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゛ く法師の化に帰して因縁ことに厚あつし。星氏

菅野氏 すがの

門馬氏 もんま

氏等の諸士は、法師行化の度毎に留錫して法盟 たびりうしやく

山田 浅からず、法師一代の行実みな口 せんをうけて記し留む。法師存設の化を助くる者なり。其外四来 しらの親疎 しんそ

の道俗、わづらはしく述がたし。入定の後一百余日の間も亦尓 しかなり。

〇法師あらかじめ入定の地を定む。新建の鐘楼の傍 かたはら」下

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に巉 ざんがんあり。其嵒 がんはんを切て縦広 じうくはう五尺の石槨 せきくわくを構 かまへ、其内に

密家の耆英なり。法師と機縁ことに深し。この時 えい 成ぜり。時に相馬泰心院亮海阿闍梨といふ人あり。

を納む。七月十三日石室の構へ既に ひつ はるかに来て、百事これを司 つかさどる。法師すなはち海公及び門馬氏を伴ひて入定の地に至り、石窟の構へを見て甚 はなはだ歓悦し、暫 しばらく盤桓 ばんくはん

(たちもとほる)して門馬氏に謂 いつて曰、「この石窟の前に水あらば可 ならんや」門馬氏曰、「少水 せうすいにても これあらば、後来 こうらい参詣の諸人の便なるべし。然れ共高 かう

かん無水 むすの地、いかんとも成がたかるべし」と。法師すなはち

杖を以て一 しゆじやう

いちあふ

(くぼむ)せきの中に卓 たくして良 やゝありて卓 たく一卓せ られしかば、甘 かんせんたちまち涌出 ゆじゆつせり。二人この瑞 ずいを見て感仰 かんがうきはまりなし。しかつしより潺湲 せんゑんとして絶ず。これを飲む者は衆疾 しゆしつを癒 いやす。後 のち名づけて待 たい定水 ぢやうすいと称す。夫古 いにしへより三国 さんごくに霊水 れいすいと称する者尤多し。摩掲陀 まかだ

の聖 せう『西域記』八に見ゆ。、遠公

ゑせ等の感得の清泉 『珠林』七十九にあり。わがてうには天王寺の三水

二月堂の閼伽井 あか

白山の水

遠州の塩 しほが渓 たに等なり。これ皆仏神離欲の聖者に与 あたへ給ふ感応無作 むさの霊泉なるべし。今、法師生来の

道行熏力、菩

無窮の聖応を感ずる者乎。

〇同十四日、法師大聖寺に行き、別当法印に謁 えつして、多年の護法道愛の恩意を謝し、「われ大阿闍梨の将護 しやうごを得て営興の諸願を成弁し、永くこの清浄の霊窟 れいくつに身を留 とゞめ、魂 たましゐは安養の華台に到 いた

り、還 かへつて衆生を済度せん事、曠劫 くはうごふの大慶なり。仍て建立の堂宇、後来修覆 こうらいしゆふくの料に、些少 しやせうたりといへども、田地を寄附し奉らん」と。すなはち田券 でんけんを懐中して奉 上せられける。

〇同日の初夜に、法師結縁の道俗を、一処に会して告て曰、「諸仁 しよにんじや聞給ふべし。われ発心以来種々の」下

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せつしん修行をなす事、ひとへに諸の衆生の為に念仏 往生の道を弘通 ぐづし、自他共に極楽に生ぜんと欲 ほつするばかりなり。われ所々の道場 だうじやうにして、頭掌 づしやうに火を点じて心中の昏散 こんさんを焼 き、手指 しゆを燭 しよくと成 なして我執 がしの堅著 けんじやくを摧 くだく。これらの供養をなす事、四百余箇度に及べり。又

われ殊に心を留る所八十七箇所あり。 其寺院、郷里の列名巻尾に記せり。わが此肉 にくしんを切 りてかの所々に送 おくらん。宜しく墳墓 ふんぼを築 きづきてその肉片 にくへんを納め石塔を立 たて、祭奠 さいてん如法ならば、われ永く其地の鎮護 ちんごと成て、現 げんには諸の災厄 さいやくを除き、当 たうには 浄土に生ぜしめん。これわが誓願なり。又われ寂 じやくぢやうに入らん」下

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時、導師の焼香をうけて後は裸形 らぎやう

(はだか)にして入窟 につくつせん。われ別に観念あり。今諸人の為に示すにあたはず」 。諸人これらの語を聞くといへども、いと耳馴 みゝなれぬ事共にて是非 ぜひ

の論談 ろんだんにも及ばず。唯 たゞ一同に信伏 しんぶくせり。

評に曰、裸 形にして葬 はうふりに随ふ事、庸俗 ようぞくの見 けんにしては甚恠 あやしむべし。然れ共古賢 こけも裸葬 らさ(はだか)を願ひ用ひられし事、内外典 でんに載 のせたり。 りう しやうが『説 ぜい えん』第二十 曰、「楊王孫、病 ナリテ サニスレ ント。令 ジテ 曰、『吾 セバ シテ ント 。必 レト カフルコト スト也」 。かの本書に具に

