第 次大戦直後の日本労働組合研究
内
藤
員
。
ヂ B
﹁大正元年友愛会の創立は︑最近労働運動の序幕である︒而して大正八年以後に於て︑漸く本舞台に入って来た﹂
とは︑それまで舞台の主役を一人でつとめてきた﹁友愛会﹂の生みの続︑鈴木文治の一一言葉である︒大正一冗年﹁会員十
五名︑会費合計七十五銭﹂で出発した友愛会は︑六年の創立五週年大会時で︑﹁正会員総数二万七千名﹂という大組
織に発展はしていたが︑鈴木文治がみずから認めているように︑七年までは﹁創業時代﹂に過ぎなかった︒その他の
組合としては労働組合の古い伝統を有する活版印刷工の組合である﹁信友会﹂がぼそぼそと僅かに存するのみであっ
た︒統計上は確かに各年次とも僅かではあるが労働組合は結成されたことになっている︒大正年代に入つての年次別
組合設立数は一元年五︑二年六︑三年六︑四年四︑五年二ニ︑六年一四というように示され︑この数字は多くの著書に
引用されているが︑この数字自体に信頼もおけなければ︑その大部分の実態も暖昧であり︑不明である︒そして︑空
前の規模で展開された全国的な﹁米騒動﹂で著名な大正七年には一一の組合が結成されたことになっているが︑
﹁ 大
第一
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戦直
後の
日本
労働
組合
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四
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戦直
後の
日本
労働
組合
研究
四
正昭和の時代に活躍した労働組合は︑友愛会と信友会とを除いて︑すべて大正八年もしくはその以後に生れたもので
ある﹂とすれば︑七年を入れても厳密に労働組合の名に値するものは友愛会と信友会の僅か二組合に過ぎなかったの
であ
る︒
このようなそれまでの労働組合のいわば不毛時代に対し︑大正八年には労働組合が多数族出した︒すなわち︑八年
には一挙に七一の組合が結成されたのである︒そして九年には六六︑十年には七一と組合は多数結成され︑とこに鈴
木文治のいう﹁本舞台﹂が展開することとなった︒その後︑合同︑分裂あるいは解散︑自然消滅の転変はあったにし
ても︑それ以後の日本の労働組合運動に多彩な光沢と陰影を多かれ少かれ与えるとととなった労働組合は︑既存の友
愛会︑信友会を除けば︑多くこれらの年の産物である︒それは明治年代の労働組合運動の創生以来かつてない壮観で
あっ
た︒
明治年代の労働政策を極めて鮮明に特徴づけるものは︑いうまでもなく三十三年制定の治安警察法の存在である︒
この立法の出現が明治三十年代の労働組合を短命に終わらせたばかりでなく︑労働者の自主的組織の令︑法的余地を奪
うことによって︑明治末期の労働運動に極めて特異な性格を与え︑遂に労働運動は弾圧下に窒息し︑その空白時代が
現出したことは周知のとおりである︒明治コ一十年代の先駆的労働組合は既存の社会秩序には極めて同調的であったと
いってよいが︑それが自主的組織である限り︑日本の労使関係の規格からはみでる異質物であった︒もちろん︑大正
元年には鈴木文治の努力によヮて友愛会が誕生したが︑当面労働組合の機能という点からすれば︑その実質的意義は
乏しかったといわざるをえない︒鈴木文治が友愛会の責任者として東奔西走した苦労の有様は︑その著﹃労働運動二
十年﹄に詳しいが︑﹁創業時代﹂には︑組織の整理も︑組合運営の機構も確立しておらず︑後に彼が﹁独裁者﹂と非
難されたように﹁法学士﹂鈴木文治の個人的リーダーシップが組合内を指揮統制し︑又そとに対しての交渉力を意味
したに過ぎなかった︒大衆運動としては多く空白であったというべきである︒
乙の労働組合の空白︑不毛時代に対し︑八年以降初めて大衆的基盤にたった労働運動が展開した︒乙れは先に述べ
た労働組合の族出やまた労働争議の激増によって知られるところである︒しかも︑この大衆運動の特徴は単に量的増
大ばかりではなく︑八年における友愛会の性格の著るしい変化を表徴する第七周年大会の大会宣言に見られるように
﹁生産者が完全に教養を受け得る社会組織と︑生活の安定と︑自己の境遇に対する支配権を要求﹂したとするなら
ば︑それは現在秩序に対する明白な不満と非難の表明であり︑既に世界史的課題への明白な目的意識をもった大衆運
動に転化したことが︑とくに銘記されなくてはならない︒
(1 )
( 2 )
鈴木
文治
﹃労
働運
動三
十年
﹄(
昭和
六年
五月
)︑
一七
一頁
︒
赤松
克麿
﹃日
本社
会運
動史
﹄(
昭和
二十
四年
九月
︑通
信教
育振
興会
版)
︑
一八
三頁
︒
こうした労働運動の昂揚は︑第一次大戦にともなう日本資本主義の飛躍的発展によって︑その前提条件を与えられ
ていたところである︒大戦による日本経済の熱狂的な活況から労働力需要は急速に増大した︒大正三年末に﹁職工五
人以上を使用する工場﹂はその数﹁三万一千余︑職工九十四万﹂に過ぎなかったが︑大戦が未曽有の好況をもたらし
産業が膨脹した結果︑大正八年には﹁工場四万三千余︑職工百六十一万﹂となった︒大正三年をそれぞれ一
OO
とすれぽ八年には工場二二九︑職工一七
O
と増大したのである︒しかも指数で工場二二九の増加率に対し職工数が一七O
とより著るしい増加率を示したこと浪︑一工場当りの職工数の増大を意味し︑労働者の大規模工場への集中もこの間
の特徴であった︒また鉱業の繁忙にともなう鉱山労働者も大正三年当時二十九万が八年には四十六万に達した︒こう
第一
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組合
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四 四
してみれば大正三年の工場鉱山労働者総数一三四万は大戦を通じて八年には二百万を越えるほど激増したのである︒
たかだか五ヶ年間に︑実に五
O%
の急増である︒資本の飛躍的発展に対応した賃労働の蓄積もまた急激であった︒労働力需要のこうした急増から︑労働市場における需給のバランスは被れ︑労働力は著る
L
く不足した︒大正王年に既に﹁職工の供給漸く払底を告けむとしつつあり﹂といった﹃工場監叔百年報﹄は︑六年には﹁時局の好影響に悶り
各地方に各種工業勃興し︑既設工場の拡張新規工場の増設及各種副業の発達等に依り職工の需要一層激増し︑為に各
種工業を通し前年に比すれば著しく職工の欠乏を告げつつあり日と述べるに至った︒そして︑﹁職工の不足は延て各
