解題 Ⅱ 待定法師の「忍行」について 享保十六年 (一七三一) 七月十七日、 待定法師は日本三文殊の一つに数 えられ、亀岡文殊の名で知られる松高山大聖寺で入定を果たした。鐘楼堂 に祀られる待定の木造座像には指が欠けており、その忍行をよく伝えてい る。 『出羽待定法師忍行念仏伝』 (以下 『念仏伝』 ) には、 待定の念仏勧化と忍 行の数々が記されている。 「忍行」 とは 『念仏伝』 の編者である月泉が待 定の難行 苦行をそう名付けたものであるが、それはまことに壮絶であっ て、今日的感覚からすれば自傷的行為ともいえるものだが、待定自身にお いて、その忍行の目的は懺悔滅罪にあったと考えられる。 待定は 世する際、母や妻に対して、末代悪世の衆生、ことに五障百悪 の女人救済が弥陀の本願であり、念仏往生の外には出離の道はないと語り、 女人が背負った五障百悪を脱するためには阿弥陀如来の四十八願のうち、 特に第十八願の念仏往生願のほかはないとして、ねんごろに念仏を勧めて いる。待定の忍行は衆生の代わりに苦しみを受け、忍行を以て懺悔滅罪を 行おうとしているのである。 以下、 『念仏伝』 に見える 「忍行」 について 若干の整理をしておきたい。 1. 頭灯掌灯供養 頭灯掌灯供養は、諸人に代わって諸菩 へ供養し、三障を断除して懺悔 する目的で行われた。 燭を頭上や掌にのせて行う頭灯掌灯供養の光景は 上巻口絵に示されている。これがいつ頃から始められたものかは不明であ るが、 『念仏伝』 によれば毎月の布 で行われたこと、 後に結縁の者が増 えるにつれて一所に止まらず、奥羽二州の城下や村里を遊歴し、機縁あれ 学苑 第八五七号 六七~一三七(二〇一二 三)
『出羽待定法師忍行念仏伝
下』翻刻と解題
関口
靜雄
宮本
花恵
〔資 料〕 松高山大聖寺 文殊堂 大聖寺の鐘楼堂に安置されている待定法師坐像ばその都度行うようになったと記されている。山形県西村山郡大江町道海 地区の鈴木正則氏宅には「頭燈両掌燈」と記された執行記録が残されてい る。この式の次第はおおよそ次のようである。 ① 待定が仏前において礼拝し、 「南無阿弥陀仏」の名号を唱える。 ② 待定が念仏安心起行の法話をする。 ③ 衆会者一同で黙然する。 ④ 侍 者が供養の準備をする。 燭二百目掛 (七五〇㌘) を三寸に切った ものに火を点ける。 ⑤ 侍者が待定の頭上と両掌に 燭を置く。 ⑥ 待定が開白として「光明遍照」の文を唱える。 ⑦ 待定が「南無阿弥陀仏」と名号を発唱すると、衆会者一同が唱和し、 称名念仏が始まる。 ⑧ 燭が燃え尽きると同時に念仏を終了する。 ⑨ 待定が「願以此功徳」の偈を唱えて式を終了する。 下巻の後書きに、 「生涯燃頭燈掌燈、 通計四百九十八箇度」 とある。 待 定は三十三歳の時に晩出家し、四十七歳で入定しているから、修行期間は 十四年間である。その間、四九八回もの頭灯掌灯供養を実際に行ったとす ると、十日に一度は行われたことになる。この回数は、待定が入定する際 に、肉片送付を託された近しい人物から月泉が聞き書きしたものである。 2. 貫見地蔵堂における指灯供養 待定は遠くの一族を訪ねる途中、ある寺の門前で雨にうたれる石の地蔵 尊と出会い発心した。この地蔵尊を見て待定は「先師」 (羽黒修験であろう) の言葉を思い出した。それは、地蔵菩 は、昔は五障三従の女身であり悲 母の獄苦を救うため菩 の大願を発し、六度万行を修し、久遠劫から未来 際を期して六趣四生に出現し、衆生を救済したこと、浄土に生じたいと願 えば、身命を惜しんではならないこと、自身の得楽のために浄土を求めて はならないことであった。先師の話を聞き、待定自身が未来世の地蔵尊と なることを誓っている。これが老母妻子を捨ててまで出家 世をした理由 であった。 また立山で念仏中に僧 侶 が出現して出家を 勧 めたこと、 函 中百日苦行の 時、 夢 中に出現した僧 侶 に供物を 与 えられ、その 忍 行の終りに来現し大願 成就 を 告げ た六人の僧 侶 は み な地蔵菩 の来現した 姿 であると待定は ていた。 待定は発心の 契機 となった地蔵菩 を供養するため、 享保 十四年 二九) 五月、 最 上 貫 見村 (山形県西村山郡大江町 貫 見) の地蔵尊と大 (同、 西 川 町大 井沢 ) の地蔵尊の間、 およそ四 里半 を七日間 往復参詣 参詣 には 高 さ八寸の一 本歯 の下 駄 を 履 き、 器 に浄 水 をいれ、それを三 爪 の 甲 の上に置き、 貫 見から大 井沢 に 至 るまでこ ぼ さ ず に 宝 前に供えて礼 拝念仏し、またその浄 水 を三 指 の上に 捧 げ て 引 きかえし、 貫 見の えた。これを七日間 怠 ら ず勤 めた。五月下 旬 から 貫 見地蔵 堂 には三十日間 滞在 し、この間に南無阿弥陀仏の 宝 号を一万五 千張 書 写 している。これを 信 者に 与 えて、 永 世の 結縁 をなそうとした。 待定はさらに名号の開 眼 供養と地蔵菩 へ の供養を 兼 ねて、 指 指 灯供養をしたいと 貫 見地蔵 堂 の 堂 主 に 申 し出た。発心のきっかけとなっ た地蔵菩 へ の供養となると、 や はり 貫 見村から大 井沢 までの 参詣 「頭燈両掌燈」供養が施行 されたことを伝える書付
足できなかったのだろう。先師の身命を惜しむことのないようにという教 えに従い、さらに辛い苦行として指灯供養を選んだものと考えられる。 しかし、貫見地蔵堂の主僧からこれを断られた。開眼供養には別時念仏 がふさわしいとし、なぜ宝前を汚すのかと待定の指灯供養を許可しなかっ た。待定入定後に貫見村地蔵堂へ足指肉が送付されているが、地蔵堂には 受け入れられず、近くの光学院に宝塔が建てられ祀られた。この宝塔は通 称「肉塔」と呼ばれ、正面に「享保十六辛亥歳/圓寂禅峯待定大徳位/七 月十七日」と彫られている。待定の苦行が必ずしも万人に受け入れられる ものではなかったことをこのことから知ることができる。 仕方なくその場は断念したが、指灯供養をあきらめることができなかっ た待定は、有縁の各所で指灯供養を行っている。山形県長井市で左手五指、 宮城県仙台市内で右小指、山形県米沢市笹野観音で右親指と右人差指、宮 城県角田市斗蔵観音で右薬指、 福島県相馬市宗信庵 (後の待定庵) で右中 指を灯し、十指全てを燃灯し尽くしている。 3. 小出村における指灯供養 待定は貫見村を去ってのち、 米沢領小出村 (山形県長井市) 油屋五左衛 門宅に寄宿した。 五 左衛門は、 享保五年 (一七二〇) 六月下旬、 西 里村 (山形県西村山郡河北町西里) で待定が男根切除した際、 その奇異な様子を 見てより帰依した商人である。待定は五左衛門に貫見村で指灯供養が成就 できなかった旨を告げ、名号の開眼供養のために左手指五本を灯し尽くす 指灯供養の助成を願い出ている。 五左衛門は亀岡大聖寺の鐘楼堂建立に際しても尽力した人物である。安 政二年 (一八五五) 初版の 『 東講商人鑑』 に 「油屋」 の屋号が見える。 同 書には各地の城下町や主な在郷町また著名な寺院や神社などの略図 俯瞰 図が数多く挿入されている。待定没一二 四 年後の 資 料 ではあるが、この時 の 店 主は油屋 孫 助で、 蚕種問 屋を 営 むかなり大きな商 店 であった。 待定は指灯供養を行うにあたり、小出村の 白 山 権現 と宮村の 明 神に 参詣 している。 白 山 権現 は 白 山神社 (山形県長井市小出) 、 宮村の 明 神は長井 総 宮神社 (山形県長井市 横 町) である。この供養は、まず五左衛門宅にて所願 が 啓請 されると、五左衛門 み ずからが念仏しながら待定の左親指を 石上 に 上 げ、 鉄 で 打 ち ひ し ぎ 、 血 を 絞 り出し、 水 で 洗 い、油 綿 を 巻 く。 白 山 権 現 の宝前で 火 を 点 け、宮村の 明 神まで指灯をかかげ、念仏しながら 参詣 し、 供養する。 白 山 権現 と宮村 明 神の 往来約 一里を 歩 く。五日 間 をかけて五指 す べ て燃灯し尽くすという 忍 行であった。 待定はこの供養をもって貫見村で書 写 した名号の開眼供養に 当 てている。 この時の名号で、 現 在 確 認 できたものは山形県西村山郡大 江 町左沢の有 限 会 社きく屋所蔵の一 幅 である。 菊 地す み 氏 の 話 では、 「 往 古 に油屋 和平 だ か 和 吉 だかが 繁盛 を 極 めたが、 何代目 かの子 息 は 銭 を数えることを 嫌 がり、 それ 以 後 零落 した。油屋五左衛門のことはわからない」という。また待定 のことは、 曽 祖父 から「待定 上 人様は人のために 自分 を切った 偉 い人だ」 と 伝 え 聞 いているという。待定の 忍 行が 次 代 へ 語 り 継 がれていることが 興 味深 い。 縦 四 十七 ㌢ 、 横 十七 ㌢ ほ どの名号一 幅 で、 「〔印〕 (念願) 四 拾 五 世 / 南無阿弥陀 仏/ 三 拾 日待定書 終 〔印〕 ( 難 除) 」と書かれて お り、この 名号を 持つ ものは一切の 災厄 を除き、 臨終 に際して 心乱 れず、正しく 往 生 せ しめようとの待定の 心 願がこめられていた。 待定法師筆「六字名号」
