一﹃大東世語﹄﹁豪爽﹂篇 注釈稿︵堀・松本・雨宮・橋本・上原・菅本・橘・丹治・岸川・石本・趙︶
︹
凡例︺
一︑本稿は︑服部南郭﹃大東世語﹄﹁豪爽﹂篇の本文と原注に関する
注釈である︒
一︑注釈は︑早稲田大学大学院教育学研究科二〇〇九・二〇一〇年度
科目﹁国文学演習﹂︵堀 誠担当︶の受講生︵石本波留子︑趙倩
倩︑上原菜摘子︑松本豊︑雨宮紗希︑橋本麻美︑菅本慈子︑橘和
久︑丹治麻里子︑岸川俊太郎︶が講読担当話の発表資料に基づい
て原稿化した︒
一︑底本は︑早稲田大学図書館蔵本﹃大東世語﹄︵寛延三年︿一七五〇﹀
刊︶に依り︑また典拠に関しては同館蔵本﹃大東世語考﹄︵方寸
菴漆鍋稿︑寛延四年︿一七五一﹀序︶を参考にした︒ 一︑﹁豪爽﹂篇の都合十四話を︑︹豪爽1︺のように順次表記した︒
一︑注釈は本文の︹書き下し文︺・︹訳文︺︑原注の︹書き下し文︺・︹訳
文︺︑および︹語釈︺︑︹典拠︺から構成される︒
一︑︹書き下し文︺は︑原則として底本の訓点を尊重しつつ︑適宜こ
れを改めた︒
︹
豪爽1 ︺
承平東征︒朝議擇二 追討元帥一 ︒欲下 以二 藤元方一 ①拜中 大將軍上 ︒元方曰︒ 閫外之任︒一事以上︒國家無レ 不二 聽用一 ︒如有二 用レ 我者一 ︒必請二 丞相
②子一人爲レ 副︒而後受レ 命︒朝議乃寢③︒
︹書き下し文︺
承平の東征に︑朝議して追討の元帥を擇ぶ︒藤元方を以て大將軍に拜 早稲田大学大学院教育学研究科紀要 第二十二号 二○一二年三月
﹃大東世語﹄ ﹁豪爽﹂篇 注釈稿
堀 誠・松本 豊・雨宮 紗希・橋本 麻美 上原菜摘子・菅本 慈子・橘 和久・丹治麻里子 岸川俊太郎・石本波留子・趙 倩倩
二﹃大東世語﹄﹁豪爽﹂篇 注釈稿︵堀・松本・雨宮・橋本・上原・菅本・橘・丹治・岸川・石本・趙︶
せんと欲す︒元方曰く︑﹁閫 こん外の任︑一事以上なり︒國家 聽用せざ
ること無し︒如し我を用ふる者有らば︑必ず丞相の子一人を請ひて副
と爲して︑而して後に命を受けん﹂と︒朝議乃ち寢 やむ︒
︹訳文︺
承平の乱︵平将門の乱︶の東征について︑朝議で追討軍の総大将を選
んだ︒藤原元方に総大将を拝命させることになった︒元方が言うこと
には︑﹁東征の任務というものは︑その一事以上を担う大任です︒朝
廷はその任にある者の意見をお聞き入れなさらないことはないはずで
す︒もし私を任用なさるのであれば︑必ず丞相︵藤原忠平︶の御子一
人に副将となっていただいた上で︑ご命令を拝受いたしましょう﹂と︒
かくして朝議は取りやめになった︒
︹原注︺
①參議菅根之子︒大納言民部卿︒
②貞信公時爲レ 相︒
③於レ 是遣二 忠文一 ︒
︹書き下し文︺
①參議菅根の子にして︑大納言民部卿なり︒
②貞信公時に相爲 たり︒
③是に於ひて忠文を遣はす︒
︹訳文︺
①参議菅根の子で︑大納言民部卿である︒
②貞信公は︑その時丞相︵摂政︶となっていた︒ ③そこで追付元帥には藤原忠文を遣わすことになった︒
︹語釈︺
承平 年号︒九三一〜九三八︒平安前期︑朱雀天皇の時︒ 朝議 朝廷で議すること︒また︑その会議︒ 元帥 兵を率いる将軍の統率者︑総大将︒ 藤元方 藤原元方︒八八八〜九五三︒藤原菅 すが根 ねの次男︒正三位︒式部
大輔︑参議を経て大納言まで昇進した︒また︑議政官として左
代弁︑備前権守︑民部卿などを兼帯した︒女が村上天皇の女御
となり︑広平親王を産んだため︑元方も一時は宮廷内で注目さ
れたが︑藤原安子︵藤原師輔女︶の産んだ憲平親王︵後の冷泉
天皇︶が皇太子に立てられたことにより︑これを恨み憤死した
とされる︒後に元方は怨霊として喧伝され︑師輔の子孫である
冷泉・円融・三条天皇に祟ったと伝えられる︒
閫外之任 朝廷外︑城郭外の任務のこと︒軍隊を率いて境外に出征す
る将軍の任務をいう︒﹁閫﹂は︑門のしきみ︑城郭の門の意︒
一事 一つの出来事︒一つの事件︑事柄︒ 聽用 言うことを聞き入れ用いること︒ 丞相 官名︒﹁丞﹂は承︑﹁相﹂は助の意で︑君主を承け助ける意︒執
政の大臣︒ここでは摂政の職を指す︒
菅根 藤原菅根︒八五六〜九〇八︒藤原黒麻呂の孫︑右兵衛督藤原良
尚の子︒字は右生︒文章博士︒従四位上・参議︒贈従三位︒容
姿美しく武芸に優れ︑また才人で歌を能くし︑学問に通じた︒
三﹃大東世語﹄﹁豪爽﹂篇 注釈稿︵堀・松本・雨宮・橋本・上原・菅本・橘・丹治・岸川・石本・趙︶ 菅原道真の推挙で従五位下に叙せられたが︑延喜の初め︑菅原
道真の排斥に介入し︑道真救済のため清涼殿に赴いた宇多上皇
の行く手を阻み︑左遷された︒間もなく中央政権に返り咲き︑
延喜八年︵九〇八︶には参議に任ぜられたが︑この年に病死︒
道真の祟りと伝えられる︒
貞信公 藤原忠平︒八八〇〜九四九︒藤原基経の四男︒太政大臣︑摂
政︑関白などを歴任した︒朝議・故実に通じ︑中でも日記﹃貞
信公記﹄は重用され︑その説は子孫の規範とされた︒
忠文 藤原忠文︒八七三〜九四九︒藤原良枝の三男︒右少将や摂津・
丹波・大和守を歴任した後︑天慶二年︵九三九︶︑修理大夫と
して参議に列した︒翌年平将門の乱平定のため征夷大将軍に任
命される︒天歴元年︵九四九︶に七十五歳で没し︑中納言正三
位を贈られた︒
︹典拠︺
﹃江談抄﹄巻二﹁雑事﹂第九十三話︒
︵岸川 俊太郎︶
︹
豪爽2 ︺
源滿仲①驍悍︒晩年歸レ 佛︒請二 慧心一 受戒︒家私男女三十餘人︒同倶 入レ 道︒乃受二 第一不殺生戒一 ︒滿仲坐睡︒如レ 不二 肯受一 ︒餘悉奉受︒ 已而私│二 語戒師一 曰︒第一戒︒心已聽信︒但防三 將來家奴輩稍生二 輕侮
意一 乃爾②︒ ︹書き下し文︺
源滿仲驍悍なり︒晩年 佛に歸す︒慧心を請ひて受戒す︒家私男女
三十餘人︑同じく倶に道に入る︒乃ち第一不殺生の戒を受くるとき︑
滿仲坐睡し︑肯受せざるが如し︒餘は悉く奉受す︒已にして戒師に私
語して曰く︑﹁第一の戒︑心已に聽信す︒但だ將來 家奴の輩稍く輕
侮の意を生ぜんことを防ぎて乃ち爾り﹂と︒
︹訳文︺
源満仲は猛々しい男であったが︑晩年は仏門に帰依した︒慧心に請願
して戒律を受け︑身内の男女三十人あまりも︑一緒に仏門に入った︒
かくして第一不殺生の戒を受けたとき︑満仲は居眠りをし︑進んで受
け入れる様子ではなかった︒残りの戒律は全て謹んで受け入れた︒ほ
どなくして人知れず戒師に話すことには︑﹁第一の戒は︑心にかたく
受け入れておりますが︑ただ将来家人たちが段々と私を軽侮する思い
を抱くこと避けるため︑こうしたのです﹂と︒
