宮下清計氏のこと
1浜松中納言物語研究史稿1
中 西 健 治
は じめに 浜 松 中納言物語の研究は、今日でこそ平安末期物語群の一つとして年間にいくつかの論文が発表されるようになっ ているものの、つい半世紀前まではあまり注目されない物語の一つではあった。例えば昭和五年に刊行された藤田徳 ﹁ 太 郎氏著﹃平安朝物語選要﹄の浜松中納言物語の研究書の項には岡本保孝の﹁浜松中納言物語系譜﹂しか示されてい 15 ず、少し後の昭和十一年に出た清水 泰氏の﹃平安朝物語新選﹄のこの物語の解説では﹁よき注釈書なし﹂とさえ述 一 べ られているのである。その後、近年になって数々の書誌的発見や手堅い研究が重ねられてきて、次第に市民権を持 つ に 至 ったのであって、かの源氏物語とは同じ物語作品とはいえ、ずいぶん異なった研究のあしどりでもあった。や が て 昭 和三十九年、松尾 聰氏校注の日本古典文学大系が刊行され、この書によって研究基盤が確立されたことは大 方の認めるところであろう。松尾氏の厳正な校注態度によって浜松中納言物語がより深く、的確に理解されるように なったのであった。その氏が古典大系の﹁解説﹂で次のように述べておられる。 研 究 としては、古くは詞寄せの類に桃園文庫蔵岸本由豆流筆の一巻、国立国会図書館蔵浜松中納言物語目録一巻 ︵高田与清編、群書捜索目録、第=冊︶、系譜に京都大学図書館蔵岡本保孝編のもの一巻があるほか、ほとんど見宮下清計氏のこと るべきものはないようである。明治以降でも註釈として、わずかに前記の諸叢書本の頭註が見られるだけであっ た のが、宮下氏の校註本が出て、はじめて精密な頭註・解説・年譜・系譜が具わった。氏の施された頭註は、開 拓者のお仕事の当然の運命として間々失考とみられるふしもないではないが、きわめて誠実な態度で多くの不審 を明らかにせられた劃期的な業績であることに何等疑念を挟むべき余地はない。本書における筆者の頭注は、氏 の お か げを蒙ること甚大であった。 ︵一四〇頁︶ また、鈴木弘道先生著﹃平安末期物語研究史/寝覚編 浜松編﹄の﹁第二章 浜松中納言物語研究史﹂﹁第三節 第三 期 の 研 究 一 第二次世界大戦後、昭和三十年までの研究﹂は、次の文章から説きおこされている。 浜 松 に関する画期的な注釈書が現われたのは、第二次世界大戦後で、その嗜矢として、昭和二十六年に宮下清計 ︸ 氏 校 註 ﹁ 浜 松 中納言物語﹂︵﹁新註国文学叢書﹂二十五。大日本雄弁会講談社刊︶が刊行されたが、その前年の昭和ニ ー6 十五年には、広島市立浅野図書館蔵の浜松末巻を翻刻して詳細な解題と略注を施した﹁浜松中納言物語末巻﹂︵古 一 典 文 庫第三十一冊︶が松尾 聰氏によって公にされている。この二本は浜松研究者にきわめて多大の便宜を与える ことになったが、いずれも部数が限られていたため、たちまち入手困難となったのは、まことに惜しむべきであ る。 ︵三二五頁︶ この文章に続いて松尾 聰氏の﹃浜松中納言物語末巻﹄の解説の一部、松村博司氏の﹁浜松中納言物語と更級日記に おける﹃あはれ﹄について﹂︵﹁日本文学研究﹂昭和二十五年五月号︶の要旨が引かれ、次に﹃新註国文学叢書 浜松中納 言物語﹄︵以下、﹃新註﹄と略称︶の解説の一部が掲げられているのであるが、その前文として鈴木先生は、﹁頭注は、従 来 の 類 書 と比較して最も詳細で、きわめて有益である。﹂と述べられ、九十頁に亙る﹁解説﹂、さらに﹁補説﹂がゆき
