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Vol.68 , No.2(2020)081堀内 俊郎「ヴィマラミトラ・アティシャvs. ディグナーガ――『般若心経注』における結集者の認識根拠性をめぐる議論――」

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Academic year: 2021

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全文

(1)

ヴィマラミトラ・アティシャ

vs.

ディグナーガ

―『般若心経注』における結集者の認識根拠性をめぐる議論―

堀 内 俊 郎

はじめに

ヴィマラミトラ(Vimalamitra, 以下,無垢友) は,『般若心経注』 (以下PHT)におい て,名前は出さないものの,結集者の認識根拠性に関するディグナーガ(Dignāga, 以下,陣那)の『八千頌般若要義』(以下『要義』)3,4偈を不完全な形で引用する. そしてその陣那説を,2つの観点から批判する.ところで,PHTに対する複注的 性格を有するアティシャの『般若心経釈』にも同様の議論が敷衍された形で見い だされるが,第1の観点からの批判は従来十分に解明されてきたとは言い難い. そこには一点,テクスト上の問題があるように思われるのである.そこで,本稿 では,アティシャがその注のよりどころとしたところの無垢友のPHTと,PHTに 密接に関連する無垢友の『七百頌般若』に対する注釈 (SPT) を精査することによっ て,当該箇所を読解したい.さらにジュニャーニャヴァジュラ(以下,智金剛)の 『楞伽経』注釈(Jv)が無垢友の上記の議論を引用し,今度はそれを批判している ことを指摘し,その論争の展開を追いたい. 1

.アティシャの議論―無垢友

vs.

陣那―

1.1. 経典の科文 無垢友は,『心経』を,8つの科文でもって注釈する1).そのなか,経文の「如 是我聞」が,第一番目の科文の「導入」に相当する.他方,アティシャによれば, 陣那は,(1)経典が生ずる原因と,(2)経典本体という風に,経典の意味を別様 に解釈している.その中の(1)は導入(=如是我聞)と因縁(一時薄伽梵住…)に分 けられる.因縁はさらに共通の因縁と特殊な因縁に分けられる.そのなか共通の 因縁とはすべての経典に共通して説かれる因縁であり,(1)時,(2)教主,(3)住 所,(4)会衆の4つを指す.

(2)

1.2. 結集者の認識根拠性 ア テ ィ シ ャ は 以 上 を 指 摘 し た の ち, 陣 那 の『要 義』 か ら「śraddhāvatāṃ pravṛttyaṅgaṃ」で始まる著名な第3,第4偈を引用し,少しコメントを加える. 偈は,要するに,結集者(saṃgīti-kartṛ/kāra)は,信ある者たちの〔経典への〕活動 要件として,自身が認識根拠(量,pramāṇa)であること(≒自分の報告が正しいとい うこと)を示すために,教主・証人たる会衆・時・場所という4点を明示するの だ,という内容のものである.続いて以下のようにある. ここで無垢友によってそれが否定されている.自己の流儀を明らかにするに際して,〔無 垢友は〕最初に批判する.それ(陣那説)について,2つの過失がある.(1)不可能(mi nus pa)であることと,(2)証人とならないことである.そのなか,(1)不可能とは,その 目的を果たせないことである.今,随信行の者(śraddhānusārin)たちが活動(参入)する 必要支分として,〔結集者〕自身が認識根拠たる人であることを証明するために,それが 述べられた〔のだと陣那はいう〕. 〔その場合,〕証人の必要性は,さらに,のちにそれ(de=結集者が認識根拠たること)に 対して疑いなどが生じた時に(瞬間に),彼(de=証人)に会うこと2)である.しかし,そ のようであれば,神通(ṛddhi)と通慧(abhijñā)を得た者たちが、経典の意味を確定する

ことは不可能となろう(dpang po i dgos pa yang phyis de la the tshom za ba la sogs pa byung tsam na/ de la thug pa yin la/ de ltar na rdzu phrul dang mngon par shes pa thob pa rnams kyis mdo i don gtan la bebs pa mi srid par gyur te/).すなわち,(a)ある証人は涅槃しており(死去してお

