• 検索結果がありません。

大阪府 の在来肇 - 民具 か らの

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "大阪府 の在来肇 - 民具 か らの"

Copied!
43
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

85

河 野 通 明

大阪府 の在来肇

‑ 民具 か らの

7

世紀政権 支持基 盤 の復 原‑

<論 説 >

目 次 は じめに

1.大阪府の在来肇

2.畿内向けモデル肇の復原 3.天智政権の政権支持基盤の復原

おわ りに

は じめに

本稿 は 「奈 良県 の在 来肇一 大化改新 政府 の畿 内 向 けモ デル肇 の復 原‑

」( 2 0 0 9 )

で明 らか に し た大化改新 政府 の畿 内向けモデル撃 が,大 阪平野域 で は どう受 け容 れ られていたか を現地調査 で 確 認 し

,7

世紀後半段 階の政権 の支持基盤 を地 図上 に復 原す る こ とを 目指 してい る。 タイ トル は

「大 阪府」 だが,兵庫県 の西宮市 以東 は地形 的 には大 阪平 野 に属 し,聾 型 も神 戸市域 とは異 なっ て大 阪 タイプなので ここに含 め,府下 の山岳 部 も含 んだ広 義 の大 阪平 野 を対象 としてい る

本稿 は, 同時代 資料 で論証す る文献 史学や考古学 とは著 し く異 なって,大正 ・昭和期 に使 われ ていた在 来肇 か ら形 や呼称 にいわば遺伝 子 として残 された歴 史情報 を抽 出 し,それ らを再構 成 し て地域 ご との古代 史 を遡及復原す る とい う 「民具か らの歴 史学」 の方法 を採 ってい る。 これ まで 一般 に信 じられて きた 「各地 の農具 の形が違 うのは地形や土質 の違 い に合 わせ て改 良 を重 ねた結 果」 とい うのは じつ は大 きな間違 いで, こ と肇 に関 しては一旦形 が決 まる と千年 を超 えて もその まま継承 され る とい う事 実の確 認 を踏 まえて進 めてい るのであ るが,在 来撃 の痕跡 か ら遡及復 原 で得 られた結論 はあ くまで仮説 であ り,他方 向か らの検証 を経 て確 実 な学説 に昇格 す る。 で は こ の 「民具 か らの歴 史学」 に よ りこれ まで何 が明 らか になって きたか を簡単 に振 り返 ってお こ う。

2 0 0 3

年 の大 阪歴 史学 会発 表 をま とめた 「民具 の肇調査 に もとづ く大化 改新 政府 の長床撃 導入 政策 の復 原

」( 2 0 0 4 )

で は, 日本 の肇 は 日本 人 の発 明で はな く朝鮮 半 島や 中国か ら伝 来 した もの であ り,朝鮮系 の三角枠無床肇 は朝鮮系 渡来人の持 ち込みで説 明で きるが ,中国系渡来人 の大挙 流入が ない に もかか わ らず 中国系 四角枠長床聾 が九州 か ら関東 まで分布 す るの はなぜ か と問題 を 設定 し,中国肇 の伝 来時期 はカラスキの呼称 か らは7世紀 であ り, まだ 日中の民 間交流 のない時 期 なので政府 に よる長床肇 導入 政策が あ った と推定 した。 その政策 の実 現 には① 中央 集権 的 な

(2)

86

商 経 論 叢

4 7

巻第

1

( 2 0 1 1 . 9 )

国 ・評 (那) ・里の地方組織の整備 と②遣惰便 ・遣唐使 の派遣の2つが不可欠 なことか ら,7世 紀の第

1

四半期の聖徳太子 ・蘇我馬子政権,第

2

四半期 の蘇我蝦夷 ・入鹿が牛耳った政権,第

3

四半期の中大兄 ‑天智政権,第

4四半期の天武 ・持統政権のなかか ら消去法で政策施行の主体 は

大化改新政府すなわち中大兄 ‑天智政権 と絞 り込み, さらに当時の技術段階か らして各地‑の技

ため

術移転 は様 (実物模型)の評督 (のちの郡司)‑の配付 によると推定 した。 これは仮説である

他方,7世紀の各地か ら出土する肇は鍛造 Ⅴ字形牽先 ・一木造 りの肇へ らとい う共通点 をもっ てお り,それ らは朝鮮半島や中国には見 られない 日本独 自の もので,かつ大 きさに も肇床長 72

c m

前後 という規格 の存在が推定 されることか ら,これ らは政府モデル肇のコピー肇であろうとし て大化改新政府による長床肇導入政策説の妥当性 を考古遺物か ら検証 した。

ところで肇 は一旦形が決 まると千年 を超 えて も形態は継承 されるとい うのが事実 な ら,7世紀 に各地 に流 された政府モデル肇の特徴が各地の在来肇か ら見つか らなければ嘘 になるが,鍛造

字形牽先 ・一木肇へ らやその痕跡が九州か ら関東 までの在来肇 に数多 く確認できることを示 して 民具か ら再検証 し,検証済みの学説 として大化改新政府の長床肇導入政策説 を提起 した。

「遣唐使将来唐代撃 の復原 と導入時期 の特定」 (

2007 a )

は,梶原遺跡出土肇 と関西の爪留め方 式肇‑ らをもとに遣唐使の持 ち帰 った唐代肇 の復原図を作成,その故郷 は中国の どこか と問 う て,爪留め方式 を手掛か りに江南地方 と特定,天智政権の遣唐使で江南 に行 ったのは第

4

次遣唐 使だけなので, 日本‑の持ち帰 りは

6 6 1

5

月 と特定,政府モデル撃配付 の上限を決めた。

「日本の肇 に見 られる朝鮮系 ・中国系 とその混血型」 (

20 07 b)

は,長床肇 ・短床牽 ・無床肇 と い う農学者の伝統的分類の限界 を指摘 して,朝鮮系 ・中国系 とその混血型 とい う新

3

分法 を提 起,撃か らの地域古代史復原の方法 を示 した。

「奈良県の在来

肇 」 ( 2 009 )

では大化改新政府が各地 に流 した政府 モデル肇 には じつ は

2

種類 あって,大阪歴史学会論文で提起 した鍛造 Ⅴ字形肇先 ・一木肇へ らタイプは七道諸 国向け政府 モデル聾 (以下 「七道向けモデル肇」 と略す)であ り,畿内向けには鋳造肇先 ・鋳造肇‑ らの別 タイプの 「畿内向けモデル肇」があったことを在来肇か らの帰納法で論証 した。 また奈良県の在 来肇 は全域が畿内向けモデル肇の後商で,朝鮮系無床肇 との顕著な混血型が

1

台 もない というき わめて特異な分布 を示す ことも明 らかにした。 これは大和国の在地勢力 は政権支持基盤であ り, 閣僚 クラスか ら下級役人までさまざまな人材 を政権 に送 り込んでいたため,大化改新政府 はわが 政府であ り,大化改新政府の政策はわが政策 と意識 されたため,渡来人子孫 も含めて使い慣れた 朝鮮系無床肇 を捨てて政府モデル肇 を全面採用 した結果,奈良県 は全県 1区で政府モデル聾 とい う現象が生 じた と解釈 される。そ してさらに視野 を畿内に広げて畿内向け政府モデル肇 の分布範 囲を確定するな ら

,7

世紀後半の政権支持基盤 を地図上で復原で きるであろうと予告 した。

「河内の在来

牽 」 ( 2 011 )

201 0

年調査の河内の在来肇 1

8

台に限って形態的特徴 と分布 を試行 的に分析 した もので,中河内を境 に北部では朝鮮系要素が強 く残 るのに対 して南部 と東部山麓地 帯では畿内向け政府モデル肇が忠実に継承 されている事実 を確認 した。本稿 はこブ1を広義の大阪 平野に拡大 して

7

世紀後半の政権支持基盤の地図上での復原 を目指す ものである。

(3)

大阪府の在来型 87

1

大 阪 平 野 の 在 来 翠 調 査 年 表

19̲81.5.29寮大阪市立淘士博物館① 198一、7.4大阪市立博物館 1981̲7.