わ た ったものであワ、その・?え年譜や登場人物の系譜などを認すス付録﹂も含めて、﹁読者・研究轡にとって甚だ便秘 なものであるが、今ほではす轡、に稀議本の一つになっている﹂ことを惜し象れてもいるのである。もっとも、あウが た い・ζ に、平成十一年、クレス出版から﹃物語文学響究叢垂逗全二十六巻︵紳野藤礪亥氏監修・解題∨の第八巻とし て復刊きれたために、ア一の憂いは解消きれたのであった。本書、玄典大系、そして近く刊行される滋醗灘夫氏の新編 舞本吉蔽ハ文学全集とを併せ、浜松中納言物譲研究は確実に蔚進しているのである。そのような縛であればこそなおさ らに、原点を見据える意味においても研究亮上薩期的業績と評される﹃新註﹄に就いて学んでおくことは必須の諜題 で あると思うのである。 一 ﹃紙灘﹄の誕盤乞鞍籔・嚢勢 川瀬一馬残は﹁随筆 蝿牛﹄のなかで﹁新註国文学叢書﹄ 17 の刊行計画について次のように述ぺておられる。 一 この上京の蒔︵松芽簡治氏ノ葬儀β筆著注∨、高木君から楕 籏 談を受けたのが﹁薪註固文学叢書ぶの出版である。敗戦 真 写 のこの聴点で灘本民族はもう一度真に古興を顧みる心が 必 要 である。中でも今の蒔世で是非とも国民に読ませた いものは何と何か。先ずそれを択んで内容がよく理解さ れ る読みやすい古輿を提供したいと思う、是非力を貨し てくれとのことである。緩木蓑は麟語漢文の古典をしっ 庸呂、ζ清計幾のこと
宮下清計鳶のこと か り読み込んだ基礎を持っているから、大事な時世にこういう企爾も 立 ったのである。︵中略∨ 奈 良時代から江戸時代まで、七十五巻・百 研の企露を立て、私は疎 隠汲先の吉野へ帰つて、翌一∵ヤ一年惑月には方丈記の原稿を完了し、二 十二年三月に重京へ復帰転入した。︵中賂︶私は監修の責鍾として、各 窃 担当者の原稿に自を通して訂迂を索めた。匹六判で扱い易い形にした 薄 写 けれど、まだ鐸分瀦紙その簸一堤の資財が甚だしく不足であるのと、 インフレの選行最午で叢書の逐次刊菅は答易でなかった。その上、同
志 の 手 も少し不尾で、漸く二十五懸凛で行った鋳、臆問は源庇物語ブ 一 票 ームになりかかったので、源氏を出して盛り返そうということになり、 18
かねて源氏を引き受けることになっていた山岸徳平先生に力を添えて ︸ 欝うことになった。 ハ三〇二∴二〇三頁︶ かくして髭岸徳平・能勢朝次・佐偵梅友・川瀬一馬各薦を監修者として﹁新註国文学叢護﹄は昭秘二十三年五繕め﹁筏 然 草・力丈該﹂を第一回配本としてつぎつぎと磁行されたのであったが、堤年後、突類として休止されてしまった。 その第二十五巻陰にあたるのが宮下清計氏担当の浜松中納言物譲であったのである。宮下清計氏の東︷丞高等師範学校 に お ける∼年先輩が川瀬一馬氏であり、東京文理科大学で織岸教授の指導を受けて浜松中納言物語を卒業論文として 提出された窟下民が狡淀者に選ばれたことは、あるいはごく自然なごとであったと思われる。余談ながら宮下氏と川 瀬 氏 との交際は終生続いたのであった。︵写真②参照︶氏は文理大卒業後、﹁溺文学論叢﹂に矢継ぎ箏に浜松中納↓三捲物語
に関する論文を発表されており、その後もいくつかの論文を執筆されているが、それらすべてを﹃新註﹄の﹁解説﹂ と詳細な註釈に注ぎ込んでおられるのである。﹃新註﹄の﹁月報﹂に寄せられた山岸徳平氏の﹁浜松中納言の事ども﹂ に は 次 の ように記されている。 さて、宮下君は、この転々と書写による誤りの多い本文に取り組んで、今日まで十余年、一日として怠らなかつ た。昔、山形師範に勤務中も、註解を造つて私に寄せられたが、残念ながら、それは、戦災によつて、私の家や 本 の 類 と共に、烏有に帰した。然し、多年倦まず、対象を掘り下げ、血の出る所まで切り込まれた研究の集積が、 今 度、いよいよ世に出たのは、同君の喜びだけではなく、斯界に多大の寄与をなすものとして、大慶至極である。 浜 松 中納言の本文や註解の研究が、此処に、一線を画した事になるのは、疑ふ余地がないと思ひ、宮下君に感謝 一 し、その労を大いに謝する次第である。 19 ところで、﹃新註﹄の学問的姿勢と評価の端緒を窺うにはまずは﹁凡例﹂を見るにしくはなく、十三項目に亙って説 か れ て いる文言のうち、注目すべきいくつかをあげてみることにする。 ④ 本 書 は、巻一から巻四までは丹鶴叢書本を底本とした。旧帝国図書館蔵本、尾上八郎博士蔵本を参考にしたが、 底本の面目を重んじて、私意による訂正は行はない。明らかに誤りと認められる箇所や疑問の存する点につい ては、他本と対比しつつ頭註に私見を記した。
