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産業論の本質とその問題 : とくに産業連関と企業系列とについて (江頭恒治博士還暦記念論文集)

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六二

産業論の本質とその問題

  ーーとくに産業連関と企業系列とについて一i

西

 さきに︵本誌、大谷孝太郎先生還暦記念論文集︶われわれは、経済学としての産業論の意義にふれ、その性格を明らかに するところがあった。その際の論題は、産業論の構造と産業購造論ということであったが、その問題点はきわめて広 汎で、わすかに一部をとり上げたにとどまる。いきおい、主要なことがらは、別に論ずるととろにこれを残さざるを 得なかった。そこで本稿では、改めてそれらに触れて考察したいと思う。いわば、前記首丈の続稿ということにな る。  産業論の中核た‘るものは、いわゆる産業構造論であり、その場合の産業構造が、クラークやペティーのとり上げた 素朴な考察、すなわち第一次・第二次・第三次産業の分類では、理論的に十分な説明を与えられないととは、すでに 述べた。たとい﹁応との分類を手がかりとしても、問題は、組立てであるところの産業構造が深い奥行きをもち、い りくんだ内容を蔵しているととにある。われわれの課題は、その奥行きと内容とを理論的に究明し、それらを体系づ

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けることである。  しかもその体系は、経済学としてのそれであり、経営学としてではない。新しい産業論が経済学と経営学との分野 にまたがって樹立せられるといっても、それは比喩的に語られたととであり、もとより正確ではあり得ない。しばし ば述べたように、産業は経営の実体を意味するが、その実体は、あくまで企業という主体に即している。しかし、そ のととは、この主体たる企業がもっととろの組織や、その運営を指してのことではない。いわば企業という共通の場 において、眼は外に注がれて、国民経済の機構でそれらが如何につながり、そこに何が存在するか、というととにわ れわれは着目している。産業論が経済学であるというのは、まさにその意味においてである。  いうまでもなくこの国民経済的機構は、交換の機構である。そこでは、価格をめぐって需要と供給とが牽制しあ い、財の生産と消費とが行われる。流通もまたこれに伴う。価値はとくに資本の形で循環し、生産性や収益性が問題 としてとり上げられる。すべて企業を中心としてのととである。しかもとれらの企業は、他面では、固有の技術工程 の主体として成立する。資太・は、すべて具体的に、それぞれの技術過程において資本となるのであるっ経済を支える ものが企業であるというのは、とのことにほかならない。  さて、産業論が経営の実体を明らかにするといっても、それは、必ずしも個々の産業の実情を記述する意昧ではな い。たといすべての産業について、一国の全域にわたってこれを試みる場合でも、そして、その意味でその国の産業 構造が論じられても、それは、ここにいう産業論とは考えがたいのである。もとよりそういう研究はきわめて重要で あり、国民経済を明らかにするため不可欠のことではあっても、それらを系統的に理解する忙ついての理論が、その 上に築かれなければならない。産業論ぽ、まさしくとの理論体系を指して名づけられるのである。  とのことは、いわゆる理論経済学もしくは経済原論が、個々の経済現象を、系統的に理論づけるのと似ている。こ     産業論の本質とその問題︵西藤︶       六一二

