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人的資源管理研究の学問的性格 : 経営学の有用性とは

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人的資源管理研究の学問的性格

-経営学の有用性とは-

石井 脩二

要 旨

 経営学とは、いかなる学問か。人的資源管理研究とは、どのような科学として理解したらよ いのか。経営学や人的資源管理研究に携わる研究者は何を責務とし、どのような行動が求めら れているのか。このような問題を考えてみようとしたのがこの論考である。背景は、2011年3 月11日の東日本大震災とその後に発生した福島原子力発電所の事故であった。特に、原子力発 電所の事故に関しては、多くの専門家・科学者がマスコミに登場して様々な評論や説明を行っ てきた。その説明や評論でつかわれる言葉の難しさ、判りにくさに強い印象を持った。専門家 や科学者といわれる人々は何をする人なのかという疑問が湧き上がってきた。同時に自分自身 が専門家として、これらの人々と同じことをしているのではないかという疑問も生まれた。学 問としての経営学は役に立たないという声も漏れ聞こえてくる。学問としての経営学と経営実 践はどのような関係にあるのか、経営学研究を専門とする科学者はどの様な社会的責任を負っ ているのか。このような問題意識は、結局、「学問とは何か」「科学とは何か」という問題を問 うことにつながる。しかし、この問題に直接にアプローチすることは私の知識と能力をはるか に超えている。そのため、手掛かりを人的資源管理研究に求め、人的資源管理研究がいかなる 特質を持つものであるのかを明らかにするとともに、そのような活動に対して投げかれられた 批判的見解の検討を通じて、人的資源管理研究や経営学研究の意味を考察した。そして、経営 学研究の意味の探索を通じて、経営学研究者の社会的役割とは何かという問題に関して少しだ け検討を加えた。差し当たり、経営学や人的資源管理研究は、「技術の学」「機能性追求の学」と しての固有の特性を発揮することが必要ではないかということと、そのような学問であるため には「わかる言葉」で社会や産業界に語りかけることによって経営学研究者としての存在意義 を示すことが必要だというありきたりの結論にしか到達していない。ここに掲げた問題の追及 は、今始まったばかりである。

はじめに-問題意識と課題-

 2011年3月11日に発生した東日本大震災とそれに起因した福島原子力発電所の崩壊、その 後の放射能流出に伴う深刻な汚染問題に対して多くの専門家・研究者が様々な意見や態度を表 明している。原子力発電所の事故発生からマスコミに登場して説明を行う研究者・専門家の言 葉の難しさ、わかりにくさはとりわけ印象に残るものであった。専門家・研究者は、なぜあの ようにわかりにくい言葉で喋るのか、専門外の人間にもわかるような言葉で説明できないの

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か、直面している事故の重大性とその及ぼす影響について本当のところをわかるように説明で きないのはなぜなのか、といった疑問が次々と頭の中を過っていった。と同時に、世の中で専 門家・研究者といわれている人々の果たす役割とは一体何なのかという疑問も浮かんできた。  そのような疑問が湧き上がっているときに、それでは自分が専門としている経営学や人的資 源管理の領域で講義をしたり、講演で話をするときに自分自身は学生や聴衆に対して本当に理 解できる言葉で教授したり、話したりしているのだろうかとふと思ったものである。人から 「あなたの専門は何か」と聞かれることがある。「経営学、中でも人の問題である人事労務を専 門としています」と答えている。そうすると、多くの人が「へーえ、難しそうですね」と応える と同時に「人を使う専門家なんですね。人の上手な使い方を教えてもらわなければ……」とい う会話が続く。もしくは、「経営学って役に立つんですか」という問いに遭遇することもある。 一般の人から見れば、私が経営学の研究者で、人事労務の専攻であるということは、会社経営 のうまい方法を知っている人、人の上手な使い方を知っている人というように見られていると いうことであろうか。経営学の研究者の多くは、一般の人々のこのような素朴な期待に応えて いるのだろうか。そのような期待を抱かれること自体が誤りだといってしまうこともできる。 いやしくも経営学は、科学である以上、経営現象の因果性や客観的法則性を明らかにすること を課題とするものであって、一般の人々が抱くような経営実践への有用性という視点から捉え られるべきものではないし、経営学の研究がすぐに現実の経営や人事労務に役立つようなこと を研究しているのではないと反論することもできる。  しかし、ここにも原子力発電所の事故の後に原子力関係の研究者・専門家が世間に対してわ けのわからない説明を繰り返してきたのと同じような問題が含まれているように思える。経営 学や経営学の部門領域の研究に携わる私は、専門領域で常識と思われる専門用語を使い、特有 の言い回しや論理を駆使して現実を説明しているつもりになっているのではないのだろうか。 そのような専門用語を使って説明しようとすることにどのような意味があり、またそれらを専 門的に研究する研究者・専門家として社会的にはどのような役割を担っているのか、一度正面 から考えてみる必要があるのではないかと思えてきたのである。企業経営の実務に携わる人々 からは、経営学は役に立たないという言葉も漏れ聞こえてくる。学問としての経営学と経営実 践とはどのような関係にあるのか、経営学を専門として研究する研究者の社会的役割とは何 か、原子力発電所事故をきっかけとして考えてみようとしたのが本稿である。  このような問題意識は、突き詰めていけば結局は「学問とは何か」「科学とは何か」、という 問題を問うことにつながるものである。しかし、「学問とは何か」「科学とは何か」と直線的に 問うことは私の能力をはるかに超えている。そこで、わたくしの専門領域である人的資源管理 の問題に絡ませて「学問」や「科学」の問題を考えてみたいと思う。  その発端は、昨年 8 月に経営行動研究学会の全国大会で「日本の人材管理-課題と方向-」 という研究発表を行ったときに、三戸 公教授から人的資源管理論と人事労務管理論の関連、 人事労務管理論に対する私の認識についての質問を受けたことにも関係している。この質問 は、人的資源管理研究の学問的性格と同時に経営の人間的側面の研究の在り方に関わる問題提

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起であったと理解している。この三戸教授の問題提起を手掛かりとして経営学の学としての、 また科学としての性格やそれを研究する研究者の役割といった問題を検討してみたいと思うの である。この論考は、その始まりに過ぎない。  この問題にアプローチするために、まず人的資源管理とはいかなるものかということを明ら かにすることから始めたい。それは、人的資源管理という経営学の部門領域がどのように捉え られ研究されているかということを明らかにすることであり、そこに経営学研究の一つの特質 が明確に表れていると思うからである。次に、そのような人的資源管理論研究に対して様々な 批判が提起されており、それらの批判を検討することによってそもそも企業経営における人間 問題の研究とはどのようなものなのかを明らかにする。そして、最後に人的資源管理論研究の あるべき方向とはどのようなものかということについての検討を行う。これらの検討を通じ て、経営学研究の意味、経営学研究を専門とする専門家の社会的役割といったものを考える手 がかりが得られれば幸いである。