︹原注︺
①淸和帝孫︒源經基之子︒歷任諸州︒鎭守府將軍︒治部太輔︒
②滿仲子源賢爲僧︒常憂父剛暴︒陰請慧心︒來於多田居︒修小佛事︒
因便勸勉︒滿仲忽發心歸依︒卽日放去鷹三百︒悉燒獵具︒
︹書き下し文︺
①淸和帝の孫にして︑源經基の子なり︒諸州を歷任す︒鎭守府將軍
にして︑治部太輔たり︒
②滿仲の子源賢は僧爲り︒常に父の剛暴を憂ひ︑陰かに慧心に︑
四﹃大東世語﹄﹁豪爽﹂篇 注釈稿︵堀・松本・雨宮・橋本・上原・菅本・橘・丹治・岸川・石本・趙︶
多田の居に来りて︑小佛事を修めんことを請ふ︒因りて便ちす︒滿
仲忽ち發心歸依し︑卽日 鷹三百を放去し︑悉く獵具を燒く︒
︹訳文︺
①清和天皇の孫で︑源経基の子である︒諸州を歴任し︑鎮守府将軍
にして︑治部太輔であった︒
②満仲の子の源賢は僧侶であった︒常々父の剛暴さを憂慮してお
り︑密かに慧心に頼んで多田の居に来て小法会を催してくれるよう
頼んだ︒熱心に仏の教えをすすめると︑かくして満仲は発心帰依し︑
その日のうちに鷹三百羽を放生し︑狩猟の道具を全て焼いてしまっ
た︒
︹語釈︺
源滿仲 九一二〜九九七︒平安中期の武将︒清和源氏︒賜姓一世経基
の嫡男︒摂津多田︵現在の兵庫県小西市︶の地に居したことか
ら多田満仲︑出家後は満慶︑新発意とも称された︒知略に富み︑
安和の変で陰謀を密告して正五位下に叙され︑官界に知名度を
高めた︒摂政藤原家に仕え︑武蔵国︑摂津国︑越後国︑越前国︑
伊予国︑陸奥国などの受領を歴任︑後に左馬権頭︑治部大輔を
経て鎮守府将軍に至る︒多くの家子郎党を養い︑清和源氏の基
礎を固めた︒
驍悍 気が荒く強い︒猛々しい︒ 慧心 源信の通称︒恵心とも︒九四二〜一〇一七︒平安中期の天台宗
の僧︒父は占部正親︑母は清原氏︒九歳で比叡山に登って良源 に師事し︑論義・因明学を能くしたが︑後年万縁を絶って横川
に隠棲したといわれる︒二十五三昧会を主導し︑﹃往生要集﹄
を著して浄土教の理論的基礎を築いた︒他に﹃一乗要決﹄︑﹃大
乗対倶舎抄﹄などの著作がある︒
家私 身内︒ 第一不殺生戒 十戒の一で︑狩猟・漁労なども含め生き物を殺すこと
を戒める戒律︒十戒は︑沙弥・沙弥尼が受持する十条の戒律で︑
在家が守るべき五戒︑すなわち不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄
語・不飲酒に︑不塗飾香鬘・不歌舞観聴・不坐高広大牀・不非
時食・不蓄金銀宝を加えたもの︒
坐睡 いねむり︒ 戒師 出家を望む者などに戒律を授ける師僧︒
淸和帝 八五〇〜八八〇︒平安前期の天皇︒在位は八五八〜八七六︒
名は惟仁︒水尾天皇とも称する︒文徳天皇の第四皇子で︑母は
藤原明子︒清和源氏の祖︒生後八ヶ月で皇太子となり︑九歳で
即位︒幼少のため外祖父である藤原良房が摂政を務めた︒二七
歳で譲位して太上天皇となり︑元慶三年︵八七九︶に落飾︑翌
年円覚寺で崩御した︒
源經基 ?〜九六一︒平安中期の貴族︑武人︒清和天皇の第六皇子貞
純親王の子であることから六孫王と称されたが︑源姓を賜り清
和源氏の祖となる︒平将門の乱に際してその謀反を奏上し︑後
に西国で起きた藤原純友の乱では追捕次官として小野好古に
五﹃大東世語﹄﹁豪爽﹂篇 注釈稿︵堀・松本・雨宮・橋本・上原・菅本・橘・丹治・岸川・石本・趙︶ 従って鎮定にあたった︒
源賢 ?〜一〇二〇︒平安中期の延暦寺の僧︑歌人︒源満仲の三男
で︑母は近江守源俊女︒幼名は美女丸︒多田法眼・摂津法眼
などと号す︒天禄三年︵九七二︶に僧籍に入り︑良源・恵心
らに師事した︒長和元年︵一〇一二︶に元慶寺別当︑翌年二年
︵一〇一三︶に法橋︑寛仁元年︵一〇一七︶法眼に至った︒和
歌をよくし︑家集﹃源賢法眼集﹄が現存する︒
︹典拠︺
﹃古事談﹄第三〇七話︒
︵上原 菜摘子︶
︹
豪爽3 ︺
藤將軍忠文︒爲二 近衛司一 ︒乃每二 直夜一 ︒必取二 御廏馬一 ︒置二 立枕上一 ︒ 曰︒終夕聽二 馬齕レ 物嚼嚼然一 ︒乃警二 我眠一 ︒
︹書き下し文︺
藤將軍忠文︑近衛司爲 たるとき︑乃ち直夜每に︑必ず御廏の馬を取りて︑枕上に置立す︒曰く︑﹁終夕 馬の物を齕 かみて嚼嚼然たるを聽けば︑
乃ち我眠を警す﹂と︒
︹訳文︺
将軍藤原忠文は︑近衛の司であった時︑宿直の夜の度に︑必ず厩の馬
を連れてきて︑枕元に立たせた︒言うことには︑﹁夜通し馬が草を食 は
んでいる音を聞いていると︑私の眠気は醒まされる﹂と︒ ︹語釈︺
忠文 藤原忠文︒八七三〜九四七︒平安時代中期の公卿︒藤原枝良の
三男︒平将門の乱で征東大将軍となり︑藤原純友の乱では征西
大将軍となる︒民部卿を兼ね︑宇治民部卿と称される︒正四位
下︒平将門の乱の恩賞を藤原実頼に反対され︑得られなかった
ために︑死後も実頼とその子孫を祟ったとされ︑末多武利神社
に祀られる︒
近衛 近衛府︒令 りょうげのかん外官の一つ︒天平神護元年︵七六五︶までは授 じゅとうえい刀衛
と呼ばれていた︒
齕 かむ︑かじる意︒ 嚼嚼然 物を嚙みくだくさま︒警 いましめる︑はっとさせる意︒
︹典拠︺
﹃古事談﹄第三一三話︒
︵松本 豊︶
︹
豪爽4 ︺
廷尉藤朝成︒有レ 祈二 石淸水廟一 ︒祝請二 問功勞一 爲二 告辭一 ︒廷尉曰︒我 決二 殺强盗百人一 ︒祝曰︒神誓禁レ 殺︒如レ 是恐應レ 難レ 告︒廷尉曰︒神 誓我固識レ 之︒而誓末云︒爲レ 國除レ 惡非二 此限一 ︒奈何︒祝不レ 能レ 答︒
︹書き下し文︺
廷尉藤朝成︑石淸水の廟に祈ること有り︒祝 功勞を請問して告辭を
六﹃大東世語﹄﹁豪爽﹂篇 注釈稿︵堀・松本・雨宮・橋本・上原・菅本・橘・丹治・岸川・石本・趙︶
爲 つくらんとす︒廷尉曰く︑﹁我 强盗百人を決殺す﹂と︒祝曰く︑﹁神誓
に殺を禁ず︒是の如きは︑恐らくは應に告し難かるべし﹂と︒廷尉曰
く︑﹁神誓 我固より之を識る︒而るに誓の末に云ふ︑﹃國の爲に惡を 除くは此の限りに非ず﹄と︒奈 いかん何﹂と︒祝答ふること能はず︒
︹訳文︺
廷尉藤原朝成は︑石清水八幡の廟に祈ることがあった︒神主は朝成の
功労を尋ねて︑神に祈り告げる文を作ろうとした︒廷尉は言った︑﹁私
は強盗百人を殺しました﹂と︒神主は言った︑﹁神のお告げに︑殺す
ことを禁じております︒こうしたことは︑恐らくは祈り告げることは
難しいでしょう﹂と︒廷尉は言った︑﹁お告げのことを私はもとから
知っています︒しかし︑お告げの末尾にこうあります︑﹃国のために