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       六四 の学問が、商品の生産・流通を論じ、価格・利子などの形成から所得の成りたちを明らかにし、すすんで、これら経 済諸現象の発展・成長を説明することは、すでに周知のととろである。それと同様に、産業論は、個々の経営の実体 のいりくんだ中から、それらの実体を形成する内容をいくつかの要素から理解し、それを系統的に理論づけることを 目的とする。その理論づけについて、産業構造という概念は、まさに中核たる意味を竜っているのである。  そういう点から、産業論の課題は産業構造の理論に集中し、逆に産業構造論は産業論の主体をなすと考えられる。 ピ そこでわれわれは、この意味での産業構造.が、いかなる内容をもつかを明らかにすべき順序となる。       二  ととにいわゆる産・業連関論がある。投入・産出分析︵ぎ署788葺習巴量ω︶とれである。もともと企業の複雑なから みあいである国民経済では、これらの企業の間に財の循環が成立する。そこで、この循環の運動要素としての投入財 と産出財とが、 一つ﹁つの企業についてではなく、とれら企業を含むいくつかの産業群の間において、国民経済全体 として均衡を保つところのある体系がおのずから組立てられると考える。この組立てすなわち産業構造の説明を、 い わば言葉によって質的に行うのでなく、いわば計数によっFて量的に明らかにしょうとするのが、産業連関論にぽかな らない。その意味で産業連関論は、産業構造の一つの量的把握であるといえる。  もともといすれの産業も、それの必要とするさまざまの財の売買によって支えられている。このことは、 これら産 業の内容が生産に関するものであれ、流通に関するものであれ、ともに異るととろはない。つまり産業構造は、 すべ て取引の連関という組立てとして理解される。たとえば、産業Aは産業Bにある財を売り、その生産のための原料た る財を産業Cから買う。いま産業AもCも、とのような結びつきを順次に、あるいは遡りあるいは辿って行くと、ほ

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とんど無関係と思われる産業相互の間にも、多かれ少かれこの連関が成立するであろう。  そういう連関において、 一つの産業の消長は、他の産業に対して波及効果をもたらす。産業連関論は、単に産業構 造の静的把握にとどまらす、動的に一つの産業に対する政策の適否を判断するための有力な測定や予測の手段として 役だつであろう。とれは産業連関論としては、いわば応用研究であるが、産業構造論の一つの課題である開発理論に ついての、重要な指針たるを失わない。  もとより投入・産出分析そのことについては、技術的にいくつかの修正手続が必要であるし、その計数の作成や解 釈には、また多少の条件を伴うであろう。しかしながら、それにもかかわらす、との分析が示す表式すなわちいわゆ る産業連関表は、国民経済において、ある年度に行われたすべての取引を、いわば網の目で表現し、 一つ一つの網の 目が、国民経済全体といかにつながるかを、一覧的に明らかにすることになる。しかもとのつながりは、一定の技術 関係における国民経済の内部構造を説明する、といい得るのである。  産業連関論の理論的根拠は、決して複雑ではないであろう。それだけに、その計数分析については、私のとうてい 及ばない手続や問題を含んでいる。国民経済の部分的構成である特定の経済圏についてとれを試みる場合には、 一層 そういえる。ここではこれに触れない。ただ、次のような二つの点だけを考えたいと思う。  ます第一の点。右で知られるように、投入と産出とは、産業間の取引を問題としている。この際の取引は、たとい 有形財の売買を考えても、現実には、さまざまの交通体系において個々の企業相互の聞の、具体的な貨物輸送として 現われるはすである。それを連関論では、産業群として総括し、いわば抽象的に取引高として把握する。 そとでわれ われは、これらの取引高を、具体的にいかなる財について、いかなる企業間に行われたものとして見るかによって、 産業構造の実体的なすがたを知るととができるのである。     産業論の本質とその問題︵西藤︶      六五

