Title
攀安知とその家臣団の氏素性を探る
Author(s)
上間, 篤
Citation
名桜大学紀要 = THE MEIO UNIVERSITY BULLETIN(13):
1-27
Issue Date
2007
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/8046
名桜大学紀要13号 1127(2007)
撃安知 とその家臣団の氏素性を探る
上聞
篤
要旨 かつて伊波普猷は、今帰仁 とい う地名 を手掛 か りに して、中世 にこの地域 を勢力基盤 と した 武装集団の出 自に関 して独 自の渡来人説 を公表 した。奇 しくも近年の発掘調査 か ら得 られた出 土 史料 は、押 し並べ て伊 波の この見解 を支持す る内容 を具備 した もの となっている。 ところで 伊波が唱えた渡来人説 については、従来やや ともすれば研 究者の間でなお ざ りにされて来た感 は否めないOそれ故 に、統一王朝以前の今帰仁勢力の氏素性 を問 う研究 は遅 々 として進展せず、 今 日の状況 を招 いている。それはさてお き,発掘 された中世今帰仁勢力 ゆか りの関係 史料 は、 あ まね く元朝 に仕 えて江南地方で活躍 した西域 出 自の色 目系騎馬軍団 との関係 を傍証す る内容 を学 んだ もの となっている。本稿 では、伊波の見解 を再考 し評価す る観点か ら、指摘 した関係 史料及びそれ と不可分の関係 にある と判断 される元朝配下のアラン騎馬兵 団について考証 し、 従来謎 とされて きた撃安知 とその家臣団の民族的 出 自の解明 を目論 む0Anl
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ABSTRACT
Fuyulha,thebun°erofOkinawanstudies,Oncemadeanintrlgulngproposalastothe orlglnOfthemilitaryforcewhichoccupiedNakijinCastleinmedievaltimes.Hearguedthat theNakijinforcesconsistedofagroupofmenorlglnatlngeitherintheKoreanPeninsulaor inthemainlandofChina.Interestingly,theexcavateditems,whichwecanstudytodaythanks totheseriesofexcavationsconductedsofarinandaroundthecastle,indeedsuggestthatthe view onceadvocatedbylhaispartiallyco汀eCt,However,theethnicbackgroundofthemedie -valforceofNakijinredectedinthisarcheologlCalrecordisofneitherKoreannorChineseori -gin,COntrary tO Whatmaonce inferred.Instead there isan apparentconnection with an equestrianpeOpleofIranianstocknamedAlanorAscomlngfrom thecentralpartofEurasia. ByexaminlngtheexcavateditemsinrelationtoknowledgeofreliglOuSbeliefs,burialcustoms, artistic omamentation,popularpastimes,andmilitaryequipment,includingtheswordonce ownedbyHanAn chi,kingofNakijin,thispaperproposesthatHanAn chiandhisclosesu b-3eCtSWeredescendantsoftheAlancavalryunitthatplayedadistinguishedmilitaryrolein southem ChinathroughouttheYuanEra.
1-上 聞 篤
はじめに
沖縄学 の礎 を築いた伊波普猷 は、 『琉球 国旧記』 を論考す るにあた り、今帰仁 とい う地名 に 言及 して、 〔古代 国語 で、支那若 しくは朝鮮 か らの新来者 をイマキ と云 ったのが、後 に居住地 の呼称 ともなって、今木或いは今城が宛て られた ように、同半 島で も新来者が、やがてその居 住地の名 ともな り、 この地方が北部の政治的中心 となるに及んで、その下 に、統治 を意味す る 「知 り」が附いて、「い まきじり」 になった と、みて差 し支 えなかろ う〕1、 と結 んでいる。今帰 仁 とい う地名 に関す るこの説 は、伊波 自身の言語学 に基づ く教養か ら紡 ぎ出 された見識である ことはい うまで もない。 けれ ども伊波が提唱 した この説の正否 を詳細 に考証 した論文 は、い ま だ皆無 に等 しい。 中世今帰仁勢力の氏素性 に関す る研究がかか る進捗状況 にある中で、近年今 帰仁城跡 及びその周辺か ら得 られた発掘 史料 は、伊波がかつて唱 えた渡来 人説 を傍証す る内容 を学 んだ もの となっている。 中で も、青花椀 に措 かれたキルギス族 の騎馬武者像2、ギ リシャ 十字 を撃髭 とさせ る縦横 同寸法の十字紋、扇平鉄 、短冊状 やす り、サ イコロと小 H形の石駒 な どといった ものは、その最 たる もの として注 目される。本稿 においては、往時の食生活、宗教、 呪術 、葬送、軍装備、娯楽 な どと関係す る出土 史料及 び千代金丸 に施 された紋様 、 さらには元 朝 に仕 えて江南地方 に駐 屯 したアラン近衛兵団な どに関す る考察 を とお して、中世今帰仁勢力 の氏素性 に迫 ってみ る。Ⅰ.出土史料 に看取 される西域的風貌
1)麦 の炭 化 粒 と回転 式 石 臼 をめ ぐって 考古学 史料 と しての食料の残淳 は、関係す る時代 の食生
活の実態 を反映す る重要 な物証であ る。 中世 今帰仁 勢力(
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世紀前半後期-1
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世紀初頭 を想定) との関わ りが指摘 される食糧残 淳 には、米や麦 といった穀物 の炭化粒 な どが存在す る。中で も炭化 した麦粒 の出土事例 は、回 転式の石臼が今帰仁城跡 の郭内で発掘 されたことともあい まって、す こぶ る注 目される。増 田 精一 は粉 食の始 ま りと不可分 の関係 にある石臼 について、「中国の石臼は戦国、
漢代 には じま る粉食の起源 と共 に西方か ら伝 わったに相違 な く、パ ルテ ィアの石臼がギ リシャ、ローマの影 響下 にあるごと く、中国の石臼 もその乗伝 の-一つであろ う」i、 と述べ ている. また隔 .唐代 の 東西交易で名 を馳せ た ソグ ド商 人に関す る研究で知 られる森安孝夫の記述 によれば、古来粒食 が主体 であった東 アジアの食文化 に粉食の食事法が現 れるのは紀元3世紀頃である とされ、加 えて漢語の麺 なる文字 について も、その本来の語義 は麦粉 を意味す る ものであった とされる1。 古来粒 食 を旨 とした 日本の食文化 に粉食が導入 されるに至 った経緯 には回転式石臼の存在が不 可分 に絡 んでいる と見 な され るが 、三輪茂雄 はそのあた りの事情 に関 して、「従来の定説では 江戸 中期 となっているが、遺跡 の発掘結果ではそれ よ りず っ とさかのぼって、信長の時代 にも かな り使 われていた形跡がある」5、 と述べ ている。石臼の使用例 に言及 した三輪の この指摘 は、 中世 に沖縄 本島の北部一帯 を勢力版図 とした今帰仁勢力の食の実態 に関す る文化 史的意義 を考 えるにあたって参考 になる。先 に今帰仁城跡 の近郊及びその郭内か ら麦 と回転式の石臼が田上 してい る事 実 を述べ ておいた。 これ らの出土事例 は、1
