終章 近代化‐伝統から近代へ‐、そして現代・未来へ
はじめに
留岡幸助と大原孫三郎の福祉実践を考察した『福祉実践にかけた先駆者たち−留岡幸助 と大原孫三郎』を2003年10月に出版させてもらうことができた。その後、拙著に対して 不足な点などの様々な評やアドバイスを得た。また、時間の経過と研究の続行により、考 え直したり、再認識する点なども出てきた。それらを基にして、色々と書き足してみたこ と‐新たに行った必須概念の整理、留岡幸助と大原孫三郎について、また両者から学んだ こと‐をここでは「近代化‐伝統から近代へ‐、そして現代・未来へ」と題してまとめて みる。
1.概念の整理
(1)「福祉」とwelfare、well-being
石田雄氏は、「『福祉』も他の多くの政治の中の言葉と同じように『合意のえられない』
概念である」と示している1)。社会福祉は、「憲法第25条によって整備された公的扶助の 体系をもち」、社会保障、公衆衛生と共に国が向上と増進を努めてきたことにふれた住谷磬 氏は、「人間福祉」が「戦後の『社会福祉』のなかでも語られていない特定の分野である」
ことを指摘した 2)。そして、山辺朗子氏は、新たな貧困や福祉問題の対応については新た な福祉の体系‐「人間福祉」−が必要だと提起した住谷磬氏の主張にふれながら、「人間福 祉」と「社会福祉」の概念整理を行った 3)。人間と人間の住む社会を、車の両輪のように 支えるものとして、社会福祉の理念や体系、そして人間福祉が存在すること、及び「公的 責任に基づく『社会福祉』と共に、それをも包含した『人間福祉』の概念が不可欠なこと を山辺氏は確認したいと記述している。
また、「いまでは福祉の語も社会福祉と同様の意味で用いられることが多く、従来あっ た単なる幸福という意味で使われることはなくなりつつある」と指摘した百瀬孝氏は、漢 籍にあらわれている福祉について、「五経(易経・書経・詩経・禮記・春秋)には『福』の字 は多数使われているが、『福祉』というよう例はない」と説明している4)。その上で、前漢 の人である焦延壽の『易林』の中には「賜我福祉受命無極」や「蒙 天孫帝子與日月處光
榮於世福祿繁祉」が見られることを百瀬氏は指摘し、福祉は「福祿繁祉」に由来した言葉 だと考えても不自然ではないと主張している。さらに続けて百瀬氏は、「福祉には単なる『し あわせ』以上のものがあり、天や皇帝から賜ったものという意味があるようである」との 見解を示している。
さらに、池田敬正氏は、「紀元前の中国に成立した漢語である『福祉』と14世紀のイギ リスに成立した英語である”welfare”とでは、その意味内容が異なって当然で」あるのに、
「福祉とは何か」という重要な規範分析および歴史分析が、顧慮されてこなかった点に問 題を提起している5)。そして、漢語としての福祉とは、「幸福」あるいは「さいわい」その ものを意味すること、及び「天」に権威づけられた「天孫帝子」あるいは「帝」から賜る ものであることを池田氏は指摘しながら、「古代東洋に固有の専制体制にもとづく超越的権 威から賜る幸福を『福祉』と理解したことを示すものであった」との判断を下している。
池田氏は続けて、このような意味に基づく実践を表わす用語としての「賑恤」や「施行」
などの意味を分析し、両者はともに「『貧者』にたいする差別を内在させる救済であったと 判断しなければならない。いずれにしても、『福祉』とは「差別的救済の一環としての『賑 恤』あるいは『施行』にみられる社会共同を通じて表現される『幸福』あるいは『幸い』
といえよう」と結論付けた。
一方、英語の”welfare”について池田氏は、「『福祉』が天命に基づく統治者の慈恵的実践 によってあたえられるものであるのにたいし、“ウェルフェア”は、解体の危機に瀕する人 びとの生活を自らの手で維持することであった」と説明している。この”welfare”とは、「『よ い状態』を意味する”well”と『持続する』との意を持つ”fare”の合成したものであって、『も のごとがうまくいく』と理解され、『よいくらしむき』という意を持つようになった」もの であり、「福祉」とは異なり、地域でつくりだされるものであったというのである。そして、
16世紀になって”welfare”が個人主義的に認識されるようになった結果が”well-being”だと 池田氏は示している。近代化以降の日本では「福祉」に「ウェルフェア」的理解が追加さ せられるようになったと池田氏は説いている。これらの見解を考慮して、筆者も、公的機 関も一端の責任を負う「福祉」と well-beingをプラスした概念として、「福祉」を‐社会 と人間の双方のレベルで‐とらえている。
(2)公
イギリスでは、労働者階級の一定の成長と階級闘争、そして資本家側の一定の譲歩の結 果として社会政策が行われていったことに対し、日本の場合は、「上からの慈恵政策として 発達し、慈恵慈善事業や社会事業が社会政策を代替する形で進んで」いった 6)。このよう な日本の特徴には、「上」から「賜る」「福祉」という概念のみならず、「公」の日本的概念
−中国思想の影響を受けてきたため、東アジア的とも表現可能な概念−も大きく影響して いた。
この「公」という概念については、日本の歴史的概念である「おおやけ(公)」とイギリ ス的な「パブリック(公)」を比較しながら説明したものがある。「『おおやけ(公)』と異なり、
人々あるいは共同などと関連しているのが『public(公)』である。共通点は国家を意味する ところにある。しかし、その国家を構成している人々が、国民全体をこの『パブリック』
という概念は想定していることになるが、『おおやけ(公)』の示す国家は、人民あるいは国 民が関われないものとして観念されているという違いがある」というのである7)。つまり、
「パブリック(公)」とは異なり、「おおやけ(公)」の中には「民」の意志や発言などは全く 想定されておらず、「民」は全てをゆだねる存在として捉えられているとの指摘である。こ のような「おおやけ(公)」に基づいて「公共」を理解すれば、そこには、「共同」や「共通」
的な要素は存在しないと言えるだろう。それは一方的なものでしかありえない。それが日 本の歴史的な「おおやけ(公)」であるが、それも徐々に、「パブリック(公)」の概念の影響 を受け、そちらへと移行しつつあるというのである。
第2次世界大戦後の官僚主導で経済発展へと邁進していた期間は、「おおやけ(公)」的要 素が我々の生活を強く支配していたと思われるが、もはや物質的豊かさの追求だけでは人 間としてより良い暮らし、well-beingは得られないことが明らかになってきた。自分達が 生活する社会・世界の問題を「パブリック(公)」の問題であると自分の身にひきつけて考 え、可能ならば問題克服のために積極的に関わろうとする動きが盛んになってきている。
国家や官僚主導制度には制度疲労や腐敗が起こってきていることは否定しがたい。制度的 には民主主義が確立されているようであっても、政治不信や無関心はかなりの大きさにな っている。対外的な政策などについても政府と個人の見解にはギャップが生じており、民 意が反映されないと感じている個人も多い。今や国という単位だけで物を考える時代では