1 7

吹ffl市 西庄太郎氏宅

1981.‑10.3束大阪市立締土博物館② 1981.10.6日本民家集落博物虎① 1981.ー0.28堺市 小谷城線上鋸 1981.ll.17堺市博物館日)

1982̲2.25岸和田市郷土紫料館 1982▲5▲6鴻池新田会所① 1982.7.25池田市歴史民俗資料館① 1982̲8̲31尼崎市立文化財収蔵庫① 1982.1l.19池田市歴史民俗発射館②

1983一2.18豊里郷土資料館① 1983.3.3豊里幼土資料館② 1984.2 伊丹市立博物館① 1984.7.23池田市歴史民俗資料館③ 1985.2.12寛大阪市立蕪河内小学校① 1986.10.30猪名川町立ふるさと舘

宝塚市歴史民俗資料館 1986̲10̲31河内長野市 田や民泉舘

198611,7尼崎市立文化財収蔵庫② ー986.ll,15枚方市文化財研究調査会

・調査回数が多いので、他の農具 鋸 勺の調査や聞取 り調査は除外 した

2

県 別 ・地 方 別 の 在 来 撃 論 考

2002鹿児島県の在来蟹一民具調査からの薩摩藩筆耕導入政策の検証‑」(『商経論襲』38‑2) 鹿児島 2004民具の翠から四国の古代を復原する」(『民具集積』10,四国民具研究会) 四国 2006周防地方の民具から見た撃耕伝来の2つの波」(『商経論叢』42‑2) 山口 2008民具という誰文字資料の体系化のための在来翠の比鮫調査」(『身体技法 ・感性 ・民具の資料化 富山 山梨 ・

と体系化』) 福島

2009福岡県の在来翠一 民具から見た6‑7世紀の福岡県域‑j(『商経論叢』44‑い2) 福岡

奈良県の在来饗 ‑ 大化改新政府の畿内向けモデル肇の復原」(『商経論葦』45‑1) 奈良

和歌山県北部の在来翠‑X脚有床撃とチエンギの痕跡1 (『近畿民具おい32,近敵民具学会) 和歌山 2010民具から見た百済 ・高句麗難民の動向」(『商経論葦』45‑4) 福岡 ・山梨 2011河内の在来翠」(『民具歳時記』犯 往生院民具供養館) 大阪

「大 阪府 の在 来翠一 民具か らの7世紀 政権 支持 基盤 の 復原‑ 」(『商経論叢』47‑1)(本稿) 大阪

1

. 大 阪 府 の 在 来 蟹

1‑1

大 阪 平 野 の在 来 撃 調 査

図 1〕 は広 義 の大 阪平 野 の墾 調 査 年 表 で, 1993年 神 奈 川 大 学 就 任 で全 国調 査 を始 め た た め 大 阪調 査 は と ぎれ て い た が, 2009年 退 職 以 降 ,本 稿 の執 筆 を念 頭 に再 開 して い る。

〔図2〕 は調 査22年 目で全 体 像 が 見 え始 め た2002年 以 降 , 県 別 ・地 方 別 に分 析 結 果 を ま とめ て成 果 を調 査 先 に返 す よ う努 め て きた 論 考 類 で , 本 稿 もそ の流 れ に位 置 す る

(4)

88 商 経 論 叢 47巻第1号 (2011.9)

〔図

3

〕 は調査地 を地図に示 した もので,地図に楕 円で囲んだのは調査 地,△は未調査 なが ら 他館資料で肇が確認で きた市町村 である。 まだ空 白が 目立つが,本稿校正中の

2 01 1年

8‑ 9月 に 追加調査 を実施 し,ほぼ全域 をカバーで きた。 この成果 はいずれ報告す る予定である

在来肇か ら地域 ごとの古代史復原 を目指す 「民具か らの歴史学」では在来肇 の分布が大 きな意 味をも 。大阪府下では影響 は少 ないが合併で大区画化 されれば分布 図の精度が落ちることにな るので,原則 として調査時の地図を用 いることに してお り,本稿 もまたその原則 に したが う。

(5)

大阪府 の在来弊 89

〔 図 4

〕は 日本翠 の祖型 となった中国の四角枠長床肇 と朝鮮半島の三角枠無床肇 である。

朝鮮半島撃 は二頭引 き蟹時代か ら継承 した無床撃 で筆先 で

1

点接地 し,肇輯 ・墾柱 ・牽柄 の

3

部材か らなる三角枠聾 で,直棒の長い下降警棒 と無床が特徴 となる。

中国肇 は墾較 ・肇柱 ・肇柄 ・肇床の

4

つの部材か らなる四角枠長床撃で,長い禦床 と曲がった 撃枝が特徴。曲韓 の採用で全長は短 くなった。右反転なので転回用小把手は左側面 に付 く。

日本では渡来人の持 ち込んだ朝鮮系肇の上 に中国系の政府モデル肇 の波 を被 ったため,中国系 長床肇 か ら朝鮮系 との混血型 まで さまざまな形態が生 まれた。 この形の違いが地域古代史復原の 手掛か りとなる。

1 ‑2

大阪

1 0 9

撃の資料提示

未 開拓の 「民具か らの歴史学」では資料 はすべ て 自前で集 めなければな らないが,1

9 81

年以 来足掛け

31

年の調査で

109

台のデータを得た。 まずは資料提示か ら始め よう。

〔 図 5

〕 には計測ポイン トと大阪府の在来型 に見 られる把手の種類 を示 した。

、 ⊥

一棒

先 x

原点 0

̲ ‑. ..

一 一 . . ;

:

‑I

.

i . 鞠, ‑ L

柄尻 x

J / , ‑ 弾 i

尻 y

庄 長 rJ 全 長 ̲

感d面T字把手

‑‑‑Ii:≡ 丁字形把手

:

図 5 計測ポイン ト

把 手 の形 状

〔 図 6

〕摂津(D 兵庫県西宮市以東 西宮市以東 には朝鮮系 の長い下 降直株 をもつ混血型型 が多 い。直棒把手 は朝鮮系そのまま,前後棒把手 はそれを握 りやすいように改良 した もので,この地 域 には政府 モデル肇 に由来す る

T

字形把手 は見 られない。四角枠饗 内で上方 に突 き出た枠 内小 把手 も

,1m

を超 える枝先値 も

,3m

を超 える大型肇が約半数なの も朝鮮系要素であるo

(6)

9( 商 経 論 叢 47巻第 1号 (2011.9) 図 6

摂津①

r ■ ‑ / . 一 一 m

1 猪 名

̲二̲上 ̲̲.

. ̲ ・・・ ●一‑': I̲j "L

2.宝塚

LZ;7㌦′ ./. 1ニ̲ 潤が ‑謡癖麟

‑= 一 一 一 ‑ t /

一二二∴ ㌔:,言 .・.‑1

10,西宮 大阪歴博

4.西宮②

̲. ̲∴ ̲I: ‑‑ 1';

⊂ニ‑ 亡=

5.西宮③

̲̲ 三二

β

tt̲rEL //

.・・l・■‑L ,....̲...vA‥.̲■;

73.尼崎①

、 ● 一

14 尼 崎② F

tT ・I‑I:L'r?I

が 15・尼崎③

̲.ーJ工 二.:‑‑::三言::;

16.尼 崎④

̲:A

‑‑IL JZ '‑‑

ll.伊丹①

I‑‑‑ :一一一 二 6.西 宮④

0 1 2 3…

12.伊丹②

18,尼崎⑥

:I‑1'

・o妻 市 町村 施設 名 小地 名 榛 尭x cm 二 堅座 長先有 毒先 無 X柄 尻y 全長cm 壬 霊kgx重 心座 棟 復元力kgm 1猪名川町立ふるさと館 79.5 93.0 書 190.0 117.5 269.5 14.0

2宝塚市歴史民俗資料館 93.5 88.5 き172.0 ユ20.0 265.5 12.8 3麿 宮市立郷土資料館①365‑1神明町 95.6 書 83.8 208.0 86.4 303.6 4 栖 宮郷土資料館

3

6

5

2麺 T.P. 93.3 量 84.8 202.0 88Ⅰ8 295.3 5 西宮郷土牽料館③

札 な し

102.0 書 89.両 206.2 89‑8 308.2

6 西宮郷土資料館④

2 3 5 0 甲子

園5 84.2 79.8 蔓193.3 82.6 277.5 12t9 47.0

6 .

