• 検索結果がありません。

大正期教師「修養」論の思想 : 新教育論との関連を中心に

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "大正期教師「修養」論の思想 : 新教育論との関連を中心に"

Copied!
14
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)Title. 大正期教師「修養」論の思想 : 新教育論との関連を中心に. Author(s). 伊津野, 朋弘. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 23(1): 1-13. Issue Date. 1972-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4649. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 23 巻 第 1 号. 7年9月 昭和4. 北海道教育大学紀要(第一部C). 大正期教師 「修養」 論の思想 一 新教育論との関連を中心に. 伊. 津. 野. -. 弘. 朋. 函館分校教育学教室. Tom。hiro l t で8UNO ;. The Thought of the Theory on. l f se ture of Teacher in the Taish。 Era. ‐Cul. 容. 内. i)綴方教育論. <序> 口. 1 教師 「修養」 論と新教育論. . 修養」 における宗教の問題 q)「. 1 ( 1教師「修養」論の発生とその人間形成論 2 ( )教師 「修養」 論における教権独立論. 3 ( )教師「修養」論と新教育論. i)木下竹次の教育論 i. 教師 「修養」 論の折衷主義的性格. 2 ( )新教育論の折衷主義 <結語>. 明治末期資本主 義経済の急激な発展とともに, 農村旧秩序の解体と新たな力関係が発生し, また 日露戦争当時よりの 非戦論などとともに, 社 会主義の思想や運動が 次第に活発化する, このような 現実を背景に, 家族国家観にもとづく修身教科書の改訂, あるいは動揺する村落共同体の強化改 良 をめ ざす 「地方改良運動」 などを中心と して, 上からの国民道徳運動 がお し進め られたのが明治末 期以降である, この時期にあっ て, この上からの国民教化運動とも相呼応 し, また, この運動と西 洋ヒューマニ ズムにもとづく教養主 義と の中間にあっ て, その思想の根 拠を東洋的道徳思想・修養 ) 思想にもっといわれる民間の修養運動, 一連の思想教化運動がおこっている1 . たとえば蓮沼門三 ・ 9年) 修養団」 の創立(明治3 による 「 , 新渡戸稲 , 田沢義鋪による 「青年講習会」 の開催(大正3年) ) 2 造によるュニーク な修養論の展開 (明治41年以降) な どである , これらの修養論は一般成人や青年を対象とする一つの人間形成論であっ たといえる, しかもそれ は国家主義教育と思想的根拠を異に し, 人間の内面からじっくりとその形成過程 を考えなおそうと する人間形成論であっ たといえる. しか し家族国家観やその道徳 思想と正面から対立するものでは なく, また欧米の自由主義思想や新教育思想に対 して排他的でなく, 可能なかぎりにおいてそれも とり入れ, しかも人間形成の根拠を主として東洋思想において 追求 しよとするものであったといえ よ う.. この動向を背景に, あるいはそれと相呼応 して, 明治末期より大正期にいたっ て,「教師」修養論 がさかんに展開され, 教師論はす べて 「修養」 論を含むという状 況があらわれている. そ して教師 の修養会や研修会等も, いろい ろな形で行なわれるようになる. この 「修養」 論は教師自身の人間 - 1 ー.

(3) . VO 1 ,23 No .・. i ion (Secヒ Journal。f Hokka ido Un i i ty of Educat ver s on IC). sept , ,1972. 形成論にほかな らないが, 同時に教師に対 して新 しい教育論の研修を期待するものであっ たともい える. 大正期のもろもろの新教育論新学校 論は欧米の新教育運動の影響によるところ大であるが, 教師 「修養」 論における人間形成論に由来するもの決 して少なくない. したがっ て, 一 つには教師 論と してその 「修養」 論の思想を追求することが重要であるが, 同時に大正期新教育運動の性格を 正しくとらえるという意味からもそれは重要であると考える,. 1 教師 「修養」 論と新教育論 ) 教 師 「修養」 論の発生とその人間形成論 1 ( 明治末期を堺に して, 教師論に一つの新しい傾向があらわれている. 明治中期の教師論は, 多く 教育行政法あるいは学校管理関係著書等において, 教師の法的地位をのべるようなものが多数をし めているが, 明治末期以降の教師論はすべてその 「修養」 論を含み, 教師の人格的修養とその感化 としての教育論を, 中核にすえようとする傾向がみ られる, 沢柳政太郎の 「教師及校長論」 の冒頭 -部は人格の感 においても, 「教育は教師の生徒に及ぼす一種の影響にして, その影響の少なくも- ) 化であるとすれば, 教師は生徒を感化するだけの人格を具えて居 らなければならない3 」 とのべ, さらに一章を設けて 「教師の修養」 を論じている. その他たとえ ば河辺光次郎 「小学教師の感化」 (明治43年) , 中島力造 「教育者の人格修養」(明治44年) , 稲毛説風 「現代教育者之真生活」(大正 2年) 4年) 等々, 多くの教師論がそれぞれにニュア ンスを異に , 桜井賢三 「現代の教育者」(大正1 し,後述するようにさまざまの性格をもつのであるが,共通的にわが国に伝統的な教師論としての一 面をもち, 特に教師の人格的感化を重視する教育論を基礎に, 教師の人格修養をとりあげている. これが伝統的教師論にねざすことはいうまでもないが, 直接的には明治末期の一般成人や青年を 対象とする修養運動, 思想教化運動の影響によるところ大であり, それに呼応する一連の動きとみ ることができる, そこでまず, 大正昭和の指導的立場の人々に, 大きな思想的影響を与えたといわ れる新渡戸稲造の修養論に注日しよう, 新渡戸における 「修養」 とは, 「修身」 と 「養心」 を含む 概念であり, 「心に食物を与え, 寒い時には温みを与え, 暑い時には之を涼しうし, 横道に踏み迷」 ) わないように心を養いながら,「方角を誤らぬ様, 挙動の素れぬ様」 身を修めていくことである4 , すなわち, 心を自分の中にいきいきとめざめさせたもち, 自分を自分 の目標にむかっ てつくりかえ る努力をすることが 「修養」 ということになる. それも心が生きて活動してい ること, そしてそれ が自分の目標にむかっ てい ること自体がねらい であり, 普遍的客観的な実在としての理想に自己が 一致することに目標をおくのではない。 客観的真理と考えられるものを 詰め込むことにより 人間形 成を意図するものでなく, 毎日の具体的な行動を通して心を生き生きとたもち, 自己の向上あるい は生活の向上をはかっ ていくという教育論であり, それは一種の プラ グマティ ズムであるともいえ る,. したがっ て彼の修養論は, 心を生き生きとさせるための心のもち方あるいは行動のしかたをとく ものである. たとえば 「決心の継続」 についてその方法をの べ, 「毎日若くは一日中に三度も四度 も自分の発心に注意」 し, 「発心を忘れぬ様に, 心にかけ」 る心がけをとき, その継続的実行が重 要であるとして具体的方法をの べている, その他「勇気の修養」 , 「克己の工夫」 , 「逆境にある時の ) 心得」 などもす べ て, 心のもち方と実行の方法をのべるものである5 , 一つの人間形成論であるために, 教師自身の 「修 養」 問題と して, また教 このような修養論は,‐ 師のも・ っべき教育論 の問題として, 発展の可能性をもつものであった, 事実において, 新渡戸の修 養論を中,じとする明治末期以降の修養運動とともに, 教師論が非常に多く修養論を含みながら展開 されることになる. そして, 教師 「修養」 論ではつねに, 自ら自己を向上させる意味での 「自己発.