種工業に職工争奪を演出せしかは工業主は自衛上職工の待遇を改善し︑職工移動の制禦に腐心しつつあるも多く﹂に
よって知られるとすれば︑労働市場の条件は労働者側に全く有利であったといわなくてはならない︒とくに﹁職工の
不足は船舶及機械製造業並製糸劫績織物の各業に於て最も著しく:::殊に一般に女工及熟練工の払底を告くるは一層
甚しとす﹂といわれた職種の場合は︑なお一層そうである︒
各種産業の新規労働力の圧倒的部分が農村から供給されたことは各積の統計の一部すところであるが︑農家経済の好
転が農家労働力の賃労働化阻止の要因として作用したことは忘れてはなるまい︒とりわけ農村婦女子に依存するとこ
ろ多かった製糸件前巌織物等の繊維工業ではその生産拡大によって労働力の調達に苦慮し︑女主払肢の結果﹁募集費用
及前貸金一般に増嵩し︑二重契約を為すもの亦砂しとせ七︺)という事態となった︒しかも︑六年に﹁職工の父兄は前
貸金の多寡に依りて諾否を決するの有様﹂)であったから︑七年八年と前貸金は各年倍増し︑こうした募集競争は募集
費を昂騰せしめたばかりでなく︑コ一重契約﹂という結果を生み︑このため訴訟沙汰さえ生じたと当時の﹃工場監督
年報﹄は記している︒
以上で女子労働力不足の有様は知ることができるが︑こ乙ではそれ自体を一部すととが目的ではない︒突はこうした
状態が︑女工の就業保護を目的とした自主的供給統轄組織を生んだことを示したかったのである︒大正五年以降発生
し︑当初その例は少なく地域も限られているが︑いわゆる﹁女土供給組合﹂がそれである︒﹁何れも出稼工女其父兄
を以て組合員とし︑役員は組合員の選挙によって就任する組織となっている自主的組合であり︑団結の力によって雇
傭契約上に於げる女工の不利なる地位を高めて一毘傭主と対等の地位に於て契約をなし得る様になさんとする古川に於
て︑
労働
組合
的色
影を
有し
一一
いたとすれば︑さまざまの制約を附されながらも女工供給組合とは労働市場における︒
γ
自主的団体取引の組織がその本質であったといえる︒
A m
出稼ぎ労働w v
が賃労働の型であるとすれば︑女工供給組合はその型にそのまま即応した自主的組織であり︑労働市場での機能は労働組合といって差支えない︒久しい問︑募集人
の﹁
甘一
言﹂
﹁誘拐﹂など自由募集の手に委ねられていた女子労働力の給源に︑こうした自主的団体取引の組織が誕生
した
こと
は︑
正しく前に見たような労働市場の条件があって初めて可能であったと解すべきであり︑労働市場の活況
が労働者の自主的組織化の気運を醸成したといってよいであろち︒
とくに﹁欧洲の大戦は本邦の工業界に未曽有の好影響を奔し︑各種の機械工業は俄に段賑の状を呈し︑就中兵器船
舶機械類の製作業は其の発展の程度最顕者にして非常なる好況を呈するに至れり﹂といわれるように︑その活況は機
械︑船舶車輔︑器具︑金属品製造のいわゆる機械器具工業において最も著るしかった︒こうした重工業部門の比重増
大は男子労働者の急敢な増加をもたらし︑女子労働者は前述のように繊維産業の勝候から絶対数を増大しながらも︑
相対的にその比重を低下する結果となった︒それまで圧倒的に女子労働者の比重が高かった労働力構成は︑この時期
に男性化が促進されたのである︒ここにも労働運動昂揚の主体的条件が与えられるが︑この機械器具工業ではとりわ
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組合
研究
四五
第一次大戦直後の日本労働組合研究
四六
け熟錬工不足という事情は深刻であった︒
当時の一調査は熟練工︑経験工の払底とその争奪を次のように述べている︒
大戦勃発以来六年までの︽新設︾の﹁機械及器具工場一一於ケル募集職工五万二千二十七人ノ内同種工業ノ二万四千三百四十七
人ニシテ(四割六分強)︑他種工業ヨリ転シタル一二千五百三十六人ヲ加フルトキハ二万七千八百八十三人ニシテ約五割強ハ既設
(8 )
工場ヨリ移動セルコトヲ示シ熟練職工吸収一一一腐心セル/状推思スルエ余アり﹂
こうしたことから﹁長崎県に於ては造船工場に於ける熟練工を誘拐する為大阪兵庫地方より募集者侵入し為に争奪
戦を現出せり﹂という事態が生じ︑この工場監督年報で指摘された事実を︑金属機械工の当時民間最大のプ]ルであ
った三菱長崎造船所で徴すれば﹁大正七年度に於て造船業は空前の盛大繁忙を極め職工の関西方面に争奪せらるるも
の益々多く︑本年度中解傭したるもの六千三百三十四名︑億ひ入れたるもの五千五百九十一名に上り︑年度末在籍者
は一万三千八百名を計上し前年度に比して七百四十三名を減少せりL)という結果となったのである︒金属機械工は単
に量のみでなくその質が問題とされる所から熟練工︑経験工の争奪を極めて激しいものとしたが︑労働市場のこのよ
うな条件は次のような例をさえ可能とした︒
﹁(大正六年)六月中高知県下一一於テ二造船所職工六十名カ賃銀値上要求ヲ為シ所主ヨリ之ヲ組絶セラルルヤ相率ヒテ向堕罷業
シ続テ神戸市ニ転絞スルニ至リシハ先是兵庫県下ヨリ高給ヲ支給スルヲ条件ニテ職工募集者来県観誘セシコトアル為ナリト言
(U )
フL
右の例の教えることは︑いずれにしろ彼らの賃銀は結果的に上昇したというこをどであり︑移動がそれを可能にした
ということである︒とくに後述するように経済の活況から物価騰貴が生じておれば︑こうした市場の条件下におかれ
た労働者が賃上げ要求をするのは当然であり︑労働移動の可能性が存在するということは最善の取引をするための最
「時局後新設工場賃金表
J (
註〕時 局 前 時 局 後 増 騰 率
工 業 種 類 別
塁 王 ! 喜 主 催 年 長 賃男工金
I
賃女工金I
幼賃年工金 塁王│塁王i
芸年長染 織 工 場 46銭 27 17 55 32 20 1.95 1.85 1. 76 機械及器具工場 62 27 21 86 33 27 3.87 2.22 2.86 化 学 工 場 49 25 18 57 31 22 1.63 2.40 2.22 飲 食 物 工 場 50 25 19 59 33 21 1. 80 3.20 1. 05 雑 工 場 61 27 20 68 33 22 1.15 2.22 1.00 特 別 工 場 67 25 21 74 31 30 1.04 2.40 1.11 平 均 56 26 20 67 32 24 1. 96 2. 30 2.00
(弟 1表〉
第一次犬戦直後の日本労働組合研究
出典l土農商務省『時局ノ工場及職工ニ及ホシタル影響j18頁。 (註)
「時局後、新設、拡張機械器具工場賃金表J(釦
時 局 日官 時 局 後
種 類 別
賃