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世紀前半後期 か ら15世紀初頭 にかけ -2-挙安知とその家臣団の氏素性を探る (中世今帰仁の麦の炭化粒)6 (中世今帰仁の石臼)8 てこの城 を根城 とした勢力の間で粉食が行 われていたこと を証左 するものである。 ひるがえって、紀元前期 の西 アジ アに出現 した回転式石臼は麦文化圏が生み出 した最大傑作 の一つ と見 なされているものである。麦文化圏における石 臼の起源について研 究 した増 田精一 によれば、麦文化発祥 の地 として知 られる西 アジアに回転式の石臼が出現す るの は紀元前期の一千年頃 とされ、後 にそれがギ リシャ ・ロー マ世界 に普及するに及んで今 日に伝 わる左 回転式の石臼が 誕生 した とされ る7。面 白いことに今帰仁城跡か ら出土 し た回転式の石臼は、それに彫 り込 まれた溝の形状か ら判断 して、ギ リシャ ・ローマ型の系譜 に属す るものであること は明 らかである。その ことの検証 にあたっては、三輪茂雄 の研究が大いに役立つ。本項の下段 に紹介する石臼の解説 図は氏の論文か ら借用 した。図の左手 に線引 きで示 された 溝彫 りの様式は、反時計回 りのパ ター ンを示す。 この様式 に今帰仁の石臼のそれを重 ね合わせてみれば、両者が様式 において出自を同 じくすることは一 目瞭然である。一方 に おいて今帰仁の石臼は、それが′」、型で軽量であることを鑑 みれば、定着型の農耕文化 とは一線 を画す文化的色合いを 帯びたものであることを強 く印象づける。 この石臼は、そ れが小型で しか も容易 に携行することが可能な重 さに仕上 げ られていることにおいて、生活用具のみならず武具 にい たるまで徹底 して軽量化 を図ったことで知 られるユーラシ ア大陸の遊牧社会の生活様式 と不可分 に関係 しあっている特徴 を渉 ませ る。 ところで、先 に三 輪の指摘 を引いて紹介 したように、わが国における石臼の歴史は以外 に も浅 く、古 くて もそれ は、今の ところ
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世紀の後半期か ら先へ遡 ることので きる ものではない らしい。 な らば問題 の今帰仁の石臼は、現時点 における日本最古 の左 回転式の石 臼 として認定 されて しかるべ き資 格 を有 している と判断 される.型式、重畳及び機能 とい った観点か ら、13世紀 か ら14世紀 頃 のコ-カサス及び中央 アジア一帯の遊牧社会の生活様式 との関連が指摘 される淡い赤銅色 を帯 びた今帰仁の石臼は、いみ じくも中世 に沖縄本島の北部一帯 を勢力版図 とした今帰仁勢力の民 族的出自を示唆する要素 を学 んでいると判断 される。 因みに、他 に類例 を見 ない産地不 明の砂 岩質の石材 を素材 とするこの石臼は、いずれわが国の粉体工学の関係者の注 目を浴びることにも なろう。2
)宗教 、呪術 、な らびに葬送 中世今帰仁勢力の宗教、呪術及び葬送儀礼 と関係する出土物 には、種 々の十字紋 をあ しらっ た元代の磁器類 (青磁椀、青花皿、碗底 にス タンプ状の記紋 を施 した白磁椀 を含 む)及び城郭 内の一角か ら出土 した四足動物の骨 といった ものなどがある。出土史料 に看取 されるこれ らの 存在は、中世今帰仁勢力の宗教的背景や文化的性格 と不可分 に絡 んでいるもの として注 目され る。中で も十字紋 は、青磁椀 にあ しらわれた ものを筆頭 に、育花皿 に措かれた ものや千代金丸-3-(十字紋をあしらった青磁碗)-I 上 聞 筏 の鍔、さらには自害 して果てる寸前の撃安知の立ち居振 る 舞いの有様 について記 した 「中山世譜
」
10に もその存在が 指摘 されることか ら、その紋様が中世の今帰仁勢力 にとっ て格別の意味 を持つ ものであったことは明白である。出土 物 にあ しらわれた種 々の十字図柄 の中で、 とりわけ元様式 の青花皿の内底 にあ しらわれた縦横 同長の十字紋 は、中世 今帰仁勢力の宗教的背景 を如実 に語 るもの として注 目され る。そ もそ も十字架の形成 にあた り、その縦軸 と横軸 を同 じ長 さに揃 える慣行 はギ リシャ正教会 において尊ばれて きた伝統である。いみ じくもこの伝統 は、問題の十字紋の中心軸 に然 る草花 を模 して形づ くった もう一つの十字意匠にも看取 される。 紹介 した草花十字紋が四架のクローバーを表象するもので あることに関 しては、筆者が先 に発表 した論文< 「育花皿 にあ しらわれた十字紋 の氏素性 を探 る」
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13の中で論 じて おいた。因みに、 日本では< うまごや し>とも呼ばれるク ローバーは、紀元前期のユーラシア大陸に発生 を見た遊牧 社会の発展 を支 えた重要 な牧草であったことで知 られる。 (青花皿に描かれた十字紋)-2 さらに植物学が伝 えるところによれば、元来クローバーは、 バ ルカン半島及びその東隣 りの小 アジアを原産地 とする植物で もある。 ところで馬の飼育 には 不可欠 とされたクローバーが、古代 には名馬の産地 として知 られたフェルガーナ (現 ウズベキ ス タン東部地方)か ら束 アジアの漢地 に人為的に移植 されることになるのは、西域の名馬の額 得 に執念 を燃や した漠王朝 (後漢)の時代 に遡 る出来事である1㌧ 周知の とお り、 クローバー の葉姿 は三つ葉で構成 されているのが常である。 ところが、時折その中か ら突然変異 によって 四つ葉 を持つ ものが現れる。 この四つ葉のクローバーは、幸運 にあずかろうとする人間の心理 と結 びつ き、 この植物の原産地 として知 られるバルカン半島及び小 アジア地域の古代社会 にお いて霊力 に秀でた畏敬の対象物 として崇め られるようになる。 この種の土俗的信仰が、後続の キ リス ト教社会 に認め られる十字架 に霊力 を求める信心 と遠因の関係 にあることは想像するに 難 くない。 ところで、馬の飼育 に不可欠 とされたクローバーがわが国の歴史 と直に関わるよう になるのは、 ヨーロ ッパの文化 を導入 して近代 国家への変貌 を目指 した明治初期の出来事 に他 な らない。すで に指摘 した ように、四葉のクローバー と中世今帰仁 との関わ りは14世紀 に遡 る出来事であるが、面白いことに往時の今帰仁勢力 と四葉のクローバーの関係 をめ ぐる問題は、 既述の内容だけにとどまるものではない。左 の写真史料 は、千代金丸の鍔 を紹介 した ものであ (千代金丸の鍔)15 る。それにあ しらわれた種 々の紋様 とその配置に着 目すれ ば、それには、縦軸 と横軸の線状 に十字の形状 を意識 して 配列がなされたことを窺わせ る、四葉のクローバーを透か し彫 りに した紋様が施 されているのが 目に留 まる。因みに、 それ らの傍 らに配 されたハ ー ト形の意匠は、猪 目と呼ばれ る紋様である。 これ らの種 々の紋様 については、元朝配下 のアラン騎馬兵団 との関わ りにおいて後述することにする。 さて、中世今帰仁勢力 と呪術 との関わ りについては、城 -4-撃安知とその家臣田の氏素性を探る 郭内か ら出土 した白磁椀 の内底 に型押 しの技法 を用いてあ しらわれたス タンプ状凸面FE紋の視 点か ら、その実相 に迫 ってみ ることにす る.記紋 といえば
、
