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成と雑誌『語苑』 : 1930‑1940年代を中心に

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成と雑誌『語苑』 : 1930‑1940年代を中心に

著者 岡本 真希子

雑誌名 社会科学

巻 42

号 4

ページ 73‑111

発行年 2013‑02‑28

権利 同志社大学人文科学研究所

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012959

(2)

「国語」普及政策下台湾の官僚組織における 通訳育成と雑誌『語苑』

─ 1930-1940 年代を中心に ─

1)

岡 本 真希子

本稿の課題は,日本統治期台湾の官僚組織における通訳育成について,台湾語学習 の教材を提供した月刊誌『語苑』

を主な対象としながら,1930-40 年代を中心に検討す

ることである。1930 年代前半は、台湾総督府が「国語」普及政策を推進するなかで,

台湾語通訳育成問題は政策と矛盾し複雑な様相を帯びていった。また,1930 年代後半 以後の「皇民化」政策期には,『語苑』は「同化」・「教化」のための台湾語通訳育成を 主張するなど,いっそう複雑で矛盾した状況が生じていった。本稿では,戦時期植民 地統治下における台湾語通訳育成という検討課題を通して,植民地主義と密接な関係 を持つ通訳育成問題の諸相を明らかにするものである。

1 はじめに

本稿の課題は,日本統治期台湾の官僚組織における通訳育成について,台湾語2)学習の 教材を提供した月刊誌『語苑』3)を主な対象としながら,台湾で「国語」(日本語)普及 政策が推進された 1930-40 年代を中心に検討することである。ただし,対象とするのは,

「国語」通訳の育成問題ではなく,台湾語通訳の育成問題についてである。すなわち,政 策の目標として「国語」普及が掲げられるなかにおいて,台湾語通訳の育成がなぜ必要 とされ続けたのか,そこから浮かび上がる 1930 年代以降の植民地社会の様相とは,いか なるものかという問いである。

ただし,本稿と一対をなし前史にあたる時期を分析した論考として,拙稿「日本統治前 半期台湾の官僚組織における通訳育成と雑誌『語苑』−1910-1920 年代を中心に−」(『社 会科学』第 42 巻 2・3 合併号,同志社大学人文科学研究所,2012 年 11 月)がある(以下

「『語苑』1910-1920 年代論文」と略す)。したがって,以下では,重複を避けるためにも,

大枠となる先行研究や課題設定などに関しては概略を示すにとどめ,本稿の課題とする

(3)

「国語」普及政策が推進される 1930-1940 年代に関して論じてゆく。

すでに拙稿「『語苑』1910-1920 年代論文」において述べたように,『語苑』は,台湾で 組織された「台湾語通信研究会」が発行し,1908 年の創刊から 1941 年の廃刊まで長期間 にわたり継続した。同誌の歴代の編輯長は,台湾総督府の一部署である法院(裁判所に該 当)の通訳が担任し,かつ,同誌は植民地台湾における警察の語学テキストとしても利 用されており,植民地官僚組織内部の語学学習と通訳育成に大きな影響力を発揮してい た。複数言語から構成される植民地社会において,言語の媒介者となる通訳は必須の存 在といえるが,従来の研究においては,植民地における通訳育成制度に着目した研究は 多くはなかった。台湾において通訳育成制度の牽引役となったのは法院通訳たちであり,

かれらは検察官・判官(裁判官のこと)と,被告・原告の大部分を占める台湾人4)の間 にあって,言語面における媒介者としての重要な役割を担っていた。台湾の法院通訳に ついて特徴的なのは,多くの「内地人」(日本人)5)が存在したことであり,〝内地人が台 湾語を学習する〟という必要性が継続的に存在していたことである。

しかし,「台湾語通信研究会」の役員構成や通訳育成の目的は,時期によって,異なる 様相を帯びていた。「『語苑』1910-1920 年代論文」で明らかにしたのは,以下の点である。

『語苑』創刊当初の 1910 年代は,独学で台湾語学習を始めた法院通訳たちが,「台湾語通 信研究会」の役員を構成し運営を維持していた。その中には,台湾総督府官僚組織のなか で数少ない正規の官僚に登用された台湾人法院通訳たちも含まれていた。しかし,とり わけ 1920 年代後半になると,『語苑』は台湾人の政治・社会運動取締りを喫緊の課題と する警察と一体化していった。それに伴い「台湾語通信研究会」役員における台湾人通 訳の比率は低くなってゆき,『語苑』は,警察が必要とする実務的な台湾語学習者向けの 雑誌へ,かつ,広範な初学者向けの雑誌へと変化していった。すなわち,植民地におけ る台湾語学習者の隆盛は,台湾人の政治・社会運動の隆盛およびそれへの取締りと軌を 一にしていたのであり,台湾の官僚組織における複数言語を媒介する通訳の育成は,極 めて植民地主義的な側面を持っていたのであった。

では,本稿の課題とする 1930 年代以降には,通訳育成はいかなる経緯を辿ってゆくの か。分析の前提として,1930 年代以降の台湾総督府における言語政策の流れをみると,

1930 年代前半に始まる「国語」普及政策,1937 年に台湾内で刊行されていた日刊新聞に おける「漢文」欄の廃止,1940 年代における学校教育における「漢文」科の廃止,そし てこれらに伴う 1930 年代から 1940 年代にかけての植民地社会における「国語」普及率の 上昇という流れが,基本的な経緯である6)。すなわち,台湾の言語空間を「国語」が席巻

(4)

し,なおかつ,「漢文」が排除されてゆくという構造で捉えられている。しかし,「国語」

対「漢文」の二元的理解では,台湾語の存在は視野に入らない。「漢文」が排除され「国 語」普及政策が推進されてゆく 1930 年代以降においても,台湾語学習雑誌『語苑』は刊 行をなお続けていた。このことからは,「漢文」による文字メディアが廃止されたのちに おいても,台湾語を手放さない植民地社会の存在が浮かびあがるのではないか。

植民地期台湾の言語状況に関しては,「漢文」の文体に着目し,「国語」との二元的理 解を超える視点を提供した最新の成果として,「植民地漢文」という新たな概念を提起し た陳培豊の研究があり,本稿の作成過程においても大きな示唆をえた。陳培豊によると,

1920 年代以降の台湾では,和製漢語・中国白話文・台湾語の影響なども受けて独自に発達 した「漢文のクレオール現象」(creole)が起こり,「植民地漢文」が成立していったとす る。「植民地漢文」は,日本統治初期の内地人が「同文」を媒介にして教授してきた「漢 文」とは異なるもので,「台湾人のみの文体」として,「同文」から「異文」へと「変容」

を遂げて,1930 年代には台湾のメディアで使用されるようになっていた。しかし,この 独自の「植民地漢文」は,台湾人のみの「解釈共同体」の土壌となるもので,内地人の介 入を阻むものであった。そのため,台湾総督府から問題視されることとなり,1937 年の

「漢文」欄廃止のターゲットとされたという7)。「漢文」欄廃止については,従来の説明で は,大陸との共同体意識を断つための措置であるとされてきた。これに対して陳培豊は,

「植民地漢文」による台湾人のみの「解釈共同体」成立こそが台湾総督府に問題視された のであり,この「解釈共同体」の排除のための「文体」およびメディア面における具体 的措置が,「漢文」欄廃止であるという。

こうした姿勢を持つ台湾総督府が,台湾人の「解釈共同体」を構築する言語である台 湾語について,その媒介者となる通訳育成を継続していったことは,一見すると矛盾し て見える。また,「国語」普及政策下で展開された「国民精神の涵養」というスローガン は,台湾語通訳育成と,いかなる矛盾を引き起こしていったのか。本稿では,1930 年代 以降における,こうした矛盾した状況下における通訳育成の意義や,通訳自身の意識に ついて検討してゆきたい。

