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書簡からみる大塚節治の一九三七年

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書簡からみる大塚節治の一九三七年

著者 布施 智子

雑誌名 同志社談叢

号 31

ページ 193‑247

発行年 2011‑03‑01

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013059

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書簡からみる大塚節治の一九三七年一九三

〈資 介〉

  書簡からみる大塚節治の一九三七年

布    施    智    子   一   はじめに─未整理資料の現況と課題─

  同志社社史資料センター(以下、センターと記す)には、多くの受け入れ資料が未整理のまま保存されてい る。それら未整理資料の量は、ダンボール箱に換算すると、約二一六箱分に相当する。これらの資料は一九六 四年に設置された社史史料編集所時代から受け入れられ、蒐集されてきたものであり、それぞれの受け入れの 経緯も資料の種類も多岐にわたっている。資料を大分すると、雑録に類する資料と、個人に関係する資料とに 分けることができる。個人の関係資料には、同志社の教職員(主に役職者)が残した、在職執務時の学校運営 や教学に関わる様々な資料が見られる。こういった資料は、役職交代や退職といった機会に整理され、センタ ーへと渡ったのであろう。また、後年になって本人や遺族から寄贈を受ける場合もある。このような資料群は、 同志社関係以外の資料も一括して残されているため、その人自身の生涯や人となりをうかがい知ることができ

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書簡からみる大塚節治の一九三七年一九四

る貴重なコレクションといえる。個人関係と分類できる未整理資料は、九九箱分に相当する量がある。これら の資料は、同志社の歴史を明らかにするための重要な材料となりうるものである。

  未整理資料は、受け入れ時に一通り中身が確認され、まとまりごとに「○○○○関係資料」という仮資料名 が付されているが、具体的にどのような資料があるのかを知るには、中身を全て確認するほかにない。今後、 同志社では来る一五〇周年に向けて年史編纂等の動きが出てくるものと思われるが、その研究のための資料を さらに揃えるためにも、これらの未整理資料の整理が急がれる。

二   大塚節治関係書簡の概要

二─一   資料群の概要   今回、前述の未整理資料のなかから、大塚節治(第一三代同志社総長)の関係資料から整理を試みた。彼に 関 係 す る 資 料 と し て 分 類 さ れ て い る 六 箱 分 の う ち、 「大 塚 節 治 関 係 書 簡」 の ま と ま り を 主 に 整 理 し た。 こ れ ら 大塚関係資料の受け入れ経緯は、現在のところ定かではない。

  今回扱った大塚節治関係書簡は計三六四通、そのうち三一九通が受信書簡、四五通は大塚の発信書簡(下書 き や 控 え を 含 む) で あ る。 な か に は、 代 筆 で の 返 信 や、 連 名 の 書 簡 も あ る が、 「大 塚 節 治 関 係 書 簡」 と し て 一 括で分類されていたまとまりをくずさずに目録に挙げた。また、受信書簡の宛先は、同志社宛および大塚の自 宅宛が混在しているが、後掲の簡易目録では一括して時系列で資料を並べている。

  全書簡の年代は、一九三七年から一九六二年にまでわたる。各年代の構成は、一九三〇年代が三七通、一九

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書簡からみる大塚節治の一九三七年一九五

四〇年代が四通、一九五〇年代が二二六通、一九六〇年代が七六通、年次不明が二一通となっており、大塚が 総長を務めていた一九五〇年代以降の書簡が半数以上を占め、一九四〇年代の書簡数は少ない。数量の多い五 〇年代の書簡には、年賀状や挨拶状が多い一方、三〇年代の書簡には、同志社の歴史に関わる内容を読み取る ことができる重要な書簡が散見される。それについては、後述する。 二─二   大塚節治(一八八七~一九七七)と同志社   大塚は、明治から昭和にかけて、学生、神学部の教員、大学長、総長という同志社との繋がりがある。特に 大学長・総長職を担っていた時には、戦時下という難しい時代の学校運営から、戦後の学校の発展に寄与し、 同志社の舵取り役を果たしたといえる。

  以下に大塚についての略歴を紹介す る

((

  一八八七(明治二〇)年   三月三日、沖田惣左衛門・コトの六男として広島県に生まれる 一八九八(明治三一)年   高宮高等小学校入学 一八九九(明治三二)年   安北高等小学校二年編入 一九〇二(明治三五)年   安北高等小学校卒業、広島県立師範学校附属講習部入学 一九〇三(明治三六)年   同志社普通学校入学(一時中退) 一九〇四(明治三七)年   同志社普通学校二年編入 一九〇五(明治三八)年   日野真澄より受洗

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書簡からみる大塚節治の一九三七年一九六

一九〇九(明治四二)年   同志社普通学校卒業、同志社神学校入学 一九一二(明治四五)年   大塚かほる(神学校時代の奨学金を世話した篤志家・大塚精一の娘)と結婚、改姓

       六月に同志社大学神学部本科二学年一学期が終了し、九月からアメリカのユニオン 神学校入学 一九一三(大正二)年    コロンビア大学研究科入学 一九一五(大正四)年    妻・かほる腹膜炎のため永眠(大塚は沖田家に復帰せず)

       ユ ニ オ ン 神 学 校 卒 業、 B.D. の 学 位 を 取 得、 コ ロ ン ビ ア 大 学 か ら M.A. の 学 位 を 取 得、 ユニオン神学校研究科入学 一九一六(大正五)年    ユニオン神学校・コロンビア大学を中退し、同志社大学神学部助教授に就任 一九一七(大正六)年    茂代(宮川経輝の三女)と結婚 一九一九(大正八)年    神学部教授就任 一九二〇(大正九)年    文学部教授就 任

((

一九二二(大正一一)年   専門学校神学部講師嘱 託

((

一九二三(大正一二)年   大阪教会で按手礼を受ける 一九二四(大正一三)年   在外研究員の辞令を受け、フランスのプロテスタント神学校に留学 一九二五(大正一四)年   フランスから帰国、文学部長に就任 一九二六(大正一五)年   専門学校神学部教授に就任 一九二七(昭和二)年    文学部長辞任

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書簡からみる大塚節治の一九三七年一九七

一九二九(昭和四)年    文学部長就任 一九三一(昭和六)年    文学部長退任 一九三五(昭和一〇)年   文学部長就任 一九三七(昭和一二)年   文学部長重任、大学長就任 一九三九(昭和一四)年   文学部長退任 一九四六(昭和二一)年   文学部長就任 一九四七(昭和二二)年   文学部長退任 一九四九(昭和二四)年   同志社大学より文学博士の学位を取得 一九五〇(昭和二五)年   同志社大学長就任、第一三代同志社総長就任 一九五二(昭和二七)年   大学長退任 一九五五(昭和三〇)年   任期満了により総長退任、再任される 一九五七(昭和三二)年   退職、名誉教授とな る

((

一九六三(昭和三八)年   総長退任 一九七二(昭和四七)年   同志社大学より名誉神学博士号を受ける 一九七三(昭和四八)年   京都市名誉市民となる 一九七七(昭和五二)年   一一月一八日永眠

    大塚と同志社との繋がりは、同志社普通学校へ入学した一九〇三年から総長職を退任する一九六三年までの

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書簡からみる大塚節治の一九三七年一九八

六十年にわたる。大塚の生家である沖田家は、もとは裕福な農家であったが、父親が事業に失敗した後、大塚 は貧困と病気から苦学を強いられた。しかし向学心は旺盛で、同志社へ入学したのもアルバイトをしながら勉 学ができるという理由からであっ た