r国史大辞典」 の解説16で も明 ら かなように、わが国では、ひたす ら仏教の視点か らそれに言及す る傾向がみ られる。 ところが 中世今帰仁勢力 にゆか りの記紋 に関 しては、それを取 り巻 く歴史的背景 を鑑みれば、上述の仏 教起源説の視点か らその存在意義 を首尾 よく説明 しうるものではない。筆者 は、先 に 「青花椀 に措かれた騎馬戦士の氏素性 を探 る」及 び 「青花皿 にあ しらわれた十字紋の氏素性 を探 る」 と 題 した二つの論文 を名桜大学の紀要集 に発表 した。 これ らの論文の骨子 は、中世今帰仁勢力の 中核 を担 った集団の氏素性 について、今帰仁城跡 出土の発掘史料 の観点か ら、元王朝 に仕 えて 江南地方 に配置 された色 日系騎馬兵団 との関わ りを論 じた ものである。以下 に、問題のス タン プ状記紋 を考察するにあた り,上述の論文の主 旨に沿 って、それに秘め られた呪術性 について 探 ってみることにす る。そ もそ も元王朝 は、遊牧社会の一点であったモ ンゴル人が中華文明の 揺藍地 に進出 して打 ち立てた征服王朝であった。 この王朝の主であったモ ンゴル人は、ユーラ シア大陸の他の遊牧民 と同様 に、マ ンジ紋の呪術性 を重 ん じる人々であった。以下 に紹介す る い くつかのモ ンゴル語 に固有の言葉は、そのことの証であると考 えられる。モ ンゴル語では、 マンジ紋 を総称 して<ハス>と呼ぶ。 またこの呼称 は、複義的要素 も学 んでいる。周知の とお り、ハスいわゆるマ ンジには、右回転 のかたちと左 回転のそれ とがある。モ ンゴル人の伝統的 な解釈に従えば、前者は男性、後者は女性 を象徴する.その場合、右回転のマ ンジはハス ・プ-、 左 回転のそれは単 にハス と呼ばれる。加 えてハスは、モ ンゴル語 において 「対」の意味 を有す る言葉で もある。 これ らの語菜や用例 は、時間軸 において、モ ンゴル人がマ ンジ紋 と久 しく交 渉 を重ねて きた歴史の証である とみなされる。左 に示 したマ ンジ紋 の図柄 は、20世紀 に入 りモ ンゴルの西部地方 にあ る 洞窟内で発見 された岩絵の一部であるが、これを参照すれば、 向かって左手にハス ・プ-、右手 にハスが対 となって措かれ ているのが見て取れる。 これ らのマ ンジ紋 を紹介 した文献 に よれば、この岩絵の年代 は新石器時代 に遡 るものである とさ れ、 さらに同文献 には、旧石器時代 の もの とされる表意図柄 (洞窟の壁 に描かれた もの)の一部 をなす3体のマ ンジ紋 な ども紹介 されている1
7。20世紀 に入 って発見 されたこれ ら岩絵 のマ ンジ紋 は、その年代 の古 き とい う点において仏教起源のマ ンジ紋の比類ではない。マ ンジ紋発祥 の地 と見 なされるモ ンゴ ル高原一帯は、 トルコ系種族の故地 として、 また9
世紀中葉以降には、約 1世紀 に渡 って北方 のエニセイ河源流域 を故地 としたキルギス族が この地域 を支配 したことで も知 られるが、かか る民族の間では、眉間や腕、な らびに首筋の うな じのあた り にマ ンジ紋の刺青 を施す ことが行 われた。マ ンジ紋 に関わる この ような風習が、古来ユーラシア大陸の騎馬遊牧民 に広 く 流布 したマ ンジ信仰 (マ ンジ紋 には悪霊 を払いのける力が宿 ると信 じられた) に由来す るものであったことは明 らかであ る。次 に紹介 す る種 々のマ ンジ紋 は、17世紀後半期 のモ ン ゴル高原一帯で使用 された焼印の リス トである。 この リス ト に基づけば、当時焼印にはすべか らくマ ンジ紋が使用 されて-
5-上 聞 篤 いたことが分 かる。17世紀のモ ンゴル高原一帯 で焼 印にマ ンジ紋が選択 されたことについて は、同世紀の彼の地域 における気候の変化 に起因するものであったと察せ られる。気候変動 と 人間 との関係 を研 究 した鈴木秀夫 によれば、17世紀 は小氷河期 と呼 ばれた冷涼期 の中にあっ て、氷河期以降の地球が最来期 を迎 えた時代 であった とい う18。鈴木の研究 によれば、モ ンゴ ル高原の東隣 に位置す る大興安嶺 地区においては1650年代 か ら1660年代 にかけて気温が最 も 下降線 を辿 り、少 し下 って1670年代 か ら1720年代 には、その南西部 に連 なる天山山脈東部一 帯 において気温が最低値 を示 したことが分かる19. この地球規模 の気候変動が、モ ンゴル高原 を含めた高緯度地域 に暮 らす遊牧民の生活基盤 を危 うくする要 因になったことは想像 に難 くな い。近年、猛吹雪 に見舞われたモ ンゴル高原で多 くの家畜が失われたことは記憶 に新 しい。か かる脈絡 でマ ンジ紋 の焼 印 を捉 えるな らば、17世紀 にモ ンゴル高原一帯の遊牧民がかけがえ のない家畜 にマ ンジ紋 を焼印 した行為 は、 自然の猛威 になす術 を失 った遊牧民がマ ンジ紋の霊 力 に一途の望みを託 して超越者の加護 を願い奉 った呪術的性格 を帯 びた ものであったと解釈 さ れる。 ところで、遊牧民が保有する家畜 にマ ンジ紋の焼印を施 した行為 は、ひとりモ ンゴル高原の 遊牧民 だけに限 られた風習ではなかった。 4世紀の終蔦期 には、古来 コ-カサス平原で遊牧生 活 を生業 としたイラン系種族のアラン族 などが、 ウラル山脈の周辺地域か ら移動 して きたフン 族の圧迫 を受けて、西方への移動 を余儀 な くされる。その後 アラン族 は、ローマ帝国北辺部の ゲルマ ン諸族 と共 にローマ帝国の軍隊に傭兵 として迎 え入れ られ、 ヨーロッパの地 に東方出自 i (中世今帰仁のスタンプ状Rj紋) の騎馬文化 を紹介する役割 を担 うことになる。次に紹介す る動物の絵 は、ローマ帝国終蔦期 に遡 る南仏のアラン族の 遺跡で発見 された図柄の一つである20。描かれた四足獣は、 かつて ヨーロッパ人がアランと呼んだ新種 の犬 (アラン族 は猪狩用 に特別に訓練 した犬 を東方か ら導入 したことで も 知 られる)であった と考 えられるが、 この種の動物の大腿 部 にマ ンジ紋が印 されていることをみれば、東方出自のア ラン族 にとって もマ ンジ紋 は畏敬すべ き呪術性 を帯 びた も のであったことが分かる。 さらにこの素描画が
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世紀 に遡 る様相 を呈する ものであることは、ユーラシア大陸の遊牧 民 に継暴 されていた焼印の風習なる ものが以外 にも古 く、 しか も広範囲に流布 していた ものであったことを知 らしめ る。因みに家畜 に焼印 を施す風習は、左 に掲載 した写真史 料か らも分かるように、現在で もユーラシア大陸の遊牧民 に連綿 として受け継がれているものである。 さて既述 において、今帰仁城跡の郭内か ら出土 した種々 の考古学史料 は、元朝 に仕 えた色 目系騎馬兵団 との関係 を 無視 しては扱 えない内容 を帯 びていることを指摘 しておい た。かかる視点 に立脚するならば、今帰仁城跡ゆか りの白 磁椀の内底 にあ しらわれている凸型ス タンプ状稚紋の文化 的性格及びその存在理由を明 らかにするにあたっては、マ -6-撃安知とその家臣団の氏素性を探る ンジ紋 を畏敬の対象 として崇めて きたユーラシア大陸の騎馬遊牧文化 を視野 に入れた考察姿勢 が求め られるもの と認識 される。以下 にかかる観点か ら、問題 とされている今帰仁 のス タンプ 状マ ンジ紋の呪術 的性格 について考 えてみる。ユーラシア大陸の遊牧民の間では、マ ンジ紋 は つ とに邪気払いにその霊力 を発揮す るもの として崇め られて きた。先 に紹介 した焼印の風習は その一事例であるが、13世紀のモ ンゴル帝 国時代 には、皇帝専用 に仕立 て られた蒙曹 なゲル (外面 を覆 う天幕 には虎や豹 などの毛皮が用い られた)の外幕の底辺部 にも悪鬼払い としてマ ンジ紋があ しらわれた21. ところでマ ンジ紋の呪術的側面 に言及す るにあたっては、 さしあた り先行研究の成果 を踏 まえることが肝心であるが、アルベル ト・アルバ レス ・ペ一二 ヤが伝 え るカフカズ山系 におけるマ ンジ信仰の事例 は、問題のス タンプ状マ ンジ紋の出 自と文化的にも 繋がる性格 を帯びている。アルパ レスは自著 において、北 オセチア ・アラニア共和 国の今 に伝 世する風習 について触れ、彼の国には乗入れす る前のパ ン生地にスプー ンや フォークなどを用 いてマ ンジの形 を印す慣 わ しがあることを紹介 している22. またこの種 の風習 に類似す る もの として、スペイン北部のアス トウリアス地方 において は、6弁紋あるいは8弁紋の花 びらをあ しらった花紋 を作 り立てのチーズやバ ターの表面 に押 し当てる風習 があることなどを紹介 している。