06

7 西宮郷土資料館⑤2351 芦原町 78.4 妻 8‑7,0 ,205.8 82.5 284.2 8 西宮郷土資料館⑥2353 甲子園6 63.3 き 83.0 蔓 妄174.5 104.5 237.8

9

西宮郷土資料館(∋ 2359 神明町 1崇

.

..L且i 85.幻 J Z2 …21.5.2 112̀4 248.1

10 西宮市 (大阪歴史博物館) 瓦林 83.5 331.7 13.4 46.0 6.2 きき濡 票 濫 ‑LV5]9伊丹小 ‑‑ユ0610113.0 85.085& 201209.0.0 l 80.088.0 3032

2

7

.

.0

0

110.57.0 50.55.00 5.39.4 13尼崎市立文化財収蔵庫①579 113.3 90.5 204.3 92.5 317.6 15.

85 5 . 5 8 . 7 7

111114王86妻7 尼崎市収蔵庫⑤ 75妻尼崎市収蔵庫④ 2尼崎市収蔵庫⑥ 37;尼崎市収蔵庫②尼崎市政蔵庫

375‑2277卜2ト ー'南武産之 L‑諒105.1110

3 1

9.

. . ㌃ 2t 8

87

「 , l 義 こ れ i …

‑‑‑90.89.5 圭290J68

6 蚊」

5 蔓 178

1 1 8 0

9

4 6 2 . . ,

.

0 8 5

3

べ … i 1 1 0

80.585.3

0 7

8.5

.55

2 3

297.731245,

6 1 9 2

0.3

. . 4

51 15.6 57.8i9.02

(7)

図7 摂

津 ②

. . ‥ご ̲ . I : ‑ ∴∴

'J':

.

:

2 0

Y豊 中①

2 1

豊 中②

‑ ‑ ‑‑ ‑

/lJ Jt/

∴∴、ゝ∴∴ ̲

2

2 豊 中③

2 3

豊 中④

. , ㌦ 十 : ・ J i

、 「: L : : ・ L ‑ I ‑ I

∫・.

〆ダ

. ∴

一 己 =

」̲

二 二 ̲ ̲

̲

2 4 .

『とよなかの農道具』

0 1

2

」iJ二二一二ニー/

. ,I?

25,能勢①

.

̲止 ま三 二 .:ご 、̲∫̲‑〉叫

26.能勢②

‑ ‑ 一二二T

‑‑I:‑L'

2 7

.吹 田①

= ニ ー ‑ . ‑ #

t5

.

3m

3 0

吹 田④

大阪府 の在来肇

9 1

‑ ‑

‑‑

3

1

吹 田⑤

j 35. 吹 田⑨

.I‑‑

3 6

.吹田 佐井寺

N o

市 町村 施設名 ≡書

小 地 名

Xcm

先 有 撃床 i先無

x書y 柄尻 全長C 皿重

k g

き重心

x 座 鎌

復元力kgm

2 0豊中郷土資 料 室 ① 1 0 7

蛍池 (肺 門) 81.8

8 6 . 6 9 2 . 01 1 7 . 22 7 3 . 8

2 1豊中資料室 ② 1 0 9 + 6 6

112.3

9 4 . 4 … 2 0 2 . 21 0 8 . 63 1 4 . 5 丁

2 2 2 3 豊 慧 悪 霊. ‑ ‑ ‑ I . ‑ ‑ 監慧 … ‑ . 1 1 0 3 9 1 . . 3 3 妻 号 9 9 0 7 . . 01 01 9 8 3 3 . . 2 8 9 7 3 5 . . 5 3 2 3 9 2 3 4 . . 5 1

2 4

豊中(『とよなかの農道具』)穂梯

9 3 . 5 圭 1 2 4 . 5 2 4 8 . 5

2 5 能 勢 町

( 民

集 落

博)

… 7 4 . 8…9 1 . 3 妻1 8 4 . 2 7 7 . 0 2 5 9 . 01 4 , 24 9 . 57 , 0 3

2 6 能 勢 町

( 民 家 集 落 博 ) 7 2 . 4妻 8 9 . 7日8 7 . 3号8 2 . 5 2 5 9 ̲ 71 2 . 0 4 7 . 85 . 7 4

2 7

吹 田市

2 5 8 3 . 0 6 9 . 3日4 1 . 5喜8 3 . 0 2 2 4 . 5 1 3 . 2 4 2 一 〇 …5 . 5 4 3 4

吹 田市博②

5 1 3

岸部 南

6 9 . 4 6 3 . 7日5 3 . 0暑8 4 . 3 2 2 2 . 4 1 3 . 2 4 6 . O i6 . 0 7

3 5 吹 田 ③2 4 6 6 町 7 3 . 7 7 0 . 3 葦1 5 6 . 2 t j O . 0 2 2 9 . 9 1 7 . 94 4 . 6L7 . 9 8 2 9 吹 田 ④2 8 1 0 2 . 0 6 3 . 8 Ti o 8 2 . 0 2 3 2 . 0 9 . 43 2 . 0 3 0 1

旦 3 33 1 ̲ 吹 吹 博 ⑤4 5 8 0 7 山 田 東 7 9 3 6 . ̲ 0 0 6 . 6 3 3 こ . B 0 ii 至 1 3 3 W 4 2 . . 58 0 7 . 72 2 0 2 7 8 . . 0i 5 む + !3 9 . 04 . 2 1

⑦ 408

柄切断 1 u J 日 東 1 1 3 . 7 8 4 . 0 ! 1 3 8 . 4 2 5 2 . 11 6 . 隻 . 3 8 . O i 6 . 3 1

3 0 吹 田 市 博

⑧ 57

6 7 . 6 6 2 . 5 i 1 5 4 . 58 6 . 02 2 2 . 11 3 . 4 4 0 . 5 … 5 . 4 3

2 8 吹 田 市 博 ⑨ 2 7 展 示 蔓 茨木 太 田 製 8 4 . 07 4 . 56 7 . 0日5 5 . 5 8 6 . 0 2 3 9 . 0

15

. 8 4 0 . 5

〔図

7

〕摂津② 淀川以北

‑1

大阪府下の淀川以北では豊 中市 には直棒把手が

3

例 あ り,下 降直 韓で韓先値 も長 く

,3m超の肇 も 2

台あって朝鮮系が強い。能勢の

2

例 は豊 中や吹田 と形が異 な り七道向けモデル肇 の後喬 と考 え られ,能勢① はその典型的例。吹田市 に入 るとゆるやかな曲韓 系 とな り,聾体 も小振 りとなる。

(8)

92 商 経 論 叢 47巻第1号

( 2 0 1 1 . 9 )

(温陽民俗博物館 金光彦氏僚供)

