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ヨーロッパ中世の「都市共同体」と商人集団

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著者 魚住 昌良

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 60

ページ 1‑29

発行年 2003‑09‑30

URL http://doi.org/10.15002/00011457

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「共同体」という概念は、歴史研究においても、さまざまな場合に、さまざまなニュアンスで使用されてきました。なかでも、前近代の社会のあり方を近代社会と対比するかたちで捉えようとするときの、前者を特徴づける一つのキーワー

ヨーロッパ中世の「都市共同体」と商人集団(魚住) まえおきI都市共同体論の推移Ⅱ「中世の世界経済」

(1)中世の局地的「(2)中世商人の出自(2)中世商人の出(a)聖ゴドリク

Ⅲ中世都市像の転換(1)通説批判の動向と現状

(2)都市共同体の変容l「ツンフト民主主義」の内実

ヨーロッパ中世の「都市共同体」と商人集団

●まえおき と商人の系譜「都市経済」段階説から遠隔地商業主導論へ(b)カール・フォン・デア・ザルッガッセ

魚住昌良

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ドであり、この「共同体」の解体、(私的)個人の自由の確立が近代社会成立の前提となるというパラダイムで議論されるのが普通であったかと思います。人類の歴史の最初期にあったと想定される「原始共同体」などでは、私的個人を完全に埋没させたままの当該社会の全体が一つの共同体をなすと考えられ、構成員の生活のすべての面にその共同性l共同規制が及ぶものと説明されました.が、しかし「共同体」として説明されるものの実態は、社会のその後の歴史的展開のなかでそのかたちを変え、機能、役割を変えてゆきますし、同じ時期のなかでも、異なる空間、あるいはそれぞれの具体的な結合様式に応じて、いくつもの「共同体」が併存するという状況も生じてくるでありましょう。このようにして多岐にわたる共同体の全般を概観することも、「共同体」概念の理論的解明をすることも、本日の課題ではありません。さし当りここではドイツ語でゲマインシャフトの①日の日の呂昌ないしゲマインデの①日①一己①ということばで表現され、今日のテーマに即して一一一一口えばmSQ后の白囚目の(都市共同体)という一一一一口い方でヨーロッパ中世都市の形成、発展を論ずるキーワードの一つと了解していただきたいと思います。そしてこの場合の「共同体」は、個々人をそのなかに縛りつけて規制するものという側面だけでなく、むしろ構成員の横の連携を通じて、領主権力による縦の支配関係に対抗するという側面が関心の中心となることにも眼を向けていただきたいと思います。本日の主題の趣意は、「共同体」のこのような側面に留意しながら、ヨーロッパの中世都市が中世から近代への歴史的展開のパラダイムのなかでどのような視点で考察されてきたのか、今後の研究のなかでどのように捉えてゆくのがよいのか、ということをご一緒に考えていただくための一つの叩き台を提供することであります。

M・ウェーバーが前近代ヨーロッパの都市を「市民の共同体」と規定して他の諸文化圏のそれと識別したことはよく知られていることであります。「共同体」の中核を構成する「市民」(住民一般ではない)は、古典古代(典型的には古代ギリシアのポリス、そのヴァリエーションとして共和制期ローマのキヴィタスなど)では、地主ないし自立の農業経営者か 法政史学第六十号

I都市共同体論の推移

■■■■■■■■■■

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シュテンデゲゼルシャフト中世都市の共同体的側面に着ロ口してその起源と概念を問う議論は、すでに十八世紀の身分制社会のなかで同権を求め(?】)る市民層の主張を背景に、哲学者たちが提起しておりました。啓蒙思想家ヴォルテールは、都市を自由な市民たちの赴く同体と考え、その起源を十二世紀中葉、貴族領主層に対抗するルイ七世の都市制度創設政策に求めています。ルイ七世は、カペー朝第六代のフランス王(在位一一一一一七~八○)。父王ルイ六世の政策を継承してイル・ド・フランスの聖俗諸侯を服属させ、王権の強化に腐心した国王でありました。第2十字軍に参加したことなども知られています。この時代フランスでも都市の台頭が目立つようになり、貴族領主に対抗して自治権の獲得を目ざすようになり、国王は貴族領主に対抗するために都市に味方したと考えられています。ちなみにこの国王が王妃エレオノール(・ダキテーヌ)と離婚したこと、そしてこのエレオノールがアンジュー伯アンリ・プランタジネ(後のプランタジネット朝イングランド国王へンリー一世)と再婚したことが、フランス南西部の大領土をイングランド王の手に移す結果となり、後の英仏百年戦争の遠因となったという話は覚えていらっしゃる方もおありと思います。十九世紀フランスの思想界でも、中世の都市と市民を封建制に対する新しい「自由」の揺篭と目してその由来を問う関心は続いておりました。フランス革命の過程やその後の政争のなかで諸政党がその主張の正統性を歴史的に根拠づけようとしたこともあって、都市の特権の根源と正統性を法的・制度的に解明しようとする関心も強かったのでありました。七月王政下で首相にもなった政治家であり歴史家でもあったギゾー(句【目S-の国の貝の⑦曰」」P目]①の已国。()も、高級貴族の圧迫を逃れようとコミューンに結集した十二世紀の都市民たちが自治と自由の淵源であり、彼らが自らその市政機関を企画したと説いた一人でありました。十二世紀になって初めて、かつその多くが暴力的な仕方で形成されたコミューン(とくにイタリアとフランスの)が都市共同体となるという構想には、さし当って、ドイツの学界から二つの有力な反論が提出されることになります。一つは、ローマ法の権威で歴史法学の創始者とされるザヴィニー(句【」の号一s【胃}ぐ目の四ぐ一m二)で、ローマ法が中世にも存続した ら成る戦士層であり、中型(1)層が措定されていました。