((

  年表から分かるように、普通学校入学年の一九〇三年から神学部本科二学年一学期を修了した一九一二年ま での九年間は学生時代である。その後、四年間のアメリカ留学を経て、一九一六年から退職する一九五七年ま での四一年間は教員時代である。そのうち、一九二五年から一九四七年までは文学部長を歴任し、一九三七年 からは大学長を兼任し、一九五二年に退任するまでの一五年間は大学長を歴任した。さらに、一九五〇年には 第一三代同志社総長に就任し、その後一三年間、総長職を務めた。

二─三   大塚節治関係受信書簡・発信書簡簡易目録   「大塚節治関係書簡」の簡易目録を本稿末尾にて紹介する。資料を受信書簡と発信書簡に分類し、それぞれ の目録を作成した。表記は原則として資料のとおりとし、年月日は西暦を使用した。また、記載内容を筆者が 推定した場合は[]でそれぞれ表記した。なお、記載文字の判読、内容の校閲はセンター所長である露口卓也 文学部教授にお願いした。

三   大塚節治関係書簡の同志社史の研究における意義

  大塚節治は、戦時下から戦後という激動の時代に役職を担い、学校運営にあたった人物である。クリスチャ

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書簡からみる大塚節治の一九三七年一九九

ンであり、神学部の教員でもあった大塚が、キリスト教主義の私立学校としての同志社を戦時下ではいかに守 り、戦後はいかに発展させようとしたのかを検証することは、同志社史の研究に一考察を加えるのみならず、 日本の大学史におけるキリスト教主義の私学運営の一ケースとしても参考になると考える。   現在まで、大塚が研究の対象とされることは少なかった。同志社における大塚の学校運営についての先行研 究として挙げられるのは、私見のかぎりでは『同志社百年史』が中心である。今回取り上げる「大塚節治関係 書 簡」 は、 『同 志 社 百 年 史』 執 筆 の 際 に 使 用 さ れ た 形 跡 が 見 受 け ら れ な い。 こ れ ら の 資 料 か ら、 当 時 の 同 志 社 の在り方、とりわけ学校の運営方針や、学内調整の過程を浮き彫りにし、先行研究を補完できる可能性を持っ ているという点において、本資料の資料的価値が見出せるものと考える。

四   書簡からみる大塚節治の一九三七年

四─一   一九三七年という年   そこで、後掲簡易目録の資料から、一九三七(昭和一二)年の書簡に着目し、その中から数点の内容を検討 したい。この年は七月に起こった盧溝橋事件を契機として日中戦争が勃発した年である。日本国内は戦時体制 へと組み込まれていき、同志社内にも時局が強く影響を及ぼしていた。

  このような年の七月一五日、大塚は同志社大学長に就任する。それまでの同志社では、慣例として理事会が 決めた総長が大学長を兼任していた。四月一九日の常務理事会で、総長兼任ではない専任の大学長を置く決定 がなされ、大学・予科の教授互選による初の専任大学長として大塚が選ばれた。総長は湯浅八郎が引き続き務

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書簡からみる大塚節治の一九三七年二〇〇

めた。学長としての大塚が、同志社の難局をどのように切り抜けたのかは、既に『同志社百年史』でも論じら れ、当時の彼の考えは、回顧録『回顧七十七年』からもうかがい知ることができる。それらを裏付ける一つの 資料として、 「大塚節治関係書簡」を手がかりに、この期の同志社の歴史に若干の考察を加えてみたい。

  「大塚節治関係書簡」のうち、一九三七年の書簡は、三月から九月までの計二二通ある。その二二通の内容 から浮かび上がってきたのは、上申書問題と国防研究会を中心とする学生の動きという二点の事象である。戦 争が及ぼした同志社への影響は、当年から始まったものではない。発端とされているのは、一九三五年に同志 社高等商業学校(以下、高商と記す)で起きた「神棚事件」である。事件については、当時の高商校長鷲尾健 治 に よ る「武 道 道 場 問 題 ニ 関 ス ル 経 過 概 要」 (セ ン タ ー 所 蔵) に 詳 し い が、 配 属 将 校 の 強 硬 な 介 入 や 当 時 の 学 生の意識から、当時の同志社へのファシズムの浸透具合がうかがえる事例として、まずは事件の概略を前記資 料に基づいて説明したい。

  前年の室戸台風によって被害を受けた高商の柔剣道場の復旧工事が一九三五(昭和一〇)年六月一日に完了 した。新道場には、旧道場内に掲げられていた新島襄の肖像を掲げることが決定され、関係者に通達されてい たが、一部の部員が無断で神棚を設置した。二日に剣道部長の教員が神棚の存在を知ったが、当日は道場開き の剣道大会が開催されていたため、不問となった。翌三日に、高商校長鷲尾健治が柔剣道部の理事学生に事情 を聞くと、神棚には神体が納められていないという。そこで校長が「本校教育ノ精神」を説いたところ、学生 自らの手によって神棚は取り下げられた。その後、学内の配属将校三浦国雄がこの一件に介入し始める。三浦 は、 自 ら が 求 め て 作 っ た 校 長 に よ る 四 日 の 説 明 の 場 で、 「わ か り ま し た」 と 名 言 し た も の の、 五 日 に な っ て 厨 子の中に神体が納められていないのは誤りであり、神棚を挙げるべきであると申し出て、一大騒動となったの

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書簡からみる大塚節治の一九三七年二〇一

である。三浦は、一度掲げた神棚はどのような理由があっても取り下げるべきでないとする強硬な態度をくず さず、配属将校引き上げをちらつかせた。それに加えて、新聞や地域の右翼団体が騒ぎたて、騒動はますます 大きくなり、世間からも注視されていた。総長と第一六師団司令部との話し合いの結果、二三日の理事会で、 「神棚」を新学期から掲げることとなった。   この一件以降、ファシズムの嵐は同志社内で起こる問題を一学校内の問題として止めることを許さず、学内 外を巻き込んで大きな波紋を投げかけた。 『同志社百年史』によるこの時期の記載からは、例えば「神棚事件」 の理事会の決定についても軍部の屈服と捉えるなど、世論や軍部からの外圧に対して、危機感をつのらせる学 校当局という構図を見ることができる。大塚は、もちろん当局の中枢に位置した人物である。それをふまえ、 教員と学生それぞれの動きを二件の事象を通して見てみたい。 四─二   上申書問題─教員の動き   「上申書」とは、一九三七年三月一六日に法学部教授瀬川次郎、村井藤十郎と、助教授土井十二、佐藤義雄 の四名が連名で総長湯浅八郎宛に提出した文書である。その内容は、新しい教育綱領の方針に従い、法学部助 教授田畑忍、具島兼三郎、林信雄をその思想傾向が教育綱領と反するために免職すること、法学部教授宗藤圭 三と助教授林信雄は風教上同志社の教員として適当ではないために免職すること、法学部充実のため教育綱領 に合致する人物を招聘することの三点を要望するものであっ た

((

  ここで彼らが持ち出している新しい教育綱領とは、同年二月二六日に制定された「同志社教育綱領」を指す。 同志社では、前述の「神棚事件」を発端に、一九三六(昭和一一)年には「国体明徴論文掲載拒否事件」 、「御

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書簡からみる大塚節治の一九三七年二〇二

真 影 問 題」 、 そ し て 一 九 三 七 年 に 入 っ て 早 々 に「勅 語 誤 読 事 件」 が 起 こ っ た。 そ の 流 れ で、 右 翼 団 体 や 配 属 将 校らが、同志社の憲法ともいえる同志社綱領(一八八八年制定)六カ条のうちの第三条「本財団ノ維持スル学 校ハ基督教ヲ以テ徳育ノ基本トス」に対する攻撃を始めた。つまり、日本の教育機関は全て教育勅語を徳育の 基本とすべきで、現行の綱領は相反するという内容の攻撃である。そこで新たに左記の五カ条からなる「同志 社教育綱領」 (センター所蔵)が制定された。