′ 1

/柱栓方式

の耕深調節

/足跡配 /

列の栓穴

チ ェン

尼崎L31、 {‑'、■

図 8

朝 鮮 半 島の チ ェンギ の痕 跡

〔図

8

〕朝鮮半島のチ ェンギの痕跡 朝鮮半島では撃へ らのないク ッチ ェンイ 〔図

4

〕の他 に 〔図 8〕の肇へ ら付 きのチ ェンギ も使 われていた。その特徴 の

1

つは響柱頭部の 「足跡配列 の栓穴」

で,栓 を上下 に打 ち変 えて枝先の牽引点 を上下 させ耕深 を調節す る。 もう

1

つは枠 内に上方 に突 き出た 「枠内小把手」で,田の端で方向転換 をす る際に肇体 を持 ち上 げる ものだが,淀川以北の 聾 には政府モデル系 の転 回用小把手 とだぶって使 われないのに,なお盲腸の ように残 っている。

足跡配列 の栓穴 も枠 内小把手 も西宮市以東,豊中市 までの在来肇 に広 く見 られ

,5

世紀末

〜6

世紀にチ ェンギが広 く使 われていたことが分かる。同 じく朝鮮系の特徴である直線 と直棒把手 も 多 く見 られて,吹田市以東 とは違 って朝鮮肇 の影響の強い地域 となっているO豊中市では吹田市 に接す る若竹町の豊中③ ,④ には枠 内小把手はな く,豊中市域が漸移地帯だった ようだ。

〔図

9

〕能勢肇 の系譜 能勢① は筆先 の根 元 と撃床 上端 との間 に急 角度 の段 差 を もつが, この

「翠頭の段差」 は七道向けモデル肇の一木肇‑ らの上部 をカ ッ トした結果生 まれた と考 え られ る もので,中国 ・四国地方に広 く見 られる。逆 L字形系把手 も七道 向けモデル肇 か らの継承 であ る。能勢② の方 は肇体 も前後棒把手 も京都府亀 岡市の肇 に似ている

7

世紀段階では山深 い能勢地方 に編戸 された稲作民のいた可能性 は低 く,山間部 は一般 に平安 時代以降に開拓が進み荘 園が成立す ることか らして,能勢①,能勢(むもこの流 れのなかで亀 岡地 方や もっと遠方か らの移住者 によって持ち込 まれた もの と考え られる0

(9)

大 阪府 の在来撃 93 / ー

二 ㌢

I

I

r

r

I ̲ i一

I'"‑TT=「ゾ

38 摂 津②

4 0

茨 木②

d #豪

45高 槻 ⑤ ,

0

1 2 3m

46 高 槻 ⑥

51.平 野 ① i

52.平 野 ②

N

O

市 町 村

設 名 巨 純 韓 先X cⅢ 先 有苧床 曇先 * X柄 尻i y 全 量cm 重量kgx重 心座 儀 4元力kgm 37摂津市① 鳥真 104.5E 95.5 204.5 80.3 309.0

38摂津市② 鳥飼 81.0 79.5 152.0! 82.0 233.0

39 茨木市①K212(民家集落) 沢良宜西

8 4 . 2

64.6 141.7! 84.4

2 2 5 . 9

12.0 34.7!i4.16 40茨木市②K216(民家集落) 沢良宜西

8 7 . 8

71.5 148.6 87.3 236.4 ll.6 41.0 i4.76 41高槻市① 歴 民資料館 i茨木太田製 91.8 62.5 139.0 92.日 230.8 l 42高槻市② 大冠か50,228 79.4 66.3 145.5 81.5 224.9 15.5 40.0 ≡6.20 43 高槻市③ 大冠 小 郡家本町 77.3 66.3 149.0 73.5 226.3 l 44高槻市④ 大冠JJ唱1,256 88.5 84.5 186.5 86.5 275,0 !≡ 45高槻市⑤ 大冠JJt58.234 88.0 65.0 147.0 235.0 li 46高槻市(む 大冠小 把手欠 富田町 72.5 56.8 108,0 180.5 当 47西淀川 区 (大阪m ) 116.3 99.3 206,0l 88.0 322.3 E 48東淀川 区① (豊里郷土資) 豊里 75.0 72.0 146.0… 85.5 221.0 14.2 46.0∃ 6.5 49東淀川 区② (大阪m ) 豊里 66.3 75.7 158.5. 84.5 224.8 13.1 43.7! 5.7 50東住吉 区 (大阪m ) 北田辺 128,0 93.3 178.3 93.4 306.3

51平野区① (大阪m ) 平野上町 120.0 96.5 193.0 ! 93.5 313.0

〔図

1 0

〕摂津③ 淀川以北

‑2

,大阪市域 摂津市か ら高槻市 までの淀川以北 と大 阪市域 の肇 は, 一見 して混血型の直撮撃 と政府モデル系 の曲輯肇の混在状態で,大 まかには高燥 な地は曲按系 , 淀川沿いや旧河内湖周辺の低湿地 に混血型が分布す る傾 向が見 て とれる。No.47の西淀川の佃 は

7

世紀当時は海底,肇型 は尼崎翠 とそっ くりなことか ら,佃島が陸化 した段 階で尼崎方面か らの 移住者が持 ち込んだ と考 えられる。

(10)

94 商 経 論 叢 47巻第1 (2011.9)

津 河

〔図

1 日

「摂津国名郡農具略図」の肇 図 明治前期 に政府 の意向で各地で郡 ごとの農具絵 図が作 成 されたが,大阪府の作 った 「摂津 国各郡農具略図」 (

1 880

,大阪府立中之島図書館)の牽 図は線 が細 く,紙の縮みによる画像の歪み もあるので補正 した模写図を掲げた。住吉郡肇 は 『和漢三才 図会』 (

1 71 2 )の肇 図の借用 なのでカ ッ ト,残 る 8

図はすべ て曲軽挙 で,能勢郡肇 は逆

L

字形系 把手で他 は

T

字形把手 と読めるが,絵の精度が低 くてこれ以上の情報 は引 き出せ ない。

rJJrh̀,ー遥

・子 鳥 (大阪城天守閣)ぎ享図

1 2

昭和初期の住吉大社御田植神事の撃

〔図

1 2

〕昭和初期の住吉大社御田植神事の撃 大阪城天守閣発行 の 『テーマ展 南木 コレクシ ョ ンシリーズ第

1 0

回 古写真 なにわ風景』 (

2 000)

には昭和初期 の住吉大社 の御 田植神事の写真 があ り撃が写 っている。人に隠れた部分 は補 って復原図 を作成 したが,大阪平野中南部 に広 く見

られる曲撮長床肇 で,床尻の突出の長いのは堺市域の在来肇 と共通す る。肇‑ らは写真 では見分・

けに くいが,肇柱 に固定す る爪 ははっ きり写っているので大阪一般の爪留め方式 に復原 した。

(11)

図 13 河 内 ① 北 河 内

‡T

J 〜ー / 炉 一 一一L r̲'=

Td F Ll /

tテ:I‑I:/

一 一 :二 t 62. 門 真

64. 大東②

大阪府 の在来禦 95

I‑‑‑‑‑̲∴ ' ' b'

l ,,<=r/ 炉 :・ヾ .

,.LL ̲̲7一・rJ

̲̲::̲ ,'P i妙/

67.大東⑤

:了 示 .L ・ ∫

̲ I

‑ ;

̲ :‑ニー

T: ̲: ̲I :i ‑一了 IJ:

69 大 東⑦

70 大 東⑧

0

1 2 3m

No 市 町村 ‑ 地 名 x cE目 先 有

xを y 全 長cm 重量kg 重 心 萱x座 沸 き k並元力gm

53枚方市文文化財研究調査幻 )展示

!

