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中野 正剛

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Academic year: 2021

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(1)

刑法上の責任とは被告人を処罰《非難》することか 処遇《支援》することか?―少年の場合

中野 正剛

本稿では、少年法の責任の概念について若干の管見を述べたい。

1 非行のある少年は、非行を克服して成長発達を遂げ社会復帰する義務 がある。この義務こそが非行のある少年の「責任」であると考えている。

これが私の少年法研究の出発点である。

2   ―憲法制定権力の担い手としての子どもの成長発達権の保障―

法制度上、この義務を理解する上で重要であると思うのは法律を制定運 用する権力の源泉が、個人の対等性、個人の基本権に由来するという価値 の共有が行われなければならないということである。各人が等しく基本権 を持つ、そういう人々がつながりあい、社会を形成する。そして、この社 会を守るために人々は契約を結んで権力機構、政府を構築する。それゆえ、

憲法は、社会を権力機構の上位に立たせ、権力機構を従属化させる(三権 分立)。こうした人々の持つ憲法制定権力とは権力機構創出の権力であり、

主権国家を構成できる唯一の権力である。憲法を制定する人間の集合体は

People(人々)であり、子どもも含めた国民各人がこうした人々であると

いう自覚を持ち憲法を制定し、主権国家を形成しているという意思が表明 できなければならない。立憲主義とは、最初に等しく尊厳と権利を持つ人々 がいてその人々からなる社会があってその社会を守るため権力機構が創設 され国家が作られる。その逆ではない。子どもについてもこうした立憲主 義に基づく権利主体性を育成するために設けられた法制度が、教育基本法 であり、非行のある少年のために刑法と区別された少年法の制度であると 考えている。

(2)

3   ― 責任=非難から、責任=処遇 ( 支援 ) へ ―

 さて、こうした立憲主義を踏まえると、少年が非行を克服し成長発達を 遂げることとは、少年が将来の主権者としての自覚を持ち、自分が政府も 含め周囲の人々から個人として尊重されているという意識を備えることが 重要となる。

 それでは少年の責任とはどのように構成されるべきであろうか?子ども は意思決定の自由が合理的に行使できるほどには人として自立し成熟した 存在ではない。容易に環境や自分の無智の犠牲者となりやすい。この点 で、非行のある少年は合理的な意思決定の可能な成人犯罪者などと異な る。かような人間像を前にした場合、既存の責任論では限界がある。なぜ ならば、古典的な責任論(規範的責任論)では非難可能性、すなわち刑罰 を行為者の持つ自由意思を仲介としてその人格に結びつけるものとして機 能するからである。つまり、我々は責任を理解する際、「自由意思で罪を 犯した小さな大人」(子どもは刑事罰の対象

)

として子どもを見るか、「適 切な保護を欠いた社会からの犠牲者」(子どもは福祉の対象

)

として見る かで絶えず揺らぐことになる。社会の構造が、新自由主義国家社会になれ ば前者に揺らぎやすく、福祉主義国家社会の下では後者に揺らぎやすい。

こうした揺らぎの解消に向けた方策の一つとして、まずわれわれは少 年法にいう「非行」概念の基盤を構成する刑法の『犯罪論』がそうさせて いることに気がつく必要がある。

そこでは、非行概念の基礎となる『犯罪』を定義して、構成要件に該当 し違法で且つ有責な行為としている(図1参照)。人はその行為が構成要 件に該当し、違法性を阻却する事由なく、責任能力がある(schuldfähig)

と認められれば刑罰を科せられる。一般に、他者に対する行為が犯罪、

すなわち罪あり(schuldig)と認められ、行為者がその他者に対し責任

(Schuld)を負担する能力があるのであれば、その責任を清算しなけれ ばならない。責任 (Schuld) とは民法で債務と訳されているように借りた もの(債)を返して清算すべき義務を表現するのである。現行の日本刑 法の条文では前半に犯罪を構成要件

(

民法で云う法律要件)として規定し、

(3)