Ⅰ.人的資源管理論の性格

 1.人的資源管理とは

 人的資源管理もしくは人材資源管理、Human Resource Managementという言葉は、すでに 1950年代には現れていたが、一般に知られるようになるのは70年代に入ってからである。し かし、この言葉がそれまでの人事労務管理、Personnel Managementという言葉に変わるもの として使われるようになるのは、アメリカ人事管理協会 American Society for Personnel Administration, ASPAが 1989 年にその会の名称を人的資源管理協会 Society for Human Resource Management, SHRMへと変更する決定を行ってからのことである。そして、それ以 降はそれまで人事労務管理という表題を付していた研究書・教科書がすべてHuman Resource Managementへ改題されたのである1  人事労務管理から人的資源管理への言葉の変化は、企業経営が直面した経営環境の変動を反 映したものであることは、明白である。企業経営を直撃した大きな経営環境の変動とは、産業 社会の構造的な変動であった。それは、工業社会から情報社会への転換であり、企業活動の内 容が「モノづくり中心」から「情報創造」「知識創造」へと変化していったことを意味している。 「モノづくり中心」の産業活動から「知識創造」「情報創造」への産業活動の変化は、企業の存続 を左右する市場での競争の様相が変化したことを反映している。  「モノづくり中心」の産業社会であれ、「知識創造」「情報創造」の産業社会であれ、競争の原 理はそれぞれの企業の自由な発想による「違いの創造」に置かれてきたことは共通している。 では、同じ「違いの創造」を競争原理においていたにもかかわらず、「モノづくり中心」の産業 社会と「知識創造・情報創造中心」の産業社会では何が異なっていたのか。  「モノづくり中心」の産業社会では、生産される財やサービスの「品質」や「価格」「コスト」 の違いが企業収益の源泉であり、そのため企業相互間での競争の焦点をなしていた。最良の品 質の、そして低廉な製品やサービスを市場に提供できる企業が競争を制し、確実に収益を手に

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することができた。そのために、よい品質の、そしてコストのかからない生産を可能にするよ うな生産システムの開発とそれを操作できる労働力の確保と管理こそが企業にとっての重要な 政策となった。とりわけ、複雑な生産システムを中断なく操作し、生産条件の変動に柔軟に対 応できる質の高い労働力の確保と育成は企業にとって最も重要な政策をなしていた。人事労務 管理とは、生産現場でのこのような質の高い労働力の確保・育成・活用に関わる企業からの組 織的・計画的な働きかけであった。日本ではその具体的な姿は、長期雇用と能力主義を柱とし た処遇制度のなかに見出すことができた。このような人事労務管理といわれる人材マネジメン トの姿が急速に変化し、人的資源管理といわれる新しい人材マネジメントの諸制度が注目され 始めることになる。  2.人的資源管理論の特質  人的資源管理は、どのような課題を背負って登場したのだろうか。人的資源管理は、組織内 での従業員の経営資源としての重要性や組織目的の実現に向けた従業員のモチベーション・コ ミットメントをことのほか重視しているという点で従来の人事労務管理とは異なる新しさを持 つといわれている。しかし、この用語が急速に学会・産業界に普及していくのは先にも述べた ように1980年代に入ってからのことである。特に、人的資源管理の議論に熱心であったアメリ カとイギリスではその普及に若干のずれがあるものの、同じく80年代であったことに変わり はない。

 アメリカでの人的資源管理普及の背景は、例えばBeardwell & Holdenによれば、二つの要 因が挙げられている2。すなわち、第一は、80年代に生じたアメリカ経済の景気後退であり、経 済不振の中での企業間競争の激化、とりわけ急速に台頭してきた日本の製造業との競争圧力で ある。第二は、アメリカ社会における労働組合運動の影響力の低下である。この二つの要因を 背景として、アメリカ企業は競争優位性獲得のためのイノベーション能力および従業員のモチ ベーション、コミットメントの改善による労働効率の向上という課題に直面することになっ た。この課題を解決するためには、経営側にも明確な目標や戦略の策定および明示とそのよう な目標や戦略への従業員のコミットメントと実践行動が重要な鍵を握ることになり、従来まで の労使の利害調整的機能を重視する人事労務管理に代わって積極的に新たな従業員関係の構築 が求められることになった。  企業間競争の新たな様相と労働組合運動の停滞という二つの要因を背景として、経営側主導 による新しい人材マネジメントの思想・理論・制度の体系として登場したのが人的資源管理で あったということができる。その大きな特徴は、従来現場の管理者による日常的実践として展 開されてきた人材マネジメントがいまや経営戦略との密接な結びつきのもとで現場から経営中 枢へと引き上げられたというところに求められる。  人的資源管理の全体像を経営戦略との結びつきに限定せず、より広い視野から「領域マッ プ」としてモデル化したものがBeer et.al(1984)のハーバード・モデルといわれるものである。 これは、アメリカ企業における人材活用の拙劣さを克服するために、経営トップが一貫性のあ

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る統合的な人的資源管理の戦略モデルを構築していくための道筋を明らかにしたものである。 その特徴は、人的資源管理を経営トップの責任事項とし位置づけるとともに、経営を取り巻く 「利害関係者」と「状況要因」という広範囲にわたる環境要因を基底において、これらの環境要 因に含まれる様々な利害の調整という役割を経営トップと人的資源管理に負わせようとする。 このモデルは、以下のように示されている(図1参照)。  岩出は、ハーバード・モデルについて、70年代のQWL推進者であるハーバードの研究者に よって提唱されたモデルであり、特定の人的資源管理施策が他の施策に比べて必ずいい結果を 挙げるものが存在するという認識に立つものであることから、「ベスト・プラクティス」アプロ ーチであると分類している。そして、このモデルの特徴を以下の四点に集約している。すなわ ち、  ① 制度内容に関わる要因として「利害関係者」と「状況要因」という広範囲な環境を措定し ている  ②中心的な制度として従業員参画、採用・育成、報酬、職務設計に注目している  ③有効性の評価基準としてコミットメント、能力開発、コスト、合致度に注目している  ④長期的には個人・組織・社会が今以上にすべてよくなるという認識3 図1.HRM の領域マップ

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 人的資源管理論は、経営を取り巻く環境要因や経営が策定する戦略との適合性をとりわけ強 調していることからハーバード・モデル以外にもいくつかのモデルが示されている。しかし、 それらに共通していることは、人的資源管理が戦略実現にとって重要な柱となるという認識で ある。このことは、人的資源管理の研究が経営戦略の遂行や経営目標の実現に役立つ理論や実 践の開発にあるということを示している。つまり、経営者や経営活動に役立つ理論や実践的技 法の開発という性格である。人的資源管理研究の持つこのような性格は、それが「技術の学」 としての特性を帯びたものであることをここで確認しておくことが必要である。

