九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
青柳種信関連書簡集(一)
村上, 義明 手紙を読む会
http://hdl.handle.net/2324/4742038
出版情報:雅俗. 14, pp.122-158, 2015-07-17. 雅俗の会 バージョン:
権利関係:
◉連載
村上 義明 青柳種信関連書簡集(一) 手紙を読む会
月に一度、九州大学文学部の国語学国文学研究室(箱崎キャンパス)にて開催される「手紙を読む会」の、平成二六年度の研究対象資料は、福岡市博物館に収蔵される「青柳種信関係資料」のうち種信に宛てられた書簡であった。本稿は、その成果として書簡の翻刻と注釈を付したものである。参考に画像も掲載したので参照願いたい。資料の選定に際しては、白石良夫氏からの紹介があった。氏と本資料との関わりについては、本稿末「五、小山正筆写『青柳種信宛書翰集』に寄せて」に記される。はじめに、本書簡集の中心人物である青柳種信と内山真龍について簡略に説明を加える。
一、青柳種信と内山真龍
青柳種信は、考古学分野、福岡の郷土研究者等にはよく知られた人物で、筑前国学の祖と評価される。姓は大蔵、名は種麿、通称は勝次。柳園と号した。種信が伊能 忠敬とその測量隊が筑前入りした際、案内役を務めたことは有名である。種信は、明和三年(一七六六)二月二〇日、福岡城下地行六番町に生まれた。天明二年(一七八二)に江戸へ祗役し、当地にて漢学を藩の侍読・井土南山に師事し、同六年に南山と共に帰国した。再び江戸へ赴いたのは寛政元年(一七八九)のことで、その道中、松坂の本居宣長に弟子の礼を執った。種信二四歳のことであった。この後、寛政三年には内山真龍に書状を出し、教えを乞うている。種信の詳しい年譜には、筑紫豊氏「福岡藩の国学者青柳種信の研究(一)
―
その年譜的素描―
」が備わる 1。著書は多数知られているが、先の戦争の際、福岡県立図書館に蔵されていた多数の著書が空襲により灰燼に帰してしまった。痛恨の極みである。我が国の学問史においても、福岡においても大きな損失である。なお、本頁上段に掲載している肖像は、源守由の画を永倉江村人が模写した掛軸『青柳種信肖像』である。現在、福岡県立図書館に蔵されている(福岡県立図書館ホームページで全体図を確認することができる)。内山真龍は、賀茂真淵門で遠江の国学者である。通称は弥兵衛。元
(福岡県立図書館蔵)
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文五年(一七四〇)に遠江国豊田郡大谷村の庄屋、内山美真の長男として生を受けた。寛政三年に、種信より書簡にて教えを乞われたとき、真龍は五二歳であった。これ以来、文政四年(一八二一)八月二二日に真龍が不帰の客となるまでの三〇年間、書状のみの交流は続けられた。真龍と種信との交流関係を小山正氏が年表にまとめておられる 2。
二、資料紹介
今回掲載する書簡は、福岡市立歴史資料館が昭和六一年に発行した『青柳種信関係資料目録』(以下「目録」)のうち「④師弟・その他との交友関係」に収載される、本居大平より種信に宛てられた書簡二点(「目録」掲載番号:一二五、一二六)、金子仙左衛門より稲掛(本居)大平へ宛てられた書簡一点(一二七)、内山真龍より種信に宛てられた書簡六点(一二八、一二九、一三〇、一三一、一三二、一三五)の計九点である。なお、本資料群は、平成二年度中に、福岡市立歴史資料館(平成二年三月三一日に閉館)より福岡市博物館の開館に合わせて移管されたものである。ゆえに「目録」掲載番号と福岡市博物館所蔵番号は同じである。資料の寸法を以下に記す。
縦 横(単位:㎝)1 (福岡市博物館所蔵番号
一二五)
14・ 6× 127・
6 2 (福岡市博物館所蔵番号
一二六)
14・ 9× 48・
2
3 (福岡市博物館所蔵番号
一二七)
15・ 0× 57・
6 4 (福岡市博物館所蔵番号
一二八)
16・ 8× 119・
8 5 (福岡市博物館所蔵番号
一二九)
16・ 5× 104・
5 6 (福岡市博物館所蔵番号
一三〇)
15・ 8× 82・
3 7 (福岡市博物館所蔵番号
一三一)
15・ 8× 110・
4 8 (福岡市博物館所蔵番号
一三二)
15・ 9× 139・
4 9 (福岡市博物館所蔵番号
一三五)
19・ 3× 92・
8
真龍から種信へ宛てられた書簡には、右に記したものの他に一三三、一三四がある。しかしこの二点は破損が甚大で、大変口惜しことではあるが、今回は掲載しないことにした。
静岡県立中央図書館には、『遠州国学者関係書簡集』として甲、乙の二軸に仕立てられた巻子中に種信より真龍へ送られた書簡が収められる。平成二七年度の「手紙を読む会」では、本資料を扱う。その成果は次号の「雅俗」へ掲載する予定だ。今回の真龍書簡との往復が再現されるかもしれない、と期待している。
なお、今回の書簡の翻刻と注釈にあたり、小山正筆写『青柳種信宛書翰集』を活用した。この資料のコピーは現在、福岡県立図書館郷土資料室書庫に袋とじ、製本された状態で収蔵される(請求記号 K122/S
されている。当該資料を翻字したものに、筑紫豊「福岡藩の国学者青 原本所有者/福岡市箱崎上社家町/前間於菟猪氏」とボールペン書き 。その巻頭には「昭和四十五年一月七日ゼロックスによる複製/ ア )
柳種信の研究(二)
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拾遺を繞る人脈―
」がある 3。福岡におられない方には、こちらの方が見やすい。手紙を翻刻する際に、原本の小山正氏『青柳種信書翰集』を参照した、と前述したが、あくまで「手紙を読む会」の読みを優先した。最後に、「手紙を読む会」の参加者を記す。氏名の下()内の番号は、本号に掲載する該当書簡番号の翻刻・注釈を担当したことを示す。
白石良夫 園田豊 高橋昌彦 大久保順子 川平敏文(9)菊池庸介 高杉志緒(8) 亀井森(7) 菱岡憲司 𠮷良史明(5) 天野聡一(6) 三ツ松誠 村上義明(4) 吉田宰(1) 成富なつみ(3) 中山成一(2) 脇山真衣(2)
なお、翻刻・注釈については、不足するところがないわけではない。大方の御批正を賜りたい。今回の成果が、青柳種信研究のさらなる前進につながることを期するばかりである。
注1 筑紫豊「福岡藩の国学者青柳種信の研究(一)
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その年譜的素描―
」(「福岡市立歴史資料館研究報告第一集」昭和五二年三月三一日)2 小山正『増補改訂版内山真龍の研究』(世界聖典刊行協会、昭和五四年、三五八頁)3 筑紫豊「福岡藩の国学者青柳種信の研究(二)―
拾遺を繞る人脈―
」(「福岡市歴史資料館研究報告第二集」昭和五三年三月三一日) 三、凡 例翻刻について一、読解の便を考慮して適宜、句読点、濁点、「」、『』等を付した。一、【貼紙】とあるのは、書簡に貼られた貼紙を指す。これは整理される際に後の人が付したものである。一、助詞の「江」「而」「者」「ゟ」等は、仮名にひらいた。一、畳字「〳〵」「ゝ」等は、表記通りに翻刻し、漢字は「々」に改めた。一、旧漢字、俗字、略体字、異体字等は適宜通行の字体に改めた。一、判読不能の箇所は、およその文字数を□にて示し、判読できない理由、また推定できる文字を( )内に傍書した。一、尚々書は原書簡における位置に関わらず、本文の後に記した。一、割注、傍注等は〔 〕を用いて記した。