O
底本は丹鶴叢書本尾上本とも、適宜漢字を当て、送りがな、かなつかひを正し、句読点を附したが、底本の読 み 方については私意を加えず厳密を期した。 宮下清計氏のこと宮下清計氏のこと ω 巻一から巻四までの頭註については、校註日本文学大系本及び博文館叢書本の頭註から多くの恩恵を与へられ たが、なほ新見を出すべく努力したつもりである。頭註としては過分と思はれるほどの字数を費したのも、で きる限りの精解を念願したからである。 ω 巻 五 は従来註釈がなかつたが、本書は最初の試みとして頭註を附した。不備の点もあらうかと思ふが、大方の 御 批正を願ひたい。 ω 解 説 は主要事項を概説し、詳述を要する事項については︵解説︶補説を附した。 ω・㈲は底本採択に関わる問題である。明治・大正期にかけて出された浜松の校注本︵日本文学全書・第六編、国文大観・ 物 語 部三 雑上、校註日本文学大系.第二巻など︶は尾上本の発見される以前の刊であるから四巻本ではあるものの、そ 一 の 本 文 校 訂 は不十分なものであった。比較的頭注が整備されている校註日本文学大系でさえ、﹁例言﹂に﹁尾上八郎博 20 士 所 蔵の写本をもととし、二三の異本を参照しました﹂とあるごとくであって、仮に尾上本を忠実に閲していたなら 一 ば 浜 松 の 本 文は当然、五巻になっていたはずなのである。また昭和の初めに出た校註博文館叢書や新釈日本文学叢書 も本文校訂という点からみれば、今日の研究水準からはいささか不満の残るものであった。わずかに藤田徳太郎編﹃平 安 朝 物 語 選 要﹄︵昭和五年十二年発行︶は浜松をごく一部分︵八頁︶取り上げ、その巻数について﹁猶、最近終の一巻発 見 せ られて、全五巻となりたれど、初の一巻は未だ備はらず﹂と尾上本の存在を意識しつつも、本文は丹鶴叢書によ っ て いることを明記しているのであった。そのような情況にあって、底本に関して﹁私意による訂正﹂を避け、不審 箇 所 に はその旨頭注に記すという厳密な姿勢は実に高く評価されなければならないことであろう。一例をあげておく。 い で や 思 ひ 立 た ざらましかば、いかにいみじういぶせからましと、ようつこの御命にては、慰みて、頼もし嬉し と思へる気色を、 ︵﹃新註﹄九九頁・﹃大系﹄一五六頁︶
﹁ この御命﹂の﹁命﹂の箇所は、﹃大系﹄補注︵一三︶でも不詳文字として諸本間の異同に触れ、﹁前﹂﹁心﹂﹁衆﹂とす る本のあることから、﹁前﹂の可能性のあることを示唆されているが、﹃新註﹄の頭注では、底本の傍書﹁心 一本﹂ にも触れながら、﹁﹁心﹂ならば意味は通ずるが、﹁この御前﹂などの誤写ではあるまいか。さすれば、御子の御前の意 となる。﹂と本文への厳正な不審表記と的確な私見を簡潔に記されているのである。 ω・ωは浜松中納言物語研究史上、最大の功績ともいうべき頭注の精密さについて自信をもって表明されていること である。見開き二頁の本文に対して両頁の上段のみでなく、まま奇数頁の左数行分を三段に分割しての詳細な注が記 されているのである。本文の通釈、本文の異同、考証など読解するに手助けとなるような記事が、先にも引用した松 尾 聰 氏 の 言 の とおり﹁きわめて誠実な態度で﹂施されているのである。