初めは指を打ちひしいだが、その後は油綿を巻き、油を注いで灯した。 紙燭のように燃え上がったというから、かなりの勢いで燃えたのだろう。 燃え尽きると、四方に十念を授けた。この間、約一時間。待定は苦痛の様 子もなく、笑顔すらみせている。十念を授かった参会者は、しきりに不退 転の思いを起こしたという。この供養による勧化力は絶大であった。 4. 笹野観音における指灯供養 享保十五年 (一七三〇) 一月二十五日から、 笹 野観音で十四日間の参籠 をしている。この時また阿弥陀の宝号五十張を拝書した。笹野観音は真言 宗長命山幸徳院笹野寺という古刹である。笹野観音参籠の初日、夜半過ぎ、 春雪の中二人の僧と一人の俗士とがともに参詣した。待定があやしく思う 中、僧侶が待定に「亀岡の木食聖人がいるか」と問うた。待定がそれは自 分であると答え、雪の中どこから来たのかと問い返すと、近所のものだと いう。僧は、待定に指灯供養、鐘楼建立の所願を尋ねた。これに丁寧に答 えると、僧侶は「鐘楼の建立は六月に成就し、われら三人で加護をする」 と告げて帰って行った。待定が不思議に思い、仁王門の前まで出て東西を 見たが、積雪に足跡を見つけることはできなかった。 待定は、あの三人は観音菩 の化身であると確信し、空中に向かい合掌 し、籠堂に帰って一心に念仏した。すると夢中に観音菩 が現われ、亥年 の七月十七日午の刻に入定するよう告げた。夢から覚めた待定は歓喜啼泣 した。この夢告により往生が享保十六年 (一七三一) 七月十七日に決定し、 本堂で一心に念仏して夜明けを迎えた。この後、また弥陀の聖号を五千張 書した。 笹野観音は夢告をうける霊地として通夜する参詣人が多かった。待定も 霊告をうけるために参籠していたのだ。この時は右手の親指と人差指とを 燃して名号の開眼供養とした。端書に「二七日待定書」と記している。そ の後、筆を宝殿に納め、永く筆を絶った。 5. 斗倉観音と小野村における指灯供養 享保十五年 (一七三〇) 夏、 仙台領斗倉観音 (宮城県角田市) の宝前で残 る二指を燃した。 斗倉観音は真言宗智山派案狐山斗蔵寺で、 大同二年 〇七) 坂上田村麻 呂 の建立と 伝 えられる古刹である。 この霊地で十指みな 燃し尽して 結 願 回 向しようとしたが、右 薬 指を燃すといつもとは が 甚 だしかった。これはまだ 有縁 の所を待つ べ し、との お 告げと思い、残 りの右中指を残すことにした。 同年六月、仙台領から 相馬へ と 遊 行した。 原釜 の 海辺 は古くから 盛ん な 土 地である。 殺 行を生 業 とする 漁師 を 救済 したいと願った待定は、 足の十指を 切 って 海 に 沈 めて三宝に供養し、 漁業 を生 業 とする人 のために 懺悔滅罪 の供養をしようと 申 し出た。しかし 原釜 の人 々 聞 いたこともない供養の 仕 方に大いに 驚 き、これを 拒 ん だ。 待定も 仕 方なくあきらめ、 相馬 中村城 下 に行き、門 馬 氏 のもとでこのこ とを 話 し、それから 小 野村 菅 野 氏 宅 に 宿 して 原釜 のことを 語 り、 を 切 って 懺悔滅罪 の供養を 修 したいと 語 った。この時、山田 氏 が待定を し、鐘楼堂の供養を 控 えていること、もし足指を 切 ったなら ば 、 難 になり 障 りがあると 諫 めた。待定もそれに 応じ 、足指十指を 切 断 念した。その 代 わりとして、残る右中指を燃やすことにした。 六月十八日夜、 小 野村宗信 庵 で指灯供養をし、 翌 日 原釜 の 洋 海 て念仏し、指灯供養の 施勲 をもって 普 く 鱗族 の 精 霊に 回 向した。 相馬 領であるが、 海 から 離 れ、 農 業 を生 業 とした村 落 であった。この時、 念仏に帰 依 する者が多く、 小 出村で 始 めた指灯供養も、ここで十指 燃し尽し 終 わった。その後、宗信 庵 を 改 めて待定 庵 とし、堂 内 に指のない 待定 像 を 祀 り、地 域住民 が待定の月命日に念仏 講 を開いている。この待定
像には当初は右手中指に炎の飾りが付いており、指灯供養の様子を表して いたというが、残念ながら現在は炎部分がとれてしまっている。 6. 焼身忍行 待定の行った忍行のなかでも、身体の一部を燃やす焼身供養は布施行の 一種であり、捨身供養、捨身往生の一種とも言われている。しかし、それ は往生することが目的であり、待定の忍行とは目的が異なる。待定の焼身 忍行は、名号の開眼、仏菩 への供養、諸人救済、鱗族への供養などを目 的に行われた。なおかつこの供養法は衆人の前で披露されたから、それ故 にこそ多くの帰依者を得たのであった。 しかし貫見地蔵堂の堂主が焼身供養を許可せず、原釜の漁民が足指十指 を切る供養法を拒否したように、待定の忍行は必ずしも万人に受け入れら れるものではなかった。身体を燃やし、かつ命を危険にさらすことを受け 入れられない人々も多くいたのである。 待定の忍行は極限まで命を危険にさらすことが多く、自傷的なことが多 いのが特徴である。待定は諸人を救済するためには身命を惜しむことを厭 わなかった。宝洲は『念仏伝』の注釈の中で『法華経薬王菩 本事品』第 二十三の中に「若有 三 発 レ心欲 レ 得 二阿耨多羅三藐菩提 一 者、能燃 二手指乃至足 一指 一供 二 養仏塔 一」 と あるのを挙げて、 この一文が待定の忍行の拠り所で あると指摘している。 しかし、 待定は頭灯掌灯や指灯供養の際には、 「南無阿弥陀仏」 と弥陀 の宝号を唱えており、右の『法華経』の一文が待定の忍行に影響している とは思われない。待定の行動を見ていると、むしろ羽黒修験の影響が強い のではないかと考えられる。待定は「身命を惜しむことのないように」と いう「先師」の言葉に従い忍行を実践したのである。この先師が羽黒の修 験者であれば、出家 世してよりすぐ羽黒山で山岳修行に励んだことも了 解できるのである。諸人のために傷付くことを厭わない待定の忍行が、亀 岡文殊堂大聖寺の鐘楼堂建立などの偉業を達成し、今に続く信仰を残した のである。 (宮本記) 解題 Ⅲ 『小野村待定庵縁起』について 享保十五年 (一七三〇) 六月十八日、 禅峰待定は相馬小 野村 の 宗 信 庵 で 残る右手中指を指灯供養し、十指のす べ てを焼き 尽 くした。これを『待定 法師忍行念仏伝』 は 、「法師 米沢 にて指灯を 始 め、 相馬にて十指を燃し 尽 せり。依てかの 宗 信 庵 を 改 めて待定 庵 と号し、その異を 旌 表せり」と伝え ている。 相馬原釜は 海 辺 の 村 落 で、 古 くから漁業を生業としていた。待定はこれ を 殺 業をなす人々と 哀 れんで、足の十指を 截 って 海 に 沈 め、三宝に供養し て 古 来 今の漁業従事者た ち 、また鱗族のために 懺悔滅罪 せしめようとした ところ、 聞 きも 及 ば ぬ 待定の供養法に 驚 いた原釜の 住 人た ち に拒まれて、 仕方 なくそこを 去 って小 野村 の 菅 野 氏 山 田 氏 を 頼 り、その 助力 を得て 宗 信 庵 で大 願 を成 就 したのである。 ここに『小 野村 待定 庵 縁起 』と表 題 する 新 出 資料 がある。 縦 二十五 糎 横四 十 九糎ほ どの 料紙 一葉に、わずか三十一行に記された 縁起 文であるが、 「享保十七年 (一七三二) 壬 子年三月十七日」 の年 紀 を有し、 「羽 州 米沢 領 下 小 松 村 永 松 禅寺三 空 春国 誌之 」とあることから、これがか ね ての 約束 によって、享保十六年七月十七日 正 中に待定が 松 高 山大聖寺で入定した際、 その手を 携 えて 石龕 まで 同道案内 し、 香偈 祭 文を挙唱した 春国 和尚 の 草 したものであることが 知 られ、まことに 興味ふ かい。 漢 文体の本文には 朱 書 をもって 音訓 送仮 名 返点 連符等 が施されているが、経年による 紙