  【同志社教育綱領(昭和一二年二月二六日制定、三月三日公表】 一、同志社ハ敬神尊皇愛國愛人ヲ基調トシ之ヲ貫クニ純一至誠ヲ以テスル新島精神ヲ指導原理トス 一、同志社ハ敎育ニ關スル勅語並詔書ヲ奉戴シ基督ニ據ル信念ノ力ヲ以テ聖旨ノ實踐躬行ヲ期ス 一、同志社ハ基督ノ眞精神ヲ信奉ス 一、同志社ハ敬虔自治日新中正ヲ以テ學風トス 一、同志社ハ良心ヲ手腕ニ運用シテ國家社會ニ貢獻スル人物ヲ養成スルヲ目的トス

    この「同志社教育綱領」は、湯浅によれば「時代の趨勢に鑑み、同志社の使命の、愈々遠大なるを達観し、 過去現在未來を一貫する同志社の根本精神を現代的に表現し、時代的に發展せしめたも の

((

」として、同志社綱 領と教育勅語とを両立させようとしたものである。しかし、この綱領の制定こそが、更なる問題を引き起こす こととなった。その一つが上申書問題である。

  上申書が提出されたのは、教育綱領発表後まもなくであった。文学部長であった大塚は、四月二日に総長湯

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書簡からみる大塚節治の一九三七年二〇三

浅からこの件について相談を持ちかけられ、上申書を提出した教員らと会談し、再びその内容を湯浅に伝える など、問題解決のために動いてい た

((

。しかし、九日には憲兵司令官中島今朝吾が調停に乗り出したため、大塚 はこの問題から手を引くように湯浅から言われたとい う

((

。その後、中島は憲兵司令官としてではなく、個人と して来洛し、各当事者と数度の折衝を重ねた。そして、一四日に緊急常務理事会が召集され、一二時間に及ぶ 懇談協議の結果、各当事者の意見表明をもって「円満解決」を見 た

(((

。大塚はこの一件を「このような事件は空 前で恐らくは絶後であろう。学園としてはいろいろな意味で不名誉であり、不祥事であった。そうしてこれは 当 時 と し て 可 能 な る 最 善 の 方 法 で あ っ た か も し れ ぬ が、 要 す る に 一 時 的 彌 縫 策 で、 事 は そ れ で 収 ま ら な か っ た」 と 回 想 す る

(((

。 法 学 部 で は か ね て か ら 教 員 が 二 派( 『同 志 社 百 年 史』 の 言 葉 を 借 り れ ば、 容 共 派 と 反 共 派

(((

) に分かれ、対立の様相を呈していたものが、上申書問題で再び顕在化したのである。

  上申書問題は、四月一四日の「円満解決」では収まらず、大塚はこの件の善後処置について、引き続き対応 を迫られることとなる。その間五月一五日開催の常任理事会で、大塚の専任大学長就任が決議されるが、法学 部問題について湯浅と意見が合わず、大塚は受諾の返事を二ヵ月にわたって保留している。この事件の処置に 対する大塚の考えは、喧嘩両成敗、つまり上申組(上申書を提出した教員)も被上申組(上申書に名前を挙げ られた教員)にも処分を要するが、犠牲はなるべく少なくあるべきというものであっ た

(((

。結果として、処分は 八月一二日開催の常務理事会において、左のような決定がなされ る

(((

  (イ) 、法學部敎授瀬川次郎、同村井藤十郎兩氏ニ辭表ヲ提出セシ

    メ本職並ニ兼職ヲ解ク但シ十三日中猶豫ヲ與フ右期間中ニ

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書簡からみる大塚節治の一九三七年二〇四

    辭表ヲ提出セザル場合ハ解職ニ附シ度シ (ロ) 、法學部助敎授林信雄氏ノ本職並ニ兼職ヲ解キタシ但シ右發     令ハ同氏内地留學期間滿了後ノ事 (ハ) 、法學部助敎授具島兼三郎氏ハ豫而辭表提出中ナレバ之ヲ受

    理シ度シ (ニ) 、法學部敎授河原政勝氏ニ本年度中本職並ニ兼職ノ休職ヲ命     シ度シ (ホ) 、法學部助敎授田畑忍氏ニ本年度中休職ヲ命シ度シ但シ内地

    研究員ハ從來通リ     上申組と被上申組の双方から二人の退職者と一人の休職者とを出したこの決定は、大塚の主張した喧嘩両成 敗の考えが、少なからず反映されているものといえる。この人事に関する上申組の反応が分かる資料を「大塚 節治関係書簡」のなかから紹介する。

  【資料番号7   一九三七年八月一三日付大塚節治宛河原政勝・瀬川次郎・村井藤十郎書簡】

  拝啓

  小生等昨日湯淺総長より「人事行政上の都合」とのみの理

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書簡からみる大塚節治の一九三七年二〇五

由により休職及び解職の申渡をうけし こ

(ママ

は既に御承知のことヽ          學 存 此處置に對し 部 長として貴下は同意さるヽや否や 乍御手数文書を以て折返し御回答に預り度此段及御

依頼    草々   昭和十二年八月十三日         河原政勝         瀬川次郎         村井藤十郎   大塚節治様     この書簡については、手書きではあるが、用箋にカーボンで 複写されたような形跡がある。文面の「部長」を手書きで「學長」に訂正していることからも、処分を受けた 教員が複数の役職者に宛てて送った質問状であると考えられる。また、三名が求めている折り返しの返答につ いて、センターに保存されていた資料のなかに該当する書簡があるので、ここに紹介する。

  【一九三七年八月一四日付河原政勝・瀬川次郎・村井藤十郎宛大塚節治・黒川芳蔵書簡】

 

1937年8月13日付大塚節治宛河原政勝・瀬川次 郎・村井藤十郎書簡

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書簡からみる大塚節治の一九三七年二〇六

   拝啓八月十三日付貴翰正に拝誦仕候八月十二日湯淺總長より   各位に申渡され候處置に小生等は同意せし者に御座候尚ほ   小生等の心事につきては村井兄に申上候通りに御座候間不悪   御諒承願上候   右要々御返事申上候     八月十四日        敬具         大塚節治         黒川芳蔵     河原政勝様

  瀬川次郎様   村井藤十郎様     この書簡の差出人の一人である黒川芳蔵とは、河原政勝の後任の法学部長を務めた人物である。前出の【資 料番号7】書簡での質問に対し、大学長と法学部長は連名で同意を示している。なお、文面にある「小生等の 心事」については現在のところ分からないが、大塚は回顧でも、この処分についての報告に対して同意の捺印 を押したことを書いてい る

(((

。そして、黒川と同行し、処分教員の訪問と処分の伝達へ向かったとい う

(((

。次に紹 介する書簡は、この時の大塚の動向を裏付ける資料である。

 

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書簡からみる大塚節治の一九三七年二〇七

【資料番号9   一九三七年八月一五日(消印による)付大塚節治宛河原政勝書簡】

    冠省     學長様御就任の御報七日は京都青年会   館に荷物を取りに参る迄入手せずに居りましたの   で失礼して居ました   何卒悪しからず   昨日は遠ゟわざ〳〵御訪ね下さいましたのに   前回同様不在で申訳け御座いませんでした   十二日は私の誕生日だったのでしたが其の日より   新な生活にスタートを切るべく運命づけられ   たこと誠に意味深長なものがあります   これ迄色々とご迷惑を掛けましたことを心よりお詫申上けます     回顧によれば、大塚と黒川は、処分が決定した八月一二日に具島、瀬川、村井、河原を訪問してい る