Ⅱ.人的資源管理研究批判の諸見解

 70年代80年代にアングロ・サクソン諸国を中心に急速に普及した人的資源管理研究は、90 年代に日本の研究者にも波及し、それまで人事労務管理論とか労務論と呼称されていた人材マ ネジメントの領域がここでも人的資源管理という呼称に変わっていった。特に、経営労務の研 究学会である「日本労務学会」がその英文表示を「Japan Society of Human Resource Management」に変更したことによって弾みがついたということもできる。このような学会の 動向に対していち早く批判的な見解を提示したのが三戸である(三戸、2004)。まず、三戸の見 解を検討することから始めよう。  1.三戸による人的資源管理論批判  三戸は、従来人事管理と呼称されてきたこの分野が人的資源管理と改称されるに至るアメリ カでの経営学の動向に注目し、そこにいかなる問題が伏在しているのかを明らかにしようとす る。そして、人的資源管理とは、人間を物的資源と並ぶ人的資源としてとらえ、人間の持つ諸 特性を可能な限り科学的・数値的に把握し、組織目的に向かって可能な限り機能的に処理しよ うとするものと捉えている。このような変化は、企業を構成する人的要因である従業員に対す る見方すなわち従業員観に変化が生じたからである。問題は、なぜ従業員観に変化が生じたの かということであり、そこに問題の本質が隠されているというわけである4  テイラーの科学的管理の普及によって、いわゆる「計画と執行の分離」が進み、それまで職 場の万能職長の掌中にあった作業及び作業員に関わる管理の一切が雇用者の掌握するところと なり、ここに従業員管理の体系と制度化が必要とされるようになる。この要請に応える形で、 人事管理論と目されるテキストが数多く公刊されることになる。三戸は、ティード=メトカー フに始まる代表的な人事管理論をたどりながら人事管理から人的資源管理への転換が「管理 観」=「人間観」の変化によって生じたのだと主張している。  すなわち、三戸によれば、テイラーの科学的管理は、アメリカの管理学の発展に二つの流れ を生み出したという。一つは、テイラーが主張した「経験から科学へ」と「対立から調和へ」と いう理論・技法と規範の考え方を統合的に把握し、その中での理解と技法を探求する流れであ る。この流れを三戸は「本流」と称する。もう一つの流れは、テイラーが提唱した「経験から科 学へ」という側面に特化した流れである。テイラーは、科学とは対象を分解し、細分化し、専

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門化し、分析し、測定し、法則性・規則性を発見し、形式化し、技術化することと把握してい る。テイラーの科学化は、「作業の科学化」であった。その後、ホーソン工場実験を契機として 見出される非公式組織を手掛かりとして「人間関係の科学化」が進められ、さらには公式組織 の科学化、意思決定の科学化、組織を取り巻く環境の科学的把握へと発展する。つまり、三戸 の言葉でいえば「管理の科学化」という流れである。この「管理の科学化」の流れを三戸は「主 流」と称する5。アメリカにおける管理学の発展は、「本流」「主流」という二つの流れをそのう ちに抱えながら今日に至っているということになる。では、本流と主流の違いとはなんである のか。三戸の論述を追ってみよう。  人材マネジメントの分野では、意図的と否とを問わず出発点に「人間をどのように捉えるの か」という人間観を前提として理論や技法が展開される。本流に属する代表的な研究者として 三戸が挙げるのは、C.I.バーナードとP.F.ドラッカーである。ドラッカーもバーナードも従来の 管理論・組織論を乗り越えた理論を展開しているという点で共通するという。彼らが従来の管 理論や組織論を乗り越えたのは、理論の出発点の人間観が「全人観」認識にあったからだとい う。全人観とは、人間を社会的・道徳的・人格的存在(ドラッカー)、自然的・生物的・社会 的存在であると同時に人格的存在(バーナード)と捉えるということである。それは、人間を 人間そのものとして、はたまた自由意思を有する存在という認識を前提として理論構築を行っ ているということを意味している。全人観を前提とするということは、人間が科学をもって把 握可能な側面と不可能な側面との二者より成るものと捉えるということである。全人観に立つ ドラッカーは、人間の本質を自由と把握し、管理の技術は〈自由と機能〉を実現するものとし て展開している。そして、管理の代表的な場である企業を単なる経済的制度としてとらえるの ではなく、統治的制度・社会的制度と捉えたうえで彼の管理論を展開しているという。つまり、 全人仮説にたつ理論は、人間の自由や自由意思を体現できるような管理や技法の開発を目指し ていると理解することができるだろう。  この本流に対して「管理の科学化」に身を置く「主流」は、前提となる人間観を「人的資源」 として取扱い管理しようとする。そこでは、人間は、資源として測定され、数値化され、確証 性をもって実験され、実証されることによって余すところなく把握されようとする。科学的把 握の精度は、要素への分解・細分化によって実現される。この本流のアプローチの問題点は、 人間をいくら要素へ分解して科学的成果の集合集積として人間を把握しても人間そのものを把 握することはできないというところにある。加えて主流は、要素に分解した人間分析を「資源」 としての有効利用という観点から総合し、人間の特性を把握しようとする。つまり、人間を資 源として有効利用するために身体的特性と心理的特性、そしてその関係をどこまでも追求し、 科学的に実証し、組織目標の達成に向けようというものである。つまり、人間を資源として把 握し、その機能性・有効性を徹底的に追及していこうというものだということになる。  組織目的実現のための資源として人間を把握し、その機能性・効率性を徹底的に追及する人 的資源管理論とは、いかなる性格のものであるか。この点に関して三戸は卓越した認識を示し ている。すなわち、人材マネジメントが人事管理論として論じられていた時は、管理の主体が

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人間であり、客体もまた人間であった。管理主体が資本家であれ経営者であれ、いずれも人間 であった。それゆえ、人事管理論は、資本制生産の下での人間を対象とし、従業員の有効活用 に力を注ぎながら、従業員の雇用・解雇・生活に無関心ではいられなかったのだという。それ に対して、人的資源管理では管理の主体は組織であり、客体は人的資源である。そして、組織 の担い手は人間であり、人的資源の担い手も人間である。そこでは、主人は組織であり、人間 は経営者から一般従業員に至るまで組織にとっての資源に過ぎない。そして、組織は、その目 的の実現に向けて人的資源のパワーを発現させるのだと。  企業や組織のための機能性・効率性を追及してきた経営学研究における「主流」すなわち 「管理の科学化」を推進してきた研究者たちが生み出したものは、企業や組織が人間の主人と なり、人間を支配し、企業や組織の道具として人間を利用する社会であり、人間は企業や組織 に従属し奉仕する資源でしかない社会である。人的資源管理とは企業や組織に従属し奉仕する 人間を管理する活動であり、人的資源管理論は企業や組織に従属する人間の活動をより機能 的・効率的に高めるための考え方や理論・実践の体系を構築するものである。三戸は、このよ うな性格を持つ人的資源管理とその研究が自然や社会にいかなる随伴的結果をもたらすか問う までもないという。三戸が喝破した組織社会の現実とそこでの人的資源管理の性格と役割は、 否定しようのない見事な分析だということが出来よう。では、人材マネジメントの研究は、ど のような方向でなされるべきなのか。いま必要なことは、バーナードやドラッカーがよって立 つ全人仮説に基づく21世紀的管理論・人事管理論の出現に努力することが求められていると 三戸はいう。  三戸の主張は、人間を資源と把握する考え方がこれまでとは全く異なる企業社会によって生 み出されたものだという点ある。すなわち、人間が資源と把握されることは、経営者も含めた 組織の構成員すべてが資源ということであり、そこには最早主人公としての人間の存在はない という認識を見て取ることができる。組織社会といわれる今日の社会における人間の存在の仕 方をこれほど見事に描き出した論考はほかにないといっても過言ではなかろう。  しかし、このような資源観アプローチによる管理論や人材マネジメント論に代えて全人仮説 にたつ新しい管理論・人事管理論の構築という考え方は、はたして現実的なのだろうか。全人 仮説に立つ管理論や人事管理論の構築という主張は、資本主義市場経済を前提とする限りにお いては魅力的ではあるが、現実性を持たない主張であるように思える。たとえそれが構想され たところで、一体だれに向けて語り、どのようにその実行を迫ることができるのかという問題 が浮上してくる。テイラーに始まる科学的管理の流れは、人間活動を完膚なきまでに分解し、 人間そのものを道具化してしまう組織万能の世界を作り上げたということである。そこでは、 三戸が指摘するように、機能性・効率性が追及され、それが当然のこととして容認されてきた といっても過言ではない。人材マネジメントの領域での行き過ぎた機能性・効率性追求に対し ては、その反省として福利や経営参加や自主性容認といった様々な提案がこれまでも再三提起 されてきたが、その多くがコストとのバランスの枠内でのみ実現されてきたのである。三戸の いうこの主流の流れに異議を唱えるのであれば、資本主義市場経済体制そのものを打ちこわ