悪を排除するのはこの限りではない﹄と︒いかがでしょう﹂と︒神主
は返すことばがなかった︒
︹語釈︺
廷尉 検非違使佐・検非違使尉の唐名︒ 朝成 藤原朝成︒九一七〜九七四︒平安時代中期の公卿︒藤原定方の
六男︒従三位︑中納言となり︑皇太后宮大夫を兼ねた︒三条
中納言と呼ばれる︒﹃今昔物語﹄の﹁三条中納言﹂の箇所には︑
医者が逃げ出すほどの大食で︑肥満であったと記されている︒
石淸水 京都市八幡市の男山山頂に鎮座する石清水八幡宮︒日本三大
八幡宮の一つで︑伊勢・賀茂と共に三社と言われ︑朝廷と民間
の崇敬を集めた︒また︑伊勢神宮に次ぎ︑国家第二の宗廟とさ れる︒廟 御霊屋︑霊廟︑霊屋︒祝 神主︒はふり︒
決殺 犯罪者を打ち殺す︒ 神誓 神託︑託宣の意︒
爲國除惡非此限 ﹃八幡宇佐託宣集﹄宝亀八年︵七七七︶五月十八日
の託宣の末尾にある字句︒
︹典拠︺
﹃十訓抄﹄第十―第七十五話︒
︵松本 豊︶
︹
豪爽5 ︺
四條亞相①︒初有二 盛稱一 ︒法興相國︒顧二 諸子一 曰︒家兒輩︒欲レ 履二伊人影一 ︒猶且可レ 得乎︒御堂公最少︒越二 二兄一 進曰︒影不レ 可レ 履︒ 面或可レ 履︒後竟居二 上相一 ︒四條公終二 亞相一 ︒
︹書き下し文︺
四條亞相︑初め盛稱有り︒法興相國︑諸子を顧みて曰く︑﹁家兒輩︑
伊 この人の影を履まんと欲すとも︑猶ほ且つ得べけんや﹂と︒御堂公 最も少 わかし︒二兄を越えて進みて曰く︑﹁影は履むべからず︒面或 いは履むべし﹂と︒後 竟に上相に居る︒四條公 亞相に終る︒
︹訳文︺
四條亞相︵藤原公任︶は︑元来︑絶大なる称賛を得ていた︒法興相國
七﹃大東世語﹄﹁豪爽﹂篇 注釈稿︵堀・松本・雨宮・橋本・上原・菅本・橘・丹治・岸川・石本・趙︶ ︵藤原兼家︶が︑自分の子ども達の方を振りむいて︑﹁お前達は︑この
人︵藤原公任︶の影を踏もうとしても︑それはできようか﹂と言った︒
御堂公︵藤原道長︶はその中で最年少であるが︑二人の兄をさしおい
ていうことには︑﹁影は踏むべきものではありません︒顔面こそ踏ん
でやるべきです﹂と︒その後︑道長はついには太政大臣の位にのぼり
つめたが︑公任は大納言の位で終わった︒
︹原注︺
①公任︒
︹書き下し文︺
①公任なり︒
︹訳文︺
①藤原公任である︒
︹語釈︺
四條亞相 藤原公任︒九六六〜一〇四一︒平安中期の歌人・歌学者︒
通称は四条大納言︒和歌の他に漢詩︑音楽にも長じていた︒公
任は︑正二位権大納言の地位にまでしかつけず︑官位の不遇に
不満を抱いてはいたが︑藤原斉信︑藤原行成︑源俊賢ととも
に一条朝の四納言と称されるように︑多才で有能な政務家でも
あった︒﹃和漢朗詠集﹄﹃拾遺抄﹄﹃三十六人撰﹄の選者で︑著
書に﹃新撰髄脳﹄﹃和歌九品﹄﹃北山抄﹄がある︒︹言語
10︺︹語
釈︺﹁藤公任﹂参照︒
盛稱 絶大なる称賛︒また︑盛んに褒めたたえること︒ 法興相國 藤原兼家︒九二九〜九九〇︒平安中期の廷臣︒兄の兼通と
対立していたが︑兄の死後︑外孫の一条天皇をたて︑摂政・関
白となり︑権勢をふるった︒︹雅量2︺︹語釈︺﹁法興相公﹂参照︒
相國 宰相のこと︒ 家兒輩 自分の家の子どもたち︒ 御堂公 藤原道長︒九六六〜一〇二七年︒兼家の第五子︒御堂関白な
どと称される︒長女彰子をはじめ︑四人の娘を次々と入内させ︑
外戚として藤原氏全盛時代を現出した︒その後︑子の頼道に摂
政を譲り太政大臣となった︒︹雅量1︺︹語釈︺﹁藤道長﹂参照︒
上相 宰相を尊敬していうことば︒ 亞相 大納言の異称︒宰相に次ぐ意︒
︹典拠︺
﹃大鏡﹄巻五︒
︵雨宮 紗希︶
︹
豪爽6 ︺
承保帝︒欲レ 聞二 天喜中征奧之事一 ①︒藤則明者︒往日從二 源將軍一 ︒親 歷二 攻戰一 ︒時老尙存︒帝召令レ 言二 其事一 ︒則明曰︒爾時臣等從レ 將︒ 已發二 鎭府一 ︒朔雪初下︒軍容肅然︒便欲二 云云一 ︒帝止レ 之曰︒事體悲 壯︒餘已可レ 想︒不レ 須二 詳聞一 ︒乃賜二 衣襲一 罷︒
︹書き下し文︺
承保帝︑天喜中 征奧の事を聞かんと欲す︒藤則明なる者︑往日 源
八﹃大東世語﹄﹁豪爽﹂篇 注釈稿︵堀・松本・雨宮・橋本・上原・菅本・橘・丹治・岸川・石本・趙︶
將軍に從ふ︒親しく攻戰を歷す︒時に老いて尙ほ存す︒帝 召して
其の事を言はしむ︒則明曰く︑﹁爾の時 臣等 將に從ひ︑已に鎭府
を發す︒朔雪初めて下 ふり︑軍容肅然たり﹂と︒便ち云云せんと欲す︒帝 之を止めて曰く︑﹁事體悲壯なり︒餘は已に想ふべし︒詳らかに 聞くことを須 もちひず﹂と︒乃ち衣襲を賜ひて罷む︒
︹訳文︺
白河天皇は︑天喜年間に起きた奥州征伐の様子を聞きたいと思った︒
藤原則明という者は︑かつて源頼義将軍につき従っており︑直接その
戦を経験していた︒当時老いてはいたがまだ健在であった︒帝は則明
を召し出して当時のことを語らせた︒則明は﹁その時︑私どもは将軍
に随従し︑鎮守府を出発しました︒北地の雪が初めて降り︑軍隊の士
気は大いに引きしまりました﹂と言った︒そのまま続けて語ろうとす
るや︑帝は則明を止めて﹁事態は悲壮極まりないことだ︒残りはもう
想像できる︒詳しく聞かずともよい﹂と言って︑衣を賜ってそれまで
になさった︒
︹原注︺
①天喜中︒遣二 將軍源賴義一 征二 奧賊一 ︒夷賊蟠結︒城寨棊峙︒久乃
克平︒
︹書き下し文︺
①天喜中︑將軍源賴義を遣はして奧賊を征せしむ︒夷賊蟠結し︑城
寨棊峙す︒久しくして乃ち克平す︒
︹訳文︺ ①後冷泉天皇の治世の天喜年間に︑将軍であった源頼義を派遣して
奥州の蝦夷を征伐させた︒蝦夷たちは結集し︑砦は拮抗し対峙した︒
やがて平定することができた︒
︹語釈︺
承保帝 白河天皇を指す︒一〇五三〜一一二九︒第七二代天皇︒在位
は一〇七二〜八六︒承保は白河天皇の治世の年号︒
天喜 後冷泉天皇の治世の年号︒一〇五三〜五八︒奧 奥州︒陸奥の国︒
源賴義 九八八〜一〇七五︒平安中期の武将︒清和源氏︒鎮守府将軍
頼信の一男で︑母は修理命婦︒判官代として敦明親王に仕え︑
相模・常陸等の受領を歴任し︑東国武士の多くを召抱え組織し
ていた︒永承六年︵一〇五一︶にかつて相模守であった頼義は
陸奥守に登用され︑その後︑鎮守府将軍を兼ねた︒前九年の役
において多大な功績をあげ︑奥州平定に尽力した︒
則明 藤原則明︒生没年未詳︒平安後期の武士︒則経の子︒中務省に
属す内舎人であり︑朝廷の宿直や雑役に従事し︑行幸の警備
を行った︒前九年の役において︑天喜五年︵一〇五七︶十一月
