• 検索結果がありません。

漢訳台語口訳『教育勅語御意義』

ドキュメント内 成と雑誌『語苑』 : 1930‑1940年代を中心に (ページ 32-41)

前述したように,小野は 1930 年代前半に『語苑』誌上で,台湾語による「同化」・「善 導」を主張していた。さらに「皇民化」政策期においては,「教育勅語」を教材とし台湾 語を介して「皇民化」を推進する試みを行っていた。1940 年に「台湾語通信研究会」か ら刊行した,小野真盛訳『教育勅語御意義』である。

「教育勅語」を教材とすることについて小野は,「全島民に対し国体的教養」を行うに は「教育勅語により,行ふことが最も有効的だ」という。その際には,「恰も基督教信徒 が毎日食時聖書の訓誡を念誦して,之を奉持し実践に努めてゐるが如く,即ちこの御勅語 を島民の経典となさしめること」というように,キリスト教の手法を念頭においていた。

翻訳のための底本は,「杉浦重剛先生倫理御進講草案刊行会」が 1936 年 4 月に刊行した

「倫理御進講草案」である。同会刊行会代表者の猪狩又蔵に承諾を得て,この「御進講草

案」に収録されている「教育勅語」の御進講を,まずは「台湾語に漢訳

4 4 4 4 4 4

」することを目指 し,1939 年 10 月に「漢訳」を終えている。この底本「倫理御進講草案」は,昭和天皇の 皇太子時代に,杉浦重剛が前後 7 年にわたって進講した草案集である。しかし,そもそも が皇太子に対する「御進講」なので,「そのまま謹訳したのでは之を本島人に謹講して聴 かせるに当りて,反って恐れおほい」箇所が随所にあるために,「なるべく本島人にも解 るように或は補訳し,或は抄訳し,本島人に向かって謹講するつもりで書いた」といい,

直訳ではなく修正を施していた。この点に関しても,底本刊行者の猪狩の了解も得てい た55)。 

この翻訳にあたり小野が念頭においていたのは,「国語未解者の多数を占むる本島人」

であり,そのために「台湾語口語文に謹訳した」という56)。翻訳時には「敬語や語法や 仮名遣等にも誤があってはならぬ」とともに,「本島人に正しい国語を教へようとするた めにも完璧を期せねばならぬ」との考えから,「国語」の校正は台北第二高等女学校国語 科の平井荘次郎教諭と大里アキ教諭に依頼し,台湾語の校正は「我師台湾第一人者であ る碩儒謝汝銓先生」57)に厳密な校訂を依頼していた58)

同書の原本は,残念ながら管見の限り未発見である。しかし,最初の部分にあたる翻訳 と内容紹介的な見本が『語苑』誌上に掲載されており,その原型を知ることは可能であ る。前半 2 頁程度の「漢文」訳文,それに片仮名・符号を用いた台湾口語の音が振ってあ り,後半 1 頁程度で「国語」文が掲載されるという形式であった59)。それは,これまで の『語苑』誌上の表記方法を踏襲したものであったが,この『語苑』の表記方法は,そも そも内地人の警察官の学習向けのものである。したがって「国語」不解者の台湾人には,

後半の「国語」文は理解できないであろうし,また,台湾口語の表記も,片仮名と独自 の音声表記を組み合わせた内地人向けのものなので,これも音として認識することは不 可能であろう。漢字で表記された「漢訳」部分のみであれば,識字層であれば理解でき る範疇にあるといえるが,台湾語における音と表記の不一致は,小野のこの試みの前に,

依然として立ちはだかっていたといえよう60)

配布方法は,一般に販売するのではなく予約申し込み制であった。管見の限りでは,2 回配本しているが,第 1 回目(1940 年 4 月)の予約申込者の大部分は,警察関係者であっ た。その用途は,例えば某州では「警務部の方針」で「州下の甲乙語学手当を有してゐる 全職員に読ませる」ためであり,あるいは某郡では「郡下全警察職員が購読」し,あるい は「一派出所では管内の保甲役員全員に読ませることにせられた処もあった」という61)。 この第 1 回配本時には,小野によれば「台湾語通信研究会」の「全会員の三分の二強の

各位から予約の申込」があったという。その後,「警察の方々から,本書は是非共,保甲 役員や青年団の中堅者に読ませたい,又此等の人に購読せしめることにした」というよ うに,警察経由で台湾人の地域社会における中堅的な存在に対して購読させる動きが出 てきていた。そのために「一郡から百数十部乃至四百部位の注文が数箇所から来ました」

というように,集団で一括注文がなされていた62)。第 2 回目は,1940 年 10 月に申し込み が,11 月に配本が行われたが63),その読者は「要するに第一回では警察官各位,第二回 では保甲役員,壮丁団員,青年団員といふことになります」というものであった64)