男 工金
I
女賃 工金1 :
賃幼年工金 男工賃金│女工賃金│幼年工賃金 機 械 製 造 業 61 31 18 78(2.79)1 30(0.32)1 24(3.33) 船 舶 車 輸 業 69 30 23 119(7.29) 39(3.00) 35(5.22) 器 具 業 60 27 23 72(2.00) 30(1.11) 23 金 属 品 業 61 22 18 73(1. 97) 32(4.55) 24(3.30) 平 均 62 27 21 86(3.87) 33(2.22) 27(2.86)(第2表)
機 械 製 造 業 61 31 18 82(3.44) 35(1.29) 25(3.89) 船 舶 車 車 両 業 69 30 23 112(6.23) 36(2.00) 35(3.04) 器 具 業 60 27 23 80(3.33) 37(3.70) 27(1. 74) 金 属 品 製 造 業 61 22 18 80(3.11) 35(5.91) 26(4.44) 平 均 62 27 21 89(4.35) 36(3.33) 27(2.86)
上段が新設、下段が拡張工場。出典it前表に同じ。 20頁、 38頁 から作成。
四 (註)
七
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後の
日本
労働
組合
研究
四 八
も強力な武器であった︒こうして職工争奪の激しさは彼らに賃銀上昇のチャンスを与えた︒前記の三菱長崎造船所の
例で示すならば︑六年現在で﹁職工争奪日を追うて激しく当所も亦其余波を受け未曽有の異動を見るに至れり︑労働
者の払底︑物価の騰貴ば従て賃銀の苦しき騰貴を来ぜりサどいうこととなって︑とくにブ]ムの激しかった造船業な
どでは﹁職工成金﹂景気が到来したのである︒次に︑他の諸部門に比して﹁機械及器具工場﹂の賃銀増騰率がいかに
高かったかを第一表で一示し︑更に﹁機械及器具工場﹂のうち︑とくに﹁船舶車輔製造業﹂の賃銀増騰の傑出している
様を第二表で示すが︑造船職工の﹁職工成金﹂ブームを如実に知りえよう︒
ここ
で筆
著は
︑
かつて経験したことのない労働市場の条件が︑かつて経験したことのない﹁職工成金﹂を生んだこ
とを指摘したい︒経済的活況は労働力を売るに際して最善の取引を可能ならしめる条件を与えたのである︒無智︑無
自覚と形容された女子労働者についてさえ︑その就業保護の自主的組織が出現したことは先に見たとおりであるが︑
成人男子労働者であり熟練労働者である金属機械工の場合は︑一般論として遥かに高い水準で最善の取引の手段とし
て自主的団結を可能とする条件が熟したと見ることができる︒
これまで第一次大戦と労働運動の勃輿が説かれる際には︑次に述べるところの大戦中における物価騰貴にもとづく
経済的窮迫にその最大の要因を求めるのが通例であった︒しかし︑労働者の組識的運動である労働組合や労働争議は
労働力の団体取引の問題であるならば︑労働市場的視点こそ第一義的に取上げられるべきである︒従って︑筆者は︑
労働運動興起の条件は︑大戦による資本の繁栄と︑それがもたらした労働市場の条件の急激な変化によって第一義的
に与えられたと解したい︒
右に述べたような事情から︑それまで各年五十件前後に過ぎなかった同盟罷業ば大正五年には一
O
八件
と倍
増し
︑
六年には三九八件という激増を示した︒これらは例外なしに賃銀増額を主要目的としていた︒こうした同盟罷業の急
増は端的に労使関係の動揺とその進行を示すものである︒そこで労働問題を何よりも治安問題とする内務省警保局は
久しく絶えてなかった労働争議報告書﹃労働争議概況︑大
E
六年﹄を出すこととなるが︑同盟罷業の激増について率直に次のように述べている︒
﹁時
局以
来物
価殊
一一
生活
必需
品ノ
価格
暴騰
ヲ来
セル
ニ比
シテ
賃銀
ノ増
率之
一一
伴ハ
ス一
般労
働者
カ戦
前ニ
比シ
漸次
生活
上困
難ノ
皮ヲ
増シ
Fル
コト
ハ掩
ブヘ
カラ
サル
事実
一一
シテ
中流
以下
国民
ノ生
計困
難ニ
陥レ
ル状
態ハ
戦後
四箇
年中
大正
六年
度一
一於
テ其
ノ傾
向
最モ
顕著
ナル
ヲ見
ル而
シテ
一方
資本
主側
殊一
一多
数ノ
職工
︑坑
夫等
ヲ傭
使ス
ル大
規模
ノ鉱
山︑
工場
一一
於テ
ハ戦
争ノ
影響
一一
因ル
利潤
(時 )
頗ル
大ニ
シテ
随テ
巨富
ヲ致
シタ
ル資
本家
ノ増
加セ
シコ
トモ
亦大
正六
年ヲ
以テ
異例
トス
ヘジ
﹂
前述したように大戦景気がかつて経験したことのない﹁職工成金﹂を生み︑賃銀が一般的に騰貴したことは事実で
あるが︑物価の騰貴率は賃銀の上昇率を遥かに上廻り︑労働者階級の生活難という事情をもたらしたのである︒しか
も右の引用の後段に指摘されているように戦時景気は一方で﹁巨富ヲ致シタル資本家﹂いわゆる﹁成金Lを生み︑従
ってそれが労働者階級の窮迫感を相対的に深めることとなったのである︒
そして︑警保局が六年のこうした事態に対し﹁更‑一思ヲ戦後経済界ノ変転一一伴フ労働社会ノ動揺‑一致サハ淘ユ寒心
一一堪ヘサルモノアリ﹂と述べた警告的予言は︑治安当局の最も恐れる形態をとった翌七年夏の﹁米騒動﹂という形で
間もなく適中した︒七年八月に富山県の一角で突如起った騒動は︑契機として見れば一部の買占資本に対する窮民の
無組織︑無計画的反抗である限り偶発的であったといえるが︑これがまたたくまに全国的に波及し︑五百に近い個所
で暴動が行われ︑全国で六千一一一百余人の収監者を出した空前の米騒動となったことは︑大戦中の物価騰貴に伴なう生
活不安がいかに深刻であったかを示すものにほかならなかった︒こうした事情は︑次にかかげる大正三年から八年に
第一
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労働
組合
研究
四 九
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労働
組合
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。
五至る期間の物価及び賃銀指数の対比一覧表によって最も直載に証明することができる︒
年次別物価、賃銀指数、
( 第
3表
) 同盟罷業件数一覧表情〉
大 大 大 正 大 大 大 治明 年 正 正 正 正 正 八 七 六 五 四 三 三十 年 年 午 年 年 年 年 次
一 一 一 一 一 一 一
需
九 七 九 三 一 二
0 0 要
四 七 一 六 七 六