(((

。河原 を訪問したのは八月一三日であったが、河原は不在であったため、大塚は用件を伝えずに帰ったとい う

(((

。この 書簡は、その際の不在を詫びる河原からのハガキである。大塚の訪問が「昨日」であるという点から、河原が このハガキを書いた日はおそらく一四日であろう。河原は上申書に名を連ねていなかったが、法学部長として、 上申書を総長に取り次いだために、上申組とともに処分を受けたのであった。処分が決定した一二日が河原の

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書簡からみる大塚節治の一九三七年二〇八

誕 生 日 で も あ り、 「新 な 生 活 の ス タ ー ト を 切 る べ く 運 命 づ け ら れ た こ と」 と 彼 自 身 も 処 分 を 受 け 入 れ た か の よ うに見受けられる。処分教員に対する大塚の配慮を示す資料である。

  次に、上申書に名前を連ねていながら処分の対象とならなかった佐藤義雄は、河原政勝に関して次のような 書簡を大塚に送っている。

【資料番号

((   一九三七年八月一九日付大塚節治宛佐藤義雄書簡】

    拝復

  残暑尚難去折柄

  先生ニハ愈々御清穆之段

  大慶至極ニ奉存候

  陳者今般先生ニハ

  学内外の與望を負ふて

  非常時学園の学長ニ

  御就任日夜御精励の

  段学園の一員として

  感謝ニ不堪次第ニ御座候

  然る處、這回法学部の

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書簡からみる大塚節治の一九三七年二〇九

  人事異動ニ際してハ   早速御丁重御懇篤なる   御忠告ニ接し身の   光栄之ニ過ぎる事   御座なく候御承知の通り   河原先生ハ小生の学生   時代より特別の御指導ニ   預り候恩師に有之   法学部内ニ於ても最も   良心的人格者に御座候   然るにその如何なる理由   にてか、休職の處分ニ   逢はれたること、その門弟   として詢ニ忍びざる處ニ   御座候勿論、何時かハ   時日が立てば河原先生 写

(ママ

𡨚の   機到来致すこと火を

  睹るよりも明かには御座候

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書簡からみる大塚節治の一九三七年二一〇

  へ共、返す〳〵も残念ニ

  存居候然し此際は

  先生の御忠告ニ従ひ専ら

  自重以て貴意ニ副ひ度と

  決心致居候間、今後共

  何卒宜敷御指導

  御鞭撻成被下度懇願

  仕候何れ近日拝眉の

  節ニ萬々申上べく候へ共

  不取敢以書中

  御禮並ニ御願申上度

  如斯御座候   敬具

  八月十九日

       佐藤義雄

  大塚学長

    侍史

    追而小生儀、六月以来当地へ

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書簡からみる大塚節治の一九三七年二一一

  仮寓致居候為本日貴翰領掌   返書遅延之段平ニ御海容   成被下度候従って昨夜も十分   御禮申述ぶべき機なく失禮仕候     こ の 書 簡 の 発 信 者 で あ る 佐 藤 が 処 分 の 対 象 と な ら な か っ た 理 由 に つ い て『同 志 社 百 年 史』 は、 「助 教 授 で あ るため」としてい る

(((

。文面にある「御忠告」という言葉から、大塚から佐藤へも何かしらの接触があったこと が推測できる。佐藤は大塚の忠告に従うという意志を示しつつも、河原に対する援護の姿勢を見せている。佐 藤自身は当事者ながら処分を免れ、恩師でもあり上司でもある河原が処分の対象となったことに対する佐藤の 思いがうかがえる書簡である。

  次にこの人事に対する学内外の反応を示す書簡を二通紹介する。

  【資料番号4   一九三七年八月付大塚節治宛日本精神文化研究所書簡】

  同志社はこの數年來御眞影奉戴問題、神棚問題、勅語誤讀問題、國 體明徴派敎授馘首問題、左傾敎授庇護問題、二重綱領問題、上申書 問題、配屬將校拒避問題等々國体並に思想に關する重大事件が續出 し其の都度社會より「問題の學園」視され、文部當局よりも再三重

(21)

書簡からみる大塚節治の一九三七年二一二

大警告を受けてゐることは甚だ遺憾であります。 今また六月二十八、九、三十日豫科敎授の計畫的配屬將校誹謗に刺戟 され國體明徴、學園の肅淸を呌んで立つた豫科學生の籠城事件が持 上り、各新聞に大々的に報衟された事は御氣付の事と存じます、此 に對して學校當局に反省の色なく學生のみを嚴罰に處して事終れり となしてゐるやうであります、これでは純眞なる動機にかられて此 の擧に出た學生が可愛さうであるばかりでなく、斯様なやり方では 將來更に此種不祥事件が繰﨤される恐れ甚だ大であるばかりでなく 思想國防の第一線に立たねばならぬ學園として甚だ遺憾と云はねば なりません、そこで取敢ず學校當局に反省を求める爲め左の如き聲 明を發したく幸に貴台の御賛成を得れば幸と存じます、若し此に付 き反對の御意見があれば御手數ながら折﨤し御一報にあづかり度く 御意見を給はらぬ際は勝手ながら御賛成下さつたものと承知致しま す。 同志社學園ハ現總長湯淺八郎氏就任以來問題頻發、不祥事續出シ テ絕ユル時ナシ然モ學校當局ハ毫モ自ラ反省スル處ナク、遂ニ最 近ノ豫科學生ノチャペル籠城事件ヲ惹起セシムルニ至リタリ、本 件ニ付イテモ總長以下一モ責任ヲトラントスル形跡ナク、徒ラニ

(22)

書簡からみる大塚節治の一九三七年二一三

學生二十六名ノ大量嚴罰處分(諭旨退學、無期停學、譴責)ヲ斷 行シテ恬トシテ恥ズル處ナシ、斯ノ如キハ果シテキリスト敎精神 ヲ標榜スル同志社立學ノ精神ニ副フモノナリヤ、鞭ヲモツテ自ラ ノ手ヲ打タレタル新島先生ノ 教

(ママ

育方針ト比較シテ霄壤ノ差異アル ヲ痛感スルモノナリ、 因

(ママ

ヨリ學生ノトレル行動ニハ非難ノ餘地ア ルベキモ其動機タルヤ國體明徴ニアリ、其ノ原因ニ就イテハ學校 當局亦罪ノ一半ヲ負フベキモノニアラザルカ、現ニ昭和四年ノ大 ストライキノ際ハ學生側ヨリ一名ノ處分者モ出サヾリシ前例アリ 吾人ハ此ノ際學校當局ノ猛省ヲ促シ、學生嚴罰處分ヲ速カニ取消 サレン事ヲ要望スル。而シテ時局柄此種ノ不祥事件ヲ根絕スルト 共ニ同志社敎育ヲシテ   敎育勅語ニ基ク眞正ナル日本的敎育ノ常 道ニ復歸セシメ、將來再ビ同志社ヲシテ社会指彈ノ的タラシメザ ランコトヲ期ス      昭和十二年八月

         日本精神文化硏究所

       京都市上京區寺町鞍馬口下ル

       高德寺町三百五十八番地(西園寺内)

(23)

書簡からみる大塚節治の一九三七年二一四

  〔同封別紙〕

         追    記

  學生二十六名の大量嚴罰處分を斷行した湯淺總長及び同志社當 局は自ら毫末反省の色なく、更に八月十二日の理事會に於て突 如法學部敎授、助敎授六名の大量處分を敢行しました。 法學部敎授(前部長)河原政勝、法學部助敎授田畑忍二氏は 休職 法學部 教

