13 行動経済学 第 14 巻 (2021) 13‒15
書評:政策分析と政策立案のあいだ
『マンスキー データ分析と意思決定理論
―不確実な世界で政策の未来を予測する―』
チャールズ・マンスキー著/奥村綱雄監訳/高遠裕子訳
ダイヤモンド社,2020 年 9 月會田 剛史
a 近年,「エビデンス」という言葉を耳にする機会が増え ている.これには単なる「証拠・根拠」以上の,「学術的 に裏付けのある信頼性の高い根拠」という含意がある.特 に「エビデンスに基づく政策決定(Evidence-Based Poli-cy Making, EBPM)」は学術と実務をつなぐキーワードと いってもいいだろう.限られた資源の下で最も効果的な政 策を実施するためには,「エビデンス」は非常に有益なガ イドラインとなる. EBPM を実施する際に求められるのは,質の高いエビ デンスを蓄積し,それを意思決定に有効に活用することで ある.前者の質の高いエビデンスの蓄積ということについ ては,近年の統計学・計量経済学における因果推論に関す る分析手法の大きな発展を見逃すことができない.特に, 政策効果を厳密に計測するために被験者を処置群と対照群 にランダムに割り当てるという「ランダム化比較実験 (RCT)」は開発経済学を中心に実証研究における標準的な ツールとなった.この旗振り役でもあるアビジット・バナ ジー,エスター・デュフロ,マイケル・クレマーの 3 氏 が 2019 年にノーベル経済学賞を受賞したことも記憶に新 しい.RCT以外にも因果関係を厳密に分析するための様々 な手法は,今や学部生向けの計量経済学の教科書でも大き く扱われる基本的な内容となった. このような各種の政策評価の分析手法にはそれぞれの仮 定が存在し,実証分析において研究者はチェックリストに 印をつけていくように,それらが満たされることを一つ一 つ確認していくのが一般的である.しかし,その仮定自体 の妥当性に目を向けることはあまり多くはない.また,研 究者は質の高いエビデンスを蓄積することに執心する一 方,それをいかに政策に活かすかについては政策立案者の 問題として深く掘り下げていない印象がある.だが,デー タ分析で示すことができるのは,あくまでも限られたサン プルにおける政策への反応であり,その政策を実施した時 に全体としてどのような反応が起こるのかは決して明らか にはならない.そのような限られた情報の下で,どのよう な政策を選ぶべきか学術的に手がかりを与えることはでき ないのだろうか? このような問いに答えてくれるのが,Charles F. Man-ski (2013) Public Policy in an Uncertain World: Analysisand Decisions, Harvard University Press の 邦 訳 の 本 書
である.本書の内容は第 1 部のデータ分析編と第 2 部の 意思決定理論編に大きく分けられる.第 1 部では多くの 政策分析で置かれる暗黙の仮定の妥当性に疑問を投げか け,より弱い仮定の下で妥当な予測を行う方法について議 論する.第 2 部では政策分析によって得られた結果に基 づき,より望ましい政策を選択するための方法について議 論する.各章の具体的な内容は以下の通りである. 第 1 章では,強い結論欲しさゆえに分析結果の信頼性が 揺るがされているという現状を説明している.仮定の強さ と推論の信頼性にはトレードオフが存在しており,著者は これを「信頼性逓減の法則」と名付ける.そして,政策分 析においては強い結論が求められがちであり,それには強 い仮定が必要となり,結果として分析結果の信頼性が損な われるという悪循環が起こる.このような信頼性の低い強 a 日本貿易振興機構アジア経済研究所
Institute of Developing Economies, Japan External Trade Organization (IDE-JETRO)
14 行動経済学 第 14 巻 い結論が生まれる背景としては,社会通念上の確実性,正 反対の確実性,科学と主義主張の融合,希望的推論,非論 理的な確実性,メディアの暴走の 6 つが挙げられている. 第 2 章では,従来の「点予測」の背後に置かれている 仮定について議論が行われる.政策効果を分析する際に用 いる方法が異なると,その結果は大きく異なり,場合に よっては正反対の結論に至ることさえありうる.政策効果 を「識別」するためには,政策対象者が対象でなかった場 合の反現実のアウトカムと比較する必要があり,これはど んなにサンプルを増やしたところで解決される問題ではな い.このために,政策効果を識別するためには何らかの仮 定が必要となる.