カイザーと表現主義-(1)「ガス三部作」
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(2) 32. 井. 本. Ⅰ嫡. 金の続く限り,いや続かなくなれば横領事件まで起こして賛沢三昧の生活をし,その裁判 でほ大衆蔑視,芸術家至上主義の大言を吐きつつ実に様々な題材のドラマを書いたカイザ ●. ●. ●. -が,何を措くことによって,ションディの言う意味での表現主義者としての現代人にな りえたかの一端をさく小ってみたいというのがこの小論である.. エリーゼ・ド-ゼン-イマ-はその「ドイツ社会劇」の中のカイザーの項で次のように. 述べている。「表現主義のドラマは,自然主義ドラマがそうであるように,イプセン,スト リンドベリー,ヴューデキントに由来している。--そのうち特にヴェ-デキントの後継者 がG・カイザーでありC・シュテルン-イムである。但しヴェ-デキントの場合,窮極的 な所は間接的,表面的に留まっているのに対して,カイザーにあっては,それが直接的, 中心的なのである。即ち人間に相応しい社会秩序という問題に対してである。ヴューデキ. ントの場合中心テーマが,感覚的存在としての人間と,その感覚的存在としての人間が市 民社会に止むなく挑戦する羽目になる,その関係であるとするならば,カイザーのそれは,. 同じ状況下での全体性としての人間の関係を求めるものである。」2) カイザーの社会劇にあってほ,この全体性としての人間が常に課題となる。そこからは. 当然,人間の改革という問題が提起されて来る。但しカイザーの場合極めて抽象的に。然 し,ある意味でほ全体性と抽象性は表裏一体を成すものである。個々の場合においては全 体性を論ずることほ実に無内容な抽象性に陥り易い。然し,カイザーが書こうとしたもの 紘,登場人物個々人ではない。無内容な個々人の織り成す社会のドラマである。そういう. 意味での社会劇である。その社会劇の中の彼の「ガス三部作」の第2作「ガス」を問題と したい。. カイザーの「さんご」,. 「ガス」,. 「ガス第II部」で彼の「ガス三部作」と呼ばれる。ここ. で三部作を貫く主要な人物のみその概略を説明する。 「さんご」においてほ「百万長老」と呼ばれる人物が貧困の底から身を起こして今大工場. を経営している。しかし娘ほ孤児院で働きたいと言い出し‥息子は父の工場での労働者の 可醸な条件に目ざめる。. 「ガス」においてはこの息子,即ち「百万長者の息子」が主人公. で,工場主となるoその娘が工場主の期待する「新しき人」を生む.それが「百万長老の. 労働者」となって, 「ガス第ⅠⅠ部」の悩める主人公となる。 「技師」, 「将校」,さらには「娘」とい 後に論ずるように,登場人物を表わす「労働者」, うような名前は,個有名詞としての意味と,普通名詞としてのそれを兼ねているわけであ る。ドラマにおける没個性化,無名性の表現の根本原理とも言えるものである。しかしこ の小論では,作品分析の場合,登場人物名の時は「. 」を付して普通名詞と区別すること. とした。. く「ガス」第1幕) ガス工場の「書記」の部屋,二階では工場主である「百万長者の息子」の「娘」と「将 「娘」と「将校」はいわゆる脇役ではあるが,時代情況を. 校」の結婚式が行なわれている。.