(ママ

授瀨川次郞、同村井籘十郞、法學部助敎授具島兼 三郞、同林信雄四氏は依願解職 理由は「人事行政上の都合」とのみで本人にも明示せぬさうで す。これで同志社大學法學部は現職員の半數以上を失つた譯で あります。河原、瀨川、村井各 教

(ママ

授が罷免されたのは是等の敎 授がかつてより國體明徴の徹底を呌んで居られマルキシズム擁 護の湯淺總長の方針と相容れなかつたのに由ることは明らかで ありますが、總長と從來一身同體となつて極力庇護し來つた具

(24)

書簡からみる大塚節治の一九三七年二一五

島、林の二敎授をも解職したのはこれによつて、總長が左翼 庇護の非難を回避し世間体をゴマ化さんとする苦肉の策であつ て自己の地位擁護のためには主義も、信念も、人情も抛棄して 顧ない湯淺氏の態度は全く同志社學園の總長として人格的にゼ ロと申すの外ありません。 以上追記して御參考に供します。

    この書簡は、学外の地域右翼団体が発行したビラである。文面からは、返信のない場合は賛成とみなすなど、 湯浅に対する強硬な姿勢がうかがえる。当時は、ここに紹介した日本精神文化研究所以外にも複数の地域右翼 団 体 が あ っ た。 こ う い っ た 団 体 か ら の 湯 浅 に 対 す る 批 判 は、 一 九 三 七 年 に 始 ま っ た も の で は な い。 『同 志 社 百 年史』では、前述した神棚事件の際から右翼団体の存在が事件の背後にあることを指摘し、法学部教員二分化 を 決 定 的 に し た 国 体 明 徴 論 文 事 件(一 九 三 六 年) の 際 に 撒 か れ た ビ ラ を 紹 介 し て い る

(((

。【資 料 番 号 4】 の ビ ラ は、こうした右翼団体が、ビラを用いて学内外の世論を煽動していたことを示す一つの資料である。また、追 記の「理由は『人事行政上の都合』とのみで本人にも明示せぬ」というあたりは、前掲【資料番号7】にある 処分を受けた上申組当事者の言い分と合致している。

  【資料番号

((   一九三七年八月十九日付大塚節治宛野村仁作書簡】

 

(25)

書簡からみる大塚節治の一九三七年二一六

貴翰拝見仕候残暑酷烈に候處愈々 御勇健にて日々学園の為め御尽瘁被下 候段感謝に不堪候問題の処分に就ては 公平なる人士に於て誰も異存なき事と 存せられ候もごた〳〵は容易に納まるまじく 誠に憂慮に不堪候。学内の協力一致 に就ては乍微力努力致度此上とも御骨 折り願上候   時節柄折角皆様御自 愛被遊候様御祈り申上候   小生一同幸に無事 田舎は田舎なりに時局気分横溢し出征兵士見 送りや講演会などに時々引張り出され居申候

    昭和十二年八月十九日         不具        野村仁作     大塚学長侍史     この書簡の発信者である野村仁作は、当時の同志社中学長である。一九三一年に中学長の職についた野村は、 退役海軍大佐という肩書きと実績を持っており、それが軍部と右翼団体の外圧から中学を守るのに有効であっ たと評価されている人物であ る

(((

。この書簡の文面からは、中学長という職責にある野村自身も法学部教員の処

(26)

書簡からみる大塚節治の一九三七年二一七

分については、一定の理解を示しているが、処分についての反応を懸念していることが分かる。そして、学内 協調のために野村も協力姿勢を見せており、大塚をはじめ学校当局にとっては心強い書簡であっただろう。   上申書問題については、すでに『同志社百年史』編纂の段階で、センターに残る一次資料や当時の新聞報道 を駆使して事件の流れが整理されている。今回紹介した資料からは、当局側の人間としてこの件の善後処理に あたった大塚の動向と、特に人事処分をめぐる当事者の考えの一端を知ることができる。 四─三   国防研究会をめぐって─学生の動き   次に、学生側の動きについて示す資料を紹介したい。

  【資料番号2   一九三七(昭和一二)年六月五日付大塚節治宛藤田義彦書簡】

  冠省

  本日正午頃   大学国防研究会幹事長小笹謙吉君来室

  小林理事ヨリお話有之候件に就ての回答左如貴方にお伝

  へ可申依頼有之候

    草川中佐に相談の結果曩に提出せし決議文の撤回は

    實行致し難しと決定せり

  拝眉の機もひらくに付不取敢置申右申上候    早々

(27)

書簡からみる大塚節治の一九三七年二一八

        六月五日        藤田義彦      大塚先生     この書簡は、当時同志社本部主事であった藤田から大塚に、同志社理事の小林正直と学生国防研究会幹事長 の学生・小笹謙吉との会談内容を伝えるものである。

  まず国防研究会とは、大学予科の教練振興会と学部の満蒙研究会を解消し、一九三四年三月一日に設立され た学生団体であ る

(((

。大学学部学生と予科学生、同志社出身者、同志社職員とがそれぞれ、正会員、特別会員、 賛助会員としての入会資格を持ち、一九三四(昭和九)年五月時点で一二〇名の会員を擁してい た

(((

。また、研 究会会長には大学学長が、副会長三名は会長の委嘱によって文学部長、法学部長、予科長があたり、学部学生、 予科学生の会員から幹事若干名を置き、会の役員を構成した。つまり、当時の国防研究会会長は湯浅であり、 副会長のうち一名は大塚であった。そして、会長の委嘱によって同志社配属の将校を顧問としていた。

  文中に登場する「草川中佐」とは当時の配属将校・草川靖のことである。草川について『同志社百年史』で は、 「狂 信 的 な 国 粋 主 義 者 で あ り 煽 動 家」 と 評 し て い る

(((

。 特 に 七 月 に 起 こ っ た「チ ャ ペ ル 籠 城 事 件」 で 草 川 に 触れ、事件を主導したとされる国防研究会学生をかげで指揮した首謀者として、学内で暗躍していたことをう かがわせる記載があ る

(((

。チャペル籠城事件への国防研究会の関わりについて、国防研究会と草川との密接な関 係は当時の同志社においては公然だったようであ る

(((

。書簡の報告によると、理事の説得に対して小笹は、草川 中佐と相談の結果、撤回できないとしている。この書簡は、国防研究会の意思決定の過程に草川の影響が大き

(28)

書簡からみる大塚節治の一九三七年二一九

かったことを示す一つの資料である。   次 に、 「曩 に 提 出 せ し 決 議 文」 に つ い て 若 干 の 検 証 を 加 え た い。 大 塚 の 回 顧 の な か で、 大 塚 宛 藤 田 書 簡 の 発 信日以前に、国防研究会及び学生の決議に言及している記載を挙げると、⑴五月一〇日、学生国防研究会が会 長に総長を推戴せずと決議、⑵一七日、教育部会開催中に学生有志五名が血印を押した総長辞職勧告状を総長 本人に渡す、という二箇所である。それぞれの決議文、勧告状 が「湯 浅 八 郎 文 書(学 生 決 議) 」 と し て セ ン タ ー に 保 存 さ れ て いたので、以下に全文を紹介する。   【国防研究会決議文】           決議文 々昭和九年參月壹日ヲ以ツテ成立セル我ガ 同志社大學國防研究 ノ目的ハ本 々則 第貳章第四條ニ「本 ハ國民國防ノ本義ニ 鑑ミ諸般ノ研究竝體験ニヨリ皇運扶翼ノ精 神ヲ強化シ併セテ識見ヲ向上セシムルヲ以ツテ目的トス」 トアリ特ニ思想國防ニ重キヲ置ク事ハ本 ノ性貭 上當然ノ事デアル、然ルニ我等本校ノ教育方針ニ