なくなってきている。そのような理由もあって日本でもNGOや NPOの活動は、一層身 近なものとなってきているように思われる。1人1人の市民が社会−コミュニティから地 球規模まで−のメンバーであるという意識をもって、問題を受け止め、「民」の立場から改 善に寄与しようという動きが現実的な選択肢の1つとなっているのである。
(3)市民社会・福祉市民社会8)
ここで、筆者が考える市民社会、及び福祉市民社会と極めて似通っていると思われる定 義・説明に目を向けてみることにしよう。加藤春江子氏は、「市民」を「自分の生きる社会 の課題を改善することに生きがいを感じ、相互にコミュニケーションを重ね、ネットワー クを組み、組織をつくって必要な行動を実践する」人々と定義づけ、そのような市民が増 大し、行政を含む様々な組織や個人に働きかけ、自らの手で社会を変えていくとき「市民 社会」が実現すると説明している。そして、「市民」の力が福祉の面に向けられるときに「福 祉市民社会」が展開されるというのである。このような福祉市民社会は、福祉国家の基盤 を前提とし、その上に市民の力を結集して築き上げ、市民が必要とする多様なサービスを 創造していく社会だとも言っている。つまり、「福祉市民社会」の前提には「福祉国家」へ の努力と「市民社会」の成熟があり、加藤氏は、福祉市民社会を、スウェーデン型福祉国 家とアメリカ型自助救済社会の間に位置するものとしている。それは、福祉国家の骨組み を内包してそれに非営利市民組織が肉付けをしている社会である。そこでは、中央と地方 の政府による福祉サービスはある程度まで普遍的・平等的にいきわたっており、さらには、
民による非営利民間セクターが活性化していなければならないのである。このような福祉 市民社会では、非営利市民組織は、公的福祉の代替や下請けをするのではなく、公的福祉 の骨組みによって基本的に支えられている人々をさらに多様なかたちでバックアップする というのである。
また、教会を中心とした慈善・チャリティが盛んだったイギリスでは、個人の自発性・
ボランティア精神に基づく非営利市民活動が活性化し、福祉市民社会と呼ぶに値するもの が発展してきている。イギリスは、まさに、公的福祉も整理された上で、市民による自発 的な問題改善の取り組みが活発になっている福祉市民社会だと加藤氏は力説している。
2. 福祉実践にかけた先駆者たち−留岡幸助と大原孫三郎
日本でも、「民」のための福祉をめざす動きは明治維新を経て急速な近代国家づくりが 行われた頃にも見受けられた。「おおやけ(公)」的な考えを打ち崩そうと、「民」の立場か ら積極的に福祉実践 9)を行った人物が日本近代の歴史にも存在したのである。筆者は、そ の中でも留岡幸助(1864〜1934)と大原孫三郎(1880〜1943)を選択して、民間人の公共福祉 への貢献可能性について歴史に指針を求めた。
(1)社会事業家と実業家を取り上げた理由
1人ではなく最初から2人を取り上げたことには筆者なりの理由があった。可能な限り 多くの福祉実践例に目を向ければ、時代性や日本における福祉や公共に関する状況変化の 過程を考察することができると期待した。しかし、筆者の力量からいって多数例を考察す ることには無理がある。そこで、2 人を例にとって研究を進めることにしたのであった。
それでは、なぜ同じような範疇でくくれる2人を選択しなかったのか、という疑問が投じ られるかもしれない。非行少年の救済を家庭学校で図ろうとした留岡幸助を選択したなら ば、同じように、孤児の救済を岡山孤児院で図ろうとした石井十次を選択するべきではな いか、或いは同じように同志社卒業後に社会事業家として救世軍で福祉実践に携わった山 室軍平を選ぶべきだったのではないか、という質問を実際に受けたことがある。なぜ、留 岡幸助と大原孫三郎なのか、ということが理解しがたいと評されたこともあった。
筆者は、上述したような「福祉」と東アジア的な「おおやけ(公)」、及び「パブリック(公)」
という概念理解に基づいて、考察する際に念頭に入れておきたいキーワードを書き出して みた。それらが、拙著のはしがきに記した市民社会性、人類愛、キリスト教などにまでつ ながり得る権威主義的でない公共性−江戸時代からの連続性−などであった。東洋的−こ の概念については後述する予定であるが−な観念に偏重するのではなく、また、逆に西洋 的観念に無批判に追随するのでもなく、東洋的側面と西洋的側面の両者を重視し、無意識 的にも融合を図ろうとした可能性を持つ人物を考察したいと考えた。このような共通点に 従って、そして、相違を浮き立たせるようにも心がけ、社会事業家の留岡幸助と実業家の 大原孫三郎を選択した。前述したが、筆者の課題を繰り返すと、自分達の問題を自分達自 身のものとして受け止め、「民」の立場から改善に積極的に寄与しようとした動きの考察で
ある。「民」とは、キリスト教の隣人愛に基づいて弱者救済活動を積極的に行なった幸助な どの社会事業家達−実際には、「実践的キリスト教」を信条とした同志社大学関連の人達が 多かったのだが−ばかりではない。「民」の中のそのような人達ばかりが福祉実践を積極的 に果たしたのではなかった、ひいては、「民」の誰もが意志さえあれば、その程度に差こそ あれ、「パブリック(公)」に関与しうるのだということに目を向けたかった。ステレオタイ プ的に型にはめて福祉実践をとらえたくなかったため、全くタイプの異なる2人、それも 並行的に研究されることはほとんどないと考えた留岡幸助と大原孫三郎を選択した。
(2)1864(元治元)年生まれと1880(明治13)年生まれの人物を取り上げた理由
さらに、取り上げた2 人の生年には 16年のずれがある。渋沢や福沢などの「天保の老 人」に近い留岡幸助と「明治の新青年」に属す大原孫三郎を考察することによって、近代 日本の形成過程、及び福祉実践の思想の変化を浮き立たせることができるのではないかと 考え、少し時代がずれた人物を取り上げた。また、幸助については、石井十次研究と同様、
詳細・個別な施設面などの一連の研究が大阪教育大学の二井(小林)仁美氏(教育分野)などに よって積極的に行われているが、日本思想史の研究の歩みの中で幸助を取り扱おうと思っ たため、専門外でもあるそのような詳細な施設史などに踏み込むつもりは当初からなかっ た。
(3)幸助と孫三郎の共通点、相違点の概略
ⅰ.両者の共通点
このような幸助と孫三郎の共通点を概略すると以下の点にあったといえよう。ⅰ.愛国 心のみならず、故郷や地域を愛することも必要であると確信していたこと。ⅱ.Well-being を享受できていない人に対する共感を有していたこと。ⅲ.「民」の立場から、先駆者・開 拓者として、現実と理想を見つめながら果敢に模索・挑戦していったこと。ⅳ.二宮尊徳 の思想など、日本の土着的なものの価値も認め、尊重していたこと。ⅴ.日清・日露戦争 を経ての資本主義化の過程で社会構造的に頻出した深刻な社会問題を海外からの「過激な」
思想輸入−社会主義など−ではなく、穏健的な手段によって体制内で改良・解決しようと したことであった。この最後の特徴についてはもう少し詳細にふれることにしよう。
「熊本バンド」といわれるキリスト者達からの影響を強く受けた幸助は、キリスト者の 中でも治国平天下の思想を強く抱いていた国家主義的キリスト者に属すと指摘されること もあり、幸助が社会改良主義をとったのも儒教的な治国平天下思想の影響にあったと推察 する。また、孫三郎も社会改良主義の範囲の福祉実践者だと言えるだろう。社会主義思想、