これについての用例はいま省略に従わざる をえないのであるが、画期的注釈の範たる﹃大系﹄の母胎あるいは前身として﹃新註﹄があったとみることは紛れも 一 ない事実であろう。この点について宮下氏の恩師、山岸徳平氏が﹁此処に、一線を画した事になる﹂と評されたのは 21 決 して過大評価ではなかった。とりわけ巻五の頭注はときに本文の四、五行から七、八行分を全訳するような箇所が 一 ままあって、﹁最初の試みとして頭注を附﹂す作業の関心が本文読解という点に注がれていたとみられるのである。巻 五 については既に松尾 聰氏の考証論文︵﹁浜松中納言物語末巻略考﹂・[国語と国文学・昭和六年四月]/﹁浜松中納言物語 末巻に就いて﹂・[文学・昭和六年十月]︶でその大要が判明していたのであるが、本文に即しての具体的読解は﹃新註﹄ によってはじめてなされたことであった。 ω の ﹁解 説﹂は十二項目、四十五頁にわたり全般的な説明を記し、その後にほぼ同じ頁数を費やして﹁︵解説︶補説﹂ が ある。これらは﹁補説﹂の末尾に附記されているように﹁昭和二十五年度文部省人文科学研究奨励交付金を受けて﹂ なされたものと思われ、第一章の﹁平安時代末期の世相﹂や、続く﹁時代思潮とこの物語の史的位置﹂という巨視的 な観点からの考察や浜松中納言物語を説く際に必ず触れねばならない作者、題名、首巻、唐の描写、構想、諸本や注 宮下清計氏のこと
宮下清計氏のこと 釈書・参考書類に及ぶ﹁解説﹂、首巻をめぐる諸説吟味考証や﹁末巻の巻数に関する諸説並びに私考﹂﹁唐の描写に対 する諸説﹂という微視的な点に触れる﹁︵解説︶補説﹂とがあって、充実した研究書の体をなしている。 以 上、﹁凡例﹂の中から﹃新註﹄の執筆姿勢を窺い知ることのできると思われる数箇所をあげてみた。今日でこそご くありきたりの事柄も史的位相に据えて的確な評をくだすべきで、当時、平安末期の物語は日陰の土壌に細々と育っ て いた作物のように扱われていた。それに温かい日光を浴びせることは必ずしも容易なことではなかったはずである。 その意味で﹃新註﹄の完成によってこそ日の光が隈々を照らし出すことになったと言っても過言ではないであろう。 二 宮下清計氏の経歴 ところで、﹃新註﹄の著者・宮下清計氏とはいかなる御経歴のかたであろうか。これについて記しておこう。氏が教 22 育 関係機関に提出されていた履歴書をもとにして、その要点のみを摘記した。 一 ︻ 本 籍︼長野県上伊那郡中沢村二六八〇番地 戸主 粂雄 長男 ︻ 生 年︼明治四十︵一九〇七︶年十二月一日 ︻ 経 歴︼︵主要項目のみ︶ 大 正 十 五 二 九 二 六︶年三月 長野県伊那中学校卒業 同 年四月 東京高等師範学校文科第二部入学 昭 和 五 二九三〇︶年三月 同 校 卒業 同 年三月 青森県立青森中学校教諭
昭 和 七 ︵一九三二︶年三月 同 校 休職 同 年四月 東京文理科大学国語学国文学科入学 昭 和 十 二九三五︶年三月 同 大 学 卒業 同 年三月 静岡県立静岡中学校教諭 昭 和 十 五 二 九 四〇︶年五月 山形県師範学校教諭 昭 和 十七 二九四二︶年三月 山形師範学校附属国民学校主事 昭 和 十八 ︵一九四三︶年四月 山形県師範学校教授 昭 和 十 九 二 九 四四︶年十一月 長野師範学校教授 昭 和二十 ︵一九四五︶年三月 召集により東海第五十部隊に入隊 ︸ 昭 和二十=一九四六︶年五月 召集解除復員 23 ︸ 同 年八月 信越北陸地区学校集団教員適格審査会の判定 昭 和二十二二九四七︶年四月 長野県上伊那郡中沢村立中沢中学校事務取扱 同 年五月 同 校 校長 昭 和二十五二九五〇︶年六月 文部省より昭和二十五年度人文科学研究奨励交付金を受ける ︵平安時代末期文学に於ける史的特殊相︶ 昭 和二十六二九五一︶年三月 長野県伊那北高等学校教諭︵教頭︶ 昭 和二十七二九五三︶年十一月 長野県高遠高等学校校長 昭 和三十二︵一九五七︶年四月 長野県木曽西高等学校校長 昭和三十五︵一九六〇︶年四月 長野県教育委員会高校教育課教学指導課係長兼指導主事 宮下清計氏のこと