(4) . 第 23 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部C). 昭和4 7年9月. 展」 「自己拡大」 「自学」 という表現 がみ られ, 子供の成長も 「自己発展」 の意味でとらえ られ, 教師の役割はその発展を促進させるものということになる. そ して特に教師の人格的感化を重視す ) る所論として, 教師論は展開するのである6 . したがっ て先ず, 教師 「修養」 論は, 新渡戸の修養論と同様 に, 心を生き生きとたもち実行をつ み重ねて, 自分の目標にむかっ て自己を向上させていくというす じ書でとらえることができる, た とえ ば中島力造の 「教育者の人格修養」 論では, 「人は自身で自分の心を見て, 自分は如何なる点 存えて其理想に達するように努 めなけ において欠けて居るかを認めて, そうして自分自身で理 想をき ればならぬ, ……自分の理想に達すること を日的として進む工夫が修養である, 修養は自己教育の ことで, 我れが我れを教育することである」 とL, また 「修養とは自己自身で自分の可能性を実現 ) することである7 」 ともい う. これは客観的固定的な理 想への自己の一致をめざすのでなく, 主観 的な自己の理想への向上における積極性能動性を要求するものにほかな らない. すなわち固定的な ものを詰込む詰込主 義でなく, 自力による自己形成法としての 教育論であり, そのためにこれは新 教育論につながる性格をもつものであっ たといえる, ところで教師 「修養」 論において, 「自己発展」 のため心を生き生きとさせたもつため の方法は それは自ら自己をかえりみて自己のいた らなさを知るという, 極め いかにとかれたのであろうか.‐ て仏教的ともいえる自己観察の発想を出発 点とする場合が多い, その自己観察が徹底的であればあ るほ ど, 自己の罪の意識を バネとする向上への意欲は高まることになる, 馬上孝太郎によると, 修 養の方法は 「自己の内部観察をすること, 即ち反省をもって主要なる方法」 とするとし, 「恰も宗 教信者が一日一定の時間を作っ て神を礼拝するが如」 く特に時間を設け, たとえば 「信頼する同盟 を作り, あるいは指揮監督を受ける人を桁えて互いに初瑳琢磨する」 研修会など具体的方法を示 し ) こ う し て あ る 場 合 に は 校 長 を 中 ひとした教師相互の 「職員修養会」 が, あるいは 「日常 て い る8 .. ) 生起 し来るす べての事柄」 をみな 「修養の資料」 として開かれる 「教材研究会」 な どが9 , あるい l o ) はまた 「講読会」 「研究会」 「批評教授及批評会」 等の名称を もっ た研修会が, 次第に教育現場 に定 着 Lて い く こ と に な る,. 教師 「修養」 論がこのような教職員集団による研 修会を促し, 校内組織としての研修組織を生み 出 したことは極めて重要であるが, また, たとえば芦田恵之肋 の 「静座法」 に代表されるような, 個人的方法による 「修養」 をも促すものであっ た, 彼は 「端座腹目 して自己の内観につとめるがよ いと思う。 内観につとめるといえば詮索工夫を凝 らすようであるが, 余は自然にまかせて多く意を 」そうい 用いない. 意識界にあらはるるものを静かにながめて去る物は追わず来る物はとがめない, 『 う境地への修養を実践する, そ して 「目もなく他もなくた だ 道』 があるばかり」 の 「安心」 の自 己 へ と っ く り か え て い く の が, 彼 の 修 養 で あ っ た=) ,. このような修養は, すべて 「内観」 ・ 「反省」 の方法によるが, 特に教師の修養と して子供との 関係における諸問題を材料に して行なわれる場合が多く, それがいわゆる現場の教育研究としての 発展をうながすものであっ た. 芦田の場合も 「多様の事件の 幅湊 した時, 丹田の力が抜けて七情の ) 2 調和がやぶれる」 ことのある 「教坦上と運動場」 とを修養の道場とするとものべている1 , また, 三沢糾の修養論においても, たとえ ば 「生徒の他所見あくび悪戯耳語等 も, またもっ て省察進修の 3 ) 材料1 」 とすべ しと し, 河辺光次郎も 「教授にあるいは管理訓練の事業にお いて意に満たざること あるときは, 往々責を児童に帰 して目から身に罪の生ぜることを打忘れ」 ることがあるが, 「音身 4 ) を省み1 」 ることこそ重要であるという, このような修養と しての 「内観」 「反省」 こそ, 新 しい 教育研究をうながす基礎であった. そ してそれにもとづく具 体的実行のっみ重ね, さらにその経験 を自己の人格の中に吸収 しながら教育方法の改善をはかり, 「一歩一歩と善境に進み入る」 という 一 3 ー.

