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一教育学研究室の歩み・その1

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Academic year: 2021

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一教育学研究室の歩み・その1

大 蔵 隆 雄

 本学教育学研究室の特色の一つが社会教育研究にあることは,すでに「東京 都立大学三十年史」においてふれたところである。大学院の授業科目が,教育 学と社会教育学の二つから成り立っている事は,その象徴であるとも言えよう。

 来春3月には,磯野昌蔵先生が定年退職されることになった。この機会に,

研究室の創立当時から大学院設置(昭和39年)あたり迄の間に,どの様な過程 を経てそうした特色が形成されていったのかについて書き記しておきたいと思

う。

 私の見るところでは,この特色の形成には二つの主な要因があったと思われ る。その第一は,たまたま本学に磯野先生が着任された事,その第二は,昭和 28年から3年間,関東地区社会教育主事講習を主催し,それを通して,三井爲 友先生が社会教育をその主要な研究対象頒域にくみ込まれるようになった事,

である。そして,私自身も,この二つの要因に刺戟されながら社会教育史研究 への傾斜を強めていったのである。

  (教職課程と社会教育)

 本学の教育学研究室は,最初は教職課程第1・第2の2講座から成る教職課 程研究室として設置されたものであった。つまり,東京都立大学創設構想の中

では,教育学研究と教育の必要性に対する認識が欠除していた。たS ,戦後,

教員養成の任務が一般大学にも課せられることになった中で,本学もまた教職 課程をおき,それに必要な教員を配置することになった,と言ってもよい。

 それ故,最初は,教育原理,教育心理,教育実習等,中等教育の教員免許状

を取得するのに必要な科目が,研究室の開講科目の中心であった。しかし,同

(2)

時に,その頃の免許法によれば,教職に関する専門科目の最低必修単位が15単 位であり,原理(3単位)・心理(3)・教科教育法(3)の他に,もう一科

目(3)の選択必修が要求されていた。昭和二六年度「履習の手引」では,「選 択は一っは必ずとらなければならない。」となっている。(以下,開講科目に関 する資料は,各年度「履習の手引」及至「学生生活の手引」による。)

 この選択必修の科目については,それぞれの教師が,自分の専攻領域に応じ て開講する事が出来た。4人の専任教員が着任して研究室が本格的にスタート

した昭和26年度の選択科目の内容は,教育思想史・教育社会学・教育行政・社 会教育・比較教育制度・性格心理学(前述三十年史参照)であった。当時,全 国各地に設置された新制大学において,学校教育の教員養成のための教職課程 の選択科目の中に「社会教育」が開講される事はかなり例外の部類であったの ではないかと思う。

 その頃はまだ,教育学体系の中でも,社会教育は研究対象としての市民権を 充分に獲得していたとは,必ずしも言えない状況であり,社会教育専門の研究 者自体が極めて少なかった。戦前の東京帝国大学教育学科の卒業論文に,社会 教育関係のテーマがとりあげられる事すら稀であったが,戦争中に大学を出ら れた磯野先生の卒業論文のテーマは,青年団の歴史であったと伺っている。本 学の場合は,社会教育をその研究対象とする数少ない研究者の一人である磯野 先生が,たまたま着任された関係で,最初から,「社会教育」が開講されたの であった。この年以降,今日に至る迄,磯野先生の「社会教育学概論」は,隔 年乃至毎年開講されて来た。

 この様に,「社会教育」は,教員免許状との関わりにおける選択必修の一科 目として開講されたのであったが,その後,29年度から免許法の改正に伴ない,

教科に関する専門科目の単位数が増加したのに反して,教職に関する専門科目

の単位数は軽減され,選択科目が必須からはずされる事になった。現在教養部

事務室に残されている昭和29年度の「履習の手引」はその事をよく物語ってい

る。すなわち,その手引が印刷された原文は「20単位(暫定的に15単位以上で

よい)を取得しなければならぬ。教職専門科は必修と選択とに分つ。選択科目

は必ず一っはとらねばならぬ。」となっていた。ところが,その後,ペン書で

(3)

20単位が14に改められ,カッコ内の暫定的云・々の文章は棒線で抹消されている。

そして,30年度には「本年度の授業計画によれば必修科目だけで一応14単位と なるが,将来教壇に立つことを考えた場合教職選択科目を一つ以上修得してお く必要がある。」という記述となった。免許法改正に伴ない,教職選択科目は,

必修を意味する「ねばならない」から「必要がある」という程度に位置づけら れる事になったのである。それは更に,36年には「できるだけ多く履習する事 が望ましいが,免許法では14単位以上を履習しなければならないことになって いる。」となり,37年度以降は,より表現が整理されて「免許法では14単位と 定められているが,できる限り多く履習することが望ましい。」と「必要がある」