(3) カイザーと表現主義-(1) 示すものとして,重要な人物である.. 33. 「ガス三部作」. 「娘」ほゾ-ケルの言い方によれば,. 「父たる百万長. 老の息子の観念論を分かち持っているような娘」3)であるo「さんご」における「娘」のよ うに個性ないしは自我を持った人物にほ措かれていない。然しそれだ桝こなおさら,ドラ. マでは言はは無の状態で登場する。改革者たらんとする父と,腐敗した軍人である夫の間 にはさまれた,白紙の状態である。こういう白紙の状態で登場した人物が,カイザーの場 令,しばしば重要な意味を持って来る。新解放行に先立ち父に,. 「元気に行っておいで,今. 日からほ,もう私の名前でほなくなったのだから。だからと言って,何もなくなったわけ じゃない。一私はただ一人の男なんだ。」4'と言って見送られる。そういう関係の父娘で ある。 「将校」の方は,これほ後幕で段々その姿を現わして来る軍需産業,軍隊,戦争その. 「優に一人の銀行家の管理にも匹敵す. ものの一断片である。彼は出発に当って義父から,. るような額」の財産を譲り受ける。但しそれは母方の財産だと言われる。莫大な額の「百 万長者の息子」自身の財産は,全てガス工場のものとなっている。義父は「将校」にこう 言って聞かせる。. 「君ほ一人の労働者の娘と結婚したんだ。私は一人の労働者以上のもの. ではないのだから。かくさず言ってしまえば,むしろ君達のお母さんがその娘に財産を残 さなかった方が良かったと思うんだ-・・o」5'そういう関係の義父と子であるoそれでも. 「将校」は欣々然として旅行に出かける。 それと前後して「自の男」が登場する。. 「さんご」における「青の男」と全く同じ役割の. 男であるo冒頭のみに登場する,正に予言者的男であるoガスという技術の発達と,工場 が実施している利益分配によって,それこそ馬車馬のごとく働いている労働者達に対する 皮肉めいた警告だけを残して去る。しかしそれが又道に,その工場の労働者の働きぶり, 利益分配という工場組織を観客に知らしめることにもなっている. 予言ほ10分も経たないうちに現実となる.ガスタンクの中で異常発色が起るのである. 「技師」が呼ばれる。彼は自分の計算した化学式を急いで再検討する。然しそれは,完全無 欠であることが確認される。彼は自分が冷静であること,計算は確かであることを主張す. る.工場主もそれを認めるoそれでもなお,遂にガスが大爆発を起こす.ものすごい騒音 と震動の後,燃けただれた労働者達が飛び出して来る。 く「ガス」第2幕〉 爆発から17日目.工場は廃虚のままo労働者はストを行っている.爆発の責任者とし ての「技師」の解雇を求めている.所が工場主である「百万長老の息子」の方も,彼なり. に工場再開を拒んでいる.もうすでに彼の意図としての集団声住Siedlungの計画ほ固ま 「書記」はもうすでに全世界がガスを緊急. っている。彼はまず「書記」に相談する。然し, に必要としていること,そして自分は働いて収入を得なければならないこと,そのた捌こ は書記としての仕事しかない,そう述べるだけである。労働者の代表が登場する。カイザ 「技師」の追 ー劇独特の対話が始まる.対話の中から事実の様々な相が浮かび上って来る. 放を求めることと,工場の再開を要求することは全く矛盾したことだということ,労働者 の代表は,復讐心に燃えた労働者を抑えることほできないということ。然し,それでもな.
(4) 34. 井. 本. 飼. お工場主は執扮に労働者の理性に訴える。続いて「技師」も自分の正当性を主張する。人. 間の理性に訴えて正しかったと主張する。工場主もそれを認め,かつ彼に自分のプランを 説明する.「技師」ほ驚き拒絶する.そのプランに加担することほ自分の専門と違うという 理由で。工場主ほ自分が説得力のないことを自覚する。皆を強制することも考える。. ここで第2幕ほ終るのであるが,第1幕と第2幕の関係においてド-ゼン-イマ-の注 意すべき指摘がある。「ここで次のような問題が生ずる。そういう窮極的な認識(集団居住 -至るような認識)をもう多分すでに持っていた「百万長者の息子」が,なぜ労働者達を 利益分配でもって,ますます工場に強くしばりつけていたのか,彼等をいっそう強く目覚 めさせるためであったのか?」6)というのである。. 「百万長者の息子」がガス爆発以前にす. でにある種の決意なり意図を持っていたことが前提となっているのであるが,ここではや. はりドラマの中の言葉である「白き驚き」の方を強調することとしたい。爆発を予言に釆 た男が「白の男」,認識の転換が「白き驚き」である。つまり集団居住に対する意識,科学 的発展一筋に対する工場主の疑惑は,工場爆発を実検として起ったものと考えたい。. 「さ. んご」において百万長老である父の工場をつぶさに見て来た息子の理想の一半が「ガス」 における工場での利益分配となったのである。もちろん父の工場での非人間性,過酷な労. 働条件を見て釆た息子であり,それに対して労働者の人権を主張して来た息子であるから, 工場経営に関して様々の理想を持っていたのであろうし,それがイロニ-であるとか,労. 働者を目覚めさせんがための手段であったとほ考えにくい。. 「百万長者の息子」は「さん. ご」において登場して来た時から一貫して策を弄しない男なのである。爆発が工場主に 「白き驚き」を与えた,彼を目覚めさせたとする方が自然である。 く「ガス」第3幕〉. 「将校」が義父である「百万長老の息子」に借金に来る。賭博で放け,投機に失敗し,譲 り受けた全財産を失って,おまけに退職まで迫られている。義父である工場主は拒否する。 という■よりむしろ自分の集団居住の計画の手助けをしてくれと板む0. 「将校」にはそんな. ことは考えられない。. 続いて直接,戦争を暗示する軍需産業の企業主たる「黒の男達」が登場する。彼等の工 場でも「百万長老の息子」の工場の労働者達を支援してストが行なわれている。. 「黒の男. 達」ほひたすらガスの生産を再開するために「百万長者の息子」の工場の「技師」の解雇. を要求する。そして別の技師を雇って,同じ化学式でガス生産を図ろうとする。ここにお いて再び明らかになる。人間の交換可能性と科学(ここではガス生産のための化学式)の 抽象性,及びそこから来る科学自身の無責任性o それらを観客は「百万長老の息子」と黒 「黒の男達」は最後通牒をつきつけ, の男達」の対話を通じて,くり返し考えさせられる。 それでもガス生産が再開されなかったら,政府に訴えることをほのめかして退場。 「将校」 が登場,サーベルで自害。彼ほ義父の説得にもかかわらず自分を変ええず行き詰まったの である。.