(5) . Vo l ,1 .23 No. 1 1 id。 Uni i i f HO i }ournal o t t t ( くa vers on IC) on (Sec y oE Educa. Sept , ,1972. 「自己発展」 ,それこそ教師の修養の出発にほかならなかったのである. 2 } 教師 「修養」 論における数権独立論 { 教師 「修養」 論は以上のように, 内部観察あるいは自己反省を主たる方法として出発したもので あったために, 教師をとりまく外部的客観的条件への考慮をはらわない精神主義的発想を同時に含 んでいた, . たとえば 「修養の基礎は己に求めよ, ……即ち内部から自己を犬ならしめんと努力する 人でなければ修養の甲斐が ないのである. 彼の妄りに権利な ど云々 して外部から自己を拡大しよう 5 ) とする人な どは勿論いけぬ1 」 という, これは教師 「修養」 論が聖職教師論の一面を含むというこ とである. しかし反面すでにみたように, それは新教育論につながる一面をもち, 教師をとりまく 客観的条件としての明治教育体制, すなわち国定教科書の詰込みという旧教育と根拠を異に し, 新 しい学校論を生み出す源となるものであった, この点極めて矛盾的であり, 教師 「修養」 論の折衷 主義の問題として後に考察を加えなければならないが, ここではその進歩的側面をまずとりあげる こ と に す る,. 明治末期に教育行政官僚制の一応の完成をみるが, 教師はその末端に位置 づけられ, 規則や上司 の命令あるいは国定教科書の知識技能の詰込みにのみ忠実なことが, 教師に対して要請された, 教 師 「修養」 論はこの官僚制組織が生み出す形式主義と教師の無気力に対して, 教師の積極的意欲 6 ) 的活動を期待するものとしての一面をもっていた1 . 中島力 省の修養論も 「今日我国の教育界は規 則規定を偏重して機械的に人間を教育せむとして居るような弊に陥って居りはすまいかと, 私は平 71 素感じて居ります1 1 と, 法規万能の教育関係の批判を前提としている. 稲毛誼風も同様に 「教育 者とは単に教育作用を行なう事務員ではなくて, 教育者であると共に一箇の生きた人間である事を 意味する限り, 活教育者の活修養とは単に教育事務員たる知識と技能とに熟練するだけでなくて, 更に如何なる方面から見ても一箇の生きた 人間たる資格を具えたものとなるための工夫方途を意味 8 ) する」 とし, 「知識技能の末」 に走った従来の教育を批判して 「人格修養」 を強調する1 . こうして教師 「修養」 論における教育論は, 固定的な知識技能のつめ込みをもっ て教育とするの でなく, 徳性・知識・技能の統合された人格による感化をもっ て, 教育作用の中核としようとする ものであり, したがっ て教師には徳性・知識・技能が人格に統合されるための自発的修養が要請さ れる, そして教師の自発的修養と子供への人格的感化を保障するために, 教師に一層広範な自由が 与えられなければならないということになる. それは, 教師と校長または教育行政との関 係におけ る, 教師の教育権限の独立の保障をいかにするかの問題であるといえる, 沢柳政太郎もその教師論 において, 「教師は学校長の下にあるというも他の社会で長の下に部下があるというのと極を異に するのである. 実に教師は教授するに当ては独立である, 叉教室の主権者であるというてもよい, ) 9 何人もその行動を制限することは出来ない1 」 との べ, そういう自由の中では じめて人格的感化と しての教育が可能になるという. こうして, 教師の教育権限の独立論が導かれる, 明治期の教権独立論は, 主として教育行政の一般行政からの独立論として存在し, 必ず しも教師 0 ) の専門性を基礎として構築されたものではなかったといわれる2 . しかし教師 「修養」 論において は, それとおもむきを異にし, 教師の自由あるいは専門自律性を基礎とする教権独立論の萌芽をみ ることができる, たとえば 「教権が確立」 しなければ教育はないと同じだと して, 「緊要なる事は 独立的態度であ る. 教師は己れが任ずる職務に向っ ては一切他人の容壕を許さぬ如き態度あるを要 する, 予は汝等を引受けたり, 汝等の是非善悪は挙げて予の双手の中に在り底の気慨と覚悟とをも 1 ) 」 という っ て, 教授及び訓練の事に当るべ きもの……自ら進んで不霧独立的に事を処すべ きこと2 所論が生れる. ー 4 ー.

(6) . 第 23 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要 (第一部C). 7年9月 昭和4. このような文脈は, 師教「修養」論との 関係においてしばしば見出すことができる, 修養とは 「何 物にも動かされない強い信念 の養成である. 『深と強』 これを修養のモッ トーとして一切の存 在を ) 2 」 ことであり, そして 「堅固なる自信 包容し, 一切の事象に同感し得る欄大なる精神生活を営む2 3 ) 」 ことが必要 を持っ て」 「子供に対して確実なる権威を持ち, 自らの信ずる所を子供に強行する2 だといわれる。 したがっ て 「自己の主義は主義として今の所は長上の意に迎合 して, ひたすら忠勤 ) 4 」 ような, 官僚主義的傾 振りを示す. ……自己の成績を挙 げるために児童を犠牲に して顧みない2 向に対 する批判がつねにともなうこ とになる。 その他稲毛 説風の 「教育者の権威を論 ず」 という小 5 ) 論や, 三浦修吾 「学校教師論」 における 「教師の権威」 などは2 , 修養を通しての教師の権威の確 立, それを根拠とする教権の独立を意図す るものにほかならない, このような教師の教権独立論は,学級経営の学校経営からの独立論を含むものであっ た. 沢正「学 級経営案」 によると, 「教権は官権に比して部分尊重の性質が多いものであり, 教育者の人格的影 響は教育の骨子であ る. 学級担任者のために吾 人は其の教権と人格とを認められんことを祈っ て己 6 ) まぬ2 」 と, 「教権」 概念を 「官権」 概念に相対す るものとしてとりあげる. すなわち教師の教権 にもとづく学級経営の 独立の主張にほかならない. もちろん彼の学級経営論では特に学校経営との ) 7 調和をとくのであり2 , そこにその限界を否定しえないが, 教師 「修養」 論に関連する教権独立論 としてみのがすことはできない. そ してそれは 「徒らに小学校長の指図するのをのみ僕っ て居るの ) 3 」 ことを要求する所論とも関連 でな しに, 自己の職権と信ずるところのことを遺憾なく実行する2 して, 把 握 す る こ とが で き る の で あ る.. このような教権独立論の発生は, 修養論そのものの基本的性格と関連する. 新渡戸稲造によると 9 ) 」 ことができるよう, 自己を養うこと 修養とは 「自己が其意志の力により自己の一身を支配する2 であるともいうように, 自己支配についての自律性の要求を表現したものといえる. 「昔より己れ を去れとか, 己れを棄てよ との教えは, 己れの悪性を棄てよの意味であっ て, その反対に私に顧み 0 ) 」 という自己の確立, したがっ て外部の諸条件によっ て て次しからねば, 千万人と難も我住かん3 が 動かされない しっ かり した自己の確立 , 彼 の修養論の一つのねらいである. こういう意味での自 己支配についての自律性の要求が, 教師 「修養」 論においては, 国家権力による強制をも含めて他 律を排する姿勢と して, 教権独立論を生み出していく ものと考えられる. そ してそれは, 教師 「修 養」 論が生み出した教職 の専門職的意識の萌芽形態とみることができる. しかし, 教師 「修養」 論は前述のように, 上から進められる家族国家観や道徳思想と正面から対 立することなく, 自律性の強弱を反映 してさまざまの様相をもっ て展開される。これは「諸々のく修 1 ) 」 さと して指摘されることと関係があり, 特に 養思想>が全体として帯びていた批評機能の脆弱3 折衷主義の問題として後に 考察を加えなければならない, 圏 教 師 「修養」 論と新教育 論 教権独立論からも類推 しうるように, 教師 「修養」 論は, 官僚制組織を通して国定教科書の知識 技能の詰込みとして行なわれた国家主義教育論と根拠を異にし, また明治以降の欧米輸入教育論 と も異なり, 伝統的修養思想にね ざした土着的ともいえる新教育論を展開 させることになる, それは 自分の心を生き生きとたもつ工夫をこらし, 知的経験も含むあらゆる経験を心を養う養分と して吸 収し, 自分の力によっ て一歩一歩自己発展をはかるという修養論を基礎に展開されるのである. す なわち, 知識技能の獲得あるいは道徳に関して, 客観的理想への到達ではなく, 子供が 「終生向上 発展」 するよう 「修養をたのしむものに仕立てること3の」 が, その教育論の基礎となる. このよう な修養論的新教育論の代表的事例として, 芦田恵之肋にはじまる綴方教育論及び木下竹次のr学習」 ー 5 ー.

