土 曜 会 の 授 業 検 討 の ス タイル は 、松 田 小 や 福 沢 小 に も あ っ た も の で す か 。 松 本: 福 沢 小 に は な か っ た 。 毎 年 研 究 発 表 を や っ た け れ ど も 、そ の 中 で 授 業 記 録 を 載 せ て 検 討 して 分 析 して 、 と や っ た の は 私 が 初 めて だ っ た 。 あ の 時 、ト ラ ン クみ たい な 大 き な テ ープ レ コ ー ダ ー で 録 音 し 、 家 ま で も って きて そ れ を 起し て 記 録 し た 。 私 は 福 沢 小 学 校 の 研 究 報 告 書 に 、 教 師 に とっ て 都 合 の い い とこ ろ だ け 載 せ て い ろ と の 不 満 を もっ て い た 。 子 ど も の 作 文 も 教 師 の ス ト ー リ ー に 合 わ せ て 都 合 の よ い も の を 載 せ て い る。 そ れ は お か し い だ ろ う。 そ ん な も の で は な い 。 そ う考 えて 授 業 記 録 を 収 め た も の が、 福 沢 の 研 究 紀 要 に 出 て い る は ず だ 。 須 田: 「実 力 の 検 討 」シ リ ー ズ で す か 。 松 本: そ う。 思 うよ うに な ら な い とこ ろ が あ る、そ れ を 率 直 に 出 す べ き だ 。 そこ か ら 新 し い 理 論 を 生 み 出 そ うとし た 。46
「東 洋 大 学 文 学 部 紀 要」第66 集 教 育 学 科 編XXXV
Ⅲ(2012 年)
写真4
松 本健 嗣 氏の 授業 風景
※ 福沢 小 学 校 蔵 、1959 (昭 和34) 年 須 田 ・露 木: 今 日は あ りが とうご ざ い まし た 。3 、 松 田 小 時 代 の 井 上 喜 一 郎 校 長
(1) 解 説
井上 校 長との 出 会い は研 究 授業 の場 での 痛 烈 な批
判 で あった とい う小 林 清氏 は 、や がて 松 田小で実 力 を
見 出 され、 井上 校 長 退 職ま で の間 、理 科主 任として、
前出 の 松 本 健 嗣 氏 と共 に 理 科・社 会 科 の両 翼 に わた
る実 践 研 究を 支 えることに なる。そして 後に 、日本 初
等 理 科 教 育研 究 会( 理 事長) にも活 躍 の場を広 げ てい
った 人物 である。
小 林 氏 が回 顧 する松 田小 時 代 の井上 校長 は、戦 後
新 教 育 や 経 験 主 義 が批 判され 、系 統主 義 的 な 学 習を
重 んじ る方 向 へ と教 育界 が舵 を 切ってい た時 代 に 、「
社 会 科 の 初 志 をつ らぬく会」の幹 部 として独 自の 教 育
理論 を追 究して い った 姿 であ る。 提 灯学 校 だったとい
う回 顧 か らは 、福 沢 小 時 代 と変 わらな いスタイル を貫
いた井上 校 長 の姿 を窺 うことができる。
先 述 の松 本 氏 の聞き取り調査 にあった「主体 的 必 然
性 」、つ まり子 ども が話 し合 い の 中で 既 存 の 知 識・認
識と他 者・社 会・自然 との「ズレ」や「矛盾」に 気づ き問
題 解 決 に 進 んで いく授 業 イメー ジ を、「知 識 は 動くも
のだ」として 理 論化 して い った。そこで 用い られ た「可
動 的 均 衡 点 」とい うキー ワードについて、まさに 実 践創
出 の現 場 にあ った 小 林 氏 から 、当時 の 学 習指 導 要 領
改訂 や 井 上 校長 の弁 証 法を 援 用し た理 論 形 成 、そ の
三段階の在り方に至るまで丁寧な解説を頂い た。
(2) 小林 清氏へ の聞 き取り調 査
日時:2010 年11月13日
場所: 話者自宅
聞き手: 須 田将司、一寸木肇( 当時: 上大井 小 学校