(5) 35. 「ガス三部作」. カイザーと表現主義-(1) く「ガス」第4幕). 労働者の集会場o爆発で肉親を奪われた者達が次々に登壇して,工場での非人間性を訴 える。但し,ここで非人間性と言っても,. 「さん. 「さんご」におけるそれとは少々異なる。. ご」のそれは,言はば自然主義的ドラマがしばしば暴いたような過酷な労働条件であった。 然し,ここではもちろんそれも全く払拭されたわけでほないが,工場での人間が道具と化. してしまっていることが攻撃の主眼である。利益の全労働者-の分配をもってしても解決 できなかった問題であった。それは五体と精神を持って,一つの生涯を生き通すべき一個 の人間が,椀械のしもべとなるが故に,ある老は手として,ある老は足として,又ある老. は目としてのみ存在の意味があり,しかも衰に帰っても生活の時間のない労働者にさせら れているという訴えである。そして最後に,死んだ老が簡単に他の老で置き換えられてし. まうことに対する激しい怒りがぶちまけられるo他工場の労働者も支援に登場.更に工場 主自身すら皆の要求をあおる。労働者達に,全人格たれと叫ぶ。そして新天地への飛躍を 訴える。ここに至って「技師」が登場。彼は労働者達に,工場-帰れと叫ぶ。それほ科学 の発展による人間の発展を信ずる叫びである。前言をひるがえして,自分は責任を取って やめても良いから工場へ帰れ,ガスを作れと叫ぶ。工場主と「技師」の間で,しかも労働 者の面前で火の出るようなやり取りが続く。双方譲らないが,. 「技師」の「君達ほ集団居住. 地でほ農夫になるのだぞ」という一言で,全労働者ほ一団となって決意するo. 「技師」を. 迎えて工場-帰ろう,と。. く「ガス」第5幕). 一人,工場で生産再開を阻止して頑張る工場主.そこへ「官吏」塵場o政治の,ある瞬 間における最高の形態たる軍隊を率いてo工場主は投石で負傷している。いぜんとして労 働者を説得しようとして必死である。然し,戦争のためにガス工場を必要とする官吏は, 政府の全権をもって工場の国営化を宣言する。工場主倒れる。. 「娘」喪服姿で登場。父ほ自. 分の夢見た真の人間の姿を娘に語る。苦しい息の下から求めて止まなかった「新しき人」 への渇望を語る。全くの白紙にすぎなかった娘が,. 「私がその人を生むわ。」と語って幕が. 下りる。その生むべき子の父ほ「将校」である。自分を変ええずに自殺した「将校」であ る。′然し,その子は次の「ガス第ⅠⅠ部」において「百万長者の労働者」となって登場す る。. 次に主な登場人物の人物像を確認しておきたい。. く「首万長者の息子」をめぐる人々〉 ゾ-ケルほ1917-18年頃の表現主義文学,特にドラマにおける特徴として二つのもの を挙げている。. 「これらの作品の二つの最も重要な特徴ほ,主人公の第二の変化,すなわち. 彼を行動老にした目覚めが,不充分であったか又は,間違った方向に向っていたという認 識であり,もう一つは,彼と彼が新しい世界の転回と形成-と導こうとした大衆の問の隔 りの悲しき発見である。」7)というものである。. 「ガス」における「百万長老の息子」の場.