質の変化によって朱書と朱印三顆が薄らぎ、判読困難なところがあるのが 惜しまれる。その書きぶりから、おそらく春国和尚の自筆文書と推量され、 末尾に「送/済藤三郎在衛門殿」とあることから、これが宗信庵を待定庵 に改められた経緯について春国が記し、済藤三郎在衛門に送った文書だっ たと知られ、また待定入定後の春国和尚の動向を伝える貴重な資料という ことができる。以下に翻刻紹介する。 ※ 小野村待定庵 ノ 縁起 小野邑 ムラ ノ 之住僧宗信 トイフ 者 ノ 、其 ノ 性、質直 ナリ 也。然 ルニ 宿業 拙 キ 故 ニ 、貧窮无福 ニシテ 衣食自 ヲ ラ 乏 シ 。身 ニ 着 ケ 二 破衣 ヲ 一、穢身見 苦 シ 。見見厭 イト ヒ レ 之 レヲ 、聞聞疎 ウト ンズ レ 之 レヲ 。無 ク 二 容 イ ル丶ニ レ 膝 ヒザ ヲ 地 トコロ 一、故 ニ 村里荒 野山林樹下 ニ 或 ハ 休 ヒ 或 ハ 臥 ス 。其 ノ 形 チ 枯衰 シテ 既 スデニ 就 ツ ク レ死 ニ 頃 ヒ 、夜 夜感夢 ス 。阿弥陀如来示現 シテ 曰 ク 、「汝 ヂ 一向専修 ニ 勤 ム レ 之 レヲ 。 必 ズ 生 ゼン 二 安楽国 ニ 一 」。対 シテ 二 皆 ナ 人 ニ 一宣 レドモ レ 之 ヲ 、疑 ヒ 多 ク 無 シ レ 承 ヒ 。于時 キ ニ 中村 済藤三郎在衛門伝 二聞 キ 之 レヲ 一 、信愍 ノ 之故 ニ 為 メニ 二 宗信 ガ 一 施 ス 二明衣 ト 与法衣 トヲ 一 者、謹 デ 拝 二受 ス 之 レヲ 一 。恰 モ 似 タリ 二 蘇活 スルニ 一 。自 リ レ 尓 カシ 念仏不退 ニ 勤行 ス 。里民帰 シ 二 殊勝 ニ 一、施斎甚 ダ 多 シ 。再感 ノ 之故 ニ 、済藤氏 菅野氏同 シテ レ 志 ヲ 結 テ 二 一 宇 ヲ 一而 為 ニス 二 臨終 正 念 往 生 極 楽 ノ 一 。 百万遍 ノ 道場 ナリ 也。 発願 ノ 旨趣 ハ 於 佐 藤氏 善 在門 (ママ) 伝 二 聞 キ 之 レヲ 一 、施 二附 ス 打 鐘 ト 法衣 等 ヲ 一。 則 ス チ 歓喜 シテ 而 求 メ 二庵地 ヲ 一、 造 ク リ レ之 レヲ 、 名 ケ 二宗信庵 ト 一、 毎月 無 ナ ク レ怠 ヒ 、 百万遍 修行 スル 之者也 モノナリ 。 是 コレ 享保九年辰 ノ 春 ル 也 ナリ 。 于時 キ ニ 享保十五戍 ノ 天六月十 三 日 ニ 、 米沢 亀岡 ノ 木 食 上 人来 二臨 シテ 于 当 国 ニ 一、為 メニ 二 大 願 成 就 ノ 一於 イテ 二 此 ノ 地 ニ 一 而 乞 コ フ レ立 テン 二 指頭 ヲ 一 。多 ノ 人 ト 驚怖 シテ 而 止 ム レ 之 レヲ 。其 ノ 中 カ ニ 小野 ノ 之住菅野氏 山 田 氏 深 感 ノ 故 ニ 請 二 待 シテ 於 尊師 ヲ 一、 使 シテ シム二レ 其 ノ 願 果 ハタ サ 一。 上 人 欣悦 シテ 与「 大 願 成 就」 ト 宣 マ ヒ 、 勧 化念仏 衆 生 摂 取 不 捨 ノ 徳益 カ 、 寄 二附 スル 済藤氏 造 庵 ヲ 一之 因 ヨ ル レ志 シ ニ 也。 亦 マ タ 亥 ノ 夏 ツ 再 臨 ノ 時 キ 、 三 灯 一時 ニ 供養 ノ 節 ツ 、 告 ツ ゲ テ 宣 フ 、「 予 レ 入定 ノ 砌 リ 、送 ラン 二 遺 身 ノ 肉 ヲ 一。宣 ク シ 崇 ア ガ ム 二防障神 ト 一。信 心 ノ 念仏 千 遍 セバ 疫病悉除 セ ン 」。 嗚呼厚 恩 以 テ レ 何 ヲ 報 ゼン 。同行 ノ 者、 寸 志 ノ 供養 ニ 彫 二刻 シテ 木 像 ヲ 一 、其 ノ 肉 唇 ン 納 ム 二胸 ノ 中 カ ニ 一。 祈 願 ハ 依 テ 二此 ノ 功 徳 ニ 一、定 師 ノ 恩 徳 伝 ヘ 二万 世 ニ 一、 天 下 泰平 、 国 土 安 穏 、 子孫長栄 、 今 世 安 穏 、後生 善 処 、 豈 ニ レ容 イレ ン ヤ レ 疑 ヒヲ 哉 。 誠 ト ニ 知、信 心 慈悲 ノ 布 施 ハ 者、 万善万 行 ノ 之 根本 ナリ 也。勤 メ レ 之行 ヒ ヨ レ 之 レヲ 。改 ムルモ 二 待定庵 ト 一、 此 故 ヘ 也 ナリ 。 羽州 米沢 領 下小 松 村 享保十 七壬 子 年 三 月十 七 日 永松禅 寺 三 空 送春 国 誌 之 済藤三郎在衛門殿 永松寺春国和尚筆『小野村待定庵縁起』
※ 『念仏伝』 に 、 宗 信庵を改めて待定庵と号したことが簡素に記されてい るが、右の『小野村待定庵縁起』によると、小野村の宗信庵にはかつて宗 信なる僧が止住していたのである。宗信は質直な性格ながら貧窮無福で衣 食にこと欠き、破衣穢身の姿は嫌われ疎んじられ、仕方なく村里荒野山林 樹下を転々と棲み処としていた。枯衰して死に した宗信のある夜の夢に 阿弥陀如来が現われ、 「汝一向専修に之を勤む。 必ず安楽国に生ぜん」 と 告げられたという。宗信はこれを村人たちに語ったけれども誰も信ずる者 はなかった。 しかし、中村村の済藤三郎在衛門がこれを伝え聞いて信愍から宗信に明 衣と法衣を施した。以来、宗信は生き返ったように念仏不退に努めたので 里民も帰信した。これを知って、また済藤氏と菅野氏が臨終正念往生極楽 のために一宇を建てて百万遍の念仏道場としようとしたとき、発願の旨趣 を佐藤善在衛門が伝え聞いて打鐘と法衣等を布施した。これに歓喜した宗 信は、みずから庵地を求め一宇を造って、これを宗信庵と名付け、毎月怠 りなく百万遍修行した。これは享保九年 (一七二四) 春のことである。 享保十五年 (一七三〇) 六月十三日、 米沢亀岡の木食上人すなわち待定 法師が小野村に来て、 大 願成就のために指灯供養することを乞うたが、 人々 は驚怖してこれを止めた。しかし、菅野氏 山田氏が上人に深く感じて助 力し、上人の大願を成就せしめた。さらに済藤氏は上人の念仏衆生摂取不 捨の勧化に感じて造庵を寄付したのである。造庵は宗信庵のことに相違な く、とすれば、この時すでに宗信は没していたものかと思われる。 翌十六年夏、木食上人待定法師は再び宗信庵を訪れ、三灯一時の供養を 施し、 「予入定の砌、 遺身の肉を送らん。 よろしく防障神と崇むべし。 信 心の念仏千遍せば 疫病 悉除 せん」と告げられた。 今 、宗信庵に上人遺身の 肉 唇 が 届 けられたが、上人の 厚恩 に 報 いるために、 同 行の者が木 像 を 彫刻 し、 そ の肉 唇 を木 像 の 胸 中に 納 めた。 祈 り願うのは、この 寸志 の 功徳 によ って、待定法師の 恩 徳 を万 世 に伝え、 天 下 泰平 国 土 安 穏 子 孫長栄 今 世 安 穏 後 生善処である。 疑 いをいれ ぬ 信心 慈悲 の布施は万善万行の 根 本 である。行い勤められよ。待定庵と改める ゆ えんである。 以上が春国の 草 した『小野村待定庵縁起』の 概略 であるが、これによっ て上記のように宗信庵が待定庵に改められた 経緯 を知ることができ、また そ の起 草 者である春国 和 尚 の 動 向を 窺 うことができる。春国 和 尚 は小 松 村 の 曹洞 宗 玖光 山 永松寺 十一 世 住 職 で、 当寺 の 過去帖 には 「 江 鮮 春国大 和 尚 」 と記されている。 『念仏伝』 によれば、 春国はか ね て待定法師を 敬慕 し、 慇懃 に 留錫 を 請 じたところ、待定は享保十六年二月上 旬 永松寺 に 数 日 留 し、念仏法 要 を 談話 し、 頭 灯供養を 執 行した。春国は待定の行 状 を 後 世 に 伝える 目的 から ね ん ご ろに直 談 し、 初 発心から 抖 修行のありさま、また 念仏 弘通 の 様 などについて 詳 しく聞き、さらに 教 心念仏の 義 本 性弥陀の 論 自 力 他 力の 異 観 仏念仏の 別 等についての 問答 往 復 を 繰 り返したので、 待定も春国の求法によせる深 志 に 応 じて そ の心 奥 を 吐露 したという。 春国は待定を念仏門の師として 浄 土 に帰し、 対 して待定は 書 数 巻 念 珠 一 串 自 影 一 張 等を 贈 って法 盟 の信 印 とした。待定は春国に 絶 大な信 頼 を 寄せ、入定の 際 の善知 識役 を 依頼 し、さらに「わが入定の 後 には、 諸州 に 散 在する 有 縁の道 俗 の中には心行を退転する者もあろうから、 和 尚 み づ か ら 諸 国に 遊 行して、 今 の ご とく 異 なる 事 なからしめ 給へ 」と 後 事 を 託 して いる。春国はこの付 嘱 をうけて 随 喜し、 偈 を 述 べて 領承 したといい、春国 が 近 年 諸 国を行 脚 して念仏勧化しているのは、この 因 縁に 依 るの だ という。 また春国は待定入定 後 、二百 余 行の 和 讃 を 綴 って法師一 代 の行 徳 を 称讃 し たという。 春国が宗信庵を訪れ、 『小野村待定庵縁起』 を 草 して、 済藤三郎在衛門 の 功 業 を 表彰 したのは、 諸 国 遊 行して待定の 功 業 と そ の 恩 徳 を万 世 に伝え、