サンジカリズム、革命思想が勢いをふるっていた当時においても、資本家でもあり地主で もあった孫三郎は、体制までをも変えようとは思っていなかったと考える。
ⅱ.相違点−個人、民、自由を尊重する孫三郎の姿勢
次に、幸助と孫三郎の大きな相違点は、孫三郎がいわゆる官製的な協調会への参画を当 時の床次内務大臣から打診されても、あくまでも「民」の立場での福祉実践にこだわって 拒絶したことに対し、幸助は、内務省の嘱託として「官」の立場からの任務も積極的に果 たしていったというところにあるだろう10)。生年が16年遅い孫三郎には、国家から切り 離して個人の「民」に目を向け、近代的な人間平等観に基づいて「民」を尊重する姿勢が 幸助よりも強かったと言える。儒者の家系出身で儒教的素養を孫三郎も身につけていたが、
ロシア革命などの思想を含めた欧米の啓蒙思想、及び「民衆を発見した」大正デモクラシ ーに若年期にふれた。このため、孫三郎の方が個や個の独立性、民、民主、自由、といっ た市民社会的側面が強かったのだろう。そのような孫三郎に対して、「『近代的自己の感覚』
が欠如していたため、思想と運動は、やはり前近代的な社会改良主義の段階にあったとい う批判がありうる」という指摘を受けたことがある。前述したように孫三郎の福祉実践は 社会改良の範囲を出ないものだった。しかし、そうではあるものの、身分制社会から解放 された個人を見る側面はあったと主張したい。そういう点で孫三郎は「前近代」ではない。
孫三郎には「封建的・差別的」な姿勢はほとんど見られなかったと考える。被差別部落の 解放運動にも早くから共感して尽力した。孫三郎の場合は特に、第1に人間として平等と いう視点を生涯にわたって持ち続けようとした。身分制社会を否定していたのではないだ ろうか。のみならず、「個」の自覚という側面も有していた。「人間一人一人を見る目」や
「人間尊重の視点」が孫三郎には具備されており「主張を重視」していたことからもその 側面はうかがえる。
主張を持つことを他人にも要求した孫三郎は、「ありきたりな」考えではなく、「個性的
な」意見を常に要求した。孫三郎は、近代的な平等精神の下、「民」を「個人」として認識 すること、させていくことの重要性に気づいていたと考える。女性工場労働者に対しても、
「人間として尊重される」「個人」となるように、という方針で、自分自身という「個」を 高めていくための努力をするように勧めた。それに基づいて、女性工場労働者のために習 い事の場を分散式寄宿舎で提供した。また、孫三郎は、守旧の封建的な考えから解き放つ ため、近代的な個を自覚させるために、教育の普及をことさら重視した。福沢諭吉の著作 を基に封建思想の払拭を図ったことも既述したが、近代的「個」の確立のために、庶民階 級を対象にした教育の場を可能な限り設けようとした。教育の平等な機会を得られない人 に対しては大原奨学金を積極的に与えて「進歩」「向上」をすすめた。そして、奨学金を提 供する際には「個性」を重視して選考した傾向があるといえる。一方で、上に立つ機会を 有する者に対しても、封建的な考えを改めるよう要求した。その1つの例が、何度かふれ た「小作料金納制」の提唱だと主張したい。不当な利益をむさぼることは許されない、前 近代的な考えを地主も資本家も改めていかねばならないと孫三郎は考えたのであった。
人を「個」としてみる目が孫三郎には備わっていたことを上述した。孫三郎はどちらか といえば個人主義的側面の方が強かったと思うが、まとまりとしての地域、社会を見る目 も持っていたし、共同・協調も重視していた。孫三郎の共同・協調重視の特徴は、キリス ト教的ヒューマニズムとも結びついた面であるが、孫三郎は、科学を信奉した合理主義者 でもあった。経済的には自由主義者であり、破綻した紡績会社を次々に合併していった孫 三郎は、競争の有益な面を無視してはいなかったと言える。競争のマイナス点ばかりを強 調する社会主義者には賛成できなかったはずであり、自由の抑圧を否定した。富者の末の 男子としてわがままに育てられたと伝えられているが、そのことも一因となってか、孫三 郎は自由をかなり尊んだといえよう。旧郷校の閑谷黌での生活を窮屈に感じて、東京へ憧 れたことも、この自由の抑圧にあると考える。孫三郎は、科学的研究によって社会構造に よる歪みの問題の解答を導き出し、合理的精神に従い、自由な経済システムで社会を発展 させようと考えていたことは推測に足る。合理的精神を持っていた、ということが、孫三 郎が、極端で偏った思想を支持しなかったもう1つの理由であり、その点は、幼なじみの 社会主義者、山川均などとは大きく異なる点だと感じられる。
ⅲ.相違点−留岡幸助の「上」からの実践と矛盾した人間観
町人として身分差別の不合理を体験した幸助は、キリスト教の平等主義に魅せられて信 仰するようになった。新島襄が「新日本建設」を企図して設立した同志社大学で学んでい た際に11)、世の中の暗黒面に生きざるを得なかった人達にキリスト教の愛の光を当てる実 践を行おうと幸助は決心した。同志社卒業後、丹波の教会を基点に伝道を行い、その後、
集治監の教誨師に就任するべく北海道へ赴いた。そこで、犯罪者のかなりの割合の人達が
「不良少年」だったことを経験から学んだ幸助は、実地見聞・調査研究のために米国へ留 学した。これらの経験とキリスト者仲間の支援を得ながら、非行少年達を教育するための 感化院、巣鴨家庭学校を幸助は「民」の立場から設立したのだが、その一方で幸助は、「官」
の立場での実践も積極的に繰り広げていった。その1つが二宮尊徳の報徳思想を利用して の地方改良運動である。幸助のこの運動に関しては、被差別部落の人々に関する言説と共 に、負の評価を受けてきた。
日清・日露戦争後の民衆のあり方に憂慮し、引き締めの必要を感じた明治政府は、幕藩 時代の支配理念であった儒教を中心的柱として、日本主義を強力に鼓吹し出した。この際、
幸助は、内務省という政治機構の中で、嘱託という立場ではあったが、この日本帝国主義 の強化策の一翼を積極的に担っていった。当時は、労働運動の激化などにより、社会政策 や労働政策などの社会行政や衛生行政の重要性が認識され始めた時期であった。内務省が 中心となって渋沢栄一の強力なサポートを受けて協調会が設立されたり、貧民研究会が組 織されたりした。このような動きの担い手となった幸助などの心の奥底には、国家主義的・
社会防衛的な発想が顕在しており、人権の面でも普遍的な平等主義で運動に携わったとは 言い難い。幸助には、孫三郎には見られなかったような、現代の我々から見ると明らかに 負の側面と批判することができる、そのような問題が存在していたのであった。
3.幸助と孫三郎の考察を通して思索した点 (1)時代の拘束性
幸助がその時代の多くの人達と同様に有していた上述のような負の側面に思いをめぐら せるとき、また、幸助と孫三郎の儒教的な国家重視の姿勢や市民社会的側面の特徴の相違 に目をむけるとき、我々が生活している現代とは異なる時代の枠組みだったということを
忘却してはならないと考える。確かに、幸助の言説には、同じ人間としての情に基づいて 問題打破を狙っていた割には、近代的な人格・人権の平等理念が欠けていたと思う。平等 認識を鼓吹しようと思っていたとしても、その表現があまりにも詳細かつ直接的すぎたの で、逆に差別意識を煽ってしまったということも首肯できる。このような幸助の矛盾点を プラスに評価することは絶対にできない。また、打ち消すことのできないマイナス評価に 対して、更にそれを筆者がオリジナルに評価することも難しいと考えた。