(6) 36. 井. 本. 嫡. 令, 「第一の変化」は「さんご」においてすでに起こっている。. 「百万長老」たる父は大工. 場主であり,週一回慈善事業的に金にあかした施しを行っている。息子は父の考える所の 悪しき汚れた世界とほ全く無縁な,ある海岸の別荘で育てられる。父の理想を託した,文 字通りの純粋培養である。然し,人間がそんな中で育ちうるはずもない。そのうち家を飛 び出して,父の予定によれば豪華船で世界旅行をするはずの所を,貨物船に乗り込んで, そこのボイラーの仕事の離さを見て知る。これを契機として彼ほ次々に働き生きる人々の 様を見て来るo父の知らぬ問のことであったが,ここで彼ほゾ-ケルの言う第一の変化を きたすのである。然し「さんご」の中でほ彼ほあまり重要な役割はしていない。それが次 の「ガス」の出発点になっている。 して語られる。. 「百万長者の息子」の施策は第一幕の「書記」の口を通. 「ここにほ所長なんて老ほいないのです」. いて,そして分配するんです」. 「給料表もありません」. 「我々は働. 「所長ほ他の者より金持ちになりたくないからです。」8)そ. れほ息子の,父の価値観に対する反抗でもあった。搾取の無い社会,施しでなく分配する 「書記」は. 方式,皆が労働者である工場。こういう条件の下で一応最高の力が発揮される。 興奮して語る.. 「石炭や水力は乗り越えられたのです。新しいエネルギーほ,大きな起動力. で百万の機械を動かしています。我々がそれを作っているんです。我々のガスが世界の技 ■術に栄養を与えているんです。-. -我々の仕事の最高の可能性が達成されたのです。」9)最 高の形式で時代の最先端を行くこと-の興奮である。然し,ここでほ「百万長老の息子」 のそういう施策がゾ-ケルにより「社会主義」と善かれていることに注目したい10)。なる. ほど当時としてほ,利益分配-社会主義と取られる状況があったかもしれない。然し,少 くともカイザーはそれをもって社会主義を代表させたわけではなかった。ましてやそれの 失敗を舞台化したわけでもなかった。第3幕に至って「黒の男達」,すなわち軍需産業の エ場主達が「百万長老の息子」にガスの生産再開を強要するが, ている。. 「黒の男達」はこう言っ. 「労働者達に利益の分配にあづからせるという,あなたの恐ろしいやり方であな. たは大きな成果を獲得したんだ-ガスを.だから我々はそのやり方を我慢して釆た. 」11) 「恐ろしいやり方」と言っているのであって,社会 -今や我々はガスを要求するのだ! 主義云々にまでほ至っていない.ゾ-ケルのようにこの作品から「この社会主義ほ20世. 紀の人間の危機に相応しい解決策ではない。この社会主義ほ労働者を資本主義的利益の共 有者にすることによって,現代人の弱体化,非人問化を促進し強化しているのである」12) と読み取るのは,社会主義もこのドラマをも-面化してしまうことになるのでほないだろ うか。 「百万長老の息子」自身にほ,自分ほ労働者であるという意識しかない。. の遺産を渡しながらこう言うo. 「将校」に母方. 「金は積み上げられている限り又失なわれて行くものなの. だ。金の上に打ち立てられた状況なんて不確かなものなのだ。」. しかしこの段階でほまだ,工場の労働者達ほ馬車馬のごとく働き,それで最高の成果を 上げていた。他の工場と違うのほ,利益が全労働者に分配されているということ,つまり それは金の上に打ち立てられた状況に過ぎなかった。 ガスの異常が発見された時「百万長者の息子」は,. 「警報装置ほ働いているだろうか,脱. -.