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し、それに代わる新しい経済体制・企業体制・働く仕組みの構築が必要とされるのではないの かと考えられる。周知のように、資本主義市場経済に代わる新しい経済体制の構想は、社会主 義革命として推進された。しかし、この壮大な実験も失敗に終わっている。人間活動がすべて 商品として流通する資本主義市場経済の下では、人間は手段でありモノでしかない。それゆえ に、人間を人間として処遇する管理や働き方を構想するということは魅力的な研究であるとい えるだろう。だか、魅力的であればあるほど絵に描いた餅といった趣を拭い去ることはできな い。  このような一種の理想論的な研究の方向ではなく、三戸の言う管理の科学化を追及する主流 の流れを徹底的に追及するという方向がより現実的ではないのだろうか。なぜなら、機能性や 効率性を追及する主流の研究は、それが進めば進むほど現実に人間の置かれた状況がはらむ問 題を顕在化させ、その解決のための取り組みを生み出してくると思われるからである。人材マ ネジメントにひきつけていえば、今日の社会の主人が組織であり、人間が手段でしかないとい っても、組織は人の活動なくしては動かないという現実がある。組織を機動させるのは人間で あり、その限りでは人間の意思や創意工夫、意欲に頼らざるを得ないというのが現実であろう。 人間の意思や創意工夫の発揮が組織の意志という枠内に制約されたものであるにしても、組織 は人間に譲歩せざるを得ない場面が数多く存在しているように思えるのである。これまでにも、 「労働者の経営参加」「労働の人間化」「自律的職場集団」「参画経営」「職務拡大・職務充実」「キ ャリア・デザイン」「ワーク・ライフ・バランス」等々組織社会の在り方を変える試みが数多く 提起されてきたが、機能性・効率性・コスト効果性といった枠内で両立する限りにおいての制 度化であった。  しかし、これらの動きは、それ自体限界を持つ遅々たる変化でしかないかもしれないが、確 実に組織社会の現実を変えてきているとは言えないだろうか。なぜなら、社会科学としての経 営学の研究は、機能性・効率性を追及しようとするときにどうしても行き着いてしまう人間へ の依存という問題を明らかにし、その問題への取り組みが組織にどのように変化をもたらすか を見通すことにもあるといえるからである。組織が本当に社会の主人として君臨するには、手 段である人間を完全に排除することが必要となるはずである。組織が人間を必要とする限り、 人間の完全な資源化は起こり得ないと考えるのは楽観的すぎるといわれるだろうか。  2.守島基博の「社会科学としての人材マネジメント」論  守島も人材マネジメント分野における人的資源管理の台頭に批判的な見方をしている論者の 一人である。人事労務管理から人的資源管理への過去50年間の変化は、人間の「資源性」がま すます重視されるようになった時期であり、人間の資源性を促進する「労務管理」「人事管理」 のプロセスに対する関心や人そのものへの関心が低下していった時期だという。つまり、人的 資源管理の登場によって人間の資源性への関心は高まったが、逆にかつて労務管理・人事管理 といわれてきた従業員管理が人間の資源性を促進したプロセス・実態への関心が薄れてしまっ たと同時に、研究者の間で人間そのものへの関心も薄れてしまったというところに大きな問題

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があると認識している6  守島の問題認識は、労務管理・人事管理と総称されていた時期の研究対象が経営環境・企業 目的・働く人の意志・職場での人間関係など多様な要因が複雑に関連しあう動的なプロセスに おかれていたのに対して、人的資源管理の研究対象は企業経営のための資源としての人材活用 に重点を置いたものに変化しているという点にある。すなわち、研究の焦点が管理プロセスか らそのような管理プロセスによって促進される人材の資源性(スキル・モチベーション・生産 性など)やそのような資源性を生み出す仕組みや方法に集中するようになったという。その結 果、人的資源管理が一見人間重視の人材マネジメントという様相を示すにもかかわらず、その 実重視されているのは人間の資源としての側面であり、その資源の最大限利用のための仕組み や方法の研究が主流をなしてきたとみる。守島は、このような仕組みや思考枠組みをもっとも よく体現しているのが先にも示したハーバード・モデルだという。それは、人的資源管理を経 営環境に適応するための道具、望ましい人的資源を確保するための経営上の施策と位置付ける 考え方だというわけである。  守島が強調するのは、人的資源管理論への変化によって人材マネジメント研究から職場のダ イナミクスを明らかにしていくという重要な研究領域なり関心が失われたということである。 この認識は、守島の人材マネジメント研究の重要な焦点として改めて強調されることになる。 とりあえず先を急ごう。  人的資源管理論は、周知のように1980年代後半から「戦略的人的資源管理」Strategic Human Resource Managementといわれるようになる。それは、すでに見てきたように、企業目的や戦 略を実現するための資源として人間を把握し、人的資源の価値は戦略実現への貢献度によって 測定され、人的資源部門の役割は価値のある人的資源の継続的な供給を確保することにあると いう捉え方である。守島は、人材マネジメントは、もともと企業の経営機能であるから戦略や 企業目的に貢献することを目的とした人材調達と活用が行われるのは当然のことであり、わざ わざ「戦略的」という言葉を冠することは必要ないように思えると述べている(守島、71-72 頁)。このことは、守島自身、労務管理・人事管理が単に職場のダイナミクスそれ自体として 展開されるのではなく、あくまでも企業活動の一環として行われるものであることを承知して いることを示している。とりあえずこの点を指摘するにとどめておく。  守島に従えば、戦略的という言葉を冠することによって人的資源管理の研究の流れがさらに 変化したということが重要なのである。それは、人材マネジメントの関心を経営戦略の構築や 達成に責任を持つ経営の中枢へと近づけたことである。その結果、人材マネジメントの研究か ら職場や現場での人材管理の実態を明らかにするという視点が完全に失われたのだと守島は見 る。同時に、人的資源管理が経営者視点に近づいたことによってふたたび依拠すべき理論的枠 組みを失ったという。なぜなら、経営者視点に立つ戦略論自体がいまだコンセンサスを獲得し ておらず、さらには経営者経営論といった研究や理論もまだ開発されていないからである。  守島は、このような人材マネジメントの現状を打破することは極めて難しいと考えている。 そして、人材マネジメントが今研究すべき課題は、人材マネジメント研究のあり方を演繹的に