(7) . Vo l .23 No ,I. ido Univer i i lo i f Hokka Journa t t s on (Sec on IC) y of Bducat. Sept , ,1972. 論をとりあげることにする. なお, 大正期の新教育運動は一般に欧米の新教育運動の影響によるところ大であることは周知の とおりで, しかも伝統的思想にね ざすものであることもしばしば指摘されるところである, したが っ てその重点のおき方により, 新教育論にはさまざまのものがあるが, 前記二者はより多く伝統的 「修養」 思想に依拠するも のといえよう, また, 大正期の新教育論は一般的には前記二者も含めて 国家主義教育を批判 しながら正面から対立することはさけ, 欧米の新教育思想も都合のよいものは とり入れながら思想の根拠を異にするのであり, その折衷主義的性格はおおいがたい, これは後の 考察の問題と したい. i) 綴方教育論. 昭和初期の生活綴方運動につながる大正期の綴方教育論, 特に芦田恵之助, 峯地光重, 田上新吉らの 「随意避題」 ・ 「人生科」・「生活指導」 としての綴方教育論は, 教師 「修 養」 論の上述のような意味における発展形態であると考えることができる. まず, 芦田恵之助の 「綴り方」 「読み方」 に関する一連の諸著作では, 教師の 「修養」 問題を論 じそこから教育論を展開するという方法がみられる, その教師の 「修養」 問題は, 旧教育における 教師のあり方の反省から出発する, すなわち, 知識技能の教え込みの技術者としての教師, そ して そのための 「教授方法の末に走っ て研究」 するだけの教師に対する反省が出発点となる, たとえば 「倉庫に物品を積込むやぅな傾がなお失せない. 随っ て七八つの子供で, 神経衰弱の味をおぼえた り」 するような教育, それを 「教育家の心機一転」 によっ て改革しなければならないという発想が 3 ) ある3 , そして, 「比較試験の結果によっ て学校の優劣を判じようとする」 教育を批判し, また「子 供の日常生活に融合しない知識」 が, 糊で紙をは りつけたもののように剥げ落ちる様を指摘するの 4 ) であ る3 ,. このような旧教育における教師のあり方の反省から, 彼は 「本に帰る」 という表現をもっ て教師 の修養を強調する, この 「本に帰る」 とは, 「方法の末を追っ た過去40年の夢を打破して, その本 5 ) に帰る3 」 ということから伺えるように, 知識詰込みでなく, 教育本来の原則にたちかえり, ある いは伝統的教育観にたちかえり, いわゆる 「人格」 的接触による無限の 「自己発展」 を続ける子供 への教育を意図するものであっ た. すなわち, 一方 では 「児童の学習態度の確立」と, 他方では「教 師の発動的態度」 ,その両者の人格的接触としての教育を構想するものであっ た3の。 そのために教師 が の修養 重要であり, 彼は 「本に帰る道」 が 「修養」 であるという, こうして 「本に帰る」 とは教 育本来の原則にたちかえるという意味だけ でなく, 人間の 「本性」 にた うかえるための修養を意味 するも のであっ た, 彼は 「吾人が児童に接する場合に, その本性の上に立っ て, 七情に乱されなか ったら, 止水の面の影のやうに少 しも乱るる所はあるまい, 喜怒哀楽愛憎欲の支配をうけないで児 7 ) 童をそのままに見る3 」 ことが できるという. こうして彼は 「静座法」 という自らの体験をもとに 「天地自然の大道に融合する鶏) 」 人間への修養を基礎として, 教師の人格的影響を重視するのであ る,. このように彼における教育の目的は, 子供に知識の修得をさせるだけでなく, 自己 のもを生き生 きとたもち, 自ら自己を拡大発展させるような 「修養をたのしむものに仕立てる」 ことであっ た, したがって多くの教科教材も 「児童の人生に結びつけ」 て学ばせ, 子供の自己発展の養分となるも のにしなけれ ばならない, 「児童の学ばんとする事, 求めんとする事に応 じて, 適材をもっ て教授 ) 9 し……諸教科悉く人生科の一分科3 」 としなければならないという. そ して特に綴方に関 しては人 生科における重要な役割が与えられる. 綴方における文章成立の順序あるいは生活記録としての綴 方教育の過程が, 「修養」 の過程と同じであるという発想があったからである, 彼における「修養」 ー 6 ー.

(8) . 第 23 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部C). 7年9月 昭和4. とは, 上述のように 「過去の行動現在の心事等を内観して」 「自然の大道に融合する」 ことでもあ った. それと同様綴方においても過去の行動 現在の考え方など 「書かうとする材料について しきり 0 ) 」 記述にう に内観につとめる, ……内観の結果材料が集まれば之に関係を附して主想をうち立て4 つることになる. そ して教師の指導と子供の行動のっみ重ねを経て, さらに新 しい綴方が生み出さ れていく. この過程は 「修養」 の過程に外ならない. した がっ てまた綴方は, 子供お日常生活の事 実 から出発 した 「随意選題」 でなければならず, 技能教科としてでなく, 「人生科」 の中心として 位置 づけられていくのである, 芦田のこの綴方教育論に学び「綴り方は児童の人生科である」とし, 伝統的修養論にねざした 「生 活指導」 としての綴方教育論を展開 したのが峰地光重であり, また「人格的生命の創造的自己活動」 を促す べき綴方教育論を展開したのが田上新吉である. 彼等はともに, 自ら 「草木のそれのように 伸び育って行く」 人間の 「生命」 についての把握を前提とする. そ して 「最も大切な事柄は植物に 肥料が必要であるように, 心の養分をなるべく多く取り入れることである」が, 「<無限の求め手> が眠っ ていると, いかにその人の周囲に高価な知識が押 しかかっ ていても, その人はそれを煙のよ 1 ) 」 という, 心を生き生きとたもち 「無限の求め手」 を準備し, 心を うに見遇 してしまうのである4 養う養分をつねに吸収し, 反省と実行をつみ重ねて自己拡大をはかるという, 修養論にねざした綴 方教育論が進められている. 峰地によると, たとえば 「値打のある心境を体験 して表現する, 表現 することによっ てその尊い心境を確かりと把握する, そうして一歩より一歩は高くその生命を創造 ) 2 して行く4 」 のが綴方であり, 同様に田上も 「自ら向上進展しつつある子供の生活を, 子供自らが 内省し, 整理し, 表現するような態度と能力とを養い, 之によってその子供 の個を自ら理想に基 づ ) 3 」 と, 綴方教育の目的を結論的にのべている. いて更に更に改造進転せしめるにある4 「生活綴方」 の原流を東洋的伝統 思想にもとづく芦田の, 陥意送題綴方教育論におこうとする見 5年) に示されているが, 以上のよう 方は, 中内敏夫著 「生活綴方成立史研究」 (明治図書, 昭和4 に特 に修養論的発想にもとづく綴方教育論が, 大正期の新しい一つの潮流として, 峰地, 田上ある いは田中豊太郎らによって形づく られるのである. 木下竹次の 「学習」 の理論は, 大正期新教育論の重要な一つとして高 く評価されている, そ してそれは樋口勘次郎や谷本富らの 系譜をひくと一般に指摘され る と こ ろ で, また欧米新教育の動向や成果を一応自己の視野に入れた教育論ともいえよう, しかし 「学習」 i i) 木下竹次の教育論. 理論の基礎は, 伝統的修養思想におうところ極めて大であるといえる, 彼は従来の 「他律的教育」 を批判し, 「自律的学習」の主張をもっ て, 学習理論の出発点とする, そして 「生活によっ てよりよく生きることを体得するのが学習で, 学習は生活を離れて存するもの 4 ) 」 論へと発展させる. これは生活に必要な知識技能を, 生活の中で ではない」 と, 「生活即学習4 5 ) 」が 自律的に単に習得 させるというものではない. 彼は しばしば人間の 「生命には無限の創造力4 あるとのベ, 「人らしい生活を創造」 していきたいとのべ るように, 彼の 「学習」 は 知識技能の 習 得のみを最終目的 とするものではなかった, 彼における 「学習」 の目的は, 到達点を示すものでは 6 ) 」 という表現をもっ て示される. ここ なく, 「自我の拡張」 とか 「大自己を建設する向上的生活4 で完成された 「大自己」 そのものも目的ではなく, 「大に求めて大に進歩する自己が大自己」 であ り, 「人生の向上発展に樽身の勇気を揮いその発展 に決心 の魔を感じなが ら, 他方においては不完 ) 7 」 全があるから発展が出来ることを意識 し, 自分は永久に未成品であることを希う4 ,そういう現実 的自己の中に大自己も存在するとし, 大自己への向上的生活そのものに 「学習」 の目的をおこうと するのが彼の 「学習」 論にほかならない..