注釈について一、人名、書名、地名、書簡の発信年が分かる記述等に注を付した。一、人名等の注については、特にことわらない限り『国史大辞典』、『和学者総覧』等を用いた。一、注釈中の『研究』は、小山正『増補改訂版内山真龍の研究』(世界聖典刊行協会、昭和五四年)を指す。
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四、書簡
1(福岡市博物館所蔵番号 一二五)
【貼紙】 享和二年九月二十二日付大平の状宣長之歿後の鈴屋之学状を見るに足る 春 1已来折々、書状差出御尋等可申上筈之所、三月已来私義、若山表 2え両度出府仕、其内四月中は帰国。松坂に居候へ共、甚々不快。心気等疲候方にて、雅事俗事万端打捨、療養のみ専一に仕、諸方文通等も相止罷在候。一、当二月廿二日若山表え出府可仕との儀に付、罷出候処、三月四日於城内、可為中衛 3名跡之旨、家老中被申渡、其後養父之忌中定り之通り相勤候に付、忌明後迄若山に逗留可仕申候存候処、病気相勝れ不申候に付、一ト先ヅ勢地へ罷帰養生仕候処、五月上旬本快に赴候故、諸国雅事返書等可仕申候。取掛り申候内、又々若山へ出府可仕旨被申付罷越候処、五月十五日養父跡目之義相済、親中衛之通り家業出精可仕との儀に付、誠に過分之品に付恐入、大慶仕候義に御座候。依之、当時は本居三四右衛門と改名仕候。実子健亭 4を兄と立、同居同前、両人出精仕候。松坂社中不相変出精申候。外に出羽国神職大友永太親久 5、越後国の人北村春蔵国廣、其外江戸人老人にて三笑軒などいふ輩、松坂に留学候て、毎々会読出席有之候。
二の日 続日本紀会読
四の日、十の日 万葉講釈 六の日 源氏物語同
八の日 新古今会読 五、十五、廿五 歌の会 右大平宅にて相催候。『万葉』『源氏』は大平講尺仕候。
当時松坂歌の会、月見の節などは廿余人相集り申候。平日の会には十三、四人出席。遠江、尾張、京、山田、津など文通不絶仕候。紀州若山にも厚志之社中十余人同門にて出精有之候。故大人之余勢御察候。御欣喜可被下候。五月若山より私帰国之節、京へ立寄、芝山中納言 6殿にも久にて拝面仕、いろ〳〵大人之事申上、申承り候。豊前渡会上野介、去年六月上京にて大人会席へも出候事、何卒御面会候はゞ、御聞可被下候。早々已上 九月廿二日 大平 7
青柳君 故翁いたみの歌諸国より集り候分、長歌短歌合五百余首あり。松平周防守 8殿よりも参候。千かげ 9、春海
とも相見。已上 州、紀州、長崎、奥州、北国、京、大坂さま〴〵めづらしき趣意 よりも参り申候。遠江、尾 10
注1 天保十年(一八三九)刊『藤垣内翁略年譜』より、本書簡の内容は享和二年(一八〇二)の春のことと考えられる。2 和歌山城。3 本居宣長。国学者。通称中衛、春庵。享保十五年(一七三〇)五月七日生、享和元年(一八〇一)九月二九日没。七二歳。
4 本居春庭。国学者。通称健亭。宝暦十三年(一七六三)二月三日生、文政十一年(一八二八)十一月七日没。六六歳。宣長の長子。5 大友親久。出羽国波宇志別神社祠官。通称永(栄)太。文化二年(一八〇五)十二月二〇日没。三〇歳前後(新野直吉「地方国学の先駆者『大友親久』の研究」、『芸林』第八巻第五号、昭和二二年十月)。「授業門人姓名録」(岡中正行、ほか二名著『本居宣長と鈴屋社中
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『授業門人姓名録』の総合的研究―
』錦正社、昭和五九年)に「(享和元年辛酉)九月十三日/出羽平鹿郡八沢木村神 職/大友栄太 藤親久」とあり。6 芝山持豊。公家、歌人。寛保二年(一七四二)生、文化十二年(一八一五)没。七四歳。宣長と親交があった(盛田帝子著『近世雅文壇の研究―
光格天皇と賀茂季鷹を中心に―
』汲古書院、平成二五年、五九頁)。7 本居大平。国学者、和歌山藩士。通称三四右衛門。旧姓稲掛。宝暦六年(一七五六)二月十七日生、天保四年(一八三三)九月十一日没。七八歳。寛政十一年(一七九九)二月二四日、宣長の養子となり、享和二年(一八〇二)五月、春庭に代って家督を継ぐ(『藤垣内翁略年譜』)。8 松平康定。浜田藩主、寺社奉行。通称周防守。延享四年(一七四七)生、文化四年(一八〇七)三月十一日没。六一歳。宣長の学徳を慕っていた(福井久蔵「鈴屋大人に関する新資料」、『古事記伝の研究』皇国文学第二輯所収、聖文閣、昭和十六年)。9 加藤千蔭。国学者。享保二〇年(一七三五)三月九日生、文化五年(一八〇八)九月二日没。七四歳。一一)二月十三日没。六六歳。 10村田春海。国学者。延享三年(一七四六)生、文化八年(一八
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2(福岡市博物館所蔵番号 一二六)
【貼紙】大平の状八月二十日付和歌山侯(カ)珍石を集むる事(前断簡)
(前欠)歌は才ある人に御座候。御出会之うへ御贈答なども御座候哉。一、此節は御帰国と奉察候。又珍敷事あらば、御多用之事に付、御代筆にても御申こし可被下候。一、秋枝廣成 1へ御ついであらば、御伝声被遣可被下候。此表、国造紀氏 2
之子息 3、近比奇石を好み、一つにてもめづらしき物ほしがられ候。何とぞ少々御贈被下候様、御申遣候可被下候。紀氏、歌も画も上手に御座候。返報には何にても指進可申候。此段、雅中の俗事、何と
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ぞ御申遣候可被下候。紀氏事は此当次よく存知之事に御座候。先づ御返事迄。如此御座候。早々恐惶謹言
八月廿日 大平青柳勝次様 尚々、博多産物たばこ入地御恵被下、佳品之服物忝拝受仕候。已上
注1 現在の福岡県遠賀郡蘆屋の人。商人。通称勘次郎。字太一。号瑞芝園、瑞石。宝暦九年(一七五九)生、文化十二年(一八一五)没。五七歳。亀井南冥の門人(『福岡県先賢人名辞典』葦書房、昭和六一年、四頁)。伊藤常足編『岡県集』(天保七年〈一八三五〉序)「作者略履歴」には「多性風流愛文雅好奇石集収甚夥」とあり(林次敏氏校定本『岡見集』大正四年)。2 紀三冬。現和歌山、日 ひの前 くま国 くにかかす懸神社宮司(紀国造)。通称式部、麻 お績 み主、麻績麻呂。明和五年(一七六八)生、文政八年(一八二五)没。五七歳。宣長の門人。3 紀俊和。通称大夫。号椿陰。紀三冬の息子。天明七年(一七八七)生、文政三年(一八二〇)没。三三歳。大平の門人。
3(福岡市博物館所蔵番号 一二七)
【貼紙】種信越中守へ任官の推挙を受く大平が書状写し