黄海の戦で頼義ら率いる官軍が大敗した時︑主従七騎となりな
がらも奮闘し︑馬を射られた頼義の長男である義家に敵の馬を
奪って与えることで窮地を逃れさせた︒︹豪爽6︺において白
河天皇が則明に求めたのはこの黄海の戦の時の話である︒
鎭府 鎮守府のこと︒平安時代︑東北地方の蝦夷をしずめるために陸
九﹃大東世語﹄﹁豪爽﹂篇 注釈稿︵堀・松本・雨宮・橋本・上原・菅本・橘・丹治・岸川・石本・趙︶ 奥の国に置かれた役所︒
朔雪 北地に降る雪︒﹁朔﹂は北方の意︒ 軍容 ここでは軍隊の士気︒ 肅然 おそれて身の引き締まる様子︒ 蟠結 聚まり︑集まること︒﹁蟠﹂は聚まること︒ 棊峙 碁石のように並び立つこと︒また︑碁石を敷くように英雄や豪
傑が割拠すること︒
克平 平定すること︒
︹典拠︺
﹃十訓抄﹄第六―第十七︒
︵橋本 麻美︶
︹
豪爽7 ︺
白河帝豪邁︒事好二 勇壯一 ︒當レ 著二 盛服一 ︒尙侍或從レ 側︒整│二 正衣冠一 ︒ 便叱使レ 退曰︒不レ 須レ 學二 紈絝子態一 ︒又嘗起二 層塔一 ︒建二 大寺一 ︒陳│二設百燈一 ︒令三 一人主二 一燈一 ︒向レ 暝齊レ 手點發︒以爲二 盛觀一 ︒或不レ得二 其意一 ︒前後點レ 之︒怒令二 更作一 ︒
︹書き下し文︺
白河帝 豪 ごう邁 まいにして︑事 勇壯を好み︑盛服を著 きるに當りて︑尙侍或 いは側に從ひて︑衣冠を整正し︑便ち叱して退かしめて曰く︑﹁紈 がん絝 こ
子 しの態を學ぶことを須 もちひず﹂と︒又た嘗て層塔を起こし︑大寺を建て︑
百燈を陳設し︑一人をして一燈を主 つかさどらしむ︒暝に向ひて手を齊しくし て點發せしめ︑以て盛觀と爲す︒或ひは其の意を得ず︒前後に之を點
ずれば︑怒りて更 あらため作 なさしむ︒
︹訳文︺
白河帝は豪気ですぐれていた︒物事は勇壮なことを好み︑おごそかな
装束を著 きるときに︑尚侍が側にかしずいて︑衣冠を正しく整えようと
すると︑やにわに﹁貴族の子弟のような姿態は真似る必要がない﹂と
叱呵して退出させた︒またかつて層塔を造り︑大寺を建てた時に︑百
灯を並べ︑一人ずつ一灯を担当させた︒日暮れにさしかかって︑いっ
せいに手を揃えて灯明をつけさせて︑見事な景観があらわれた︒ある
者がその意図を理解せず︑相前後して灯明に火をつけると︑白河帝は
怒って︑改めていっせいに点火させた︒
︹語釈︺
白河帝 一〇五三〜一一二九︒在位一〇七二〜一〇八六︒第七十二代 天皇︒後三条天皇の第一皇子︒諱は貞 さだ仁 ひと︒六条帝とも︒応徳三
年︵一〇八六︶譲位︑上皇となり︑初めて院政を開き︑堀河・
鳥羽・崇徳の三代四十三年にわたって実権をにぎった︒永長元
年︵一〇九六︶出家して法皇となり︑法勝寺など多くの寺を建
立し︑造仏を行なった︒︹言語
12・文学
15・ 16 政事7・6︺
︹語釈︺参照︒
豪邁 ﹁豪﹂はすぐれ秀でていること︒﹁邁﹂はすぐれ勝っていること︒
﹁豪邁﹂ですぐれてえらい︑英邁︒
勇壯 いさましくさかんなこと︒
一〇﹃大東世語﹄﹁豪爽﹂篇 注釈稿︵堀・松本・雨宮・橋本・上原・菅本・橘・丹治・岸川・石本・趙︶
著服 ﹁著﹂で着るの意︒﹁著服﹂で︑きものをきる︒ 盛服 さかんな服装︑おごそかな正装︒ 尙侍 古の後宮の女官︒内侍司の長官︒ないしのかみ︒ 整正 正しく整うさま︒須 用いる︒必要とする︒助けとする︒ 紈絝子態 ﹁紈絝﹂は白い練り絹のはかま︒貴族子弟の服︒﹁紈絝子弟﹂
で貴族の子弟をいい︑軽蔑の意味も含む︒﹁態﹂はすがた︑あ
りさま︒ここでは﹁紈絝子態﹂で貴族の子弟のような服装の姿
態をあらわすか︒
層塔 幾重も重なった高い塔︒典拠と推測される﹃今鏡﹄では︑﹁法
勝寺九重塔﹂とされる︒
大寺 典拠と推測される﹃今鏡﹄では﹁白河の御寺︵法勝寺︶﹂とさ
れる︒
陳設 並べ設ける︒陳列︒ 百燈 百の灯明︑たくさんの灯明︒﹁燈﹂は︑ともしび・あかり︒暝 くらい︒くれる︒
齊手 手を揃えること︒﹁齊﹂は︑ひとしくする︑同じくする︒ 點發 ここではともしびをつけるの意︒ 盛觀 立派な見物︑みごとなながめ︒また立派に飾る︒
︹典拠︺
﹃今鏡﹄﹁すべらぎの中﹂第二﹁もみぢのみかり﹂︒︵﹃今鏡﹄﹁みこたち﹂第八﹁花のあるじ﹂︒︶ ︵石本 波留子︶
︹
豪爽8 ︺
法性藤公①善書︒有下 乞二 寺榜一 者上 ︒率書與レ 之︒既而聞二 奧基衡所レ 捨 寺榜一 ︒怒遣二 舍人於奥一 取還︒基衡豪悍恃レ 勢︒欲不肯還︒其妻諫乃 還レ 之︒使者勇而有レ 計︒慮二 其復悔一 ︒取輙破︒齎歸︒時人謂不レ 减二睨柱之氣一 ︒
︹書き下し文︺
法性藤公①善書なり︒寺榜を乞ふ者有り︒率 にはかに書して之を與ふ︒既に
して奧の基衡が捨する所の寺榜なりと聞く︒怒りて舍人を奧に遣はし
て取り還らしむ︒基衡豪悍にして勢ひを恃みて︑還すを肯んぜざらん
と欲す︒其の妻諫めて乃ち之を還す︒使者勇にして計有り︒其の復た
悔まんことを慮り︑取りて輙ち破り︑齎して歸る︒時人謂へらく﹁睨
柱の氣を减ぜず﹂と︒
︹訳文︺
法性藤公︵藤原忠通︶は能書家であった︒寺の榜額を乞い願う者が
あったので︑すみやかに書いて与えた︒さるほどに︑奥州の藤原基
衡が喜捨する寺の榜額であったと聞いて︑怒って舍人を奥州に遣わし
て︑取り還させようとした︒基衡は豪気で猛々しく︑威勢を恃みにし
て︑還すことを承諾しようとはしなかった︒しかし︑その妻が諌め
てこれを還した︒その使者は勇敢で︑計策があった︒基衡がまた悔や
むことを配慮して︑ただちに壊して持ち帰った︒当時の人は﹁和氏の
一一﹃大東世語﹄﹁豪爽﹂篇 注釈稿︵堀・松本・雨宮・橋本・上原・菅本・橘・丹治・岸川・石本・趙︶ 璧を手にした藺相如が柱を見すえて打ちつけ壊そうとしたのに劣らな
い﹂といった︒
︹原注︺
①法性寺大政大臣忠通︒知足院忠實之子︒
︹書き下し文︺
①法性寺大政大臣 忠通なり︒知足院忠實の子なり︒
︹訳文︺
①法性寺大政大臣 忠通である︒知足院忠実の子である︒
︹語釈︺
法性藤公 藤原忠通︒一〇九七〜一一六二︒平安末期の公卿︒摂政関
白・太政大臣︒法性寺殿と号す︒書家としての評価も高く︑法
性寺流を開いた︒︹識鑑
15︺︹語釈︺﹁藤原忠通﹂参照︒ 知足院忠實 藤原忠実︒一〇七八〜一一六二︒平安後期の公卿︒藤原
忠通の父︒忠通と不和で︑次子の頼長を偏愛したと言われる︒
︹識鑑
15︺︹語釈︺参照︒ 寺榜 ﹁榜﹂は︑かけふだ︑扁額のこと︒率 すみやかに︒にわかに︒
基衡 藤原基衡︒一一〇五〜一一五七︒平安時代後期の豪族︒奥州藤