このように,小野は台湾語の存在を前提とし,「国語」を経由するのではなく台湾語を 媒介とし,「教育勅語」により「皇民化」の精神を直接台湾人に届けようと試みた。しか しながら,その結果は,警察の仲介による台湾人中堅層への配布というものであった。

「教育勅語」の漢文台湾口語訳という,植民地固有の多言語のテキストは,あくまで台湾 人の「皇民化」のためのツールとしての存在意義を持つにとどまっていたといえよう。

4 お わ り に

本稿においては,日本統治期台湾の官僚組織における通訳育成について,台湾語学習 の教材を提供した月刊誌『語苑』

を主な対象としながら,台湾で「国語」普及政策が推進

された 1930-40 年代を中心に検討してきた。

政策の目標として「国語」普及が掲げられるなかで,台湾語通訳の育成は,非常に冷遇 された状況に置かれていった。1920 年代とは異なり取締り対象となる台湾人の政治・社 会運動が抑圧され,文字メディアからの「漢文」(「植民地漢文」)が排除されるなかで,

台湾語学習熱は低下せざるをえなかった。こうした中で『語苑』は,台湾語学習は「国 語」奨励を阻害しないという点を注意深く主張しながら,内地人全般に台湾語学習を勧 めるのではなく,職業言語としての台湾語の学習という必要性を主張していった。また,

台湾語を通した台湾人の「同化」・「善導」という,一見すると奇異な主張すら,小野西洲 によって行われていった。しかしながら,こうした主張は主流とはなりえず,1939 年以 降には,『語苑』は誌面も「台湾語通信研究会」役員も警察によって併呑される形で,純 然たる警察官の台湾語学習雑誌としての役割を担うこととなった。こうした中では,『語 苑』はその創刊初期のような法院通訳たちによる学術上の議論や出版活動はなくなり,警 察が提供する教材をテキスト化することで,画一化した実務的通訳育成を目指す制度へ と変貌を遂げていったのである。

しかしながら,小野が指摘したように,台湾人社会においては,たとえ「国語」が普及 しようとも,柔軟に台湾語を存続させる多重言語構造のなかにあった。「国語」と「皇民 化」は政策の側としては一致するものと捉えられていたため,「国語」普及は喫緊の課題 とされたわけだが,台湾人社会にとっては両者は乖離したものとして存在可能であった。

こうしたなかで,台湾語の存在を前提として,「皇民化」のための教材として出版された のが,小野西洲の手による漢文台語口訳の『教育勅語御意義』であった。漢文・台湾語口 語・「国語」による「教育勅語」という,植民地ならではの多言語のテキストは,極めて 異彩を放つものではあったが,結局のところ,警察を仲介した台湾人中堅層への配布とい う結果に留まった。このように,1930 年代以降の植民地台湾の言語空間を「国語」に塗 り替えようとする台湾総督府の政策のなかで,台湾語学習のテキストを自負する『語苑』

は,存在そのものが困難な状況のなかで,警察を中心とした官僚組織の要望に適合する 形で存在意義を維持してゆかざるを得なかった。

『語苑』の全時期を通してわかることは,法院通訳や警察官たちは,確かに台湾語を学 習したバイリンガル話者であり,台湾人社会の言語・社会に通じたエキスパートでもあっ た。しかしこうした側面にのみ着目して,「知識生産」や「多言語の媒介者」としての側 面を高く評価することは,植民地主義下の言語学習という状況を看過してしまう虞があ る。本稿で明らかにしたように,植民地主義下の官僚組織における通訳育成は,植民地 統治体制が設定する枠内にその活動の範疇は限定され,その範疇で時期により可能な存 在意義と活動を設定していた。統治の工具としての現地語学習,統治の人材としての通 訳育成という点を看過することなく検証してゆくことは,植民地主義を批判的に検証し てゆく上で必須の視点であるといえよう。

1 )本稿は,同志社大学を中心とした研究グループ

DOSC(Doshisha Studies in Colonialism

[同志社植民地主義研究会]),および台湾の国立成功大学人文社会科学中心(センター)の 研究計画「殖民地時期臺灣與朝鮮之政治參與的比較研究」(2010 年 8 月

-2012 年 7 月。代表

者・岡本真希子),および台湾の行政院国家科学委員会専題研究計画「日治前期台南地域的 政治社會變化(1895-1919)」(2012 年 8 月

-2015 年 7 月予定。代表者・岡本真希子。計画番

号 101-2410-H-006-076-MY3)の成果の一環である。DOSC研究会は,2010 年 4 月以降に 研究課題「<ポスト比較>の植民地主義研究:国際研究の基盤構築に向けて」をテーマに,

同研究所・第 17 期研究会の第 9 研究班として活動している。

2 )日本統治期の「台湾語」は,閩南語・客家語・原住民語(複数種類を含む)の三つの言語 を包括した総称で,現在の研究史においても同様の用法をとる。「台語」という場合には,

ドキュメント内 成と雑誌『語苑』 : 1930‑1940年代を中心に (ページ 32-41)

関連したドキュメント