以下,本稿では,1930-1940 年代の『語苑』の誌面構成や論調,および「台湾語通信研 究会」役員の構成などを分析してゆく。分析時期は 1938 年以前と 1939 年以後で区分す る。第一の分析時期である 1938 年以前は,「国語」普及政策が推進されるとともに,1920 年代後半にみられたような台湾人の政治・社会運動が抑圧されてゆく時期にあたる。こう したなかで,1920 年代に高揚した取締りのための台湾語学習というニーズはどのような

(5)

様相を呈してゆくのだろうか。第二の分析時期である 1939 年以後(正確には 1938 年 11 月以後)には,「警察用語」の全面掲載により,誌面は一新された。1937 年 9 月に始まる 日中全面戦争のなかで,「国語」普及と,総動員体制に伴う「皇民化」政策は,台湾語学 習と通訳育成にいかなる課題を与えたのだろうか。ここでは,『語苑』が廃刊される 1941 年 10 月および翌月の『警察語学講習資料』刊行までを視野にいれて分析を行う8)

2 1938 年以前の『語苑』−冷遇される台湾語学習者−

2.1 台湾語演説の禁止

1920 年代後半における台湾語学習の隆盛は,台湾人の政治・社会運動の隆盛およびそ れへの取締りと軌を一にしており,それに伴い『語苑』も実務的な台湾語学習者向けの 雑誌へ,かつ,広範な初学者向けの雑誌へと変化していった(「『語苑』1910-1920 年代論 文」参照)。しかし,この台湾語学習熱を刺激する要因となっていた台湾人の政治・社会 運動は,1930 年代には次第に力を失ってゆく。周知のように,1920 年代初頭以来の台湾 議会設置請願運動は総督府の弾圧と本国政府の冷遇により形骸化しつつあり,また,1920 年代後半に政治・社会運動を牽引した台湾文化協会は 1931 年には解散強制処分を受け,

1928 年に結成された台湾共産党も 1931 年 6 月には大検挙が行われた。こうして 1930 年 代初頭の台湾内における政治・社会運動は,穏健と見られる台湾地方自治連盟以外には,

活動が困難な状況に陥っていた9)

1930 年に創立し 1937 年 7 月まで活動を展開した台湾地方自治連盟は,活動の単一目標 として,地方自治制度改正を目指した。当時の台湾においては,各地方に設置された議会 はすべて諮問機関であり,議員はすべて総督府の指名による官選議員から構成されてい た。しかし,これに対して地方自治連盟は,普通選挙実施と民選議員の選出,各地方議会 の議決機関化を主張していた。この地方自治連盟の主張に対して,台湾総督府は半官選・

半民選の台湾地方制度改正により政治運動の分裂を企図し,他方で本国政府は,地方制 度改正後の民族運動の惹起を危惧して総督府の要求を拒み続けた。このように 1930 年代 前半には,主にこの三者による交渉・駆け引きが統治政策上の大きな課題となっていた。

こうした経緯を経て,1935 年 4 月に至りようやく,台湾総督府の企図した形で台湾初 の地方レベルの選挙制度が成立し,同年 11 月に初選挙が実施された。実現までの 5 年間 に台湾地方自治連盟は,台湾内で台湾語や「国語」による政談演説会や講演を頻繁に行 い,これと並行しながら内地人の「民権」運動家も,「国語」による政談演説を展開して

(6)

おり,多言語から成る政治空間が生じていた10)

こうしたなかで,選挙演説用語は何語で行うのか,選出された議員が議会で使用する言 語は何語とするのかという問題が,重要な課題として浮上していた。制度改正前の『語 苑』は,選挙運動の活発化を予想しながら,以下のようにいう。現在の「警察官諸士の 語学研究熱」は 1920 年代後半の「講演取締を必要とせる当時に比すれば著しく低下」し た,しかし「今や我が台湾も地方制度改革実現の気運に際会し,全島的に選挙運動は熾 烈となり,政談演説に,与党拡大に,台湾語全盛時代となり,言論の取締は以前に倍し,

台湾語を必要とする時機の到来すること想像するに難からず」として,警察官に対して台 湾語学習を呼びかけていた11)。すなわち,『語苑』は,選挙演説用語は台湾語であり,取 締まる側の警察においても台湾語学習ブームの契機となることは必至とみなしていたの である。

しかし,台湾語の選挙演説が,合法的に全島で展開される事態に対しては,植民地社会 ではマイノリティとなる在台民間内地人が,強い危機感を抱いていた。このことは,在台 民間新聞『台湾経世新報』の論調に顕著であった。『台湾経世新報』は,1930 年代に台湾 の言論界で「ファッショ」運動を牽引し,総督府の政策を批判し,とりわけ地方制度改正 に対しては,在台内地人の優位を脅かすものとして批判していた12)。例えば,総督府は

「頭顱の多い本島人〔漢族系の台湾人〕を対象としての本島語〔台湾語のこと〕の演説な らでは〔立候補者の意図が〕徹底しない点も多い」との観点から「〔台湾語演説を〕当然 許すべきであらうと言ふやうな風に傾いて居るとも言はれて居る」ことを警戒し,「内地 人の頭顱の尠少な事は当然」なのだから,「演説に本島語を使用せしむる時には内地人の 立候補者は完全に本島人のそれ等に勝を譲らねばならぬ羽目」になる,その結果として,

「国語の出来無い方面に或は多くの当選者を出すかも知れない」という事態に至り,末端 行政機構の諮問機関にあたる「街会,庄会などでは本島語のみが幅を利かす事」が当然の 帰結となってしまう,しかしこれは「時代逆行」であり「統治方針に悖反するもの」とし て批判する。そして,「選挙演説に国語のみ使用させるかそれとも本島語をも使用させる か」は「選挙の不平等」に関わる重要な問題として危惧を表明していた13)。さらに,議 会用語に関しても,漏れ伝えられる総督府の改正地方制度原案において,「街庄協議会に 於ては議長の許可を受けたる時に限り通訳を使用するも妨げず」とあるらしいことに危 惧をあらわにし,通訳使用可能ということは「台湾語の使用を認めたるもの」で「折角 国語主義に改善されつゝあるものが逆転の形勢を見るは火を見るよりも瞭か」であると いう14)。このように,総督府が推進する「国語」普及政策と合致させるためには,選挙

(7)

運動・議会における使用言語は「国語」でなければならないと強硬に主張していた。

結局,総督府の下した結論は,選挙演説用語も議会用語も,「国語」に限定するという ものであった15)。台湾の警察官が構成員である台湾警察協会が発行した公式ハンドブッ クともいえる『台湾地方選挙取締規則解説』では,選挙用語を「国語」限定としたことに 関して,「可否の論議は免がれ得ないであらう」と自覚しており,また,この制限が「人 民の言論を束縛せんとするものでも無く又必ずしも国語政策の一手段として設けたるも のとは解すべきではなからう」と躊躇も表明しながら,その原因として「全く取締上の 須要に依ったもの」として,以下のようにいう。

「台湾の人口の大部分を占むるものは本島人であるから,選挙演説の如きも本島人に 依ってなさるゝ場合が相当頻繁なるものと考へねばならない。此の場合には警察官 として取締上演説会に臨監せねばならないのであるが,其の警察官が台湾語を正確 且迅速に理解出来ねばならぬこと勿論である。然るに現在の警察官にして此の程度 の要求に応じ得ることは困難ではなからうかと思はれる。従って若し台湾語に依る 選挙演説を認むるときは,結果に於て無理が生じ取締る者も亦取締られる者もお互 に迷惑することになることを虞り,選挙演説は国語を以てせざる可からざることと せられたものであらう。」16)

