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司法の概念についての覚書き

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司法の概念についての覚書き

渋 谷 秀 樹

                                   

は じ め に

!

統治権の意味

"

国家作用の定義

#

司法の定義

$

司法の定義への展望 むすびにかえて

は じ め に

司法の概念1)を明確にするためにはどのようなアプローチ方法をとるべきな

1) 司法の定義・概念については,宮沢俊義「司法作用の概念」(同『憲法と裁判』〔有斐 閣,1967 年〕所収 27 頁〔以下引用頁数は本書による〕,初出・警察研究%巻!号〔1936 年〕),佐藤幸治「現代国家と司法権」(同『現代国家と司法権』〔有斐閣,1988 年〕所収

#頁〔以下引用頁数は本書による〕,初出・法曹時報 38 巻&号,10 号,39 巻!号,$号

〔1986 年〜1987 年〕),中村睦男「司法権の観念と裁判所の構成」法学教室 81 号'頁

(1987 年),中谷実「司法権の観念」法学教室 121 号 104 頁(1990 年),宇都宮純一「『司 法権の観念』論」法学 57 巻'号!頁(1994 年),高橋和之「司法の観念」(同『現代立 憲主義の制度構想』〔有斐閣,2006 年〕)〔以下引用頁数は本書による〕141 頁,初出・樋 口陽一編『講座憲法学第'巻――権力の分立(2)』〔日本評論社,1995 年〕),長尾一紘

「司法権の観念について」法学教室 223 号$頁(1999 年),野中俊彦「司法の観念につい ての覚書き」杉原泰雄先生古稀記念『二一世紀の立憲主義』425 頁(勁草書房,2000 年), 野坂泰司「憲法と司法権」法学教室 246 号 42 頁(2001 年),中川丈久「立法権・行政 権・司法権の概念の序論的考察」小早川光郎 = 宇賀克也編・塩野宏先生古稀記念『行政 法の発展と変革』331 頁(有斐閣,2001 年),高見勝利「『司法権』の概念」法学教室 257 号 68 頁(2002 年),長谷部恭男「司法権の概念と裁判のあり方」ジュリスト 1222 号 140 頁(2002 年),野中俊彦「憲法上の『司法』観念とその展開」藤田宙靖 = 高橋和之 編・樋口陽一先生古稀記念『憲法論集』201 頁(創文社,2004 年)。

(2)

のであろうか。ここでいう司法とは,司法作用のことであり,とりあえずは客 観的意味の司法ということにしておこう2)。もっとも,司法作用も国家作用の 一部であり,司法作用をなす権能,すなわち司法権も統治権の一部を構成する 以上,国家作用とは,そして統治権とはそもそも何かということからアプロー チすべきことになる。

ところで,現実に存在する国家作用は,理論的に国家作用を確定した上で,

定義されたものでは無論ない。このことが象徴するように,国家作用の定義,

そしてその一部たる司法作用の定義については,大きく分けて,理論的アプロ ーチと,歴史的(経験的)アプローチがあること,そして現在提示されている 学説も,大きく分けて両者のアプローチが交錯していることをまず自覚しなけ ればならない。本稿は,「司法」という概念を説明するこれまでの理論をその 考察対象とし,このような自覚に基づいて分析する端緒となる覚書きである3)。 なお,国家作用の形式的定義というとらえ方4)も従来から存在する。ここでい う形式的定義とは,国家の組織に着目した定義手法である。例えば,形式的意 味の司法といえば,司法部,すなわち裁判所に属する権能を表すことになる。

2) ここであえて「とりあえず客観的意味の司法」としたのは,従来の一般的なとらえ方 である「実質的意味の司法」という把握方法自体が!つの論点であるからである。とり わけ,これに対置される「形式的意味の司法」が何かについては後に見るように理論的 混乱がある。

3) 本稿は,渋谷秀樹『憲法』(有斐閣,2007 年)の各編各章において,すでに論じたと ころをベースにして,さらに考察を進めたものである。したがって,その内容について,

これと重複するところがある点について,ここであらかじめ断っておきたい。ただ,筆 者としては,『憲法』を限られた時間の中で執筆した過程で,必ずしも論じきれなかった ところ,考察し切れなかったところを,少しでも先に進めたいがために本稿を執筆した ので,あえて「覚書き」とした。なお,司法の概念を直接正面から定義する判例はない が,司法の概念をめぐる判例はあるので,これについての分析は,後日を期したい。

4) 形式的定義については,渋谷秀樹 = 赤坂正浩『憲法" 統治』229 頁以下(第#版,

有斐閣,2007 年)参照。なお,美濃部達吉『憲法撮要』(改訂第(版,有斐閣,1934 年)

も,「我ガ憲法ニ於ケル立法権及司法権ノ観念ガ単純ナル形式的観念トシテ,議会ノ協賛 ヲ以テ行ハルルモノヲ立法権と称シ,裁判所ガ天皇ノ名ニ於テ行フモノヲ司法権ト称ス ルニ止マルモノニ非ザルコトハ,憲法ノ規定ノ趣旨ヨリ見テ更ニ疑ヲ容レズ」(449 頁)

とするが,これもここでいう形式的定義である。

(3)

このような定義は,当該国家組織がなすべき職務は何かということの帰結であ るから,むしろ主観的定義というべきものであり,歴史的(経験的)アプロー チのひとつの到達点ともいうことができる。