長)
① 井 上 喜 一 郎 と の 出 会 い 小 林: 私 と 井 上 先 生 と の 出 会 い に は 、 人 生 っ て そ ん な も ん か とつ くづ く感 じ させ ら れ る よ うな こ と が あ っ た 。 私 は 最 初 、 岡 本 小 学 校 に 赴 任 し た 。 戦 後 の 混 乱 期 で 衣 食 住 が ま ま な らず 、教 育 な ん て こ と は 二 の 次 三 の 次 。そ うい う時 代 だっ た か ら 、 私 自 身 も 神 奈 川 師 範 の 特 別 研 究 科 に 行 か せ て も ら い 、 助 教 とい う立 場 で 現 場 に 出 て き た。 だ か ら 、 先 生 の 卵 とい っ て も 今 日 考 え ら れ る よ うな 、そ ん な 資 質 を もっ た も の で は な か っ た 。 社 会 全 体 、 憲 法 す ら 、そ の 基 本 が 全 く 変 わ っ た 時 代 。 イ可が 国 家 目 標 な の か 、 教 育 目 標 な の か 、ちん ぷ ん か ん ぷ ん 。 井 上 先 生 が 福 沢 で 新 教 育 の 社 会 科 に い ち 早 く着 手 さ れ た 。 当 時 どこ の 学 校 研 究 も 社 会 科 だっ た 。 特 に 周 辺 は 、 私 かい た 岡 本 小 学 校 で も 、 井 上 先 生 や 福 沢 の 先 生 を 講 師 に 呼 び 研 究 授 業 を や っ た 。 た ま た ま 私 の 番 が 回 っ て き た 。 今 で も 鮮 明 に 覚 え て い る が 、4 年 生 を 受 け 持 っ て「 郵 便 局 」の 単 元 を や っ た 。 ち ょ うど 近 く に 郵 便 局 か お る か ら 、子 ど も を 毎 日 連 れ て 行 っ て 、 郵 便 局 の 仕 事 を 一 週 間 か け て 調 べ さ せ た 。 井 上 先 生 に 指 導 を 受 け る とい うの で 、各 班 の 発 表 会 を 研 究 授 業 に あて た 。 内 容 は 十 分 、 教 室 の 隅 か ら 隅 ま で 、 班 で 調 べ た こ と を 模 造 紙 に 書 い て 貼 っ た 。 そ れ を 順 に 発 表 。 僕 は 各 班 で ば ら ば ら に 調 べ て き た こ と を ま と めて 、 郵 便 局 の 仕 事 を 統 一 し て 全 員 に 把 握 させ るこ とに 目 標 を 設 定 し た。 午 後 の 検 討 会 。 校 長 は 田 中 俊 郎 先 生( 私 の 小 学 校 の 恩 師 で 、 私 を 助 教 で 呼 び 、 目 を か け て く れ た 人 )。「小 林 先 生 は 研 究 授 業 は 初 め て だ 。 経 験 も ま だ 少 な い し 、し か し 寝 ず っこ で や って き た 、 と に か く 一 生 懸 命 授 業 を 展 開 で き た 、ひ と つ よろ し く 」と 挨 拶 して 始 ま っ た 。 通 常 、校 内 の 先 生 か ら 質 問 や 意 見 な ど が 出 るも の だ が 、 開 口 一 番 、 井 上 先 生 が 「今 日 の 授 業 は … 、や ら な か っ た 方 が 、 子 ど も が 伸 び た ん じ やな い か な 」と 言 わ れ た 。 高 名 な 福 沢 の 校 長 が。戦 前・戦 後 の 教育 実 践を語る