このように,警察官の台湾語に対する取締り能力が不足しているので,台湾語による 演説は禁止し,警察官が可能対応な「国語」演説のみを許可するというものであった。

こうして,台湾語による取締り対象そのものが不在となったため,小野西洲の期待し たような警察における台湾語学習ブームは訪れなかった。さらに,台湾総督府は,制度 改正に難色を示した本国政府に対して,高い投票率による選挙制度導入成功をアピール する必要からも,11 月の選挙実施までの約 8 ヶ月間,棄権者や無効投票を許さない選挙 キャンペーンを全島で展開し,警察も動員しながら「無筆有権者」(非識字有権者)撲滅 を目指して,片仮名講習会と模擬選挙を繰り返し行い,「国語」普及政策とリンクさせる 形で選挙用語を規制していった17)。政治・社会運動の取締りを直接の契機とする台湾語 学習の必要は,1930 年代以降にはなくなっていたのである。

2.2 通訳優遇措置の削除 / 低い身分への不満

1930 年代は,緊縮財政政策の時代に突入した時期にあたり,経費削減と官僚への諸手

(8)

当て削減が本国政府にとっての重要課題となっていた。こうしたなかで,植民地官僚の給 与・諸手当も削減対象の一つとなり,本国政府と台湾総督府の間でも攻防の焦点となっ た18)。これに伴い削減対象のひとつとされたのが,通訳への優遇措置であった。

台湾総督府では,法院通訳のような通訳専門官吏を除けば,通訳兼掌制度により,警 察官などの既に採用済みの官僚・職員に通訳を兼掌させる制度をとっていた。1930 年以 前の制度上の規程をみると,「台湾総督府警察及監獄職員語学試験規程」(1922 年 11 月訓 令第 205 号)により,甲種・乙種の二種類からなる通訳手当てを制定していた。通訳は 試験により選定され,毎年一回,筆記試験と口述試験を行い,60 点以上を合格者とした

(合格証書の効力は 1 年)。合格者は成績により 10 等に区分され,1-7 等が甲種,8-10 等 が乙種と二種に区別され,手当て額は等級に応じており,1 等 30 円から 10 等 1 円まで特 別手当が支給される19)。ちなみに,1932 年時の通訳兼掌者数は,表 1 のようである。

しかし,1930 年 3 月に,この通訳兼掌者手当ては一部削減が行われた。警務局長の通 牒によれば,その理由は経費削減のためであり,措置としては,最低ランクの乙種 10 等 は手当支給を停止,その上の乙種 8・9 等に関しては,毎年実施される試験で 3 年以上進 級しないもの(上級の試験に合格しない者)に対しては,やはり手当支給を停止するとい うものであった。支給手当の激増は財政圧迫を招いており,1929 年 12 月末現在で,全島 警察職員通訳兼掌手当支給者は,甲種 338 名・乙種 2,415 名(合計 2,753 名)にのぼり,

支給額 71,820 円に達しており,もともとの予算年額 31,752 円に対して 40,068 円も超過し た状況にあった20)

表 1 語学合格証明書所有者及通訳兼掌者数(1932 年末)

区別 「国語」 台湾語

職階 手当種類 閩南語(台語) 客家語 原住民語

警部 甲種

-

36 2 6

乙種

-

94 3 5

警部補 甲種 2 76 2 13

乙種

-

75 1 17

巡査部長 甲種 2 68 8 16

乙種 3 288 30 97

甲種巡査 甲種 31 74 3 9

乙種 125 876 27 300

乙種巡査 甲種 25

- -

1

乙種 767 4 1 130

甲種 63 254 15 45

乙種 895 1,337 62 549

註 1 出典は台湾総督府警務局編『台湾総督府警察沿革誌』第 3 編「警務事績篇」(1934 年)940-941 頁。

註 2  原資料においては

,

閩南語は「福建語」,客家語は「広東語」,原住民語は「蕃語」(タイヤル・ブヌン・ツオ ウ・アミ・パイワン・ヤミの総称)と表記。

(9)

また,1923 年に設立された警察の語学特科講習(通称「特科」)修了者に対する,試験 実施上の優遇措置も廃止された(台湾語特科については「『語苑』1910-1920 年代論文」,

参照)。従来は特科卒業者に対して,語学甲種試験の筆記試験を免除し口述試験のみを課 していたのだが,これは特科卒業者に対する「過当なる待遇」であり「一般受験者との 均衡を欠く嫌あり」として,1930 年 10 月にこの特例は廃止された21)

これらの下級ランクの手当て切捨てや,特科生への優遇措置取り消しは,台湾語既習 者にとっても熱意に水を差す側面を持っていた。

台湾語学習者の〝割の合わなさ〟については,1910 年代から『語苑』の編輯に関与し,

「台湾語通信研究会」の理事で中心人物でもある小野西洲は,「私共の口からこんなこと をいふのはどうかと思はれるが」と前置きをし,かつ,「台湾語を学ぶ目的が台湾語で衣 食しようなんていふ量見で研究するものは殆どあるまい」といいながらも,以下のよう に歎いている。

「一面から観ればまじめで,台湾語の研究に没頭してゐる人ほど酬いられぬ情ないも のはない。精神一到てふ努力を以てすれば給仕から司法官や弁護士や行政官に昇つ た人は多々ある。学者博士になった人もある。台湾語のみを日夜血を吐くほど研究し たからといって官界では最高が督府三号表の高等官でそれも全島一人しかなれぬ。

奮闘努力をしても甲斐かないと歎かざるを得ないのである」22)

すなわち,露骨に言えば〝台湾語では食えない〟のであり,専門職として〝台湾語で 食えている〟官吏である法院通訳にしても,高等官になれるのは全法院通訳のうちたっ た一人で,その他は下級官僚である判任官の身分のまま一生を終える構造になっていた。

彼等が補佐する法院の判官・検察官の身分がすべて高等官であることをかんがみるとき,

官僚組織のヒエラルキー構造のなかで,台湾語を学んだところで身分上・金銭上でのメ リットは少ないことがわかる。

そもそも,通訳は重視されないどころか,場合によっては偏見すらもたれることもあっ た。『語苑』の「巻頭辞」曰く,「世人の多くは一口に=何に通訳か=と如何にも通訳と 言へば,品性の劣れる,学識に乏しい,危険性を帯びたる帮間のやうに視る傾向がある」

という。通訳という職業は「両者の中間に介在し,意思の取次をなし,相手と接近する 地位に在る」ため,「往々にして誤解され易く,又中にはその地位を利用して,実際不正 行為をなせし人を稀に出せし前例あるを見て斯くも注意される慣例となりしが如き観あ

(10)

るは,我語学界の為め一大恨事である」と嘆き,「世人は通訳は少しく言語を解すれば小 使給仕でも能くする極めて容易なる仕事の如く思ふてゐる」23)と,バイリンガル話者で あるが故に,かえって軽んじられる状況に悔しさをにじませている。

通訳への偏見は,植民地の言語を学習することをよしとしない植民地在住の母国人の 心情からくるものでもあった。1930 年代に至っても「本島在住内地人の台湾語学習を全 く等閑に附し居る」状態は普遍的なもので,官僚の場合は「其地位稍高ければ自ら高し となし,台湾語を使用するを厭ふ。本島人に当面して執務する人にしても,本島人を通訳 に使ふを常とす」という状況で,民間の「銀行会社員に至るまで概ね然り」という。彼等 は「我より屈して彼等の言葉を学ぶを潔しとせず」,商業者の場合でも「その大部分は内 地人相手の商売なるが故,台湾語の必要を感ぜず」という24)。植民地の言語習得が「屈 して」「学ぶ」という表現でなされることからも,言語の優劣の存在を如実に表すものと いえよう。