一 一 一 一 一 一 米 七 八 七
0 0
九 回O O
二
0 0
八O
! 対 五 三 二 一 一 一 一 綿
0
一 六 二0 ‑ 0
六 八 八 九 三 九
O
総一 一 一 一 一 一 一 賃銀 六
O
六 四 三 四O t
百 七 七 八 六 九 一0
数ム ム ム
価較差ム 二 七 二 一 二 一
七
O
二O
二 五O
超過物は四 三 一 件盟同 一 九
O
六 五数業龍 七 八 八 四
0 1
すなわち︑右の表によれば三年から五年までは物価指数よりも賃銀指数が高率を示しているが︑六年には逆転し︑
(註
)
内部
省警
保局
﹃大
正八
年︑
労働
争議
の概
況﹄
一四
︑五
頁か
ら採
録︒
七年には物価指数二七七に対し賃銀指数は二
O
七にとどまり︑両者の較差は七O
の大きさに達して︑賃銀は物価騰貴の割合に蓬かに及ばなかった︒とくに八年には生活必需品である米︑衣料価格の騰貴率が激しく︑物価と賃銀のパラ
ンスは破壊された︒そして︑賃銀増額を主要目的とする同盟罷業の件数は七年には四一七件︑八年には四九七件とほ
ぽ五百件に達する空前の記録をつくることとなった︒
争議
の概
況﹄
そこで︑七年に全国的な米騒動を経験し︑八年に同盟罷業がほぼ五百件に達したとき︑警保局は﹃大正八年︑労働
のな
かで
︑
﹁企業家の戦時的利得は巨万の富を致し騎奪を極むのさへあるに労働者の飢に位くをも顧み
ず両者疎隔背離し反感嫉視の呆実を結び遂に富の分配の不公平と利益の独占を難じて争議の一凶を為し一日と確言す
るに歪った
c
ここで警保局の言葉が︑同盟罷業
H
労働争議の原因を単に物価と賃銀とのアンパラ
γ
スによる生活不安
といってないことに深甚の注意を払う要がある︒
つまり問題は︑春修的浪費を誇示した﹁成金﹂に対して︑労働者階 級が相対的に窮迫感を探め︑その社会的不満を増大させたところにあるということである︒
こうした理解は︑戦時景気がもたらした階級分化の促進に対する反応を指摘する意味で重要であり︑とりわけ彼ら が現存秩序そのものに対して不満を表明したという場合︑その心理的動因を形成したものとして一層重要となってく ( る
﹀1
( 2 ) ( 3 )
農商
務省
﹃工
場監
訳百
年報
(第
A一
回)
︑大
正六
年﹄
︑ (4
﹀
(5
﹀前
掲︑
一四
頁︒
(6 )
中央職業紹介事務局司女工供給(保護)組合調査﹄(昭和三年一月)︑五頁︒女工供給組合の組織及び機能の詳細は本書
を見よ︒第一次大戦を契機とした賃労働の淑増と農家労働力の賃労働化については渡辺信一﹃日本農村人口論い(昭和十三年瓦月﹀のすぐれた研究がある︒
(7
﹀農商務省工務局﹃主要工業概覧﹄
頁 ︒
(8
)
(9
﹀
(M
﹀
( 日 )
(ロ
) (お )
( M H )
一 二 一 頁
︒
(大正十一年十月三滝本︑向井編﹃臼木農業資料大系﹄
(昭
和二
年)
︑第
七巻
︑五
︑六
農商務省商工局﹃時局ノ工場及職工ニ及ホシタル影響﹄
前出
︑﹃
工場
監督
年報
﹄︑
一四
頁︒
一一
一菱
造船
株式
会社
長崎
造船
所﹃
一一
一菱
長崎
造船
所史
ω
﹄内務省警保局司大正六年︑労働争議概況﹄︑七頁︒前出
︑﹃
一一
一菱
長崎
造船
所史
﹄︑
二六
回頁
︒ 内務省警保局﹃大正六年︑労働争議概況﹄︑五頁c
内務省警保局﹃大正八年︑労働争議の概況﹄︑一五頁︒
(大
正八
年三
月)
︑
一五
頁︒
(昭
和三
年五
月﹀
︑二
七七
︑八
頁︒
第一次大戦直後の日本労働組合研究
五
第一
次大
戦直
後の
日本
労働
組合
研究
五
以上は総じて労働運動勃興の主体的条件の成立に関してこれは明らかにしたのであるが︑更にこの間においてとく
に指摘しておかなければならないことは︑八年春に政府が労働組合について﹁目然ノ発達三委ス﹂という態度を表明
した
こと
であ
る︒
政府から救済事業調査会に諮問した﹁資本労働調和施設﹂に対し︑八年初頭に答申された第一項は﹁労働組合ハ其
自然ノ発達一一委スコト﹂であった︒救済事莱調査会こそは︑六年の同盟龍業の増大に表徴される労使関係の動揺から
﹁労働問題ハ今日経済界ニ於ケル緊要ナル社会事項ノ一トシテ之カ討究ハ須奥モ荷且ニ附スヘカラサル﹂という政府
の治安対策的立場から七年六月につくられた政府の諮問機関であるだけに︑右の答申は今日的課題に対する権威ある
判断ということができよう︒
しかし︑この答申が労働組合の存在そのものに肯定的態度をとりながら治安警察法第十七条の存在に言及しなかっ
たのは大きな矛盾である︒この答申が労働組合を﹁自然ノ発達一一委ス﹂と述べたことは︑治警法第十七条を適用して
極力組合を圧迫するか︑きた反対に労働組合法のいわゆる解放立法を制定してその発展を助成するか︑というこ者択
一的な態度を避けながら︑斑成の労働組合︑これから結成される労働組合に対し助成もしなければ圧迫もしないとい
う態度の表明である︒そうであるとすれば︑労働組合の成立を阻止する治警法第十七条の存在をそのままにしておく
ことは明らかに手おちである︑といわなければならない︒
従って︑この答申をうけて﹁労働組合は政府としては之を促進するの要もなく又現行法にも認められても居らぬ故
自然の発達に委せ置し日﹀と議会答弁した床次内相がその矛盾をせめられ︑そして衆議院で治警法第十七条中の﹁誘惑
若ハ煽動﹂の文字を削除する改正案が議員から提案されたのは誠にもっともなことであった︒この提案者は遥か後年
に衆議院議長となった小山松寿外二名である︒彼は︑もとも左地主︑小作の聞で生れた温情主義で労使闘係を律しょ
うとすることは極めて幼稚な考え方であり︑これを﹁大工業組織の所に適用せんとするのは痴人の夢﹂ξ
断 一
一 一
一 ロ
︑ 労
働
者の自覚︑権利思想の発達した今日︑労働者の﹁自衛団体の組織及組合﹂の設立を妨げることは﹁工業の進歩を害ふ
もの﹂だといって︑かかる立場から殊更に疑義の多い﹁誘惑若ハ煽動﹂の文字の削除を主張した︒彼のこうした主張
日︑この法律があるため﹁労働者の正当︑ の根拠は︑要約すれば﹁漸次其団結の組織的となり而して平穏に自己の権利を主張すると去う様になっている﹂今
穏健なる主張の陳述が不可能となり﹂︑それがかえって同盟罷業を激化さ
せる
3という判断である︒
この判断は当然に労働組合の公認までを含意することになるが︑このような見解がたえ野党的発言であったにして
も憲政会という資本家政党の立場で公然と主張されたことは性目ずべきである︒結局彼の提案は斥けられるが︑
し か
しこの際︑床次内相が治警法第十七条は労働運動の﹁不正手段﹂を禁止するものであって︑﹁穏健なる労働団体の成