大平より金子氏へ遣し候書面写し一書呈上仕候。寒気増長之砌、貴館様御揃、益御勇健可被遊御座候。珍重義奉存候。随て下拙も無異罷在候。乍憚尊意易思召可申候。誠当正月御代参之砌は、於御旅宿緩々得拝顔、大慶奉存候。其砌被仰聞候趣、越中守 1様御方に和学者一人御召抱被遊度由にて、近来彼是御尋被遊候由、右之趣、其後本居翁 2ヘ物語り候処、筑前国にて青柳勝次と申門人、可然人才と被心附候故、先づ彼地へ被聞合候処、此節返書到来仕候に付、即別紙本人書状をも入御覧候。弥御抱の思召御座候はゞ、御相談御世話可申上候。不遠内尊答奉待候。右青柳氏は先年私も一度面会仕候。性質温和篤実成人物にて、皇朝学問甚出精にて才気も随分有之。国史を始、『万葉集』其外之古書に博達仕、歌、和文章も宜敷出 来申候。猶委細は翁へも御聞合可被下候。先は右推挙申上度、如此に御座候。猶期後喜時候。恐惶謹言
十月十一日稲掛大平 3
金子仙左衛門 4様 尚々
注1 松平定信。白河藩主、将軍補佐兼老中。字貞卿。号楽翁。宝暦八年(一七五八)十二月二七日生、文政十二年(一八二九)五月十三日没。七二歳。天明三年(一七八三)、越中守となる。2 書簡
している。 七九二)の春、翌五年三月、享和元年(一八〇一)に宣長に面会 稿本全集』第二輯(博文館、大正十二年)によると、寛政四年(一 4金子義篤。伊予松山藩士。通称仙左衛門。号風竹軒。『本居宣長 明三年から寛政十一年のものである。 宣長の養子となった。ゆえに、本書簡は定信が越中守となった天 3本居大平。書簡1注7参照。大平は、寛政十一年(一七九九)、 1注3参照。
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4(福岡市博物館所蔵番号 一二八)
【貼紙】 文化十年十二月二十二日付内山真龍状青柳勝次宛真龍七十四才
【端裏】筑前福岡御家中青柳勝次様御返事 遠江国内山弥兵衛
酉年十一月廿二日封御状、同十二月廿二日着。御文面益々御役義、御繁多之由、是は多幸之御事也。其以前、柳軒之詠物、清人王春波之作書も白すか宿 1夏目氏 2封出し無事にて着之由、是は大坂状に途中にて紛失かと申参候処着之趣よろこび給ひ候。此外何もかも目出度、且、我等京献上之物之事、宜御聞にて御詠物被下、よろしく面白く、則賀章の屏風に押申候。扨々久々御たよりなく候て、又、おきつ嶋か黄泉嶋かとひまなく存候をあかし申候。それ故、献上物の次第も先状に委しくは不記候。此事は、未年の夏、京都賀茂県主正四位梢長主 3より下書、内見申参、『類聚解 4』半分程差遣し候へば、未年十一月、御評定有て、早々清書出来次第献上可致、尤表献上は甚六ヶ敷に付、女官方より御内献上之積りに定り、一序は正親町大納言公明卿 5、奥書は正四位ノ県主に定り、御書付着、未十二月十二日より清書に欠り〔筆者二人〕、申年二月中旬半出来、然れ共、京都之事、不按内に付、使を奔らせ内伺之処、殊之外御上之思召にかなひ、類聚之内、歌の部と書しを、謡の一字下り、謡歌部と改、珍重也。然れ共、恐れあれば十五巻の内、遠江とも真龍とも一所も不記、清書は四月十四日終、廿二日持参〔供二人〕。壱人は世忰、通用者 6也。五月朔日、京着、二日に差出し正親町大 納言卿、御一覧之上、十日に天奏へ被召出、供通用者、世忰内山義道 7
同道。惣ては、仰事の答を義道申上之処、重き仰事とて、国所姓名を記、万世に伝へよと有て記之。天奏次大典侍御局 8奏上、其時之詠、
長浜の浦のあした鶴千代ふともくもゐまでとは思はざりしを〔是も上へ上り候よし 9〕次に五月廿一日御局の御ふみ下る〔序文も、御ふみも〕。写進候。此御ふみは、四民へ難下物のよし重き御はなし有。書中之問答は四位県主殿より欠 カケ合度々にて五月廿四日、御暇乞ゆる〳〵の御事共、御なごり無言葉之処、扨々今年十月十三日、公明卿薨去、七十二
一、『類聚解』中、貝原氏 。 10
并筑前大倉種信主 11
前書のせ候て献じ候。岡部翁 之、以前問答之地理は御名 12
、松坂春庵 13
、谷川士清主 14
て私撰に『国図』五冊 被遊候へば又折もあらん。此解に付ても地名之書物よきは無之、仍 夏之仰事に御秘蔵に付、下書等、他見、皆うつし等、決て御とゞめ 広くは御はなし等、無御座様に存候。其下書入御覧申度候へ共、去 し候。無世にてもよろこびはあらむ。右献上之事は類まれなる事故、 等の加書いた 15
、『地名記』十冊 16
国、舎衛国、海嶋の崑崙国、其有所しれかね、『西域記 認置候。紀中、天竺、覩貨邏 17
紀 □□□□、『西域記』は十九年間之道中記也。御一覧益有書也。神代 (其後は無) 分量〕、長壱丈弐尺、巾五尺五寸に図就、扨々玄奘三蔵程之雄僧も、 り、漸々事委しれ〔其図帳、初唐貞観の量、千里を銅尺三寸に当、 』にて図を造 18
畿内は地名記有、十国も大風に出来候はゞ、献上可成事、此義は京 度、御上にも思召有事のよし也。駿河、遠江、伊□□□地出来、五 (豆は、下) 一、つくしの風土記御心がけ、四、五年のうちに十国も調候様にいたし にあやしく引合事、二事有。 19
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二条諸司代屋敷伴氏ノ州五郎信友主
ろざし有て文通常也。伊豆風は伊豆国安日沢村 ヤスヒサ へも申遣し候。此人は、甚こゝ 20
候へ共、松坂の『古事記伝 一、野夫事、今年七十四齢、彼是の註書も献上いたし、残る事も無御座 拝受いたし度、乏しく候はゞ、あげうつしにても筆跡同様に存候。 一、地名に付ては貝原氏名家也。書のこしの筆跡、若あらば半紙にても 官所へ出し候。 文蔵十年以前に認、 21
も余り事多く、見る人もすくなく、且又、契沖師 』半の開板、あとは出来がたく、出来候 22
の『古事記歌註 23
付、此秋より古事記謡歌の解 は、百年以前之事にて古言の解は出来がたき世中、写誤りも多々に 』 24
○梅の翁 なは不合、仍て書紀の仮字は日本にてかなの始也。一字に三音迄有。 法華のかなに習て書紀の歌のかなを書付られし物也。初唐の仏経のか 仏書、法華経のダラニのかな古ホン釈のかなと合候。聖徳、馬子此 ○申残し候書紀歌の仮字出所は以前さたする人なし。是は早々渡り候 六日報書。 寒気をも不知て及月迫候。春つげて又々御文通可致存候。十二月廿 候。是も来戌年春夏の中には献上に可成と存候。いまだ眼鏡も不用、 、百枚計に出立、清書、今年限りに終 25
○仙洞御所、御若名はあけの宮 、午年に故人と成給ふよし。むかしの手紙、今は御かたみ也。 26
にめでたしとの仰事承候。 。今年御数七十四。献上本聞し召て殊 27
注1 白須賀。現静岡県湖西市白須賀。2 夏目甕麿。国学者、歌人。通称嘉右衛門。号萩園。安永二年(一七七三)五月五日生、文政五年(一八二二)五月五日没。五〇歳。 遠江浜名郡白須賀の酒造業の名主役の家に生まれる。内山真龍、本居宣長に学ぶ。加納諸平の父。3 『研究』一五五頁の『日本紀類聚解』解説中に「第十五巻終 奥書河合社権禰宜鴨梢永」とあり、これと同一人物であろう。4 内山真龍著『日本紀類聚解』十五巻(文化九年成、写)。5 正親町公明。公家。延享元年(一七四四)三月二五日生、文化十年(一八一三)十月十三日没。七〇歳。注3と同じく『研究』一五五頁に「表題紙及正親町大納言公明卿序文共五枚 目録一枚」とあり。6 小山正編『青柳種信宛書翰集』には、「気賀宿本陣中村三左ヱ門」と朱書。7 同じく注6の『青柳種信宛書翰集』には「勇助道真のこと」と朱書。『研究』二五頁には、文化九年五月の『類聚解』奉献の旅に父に随行した旨が記される。