54枚方市文研閉会診 97 滴 授 79.0

83.0 F163.0…102.5 242.0 14.0 45.0 6.3 55枚方市文研調会3 157

7

中振 73.5

84.0il73.5 95LO 247.0 18,5 52.0 9.6 56枚方市文研調会④356 85.0 66.0 150,0 79.0 235.0 ll.7 39.5 4.6 57交野市教育委員会〇 852星田か私部 82.3 66.0 136.2重 89.4 218.5 ll.8 39.7圭 4.7 58苦嘉 1∴ ‑ 103,

0

i 85.2 J空きjlw薫 .186.05 86.27 288,6 19.5

‑ 意 汁 繋

. 59

T

T … 84.4 250.4 13.6

60四条畷市歴民資料館 65.0 97.3 181.2毒 98.0 246.2 !i 61門真市立歴史策料館① 87.5 103.4 200.5萱 85.3 288.0 21.0 61.5≧ 12.9 62門真市立歴史資料頼② 67.0 83.0 156.0… 76,3 223.0 15.0 45.(‖ 6,8

63大束市教育委員会( 96.0 302.0 巨

64 大東市教育委員会②

123.0 lot.O l80.0呈 303.0 65大東市教育委員会③ 72.0I 79.〔‖ 151.0 223.0 66大乗市教育委員会3) 72.0 97.3 蔓194.0

266.0

67大東市教育委員会S) 74.0 75.5妻152.5蔓 226.5

68大東市教育委員会⑥ 66.Oi 84.5 167.0 233,0

69大東市教育委員会3 」廻 」

9 6 . 71 9 3

.5 を 303.5 [

〔 図

13〕河内① 北河内 枚方市か ら大東市 までの北河 内には曲瞭肇 と直棒型が混在す るが,秩 方市 ・交野市 ・四条畷市の生駒 山系東麓部には曲韓長床肇,低地の門真市 には直撮長床肇が使 わ れていた。 この傾 向か らすれば収集地不 明の大東市で も④ と⑥ の曲韓長床撃の便用地はおそ らく 山麓で,残 る

6

台の直輯長床肇 は低地の ものであろう

(12)

96 商 経 論 叢 47巻第1 (2011.9) 図 14 河 内 ②河 内

q・〆 ジ漂二澄「 ./・‑ ‑‑t冬 . ン :

へ 大 / / 5 ii 5ii蛋

〆メ ■ ‑ ‑

大l

‑ T T

= 書 . , 選

̲ ̲ ̲ p ‑ ‑ : ̲ 義 4 ‑ ‑ ‑ : ' J i と 且 往 : : 三 や 生 二 院 コ 、 ②ノ l /

l 止 /

i i i■■■■J

/ ′

十 二 二 . . 小 一 T ;

≡ 一 二 L T 耳 こ j 血

往 生 院 ③ / 9 0

/

: I 。 ̲ ̲

8 4 .

巽小 旧渋川郡

No 市 町 村 麓 故 名 i妻 小 地 名 畿 先X cm

氏 長

先無

X柄 尻y 全 長Cat

霊 二 ■

kgx

1心

座 標 元 力kgm

71 東 大阪南 立郷 土 博 物館 F 70.4 91.3 173.0 ! 85.5 243ー4 15.7 51.0 8.0 72東 大 阪市 文化 財課 八 戸ノ里 分室①84ー 67一.

3 ̲

92.2 183.3 i103.5 250ー6 圭 73東 大阪市 八 戸 ノ里②862 83.8 74,8 145̲0 89.6 228.8

74東 大 阪市 八 戸 ノ里③859 66.3! 90.5 120.8 折 損 i≡ 75鴻 池新 田会 所① 2311 め池新 田 92.4 92.4 198̲0 ! 84.0 290.4 II

76鴻 池新 田会 所② 2782 鴇弛新 田 86.4 109.5 195̲8 82,0 28台.2 I

77鴻 池新 田会所③ 細 胞新 田 85.0 94.0 184̲6 事l 88.6 269.6 22.5 57.8 i 13.0 78東 大 阪市 立 森 河 内小学校 107.8 89.5 191.5 蔓 78.7 299.3 13.5 49,3.I! 6.7 79「旧玉川 百 年史 展」1968 岩 田中 r

80東 大 阪市 (大 阪m ) 豊浦 54.3 82.8 191,0 …E 93.5 245.3

81往 生院 民具供 養 虎 1往 生院 民具 供養 館② 横小路 42.8 97.8 167.

Oi

93.6 209.8 16.8 44.5

7

.5

82 南四条 33ー8 190.0 邑 79.0 223.8 12.6 55,

6

7.0

83往 生 院 民具供 養 館③ 吉田5 71.8 lf 87.3 i73.8 妄 97.0 245.6 13.2 51,3 6.8 84大 阪市 立果 小 学校 (旧渋川郡大地村) 70.0 95.7 (159̲7 ぎ 94.0 229,7 15.0 59.2 8.9 85八 尾市 匿 民①贈 110‑1 腐 本町 74.4 蔓l̲06.0 190.6 i 90.6 265.0 20.0 61.5 12.3 86八 尾市 立 歴 史 民俗 資料 館②64‑1手塩 60一6 186.3 177.4 を 97.0 238.0 12.4 46.7 5.8 88八 尾市 歴 民④ 贈172‑1 大竹 68.3 84.8 177.5 93.8 245.8 16.3 50.8 8.3 89八 尾塵 民⑤由 127‑1 新家 (西都) 76.0 91.5 189.0 95.2 265.0 17.3 57.5 9.9 90八 尾市 (柏原歴史資料館 ) 弓削 52.3 95.0 165.2 94.3 217.5 ll,0 52̲8 5.8

(13)

大 阪府の在 来撃 97

図 1 5

河 内③ 南 河 内

! ?

‑ ‑ 二 9 2 柏 原 了 /

̲

必 T コ

山一̲

J

93.藤 井 寺①

1

" ′■' こ.ニi三三三==:

9 6 .羽曳

l r . ̲ J ‑ / 9 7 . 羽 曳 野 ②

̀ ′

?

98.富 田林

2 3rn

1 0

0.河 内長 野②

..̲Y 野 ‑ / Pl二■‑ j

101 河 内長野③

∴ 、ヽ 一 ′

‑■■‑

102.河 内長野 滝 畑

No

市 町 村 ‑ 巨 佃 名 頼 先X c8】毒先 有草 沫長

X柄 尻y 全長cm 重量kg if 92柏原市立歴史資料館 j高 井 田 53.0 90.2 153.3 84.4 206.3 16.2 48.2 7,8 93藤井寺市教育委員会① 小 山 100.3 94.0

1 8 6 . 0 . !8 9 .

0 286.3 15.3 53.3 8.2

94藤井寺市教育委員会診 大井 76.7量 98.0

1 8 5 . 0

89.0 261.7 14.3 55.3 7,9

95松原市 (大阪m ) 三宅町 81.5! 98.0 ・192.2重 85.0 273.7 i

96羽曳抑 (農林技術センター)郡戸 ! i

97羽曳野2)(農林技術センター)新町 63.0i 85.0 159

̲ . ̀

80 222.0

98富田林市教育委員会 i 59.Oi 90.3 157.8! 97.8 216.8 12.1 46.3 5.6 99河内長野 (田中民具館①) 妻市町 ≡ 9O.0 J i

100高 南衰野 佃 中民具館②) 匝 町 91.0i r lot

102河内長野 (田中民具

③)

i

市町 Ii 95

.

OiI

〔 図

14〕河内② 中河内 東大阪市 と八尾市 の在来肇 を集めたが,現在大阪市生野区の巽小学校 辺 りは元 は河内周 渋川郡 なので,中河内に含 めたO中河内は一見 して直線長床聾 と曲韓長床肇 の 混在状態だが,収集地の分かる資料か らすれば,直鞍 の鴻池新 田 ・森河内 ・岩田中 ・巽 などは平 野の低地部 なのに対 して,曲枝の豊浦 ・横小路 ・南四条 ・千塚 ・黒谷 ・大竹 は生駒の山麓部で, 摂津や北河内で見た傾向 と一致 している。 この原因については後 に考察す ることにしたい。

〔 図 1 5

〕河内③ 南河内 聾接の曲が りには緩急がある ものの,すべて曲検長床撃 とい うのが南 河内の在来肇で,摂津か ら中河内 まで見 られた下降直軽の長大 な直輯長床聾 は見当た らない。

中河内の

No .