! 統治権の意味

統治権という用語とともに,国権という用語がある。統治権を分析するため に,まず両者の分析をしてみよう。

統治権と国権

統治権とは,具体的には立法・行政・司法に分けられる国家権力を総称した 概念とされる5)。ところが,統治権は国家の不可欠の要素であるから,国家が 成立し,またそれと同時に固有の意味の憲法が成立したという見地からすると,

近代政治思想において主張された国家作用の分離・分割が制度として定着して いる現在において,この思想が統治作用を分析して得たところの立法・行政・

司法の各作用をもってその概念を説明するのは,この思想自体が,現実の制度,

すなわちそれまでの歴史的経験の結果に依存しているという循環論法に陥るも のであり統治権そのものの説明となってはいない。

国権を国家の単一不可分の意思力ととらえて統治権と区別する国家法人説は,

統治権を一定の土地と人を支配する力とし,その実体は国法(国内法)と国際 法によって認められた国家の権利の集合(Herrschaftsrechte oder alle Rechte der Staatsgewalt)ととらえる6)。他方,国権を国家の意思力としつつ,それが統治 という目的に向かって発動される場合の,この国権発動自体を統治権ととらえ る考え方もある7)。前者の立場からすると統治権は命令的・支配的に作用する が可分のものとされ,後者の立場からすると統治権は必ずしも命令的・支配的 なものに限定されないが単一不可分なものとされる。

現在では,統治権と国権を同視し,その内容を国内法と国際法によって認め

5) 芦部信喜『憲法学Ⅰ 憲法総論』156 頁(有斐閣,1992 年)参照。

6) 美濃部達吉『改訂憲法撮要』29 頁以下(有斐閣,1946 年)。

7) 佐々木惣一『改訂日本国憲法論』169 頁以下(有斐閣,1952 年)。

(4)

られた諸権利と解するのが一般的となった。国家を擬人化して,その意思の不 可分性をいうのは,国家の本質を法人ととらえる国家法人説の論理的帰結の

!

つではあるが,両説ともこの呪縛から解放されていない。権力分立原理を採用 すると,例えば,国会が合憲として定立した法律を裁判所が違憲と判断する可 能性を認めることになるので,現実には国家意思の分裂はありうる。国家意思 の単一不可分性という考え方は,君主制国家時代の観念に凝り固まった妄想8) にすぎないことがわかろう。違憲審査権が立法部の産物である法律を対象とす ることが世界的に普遍化されつつある現在社会においては,国家意思の分裂を どのように統一するかという制度設計こそ問題とすべき段階となっている。と すれば,国権と統治権を峻別する実益はもはやないといってよい。憲法 41 条 にある「国権」も前者の意味での統治権と同義と解するのが通説であり,ここ では統治権の内容の解明に関心は向けられるべきである。

統治権への形式的アプローチ

統治権を以上のように理解すると,その具体的内容は国内法と国際法によっ て定まり,国によっても,また時代によっても異なることとなる。ただし,外 形的な共通項をあげれば,その基本的能力として①権限高権(自主組織権),② 領土高権(領土主権,領域高権),③対人高権(対人主権)の#

種が含まれるこ

とになる。

権限高権とは,国家の統治権を現実に行使する政府の組織とその権限を定め る権利であり,成文憲法が組織規範および授権規範とされることは,憲法が政

府とその統治活動の基本ルールを定める法であるということと符合している。

領土高権は,国家が一定の空間(領土・領海・領空=領域)を基礎として存在 し,その中にあるすべての人と物を排他的に支配する権利である。その領域内 にいる外国人にもこの権利は及ぶが,治外法権など国際法による例外はある。

対人高権とは,国家がその支配する空間の内外を問わず,その所属員たる国

(=国籍保有者)を支配する権利である。外国の領域内にある自国民に対す

8) あるいはルソー(Jean-Jacques Rousseau)の思想に端を発するフランス憲法学説を 絶対的なモデルとする,一部の論者の妄想といえるかもしれない。

(5)

るこの権利の行使は,当該外国政府の領土高権によって制約を受け,犯罪人引 渡条約など国際法によって認められた,また当該政府の承認を受けた限度内で のみ行使できる。

領土高権と対人高権は,上記のような支配権であるが,その行使のあり方を 定めるのが憲法なのである。

以上のことについて,筆者は別著で,「統治権の基本的内容」として叙述し た9)。このようなとらえ方は主観的定義では無論なく,客観的定義ではあるが,

さらに定義へのアプローチ方法という観点からみると,何を何のために行うか という意味における,統治権の実質的とらえ方ではなく,外形的な特質を分析 しようとするものである。このようなとらえ方を,本来の意味での形式的アプ ローチ10)とするのが分析方法としては正確である。

" 国家作用の定義

次に,統治権をもつ政府の活動,すなわち従来,国家作用ととらえられてい たもののうち客観的定義と理解すべきものをみてみよう。ここでは,その定義 が国家作用の外形的な特徴と同時に,国家の目的論と密接に結び付いているこ とに注意する必要がある。そして,立憲主義を採用する憲法の下での国家作用 として,近代立憲主義の基礎となった古典的な理解を出発点としている。その 代表的論者は,周知のごとく,ジョン・ロック(John Locke)とモンテスキュ ー(Charles-Louis de Montesquieu)である。両者は,それぞれ以下のように論 じている。