内山道 みち真 まさ。通称徳右衛門、勇助。号道龍。天明四年(一七八四)五月十四日生。真龍の三男で、内山家を嗣いだ(『研究』二五頁)。8 『研究』一五五頁には、注3の記述の後「大典侍女房奉書」とあり。9 この歌は、『研究』巻頭の「真龍自画像」にも記される。これによると「文化九年五月御書献侍時みやこに在て」とある。文化九年は申年。この書簡は翌年の酉年、すなわち文化十年(一八一三)に記されたものである。
10没年「七十二」歳は、一般に知られる七十歳没と異なる。
十七日生、正徳四年(一七一四)八月二七日没。八五歳。 11貝原益軒。儒学者。通称久兵衛。寛永七年(一六三〇)十二月
12青柳種信。
三月四日生、明和六年(一七六九)十月三〇日没。七三歳。 13賀茂真淵。国学者。姓岡部、賀茂県主。元禄十年(一六九七) 14書簡1注3参照。
日生、安永五年(一七七六)十月十日没。六八歳。 15谷川士清。国学者。通称養順。宝永六年(一七〇九)二月二六 究』一四七頁参照。 16内山真龍著『国図』五巻(享和三年〈一八〇三〉成立、写)。『研 八〇三〉成立、写)。『研究』一四一頁参照。 17内山真龍著『地名記』十巻、目録一巻、追考一巻(享和三年〈一 18玄奘述、辯機撰『大唐西域記』十二巻。
19『日本書紀』上巻の別称。
日生、弘化三年(一八四六)十月十四日没。七四歳。 20伴信友。国学者。通称州五郎。安永二年(一七七三)二月二五 21現静岡県三島市安久か。
22本居宣長著『古事記伝』四四巻四四冊。
四年(一七〇一)一月二五日没。六二歳。 23契沖。真言宗僧。字空信。寛永十七年(一六四〇)生、元禄十 24契沖著『古事記和歌略註』等か。
五九頁参照。 25内山真龍著『古事記謡歌註』二巻(文化十年成立)。『研究』一 覧』の没年は、「午年に故人」と合わない。 化五年(一八〇八)二月十八日没。七八歳。のことか。『和学者総 26田尻梅翁。福岡藩士、国学者。享保十六年(一七三一)生、文
文化十年の書簡といえる。 年に七四歳で崩御。本書簡に「七十四」とあり、これによっても 八一三)閏十一月二日崩御。幼称は緋宮。後桜町天皇は、文化十 27後桜町天皇。元文五年(一七四〇)八月三日生、文化十年(一
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5(福岡市博物館所蔵番号 一二九)
【貼紙】 寛政四年子二月二十四日付内山真龍状青柳種信宛真龍五十三才
(前欠)早々御返りごと申給はむを、うつし物など有て、何くれと十日計過し給ふ也。此度も愚こゝろを書加へて参らす。築波の御詠には一歌よみ添参る。おの□ (れ)箱崎の歌は御国に帰り給はむ時□ (御)調あげ給はるべしとの御示にて、年頃の事の心をはらし給ふ也。西川や方へ御忘なしの事、此度不至して奉る。是も□ (と)ゞけさせ給はらば、毎の年つみし心を□ (は)るけ給はむなり。一、『出雲風土記解 1』、去し冬の日尾張のとの 2へ参らせ、いまだ返りご□ (と)なし。かへらむ□ (日)はいそぎ贈り参らせむ。『遠江国記 3』は半過認、残りは手遠き所にて、わかりがたき事共をたゞし記せば、いそしき事すくなくなん。やがて終なばよき事計書抜ても参らせむ。此春小子東国下りの事 4、此国の記にのみ欠り、一歌一画のすさ□ (みもや)□□らず、かくては中々旅路の事成がたく過し給ひつる、口惜し。一、御年齢いと若くおはし給ふ 5に、御学文秀給ふ事、且御仕へひまなくおはし給はむなれば、よき物は此方にても写させ参らせむ。此度は
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『東遊び 6』の古本うつさせて参らす。こは、三十年計前迄はいと〳〵すくなき物□ (に)て世中にとんとなき物なりし。今はもしもたせ給はむならば、なんの事もなくや。よめがたき所々も□ (あ)れば、又のたよりに仰□ (こ)させられよかし。『霊異記 7』古本御もたせ給ふか。こは、雄略紀の小子部の栖軽 8の伝□ (に)用る事有。御持なくは、是又うつし参らせむ。〇『日本紀』の歌 9、心得がたき所有こと、わきて斉明紀
一、『□後風土記 (豊) たき所有。是迄は御尋もなし。 とけが 10
』は上代の物とも定がたし。岡部翁 11
風土記 の事、疑がはし。おのれは、物故之年迄、其家に在しかども、『諸国 の寄せ給ふ風土記 12
』の事はきかざりつる。若あらば、村田治兵衛春さと主 13
一、□葉山 (秋) 給ふべし。大方の書、其所に有。 に尋 14
山より百五十町北、山住山 は式外也。国つ神を斎山也。中頃より山婆住て此山幸多し。此 15
は式内苅原河内神社 16カリパラ
也。式は芽原と誤る 17
一、初春之御示し、『信濃国地名考』三巻 。 18
国政の事は、『最勝王経 一度□□□□りし事有。二三千年の昔は趣はたがへど、皆同じ物也。 (其道を捜) ひ給ひよろこび給ふ。浮図の事なれば、いかゞと問せ給ふ。おのれ ら物にて、返す〴〵ぬかづけ給ひ、うつしもてよく心得まほしく思 思ひ給ふ□□□□□の事いと〳〵つばらかなる事、其上石摺一巻珍 (ヤブレ)(筑紫) 給ふが、記中宜□□有て一助に□、こゝの国の事にも書のせてむと (ヤブレ)(成) 、是はのし付たれば、かづけ 19
大師出来てより浮図の道は大きに替りたり。皇国にては『碧岩集 』に少計見えたれど、敢て用なし。中頃達磨 20
きを云にて、碧岩の意はしらぬ物なるべし。諸後便を待ていふべし。 渡り来しより、ねくたれの□□□□儒者共の浮図をそしるは行状の悪 (ヤブレ) 』 21
『信濃地理考
』三巻拝受 22 されど御用あらばいつ成共差進□可申候 (じ)
『筑紫の事』拝受 『出雲日記
』御返巻請取申候 23
此度送り書 『あづまあそび』 進上 『諸書引用風土記
』壱巻 24
是は折節引合せ引用之間、早々御うつし御返し可給候。『国意考
』は人々持居候間、取寄可進候。『語意考 25
ゆる〳〵御覧可被成候。『字鏡 』は当時入用なし。 26
一、印旛郡 』も跡より送り可申候。 27
バノなるべきよし有。此国造印旛の姓なれば、其姓を伝へて引馬野引 イムバイム の事御尋申上候は遠江国引馬野、是はヒクマにあらじ。イム 28
馬 バ駅の名は有なるべし。仍て下総国印旛郡の所由御尋申上候。穴畏 子年二月廿四日 内山弥兵衛真龍青柳勝次種信君
注1 内山真龍著『出雲風土記解』三巻三冊(天明七年〈一七八七〉写)。『研究』九三頁参照。2 徳川宗睦。尾張藩第九代藩主。字子和。享保十八年(一七三三)生、寛政十一年(一七九九)没。六七歳。3 内山真龍著『遠江国風土記伝』十三巻(寛政元年自序・写)のことか。4 本書簡は、『研究』(三六〇頁)において、寛政四年(一七九二)のものとされているが、『研究』の「内山真龍年表」寛政四年の項(七〇二頁)に東国下向の記載はない。
5 同書簡が呈された寛政四年の時点において、種信は二七歳、対する真龍は五三歳であった。6 雅楽の一種目。賀茂真淵が『東遊歌』の古本を所持していたこと、また村田春海が堂上家に伝わる秘本を写していたことが小山田与清著『楽章類語抄』四巻五冊(文政二年〈一八一九〉刊)巻頭の附言に記されている。7 『日本霊異記』三巻。8 『日本書紀』雄略天皇紀にみえる雄略天皇の侍臣。9 荒木田久老著『日本紀歌解槻の落葉』三巻三冊(寛政十一年刊)、橘守部著『稜威言別』十巻目安一巻十一冊(弘化四年〈一八四七〉自序・写)を始めとして、近世中期から後期にかけて『日本書紀』所載の歌に注釈を加えた著述が数多く編まれた。真龍もまた『日本紀類聚解謡歌註』(天理大学所蔵、自筆稿本二冊、文化八年成立・写)を著している。なお、同書は天理本の他に伝本を確認できない。