(7) カイザーと表現主義-(1). 「ガス三部作」. 37. 出の時間はあるだろうか,紀律は守られているだろうか」,と・b配するが,結局数千の死. 者を出してしまう。ここでゾ-ケルの言う主人公の第2の変化が起こるのである。ドラマ でほ「白き驚き」と呼ばれる.. 「色」は「ガス三部作」を通じての常に一つの象徴であるが,. 少くとも「自」が何らかの意味でEnttauschungを示すことほ確かである。失望,落胆, の反面,幻滅,迷いからの目覚めでもある.懸命に働いている所-,人間の生産の営みの. むなしさと,爆発の予言をしに釆た男も「白の男」であった。そういう白き経験をした 「百万長老の息子」であったが,彼の苦悩と行動ほここから始まる。. 彼は爆発が起った時すでに決めていた。ガスの生産を再開しないこと,そのた捌こ労働 者を工場に戻さないこと,そして今までと全く同じメンバーで新しい集団居住地を作るこ とをo. 「書記」ほ彼の計画を理解できない。説得する「百万長老の息子」にもはっきりしたプラ ンがあるわけではない。ドラマの中で具体的な説明は殆んどない。ただ「百万長老の息子」. が「書記」を責める言葉だ桝ま彼の意図をはっきり現している, 手以外はもう麻挿してしまった人間なのか!. 「君は,ものを書くその右. 」13). 次に「技師」を説得にかかる。ここでほ意識の違いはもっと明瞭になる。. 「百万長老の息. 子」にはぜひとも彼の技術が必要なのである。緑の大地に新しい人間の社会を築くのにぜ ひ必要なのである。彼ほ製図机に向ってもスケッチしか措けない。プランを提供するだけ である。然し,技術ほそれを拒否する。それがむずかしすぎるからでほなく,馬鹿馬鹿し. すぎるからである。つまりガスの生産のための化学式を作り,それを維持している彼には 集団居住地建設の技術は自分のあづかり知らぬ所である。然し,それが「百万長老の息 子」にほ理解できない。彼から見れば「技師」の技術,知識が問題なのであって,それが. 今まで実際どのようなことに使われていたかほ,大して問題ではなかったのである。 「百万長老の息子」は借金にやって来た義理の息子である「将校」にまで集団居住の援助 をしろと蘇む。息子が借金が返せなかろうと,そのために退職させられようと,彼には何 の不名誉でもないように思えるのである。 この三人に対する関係を見ただけですでに,. 「百万長老の息子」の意識の一つが明らか. になる。彼には彼のまわりの人間が,ことごとく彼の描くプランの共働者としか見えなく なっているのである。新しい企業のための労働者,搾取すべき対象としての労働者-そ んなものほすでに「ガス」工場の出発点において放棄している所であるが,. -としてで. ほなくあくまで共働者にしようとしているのである。新しい社会での個人の役割以前に,. まず解放された人間同士の結びつきだけが問題となっている。そこには確かに第一次世界 大戦を実機として,戦後むやみと「おお人間よ!」が叫ばれたと,しばしば皮肉をこめて 述べられるような空虚な「人間」に対する叫びが全然なかったとは言えない。特にこの工 場主は「人間」,. 「全人格」を多用する。しかし彼がまず手始めに「書記」,. 「技師」更には. 「将校」も,そして工場の全労働者を共働老に仕立て上げようとした事を指摘しておかな ければならない。 ここでその工場主の父,即ち「さんご」における「百万長老」の人物像について,カイ.
(8) 38. 井. ザ-自身の証言がある。. 本. 駒. 二. 「私の百万長老は力の人間ではありません,冷たい出世主義者で. もありません。私の百万長老ほ暖たかい心,悩める心を持っています。私の百万長老は憶 病者です。彼ほ逃げるのです,. --何からか分りますか?--彼は自分自身の過去から逃げ. るのです。」14)具体的なことに関してはまともな証言の少ないカイザーにしては直接的な 言葉である。その暖たかい心を持ったほずの父が冷たい限りの工場を経営していた。息子 はそれに対して利益の分配という施策は行ないながらもやほり工場の中の疎外された人間. の姿にほ気づかずにいた。爆発を契横に今度は工場の全構成員で全く別の仕事をしようと する。親子そろって独善性は否定できない。父も息子もその点に関しては全く変らないと 言えるo. 「ガス三部作」という社会劇の一面を覆う限界,ないしほ1910年代のカイザー社. 会劇の一面と言えるであろう. 然し, 「百万長老の息子」の,そういう風に共働老を求めることに現われているオプティ. ミズムも忘れてはならない。彼ほ集団居住のプランに対してよりもむしろ,人間そのもの, そういう人間の 誰もが共働老になりうると考えたことにおいてオプティミストであったo 一人として10年代のこのドラマに登場したのであった. でほそういう工場主が工場の労働者に対する時ほどうであったか。彼ほ何より彼等の理 性に訴える。カイザー自身がよく語る理性-の訴えかけである。言葉は確かに直裁で短か い。然し,それほ単なる絶叫でほない。 て聞く耳,考えるべき理性はあるはずだ。 技師の頭ほ極端なことまで計算していたのだ。. 「彼等に言ってくれ一皆全員に!