民間力を発揮したなどという点では幸助は評価に値すると筆者は考えるのだが、同時に、
かなり大きな矛盾点・マイナスの点も存在したと、事実を認識することこそが重要だとの 結論に辿りついた。ある歴史的事実に対して、その過程や背景に充分且つ周到な考察を行 わないで、或いはそれらを鑑みずに、その人物をトータル的に位置づけてしまうことは避 けたいと考えたためである。幸助が有した幼少からの体験、教養形態、そして問題意識は、
時代に拘束されている。確かに、時代の枠組みを超えて、普遍的な平和や正義を求めて発 言できた人物も存在する。しかし、明治維新直前に誕生し、儒教的素養をも身につけ、国 家の安泰を第1と考えた国家主義的側面を強く有していた留岡幸助は、時代の枠組みから は解放されなかった人物であった。
そのようなマイナスの点が幸助にはあった。しかし、評価しても良いと考える点もあっ た。幸助が福祉実践を率先して行っていった背景にあったのは、「活ける」−実践的−キリ スト教だけの影響ではなかった。幸助の儒教的素養とキリスト教が相まって福祉実践の先 駆者となっていったはずである。幸助の持つ「実践的」という特徴は、「新日本建設」を夢 見た新島襄と同志社からの大きな影響ではあるが、明治維新を遂行した下級武士達も「新 日本建設」のための実践を行ったことを鑑みると、「実践的」と儒教的な治国平天下はつな がり得るものだと判断することもできよう。幸助はキリスト教から平等観念を取り入れた。
キリスト教の隣人愛は他の明治初期プロテスタントキリスト者と同様、儒教の仁と結びつ いて幸助の中で捉えられていた。幸助も含めて明治初期のプロテスタントキリスト者は、
日本的・土着的な思想にひきつけてキリスト教を理解し取り入れていったと言われる 12)。 徳川幕藩時代では、支配の原理として儒教が利用されてきたが、このような幸助達の例に 注目すると、儒教の中の権威主義的ではない公共性をきちんと追求していくことの必要性 も強く感じられる。
(2)儒教13)−江戸時代からの連続性14)
孫三郎の方が幸助より個人的・民主的であり得たのは、欧米思想の影響のためだと考え るが、欧米的なもののみならず、実は儒教にも市民社会的な側面・民主的な側面があった のではないかということを考えてみたい。そのために、比較として、渋沢栄一を考察して きた。渋沢栄一は、天保年間に生まれ、幕末期には国の行く先を憂い、攘夷の志士となっ た経験を有していた。このような渋沢には、儒教的素養の特徴の1つといえる「滅私奉公」
的な概念が存在していた。東京養育院に関連しての渋沢の発言には、社会・国家防衛的な 視点が見受けられたし、渋沢の場合、社会事業に従事する究極的な理由は国家繁栄にあっ たといえよう。
しかし、携わった事業の数では、社会事業の数が実業のそれを上回わっていたという。
また、幕末に官吏として欧米へ視察した経験に基づいて、欧米式のチャリティなどを渋沢 は高く評価していた。寄附金集めにも積極的で、巧みな手法で多くの財界人から協力を得 ていた。また、儒教的素養を持つ非キリスト者の多くが、キリスト教など、自分の信念と は合わない宗教を排斥する傾向があったことに対し、帰一協会にも関わった渋沢は、自己 絶対化の姿勢を排すると同時に、それぞれの宗教を尊重し、キリスト教にも理解を示した。
しかし、だからといってキリスト者だったわけではない。それにも関わらず、福祉実践の ために尽力した。欧米の福祉実践に感化されたからといって、一朝一夕に信念もなく、あ のような福祉実践を果たすことはできないだろう。渋沢は、経済活動は卑しいものという 江戸時代までの伝統的考え方を払拭するために、欧米思想を利用してではなく、日本的な
「論語と算盤」で社会を経済重視へと啓蒙していった。経済重視とはいっても、「私」偏重 を説いたのではなかった。至誠や質実、信頼などという武士道の精神に通じる面でもって 経済活動を行うことの重要性を主張した。このような渋沢の活動例を見ると、またそれに も増して、「渋沢は有名ではあるが、渋沢のみが特例だったというわけではない」という江 戸時代の儒教に詳しい川口浩氏から直接受けた指摘を鑑みると、権威主義的ではない市民 社会的な側面・民主的な側面が、渋沢が素養として有していた儒教の中にも存在していた のではないかと確信したくなるのである。儒教では、君主に対しては仁政のための慈恵が 求められ、それが福祉実践の理念につながっていったと思われる。確かに、渋沢には「財
界の大物」としての立場ゆえに「官」から協力を求められることが多かったので、権威主 義的な側面や仁政的にとらえる側面が皆無だったとは言えないだろう。しかしそれでも、
渋沢の公は、「おおやけ(公)」よりも、人々や共同などと関連している「パブリック(公)」
に近かったと判断するのである。
(3)土着・東アジア15)
孫三郎は倉敷にこだわり続けた側面とそれ以上の場の拡がりをとらえる側面とを備え ていたが、筆者は、地域から始まり、日本、そして広くは東アジアという視点までをも潜 在的に有しながら問題意識を考察していきたいと常日頃考えている。その際の基軸‐近代 化や「民」の成長もそれらに含まれるが‐の一つが儒教である。また、古賀勝次郎氏は、
国学思想に端を発する「生成」という概念を重要視している16)が、儒教のみの影響が強か った他の東アジア諸国と日本の近代化などの相違を考えるとき、これは重要な視点のはず である。それ故に、国学や神道などの側面からも福祉実践や民間力を考察する必要もある のだろう。内村鑑三なども土着という点にかなり着目したが、これからは土着性というこ とについてもさらに顧慮する時だと思っている。日本の問題解決方法が必ずしも欧米の先 例と同様の過程をたどり、同様の結果に行き着くとは限らないからである。しかし、時代 や地域、及び個人によって儒教の特徴はかなり異なるため、潜在的視点は東アジアを常に 念頭に入れてはいるのだが、それを論文で著わせるか、というとそこまでは仲々いかない だろう。根底に抱いておくこと、念頭に入れておきたいことは多数あるのだが、力量が、
それほどたくさんのことには実際には及ばないためである。
土着性へのさらなる見直しに着目してはいるものの、後述するが、決して過去のファシ ズム日本を賛美しようと思っているわけではない。渋沢については、景気が悪くなってき たり、企業倫理問題が浮上するたびに、渋沢や過去の日本をもてはやす観のある一般的な 書物がよく出版されるのは事実である。しかし、日本がいわゆる大正デモクラシーを充分 に開花できずに、軍国主義へと進んでいったのは、筆者が考察対象としてきた渋沢亡き後 であり、労働科学研究所所長の暉峻義等が、産業報国運動に積極的に参加していったのも 考察対象としてきた孫三郎亡き後であった。明治期からの日本国のあり方が、軍国主義、
侵略へとつながったことを私も重視している。その蹉跌を踏むべきではないということは