これを非常に弱い仮定のみで,政策効果 を「区間」として識別しようという試みが著者の掲げる部 分識別アプローチである.一方,政策効果を「点」として 識別するためには,どの個人も処置反応が同じである,ま たはどのグループも処置反応の分布が同じであるという強 い仮定が必要になる.しかしながら,評価の「ゴールド・ スタンダード」とも言われる RCT においてさえ,様々な 理由から政策効果を点として識別するために理想的な状況 から大きく乖離してしまうことが多い.また,データ分析 の専門家であるはずの経済学者も,人々の意思決定の方法 や分布に強い仮定を置くために,その分析結果の信頼性は 必ずしも高いものではない. 第 3 章では,現実には実施されていない政策の効果の 予測について議論が行われる.経済学では長らく顕示選好 理論に基づいて,現実のデータから選好パラメータを計測 し,それと経済理論を組み合わせることによって,新たな 政策が取られた際の人々の行動を予測するというアプロー チが取られてきた.このようなアプローチが成立するため には,人々が合理的期待を持ち,期待効用を最大化するよ うに行動するという非常に強い仮定が置かれる.しかし, 行動経済学の研究結果が示すように,このような仮定の妥 当性は疑わしい.ただし,行動経済学理論についても検証 されているのは(しばしば小規模な実験室実験のような) 特定の文脈においてであり,政策効果の予測の際にそのま ま既存の理論と置き換えれば良いというような単純な話で はない. 第 4 章では,意思決定理論に基づき,社会の意思決定 者による政策選択問題が説明される.意思決定理論におい ては厚生関数を基準に望ましい選択が行われるが,明らか に優劣がつく場合を除き,何らかの選択の基準が必要とな る.ここでは期待厚生基準,マキシミン基準(一番ましな 行動を選択する),ミニマックス・リグレット基準(一番 後悔が少ない行動を選択する)の 3 つが紹介される.望 ましい選択は厚生関数の設定やこれら 3 つの基準によっ て異なりうる.ここで重要なのは,最適な意思決定基準な ど存在しないということを認めた上で,それぞれの基準に 基づく結果を比較して,「妥当な」意思決定を行うことだ としている. 第 5 章では,前章で議論した内容を,2 つの処置を割り 当てるケースに拡張する.その際に有効と考えられるのが 分散的処置選択である.投資家がポートフォリオを分散す るように,社会政策においても最善の策がわからない時に は処置を分散して割り当てることが望ましい.さらに,割 り当てが一度限りでないならば,処置を分散させて得られ た結果に基づいて,次期以降により望ましい割り当てへと 更新していくこと(適応的分散)が可能となる.また,意 思決定者が複数でその選好に異質性がある場合には一貫し た意思決定が困難であるが,選好が単峰性を満たす場合に は分散的割り当てが支持を得られる.最後に,各人が自由 に処置を選択する自由放任のケースと,意思決定者による 処置選択の比較について,適応的分散を用いることで後者 の方がより高い厚生水準を達成できる可能性があることが 説明される. 第 6 章では,本書全体のまとめとして,仮定の厳しさ 故に信頼性の低い点予測ではなく,より弱い仮定の下で導 かれる信頼性の高い区間予測を用いて質の高い政策を実行 することの重要性が述べられている. 強い結果には強い仮定が伴うという本書を貫くメッセー ジは極めて明確であり,それゆえに印象的なのは,既存の 政策分析に向けられる批判の厳しさだろう.上述の通り, 各種の計量経済学的手法により政策効果を分析するために はそれぞれに仮定が存在し,実証分析をする際にはそれら が成立しているかどうかをチェックする必要がある.しか し,その仮定の妥当性自体に目が向けられることは少な い.例えば RCT による政策評価を行う際,経済学者は分 析の前にしばしばコントロールする属性が処置群と対照群 との間で平均的に有意な差がないことを確認する.しか し,本書でも議論されているように,「エビデンス・レベ ル」という概念において最も信頼性が高いとされる RCT においてさえ,推論の妥当性,不遵守問題,混合問題,社 会的相互作用といった各種のより根源的な問題が存在す る.これらの中には計量経済学的手法や実験デザインの工 夫などによりある程度対処可能なものもあるが,そのため にはさらに強い仮定を置かねばならないというイタチごっ こから逃れることはできない. このような自縄自縛的なアプローチとはいわば真逆の, 何も仮定を置かずに分析した場合に得られる効果の幅(バ ウンド)はどのようなものか,そして納得できる仮定を追 加していった時にこの幅をどれほど狭めることができるの かを考えることこそが,著者マンスキーが切り開いて来た 部分識別アプローチである.残念ながら一般書という性格 上,このアプローチ自体の説明に十分な紙幅が割かれてい るとは言い難いが,そのエッセンスは極めて平易に説明さ れている.そして,納得できない仮定に基づく点予測より も,納得のいく仮定の下で信頼性の高い区間予測を行うこ