後半でそれに対応する法律効果、刑罰制裁のみを定めこれを手段として 清算すべき「つけ」を返すという構成をとっている。この「つけ」を作 る能力を指して犯罪能力といい、「つけ」を返す能力を受刑能力という。

この2つの能力を合わせたものが責任能力と呼ばれているものである。

責任能力のない人には、「つけ」を作る能力もないので、「つけ」を清 算する能力もなく刑法は適用されない。このように責任とは常に人につ いて評価されるべき観念であるから、有責な(schuldig)行為とは奇妙な 表現である。責任とは『人』について生じ『行為』について生じ得ない からである。

  図 1 リスト=ベーリングの体系

         構成要件

   犯罪    違法      行為          責任    

4 そこで、我々は既存の責任論を再構成し直す必要が生じる。

3ではわが国で一般に流布している責任(有責性)とは

Schuld

というド イツ語に由来する概念であると説明をした。そこでの責任論とは犯罪が行 われたことに伴う反作用の内容として刑罰、すなわち犯罪が犯されたこと

(「つけ」)を契機として国家の手による刑罰権の一方的な発動(「つけ」

の清算)を前提に構築されている。これを「行為者主体の外側にある責任 論」と名付けておこう。責任非難という形で行為者の外側から責任を問う という形で責任の所在が表現されているからである(「つけ」を返済する 能力のない責任無能力者には刑罰を科すことがそもそもできないので、も っぱら伝染病その他の疫病から一般世人を守ることと同じく特定の犯罪人 から一般世人の生活の安全を守るために行政作用の一種としての保安処分 制度が設けられる)。

 他方で、これとは異なる責任の観念も存在する。フランスの新古典学派

(4)

に対抗して唱導されたマルク・アンセル (Marc Ancel,1902-1990) (1)など による新社会防衛論の依拠する責任論である。私はこのアプローチを少年 の責任を理解する上で参照する必要があると考えている。

 そこで、アンセルの責任論がどのような考え方を採用するかを見てゆく 前に、その素地を与えたフランス新古典学派の責任論に目を向けてみよ う。そこでは新古典学派の論客オルトラン (J.L.E.Ortolan,1802-1873) 等 によってまとめられた責任論が基礎を与えている。彼らは「責任」を行為 の属性(罪体:犯罪の悪質性評価)から切り離して、行為者の属性(責任)

と構成している(図2参照)。犯した犯罪(非行)の悪質性評価から行為 者の問題(責任)を明確に独立させているので、「責任」を犯した罪に対 する反動(刑罰)としてのみ理解するモメントから解放されている。そこ に責任=処遇というモメントを差し込む余地が生まれるのである。

  図2 フランス刑法の体系

      法定要素(罪刑法定主義、正当防衛、緊急避難等)

犯罪行為  物の要素(作為、不作為、未遂等)       (罪体)

      心の要素(故意、過失等)         

犯罪者とその責任       (責任)

     (犯罪行為者、共犯、不帰属原因、責任能力、強制、錯誤等)

新古典学派を完成させたオルトランは、責任を帰責性

(imputabilité)・

答責性

(responsabilité)・有責性 (culpabilité)

の3つのファクターから構 成する。帰責性とは犯罪事実

(fait)

を当該行為者のせいとすること。答責 性とは帰せられた犯罪事実を受け入れろとの声に応える義務をいう。有責 性とは行為者が受け入れる犯罪事実について義務違反(可罰的評価)が伴 わなければならないということである。有責性が刑罰制裁を導くので有

(1) アンセルの経歴と業績について、

Aspects nouveaux de la pens

é

e juridique : recueil dʼ

é

tudes

en hommage

à

Marc Ancel, vol,Ⅰ, 1975, pp. XXⅦ, XXⅪ.,

澤登俊雄「名誉会員マルク・アン セル氏を偲ぶ」刑法雑誌

31

巻4号

425

頁以下参照。

(5)

罪性とも訳されている。これがフランス新古典主義の責任論の構成であ る(cf.,Seigo NAKANO,An Essay about the Development of Japanese

Early Modern Theories on CRIMINAL ATTEMPTS at the Dawn of Modernization and Civilization in Meiji era(1868-1912),2002,Michigan)。