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構築していく努力ではなく、人材マネジメントのプロセスへの関心を復活させ、職場で生じて いる人材マネジメントにかかわる様々な生々しい動きを研究の視野に入れることだと主張す る。その理由として、 (1) 人材マネジメント機能の多くが職場で生起しているということ  (2) 職場でのダイナミクスが影響する人材マネジメント現象が多くなっているということ、例 えば、ワーク・ライフ・バランスの問題、成果主義導入の問題、非正規従業員の問題など すべてが職場の人間関係や風土、職務の割り振りなどにかかわる問題と密接に関わりを持 っているし、解明すべき重要な研究課題をなしていること (3) 人材マネジメント研究を社会科学として確立すること、すなわち、社会科学とはその分野 に特有の社会現象を観察と理論を武器にそのメカニズムを明らかにする知的活動である。 人材マネジメント研究が社会科学として成立するには、人材マネジメントに特有の現象と して職場における人材管理のプロセスが挙げられるはずである。そのプロセスを解明し理 論化することが人材マネジメント研究を社会科学として確立する道ではないかと考えるか らである7  守島の主張の根本にあるものは、労務管理・人事管理と総称される人材マネジメントに対す る理解である。彼は、労務管理・人事管理といわれる人材マネジメントは、「働く人の意識や 価値観、仕事の内容、経営が立てた達成すべき目標、職場の人間関係、働く人を管理するため の制度(いわゆる人事制度)、上司のパーソナリティや行動パターンなど、多くの要因が関連し た複合的なプロセス」(守島、70頁)と把握している。そして、「この管理過程そのものに関心 があったのが労務管理論・人事管理論だとすれば、そこでは人という存在がもつ、多様な特徴 について思考をめぐらし、職場のダイナミクスを考えようとする姿勢があったように思う」と 述べている(守島、70頁。下線は筆者の挿入)。だが同時に、「人事管理論や労務管理論への批 判として、従来の研究は人事管理や労務管理の制度や仕組みの詳細に焦点が当たりすぎている ことが指摘される。本来実務的な分野として成長してきたこの分野は、依存すべき理論枠組み や分析概念などが未発達であった。そのため、管理手法または管理の仕組みが主な研究対象と なっていたし、またこの分野の教科書は、主に制度とその運用の記述が中心となってきた」(守 島、71頁)という認識も示している。  要約すれば、  ①労務管理・人事管理は職場での多くの要因が関連した複合的なプロセス  ② この複合的なプロセスに関心があったのが労務管理「論」や人事管理「論」であり、「人」 や「職場のダイナミクス」を考えようとする「姿勢」があった  ③ 実際の人事管理「論」や労務管理「論」は、理論的枠組みや分析概念が未発達で、管理手法 や管理の仕組みが主な研究対象となってきた ということになろう。守島は、このような労務管理・人事管理実践と労務管理「論」・人事管理 「論」に関する理解を前提として、人的資源管理への変化が職場レベルのダイナミックな管理

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プロセスへの関心と働く人々に対する関心を失わせてしまったという。特に、80年代後半以降 に人的資源管理と経営戦略・経営目標との密接な結びつきが強調されるにようになってから は、この傾向が一段と促進されたばかりでなく、それが依拠すべき理論的な枠組みをも失われ てしまったというのである。  守島は、このような認識に基づいて人材マネジメント研究の理論的発展のためには、もう一 度職場レベルでの人材マネジメントのダイナミクスに焦点をあて、観察と論理を武器としてそ のメカニズムを明らかにし理論化することが必要だと述べる。そして、そのような努力によっ て人材マネジメントの研究が社会科学として認知されることになるだろうと考えている。  守島の以上のような主張は、十分首肯できるものであることは確かである。だがここにはい くつかの疑問も浮上してくる。守島が指摘しているように、人的資源管理論は人材マネジメン トを現場ではなく、本社の会議室へ上方移動させてしまった。それは、明らかに人事管理論が 登場して以来問題になってきた人材マネジメントはスタッフ機能かライン機能かという問題と 同様なものである。かつての人事管理実践でも採用から退職に至る一連の人事管理機能は、制 度や手続きに関しては人事部が策定し、その策定された枠組みに従って現場が日常のマネジメ ントを行うというものであった。人事管理論は、現場での日常的な管理活動について踏み込む ことなく、というよりも職場の日常的な管理活動は一種のブラックボックス化していて踏み込 むことが出来なかった領域を避けて、人事管理機能として実施される制度や手続きに研究の焦 点を置いてきたということである。そこには、明らかに人事管理・労務管理実践と理論的研究 の乖離が存在したということができる。とはいえ、この乖離を埋める努力がなかったわけでは ない。それは、労働現場の実態に関する多くの優れたルポルタージュや職場の実態調査など貴 重な研究成果に示されている。しかし、それらを基盤とした人材マネジメントに関する理論枠 組みは形成されなかったのではないかと思う。  理論枠組みが形成されなかったということも限定をつけなければならない。というのは、守 島も指摘しているように職場の管理プロセスのダイナミクスを考えようとする「姿勢」が人事 管理「論」や労務管理「論」にみられるからである。とりわけ、マルクス経済学に依拠するいわ ゆる「批判的経営学」やその流れに位置する「経営労務論」においては、労働過程論を下敷きと して人事管理・労務管理実践が職場で働く人々にいかに労働強化や非人間化を促進するもので あるかの分析を行ってきた。そして、そのような資本家・経営者による労働者支配の現実を変 革するという方向での議論がなされてきた。この流れの議論の欠陥は、資本制企業での雇用関 係の中では、働く人々に向けられるすべての制度・方式・技法がすべて労働者の搾取と隷属を 推進するものでしかないという結論ありきのものであったところにある。加えて、ここでも研 究の対象は、人材マネジメントの実践として展開される制度・方式であり、これらの制度・方 式が働く人々にとって持つマイナスの効果を暴くことに焦点があったと言えよう。  このようにみてくれば、これまで人事管理・労務管理の研究において職場管理のダイナミク スを取り上げ、そのメカニズムを究明するといった試みがほとんどなかったのではないかと思 われる。それゆえ、守島が人材マネジメントの研究を職場での管理実践を対象として研究しよ