(9) . Vo 1 .23 No .I. i lo f Hokka i do Un i i f Bducat ion IC) t Journa t r ve s on (Sec yo. Sept , ,1972. このようにして彼の 「生活即学習」 の 「生活」 概念は, 「身体と知情意の精神作用 との運一的活 8 ) 動4 」 であるということになる, すなわわ 「生活」 は諸側面をもち, それが人格において統一され 発展することが 必要で, その自己発展を促すのか 「学習」 であるということになる, したがって自 己形成論としての修養言 青 きと同じように, 「学習」 はあくまで自律的でなけれ ばならないのである. ではその中で教師の役割はいかに位置づけられるか, 「教師は心と心との感応作用を以 、っ て, 学習 9 ) 者に人格的感化を及ぼ4 」 すものであり, 「鼓舞奨励する人であり, 忠告者であり, 案内者で無く 0 ) てはならぬ, 叉教師は実に彼等の共学者5 」 でなけれ ばならぬと, その役割りを規定する. すなわ ち 「修養」 にはげむ子供と教師の, 全人格的相互作用の中に, 教育作用の基礎をおこうとするもの と い え る,. このような教師と子供の教育的関係の中で, 徳性・知識・技能をもって統一される人格への 「修 養」 ないし 「自律的学習」 が, 教師には極めて重要となる. したが っ て教師のいわゆる 「自律的」 研修が, 保障されるための学校経営が問題となる. 彼は, 「教師の自由を拘束せず, 存分に創造の 才能を発揮させる」 , 「教師に自己学習の機会を捉 , 「学校組織の上から協同的に能力を発揮させる」 えさせる」 な ど50, 研修のための経営的手段を要求している, 以上のように彼の 「学習」 理論は, 「修養」 論を基礎に構築された ものであり, 学習形態論とし ての 「独自学習」 「相互学習」 の主張も, 「合科学習」 の理論と実践も, その範時を出るものでは なかっ た. たとえば, 「相互に相輔けて」 行なう相互学習は, 彼によると 「全我活動」 を促すもの ) 2 で, そこに 「全我の発展」 を期待するのであり5 , 合科学習も 「全一的生活を遂 げて全人格の運一 3 ) 的発展を図る5 」 ものであっ て, 諸側面の統一された人格への修養としての学習を意図するもので あった. すなわち自己の統一的な生活の発展のために, さま ざまの知識や経験をも吸収しながら, 心を生き生きとたもち自己発展をはかるというのが, 彼の人間形成論であり 「学習」 論であるとい える. それは固定的な知識技能のつめ込みを排し, 「生活即学習」 論であるために, た しかに 「新 教育論」 であり, またそれが伝統的修養思想にねざしているという意味において, 極めて日本的 プ 4 ) ラ グマ ティ ズ ム の 性格 を もつ も の で あ る と い え る5 .. 教師 「修養」 論の折衷主義的性格 綴方教育論や 「学習」 論の場合だけにかぎらず, 大正期新教育論の多くは, 多かれ少なかれ以上 のような修養言 論的性格をもっ ていたといえる. 大正期新教育運動をその観点から総合的に検討する 必要があるが, それは別の機会にゆ づ らざるをえない. ともかくも, 修養論は個人の人格を軸とし て自己発展をはかり, しかも自己をとりまく現状の改善に目をむける積極性をも っていた, それが 教師のあり方を規定する教育体制への批判と, 新教育論を生み出す基礎であった, しかしそれはす でに指摘したように, また 「修養思想が全体として帯びていた批評機能の脆弱さ」 が指摘されるよ うに, 国家主義的旧教育を批判 しながらそれと正面から対立することなく, また東洋的伝統思想に 論の展 根拠をおきながら先進国の最新の教育をもとり入れ, 国民大衆の信用をつな ぐにたる新教育言 開を試みるのである. このように修養論的教育論の折衷主義的性格を否定することができない. そ れは, 修養論そのものが自己発展のたしになると思われるす べての思想や経験を, 必要に応 じて, 極端にいえば無原則的に自己に追加していくという, 折衷主義的性格をも っていたことに起因する と考える. そこでまず, 「修養」 論における 「宗教の問題」 に関連して, その性格をとらえていく こ と に す る.. 1 ) 「修養」 における宗教の問題 { - 8 ー.