原氏第二代当主︒久安六年︵一一五〇︶から︑毛越寺に大規模
な伽藍を建立した︒その際︑金堂円隆寺に掲げる額を忠通に依
頼したと言われる︒
豪悍 ﹁悍﹂は気が荒いこと︒たけだけしいこと︒ 恃勢 勢いをたのむ︒勢力をたのむ︒
睨柱之氣 ﹁睨柱﹂で柱をにらむこと︒趙の使者として秦の昭襄王と
対面した藺相如が︑献上した和氏の璧をうばい返した場面で︑
﹃史記﹄藺相如伝は﹁睨柱︑欲以撃柱︵柱を睨み︑以て柱に撃
たんと欲す︶﹂と記す︒いわゆる﹁完璧﹂の故事の一節である︒
︹典拠︺
﹃今鏡﹄﹁ふぢなみの中﹂第五﹁御笠の松﹂︒
﹃古事談﹄第二―第二十四﹁菊方高名﹂︒
︵石本 波留子︶
︹
豪爽9 ︺
征奧之役︒人皆服二 源將軍義家驍勇一 ︒淸武則聚二 堅甲三領一 爲レ 的︒ 請レ 試二 其弓力一 ︒將軍一發貫二 三甲一 ︒武則曰︒神也︒非二 人所一レ 及︒ 畏│二 憚之一 ︒
︹書き下し文︺
征奧の役に︑人 皆 源將軍義家の驍勇に服す︒淸武則 堅甲三領を
聚めて的と爲す︒其の弓力を試すことを請ふ︒將軍一發にして三甲を
貫く︒武則曰く︑﹁神なり︒人の及ぶ所に非ず﹂と︒ます之を畏憚す︒
︹訳文︺
奥州を征伐する戦い︵前九年の役︶で︑人々はみな源将軍義家の勇猛
さに心服した︒清原武則は堅牢な鎧三領をひとところに集めて的と
し︑将軍に願い出て弓を射る力を試した︒将軍は三つの鎧を一発の弓
一二﹃大東世語﹄﹁豪爽﹂篇 注釈稿︵堀・松本・雨宮・橋本・上原・菅本・橘・丹治・岸川・石本・趙︶
矢で貫いた︒武則が言うことには︑﹁神業です︒人がとても及びつけ
ないものです﹂と︒より一層将軍義家を畏服した︒
︹語釈︺
征奧之役 ﹁奧﹂は奥州︒陸奥の国︒ここの﹁征奧の役﹂は前九年の
役のことである︒鎮守府の統治下にある俘囚の地・奥六郡を
領有した俘囚長安倍氏による反乱である︒勢力の拡大を図る安
倍氏に対し︑永承六年︵一〇五一︶朝廷は︑武家の棟梁の源頼
義・義家父子を討伐に向かわせた︒出羽の豪族清原氏の助力に
より︑康平五年︵一〇六二︶厨川柵で貞任を破った︒服 したがふ︒おそれる︒ここでは心服する意である︒
源將軍義家 源義家︒一〇三九〜一一〇六︒平安後期の武将︒頼義の
長男︒文武に秀で︑騎射をもっともよくし︑﹁天下第一武勇の
士﹂と評されるとともに︑和歌を﹁千載集﹂に一首を残してい
る︒前九年の役で父とともに活躍︒黄海の戦において頼義の軍
は大敗を喫するが︑義家の奮戦により危地を脱する︒のち陸奥
守兼鎮守府将軍となり︑後三年の役で清原氏の内紛を鎮圧︑東
国に源氏勢力の根拠を固めた︒通称は八幡太郎︒
驍勇 つよく勇ましい︒勇猛︒又︑その人︒﹁驍﹂は良い馬︒又︑た
けだけしい︑つよい︑いさましい意である︒
淸武則 清原武則︒生没年未詳︒平安時代後期の武人︒出羽山北︵秋
田県︶の豪族︒前九年の役で︑苦戦をしていた源頼義を一万の
援軍を派遣してたすけ︑安倍氏の柵をつぎつぎと攻略した︒功 により康平六年︵一〇六三︶鎮守府将軍に任じられ︑出羽三郡
にくわえて安倍氏の旧領の奥六郡を領有した︒聚 一所に寄せ集める︑かたまるように一つにする意︒
堅甲 堅いよろい︒領 衣服や甲冑などのひとそろい︒ 畏憚 恐れはばかる︑畏敬し憚服する意︒
︹典拠︺
﹃前太平記﹄巻三十二﹁八幡殿弓勢事﹂︒
︵趙 倩倩︶
︹
豪爽10 ︺
小松平公拜二 内府一 ︒賀夕︒番長佐伯國方①試レ 馬②︒始出二 馴馬一 ︒國 方請二 左右一 曰︒今夕之試︒僕圉屬二 目國方一 ︒以必當レ 制│二 御駻馬一 ︒ 如レ 斯善柔︒恨其無レ 觀︒願更命レ 之︒公曰︒萬一傷敗︒賀夕不祥︒ 國方重請曰︒卽有二 墮失一 ︒國方當二 其不祥一 ︒若以│下 爲不レ 足レ 制二 驍 騰一 者上 ︒則請令三 他人爲二 番長一 ︒公不レ 得レ 已︒命出二 惡馬一 ︒國方喜︒ 而騎廽縱横︒無レ 不二 如意一 ︒公亦悦賞レ 之︒︹書き下し文︺
小松平公 内府に拜す︒賀夕︑番長佐伯國方 馬を試む︒始めに馴 じゅん馬 ば
を出す︒國方 左右に請ひて曰く︑﹁今夕の試みに︑僕 ぼく圉 ぎょ 目を國方
に屬す︒以へらく︑必ず當に駻馬を制御すべしと︒斯くの如き善柔︑
恨むらくは其の觀る無し︒願はくは更 かへて之を命ぜよ﹂と︒公曰く︑
一三﹃大東世語﹄﹁豪爽﹂篇 注釈稿︵堀・松本・雨宮・橋本・上原・菅本・橘・丹治・岸川・石本・趙︶ ﹁萬一 傷敗せば︑賀夕不祥なり﹂と︒國方 重ねて請ひて曰く︑﹁卽 も
し墮失有らば︑國方 其の不祥に當たる︒若し驍騰を制するに足らざ る者と以 おも爲はば︑則ち請ふらくは︑他人をして番長に爲さしめよ﹂と︒公 已むことを得ず︑命じて惡馬を出す︒國方 喜ぶ︒而して騎廽縱
横す︒如意ならざること無し︒公も亦た悦びて之を賞す︒
︹訳文︺
小松殿︵平重盛︶は内大臣に任官された︒その拝賀の夜︑番長︵近衛
府の舎人の長︶となった佐伯国方は馬を乗りこなしてみせた︒始めは︑
よく馴れたおとなしい馬を出したので︑国方は小松殿の近習に申し出
た︑﹁今夜の試馬では︑馬飼い︵近衛府の舎人︶たちは国方に注目して︑
必ずや荒い馬を乗りこなすはずだと思っていよう︒しかし︑このよう
によく飼い馴らされた馬では︑残念ながら︑観るべきものがなかろう︒
どうか別の馬に替えるようご命じください﹂と︒小松殿が言うことに
は︑﹁万が一︑負傷すれば︑この祝いの夜が忌わしい事になる﹂と︒
国方は重ねて請願して言った︑﹁もし落馬したならば︑国方がその不
祥の責めを負います︒もし︑私が強く勇ましい馬を乗りこなすのに不
十分な者だとお思いならば︑他の者に番長をお命じください﹂と︒小
松殿はやむをえず︑悪馬を出すよう命じた︒国方は喜び︑そして馬を
自由自在に乗りこなし︑思いのままにならぬことはなかった︒小松殿
もまたご満悦で国方に褒美を与えた︒
︹原注︺
①重文之子︒ ②故事︒大臣拜賀︒使番長試馬︒
︹書き下し文︺
①重文の子なり︒
②故事にいふ︑大臣 拜賀するに︑番長をして馬を試ましむ︑と︒
︹訳文︺
①重文の子である︒
②故事に︑大臣は拝賀の時に番長に馬を試させたとある︒
︹語釈︺
小松平公 平重盛︒一一三八〜一一七九︒太政大臣清盛の長男︒保
元・平治の乱に功があり︑﹃平家物語﹄には鹿ケ谷事件後︑清
盛が後白河法皇を幽閉しようとした際に諌止したことが描かれ
る︒
内府 内大臣の別称︒うちのおとど︒ 番長 近衛府の舎人の長︒
佐伯國方 ﹃玉葉﹄﹁承安四年︵一一七四︶三月二九日の条﹂によれ