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うという主張は正鵠を得たものであるということができる。しかし、そこでも疑問が湧くのは、 職場レベルでの管理のダイナミクスを観察と論理によってそのメカニズムもしくは因果性を明 らかにするだけでいいのかという問題である。研究者の仕事は、コンサルタントの仕事とは異 なるものであるから、ここまででいいということも言える。しかし、経営学という学問は、管 理のダイナミズムを生み出すメカニズムや因果性を明らかにするだけで十分なのだろうか。職 場で生起する管理のダイナミクスのメカニズムや因果性を明らかにすることでどのような理論 枠組みが出来上がると予想されるのだろうか。仮に理論枠組みが出来上がったとして、職場レ ベルにおける管理のダイナミクスや因果性を発見するだけでは単なる研究者の自己満足に終わ ってしまうのではないのか。そこに生じている現実の問題に直面したとき、研究者であれば当 然その問題はいかにしたら解決できるのか、誰のために解決しなければならないのかを問うこ とになるのではないだろうか。  三戸の主張が全人仮説に基づく新たな人材マネジメント論の構築を提唱するものだという意 味で「演繹的な理論構築」を主張するのに対して、守島は職場レベルの観察と論理による「帰 納的な理論構築」の方向を主張しているのだと理解することができる。両者とも結局のところ 行き着くのは、どのような理論枠組みを構築しようとも、その理論によって明らかにされてく る現実に生起している問題にどのように対応したらよいのかという問いが突きつけられること になる。研究者がその問いに答えず、回避するのなら学問の有用性とは何かという新たな問い が突きつけられることになる。  では、経営学とはどのような学問であることが必要なのか。社会現象、経営現象の認識論的 把握ではなく、政策科学として確立されるべきだという議論がある。最近では、渡辺 峻の主 張にそれを見ることができる。政策科学としての経営学とはどのような学問なのか、次にこれ を検討しよう。

Ⅲ.政策科学としての経営学-渡辺 峻の政策科学論-

 渡辺は、現代の企業社会において企業組織が引き起こす反社会的事態に対して何らかの解決 策や政策を提起するのは、経営学および経営学研究者の責務ではないかという問題意識のもと に経営学研究の政策科学としての存立を展望しようとする8。企業組織によって引き起こされ る反社会的事態は、例えば、従業員に対する女性差別・セクハラ・パワハラ・人権侵害・不当 労働行為・過労死・過労自殺・偽装請負、また消費者・顧客・株主に対する産地偽装・背任・ 談合・リコール隠し・不正取引・粉飾決算、さらに地域社会に対する環境汚染・自然破壊など 国民生活の立場から見れば憂うべき不祥事、社会的病理ともいうべき諸問題である。経営学の 領域からもこのような事態に対しては、「企業の社会的責任」「コンプライアンス」を求める声 も存在するが、総じて無力であることは明白である。渡辺の問題意識は、経営学研究はこれで いいのかという強烈な疑問に裏打ちされている。  いったいなぜ経営学研究は、社会的不祥事の予防や解決に対して無力なのか。企業行動を対 象とする経営学は、様々な視点からのアプローチが可能である。渡辺に従えば、経済的アプロ

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ーチ、組織行動的アプローチ、法律政治的アプローチという企業行動に密接にかかわる三つの 側面からのアプローチが存在する。そして、これらの三つのアプローチは、それぞれ個別科学 として存立している。だが、これら三つのアプローチのもとに成立する個別科学は、それぞれ 企業行動の限定された側面に関する本質・特徴・問題点を析出するだけのことであって、そこ からは企業行動によって惹起される社会病理的弊害に対してなんらの解決策や望ましい在り方 を展望することはできないという(渡辺、171頁)。なぜか。それは、企業活動の様々な側面に 関する「認識」を目的とした「認識科学」として存立してきたからであり、そこでは個別科学の 領域での限定された「本質・法則・必然性」の認識が目的とされてきたことによる。ところが、 企業活動によって惹起される様々な不祥事は、企業活動そのものを構成する様々な要因・特質 が複雑に絡まりあい、複合的な相互関連の諸結果として生み出されている。したがって、企業 活動そのものを認識対象として全体的かつ具体的に把握することなくして惹起される不祥事に 対するいかなる解決策も提示できないのだと主張している(渡辺、171 –172頁)。  例えば、経営学研究の領域では、企業活動が社会の不可欠の経済活動を担っているという認 識から、経済学的に明らかにしようという試みが存在する。代表的なアプローチは、企業活動 を「個別資本の運動」として把握し、企業活動の中で現れてくる様々な制度・技法は個別資本 運動の現象形態として認識され、それらの制度・技法を貫く個別資本の論理が暴露される。そ して、企業活動の中を貫徹する個別資本の運動が生み出す法則性の認識が経営学研究の究極の 課題とされる。  渡辺も指摘するように、このような分析と認識は、経済学的なアプローチとして企業行動の 現実の一面を明らかにしていることは確かなことである。だが問題は、渡辺がいみじくも指摘 している点にある。すなわち、近年多くの大企業において「自立した個人」「自由と自己責任」 などの概念を前提に、個人主義的なキャリア人事制度のような新しい人事制度が導入されてい る。これらの新しい人事制度は、経済学的アプローチによれば、個別資本の運動法則の現象と して認識され、コスト削減・労働強化・差別選別強化の手段としての特質が析出され記述され ることになる。だが問題は、個別資本の運動の中でなぜ自立性や人間的欲求を重視し尊重しな ければならないのかということが十分に説明されないということである。それ以上に重要なこ とは、働く人々の間でこれらの新しい人事制度がなぜ「生きがいを感じる」ものになり得てい るのか、なぜ新しい人事制度が「許容」「受容」「歓迎」されるのか、ということについて何らの 説明もできないということである。経済学的分析であるが故に、制度や技法が働く側によって どのように受け入れられるのかという問題は問うべき対象ではなく、せいぜい「解釈」「説明」 「評論」が示されるだけにすぎない。とりわけ重要なことは、新しい人事制度や技法が働く側に よって受容されるという現象の深部において客観的に生起している新しい諸契機(歴史を切り 開く酵母)については何も理解が示されないということである(渡辺、168頁)。  私も渡辺と考えを同じくするものであるが、一定の状況を背景として提起されてくる新しい 人事制度や技法の中には既存の企業体制を打ち壊してしまう可能性を持ったものが少なからず 存在している。例えば、かつての経営参加制度(労働組合代表・従業員による)、自律的作業集

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団、労働の人間化、生活と労働の両立といった試みは既存の企業体制を変革する「可能性」に 満ちたものであった。経営学研究の一つの在り方は、生起してくる新しい制度や技法の持つ 「変革要因」としての可能性と現実性を明らかにするということも考えられることである。  ともあれ、個別科学の一面的認識にとどまる限りにおいては、生起している事態の問題点や 特徴をトータルに把握できないばかりか、事態改善の方向性を見いだせず、結果として現実を 動かす具体的な展望を切り開くことはできないというのが渡辺の認識である。渡辺によれば、 問題解決のために必要なことは、生起している事態に対して学際的な分析を加えることによっ て問題発生の全体像をそのものとして把握することだという。すなわち、言い換えれば、企業 活動の具体的な姿として存在する経営制度の構造をトータルに把握し問題発生のメカニズムを 明らかにし、問題解決の処方箋を描き出すには諸科学の協力共同ないし科学者の民主的な協力 共同が不可欠の前提であり、学際的研究が必要とされる理由でもあるというわけである(渡辺、 172–173頁)。  今日の社会が直面する問題、とりわけ今回の東日本大地震による福島第一原子力発電所の事 故への科学者の対応を目の当たりにすれば、渡辺のこの主張が如何に魅力的なものであるかが 理解されるだろう。では、科学者間の民主的な協力共同によって、すなわち学際的な研究によ って問題がトータルに把握され、分析され、処方箋が提示されるときに、誰がそのような問題 の解決に当たり、研究者は問題解決へどのように関わってくるのか。  まず研究者の役割から見ていこう。企業活動の社会病理的な弊害に対する解決策を打ち出し て行くためには学際的な研究が不可欠であるが、学際的研究を進めていくためにはそこに 「要」となる「価値基準」が共有されることが求められる。その価値基準は、「国民的な立場(国 民の多数は)に立つものであり、たとえば「産業民主主義」「自由と民主主義」「個人の全面的な 成長・発達」そして「職業生活・家庭生活・社会生活・自分生活という4つの生活の並立と充 実」「男女共同参画社会の展望」などの規範」に求められるとする。このような規範を共有する ことがまず研究者の役割として求められることになる。だが、はたしてこのような主張は現実 性をもつものだろうか。  ここに示されている規範は、それぞれ誰も否定しないものであるかもしれない。それではな ぜこれまで研究者の間でこれらの規範の共有ができなかったのかという疑問がすぐに生じてく る。渡辺は、規範の共有が自明のこととして進むという前提に立っているのだろう。だが、た とえば「産業民主主義」という規範を取り上げても、それを実現すべき方向と考える人たちの 間でさえ一義的な理解が得られているわけではない。つまり、言葉として理解されても内容面 では労働組合の社会的容認とその民主的運営から労働者自主管理という社会運営形態までかな りの隔たりのある議論が存在する。規範そのものに対する合意が成立するという保証はないの である。科学者間の民主的な協力共同のもとでの学際的研究と問題解決策の提示という道筋 は、確かに魅力的ではあるが、どの程度の現実性を持ちうるものかが問われることになるので はないだろうか。  研究者間の学際的協力によって社会的病理が解明され、改善すべき方向が明らかにされ、問