念仏勧化する一環であったと考えられる。宗信庵に同行の彫刻した待定像 を安置し、その肉唇を納め、宗信庵を待定庵と改めたことでも容易に理解 される。おそらく肉唇は春国が届けたのであろう。またそうした役目を担 っていたようにも思われる。春国の住持した永松寺には舌宍が送付された はずであるが、永松寺にはそれを記念する碑 石塔のたぐいは見当たらな い。想像をたくましくすれば、その舌宍は春国が常時所持していたのでは あるまいか。 小野村待定庵は、今も佐藤善在衛門の末裔である佐藤典子さんが護持さ れ、月々百万遍念仏を周辺の老人たちと懈怠なく勤められている。宗信が 始め、待定が勧化した百万遍念仏の遺風が脈々と受け継がれているのであ る。 [付記] 小稿をなすにあたって、 谷地誓願寺御住職 鈴木聖雄師からひとかたならぬ御 親切と御指導をいただいた。篤く御礼申し上げる次第です。なお、 「解題」に掲 載した写真はすべて宮本が撮影したものである。 (関口記) 凡例 一、 『出羽待定法師忍行念仏伝』 (袋綴装 上下二冊) の翻刻にあたり、 の初版と考えられる家蔵の向松堂版に採った。享保十九年(一七三四)九月、 京都の書肆向松堂が開版し、 寺 町三条下の書林めとぎや宗八から売り出され たものである。 一、上段に写真影印を置き、下段に翻刻文を示した。 一、行取は凡そ底本の通りとし、丁数を各丁末に記した。 一、 漢字 仮名とも原則として通行の字体を使用し、 古体 略体も通行の字体に 改め、清濁を施した。 一、右ルビはそのまま付したが、左ルビは( )付きで示した。 一、句読点を私に施し、判読不能の箇所は□で示した。 一、引用部分や 心中 表現 には「 」『 』 を付し、書名には『 』を付した。 一、翻刻にあたり、 素 稿を宮本が 作成 し、関口が 監修 した。
」下 表表紙 出 羽
待定法師忍行念仏伝
下
(白丁)
」下
最上川 寒中七日投河念仏図 」下 図② 下巻略目録 〇函中百日苦行の事 初丁 〇百日断食の論 五丁 〇滅尽定の事 五丁 〇書写の性空苦行の事 六丁 〇四十八夜断食念仏の事 七丁 〇頭香頭燈等の事 八丁 〇身灯滅罪の経証 九丁 〇徳行の人難に ふ例証 十丁 〇待定詠歌の事 十二丁 〇亀岡文殊請産の事 十三丁 〇日本三文殊の説 十三丁 〇神前こま犬の本説 十四丁 〇文殊奥院感応の事 十五丁 〇山神鐘楼の告の事 十七丁 〇置賜 をいだめ 観音へ参詣の事 十九丁 〇智旭大師臂香の事 廿一丁 〇唐 ノ 三山巡礼の説 廿一丁 〇指燈苦行の事 廿二丁 〇身臂指を焼く評 廿四丁 〇笹野観音参籠の事 廿五丁 〇観音命期を示し給ふ事 廿六丁 〇業事成弁の事 廿六丁 〇仙台相馬にて指燈の事 廿七丁 〇殺生の所地獄現ずる事 廿八丁 〇鐘楼 并 鐘銘 廿九丁 〇観音堂建立の事 三十一丁 」下 目録オ
〇笹野観音霊夢の事 三十二丁 〇賓頭盧来応の事 丗三丁 〇十六羅漢 并 十八五百羅漢の説 丗四丁 〇観音童男身示現の事 丗四丁 〇金縷の袈裟をあたへ給ふ事 丗五丁 〇木像来迎の事 丗七丁 〇高泉唐にて南都大仏感見事 丗八丁 〇念仏門宗意の沙汰 丗九丁 〇入定用意の事 四十二丁 〇待定水 并 三国霊水の説 四十三丁 〇裸葬の本説 四十四丁 〇火葬に袈裟を用ひざる事 四十五丁 〇古き経幡など焼べからざる事 四十五丁 〇経帷子を禁ずる弁 四十五丁 〇亡僧に袈裟を与 あた ふる法 四十五丁 〇守血脈亡者に持しむる問答 四十五丁 〇六道銭 并 紙銭の説 四十五丁 〇両眼 并 身肉を切事 四十六丁 〇唐 ノ 善信両足を切て供養 ノ 事 四十八丁 〇文殊堂落慶供養の事 四十九丁 〇入定儀式の事 五十丁 〇寂後霊瑞の事 五十一丁 〇捨身苦行の惣論 五十四丁 」下 待定法師忍行念仏伝巻下 〇法師、曽て喟 き 然 ぜん として嘆 たん じて曰、 「そのかみ瑞峰和尚、わが 為に示して曰、 『不思 ふし 善 ぜん 不思悪の話頭 わと う を以て、急 きう に相応 せよ』と。或は『一念不生是名 ぜみやう 仏心』と示 しめ さる。依て、或時は最 も 上 がみ 川の崖 がい 畔 はん (きしほとり) にいたり、或時は左沢 あてらざは の沼の滸 ほとり に於て禅 観独坐 どくざ し、或は所々の樹下 じゆげ 石上塚 ちよ 間 けん に在 あつ て、所授 しよじゆ の 話頭 わと う を提 ひつさ げて猛 みやう に精彩 せいさい を著 つ け、壁 へき 観 くはん あなぐらをと かず。工夫 くふ う 心ざしをゆるくせざりしか共、われ毒気深入 じんにふ にして 念頭 ねんとう いまだ死せず。本分の田地に於ていまだ所得の 分 ぶん あらず。故に心地 しんぢ 修行に於て永く思ひを絶 ぜつ し、偏 ひとへ に
阿弥陀仏の大願業 ごふ 力を仰 あふぎ て粉骨 ふんこつ 砕身 ざいしん の実を抽 ぬきん で、 いよ 懺悔 さんげ 念仏の事 じ 行 ぎやう をはげみて、涯分 がいぶん の所得とな さん」と結 けつ 帰 き せり。茲 こゝ に於て「和合 わが ふ 村の庵室にして一百日 を要期 えうご し、念仏懺摩 ざんま の大行を修せん」と、村の人々にも 兼て此よしいひ合せ、其用意あり。庵室の仏前に大 さ身を容 いる るばかりに板を以て堅く囲 かこ み、蓋 ふた をもこし らへ、扨囲 かこゐ の内へは炒 いり 大豆 まめ 千五百粒と一碗の浄水とを 入 いれ 置 を く。これは一昼夜に念仏十五万遍、一万声 しやう ごとに 炒 いり 豆 まめ 一粒水に湿 しめ して喫 きつ し、一昼夜に十五粒を用る積 つも り なり。百日に千五百粒なり。此外の水食 すいじき 一向に用る事 」下 01ウ なし。既に掩関 えんくはん の期 ご に及びしかば、諸人希代 きた い の苦行なり とて群集 ぐんじゆ する事 夥 おびたゞ し。 「此行中 ぎやうぢう には定めて命終 みやうじう せらる べし」と。人々落涙し、わかれの結縁とぞ思ひける。茲 こゝ に於て 法師安詳 あんじよう として囲 かこみ の内に入り、結跏趺 けつか ふ 坐 ざ せられしかば、 兼て約せしまゝ、すなはち囲 かこゐ の蓋 ふた をしめ、其上には重き物 を積みあげ、庵の戸をも表 おもて より釘 くぎ 付にし、群参の諸人 をの 念仏してわが屋に帰 かへり ける。かくて法師百日すでに 満じて開 かい 関 くはん の後、ひそかに語て曰、 「われ始 はじめ 囲 かこみ の内に入り鉄脊 てつせき 梁 りやう を竪起 しゆき し、合掌叉手 しやしゆ して懺悔文を念じ、念仏する事数 す 万声、たちまち能所泯絶 みんぜつ し、胸中 きやうちう 太虚 たいきよ にひとしき事を 」下 02オ