ジョン・ロックとモンテスキューの定義

ジョン・ロックの定義

ジョン・ロックによれば,国家の目的は個人の自由と財産の確保にあり,こ の目的達成のために,自然状態において各人が自然法を解釈し執行したのと異

9) 渋谷・前掲書注 3)12 頁参照。

10) 形式的定義と形式的アプローチとはレベルの違うものである点に注意されたい。繰り 返しとなるが,形式的アプローチも客観的定義方法における一手法なのである。

(6)

なり,国家は,その権力によって自然法を解釈してその意味を確定する作用と,

確定された法を実際の事件に適用し,具体化する作用を営む必要があるとする。

そして,主著『市民政

二論(Two Treaties of Civil Government)』(1690 年)の 中で,国家権力を立法権(legislative power)と執行権(executive power)に分 け,さらに執行権から連合権(同盟権,federative power)を分けて,立法権は 議会に,執行権と連合権は君主に託されるとする。近代自然法(自然権)思想 の唱道者のロックは,立法権を自然法の意味内容を確定して一般的法規範を定 立する一時的作用であるが,他の権力に優越する国家最高の権力であるとする。

そして,執行権は法律の不断の執行を確保する継続的作用であり常設の機関を 必要とする。連合権は外政についての権力であるが,変転する国際政治に対応 する必要があるので,立法権の定める一般的法規範に拘束されない自由裁量行 為である。この点で執行権と区別される。内政と外交を異なる方針で行うわけ にはいかないから,この権力を執行権の担当者以外に委ねることはできないと するのである。

モンテスキューの定義

モンテスキューは,主著『法の精神(De LʼEsprits des Lois)』(1748 年)の中 で,すべての国家には,立法権(puissance législative),万民法に関する事項の 執行権(puissance exécutrice des chosesqui dependent dudroit des gens)および 市民法に関する事項の執行権(puissance exécutrice des choses qui dependent du droit civil)があるとする。立法権は,法を作り,作られた法を改正し,または 廃止する権力である。合理主義者であるモンテスキューは,理性の優位を信奉 し理性の産物たる法律を上位に置くのである。それに,広義の執行権が対置さ れるが,万民法に関する事項の執行権,つまり狭義の執行権は,当初,ロック の連合権の定義の影響を受けて,「講和または戦争をなし,大使を派遣接受し,

治安を保持し,侵入に備える」権力とした。しかし,後に「公の議決を執行す る権力」とする。ロックと同じく基本的に立法と執行の区別を出発点とするが,

執行行為の特質を法律の意味するところを具体的事案に実行する現実の行為と した点に特色がある。市民法に関する事項の執行権は,民事・刑事の裁判権を

(7)

さし,犯罪人を処罰しまたは個人の争訟を裁判する権力とする。

裁判の本質は一般的抽象的な法律を具体的事件にそのまま適用して法律の意 味を宣言するところにあるとし,狭義の執行権と異なる特質として,法律との 関係においてその内容がすべて法律によって定められ,純粋に法的作用である 点にあるとする。裁判判決は「法の正文untexte précis de la loi)」以外のもの ではありえず,裁判官は「法の言葉を述べる口(la bouche qui pronounce les paroles de la loi)」であり,「法の力や厳格さを緩和できない無生物」であると する。機械的な裁判観が示されているのである。

ジョン・ロックとモンテスキューの定義の限界

ロックとモンテスキューは,いずれも自然権思想およびそれを前提とする社 会契約論に基礎付けられた理論的定義のようにみえる。しかし,両者は,それ ぞれ当時の先進国であったイギリスまたはフランスの現実政治を想定した上で 展開されたものであり,それゆえに理論的定義を装っているものの,経験的定 義であったということにも注目しなければならない。

さらに,これらの定義は,果たして実質的定義と呼ぶべきものであろうか。

これらの定義についての従来の学説の見方は,純粋に実質的とらえ方そのもの とするのであろう。しかし,これらは,それぞれの政府機関が行う作用の内容 を語ると同時に,その外形的特質を語っているのではないか。つまり,例えば,

立法を一般的抽象的法規範の定立とし,裁判その他をその執行とするとらえ方 は,そこで行われる作用の内容・実体,すなわち実質は語っていない。それが 外交活動,犯罪人の処罰または個人の争訟の裁判というとき,はじめてその実 質を語ることになるのではないか。

ゲオルグ・イェリネクと美濃部達吉の定義

明治憲法下で日本の憲法学に対して大きな影響力をもったのはゲオルグ・イ ェリネク(George Jellinek)であり,その下に留学し,帰国してからその研究 成果を発表して戦前における通説的地位を保った美濃部達吉であった。そこで,

両者の定義をみてみよう。

ゲオルグ・イェリネクの定義

(8)

ゲオルグ・イェリネクは,19 世紀のドイツ国法学の集大成ともいえる,そ の主著『一般国家学(Allgemeine Staatslehre)』(1900 年)において,国家に は立法,裁判,行政の#つの実質的作用があるとする。立法は,抽象的な,多 数の事例または個別的要件事実をも規律する法規範を定立し,裁判は,個々の 事例について,不確定の,または紛争の対象となっている法または法的状態お よび法的利益を確定し,行政は,法規範に従ってまたはその制限内で,さらに 詳細な研究によって複雑多岐な体系をなしていることが判明する手段により,