彼等にだっ -あれは人間わざを越えたことだったのだ.. -欠陥ほ向こうからやって来ているん. だ。」15)と言って「技師」を追放するのでほなく,皆を一つに団結させることしか考えな 「君達はこわ い。そして労働に疎外されている労働者達を目覚めさせようと懸命である。 くないのか,自分達を,自分自身を片輪にしてしまったことがこわくないのか?君達奇. 跡の存在よ,君達多面性を持ったものよ,君達人間よ!. 」16)-ここにほ明らかに単なる. 「おお人間よ!」の絶叫を起えたものがある。人間として存在していること,そのことが大 いなる奇跡なのであるo「この百万長老の息子」ほ「さんご」において,船のポイ-ラー室. で熱射病に罷った人間を懸命に救おうとする場面がある。彼にほ独特の人間認識がある。 それほ単なる博愛平等的なものでなく,奇跡の存在としての人間認識である。それほ社会 的にはいわゆる人間の認識であろう。然し,それだけではない。科学の発展に伴う生物学 の発展ほ動物的存在としての人間存在の奇跡,超高度な生物としての人間を捉えつつあっ た。自然主義が科学から利用したものほ遺伝に関するものだけではなかった。. 20世紀ほ. そういう時代として始まったのである。一個の個性ある存在としては一度も顧みられるこ. とのなかった人間,ただ単に多数としてのみ存在して来た大衆,労働者,それに対して 「奇跡の存在」, 「多面性を持ったもの」と呼びかけたのである。そういう意味で捉えて初め て「百万長者の息子」の言う「誰も部分ではないのだ一個々人は共同体の中でこそ完成 するのだ」17)という言葉が生きた意味を持って来るのである。ここに大衆を,最下層の人 々を題材に選びながらも,それに対する同情しか示しえなかった自然主義からの飛躍があ るように思える。但しある種の抽象性の認識においてではあるが。.
(9) カイザーと表現主義-(1). 39. 「ガス三部作」. 「私は最初から. 第4幕において労働者の集会で工場主は,労働者を逆に煽動すらする. ホールにいたのだo. 君達と一緒に叫んでいたので,君達は私だと気づかなかったのだ.. --もっと要求するのだ,もっと。」18)彼にほもはや立場の違いはなくなっているのであ. る。言い尽くすまで言わせることによって彼等に彼等自身の求めている真のものをはっき りさせようとするのである。工場主自身にも分らない意図と手段をほっきりさせようとす. る。改革者なりインテリなりとプロレタリアートの間の分裂がしばしば観念的に,固定的 に措かれたドラマの多い中で,この場面はカイザーの言う「プラトンのドラマ」19)の好例 であろう。 労働者達が「技師」の一言で農夫を嫌って再び工場へ戻ろうとする時に工場主はこう叫 ぶ,. 「どうして君達は又農夫になれると言うんだ一労働者であった後で?一君達の飛躍. が求められているのでほないか-すでにあの農夫を克服し-今や労働者を克服しそして人間を目ざしている-あの飛躍を??一君達を押し進めている使命ほ前に向いて いるのだ一後ろでほないのだ?」19)工場の構成員全体に対する利益の分配以上の,人間 社会,共同社会-の,当時のカイザーの一つのヴィジョンがあるo ここでも具体的なヴィジョンは示されない。労働者を,. 「技師」を,. 「書記」を納得させ. 「百万長老の息子」の意味ほ自分を完成させることで. るだけのプランは示しえない。然し,. はない。その失敗を示すことでほない。彼は遂に彼自身が希求して止まなかった人間には なりえなかった。カイザーの言う,. 「百万長老の息子」の言う「新しき人」にほなりえなか. ったのである。アルミン・アルノルトほ「ガス」を論じた中で,はっきり述べている20)。 新しき人が措かれたとすればそれは「カレーの市民」の中の「ウスターシュ」であるJO具 体的な姿で現われるとしたら,市民全体を救うた捌こ,更にほ他の犠牲者の心を動揺させ ないために白から先んじて犠牲となった「ウスターシュ」なのである,他の老は「新しき 人」を記述するだけである,あれこれと可能性をさし示すだけであるo. 「カレーの市民」で. は一つの結論を,一つの具体的な解決を示したカイザーが,この「ガス」では様々な人々 のヴィジョンをそのまま示したのである。一つの糸をたどった結論に導くドラマの代りに, この「ガス」でほ新しい社会劇の道が用いられたのである。. く「労働者」の場合) ド-ゼン・-イマ-ほ「人は自分の知らないことを欲することはできない」21)という命 題から出発して, -ッベルのDualismnsを用いて人間の悲劇性の根拠としている,少く ともそういう悲劇性がこの「ガス」の労働者の中に現われている,としている。果してそ うであろうか,この作品ほそこに留っているであろうか。 確かにこのドラマの労働者達ほ,未来を見通すことができず,工場主のプランを理解せ ず,現実の非人間性を痛いはど味あわされながら,結局は工場へ,. 「技師」の方へ,つまり. は大爆発以前の状態の中-帰って行こうとするかのように見える.然し,このドラマの示 した「知る」あるいは「知っている」ということは観念的な,固定したものではないとい うことである。工場主は何かを知っており,. 「技師」も又他の何かを知っており,そして労.