︹ ド清詐氏のこと ︵膠語・社会纒当∨ 紹籏三十九二九六饅︶年膠月 長野県県ケ己高等学核校長 昭 和 四 十一ハ一れ六六﹀年三刃 海 校 邊職 昭 穣陸十一︵一九六六∨修饅月 長野嬢教膏センター︵環、援野誉産彩教育センター∵所長 昭 和 霞十田◎九六九︶年三三月 漬 センター退職 躍 和 顔十五︹一九むOW年十月 私立塚原学懸天雀高等学校ハ鏡、長野県松W薦旅∨校長 昭和四十八二九七⋮、一︶年三月 同 高等学校退職 昭 看 懸 十 九 二 九 七践﹀年三拷 駒ケ根毒教育委“会に勤務 昭菊五十二︹一九七七∨年九月 同 藁鳥会退修一 夢成 六 ︿ 九れ四﹀年九房三十日 死去ひ戒名、織態溝淫居士︶ 24 宮 デ氏はこの経慶が示すとおりの教育一筋に勤めあげた方であること、同時に教育雄県長野県において早くから指 導 的 立 場 に つ い て おられたことが竣らかとなろう.そのようななかでいったい︹新註﹄をどのように完成させていか れたのであろう。後年、名古蘂大学教授となられた松村博司氏と詞僚の時期があり、二入で深更まで研鰻をつまれた
ことがあったことが、あるいはひとつのおおきな要因であったのかも知れない。﹃松村博司先生古稀記念 国語国文学 論 集﹄︵昭和五十四年十一月︶の巻末に付された﹁松村博司先生年譜・主要編著論文目録﹂に宮下清計氏の記事が次のよ うに見える。 昭 和 十一年︵一九三六︶ 二十七歳 四月、東京文理大卒宮下清計赴任し来る。これより後二人にて平安朝物語類の輪講を行う。 昭 和 十 六 年 二 九 四一︶ 三十二歳
宮下清計氏山形師範に赴任し来る。再び輪講会をはじむ。 一 25 宮下氏の年譜の年次表記と一年の齪鯖はあるが、いずれにせよ夜おそくまで真剣に学問談義をされていたことは宮下 一 夫人のお話からも裏付けられることであった。恩師、諸橋撤次氏、山岸徳平氏の薫陶、さらに先にもふれた川瀬一馬 氏 との交流、さらにこの松村博司氏との輪講を基盤として氏の研究態勢は次第に整いつつあった。おそらくは研究者 として大成するに十分な条件は自他共に認めるところではなかったかと想像できるのである。そこへ徴兵召集、従軍、 復 員などの、およそ文学研究とは縁遠く荒々しい時代の激しい波、そして郷里への帰還⋮⋮⋮。決して恵まれた環境 とはいえないなかで、振り絞るようにして完成されたのが﹃新註﹄であった。 三 宮下清計氏の人となり 奥 様から伺ったところによると、宮下清計氏はずいぶん几帳面な性格の方で、ご自身の勤務の関係についても、まこ 宮下清計氏のこと
宮下清計氏のこと とに詳細な記録をしておられたようであった。その諸記録が現在でも氏の家蔵にきちんと整理されて残っている。た とえば、昭和二十七年十一月から四年半勤務された長野県高遠高等学校の校史﹃高遠高校の歩みーその八十五年1 ー﹄︵昭和六十年七月刊︶を見てみよう。そこに﹁終章 明日への期待﹂という一章があり、刊行会の名誉会長としての 氏の﹁その頃の思い出﹂が掲載されている。縁ある方々がそれぞれに思いをこめて執筆されているが、なかでも五頁 ぎっしり埋められた氏の文章は質量共に優ったもので、草創期にあっての校舎建設に関わること、優秀な生徒や先生 を確保しての、また総合制から普通科への統合などに関わっての学校経営のこと、校歌の完成にいたるまでのこと 等々、人、時、所すべて精確に記されているのである。