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       六六  いまとの考察は、貨物の発送・到着表に︸括するととによって、ある程度まで可能となるであろう。すなわち、産 業連関表に示される形式をかりて、それぞれの貨物の発送・到着地点が、それぞれ縦横にならべられる。これらの地 点は、たとえば鉄道輸送についていえば、それぞれの駅であっても、それらを含む都市であっても、ないし府県であ って悉、さらに広く工業地帯・農業地帯をはじめ、いわゆる経済圏であっても、観察の目的いかんによって、,適当に 整理せられればよい。  これによって、それぞれの地点でのその貨物の自給度や、他の地点への移出入の依存度が、およその程度で知られ るはすである。いまとの考察を、できるだけ多くの種類の貨物について行った場合、それぞれの表はそれぞれ異った 傾向を示し、おそらく一致しないであろう。しかし、それが取引の実体であるし、そういういりくんだ関連におい て、企業相互の間に行われる諸取引を、産業群ごとに整理し、いわば抽象的に投入・産出の関連として理解すると き、さきの産業連関表が得られると考えられよう。もとよりこれは、ある︸つの交通体系からの観察に限られている こと、いうまでもない。       三  さて、右の第二の点としてとり上げたいととは、およそ次のようrである。経営の実体の組立てである産業構造は、 さまざまの面からの構成として理解されるが、それぞれの企業が、それぞれの内容でそれぞれの規模をもつように、 産業構造の諸構成も、またそれぞれの規模を有するものとして考察せられる。すなわち、 それらの構成は単に抽象的 な概念上の組立てや、比例上の構成としてではなく、すすんで具体的な量的実在としてこれを捉えるととができる。 のみならす産業構造の発展は、その質的変化とともに、量的な成長をそのうちに含んでいるのである。

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 そとで、産業についての考察においては、計数のうちに質がびそみ、計数によって具体的に質が表現されるといえ る。もともと産業構造は、ある大きさをもつ実在であるが、そうであればこそ、いわゆる経済の体質や、底の深さの いかんは、計数的にそれが説明される。そしてそのことが、もろもろの企業にとっても、それらに直接・聞接に結び つく家計にとっても、現実に機能の内容と規模とを決定するのである。  そういう量的把握は、いうまでもなぐ、整備されたもろもろの統計的資料によらなければならない。 との種の統計 的盗料は、今日かなりの程度に準備されているし、われわれは、それらの分析と解釈とによって、産業構造のそれぞ れの構成を理解することができる。すなわち産業構造を、複雑な函数関係として、ある経済量の変化が、直接・闇接 に他の経済量の変化をもたらすという結びつきにおいて、その構成の一つ一つを具体的に把握し得るのである。経済 が生きものであるというのは、そのことにほかならない。  ととろで統計的資料の解釈については、いうまでもないことであるが、実はその根底において、それを心然的なら しめるある筋道が本来的になければならない。つまり量的把握を伴うととろの理論が、ます横たわっているべきであ る。理論というのは、まさにそういうものであろう。しかしそれは、一定の予想された理論の裏付けのために、統計 が用いられるというととではない。統計それ自体は、何ものをも説明ぜす、ときとしては虚偽を語るかもしれないの である。  ととろで、統計的資料の整備がかなりの程度に見られるといっても、それは、国民経済の全般に関することであっ て、との構成単位たる個々の地域や産業については、かえってそうでないことが多い。とれはまことに奇妙である が、事実なのである。すなわち第一には、統計作成の方法がいわゆる抽出調査︵u。餌ヨO巨伽q︶によることが多く、悉皆調 査︵8琴南。8ω繧く亀︶が軽んじられることと、第二には統計行政が中央に集中する結果として、当該地域や部門では、     産業論の本質とその問題︵西藤︶       六七