國防研究会決議文

(29)

書簡からみる大塚節治の一九三七年二二〇

関聨セル並ビニ其他ノ諸問題ニ対シ同志社總長兼 大學々長タル本 々長ト我等 員トノ間ニ思想 信念其他ノ諸点ニ於テ相一致セザル重大ナル事実 存スルニ致リ幹事 ヲ圣テ五月拾日總 ヲ開催スルニ 至リ本 々長として推戴シ得ザルノ決議ヲ取ルノ餘儀 ナキニ致ツタノデアル   即チ湯淺同志社大學々長ヲ同 志社大學國防研究 々長トシテ左記ノ理由ニ依リ 推戴シ得ズノ決議ハ總會席場万場一致ヲ以ツテ可 決セラレタノデアル、 理由   一、同志社綱領ト同志社教育綱領ト同一ナリト認メラレシ点

    一、教授ノ思想問題竝上申書ニ対スル處置及見解     一、其他対外者ニ語ラレシ言辞        以上 昭和拾貳年五月拾日         同志社大學國防研究           代表   小笹謙吉

    【学生有志血判勧告状】

   謹而我等の徴意を捧グ

(30)

書簡からみる大塚節治の一九三七年二二一

  私達學生ハ打続き学内の重苦しい   空氣のなかに生活するに堪へなくなりました   この不安に動揺する学園を刷新 すべく日夜御精進さる、總長先生 以下當路者諸賢の努力的態度 には感謝に堪へません。    然れども不幸にして学内の現 状改革は現在當局の御考への下 に於ては絶對的に不可能である あることを知るの余儀なきに至りました。   同志社は制度の点に於て人の 点に於て根本的の立直しを必要 として居ります。徒らなる不安と焦 慮の時の経過は唯に学生 校友、同窓の上に重大なる影   響を すばかりでなく、国家の 人物経済の上にも延いては同志 社の主眼とする育英報国てう

(31)

書簡からみる大塚節治の一九三七年二二二

目的の為にも莫大なる損失であり 同時に同志社存立の危機を招 来するは誠に当然であり且又既 にその様に際會致して居るのであります。

  我等が不安の波に漂ひながら、 凡ゆる世人の嘲笑の中に自重自 節し来りしは強ち我等の無能 の至すところばかりではありませぬ。 偏へに同志社の前途を想いて當局 の努力的態度に信憑して無言の 声援を続けて来たのであります。

  然るに昨今の事態は我等に 自重の様を与ふることを奪ふに 至り、前述の如く現在當路者 の御方針は同志社の将来に好し からざるものなりとの結論に達しました。 今は我等学生の自治と秩序 の下に学園の将来の為敢へて起つ

(32)

書簡からみる大塚節治の一九三七年二二三

ものであります。   然して子弟の情誼上 堪へ難きところなれども左 の諸項目を要求致し 當局の御決意を願上 ぐるものであります。 一、總長先生の御勇退 二、總長常時輔佐の任にある理事并に    高級職員    諸賢の御辞職 三、我等の念願とするところは

   正しい国体観念に基く大    同志社の再建と之に伴ふ    本部其他の職制改革

  かえす 〴〵 も敢へてこの挙に出ずるの 微意を御諒察の上 同志社の為御決断の程重

(33)

書簡からみる大塚節治の一九三七年二二四

ねて願上ぐるものであります。 追而事態既に急を告ぐれば将来 の運動の進捗上御決意の程を 本月二十日迄に御披歴下さる様 願上げます。

   我等の挙を反省しつヽ    同志社の甦生を祈りつヽ     昭和十二年五月十七日

        田崎末松         朝倉繁一         杉浦石次郎         佐々木直之         北川一美     同志社總長

   湯浅八郎先生

  本運動は飽く迄純真なる

(34)

書簡からみる大塚節治の一九三七年二二五

  学生運動にして他の何   物をも関係なきことを誓ふ   ものであります。     これらの資料が大きく異なる点は、前者は湯浅を国防研究会会長として推戴しないことを決議し、後者は湯 浅の総長辞職を勧告していることである。   前者の決議は、五月一〇日に開催された国防研究会の総会上でのことであった。総会出席者は、会員の約半 数 に あ た る 約 五 五 名 の 学 部・ 予 科 の 学 生 と、 職 員 側 か ら、 副 会 長 柴 山 健 三(大 学 予 科 長) 、 顧 問 の 配 属 将 校 二 名を含む八名と、憲兵と巡査が臨席した。職員側出席者のなかには、上申書を提出した法学部教員三名(瀬川 次郎・村井藤十郎・佐藤義雄)が含まれてい た

(((

。決議を受け、翌一一日の教育部会でこの件が提起され、当時 文学部長の任にあり、国防研究会副会長でもあった大塚が、国防研究会の学生達と話し合いをすることとな る

(((

  血 判 勧 告 状 は、 五 月 一 七 日 に 提 出 さ れ て い る。 こ の 件 を め ぐ っ て は、 『同 志 社 百 年 史』 に は 記 載 が な く、 現 在のところは大塚の回顧録から動向を探るほかない。それによると、教育部会の会議中に総長への取り次ぎを 求めて、学生がこの勧告状を持参した。部科長が学生に対して反省を促すも、学生は承服せずに勧告状を総長 に渡す。その場で対策を講じるも、名案なく教育部会は解散というのが勧告状提出のいきさつである。この勧 告状に署名した五名は、大塚によると「学生有志」であ る

(((

。また、勧告状の末尾にも「飽く迄純真なる学生運 動にして他の何物をも関係なきことを誓ふ」とあり、有志であることを強調するかのようである。

  【資料番号2】の文中にある「曩に提出せし決議文」に関して、これら二つの文書のうちどちらを指すのか、

(35)

書簡からみる大塚節治の一九三七年二二六

もう少し考察を進めることとする。

  次に大塚の回顧のなかで、これらの文書に関してふれている時期は九月五日である。その日に関連する資料 をここで紹介したい。

    【資料番号

((     一九三七年九月七日付 大塚節治宛小笹謙吉書簡】

    前略   一昨日は御遠路御多   忙中御来訪、小生方より御訪ね   す可き所まことに恐縮に存じ   ました。眞に学校の為とは云ひ   乍らまことに御苦労様であり   ます。毎日の御心痛お察し   致します。当方も配属将校ともよ   く相談しましてその他の方々の云ひ分   もよく聞き何分事をきめます。

  先は失礼のお詫び申し上げます。不一

    大塚の回想によれば、九月五日に国防研究会代表・小笹の家へ直接出向き、総長宛の決議文の撤回を求めた

(36)

書簡からみる大塚節治の一九三七年二二七

が、小笹は承知しなかったとい う

(((

。この書簡の文面から分かるように、小笹は学長自ら自宅を訪問したことへ 礼を述べながらも、決議の撤回については慎重な姿勢を示している。また、依然として配属将校と国防研究会 との密な関係がうかがえる。

  大塚を含む当局者が、前掲のどちらの決議文に対応していたのかが不明であるのは、この日の大塚の回顧に 起 因 し て い る。 大 塚 は 九 月 五 日 の 欄 に「総 長 宛 決 議 文(本 文、 五 月 一 七 日 の 記 事 参 照) 」 の 撤 回 を 求 め た が 小 笹 が 承 知 せ ず と し

(((

、 そ れ は【資 料 番 号

出した、国防研学生の文」として、 (( か う 提 宛 長 総 て し 捺 を 印 「血 え、 の ら 】 る。 き で が と こ る け 付 裏 も そ      一、総長先生の御勇退