(10) 40. 井. 本. 駒. 働者達ほ知らないのだ,という図式はここでほ成り立たない。確かに労働者の代表達が工 場主と会う時,彼等は単なる連絡役にすぎない。労働者を組織することも,ある方向-引 っばって行くこともしない′。しかし工場の労働者自身は働く現場の実情を痛いほど知って 「技師」よりも知っている.工場のストにおいて他の工場でも同調ス. いる.工場主よりも,. トが行なわれ,代表が支援の演説をする場面はこのドラマでも重要なモチーフの一つであ る。その集会で立場の違うそれぞれがしゃべる中で,それぞれが何かを知って行くのであ る。現場の状況を語る労働者も,工場の未来を語る工場主も,論理においてほ対等である。 実践を通して知ることと考えることとが一体となっている.ドラマ技法の上で言う「分析. 的技法」の中に典型的に表われているように,ドラマの進行に従って登場人物に,つまり は観客に一つづつ事の真相が明らかになって行くという,そういう「知らない,知ってい る」と対極を成すものである。新しい意味での一つのリアリズムではないか。行き所のな. い現実を措くだけの狭い.)アリズムから,弁証法的思考に向かわしめる所にカイザーの意 図があるoカイザーはこれを「思考劇」Denkspielと名づけた.改革者たらんとする工場主 と,現実の中にひたって生きているものとしての大衆の間の関係という図式ほ,時代によ り作家により様々に扱われて来た問題であるが,カイザーほそれを決して「知る老」と. 「知らざる者」という観念的分裂の関係として措いてはいない。大衆たる労働者が「知って いる」ことのみから出発する盲目的存在であることを措くことではなく,実践の中で,対 話の中で考えさせ,同時に観客に,読者に考えさせることが意図であったことを忘れては. ならない。例え結局労働者が未来を予見できなかったとしても,. 「百万長者の息子」が人. を納得させるに足る具体的なプランを示しえなかったとしても,それほ時代の限界でもあ. り,観客-の思考要求でもある。労働者達の存在の,いや人間存在の悲劇性を描いたもの でもない。「知る」ということは,優れて実践的なことであるべきであり,弁証法的なこと である。作者は現実に対する嘘を作ってまで未来を措くことをやめてしまった,と同時に, 観念的存在としての動きのとれない現実を措くこともやめてしまった.カイザーの表現主 義社会劇の重要な成果でほないだろうか。一見動きのとれない労働者大衆が,常に考え, 考えられる対象として,思考実験の対象として舞台の上に登場しているのであるo く社会的テーマと開かれた形式〉 例えば,イプセンのドラマはそれ自体一つの問題提起であった。しかもその場合注意し ておかなければならないことは,彼の暴露は,決して市民社会の中に不純物として混在す る,スキャンダラスな,エピソード的な個々の断片を観客に見せつけることでほなかったo 市民社会そのものの持つ問題性を提起したのである。イプセンほこう述べている。. の見るものは,むしろ人間の闘争なのである。そして第5幕が下りることをもって作品が 終るのでほない。其の帰結はその枠の外にあるのだ。作者は,この帰結が求められるべき 方向を暗示したのである。」22)ノラほ家を出ることによって解放されたわけではない.家. を出たノラが解放されるか否か,どのように解放されるか,されうるかが真の帰結であっ て,それは観客の考える所なのである。ドラマの枠の外にあるというわけである。. 「我々.