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六八 かえってみすらからのことを知り得ない、ということにもとっくのである。  しかしながら、いすれにしても、﹁面量的に考察せられる産業構造は、生産力の構造であり、とくに生産諸力のそ れを意味している。ところでその生産力は、入間の生活体系のうちから生み出されるが、 いまその生産力体系は、内 容に即してしばしば文化と呼ばれる。あるいはこれを民力︵。鼻癖巴℃○三聖ω︶と名づけ得、るであろう。生産力は、実は この民力の上に、いわばその表現として成りたつのである。  そこで、そういう意味での民力も、またある点から量的に測定せられるであろう。すなわち、その民力を構.成.し、 その測定の標識となるものは各般にわたり、たとえば人口やその増加数であったり、 いわゆる生活被保護者数などの 労働・厚生事情であったり、学校施設・薪聞発行数などの教育∵丈化設備であったり、電力・水道消費量や公益事業 費などの外部経済的要素であったりする。  いま、それらが複雑に結びつき、あるいは積極的にあるいは消極的にはたらきあつて、社会的な生活体系として、 何らかのまとまりを持つとき、それがいわば民力を意味する。産業構造は、まさにそういうものの上に築かれ、むし ろそれの表現として上層の構造たる成りたちを示すことになる。われわれが、産業構造を量的なものとして理解する のは、その意味においてであるし、質は、その量のうちにおのすから含まれているといえる。  経済のいわゆる底の深さや体質のいかんは、もとより産業構造そのものの構成上の均衡に依存するが、同時にま た、産業構造そのものと、この民力との聞のつりあいにもそれが示されなければならない。開発理論に問題となると ころの後進︵び節O二毛帥吐山︶または低開発︵・民①占守く巴。o①α︶というのは、その不つりあいが顕著なことを指している。開 発理論は、ひとり経済学的であるのみならす、同時に社会学的でもあり得るわけである。  いま民力の測定については、たとえば日本赤十字社が府県別にとれを行ったものを挙げるととができる。もとより

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その調査目的や、統計作成上の技術については、いろいろの問題点はあろう。いまは.それに触れない。 ととで指摘し たいのは、ただ、.産業構造の具体的理解については、その根底において、量的に把握されたこの種の民力への考察が とり上げられなければならない、というととである。 四  さて産業構成について、その計数的な把握を老えたわれわれは、次ぎに、その計数に裏づけられた質的な内容を見 なければならない。ことに質的というのは、いわば言葉をもって説明せられるというととであるが、しかしそのこと はおよそ計数を用いないという意味ではもとよりない。もろもろの統計的資料は、何よりも具体的・精確に、との質 的理解に役だつのである。  それにもかかわらす、さきのものをあえて計数的把握といったのは、 とくに画数関係的考察に注目するからにほか ならない。すなわちその場合には、、産業構造を均衡的な構成として理解し、そとに器けるもろもろの産業闇の関係 はすべて函数的であり、その函数的であるということに、計数の意味が認められたのである。  もとより産業構造を、均衡的・酌数的構成として理解する立場は、十分に理論的根拠をもっている。しかし同時 に、この構成は、他のいくつかの構成を予想し、それらと不可分の関連にあるはすである。とのような構成の把握 を、さきにわれわれはとくに質的と呼んだ。しばしば述べたように、産業は経営の実体であるという点からいえば、 その実体たる意味は、むしろこれらの構成に見出されるであろう。とのととを進んでいえば、函数的な把握は、その 一つの形式を意昧するのである。  さて、産業構造の質的構成の第 は、ます企業の連繋として現われる。ききの函数的把握は、いわば産業の外面に     産業論の本質とその問題︵西藤︶       六九

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       七〇 関しているが、いま少しく内面に立入って、経営がたがいにつながっているいわば奥行きをながめると、その奥行き の一つは、ますこの連繋という形をとるであわう。  ところでぴとり生産についてのみならす、流通に関しても、これにたすさわるもろもろの企業が、どとで、どのよ うな規模で、どのような仕事を、どのような方法で営むかというととが、いわゆる産業構造にほかならぬとすれば、 立地・規模・技術・営業政策などさまざまの面から、その産業構造の構成が分析・理解されるはすである。そして、 それらの問題点を相互に不可分の関係において考察する理論が、産業構造論を形づくることになる。そういう産業構 造論で、とれらの問題点とならんでとり上げられるものが、とこにいう企業連繋にほかならぬのである。  さてそれぞれの企業の経営は、資本の調達や機械・設備の建設、原・材料や労働の購入・雇用、製造の技術過程、 製品の販売などの一連のつながりについて、あるいはその企業独自の計画が行われ、あるいは他の企業と共同の計画 がなされ、またはとれからの指示・壷・制・支配を受ける。そういういうとりどりの内容をもった、きわめて錯較した すがたとして、いまわれわれは企業の連繋を問題とするのである。  ところで企業の連繋ということは、 一面では企業結合の形で、他面では企業系列の形で、 それぞれ老察せられる。 前者については古くから論じつくされている。カルテル・トラストなどの問題これである。しかし企業系列について は必ずしもそうでない。両者の関連は、実際の上でも概念の上でも明確とはいいがたいが、 いすれにしても、営業政 策が完全に自柔・独立しない場合を指す点で、たがいに共通している。ただ他の企業からの働きかけの条件や内容が 異るという点で、両者はもと竜と区別して論じられるべきである。  そうはいうものの、この系列は、それが近しい用語であるにかかわらす、その概念が確定しているわけではない。 場合によって、かなり異った意味をもたされている。しかし、そのときどきの不特定の影響としてではなく、ある期        