(10) . 第 23 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部C). 昭和47年9月. 「修養」 とはすでにみたように, 心を生き生きとたもち, 自己の理想にむかって反省と実行をか きね, 自己発展をはかることであ った. それはまた自己支配についての自律性の要求でもあり, 自 己の追求を通して自己の存 在の意味を問い, 自己の存在の最後のより どころを求めることであると もいえよう. すなわち現実的自己に満足することが できず, 彼方に自己の存在の意味をさがし, よ りどころをつかもうとする自己超越の 発想が, 「修養」 論には含まれているといえる. したが って 「修養」 論はしばしを 宗教の問題をとりあげる, 現実的自己を超越 して自己の存在のより どころを 51 宗教に求め, たとえば 「安心立命5 i への自己追求こそ 「修養」 であるということにもなる. で は, 自己 の 存 在 の よ り どこ ろ を 宗 教 に 求 め る と は い か な る こ と で あ ろ う か. そ の 一 つ に は, 自. 己をこえた普遍的絶対者の視点から自己を見, 自己の絶対的放棄により, あるいは神の意志への絶 対的服従を通 して, 新 しい自己を発見 し自己を意義づけるという立場もある, しかし, 「修養」 論 における自己超越の立場は, 「自らのものの考え方, 修養, あるいは悟りというか, 何らかの主体 6 ) 的, 心理的操作によ って, 自己を超越する契機をつくり出5 」 すような, 極めて日本的自己超越の 立場であると考えられる. したが って 「修養」 論ではしばしば 「宗教」 が問題となり, 「安心立命」 の言葉が使われるが, 絶対的超越者としての神への絶対的信仰の問題としてよりも, 自己追求の過 程で都合のよいものを適当にとり入れるという, あるいは神々を複数的に信仰するという折衷主義 的立場がみられる. 多くの 「修養」 論が, 仏教・儒教・神道な ど東洋的宗教や道徳思想に根拠をお きながら, しかもそれらをしばしば並列的にとり入れ, 自由自在につかいわけ, 結びつけながら展 開するのである. たとえば, 「修養のために要する信仰は消極的のあきらめや, 浅薄な悟りであ ってはならぬ, 自 我を高大に し生活を改善し行く動力とな ってこそ, 信仰は始めて価値あるものとなる. ……神を信 ずるもよい, 仏を信ずるもいい, 木や石を信ずるもいい. 吾々の衷心縄望するものは要するに自己 7 ) の生活を肯定し, 力と光と慰籍とを与える信仰でさえあればいい5 」 という. こうして しばしば, 8 ) 神・仏・釈迦・如来・宇宙と ・いう言葉が同時に使われていくの である5 . 芦田恵之助によると, 「吾人が天地自然の運行と軌を一にする大道をあゆむことを覚得」 する, あるいは 「過去の行動現在の心事等を内観して, それが天地自然の大道に融合する」 というように 9 ) 彼は自我と大自然との融合に おいて 「修養」 をとらえる5 , そのために自己への執着, 自己主張, 自己保存の欲求を超越し, 大自然に即して流されてゆくことに素直になる境地を求めた, すなわち 「端座腹目して自己の内観につとめる」 こと, 「自然にまかせて多く意を用いない, 意識界にあら わるるものを静かにながめて去る物は追わず来る物はとがめない」 という方法により, 「世相を超 越した安住の場所」 たる 「道」 を求めようとする. そのかぎりにおいて彼は, 場合によ っては禅を 0 ) 論じ, ある時は親露上人を論ずるのである6 . このように自分という小我を去 って, 普遍的大我即ち無我の命ずるままに自分をまかせるという 自己超越こそが, 真の自己実現の手段であるという考えにたち, 神・仏・釈迦・キリストな ど, 都 合よく利用できるものはすべて利用するという立場が, 当時の多くの修養論にはみられる. したが って場合によ っては, 「天」 や 「宇宙」 とだけではなく, 絶対的だとみえる国家的要請と自我との 融合をも って, 修養であるとする考え方を容認することになる. 修養論における自己超越の発想が 自我の確立を追求 しようとするものであるにかかわらず, その追求は自己と矛盾する現実に対する 価値観による対決あるいは現実の変革への志向性が弱いのである6D, これは修養論の折衷主義的性 格によると考えられる. したが ってそれは国家主義的旧教育を批判しながら, それに徹底すること をさけ, 場合によ ってはそれと一体化する理論を準備することになる. この 点さらに, 教師「修養」 論に含まれる聖職教師論と関連 して考察することが必要である,.

(11) . Vo l .23 No .I. i l of Hokka ido Uni i i t Journa ver s on (Se ct on IC) y of Educat. Sept , ,1972. 2 1 新教育論の折衷主義 ( 前述の綴方教育論も木下の 「学習」 理論も, 「自己発展」 とか 「自己拡大」 という言葉を一つの スローガンとしていた. それは個人を軸として自己発展のたしになるものす べてを, 養分として吸 収し追加していくという折衷主義の方法をとり, そのためにまた心を生き生きとだもつ人格を準備 しながら, 自己発展をはかろうとするものであ った. したが ってそれは, 客観的世界の実在を前提 とせず, それを軸とする思想展開の方法をとらない. そのために容観的学門体系を系統的に教え込 む詰込み主義を批判し, 新教育としての面目を充分にたもちえた, そ してあくまで現実的自己を軸 とし, たとえば綴方に関しては, 自分の行動と反省と記述のくりかえし, ないしは生活と思想の交 流を通して自己の進歩発展をはかるというように, 極めて プラ グマティ ズムの性格をもつものであ っ た.. このような性格のゆえに, 客観的な原理原則に固執せず, 都合のよいものだけを吸収し, 都合の わるいものは排除するという態度をとる. こうして天皇制国家の秩序と支配の中で, 個人と国家を きびしく対立させることは, 国家主義的旧教育を批判しなが らも, さけるのである, したがってそ の新教育論は, 個人を軸とするものでありながら, 一方においては国家を軸とし, 国家の教育とし て信用をつなぐにたる必要なものを, 欧米の新教育論からも伝統的宗教思想からも吸収し, 追加し てゆくという方法が しばしみ られる. 芦田の場合も明治末期より大正初期にいたる民衆運動の次第 ) 2 」 という基本的かまえ に高まる社会情況を背景に, 「国家の将来については衷心憂うる所がある6 3 ) 」 であると, 国家を軸とする発想がしばしば登場する, があり, 修養の人こそ 「国運発展の基礎6 0年朝鮮総督府の国語読本編修官と しての朝鮮における彼の活動は, 植民地教育政策と そして大正1 4 ) 融合することになる6 , 木下の 「学習」 理論の場合も同様で, 個人を軸とする修養論を基礎におき 5 ) 」 への教育論を, 都合よく ながら, たとえば 「国家の生存発展を図って行かうという国家的精神6 折衷するという方法をとる. それが遂には彼をして, 「民衆の立場からはなれ, 反社会主義思想を 6 )」 つ か せ る に い た る も の で あ っ た と い え よ う. 経 て フ ァ シズ ム 的 軍 国 主 義 の 教 育 に も 結 び6. このような教師 「修養」 論における折衷主 義は, 「修養」 における自己追求の限界の問題として とらえるべきであろう. そこにおける自己は, 天皇制国家の秩序と支配の中で, 自己の信念や思想 についてゆづることのできない権威と責任に固執しない自己であ ったといえよう, 「修養」 とは本 来自己支配についての自律性の要求を意味 し, 外的諸条件に動かされない しっかり した自己を見出 そうとするものであ ったし, そこから 「教権独立論」 も生み出されたものであ った, しかし, 新渡 戸の 「修養」 論においても, 「肉体情欲の為に心を乱さぬ様, 心が主とな って, 身体の動作叉は志 ) 7 」 必要をの の向く所を定め, 整然として順序正しく方角を誤らぬ様, 挙動の索れぬ様, 進み行く6 べるように, 「修養」 とは自分の心のき寺ち方を修練し, 自らをつくりあげる自己形成法であり, 精 ) 8 神と物質を二元的にとらえ6 , 精神が物質をしたがえうるような修練として, 「修養」 をとらえる 伝統が継承されるのである. したが って 「修養」 における自己 追求は, 物質的肉体的欲望に動かされない自己への形成を意味 するといえる. こうして教師 ”修養」 論は, 教師をとりまく物質的諸条件を不問に付し, またはそ れを正当化し, さらには生活的諸権利の主張を否 定する, いわゆる聖職教師論につながるものであ ったといえる. すなわち 「妄りに権利など云々 して外部から自己の拡大」 をはかるのでなく, 内面 的精神的側面での自己拡大自己充実をはかろうとするのが, 大正期教師 「修養」 論をつらぬく一つ 9 ) の発 想で あ っ た と い え る6 ,. 以上のように 「修養」 における自己追求は徹底性を欠き, したが って自己と矛盾する現実の変革 - 10 -.