覚ふ。只念仏十五万遍を称へて一昼夜を経 ふ る事を 知る。かくて三七日と覚ゆるころ、ひとりの端厳 たんごん 威 ゐ 霊 れい の僧 忽然 こつぜん として現前し、珍味を以てあたへらる。われこれを食 するに其味ひ世に比 ひ すべきなし。食し訖 おは れば、僧も亦見え ず。これ夢境 むきやう なれども、その色 しき 身 しん を長養 ぢやうよう する事常に 倍 ばい せり。彼 かの 異 ゐ 僧又来りて、われを導 みちび きて金色 こんじき 世界に 到 いた らしむ。瑠璃地 るりぢ を遊行し、七宝の楼閣 ろうかく に在て静かに 琴瑟 きんしつ の調 しらべ を聞く。或は八葉の蓮華に坐 ざ して飽 あく まで 金人の歌舞 かぶ を見る。既 すで に見聞し終 をは りぬれば、夢の 醒 さむ るがごとし。かくのごときの境界たび に及びしかば、開 神 じん 悦体 えつたい して曽 かつ て飢渇 けか つ の患 うれへ なかりき。仍て函 かん (はこ) 中 ちう の籠居 ろうきよ 三禅の快楽 けら く と謂 いひ つべし。既に一百日に到る前夜、雪 せつ 頂 てう 厖 はう 眉 び の高僧来りて謂 いつ て曰、 『汝久しく籠居し、法の為に 身命を忘るゝ志貴 たつと ぶに堪 たへ たり。明日すでに満期 まんご ならん とす。頃刻 けいこく の程放参 はうさん してわが庵室に伴 ともな ふべし』と老僧先 さき 達 だち たまふ。われ後 しりへ に随て行こと三町ばかりにして、別の乾 けん 坤 こん なりと覚ふ。黄金を地とせり。中に伽藍 がら ん あり。厳 ごん 麗 れい 殊 しゆ 妙 めう なり。老僧の曰、 『汝に大日堂を拝 おが ますべし』とて中 堂に案内せらる。仰 あふ ぎ見るに中央 ちうわう に大日編照 へんぜう 并に 脇 けふ 侍 じ の二聖、妙相巍然 ぎぜ ん たり。われすなはち進 すゝ んで焼
香観礼し、退 しりぞい て問訊 もんじん する間に、宝殿聖像共 とも に忽然 こつぜん として滅 めつ せリ。時に又光明煥爛 くはんらん として天地に充 じう 満 まん す。其 光中に弥陀六字の宝号掛軸 かけもの のごとくにて半天 なかぞら より 降 さが れり。その一字をの 大さ三丈ばかりもやあらんとみゆ。 字ごとに亦光明を涌出 ゆじゆつ せり。其光中に無数 むし ゆ の化仏 います。われこれを拝して合掌念仏し、未曾有 み ぞうう の 想 おもひ をなす。時に老僧傍 かたへ にあつて告て宣 のたま はく、 『当来之 たうらいし 世 せ 、経道滅尽 めつじん といふ意は、衆生如説 によせつ 修行の者、至て 希 まれ にして教理 けうり 行果、泯 みん 然 ぜん として其実 じつ を失す。今時 こんじ 参学 さんがく の禅和 わ 子、多年叢 そう 林 りん を遍歴 へんれき し、箇々 こゝ 面壁 めんぺき を 」下 03ウ 策 はげ むといへども、その得悟の人を尋 たづぬ るに晨 しん 星 せい よりも 希 まれ なり。これすなはち機 き 教 けう 不相応の故なり。又特留 どくる 此 し 経止 きやうし 住 ぢう 百歳といふは、易 い 行 ぎやう 道 だう の意也。機根の善悪を 論ぜず。信心歓喜して多少 たせ う に念仏すれば、仏願に乗 じよう じ てかならず往生を得 う 。これ機教相応するが故なり。汝 種々の難行を修して頓悟成仏を求るは、たとへば蟻子 ぎし の高山に上 のぼ るが如し。恐 おそら くは開悟の日なからん。今より後、 わが語に随て一向に易行に趣 おもむ き、木食を止 やめ て五穀 を食し、唯もつぱら念仏を修せば、たとへば風 ふう 帆 はん の順水 に行くがごとく、往生無生こゝろに任すべし』と念比に 」下 04オ
教示 けうじ し給ふ。われ念仏往生の道に於ていよ 信心を増 進し、悦んで老僧を拝し十念を受 うく ると思へばすなはち 夢の覚 さむ るがごとし。又 暫 しばらく ありて六人の僧来りて高声に 告て曰、 『汝大願成就せり。早く函中 かんちう を出づべし』とて庵の を打 とぼそ うち 放 はな し、囲 かこゐ の蓋 ふた をはね、わが手を執 とり て函 はこ 中 のうち より 出し給ひて、六僧囲遶 ゐね う して じて曰、 たん 『奇なる哉 。汝が信 心の堅固なる事、叢 さう 林 りん にて殺 せつ 心 しん 修行する者も七日には 過ず。それ程かたしとす。况 いはんや 汝百日の苦行をや。大信大 行、光前 くはうぜん 絶後 ぜつご と謂 いひ つべし。然れ共いかんがせん。今時 こんじ 末法 にして世に法 はふ 眼 げん 円 ゑん 明 みやう の正師家 しやうしけ もなく。一棒一喝 かつ の 下に怒 ど 雷 らい を走 はし らしめ、手 て に ばくや を把 と り塗毒皷 づ どくく を 撃 うつ て、凡聖迷悟一時 いちじ に鏖 みなごろし する底 てい の活作略 くはつさくりやく もなし。 汝がごとき大器あれども、徒 たゞ に死 し 工夫 くふ う に堕在せしむ。これ を末法時中 じち う 億々の衆生いまだ一人も得る者あらずと いへり。当今 たうこん 、末法五濁悪世には唯弥陀の一教利物 りも つ 時を得たり。汝自他の為に偏 ひとへ に念仏して、十即十生、 百即百生の巨益 こや く を得 う べし』と仔細 しさ い に教誨 きやうけ し給ふと おもへば、これ亦夢境 むきやう なり。其時に当 あたつ て近 きん 隣 りん の者六人 最初 さいしよ に来て、庵の鎖 とざし を放 はなし て内に入、囲 かこゐ の蓋 ふた を開き、 法師の恙 つゝが なきを見て、をの 再会の悦をなせり。急 いそ ぎ
村中に触 ふれ しかば、諸人群参して随喜結縁せり。この 時日課念仏を誓受する者千有 ゆう 余人なり」とぞ。 〇或人問て曰、 「世人数日 すじ つ 食せざれば顔色 がんしよく 憔悴 せうすい す。一月 も食せざれば命かならず絶す。然るに法師百日の断食 顔色うるはしく、気力常に異 こと ならず。其故 尤 もつとも 暁 さと しがたし。 故 ニ 『大婆沙論』一百五十三 ニ 曰、 「欲界 ノ 有情 ハ 由 テ 二段 ダン 食 ニ 一 住 ス 。若 シ 久 ク 在 レバ レ 定 ニ 、則 チ 在 ル レ 定 ニ 時、身雖 ドモ レ 無 ト レ 損 ズルコト 、後 チ 出定 ノ 時、身便 チ 散壊 ス 。故 ニ 住 スルハ 二 此 ノ 定 ニ 一 、但 ダ 応 シ 二 少時 ナル 一 、極 テ 久 クトモ 不 レ得 レ 過 コトヲ 二 七昼夜 ヲ 一 。段食尽 ルガ 故 ニト 」 已上 文 。証真 ノ 『大論略鈔』上 ニ 曰、 「凡 ソ 入 ル 二 滅定 ニ 一。要 カナラズ 依 テ 二上二界 ノ 身 ニ 一得 二 径 ヘテ レ 劫住 コトヲ 一 。依 レバ 二 欲界 ノ 身 ニ 一不 レ 過 ギ 二七日 ニ 一 。凡 ソ 出 ルニハ 二 滅定 ヲ 一、要 ラズ 依 ル 二 悲想無所有 ノ 心 ニ 一 。若 シ 過 テ 二 」下 05ウ 七日 ヲ 一 出 レバ レ 之 ヲ 者、但 ダ 得 テ レ起 コトヲ 二 一念 ヲ 一、心即 チ 散滅 スト 」 已 上 。滅尽定の聖 者すら猶しかり。今定法師何ぞ久しく身命を保 たも てるや」 。 答て曰、 「『唯識』等の論を案ずるに、 「食に四種あり。段食 触食 思食 識食なり」 具にかの論 第四にあり。 今法師四種の中に随て 其一を得べし。又食とするに足 たら ずといへども、数粒 すりふ の豆わづかに 身命を支 さゝ ふる歟。况内に法喜 はふき 禅悦の食あつて身神を 養ひ、又異僧 ゐそ う の珍味をあたふるあるをや。 『心地観経』第五 ノ 偈 ニ 曰、 「三世 ノ 如来出 テ 二于世 ニ 一 、為 メニ 二 諸 ノ 衆生 ノ 一 説 ク 二四食 ヲ 一 。段 ト 触 ト 思 ト 識 トヲ 為 二 其 ノ 四 ト 一。皆是 レ 有情世間 ノ 食 ナリ 。唯 ダ 有 テ 二法喜禅悦 ノ 食 ノミ 一 、乃 チ 是 レ 聖賢 ノ 所 ノ レ 食 スル 者 ノナリ 。汝 ヂ 等 二離 シテ 世間 ノ 味 ヲ 一、当 サニ トレ 求 ム 二 出世無漏 ノ 食 ヲ 一 」 已 上 。又 」下 06オ