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・ 間を通して、企業の営業政策が、特定の相手方企業に働きかけて、その相手方の営業政策を具体的に支配し、その方 向に経営を動かすという関係が認められるとき、それがそのように呼ばれると老えて差支えない。  とのような企業系列は、具体的には、企業結合と表裏しているであろう。すなわち、それはとくにカルテルにて見 出される。いうまでもなくカルテルは、ある一つの営業政策を申し合せで共通するととによって、 いくつかの企業の 間につくられる連繋であって、市場に対する独占的な支配を目指す。  その場合に企業は、その営業政策を共通にしながら、他方ではこの営業政策に関連した別な営業政策において、他 の企業に結びつくという、別な連繋に置かれるととがある。との後の連繋が、 ここにいう企業系列を意味する。かく してそれぞれの企業は、それぞれの奥行きをもった、いりくんだ連繋において成立することとなる。われわれは、国 民経済を網に、そして企業を網の目にたとえ得るが、その網は、実は、このような立体的な構造を示しているのであ る。この立体的な構造が産業構造であり、またその実体が産業にほかならない。企業系列は、との産業構造の一面の 構成として、ここにとり上げられるのである。       五  さて企業系列は、さまざまの型をとって成立する。それは、営業政策がさまざまのととがらに関係するからであ る。いまその重要なものは、あるいは生産の技術過程に、あるいは製品・原料などの販売・調達の過程に、あるいは それらに結びついた経営資本の貸借に、それぞれ関係するであろう。そしてとれらも、またたがいに不可分に結合し ているのである。  ます生産の技術過程において、工程の﹁部が、別の企業に担当せしめられる場合が考えられる。 つまり、みすから     産業論の本質とその問題︵西藤︶       七一

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●        七二 製作することなく、その設計にしたがって、他の工場にとれを行わしめる方法である。多くは下請の関係を示すけれ ども、同一企業の間でも、本社工場と支社工場との間には、とれと同じ形が存在すると考えてよい。  しかし、この本・支社工場の関係は、たとい広い意味においても、これを系列と見るととは適当でない。 いまわれ われが技術過程に着目するといっても、それは単に、生産工程そのことのみをとり上げて、それを担当する技術単位 がそれぞれ別個に成立することを問題としているのではなく、その技術単位が、もともと企業としての資本計算にお いてなされているかどうかということを考察しているのである。つまり、その技術過程を支える資本計算が、その創 意と責任とにおいて、いすれも独立した主体性をもっているとき、そのととをとり上げて、ことに系列の関係を見出 すことができる。  その意味で、技術単位たる工場が、工程を分担することにおいていくつかあっても、資本計算の単位として主体性 をもつ企業が一つである場合には、この技術上の連繋は、系列とは見られがたい。系列は、もともと経済的関係であ って、単なる技術関係ではないからである。本・支社工場の関係は、まさにこれに当る。  ところで他方、次のような型が考えられる。すなわち、生産物術過程そのことに直接のつながりがなくとも、生産 者が、その製品の販売について、商社との間に、実質的な被支配の関係がある場合である。この場合には、生産者に おいて、商社の商標が用いられたり、製品の規格・設計など技術上の内容について、商社からの指示があったりす る。この商社は、いわゆる問屋資本としての性格をもつが、その問屋盗本がどとまで生産者の資本に働ぎかけるかに よって、系列の意味は決して同じでない。  ところで、さきの技術過程での系列は、いうまでもなく生産盗本の間の連繋であるが、との取引上の系列は、生産 資本と商業資本との間の連繋として考察せられる。しかし、生産資本と商業資本との間の系列は、 とのように後者が