具体的課題を解決するととらえる。

美濃部達吉の定義

日本においてイェリネクの学説を継承した美濃部達吉は,国家作用を立法,

司法,行政の#

種に区別する。実質的に,立法作用とその他の作用の区別は,

その性質の違いを基準とするもので,前者は,法規を制定する作用とし,後者 は法規の下における作用とする。司法と行政は国家作用の目的の違いを基準と する分類であり,司法は民事・刑事の目的のためにする作用とし,行政はその 他の国家目的のためにする作用とする11)。ここでは,#つの作用の区別は単 一の基準ではなく,"つの基準でなされている点に注目すべきである。

さらに,立法とは,国家が法規を制定する行為をいうが,より具体的には

「国家ノ統治権ニ基キ成文ヲ以テ国家ト人民トノ間ニ司法又ハ行政行為ノ基準 タル定ヲ為シ,又ハ新ナル法的規律ヲ定ムル行為」とする12)。そして,法を 定める行為,つまり「社会生活ニ於ケル人類ノ意思ノ強要的規律」をつくるこ とは,行政行為や司法行為のみならず私法上の法律行為のほか社会的慣習にお いても発生するので,決して立法の定義とはなりえず,また一般抽象的規律を 定めることと具体的権利義務を定めることとの区別も例外的または予想外の事 件に法規を定めることがあるので,これも立法の定義となりえないとする。

司法と行政を上記のように目的から区別し,刑事・民事の目的のための作用 を司法としたが,広義の司法を法規の下において民事・刑事目的のためにする

11) 美濃部・前掲書注 6)385 頁以下。

12) 美濃部・前掲書注 6)397 頁。

(9)

国家の一切の作用とした上で,民事を法政権,刑事を刑罰権の作用として,前 者に非訟事件も含ませ,また後者には犯罪者の捜査・逮捕,そして公訴の提起 など刑事作用全体,つまり刑罰目的の作用を含ませる。そして,狭義の司法を

民事および刑事の裁判とし

13),行政を法規の下において民事および刑事を除 く,他の一般目的のためにする作用とする14)

ゲオルグ・イェリネクと美濃部達吉の定義の特質

ゲオルグ・イェリネクの定義は,実質的作用とはしながらも,その外形的な 特質の詳細化に徹している点に特色がある。とりわけその特色は,立法につい ては必ずしも多数の事例を規律するものではない法規範の定立もありうること を指摘し,裁判と行政について,前者は個々の事例における法的利益等の確定,

後者は具体的課題の解決とし,法規範の適用というところにその本質をみよう とする点にある。

美濃部達吉の定義は,イェリネクの上記の見方を継承し,立法につき,司法 または行政行為の基準を定める15)ととらえ,司法と行政につき,法規のもと における作用とする点にその特色をみることができる。すなわち,ここでは,

「執行」ということが正面にはでてこない。それは,美濃部自身が述べるよう に一般的抽象的法規範の定立とその執行という区別については鮮明にはせず,

個別的具体的法規範の定立も立法の概念に包摂されることを自覚しているから である。

美濃部のこの定義は,当時の公定説16)ともいえる以下のようなとらえ方に 対する批判でもあった。すなわち,当時の公定説は,司法と行政の区別を,そ の目的の点から司法は法の宣告を唯一の目的とするのに対して,行政は実際の 結果を目的とし,また本質の点から司法は法規のみを唯一の標準とし自由裁量 の余地がないのに対して,行政は自由裁量を本質とするとしていた。この,い

13) 美濃部・前掲書注 6)400 頁。

14) 美濃部・前掲書注 6)408 頁。

15) 「新ナル法的規律」とは私人間を規律する私法を想定しているのであろう。

16) 伊藤博文『憲法義解』57 頁(宮沢俊義校注,岩波書店,1940 年)。

(10)

わゆる通説と美濃部説の共通点は,「目的」を定義の中にもちこむところにあ る。これを外形的要素ととらえるか,それとも実質的要素ととらえるかの判別 は困難であるが,主観的な要素を否定することができないので,実質的要素の 色彩がより濃いということができるのではないか。

# 司法の定義

司法の簡潔な定義は,「法律上の争訟を裁判する国家作用」17),あるいは

「具体的な争訟について,法を適用し,宣言することによって,これを裁定す る国家の作用」18)とするものである。さらにこれを敷衍して,「当事者間に,

具体的事件に関する紛争がある場合において,当事者からの争訟の提起を前提 として,独立の裁判所が統治権に基づき,一定の争訟手続によって,紛争解決 の為に,何が法であるかの判断をなし,正しい法の適用を保障する作用」19)と するのが一般的であるといってよい。

以下,司法の概念についての諸説を概観する。

伝統的な司法の定義

清宮四郎の定義

現在,ほとんどすべての憲法の概説書に引用される定義は清宮四郎の「具体 的な争訟について,法を適用し,宣言することによって,これを裁定する国家 の作用」20)というものである。

ここでは,第!に「具体的な争訟」があげられ,これは紛争の具体性が司法 作用の前提とされていることがわかる。これは,一般的には裁判所法#条!項 にいう「法律上の争訟」と同義と解されている。第"に法の適用・宣言があげ られ,第#に紛争の裁定,つまり紛争解決があげられている。

宮沢俊義の定義

17) 宮沢俊義(芦部信喜補訂)『全訂日本国憲法』592 頁(日本評論社,1978 年)。

18) 清宮四郎『憲法Ⅰ』335 頁(第#版,有斐閣,1979 年)。

19) 芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法』320〜321 頁(第$版,岩波書店,2007 年)。

20) 清宮・前掲書注 18)335 頁。例えば,芦部信喜・前掲書注 19)307 頁には,本書を引 用せずに括弧で紹介されている。

(11)

宮沢俊義は,かつて司法概念の歴史性を主張し,理論的概念構成は不可能で あるとした21)。明治憲法下の裁判所構成法"条

!