こうしたなかで,『語苑』では,1932 年 8 月以降,主事の水谷利章の死去を受けて25), 小野西洲が「台湾語通信研究会」主事に就任し,「会務一切並に語苑編輯」を担任するこ ととなった26)。この主事就任時に小野は華南銀行書記のままであったが,同年 10 月に華 南銀行書記を辞して27),再び法院通訳に任官され,高等法院検察局に赴任した28)

小野は,1899 年に 16 歳で渡台し,無学歴をカバーしようと「立身出世」のために法院 通訳を志し,台湾語一筋に生き,『語苑』の屋台骨を支え続けて,すでに 30 年間を経過 していた(表 4 の小野の欄を参照)。この後,小野は 1930-40 年代の通訳育成のキーパー ソンとなり,かつ,「国語」普及政策のなかで,台湾語学習必要論を主張し続けてゆく。

小野の台湾語への熱情は,以下の小野の回想から,その一端がうかがえる。あるとき 小野は旅先で某人物から,「老兄〔小野のこと〕は年をとって,台語の研究もいい加減に したらどうですか,何も国語堪能の本島人や,台語のできる同僚にまで台語を使って話 さぬでもよいではないか」といわれた際,小野の返答は,「台語は私の生命である趣味で ある」「寧ろ台語の上達により本島人を導かうと考へてゐる私には造次顛沛之を廃するこ とはできぬ。人から嫌はれようが,そんなことには頓着せず,斃れるまで研究も練習も 続けるつもりだ」というものであった29)

冷遇され〝割りの合わなさ〟に不満を抱きつつも,台湾語を学習し台湾語により台湾人 を「導く」こと,これが,以下に見る「国語」普及政策下における小野の牽引する『語 苑』の基本的な主張となってゆく。

(11)

2.3 職業言語としての台湾語

1930 年代,台湾総督府は「国語」普及政策を展開し,全島に「国語」講習所を設置し ていった。植民地期台湾では,義務教育制度は 1942 年までは実施されず,台湾人児童に 対する初等教育は,自費で学費を支弁する公学校が唯一のものであった。こうした教育 制度はそのままに,台湾総督府は教化政策の一環として「国語」普及を位置づけること とし,1932 年に策定し 1933 年に開始した「国語普及十箇年計画」において,「国語」理 解者率を 10 年後の 1943 年までの間に 50%まで引上げるという目標をたてた。そして,

国庫補助も行いながら,各地の州・市・街・庄に「国語」講習所を設置していった。「国 語」講習所とは,12-25 歳の青少年で公学校に入学できない者を対象に,農繁期を避けて 通年的に夜間授業を行う特殊教育施設で,修業年限は主として 2 年で,授業料は徴収し ないかわりに,上級学校には連結しないものであった。数字上では,1939 年に台湾全島 の「国語」講習所・簡易「国語」講習所は合計 15,136 箇所,生徒数は 891,660 名を数え,

台湾人の「国語」理解者は,1930 年時点では全人口に対して 12.36%であったのが,1939 年には 48.78%に達したことになっている30)

では,「国語」普及運動が強力に推進されるなかで,なぜ内地人が台湾語を学習せねば ならないのか。この点に関して,運動開始当初の理由は,「国語」理解者がいまだ不足し ているから,という観点からの主張がなされていた。小野曰く,現時点では毎日「法院に て取扱ひつゝある民刑事件の関係者中通訳を介せずして済むものは百人中二十人はある まい」という状況で,「国語と言へば新しくて新興と繁栄を意味すとは真理であるが,台 語と聞けば旧式で退嬰を意味するが故之を排除せよとは表面を飾らんとするものゝ皮相 な観察」であると批判しながら,台湾語の現実的な必要性を指摘している31)

1934 年時点においても,「台湾語と国語の奨励」の関係について,「台湾語研究通信会」

では「台湾語の研究と国語の普及とを目的として」してきていることを述べながら(会則 による。「『語苑』1910-1920 年代論文」,参照),以下のようにいう。最近,台湾総督府の 一部の官衙で「台湾語使用を禁んずる傾向」があるが,こうした時勢下に「台湾語の研 究を奨励するは,一見国語奨励を阻碍する観」があるように見えるかもしれない,しか し,「民衆に当面することなく,台湾語を必要とせざる官公吏」の場合は,台湾人官吏で も「国語」を使用すべきは勿論である,しかし現状では,「如何に奨励すればとて,本島 人全部の国語使用を待つは,恰も黄河の清を待つが如し」と否定的な見解を示しながら,

「本島人に直面して治を図る官公吏殊に警察官刑務官の如きは,民衆文化の発展に伴

(12)

ひ,其の用語益複雑を極めつゝある現在に於ては,より以上に台湾語を必要とし,之 に熟達するを要す。故に之を必要とする同志は同志間に於ても絶へず台湾語を使用 し,之が円熟を期し,之を善用するは,自己の職務に忠実なる所以なり。叙上の理 由にて台湾語の学習は絶対に国語の奨励を阻碍するものに非す。両者相俟って内台 の融和に,本島の治績に貢献すべきものなり。」32)

と述べ,警察官・刑務官などといった,台湾人の「民衆文化」に向き合わねばならない 職にあるものは,台湾語の習得こそが職務に忠実といえるのであり,このことは「国語」

奨励を阻害しないと主張する。内地人全般に台湾語学習を勧めるのではなく,職業を限定 して台湾語学習の必要性を説くのが,「国語」普及政策下の『語苑』の基本的主張であっ た。

2.4 「同化」「善導」のための台湾語

1935 年に小野西洲は「台湾語研究の真の目的」について,警察官に対して,以下のよ うに呼びかけていた。その目的は,精勤証書・語学手当獲得や幹部試験合格などといっ た身分上の優遇ではなく,警察官の職務を全うするためであるとして,

「諸賢の対象は新附の民なり,諸賢は能く彼等を善導し訓化するの重責

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

を負ふ。之を 期せんんが為めには民言を解し民意を悉ること絶対必要なり」「諸賢の台湾語を学ぶ

4 4 4 4 4 4 4 4 4

は彼等に化せんが為めに非ず。言霊の偉力と至誠の神通力とにより彼等をして至純

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

至良なる日本民族に同化せしめんが為なり

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

と意識せられよ」33)

というように,「新附の民」である植民地出身者に向き合う警察官は,その「民意」を知 り「善導し訓化」するためにも,台湾語を学ぶ必要があるのであり,台湾語の「言霊」に よって「至純至良なる日本民族に同化」させるためとしていた。

言語によって「日本民族に同化」させるという論理は,本来であれば,「国語」を通じ て「国民精神」を注入するという論理によって,「国語」普及政策によって広く展開され ていたものである。そこでは,例えば,いまわの際まで台湾語を口にせず「君が代」を 口にして死んでいった台湾人少年の美談「君が代少年」に象徴的に示されるように,「国 語」によってこそ「国民精神」が血肉化され,台湾語を封印した姿こそが,「同化」を果 たした理想の「日本国民」の姿とされていた34)

(13)

これに対して,小野の主張する『語苑』の論調は,「同化」遂行のためには警察官によ る台湾語能力が必須とする点で,論理の逆転現象を起こしているといえる。同じく 1935 年の『語苑』では,「同化政策と警察官の語学力」と題して,以下のようにいう。