立は之を阻害するものに非ずと認む﹂と言明したことは︑治警法第十七条の運用解釈に限定を与え︑労働組合の自然
放任を一歩すすめた形で保障することを一目したということができる︒
それにしても労働組合の自然放任と治警法第十七条との基本的矛盾は最終的に解決しない︒とくに労働組合の自然
放任と労働組合の公認とは全く別箇の問題である︒だから先の小山松寿の主張が含意したように︑労働組合の自然放
任という態度の表明は団体交渉権争議権をめぐって当然に労働組合の法的承認という問題を日渥にのぼせることとな
第一次大戦直後の日本労働組合研究
五
第一次大戦直後の日本労働組合研究五回
りて︑八年秋以降労働組合法案論議が大きく展開するのである︒
(1) (
2) 右 大原社会問題研究所円日本労働年鑑︑大正九年版﹄︑一一二ハ頁︒
に同
じ︒
この八年春における国会での政府及び野党要人の労働組合論議は必ずしも共通の理解に達したわけではない︒床次
向け相が労働組合の是認的態度を表明したといっても︑それは﹁阻害﹂をしないという表現からも知られるとおり︑全
く余儀なくそういったに過ぎない︒また小山議員に代表される憲政会も︑その主張は鮮明であり︑更にこの年十月に
発表された憲政会の﹁労働組合法案﹂も解放立法として劃期的であたつが︑憲政会日民政党のその後の労働組合に対
する態度を見れば多分に野党的発一言であったことは免れない︒このことは銘記しておく必要がある︒しかし︑こうし
た制限や限界が数々あったにしても︑いま国会壇上で一市された一応の是認の公的態度の表明から︑それまで労働大衆
が政治的権威に対する信頼と従属感によって自らの行動半径を狭めていたとすれば︑又その政治的権威による解放を・
殊更に感じた︑といってよいであろう︒ただし︑こうした議会論議が果してどれだけ労働組合の結成を刺戟したか︑
とくに﹁自然ノ発達ニ委ス﹂という床次内相の言明が労働組合の族出をどれだけ促進したかを霞接判断できる資料は
ない︒議会論議の影響を評価できるとすれば︑それは僅かに︑八年におげる殆ど一挙的といえる労働組合の撲出が春
の国会での労働組合論議のあった以降の時期に集中していること︑その一事からである︒
しかし︑労働組合の族出に関していえば︑こうした国会の抽象論議よりも︑八年後半における経済的活況の再来の
なかで︑かつて小山松寿議員が主張したような︑
﹁労
働者
の正
当︑
穏健なる主張の陳述が不可能﹂な状態がかえって
労使対立の激化を招来しているという判断が︑個々の資本家達にとっても悟られたことの指摘がより重要である︒組
織化された労働者の﹁主張の陳述﹂という問題について︑これまで資本家側が一様に極めて消極的態度であったが︑
八年後半に事情ば一変している︒この点に関して︑今日われわれが争議統計として依拠する殆ど唯一のものといって
よい官庁調査報告が︑それまでの労働争議件数として常に同盟罷業件数をかかげていたのに対し︑大正八年には争議
に 件 示 数 放 を 的 初
で め
あ て
る。)大
T二
別 し
﹁同
盟罷
業﹂
と﹁同盟罷業ニ至ラザル争議!一に分けてその件数を示すに至ったのは︑まこと
これまで数字を挙げて大正六年を契機に労働争議が激増したことを示したが︑これまで挙げてきた数字は八年を含
めて争議一般ではなく︑争議の一形態である同量罷業リストライキの件数であった︒官庁統計における争議件数は明
治以未大正七年まで常に罷業件数としてのみ示されているのである︒このことは争議イコール罷業であったことを意
味するが︑そうした把握の仕方を︑争議手段の一般的なものが同盟罷業であるからとか︑とくにまた同盟罷業が治安
当局として最も好ましくない状態であるが故に専らこれを集中的に取扱ったという取締官庁の立場や好みにもとづく
と解釈すべきではない︒明治以来大正七年まで争議件数が同盟罷業件数のみで表示され︑八年には
﹁同
盟罷
業﹂
と
﹁同盟罷業‑一至ラザル争議﹂件数の二本建になったのは︑正しくそれぞれが労使関係の実態を反映したものと解され
同盟罷業件数が飛躍的に増加した大正六年の場合︑一二九六件にのぼる同盟罷業は︑その犬部分が合理的組織をもた る ︒
ない未組織労働者によっておこなわれたものである︒そこで労働者の聞に何らかの不満や要求が生じた場合︑﹁彼等ハ
殆ト各自業務一一精励セス鉱山工場ノ内外一二五伍々相寄リテ密議ヲ凝ラシ更一一進ムテ多数集合ヲ催シテ要求事項ヲ決
定シ交渉委員等ヲ選定シテ口頭文ハ書面ヲ以テ資本主側ニ該要求事項ヲ提議スル:・
:j
i‑
‑‑
而シテ此ノ要求条項ノ申
第一
次大
戦直
後の
日本
労働
組合
研究
五五
第一
次大
戦直
後の
日本
労働
組合
研究
五六
込ト同時一一示威的罷業ヲナスモノト其ノ回答ノ彼等ニ有利ナルモノナキヲ見テ不満ノ結果罷業スルモノトニ岐ルル﹂
という形で展開されることになるが︑ここで特徴的なことは﹁此ノ要求条項ノ申込ト同時‑一示威的罷業ヲナス﹂こと
であ
る︒
もともとフォーマルな労働者組織が欠如しているのであるから︑労務の条件が一括交渉によってはかられるという
労使の慣行は存しない︒そこで統一された集団的意志を相手方に納得させるために︑先ず相手方を交渉に応じさせる
ことが必要である︒しかし相手はその結束の切崩しでこそ対処すれ︑この団体交渉には容易に応じないcそうだとす
れば争議は最初から同盟罷業日ストライキを以てするよりほかに方法はない︒近代社会のストライキがそれまで行わ
れてきた団体交渉の不調︑決裂の場合にのみ生じるのに対
L
︑ここでは団体交渉を確保すること自体のためにストライキを必要としたのである︒このことはウエてフの﹁同盟罷業が︑永続的団結の存する産業に於けるよりも︑労働組
合なくして集合取引を実行ぜし産業に於いて︑遥かに多数であったことは︑簡単なる歴史上の事実である﹂との一言葉
にも散することができる︒従って︑統計的には同盟罷業一件としてそれぞれ計上されながらも︑実は単なる団体交渉
を意図したに過ぎない例が多く︑これはユ日若ハ二日ニテ落差復業スルモノ最多ク﹂の一言にも徴されるところであ
る ︒
つまり︑団体交渉と罷業とは互いに不可分の関係にありながら︑本来あるはずの団体実渉を全く抜きにして同盟
罷業に入ることが特色であり︑これは要するに労働者の組識的恒常的団結を是認しないという前提に立たされた場合
の労働争議の在り方であった︑といってよいであろう︒しかも︑こうした争議は団体交渉が何等行われないで突如罷
業が始まる点では︑いわゆる﹁抜打スト﹂と現象的に類似するが︑今日使われる﹁抜打スト﹂は団体交渉のル1
ルが