単なる長々しい懐古談に終っていないところに氏の人となり が 反 映 されているようにも思われる。もちろん優れた教育者であったことは言うまでもない。﹃長野県伊那中学校 伊 那 北高等学校 七十年史﹄︵平成二年九月刊︶に﹁教頭の栄転に生徒が反対 大さわぎの離任式﹂という見出しの囲み記 一 事がある︵四三四頁︶。昭和二十七年十一月十二日の出来事。教頭であった宮下清計氏が高遠高校の校長として発令さ 26 れ て の 離 任 式 の こと、記事は、﹁この日離任式が行われることになった。突然の人事異動に驚いたのは生徒たち、信頼 一 す る教頭に行かれてはと、代表が太田勇愛校長に離任式の延期を申し入れた。︵中略︶校長が登壇するや挨拶をさせま いと猛然とさわぎ立てたのである。しかし悠然としてさわぎの鎮まるのを待つ校長に、生徒らの方がついに根負け。 機 を見て校長が教頭の転任を告げ、これを受けて宮下が挨拶。﹃惜しんでくれるのはうれしいが、軽挙妄動は慎しんで ほ しい﹄と諭され、みなしゅんとなってしまった。宮下は最後に﹃少年老い易く⋮⋮⋮﹄と朱真の﹃偶成﹄を朗々と 吟 じ、われに却った生徒たちが拍手でこれに応えて式は無事終了。﹂と、劇的かつ爽快な場面を伝えている。この記事 ひ とつから人間宮下清計像を窺うことは決して不可能なことではない。 中沢中学校の校長、伊那北高校の教頭、高遠高校、木曽西高校、県ケ丘高校の校長として、また県教育委員会の管 理 職 として、長年激職に身を置いてこられた氏であった。その間、平安時代物語の研究に心惹かれる日々もあったの
難灘灘 ー郷ー の老父蒙⋮い⋮
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鑛. 繊 繍ジ誘㌶諸捜璽牡四ぴ
珍 ・診霧嚢、,影. を機に、止むなく郷思の中学へ転じた.学冑舵には刺 激のない山村で霧学翻の灘の道を踏まなければならな 宣㍊ド藩蝦討氏のこと宮下清計氏のこと くなつた私は、﹁浜松﹂はおろか国文学の研究などということは無縁なことのような世界へ入つてしまつた。私の 頭 は、いつの間にか校舎の建築やPTAや公民館の創設などという方面に全機能を動員するようになつていた。 ところが突然、在京の川瀬一馬兄から叢書発刊のお話があり、﹁浜松﹂を担当するようにとのおすすめがあつた。 私 は眠りから醒めた思いで再び﹁浜松﹂を顧みるようになつた。 その後三ヵ年、私は両刀使いの生活方式で過して来た。草深い村里にあつて古典の香を懐しみ、その現代的意義 を考え、新しい古典研究の方向に思いをこらすのも楽しいことである。時流と環境の障壁にたじろいではならな い。鹿持雅澄の学究心は尊い教訓でなくてはならぬ。 校 正 を終つて私の﹁浜松﹂の貧しさを思う心の中には清らな愛情が秘められていることに気づく。この道は細く
ともよい、生涯を貫く道であつて欲しいと念願する。︵二五、一一、二〇︶ 一 28 ﹃新 註﹄完成を目前にしていた氏の高揚する思いが抑制された筆致のなかから滲みだしていることは明らかではある 一 が、それは同時に氏が﹁浜松﹂研究と挟別を余儀なくされる直前の心況を照らしだしているものでも、今にして思え ば、あったのである。とりわけ末尾箇所にその思いが深々と籠められているように思えてならないのである。 ﹁思 えばかわいそうな一生でした﹂⋮⋮⋮奥さんのふと漏らされた一言は重く私の心耳に響いた。
おわりにーー・宮下清計氏の著書一覧1