(12) . 第 23 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部C). 7年9月 昭和4. への志向性は脆弱なものとなる. 自己追求の問題は, 一つには信仰の問題として検討する必要があ るが, 「修養」 論が個人を軸として都合のよいもの を追加するという折衷主義の性格をもつ点の反 省が一方において重要である. そして単に個人を軸とするだけでなく, 同時に客観的な科学の世 界 を軸とする思想展開の方法をとり入れることが重要であると考える。それは,不徹底ながらも「修養」 論のもつ現状改革の進歩性に, 科学的根拠とその強靭さを与えることになると考えるからである. <結. 語>. 明治末期以降の 「修養」 運動に呼応して幅広く展開されてい った教師 「修養」 論は, 自ら自己を 向上させる意味での 「自己発展」 と, 教師の子供に対する人格的感化による子供の 「自己発展」 を 期待する教育論へと発展する, それは知識技能の詰込みに終始する旧教育と異なり, 一般的修養論 と同様に, 「内観」 「反省」 によ って心を生き生きとたもち, あ らゆる経験を養分として吸収しな がら自己の目標にむか って自ら向上をはかる 「自己発展」 を基本にする, 「自学」 的な新教育論で あ っ た.. また, 自己支配についての自律性の要求の表現としての修養論の基本的性格から, 教師 「修養」 ・めて他律を排する姿勢として, 教権独立論を生み出す. 論においては, 国家権力による強制をも会 すなわち, 官僚制機構を通しての詰込主義の明治教育体制を批判 し, 徳性・知識・技能が人格に統 合されるための自発的 「修養」 と, その教師の子供に対する感化とを, 実質的に保障すべく教師に 広範な自由が要請され, 教権独立論が生み出された. それは萌芽的ではあるが, 教師の専門自律性 の要請としての教権独立論であ ったといえる. 大正期新教育論は, 欧米の新教育運動の影響による点も否定 しえないが, 基本的には以上のよう な日本的 「修養」 思想に依拠するのである. 芦田恵之肋をはじめとする峰地光重・田上新吉等の綴 方教育論や, 木下竹次の 「学習」 理論は, 教師 「修養」 論の発展形態であるといえる, すなわち, 前者は自分の行動と反省と記述のくりかえ し, ないしは生活と思想の交 流を通して自己の進歩発展 をはかる 「修養」 的新教育論であり, 後者は固定的知識技能のつめ込みを排する 「自律的学習」 と して, 「修養」 論におきかえうるものであ った. これはともに, 普遍的客観的実在としての理想に 自己を一致させることに目標をおくのでなく, 毎日の具体的行動を通 して心を生き生 .きとたも う, 自己の向上あるいは生活の向上をはかるという 「修養」 的教育論であり, 一種のプラグマティ ズム で あ っ た の で あ る.. 以上のように修養論的性格をもつ大正期新教育論は, 個人の人格を軸とする自己発展論を基礎と するものであり, そ して自己をとりまく現状の改善に目をむける積極性をも っていた. しかし教師 をとりまく国家主義の教育体制を批判 しなが ら, それと正面から対立することなく場合によ っては それと一体化する理論を準備するものであった. すなわち, 教育論を進めるにあた って, 基本的に は個人を軸とし, 自己発展のた しになるものを追加するという方法をとり, 場合によ っては国家の 要請をも自己に吸収しなが ら, 個人と国家をきびしく対立させることをさけるのである. したが っ て他方, 国家を軸とする発想が同時に存 在し, 先進国の最新の教育をもとり入れながら, 国家の教 育として信用をつなくにたるものを, 必要に応 じて追加 していくという折衷主義的方法がみ られる の で あ る,. このことは, 修養論が本来において, 自己の追求を通して自己の存在の意味を問い, 自己の確立 を求めるものでありなが ら, その徹底を欠くことに関連することと考え られる, 修養論における宗 教の問題に しても, 絶対的超越者としての神への絶対的信仰の問題と してよりも, 自己追求の過程 で都合のよいものを適当にとり入れ, あるいは神々を複数的に信仰するという, 折衷主義の立場が - 11 -.