確立しておりながらそれをしないで突如ストが始まり︑むしろ争議権の濫用という意味までを含む概念であると解さ
れるので明かに区別しておく必要がある︒
小山松寿議員が治警法第十七条の存在が労働組合の結成を妨げ︑それがかえって同盟罷業を激化せしめるといった
のは︑正にこのことであった︒だから七年までの争議は専ら同盟罷業という形をとらざるをえなかりたし︑争議統計
も罷業件数としてのみ表示されることになったのである︒しかるに︑八年の場合は﹁同盟罷業﹂件数は前述のとおり
四九六件が表示されているほかに︑
﹁同
盟罷
業一
一至
ラザ
ル争
議﹂
として一︑八九一件が表示され︑﹁罷業の程度に至
らずして事業主に対し団結的要求を為したに止まるものは従来と離も全く之無きに非ざりしも本年六月以来忽ちして
(4 )
急激なる増加率を表し﹂た結果であるならば︑八年後半以降争議に大きな変化があったといわざるをえない︒
この春の小山議員の発言は資本家的立場からの判断としてそういったのであるが︑この際労働組合も趣旨において
全く同様の発言をしていることは注目される︒たとえば八年八月に組合の承認と時間短縮︑賃上げを要求してストラ
イキに入った東京砲兵工廠従業員の組織である小石川労働会は﹁我闘には労働組合無きため労働者の意思表示を為す
( 5)
ベく直にストライキに出づるも住々成功するに吾々白らも往々成功するは吾々自らも甚正遺憾とする所なり﹂と︑決議
している︒これは労働組合の承認︑とくに法的承認が欠如しているため団体交渉の慣行がなく︑好むと好まざるとに
かか
わら
ず︑
﹁労働者の意思表示を為すべく宜ちにストライキに出づる﹂結果となり︑かくしてストライキが激発さ
れているという見解である︒たとえ表現は皮肉ないいまわしをしているが︑このときのストライキ即解雇という高価
な犠牲を考えるならば︑﹁労働者の意思表示を為すべく直にストライキに出づる﹂ことは組合にとっても好むことで
はなく︑従って団体交惨と呼ばれる形での﹁労働者の意思表示﹂の機会を認めろという主張である︒この皮肉たっぷ
りな主張を倹つまでもなく︑これは資本家的立場にたっ小山議員によって既に主張されていたところである︒両者の
第一
次大
戦直
後の
日本
労働
組合
研究
五七
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後の
日本
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組合
研究
五八
発言の動機は全︿違っていても︑労働者組織との何らかの交渉が同盟罷業という事態を回避できる残された唯一の道
であるとする点で一致している︒そうだとすれば︑労使関係の安定化のため資本家側も労働者組織の徹底的否認の態
度は許きれなくなったと解される︒そして︑先に指摘した労働争議における顕者な変化とは︑こうした結果であると
見倣すことができる︒
﹁同盟罷莱一一至ラザル争議﹂の激増に示された変化ば︑労働者の集団的意思表示が乙れ‑申出で同盟罷業を不可避的な
らしめていたことからすれば︑ことの成否はともかく︑又その交渉が単なる陳情︑嘆願の域にとどまったにしても︑
だからそれを団体交渉と呼ぼうが︑また単なる意思疎通と呼ぼうが︑とにかく労働者の集団的組織を相手方とする交
渉の路線が広く労使聞に登場したといってよいであろう︒
勿論︑だからといって︑金莱が自主的労働者組織を殊更に歓迎する理由はどこにも存じない︒むしろ︑こうした事
態に立ちいたった資本家側は︑この時期に企業の手によって意思疎通機関としての工場委員会を積極酌に登場させる
のである︒しかし︑たとえ労務管理のための一翼をになう御用的組織にせよ︑企業が労働組合の代替物を組織しなけ
ればならなかったことは︑大量他し集固化した労働者との意思疎通の必要が意識されたことを証明して余りあること
である︒要するに︑ここでは︑最早︑フォーマルなものにしろ︑インフォーマルなものにしろ︑労働者の集団を無視
しては労使関係の安定は期し難くなったということであり︑労働者組織を相手方とする何らかの形での一括交渉の必
要が意識されたこと︑そのことを強く指摘しておかなくてはならない︒
(1)
ここ
では
内務
省警
保局
﹃大
正八
年︑
労働
争議
の概
況﹄
で争
議件
数が
二本
だて
で示
され
てい
るこ
とを
指し
てい
る︒
明治
三十
年以
来︑
労働
争議
件数
は常
に同
盟罷
業の
み表
示さ
れて
きた
︒明
治三
十年
から
大正
七年
に至
る期
間の
労働
争議
統計
につ
いて
は労
働運
動史
料委
員会
﹃日
本労
働運
動史
料︑
第十
巻︑
統計
鴛﹄
四四
O
一 良 のr経
説を
参照
せよ
︒
(2
)
(3
)
(4
)
(5
)
内務
省︑
前掲
﹃大
正六
年︑
概況
﹄︑
一一
一一
一良
︒
巧白ぴ
σ ‑
H
口広広田仲吋円巳U0
50
0門
担口
司邦
訳︑
一一
五七
頁︒
内務
省︑
前掲
﹃大
正八
年︑
概況
﹄︑
二三
頁︒
大原
︑前
掲︑
八二
頁︒
原文
のま
さ引
用︒
ところで︑どのような形をとるにしろ集固化した労働者との意思疎通の必要が意識されたということは︑労働者の
自主的な組織的運動が昂揚したからにほかならない︒だから前述したように企業は労働組合の代替物としての工場委
員会制度の創設を急ぐのであるが︑その乙とからすれば︑自主的労働者組織に対ずる企業の抑圧的態度は一貫してい
る︒従って︑労働者の自主的運動が品揚すればするほど︑一方では労働組合の法的承認に関してその組織と指導をめ
ぐって労働組合法案論議が華やかともなれぽ︑他方では官製御用組織の組織化が現実の急務となり︑工場委員会制度
の畏聞となったことは︑それぞれ前にふれたとおりである︒約言すれば︑労働運動の昂揚は労働者の自主的団結を阻
止するための積極的施策を考意せしめる乙ととなったのであるQこの最たるものが工場委員会制度であるが︑ここで
はこの程の労使協調制度の前提となるべき施策を示そう︒
我が国の労使関係が﹁主従的情誼関係﹂といわれ︑それが﹁我国ノ美風﹂と強調されてきたが︑これは資本家の自
分違に刻する物的精神的配慮の期待にもとづく労働者の信頼感を基礎として成りたつものであった︒その配慮をスト
ライキに関連づけると大正六年の争議に関して﹁資本主側ニ於一アモ中ニハ解決後罷業期間中ノ賃金ノ全部若ハ其幾部
ヲ支給シテ放済セシモノアリ﹂という事実が指摘されていることは誠に注目に値する︒との事実が警保局によって指
摘されたのは︑それがやはり原則的には奇怪な現象と目されたからにほかならない︒