摘が『研究』(三五三頁)に備わる。 淵から同説を伝えられ、さらにそれを種信に授けていたとする指 ては、真淵の童謡歌解が秘説とされていたらしく、真龍もまた真 等、様々な書が著されている。また、県居門の国学者の間におい 著『斉明紀童謡訓解』、上田秋成著『荷田子訓読斉明紀童謡存疑』 釈をめぐっては、近世中期より諸説が入り乱れており、荷田春満 10『日本書紀』斉明天皇紀。斉明紀所載の童謡歌の訓読ならびに解 11現存する古風土記の一つ。
12書簡4注
13参照。
13前掲の『豊後風土記』を始めとする古風土記を指すか。
和五年(一七六八)没。三〇歳。村田春海の実兄。 14村田春郷。国学者。通称治兵衛。元文四年(一七三九)生、明 15現在の静岡県西部浜松市天竜区に位置する山。
16秋葉山と同じく、現在の浜松市天竜区にある山。
江国従四位下苅原河内」とあり、その名が確認出来る。 17『日本三代実録』貞観十六年(八七四)二月二三日癸丑条に「遠 18『延喜式』には「芽原河内神社」の名で収録されている。
19吉沢好謙著『信濃国地名考』三巻三冊(安永二年〈一七七三〉刊)。
20『金光明最勝王経』のこと。大乗経典。
21『碧巖録』とも。宋代の仏書。
22注 19の『信濃地名考』であろう。
23真龍著『出雲日記』一冊。
文』を指すと推定する記述が『研究』三六〇頁に備わる。 24今井似閑編『万葉緯』二〇巻二〇冊写、附載の『諸国風土記逸 25真淵著『国意考』一冊(明和二年〈一七六五〉頃成立・写)。 26真淵著『語意考』一冊(明和六年〈一七六九〉序)。 室編『天治本新撰字鏡(増訂版)』〈臨川書店、昭和四二年〉) く世に知られるようになった(京都大学文学部国語学国文学研究 春に京都を訪れた村田春郷・春海によって発見されて以来、ひろ 27昌住著『新撰字鏡』十二巻。同書は、宝暦十三年(一七六三)
れた古代以来の郡。 28現在の千葉県の北部中央に位置する。下総国の南部中央に置か
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6(福岡市博物館所蔵番号 一三〇)
【貼紙】寛政九年五月二日内山真龍状(江戸宛)種信宛真龍五十八才
五月〔辰年か〕出之御状、巳正月上旬着。澳津嶋之事被仰下候所 1、只珍敷事にて幾何も詠すてず拝見仕候。久々御文通無之、大きに不審に存□ (ヤブレ)□、大慶いたし候。『出雲風土記解 2』之事、去年伊勢神宮より乞参り、則辰五月、山田の渡会宮 3へ奉納呈御座候て納め申、神主一覧済、宮崎文庫へ秘蔵いたし、請書参候 4。当年に成、白川家 5よりも御写取、公儀御役人よりも当時うつし取申に、筆工料も添候て今日先二巻差上候。外におのれが国号解八巻下書は去辰年終候 6。此節中書に欠り候。出来候はゞ、入御一覧、御相談も申上度存候。并凡二百国計之内、別てつくしの解、所存御座候故也。当年は遠江国豊田郡二俣郷〔古へ壬生郷〕鏡山光明寺 7〔古への金光明寺〕新堂も建候て開帳有之〔明午年は萩原開帳也〕。仍先例、八月九月六十日也。鏡山奉納之歌一巻納候積り 8。鏡山より見放る遠江国中海原かけて不残見渡し候へば、鏡山を始として、四季雑共に集め候。旧年
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之御なじみにて後〳〵の思ひ出にもと存候へば、貴君の歌も加へ申候。能歌はひかへ置候へ共、他国之地名等にて不似付候へば、山中体之歌にても地名たち入候にても、今二三首御得意を御見せ被下度存候。序文さつとうつし上候。一、古の長歌の格はいろ〳〵有中に、万十三 9と古事記神代等を考見給へ。実は、
― ―
= =
四句対 ― ― ― 如此を体として幾重ねものべたる也。是をよく考候へば、古歌の脱落よく分別しれ候。日本武尊の「かひなをまかむとは」といふは、久方の天のかぐ山とかまにさわたるくひひは〔以上四句序にて〕ホソタワヤ、タワヤガヒナヲ〔此二句如此有べし〕マガムトハ、アレハオモヘト、サネムトハ、アレハオモヘト、〔此四句対〕ナガケケル、オスヒノスソニ、月タタナムヨ、
と有を今本誤也
考可被遊候。私も去夏以来考候て古歌の意一巻撰候 。女をひなと云こと諸有例有。先是にて長歌の体御 10
也。中書残出来候はゞ、入御覧申度候。已上 。是も下書のみ 11
巳五月二日 内山弥兵衛青柳勝次様 江戸伊勢町塩川岸二夜庵裏村上嶋之允殿
へ書状中に此封頼上候。 12
注1 種信は寛政六年(一七九四)三月から同八月までの間、宗像郡沖ノ島勤番を務めた。その間の記録として『瀛 おき津 つ嶋 しま防人日記』を著している。 2 書簡5注1参照。3 伊勢神宮の外宮のこと。4 寛政八年(一七九六)、真龍は『出雲風土記解』を伊勢神宮宮崎文庫に奉納した(『研究』一〇〇頁)。宮崎文庫は度会氏の文庫。なお、この記述から本書簡が寛政九年の差し出しであることが分かる。5 神祇伯職を世襲した公家。寛政九年は資 すけ延 のぶ王の代にあたる(『公家事典』)。なお、種信は寛政十年正月十六日の真龍宛書簡において、「出雲風土記解白川侯へも御差出被成候由、大慶之御義奉存候」と記している(『研究』一〇一頁)。6 『国号考』八巻八冊(寛政八年成・写)のこと。『国号考』は寛政八年に一旦完成した後、文化十三年(一八一六)まで度々増補訂正が加えられた。寛政八年十月十四日の真龍の日記には「国号解下書」とあり、当初の書名が『国号解』だったことが分かる(『研究』一四〇頁)。7 静岡県浜松市天竜区にある曹洞宗寺院。近世期は光明山(鏡山)の山頂付近にあった。真龍は二俣村の北、光明山南西麓に位置する大 おお谷 や村の名主を世襲していた。8 寛政九年八月、真龍は『鏡山歌』一巻(寛政九年成)を光明寺に奉納した(『研究』一一四頁)。9 『万葉集』十三巻のこと。長歌が収まる。10『古事記』中巻に載るヤマトタケルの長歌。ここにおける真龍の解釈は、後に『古事記謡歌註』(文化十年〈一八一三〉成・写)で再述される。
11寛政八年、真龍は『古歌意』一巻を著した(『研究』一四〇頁)。 夜庵開庵前後の高桑闌更」『二松學舍大学人文論叢』 更が安永三(一七七四)年に江戸に開いた庵(矢羽勝幸「江戸二 地を踏査(『森銑三著作集』五巻「秦檍丸」)。二夜庵は俳人高桑闌 四九歳。伊勢の人。寛政十年(一七九八)以後、幕命により蝦夷 12秦檍丸。宝暦十年(一七六〇)生、文化五年(一八〇八)没。 はだあはきまろ
二夜庵』)。 の寛政八年春帖に「檍丸」の名が見える(『丙辰春帖江戸正風道場 84)。二夜庵
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7(福岡市博物館所蔵番号 一三一)
【貼紙】 寛政九年巳五月二十二日付内山真龍状(福岡宛)青柳種信宛真龍五十八才
