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鷗 外 と 漱 石

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(1)

学日本語日本文学研 24

45

外 と漱石  

―自然主義試論Ⅵ―

The fiction of Ogai and Soseki: on naturalism VI

葛  綿  正  一

KUZUWATA Masakazu

(2)
(3)

     外の自然主義――記号と国家

  つ。ず、外(

い。が、』(

』()、』()、

号、』『』(店、年、

治「面」(『)、」(

がある。     外の自然主義批判――現代小説をめぐって

1『ヰタ・セクスアリス』――自然主義と科学

  れ、る。

た。は、た。た。 外と漱石  ―

自然主義試論Ⅵ

The fiction of Ogai and Soseki: on naturalism VI

  綿      KUZUWATA Masakazu

(4)

面白がると同時に、金井君は妙な事を考えた。/金井君は自然派の小説を読む度に、その作中の人物が、行住坐臥造

沛、何に就けても性欲的写象を伴ふのを見て、そして批評が、それを人生を写し得たものとして認めてゐるのを

見て、人生は果してそんなものであらうかと思ふと同時に…」

  「か。り、

ではないだろうか。外作品の意義は、そこにあるように思われる。日本の自然主義はゾラなどとは異なるという。

は、い。Lombroso

る。Möbiusが、て、

者として論じてゐるも、そこに根柢を有してゐる。併し近頃日本で起つた自然派といふものはそれとは違ふ。大

勢の作者が一時に起つて同じやうな事を書く。批評がそれを人生だと認めてゐる。

(一九〇九年『ヰタ・セクスアリス』

  い。り、

る。て、

れ丈関係してゐるかといふことを徴すべき文献は甚だ少ないやうだ」。だからこそ、語り手は書き始める。

  「ら、ん。が、

う発展したか、つくづく考へて見たことがない。一つ考へて書いて見ようか知らん。白い上に黒く、はつきり書いて

ら、う。normalanomalous

れない」。こうして書き始められた小説が閉じられるのは、「白」と「黒」だけでは表現できない色彩が現れたときで

ある。

恋愛を離れた性欲には、情熱のありやうがないし、その情熱の無いものが、奈何に自叙に適せないかといふこと

は、金井君も到底自覚せずにはいられなかつたのである。/金井君は断然筆を断つことにした。/そしてつくづ

く考へた。世間の人は今の自分を見て、金井は年を取つて情熱がなくなつたと云ふ。併しこれは年を取つた為め

ではない。自分は少年の時から、余りに自分を知り抜いてゐたので、その悟性が情熱を萌芽のうちに枯らしてし

(5)

る。て、dubた。

が、た。dubう。

したやうなのは、表面だけの事である。永遠の氷に掩はれてゐる地極の底にも、火山を突き上げる猛火は燃えて

ゐる。(『ヰタ・セクスアリス』

  「り、ら「は「

られるのだが、「猛火」が鮮烈な色彩をもつことは明らかであろう。それにしても、息子に読ませるために書かれた「ヰ

タ・セクスアリス」が息子に伏せられるのはなぜか。それは性がもともと壊乱的なものだからであろう。書き手は性

の観念が長子へと間違いなく伝えられるものではないことに気づいたのである。

  『沈黙の塔』にも自然主義への言及があり、

「あらゆる因襲が消極的に否定せられて、積極的には何の建設せられる

所もない事」と「衝動生活、就中性欲方面の生活を書くことに骨が折れてある事」を指摘している。

自然主義の小説は、際立つた処を言へば、先づこの二つの特色を以て世間に現れて来て、自分達の説く所は新思

想である、現代思想である、それを説いてゐる自分達は新人である、現代人であると叫んだ。/そのうちかうい

ふ小説がぽつぽつと禁止せられて来た。その趣意は、あんな消極的思想は安寧秩序を紊る、あんな衝動生活の叙

述は風俗を壊乱するといふのであつた。(一九一〇年『沈黙の塔』

  ここで注目されるのは、自然主義の小説が発禁処分になったことである。性と同じく、小説もまた壊乱的なものと

いえる。周知のように、外の『ヰタセクスアリス』は発禁処分になった。だから、諦念が必要とされるだろう。「木

精は死なない。併しもう自分は呼ぶことは廃さう。こん度呼んで見たら、答へるかも知れないが、もう廃さう」とい

うのがそれである(一九一〇年『木精』)。

2『流行』『不思議な鏡』『追儺』――自然主義と穴

  色彩や情熱は流行と密接に関連があるかもしれない。贅沢な暮らしを送る男を描いた『流行』という短篇がある。「点

火機」のボタンを押した後、男は語っている。

(6)