から更に「望ましい」とされるに至っている。

 こうした教員免許状との関わりにおける法的側面から見る限りにおいて,本 研究室が開講する教育原理・心理・実習以外の授業科目は,社会教育に限らず

すべて,昭和29年度以降開講の必要度が次第に低くなっていったと考える事も

出来る。

 一方,現実には,当初教職課程用の研究室として出発した本研究室は,早く も昭和27年からは,講座名が「教職課程第1・第2」から,「教育学第1・第2」

に改められ,更に28年度より教育学専攻が正式に認められ,名実共に教育学研 究室となった。それ迄の教員養成用カリキュラムから,進んで教育学専攻学生 のためのカリキュラム編成が可能となったのである。社会教育関係の授業科目 が,研究室の全カリキュラムの中で主要な一部を占める事となったのも,むし ろ当然であった。28年度になると,当年度開講の社会教育概論の他に,社会教 育方法論と社会教育史が磯野先生担当の授業科目として記載され,また,社会 教育行政及社会教育財政(担当者未定)も開講予定に加えられるに至った。事実,

29年度には社会教育史・社会教育方法論・社会教育特殊講義(青少年指導)一 担当磯野,が開講されている。これ等の授業科目から見ると,この時点ですでに,

社会教育主事養成が目的意識化されているようにも推察されるが,正確なとこ ろは不明である。

  (社会教育主事講習)

 丁度この頃,文部省から関東地区社会教育主事講習を主催するよう研究室に

(4)

依頼があった。教育大から都立大へ主催校を移すことは,当時文部省社会教育 課事務官であった横山宏さん(現国立教育研究所所員)の発案であったとは,

御本人から伺った話である。(人文学報No.107号257頁参照)昭和28年から30年 にかけて第2回・3回・4回と開催したが,その主任講師には,児玉三夫・三 井爲友・飯田晃三の諸先生が次々にあたられた。当時助手であった,岡田正章・

太田卓さんと共に私も講師補佐という肩書で,開催準備その他多少のお手伝い をしたが,細かいことは覚えてはいない。たS ,最初の第2回のプログラム作 成の折に,社会教育と道徳教育といったようなテーマの講義の講師をどなたに するかで,主任講師の児玉先生と助手連の意見が異なり,かなり激しいやりと りがあった事だけは覚えている。児玉先生が,何と言っても日本におけるカン

ト学者の第一人者である天野貞祐先生をと主張されたのに対して,天野勅語問 題が意識にあった我々が猛烈に反対したのである。たしか,結局は勝部真長先 生に落着いたのではなかったかと思うが,今にすると,若気の至りとは言え赤 面の思いである。

 三度の講習の中で一番印象に残っているのは第3回のそれであった。三井先 生が「カリキュラムはおもいきって柔軟性にとんでいたし,非常に面白かった

という評判です。」(前出人文学報258頁)と言われているように,その内容,

講師の顔ぶれを見ても,視野の広い立派なものだったと思う。次に社会教育概 論・社会教育行政及社会教育財政・社会教育演習の3つの授業科目を統合し

た,第34回関東地区社会教育主事講習の必修課程日程表を記しておく。

 また,たまたま手元にあったこの時の受講生名簿によると,埼玉の田辺信一

(現在本研究室にある田辺文庫の持主),静岡の甲田寿彦,神奈川の志態敦子・

岩渕英之,東京の安井辰雄・平井金吾・小杉山礼子・藤田博等々,一寸拾った だけで,その後の文部省・首都圏の社会教育行政・活動の中心的な担い手とな り,私なども親しくしていただいた方々の名前を見出すことが出来る。それだ け思い出が残っているのかも知れない。

(社会教育研究会と学会)

 これ等の主事講習を契機として,その大半が講習に講師として或いは指導嘱

託として参加した,古木弘造・吉田昇・田代元彌・平沢薫・橋口菊等の研究者

(5)