滅尽定の事に就ては、 『毘曇成論』の異説もあり。具に 『大乗義章』九にあり。一概すべからず。 『西域記』十二にも、滅心 定の人現にありし事、数条を載たり。予書写 しよしや の性空上 人の伝を見るに、今定法師の事と頗 すこぶ る相似たり。しか れども其条益、亦互 たがひ に勝劣あるに似たり。 照 たせう (ひきあはす) して 知るべし。 『釈書』第十及び『本朝高僧伝』第二十九に曰、 「性空時年三十六 ニシテ 即登 テ 二 叡山 ニ 一、師 トシテ 二 慈恵僧正 ヲ 一、剃髪稟 戒 シ 、与 二恵心檀那等諸師 一、討 タウ 二 習 シウス 教観 ヲ 一。辞 シテ 帰 リ 二日州 ニ 一、結 ビ 二庵 ヲ 於霧島 ニ 一 、或 ハ 隔 テヽ 二 数日 ヲ 一 而食 シ 、或 ハ 不 シテ レ 食 セ 而歴 ワタル レ旬 ヲ 。或 ハ 夢中 ニ 受 ケ 二美 膳 ヲ 一 、覚 テ 後肚 ト (ハラ) 裡能 ク 飽 ク 。 余味在 リ レ口 ニ 。或 ハ 従 リ 二経巻 ノ 内 一白粳迸 ハウ (ホトバシル) 散 ス 。 或 ハ 於 テ 二壇上 ニ 一 煖 涌出 ス 。其 ノ 味非 ズ 二常 ノ 比 ニ 一。或 ハ 当 テ 二冬夜 ニ 一 寒侵 セバ 二 弊 衣 ヲ 一 忽 チ 自 リ 二 庵上 一垂 テ レ 綿 ヲ 纏 マトフ レ身 ヲ 。是 コヽヲ 以 テ 雖 二苦行絶食 スト 一 身体肥 滑 クハツニシテ 光彩過 グ レ 人 ニ 。故 ニ 具平親王寄 スル 二 性空師 ニ 一排律 ニ 、有 リ 下経中 ノ 白粳 絶 ツ レ 糧 ヲ 時、法力冥熏 シテ 貌 チ 未 ダ レ衰 ヘ 之句 上」 已 上 。 〇法師函中 かんちう 十 じつ 旬 しゆん の殺 せつ 心 しん 懺 さん 悔 げ 障 さはり な く 成就し、 真意 しん ゐ 泰 た い 然 ぜ ん として 悟道 の人に異 こと な る事 な し。 聖 僧夢定のをし へ に 任 せて、常に 五穀 を食し、 い よ 仰頼救 がうら いく 我 が (たす け た まへ )の 安 心 を 専 らにし、日 課仏名 十余 万声 を 勤め らる。法師 又 四 十 八 夜の 別 時 念仏 を 修 し、 且 かつ は 仏祖 の 報恩 ほ うをん 、 且 かつ は 臨終 りんじう 正 念 の 為 に 擬 ぎ す。 此度 の 別 時も ま た 例 の 難 修 なんしゆ の
行儀なり。仏間 ぶつ ま の傍 かたはら を板を以て仕切 しき りて箱の如くになし、 わづかに身を容 いる るばかりなり。蓋 ふた をもこしらへ、箱のうち 透間 すきま なく釘 くぎ の尖 さき を出し、身体動 うごか しがたきやうにして睡 すい 眠 めん を防 ふせ がん為なり。四十八日の間一向水食を絶し、唯称 名相続するばかりなり。 「かくのごとくの別時は前代にも 聞かず。末代にも有るべからず」と諸人昼夜をわかず群参 ぐんさん して各激 げき 信 しん を発し念仏結縁せり。此別行亦障 なく成就せられしかば、時に日課念仏誓約 せいやく の者千 遍以上三万以下、惣て一万余人なり。 〇法師一時念 ねん 言 ごん すらく、 「わが発心出家ひとへに衆生済 」下 07ウ 度の為なり。しかるに今に於て自利々他の行、分 ぶん に随て 満足せり。更にこひねがふ所は、頭燈掌 づとうしやう 灯等の苦行をな し、四来 しら い の諸人に代 かはつ て仏菩 に供養じ奉り。諸人の 三障を断除し、同く往生を得 え んが為に懺悔滅罪せん。 又若 もし 人誠心に念仏すれば、一念の下に八十億劫生死の 罪を除く事 聖 説 しやうせつ 分明なり。しかれども不信濁乱の前 には其しるしなきがごとし。われこの苦行を修して、諸 人仏法の中に於て徹 てつ 骨 こつ の重信を生ぜん事を欲す」 と。これより後、大群聞法結縁の者ある時は、頭上及び 掌中に香を焼 た き、或は頭燈掌 づとうしやう 灯 とう を燃 とも して供養せらる。 」下 08オ
これより後は、常に一処に住する事なく、奥羽 おふう 二州の内 城邑村里 じやうゆうそんり 、縁に任せて遊歴し、其利益の機縁を見ては、 頭燈等の供養を修す。諸寺の貴僧碩 せき 徳 とく も其行徳 を嘉 かた ん して、勧化度生を請ぜらるゝ類ひ少からず。其唱 導の式 しき 、まづ仏前に向て礼拝念仏し、次に参詣の衆 に向て安心起行の 趣 おもむき 少々これを談じ、訖 おはつ て端座黙 もく 然 ねん たり。時に二人の侍者三燈を持出て火を点 てん ず。燈 とう には多く二百目掛 しゆ がけ の 燭 らふそく を三寸許 ばかり に切たるを用 ゆ。三灯は頭上と両掌と也。或は頭灯ばかり、或は掌燈 ばかりの時もあり。同時に三燈を燃 とも し供養せらるゝ事 度々なり。法師掌燈の燃 もゆ るを見て「光明遍照」の文を唱へ て念仏を開 かい 白 びやく せらる。一会 いちえ の諸人随て同音に念仏 す。三灯燃 もえ て炎々 ゑん たるに随て法師の面 めん 色 しよく かへつて うるはしく、身体少も動ぜず、苦痛の相ある事なし。 宛 あたり 禅定の相に似たり。一衆青 せい の盛 えん さか んに上 のぼ るを見、 法師の称名の声雄 ゆう 朗 らう なるを聞 きい て決 けつ 信 しん 勇猛 ゆみやう の心 を生じ、励声 れいしやう に念仏す。此時にあたつては、いかなる 傍法闡提 はうばふせんだい の輩も忽兇邪 きやうじや を翻 ひるが へして浄心を発 おこ さずといふ事なし。四衆念仏の声響 ひゞ き、四境 しきやう に徹 てつ す。燈 とうしゆ すでに尽るに及びて衆声奄々 えん として
一時に止 や む。時に法師、 「願以此功徳」の偈を挙称 こしやう せら る。衆随て唱和 しやうわ して十念をうけ、回向し終て退 しりぞ く。毎会 まいえ 粗 ほゞ かくのごとし。 評に曰、法師懺悔 さんげ の為に頭 づ 燈 とう 等の苦行を修する事仏 説にあり。これ無始以来の罪業を償 つぐな ふの法なり。 『楞厳経』第 六 ニ 曰、 「其 レ 有 テ 二 比丘 一発心決定 シテ 修 シ 二三摩地 ヲ 一、能 ク 於 テ 二如来 ノ 形像 ノ 之前 ニ 一 身 ニ 燃 トモシ 二 一燈 ヲ 一 焼 キ 二 一指節 ヲ 一、及 ビ 於 テ 二身上 ニ 一 タカバ 二一 ノ 香 シユヲ 一、我 レ 説 ク 是 ノ 人無始 ノ 宿債 サイ (ヲヒメ) 一時 ニ 酬 ヒ 畢 ル 。 乃 至 。若 シ 不 ンハ レ 為 サ 二 此ノ捨身 ノ 微因 ヲ 一 、縦 タトヒ 成 ズトモ 二 無為 ヲ 一 必 ズ 還 テ 生 レテ レ 人 ニ 酬 ンコト 二 其 ノ 宿債 サイヲ 一、如 ク 二 我 ガ 馬麦 メミヤク ノ 一 正等 ニシテ 無 ント レ 異 ナルコト 」 已 上 。又法師仏法 の中に於て徹 てつ 骨 こつ の重信を生ぜしめんが為に焼身 せうしん の行を 修する事、これ亦全く往 わう 聖 せい の用意と符合 ふが ふ せり。唐 ノ 『高僧 」下 09ウ 伝』三十七 『僧崖菩 伝』 曰、 「復 タ 告 テ レ衆 ニ 曰、末劫軽慢 ニシテ 心転 タ 薄淡 ナリ 。見 コト レ 像 ヲ 如 ク 二 木頭 モクヅノ 一(キノハシ) 、聞 コト レ 経 ヲ 如 シ 三 風 ノ 過 ルガ 二 馬 ノ 耳 ヲ 一 。今為 メニ 写 シ 二 大乗 ノ 経教 ヲ 一 、故 コトサラニ 焼 キ レ 手 ヲ 滅 シテ レ 身 ヲ 欲 ストナリ レ令 ント レ 信 二重 セ 仏法 ヲ 一也」 已 上 。諸の頭陀 ヅダ 苦行の事『法苑』百一巻頭 陀の部を見つべし。 〇法師の忍行念仏の徳に化 くは して、をのづから飲酒 をんじゆ 肉 にく 辛 しん 愽奕 ばくえき 等の非法を止めて正信念仏の人と成りし類ひ 甚 はなは だ 多 く、諸人法師を信 宗 しんそ う する事生身の仏の如し。 しか も 法師 天性謙 退 けんた い にして、 惣 すべ て 傲 慢 がうまん ( お こるあな ど る) の心なし。 貴権 きけ ん 豪家 がうか の人に も 、 最下 さいげ の 賤 せん 人 じん に も 曽 かつ て其心を二つにする 事なし。 常 に 括 てん 然 ぜん (しづか) として 安坐 念仏せり。 或 は た ま 暴悪 ぼ うあく の 輩 あつて、法師の行化を 嫉 そ ね み て 種々 に 誹謗 ひば う 」下 10オ
し、懸官 けんぐわん 郡吏 ぐんり に愬 そ して脱衣 だつえ 追放等の謀略 ぼうりやく をめぐらす といへども、法師の徳 とく 運 うん つゐにその恥辱に及びし事 なし。然れ共、其時に当ては、人皆眉 まゆ をひそむといへども 法師の心坦 たん 然 ねん (たいらか) としておそれ驚 おどろ く事なく。又嗔憤 しんふん (いかりにつくむ) の 思ひもなし。其悪計 あくけい の輩も終 つゐ にはみづから過 とが を悔 く ひて、 かへつて法師に帰して、信者と成し類ひもありき。 評に曰、かの威音王仏の滅後増上慢の四衆、不軽菩 の所 行を嗔 いか つて杖 じやう 木 もく 瓦 ぐは 石 しやく を以て打擲 てうちやく すといへども、菩 瞋恙 しんゐ を生ぜず。かの四衆も終 つゐ に其徳に服 ふく せしが如く 『法花不 軽品』 、又歓喜 増益仏の遺法破戒の輩、覚徳比丘の化を妬 ねた みて刀杖を以て 害せんとせしが如し 『南本涅 槃経』三。 古今同情 どうじやう なるをや。今法師はい まだ刀杖の害に至らず。猶 幸 さいはい と謂 いひ つべし。 〇法師諸国遊行の間、処々にて檀興植 だんこうぢき 福の功 頗 すこぶる 多 し。破壊の堂社を修造し、仏像を造立し、朽廃 きうはい の橋 きやう 梁 桀 損 れうひ そん の田堰 でんゑん (いせき) を修治する等の事、枚挙 まいきよ に遑 いとま あら ず。これらの事は、処々 留の間、念仏勧化、頭 づ 灯 とう 掌 燈などの法会の座にて因 ちなみ に修造等の意趣を述 られけるに、諸人これを肯 うけが ふ事、響 ひゞき の声に応ずるが ごとく、不日 ふじ つ にして其功を成 じやう ず。或は百遍以上六万以 下の日課念仏を授け、名号をも授与せらる。或は