「…もう流行り已んだ頃なのだが、これからこつちで流行り始めるのだ。なんでも流行り出す前には、嫌でも僕

が使はなくてはならないのだから、溜まらないよ。

「…御覧の通りに僕の家は間毎に様式を換へて立ててあるのだから、明りも煖炉もそれぞれ違つた型にして、世

間にいろいろな明りや煖炉が流行るやうにして遣るのだが、瓦斯の方は夏は烟草の火と台所位にしてゐるものだ

から、会社の方で幾分か悪影響を受けると云つて、苦情を持ち込むのさ。なんでも僕が少し構はずにゐると流行

らなくなるのだからね。(一九一一年『流行』

  「る。ら、

る。が、

義に対する外の皮肉ではないか。

  で『と『る。

き寄せられる後者をみると、外が流行の自然主義に脅威を感じているのがわかる。

広い、広い一間である。それが上段下段に分かれてゐる。上段の間に、此座敷の王様のやうにして控えてゐる人

ば、が、gigantesqueて、い、

た。る。の、の、る。

その辺に若い人で知らない顔がある。その中には評判の正宗君なんぞがゐるのだらう。

(一九一一年『不思議な鏡』五)

  が、る。り、稿が、

」「が、う。と、の「

な鏡」こそ流行の正体なのかもしれない。「不思議な鏡」に頼ろうとしない外は困惑するばかりである。これは「ど

うして何を書いたら好からうか。役所から帰つて来た時にはへとへとになつてゐる」という『追儺』の冒頭と全く同

じ状態であろう。

  なぜ外は自作朗読ができないのか。外の自己診断によれば、その自信のなさは睡眠不足によるようである。

(7)

己は昼は物なんぞ書いてはゐられない身の上なので、夜なかに起きて書く。穴の半分潰れた羽織を着るやうなも

る。か、る。

るのかも知れない。書くものに「情」がないさうだ。情が半分の穴から抜けて出たのかと思へば、さうではない

さうだ。元から無いのださうだ。(『不思議な鏡』一二)

  睡眠不足のまま書き続けるほかない外は「綻びを半分潰した羽織」を引っ掛けているだけである。しかし、自信

る。が、外文学の長所があるだろう。「穴」をもつ外は「情」の不在によって流行を診察しているからである。その意味で、外文学は一種のクリニックといえる。

  ところで、小説の恐ろしさとはまさに限界がないという点にあるだろう。田山花袋から新作を朗読するよう責め立

てられていたが、別の短篇でも、そのことが語られる。

悪魔に毛を一本渡すと、霊魂まで持つて往かずには置かないと云ふ、西洋の諺がある。/あいつは何も書かない

奴だといふ善意の折紙でも、何も書けない奴だといふ悪意の折紙でも好い。それを持つてゐる間は無事平穏であ

る。る。く。

な、い、い、sentimentalく。あ、

うだなと云ふと、ここからも、かしこからも書けと迫られる。(一九〇九年『追儺』

  髪の毛一本渡すと、魂まで持って行かれるというのが小説の恐ろしさにほかならない。連鎖的な展開は『阿部一族』

の主題そのものであり、『雁』にも見て取れるだろう。後述するが、「一本の釘から大事件が生ずる」ことになるから

である。限界がない小説に、どのようにして限界を設けるのか、そのために必要とされたのが諦念であるように思わ

れる。

  連鎖的な恐怖は『金毘羅』にも見て取れ 〔1〕。子供の病死をきっかけとして、誰もが金毘羅信仰に取り憑かれかねな

いからである。

どんな名医でも見損なうことがある。これに反して奥さんは、自分の夢の正夢であつたのを、隣の高山博士の奥

(8)