「本島に於ける警察は

4 4 4

,治安維持に任ずるの外,同化政策の実行者として重大使命を

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

有す

4 4

。而して民を指導同化せんとするには

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

,先づ民心の動きを明かにし,而る後,統 治の根本方針に基き,常に国体の明徴,皇室の尊厳,君臣の関繋,帝国の優越,国 民の本分等を,善く説明し感悟せしむるを要す。之には警察各位の台語は絶対必要

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

にして,而かも愈上達するを以て愈効果有りとす

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

。」35)

このように,小野は「国語」を経由しない「同化」と「善導」のための職業言語とし て台湾語を位置づけ,台湾語学習の必要性を強調していった。

小野によれば,「同化政策をして徹底せしめ,真に精神文化の向上を期」すためには,

「どうしても五百万の本島人に日本の精神を知らせねばならぬ,日本人の心を知らせねば ならぬ」が,そのためには「国語」普及と同時に,「同化政策を一層迅速的に徹底的に成 果せしむるには現在本島に於ける優秀なる内地人の台語に堪能なるものを多数養成」し て,これらを通して台湾人に「説き聴かせる

4 4 4 4 4 4

ことが極めて効果的」であり,その担い手 は「六千余の警察官諸君」と主張する。小野曰く,

「機会ある毎に,はっきりした台湾語で

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

,諄々と国の実情,正義,至善至美,を説き

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

聴かされてゆくうちには自ら同化

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

し内台一丸,愈固く愈耀き,島の誉は世界に謳は れん。即ち全島的に国語の普及と徹底せる台語堪能者とを多く養成

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

することだ。」36)

このように,台湾語を媒介としながら台湾人の「同化」を推進すること,これが小野 が牽引する『語苑』の主張である。

そのため小野は,書籍の出版方面においても,従来の台湾語関係刊行物とはことなる方 向を模索してゆく。小野によれば,従来「台湾語に関し著述をした人」は,林久三・川合 真永・杉房之助・片岡巌・今田祝蔵・東方孝義・劉克明などいるが,「何れも初歩の会話 書か基本語の活用か辞書か,俚諺かの類で断片的のものばかり」であり,「未だ纏った思 想を連続的に表はしたもの,即ち一場の訓話,説諭,挨拶,等の演説的のものを書いた書 物は一冊もない」と指摘する。しかし,警察官たちから「初歩の書物だけでは満足するこ

(14)

とができず,何か纏ったことを台湾語で書いた書物は無いだらうか」との打診を受けるよ うになったため,小野は「数年前から一場の講演,訓話的のものを書き始め」たという。

そして次第に「警察官としては警察官として民衆に呼びかけ,色々と話さねばならぬ目前 必要なものがある,それを先に出すことが一般警察官諸君の熱望に副ふ所以である」と信 じ,「警察官対民衆,台語訓話要範」という「小冊子を公判することにした」37)という。

この『警察官対民衆 台語訓話要範』は 1935 年に台湾語 通信研究会から刊行された(図 1)。同書は,全 268 頁の分 量があり全 12 編から構成され38),それぞれ,約 1-3 頁ほど 分量の台湾語の「訓話」が,漢字表記の本文の横に片仮名 を用いた符号で発音を表記した形で掲載されたあと,「国 語訳」が掲載されていた。同書で特徴的なのは,第 11 編

「雑項」・第 12 編「修養講話」の部分である。例えば,第 11 編「雑項」は全 13 項目から成るが,そのなかには「一 視同仁の真意義」・「内地延長主義の真意義」・「自治精神の 真意義」・「国体の明徴と国民精神」・「日本国民性に就いて」

などの「訓話」が含まれていた。また,第 12 編「修養講

話」では,「常に朗かに」・「忠告を聴け」・「謙遜の徳」・「自己の功労を誇る勿れ」などと いった内容で,道徳・謙遜・忍耐・寛容を台湾人に説き,台湾語を通して,小野のいう

「日本の精神」や「日本人の心」を説くためのテキストとなっていた。

さらに翌年(1936 年),小野西洲は 250 頁からなる冊子『台語和訳 修養講話』を刊行 した。この原著は「菜根譚」であり,「儒仏道の三教に精通せる明代の鴻儒洪自誠の著」

で,それを近代の日本人の臨済宗の高僧・釈宗演が解説・出版したものを,小野が「台語 和訳」にして出版したものである。同書の「はしがき」には,「台語力の強化を期せんと する島内の警察官諸君及び国語力の増進を図らんとする本島人諸君の講話練習資料」と して位置づけていた39)。小野は「菜根譚」を,「精神の修養,処世の要訣」に最適の題材 であるとし,また,「説諭・訓戒・講話の資料」として直に応用可能いう。そして同書は 主に「本島人に対して為す講話」であるため,「主として儒学より引例し,更に本島固有 の金言等をも活用し,聴くものをして感興を深からしむるやうに努めた」との工夫をこ らし,「私〔小野〕が台語を専攻して以来三十八年間の研究の結晶が本書」と自負してい た40)

しかしながら,「国語」普及政策下においては,台湾語学習の必要性や,台湾語を通し

図 1   小野西洲『警察官対民衆 台 語訓話要範』(台湾語通信研究 会,1935 年)

(15)

た「同化」「善導」という主張は,なかなか理解を得がたいものであった。1936 年を回顧 して小野がいうには,「時勢の推移に伴ふ国語普及熱の旺盛と台語排斥の気運」が波及し ており,「一般台語研究熱は漸次退下」し,「警察界の古参者」は「今更台語を励学するの 勇気起らず」,警察界の「新参者」は「台語学習の余力を他に用いて〔上級職である〕甲 科を志望するの勝れるを説」いて,みなが台湾語学習を「顧みらざるの傾向」を生じて いた。台湾語の「語学界漸退の一路を辿りつゝある」「真に悲むべき現象」に追い込まれ ていったのである41)

2.5 「漢文」欄廃止と『語苑』存続の意義

「国語」普及・台湾語排斥が進むなかで,1937 年 4 月,台湾内で刊行されていた日刊新 聞における「漢文」欄が廃止された。このとき廃止の対象とされた「漢文」は,陳培豊 の指摘によれば,台湾で独自に形成されていた「クレオール化した漢文」である「植民 地漢文」であり,台湾総督府は内地人の介入を拒む台湾の「解釈共同体」を問題視した ゆえの措置であった(本稿「はじめに」参照)。

こうした視点から見ると,台湾語は,「植民地漢文」以上に内地人の介入が困難な「解 釈共同体」を提供するものといえる。台湾人の「解釈共同体」に歩みよるのではなく根絶 し,「国語」の世界へ牽引してゆこうとする総督府の方針のもとでは,その台湾語を学習 する行為は,いっそう問題視されかねない状況を意味する。したがってこの「漢文」欄 廃止問題は,「台湾語通信研究会」および『語苑』にとっては台湾語排斥に拍車をかける 大きな脅威として捉えられ,存続を問われかねない事態であった。

「漢文」欄廃止が決定されるやいなや,『語苑』誌上では,「台湾語通信研究会」の存在 意義を主張する「巻頭辞」が掲載された。曰く,「本会を台湾語通信研究会と称し,語苑 月刊と聞けば,如何にも台湾語を全島的に奨励し,国語の普及と牴触するかの如く思はれ ん」と疑惑を持たれかねないことを自ら率先して表明し,しかし,その疑惑を否定する。

『語苑』の「事業の方針施設実行等は時勢の推移に由りて変更す」るものであるとし,か つては「府報も庁報も各官庁の掲示も通知も漢訳を附」していたが,「民度の漸進するに 従ひ此等は全廃せられ,今や各新聞の漢文も廃止と決定す。是れ同化の大精神に則れる当 然の帰結なり」として,「漢文」欄廃止は時勢から見て当然と賛同するとともに,『語苑』