アルバ レスによれば、 かかる行為の背景 には、人間に危害 を及ぼす と考 えら れている悪鬼か ら命綱の食物 を守ろうとす る呪術的行 為が認め られるのだ とい う。因みに、紹介 したスペイ ン北部の風習については、いに しえのロゼ ッタ信仰 と の関係 も指摘 されている。かかる事例 を踏 まえて今帰 (8弁ロゼッタ花紋)⊥ 仁の卍紋の正体 を考 えれば、それが食物 を盛 る器の内 底に凸状 にあ しらわれていることか ら判断 して、ある種の食習慣 にまつわる俗信 との関わ りが 指摘 される。先 に回転式の石臼について考察 した折 に、今帰仁勢力 と粉食 との関係 に言及 して おいた。因みに麦粉 を料理するとなれば、先ん じてそれには水 を加 えるなどして練粉 にす る必 要がある. この過程 を経 て出来上がった生地 を問題の器の内底 にあ しらわれた凸状記紋 に押 し 当てれば、その表面 には、おのず と凹状の記紋が形づ くられるはずである. この ように推考す れば、中世の今帰仁 において も、先のカフカズの事例 と同様 に、記紋 は邪気払いに力 を発揮す る護符の類 として敬 われていた もの と推察 される。 一方で、今帰仁城か らの出土史料である馬や牛の骨 (それ らには人の力が意図的に加 え られ た痕跡が認め られる) といった ものにも、無配 との関わ りを努帯 とさせ る趣がある。かつてモ ンゴル人が支配 した元朝 においては、有力者の死 を弔 うにあた り 「焼飯」 と呼ばれた葬送の儀 が執 り行われた。白石典之はこの祭紀の風習について
、〔
「焼飯」 とは北方民族 に見 られた祭紀 習俗 で、穴 を掘 り、その中に犠牲獣や飲食物 を入れて焼 くとい うものである〕2.、 と述べてい る。問題の馬や牛の骨の出土史料 と焼飯 との関係 を実証するにあたっては、今後 これ らの骨が 埋 まっていた状態やその周 りの土壌 に焼 け焦げた痕跡が認め られたか否か といった事柄 を詳 ら かに検証する必要があることはい うまで もない。 さらに馬骨 との関連では、これ までに今帰仁 城の郭内及びその周辺域か ら馬の頭蓋骨が出土 した事例 などは報告 されていない。 この事実 も 騎馬文化 との奇 しき因縁 を示唆するもの として注 目される。 なん となれば、つ とにユ ーラシア-
7-上 間 篤 の騎馬遊牧文化圏においては、馬首は霊力 を宿 した神聖 なるもの として扱われ、有力者の死 に 臨んでは、それを故人の遺骸の周 りに埋めて葬送の儀礼 とした。 よって今後の発掘調査の進展 によっては、今帰仁城跡の周辺域か ら丁重 に葬 られた馬の頭骨部が出土することなども予見 さ れる。
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)中世今帰仁 勢 力 と軍装品 中世今帰仁勢力 と関わる主 な軍装品には、鉄 (骨製のヤジ リを含 む)、石製ヤス リ、種 々の 短刀類 に加 え、千代金丸 と称す る類 まれなる刀剣 といった ものが存在する。それ らの一つ-つ には、いわゆる中世 日本の軍装品 とは明 らかに一線 を画す趣 と特徴が看取 される。以下 に、上 述の軍装品の系譜及び千代金丸の柄頭 にあ しらわれた花紋 について、東西の文化史 を踏 まえて 考察 してみる。 下 に掲載 した史料 1及び史料2に登場す る鉄 は、いずれ も今帰仁城跡で発掘 された鍬の種類 (史料 1、筆者掘影) である。 これ らのヤジ リの形状 に着 口すれば、中世今帰仁 の鉄 は、他 に出土事例が報告 されているスキタイ型の三角 鉄及び骨製のヤジリを除 き、そのすべてにおいて先端部が 扇平の形 を した もので占め られていることが分かる。扇平 鉄の形状 にまつわるこの事実は、中世今帰仁勢力の氏素性 とも深 く関わる様相 を帯 びてお り極めて注 目される。下段 の史料3は、中世 日本の代表的な鉄 を紹介 した ものである が、その中に中世今帰仁 の扇平鉄 と同類の形状 を示す もの は一つ として存在 しない。 この事実 に基づけば、中世今帰 仁勢力の氏素性 をめ ぐる問題 は、 日本の伝統的中世史観の 枠 内では扱 えない性質を帯 びた ものであることが理解 され る。一方で中世今帰仁の鋲 とモ ンゴル軍団の鉄 を比較 して みると、両者の形状 には複数の類似点が見出せ る。下段 に 示 した史料4は、モ ンゴル帝国下の騎馬軍団にゆか りのヤ ジリの一部 を紹介 した リス トである。その最上段 に見 えて いる鉄 は、モ ンゴル語で ツアブチュールゼプ (u aBqy yp 3 3 8)と呼ばれる ものだが、この種 の鍬 と先の史 料 1に登場 した今帰仁の扇平鉄が形 において近似 した特徴 を示すのは面白い。 またこの鉄の下 に見えている先端部が Ⅴ字型 にへ こんだ鉄はアンググゼプ (AHドyr 3 3 B) と呼ばれているもので、今帰仁城跡か らはこの手の もの と の近似性が指摘 される鉄 も出土 している。 また リス トの3
番 目と6番 目に見えている鉄類は、いずれの ものもザスリー ンシム (3acb… CyM) と呼ばれているもので、こ れ らの鉄の形状 には、先 に言及 した今帰仁の扇平鍍 (史料 諒蒜石㌻ 2参照)との近似性が指摘 される。紹介 したこれ らの騎馬 (史料4、モンゴル軍EZlの銀)27 文化 にゆか りの鉄 は、13世紀 か ら14世紀 にかけてモ ンゴー8-響安知とその家臣団の氏素性を探る ル帝国軍団の中核 を担 った騎馬隊に装備 されていた ものである。 一方において、中世の今帰仁勢力 は、動物の骨でヤジリを製作 していたことで も知 られる。 左 に掲載 した骨製のヤジリはその ことを証左 する貴重 な 出土史料であるC問題のヤジリは、その精巧 な出来栄 え と優美 な仕上が り具合か ら判断 して実践用ではな く、往 時の勢力 を率いた統率者の権威や威勢 を象徴す る類 の も のではなかったか と推察 される。工芸品 として も高い価 値 を有すると判断 されるこのヤジ リの存在 は、中世今帰 仁 の武装集団の中に骨の細工 にひときわ長けた武具職人 がいたことを傍証する。動物の骨 をもの作 りの素材 として扱 うこととの関連 においては、今帰 仁城跡の郭内か ら出土 した虎の顎骨 も注 目すべ き出土品の-つである。それには、残存する歯 と隣 り合わせた箇所 に細工 を施そ うと試みた跡 を窺わせ る鋭利 な切 り込み痕が認め られる.荏 時の武具職人がいかなる道具 を用いて骨 に細工 を施 して いたのかは判然 としないが、いずれに して もこれ らの出 土史料 は、中世の今帰仁勢力が骨 を細工す ることに一際 関心 を寄せ る武の文化 を育んでいたことを顕現する もの である。因みに、モ ンゴル帝国史を著 わ した ド-ソンに よれば、ヤジリを製作す るにあた りその素材 を動物の骨 に求める伝統 は、ユーラシア大陸の騎馬文化 圏で育 まれ たものであるとされる2㌔ ところで鉄 と一体 をなす軍装品 といえば、弓 と矢 とヤス リの三点 に絞 られるが、今帰仁城跡 か らは、下 に掲載 した短冊状の石製ヤス リが出土 している290ヤス リは他 に細 めで角型の形 を した棒状の もの も出土 しているが、それ らに共通 した特徴 といえば、各 々のヤス リの片端 に携 (中世今帰仁のヤスリ) 行用の紐 を通すための穴が穿 たれていることである。 こ の手のヤス リの特徴 は、機動力 を発揮するために携行品 の軽量化 をとことん追及 したことで知 られる騎馬軍団に ゆか りの携行用ヤス リを象徴するものである。次 に紹介 する短冊状のヤス リは、中国の内モ ンゴル自治区で発掘 された騎馬文化 ゆか りの携行用ヤス 1)である300 これ を 参照すれば、上述の今帰仁のヤス リが騎馬文化 を出自と するヤス リの系譜 に属す るものであることは一 目瞭然で ある。因みに、かつてモ ンゴル帝国の軍団においては、 個々の騎馬兵士 にこの種 のヤス リを常備することが義務 付 け られ、か りそめにもそれを怠 った者 には厳罰が科 さ れた31。 他 には、今帰仁城跡 か ら出土 した小刀類32が相当量 に 上 ることも、騎馬文化 との関わ りを示唆するもの として 注 目される。 なん となれば、ユーラシア大陸の遊牧騎馬 仲国内モンゴル自治区出土の携行用ヤスリ) 戦士 は、総 じて名 うての短刀使 いであったことで も知 ら