とても重要なテーマである。しかし、日本的・東アジア的な部分を全て切り捨ててしまう のではなく、普遍的平和探求意識に基づいて、漢字圏の国々が有していると思われる精神 面などから、新しい日本的・東アジア的何かを求めたいと考えている。その共通点が儒教 であるから、市民社会的な儒教性の探求を、市民社会が早くから発達していたイギリスの 思想などとのの比較とともにゆくゆくは深めていきたいと希望している。そういった点で は横井小楠も今後の大きな課題であるし、それと関連する熊本バンドについても考察を深 めなければならないだろう。決して日本の過去の精神面を無批判に礼賛するわけではない、
ということに関連してふれるが、同様に後述するファシズムとの関係では、熊本バンドの 主要メンバーを中心とした日本組合教会は戦争を礼賛した。また、朝鮮侵略の片棒を担い だとも指摘される朝鮮伝道を朝鮮総督府の機密費援助を得て行っている。彼らのこのよう な国家主義に関連する負と言われている側面にも、留岡幸助との関連で興味がある考察希 望事項である。
内村鑑三は、『余は如何にして基督信徒となりし乎』の中で、アメリカのキリスト教界 における教派争いを嫌悪しながら、日本の「異教」信仰における平和と静穏に思いを馳せ、
異教国日本の静寂な良さを振り返っている17)。戦争へと進んでいくに従って、内村は、日 本の道徳性に批判を行うようになっていくのだが、この段階では、アジア特有の道徳性に ついて、評価もおこなっている。
確かに、自文化中心主義や人間性軽視、一国主義につながる要素はもちろん排すべきで はあるが、越境性や普遍性のみならず、土着性や地域、コミュニティという概念にもさら に注目する必要があると考えている。
(4)自然・環境保護
日本は、近代科学と近代技術を明治以降、積極的に取り入れてきた。近代科学技術のベ ースとなっているいわゆる自然征服的なキリスト教文化圏の自然観や思想をよく理解する ことなしに、そこから生み出された近代科学技術を利用してきた。確かに、科学・技術の めざましい発達によって近現代に生きる我々は様々な物質的恩恵を受けてきた。しかし、
その一方で、科学・技術による深刻な負の遺産にも我々は直面せざるを得なくなってきてい る。その1つに、環境破壊をあげることができる。環境破壊には様々な要因が考えられる
が、人間の自然に対する見方、つまり自然観が自然破壊の問題に密接な関わりをもってい ることは否定できないだろう。いまや自然に対する人間のあり方や価値観が問われており、
それらを根本的に再検討してみる必要に迫られている。
海老名弾正が西洋的な自然観を有していたことにはふれたが、同じキリスト者の留岡幸 助も大原孫三郎も、西洋の近代的自然観で自然を克服しようとはしていなかった。両者共 に、二宮尊徳的自然観にも影響を受け、人間を自然内存在として理解していた。特に幸助 には、この特徴は顕著である。自然の感化ということを重視して、我々の周りにある自然 の恩恵をそのまま享受しようとした。また、孫三郎は、日本の地方の風土や自然が生んだ
「民衆的工芸」に美を見出した柳宗悦の「民芸論」に共鳴し、民芸館建設を支援した。孫 三郎は、真の芸術は自然から得るところが大であるという自然観を持っており、自然美を 愛する姿勢を有していたのであった。
日本にはもともと西洋のネイチャーに相当する言葉がなかった。従って、「自然」も「自 然観」も明確な概念がなかったと言われるが、「天地万物」や「森羅万象」などという言葉 で自然界は尊重されていたと考える。幸助も孫三郎も、儒教圏的側面と欧米思想に感化を 受けた側面を融合させた特徴を有していた。それらは、東アジア的な自然観 18)、名君観、
徳や公の重視、欧米的な自由、独立、個、広い範囲の人間愛であった。功利主義や科学技 術重視に偏重するのではない両者の自然重視の姿勢も、儒教や東アジア的考えを再認識す る必要性を物語っていると考えるのである。
(5)過去の日本的精神面などへの無批判的礼賛19)、個人主義・ファシズムへ屈しない姿勢 儒教や土着性の重要性を再認識したいという考えに対し、「昔の日本には協働の精神が 存在した」という無批判な過去の日本賛美ではないか、とか、「日本の伝統とは和の精神に あるという考え方」を有しているのか、という評を得た。しかし、筆者にはそのような意 図は毛頭ない。留岡幸助や渋沢栄一がもつ儒教的精神・道徳の重視という側面を一面的に だけ見て、強調したならば、そのような考え方になるのかもしれないが、筆者は大原孫三 郎と留岡幸助、及び渋沢栄一の考察からはそういう単純な理論は出てこないと信じている。
ただ、筆者がうまく主張できていないために、そのような指摘があるのだと思われる。孫 三郎と渋沢の協調観を考察した際にも、一般的に使われる曖昧模糊的な和の精神を日本の
伝統と捉えた上で主張を展開していないし、そのようなものを称揚しようとも考えていな かった。筆者なりに「協調」を定義した上で考察を進めた。
協調に目を向け、学ぶ点があると説きはしたが、個人主義の重要性を払拭しているわけ ではない。「個人主義の重要性を忘却して過去の日本讃美を行うことは、ファシズムに屈し ない姿勢という点で大きな問題点がある、キリスト者は個人主義に立って非戦論を固守で きたが・・・」という内容のことも同時に評されたのだが、日本のキリスト教界がどのよ うに戦争に取り組まれていったかということはキリスト者に於いては一大反省点となって いると考える20)。近代化以降の日本の社会事業・社会主義は主としてプロテスタントキリ スト教と密接な関係を持ってきたことはよく知られているが、海老名弾正は、戦争礼賛の 説教を行っていた。キリスト教にふれていた大杉栄や荒畑寒村はその説教を聞いて批判し、
キリスト者として「つまづいた」と言われている。海老名弾正を例に挙げただけでも、フ ァシズムに屈しない姿勢というものをキリスト者というふうに一般的に捉えることはでき ないと言える。しかし、反対の声を上げたキリスト者達がいたことは事実であり、そのこ とへの認識は重要だと考える。ファシズムに屈しない姿勢というものに関して、自分や家 族の生命に危険、迫害、差別が及ぶ場合にも主張を曲げられずにいられるか、ということ を想像すると、−幸助の負の側面についてふれた際にも既述したが−我々は時代に流され た人達の批判や比較を安易に行いがちではあるが、一概に時代の枠組み外から批判するこ とはできないと考えている。
ファシズムへの対応に関連して、既述したことだが孫三郎の例を挙げると、第2次世界 大戦の敗戦を知らずに孫三郎は逝去したのだが、平和論者でもあった孫三郎は、戦争を支 持せずに生活難に直面していた旧知の牧師の生活を支えていたという側面もあった。
4.歴史上の福祉実践21)と対比的な現代日本の原因
留岡幸助と大原孫三郎の生涯を見ると、日本にも歴史的には、共生の感覚、慈善心、及 びリーダーシップに基づく民間人による主体・独立的な福祉実践も存在していたことがわ かる。それが、どうして現在の日本にはあまり見られなくなってしまったのだろうか。そ の理由は、対外的・経済的理由による長期継続的な官僚主導主義と第2次世界大戦後の米 国による新制教育の影響にあると考える。
(1)官僚主導主義
江戸時代には、庶民の自主性がうかがえた。明治になると、被植民地化を回避しながら 挙国一致で近代化を図り、西欧諸国に追いつくための強力、且つ急激な中央集権化が行わ れた。これによって、上からのトップダウン的政策が普遍的となり、公共のための民の活 動は影を潜めていった。林雄二郎氏は、江戸時代には3つの柱が存在していたと指摘して いる 22)。ⅰ.政治権力を有してはいたが経済力を持たなかったサムライ達(第 1 の柱)、ⅱ.