宮下清計氏の著書は学術書としては﹃新註﹄一冊ではあるが、氏の几帳面な性格を反映する諸事にわたる克明な記 録 が 残 されており、これらもまた十分に著書ともいい得るものである。やがてはご遺族によって日の目をみることもあろう。 最 後 に 氏 自身の手によって刊行された著書を掲げて、若干の解説を記しておこう。ただし②以降はすべて私家版で ある。 ω ﹃新註国文学叢書 浜松中納言物語﹄ ︵昭和二十六年一月︶ ② ﹃帰去来 葛原学園物語﹄ ︵昭和五十三年六月︶ ㈲ ﹃北海道 スケッチの旅﹄ ︵平成三年十月︶ ω ﹃療養つれづれ うたとスケッチ﹄ ︵平成三年十月︶ ⑤ ﹃近郷所在の句碑鑑賞﹄ ︵平成三年十二月︶ ② は宮下清計氏が昭和四十五年十月五日から四十八年三月三十一日まで勤務された私立塚原学園天竜高等学校︵現、長 29 野県松川高校︶でのことを小説風に綴られた五百頁に垂んとする著書である。ただし、内容がかなり学園内部のことに 一 関わるだけに、あえて小説風に仕立てられているもので、副題︵葛原学園物語︶からして相当注意を払われているよう である。﹁足かけ四年のここでの生活は、私にとっては、わが教育の総決算のような大事な意味をもっていたのに、漕 ぎ出してみると、嵐の大海を漕ぐ小舟のようなもので、難破に次ぐ難破に終ってしまった。私は持てる精力を使い果 た し、敗北感から容易に立ち直ることができなかった。﹂︵﹁あとがき﹂︶という苦々しい文言に象徴されるような癒しが た い 思 い で一気に書き下ろされたものであった。もちろん、教育者として、また人間としての宮下像は本書に鮮明に 表 われているのである。 ③ 昭和五十八年六月十三日から六泊七日、親類縁者十五名で北海道を観光旅行されたときのスケッチブック。︵層雲 峡、川湯温泉、登別温泉など︶ 宮下清計氏のこと
彩〆清計鷲のこと ②、 髭和滋十蔦年三鐸米から騨勢静賑漏で曙灘轡隊癖院に入隠し、後に漿哀都中野病続に転魏して、計九十三綾闘珍 療養舷諺を湯られたときの短歌とスケッチ集.、その・つ笏鈴数麟を引いて滋こう。 懲影みな活㍗vベッドに膠しをれど ことなる羅工郷骸〃うぐゐるべし ひ ど夜さのわが家の濠に宏らぎて 運命ぽ天にゆだ匁む乞∀る ふるさとの空なつかしきタベなり 端隠ピルに陵珍る夕映 広 告の﹀?りしで修ワし短難に 筆紅て歌を講乏て慰若 紗 亥懸のとるり、滋郷に散姦している匂綾について解説と鑑欝を五欝を設雛簡潔に謡忽れたも〃。一ド影家蕪碑の滋 犀節 とは、斉川龍之介・竃笑灘攣・久探霧万太縣の匂が寄せ講滋のか驚ちで謬になってい纂もの。駒ク譲市吻沢雛 の ト轟勲ハ、㌣、空谷∨の⋮人蒸である行核の衰亥を骸しみ、三入が各々、素雛︹綾纏を献じたも紗を.デ鳥家で彰碑に紘立 一 てたものである。﹁蘇壁・碧梧欄の匂碑七は高遠公圏紘ある広瀬奇壁の﹁斑髪鷹嶺朝光鶯瞭いて緩﹂と碧懸梶の﹁溝駒 頴
ハ斑繋れてし影を飢ぬぐ霧を ・Wついての解軟。余 一
ら力の入ったもので、例えば、注記として﹁波礫﹂の﹁礫﹂について注意したり、奇壁が用いた﹁剴々﹂を﹁瞠々﹂ の 誤 りであろうと述べておられるあたり、恩師である諸橋徹次氏の学風を感じさせる。なお、本書は宮下清計氏の御 葬 儀に香典返しとして参列者に配布されたものでもあった由である。 附 記 拙 稿 は浜松中納言物語の注釈を書き進める過程で成ったものである。﹃新註﹄を参照することからすべてが始まることで あるから、つねに気にかかっていたことでもあった。そのような折も折、駒ケ根東中学校校長︵当時︶小穴廣光氏から宮 下 清 計 氏 の 奥 様がご健在で、いろいろなお話が伺えることなどの丁重なご教示をいただき、それは怠慢な小生を発奮させ、 早 春 の、また晩秋の伊那路へ赴かせることになった。拙稿はじつに多くの方のご恩を受けて成った。とりわけ宮下清計氏 ご夫人 綾子氏、宮下氏の従弟 竹村幹雄氏、長野県高遠高校校長︵当時︶長田 孝氏、小生の教え子であった三宅裕美 氏 ︵長野県伊那北高校相愛大学人文学部卒業生︶・ご夫君浩一氏︵長野県飯田長姫高校教諭︶・兵庫県立神戸高校教諭 ト ヨ