ば︑番長中臣重長の祖父重近の外孫︒右近府生となる︒元暦二
年︵一一八五︶六月二一日の競馬で︑左方の下毛野厚澄に勝つ
など︑騎馬に長じていた︒
重文 ﹃玉葉﹄﹁承安四年三月二九日の条﹂によれば︑後白河院の院庁
に仕えた下臈︒
試馬 ここでいう﹁試馬﹂は︑典拠となる﹃古今著聞集﹄によれば︑
供奉の際︑乗り換えに用いられる﹁移し馬﹂を指すと考えられ
一四﹃大東世語﹄﹁豪爽﹂篇 注釈稿︵堀・松本・雨宮・橋本・上原・菅本・橘・丹治・岸川・石本・趙︶
る︒移鞍を置いて引いた︒
拜賀 任官の御礼を申しあげるために宮中に参内すること︒ 僕圉 馬を飼う人︒圉は馬飼いのこと︒ここでは近衛府の舎人たちを
指す︒
屬目 目をつける︒注目して見る︒嘱目︒ 駻馬 荒い馬︒駻と悍は同意︒ 善柔 ここでは馬がよく飼い馴らされて︑おとなしいことを指してい
う︒
墮失 ここでは落馬することを指す︒ 驍騰 馬が勇ましくて強いこと︒ 惡馬 駻馬に同じ︒
︹典拠︺
﹃古今著聞集﹄巻第十﹁馬芸﹂第十四﹁平重盛内大臣拝賀の夜︑番長
佐伯国方悍馬に乗る事﹂︵第三六一話︶︒
︵菅本 慈子︶
︹
豪爽11 ︺
源廷尉將レ 襲二 八島一 ︒修二 船攝海濱一 ︒平三景時爲二 軍監一 ︒進レ 策曰︑請設二 逆艣一 ︒廷尉曰︒逆艣何︒平三曰︒陸馬之用︒進退如意︒至二於戰艦一 ︒進不レ 克レ 退︒退不レ 克レ 進︒今常艣之外︒交二 互逆者一 ︒設二之舳艫一 ︒前却自便︒廷尉曰︒軍令有レ 進無レ 退︒猶恐難レ 驅︒況預視二逃方一 ︒奚可︒今日治兵之初︒聞二 此不祥一 ︒逆倒千萬︒於二 卿等一 任レ 意︒於レ 我無レ 用︒平三起レ 色曰︒見レ 可而進︒知レ 難而退︒是爲二 良將一 ︒
若レ 公豬武耳︒廷尉曰︒豬乎不レ 知︒軍唯奮擊克勝︒莫レ 快二 於是一 ①︒
︹書き下し文︺
源廷尉 將に八島を襲はんとす︒船を攝の海濱に修す︒平三景時 軍
監たり︒策を進めて曰く︑﹁請ふ逆艣を設けん﹂と︒廷尉曰く︑﹁逆
艣とは何ぞや﹂と︒平三曰く︑﹁陸馬の用は︑進退如意なり︒戰艦
に至りては︑進みて退くことを克 よくせず︑退きて進むことを克 よくせず︒今 常艣の外に︑逆なる者を交互して︑之を舳艫に設けば︑前却する こと自 おのづから便なり﹂と︒廷尉曰く︑﹁軍令に進むこと有るも退くこと無 し︒猶ほ恐らくは驅り難し︒況や預 あらかじめ逃ぐる方を視 しめすは︑奚ぞ可なら
んや︒今日治兵の初め︑此の不祥を聞く︒逆倒千萬︑卿等に於いては
意に任せよ︒我に於いては用ふること無し﹂と︒平三 色を起こして 曰く︑﹁可を見て進み︑難を知りて退く︑是れを良將と爲す︒公の若 ごと
きは豬武のみ﹂と︒廷尉曰く︑﹁豬かは知らず︒軍 いくさは唯だ奮擊して克
く勝つ︑是れより快なるは莫し﹂と︒
︹訳文︺
源廷尉は屋島を襲撃しようとしていた︒そこで︑船を摂津の海辺で修
理していた︒平三景時は軍監の職にあり︑策を献じて言うことには︑
﹁どうか船に逆櫓を設けてください﹂と︒廷尉は﹁逆櫓とは何である
か﹂と聞いた︒平三が言った︑﹁陸上において兵馬を操るなら︑進む
も退くも思うがままです︒しかし︑軍船となると︑前進すると容易に
後退できず︑後退すると容易に前進することが出来ません︒もし通常
一五﹃大東世語﹄﹁豪爽﹂篇 注釈稿︵堀・松本・雨宮・橋本・上原・菅本・橘・丹治・岸川・石本・趙︶ の櫓のほかに︑逆さ向きの櫓を交互に船尾と船首に設けてやれば︑前
進も後退も自在になります﹂と︒廷尉は﹁軍の命令には︑前進はあっ
ても後退はない︒それでも兵士を駆りたて進軍させるのは難しい︒ま
して︑あらかじめ逃げる方法を示すことなど︑どうして認められよう
か︒今日の出陣にあたって︑このような縁起の悪いことを聞いてし
まった︒戦の常道にまったくもって反するものだ︒あなた達は自分の
意に任せなさい︒私には無用のものだ﹂と言った︒平三が色をなして
言うことには︑﹁機を見て進軍し︑難を見抜いて退く︑これが良い将
軍というものです︒あなたのような人は︑向こう見ずな猪武者に他な
りません﹂と︒廷尉は﹁猪かどうかは知らない︒いくさではただ力を
奮って敵と戦い打ち破る︑これに勝る痛快さは無い﹂と答えた︒
︹原注︺
①廷尉將レ 發レ 船︒其日大風︒船人不レ 可︒廷尉怒曰︑兵法擊二 敵不 虞一 ︒今日彼無レ 備必矣︒謂レ 不レ 可斬︒船人懼相謂曰︒發亦死︒不レ發亦死︒齊死不レ 如二 馳死一 ︒乃發︒集レ 船本五百艘︒發者唯五艘而已︒
人不レ 滿レ 百︒海上三日程︑未レ 過二 三時一 得レ 渡︒遂襲二 八島一 大勝︒
︹書き下し文︺
①廷尉將に船を發せんとす︒其の日 大風なり︒船人可 よしとせず︒
廷尉怒りて曰く︑﹁兵法に敵の不虞を擊つといふ︒今日 彼 備へ
の無きこと必せり︒可 よしとせざると謂ふは斬らん﹂と︒船人懼れて
相謂ひて曰く︑﹁發せば亦た死す︑發せざるも亦た死す︒齊しく死
なば馳死に如かず﹂と︒乃ち發す︒船を集むること本は五百艘なり︒ 發する者は唯だ五艘のみ︒人 百に滿たず︒海上 三日の程なるも︑
未だ三時を過ぎざるに渡るを得たり︒遂に八島を襲ひて大勝せり︒
︹訳文︺
廷尉は今にも船を出発させようとした︒その日は大風であり︑船人
達は船出を承知しなかった︒廷尉は怒って言った︑﹁兵法に︑敵の
備えのない時に攻撃をかける︑とある︒今日のような日は︑平氏は
必ずや油断して何の備えもしていない︒言うことを聞かない者は斬
る﹂と︒船人は恐れおののき︑﹁舟を出せば死ぬし︑出発しなくて
も死ぬ︒同じく死ぬのならば敵に向かって船をこいで死んだ方が良
い﹂と言って︑出発することになった︒もともと船を五百隻集めた
が︑出発したのは五隻のみで︑人員は百名に満たなかった︒屋島ま
では船で三日の行程だったが︑未だ六時間も経たないうちに渡りき
ることができた︒かくして屋島を襲撃し︑大勝をおさめた︒
︹語釈︺
源廷尉 一一五八〜一一八九︒源義経︒廷尉は検非違使の佐の唐名︒
源義朝の子︒兄である源頼朝の武将として戦い︑源義仲追討︑
平氏滅亡に貢献︒後に頼朝と不仲になり︑奥州藤原氏をたよる
も︑藤原泰衡に襲われて自殺︒
八島 屋島を言う︒文治元年︵一一八五︶二月︑源平の合戦が行われた︒攝 摂津のこと︒現在の兵庫県南東部と大阪府北西部にあたる︒
平三景時 梶原景時︒平三は通称︒梶原景清の子︒石橋山の戦いで源
頼朝の窮地を救い︑信任される︒頼朝の死後︑討伐を受けて戦