政治権力は持たなかったが経済力を有していた商人達(第2の柱)、ⅲ.政治権力も経済力も 持っていなかったが、開明的で知的好奇心が強かった農民や職人やその他の庶民達(第3の 柱)。林氏は、「これらが相互補完し合って二百数十年の平和を実現可能にしていた。しか し、明治維新後の中央集権化による近代化政策により、相互補完的だったこれらの柱の中 の第1の柱と第2の柱が、合体してしまい、強力化した2本の柱の下、全ての社会的活動 が官主導で行われるようになった。それに対し、江戸時代には文化などを活発に支えてき た庶民大衆は何の違和感も覚えなくなってしまった」と説明している。日本が廃墟と化し た第2次大戦後も、経済・物質的繁栄を目標とする中で、官僚主導が続いた。このように して官僚主義が日本では一貫として続き、民による自主的な公益活動はあまり活性化しな い静態的な状態が続くようになったと考える。
(2)新制教育による影響−儒教的公共精神の消滅、利己主義、功利主義、物質主義
明治時代から日本は、西欧諸国に追いつき追い越すために、近代国家の制度と科学技術 を取り入れてきた。西欧諸国の社会経済的繁栄の背後やベースにある思想を正確に理解し て取り入れるのではない歪んだ近代化が遂行されたのであった。「個人」や「個人主義」の 誤った理解が指摘されることも多い。
第2次世界大戦前までの日本は、儒教精神に基づく教育を取り入れており、儒教的考え 方が公や共生について目を向ける働きを果たしていた。しかし、戦後には、国家主義につ ながる側面をもつ儒教が排除され、「自由」「民主」「個」の意識を植えつけるための新制教 育が米国によって導入された。この新制教育を全面的に否定しようなどというつもりはな い。多くの恩恵を受けてきたことは確かである。しかし、それでも、その結果として、そ
の他の宗教による慈善観や共生観が普遍的影響を及ぼしてこなかった日本では、儒教に基 づいていた共生や公共の意識が薄れ、我々の住む社会のために何かをしようという意識が 希薄になってしまったと考える23)。新制教育を受けた世代の利己主義や功利主義、そして 物質主義偏重を指摘する声も多い。
確かに、仏教とは異なり、現実対応的側面を有していた儒教には、人類愛というレベル の愛は一般的ではなかったし、支配の理念として君主制と結びついていた側面がある。し かし、繰り返しになるが、儒教には、市民社会性や人類愛、及びキリスト教などまでにつ ながり得る権威主義的でない公共性−江戸時代から連続する要素−があるのではないか、
儒教や東アジアの良い面にも眼を向けていっても良いのではなかろうかと考えるのである。
おわりに
明治維新以降には、近代国家づくりを短期間で行うため、西欧諸国の制度をあちらこち らから寄せ集めて中央政府が日本という国家制度の枠組みを作り上げた24)。この近代化・
近代国家づくりの過程においては、「自分が何かをしよう」と当然に思う感覚を備え、主体 的に熱意をもってリーダーシップを発揮した福祉実践の先駆者たちが存在した。その例と して筆者は、留岡幸助と大原孫三郎を考察してきた。両者が「民」のためにリーダーシッ プを発揮して行った率先的福祉活動は、後世に引き継がれており、両者の活動や考え方が、
現代に語るものは多いはずである。
現在、出生率の低下や年金制度への不安、高齢社会化、犯罪被害の増加、職業的倫理観 の欠如など、様々な経済・社会・平和問題に我々は直面している。政府の目ざしているヴ ィジョンが不明確であるとの指摘も多い。また、政府が改善をしてくれるとの希望を持っ ている人は少ないように思われる。このような中で「民」が行わなければならないことは、
政府や役人が何かをしてくれることを只管祈ることではないだろう。自分達の生活を自分 達で、ある側面では独力で、またある側面では共同で主体的に守る努力をしていかなけれ ばならないときが到来していると考える。
世界規模でも、対立や憎しみ、殺戮が蔓延している今日、人間愛と人間尊重に基づいた 異質文化への理解や寛容・平和が希求されていると考える。このレベルでも政治に民意が 反映されているとは言い難いのではないだろうか。そのため、政府の見解を超えた活動や
意見表明を行うNGOの存在などは、その重要性を増してきている。
我々は、「戦争の20世紀」をはじめとする世界の歴史から、時勢に流されないことが必 須であることを学んできた。国内国外を問わず、政治や社会の中の不正義を悪と見抜き、
姿勢を正していくことが個人には要求される。人間愛と人間尊重に基づいた普遍的な平等 主義と平和観、自文化中心主義的観念の排除の姿勢は絶対に崩してはいけないことを歴史 から−留岡幸助の負の側面からも−学ぶことができる。また、自分達の社会・生活の質と 安全を確保するためには人任せ−「官」や政治家、軍人任せ−ではいけないことも歴史か ら学ぶことができる。1人1人の市民が社会−コミュニティから地球規模まで−のメンバ ーであるという意識をもって、問題を受け止め、「民」の立場から改善に寄与するという動 きがこれまで以上に重要となっているのである。
いかに生きていくか、日本の将来はどのようなものになるのか、日本はどのような経済 社会構造をめざすのか、という問題意識や不安を抱いている「民」も今日多いと想像でき る。福祉市民社会づくりには意識変革の必要性が伴うが、官僚主導で経済繁栄を追及して きた日本の制度疲労や社会構造の変化が顕著になっている今こそが、変わることのできる 絶好の機会ではなかろうか。日本の前近代の幕引きと近代化は、中央から離れた地方の下 級武士達が「民」の性質をもって遂行したと評価することもできよう。その前提には、識 字率の高さに代表されるような「民」力の潜在的な涵養があったと考える。このような「官」
に対する「民」力の相違が韓国・朝鮮と日本の近代化の相違−ひいてはその後の宗主国と 植民地という関係−に大きく関与していたと推測する。
大衆のパワーは時には数と結びついて、真の正義を見失う可能性もあることは確かであ る。しかし、それでも、我々市民自身の関与で福祉市民社会を切り開いていく希望は存在 すると思う。日本の歴史には、自分達のコミュニティの問題に真剣に向き合い、模索しな がら変革を志した福祉実践の先駆者がいた。近代国家の枠組みの中で市民活動を率先した 留岡幸助や大原孫三郎の思想と活動から、意識変革が必要な現代の我々が学ぶべきところ は多いと言いたい。
注
(1)石田雄『日本の政治と言葉 上 「自由」と「福祉」』東京大学出版会、1989 年、236
頁。
(2)住谷磬「人間福祉の思想‐これからの福祉に向けて」住谷磬・田中愽一・山辺朗子編著
『人間福祉の思想と実践』ミネルヴァ書房、2003年、10頁。
(3)この後の概念整理も含め、山辺の見解は、山辺朗子「『人間福祉』の思想と実践」同上、
3頁を参照。
(4)ここで引用した百瀬孝氏の見解については、百瀬孝『「社会福祉」の成立』ミネルヴァ 書房、2002年、5−6頁を参照。
また、吉田久一氏は、「日本の福祉思想の形成は、中国やインドの影響とみるべきで」
あり、唐の律令制度から「先進的な統治理念や法を摂取した」との見解を示している。