もまた,時勢にあわせて変化してきたと述べるのである。その変化とはすなわち,『語苑』

発刊当初は「本島に在住し本島人に当面して事を為す内地人は官民を問はず先づ台湾語 を学習せよ」と「唱導し極力台語を内地人に奨励」したように,官民問わずに台湾語学

(16)

習のための雑誌として出発したが,今は異なり,

「本会々則第一条

4 4 4 4 4 4 4

にもある如く「本会の目的は台湾語の研究と国語の普及に在り

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

」而 して会員の殆んど全部は全島の警察官及刑務官に限らる。この両者を除けば概ね国 語で押し通し得られ台語を使ふの要なからん。故に本会も此大勢に順応して現に警

4

察司法刑務等の職員の台語研究機関

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

と同時に本島人青年の国語練習機関

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

として本誌 を作る。」「此等職員の将来は国語の普及常用に反し従前に倍蓰して台語精通の必要 を見ん。」42)

として,対象とする職業を限定とした台湾語学習という目標とともに,台湾人青年の「国 語」練習機関という側面も強調していた。

そして,「全島四大日刊紙の漢文欄既に全廃せられたる今日に於て」こそ,「国語国文 を解せざる多数本島人に対し」て,「上意示達」のためには警察官による台湾語学習の必 要性が浮上するという43)

こうした『語苑』における小野の主張の前提として,「国語」普及は「全部の本島人が 内地人のやうに国語を使用する迄には今後猶百年以上を要しよう」という台湾人社会へ の認識があった。しかしそのうえで,「皇民化運動は即時に実行に移さねばならぬ」とい う喫緊の課題が存在する以上,台湾語学習は欠くべからざるものとして絶叫されてゆく。

小野はさらにいう。現状では,「国語」講演の完全聴取可能な台湾人は少なく,情勢を正 しく意識させるために一日何回か時局ニュースを台湾語でラジオを通じて行っている,

地方では「国民精神講演を台湾語で巡講している所」もあり,「かうしなくては本島人に は解らぬ」のだから,

「予は徹底的に島民の心的教化を期せんとするならば先づ三箇年計画で全島の公学

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

校の内地人先生が台湾語を一生懸命に学ぶこと

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

だ。公学校は全島各庄到る所にある。

そして自分の愛児を託してゐるのであるから,師に対する報恩観念の強い本島人は 最も学校の先生を崇拝心服しゐる。通訳を介せずしてこの先生の口から台湾語です

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

る講演を聴くこと

4 4 4 4 4 4 4 4

は,よしんばその表はし方は拙くても。口先でなく,心の叫びに は必ず聴者の心は動され,よく理解ができ,よく同化してゆける

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

と思ふ。」44)

というように,公学校における内地人教師に対して,台湾語を学習せよとまでいう。

(17)

こうした主張の根拠としては,かつて某外国人宣教師が,来台一年にして台湾語の説 教を二時間行った際に台湾人聴衆がその説教に聞き入っていた例をあげている。ただし,

その宣教師は台湾語を自由自在に駆使できるほど台湾語を習得したのではなく,「他の言 葉は一切研究せず,今日説教した,あれだけの説教文句のみを専修練習したのだと聞か され ,なるほどと思った」という。そして,

「それで全島の公学校の先生さんも,かうした方法でこの三倍三年間皇民化精神講和

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

を練習

4 4 4

してやれば成功疑なしだ。特殊情勢下にある島民に対しては単に児童に止ま らず,進んで全島民の皇民精神化に必成の信念を固め献身的にやればできないこと はないと思ふ。請ふ全島の公学校諸先生,吾々の仲間入りをし今日から台湾語を学 ばれては如何」45)

という。このように,「皇民化精神講話」のように,話すべき内容を固定した形で,〝聴 かせる〟ための台湾語学習を行うことが主張されていったのである。

2.6 「皇民化」政策開始期の誌面構成

以上のように,1930 年代に入り,台湾語学習熱の冷却,「国語」普及政策の推進,台湾 語の排除,文字メディアからの「漢文」(「植民地漢文」)欄廃止などを経てもなお,『語 苑』が存続をかけて台湾語学習の必要を叫ぶなかで,その誌面構成はどのようになって いったのだろうか。

1938 年 1-10 月の掲載内容を見てみると,表 2 のような内容となっていた。その特徴を おおまかに挙げるならば,第一に「警察官語学講習独習資料」の連載のように,従来と 同様に警察官の独学のためのテキストとしての役割を担っていたことである。

第二には,「時局関係訓示説明聴取練習資料」・「皇民化実現方法説明資料」・「国民精神 総動員健康実施説明資料」のような時局状況の説明や,「戦争と国民の覚悟に就て」・「堅 忍持久本島の使命遂行に邁進」・「皇民化意識強化説明資料」などのように,時局下におけ る台湾人の意識のあり方を説くものなどである。これは,前述した「上意示達」と,話 すべき内容を固定して〝聴かせる〟ための台湾語学習という,小野の主張を反映したも のといえよう。

こうした教材を用いる意義について小野は,「今本島人に対して種々説明して認識せし め感激せしめ,理解せしめ,無条件で我が説く所に従はせしめる」には,多くの理屈を

(18)

表 2 『語苑』1938 年 1-10 月号の掲載内容

執筆者 掲載号

(月号)

記事内容

役職 姓名 記事タイトル 頁数

顧問 伴野喜四郎 1 「年頭の辞」 2-3 頁。

主事兼編輯主任

〔小野西洲〕*註 1・2・3・4・5・

6・7・8・9・10

「誌言」〔巻頭辞〕「年頭の挨拶」(1 月号,1 頁)。「無声に聴くとは台語聴取力の増 進を意味す」(2 月号,1 頁)。「完全なる治安を期せんには先づ台語に堪能であれ」

(3 月号,1 頁)。「警察官の語学強化は各自の勉学と幹部の奨励に在る」(4 月号,1 頁)。「油断大敵,微言に注意せよ(5 月号,1 頁)。「福建語の必要と効果益々重大 となる」(6 月号,1 頁)。「細心大胆を台語の研究に活用せよ」(7 月号,1 頁)。「習 慣力により転嫌為好を期せよ」(8 月号,1 頁)。「非常時局に際して警察官の台語堪 能を強調す」(9 月号,1 頁)。「防諜防犯の徹底と警察官の台語」(10 月号,1 頁)。

小野西洲

1・2・3・4・5・

6・7・8・9・10「初等科台湾語教案」

1 月 号,4-11 頁。2 月 号,2-10 頁。3 月 号,2-10 頁。4 月号,2-9 頁。5 月号,2-11 頁。6 月号,2-11 頁。7 月号,2-11 頁。8 月号,2-9 頁。9 月号,2-12 頁。10 月号,