(11) カイザーと表現主義-(1). 41. 「ガス三部作」. そういう問題提起は既存の合理性の相対化を必要とする。そして,それがドラマとして 現われた時,旧来の演劇的形式とは異った「開かれた形式」を取らざるを得なかった。感 情移入を武器として,観客に一つの完結した世界をまざまざと見せつける,そういう形式 とは全く異った形式である。然し,イプセンの場合,幕が下りた時に其の問題が始まると いう意識はありながらも,なおそれは市民社会的理想という完結した世界の中に踏み留ま っていたのでほないだろうか。 カイザーにおいてほ,どの理想もある種の試行錯誤でしかない。. 「ガス」においても-. 見ユートピアを目ざしているようでいて,具体的にほ何らのユートピアも完結していない。 舞台上に出して見せただけである。しかもそれが観客に,やって見せられているという意 識を充分自覚させるようなやり方で。理想を措くことが困掛こなった時代とも言えるし, 文理想を一つのものとして完結させるた捌こは余りに様々のイデーがカイザーの中にあっ たとも言える。. 完結した世界を断念することから生ずる理想の相対化は,現実を全く対等に様々の角度 ●. ●. ●. から同時に見ることを要求し-文学におけるキュービズムとも呼ばれる-会話は意識. 的に対話の形を取る。カイザーがプラトンから学んだと称しているのもそれである。対話 ほ様々のイデーを対等に扱う優れた方法である。この対話が窮極まで貫ぬかれた時,ドラ マは白から開かれた′ものになる。. 「ガス三部作」いづれもが,旧来の意味での完結性を放棄してしまっている。. 「ガス」に. 「ガス第ⅠⅠ部」における爆発による破滅も,決して. おける国家権力の介入による結末も,. 解決でもなければ,筋の必然的展開の帰結としてのカタストロフィーでもない。あくまで 表面的現実の一つの可能性にすぎない。 ルカ-チほその「運命の転回」28). (1944年)において,アリストテレスによる演劇理論. 以来のPeripethieの概念の意義を強調している。それは特にイプセンにおいて徹底して 用いられた技法であるが,筋の展開において,又歴史の進行において,ある時点において, 今まで人々の現実に存在するにもかかわらず,それと認識されえなかった矛盾がはっきり. と意識されるようになる所がある,ドラマにおいてほこの転回が筋の一大転回をもたらし, カタストロフィーへと至るのであり,運命の転回においては,この時点において大衆に選 択の権利が与えられる,というのである。 然し,カイザーの場合こういう. Peripethieすらも相対化された形でしか現われない。. 各場各場面はそれ自体としての意味しか持っていない。対話ほその場でしか成り立ってい. ない。筋を展開させるのはその対話でなく,否応なしの現実だけである。観客はPeripe・ thieらしきものを感ずると同時に,又次の困乱へと導かれる.. Peripethieをドラマの中. へ形式として織り込むことほ,やはりある種の統一された世界観を必要とするのではない だろうか。. ドラマ中のガス及びガス工場の描写と60年以上を経た今日の何々エネルギーとの符合 を考えた場合,余りの一致に目を疑いたくなる程である。細部の描写に至るまで,昨今の マスコミの報道といかに酷似したものであるかに驚かされる。然し,余りにその類似点に.
(12) 42. 井. 鴫. 本. 日を奪われることは,カイザーのドラマを単なる予言のドラマにしてしまう恐れがあるo 「百万長者」のイメージが,いかにかのアメリカのアンドリュー・カーネギーであろう と24),現実とのつながりを強調することほ,カイザーのヴィジョンをかえって弱めること になる。予言が当ったことが問題なのではない。我々は,カイザーが1910年代の時点で 切り拓いた現実描写の可能性に向けた目をそらせてほならない。. 注 1) 2). Peter. Szondi:. Elise. Dosenheimer:. Scbriften,. Subrkamp. Das. deutsche. Buchgesellschaft. 3). senschaftliche Walter H・ Sokel: Verlag. 4) 5). Georg. 6) 7) 8). 2) 3). Miincben Kaiser:. Der. Verlag. 1978,. soziale Darmstadt. literarische. S. 77.. Drama. Lessing. von. 1967,. bis. Sternheim,. WisI. S・ 249.. Expressionismus,. Albert. Langen. ・. Georg. M丘Iler. 1970. Werke,. Propylaen. Verlag. 1971,. Breloer,. Georg. Bd・. 2 S・ 15・. (以下G.. G.W.Bd.2.S.14.. W.と略す). S.261. S.235.. G.W.Bd.2S.ll,12.. 9) G.W.Bd.2S.12. 10) 7) S.236. ll) G.W.Bd.2,S.36. 12) 7) S.236. 13) G.W.Bd.2,S.24. 14). Hans. Georg. Liidke. Richter:. Verlag. 15). G.W.Bd.2,S.22.. 16) 17). G.W.. 18) 19). G・W・Bd・2,S.. 20) 21). Armin. 22). Henrik. 23) 24). Georg. Heinrich. Hamburg. 1977,. S.. Kaisers. Drama. ttKoralle",. Hartmut. 229による.. Bd.2,S.23.. G・W.Bd.2,S.26. 45,S.46.. G.W.Bd.2,S.50. Arnold:. Die. Literatur. des. Expressionismus,. Kohlhammer. 2) S.262.. 14). Ibsen: Lnkacs:. S.229による.. Werke. 2. Bde. M缶nchen. 1900,. II. S, 27.. Verlag. 1971,. S. 120..
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