吉田氏によると、日本の律令制における救済制度での救済主体は「近親」が中心で、そ れを欠いた場合には行政の役割になったということである(吉田久一・岡田英己子『社会 福祉思想史入門』勁草書房、2000年、221,223頁)。
(5)池田氏は、規範分析、歴史分析について、「社会科学は、現代社会の社会問題にたいす る政策論および現存する社会関係の不適応を個別に是正する技術論の二つの方法に分 れる現状分析が大きな部分を占めるが、同時にその基礎に、現代に拡がる社会現象に貫 通する普遍的理念を明確にする規範分析と現代に至る社会現象の経過を客観的にあき らかにする歴史分析をもつ」と説明している(池田敬正「福祉とはなにか」「石井十次資 料館研究紀要」第3号、石井記念友愛社、2002年、1頁)。
また、池田氏は、「福祉」と“ウェルフェア”という 2 つの言葉について、生活援助 の意味が本来はなかったことを示すと同時に、これらの言葉の成り立ちや意味内容の歴 史的な形成過程が異なりながらも、それが現代社会で世界的な普遍性をもつに至ったこ とを明らかにする重要性も示唆している。
尚、池田氏の「福祉」と”welfare”についての説明は、池田敬正「福祉とはなにか」4
−6頁, 池田敬正『現代社会福祉の基礎構造−福祉実践の歴史理論』法律文化社、1999 年、92−6頁を参照。
(6)菊池正治・清水教恵・田中和男・永岡正己・室田保夫編著『日本社会福祉の歴史 付・
史料‐制度・実践・思想』ミネルヴァ書房、2003年、31頁。
(7)岩崎晋也・池本美和子・稲沢公一『資料で読み解く社会福祉』有斐閣、2005年、97−9
頁。この「公」という概念について池田敬正氏は、「日本社会における歴史的『おおや け』は、地域社会をピラミッド型に統合しながら支配する古代天皇制の下で形成される。
それが『私』にたいする『公』であって、天に代って地上を統治する絶対者の意志を意 味した」のに対し、「”パブリック”とは、唯一の絶対者が支配する体制の下で実現する『公
(おおやけ)』の下での共同とは異なって、一定の範域の人びと全体すなわち人民や国 民あるいは公衆そのものを意味する」と説いた(池田敬正『現代社会福祉の基礎構造』121、
136 頁)。そして、「日本における『公共』とは、東洋固有の超越的権威への『国民』と しての従属を通じて社会的統合をもとめる。ところがイギリスにおける『公共』として の『パブリック』は、中世以来の地域社会の統合を意味した。このパブリックの地域的 統合は、抑圧的な構造をはらみながらも、地域社会に責任あるいは独自性を存続させる」
のだと指摘している(池田敬正「福祉とはなにか」15頁)。
ちなみに、『中国思想文化辞典』(溝口雄三・丸山松幸・池田知久編、東京大学出版会、
2001 年、254 頁)によると、公と私は「君主をはじめとする統治者自身あるいは統治者 にかかわる事物と、人々の私有または私用、また公権力に属するものと属さないもの、
公権力の行使に従うものと従わない、人々・万物の間に共通・共同しているものと共通・
共同していないもの、天下・国家の全体にかかわるとかかわらない、などの意」とある。
そして、公と私の語源・字源の詳細については不明としながら、「公は身分の称号の一 つであり、君主をはじめとする統治者それ自身、あるいは統治者にかかわる事物を意味 し、私は穀物に限らず人人の自分のもの(私有または私用)、身近なもの、血縁関係にあ るものを意味するというのが、比較的古い時代の両字の普通の用法である。私はこのよ うな人間の個的側面を表現することばとして文献に登場したのである」と説明されてい る。
(8)加藤春恵子『福祉市民社会を創る』、新曜社、2004 年、1−9 頁。また、加藤氏は、個 人の成長の1つの側面は「市民」性の増大であり、人間がつくる社会の成長の主たるメ ルクマールは「福祉」性の増大であるとの見解も示している(同上、321−2頁)。
尚、東洋の市民について古賀勝次郎氏は、「田舎の人に対する都会人、少し限定して、
農民・百姓に対する商民・商人」という意味であったと、『史記』や『申鑒』の中での
「市民」の用例を確認して説明している。その上で古賀氏は、「citizen を東洋の意味で
市民と理解すると、ともすれば公共的領域との関わりを持たない住民と誤解される恐れ がある。多分citizenの最も適切な訳は公共民であろう。・・・公共の公は為政者ではな く共と同じ意味であるから、公共とは、皆と共にするという意味である。それ故、公共 民とは、皆と共に関心を共有している公共的な事柄に参加する人ということになって、
西洋のcitizenに極めて近くなる」と指摘している(古賀勝次郎「東洋西洋の歴史から考 える市民の社会的役割」『環境会議』2005年秋号、宣伝会議、100‐3頁)。
(9)池田敬正氏は、「福祉実践に普遍的な理念は、人類の属性としての共同存在性にもとづ き社会共同のなかで醸成される『愛他』であって、人としての『幸せ』を人と人との関 係を通して認め合うことである」と説明し、「人類の始源以来の福祉実践は社会的には 人格的差別を内包していた。近代社会はその差別の克服を目ざすが、それを実質的なも のたらしめるのが現代であり、その現代が社会福祉を生みだす」と指摘した。福祉実践 について池田氏は、人類史にそった三段階進化説を展開している(池田敬正『現代社会福 祉の基礎構造』7, 13, 107−17頁)。
(10)孫三郎が、考えたことを初志貫徹で「民」の立場から独立的に遂行し得たことには、
少し既述もしたが、金銭的余裕が影響していたことも確かだと考える。幸助の場合は、
キリスト教会などの支援を受けながら同志社に通うことができ、家庭学校も設立するこ とができた。しかし、やはり、思うことすべてを独自の金銭で遂行できるような状態に はなかった。このような背景の相違も、「民」に徹し得た両者の度合いの相違に関係し ていると感じられる。
(11)室田保夫氏は、幸助が在学していたころの同志社の状態などについてふれ、「新島自身 については優れた思想家であったかはさておき、当時の学生への影響、とりわけ新島が 人を育てるという教育者として絶大な人物であったことは疑いない」との見解を示して いる。また、幸助が新島と面識があったことも確かであると指摘している(室田保夫『留 岡幸助の研究』不二出版、1998年、117,119頁)。幸助が同志社に在学していた際には、
日本で初めて社会主義について講義を行った宣教師のラーネッド、柏木義円、金森通倫 などから教えを受けた。また、先輩には、徳富蘇峰、海老名弾正、小崎弘道、宮川経輝、
横井時雄、浮田和民という人達がおり、安部磯雄も在学していた。
(12)留岡幸助や海老名弾正などの熊本バンドと呼ばれるキリスト者達、及び内村鑑三のキ
リスト教と儒教についてはよく知られているが、これらのキリスト者以外にも、キリス ト教を儒教と結びつけて受け入れた人物は多く存在した。明六社のメンバーとして明治 初期の啓蒙活動に貢献した中村正直もその 1 人である。中村のこの点などに関しては、
古賀勝次郎『近代日本の社会科学者たち』行人社、2001年、103−8頁を参照。