刑罰威嚇による犯罪予防を主眼とするロクシンでは規範的な答責性の概念 (Verantwortlichkeit)を使用しているが(2)、オルトランの責任論では 行為者が犯罪事実を前にして応答する存在論的な義務を言うにすぎない ので別の観念である。新古典学派は有責性という観念を使用する点でま だ責任=刑罰にこだわりを残すが、この責任論の土壌の上にさらに犯罪 者処遇のモメントを入れて止揚する立場として新社会防衛論が現れた。

この立場を代表するアンセルは新古典学派の示した「答責性」の観念に 着眼して、長幼を問わず誰しもが持ち犯罪者も持つはずの責任の意識

(le sentiment de responsabilité)を尊重して答責性の概念を再構築した (M.Ancel,1981,pp.249 et s.et même auteur,1964,p.273.)。アンセルは、行 為者に対する犯した罪の悪質性への非難は有罪の判決の宣告で終わり、そ れに行為者はどう答えるか(答責性)は行為者の再社会化の課題であると する。アンセルは「責任は〔中略〕有罪の判決によって出発点となる再社 会化という裁判後の不可欠な原動力になる。社会防衛は刑事政策の原理と して、責任を抜き去るどころか〔中略〕その全体系を〔中略〕この責任 の新たな確認の上に依拠させるのである」(M.Ancel,1964,p.273.)と。こ こでは責任=刑罰ではなく、責任=処遇というモメントが導き出される (M.Ancel,1966,p.254 et 255.)。答責性とは、非難可能性ではなく、有罪 判決が下されることに犯罪者が応答することが求められ、それに反応する 可能性があれば責任があるという考え方で、そこでは責任は刑罰だけを要 請するのではなく、その人にふさわしい処遇は何かが要請され、それが処 遇対象者である犯罪者の人格に適したものに限り法的に正当化され、同時

(2)

C.Roxin,Strafrecht AT,Bd.I,

4

2006,85ff.,851ff.;ders.,Zur jüngsten Diskussion über Schuld,Prävention und Verantwortlichkeit im Strafrecht,Bockelmann- FS,1979,279ff.;ders.,Prävention und Strafzumessung,Bruns-FS,1978,183ff.;ders.,“Schuld” und

“Verantwortlichkeit” als strafrechtliche Systemkategorien, Henkel-FS,1974,171ff..

(6)

に道徳的にも社会的にも正当化される(なお、それに付随して、犯罪者に は国家に対し適正な処遇を受ける権利を請求権として享受することまで 肯定する )(M.Ancel,1981,pp.253,259 et même auteur,1964,p.275.)。つま り責任=処遇と位置づけるわけである (M.Ancel,1966,p.254)。この責任

=処遇を観念する際に忘れてならないのは、責任の意識の重要性である。

アンセルによると刑事責任とは各人の持つ責任意識によって基礎づけられ る。非行を繰り返すことですり減った責任意識を再び喚起し自分の責任を 自覚することを促すのが処遇である。すなわち、処遇とは『自由の治療学』

(thérapeutique de la liberté)なのである(Ancel,1981,p.255.)。ここでは、

4で従来の規範的責任論に名付けた「行為者主体の外側にある責任論」と 対照させると、アンセルの主張する責任(

responsabilit

é)とはまさしく

『行為者主体の内側にある責任論』なのである。行為者はその責任の意識 を通して、これまで獲得してきた行為規範の誤りを悟り、新たな規範の内 面化に努めることが強く要請される。

5 このように責任には非難の面と応答可能性の面とがある。この問題を 考える上で、注目すべき論攷が出ている。沢登佳人教授による「責任の本 質と少年の処遇」(『少年法の理念』現代人文社

2010

年)である。そこ では、アンセルの主張を批判してさらに乗り越えようとする考えが提示さ れている。アンセルの見いだした責任=処遇という図式を踏まえ、責任と は自己と他者とのコミュニケーションに対する応答であるとする見解が述 べられる。沢登教授は、論攷の締めくくりとして「コミュニケーションの 正しい理解は自己と他者との人格の対等性の自覚を前提とする。少年の処 遇は(成人のそれと違い