⑥ 社会教育の研究と教育

大 蔵 隆 雄

月日

午      前 午      後

主    題 形式 担当講師 主    題 形式 担当講師

8.2

受付 開講式 はじめの打合わせ

3

問題の提出 受講生

ュ表 問題の提出

受講生

ュ表

4

同  上 同上 教育の本質と

@   日本教育の課題

講義及

「議 三井 為友

5

現下社会教育の課題 対談及

「議

三井 為友

ス沢  薫 現下社会教育の課題 討議 三井 為友 6 我が国社会教育の回願H 講義及

「議 吉田 寿夫 我が国社会教育の回願口 講義及

「義

     1 ハ城  肇

7

諸外国の社会教育史

@       (西欧) 同上 三井 為友 9 諸外国の社会教育史

@       (東洋) 同上 横山  宏 社会教育の主体の問題

シンポ

Wウム 婆縮舗

10 社会教育計画 同上 山田 清人 社会教育と地城社会

@       の把握

講義及

「義 礒村 英一

11

同上 田代 元彌 社会教育と政治的中立性 対談 二宮 徳馬

。村  彰

12

青年と青年教育 同上 桜井庄太郎 農民と農民教育 講義及

「義 浪江  慶

13 労働者と労働者教育 同上 塩田庄兵衛 婦人と婦人教育 同上 鶴見 和子

14

世界市民と国民教育 同上 戒能 通孝

16

社会教育方法の原理

@     (基礎論) 同上 吉田  昇 社会教育方法の原理

@     (応用論) 同上 近藤 唯一

17

社会教育国体論 同上 斉藤  峻 社会教育施設論 同上 中島 俊教

18

教育行政の原則 同上 宗像 誠也 一般行政と社会教育行政 同上 田中  彰

19

社会教育主事の

@     資格と任務 同上 二宮 徳馬 教育財政の基本問題 同上 五十嵐 顕 20 諸外国の社会教育行財政

@  社会教育費の問題 同上

ッ上

奥田 真丈

V城  勲 公費としての社会教育費 同上 横山  宏

21

社会教育費に対する

@     課税の問題 同上 香川 義雄

23 ま と め ま と め

(6)

や,二宮徳馬・横山宏・吉田寿雄(文部省),斉藤峻・貞閑晴(東京),畠山一 郎(千葉)等中央地方の社会教育行政関係者によって社会教育研究会がもたれ

る事となった。当然その事務局はわが研究室におかれ,磯野・三井両先生の他 に田代先生(当時横浜国大)が中心的に活躍しておられた。この研究会は月に 1回程度で1年程続いたであろうか。やがて日本社会教育学会の主要な母体と して発展的解消をとげたものである。

 この研究会では,社会教育とは何か,いかに定義づけるか,その対象は,そ の内容は,といった可成り一般的,基礎的な問題が討議されていたように記憶 している。そのためもあってか,社会教育学会が設立されて最初の何年間は,

原理・歴史部会が最も重要な位置を占めていた様に思う。

 日本社会教育学会の第2回大会は東京都立大学で開催された。これも当時と しては必然的な成り行きであった。この大会で,磯野先生を中心として,橋口 菊さんと私の3人が,社会教育史に関する共同研究の発表を行なった。翌年か ら小川利夫さんも加わって,以後数年間にわたって発表したが,これには毎回 のように宮原誠一先生が聞きに来られたのを覚えている。時に外部から「都立 大グループ」と呼ばれた日本の近代社会教育史に関するパイオニアー的共同研 究であった。

(社会教育主事養成)

 この様な状況の中で,研究室として,専攻学生の中から社会教育主事を養成 しようという意講が次第に明確になっていった。手引に,社会教育主事資格取 得の要件(科目と単位数)が記載されるようになったのは,昭和35年の事である。

この年には,山本敏夫先生の「社会教育財政」が開講され,飯田先生の「教育 調査及統計」が「教育調査」に,波多野完治先生の「マスコミと教育」が「視 聴覚教育」に該当すると注記されている。

 限られた授業科目の中で,社会教育主事の資格取得をなるべく容易にしよう

とするこの様な試みは,その後も続けられたようである。昭和40年迄の専攻卒

業生の総数が昼夜合計8名という少人数であったので,個々の学生の必要に応

じたカリキュラム編成や読みかえが可能であったのであろう。例えば,38年度

の合同演習(都市教育の研究)は「社会教育演習」に,教育調査及統計(担当

(7)

飯田)が「教育調査」に該当するとされたのに対して,40年度の合同演習(都 市教育の研究)は「教育調査」に該当し,同年の社会教育学特講(勤労青年教 育の研究一担当磯野)が「社会教育演習」に該当となっている。そして,前年 39年には社会教育学特講(青年教育一担当磯野)が開講されていたのである。

社会教育主事資格上要求される「丙群」の科目をいかにして修得させるかを考 慮した結果と思われる。

 教育学研究室創立以降昭和40年に至る迄,社会教育学概論,社会教育学特講 は,時間講師への依頼を除けば,すべて磯野昌蔵先生の担当であった。唯一の 例外が,38年の三井先生による成人教育論の開講であったのである。この様に,

本研究室の特色の一つである社会教育研究・教育は,磯野昌蔵先生を中心とし

て形作られていったのであった。

参照

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