一六﹃大東世語﹄﹁豪爽﹂篇 注釈稿︵堀・松本・雨宮・橋本・上原・菅本・橘・丹治・岸川・石本・趙︶
死︒
軍監 軍事の監督役︒監軍︒ 逆艣 通常のものとは逆向きにつけた櫓︒ 舳艫 船尾と船首︒ 前却 前進と後退︒ 軍令 軍中の命令︑また軍律︒ここでは前者の意だと考えられる︒ 治兵 軍隊を調練すること︒出陣に際して兵士が勢揃いすること︒ま
た︑軍隊の装備や人員を整えることを指す︒ここでは︑出陣に
際して兵士が勢揃いするの意でとった︒
逆倒 逆らうこと︑道理にそむくこと︒ 豬武 向こう見ずの武勇︒また︑その人︒ 奮擊 力をふるって敵をうつこと︒ 克勝 勝ちがたき相手に勝つこと︒ 齊死 一様に死ぬ︒同じく死ぬ︒ 馳死 敵にむかって船を漕ぎつけて死ぬ意か︒ 三時 六時間︒一時は二時間︒ 兵法擊敵不虞 ﹃孫子﹄﹁謀攻篇﹂に﹁以虞待不虞者︑勝︵虞を以て不
虞を待つ者は︑勝つ︶﹂とあるのに依拠するものと考えられる︒
﹁兵法﹂とは︑所謂孫子兵法を指すのであろう︒﹁虞﹂は備え︑
準備の意︒
今日彼無備必 この一文も﹃孫子﹄﹁計篇﹂に﹁攻其無備︑出其不意
︵其の無備を攻め︑其の不意に出づ︶﹂とあるのに依拠すると考 えられる︒
︹典拠︺
﹃平家物語﹄巻第十一﹁逆櫓﹂︒
︵橘 和久︶
︹
豪爽12 ︺
承久之變①︒京師︒有下 討二 鎌倉一 之議上 ︒平義時逆先興レ 甲︒使二子泰時將西上一 ︒父曰︒朝廷不明︒讒構無レ 極︒汝盡レ 敵而歸︒不レ 克死レ 之︒勿レ 望三 復見二 我面一 ︒既發︒明日泰時獨騎馳返︒問曰︒軍政進 退︒謹已領レ 命︒若或一有二 六軍親征一 ︒不レ 圖途遇二 啓行一 ︒如何處置︒ 父默思良久曰︒善乎汝問︒君不レ 可レ 抗︒萬一有レ 爾︒汝唯當三 脫レ 冑 斷レ 弦︒歸二 命司敗一 耳︒不レ 爾︒徒有下 長安輕薄兒輩妄藉二 天威一 以來上 ︒ 殺レ 千至レ 一︒戰殲無レ 退︒
︹書き下し文︺
承久の變に︑京師して︑鎌倉を討するの議有り︒平義時逆 あらかじめ先
づ甲を興す︒子の泰時をして將として西上せしむ︒父曰く︑﹁朝廷は
不明なり︑讒構極まり無し︒汝 敵を盡くして歸れ︒克 かたずんば之に
死ね︒復た我が面を見ることを望むこと勿かれ﹂と︒既に發す︒明日 泰時 獨騎もて馳せて返り︑問ひて曰く︑﹁軍政の進退は︑謹みて已
に命を領す︒若し或いは一も六軍の親征すること有りて︑圖らざるに
途に啓行に遇はば︑如 いかん何が處置せん﹂と︒父 默思すること良 やや久し くして曰く︑﹁善きかな汝の問ひは︒君には抗すべからず︒萬一 爾 しか
一七﹃大東世語﹄﹁豪爽﹂篇 注釈稿︵堀・松本・雨宮・橋本・上原・菅本・橘・丹治・岸川・石本・趙︶ ること有らば︑汝唯だ當に冑を脫し弦を斷ちて︑命を司敗に歸すべき
のみ︒爾らずして︑徒だ長安の輕薄の兒輩妄に天威に藉りて以て來る
こと有らば︑千を殺して一に至るまで︑戰ひ殲くして退くこと無かれ﹂
と︒
︹訳文︺
承久の変の際に︑都では激しくさわぎ立てて︑鎌倉幕府を討伐しよう
という謀議が起こった︒平義時︵北条義時︶はそれを見越して真っ先
に兵を集めた︒︵義時は︶息子の泰時を大将として西のかた都に上ら
せることにした︒父が言うことには︑﹁朝廷は道義を欠いて︑人を罪
に落とすこと甚だしい︒お前は敵を掃討して帰ってこい︒勝てなけれ
ばこの戦いに命を捨てて︑再び私の顔を見ることを望むことのないよ
うに﹂と︒すぐさま︵泰時は︶出発した︒翌日泰時は単騎馳せ帰り︑
︵父に︶尋ねて︑﹁戦に関する進退の措置は︑謹んですでにご命令を承
知しております︒もし仮に朝廷軍を上皇自らが率いてくるということ
があって︑予期せず道中でそのさきばらいに行き会ってしまったなら
ば︑どのように処置したらよいのでしょうか﹂と言った︒父はしばら
く黙って思案してから次のように言った︑﹁よいものだ︑お前のその
問いは︒上皇には反抗してはいけない︒万一そのようなことがあった
ならば︑お前はただ冑を脱ぎ弓の弦を断ち切って︑命を刑罰を掌る官
に任せるだけだ︒そうではなくて︑ただ都の軽佻浮薄な輩が分別もな
く上皇の威光を笠に着てやってきたならば︑千人を殺して最後の一兵
に至るまで︑戦いつくし兵を退いてはならない﹂と︒ ︹原注︺
①承久中︒元曆上皇︒躁而好レ 勇︒專聽二 政事一 ︒上垂拱而已︒鎌倉 北條時執權︒天下大小事︒在二 其掌握一 ︒上皇多不レ 得レ 縱焉︒漸積二猜忌一 ︒乃欲下 滅二 北條氏一 ︒收中 其權制上 ︒
︹書き下し文︺
①承久中︑元曆上皇は︑躁にして勇を好み︑專ら政事を聽き︑上は
垂拱するのみ︒鎌倉の北條は時に執權たり︑天下の大小の事は︑其
の掌握に在り︒上皇は多く縱いままにするを得ず︒漸く猜忌を積め
ば︑乃ち北條氏を滅ぼして︑其の權制を收めんと欲す︒
︹訳文︺
①承久年間のこと︑元暦上皇︵後鳥羽上皇︶は︑せっかちで武勇を
好み︑ほしいままに政務を執り行っていたので︑天皇は上皇のなす
がままに任せていた︒その時︑鎌倉の北条氏は執権の職にあり︑天
下の大事から小事に至るまで︑掌握していた︒上皇は思い通りに行
えないことが多かった︒その妬みが次第に積み重なっていったの
で︑︵上皇は︶北条氏を滅ぼして︑その権力を手中に収めようとし
た︒
︹語釈︺
承久之變 承久の乱のこと︒承久三年︵一二二一︶︑後鳥羽上皇が討
幕のために北条義時追討の宣旨を発したことから起こった戦
乱︒結果としては︑朝廷軍は幕府軍によって一戦のもとに敗れ︑
後鳥羽上皇は隠岐へ配流となった︒
一八﹃大東世語﹄﹁豪爽﹂篇 注釈稿︵堀・松本・雨宮・橋本・上原・菅本・橘・丹治・岸川・石本・趙︶
やかましく言い合うさま︒ 平義時 北条義時︒一一六三〜一二二四︒鎌倉幕府の執権︒父は時政︒
後鳥羽上皇によって義時追討の宣旨が発せられると︑義時は都
進撃の軍を整え︑嫡子泰時を大将︑弟時房を副将として東海・
東山・北陸の三道から軍を進ませ︑都を制圧させた︒この勝利
によって幕府は威力を確立し︑その勢は全国に及ぶようになっ
た︒
泰時 北条泰時︒一一八三〜一二四二︒鎌倉幕府の執権︒父は義時︒
承久の乱には︑叔父時房とともに幕府軍第一陣として東海道よ
り進撃し︑朝廷軍を破って都に入った︒乱後の処理のために時
房とともに六波羅に駐留して︑六波羅探題の任に就いた︒
讒構 讒言して︑無いことを作り上げること︒ 六軍 天子の軍︒一軍は一万二千五百人︒ 親征 天子が自ら征伐すること︒ 啓行 みちをひらくこと︒さきばらいすること︒ 司敗 官名︒刑罰を掌る︒春秋時代︑陳と楚では司寇を司敗と呼んだ