加持護符 ごふ なども願ひに随てあたへらる。其符 ふ を受る 者は、当座念仏三万声の契約 けいやく にて拝受す。疫 えき 瘧 ぎやく 風腫 しゆ 等の諸病、狐魅 こみ の妖怪 ようくわい を除き、水火盗難等 の災 わざはひ を祓 はら ふにもこれを用ゆるに効 しるし 多しとなん。故 に諸方より願来る事共、念仏会 え の開 かい 白 びやく などは 更 さら なり。或は寺塔修復の勧縁の類、蝟 い の如くに集り、 人は其煩劇 はんげき に堪 た へずといへども、法師は一々これに応 じて心身を労 らう する事なく、遊戯 ゆげ 三昧にして万術 ばんじゆつ こと ゛ く念仏の一道に帰入す。庸 よう 識 しき を以て擬議 ぎぎ すべからざる所なり。法師一年 ひとゝせ 武都遊歴 ゆりやく の営、暫く 」下 11ウ 都下 とか に滞留 たいりう して念仏を勧化し、頭燈掌灯等の供 養を修せられしに、諸人伝聞 つたへきゝ て踵 くびす を接 つい で群集せり。 弥勒寺、羅漢寺、正覚寺等の老宿、法師の偉 い 行 かう を 聞き請じて対謁 たいえつ し礼遇 れいぐう もつとも渥 あつ し。日を逐 をつ て諸 人群をなして騒 さは がしかりければ、旅寓 りよぐう の身。其障難 しやうなん を 憚りて、ひそかに都下 とか を去りて本国まで帰られける。 かくのごとく到 いた り向ふ所、諸人帰投 きと う する事水の壑 がく (たに) に 赴 おもむ くが如し。これ大悲重心のいたす所なるべし。 〇法師いづれの折にか有けん。たま かく詠ぜられける。 なき人の今は仏に成にけり名のみ残りて苔の下露 古歌 ニモアリ 」下 12オ
高山に願ひを懸る者ならばたゞ念仏の声にまかせよ 声なくて何を便りにたすけなん六趣輪廻の修羅のちまたを 〇法師行年四十一歳、享保十年乙巳夏のころ、つら 生滅無常の有さまを観念し、 「生ずる者は必ず死に 帰し、盛 さかん なる者は必ず衰 おとろ ふるならひなり。壮年 さうねん 既に 過 す ぐ。いかでか久しく停 とゞま らん。此日すでにすぐれば命も随 て減 げん ず。少水の魚のごとし。これ何 なに の楽 たのし みかあらん。われ 多年修行を策 はげ まし念仏を勧 すゝ めて、信受結縁の 者、億万を以て算 かぞ へつべし。然れども疑惑 ぎわ く 不信誹謗 ひば う の者は、却 かへつ て信者よりも多かるべし。祖師のいはゆる『五濁 増時多疑謗。道俗相嫌不用聞』と。誠なるかな、われ火急 くはきゆう に捨身往生し、弥陀尊を見奉り、深法 じんばふ 忍 にん を得て 身を河沙 がし や に分 わか ち、十方界の衆生を心のまゝに済度 せんにはしかじ」と。 「われ曽 かつ て聞く『これより西に絶 ぜつ 嶽 がく あり 飯豊山 いゐで さん と名く。五仏出現の勝区 せうく なり』と。かの山に到り て終りをとらん」と。すなはち垢 く 衣 え を脱して裸形 らぎやう (はだか) となり、 山伝へに彼地にわけ行しに、途中 とち う にてたま 昔 せき 友 ゆう 五百川 いしが は 領の某に へり。法師の異体 ゐて い なるを見て大き に驚き、其来意 らいゐ を尋ね聞てふかく感涙をながし、 法師に語て曰、 「彼飯豊 いゐで 山は路遠 とをく して険 けは しく、行人 かうじん
絶て猛獣 もうじう 荒 すさ む。何ぞ往 ゆ く事を得ん。其近くして勝 せう 絶 ぜつ なるは亀岡 かめがをか 松高山 しやうかうざん にはしかず。われ亦久しく参 さん 礼 らい の志あり。幸なり。同じく彼地に至らん」と勧む。仍て かの勧誘 くはんゆう に随て相共に彼山におもむく。抑かの松高 山は文殊童真応現の地にして、寺を大聖と名く。 本朝三文殊の随一たり。 道温 ノ 『伽藍開基記』三 ニ 曰、 「奥州永井。 大士亀 かめが 丹州切門 キレト 和州阿部 アベ 、為 二 本朝三文殊 ト 一 」 岡 をか 来現の初は、人王二十九代宣化 せんくは 天皇二年正月、もろ こし五台山より伊勢国 渡 遇 わたらひの 郡神乳山 こほりかみぢやま に出現し 給ひぬ。すなはち一体分身 ふんじん 飛行して出羽国永 なが 居 ゐの 郷 がう 松高山に留 とゞま り給へり。其松高 しやうかう の霊境たるや、八葉の幽 」下 13ウ 峰は自性の心蓮を開き、千般の奇 き 巌 がん は、妙徳の 伴侶 ばんりよ を現ず。白雲 はくうん 聚散 じゆさん して、山とこしなへに空 くう 仮 げ の相 を示し、清風琴皷 きんく して松をのづから実相の曲 きよく を調 しら ぶ。 老松古栢 らうしやうこはく 半天に参 まじ はり、霊禽 れいきん 異草 ゐそ う 凡境 ぼんきやう を絶して 亦なき勝地なり。 評に曰、この亀岡文殊の本縁、具に『旧事本 クジホ ン 紀 ギ 』にあり。彼 ノ 第二 十九巻 上 『帝皇本紀』 ニ 曰、 「宣化天皇二年春二月、五 イ 瀬 セノ 国渡会 ワタラヒノ 神乳山 カミヂ ヤマ 大 ニ 耀 ク 光 リ 、満 ツ 二国中 ニ 一。神官行 テ 見 ルニ 有 リ 二一人 ノ 児 一。年 ノ 度 ホ ド 十 六 ジ ウ アマリ ム ツ バ カリ 、 端厳 ア デ ニ 美麗 ウ ル ハシ ク 娟娟 ミ メ ヨ ク 尊 タ フ トキ 極 カギリ ナ リ 。 不 レ可 ラ 二 親寄 チ カ ヅ キ ヨ ル 一。 而 モ 乗 ノレリ 二 大獣 オ ホ ケモ ノニ 一。 長量 タ ケ 一 丈 二三 咫 ヒトツ エ バ カリ フ タツ エ ミアタ バ カリ 焉 、 毛 ノ 色濃紫 ニ シ テ 極 メ テ 猛 怖形 タ ケ キカタ チナ リ 。 乃 チ 皇 太 神 託 カ ヽ リ レ巫 ニ 勅 シ テ 曰 ノ ク 、『 是 ノ 客 マ ロ フ ド 大 ン 神 ノ 児 チ ゴ 尊 ミ コ トノ 大 ン 神 ハ 在 マ ス 二 辰 カラ 旦 クニ ノ 国 クニノ 五 イツ 峰 ネ 山 ノ 岳 タ ケ ニ 一 、 世 ヨ ノ 智 サ ト シ 中 ノ 智 シ 世 ノ 聖 リ ノ 中 ノ 聖 ヒジリ 、天地 師也 ア メ ツ チ ノ モ ノ オ シ ヘ ノヒト ナ リ 。 今 来至 リ 玉 フ 也 。 当 サ ニ 」下 14オ
レ 崇 アガマヘ 二祭 ル 之 ヲ 一 、以 テセヨ 二 非犠 キヨミ 供 ソナヘヲ 一。彼 ノ 辰 カラ 旦 クニ 国 ハ 八十 ヤソ 万 ノ 歳 ノ 先 サキヨリ 此 ノ 児大神在 マス 。故文 カレアヤ 巧也 タクミナリ 。従 リ レ是這 ノ 国 ニモ 当 サニ 二 文巧 ナル 一 也。這 ノ 児大神 ノ 所 ノリ レ乗 マス 駕獣 コマイヌハ 、稜 イツ 威 ノ 神 カン 獣 ケモノナリ 。 荒 ル 之庶 モロ 悪 ワセ 神見 テ レ 焉 ヲ 甚怖 イトオソル 之。正善 イサギヨキ 衆 モロ 明神 オンカミ 為 メニ 二 悪神 ノ 一 被 ル レ 襲 オソハ 。故 ニ 造 テ 二此 ノ 獣 ノ 形 ヲ 一、置 ヲケ 二焉神 ノ 前 ニ 一也。是児 ノ 尊 ミコト 来 テ 助 マス レ 吾 ヲ 。神威 ヒ 増 マシ 国 ノ 徳益 マス 永久 ヒタフルニ 奉 レ 二留 メテ 祭 一レ 之 ヲ 干時 ニ 児 ノ 大神、乃 チ 分 ワ ケ玉フ 二 神 ン 身 ヲ 一也。譬 バ 如 レ分 ルカ 二 燈火 ヲ 一一 ノ 躬 ハ トヾマリ 二於茲 ニ 一、駕 ル 獣 ハ 化 レ磐 イハト 、児 チゴノ 尊 ミコト 密 カクシテ レ 形 ヲ 一 ノ 体 ミカタハ 飛 テ レ 空 ヲ 至 リ玉フ 二 於奥 ノ 国 ニ 一 。直 タヾニ 如 ク レ石 永 ク 居 マス 。