り),(b)ある〔証人〕は別の場所(世界)3)に住している〔からである〕.それはまた,(中 略)というあり方によってである.一方,(c)ある〔証人〕はここ(この世)に住してい ても〔我々には〕見る能力(分際,skal ba)がない.大 葉などのように.(『般若心経釈』 D 313b6–314a2, P 334a3–334a7) 続きは省いたが,ここにはアティシャの理解する限りでの,無垢友の陣那批判の まとめと,無垢友による結集者の認識根拠性の論拠が提示されている.まとめる と,結集者が認識根拠となるのは, 陣那:〔共通の〕因縁=教主・会衆・場所・時を述べることによる. 無垢友:「如是我聞」(実際は後述のように「如是evam」)と述べることによる. ということである.しかし,上記の下線部が難解あるいは意味不明瞭であり,い くつかの見解が提示されてきた4).以下では無垢友の議論を吟味することによっ て本個所を再検討したい. 2

.無垢友の議論

無垢友のPHTは,「如是」という語に重要な意味を見出す.詳細は別稿5)に譲

(3)

るが,PHTによれば,「如是(我聞)」というのが,結集者の認識根拠性を示す語 である. 他方,PHTにおける陣那批判は,8つの科文のうちの3番目である「説法に値 遇する(値する)集会者」を解説する中で,同偈を不完全な形(偈ではなく散文で, また,2偈からいくつかの句をつまんで1偈分相当のみ)引用したのち,以下のように 展開される.

(1) yul de dag tu song zhing dpang rnams la dri na ni de nus pa med pa rnams kyis mdo i don gtan la dbab pa thag ring bar gyur ro// (2) yang ji ltar mdo sde di bzhin du gang du khor gyi ming ma bstan pa der (der] PT; de D) ji ltar dpang zhes brjod par bya/ (PHT, D 268b7–269a1, P 287b3–5, T56)

(1) それらの(=経典が説かれた)場所に行って,証人たちに聞く〔ことで結集者が認 識根拠であることが証明される というので〕あれば,それ(de=経典が説かれた場所に 行って証人に尋ねること)が不可能な者たちが経典の意味を確定することは遠く離れてい る(=不可能)〔ではないか〕.(2)さらに,この経典のように,聴衆の名前を示さないよ うな〔経典,〕そこにおいて,どうして 証人 と言われようか. Lopez氏が指摘したように7)SPTに類似議論がある.そして,それとの対比に よってその内容が明瞭となる8)

di ltar (1) yul thog thag tu song zhing dpang la dri bar bya na ni der gro mi nus pa rnams kyis mdo sde i don gtan la dbab pa ring du thogs par gyur ro// (2) gang du khor gyi ming ma bstan pa der yang su la dri bar bya/ (SPT, D 10b2–3, P 13b4–5)

というのは,(1)あらゆる(あれこれのthog thag)場所に行って証人に聞かねばならない

のであれば,そこに行くことが出来ない者たちが経典の意味を決択することは遠く妨げら

れよう.(2)会衆の名前を示さないようなところ(経典),そこにおいても,誰に聞くべき

なのか.

PHTの(1)の「de nus pa」はSPTではder gro mi nus paとある.とすれば,PHT

のdeは,経典の説かれた場所(=証人のいる場所)に行くことを指そう.ただ, PHTの文脈からは,経典が説かれた場所に行って証人たちに聞くこと,と読め る.PHTのその前の dri na niは難解であるが,SPTにはdri bar bya na ni(聞くべき

なのであれば)とある.すなわち,それらの場所に行って証人たちに聞かねばなら ないならば=聞かなければ経典の真実性が保証されないならば,という意味であ ろう.かくして,無垢友の陣那批判のポイントは以下の通りであろう.(1)証人 として聴衆の名前を挙げることが,結集者が自身を認識根拠であると証明するた めの一要素であると陣那は述べている.その際,証人の役目は証言することであ る.しかし,その証人のところに訪ねて証言を得ることができない者によっては

(4)

経典の意味は確定されない.なお,(2)は明瞭である. 3

.アティシャの議論の再考察

以上を踏まえたうえでアティシャの当該箇所を再度見てみよう.アティシャが SPTを見ていたかどうかは不明であるのでカッコに入れる.