   一、総長常時補佐の任にある本部理事並に高級職員の辞職    一、正しき国体観念に基づく大同志社の再建設    一、其他学内諸制度の改革   の四点を挙げてい る

(((

。つまり、学生有志が提出した五月一七日付勧告状にある条項と同じ内容である。前述し たように、勧告状を提出した学生有志と国防研究会との関係は、現在のところ明らかではない。さらに、大塚 は一〇月四日の項には、国防研究会幹事二名が大塚を訪ね、大塚同伴で総長室へ赴き、具申書を取り下げたと あ る

(((

。 し か も 取 り 下 げ た 具 申 書 は 五 月 一 九 日 の も の と な っ て い る が、 五 月 一 九 日 の 項 に は、 「先 の 勧 告 文 を 印 刷配布した」と記載されている。

(37)

書簡からみる大塚節治の一九三七年二二八

  勧告状を出した学生有志五名が国防研究会の会員であったのか、五月一〇日以後に国防研究会が新たな決議 をしたのか、はたまた大塚の記憶違いなのかは更なる検証が必要である。五月一九日に印刷配布され始めた先 の勧告文とは、五月一七日に提出された血判勧告状と考えるのが自然であろう。とすれば、大塚はじめ当局は、 湯浅に総長退任をつきつける内容の決議について対応していたこととなる。先に触れた七月のチャペル籠城事 件 を 指 揮 し た 学 生 の う ち の 二 名 と、 勧 告 状 に 名 を 連 ね て い る 五 名 の う ち の 二 名 と の 名 前 が 合 致 し て い る。 『同 志社百年史』によれば、チャペル籠城事件の中心は国防研究会の学生であるとの記載がある。また、チャペル 籠 城 時 の 決 議 文 の 条 項 は、 「総 長 先 生 の 御 勇 退」 は じ め、 勧 告 状 の そ れ と 同 じ 内 容 で あ る。 現 時 点 で 確 認 で き た資料からは、勧告状を出した有志学生とチャペル籠城事件を指揮した学生とは、国防研究会の会員であり、 彼らが出した総長退任を求める強硬な勧告、決議文について、大塚らは取り下げさせるべく対応にあたってい た。そして、当該学生らの所属先である国防研究会の幹部とも折衝を重ねていたということが推測できる。

  加えて、五月一〇日の国防研究会の決議文が一〇月まで解決せずに長引く可能性は低い。なぜなら、七月に 大学長が湯浅から大塚へと変わっており、学長が会長を務めるという国防研究会の規約からして、湯浅に会長 辞職を勧告するまでもないと考えられるからである。やはり、懸案となっている「決議文」は、総長を辞職す る内容のものではないだろうか。

  国防研究会が一〇月四日に「具申書」を取り下げた後、九日に行われた国防研究会総会で会長推戴式が行わ れ、 新 し い 会 長 と し て 大 学 長 で あ る 大 塚 が 就 任 し た。 ま た、 一 〇 月 一 五 日 発 行 の『同 志 社 新 報』 に は、 「同 志 社大學學生間に擧學一致の氣運兆す」という記事が掲載されている。その記事は、国防研究会を含む学内各有 力学生団体が六日に集まって、挙学一致の精神に則り、連携して学風の発揚のために邁進することを確認した

(38)

書簡からみる大塚節治の一九三七年二二九

と報じている。国防研究会を中心とするこの期の学生の動きは、一旦はこれで鎮静化したと見ることができる。

五   結びにかえて

  こ こ ま で、 大 塚 が 互 選 に よ る 初 め て の 専 任 大 学 長 に 就 任 し た 一 九 三 七 年 に 着 目 し、 「大 塚 節 治 関 係 書 簡」 の なかから読み取ることができた二点の事象を取り上げた。そして、教員、学生それぞれの動きの中で、大塚が 担った文学部長、大学長としての立場と、彼を取り巻く学内の環境を検証した。その結果、教員側の動きにつ いては、上申書問題に際しての人事処分をめぐる大塚の関わりの度合いをうかがうことができた。一方、学生 側の動きについては、国防研究会を中心とする学生の意識と動向、それに対する大塚の調整の様子を断片的に ではあるが、垣間見ることができた。ここから見えてきた大塚像は、学内へ浸透しつつある国家主義の影響の なかで、キリスト教主義の私学としての同志社を存続させるべく、学内協調のため奔走する姿である。今後は、 書簡以外の大塚資料の発掘と、既にセンターで整理、保存されている戦時下の資料の再検討を進めていきたい。

  今 回 は 戦 時 下 を 取 り 上 げ た が、 「大 塚 節 治 関 係 書 簡」 は 大 塚 の 総 長 時 代 を 含 む 戦 後 の 書 簡 が 大 半 を 占 め て い る。 ま た、 「大 塚 節 治 関 係 書 簡」 自 体 も 大 塚 関 係 資 料 の 一 部 に す ぎ ず、 こ れ に よ っ て 大 塚 時 代 の 同 志 社 史 の 全 容が明らかになるというわけではない。更なる資料の掘り起こしが必要であることはもちろんである。今後も 資料整理を進め、既に出版から三〇年が経った『同志社百年史』の補完や再検証を可能とすべく、同志社の歴 史をより重層的にとらえる研究を進めていきたい。

 

(39)

書簡からみる大塚節治の一九三七年二三〇   

) 大塚節治『回顧七十七年』、同朋舎、一九七七年、六四二〜六五〇頁

( 付設された。従来の神学部は文学部英文科と合体して文学部へと改組された。

) 一九二〇年四月一五日に大学令による同志社大学設立認可を受け、文学部と法学部の二学部に加えて、予科と大学院が

( が、専門学校は施設も大学学部と共用、教員も大学学部の専任教授が兼務した。

九等校」と改称、神学部と高商門業部とで発足した一学専二に二年四月、「専門学校令」よ) る旧同志社大学が「同志社

) 退職後、一九六三(昭和三九)年に至るまで、大学院神学研究科講師・神学部講師・女子大講師を嘱託される。

) 大塚前掲書、九頁

( るが、大塚の記載とは文言が一部異なる。 一外『中は、で年七七九朋舎、報』同二、編史通史』年百日報の書」いてし載掲を容内の申志て「上しと介紹の事記道社

) こいないてっかつ見ろと大の今は本原の書」申「上が、塚蔵掲直野上る。いてれさ載が前文全に頁四七一書、掲編『同

) 湯浅八郎「敎育綱領制定に就て」『同志社新報』第十一号、一九三七年三月一五日

) 大塚前掲書、一七五頁

) 大塚前掲書、一七五頁

( 郎文書(同志社問題・上申問題)」内、常務理事会名の声明にある。

((

一の二年」内)。各当事者意和見表明は、「湯浅八月「四十昭四記日緊急常務理事会録」甲)(「同志社理事会書類) 綴(理

((

) 大塚前掲書、一七七頁

((

) 上野直蔵編『同志社百年史』通史編二、同朋舎、一一三四頁

((

) 大塚前掲書、一八二頁

((

) 「八月常務理事会記録」昭和十二年八月十二日開催(「同志社理事会書類綴(理甲)昭和十二年」内)

((

) 大塚前掲書、一八二頁

((

) 同前

((

) 同前

(40)

書簡からみる大塚節治の一九三七年二三一 (

((

) 同前

((

) 上野前掲書、一一三五頁

((

) 同前、一一〇三〜一一一二頁

((

) 上野前掲書、五四八頁

(   。昭和八年」センター所蔵)会 が月一六日付)にも記載「同ある(年志社大学国防研究五四研究務部長に宛てた国防三会らの現状に関する報告(一九庶

((

国防研究会の設立については、第一回定時理事会(一九三四年五月二七日開催)で報告がある。また、大学学生主事か) 