さんと話し合つて、両家の奥ではいよいよ金毘羅様が信仰せられてゐる。哲学者たる小野博士までが金毘羅様の

信者にならねば好いが。(一九〇九年『金毘羅』

  「う。は『

る。は、も、い。

腹に代へて、金毘羅に起請文を納めさせたい。悔い改める望みのない男であるから、必ず冥々のうちに神罰を蒙るで

あらうと云ふのである」(七十四)。この一節をみると、外における金毘羅信仰の意義がわかるだろう。金毘羅信仰

とは決然たる切腹と相容れない執拗なものにほかならない。切腹と正反対のものであって、男性と女性を弁別するも

のになっている。

  石『』(た。た。

た。は、

た。山嵐とはすぐ分れたぎり今日迄逢ふ機会がない」。無鉄砲な言動の連続が鮮やかである。だが、『金毘羅』は、

それに対する反論のようにみえる。

一寝入すれば大阪に着くから、早く寝ようと思うが、脳髄の疲労が鈍い重りを加へてゐる割に寝付かれない。何

だか自分の生活に内容が無いやうで、平生哲学者と名告つて、他人の思想の受売りをしてゐるのに慊ないやうな

心持がする。船の機関ががたがた云ふのが耳に附く。自分の体も此船と同じことで、種々な思想を載せたり卸し

たり、がたがたと運転してゐるが、それに何の意義もないやうに思ふ。(『金毘羅』

  「は、い。た。

併し動くのが殆ど分からない程、海が穏である。金毘羅は祟らないらしい」と記したけれども、「瑕瑾を気にする人」

は祟られてしまったのである。したがって、外における汽車は不吉なものとなる。

時、ZolaLourdesす。Zola退

屈に感ぜられる位な、丁寧な処に、博士は敬意を表してゐるのである。/博士は頭の鈍いやうな感じになる。汽

車が速度を緩めて停車場に這入つて、停車場を出てまた速度を出すのを、単に器械的に自分の体に感ずる。これ

(9)

に、自分の体が翻弄せられてゐるやうな、多少不愉快な感じが交る。をりをり琵琶湖の死水が鋼鉄いろに汽車の

窓に映つたり、関が原前後で、緩い傾斜の赤土に低い松の並んだ丘陵が、蹙まつてはまた開いたりするのが、聞

き馴染んだ俗謡の旋律のやうに、薄明の意識を襲つて、忽ち消え去つてしまふ。をりをり又何の写像の連鎖に引

かされてか、東京にゐる子供のことなぞを思ひ出す。想像力がはつきり子供の姿を目の前に結晶させて見せるこ

とさへある。(『金毘羅』

  「が、す。る(

石において子供の命を奪うのは雨の日にほかならない、『彼岸過迄』「雨の日」)。外には死魔に祟られる『汽車火事』

(一九一二年)という翻訳もある。

3『カズイスチカ』『妄想』『かのやうに』『百物語』――小説と諦念

  『医学の説より出でたる小説論』

(一八九九年)でゾラを紹介した外は、むしろ自らのほうが自然主義と呼ばれる

にふさわしいと思っていたのではないだろうか。医師として父に学ぶ『カズイスチカ』を見ると明らかだが、外は

る。」「る。

落架風と云つて、或る大家は整復の秘密を人に見られんやうに、大風爐敷を病人の頭から被せて置いて、術を施した

ものだよ。骨の形さへ知つてゐれば秘密は無い。皿の前の下へ向いて飛び出してゐる処を、背後へ越させる丈の事だ。

学問は難有いものぢやのう」と父は語る。また破傷風の症状は「一枚板」と呼ばれている。

る。い、は、

こんな詞の出やうが無い。あの報告は生活の印象主義者の報告であつた。(一九一一年『カズイスチカ』

  「る。し、

している。

「腫瘍は腫瘍だが、生理的腫瘍だ。」/「生理的腫瘍」/と、無意味に繰り返して、佐藤は呆れたやうな顔をしてゐる。

/花房は聴診器を佐藤の手に渡した。/「ちよつと聴いて見給へ。胎児の心音が好く聞える。手の脈と一致して

(10)

ゐる母体の心音よりは度数が早いからね」/佐藤は黙つて聴診してしまつて、忸怩たるものがあつた。(『カズイスチカ』

  妊娠、出産という生命の営みにとって、病名など無意味であろう。医師としての外は自然と記号の接点に位置し

ているのである。そんな外が取る態度がレジグナツイオンにほかならない。

と、resignationす。

ばかりでは無い。世の中のどの方面に於ても此心持でゐる。それで余所の人が、私の事をさぞ苦痛をしてゐるだ

らうと思つてゐる時に、私は存外平気でゐるのです。 (一九〇九年『Resignationの説』

  「平気でゐる」ための方法、それが諦念である。諦念によって、

外は自然主義の流行に耐えている。「現在の文芸

activeる、す。か、か、か、

し後に仲間入りをしたやうな小山内君とか、永井君とか云ふやうな諸君でせう」。田山君のようにうまくないとしても、

平気だという。

  Resignationか。宿résignationの態度が、有道者の面目に近いといふことが、朧気ながら見えて来た。そして其時から遽に父を尊敬する念を生じた」

と語るのが短篇『カズイスチカ』だからである。Resignationとは医師としての態度であり、綴り字にみられる通り、

記号と国家にかかわる態度ともいえる(sign nation )。

一体医者の為めには、軽い病人も重い病人も、贅沢薬を飲む人も、病気が死活問題になつてゐる人も、均しく是

Casusる。Casusて、に、る。

ういふ境界には到らずにしまつた。花房はまだ病人が人間に見えてゐるうちに、病人を扱はないやうになつてし

まつた。そしてその記憶には唯Curiosaが残つてゐる。(『カズイスチカ』

  「Casusとして取り扱つて、感動せずに、冷眼に視てゐる」処に医者の強みがあるというが、「人間」を見てしまうと、

その強みが失われかねない。外における医学の問題は、自伝的な『妄想』でも語られている。

て、exactに、

(11)