【端裏】青柳勝次様 内山弥兵衛 春日御返りごといたし、又、三月十五日の御示、五月十五日着。蓋金谷 1にて滞りか。二三年前に近辺御代官所引替り、今は金谷嶋田 2のたより更にすくなし。去々年か沖津嶋守の事 3、解給ひて、又、長崎など久しき行程も無御障、当年は御国づめかと存候。み文もまれなる時はかぎりかと思ひ給ひ申候。在近、今年は折々にてなごしみうれしみ給ひ候。律之義 4、所持之分〔名例、衛禁、賊盗、職制〕のみなり。金玉 5壱巻も相添差出候。さて、多年東西聞合候へ共、律全部無之候。海内に絶候か。若御家中にあらば、全部にうつし取願ひ候。此度筆工へ物して写取との事、書工私方に二人あれども、重々の写物にて急にはうつし終がたし。仍之、所持之本を急に足はしまゐらせ候。返巻之節は金谷は甚遠着故、見付宿 6に御本陣候はゞ、神谷三郎右衛門 7殿、よく丁寧に取まかなひ候間、此方へ向被遣候事、宜候。一わたり之書状は浜松宿大手先薬種みせ堺屋左衛門方毎月に六度づゝ商方にて二俣 8へ参候。此方は早たより也。浜松飛脚や弥介方は、近年取次甚わろし。且又、見付浜松二宿のうちに御主君御用通達所あらば、是は第一宜御座候。出雲大社など其通達より届け候。『出雲風土記解 9』も、去春、伊勢渡会宮
より奉納を乞参り候て、門人よ 10
り壱部納候。又、当春、白河之御家
細井判事 に成、何卒不廃あれかしと存候。 侯方よりも申参、二部写させ御代官所より取次れ納候。彼是写十部斗 より門人方へ御所望、同時江戸公 11
遠江国豊田郡〔古へ磐田〕鏡山光明寺 のかなしみは実ならねば、思ふ事を貴兄迄申進候。 物故、先年、歌など貴兄より一見と覚候。馳思候。無面談人 12
体之外に日下部氏の神像 は古への金光明寺と思はれ、仏 13
候。下書一ツうつさせ遣し候。鏡山の神の歌 友、後も思ひ出にせまほしかれば、二首斗御得意御書入可可(被)遣 (ママ) 人のもたま〳〵地理などよきは加へ候。貴兄は他国ながら旧年の文 就而、遠江人のむかしいひ置たる歌共を手向ながら取撰候。其中に今 を安置候。当年、開帳有、造営も去々年終候。 14
を石見 15
近年撰りし物、古歌の意 ツク だ返書不参候。遠江の地名歌あらまほしくなん。 へ乞給へど、いま 16
『国号解 べし。 はじめ二句脱たり。此格を撰時は古歌の落文よく知れ候。御吟味被成 中書ノ尽也。長歌は四句対にて調也。万葉初巻ノ首歌は、 三句二句(ママ) 、是は神代歌より長歌のよみ格を撰、いまだ 17
』八巻、当時中書二巻終候。遠江ノ記 18
候。残三巻は、諸侯方内々地理たゞしの積り也。『宮所記 は十三巻、当時十巻終 19
』、『神宝記 20
斉明朝倉橘広庭宮 応神軽嶋之明宮 是らは何の事もなし。古書より引出し、其地を注のみ也。 』、 21
〔筑前に拠所有か、土佐と思はる〕
応神 吉備ノ葉田葦守宮此三宮地御考あらば、承度存候。此度之律書封物、遠江見付宿本陣神谷三郎右衛門殿へ頼み、筑前御家 中か、飛脚かへ頼み届け候様申達候。私等無事にて、去冬十二歳之忰
方如此物ぞ。 ひ行し人も死病直り、富もまし、よき事斗也。寄も寄り候。世中は大 にもらはれ、しかしてたすけしより我ら方にもよき事斗有て、又もら 出行て猿児をたすけ、其猿児、当春人 22
ひのとのみの五月廿二日。内山真龍弥兵衛上白青柳兄 書翰紙壱包被恵、此地には珍らしく人にもわけ給候てうれしみ候。
注1 金谷宿。現静岡県島田市。2 島田宿。現静岡県島田市。3 書簡
9書簡5注1参照。 8現静岡県浜松市天竜区二俣。 谷家の墓所が残されている。 7神谷家は見付宿の南本陣を務めた。磐田市にある西光寺には神 6現静岡県磐田市。 式などを引用して刑事法を解説する。 5中原章澄著『金玉掌中抄』一冊(鎌倉末期成)のこと。律令格 種信が真龍所持の律を写したことがわかる。 麻呂書写書入律』(寛政九年成)が所蔵されており、その識語から 九州大学附属図書館には、青柳種信が律に書き入れを施した『種 4青柳種信が内山真龍へ律の貸借を願い出ていた様子が窺える。 6注1参照。
145
10書簡
6注3参照。
11書簡
6注5参照。
知り合った(『研究』五〇九頁参照)。 八月一日没。四二歳。宣長の門人。青柳種信の紹介で内山真龍と 12細井三千代麿。福岡藩士。宝暦四年(一七五四)生、寛政七年 13書簡
6注7参照。
於門下、号謂虵鮨。是日下部王子斬虵之所由也。」とある。 伝』「光明寺」項には「斎日下部王子神像、祭日九月十三日、売鮨 神像はその功を祀ってつくられたもの。内山真龍『遠江国風土記 日下部宿祢が二俣の鳥羽山にいた二匹の大蛇を退治したという。 14日下部氏は草壁(日下部)大掾。天平九年、遠江国司であった 15書簡
6注8参照。
八〇一)十月八日没、七五歳。宣長の門人。 小篠敏は浜田藩儒医。享保十二年(一七二七)生、享和元年(一 16石見国の真龍の交友として小篠敏がいる(『研究』五〇〇頁)。
17書簡
6注 11参照。
18書簡
6注6参照。
19内山真龍著『遠江国風土記伝』十三巻(寛政元年自序、写)。 20内山真龍著『宮所記』一冊。(享和三年〈一八〇三〉自序、写)。 究』一四一頁)。 21一巻。享和元年の真龍自記の撰書目録に書名が載るとする(『研 八百治は十三歳。 22真龍三男八百治。書簡4注7参照。昨冬にあたる寛政八年時に
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8(福岡市博物館所蔵番号 一三二)
【貼紙】寛政四年子十月十日付内山真龍状青柳種信宛真龍五十三才
(前欠)四月下旬、出雲へ帰国の節 1、引書風土記 2送巻、慥に相届き今後、五月廿二日、霊異記一 3・岡部翁歌集一 4・問□ (ヤブレ)□□一紙・斉明紀歌一紙 5、書状、うけひの下書、差出し候。此御返事は、いまだ着不仕候。届きさへすれば、いそぎはなし。五月十二日之御文毫、甚面白き御事に承候。御詩作も安らかにて、よく聞申候。今は請正などに不及調候間、願は古風一片によみ給ひてあからめし給ずは、其墨かねをもて、神代の御量に叶ひ給はむ。いつ頃迄は、むさしにおはし給ふや 6。一度、相見まつりて思ふ事をものばへ、古書の事をも申給はまくおぼすなり。きくならく志賀嶋の御民のほり出せしと云金印 7は、檜垣のつぼ 8の如くにやとおもひ、あやしみ給へど、まことほり出したるならば、御うつし給らば、ことなる昔物にてぬかづけ申、秘蔵いたし給はむ。冬之あみだ経、こゝには初て来初たれば、其宗旨之者、各、食指をうごかし給ひ候。いと〳〵ひめし置給ふ也。一、此度、国意考 9其外も御うつし□ (候カ)につき、歌意考
こゝの歌どもきこえ給べきよしなれば、道明 一巻、差遣し候。又、 10
を、何もなしとて少計書付参る。出雲風土記解 らがもとへ申遣しける 11
しき事もあらじかし。貴兄は度々の御望なれば を差進じたく存候。風土記を初て見る人は、此解見しとて何のおか 取かゝり、今三者の功にて書とり候へば、しばらく有て、よき下書 、此度可進を清書に 12
はよくも見給ふならん。此解三巻、追付差遣し候はゞ解の誤、文字 、おしなべたる素本13
の違ひ、何事もきずあらん所を改め給はらまほしく奉存候。尾張国人の所望にて遣し候へば、近侍之人、姓は人見、名は弥右衛門
なる秋葉の宿坊 一、むさしにおはし給うちに一つの見所有。浅草寺の東、大河の東川岸 きにいそしの程、有事に奉存候。其趣をも書入て清書いたし候。 人、秘府の古書を願ひおろして引合せ、かれ是益有事共申こし、大 てふ 14