80,81,82,南河内の

N

o.102は肇操が極端 に曲が っているが,いずれ も山麓 ・山間の 聾 である。その成田については山持 ちの村では蟹体 を自作す る伝統が続 き,曲が りが きつい と全 長が短 くなって小 さな山田で取 り回 しが楽なため曲った木 ほ どいい とす る固定観念が生 まれ,定 向進化で極端化が進んだのであろうと指摘 しておいた (河野2009, 2010)。

(14)

98 商 経 論 叢 47巻 第 1号 (2011.9)

図 1 6

和 泉

103. 堺 市 博① 105・堺市博③

.:主:i''、

104 堺 市 博 (

L‑ / ‑,I 1;:I̲

106.堺市豊田

0 1 2 3m

No 市 町 村 施 設 名 小 地 名 蟻 先Xcm

̲先有苧珠長先無

. x

柄 尻蔓 y 全長cm 重量kgx重心座 模 aL元 力kgm 103堺市博物館① 凍 阪 77.P 100.5 16

4

.

0

89vO 241.0 i 104堺 市博物館② 61.0 58.0 130.0 68.0 191.0 7.℃ i 105堺 市博物館 さ 53.0ii 94.0 167.0 76.0 220.0

106小谷城傭 土館 鹿 田 88.0 96.5.162.5 97.0 250.5 19.6 107泉佐野市教 育委員会 56ー5 92.0 167.0 109.0 223.5 i 108熊取町細 土資料館 i【

1 7 1 9 2 6

年 泉北 郡競 学会 出場 の翠 出身村の混在する5台はすべて曲韓長床畢

〔図

1 6

〕和泉 和泉での調査肇 はわずか

7

例 だが,和泉国域 は全域 曲輯長床饗 と考 え られる。そ の理 由は 〔図

1 7

〕 に掲げた

1 92 6

年の競饗会の写真 には泉北郡各地の肇が混在 している と考 え ら れるにもかかわ らず

,5

台がすべて曲榛長床肇 なので都全域が曲較長床牽 地帯 と考 え られる。 ま た南接する和歌 山県 は曲較長床蟹地帯であることか らして も和泉 は全域 曲韓長床蟹 であろう

〔図

1 8

〕大阪平野の在来撃分布図 これ までの まとめ として大阪平野の在 来禦分布 図 を掲 げた。

西宮市や吹田市の ように調査肇 の多い市町村 は適宜間引いて表示 した。大阪市域 と南河内 ・和泉 に空 白が多いが,都市化の進んだ大阪市域 は資料が少 な く手掛か りがない。南河内 ・和泉 につい ては追加調査の余地はあるが,来援する奈良県 も南接する和歌 山県 も直輯長床肇のない曲較長床 肇地帯 なので,南河内 ・和泉 は全域曲輯長床禦地帯 と見 な して間違いなかろう。

さて全体の傾向を見れば,大阪平野の西北部 には朝鮮系要素の強い直輯長床肇が分布 し,東北 部,東部山麓地帯 と南部は曲韓長床聾 であ り,その間の淀川低地 と旧河内湖周辺 に直韓長床肇 が 分布するとまとめ られよう。

(15)

大阪府の在来肇 99

18

大阪平野の在来肇分布図

Jh‑1 ヽ 一/ I‑+. 、

同一市町村 に資料数 が多い場合 には適宜間引いて表示 した

し . ̲ . ̲ ・ ・ ′ ・

・ ‑ ‑ J l

\ー しハ ヽ・‑ \ J./ ..帆 ′ ′J J T t・‑ t‑ \

1

‑ 1・ ‑.・‑ Lr ・・・‑ J

ヽ ‑ ̲ ̲ /1 ̀

\/ ‑ ^1t

丁 ・ \ 1 .・t・‑ 1一1ノ ーIJ t㌧′′ ー‑ヽ \ 」

(16)

100 商 経 論 叢

4 7

巻第

1

( 2 0 1 1 . 9 ) 1 ‑3

奈良 ・大阪撃 と七道諸国撃 との相違

〔図

1 8

〕で見 た大阪平野の在来肇分布 は,七道諸 国 と比べ て きわめて特異 な もの とい える。 こ の畿内 と七道諸 国の違いについて,2つの点か ら分析 しよう。

(福岡県農業総合試験場) (瀬戸 内海歴史民俗資料館)

‑:‑‑‑I‑‑ ‑‑チ ‑I ‑I‑I‑‑::‑,‑ ‑/ 3,i!

(坂戸市歴史民俗資料館)

図 1 9

奈 良 ・大 阪 に は見 られ な い三 角 枠 撃

奈 良大阪 は四角枠 のみ,七道 は三角枠混在 〔図

1 9

〕 には七道諸 国で見 られ る三角枠肇 を掲 げ た

。a

は朝鮮系肇 その ものの三角枠無床聾 で,百済難民が持 ち込 んだ もの と推定 され る (河野

2 0 0 8 )

0

b

の独脚有床撃 は朝鮮系の短体無床撃 と政府モデル肇の混血型

,

Cの三角枠長体短床撃 は 朝鮮系の長体無床肇 と政府モデル肇 の混血型。旧七道諸 国にはこうした朝鮮系 の特徴 を残 した三 角枠肇が数多 く見 られる。

これに反 して大阪では 〔図

1 8

〕の ようにすべ てが四角枠長床肇 で三角枠肇 は

1

例 もない。 こ れは奈良 ・大阪では渡来人が多 く住 んでいたにもかかわ らず朝鮮系 を捨てて政府モデル肇 の四角 枠 を素直 に受容 したことを示 してお り, これが政権 のお膝元,畿内社会の特性である。

20 章 内 は鋳 造 先 、七 道 は鍛 造 先 ス ター ト

奈良 ・大阪は鋳造筆先,七道諸国は鍛造筆先 でスター ト 〔図

2 0

〕 には肇先 を比較 した。aは韓 国の鋳造肇先で斜辺中膨 れの三角板

,b

は大阪の鋳造肇先でこち らも中膨 れの三角板 である。

これに対 してCは山口県で

7

世紀以来継承 されて きた鍛造筆先で,木部撃頭の縁 に噛 ませ るた め襟執 りの大 きい Ⅴ字形 となる

。d

は宮崎県

,e

は千葉県 で鋳造肇先 なが ら襟執 りが大 きい。 こ れは宮崎や千葉で もかつては鍛造肇先が使 われていたのだが,中世以降に鋳造肇先 に差 し換 え ら れたため,襟執 りがデザインとして残 った もの と考 え られる。

これが畿内向けは鋳造撃先 ・鋳造肇‑ らタイプ,七道諸国向けは鍛造聾先 ・一木肇‑ らタイプ と政府モデル聾 には

2

種類があった と推定 した根拠で,畿内では早 くか ら鋳造技術が定着 し,翠 耕伝来当初か らアジア標準の鋳造肇先 ・鋳造聾へ らが使 われていた もの と推定 される。

(17)

大阪府 の在来牽 101

2.