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前者を支配・牽制する型のみでなく、逆に、前者が後者を支配・牽制する型をとることがある。すなわち、生産者 が、自己の製品を組織的に販売するについて、あるいは販売会社を分離し、もしくは専門商社をこれに従属せしめる 場合である。商標についても、前者のものが後者に要求せられることがあり得る。  このような異種の資本の間の連繋は、金融脚本に対しても見られる。この場合には、従属的地位に立つものは、あ るいは生産資本であり、あるいは商業資本である。すなわち金融機関とくに銀行が、生産業者や商社に対して、 それ らの流動資本についてはもとより、固定資本についても多額の融盗を行い、その融資の背景によって、 これら企業の 経営の実質に影響を与える。とぎとしては、重要な入事に介入するととなしとしない。  さきにわれわれは、企業系列が、カルテルと不可分の関係にあることを述べたが、 いわゆるトラストもしくはコン ソェルンにおいては、このような金融機関による連繋は、きわめて明瞭に現われる。この場合には、銀行以外の金融 機関たとえば保険会社も、この連繋の関係に入り込み、同じ銀行の系列のもとにある生産企業との間に、ぼとんど  手に損害保険契約を結ぶ。系列の関係は、きわめて多面的で複雑となるのである。  さて、わが国の経済は底が浅いとしばしばいわれる。それは企業の資本構成において、他入資本が大きい割合を占 め、とくに本来膚己資本で賄わるべき固定資本についてそれが見られる、 という事実に密接に結びついているのであ る。金融機関の生産企業に対する系列上の支配は、この点から顕著とならざるを得ない。  もとよりこのような金融機関は、大都市における大規模のものであって、その資金は、大都市に本社をもつ大企業 からの預金にこれを求めるとともに、同時に、都市の労働者や申小企業、 ことに地方における農民や中小企業から、 これを仰いでいる。すなわち、その資金のきわめて大きい部分が、実はぎわめて零細な預金から成りたっているので ある。     産業論の本質とその問題︵西藤︶      七三

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       七四  しかるに他方に器いて、貸出はもっぱら大都市の大企業であって、中小企業や農業に向けられがたいことに注意し なければならない。このことは、比較的規模の小さい金融機関、とくに地方銀行においても多かれ少かれ認められ、 それらの大都市における支店を通じて、それが貸出される。つまり、群小の企業は、資金の供給者として、金融機関 を通して大企業を支えながら、実は資金の需要の面では、無援の状態に置かれているといえる。 一般に中小企業が、 大企業からさまざまの形の資金的援助を受け、その点で彼らの系列のもとに甘んずるのも、このような事情にもとっ くのである。企業系列は、 ︸面で大企業と中小企業との利害の対立をはらんでいるのを、無視することはできない。 技術上の革新と、これに伴う企業の大規模化は、との傾向をさらに大きくするのである。 占 tN  企業系列は、もとより右に述べたところにのみ限られない。ただここでは、企業がその経営に当って、具体的な営 業政策についてどのように結びつくかという、 いわばその形式に触れたにとどまる。つまりこの形式は、さきに述べ た投入・産出分析が、産業間の諸取引を画数の関係として促えたものを、とくに企業の営業政策に着目して、との取 引がいかに牽制・支配されるかを問題としている。その意昧で企業系列は、投入・産出分析に対して、産業構造を明 らかにする立場からは、内容的な奥行きを示すといえるのである。  そうはいうものの、この系列をもたらすそれぞれの営業政策は、さらに具体的に、さまざまの内容を抱いて成立す る。すなわち、それぞれの企業にとっては、もろもろの矛盾した要件を満たすべき現実の立地において、またそれぞ れ異った技術水準をもった機械・設備のいくつかの配列において、さらにとれを採算的に最も有利に実現するととろ の、晶種の選択や規模の決定に伺いて、それが具体的に与えられるのである。