(13) . VO 1 ,23 No .1. do Uni i i i lof Hokka i Journa t ver t s t on (Sec on IC) y of 賦duca. SePt , ,1972. 多くみ られる. こうして, 自己と矛盾する現実への対決あるいは変革への志向性は極めて弱いもの とな ったのである, したが って, 個人を軸としながらも, 絶対的とみえる国家的要請も都合によ っ てうけ入れるという発想となる. 大正期新教育論の進歩性とその限界を, ここに見出すことができ る の で あ る.. <註> 1) 明治末期以降の 「修養」 思想の性格規定については, 武田清子 「キリスト教受容の方法と課題--新渡戸稲 造の思想をめぐって--」 (武田清子編 「思想史の方法と対象」 創女社, 昭和3 6年) ,及び, 宮川透 「日本思想 史における<修養>思想--清沢満之の 「精神主義」 を中心に--」 (古田・作田・生松編 「近代日本社会思 1」 有斐閣, 昭和46年) の示唆による, 想史1 98~9頁, 宮川 前掲書7 5頁, 及び, 武田 「天皇制思想 2) その他さまざまの修養運動について, 武田 前掲書2 6 5 5頁以降参照. と教育」 明治図書, 19 4年, 1 8頁, 3) 沢柳政太郎 「教師及校長論」 明治42年, 2頁, 1 5年)22~3頁. 4) 新渡戸稲造 「修養」 (「新渡戸稲造全集第7巻」教化館. 昭和4 0巻」 教女館. 昭和45年)21 6~7頁, 及び, 新渡戸 「人生読本」 (「新渡戸稲造全集第1 8 5) 新渡戸 同上書 8 頁, 等参照, 71頁) 4頁) 6) 馬上孝太郎 「教育教授の欠陥」 (明治42年, 8 , 及び河辺光次郎 「小学教師の感化」(明治43年, 1 など, 教師の人格的感化を重視する所論をみること ができる. 修養」 明治44年 9 4頁. 7) 中島刀造 「教育者の人格・ 02-3頁, 8) 馬 上 前掲書 97頁. 1 6頁以降参照. これには 「毎週木曜日放課後」 の 「教材 4年 57 9) 原田義蔵 「事実に基きたる学校教育」 明治4 研究会」 の 「規定」 ,あるいは毎月二回ずつ開く 「研究事項発表会」 の 「規定」 等が記録されている, 0) 広島師範代用附属大河尋常高等小学 校 「郷土を本位とせる学校教育の実際」 大正4年.8 42一863頁参照, 1 5頁.19頁. 1 1) 芦田恵之助 「綴り方教授に関する教師の修養」 大正4年.1 12) 同上書 25一6頁, 09頁. 年 1 13) 三沢糾、 「教師の覚醒と其修養」 .明治44 7一8頁. 1 4) 河辺光次郎 前掲書 17 1 5) 馬上 前掲書 9 4頁, 6) この点に関しては, 拙稿 「明治末期教職倫理の一性格一教育行政官僚制の前近代性に関連して一」 (北海道 1 教育大学紀要 第21巻1号所収) において, 谷本富の場合を中心にした明治末期 「修養論」 を分折 して, 明ら かにした. 17) 中島 前掲書 6頁, 58頁. また 「教育者の価値は教授法の巧拙, 教育の効果は学 1 8) 稲毛説風 「現代教育者之真生活」 大正2年, 1 業点数の増加と考へられる様になった, 此の如き大潮の間に教育者の人格修養とか精神修養とかいふ事の度外 0頁) という. 山松鶴古 「小学教育最新の傾向」 (大正3年) によると, 「教師は如何にも 視された……」(1 6 5 3一 勤人の根性を遺憾なく発揮 して居った……肝心の子供などは其方除けにして居るといふやぅなこと」 (2 4頁) があるとのべている, 3頁, また, 桜井賢三 「現代の教育者」 (大正14年) においても, 「教師には他の社会の如 1 9) 沢柳 前掲書 1 8頁) く, 階級的差別は殆どないのである」(9 , 「教育の仕事は他の官吏などの社会よりも自由の範囲が広い. 是は教育本来の性質上当然のことである」 (5 4頁) とのべている. 0) 平原春好 「日本教育行政研究序説」 東京大学出版会, 昭和45年,401頁. 及び, 石戸谷哲夫 「日本教員史研 2 88頁参照. 究」 講談社, 昭和33年.1 79一1 0頁, 5 21) 馬上 前掲書 1 41頁. 1 22 ) 明治教育社 「若き教師の進む可き道」 大正7年, 15頁. 2 47頁, 3) 山松 前掲書 2 2 4) 明治教育社 前掲書 37頁. 5) 稲毛説風 「新時代の教育及教育者」 大正9年, 459頁以降, 三浦修吾 「学校教師論」 大正1 2 3年, 171頁以降な どを参照, 0頁, 2 6) 沢正 「学級経営案」 大正6年, 1 刻経営論における家族主義-構造と機能-」 (北海道教育大学紀要第2 2巻 2 7) この事に関して, 拙稿 「大正期学校 1号, 所収) において, 特に家族主義の観点から明らかにした. 2 8) 小学教育研究会 「立憲的小学教育の実際」 大正5年 208頁, 29) 新渡戸 前掲書 全集第7巻 21頁.. 一 12 一.

(14) . 第 23 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部C). 7年9月 昭和4. 0巻 238頁, 30) 新渡戸 前掲書 全集第1 頁 7 2 宮川透 前掲書 31) , 32) 芦田 前掲書 33頁. 33) 芦田 前掲書 73一4頁. 34) 芦田恵之助 「読み方教授」 大正5年 11頁. 35) 芦田 前掲書 「修養」 8頁. 36) 芦田 前掲書 「識み方」 4-5頁参照. 0頁. 37) 芦田 前掲書 「修養」1 38) 同上書 80頁. 39) 同上書 57一8頁. 0頁. 40) 同上書 8 6頁. 3頁, 25一2 41) 峰地光重 「文化中心綴方新教授法」 大正11年 2 頁 同上書 1 8 42) . 50頁. 0年 1 43) 田上新吉 「生命の綴方教授」 大正1 44) 木下竹次 「学習原論」 大正12年 8頁. 45) 同上書 23頁. 46) 同上書 30頁. 5年 65頁, 47) 木下竹次 「学習各論 上巻」 大正1 48) 同上書 56頁. 49) 木下 前掲書 「原論」 9頁, 50) 同上書 309頁. 0頁. 46一35 51) 同上書 3 52) 木下 前掲書 「各論」291頁, 53) 同上書 343頁. 3年) においても, 木下の 「教育方法理論はプラグマティ 5 4) 中野光 「大正自由教育の研究」 (禁明書房, 昭和4 している と 頁) 」( 1 7 7 ズムの性格を色濃く滞びていた . i学 校師 55) 「安心立命」 という言葉は教師 「修養」 論において しば uばみられるところで, 浦谷熊吉 「系統的′ 」 読み方教授 「 前掲書 頁 7 芦田 )2 4 正3年 ( , 論」 〔明治43年)190頁, 山松鶴吉 「小学教育最新の傾向」 大 (31頁) な ど参照. 56) 武田清子 「自己超越の発想」(「近代日本思想史講座」 3. 筑摩書房, 昭和35年)75頁. なお, この論文によ ると, 自己超越の発想の三つの類型と して, 「物」 による自己超越, 「人」 による然己超越, 「神」 による自 」 「人」 による自己超越に関して論じている. 己超越をあげ, . 日本における自己超越の問題と して, 「物 及び 71頁. 5 7) 稲毛 前掲書 「現代教育者の真生活」 1 5頁, 等を参照, 88頁, 鯵坂国芳 「教育の根本問題と しての宗教」 大正8年 5 5 8) 三浦 前掲書 266一2 59) 芦田 前掲書 r修養」55頁, 80頁. 0) 同上書 17頁, 37頁参照. 6 7頁参照, 61) 武田 前掲論文 「自己超越の発想」9 92) 芦田 前掲書 「修養」31頁. 6 3) 芦田 前掲書 「読み方」38頁. 6 4) 小田切正 「芦田恵之肋研究」 (日本教育学会 「教育学研究」 第34巻第1号所収)56頁参照. 65) 木下 前掲書 「原 諭」58頁.. 5頁. 4巻第1号所収)4 6 6 )中野光「木下竹次研究」 (日本教育学会「教育学研究」第3. 67) 新渡戸 前掲書 全集第7巻 22頁. 68) 井上哲次郎 「教育 と修養」 〔明治43年, 557頁〕 によると, この点極めて明瞭である. 風 69) たとえば, 芦田 前掲書 「修養」 , 山内佐太郎 「活教育」 大正5年, 明治教育社 前掲書, 稲毛説 「革新 0年, 等すべて同様な発想がある, すべき小学校の教 育諸問題」 大正1. 一 13 一.

(15)

参照

関連したドキュメント

このように資本主義経済における競争の作用を二つに分けたうえで, 『資本

大学教員養成プログラム(PFFP)に関する動向として、名古屋大学では、高等教育研究センターの

実習と共に教材教具論のような実践的分野の重要性は高い。教材開発という実践的な形で、教員養

経済学研究科は、経済学の高等教育機関として研究者を

は,医師による生命に対する犯罪が問題である。医師の職責から派生する このような関係は,それ自体としては

以上のような点から,〈読む〉 ことは今後も日本におけるドイツ語教育の目  

医師の卒後臨床研修が努力義務に過ぎなかっ た従来の医師養成の過程では,臨床現場の医師 の大多数は,

本来的自己の議論のところをみれば、自己が自己に集中するような、何か孤独な自己の姿