畿内向けモデル撃の復原

2‑1

「民具からの歴史学」成立根拠の再確認

前章のまとめ として,大阪平野の西北部には朝鮮系要素の強い直操長床肇が分布 し,東北部, 東部山麓地帯 と南部は曲韓長床肇であ り,その間の淀川低地 と旧河内湖周辺には直較長床撃が分 布す るとした。本稿 はここか ら7世紀の政権支持基盤の復原 をお こなお うとしてい るのである が,大正 ・昭和期 に使 われていた在来農具か ら

1 3 0 0

年遡 って各地の

7

世紀史 を遡及復原す ると いう 「民具か らの歴史学」 は提案か らの 日も浅 くまだ一般 には認知 されていないので,今 回取 り 上げる大阪平野の在来肇 を材料 にその成立根拠 を再確認 してお きたい。 これには(∋大正 ・昭和期 の在来肇 には

6‑7

世紀以来の形態が基本的に保存継承̲されているとい うのは本当か,②大正 ・ 昭和期 の在来肇の分布 には,6‑7世紀段 階の分布が基本的に継承 されているとい うの も本 当か の

2

点についての再確認が必要 となろう

〔図

2

日 朝鮮系長大警抜の残存 〔図

2

1〕は禦先の先端か ら肇瞭先 までの長 さ 「枝先長」 を比べ た もので,右の東大阪市の往生院③ は72cmでこれが標準的な長 さなのに対 して,左 の豊中(彰肇 は

1 3 1

cmで

6 0

cm前後長 く,田の端で転 回す る際の取 り回 しに不便 である し,田の端の牽 き残 し も

6 0

cmほ ど長 くなる。なお豊中④ の

1 31

cmは肇先 を欠いてお り,撃先 を付 ければ

1 2 4

cmほ どに 縮 まるが,比較 した往生院③ も聾先 を欠いているので,その差が

6 0

cm前後であることには変わ

りはない。

さて豊中④の

1 31

cm,肇先 を付 けて も1

2 4

cmとい う長い牽醸長は,朝鮮半島での二頭引 き肇 の 長い肇操 を継承 した もので,それが 日本 に持ち込 まれたのは

5

世紀末か ら6世紀 と考 え られ,仮 に

6

世紀初頭 と見て も在来肇が確実に使 われていた

2 0

世紀初頭 までは

1 4 0 0

年,在来肇の耐用年 数 を

3 0

年 と見積 もれば更新 回数は47回,2

5

年 と見積 もれば

5 6

回で, この

5 0

回前後 の更新 を 繰 り返 していても改良の動 きは一度 も起 こらず,長す ぎる枝先長は継承 されて きたことになる

これは枝先の長い朝鮮系三角枠撃 を持ち込んだ渡来人はもちろん,それを受容 した周辺の 日本人 たちも肇 とは枝先の長い ものと思い込んでそれが固定観念 とな り,枝先の長い肇 を更新 し続けた のである。 また東隣の吹田市域では枝先長

7 0 c m

前後の在来肇 は普通 に使 われていたが, 日頃そ れを目にしていて もなお肇韓 を短 くしようという工夫は起 こらなかったのであ り,これが 「民具 にも遺伝子がある」 とい う実態であ り

,

「民具か らの歴史学」の成立根拠 なのである

〔図

2 2

〕朝鮮系枠内小把手の残存 〔図

2 2

〕には肇柄か ら枠 内の上方 に向かって突 き出た枠 内小 把手 を取 り上げたが,これは朝鮮系三角枠撃のチェンギに付いていた もので,田の端で方向転換 す る際に肇体 を持ち上げるものである。 ところで天智政権が全国に流 した政府モデル肇 には,中 国系の転回用小把手が牽柄の右側面に付 いていた。7世紀の西宮市か ら豊 中市域 の人々は,政府 モデル肇 を受容する際に朝鮮系の枠内小把手 を残 したまま新たに肇柄の右側面 に転 回用小把手 を 取 り付 けた。その結果,転回時には手前の転回用小把手を使 うことにな り,奥 まった枠内小把手

(18)

1 0 2

商 経 論 叢 47巻第1 (2011.9)

図 2 1

朝 鮮 系長 梅 の残 存

使えなくなった枠 内小把手

車 =f f 7 =

2 2

朝 鮮 系枠 内小 把 手 の 残 存

は使 われな くなる。 にもかかわ らず 「肇 とはこんな もの」 とい う固定観念 に守 られて更新 の度 に 無用の枠 内小把手 はわざわざ取 り付 け られ,盲腸 の ように継承 されて きたのである

「民具か らの歴史学」では,長す ぎる鞍先長や使 われないのに残 った枠 内小把手 といった非合 理な痕跡 を重視す る。 なぜ な らこれこそが歴史の痕跡であ り,地域古代史 を復原す る手掛か りだ か らである

民族移動 はな く古代の分布 を継承 肇 の分布 に関 しては, 日本 は孤立 した島国であ り, ヨーロ ッ パや中国で見 られた ような大規模 な民族移動 はなかったため,古代 の農具分布 は大 きな変化 を被

らずに

2 0

世紀 に継承 されている と考 え られる。 この ように古代 の分布 が基本 的に継承.された結 果,その後の撹乱 は分布 の部分 的乱れ として検 出で き

,

民具か らの歴史学」 の可能性 を広 げて いる

た とえば鳥取県や鹿児島県 には中部 ・関東型の板鈎引手の馬鍬が混入 しているが, これ らは関 東武士 の地頭 としての西達の痕跡であろう。 また鳥取県 の佐治村 (現鳥取市) には断面縦長肇床 の播磨型の肇が混入 しているが, これは中世後期 の内乱期 に赤松民 ら播磨武士の進 出の痕跡 と考 え られる。 また奈 良県の十津川村 には熊野川系 の肇 と奈良盆地系 の肇が混在 してお り,和歌 山系 の首木 も使われて きた。 ここか らすjtば山間の十津川村域 は

7

世紀段 階では編戸 された稲作民 は お らず,荘 園の開拓が進んだ平安時代以降に奈良盆地,和歌 山市 ・海南市方面,熊野 ・新宮 の

3

方面か らの入植者 によって開拓が進 んだ もの と推定 される。先 に触 れた大阪の能勢町の肇が七道 諸国系 なの も,同様 に平安時代以降の開拓入植 の痕跡 と考 え らjtる

またこれ も先 に触 れたが,西淀川の佃 は

7

世紀当時は海底であ り,肇型 は尼崎肇 とそっ くりな ことか ら佃 島が陸化 した段 階で尼崎方面か らの移住者が持 ち込んだ と考 え られる。 また大阪市東 部,北河内や中河内の西部の低地 には

7

世紀段 階では旧河内湖の内陸水面だった地域が含 まれて

(19)

大阪府 の在来肇 103 お り,これ らも干陸化 にともなって周辺か らの入植者で開拓 された と考 え られ,それ らの子孫の 肇が

2 0

世紀の民具 となっているのであろう

近代以降の撹乱 も若干見 られる。奈良盆地北部の生駒市や奈良市域の肇 は,奈 良盆地の他地域 とは異 なって先受け桟や追加肇床 など京 田辺市の肇 と共通 した山城系 の特徴 をもっている。京 田 辺市の南端で奈良県境 に接する打 田集落には肇製作者がいた と聞いてお り,生駒市や奈良市域の 人 々がたまたま京田辺市 の職人の噂 を聞 きつけて出かけて注文 したことが機縁 で, この地 に京田 辺市型の肇が残 る結果 となったのであろう。奈良盆地は平城 山で画 された まとま りのある地域で あ り,歴史 を遡れば大安寺町や東九条町で も奈良盆地 タイプの肇が使 われていたことは十分 に考 えられることか らすれば,現在の状況は近代以降の撹乱 と見てお くのが妥当であろう。耐用年数 の長い肇 は需要が少ないため村 の鍛冶屋や鍬 の柄 ・天秤棒作 りの樫木屋 の ような専業化が進 んで お らず,農家の副業で肇 を作 る人の数が限 られていた ことが, こうした県境 を越 えた注文 を生 ん で分布の乱れをもた らした もの と考 え られる