項が規定した「民事刑事ヲ 裁判スルモノ」を実質的意味の司法とするとらえ方は,歴史的概念構成であり,

先述の美濃部達吉の定義もこの系譜に連なるものである。これに対して,明治 憲法下においても理論的概念構成をする試みもあった。例えば,「権利の侵害 に対し法律の規準に依り之を判断する者」であり,「専ら法律に従属し便益を 斟酌せず」とするものがあった22)

宮沢俊義は,主張に基づく確認と決定を実質的要素とするデュギー(Léon Duguit)の説,この説の中にある確認の性質,つまり法律的真実力(既判力)

を司法作用の核心とするジェーズ(Jéiz)の説を検討した後,争議・争訟状態 が存在することを前提に提訴によって活動せしめられ,確認と決定を要素とし 既判力を有する司法行為によって構成されるとするボナール(Bonnard)の説 を紹介しながらも,この説のあげる諸要素が形式的なるものであることを指摘 して,実質的概念となりえていないとする。そして,作用の分類は実際的必要 性,合目的性に指導された立法政策的見地からなされるとし,歴史的概念構成 のみ可能とするカレ・ド・マルベール(Carré de Malberg)の説を支持するの である23)

しかし,この検証過程には理論的概念と歴史的概念を対比させていたものを 巧妙に実質的概念と形式的概念の対比にすりかえている点に問題があるのでは ないか。つまり,つとに指摘されている24)ように主観的定義という意味でと らえられた形式的定義が,いつの間にか,客観的定義の中での外形的アプロー チに対する批判となっているのである。デュギーの指摘するような形式的(=

外形的)要素をもって理論的概念を構成することはもとより可能であり,現在,

日本における立法の定義としてもっとも有力な一般的法規範説25)は,形式的

21) 宮沢・前掲論文注 1)27 頁。

22) 伊藤・前掲書注 16)93 頁。

23) 宮沢・前掲論文注 1)42 頁。

24) 高橋・前掲論文注 1)143 頁以下参照。

25) 芦部・前掲書注 19)280 頁等。渋谷・前掲書注 3)476 頁以下参照。

(12)

アプローチ,つまり外形的な要素による実質的定義の試みにほかならない。

宮沢俊義は現行憲法 76 条の解釈として,上述の理論的司法概念,すなわち

「法律上の争訟を裁判する国家作用」を提示するが,これは大陸法的司法概念 から英米法的司法概念への政策的転換を前提にした歴史的概念構成ということ になる。しかし,このような司法の概念構成をせざるをえなくなったのは,行 政概念を消極的に構成したことに対応するための必然の帰結といえる。なぜな ら,国家作用の全体から控除される立法作用と司法作用の概念構成が明確でな い限り,行政の概念も明確に設定できないからである。

芦部信喜の定義

芦部信喜は,清宮,宮沢両説を踏まえたうえで,より詳細に以下のような定 義を与え,「当事者間に,具体的事件に関する紛争がある場合において,当事 者からの争訟の提起を前提として,独立の裁判所が統治権に基づき,一定の争 訟手続によって,紛争解決の為に,何が法であるかの判断をなし,正しい法の 適用を保障する作用」26)とする。

ここでは,第!に「具体的事件に関する紛争」つまり紛争の具体性,第"に

「何が法であるかの判断」と「正しい法の適用」つまり法の発見と適用,第#

に「紛争解決」つまり司法作用の目的,第

$

に「争訟の提起を前提」つまり作 用の受動性を指摘する。第$の点は,活動開始の契機について触れたもので,

田中二郎の以下の行政の定義を意識したものと考えられる。すなわち田中二郎 は,行政とは「法の下に法の規制を受けながら,国家目的の積極的実現をめざ して行われる全体として統一性をもった継続的な形成的活動」27)とする。しか し,行政活動は,能動的でも受動的でもありうるのに対して,司法は受動的な 場合に限って活動するという意味で司法の定義として正しいともいえる。第(

に「一定の争訟手続」をあげるが,これは手続の重要性を指摘したもので司法 の活動準則の特色といえる。第

'

に「独立の裁判所」をあげ,これは他の国家 機関からの独立と公正な第三者機関に属すべき作用であることを指摘している。

26) 芦部・前掲書注 19)320〜321 頁。

27) 田中二郎『全訂行政法上巻』(頁(弘文堂,1969 年)。

(13)

つまり帰属機関の性質をあげているのである。

伝統的定義の共通点

伝統的定義の共通点として,司法の定義の中に,権限発動の前提要件として の具体的な紛争の存在,法規範的な観点からの法の宣言と適用という活動様式,

そしてそれを担う組織としての裁判所と,それが行われる手続の特性をあげる ことができる。

新しい定義の試み

佐藤幸治の定義

人格的自律の概念を鍵として憲法全体の把握を試みた佐藤幸治は,以下のよ うに説いている。すなわち,「通説・判例は,司法権とは一般に具体的な争訟 事件について,法を適用し,宣言することによって,これを解決する国家作用