田 中 校 長 が い くら「 寝 ず っ こ で や って い た」と 援 護 し て くれ る が 、 み ん な シ ラけ ち ゃ っ て 検 討 会 に な ら な い 。そ れ で 僕 の 分 は お し まい 。 若 者 の 私 の 気 持 ち は ど う?「な んて ひ で え 校 長 さ ん だ」とな る べ く顔 を 合 わ せ な い よ うに 、ち ら っ と見 え たら 目 を 合 わ せ な い よう に して 。 社 会 科 は そ ん な に 関 心 が な い し 、 自 分 は 理 数 科 だ と決 め ち ゃ っ て い る わ け で。 そ れ で 算 数 に 取 り 組 ん だ 。 つ まり、 地 域 に 根 ざ し た 教 育と 同 時 に 、 教 育 思 想 として は 経 験 主 義 、 体 験 主 義 。 現 在 の 生 活 科 と 似 て い る 。 とこ ろ が 戦 後 徐 々 に 安 定 して くる と学 力 が 問 題 に な っ た 。 何 を や っ て い い か 、 教 員 自身 が 目 標 を もて な い 。 「野 球 ぽ か り が つ よくな り」と い う批 判 が 当 時 の 教 育 界 を 象 徴 し て い た 。 学 力 低 下 と 道 徳 教 育 の 欠 如 が 問 題 に な り 、昭 和33 (1958) 年 版 学 習 指 導 要 領 で は「 試 案 」の 文 字 が 消 滅 し た 。 教 育 内 容 の 系 統 性 重 視 が 求 め ら れ る 。 こ の33 年 版 の 意 味 は も の す ごく 大 きい と 思 う。 学 力 の 向 上 、 教 科 内 容 の 系 統 性 、そ れ か ら 道 徳 教 育 が に わ か に 位 置 づ け ら れ た 。 井 上 校 長 の 経 験 主 義 基 調 の 社 会 科 に も 地 理 ・歴 史 の 知 識 重 視 の 色 合 い が 見 ら れ る よ うに な っ て き た 。 経 験 主 義 が 否 定 さ れ 、 系 統 的 な 地 歴 教 育 の 復 活 な ど が 言 わ れ 、 一 時 は 隆 盛 を 極 め た 福 沢 教 育 が 批 判 的 に み ら れ る 状 況 に な って き た と き 、 井 上 校 長 が 福 沢 小 か ら 松 田 小 に 転 任 され て き た 。 私 は 逃 げ て ば か りい た の だ が 、 先 に 松 田 小 に 赴 任 して い た か ら 、そこ に 井 上 校 長 が 来 た こ とに なる 。「こ い つ は ま ず い な 」と( 笑)c 当 時 は 管 理 職 の 人 事 は9 月 。 私 は 井 上 校 長 が 来 た 時 に 松 田 小 在 職 が9 年 半 で あ っ た 。 当 時 の 申し 合 わ せ か ど うか 、 永 年 勤 続 は10 年 と な って い て 、 私 も もう すぐ10 年 に な る 時 期 だっ た の で 井 上 校 長 に 転 任 希 望 を 申 し 出 た 。 そ うし た ら「ふ ∼ ん 」と た だ そ れ だ け。や が て2 月 の お し まい 頃 か な 、 僕 が『校 長 先 生 、 転 任 先 の 学 校 、い い とこ ろ が あ り まし ょうか 』と 尋 ね た ら 、『も う一 年 い て み な い か 』と。 半 年 間 の 仕 事 を 見 て い た わ け ね 。 あ とで わ か っ た の だ け れ ど も 、井 上 校 長 は 感 情 的 に も の を 言 う人で は な い 。 僕 は 岡 本 小 学 校 で の 出 来 事 で 、井 上 校 長 は に の 若 造 、な に や っ て ん だ よ 、 人 を 呼 んで お い て 。 そ ん な ら や ん な き や い い 」と 言 っ た と捉 え た わ け 。 とこ ろ が そ うじ ゃ な い 。 若 造 だ と か そ うじ ゃ な くて 、 本 当 に 研 究 とい う立 場 で も の を 言 う人 だ っ た 。「も う一 年 一 緒 にや ら な い か 」と言 わ れ る と、「認 めて くれ た の か な 」と 47 思 う。「で は 、ひ とつ よろ しくお 願 い しま す 」と。 そ し て 翌 年 、「も う一 年 や ら な い か 」と 。