ヨーロッパ中世の「都市共同体」と商人集団(魚住) 中世では、まずギルドに結集した商人たちであり、次いで台頭する手工業生産者をも含む商工業者

一一一

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ことを示唆し、古代ローマの裁判制度やそれと関連する都市制度も継続した、と推定。つまり、都市制度が中世中期に突然発生したのではなく、古代ローマからの連続であると主張したのであります。対してマウラー(三噸三三二三…-1マルク共同体言言・…言の研究で画期的な業績を残したドルフゲマインデーは、都市共同体を古ゲルマンの「マルク共同体」ないし「農村共同体」の特殊形態と考えました。そしてそれ(都市マルクトレヒト共同体)は十一世紀以来王権に認可された市場特権が自由な通商活動をうながす時期にはすでに発生していた。都市領主シユタットラートとの戦いは、すでに承認されている共同体の存在をめぐってではなく、共同体の代表制度(巾参事会など)の導入をめぐっ(3)てであったと主張しました。「共同体」は太古の萌芽に遡るという論者の基本的な構想から発した主張でありました。ドイツの都市制度成立を領主の賦役直営地司8弓・【や非自由民集団から描きだそうと試み、「都市法(後出)」のルーツ(4)を荘園法国・可のn頁に求めたK・W・ニッチュ(【閂一三二の」日ニラ&)のいわゆる荘園法説は、シュモーフー(のpmsぐぐ・ロ(5)のS白・」}のR)など若干の有力な学者たちの承認を見いだしたものの、ほどなくG・ベロー(の①。【ぬぐ。ご因の一・三)を筆頭とする論者たちの厳しい批判に逢って学界への影響力を失いました。ベローは、住民集団のなかでも、市場における自由な営(6)業活動によって生きる自由な構成員による都市共同体の形成を強調したのでありました。法学者ギールヶ(○茸・司国&風呂ぐ・ロの一の房の)も共同体形成の法的基礎をゲルマン法の団体主義的特徴から導きだし、自由な盟約という原則をひきだしていました。自由人となった都市住民は、市民の宣誓を通して共同体を構成し、自由に選出した自分たちの指導部に服属した。都市領主の明確な承認を、少なくとも黙認を得るだけの力を持った都市は立憲的近(7)代国家実現の先取りと見なすというパーフダイムでありました。十九世紀末から二十世紀前半になると社会・経済史的アプローチが進むなかで、都市の社会構成に関心が向けられるようになります。経済学者K・ビューヒャー(【三国ロ&閏)は、社会学の統計的考察法を導入するとともに、財貨が生産者から消費者に至る道程の長さを基準に独特の経済発展段階l封鎖的家内経済↓都市経済↓国民経済lを設定し、その第二段階となる「都市経済」の白二言肖扇&島の時代に中世都市を想定し、局地の市場を媒介とする都市と農村の生産者間(8)の直接的な交換が経済の主流となるという考遥えを示しました。 法政史学第六十号