〔であると捉えている。〕……〔その〕根拠は,必ずしも明確ではない。日本国憲 法の『司法権』はアメリカ合衆国流のものであるという認識も関係しているの かもしれない。それはともあれ,〔この〕説のごとく,具体的事件・争訟性を もって司法権の本質的要素と解すべきものと思われる」28)。また,「『司法権』

とは具体的紛争の当事者がそれぞれ自己の権利義務をめぐって理をつくして真 剣に争うことを前提にして,公平な第三者たる裁判所がそれに依拠して行う法 原理的な決定に当事者が拘束されるという構造である」29)とする。

この定義の分析

佐藤幸治の定義は,近代立憲主義の自己決定の原則,すなわち各自の具体的 な権利・義務関係のあり方はそれぞれ自らが決定していくという原則と,デュ ー・プロセスの思想,すなわち各自の権利・義務につき自己が適正に代表され ていない過程によって拘束的に決定されることは不公正であるという思想を背 景とし,直接的には裁判所の先例拘束性の原則に基礎づけられた定義というこ とができる。

この定義は,伝統的な定義にある,司法権の発動要件としての具体的紛争の

28) 佐藤幸治『憲法』293〜294 頁(第#版,青林書院,1995 年)。 29) 佐藤・前掲書注 1)58 頁,佐藤・前掲書注 28)295 頁に同旨。

(14)

存在を個人の人権に基礎付け,さらに他の政府機関とは際立った相違として,

その活動様式としての法原理部門という点を強調した点にある。

しかし,司法は,個人の人格的自律が自覚される前から,つまり,さかのぼ ると人権概念が成立する以前から存在していたという歴史的事実をどのように 説明するのかという問題点,そして法原理部門というけれども,立憲主義その ものが「法の支配」の原理を具体化するものであり,行政部のみならず立法部 も憲法で定められた法原理の下で活動しなければならない,ということとの整 合性をどう説明するのかという問題点を指摘することができる。また憲法以下 の法規範にいかに拘束されるかは,その規範の性質によって決定されるのでは ないか,また政府機関によって異なるとしても,それは規範の規定の仕方によ って決定されるのではないか,という問題点も指摘することができる。

高橋和之の定義

事件性の要件を司法の定義から放逐する学説として著名となった,高橋和之 は司法の定義について次のようなアプローチ方法を提示する。

「〔司法とは〕法の『執行』における争い(下位規範が上位規範に反していない かどうかの争い)を裁定することを核心とする作用〔である。〕……この裁定こ そが『司法』の核心なのである〔が,その上で次のような性質も合わせもつ」。

「第一に,……司法は権限の自己増殖を避けるために受動的作用でなければな らず,適法な提訴があって始めて活動を開始しうる」。「第二に,司法は争いを 裁定する中立的な機関であり,その手続も当事者を公正に扱う適正なものでな ければならない。第三に,司法による裁定には終局性が与えられねばならない。

以上より,司法とは『適法な提訴を待って,法律の解釈・適用に関する争いを,

適切な手続の下に,終局的に裁定する作用』と定義することができる」30)。 これは,司法の観念自体は,立法・行政との,いわば横の関係における任務 分担として決まるべきものであり,国民の裁判を受ける権利との関係という,

いわば縦の関係における任務規定とは区別して考察すべしとするのである。こ

30) 高橋和之『立憲主義と日本国憲法』338 頁(有斐閣,2005 年)。

(15)

の定義は,立法・行政の定義とセットで考える必要がある。すなわち,この説 は,立法権・執行権・裁判権について,それぞれ「法を制定する権力(立法 権)と執行する権力(執行権)と法の争いを裁定する権力(裁判権)」とし31)

「憲法の下において始原的規律を行う最高位の法規範が法律であり,立法とは かかる意味での法律を制定すること」32),または「立法とは憲法の下での始原 的法定立」33)とする。そして,「行政とは法律の『執行』である。ここで『執 行』とは,行政権のあらゆる行為が法律に根拠をもたねばならず,行政が純粋 法学的意味で法律の実現として現れるということを表現するものであり,内閣 が国会の決定を受動的に執行するに過ぎないということを表現するものではな い」とする。

この定義の分析

このような定義は,いわゆる法律の留保について全部留保説をとらず,形式 的ないし観念的根拠があれば法律の執行となり,法律による拘束をいうのでな いなら,意味はないのではないかという問題点をまず指摘することができる。

高橋和之の定義の重要なところは,裁判を受ける権利と司法の概念を切り離 すべしとする点にある。つまり,私人との関係ではなく,他の政府機関との関 係で司法を定義すべきとした点にある。確かに,司法作用は,歴史的には,私 人の権利救済を目的としてなされたものではなく,具体的紛争の解決の必要性 から出現したものとみてよい。したがって,政府機関同士の紛争解決もその機 能として担うことがあった。

ところが,私人の利益侵害に対する救済という司法作用について限ってみれ ば,やはりその活動は,歴史的には私人との関係でとらえられるようになる。

このような観点からすると,高橋の定義には,根本的な問題があるように思わ れる。第!に,司法の存在理由は,その主体が政府機関であろうと,私人であ ろうと,具体的な紛争の解決であるにもかかわらず,これを司法の中核的機能

31) 高橋・前掲書注 30)18 頁。

32) 高橋・前掲書注 30)215 頁。

33) 高橋・前掲書注 30)224 頁。

(16)