さしに有ける時 して階にのぼらす。おのれ天明二年七月の頃、公に願よし有て、む の望にて、凡こゝに過たるはあらじ。相客なき時いひ入るれば案内 景色は、はこね不二の山の望なり。昼つかた過の時よし。故郷の方 、こは遠江の秋葉山の宿坊なり。彼坊の二階座敷の 15
、此坊に遊びて 16
行役山川諾遠游。客中懐璧尽三秋。江風日々帰帆促。令我何如不繋舟。
箱根山なびけむさしのをちにても見つゝ忍ばむ故郷のそらなど申て秋遊びしが、詩はよくも不覚。かくも有けんかと思ふ也。一、松坂
一、書物、取かわしは釜谷宿 へ信音も遠々の事に御座候。音づれの節は申遣べきなり。 17
屋にて山田屋と申は、当所二俣村(数字分アキ) 先はよし。書状計りなれば、又よき届け所有。江戸八町ほりの米問 届け前々の通り。遠宿なれども違ひなし。 18
明紀一紙等、五月廿二日出候。相届候哉。此返事にちよと承度存候。 八丁ほり迄、遠路にて是又いかゝと御存候。霊異記、岡部歌集、斉 被成候へば、いと早く届き候事たやすし。さりながら霞ケ関よりは みせにて、一ケ月二、三度つゝ早飛脚にて書状来り候。是へ御出し 、我等縁家共より出 19
子十月十日 真龍青柳勝次様 一、『釈日本記
一、当六月上旬、上野国群馬郡下野田村 拝借いたし度奉存候。 なる所はぬき書持候へ共、たやすく有物か若又貴兄御所持候はゞ 』は板本有とも聞候へ共、いまだ一見不仕、尤、入用 20
、三井寺派浄聖院亮衍僧 21
宿 来 22
だ下向の沙汰なし。於江戸遊び所はけんぎやう 。日向国きり嶋山一見の為上り、年齢五十七八、徳者也。いま 23
部類廿五に分ち巻数二百巻に開板 此けんぎやう殿は、文章有る有徳人にて是迄無開板古書共取集、 の許に有と云し。 24
出雲風土記 何様、す原や・出雲寺などの書物やにて御尋あらば、しれ可申候。 十め、一見いたし候。其社中廿人計有之、此僧も其うち成よし。 、其書百巻め、百廿巻め、百六 25
此僧尋より候事也。 も其開板のうちに入候つもり。全本無之に付、私方へ 26
注1 第七六代出雲国造千家俊秀の弟、千家俊 とし信 ざね(清主)、清足の真龍来訪、帰国のことか。寛政四年(一七九二)六月五日付、横井千秋宛宣長書簡に「去ル四月下旬、出雲大社千家国造之下社人両人真龍方へ参り、段々出雲風土記之事相談有之」とあり(『研究』二七六頁)。2 今井似閑編『風土記逸文』一冊。写。3 書簡 6種信は寛政元年(一七八九)四月、江戸赴任の途で宣長に入門。 「先達而は斎明紀童謡歌伝授、難有仕合」とあり『研究』三六〇頁)。 5「斎明紀童謡歌」か。寛政四年九月十一日付、真龍宛種信書簡に 4本居宣長著『宣長詠草』一冊。写か。 5の注7参照。
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寛政六年八月、福岡に帰着(『研究』三六二頁)。7 「漢委奴国王印」。天明四年(一七八四)、志賀島(現福岡市東区)の農民、甚兵衛が発見したとされる。青柳種信著『後漢金印略考』一冊(文化九年〈一八一二〉、写)あり。8 檜垣嫗。天明三年(一七八三)春、平安時代の伝説の女性歌人、檜垣媼の自作像が肥後国岩戸(現熊本市西区)から出土したという考古学遺物の贋物騒動があった(白石良夫『古語の謎』中公新書、平成二二年)。9 書簡5注 25参照。
年〈一八〇〇〉刊)。 10真淵著『歌意考』一冊(明和元年〈一七六四〉成立。寛政十二 二六九頁、五七〇頁)。 玉村高林勝三郎方明〔改伊兵衛又舎人〕」とあり(『研究』 ミチアキラ 七八一)、真龍の門人。寛政元年の宣長門人録に「遠江国長上郡有 七八歳。浜松在積志村(現浜松市東区)有玉の人。安永十年(一 11高林方朗。明和六年(一七六九)生、弘化三年(一八四六)没。
九九頁)。 時詞」を記し、寛政五年十一月、出雲大社に奉納(『研究』九八~ 12書簡5注1参照。寛政四年十二月、真龍は「出雲風土記解納奉
〇二)十二月の書簡で出来たと記す(『研究』三五四頁)。 13書簡5参照。種信の『出雲風土記解』借覧は、享和二年(一八 尾張藩九代藩主徳川宗睦の近侍、宗睦の長男治休の侍講。 むねちかはるよし 享保十四年(一七二九)生、寛政九年(一七九七)没。六九歳。 14人見弥右衛門。尾張藩士。名黍。字子魚。号叔魚、璣邑、竹山。
に遠州秋葉神社を勧請して相殿とした。 15秋葉大権現社(現東京都墨田区向島)。元禄年間中、千代世稲荷 (参考) 「請地 秋葉権現宮 千代世稲荷社 社頭に青松、丹楓おほし。晩秋の頃、池水に映じて錦をあらふがごとく奇観たり」(斎藤長秋著『江戸名所図会』七巻、天保七年刊)
村(「内山真龍年表」『研究』六九〇頁)。 四村水田凶作免税願に各村庄屋と共に江戸下向。同年九月六日帰 16天明二年(一七八二)七月十八日、二俣・大谷・山東・船明、
(『研究』二七六頁)。 此方よりも、久敷書状も得遣し不申、甚遠々敷罷在候」とあり 宛、宣長書簡に「遠江内山氏、此方へも久々便り無御座候、且又 17本居宣長。本書簡の翌年だが、寛政五年十月十日付、千家俊信 18金谷宿(書簡7注1参照)の誤記か。
19書簡
7の注 8参照。
20卜部兼方編『釈日本紀』(二八巻目録一巻二九冊。明暦三年刊)。 21現群馬県北群馬郡吉岡町下野田。
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常照院と浄聖院亮衍と―
」『温故叢誌』三六号、昭和五七年)。 う叢書も編纂していた(岡中正行「和学講談所の設立をめぐって 書庫善本書目解題』華蔵寺、昭和五九年)。また、「叙史類苑」とい 子園書庫を創立(「浄聖院亮衍と獅子園書庫」『法雲山華蔵寺獅子園 没。六九歳。書家で勅伝大阿闇梨法印に叙された角田無幻の兄。獅 つのだ 馬、窺龍、随応。元文三年(一七三八)生、文化三年(一八〇六) 22浄聖院亮衍。本山派修験の法雲山華蔵寺八世。字歙浦、仮司 じょうしょういんりょうえん23亮衍の滞在は六月ではなく、三月二八日頃であったという(「出雲
國風土記」『獅子園書庫典籍並古文書目録』汲古書院、平成十一年)。 宣長を訪れたとしている(前掲「和学講談所の設立をめぐって」)。 の設立を勧めた後、遠江の真龍を訪問し、十一月九日に松阪の本居 づき、亮衍は寛政四年初め江戸仮居の塙保己一を訪れ和学講談所 和学講談所設立。なお、岡中正行は本書簡(小山正書写本)に基 二一)没。七六歳。天明三年(一七八三)検校。寛政五年十一月、 24塙保己一。国学者。延享三年(一七四六)生、文政四年(一八
安永八年(一七七九)~文政二〇年(一八一九)刊。 25塙保己一編『群書類従』二五部五三〇巻、目録一巻、六七〇冊。
出雲風土記』(二巻二冊、寛政九年成立、文化三年刊)がある。 群書類従』三三篇上雑部に所収され、刊本には千葉俊信校『訂正 國風土記」『法雲山華蔵寺獅子園書庫善本書目解題』)。また、『続 雲風土記解』を参考とした形跡はないと報告される(前掲「出雲 26獅子園文庫に亮衍筆手写本あり(一巻一冊)。但し、真龍の『出
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9(福岡市博物館所蔵番号 一三五)
【貼紙】 文政四年巳十二月廿四日付内山真龍悴内山徳右衛門道真の状青柳勝次宛 真龍没八十二才