以上の考察か らして,奈良盆地 ・大阪平野の在来撃 の分布 は基本的には

7

世紀の分布 を継承 し てお り,その後 の撹乱 はそれな りに読み分 け可能 な ことに よって

,2 0

世紀 の在 来肇分布 か ら

7

世紀の政権支持基盤の復原は十分 な信頼性 をもつ もの と考 え られる

淘汰 を経て分布 は単純化 民具の在来肇分布 は基本 的には

6‑7

世紀のそれ を継承 しているとし て も,幾度 もの淘汰 を経て分布相 はかな り単純化 していると考 え られる。

滋賀県守 山市の川 田川原田遺跡か ら

8

世紀の一木造 りの撃床 ・肇柄 と聾柱 の下部が出土 してい る。 この肇 は形態か ら加工痕 にいたるまで北朝鮮平安北道肇 に酷似 していて高句麗難民の持 ち込 みか と考 え られるが, このタイプの肇 は周辺の民具 には見 られない。地域社会で少数派の場合 は 文化の維持継承.は難 しく,やがて同化 さjt姿 を消 したのであろう (河野

2 00 4)。

この事実か らすれば,われわれが 目にす る民具 の在来肇分布 は淘汰 を経 て単純化 した姿 であ り

,7

世紀段階の分布 は少数 タイプの混 じった もっと多様 な ものであった と考 え られる。 これは 裏 を返せ ば当時多数派であった タイプは継承 されて きていることにな り

,2 0

世紀 の在 来肇分布 か ら

6 ‑7

世紀の大局的な傾向を探 ろうとい う試みは十分有効 な方法 といえるであろ う。 この点 は考古資料の発見 は偶然性 に左右 されるので,ある農具が発掘 されて もそれが当時の社会で一般 的なタイプか少数派の特殊 なタイプかの判別は困難だが,民具の場合 は淘汰 を経て継承 されて き たため,過去 の大局的な分布 を復原す るには きわめて有効 な資料 と位置づ けで きよう

2‑2

畿内向けモデル肇 とそのルーツ

在来撃 か らの帰納法 で さぐる 「民具 の撃調査 に もとづ く大化改新 政府 の長床肇導入政策 の復 原」 (

2 00 4)で扱 った七道向けモデル肇 は,幸 いその コピー第 1

世代 と考 え られる梶 原遺跡 出土 肇が木部完形品だったので,それをベースに政府モデル撃 の復原図を作成 したが,畿内向けモデ ル肇 に関 してはそ うした同時代の肇 は発見 されてお らず,在来肇か ら共通要素 を抽出 しての帰納

(20)

1 0 4

商 経 論 叢 47巻第1 (2011.9)

法での復原 となる。そこで 「奈良県の在来

肇 」 ( 2 009 )

では政府モデル聾 の後商 でかつ肇先 ・肇 へ らの揃った在来肇の写真 を掲げつつ論 じたが,後商の在来肇 にはそれぞれ個体の個性が含 まれ るので,本来は復原図の作成が望 ましく,今回はその復原図を作成 した。 また畿内向けモデル肇 には中国系要素 と朝鮮系要素が混在 し,さらに 日本独 自の工夫 も加 えられているので,その複雑 な継承状況についても,改めて一覧表に整理 して理解 に供することに した。

〔図

23

〕畿内向けモデル撃の復原 〔図

23 a

〕は在来肇か ら共通要素 を抽 出 して作成 した畿内向 けモデル肇の復原図で,中国江南地方の長床肇 をベースにした四角枠 曲輯長床肇である。曲韓 は 大阪平野や奈良では里山か ら曲がった木 を見つけて きた虹形 カーブの ものが多 く見 られるが,古 くか ら文明化が進んで樹木の枯渇気味だった中国では,手 に入 りやすい

Y

字の枝分かれ材 の一 方 を切 り落 とした 「への字形肇操」が主流 を占める。天智政権が各地の評督 に送 りつけた政府モ デル肇の場合 も畿内 ・七道諸国あわせて約

5 00

に達 したと考えられるので,大量の曲韓 を得 るに は曲が った木 を探 していたのでは間に合 わず

Y

字の枝分かれ材 を使 った‑ の字形肇韓 を採用 し たと考えられる。七道向けモデル肇のコピー と考えられる梶原遺跡出土撃の

2

台 とも‑の字形牽 按であ りこの推定 を裏づけているので,畿内向けモデル肇 もへの字形肇韓 に復原 した。

肇床長 は

7

世紀 出土肇がいずれ も木部のみで梶原遺跡 出土肇 Aが

6 6. 5

cm

,Bが 70

cm,香川 県の下川津遺跡肇が

78

cmで平均

71.5

cm,肇先 を装着 した結果の肇床長の伸 びは大阪平野の在来

肇 5

例で見れば

5. 8‑1 0

C恥 平均で

7. 8

cmなので,畿内向けモデル肇 の肇床長は

80

cmほ どと見 積 もった。 ここに中国長床肇の一般債 に倣 って対地角

78

度で撃柱 を立て,6

0

度で肇柄 を立て, これにバ ランス良 くへの字形牽韓 を掛ければ全長は

1 65

cm前後 とな り,大阪平野の在来肇 に比べ てかな り小振 りとなる。 しか しなが ら政府モデル肇が小振 りな中国江南地方肇 をベース とした と なれば,この数値 は安当なもの といえよう。なお木部完形品の梶原遺跡

A

肇 は組み上 げた状態 での全長は

1 49

cm,ただこの個体 は後述のように聾柱 は異様 に前傾 してお り,それに連動 して肇 柄の対地角 も立っているので,それを戻せばほぼ

1 6 0

C皿となる

中国撃ベースの中朝折衷型 ではこの畿内向けモデル肇 はどんな特徴 をもち,何 をルーツとして いるのか。その継承関係はきわめて複雑 なので,その関係 をまとめた 〔図

23 C

〕の一覧表 も参照

しつつ,部品ごとに見てい くことにしよう。

肇先 と肇へ らは鋳造品で,この点が鍛造 Ⅴ字形撃先 と‑木造 りの木製肇‑ らだった七道向け モデル撃 との大 きな違いで,大和政権のお膝元で渡来人 も多 く鋳造技術が定着 してお り

,6

世紀 段階か らすでに鋳造肇先 ・鋳造撃‑ らが使われていたため,畿内向けモデル撃 には東 アジア標準 の鋳造肇先 ・鋳造肇へ ら方式が採用 されたものと考えられる。肇先は三角形の斜辺が膨れた中膨 れ三角形で,両端 に短い耳が付 くのが通例 である。裏面 を返せ ば全幅が肇頭受 けの袋 となった

「総袋型の肇先」で, この肇先 を装着す るために肇床先端の墾頭部分 をしゃもじ形 に広 く削 り出 したのが 「しゃもじ形撃頭」である。中国肇 では肇床幅そのままの 「肇床幅肇頭」,朝鮮半島で は撃身の幅そのままの 「肇身幅肇頭」が一般的なのに対 して, しゃもじ形肇頭 は日本の肇の特徴

図 13 河 内 ① 北 河 内 ‡T ′ J 〜ー / 炉 一 一一L r ̲ ' = T d F ′ L l / ■ ■ ■ ■ ‑ t テ:I‑I ‑ ‑ ‑ : / 一 一 ‑ ‑ :二 t 6 2

参照

関連したドキュメント

或はBifidobacteriumとして3)1つのnew genus

◆ 県民意識の傾向 ・地域間の差が大きな将来像として挙げられるのが、「10 住環境」「12 国際」「4

大阪府では、これまで大切にしてきた、子ども一人ひとりが違いを認め合いそれぞれの力

線量は線量限度に対し大きく余裕のある状況である。更に、眼の水晶体の等価線量限度について ICRP の声明 45 を自主的に取り入れ、 2018 年 4 月からの自主管理として

大村 その場合に、なぜ成り立たなくなったのか ということ、つまりあの図式でいうと基本的には S1 という 場

本市は大阪市から約 15km の大阪府北河内地域に位置し、寝屋川市、交野市、大東市、奈良県生駒 市と隣接している。平成 25 年現在の人口は