のによる︒
天威 天子の威光︒ 元曆上皇 後鳥羽上皇︒一一八〇〜一二三九︒元暦は後鳥羽天皇朝の
年号︒建久九年︵一一九八︶土御門天皇に譲位して院政を始め
た︒躁 せっかちで落ち着きがないこと︒ 垂拱 手をこまねいていて︑何事もしないこと︒
漸積 次第に積み重なること︒ 猜忌 疑いねたむこと︒
︹典拠︺
﹃増鏡﹄第二﹁新島守﹂︒
︵丹治 麻里子︶
︹
豪爽13 ︺
承久之亂︒鎌倉檄二 諸州一 發レ 兵向レ 都︒甲人武田五郎①將レ 發︒或曰︒ 此日凶︒宜二 擇レ 吉而行一 ︒問何謂レ 凶︒曰︒是謂二 十死一生一 ︒武田曰︒ 擐レ 甲執レ 兵︒固卽レ 死也︒且出レ 軍以二 喪禮一 處レ 之︒是於レ 我吉日耳︒乃發︒
︹書き下し文︺
承久の亂に︑鎌倉 諸州を檄して兵を發して都に向 すすむ︒甲人武田五郎 將に發せんとす︒或るひと曰く︑﹁此の日 凶なり︒宜しく吉を 擇びて行くべし﹂と︒問ふ︑﹁何をか凶と謂はん﹂と︒曰く︑﹁是れ十死一生と謂ふ﹂と︒武田曰く︑﹁甲を擐 つらぬきて兵を執るは︑固より死に
卽 つくなり︒且つ軍を出すに喪禮を以て之を處す︒是れ我に於いて吉日
のみ﹂と︒乃ち發す︒
︹訳文︺
承久の乱の際に︑鎌倉が諸州に檄を飛ばして兵を起こし都に向かわせ
た︒甲斐の武田五郎︵武田信光︶は︑兵を進発しようとした︒ある者
一九﹃大東世語﹄﹁豪爽﹂篇 注釈稿︵堀・松本・雨宮・橋本・上原・菅本・橘・丹治・岸川・石本・趙︶ が言うことには︑﹁この日は凶です︒吉日を選んで向かうべきです﹂
と︒武田が︑﹁どうして凶というのか﹂と聞くと︑その者は﹁十死一
生の日というからです﹂と答えた︒武田は︑﹁鎧に身をつつみ武器を
持つということは︑もともと死にいくようなものである︒かつ︑軍を
出すには喪儀の礼法で対処するのである︒だからこの日は私にとって
吉日にほかならない﹂と言って︑兵を起こした︒
︹原注︺
伊豆守信光︒
︹書き下し文︺
伊豆守信光なり︒
︹訳文︺
伊豆守武田信光である︒
︹語釈︺
承久之亂 承久三年︵一二二一︶に︑後鳥羽上皇らが鎌倉幕府打倒の
ためにおこしたクーデター︒北条義時を中心とする幕府軍に鎮
圧された︒︹豪爽
檄 軍書を発する︒ 12︺︹語釈︺﹁承久之變﹂参照︒ 甲人 甲斐の人︒ 武田五郎 武田信光︒一一六二〜一二四八︒鎌倉前期の武将︒甲斐源
氏︒石和︵伊沢︶五郎と称する︒治承四年︵一一八〇︶父の信
義らと共に駿河に挙兵し︑文治五年︵一一八九︶安芸国守護と
して国内の武士を召集し︑頼朝の奥州進出に参加︒その後︑こ の職からは離れることとなったが︑承久の乱で東山道の大将軍
として活躍し︑再び同国の守護職に就いた︒
十死一生 陰陽道の説で︑挙兵しても生還の見込みがない大凶日をい
う︒
擐甲執兵︒固卽死也 ﹃春秋左氏伝﹄成公二年に出典する字句︒﹁擐兵﹂
は︑鎧を着る︑甲冑をつける︒﹁擐﹂は︑つらぬく︑身にまと
う意︒﹁執兵﹂は︑兵器を手に執る︒﹁卽死﹂は︑ここでは﹁死
に即 つく﹂︑死におもむく意︒ 喪禮 葬式または喪に居る礼法︒
︹典拠︺
﹃承久記﹄巻上︒
︵雨宮 紗希︶
︹
豪爽14 ︺
陸原武士︑拘二 囚藤亞相爲兼一 以去①︒藤資朝②在レ 路見レ 之曰︒大丈 夫乃至レ 如レ 斯︒志願足矣︒︹書き下し文︺
陸原の武士︑藤亞相爲兼を拘囚して以て去る︒藤資朝 路に在りて之 を見て曰く︑﹁大丈夫乃ち斯 かくの如きに至る︒志願足んぬ﹂と︒
︹訳文︺
六波羅の武士は︑藤原為兼を捕らえて連れて行った︒藤原資朝は路上
でこの様子を見て︑﹁男 おのこ子たるものがこうした最後に至ったのは︑本
二〇﹃大東世語﹄﹁豪爽﹂篇 注釈稿︵堀・松本・雨宮・橋本・上原・菅本・橘・丹治・岸川・石本・趙︶
望そのものだろう﹂と言った︒
︹原注︺
①京極中將爲敎之子︒官大納言︒永仁中有下 告二 爲兼謀反一 者上 ︒陸 原者︒北條氏所レ 置︒更遣二 親兄弟二人一 ︒護二 衛京師一 ︒
②日野大納言俊光次子︒中納言︒
︹書き下し文︺
①京極中將爲敎の子︒官は大納言︒永仁中 爲兼の謀反を告ぐる者 有り︒陸原は︑北條氏が置く所なり︒更 つぎて親兄弟二人を遣はし︑
京師を護衛す︒
②日野大納言俊光の次子︒中納言︒
︹訳文︺
①京極中将為教の子︒大納言の官にあった︒永仁年間に︑為兼は謀
反を企てていると密告する者があった︒六波羅探題は︑北条氏が設
置し︑執権の肉親である兄弟二人を派遣し︑京を護衛した︒
②日野大納言俊光の次男で︑中納言であった︒
︹語釈︺
陸原 六原︒六波羅探題をさす︒六波羅探題は鎌倉幕府が京都の六波
羅に置いた機関及びその長をいう︒承久の乱ののちに朝廷︑京
の監視︑警備の目的で北条氏が乱後の処理などにあたったこと
が起源で︑北方と南方を置いた︒六波羅探題の職務はおもに治
安維持︑朝廷との交渉︑西国に関する裁判であった︒
爲兼 京極為兼︒一二五四〜一三三二︒鎌倉時代後期の歌人︒為教の 子︒康元元年︵一二五六︶叙爵︑侍従・右少将を経て建治元年
︵一二七五︶左少将︑弘安元年︵一二七八︶正四位下に至り︑
延慶三年︵一三一〇︶権大納言に至る︒応長元年には権大納言
を辞し︑正和二年伏見上皇の出家に殉じ出家した︒法名は蓮覚︑
のち静覚︒一七の頃より祖父である藤原為家につき歌道を学
び︑弘安一〇年︵一二八七︶ごろからは伏見天皇らに和歌を指
導し︑京極派歌壇をなした︒院宣を受け︑正和元年︵一三一二︶
には﹃玉葉和歌集﹄を撰集した︒同四年︑一門を率いて奈良で
奉納した歌と鞠が派手であったため反感を買い︑翌五年土佐に
流された︒この段はその件についての記事であると思われる︒
晩年は河内に帰った︒
爲敎 京極為教︒一二二七〜七九︒鎌倉時代中期の歌人︒京極家の祖︒
藤原︵御子左︶為家の次男︒非参議従二位︒
永仁 伏見︑後伏見天皇の治世の年号︒一二九三〜九九︒正応六年八
月五日︑天変により改元された︒
資朝 日野資朝︒一二九〇〜一三三二︒鎌倉時代後期の公卿︒権大納
言正二位日野俊光の子︒
俊光 藤原俊光︒前権中納言︒花園天皇の年号である﹁延慶﹂の改元
について勘申した︒
大丈夫乃至如斯 ﹃史記﹄巻八高祖本紀にある︑劉邦が始皇帝の行列
を実際に目にして発した﹁大丈夫當如此也﹂を踏まえた表現か︒
﹁大丈夫﹂は立派な人物をさす︒
二一﹃大東世語﹄﹁豪爽﹂篇 注釈稿︵堀・松本・雨宮・橋本・上原・菅本・橘・丹治・岸川・石本・趙︶ ︹典拠︺
﹃徒然草﹄第一五三段︒
︵橋本 麻美︶