故 カレ 、此 ノ 地 ヲ 名 ク 二 永井 ナガヰ ト 一 」 同第三十巻『帝皇 この『本紀』の文に奥 ノ 国といへ 本紀』下可 二 併 セ 考 フ 一 。 るは、彼 かの 時はいまだ陸奥出羽一国にして分 わか れざる故に奥 ノ 国と あり。今は出羽に属 ぞく す。 『続 しよく 日本紀』 ニ 曰、 「出羽 ノ 国 ハ 元明帝 ノ 和銅五年 割 ワカツテ 二陸奥 ノ 国 ヲ 一始 テ 置 ト レ 之 ヲ 」あり。又諸社の宝前に置 を く所の高麗 こま 狗 いぬ と名づくる常の犬にはあらず。文殊の乗 のり 給ふ韓 から 獅子 じし なり。 其徳『本 ほん 紀 ぎ 』の文に記するがごとし。 〇法師その昔 せき 友 ゆう 某 なにがし と共にかの山の麓 ふもと に至りてしばらく 休息し、夫より別当大聖寺亮奄法印に謁 えつ し、文殊の奥 院参 籠 の 願 ひ を 述ぶ 。法印曰、 「奥院には、 古 より参 籠 を 許 ゆる さゞ れば、其 ね が ひ 叶 ふ べ からず」と。法師 聞 て 憮 ぶ 然 ぜ ん た り。其 同友ふかくこれを き、すなは なげ ち具 に 願 書 を 認 し た ゝめ め 、印 証 を 以て 尋 ね てこれを 願 ふ。時に法印かの 願 書 を 披 見あり て、法師の 志 願 真実 なることを 感 じ、 遂 つ ゐ に 許 容 きよよう あり け り。 法師 歓喜斜 なの め ならず、すなは ち 法印に 礼謝 して 急 いそ ぎ文殊 が 嶽 だ け に 登 りに け る。法師 心 中 には、 「此 度 奥院に於て 七 日 断
食念仏し、結願の日に舌根 ぜつこん を嚼 かみ 切 きり て滅を取るべし」と 決定せしか共、言には七日の籠居とのみ披露せられける。 同友は兼て法師の所存を知りたりければ、二王門の 傍 かたはら にて永訣 ながきわかれ をなし、互 たがひ に涙に咽 むせ びてぞ別 わか れける。 されども同友は法師の向後 きやうこう ゆかしく、 「いよ 本意を 遂 とげ られなば、亡骸 なきがら をも取り収 おさ めてん」と。すなはち文殊の 籠 こもり 堂に数日の間法華 ほつけ 経など読誦して籠り居 ける。実 げに も同朋同侶 どうほうどうりよ の親 した 好 しみ はかくこそあるべけれと、 いとあはれに頼 たの もしくぞ覚え侍る。法師は奥院に上 のぼ り て水穀を断 たつ 。念仏昼夜十五万声、礼拝三千五百 」下 15ウ 礼、以て無始以来の業障 ごつしやう を懺悔し、臨終正念を祈 願す。かくて第三日にあたるの日。石壇の傍 かたはら を見れば、小 せう 穴 けつ の広 ひろ さ一尺あまりなるあり。さし覗 のぞ きてこれを見れば、 其内ひろき事限 かぎ りなし。内に入に随ていよ 奥深く 覚ゆ。しかも微光 びくはう あつて斜 なゝめ に照せり。法師奇異 きゐ の想 おもひ をなし、行く事一町ばかりにして一世界あり。黄金を地 とし金 こん 縄 じやう 道を界 さか ひ、宝樹 ほうじゆ 宝池 宝草 宝鳥等、こ と ゛ く光明を発出して具に見るべからず。漸く進みゆく に大伽藍 がら ん あり。七宝厳飾 ごんじき せり。中に於て鐘楼 しゆろう あり。 巍然 ぎぜ ん (たかく) として蒼穹 さうきう (そら) に聳 そび ゆ。衆宝厳 ごん 麗 れい にして、其ひかり 」下 16オ
射 い るがごとし。伽藍の中央 ちうわう を見れば、文殊師利金 こん 獅子 に乗じ大光明を放 はなつ て、衆 しゆ の為に説法したまふ。法師国 界の厳浄なるを見て、未曾有 み ぞうう なる事を得 え 、合掌して 一心に念仏し、すなはち目を挙て四方を顧 かえりみ れば、依 い 然 ぜん (もとのごとく) として奥院の石壇に座せり。又目を閇 とぢ て定意 ぢやうい に住し、 一心に念仏すれば、亦自然に浄土となる。かくのごとく なる事三度に及べり。 〇又第六日子 ノ 刻より寅 ノ 刻に至るまで、聖境 しやうきやう を感見 す。一山明々 めいめい として白昼 はくちう の如く光明徹照 てつせう し、異香馥 ふく 郁 いく たり。山谷平正にして高低 かうてい ある事なく。紫雲靉靆 あいたい (たなびく) して歌 か 唄 ばい 散華 さんげ の法供をなせり。忽然 こつぜん として三尊来迎 の相あらはれまし て、月の雲衢 うんく を出るが如し。法師これ を拝して歓喜の涙せきあへず、念仏の声咽 むせん で出 いで ず、良 やゝ あつて起 たつ て拝し、頭 かうべ を挙ればたちまち所見を失す。 亦旧 ふるき に依て石壇に坐せり。法師思念 しね ん すらく、 「これわが 日比 ひご ろ 帰依したる飯豊山 いゐで さん の五仏われを引摂 いんぜふ し給ふ ならん」と、深く信根を増長 ぞうぢやう してげり。 評に曰、法師松高の石壇に於て文殊の浄境を感見せられし 事、かの無著文喜禅師 法照国師等の五台山に於て浄 土を見、文殊に たりし類にて、この瓦礫 ぐわりやく の土 ど に即 そく して
浄境を感見する也。これを伝には化寺 けじ 聖寺、或は神宮 じんぐう 仏寺など称せり。賛寧 ノ 曰、 「遇 フ レ仙 ニ 之士 ハ 、亦仙 ノ 之士 ナリ 。聖寺 ノ 之遊、豈 ニ 容 ナリヤ 二 凡穢 ナル 一 」といへり。宋 ノ 『僧伝』第二十及 ビ 二十一「無著法照」等の伝 を見つべし。今法師所感の境界と、事尤髣髴 ほうふつ せり。 〇明 あく れば七日の参籠も既に満散に及べり。 「われいよ 舌 ぜつ 根を咋 くひ 切 きり て法界に施捨し、往生浄土の本懐を遂 とげ ん」と 決定し、勇猛 ゆみやう に念仏す。既 すで に黎明 れいめい (あけぼの) になりし時、山谷 たちまち大きに震動 しんどう せり。法師おどろき起 たつ て四方 を見るに、虚空に声あつて曰く、 「鐘楼 しゆろう 堂を建立せよ」 と。法師不思議に思ひ、耳を傾 かたぶ け 息 へいそく して聞居 」下 17ウ けるに、亦空中に声あつて告 つぐ る事前の如し。かくの ごとき霊告 れいがう 四度に及べり。茲 こゝ に於て法師思忖 しじゆん す らく、 「夫 それ 当山大聖曼殊室 まんじゆし 利 り 菩 は、宣化 せんくは 天皇の 御宇 ぎよう 、この山に跡を留め給ひしより既に一千二百の 星霜 せいざう を経 へ たり。われ聞く『往古 わうご は七堂円備 えんび の大伽藍 にして、中葉 ちうえう より稍 やゝ 衰廃 すいはい に及ぶ』と。然りといへども、今猶 諸山に冠 くはん たり。しかれば鐘楼 しゆろう 一宇の造立といへ共容易 やうい に成ずべきにあらず。况 いはんや われ単 たん 己 こ 無聊 ぶれ う の身を以て、 化 け 主 しゆ と成てこれを成 じやう ぜん事は、螻 ろう 蟻 ぎ の鉄柱 てつちう を揺 うごか す に異 こと ならず。然るに山神われに命 めい ずるに、建立の事 じ を 」下 18オ
以てする事、再四丁 てい 寧 ねい なるは、思ふに、我 われ この山に於て 宿契 しゆくけい の在 あ るあらん。仍てわれ幹 かん 縁 えん の主 しゆ と成て国郡 こくぐん を募化 ぼけ し、年所 ねんじよ を積 つん で怠 おこた らずんば、何ぞ成功 せいこう の日 なからざらんや。功成て後こゝに滅を取るべし」と。これ より捨身往生の念を止 とゞ めて鐘楼 しゆろう 建立の志願と なし、すなはち文殊大士の宝前に跪 ひざまづ き、更に願ずら く、 「却後 きやくご 七年の内、かならず建立成就せしめたまへ」と ねんごろに啓白 けいびやく し訖 をはつ て、すなはち奥院をぞ退出せ られける。法師漸く二王門の辺に至るに、かの同友某 に ふ。互 あ たがひ に隔世 きやくせ 再会の思ひをなし、かつ驚 おどろ き、かつ 悦ぶ事限りなし。法師参籠中の始終、ならびに命 をながらへ、鐘楼 しゆろう 建立の願を発せし次第、委曲に 談 だん ぜしかば、同友聞て随喜感 かんたん にたへず。すなはち 相共に別当法印の許 もと に至り、奥院にて感見せし 浄土鐘楼の体 てい を絵図になし、鐘楼建立の願ひ を述られける。法印、定の願ひの 趣 おもむき 并に奥院感 見の勝瑞を聞て希有 けう の思ひをなし、すなはち合 がつ 山 さん 胥議 しよぎ して、法師の建立の願ひを承諾 しやうだく せられ ける。茲 こゝ に於て法印随喜のあまり、定の為に教示 けうじ して曰、 「法師の所 願 しよぐはん 軽からず。仏菩 の冥助 みやうぢよ を仰 あふが