としてとらえていないこと,第"に,実体的な権利が存在するということは,

その権利が侵害されたときには裁判による救済が保障される,つまりそこでい われる提訴権が当然含まれているということを意味するのにこれをことさらに 定義の中に明示していることにある。後者の点について,裁判を受ける権利に よって初めてその裁判所による救済が保障されると解するのは,具体的な事案 の訴訟による救済が蓄積されて実体的権利が承認されていったという権利の生 成過程34)からみると逆行する発想ではないか。憲法上保障された実体的権利 が侵害されれば,それに対する救済は当然想定され,また法律によって認めら れた実体的権利侵害があったときにも当然その救済は想定されるべきものであ る。例えば,民法 709条や行政事件訴訟法/条!項は,それを当然の前提とし た規定である。提訴権をもって司法概念の定義を試みる考え方は,近代実体法 体系が整備される以前のアクチオ的発想に立つ司法概念であり,実体法の整備 された現在においてはとることはできない。

$ 司法の定義への展望

司法の定義について不可欠の視点

何のための定義か

ここでは,なぜ司法の定義をなすかについて原理的に考えなければならない。

果たしてそれは司法作用を担うとされる裁判所の活動の現状認識のための定義 なのか。しかし,現実に,裁判所は非訟事件など実質的意味の行政をしている のであり,以上みてきた諸定義は現状認識のための定義とはなっていないので はないか。

それは,司法活動を一定の枠内にとどめるための定義なのか。もしそうだと すれば,何ゆえにとどめる必要があるのかという点を明確にしなければならな い。しかし,その権力が大きすぎるため,という理由は,フランス革命時はと もかく,現在では想定できないものではないか。

34) 兼子一『実体法と訴訟法』12 頁以下(有斐閣,1957 年)参照。

(17)

それは,他の国家作用と区別するため,特に行政を定義するための定義なの か。確かに,行政の定義の通説(控除説)からは,司法の定義が定まらないと 行政の

範囲が定まらないことになる。しかし,行政のための定義であれば,む

しろ行政の積極的定義をすべきではないかという反論を受けることになるので はないか。

定義の明確性

ここでは,以上各説の述べる定義でそれぞれ指摘された要素について,「立 法」「行政」との区別が明確にできているかを考えてみる。

「執行」は司法を他の国家作用,特に立法と区別する視点なのか。立法も憲 法の執行といえるのではないか。

「紛争の裁定」はどうか。国会も議員の資格争訟・弾劾裁判などで,また行 政機関も行政不服審査などで,紛争の裁定を行っているのではないか。

「手続の厳格性」はどうか。手続の重要性は,行政争訟法・行政手続法など の一般法の整備によって行政においても普遍化されているので,手続の厳格性 は程度の問題といえるのではないか。裁判所の扱う非訟事件手続は,必ずしも 行政手続に比して厳格ということはできないのではないか。

「機関の独立性」はどうか。確かに司法の独立は,司法作用の重要な要素で はある。しかし,行政争訟でも,例えば人事院,海難審判庁など種々あるので はないか。

「受動的機関」という点はどうか。行政機関も,行政不服審査の場合は,受 動的機関となり,また個人が権利として不服申立てできる場合も当然あるので はないか。このような場合には,行政機関も,受動的機関と位置づけられるの ではないか。

結局,司法の通説的定義は,直感的に主要な司法作用を把握するためには有 効ではあるが,他の政府の部門,特に行政について,程度の差はあるものの当 てはまるということができる。

歴史性への回帰

それではどのような視点から司法の定義をなすべきか。

(18)

まず,司法概念の歴史性にもう一度着目すべきではないか。歴史性とは紛争 解決に裁判機関が実際果たした役割と,それに対する一般人の期待の蓄積にほ かならない。司法の定義に関する展望は歴史性に根ざしたものでなければなら ない。実際,理論的な定義も暗黙のうちに歴史性を前提としているのではない か。また歴史的観点からしても,通説・判例の立場は軽々に廃棄できない。な ぜなら,これらの立場は暗黙のうちに歴史と経験に基礎付けられたものと考え

るからである。問題はそれをどのように位置づけ,どのように使うかの問題で ある。

司法が果たすべき役割からの定義

日本の裁判所も,現実に伝統的考え方からすれば実質的意味の行政に当たる というべき「非訟事件」,「少年審判」なども処理し,また客観訴訟も処理して それなりの実績をあげている。とすれば,通説的な定義を司法の概念の中核に すえつつ,政策的な観点からそれに権限を追加していくことを憲法が許容して いるという憲法解釈を展開すべきではないか。

結局,司法の従来の概念に当たるものは歴史と経験に基礎づけられた歴史的 客観的概念であり,憲法 76条!項はそれを前提としたものと考えられる。そ の削減は,憲法のみによって可能であり,法律によって削減することは禁止さ れているとするのが,憲法解釈の帰結ではないか。これに対して,裁判所に対 して何か他の権限を追加的に付与すること自体を憲法は許容する,つまり法律 によって可能である,という立場をとるべきではないか。ただし,何を許容す るかについては,司法概念の中核を形成する法律上の争訟の分析から,理論的 な基礎付けを与えるべきである。

行政事件を司法概念に組み込む際にも,歴史的経験と現在の必要性によって その妥当性が検証されるべきであったはずである。その際,大陸法的司法概念 から英米法的司法概念への転換がなされたということは,司法概念に何が含ま れるかを考える際に必須の考慮要因となる。

司法概念の外延の画定

問題は,司法概念に含まれる事件性の要件は,裁判所法

#

!