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 のみならす、技術の改良・進歩がいちじるしい場合に、革新的な技術︵一口︼PO︿騨二〇昌︶に適応するために、既存の機 械・設備をいつどのように取替えるべきかというととは、ぴとり生産諸工程についてのみならす、経営の管理部門に 関しても、営業政策の基本的な課題としてとり上げられる。そしてとのことは、資本の調達・運用において、自己資 本と他人資本とをどのように組み合わせ、配当・償却・蓄積などをいかに按配すべきという問題と、密按につながる のである。  さらに進んで、そういう点から、出でては原・材料の調達や、製品の販売について、入っては労務の地理や経営上 の諸組織について、複雑な問題がとれにからまる。このような多様な面に関してのもろ秀ろの営業政策が、ある体系 をもって統一せられると見るとき、その体系の発展のすがたが、経営の質的な段階として意識ぜられる。経済の底の 深浅や体質というのは、実は、それぞれの企業のとの経営の段階のいかんに帰結するととである。  いま企業系列は、およそ右のような諸問題をその内容として、具体的に成りたっている。それ.が、産業構造の理解 について一つの奥行きを形づくるというのは、まさにとの意味においてである。  ところでとこに、との系列は、単に企業経営のいわば内部的事情からのみではなく、国の政策のいわば外部的事情 からも、それが与えられることに注意しなければならない。つまり、いままでの考察は、国の一定政策を前提とし て、その上で経営の立場から系列を問題にしたのであるが、この政策に根本的な変化がある場合には、またそれに応 じた経営の立場が、新しくとの系列に作用することになる。それをいま、本年度から大巾に実施ぜられたいわゆる為 替・貿易の自由化に見出することができよう。  竜とよりこの問題は、にわかに論断するにはあまりにも重大なものを含んでいる。ただここでは、この政策のもと では、貿易商社による系列がかなりいちじるしくなるであろうという、 一つの見込みにのみ触れるにとどめる。しか     産業論の本質とその問題︵西藤︶      七五

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       七六 もとのことは、とくに大規模生産企業において、競争と技術革新とによる過剰設備投資や、それに応ずべき資本蓄積 の不足が、とれをもたらすのである。  競争とく忙諸外国とのそれにさらされていたとはいうものの、わが国の諸工業が、為替や貿易の制限によってむし ろ保護せられた事実は、とれを否定しがたい。生産の分野が多岐にわたり、機敏な商機を捉えることが経営の根本を 動かす段階になると、この面で専門的な貿易商社とくに綜合商社への依存は、いきおい避けがたくなろう。それとの 間の取引が、冠しい系列の発生や発展を生むであろうという予測は、決して不当とはいえない。戦前、巨大な紡績会 社が綿花商を支配して、わが国の産業を支えたとは全く異った事情が、おそらく新しい産業構造上の問題を生むとと になるのでないかと思われる。  右で企業系列を述べたわれわれは、しかしながら、その一端に触れたにすぎない。系列が、実は奥行きをもっとい ったにかかわらす、その奥行きについての考察をすべてとり上げたわけではない。考察すべき諸問題はたがいに不可 分の関係で、きわめて多くが残されているのである。  それらの問題点は、他方では投入・産出分析すなわちいわゆる産業連関論とともに、 ﹃つ一つ究められなければな らない。そういう考察が、いまわれわれにおいては、産業構造論を組み立てるととになる。 いすれ順次にその機会を 得たいと思う。

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