といふ者と裸葬の事を問答往復して、遂に裸 キコわうふくつゐ

(はだか) さう随ひしとあり。又『易係辞 エキノケイジ 曰、「古人 者不 ホウセ キウエ 。漢書 『成 セイ紀』 曰、「徳弥 葬弥ノハ

、癒ルコト イヨ

ノハ

。宋『僧伝』第六ナリ

シユ 曰、「遺誡 シテ カイテ 鳥獣 、焚 而散 ジテ レト スルコト 。狐山『間居編』第三十四遺嘱 曰、「吾 。歿後

、棄 サニシテ ステ

中野 、流 シテ 長川 センニ

メント

(トブ)走鱗 カイノ 。頃 ケイ ネン大原澄禅和尚の遺亦此意なり。これらの類 ひ、古徳の かうさうを非 として はくれん(うすしさむ)ぶ事、俗 ことを見つべし。顔氏家訓終制 べし。又き経巻 四之一を者には、袈裟しむべからず。に焼あり。 持記 けさりつせう などにも葬をくすを誡られたり。す。僧、 あつなみあかばう

などの類をも焼き捨べからず。施をして事

せしむと。これにいあり。みなどして

なり。三之二像到数

を見つべし。偏衫裙 たゞぬのへんんくん

とつ

(ころも)せしむべし。より カタけて バウガイ せしむ。これ徳をんと欲して、く。たれども、畢竟意をす。、非なり。誡むべしと。高師の

曇華筆』にあり。節要』『弥に『 修園集下巻にも具に誡のあり。しかれども もし袈裟 けさ

事を思はゞ、南宋 なんそう りう華寺 げじ そう めうの縁 えんのごとく、「設 せつ さいの砌、かの亡僧の を以て鬮拈 くじどりの法に依て僧衆に施すべし。全く亡者の衣 と成」といへり。具に『統紀』三十四

紙銭紙帛 ハク 経論の説にもあらざれば用不。人の意に任すべし。又冥中鬼道には 本朝『高僧伝』第六十八に載たり。しかれども此事一時一縁の所感にて、 慈身房の冥中の所感なり。平家物語にも記せり。慈身上人の伝、 せり。尊恵は、高倉院承安年中の人なり。清盛入道権者なる事も此 上人、冥中の感見に始まるよし、道温の『伽藍開基記』九に本縁を記 廿八 又世に六道銭と名けて亡骸に殉へ葬る事あり。これ天台慈心房尊恵 シタガ これも取去べし。悪心なしといへども、梵経像の過あるが故也。 さるぼんぜうとが れに依て地獄の苦を免れて天に生ず」とあり。若火葬ならば まぬがもし どは、『本経』の説あるゆへに、土葬の屍ならば頸に懸しむべし。「こ せつくび 臨終の時は頸に掛しめ、火葬の時は、取撤べし。但し随の守 くびかけとりのくずいまもり 『珠林』四十七にあり。又守護血脉などは まもりけちみやく

(キヌ)を貴び用る事、『珠林』第十

『要覧』下 三十九

『統紀』三十四等に見えたり。」下

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〇同十五日の朝、法師、万徳院 居の所なり。 定常に寓 ぐうより観音堂の仮屋 かりやへ移 うつらる。道すがら伴 ばんじうの諸人皆手ごとに 線香を持て随へり。法師其日の儀相はなはだ奇異 きゐ

にして腰 こしに短刀 わきざしを指 さゝれたり。亮海闍 れうかいじやこれを見て怪 あやしみ其故を問ふ。法師答て曰、「仏に降魔 がうまの相あり。文殊は右手 うしに利剱 りけを執り、不動は左手に羂索 けんじやくを 握 る。海公それ疑訝 する事なかれ」と、闍梨信伏す。此日大聖寺主、并に門下の緇侶 しり、観音堂に於て弥陀観音の開光慶讃 きやうさんあり。其儀式厳重 げんなり。法師は仮屋 かりやに在て百目の

燭を頭燈に燃し、湛」下 らふそくとうともたん

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ぜんとして火光三昧に入て、以て開眼の真法 しんぱふ供養とす。四来 しらの群集 ぐんしゆ、法師の頭燈の炎々 えん

〇同十六日、法師未明に堂前の滝にて垢離を取り、 こり の声林谷に振へり。 りんこくふる たるを見て、念仏

満山 まんさんの護法 ごは聖衆の宝前に詣して、入定内外障 さはり

なく、正念ならん事を祈請 きせせらる。〇同日の夜に入て、観音堂に於て手づから利 とうを以て両目を挑 くじり出せり。「奇 なるかな。血流 ながるゝ事なく、

たゞ白乳 はくにう

(ち)のみ少し出たり。見る者こと

く大菩

神通願力なるべし」と称

せずといふことなし。相次で

手づから身肉を切らるゝ事、八十七刀なり。いはゆる舌

根一所、耳に二所、面に二所、口中に六所、唇に四所、腕 うでに二所、腹に五所、足指に十二所、脚に三十所、股 もゝに十九所なり。右の肉段 にくだんを几 あんの上に並 ならべ置 をくに、其色表 ひやう

潔白 けつぱくにして白蓮花の葉々 ようようちりしくがごとし。数日 すじを 経 ても色変 へんぜず。又臭気 しうきなし。法師入定の後、この肉 にく

へんを各箱に入て、遺書に任せて八十七所に分 わかち送 をく

れり。其中に大祥忌の時、墳塔 ふんたふを移す者あり。其肉片を開き見るに、色形共に少も損 そんぜず、臭気 しうきある事 なし。法師かくのごとく身肉を割截 かつせつすといへども苦痛 つう

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