項に規定され

(19)

た「法律上の争訟」とまったく同じものか否かである。従来の一般的な考え方 は,これを同じものととらえて,例えば,客観訴訟を,「法律上の争訟」では ない,すなわち司法の本質的概念である事件性の要件を充たさないとして,裁 判所法#条!項に規定された「その他法律において特に定める権限」の中に位 置づけていた。ところがこのような位置づけは,新たな問題を引き起こすこと になる。つまり,司法の本質的要素として「法律上の争訟」を想定していなが ら,その範囲に入らないものであっても,法律に規定すれば裁判所は訴訟手続 を用いてそれを裁定できるようになり,司法の限界を画定する手段を失うから である。

この問題を解決するためには,司法につき憲法が画定する外延を明示する必 要がある。そして,その概念こそが,事件性の要件になるのではないか。ただ,

注意すべきは,ここでいう事件性の要件は,「法律上の争訟」よりも広いもの,

すなわち「具体的な法的紛争」の存在を要求するものであるということであ る35)。そして,実際には国会が法律によって,また地方議会が条例によって,

実体的権利を創設することにより,「法律上の争訟」と事件性の要件の間の空 白領域を充塡できるとともに,実体的権利を設定することが困難な場合であっ ても,出訴権を法律によって設定することによって,その空白領域を充塡した のと同様の効果を生むことができると解される。このような考え方は,すでに 実定法では実行されている。前者の例として,条例によって実体的権利として 情報公開請求権が設定されたことによって,その権利侵害につき何ら疑問もな く裁判で争われていること36),また後者の例として,客観訴訟として法定さ れた民衆訴訟と機関訴訟をあげることができる。現行の客観訴訟は,主観的な 権利侵害と必ずしも構成できないものではない37)が,仮にそのように構成で きないとしても,具体的な法的紛争の存在は明らかと思われるものが各法律の

35) 野坂・前掲論文注 1)45 頁も同様の見方が論じられている。

36) 条例に基づく開示請求権の主観的権利性を否定し原告適格を認めない判決も初期にみ られた(横浜地判昭和 59・7・25 判時 1132 号 113 頁)が,後の判例でこれを否定するもの はない。

37) 渋谷秀樹「憲法訴訟の要件」ジュリスト 1089 号 158 頁,160 頁(1996 年)参照。

(20)

中におかれているのである。

むすびにかえて

以上,司法の概念について今後の考察をすすめるために必要な前提作業とし て,これまでの主要な学説を概観した。私が憲法の研究をはじめたとき,研究 対象としたのは,司法の中核概念である「事件性の要件」の研究38)であった。

このときの関心は,事件性の要件の実証的・体系的分析であった。

その後,憲法が争点となる訴訟において,実質的に違憲の判断を下しながら,

訴訟の本案では請求を棄却する判断が相次いだ39)のは,これまでの諸説にお ける司法概念,とりわけ事件性の要件のとらえ方に問題があるのではないかと 思い至るようになった。その問題点を考察する前提として,これまで司法の概 念がどのようにとらえられてきたのかを概観する必要があると考えたのである。

現在,いわゆる客観訴訟として存在する住民訴訟なども,私は,憲法 76 条

!

項で規定された司法権の要素である「事件性の要件」は充たしていると考え る。なぜなら,まさにこれは政府機関の具体的な活動に関する法的紛争である からである。このような紛争も,そこで侵害された利益は,今のところ権利の 侵害,または法律上の利益の侵害ではないと理解されているので,裁判所法#

条!項の「法律上の争訟」ではないとして斥けられているのであるが,法律で 訴権を付与することによって,出訴可能となっているのである。ところが,例 えば,国の機関の行為につき,違憲であると判断される場合においても,訴権 が法律で設定されていない限りは,出訴できないことになる。このような状況

38) 渋谷秀樹「事件性の理論研究序説(1)(2・完)」法学協会雑誌100 巻 12 号 2271 頁

(1983 年),101 巻!号 156 頁(1984 年)。

39) 内閣総理大臣の靖國神社参拝の合憲性が争われた事案において,福岡地判平成 16・4・

7 判時 1859 号 125 頁,大阪高判平成 17・9・30 訟月52 巻/号 2979 頁は,判決理由中で違 憲としたが請求は棄却している。また自衛隊のイラク派遣の合憲性が争われた事案にお いて,名古屋高判平成 20・4・17 判時 2056 号 74 頁(この判決については,渋谷秀樹「自 衛隊のイラク派遣と憲法/条」ジュリスト臨時増刊1376 号・平成 20 年度重要判例解説 /頁〔2009 年〕を参照)も,判決理由中で違憲としたが訴えを却下または請求を棄却し た原審判決を維持している。

(21)

を改善し,立憲主義,すなわち「憲法の支配」の原理を貫徹させるためには,

法律の規定によって,例えば,いわゆる「国民訴訟」40)を創設する必要がある のではないか。それを基礎付けるためには,司法の概念を明確にとらえ直し,

その不可欠の要素である紛争の具体的な意味と性質を明確にしなければならな い。本稿は,そういった壮大な作業の前提作業である「覚書き」にすぎない。

40) 渋谷・前掲書注#)642 頁参照。

参照

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