Atiśa: (de ltar na) rdzu phrul dang mngon par shes pa thob pa rnams kyis mdo i don gtan la bebs pa mi srid par gyur te/

PHT: de nus pa med pa rnams kyis mdo i don gtan la dbab pa thag ring bar gyur ro//

(SPT: der gro mi nus pa rnams kyis mdo sde i don gtan la dbab pa ring du thogs par gyur ro//) 構文の類似性からいってアティシャのテクストはPHTのパラフレーズの可能 性が高い.そして,その場合,内容的に見れば,アティシャのテクストにはma が欠落していると想定されよう.すなわち,de nus pa med pa rnams kyis=der gro mi nus pa rnams kyis = rdzu phrul dang mngon par shes pa 〈ma〉 thob pa rnams kyisであ る.神通や通慧を得て〈いない〉者たちは,証人のもとへと神通力でもって訪ね ていき,経典が実際に説かれたのかどうかということを聞きただすことができな い,ということである.なお,このようなmaの欠落,あるいは逆に余計な否定 辞の挿入は,諸文献においてしばしばみられることである9) ただ,アティシャの文は gyur te/とあとにつながる形になっている.そして, 続いて,般涅槃していたり別の場所(世界)にいるような証人に会うことはでき ないと述べられている.とすれば,アティシャとPHTの議論には少しずれがあ るように思われる.すなわち,SPTは,経典が説かれた場所に行くことができな い者たちは,云々と理解し,PHTはSPTと同様に,あるいは,経典が説かれた 場所に行って証人に聞くことができない者たちは,云々と理解している.他方, アティシャは,経典が説かれた場所に行くことができても,証人がすでにその場 にいない場合,神通力を持っていない者たちは,云々,と理解しているようであ る.アティシャは〔当時〕経典の説かれた場所と〔今現在〕証人のいる場所にず れを見ているのであろう10).そしてそれは,PHTdeがあいまいであり,「経典 が説かれた場所に行くこと」ではなく「証人に尋ねること」を指すとアティシャ が理解したことによるのであろう. PHT: 経典が説かれた場所に行って証人たちに聞くことができない者たちは経典 の意味を確定できない.(もしくはSPTと同じ理解)

(5)

SPT: 経典が説かれた場所に行くことができない者たちは経典の意味を確定でき ない. アティシャ:〔経典が説かれた場所に行くことができても,〕神通力を持っていな い者たちは,もはやこの世にいない証人を訪ね・尋ねて,経典の意味を確定でき ない. 4

.智金剛の無垢友批判

従来指摘されていないが智金剛の『楞伽経』注釈(Jv)は,上記の無垢友の陣 那批判に言及する.そして,Jvは陣那側に加担し,無垢友を批判する11).議論 の流れは省くが,以下ではその一部を取り上げ,上記の訂正の補足ともしたい. (II) yang ma ongs pa i gdul bya mngon par shes pa thob pa rnams kyis (kyi P) ni dpang po i khor

rnams la dri bar yang nus pas nyes pa i go skabs ga la yod ces pa o// (Jv, D 6a6–7, P 7a7–8)

(II)さらに,通慧を得たところの未来の所化たちは,証人である会衆たちに聞くことも可 能であるのであるから,過失の余地がどうしてあろうか,ということである. 本稿第3節での筆者の訂正によれば,アティシャは,無垢友説を,神通や通慧を 得ていない(〈ma〉thob pa)者たちは,経典の意味を確定することができない,と 理解していたということであった.とすれば,それに対する有効な再反論は,な らば〔神通や〕通慧を得た(thob pa)者たちは,経典の意味を確定することがで きる,というものであり,これがまさにJvにみられる.Jvがアティシャを参照 していたかどうかは不明である.通慧への言及は特殊なものではなくこの文脈で の注釈では登場して不思議ではないものであるので,Jvは無垢友への直接的な 反論とみてもよい.いずれにせよこの再批判は筋の通ったものであると同時に, 筆者によるアティシャのテクスト訂正への傍証ともなろう.なお,無垢友が再度 反論するとすれば, それでは万人が確定できるということにはならないではな いか とでもなろうか. 1)堀内 2019a参照.