-9-上 聞 薦 れているか らである33。 さて、中世今帰仁勢力の武の文化の風貌 を今 に伝 える関連の史料 は、発掘 された出土物だけ に限定 されるものではない。中世以来沖縄の王朝史をつぶ さに見て きた生 き証人 とで もいえる 千代金丸 と命名 された刀が現存す る。 この刀の存在 も中世今帰 仁勢力の氏素性の解明に一役買 うもの と期待 される。伝世 によ れば、千代金丸 (後世の命名 による)は、中世今帰仁勢力が崩 壊 に至 る寸前 まで この勢力 を率いた撃安知 なる頭領が所有 して いたことで知 られるものである。左 に示 した写真史料 は、その 柄頭 の写 しである34。楕 円の形 を成 した千代金丸の柄頭の容姿 には、観察者 に日本刀 と同一視 されることを拒む意匠や様式上 のこだわ りが看取 される。かてて加 えて問題の柄頭 には、写真 史料で も明 らかなように、独特の花紋があ しらわれている。以下 に、この花紋がいかなる色合 いを有 しているものであるのかについて、元朝治下の文化状況 を鑑みて考察 してみることにす る。一体元朝治下の漠土 においては、花紋 を尊ぶ風習が広 く社会 に投透 していたとされる。そ の現象 については、元代 に発達 をみた染付 け と呼ばれる陶磁器焼成上の技法 との関連が指摘 さ れている。中国語では染付 けのことを青花 と呼ぶのであるが、そのいわれについて先行研究は 次の ように説明する。 ちなみに、染付 け とい うと、白地に青の隼で紋様や絵 とい う 「花」 を描 くのが、 ふつ うのパ ター ンである (だか ら、漢語では染付 けを 「青花」 と表現する。「花」 には、 もとよ り紋様、飾 りの意味 もある)350 もとより今帰仁城跡 にゆか りの出土史料 は、総 じて元朝 に仕 えた色 目系勢力 との濃密 な関係 を 示唆する特色 に彩 られている。 よって千代金丸にあ しらわれた花紋の意味 を把握するにあたっ ては、かかる勢力 との関係 を視野 に入れて考察す ることが肝要であると判断 される。 そ もそ も千代金丸は異色の刀剣である。古来 日本の刀鍛冶は、精魂 を込めて製作 した刀の茎 に自らの名 を刻印 して作 り手の名 を残 した。かかる伝統が存在 したが故 に、 日本の刀鍛冶が手 がけた名だたる名刀 には、氏素性の問題 といった ものは生 じ難い。一万千代金丸 には、その出 自を物語 る刻印の類 (その鞘 にあ しらわれた特異 な紋様 は例外) といった ものは何一つ認め ら れない。 この事実一つをとってみて も、千代金丸 と日本刀 との親緑関係 は認めがたい。かたや 美術工芸品 としての千代金丸の最大の魅力 は、その浅 く反った細 身の刀身 (総長92.1cm、刃 長71.3cm)にあると見 られる。 その容姿 は、 この うえな く日本人の美意識 を くす ぐる魅力 に 満 ちている。それ故 に、千代金丸はやや ともすれば 日本刀 に見間違 えられる要素 を多分 に窄ん でいる。一方で、その刀 身の切先部 を見れば、そこには 日本刀 に特有の鉢及び横手 と呼ばれる つ くりが欠落 しているのは明白である。 さらに千代金丸の柄の寸法 にいたっては、成人男性の 片手のひらを押 し広げた程度の長 さしかない。千代金丸の容姿 をめ ぐるかかる特徴 は、この刀 が 日本刀 とは無縁 の存在であることを雄弁 に物語 る。 よって千代金丸の柄頭 にあ しらわれた花 紋の意味 を探 るにあたっては、広 く世界 にその解釈 の糸口を求めることが肝要であると認識 さ れる。かかる認識 に立脚 して西方世界 にその手掛か りを求めれば、古来彼の地では、刀 と花紋 との間に霊妙 な関係が成 り立 っていることが分かる。つ とに西方世界の武具 にあ しらわれた花 紋 については、古のロゼ ッタ信仰 (花紋で表象 され、太陽神の象徴 とされる) に由来するもの - 1
0-肇安知とその家臣用の氏素性を探る であるといわれている。西方世界では、今 日で もロゼ ッタを敬 う民間 信仰の類は継承 されてお り、左 に紹介する十字架 と刀の形状 を併せ持っ た木彫 りの物体 もそれを証左する ものの一つである. この木彫物 はか ってルーマニア各地の街道沿いに見 られた もので、人々はそれ を街道 の路傍 に突 き立てて、悪 しき吸血鬼 (太陽、十字架、にんに くを嫌 う と信 じられた神話上の妖怪)か ら身を守 る方策 としたのだ とい う36。 この十字刀形状の木彫壕の鍔の部分 に着 目すれば、そこには悪鬼払い に力 を発揮するとして崇め られた6弁紋の ロゼ ッタが彫 り込 まれてい るのが 巨=こ留 まる。 一方で、スペイン北部の ピレネー山脈南麓やその西方のアス トウリアス地方 に伝 わる風習 を 参照すれば、彼の地域 において も古 くか らロゼ ッタが厄払 いに力 を発揮するもの として敬 われて来ていることが分か る。左 に示 した動物の絵 は、放牧 に際 して羊の群れの先導 役 を担 う雄羊 を描いた ものである。 この雄羊の首鵜 とそれ に吊 りさげ られた鐘鳴具 には、厄除け としての ロゼ ッタが あ しらわれているのが見て取 れる37。紹介 したルーマニア とスペ インの民間信仰の類 は、千代金丸の花紋 に込め られ た意味 を探 るにあた り、す こぶる示唆 に富む ものであると 判断 されるが、論理の飛躍 を避けるために、いま少 し千代金丸の容姿 に看取 される西域的風貌 について述べてお くことにする。千代金丸の柄の特徴 については先 に指摘 したとお りであるが、 さらにはその茎のつ くりにも日本刀 とは明 らかに一線 を画す形態上の違いが見て取れる。千代 金丸の茎の場合、大 きく穿たれた二つの 目貫がその先端部 に施 されている。かかる特徴 を備 え た茎のつ くりは、一般 に西方世界の刀 に見 られるものである。 なかんず く千代金丸の刀 身を収 める鞘 (内部は鋼鉄、表層部は純金か らなる)にいたっては、 日本刀の鞘のつ くりを参照 して 説明 しうる類の ものではない。そ もそ も元朝治下の中華本土 において、高度 な冶金術 を有 し、 細い刀身の刀 を製作 していたことで知 られる民族集団 といえば、阿速の名で知 られたカフカズ 出Rのアラン族がその筆頭 に上げ られるが、千代金丸が刀剣 を軍神 として崇めたこの集団 と関 わる様相 を帯びていることに関する論考は、後段 に譲 ることにする。加 えて千代金丸の花紋 を 考察するにあたっては、胴部の表面に豹皮の紋様 をあ しらった磁器碗 (今帰仁城跡出土) といっ たもの も、関連の史料 として扱われて しかるべ きであると判断 される。下 に紹介する写真史料 は、問題の約枚椀の写 しである。一体豹紋 を装飾意匠の一つ として土器などにあ しらう風習は、 古代 のイラン文化圏で発生 を見る ものであ り、その歴史は紀 元前の 4千年紀 に遡 る北。 さらにこの器 には、 なにや ら意味 あ りげな十字紋 も染め付 け られている。かかるイラン的雰囲 気 に彩 られた器の存在 は、中世今帰仁勢力の中核 を担 った武 人集団の氏素性 な らびにその文化的性格 とも不可分 に絡んで いる様相 を呈する。 この ように中世今帰仁勢力ゆか りの文物 は、その軍装品か ら種 々の紋様 に至 るまで、あ まね くイラン文化 ならびに西域の騎馬文化 との 濃密な関係 に彩 られている。以上の考察結果 に基づいて判断するならば、千代金丸の柄頭 にあ ‥ ifl‥
上 問 篤 しらわれた八弁花紋の正体は単 なる美意識の発露 としての装飾の類 に留 まるものではなく、そ れは、先 に参照 したロゼ ッタと同様 に、厄除けとしての呪術的性格 を帯びたものに相違ないと 思料 される。
4
)中世今帰仁勢 力 と娯楽 娯楽 との関連では、今帰仁城跡の郭内から出土 した餐 (サイコロ) と小円形の石駒の存在が 注 目される。この両者の存在は、中世今帰仁の武人たちが、国取 り合戦 を想定 した陣取 り遊び に熱中 していたことを傍証するものである。