もともと恒常的な労働者組織を欠如しながら突如として始められた同盟罷業であるから︑あらかじめ計画された斗
第一次大戦直後の白不労働組合研究
五九
第一
次大
戦直
後の
日本
労働
組合
研究
六
O
争資金日ストライキ資金の蓄積があるわけがない︒ストライキとは労働力の﹁壱り控え﹂であり︑その結果当然に賃
銀は失われるが︑それを補償するストライキ資金がなければ︑労働者はストライキ期間中の生活が困難とならざるを
えない︒これが結局ストヲイキを極めて短期に︑しかも不満足な形で終らざるをえない最大の通由である︒従って︑
交渉力もまた極めて乏しいといわざるをえないが︑それはともかく︑いずれにしろ資本家側は一たびストライキ解決
の暁には︑罷業期間中の﹁失われた賃銀﹂を補償するというのである︒
﹁失
われ
た賃
銀﹂
の補償は︑本来労働者自身
の相互連帯によって自主的になされ︑そうすることが労働者の交渉力を強化する所以であるにもかかわらず︑全く逆
な形で賃銀補償がなされるわけである︒
この賃銀補償を︑労働者が突渉の結果︑︿戦利品
V
としてかちとったと解する理由は殆ど存しない︒それほど争議団は強力なものではなかったであろう︒そうだとすれば︑これはストライキという形をとって現象した不安定な労使
関係を︑改めて賃銀を補償する形で物的精神的な配慮をすることによって安定︑確立しようとする資本家側の努力の
現われである︒そうした回慮を温情主義と呼ぶなら︑端的には正にその温情主義を以てする自主的運動の切崩し策に
ほか
なら
ない
︒
つまり︑温情主義という概念は上下の身分的関係の上に初めて成立するものであるから︑自主的団結
を禁止する代り企業がその生活保障について責伝を︑どることである︒この典型はこれまたとの時期に大企業に一斉に
開花した福利施設に見られるところである︒従って︑スト中の賃銀補償は実は自主的団結禁止の取引代償なのであ
る︒しかも︑それを提供する資本家も自然であれば︑それによって温情的︑より強めていいば慈恵的﹁荻済﹂をうけ
る労働者も全く自然であるところに問題の根の︑深さがある︒この際とくにどこにも自主的団結の禁止をうたってない
所に︑かえってこの種の酎躍の作用と効果が期待できたというべきであるう︒
こうしたストライキ期間中の﹁失われた賃銀﹂の補償が経営者によっていつから始められたかつまびらかではない
が︑これはその後も一貫して根強く見られた現象であり︑従って先に述べた労働者の払底に伴なう単なる足留策と解
ずることはできない︒その本質は労使関係を飽くまで情誼関係と規定しようとする日本の労使関係のうちにあり︑そ
の特産物なのである0・
近代的労働関係とは本来身分的な序列の関係ではないが︑このように温情主義を以て律し︑それに有効性をもたせ
ょうとすることはあるべき労使関係が主従的な身分秩序関係と考えられていた︑といってよいであろう︒ストライキ
解決後その参加者に賃銀を補償し︑彼らを救済しようとしたことは︑温情主義に藷口して行なった企業内身分秩序の
快復と確立のための方便であった︒
しかるに八年になると︑大正一刀年以来の友愛会は大日本労働総同盟友愛会と改称︑階級的性格を露わにし︑既に五
万余の組合員と全国で百五十余の支部を擁するに至り︑更に新組合も七十有余結成されるが︑このような自主的労働
者組織がとくに企業の枠を越えた横断的組織である場合︑労使関係を主従的身分関係で律することは困難とならざる
をえない︒そこで又次の極めて注目すべき事実が生じた︒
八年には労働組合の候出から組合干与の争議が生じることとなったことは︑容易に想像される︒そこで︑警保局史
料は﹁罷業の方法亦漸く組織的となり殊に工場を異にする同種職工聞に協同動作︑として聯合的休業又は合同的運動の
行ばることとなりたるは実に注目に値する新一傾向︺であると述べている︒これまでも友愛会が指導した争議がなかっ
たわけではないが︑その争議の規模が企業の枠を越え︑他の企業労働者との共同斗争を組んだ例はない︒また明治以
来いわゆる著名争議も少なくないが︑その殆ど全部があらかじめ合理的組織をもっていなかったところから︑当然に
第一
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臼本
労働
組合
研究
ム
ノ
、
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日本
労働
組合
研究
ノ
ム、
横の聯合組織もなく︑又それを基礎とした共同争議の姿をとることもなかったのである︒しかるに横断的労働組合が
公然化したため︑ここに初めて企業の枠を越えた労働者の連帯意識と連帯組織を基礎とした共通の目的に対する統一
斗争が展開され︑これは﹁実に注目に値する新傾向﹂だったのである︒
このこと自体は︑労働組合が利害を共通にする連帯組ー織である限り︑これは労働組合の出現がもたらした新現象で
あり︑敢えて異とするに足りない︒しかし︑ここで警保局が﹁実に注目に値する新傾向﹂という場合︑殊更にそのも
った意味は重大だったと解される︒そこで取締官庁の態度として極めて注目をひくことは︑当該工場の従業員のみに
よっておこされた争議と︑企業の枠を越えた労働者組織が横断的団結としておこした争議とでは︑大きな相違があっ
たことである︒このことについて︑我が国最初の労働年鑑である大原社会問題研究所司日本労働年鑑︑大正八年﹄
(大正九年版)は︑次のように述べている︒
﹁治
安警
察法
の正
直な
解釈
から
せば
何も
争議
の交
渉委
員が
其工
場の
労働
者で
ある
と否
とを
聞は
︑す
︑総
て同
盟罷
業な
どに
際し
て
他人
を誘
惑し
た者
は全
部処
罰さ
るべ
きで
ある
︒然
るに
何故
か政
府は
一工
場内
の労
働者
のみ
が其
一雇
主に
対し
て争
議会
﹂起
した
場合
は
(8 )
之を
罰す
る事
少く
して
︑其
工場
以外
の者
に之
が参
加し
た時
には
厳責
に検
挙す
る方
針を
採っ
た﹂
この間の具体的事実については稜に述べるつもりであるが︑これは要するに横断的勢力が労使関係に介在すること
は好ましくないという国家権力の判断を直接に示すものである︒これは近代社会の階級対立を未然に防止し︑体制維
持のためにとったすぐれて政治的な処置であることは一見して明瞭であるが︑問題はこうした治安維持的立場から労
使関係の在り方そのものが直接に規定されることである︒
例証を侠つまでもなく︑企業の立場からすれば︑外部勢力によって当該企業の従業員が﹁誘惑︑煽動﹂されるとと