なく心の飢を感じて来る。生といふものを考へる。自分のしてゐる事が、その生の内容を充たすに足るかどうだ

かと思ふ。(一九一一年『妄想』

  学問と生の乖離、そこにレジグナツイオンが生まれる。「舞台監督の鞭を背中に受けて、役から役を勤め続けてゐる。

に、る。

涯の残余を、見果てぬ夢の心持で、死を怖れず、死にあこがれずに、主人の翁は送つてゐる」。こうして「死を怖れず、

死にあこがれずに」日々を送るのはレジグナツイオンのおかげだが、それは医学から由来するものであろう。

  『百物語』で出現するのは普通の化け物ではない、

「傍観者」という怪物である。「一人が一つずつ化物の話をして、

だ。時、」。

われた主人公は、百物語を主宰する金持ちが気になる。

僕は生れながらの傍観者である。子供に交つて遊んだ初から大人になつて社交上尊卑種々の集会に出て行くやう

になつた後まで、どんなに感興の涌き立つた時も、僕はその渦巻に身を投じて、心から楽しんだことがない。僕

は人生の活劇の舞台にゐたことはあつても、役らしい役をしたことがない。高がスタチストなのである。さて舞

台に上らない時は、魚が水に住むやうに、傍観者が傍観者の境に安んじてゐるのだから、僕はその時尤もその所

を得てゐるのである。さう云ふ心持になつてゐて、今飾磨屋と云ふ男を見てゐるうちに、僕はなんだか他郷で故

人に逢ふやうな心持がして来た。傍観者が傍観者を認めたやうな心持がして来た。(一九一一年『百物語』

  に、姿う。は、

人を馬鹿にしてゐるに極まつてゐはしないかと僕は思つた」というのが結末だが、共感の能力が乏しい傍観者だから

こそ「人を馬鹿にしてゐる」ようにみえるのであろう。

  る「も、い。

必要とされるのが「かのやうに」の哲学だからである。

あ、だ。る、ね。い。

かのやうにがなくては、学問もなければ、芸術もない、宗教もない。人生のあらゆる価値のあるものは、かのや

(12)

うにを中心にしてゐる。昔の人が人格のある単数の神や、複数の神の存在を信じて、その前に頭を屈めたやうに、

僕はかのやうにの前に敬虔に頭を屈める。…」(一九一二年『かのやうに』

  「かのやうに」の前に頭を屈めることは「澄み切つた、純潔な感情なのだ」というが、これこそ諦念にちがいない。

外は、ドレフュス事件におけるゾラのように振る舞うことができるかどうか考えたはずである。

  『電車の窓』

(一九一〇年)には鏡花の小説に登場するような女が現れる。語り手はその瞳に次のような言葉を読み

る。は、ん。

ん。」。う。し、

る。く、

のが、わたくしは嬉しうございます。わたくしにはあれ丈の事も、世の中にまだ身勝手や欲心からでなく、何かしら

する人のある兆のやうに思はれます」。これは諦念のうちに萌す希望といってよい。

  後年の『安井夫人』(一九一四年)に見て取れるのは、諦念にみえたものが実は無限の希望であるという逆説であろう。

「お佐代さんは何を望んだか。世間の賢い人は夫の栄達を望んだのだと云つてしまふだらう。これを書くわたくしも

それを否定することは出来ない。併し若し商人が資本を卸し財利を謀るやうに、お佐代さんが労苦と忍耐とを夫に提

て、ら、い。

/お佐代さんは必ずや未来に何物をか望んでゐただらう。そして瞑目するまで、美しい目の視線は遠い、遠い所に注

がれてゐて、或は自分の死を不幸だと感ずる余裕をも有せなかつたのではあるまいか。其望の対象をば、或は何物と

もしかと弁識してゐなかつたのではあるまいか」。諦念とは無限の希望の仮初めの姿でしかない。

  『椙原品』

(一九一六年)の末尾で「私はこの伊達騒動を傍看してゐる綱宗を書かうと思つた。外に向つて発動する

力を全く絶たれて、純客観的に傍看しなくてはならなくなつた綱宗の心理状態が、私の興味を誘つたのである」とい

う。しかし、この企ては放棄される。外は史料の「自然」を尊重し、史伝のなかで「静中の動」を描いていくから

である。

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