洋の東西 を問わず、中世の武人たちに人気 を博 し たこの陣取 り遊びは、一般 にナル ド39(この名称 はアラビア語起源、他方ペルシャ語ではタク テ ・ナー ドと呼ばれる)の呼称で知 られているものであるが、その考案年代 は、ペルシャのサ サーン朝期 に遡 る。先行研究 においては、ササーン朝のホスロー一世 (在位531-579年)に (正倉院の収蔵品)一2 侍医 として仕 えたアズルグミフルをその考案者 と見なす説 が有力である40。従来の言説 に従 えば、ナル ドはイン ドか ら将来 したチャ トルアンガ (ヨーロッパに流布 してチェス と命名 される)に対抗 して考案 されたものであるらしい一l。 左 に掲載 した二葉の写真史科は、聖武天皇ゆか りのナル ド 用具の一式である。ナル ドは、色分け した円形の駒 を盤上 に並べ、賓 を振 って駒 を進め、相手の陣内に攻め入るゲー ムの一種であるが、この盤上の遊びがササーン朝の文物の 東漸 ・西漸の波に乗 って東西世界へ と伝播する。ナル ドは っ とに東漸 を果た し、奈良時代 にはそれが唐王朝 を経由 して我が国にも将来する。かつて奈良 朝政府 は、国策の一環 として有能な人材 を文化先進地の中華大陸に派逝 して彼の地の文物 を学 ばせ、それ らを我が国に持ち帰 らせた。逝唐使 と呼ばれた これ らの官生 らが 目指 した留学先は、唐の都の長安であっ た。往時の長安は、お りしもイラン文化で華や ぐ国際都市 であった。唐代の中国における西域時好、いわゆる胡色好 み (唐代の胡人はイラン系人を指す)には尋常ならざるも のがあった。その傾向はとりわけ上流階級の人々に顕著に 見 られ、彼 らの風流な生活には、胡食、胡服、胡楽、胡舞、 胡の娯楽 といったものがつ きものであったといわれる。当 時は、女性たちの化粧の仕方において も胡風が尊ばれたとされる。 また名門出の女性たちにい たっては、常々男装 を好み、乗馬 をよくしてポーロや鷹狩 りに興 じ、はたまた駿馬を操 って弓 矢で狩 を噂む有様であったといわれる。石田幹之助は、唐代のかかる文化の有様 を評 して 「元 来漢民族、すなわち支那人は文 を尊び武 を尚び武 を卑 しむ傾 きの強い民族であ りましたが、そ れが唐 に至 って嘗て見ない風潮 を見るにいた りました」
`3と述べているo因みに帽 ・唐期 には、 ソグ ド商人が シルクロー ドの沿線上で遠隔地交易 の主たる担い手 として大いに手腕 を振 るっ た440彼 らが種族的にはイラン系の人々であったことを鑑みれば、ナル ドは彼 らの商薬活動 に 伴 って漸次東方へ流布 していった ものと考えられる。尚、前出の聖武天皇ゆか りの宝物は、往 時のソグ ド商人が得意 とした著イ多品交易の実態 を知 らしめる遺品で もある。- 1
2-肇安知とその家臣田の氏素性を探る さて、中国に伝来 して双六 と命名 されたナル ドは、平安末期及び鎌倉期の 日本で も人気 を博 した。平清盛 と緑薄か らぬ関係 にあった後白河法皇 もナル ドの愛好家であったことで知 られる。 ところで、平安未 ・鎌倉期の 日本 と中華大陸 との通行状況 を紐解 けば、当時の公家や武家 に愛 好 されたナル ドの出自と関係す ると見 られる注 目すべ き事柄 に出 くわす。以下 に二人の仏教僧 の事蹟 を引 き、彼の時代 のナル ドの舶来ルー トについて考 えてみる。平家一門が この世の春 を 謳歌 した頃、東 アジアの情勢 にひときわ明るい人物が、我が国の歴史に登場する。威名 して妙 典 を名乗 ったこの僧 (俗名 :許斐忠太)は、平重盛 に仕 える家 臣であった。彼 は、朱へ七 回、 またその間にはイン ドへ も二度 に渡 って渡航 した とされる経歴の持 ち主であった。彼 は、表向 きは袈裟 を迷 う僧侶であったが、その眼差 しは常 に海外 を見据 え、 とりわけ海外 との交易 には 並々な らぬ意欲 を燃や していた と伝 えられる45。妙典が巡歴 した頃の中国の江南地方か らイ ン ドへ向か うとなれば、蒲一族 に代表 されるペルシャ湾岸出自のイスラム商人 らの力添 えは不可 欠であった46。従 って妙典 にとって も、イ ン ドへの渡航 に際 しては、 これ らペルシャ系 イスラ ム商人の手助けが必要であったことは否めない。旅の船中にあって妙典 は、イス ラム教徒の船 月や商人 らと親交 を深める傍 ら、熟達 した航海士か らイスラムの航海術 を始め、ペルシャ起源 のナル ドの打 ち方 といった もの も同時 に指南 された もの と思料 される。彼が帰 国後 に著 した r海書記J と遺 した航海術 の指南啓 は、彼 のかかる経験 と知識 を裏打 ちす る ものである と解 さ れる。 鎌倉時代 に至 っては、 とりわけ禅宗門徒の間で南朱への留学熱が高 まり、 この宗派の僧侶 た ちが、猫 も杓子 もといった具合 に大陸へ渡 ったことが知 られている47。 この現象 を反映す る事 例の一つに 「南蕃文
昏
」 (アラビア文字で記 したペル シャ文昏) なるものが存在す る。由来 に よれば、 この文宙 は、慶政 (京都 は山城 国松尾 の法華 山寺 にゆか りの僧) なる僧侶 が1
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年 頃に江南地方 を巡歴 した折 に、偶然 にめ ぐり合 わせた学識豊かなペルシャ人か ら、友情の証 と して贈 られた ものであるらしい4㌔ この事例 は、前出の妙典 と同様 に、鎌倉期 に中国の江南地 方に学んだ僧侶の中にもペルシャ系 イスラム商人 らと交わ りを持つに至 った 日本人がいたこと を知 らしめる。妙典や慶政 らの足跡 に看取 される江南地方 との濃密 な関係 は、平安末 ・鎌倉期 (今帰仁城跡から出土 した霊)一9 の 日本で人気 を博 したナル ドの出自とも絡 んでいる もの と して注 目される。かかる脈絡 に沿 って中世の 日本 に流布 し たナル ドの系譜 を考 えるな らば、それは、宋 ・元期の江南 地方か ら前 出の仏教僧 らによって我が国に持 ち込 まれた、 イスラム商人ゆか りのペルシャ湾岸 を出 自としたナル ドで あった と思料 される。 さてこの段の冒頭 において、中世今帰仁勢力 にとって も ナル ドは身近 な娯楽の一つであったことを述べておいた。 左 に紹介す る寮 と石駒 は、その ことの証左 となる貴重 な出 土史料 である。両者の中で も石駒の容姿 に看取 される粗雑 で粗野な雰囲気 には、辺境の地 に終の住処 を構 えざるを得 なかった武人集団のつ ま しい生活ぶ りを想起 させ る ものが ある。 ところで中世今帰仁 の武人たちにナル ドが愛好 され (今帰仁城跡から出土 した石的)50 ていたことを知 らしめるこれ らの物証 は、 これまでに考察- 1
3-上 聞 籍 した今帰仁城跡ゆか りの関連史料 、すなわち食料残津 としての麦の炭化粒、左 回転式携行用石 臼、種 々の十字紋 をあ しらった元様式の青磁碗 ならびに青花皿、スタンプ状稚紋 を施 した白磁 椀、胴体部 にキルギス族の騎馬武者像 をあ しらった青花碗 、同 じく胴体部 に約枚 を染め付 けた 磁器碗 、数種の扇平鉄、骨製ヤジリ、短冊状やす り、短刀類、 といった もの と不可分の関係 に ある史料である。 これ らの出土史料 は、先 に言及 した千代金丸の花紋 ならびに十字紋意匠 とも 表裏一体の関係 を有す るものであるが、中で も、千代金丸の鍔 に十字架 を意識 して配列 した形 跡 を窺 わせ る透か し彫 りにされた四体の十字紋の存在 は、察温が琴安知の最後の行状51につい て伝 える文言 とも関係する内容 を帯 びていて注意 を喚起す る。千代金丸 にあ しらわれた十字紋 及び察温が伝 える上述の琴安知像 といった ものは、生前の撃安知がキ リス ト教 となにが しかの 接点 を有 していたことを示唆す るもの として注 目される。かかる認識 に立脚すれば、この勢力 に人気 を博 したナル ドは、元朝末期 に万国珍や張士誠 らが率いた反元勢力によって江南地方か ら排除 された色 目系集団 と関わる娯楽の一つであったと判断 される。 ところでナル ドの西方世界への伝播の動 きは緩やかで、 ヨーロッパ人が この遊びの存在 を知 ることになるのは、バ グダッ ド出身の著名な楽人 シルヤプが、イン ド起源のチェスをアル ・ア ングルス (イス ラム勢力傘下の中世南スペ インの呼称) に普及 させた頃 と相前後する9世紀初 頭以降の出来事 である52。 その後 ナル ドは、中世のイスラム ・スペ インを経由 して ヨーロッ パ各地 にも流布することにる。西欧の今 に伝 わるバ ックガモ ンと称す る陣取 り遊びは、ナル ド の変身であるとみなされている。かたや ロシアにおいては、この陣取 り遊びが、アラビア語 を 起源 とするナル ドの名称 で普及 を見ているのは面白い。 ロシアにおけるこの事例は、ナル ドが 中東の中世 イスラム王朝 を経由 して彼の地 に伝 えられた経緯 を物語 る0