-

筆者補足)この自覚を促すことから始めなけれ ばならない」とある。まさしくこの個人の対等性の自覚を促すことこそは 本稿のはじめに述べた将来の主権者としての自覚である。そのためには、

まず少年審判や処遇の側面で少年に自分の意見を他者に向けて自発的に発 言する機会が保障されなければならない。そのためには大人そして国はで きる限りの努力を傾けねばならないこと〔たとえば、従来からある裁判所

(7)

調査官、鑑別所技官の制度に加え、事件が刑事事件として検察官への送 致、刑事裁判所への起訴おのおのの段階での人格調査制度創設拡充など〕

と同時に、我々は有責性の前提となる『犯罪』〔構成要件と違法性〕とは 社会的有害性をともなう人間の行動〔侵害原理〕としてのみ把握し理解す るアプローチを改め、被告人自身の抱える病症の一つと把握し、裁判をそ の病症に対する診断処方過程と把握することなのであると我々社会を構成 する人々(People)が『決断』を下すことができるかにかかっているとい えよう。犯罪者の処遇とはまさに被告人だけでなく、社会の決断の所産で もあることに想いを新らたにしなくてはならないことは確実だといえよ う。まさしく新社会防衛論とは旧来の新派の唱える犯罪者の社会的危険か ら文字通り社会を防衛する原理なのではなく、犯罪者自身の抱える問題性 を彼自身のために

-

そしてこれは必ずしも社会秩序の防衛にはつながらな い、そして被害者のもつ処罰感情の慰撫にすら何らの役にも立たないこと さえも意識しつつ

-

解消することにつながるので、社会の防衛という呼称 には必ずしもつながらない。犯罪者も含まれる個人の尊厳を充分に尊重す る社会へ変わらなければならないことをも要求してくる。すなわち、新派 の社会防衛論のパラダイムからシフトし、まさしく社会から犯罪者の人格 の尊厳を防衛することこそが『新』社会防衛論の主旨なのである。それは、

かつてアンセル自身が述べたことであるが、社会防衛論は決してすべての 犯罪者が再社会化されうると主張したことはなく、社会復帰への努力が原 則としてすべての者に企てられるべきだと主張することで満足すると述べ ていたことから明らかとなろう (M.Ancel,1981,p.267)。

[あとがき]

 本稿は、子どもの人権研究会編『いま、子どもの人権を考える』〔仮題〕

日本評論社

2013

年刊行予定に寄せた別稿「少年の責任とは何か?―子ど もは未来からの贈り物」に若干補足したものにすぎないことをお断りし、

各位のご海容を乞う次第である。

*本稿脱稿後、沢登佳人『自己超出する生命 生命の尊厳と人間の責任』

(8)

(現代人文社・2012年)を得た。この著作の中の第

2

章が刑事責任論に 充てられこれまでの教授の考えが体系立てて述べられている。稿を改め検 討を加えたい。

*本稿に関連する文献として、牧野英一、木村亀二、團藤重光、森下忠博 士らそれぞれの立場からの『新社会防衛論』を叙述した論考をあげなけれ ばならないが、ここでは筆者が本稿を作成する上で直接参照した文献にと どめる。

Marc Ancel , La Défense Sociale(1985,Paris)

  La Défense Sociale Nouvelle(3 e éd.,1981,Paris) La Défense Sociale Nouvelle(2 e éd.,1966,Paris)

( なお、第二版の訳書・吉川経夫訳『新社会防衛論』

一粒社

1968

年)

La Responsabilité Pénale:le point de vue juridique

in Revue internationale de criminologie et de police technique, v.18,n

o

4,1964,pp.268 et s..

沢登佳人「マルク・アンセル著・刑事責任・法的観点」〔訳者まえがき〕

    法政理論

9

1

123

131

頁、とくに

129

頁。

澤登俊雄『新社会防衛論の展開』大成出版

1986

参照

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