15 會田:書評『マンスキー データ分析と意思決定理論―不確実な世界で政策の未来を予測する―』 とで,政策評価のあり方を刷新しようということこそが本 書の目論見であることがわかる. このことからもわかる通り,著者が否定的なのは仮定に 無自覚な政策分析一般であり,決して EBPM 自体ではな い.そして部分識別アプローチにより,今まで以上に信頼 性の高いエビデンスが蓄積されて来たならば,次のステッ プとしてそれをいかに政策立案につなげるかが重要とな る.本書では,得られた分析結果に基づいてできるのは 「最適な」意思決定ではなく,「妥当な」意思決定であると した上で,その一つとして分散的処置選択を提案してい る.特に最後に議論される適応的分散の方法は,分析結果 に基づいて処置の割り当てを行い,その結果を分析して次 の割り当てに活かすという政策分析と政策立案のフィード バックであり,データ分析と意思決定理論の両方を扱う本 書ならではのアイデアとも言えるだろう. また,これらの議論と比較すると目立たないが,第 1 部 と第 2 部に共通する重要なキーワードは「主観確率」で ある.政策効果の予測にあたっては,政策対象者がどのよ うな主観確率を持っているかによってその結果が変わって くる.そしてそのような主観確率に基づく期待は,顕示選 好理論が想定するような合理的期待とは大きく異なりう る.また,政策立案にあたっては,立案者の主観確率は期 待厚生を計算する際のウェイトとして政策選択に大きな影 響を及ぼす.このように,政策分析においても意思決定理 論においても,意思決定者が持つ主観的確率をどのように モデルに取り込むかは非常に重要な問題である.行動経済 学を始めとした各分野で近年,主観的データの分析が進ん でいるが,このようなデータを用いて期待形成のプロセス を分析するという研究もまた著者マンスキーの重要な業績 なのである. 本書の特色は,取り上げられる豊富な具体例にもある. EBPM のあり方を刷新するという目標を考えれば,この アプローチが現実の政策に有用であることを示す必要があ る.実際,本書でも死刑制度の殺人抑止効果や,所得税制 と労働供給との関係など,様々な社会問題が取り上げられ る.中でも仮想的な状況でありながら図らずも最も時宜を 得た具体例となってしまったのは,感染症に対するワクチ ン接種の例だろう.本稿を執筆中の 2021 年 4 月時点にお いて,新型コロナウィルスが世界的に流行しているが,日 本のワクチン接種率は先進国の中でも最低であり,発展途 上国並の水準となっている.ワクチン接種の優先順位とし ても,感染状況を反映したものとは思われず,本書で議論 されているようなエビデンスに基づいた合理的な意思決定 ができているかということについては,大いに疑問が残 る.原書が出版されたのはコロナ禍以前であるが,それゆ え一層本書の内容の先見性・重要性が際立つ.また,本書 で議論されるような理論的・規範的な分析だけでなく,い か に し て 望 ま し い 政 策 を 実 際 に 実 施 す る か を 考 え る 「EBPM の政治経済学」とも呼ぶべき分野の必要性につい ても考えさせられる. 因果推論や統計的意思決定理論のそれぞれに関する専門 書はすでに多く存在するが,政策立案という観点から両者 をまとめた一般書は皆無であろう.そしてその両方の第一 人者による著作ということで,本書の内容の「信頼性」は 極めて高いものである.日本語版のタイトルに著者名を入 れているのも,そのネームバリューの大きさを示してい る.ただし,本書は一般読者を想定して数式を意図的に排 除しているがゆえに説明が冗長になり,かえって分かりに くい記述も散見される.ゆえに,専門家にとっても一般読 者にとっても,「帯に短し襷に長し」といった叙述になっ ている感は否めない.この点に関しては,極めて限られた 内容についてではあるが,巻末の補論や監訳者による補足 説明が大いに参考になる.いずれにせよ,監訳者序文でも 述べられている通り,著者の専門性が遺憾なく発揮された 本書が「エビデンス(証拠)に基づく政策決定(Evidence-Based Policy Making, EBPM)のプロセスを画期的にレ ベルアップするもの」であることは間違いない.