Ⅱ.阿速族 と中世今帰仁勢力
中世今帰仁勢力ゆか りの出土史料 の中には、先 にも指摘 したように、縦横同寸法の十字紋 を あ しらった元様式の育花皿 といった ものなどが存在す る。それに施 された十字意匠に看取 され (飛走馬をあしらった白磁碗)引 るギ リシャ趣味及び騎馬文化の要素 に関 しては、筆者が先 に発表 した論文53において詳細 に論 じておいたO面 白いこ とに、中世今帰仁勢力 にゆか りの出土史料 には、上 に言及 した論文 に登場す る阿速族 (元朝 と命運 を共に したカフカ ズ出自のイラン系騎馬民族) との関係 を暗示する他の図柄 も存在する。左 の写真史料 に見えている飛走馬 を描いた も のがそれである。 この図柄 には、疾走する馬の背 に興 を想起 させ る二股状の突起物が措かれて いる。杏 しくもこの特異 な装飾図柄 は、そのモチーフにおいて、アラン族 に特有の装飾意匠 と して知 られる有翼獣の系譜 に連 なる特徴 を具備 している。以下 にアラン族の歴 史を紐解 き、両 者の関係 について考 えてみる。 1) ア ラ ンと阿速 は同族異称 アランとは、元来、先達のスキタイ族やサルマ タイ族 といったイラン系の騎馬遊牧民の文化 - 14-撃安知とその家臣団の氏素性を探る を継承 した民族集団を呼ぶ名称である。また言語学 によれば、このアランなる呼称 は、本来アー リア人を意味す るものであるといわれる。往古のアラン族 は、カフカズ山系の北麓か ら北方へ 連なるコーカサスの大平原地帯 (彼 らは、 この地 を自らの民族名 に因んでアイ リヤーナ と呼び 習わ していた と伝 え られる)SSを自らの勢力版 図 としたイラ ン系 の種族集団であった ことで知 られる。その頃の彼 らは、天蓋 を施 した牛車 に家財道具の一切 を積 み込み、それに寝泊 りしな が ら、牛や羊の群れを追 って生計 を営む、典型的な遊牧の民であった。彼 らは乳製品や家畜の 肉を常食 としたが、必要 に応 じて猟犬 を解 き放 って猪狩 りを行い、その肉は食用 に、骨 は道具 や装身具 に、脂 は灯明などに用 いた。彼 らが猟犬 を放 って行 った猪狩 りの手法は、後に彼 らの 一部が西方へ移動 したことに伴 い、新天地の ヨーロ ッパ にも移植 された56.ユ ーラシア大陸の ステ ップ地帯で進化 を遂げた馬は、騎馬文化の担い手 として名 を馳せたアラン族 にとって格別 な存在であった。 アランの男たちは、幼少の頃か ら、馬の背で暮 らす ことを常 とし、乗馬 によ らず して地面 を歩 き回る人々を蔑み、かつ忌み嫌 った。 下 に紹介す る人物像 は、かかるアラン族の 自画像 を今 に伝 える もの として注 目される57。そ の大腿部が極端 に湾曲 した形 に描かれているこの 自画像 は、上 に述べ た乗 馬の風習 を証左 する貴重 なものである。 この体格上の特徴 は、常 々人馬一 体の生活 を営む人々に見 られるもので、今 日ではアルゼ ンチ ンのガウチ ョ (馬 に乗 って牛や羊の放牧 に携 わる牧童) たちの体格 に同様の特徴が見 ら れる。 アラン族の集団内では、ユーラシア大陸の主たる遊牧民の例 にもれ ず、一夫多妻が行われ、集団の統率者 を選ぶにあたっては世葬制によらず、 合議の上、仲間の中か ら統率力の資質に恵 まれた人物が選出 された。彼 ら は奴隷制 を認めず、彼 らに臣従 を誓 った民 は、養子縁組の儀式 を経て迎 え 入れ られ、分 け隔てのない扱いを受けた。宗教 は独特の祖先崇拝 により、 戦場で勇敢 に戦 って潔い死 を遂げた同胞の霊魂 を奉 り、それを崇拝 した。彼 らは、屠殺 した動 物 を祖先の霊 に奉 げて祖先崇拝 を行 ったとされるが、その儀式の L 有様 は極めて原始的な ものであったと伝 えられる油. その一方で、アラン族 には軍神 を奉 る風習 もあった。宿営地の 中央 には、彼 らが軍神の化身 と見な した刀剣 を地面 に突 き立てて 畏敬の対象 とした。左 の写真史料 は、北 オセチア ・アラニア共和 国59で発掘 された11世紀 の遺物 を紹介 した ものであ る60.紹介者 の石黒寛 によれば、被写体の人物像 は、その前頭部 にかつてアラ ン族 に愛好 された馬首の額飾 りを纏 っているとい う. この馬首の 額飾 りは、スキタイ ・サルマ タイ文化 を継承 したアラン族 ならで はの精神文化 を表象す る装身具の事例 として注 目される。 またこ の人物像の片側 に見えているすんな りとした容姿の刀剣 は、彼の世 に知 られたアラン刀である。 このサーベルタイプのアラン刀 に関 しては、 ローマ帝国の軍団内に東方出自の騎馬部族の影響 を受けて騎兵部隊が創設 された際、軽騎兵装備の一つ として採用 された経緯がある61. ところ で、古代 のコ-カサス平原のイラン系遊牧民 と地中海世界 との結 びつ きは、つ とにギ リシャ人 が地中海西方地域及 び黒海北辺地域 に進出 して殖民都市 を建設 したことに端 を発する。かかる 植民活動の結果、黒海北辺 に位置するクリミア半島周辺 には、数々のギ リシャ人入植地が誕生 - 1
5-上 聞 篤 し、その後両地域 は、 とりわけアゾフ海の豊かな海産物 を扱 う交易 などを媒体 として、文化的 に も緊密 な関係 を醸成す ることになる。紀元前期 の7世紀 か ら3世紀 にかけて、 コ-カサス一 帯 を勢力版図 としたスキタイ族がギ リシャ世界 と接触することになるのは、この時代 のことで ある。この両者の関係 は、ギ リシャ神話が断片的に中央アジアの諸民族 に伝播する契機 ともなっ た。 2) ア ラ ン族 と西方世界 西暦
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年代 の前期 に、 コ-カサスのアラン族 は、 自らの行 く末 を左右す る重大 な事件 に巻 き込 まれる。それは、東方出自の フン族が大挙 してコーカサス平原 に侵 入 して きたことに端 を 発す る。アラン族 とフン族 は、遊牧版図の利権 をめ ぐって鋭 く対立 し、両者の間では幾度 とな く俄烈 な争いが繰 り返 される。やがて両者の抗争はフン族の勝利 に終わ り、敗者 となったアラ ン族 はコ-カサスか らの退避 を余儀 な くされる。彼 らの一部は西方-、他の一部はカフカズ山 系の山懐 に安住の地 を求め、 自らの延命 を模索す る。 西方への移動 を余儀 な くされたアランの集団は、後 にローマ帝国の北方に暮 らすゲルマ ン諸 族 と複雑 な関係 を保 ちなが ら、南方のローマ世界 と渡 り合 うことになる。西暦4世紀 といえば、 ローマ世界では、 コンス タンチヌス帝 (在位2
8
8-3
37
年)がキ リス ト教 を公的 に受 け入れ、 ′トアジアのニケアで招集 された宗教者会議 (西暦3
2
5
年)においては、 コル ドバ出身の宗教指 導者 オシオが三位一体説 を主張 してア レキサ ン ドリアのアリオの神学 を論破するといった、宗 教 をめ ぐる重要な事柄が成就 し、決着 をみた時代で もあった。 また政治の世界では,テオ ドシ ウス帝 (在位3
7
9-3
9
5
年) の治世以後 , ローマ世界 は二極化の局面 を迎 えることになる。 そ れは、この皇帝が退位するに及んで、二人の息子 に帝位 を継承 させたことによる。その結果、 西の ローマ世界ではオノ リウス (在位3