2)de la thug pa: 難解.Lopez氏は「彼に会うこと」と理解する.望月氏は「それに至る」 と訳しており,証人の目的・必要性が出来するという意味での理解か.あとの句との関 連からLopez氏と同じ線で読んでおく. 3)(c)の di naとの対比で考えれば,この世における別の場所ではなく,別の世界を指 すのであろう. 4)Lopez 1996, 22; 2009, 87. 5)以上,堀内 2019a; 2019b参照.

(6)

6)堀内 2019a, 176. 7)Lopez 1996, 22. ただし当該箇所の翻訳は筆者とは異なる. 8)なお,紙幅の関係で詳細は省くが,PHT(D 280a5–7, P 301b5–7, T31–32)とSPT(D 84a4–5, P 105a2–3)の一節に基づき,SPT>PHTという著作の順序が想定しうる. 9)一例のみ挙げると,アティシャの『菩提道灯細注』はある個所で『菩 律儀二十頌細 注』を引用しているが,宮崎(2017, 860, note 9; 863)は,文脈ならびにその引用元との 対比によって,アティシャのテクストではDPとも欠いているところのmaを補って理

解している(ldog pa yin pa>ldog pa ma yin pa.両論書の書誌は同論文を参照).誤伝の経

緯を考えれば,pa maと類似語が続くことによる一方の脱落であろう.

10)SPTのderを経典が説かれた場所yulではなく証人dpangを指すものとする解釈も考え

たがそうではないであろう. 11)Jv, D 5b6ff, P 6b6ff.

〈略号及び一次文献〉

Jv: Jñānavajra, *ĀryaLaṅkāvatāra-nāma-mahāyānasūtravṛtti tathāgatahṛdayālaṁkāra-nāma. D no. 4019,

P no. 5520.   PHT: Vimalamitra (tr. Vimalamitra, Nam mkha , Ye shes snying po), Phags pa shes

rab kyi pha rol tu phyin pa i snying po i rgya cher bshad pa (*ĀryaPrajñāpāramitāhṛdayaṭīkā). D no. 3818, P no. 5217, T (TBRC Core Text Collection 7, TBRC Resource ID: W23159(https://www.tbrc. org/#!rid=W23159).   SPT: Vimalamitra (tr. φ), Phags pa shes rab kyi pha rol tu phyin pa bdun

brgya pa i rgya cher grel pa (*ĀryaSaptaśatikāprajñāpāramitāṭīkā). D no. 3814 (ma 6b1–89a7), P no. 5214.   『般若心経釈』: アティシャ(Atiśa), *Prajñāpāramitāhṛdayavyākhyā, D no. 3823, P

no. 5222.   『要義』:Dignāga, Prajñāpāramitāpiṇḍārthasaṃgraha. Frauwallner 1959を参照. 〈二次文献〉

永 2010『心经内义与究竟义』华夏出版社.  堀内俊郎 2019a「インドにおける『般

若心経』注釈文献の研究 ―ヴィマラミトラ注(1)―」『東洋学研究』56: 165–195.   

― 2019b「ゴク・ロデンシェーラプ著『 般若心〔経〕の広大注 の解説』校訂テクス

トと訳注」Bulletin of the International Institute for Buddhist Studies 2, 107–140.   宮崎

泉 2017「Atiśaの如来蔵思想―その典拠と大中―」『印度学仏教学研究』65(2): 865–

858.   望月海慧 2016「アティシャ般若心経解説」渡辺章悟・高橋尚夫編『般若心経

釈集成』インド・チベット編,起心書房,203–225.   Lopez, Donald S. 1996. Elaborations on Emptiness: Uses of the Heart Sutra. Princeton: Princeton University Press.   Frauwallner, Er-ich. 1959. Dignāga, sein Werk und seine Entwicklung. Wiener Zeitschrift für die Kunde Süd- und

Os-tasiens 3: 83–164.

(中国博士后科学基金の研究成果の一部.)

〈キーワード〉 結集者,『般若心経』,『楞伽経』,智金剛

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