海老名弾正は、「儒教に對するキリスト教の使命」の中で「儒教は東洋の一大宗教」で あり、多くの「義人」や「賢人」を生んだが、「時代」の流れによって「今や斯教道徳 の教を以て満足せずして基督教の天地にあこがれ寄るもの、蓋し一二にして足らんので ある」と儒教からキリスト教への移行を「時代」で説明しているが、ここからは海老名 が儒教的素養をベースにしてキリスト教の受容をとらえていることがうかがえるので はなかろうか(『明治雄弁集』大日本雄弁会、1914年、51頁)。
(13)「シナマ マの思想を知るには儒家の思想を知らねばならず、儒家の思想を知るには孔子の 思想を明らかにしなければならぬ」と語った津田左右吉は、儒家の「宗師」である孔子 の思想と考え方について「人の道徳をどこまでも人の道徳とし、現實の人生に始終する ものとし、神なり人生を超越した何等かのところなりにかゝはりの無いものとした點は、
むかしの時代におけるいろいろの民族の道徳の説に對して、獨自の地位をもつものであ つて、そこに孔子の思想の世界的意義があるといふことができよう。・・・孔子のした ことは、たゞの學説なり思想體系なりを立てることではなくして、その思想には實踐的 意味があり、事實、それによつて弟子を導いたのであつて、教といはれるのもそのため であることも、またそれにつれて考へらるべきである」と評価していた(津田左右吉『津 田左右吉全集 第14巻 論語と孔子の思想』岩波書店、1964年、1,317−8頁)。
姜克實氏は、キリスト教の「愛」と仏教の「慈」、及び儒学の「仁」を比較して、前者 2 つと儒学とでは意味の相違がかなりあるとの見解を示している。儒学の「仁」にもも ちろん「愛」や「慈」と同様の内容は一応含まれるが、それは、宗教的背景ではない、
一種の政治哲学、支配者側の道徳、倫理観念として、支配秩序の維持に果たす役割が大 きいのだという。そして、姜克實氏は、儒学には「政治と結びやすい性格や、封建秩序 の維持に利用されやすい弱点があったとはいえ、無批判に否定しさることもやはり偏見 であろう。二千年もある歴史の陶冶をへて受け継がれ大成した儒学は、一つ思想
マ マ
哲学、
倫理道徳の体系として東洋の心を表し、人類の無形文化遺産ともいうべき価値があるこ
とも、認めなければならない」と力説しているのである。儒学とキリスト教、及び仏教 について、宗教的機能と社会・政治的機能に明確に区分して考察している姜克實氏は、
「判然としない慈善行為を、社会的、政治的機能の角度から解析すれば、儒学的仁政・
仁愛と、宗教的慈悲、慈善の違いがはっきりと現れる。そもそも儒学は信仰のための宗 教ではなく、一つの学問−道徳哲学・統治術−として政治、国家と結びつきやすい性格 があり、日本の近代において、天皇制国家のイデオロギーや、『国民道徳』の一部と化 し政治に奉仕する特殊の立場にあったと指摘される。この特長を把握してこそ、近代の 慈善事業が感化、社会事業へ展開していく過程における儒学思想の特殊性を析出でき、
また、『論語』に基づく渋沢栄一の公益思想の特徴や、宗教的社会事業家の渡辺海旭、
石井十次、留岡幸助のような人々がなぜ日露戦争前後から国家権力に接近し、報徳運動、
地方改良運動に協力したのかの理由が理解できるのではないかと思う」と主張している (姜克實「儒学思想と近代日本社会」「岡山大学文学部紀要 第42号」2004年、204、207 頁)。
また、柳ユ根ク ン鎬ホ氏は、「近世初期の韓・日両国は、中国から伝来した朱子学を体制理念と して受け入れたが、両国の政治倫理の性格は、受容期の土着社会の政治文化や政治的条 件の違いによって、その方向を異にしていたことがわかる」と指摘しており(柳根鎬「韓・
日政治倫理の比較‐儒教倫理の受容と変容過程を中心に」『東京女子大学比較文化研究 所紀要』、第63巻、2002年1月)、特定の社会現象などを儒教との連関で一般的に規定 することの不適切さを指摘した川口浩氏も「各国・各地域の儒教の個別研究、並びにそ の相互比較が必要であり、儒教文化圏といったものの想定はその上でのことではないだ ろうか」と警鐘を鳴らしている(川口浩『江戸時代の経済思想‐「経済主体」の生成』中 京大学経済学部、1992年、16頁)。この指摘には全面的に同意するので、儒教について 筆者が研究できたとしても、今後長い時間を要すであろうことは確かと思われる。
宮崎犀一氏は、徳川時代の政治・経済思想を「『儒学的』または『伝統的』なものとし てではなく、『イデオロギー的言及を含んだ政治・経済的意味にかんする社会的テキス ト』として新しく読み直そうとする」、海外の学者、テツオ・ナジタ氏を紹介している(宮 崎犀一「江戸期経済思想の歴史的性格・緒論」『東京女子大学比較文化研究所紀要』、第 62巻、2001年1月、10頁)。
(14)守屋茂氏は、江戸末期という岐路を通過した儒教について次のように解説している。
江戸時代からの連続性という筆者の問題意識と通じるものがあるため、長文ではあるが 下記に引用することにする。「近世末期においては、幕藩体制の各分野にわたって既に 近代的な思想と相通ずるような、物の考え方が陰に陽に現れていたことは、もはや異論 のないところである。しかし維新以後の場合とはちがって、封建社会において現れたも のは、概ね儒教ないしは国学という、いわば一つの性格的制約の下においての内的必然 性の発展とも見られるものであって、・・・あくまで封建的思想と見られるその思想の 中から、いわばそれを母胎として、時代という時間的のものと社会という空間的のもの との、流れの必然として発展してきたものであることは見逃せない事実である。・・・
儒教について見れば、仁・義・忠・孝等社会の倫理道徳を主張する教義の必然が、封建 体制の中に立ちながら、その封建体制という壁に突き当たり、本来の使命であるところ の仁・義・忠・孝等の成長発展を期待することが出来なくなったので、その教義的性格 の赴くところ、自ら殻を破って本然を追求しようとしたところに、儒教の真骨頂を露呈 したわけである。つまり封建体制下において成長したものでありながら、時代と共に更 に展開を余儀なくされたところに、また儒教のもつ生命があったのである。これは教義 そのものの持つ必至的展開であって、否定の形をとりながらも、それは必ずしも否定で はなく、むしろ歓迎すべき儒教の倫理的な発展であった。・・・そこに人間のための教 学としての儒教の、生命の躍動が認められる。換言すれば、幕藩体制下において制約せ られた主従君臣父子等の関係では、もはや支えきれなくなって、人類ないしは人間とい うものの中に、絶対的な個人の主体性の確認ということが強く要請せられて、好むと好 まざるにかかわらず、世界史的連環の下に、新しく踏み出さねばならなくなったのであ る」と守屋氏は儒教の「内発的発展」を説明している(守屋茂『日本社会福祉思想史の研 究』同朋舎出版、1985年、501−2頁)。守屋氏のこの説明に基づくと、儒教思想の中に 近代思想的な要素が胚胎されていたと解釈しても良さそうである。
(15)「『東洋』という言葉はもともと地理的概念であり、文化的概念としての使われ方は江 戸時代には殆どされていない(本多利明や佐久間象山など少ない例)。主要には近代にな って以降、西洋文明との対抗上、その言葉が自己同定の必要から文化的概念として使わ れ出している。そういう来歴をもつ『東洋』という言葉を、思想史の研究書で、しかも