15-24 頁。

1・2・3・4・5 「警察官語学講習独習資料」

1 月号,12-36 頁。2 月号,11-30 頁。3 月 号,11-32 頁。4 月号,10-31 頁。5 月号,

12-36 頁。

6・7・8・9・10 「警察官語学講習自習資料」

6 月号,12-32 頁。7 月号,12-32 頁。8 月 号,10-32 頁。9 月号,13-37 頁。10 月号,

25-49 頁。

1 「警察取締簡易用語」 43-50 頁。

1 「よく通ずる俗語の活用」 58-63 頁。

2・3 「よく通ずる日常俗語の活用」 2 月号,50-55 頁。3 月号,55-60 頁。

5・6・7・9 「よく通ずる日常用語の活用」 5 月号,61-68 頁。6 月号,66-69 頁。7 月 号,55-60 頁。9 月号,63-66 頁。

1 「珍妙な殺人事件の取調」 63-67 頁。

3 「時局関係訓示説明聴取練習資料」 46-54 頁。

5 「皇民化実現方法説明資料」 52-55 頁。

9 「皇民化意識強化説明資料」 38-49 頁。

6

「国民精神総動員健康実施説明資料」・

「金,総動員運動説明資料」・「離婚和解 事件の裁き」

41-48・57-65 頁。

7

「戦争と国民の覚悟に就て」・「堅忍持久 本島の使命遂行に邁進」「皇民化意識強 化説明資料」

42-54 頁。

8 「興味ある台湾語」・「商品取込詐欺事件 の取調」・「台湾語研究餘録」 44-60 頁。

1・2・3・4・5・

6・7・8・9・10

〔編集後記〕「新春偶感」(1 月号,74-76 頁

)。「偶感漫言」(2 月号,63-64 頁 )。「読

書偶感」(3 月号,61-63 頁

)。「春宵閑話」(4 月号,72-74 頁 )。「榕窓随筆」(5 月号,

69-72 頁

)。「忙中漫筆」(6 月号,70-72 頁 )。「榕窓漫筆」(7 月号,61-64 頁 )

・(8 月 号,61-64 頁

)。「榕窓随筆」(9 月号,67-68 頁)・(10 月号,62-64 頁)。

10 「警察官対民衆説明資料」 56-61 頁。

編輯委員

東方孝義 2・5・8・9 「警察官事故取扱と報告書作製」 2 月号,36-43 頁。5 月号,43-47 頁。8 月 号,33-38 頁。9 月号,50-57 頁。

三宅愛次郎 1・2・3・4・5・

6・7 「警察官台湾語学習資料」

1 月 号,37-42 頁。2 月 号,31-35 頁。3 月号,33-39 頁。4 月号,32-38 頁。5 月 号,37-42 頁。6 月号,33-36 頁。7 月号,

33-37 頁。

田中金太郎 1・2・3・5・

6・7・8・9・10「刑務官台湾語講習教材」

1 月号,51-57 頁。2 月号,44-49 頁。3 月 号,40-45 頁。5 月号,48-51 頁。6 月号,

37-40 頁。7 月号,38-41 頁。8 月号,39-43 頁。9 月号,58-62 頁。10 月号,50-55 頁。

〔不詳〕

1 「全国民,赤心の顕れ,献金献品」 68-73 頁。

2 「台北州巡査部長台湾語筆記試験問題」 56-57 頁。

2 「台湾語口述試験問題」 58-62 頁。

4 「昭和十三年施行警察官刑務官甲種語学

筆記試験問題」 39-63 頁。

4 「昭和十三年施行刑務官福建語口述試験

問題」 64-71 頁。

5 「前科十犯三人殺事件の顛末」 56-60 頁。

6 「防諜意識強化説明資料」 49-56 頁。

10 「警務取締用語」 2-14 頁。

註  本表は『語苑』第 31 巻 1-10 号(1938 年 1-10 月)より作成。「誌言」は無記名だが,『語苑』第 31 巻 12 号(1938 年 12 月)の小野 西洲「読者各位に御通知申上げます」において,小野は「従前は巻頭辞を毎月私が同じやうなことを繰返して書いて来ました」(95 頁)とあるため,本表では小野による執筆と仮定し分類した。

(19)

並べて説くよりも「適切なる事例を多く挙げて説くことが効果的」として,「富豊なる常 識に基き諸事に亙りて島民に説き聴かせ,彼等の皇民化意識の促進を図ることが語学研 究の悠遠なる目的ではあるまいか」という46)

そのために選ばれた教材は,例えば 1938 年 9 月号の小野西洲「皇民化意識強化説明資 料」(38-49 頁)では,「本島軍夫の忠誠」という題材を取り上げている。この題材は,い わゆる「愛国美談」に属するもので,その内容は以下のようである。台南安平の住民の 兄弟が軍夫に志願し,弟は被弾して戦死した,しかしその兄は,軍夫としての自分の給 金を弟の線香代などにせずに国防献金にした上,両親への手紙では,弟の戦死を悲しま ずに国民としての覚悟を促すものであった。その説明における結論部分では,弟の「功 労と名誉との芳名は永遠に台湾歴史上に留まりて滅することなく,千古の後に至るまで 忠勇軍夫としてその名を謳はれる」ものと意義づけていた。

また,もう一つの教材である「戦時下に於ける島民の幸福」では,大陸の蒋介石政府 の残虐と無秩序ぶりを説きながら,「今我本島内に住んでゐる。島民は如何。諸君の生命 財産は完全に政府の保護をうけてゐるではないか」,「今本島内の島民と国民政府下に在 る支那民衆とを比較したならば,孰が幸福であるか孰が悲惨であるか,その差は天淵も 啻らぬであらう」として,日本統治下にある台湾は幸福であるとし,だからこそ「銃後 の護をつくさねばならぬ,島民諸君は日常少し位の不利不便は我慢して,滅私奉公の労 作に従事せねばならぬ」と主張していた。

こうした教材選定のねらいとして,小野は以下のようにいう。

「本島人に対して,忠誠とは如何。国民精神の精華とは如何,忠勇なる精神力とは如 何,などと説き聴かせるに当りても,なるべく適切なるその事例を挙げて言ふ方が 彼等にははや分りがする」(49 頁)。

しかし,小野がこだわった〝聴かせる〟ための台湾語学習の教材は,『語苑』から間も なく姿を消してゆく。そして警察のための語学テキストという役割に,『語苑』は特化さ れてゆくこととなるのである。

(20)

3 1939 年以後の『語苑』−「皇民化」と台湾語−

3.1 「警察用語」による誌面刷新

1938 年 11 月,『語苑』は誌面を一新し,3 年後の 1941 年に警察用の台湾語テキストの 集大成を発行するための連載雑誌に変わった。ここで同年 11・12 月の誌面構成を概観す ると,表 3 に示したようであり,「警察用語」と題されたシリーズに独占されていること がわかる。

「警察用語」について,小野の説明文「警察用語掲載に就て」によれば,その内容や意 図は以下の通りである。まず,連載内容は「高等」・「刑事」・「保安」・「衛生」・「外事」・

「経済」の 6 部門に分けられ,「各部門共第一課より第三十六課即ち本年十一月より向ふ三 箇年間で修了完結する予定」である,一課を 6 頁とし,「完結すれば一千三百九十六頁の 警察用語の本となる訳で,所有方面の警察用語を網羅することができます」という。連 載期間 3 年という限定,各部門の掲載分量の均一化が特徴である。

この誌面刷新の理由について小野は,「警務当局の要望に応し」たためであるという。

教材についても,「警務当局より御提供下されます警察各方面に亙る実務用語の材料」に

表 3 『語苑』1938 年 11・12 月号の掲載内容

執筆者 掲載号

(月号)