そ の 次 の 年 、「 俺 が 終 わ る ま で 一 緒 に や ら な い か 」と。 そ ん な こ と が あ る も の か な と 思っ た け れ ど も 、 僕 か らす れ ば 認 めて も ら って い るよ うに 思 える の で「よろ し くお 願 い し ま す 」と。 そ うし たら 、も う次 の 年 は 言 わ れ な か っ た 。 そ して 本 当 に 退 職 ま で 一 緒 だっ た 。 僕 は 全 国 的 に 有 名 な 校 長 さん に 指 導 され るな ら 、と 夢 中 に な っ て 。 自 分 は 理 科 系 で 「 数 教 協 」、「科 教 協 」、 算 数 は 水 道 方 式 の 遠 山 啓 さん 、「 科 教 協 」は 当 時 国 立研 究 所 に い た 板 倉 先 生 … 。 一 寸 木: そ の 先 生 は 仮 説 実 験 授 業 の 提 唱 者 で す ね 。 小 林: そ う、仮 設 実 験 授 業 。そ うい うも の に 興 味 が あ る か ら 、 会 員 に は な ら な か っ た が 雑 誌 を 読 ん で 研 究 は し て い た 。 そ こへ 、 井 上 校 長 は 、「 初 志 を つ ら ぬ く 会 」で 上 田 薫 先 生 を 中 心 に し た 全 国 組 織 を 作 っ て 、 経 験 主 義 が 否 定 さ れ る が そ うで は な い 。 知 識 は 生 産 さ れ るも の で あ る と い う主 張 の 研 究 集 団 の 幹 部 とし て 活 躍 され た 。 ② 松 田 小 で の 研 究 小 林: 井 上 さん は 校 長 室 に お られ る と きに 、うろ うろ 、 うろ うろ 、 手 を 後 ろ に 組 ん で そこ ら 中 を の っ そ り の っ そ り 歩 き な が ら 。 そ れ が 考 え る 姿 とし て 今 で も 鮮 明 に 覚 えて い る。 机 に 向 か って 頭 を 抱 えて 考 え る の で は な く、や や 上 向 き に 頭 を あ げ て 、ぐ るぐ るぐ る ぐ る。 窓 越 し に 見 える わ け。「さ て 、こ れ か ら 松 田 をど うい う方 向 に もっ て い く か 」と い うこ とで 相 当 に 想 い を 巡 らせ て い る 様 子 が 見 て 取 れ た 。 当 時 、教 育 の 科 学 化 とい うこ とで 井 上 さ ん は 考 え た 。 理 科 と社 会 を 結 び つ け る 一 つ の 論 理 を、 同 じ「 科 学 の 追 求 」だ と。そ れ で 翌 年 か ら 、 理 科 と社 会 科 の 比 較 研 究 で 出 発 し た 。 追 求 す る 子 ど も の 姿 勢 も 同 じ は ず だ と。 つ ま り 昭 和33 年 版 で 道 徳 が 入 り 、 系 統 性 が 重 視 。 昭 和43 (1968) 年 版 で は さ ら にそ れ を 一 歩 高 め て 思 考 力 を 伸 ば そ うと す る 問 題 解 決 の 力 を 高 め よ う とい う方 向 性 が 出 され て い く。 そ こ に 松 田 小 の 研 究 は「弁 証 法 」を 持 ち 込 ん で き た 。 そ の 理 論 の 根 底 に あ っ た の は 哲 学 者 武 谷 三 男 先 生14 の 現 象 把 握 ・実 態 把 握 ・本 質 把 握 とい う 認 識 の 三 段 階 理 論 。 教 育 書 とし て 出 さ れ た わ け で は な い か ら 、 非 常 に 難 解 だっ た 。 そ れ を 井 上 さ ん な り に 、 発 想 の 基 にし て 、 授 業 に 当 て は め る こ と は で き な い か と考 え た の だ ろ う。 理 科 の 授 業 も 社 会 科 の 授 業 も 同 じ こ と。 つ ま卵