を好まないのは当然である︒当該企業従業員のみの団結であれば︑その主謀者を解雇し差別待遇することもでき︑
﹁それ故労働者から観れば余程止むに止まれぬ事情がなければ自ら交渉委員などになる者なく︑其待遇が悪くとも辛
抱する事がある︒然るに其工場の労働者以外の者が交渉委員となって居るときは工場主は主謀者を物色し得ぬから其
工場の労働者は精神的苦痛を感ずる事甚だ勘く︑頗る有利に争議をつづけ得る﹂としたら︑この横断的勢力は資本家
的立場から第一義的に排除されねばならなかったことはいうまでもない︒しかも︑資本家の一切の自由な活動を許し
ながら︑労使関係への国家権力の介入の仕方が労働者の組織の横断的結成を阻止するのであれば︑これは労使関係も
また企業内部の﹁縦﹂の上下的な身分序列の関係として維持きるべきだといち態度の表胡である︒このことは広くい
えば︑天皇制を頂点とする日本国家の社会秩序はそうした原則で律すべきであるという体制維持の秩序にほかならな
いが︑こうした限り︑労働組合運動はいかに﹁自然放任﹂といったところで︑最早企業の枠を越えことは困難が伴な
うこととなり︑労働組合の企業内定着化は国家権力を憤秤として推進されるといわざるをえない︒
労働組合の﹁自然放任﹂が言明されながら︑企業の枠を越えた労働者の横断的団結が乙と更に禁庄の対象となった
事実は︑その後の労使関係の展開に関連して注目しておかなければならない︒
(1
﹀
(2 )
(3
﹀
(4
﹀
内務
省︑
前掲
︑﹃
大正
六年
︑概
況﹄
︑一
主頁
︒
内務
省︑
前掲
︑﹃
大正
八年
︑概
況﹄
︑四
頁︒
大原
︑前
掲︑
四頁
︒ 右に同じG
第一
次ム
人戦
直後
の日
本労
働組
合研
究
ム ノ ¥
第一次犬戦直後の日本労働組合研究
六四
大正八年に一挙に七一の組合が族出したことは前に示したが︑次にその主要なものを示す︒大正十四年に出版され
た日本労働総同盟出版部︑産業労働調査所共編﹃労働年鑑︑大正十四年﹄によれば︑これが第一輯であるため明治初
期以来の日本労働運動史を概観し︑そこで﹁躍進時代﹂と題した節で﹁大正八年は︑我国労働運動史上に於て︑重大
なる一期を劃した年である︒数年来臨醸された気運が此年に表てに遁出し︑最近の労働運動の発展の第一歩を成した
のであっむ﹂と述べ︑﹁同年に於て族出した労働組合の重なるものを芋ぐればしといって以下の組合を列挙している
ので︑この際客観性をもたせるためにそれを引用する︒
小石川労働会(七月創立︑東京砲兵工廠の職士)
大進
会(
九月
創立
︑博
文館
印刷
工が
中心
﹀
交通労働組合(八月創立︑東京市電従業員)
労働同盟会(四月創立︑精工会職工)
大日本鉱山労働同盟会︿九月創立︑足尾銅山︑釜石鉱山の鉱夫)
全国坑夫組合技友会(十一月創立︑東京芝浦製作所の一部職工)正進会(四月東京市内十五大新聞社活版印刷工を以て﹃革新会﹄を組識したが︑八月の総同盟罷工に失敗し︑
月に
再建
)
工人会(十月創立︑築地海軍造兵廠職工)
砲兵工廠向上会(九月創立︑大阪砲兵工廠職工)大阪鉄工組合(五月創立)
一時
解散
し︑
十二
新進会(大阪住友伸銅所職工)
神戸印刷工組合(十月創立)
西陣織友会(西陣織物職工)
京都印友会(十一月創立)
呉市労働組合(十月創立︑呉海軍工廠職工が中心)
広島印刷工親友会(九月創立)
坑夫協会(八月創立︑九州粕谷炭田方面の坑夫)
日本労友会(十月創立︑八幡製鉄所の職工)
八幡製鉄所同志会(同製鉄所役付職工)
ここに列挙された組合は全部で二
O
ある︒丸括孤のなかの簡単な註も理解に役立つので︑すべて出典を再現した︒八年に結成された七一の組合中︑この二
O
組合が主要組合という場合︑一体何を選択の基準にしたかを出典は明らかにしていないが︑出典の編者が日本労働総同盟という労働組合の当事者それ自体の立場からして︑自主的労働者組織
として何らかの日本労働運動に効果と影響を与えたものと判断され︑形式を重んずる官庁報告よりもより実質的な選
択と考えられる︒従って挙げられた組合は全体の一一一分の一にも足りないが︑一応これを八年に結成された組合の代表
的存在と見倣して差支えない︒
きて︑この二
O
組合を一応の手がかりとして考える場合︑その名称のみで分類を試みることは甚だ困難であり且つ危険であるが︑これを労働組合の組織基盤である同種職業又は同種産業に分類基準を求めれば︑その第一は印刷工組
合であり︑その第二は鉱夫の組合であり︑その第三は官営工廠であると民営であるとを問わず金属機械労働者︑すな
わち当時普通に呼称された鉄工の組合である︒こうすればこの三大分類からはみ出すものは︑名称だけから見れば産
第一次大戦直後の日本労働組合研究
六五
第一
次大
戦直
後の
日本
労働
組合
研究
業別組合組織と目される日本交通労働組合及び問屋制資本の下における職人組合と考えられる西陣織友会のみとな
る︒大正八年の労働組合研究のなかには当然友愛会の組織と指導精神の変更の問題が重要な課題として包含されるこ
とはいうまでもないが︑ここではとり敢えず以上に示した限りに対象を限定したい︒以下においてそれぞれについて
考察を進めよう︒
(1 )
日本労働総同盟出版部・産業労働調査所共編﹃労働年鑑︑大正十四年同一九頁︒木書は日本の労働組合が初めて出した
労働
年鑑
であ
る︒
これ
は大
正十
四年
の総
同盟
が研
究調
査や
出版
或い
は共
済活
動等
の日
常的
事業
の重
視と
その
成果
を一
示す
もの
と
して
意義
深い
︒
一︑印刷工組合
主要二
O
組合のうち印刷工組合として挙げられるのは大進会︑正進会︑神戸印刷工組合︑京都印友会及び広島印刷工親友会の五組合であり︑これは最も多い鍛工の一
O
組合に次ぐものである︒しかも正進会の註を見れば八年春に結成された﹁革新会﹂という前身が示されるばかりでなく︑この職業については大正五年結成の﹁信友会﹂の組織が友
愛会とともに八年以前から存していたことも前述したとおりである︒更にこの年に結成された印刷工組合は上記のほ
かにも横浜欧文技術工組合︑福博印刷技工共済会︑呉市活版工親友会︑姫路印刷工交友会︑松山市印刷工の親睦会︑
長野印刷職工組合等々があり︑この年全体のうちの相当数が印刷工組合であったことがわかり︑更に翌九年一月には
大阪印刷工組合が設立されているのである︒又八年の印刷工の争議は争議総件数のなかでの比率としてみれば必ずし
も多くないが︑彼らの争議については内務省警保局をして﹁印刷工の思想が他種労働者よりも常に進歩しつLあるは
彼等平素の業務が新知識に接する機会多く為に争議の件数人員は統計上僅少なるに其形式に於て其計画に於て何等か