【端裏】午七月廿五日 多久氏便之□ (難読)□□ 遣之 青柳御氏 一筆致啓上候。甚寒之砌御座候得共、弥々無御障御堅勝可被遊御座奉珍賀候。然ば先達て浜松御本陣御音達 1之後□ (ヤブレ)無御便罷過候得共、無御恙候哉、承度奉存候。次に親父真龍儀、当八月廿二日暁、死去仕候 2。今年八十二歳に候。何分御形見物差上申度存候得共、書□ (置)もの何も無之、誠に麁書壱葉呈上仕候。御落手可被下候。且又来午八月十五日頃霊祭歌会仕度存寄に候間、御一首御贈可被下候 3。外に御歌二三葉、内掛物に相成候品一葉、外は何にても宜敷候間、何卒御恵み給り度奉願上候。真龍御霊祭之言葉、別紙差上候。尤右霊祭時分は大取込にて、
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弟子共も吟味不仕候故、甚以不出来千万に候得共、右しるべいたし候もの故、入尊覧候。○小野篁公之事、問書は江戸三田三町目堤弥五郎 4様御方、勝間田清蔵 5
君迄申述候。御問合被下、御返事奉願上候。右は当国小野村 6に篁公之墓所有之哉に存候得共、篁公遠江国住之事、古書に見当り不申、『文徳記 7』にも篁公之事は有之候得共、墓所無之哉に存候。右墓所相知れ候例御座候はゞ、何卒御記給り度存候。○真龍碑銘へ尊君之御歌記置存候間、御弔歌御贈可被下候条事、期後便時候。謹言 巳十二月廿四日 真龍悴 内山徳右衛門 美地真左 8拝青柳勝次様 机下 別紙奉申上候 信濃国信行 9と申仁は両三年真龍門弟之処、歌も不宜、学事も未だ不備に候得共、何分尊君□ (迄)書状差上呉候様申参候に付、任其意差上候。御落手可被下候。尤主用御事多之由は私よりも信行へ申遣し候。右御案内如此御座候。以上
御書献時神呂芸能 添 呈上 真龍霊祭之言葉 添
尚々、美□ (知)満三歌、何分御恵み奉願上候。以上 注1 文政元(一八一八)年九月二〇日、内山真龍が企画し、浜松本陣梅谷氏邸にて行われた賀茂真淵五〇年忌に、種信が書信等を寄せていたものか。真龍日記に、「廿日乙卯晴、浜松梅谷会。諸国懐紙、筑前より東武蔵上野、乞二十五ヶ国一、会集七十五人」とあり(『研究』七一七頁)。2 このことより、本書簡は文政四年(一八二一)の発信。3 『研究』六五四~六五六頁に、諸家から寄せられた真龍追悼歌が載るが、その中に、「遠江の豊田のかたなる内山老翁の、こぞの八月廿二日に身まかり給ひつときゝ侍りてよめる/筑紫人 青柳種信/秋はぎのちらふ岡部にあらきしてきみがいますと聞はまことか」とある。4 注5の勝間田茂野を介し、真龍に『万葉集撰要抄』の書入を請うている「堤弥三郎」のことか(『研究』四五二頁参照)。5 勝間田茂野。相模の人。清左衛門。安永七年(一七七八)生。箱根山中二子山北麓芦湯伊勢屋の隠居。賀茂真淵を信奉し、真龍とも交流があった(『研究』四五二頁)。6 現静岡県浜松市北区細江町小野。7 『文徳実録』。嘉祥三年(八五〇)三月から天安二年(八五八)八月までの記事を収録する。8 書簡4注7参照。9 森本真弓。字信行、孟憲、信全。通称甚三郎。名龍雄、篤。号松園、篤園など。嘉永七年(一八五四)五月四日没。六七歳。信州伊那郡嶋田新井村で酒造業を営んだ(『研究』六三一~六三二頁)。
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五、小山正筆写『青柳種信宛書翰集』に寄せて白石 良夫
平成十年の秋、広島大学での日本近世文学会も終わりかけたころ、帰りをいそぐという田中道雄氏から一冊の冊子を手渡された。田中氏は、「あなたの好きなように使ってください」といって去っていった。渡されたのは、カーボン紙でもってした複写、雁皮紙様のうすい和紙約六○葉を袋綴にし、それをクロス装で製本したものであった。表 紙と背には、ともに箔で、 青柳種信宛書翰集 文学博士小山正編裏表紙左隅には、 福岡市箱崎上社家町 前間氏所蔵と押されていた。そして、扉裏には、 昭和廿六年十月贈呈
筆者 小山正 前間契兄と墨書されている。小山正氏は静岡県浜松の人。戦前から郷土の先哲、賀茂真淵や内山真龍・石塚龍麿といった国学者の研究に従事した篤学の士として知られている。基礎資料の博捜のうえにたった実証的研究は、いずれも今なお近世国学研究史に屹立した業績と評価される。小山氏は、昭和二十六年八月から十月にかけて、福岡市西新在住の山崎昌太郎氏が襲蔵していた青柳種信宛の諸家の書簡を書き写した。写し終えて、この書簡集編集の経緯を序文に記した。
青柳種信宛書翰集序 拙著「内山真龍の研究」昭和廿五年九月に出版したが、この中に真龍と種信との関係をその書翰や日記などにより詳述したのである。従つて、本書は畏友前間於菟猪氏(福岡市箱崎上社家町)の紹介により福岡県の神社・大学や高等学校などに五十部も購読せられたのであるが、なほ福岡市西新町二ノ二一五山崎昌太郎と申す種信ゆかりの方も同氏の紹介によつて知るを得たのである。この山崎氏は種信の曾孫ヒサ女を令室とされてゐる関係上、青柳家
の不幸つゞきて、その令室の姉タツ女が青柳家伝来の遺書を持つて、山崎家に身を寄せられてゐたが、已に〳〵に故人となられ、青柳家も後嗣となるべき方が次ぎ〳〵に不幸を見たので、当主山崎昌太郎氏がそれらを保管せられ、青柳家の霊祭も行つてゐられるのである。この山崎さんがこゝに収録した書翰類のあることを報ぜられたので、直ちに借写を申込んで、昭和廿六年八月十七日に筆始をして、今日十月三十日に筆耕を終つたのである。この間十回も分送せられた山崎氏の御厚志には全く感謝の外はなく、又御紹介下つた前間氏の私の学究生活への心からなる御声援には、また感謝の外はない。こゝに、青柳種信翁宛書翰集を一冊とするにあたつて、その来由を誌して序とする次第である。
なほ本書一本は筆者これを蔵し、乱書如何であるが、一本は山崎昌太郎氏に、一本は前間於菟猪氏に贈呈した。或は研究家の資料ともなり、偉人顕彰、国学発達史に資するあらば幸甚である。
昭和廿六年十月三十日 浜松市中島町七六四 小山正識す名著の誉れ高い小山氏の『内山真龍の研究』の出版されたのが昭和二十五年。その著述中の第三篇第六章は、青柳種信と内山真龍との交遊の事実を詳しく記しただけでなく、種信その人に関する先行研究としても、いまなお代表的なものである。それが縁で、種信と姻戚関係にあった福岡の山崎昌太郎氏と相知ることとなった。仲介したのは、小山氏の友人の前間於菟猪氏であった。山崎昌太郎家には種信の旧蔵書や関連資料が残されており、小山氏は同家につたわる種信宛の諸家書簡を借りて書き写した。書簡の発信者はつぎの諸家である(括弧内は書簡の数)。 内山真龍(5)
内山道真(1)
栗田土満(1)
石塚龍麿(1)
夏目甕麿(1)
勝間田清蔵(1)
本居宣長(2)
本居大平(2)
本居内遠(1)
野田助教(7)
野田富之助(1)
伊能忠敬(1)
千家清主(1)
海量(1)
大友直枝(2)
斎藤定于(1)
須賀直入(2)
武部尚正(1)
田尻梅翁(2)「青柳種信宛書翰集」と命名し、副本を二部作成して、一部を書簡の所蔵者山崎昌太郎氏に、あと一部を仲介の労をとった前間於菟猪氏に贈呈した。わたしが田中道雄氏から託されたのは、前間氏に贈ったものであった。本冊子をたずさえて帰京したわたしは、とりあえず小山氏の字を翻