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題解決のために利用される資源も明示されたとして、いったい誰が問題解決のための行動に出 るのか、つまり政策推進の担い手は誰なのかという問題が次に生まれてくる。渡辺は、事態解 決のための行動主体は、「企業経営の望ましい在り方を志向するすべての行為主体が含まれる」 として、次の三つの行動主体を例として挙げている。すなわち、(1)公共政策の担い手として の政府・自治体などの行政機関、(2)市民団体・商社団体・労働組合・政党・オンブズパース ン、(3)社会との共生・共存に利益を感じる経営者、である。中でも多様な形態のシビリアン・ コントロールを体現する市民団体等の行動主体としての意義に高い注目を与えている。しか し、ここでも実践主体がこれらの機関や団体だとして、研究者はこれらの組織とどのような関 わり方をしていくのかという疑問が生まれてくる。  総じて渡辺の主張には傾聴すべきものが多いにもかかわらず、社会的病理現象に対する取り 組みや研究者の行動・役割という点ではなお検討を要する問題も多々含まれているといわなけ ればならない。

Ⅳ.経営学・人的資源管理研究の学問的性格-結びに代えて-

 アメリカにおける人的資源管理研究は、企業目的や戦略との結びつきを密接なものにする方 向で展開していることを見てきた。それは、人的資源管理論もしくは人的資源管理研究、ひい ては経営学研究が経営者や経営活動に役立つ理論や実践技術の開発ということと分かちがたく 結びついていることを示している。このことは、F.W. テイラーに始まるアメリカ管理学の流れ が三戸によってすでに指摘されているように「経験から科学へ」という主張のもとで「技術の 学」「機能性追求の学」として発展してきたことの当然の帰結であると言えよう(三戸、2002)。 近年では、人的資源のもつイノベーション能力や知識創造能力の活用や発揮の確保が企業の競 争優位性の根源だという認識の下で、能力開発や人材育成への関心が新たに湧き上がっている し、その重要な理論的基盤として「学習理論」への注目も高まっている9  人的資源管理研究や経営学研究がこのように経営活動に役立つ理論や実践技術の開発という 方向へどんどん突き進んでいくことに対して様々な批判と新たな理論構築の必要性と方向性が 提示されていることを主として3人の研究者の論考をたどることから明らかにした。渡辺の議 論は、企業の経済活動が生み出す社会病理的な問題に対して経営学は何をなしうるのかという 問題意識のもとに、学際的な協力と研究を通じて積極的に問題解決へかかわる道を模索し、経 営学の政策科学としての存立を提唱していた。三戸は、組織社会の確立のプロセスで人間が組 織の道具になっている現実を克服するために経済人や社会人といった人間把握をこえて全人仮 説に立つ経営学の確立を提唱した。守島は、人的資源管理研究が職場での人材マネジメントの 現実からかい離してしまうことに問題を認識し、職場で生じている人材マネジメントの実態を 丹念に把握することとそこに流れる因果性を把握することの重要性を訴えている。そこに込め られている三者に共通する意図は、いうまでもなく「人間のための経営学」の確立ということ であろう。  「人間のための経営学」の確立という視点は、具体的には新たな人間観にたつ経営学・人材マ

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ネジメントの体系の構築であったり、現場レベルでの人材マネジメントの丹念な観察による実 態の把握と理論化であったり、企業活動によって生み出される社会的病理現象への解決策の提 示であったりとさまざまであるが、そこに共通していることは経営学や人的資源管理研究は企 業に働く人間の立場に立つにしろ、大多数の国民的立場に立つにしろ、生起している問題に対 して意識的と否とに関わらず何らかの解決策を構想し提示せざるを得ないという課題である。 経営学研究や人的資源管理研究は、この課題に答えることができて初めて学問としての、科学 としての有用性を立証することになるのではないだろうか。なぜなら、すでに三戸によって指 摘されているようにテイラーの「管理の科学化」が始まって以来、管理学としての経営学は 「技術の学」であり、「機能性追求の学」であったということを考えれば、直面する問題への解 答を提示するのは当然の役割だと思えるからである。経営学や人的資源管理研究には、単に問 題の認識や問題提起だけでは済まされないものが内包されているということである。特に、渡 辺の問題解決への積極的関与という姿勢の中には、経営学の持つこの特質が色濃く表明されて いる。  だがここには、解決されなければならない二つの問題が存在する。一つは、経営学研究や人 的資源管理研究の有用性という問題であり、もう一つは経営学や人的資源管理研究に携わる研 究者の社会的責任という問題である。経営学研究・人的資源管理研究の有用性という問題は、 科学とか社会科学とは人間の存在にとってどのような意味を持っているのかという問題であ る。また、研究者の社会的責任の問題は、生起している問題に対してどのようなプロセスで関 わりを持っていくのか、そしていかに問題解決をおこなうのかということに関わっている。こ の二つの問題は、私にとっては大きな問題であり、かといってすぐに答えが出せるほどの知識 にもかけている。そこで、ここでは村上陽一郎の科学論によりつつこれから何を考えていかな ければならないかを検討して結びに代えたいと思う。  村上は、科学とは何かという問題をその著書『科学の現在を問う』(講談社現代新書、2000 年)の中で検討を加えている10。その論述の要旨は以下のようなものである。「科学」といわれ る知的活動が成立してくるのは、19世紀に入ってからの西欧においてである。科学や科学者と いう言葉は、それまでの西欧における知的伝統から区別され、狭く限定された領域とそのよう な領域の探求に興味を持つ専門家という意味を示すものであった。したがって、それまでの西 欧の伝統の中で知識人と考えられた人々(例えば、ニュートンやデカルトといった)は、特定 の領域の専門家ではなく、様々な現象に関心を持ち、その秘密を解き明かすことに没頭した哲 学者であり「愛知者」であり、価値観とりわけ宗教的価値観を中心に置いた知的活動を実践し た人々であったということである。  それに対して、19世紀に成立してくる科学の担い手つまり科学者は、一つの狭い領域でのみ 深い知識を有する存在であり、その意味では伝統的な知識人の社会からは受け入れられない存 在であったという。そのため、科学者=専門家は、自分たちの存在や存続を保証するために 「同業者組織」を結成したとされる。それは、いわゆる専門学会といわれるものの組織化であ り、その特徴は「自己閉鎖性」と「自己充足性」という性格に示されているという。西欧の伝統