((

  ) 「同志社大学国防研究会昭和八年」参照。

((

) 上野前掲書一一二一頁

((

) 上野前掲書一一二一〜一一二三頁

((

) 同前、一一二三頁

((

  ) 「国防研究会総会議事録徳学生主事口述」一九三七年五月一〇日、センター所蔵

((

) 大塚前掲書、一七八頁

((

) 大塚前掲書一七九頁

((

) 大塚前掲書、一八三頁

((

) 同前

((

) 同前

((

) 同前、一八五頁

(41)

書簡からみる大塚節治の一九三七年二三二

大塚節治受信書簡

資料番号 年月日 資料名 差出人

( )内の肩書きは当時のもの 形態

( (([((].(.[((] 大塚節治宛西尾知三書簡 西尾知三(奈良県立五條中

学校) 封書1通

( ((((.(.( 大塚節治宛藤田義彦書簡 藤田義彦(同志社本部主

事) 封書1通

( ((((.(.(( 大塚節治宛川端忠治郎書簡 川端忠治郎(岡山基督教会) 封書1通

( ((((.( 大塚節治宛日本精神文化研

究所書簡 日本精神文化研究所 封書1通

( ((((.(.(( 大塚節治宛湯浅八郎書簡 湯浅八郎(同志社総長) 封書1通

( ((((.(.(( 大塚節治宛上谷續書簡 上谷續(同志社理事) 封書1通

( ((((.(.(( 大塚節治宛河原政勝・瀬川 次郎・村井藤十郎書簡

河原政勝(同志社大学法学 部教授)、瀬川次郎(同法 学部教授)、村井藤十郎

(同法学部教授)

封書1通

( ((((.(.(( 大塚節治宛奥村龍三書簡 奥村龍三(同志社創立((周

年記念臨時事業部長) 封書1通

( ((((.(.(( 大塚節治宛河原政勝書簡 河原政勝(同志社大学法学

部教授) ハガキ1通

(( ((((.(.(( 大塚節治宛若松萃瑤書簡 若松萃瑤(日本国民科學研

究所) 封書1通

(( ((((.(.(( 大塚節治宛野村仁作書簡 野村仁作(同志社中学長) 封書1通

(( ((((.(.(( 大塚節治宛佐藤義雄書簡 佐藤義雄 封書1通

(( ((((.(.(((消印による) 大塚節治宛富森京次書簡 富森京次(同志社大学文学

部教授) 封書1通

(( ((((.(.(( 大塚節治宛片桐哲書簡 片桐哲 封書1通

(( ((((.(.(( 大塚節治宛森野貞次郎書簡 森野貞次郎 ハガキ1通

(( ((((.(.(( 大塚節治宛大石七郎書簡 大石七郎 封書1通

(( ((((.(.(((消印による) 大塚節治宛川端忠治郎書簡 川端忠治郎 ハガキ1通

(( ((((.(.(((消印による) 大塚節治宛高橋乙雄書簡 高橋乙雄(聖地考古学研究

所) ハガキ1通

(( ((((.(.(((消印による) 大塚節治宛坪永四郎書簡 坪永四郎 ハガキ1通

(( ((((.(.(( 大塚節治宛田辺繁子書簡 田辺繁子 ハガキ1通

(( ((((.(.( 大塚節治宛恒藤恭書簡 恒藤恭(同志社大学講師) 封書1通

(( ((((.(.( 大塚節治宛小笹謙吉書簡 小笹謙吉(学生国防研究会

幹事長) ハガキ1通

(( ((((.(.( 大塚節治・片桐哲宛佐藤弥

太郎書簡 佐藤弥太郎(京都帝国大学

農学部) ハガキ1通

(( ((((.(.( 大塚節治宛高橋秀三書簡 高橋秀三(高橋秀三法律事

務所弁護士、法学士) 封書1通

(( (([((].(.(( 大塚節治宛佐藤弥太郎書簡 佐藤弥太郎 封書1通

(( (([((].(.(( 大塚節治宛駒井卓書簡 駒井卓 封書1通

(( ((((.((.(( 大塚節治宛高橋秀三書簡 高橋秀三(高橋秀三法律事

務所弁護士、法学士) 封書1通

(42)

書簡からみる大塚節治の一九三七年二三三

(( (([((].((.(( 大塚節治宛駒井卓書簡 駒井卓 ハガキ1通

(( ((((.(.(( 大塚節治宛高橋秀三書簡 高橋秀三(高橋秀三法律事 務所弁護士、法学士) 封書(通

(( ((((.(.(( 大塚節治宛高橋秀三書簡 高橋秀三(高橋秀三法律事

務所弁護士、法学士) 封書1通

(( ((((.(.(( 大塚節治宛高橋秀三書簡 高橋秀三(高橋秀三法律事

務所弁護士、法学士) 封書1通

(( (([((].(.(( 大塚節治宛駒井卓書簡 駒井卓 封書1通

(( (([((].(.(( 大塚節治宛駒井卓書簡 駒井卓 封書1通

(( ((((.(.(( 大塚節治宛高橋秀三書簡 高橋秀三(高橋秀三法律事

務所弁護士、法学士) 封書1通

(( ((((.(.(( 大塚節治宛浅野恵二書簡 浅野恵二 封筒書簡1 通

(( (([((].(.(( 大塚節治宛駒井卓書簡 駒井卓 封書1通

(( ((((.(.(( 大塚節治宛佐藤弥太郎書簡 佐藤弥太郎(京都帝国大学農学部) 封書1通

(( ((((.((.(( 大塚節治宛牧野虎次書簡 牧野虎次(同志社総長) 封書1通

(( ((((.((.(( 大塚節治宛島村彌蔓書簡 島村彌蔓(マッカーサー総 司令部経済科学局調査統計

課経済調査専門家) 封書1通

(( ((((.((.(( 島村彌蔓宛河田敏子書簡 河田敏子(同志社総長秘書) 書簡控1通

(( ((((.(.(( 大塚節治宛 RuthIsabel Seabury 書簡

RuthIsabelSeabury

(AmericanBoardof Commissionersfor ForeignMissions)

封書1通

(( ((((.(.(((消印による) 大塚節治宛同志社一学生書

簡 同志社一学生 ハガキ1通

(( ((((.((.(( 大塚節治宛島田孝一書簡 島田孝一(早稲田大学総長) 封書1通(封筒なし)

(( ((((.((.( 大塚節治宛潮田江次書簡 潮田江次(慶應義塾長) 封書1通

(( ((((.((.(( 大塚節治宛金泰黙・金順得

書簡 金泰黙(((((年大学神学部

卒業生)、金順得 航空書簡1

(( ((((.((.(((消印による) 大塚節治宛山田基男書簡 山田基男 ハガキ1通

(( ((((.(.( 大塚節治宛福田繁書簡 福田繁(文部省管理局庶務

課長) 封書1通

(( ((((.(.(((消印による) 大塚節治宛酒井杏之助・西 園寺實書簡

酒井杏之助(株式会社第一 銀行取締役頭取)、西園寺

實(同取締役副頭取) 封書1通

(( ((((.(.(( 大塚節治宛松本芳夫書簡 松本芳夫(慶應義塾大学通

信教育部部長) 封書1通

(( ((((.(.(( 大塚節治宛鄭兒玉書簡 鄭兒玉(台湾嘉義県布袋基

督教会) 封書1通

(封筒なし)

(( ((((.(.(((受領印による) 大塚節治宛 JigyokuTei 書

簡 JigyokuTei 封書1通

参照

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