記事内容

役職 姓名 記事タイトル 頁数

高等法院検察官 下秀雄 11 「時局下に於ける台湾語修習の必要性」 1-4 頁。

警務局警務課長 細井英夫 12 「本島警察と台湾語」 1-3 頁。

主事兼編輯主任 小野西洲

11 「警察用語掲載に就て」 5-6 頁。

11・12 〔編集後記〕「明窓随筆」(11 月号,89-90 頁)。「歳暮随筆」(12 月号,97-98 頁)。

12 「読者各位に御通知申上げます」 95-96 頁。

不明

11・12 「福建語入門」 11 月号,7-12 頁。12 月号,5-10 頁。

11・12 「保安警察の部」 11 月号,13-18 頁。12 月号,11-16 頁。

11・12 「衛生警察の部」 11 月号,19-24 頁。12 月号,17-22 頁。

11・12 「経済警察の部」 11 月号,25-30 頁。12 月号,23-28 頁。

11・12 「高等警察の部」 11 月号,31-36 頁。12 月号,29-34 頁。

11・12 「外事警察の部」 11 月号,37-42 頁。12 月号 35-40 頁。

11・12 「刑事警察の部」 11 月号,43-48 頁。12 月号 41-46 頁。

11・12 「課題」 11 月号,49-50 頁。12 月号,90 頁。

11・12 「台湾違警例取締用語」 11 月号,51-56 頁。12 月号 47-52 頁。

11・12 「高等警察用語(別科)」 11 月号,57-62 頁。12 月号,53-58 頁。

11・12 「刑事警察用語(別科)」 11 月号,63-68 頁。12 月号,59-64 頁。

11・12 「衛生警察用語(別科)」 11 月号,69-74 頁。12 月号,65-70 頁。

11・12 「経済警察用語(別科)」 11 月号,75-80 頁。12 月号,71-76 頁。

11・12 「宿題」 11 月号,81-82 頁。12 月号,93 頁。

11 「普通会話」 11 月号,83-88 頁。

12 〔標語〕 4・89 頁。

12 「非常時警備警察用語」 77-82 頁。

12 「時事適用諸般警察用語」 83-89 頁。

12 「十二月答案」 91 頁。

12 「模擬試験問題−高雄州」 92 頁。

12 「十二月宿題答案−別科の分」 93-94 頁。

12 「附録 大審院並高等法院上告部判例要旨」 99-102 頁。

註  本表は『語苑』第 31 巻 11・12 号(1938 年 11・12 月)より作成。

(21)

よって,「各部門に分け,初歩より逐号警察用語を掲載」することで,3 年以内にあらゆ る方面の用語を網羅し完結する予定という。その基本的な編輯方針は,「台湾語を実務上 に活用の出来るやう教へたいといふのが目的」であり,「語学研究といふやう学理に属す ることは全く抜き」にし,「総てを実際的に作り,実際的に解説する」という47)

この誌面刷新について小野は,

「筆者想ふに同しく語学に関する月刊誌にしても或は同志の語学研究を目的とする もの,或は一般的語学研究者に参考資料を提供するを以て目的とするもの,或は専 ら台語を学習せんとする会員に対し通信教授法にする講義録的のものを配本せんと するもの,或は特殊方面の学習者に特殊方面の学習用の教材を提供せんとするもの 等あり,学習研究参考等,各その目的を異にするによって雑誌の内容編輯方法等も 異ならざるを得ない」。

と吐露している。これに倣えば,『語苑』発刊当初は「同志の語学研究を目的とするもの」

であろうし,『語苑』の最終形態である「警察用語」に併呑された状況は,「特殊方面の 学習者に特殊方面の学習用の教材を提供せんとするもの」であろう。小野曰く,「従前も 警察を主として作って来た本誌は,今や全然警察官専用の語学修習資料を以て編輯する

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

ことになった

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」のである。それは「当局の方針に基」いたもので,「国語普及の徹底化を 期する今日」においては,「警察官以外の各方面の内地人に在りては幾んど台語の研究を

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

必要とせず

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」という総督府の方針を受けた結果であった48)。ちなみにこの年,1923 年以 来続いてきた警察官及司獄官練習所の語学特科(所謂「台湾語特科」講習)は中止され た49)

また,『語苑』の「巻頭辞」についても,警察への譲歩がうかがえる。これまで毎号の

「巻頭辞」では,台湾語学習の必要や学習者の心構えなどが熱く語られてきた。しかし,

1938 年末に小野は,「従前は巻頭辞を毎月私が同じやうなことを繰返して書いて来まし た」が,「本誌は今や皆さんの語苑であります故今後は主として警察界の権威者の方方に お願して毎月何か皆さんに有益なことを書いていただくことにしたいと思ってゐます」

と述べており50),雑誌の顔の座も警察関係者に明け渡そうとしていた。

この後,『語苑』は 3 年間の「警察講習資料」連載を終えたあと,1941 年 10 月には廃 刊し,翌月からは,新たに『警察語学講習資料』へと改変され(図 2),1908 年創刊以来 の長い歴史に幕を閉じた。

(22)

3.2 戦時下「台湾語通信研究会」の役員構成

では,戦時下の「台湾語通信研究会」の役員は,どのよ うな構成となっていただろうか。例として 1939 年 10 月時 点の役員構成を見ると,表 4 のようである。顧問(1 名)

は高等法院長,主事と編輯主任は兼任で小野西洲が担当し た。編輯委員は総勢 27 名,うち内地人 23 名(85%)・台湾 人 4 名(15%)で,圧倒的大部分を内地人が占めていた。ま た,表 4 の姓名欄に網掛けをほどこした人物たちは,1928 年以前から継続して委員を務めている者であるが(1928 年 1 月時の委員は,前掲『語苑』1910-1920 年代論文・表 3 参

照),ここからわかるように,編輯委員 27 名のうち 18 名(67%)は,少なくとも 10 年 以上にわたって委員として『語苑』編輯体制の一翼を担っていた。ただし,編輯委員の 職業は,1928 年時では法院通訳が独占していたのに対し,1939 年時では警部クラスの警 察関係者が増加している。すなわち,1928 年時点では地方委員のみで見られた法院・警 察の一体化が,1939 年になると『語苑』役員の上層部である編輯委員でも進行していた ことがわかる。

台湾全島に散らばる地方委員は総計 70 名にのぼった(欠員を除く)。そのうち内地人 61 名(87%)・台湾人 9 名(13%)で,ここでも内地人が大部分を占めていた。その内地 人地方委員は,すべて警察関係者である。彼等は台湾語特科卒業者が大部分で,台湾語 エキスパートとしての資質と経験を持つとともに,警部として各地方の複数の郡役所の 警務課などを歴任しており,各地方警察の中堅を担っていた。台湾人地方委員の場合も 同様で,1928 年時には法院通訳が主であったのに対して,1939 年時には,ほとんどが警 察関係者である。

このように「台湾語通信研究会」の役員構成は,警察との一体化が従前にも増していっ そう進み,いわば警察に併呑された団体へと変貌を遂げていたといえよう。こうした中 では,法院通訳たちが主体であった 1910 年代の「台湾語通信研究会」とは異なり,個別 の委員による台湾語関連著作物の刊行といった活動は見られなくなっていた。警察を通 して提供される原教材は,『語苑』に集約され,小野によってテキスト化されて「警察用 語」として刊行されていったが,他方で警察関係の委員たちによる独自の著作刊行活動 はみられない。官僚組織における通訳育成制度は,警察により集約された情報を,月刊 誌として定期的に発信し,画一的な実務的通訳たちを全島に広く生み出すという最終形

図 2   『警察語学講習資料』1941 年 11 月号

表 2 『語苑』1938 年 1-10 月号の掲載内容 執筆者 掲載号 (月号) 記事内容 役職 姓名 記事タイトル 頁数 顧問 伴野喜四郎 1 「年頭の辞」 2-3 頁。 主事兼編輯主任 〔小野西洲〕*註 1・2・3・4・5・6・7・8・9・10 「誌言」〔巻頭辞〕「年頭の挨拶」(1 月号,1 頁)。「無声に聴くとは台語聴取力の増 進を意味す」(2 月号,1 頁)。「完全なる治安を期せんには先づ台語に堪能であれ」(3 月号,1 頁)。「警察官の語学強化は各自の勉学と幹部の奨励に在る」(4 月号,1頁)。「

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