9
5-4
2
3
年)が、東の ローマ世界ではアルカデ イウス (在位3
9
5-4
0
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年)がそれぞれ皇帝の座 に就 くO西暦3
7
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年代 の初期 にフン族の圧迫 に抗 しき れず に西進 を余儀 な くされたアラン族が遭遇 したローマ世界 とい うものは,おおむねかかる様 相 を呈 していた。4
世紀末期 ならびに5
世紀初頭の諸事 を伝 えるローマ史には、ローマ帝国の行 く末 を左右 し た重大 な事件や局面 において、アラン族が深 く関与 した事柄が記 されている。西暦3
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年、皇 帝バ レンテ (在位3
6
4-3
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8
年)が率 いたローマ軍 は、対立関係 にあった北方民族の制圧 に乗 り出す。その戦役 においてローマ軍は、騎馬戦 に長けた西 ゴー ト族 とアラン族の混成軍団に打 ち負か されて しまう62。 この事件 は、 コーカサス を後 に したアラン族の集団が、数年後には、 すでにゲルマ ン系の西 ゴー ト族 と友好関係 を構築するに至 っていたことを知 らしめるものであ る。 この西 ゴー ト族 とアラン族の混成集団は、その後 も数十年 に渡 り行動 を共 に し、両者の緊 密 な関係 は、前者の頭領 アタウルフオが、 この混成集団 を率いて南仏 に到達す る41
4
年頃 まで 続 く。南仏 に到達 した後のアラン族は、西 ゴー ト族 と裸 を分かち、ローマ側の勢力版図に留 ま ることを選択する。バ クラクの研究 によれば、南仏の ソルボンヌや トールーズの近郊 には、中 世の初期 に至るまで、彼の地に定住 を果た したアラン族の名を冠 したアランシアヌス、アレ二ヤ、 アロス、アライネ、アラン、アランス といった地名が存在 した といわれる630 -万、イタリア北部の ミラノ、ベ ロナ、パ ドバか らアルプスに通 じる峠道の周辺にも、前述 の南仏の事例 と同様 に、中世の初期 に至 るまで、アラン族の足跡 を伝 えるアライン、アレニヤ、- 1
6-琴安知とその家臣団の氏素性を探る アラニ ヤ、ア レニ ヨ、アラノ ・デ イ ・ピアヴオといった地名が存在 したことが知 られている640 これ らの地名の由来については
、5
世紀の初期 にオノ リウス帝治世下の西 ローマ帝 国に仕 えて 武勇 を馳せ たアラ ン騎 馬先鋒 隊 との関係が指摘 されてい る65.西暦410年 、 ローマ帝 国揺藍 の 地 ローマは、アラリッコ率いる西 ゴー ト族 の攻撃 を受 けて壊滅的な打撃 を被 り、興廃す る。 ア ラ リッコの軍勢 は、それ に先駆 けるこ と401年 と405年 に も西 ローマ帝 国 に侵 入 して略奪行為 を働 く。 この不測の事態 に臨み、西 ローマ帝国軍の総大将 ステ イリコ (バ ングル族 出身) は、 配下のアラン族 に先鋒隊 を担 わせ 、侵略者 に対 して追討作戟 を展 開す る。前線 において追討軍 を指揮 したのは、サ ウル と名乗 るアランの武 人であった。サ ウル指揮下 のアラン騎馬先鋒部隊 は、命 を投 げ打 って善戦 し、西 ローマ帝国 を国難 か ら救 う。指揮 官サ ウルは、405年 のベ ロナ 近郊での戦闘で戦死 した と伝 え られる66。 さて西方へ移動 したアラン族の中には、終始一貫 して ローマ帝 国に服属す ることを拒否 し続 けた集団 もあった。パ ンノこア平原 においてパ ンダル族 と同盟関係 を結 んだアランの集 団がそ れである。両者 は、その後混成集団 を形成 して西進 し、ローマ帝国の辺境地帯 に姿 を現す。ス テ イリコは、軍隊 を派遣 してこの集団の動向 に晩み を利 かせ 、一度 は彼 らをライ ン川の向 こ う 岸へ追いや る。406年、彼 らは新 たに南進 を開始 し、厳冬期 に氷結 した ライ ン川 を越 えて帝 国 内に再度侵入する。同年、彼 らはフランコ族の襲撃 を受 けて壊滅 の危機 にさらされるが、危機 一髪の ところで支援 に駆 けつけた レスペ ンデ イアル とそのアラン騎 馬部隊 に放 出 される。南仏 の ローマ軍団の指揮官 らは、新参のパ ンダル .アランの混成集団に対 して ローマへの服属 を促 す。 この計 らいに対 して、 ローマへの服属の意思 を表明 したのは ゴアルー派のアラン人たちだ けに留 まった。 翌年の407年 には、 コンス タンナ ン三世 が ブ リテ ン島で召集 した軍隊 を率 いて南仏 に到着 す るO コンス タンナ ン三世は直 ちに騎 馬戦術 に長けたアラン人 らを抜擢 して親衛隊 を組織 し、そ の一方で、彼 に賛同す るアラン人 らを招集 して新 たな部隊 を創設す るO新参部隊の兵員 となっ たアランの武 人 らは、別名 オノリア ンとも呼 ばれた。 このオノリア ン部隊 には、南仏一帯 にお けるローマの権益 を擁護 し防衛す る観点か ら、 ピレネー山麓-一帯 に所有地が与 え られ、周辺の 要衝地の防備が任 されたr-70409年 には、 ローマ-の服属 を拒否 したパ ンダル .アラ ンの混成 集団が、大挙 して ピレネー越 えを敢行 し、スペ イ ンになだれ込 む とい う事件が発生す る。その 際、 この大集団が ピレネー山麓の主たる峠道 をさしたる支障 もな く通過で きたのは、かつての 同盟者及び同胞 を思いや るオノ リア ンたちの配慮があったか らだ といわれている。 ところで、 ピレネー山麓の アラン谷(
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周辺 には、現在 もオノ リア ン兵団の後商 にあたる アラン人たちが暮 らしている。 イベ リア半島に到達 したパ ンダル ・アラ ンの混成集団の内、 シリング部のパ ンダル人はバエ テ イカに、ハ スデ イング部のバ ングル人はスエ ヴ イ族 と共 にガ リシアにそれぞれか りそめの定 住地 を確保す る。かたやアラン族 は二手 に分かれ、一方 はル シタこア (現在のポル トガル北部 --管) に、他方 は地中海 に面 したカル タへーナ周辺 に一時の拠点 を構 える。その間、パ ンダル 族 とアラン族 はオノリウス帝 に使者 を送 り、両者 ともローマ に服属す る意思があること、 また そのためには、彼 らの側か ら人質 を差 し出す こともやぶ さかではない ことを伝 える。 しか しな が らこの申 し山は受理 されず、逆 にローマ側 の将軍 コンスタ ンテ ィウスは、南仏 の西 ゴー ト勢 力 を先鋒隊に起用 して、イベ リア半島のバ ングル ・アラン集団の制圧 に乗 り出す。掃討作戦 は - 17-上 聞 篤 3年の月 日に及び、 シリング ・バ ングル族 を率いたフレ ドパル とルシタニアのアラン族 を率い たアブ ドクが ローマ側 に捕 らえ られる。その後、 フレ ドパ ルは放免 され、アブ ドクは処刑 され た。 この事件後 は、 ローマ側 に内通 して難局 を乗 り切 ったハ スデ イング部の頭領 グ ンタリック が、彼の地のパ ンダル人 とアラ ン人 らを統率す ることになる。 しか しなが らこの事態 に及んで も、パ ンダル ・アラン集団 と北方の西 ゴー ト族 との敵対 関係 は解消 されなか った。やがて南仏 で フランコ族 との抗争 に敗 れた西 ゴー ト族が大挙 してイベ リア半島 になだれ込んで来る と、新 参者 とパ ンダル ・アラン集団 との対立の構 図は さらに悪化 の一途 をた どる。軍事的に圧倒的優 勢 を誇 る酉 ゴー ト族 を前 に して、なす術 を失 ったバ ングル ・アラ ンの混成集団は、彼 らが ピレ ネー越 えを敢行 してか ら20年後の439年 に再 び民族移動 を開始す る。 このたびの民族移動では、 ハ スデ イング部出身のガイゼ リックが集団 を統率す る