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の中での知識人も同じように同業者集団を組織し、同じように閉鎖的な社会を形成していた が、科学者=専門家と根本的に異なっていたのはそれぞれが「クライアント」を持っていたこ とにあるという。例えば、医者は患者を、法律家は依頼人を、聖職者は信者をという具合にで ある。これに対して、科学者=専門家集団は「クライアント」を持っていなかったところに大 きな特徴を持っているという。科学者=専門家集団は、ある領域の特殊な事柄に関しての好奇 心と探求心に導かれて研鑽を重ねた人々であり、このような人々の知識を評価し、利用し、さ らに探求を進めようとするのも彼らと同類の人以外にはいないといった存在であった。このよ うな人々が組織する専門学会は、したがって、「知識の生産、蓄積、消費、評価がすべて科学者 の共同体、専門家集団の内部で行われる」という性格を帯びたものとして存在することになる。 このような意味で、専門学会は、「自己閉鎖性」と「自己充足性」を帯びているわけである。こ のような学会の性格は、今日においても社会科学系の学会で依然として内包されているもので ある。言い換えれば、科学に従事する専門家集団というのは、狭い領域に関わる知識を自分た ちだけに通用する言葉で発表し、評価し、利用し合う極めて特殊な共同社会を形成していたの だということができる。ところが、このように閉鎖的で自己充足的な研究活動が外部社会との 結びつきを強めていく事態が生まれてくる。その典型的な変化は、戦争を契機として1940年に アメリカ国防省が科学研究を軍事利用のための中心に置くという位置づけを行ったことであ る。戦争が終結すると今度は、科学の平和利用という方向での活用が目指されることになった。 このような動きの中で、今日の社会における科学は、「社会化された」つまり社会に開かれたと いう特性を帯びることになった。これまで科学は、狭く限定された領域に関する深い知識の探 求と蓄積であり、社会に通用しない言葉で語られ、専門家の間での趣味のようなものでしかな かった。成果が利用されることもない知識創造活動であったものが、いまや社会の発展や進歩 のために奉仕するものという位置づけとともに、国家や社会の様々な部門を自らのクライアン トとして持つことになったのである。このことは、科学が社会や人間の生活に役立つものとい う性格を帯びることになったことを意味している。  科学が社会化されたことによって生じた問題もある。一つは、科学が社会に開かれたことに よって科学研究の商品化が進んだことと、科学研究の内容が「有用性」を基準としてつまり科 学研究の商品価値によって研究の優劣が評価されるようになったということである。もう一つ は、科学研究が広く社会とかかわりを持つようになって研究テーマと研究者の研究行為に社会 的責任が生じたことである。つまり、科学研究は、かつてのように研究者個々人の興味や趣味 に引き寄せられて研究に埋没するということが許されなくなったということである。そして、 結論として、科学が広く社会に開かれた存在となった現在、科学者=専門家といわれる人々は、 社会に生活する人間の立場やその利益を最大限視野に収めた研究活動をどのように進めたらよ いのかということを再考する時期に来ていると結んでいる。  村上によって示された科学論は、技術性の高い特性をもつ経営学や人的資源管理研究にも当 然当てはまる議論である。20世紀に入ってからの急速な工業化を背景として発達した経営学は、 科学という専門領域での知的活動を専門家集団の私的営みから社会に役立つ研究へという科学

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観の変化の流れと即応しながら発展したものと理解することが可能であろう。そうであるな ら、経営学研究は、そもそも有用性という視点を抜きにしては語れないはずである。しかもそ の有用性とは、人間の立場に立つにしろ、企業経営の担い手の立場に立つにしろ、生起してい る諸問題の単なる認識を超えて問題解決の具体策を提示できるものでなければならないだろ う。経営学研究やその一環である人的資源管理研究の有用性とは、まさにこの点にあり、渡辺 が政策科学としての経営学の存立を提唱することは十分に肯定できる主張である。加えて、 「技術の学」「機能性追求の学」として、問題解決の具体策を徹底的に探求し実践することによ っていっそう問題の所在が明確になり、現状を変革する方向も見出せるのではないだろうか。  経営学や人的資源管理の研究が問題認識と同時に問題解決策の探求をも課題とするところに 有用性があるとして、さらなる問題は研究者の社会的責任をどのように果たせばよいのかとい うことである。政策科学としての経営学の存立は、提起された、もしくは明示された問題解決 策をどのように実践するのかという問題に直面するはずである。実践主体に関しては、渡辺が 指摘するように政府諸機関、自治体、各種協同組合、市民団体など様々な組織が関わりを持つ ことが可能である。だが、これらの実践主体に研究者ないし研究者集団は、自ら見出した解決 策をどのような形で提案し、受容してもらうことになるのかという問題解決への研究者の関わ りの問題が存在する。それよりも問題解決策を提案する前に、これらの実践主体との間に信頼 関係が存在しているのかどうかという問題が重要である。今回の大震災によって生み出された 大きな問題は、人々からの科学や科学者=専門家への不信感である。この不信感をいかに払拭 できるのかが今現在の科学や科学者=専門家に突きつけられた課題といえよう。この課題に答 える方向は、まずなによりも「わかる言葉」で語りかけるということである。経営学の研究者 であれば、最も身近なクライアントである学生・院生に対して経営の現実を「わかる言葉」で 語ることである。そのためには、経営実践の場での情報収集が必要であろうし、情報収集を行 うには経営学の研究者に対する経営者・管理者たちの信頼を確立することも必要になる。産業 界からの信頼を獲得するためにも「わかる言葉」で語るということは、同様に重要である。科 学者=専門家が社会的責任を果たすためには、まずこの点の意識改革から着手することが必要 とされているのではないだろうか。

[注]

1 Cherrington, D.J.(1995)The Management of Human Resource, Prentice Hall, p.5. 2 Beardwell, I. & Holden, L. ed.(1997)Human Resource Management, Pitman Publish, p.14.

3 岩出 博(2002)『戦略的人的資源管理論の実相』泉文堂、70 –71頁。 4  三戸 公(2004)「人的資源管理の位相」『立教経済学研究』第58巻第1号、19 –34頁。 5  三戸による「本流」「主流」という経営学発展の区別や経営学本質論ともいうべき管理の科学的意 味と哲学的意味に関する考察は、以下の著作に詳しい。三戸 公(2002)『管理とは何か』文真堂、序 章。 6  守島基博(2010)「社会科学としての人材マネジメント論へ向けて」『日本労働研究雑誌』No.600、 69–74頁。 7  守島基博、上掲稿、73頁。

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