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ピューヒャーらの段階論、とりわけその「都市経済」という構想に対しては、F・レーリヒ(可[旨き局碕)が厳しい批判を展開しています。当時の経済が各地に散在する都市とその周辺農村との間の小規模な商業流通に限られた、ないしはその方が中心であったとする考え方に対して、レーリヒは後段でまた触れますように、第一流の重要な諸都市の商人層が(9)広い世界に眼を向けて活躍した遠隔地商業こそがこの時期の経済をおし進める力であった、と考えたのであります。前にもちょっと言及したシュモラーは、シユトラスブルクを中心にローマ都市と断絶する中世都市の発生を描くとともけにん(Ⅲ)に、都市発生の担い手のなかにニッチュの提起したミニスープリァール「家人」層(後述)の存在を認めています。このこ(、)とは、後段で紹介するK・シュルッ(【目(の、言」N)説との関連で留意しておきたいと思います。ツンフト(後述)および中世の生業諸部門の最初の完全な経済史を提示したのも、シュモラーの貢献とされております。経済理論と歴史の総合を意図して大著「近代資本主義」(3巻)を著したゾンバルト(三の日日の○日冨耳)は、中世都市形成の中心となる主要な都市建設者たちと二次的な住民集団(手工業者や小商人たち)を区分し、前者の原資は地代の蓄(皿)積に拠ったと説いたドイツの経済学者でありました。これに対してベルギーの歴史家ピレンヌ(国①昌弓月①目①)は、中世中期に新しく登場して遠隔地との取引に携った商人たちに注目し、彼らの定住地がその後の都市の出発点となるという見通しを描いて二十世紀前半の研究動向に大きな影響(E)を与えました.’九一一○年代の後半に始まり五○年代に入るまでいわば通説ともなったパラダイムは、遠隔地商人lピレンヌの場合は、どちらかと言うと体制外の貧農層を出向とするlを中世都市成立堯展の中心的担い手と位置付け、商人たちの定住地を都市の地誌的中核とするものでありました□ピレンヌの立論は、どちらかと言うと、ライン・マース川地方の諸都市を実証の基礎としていましたが、ライン以東の、グリュンドウングスシュタット封建領主の主導下に作られたとされるいわゆる建設都市(フライブルク、ミュンヘン、リューベックなど)に関しても、前述のF・レーリヒがリューベックについて、建設の真の担い手は商人たちであり、商人たちの企業組合であったと主張し、市参事会を構成したのはハインリヒ獅子公の委託を受けた商人たちのグループであったと主張していることを(u)想起しておきたいと田しいます。ハインリヒ公は都市建設の本当の担い手ではなく、バルト海に向かって計画的に進出しつ

ヨーロッパ中世の「都市共同体」と商人集団(魚住)

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つあったドイツ商人こそが都市リューベック建設の本来の推進者であった、というのであります。レーリヒの議論は、中世都市の形成と発展に遠隔地商人の役割を重視する方向に向かいつつあった当時の中世都市史学界のなかで、いわゆる建設都市についても商人層が中心的な働きを果たしたことを検証しようとしたものでありましたが、それどころか後になると、建設都市こそが、都市領主たる古い司教権力がなかったから市民層による都市制度の発展をより純粋にかつスムーズ(囮)に進める最善の土壌を提供したと考えるまでに至ったことを付一一一一口しておきたいと思います。二十世紀前半の遠隔地商人重視の研究動向をいわば集大成したと一一一一口えそうなのがドイツの法学者、法制史家H・プラーニッッ(四目の四目旨)でありました。プラーニッッは、商人たちの誓約団体8已昌三・が地域の住民をまきこんで都市共(咽)同体を形成し、封建的な都市領主権力に対抗しそれを排除してゆくという議論を展開しました。十九世紀以来のドイツの学界で多用された表現を借りれば、ゲノッセンシャフトリヒな(横の仲間的結合)原理がへルシャフトリヒな(縦の支配者的)原理を克服するところに中世都市の成立を見たのでありました。ドイツ法制史の大家H・ミッタイス(国①白口&三二の」の)は、プラーニッッの都市制度論を評して「見通しのきかぬ程存(〃)在した古い文献は、ほとんどすべて克服されてその価値を失った」とまで激賞しています。プラーニッッのこの構想l市民の自由とその共同体を中世都市成立の本質的要件とするlは、本節の冒頭で触れたフランスのコミューン運動から都市成立へという研究関心、F・フェルコートランのことばを援用すれば「中世市民のな(旧)かに自らの原型を求めようとした」近代市民の願望の投影でもあった研究関心と通ずるものでありました。ドイツの法格一一一一口「都市の空気は自由にする」の己○冒埣日胃耳埣の一は、中世の類似のさまざまな史料的表現を踏まえているとは一一一一口っても、多分に十九世紀の学者たちの中世都市像を反映した定式化でありました。二十世紀の中葉以降、恐らく七○年代の初期にいたるまで通説とも言える大きな流れとなった、ピレンヌ、レーリヒ、プラーニッッIこれらの三人はそれぞれのニュアンスの差はありますが.中世都市における商人の役割を重視したという点では共通しておりましたIに代表言れる研究動向に対しては、言うまでもなく卓くからさまざまな批判も提起ざれておりました。このことは、本日のテーマの中心部分にかかわる話題ともなりますので、後段で改めて敷桁させていた 法政史学第六十号一ハ

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ところでピレンヌが「商業のルネサンス」と呼んだことは、ヨーロッパ史の、少なくとも西ヨーロッパ経済史の流れの大枠にかかわる興味深い事実認識を示唆するものでありました。商業の「復興」ということは、その直前には商業がなかつ (1)「商業のルネサンス」と遠隔地商業論前段で言及してきましたように、ヨーロッパ、とくにドイツを中心とする「中世都市」形成の最大の推進者は遠隔地との商取引に従事した商人たちであったとするのが、近時、少なくとも一九七○年代初頭までの中世都市論の主流でありました。遍歴する遠隔地商人たちが川結を通して成功し、一定の場所に定住して地縁的にもなる契約川体を創りだし、時とともに封建領主たちに対抗しつつ自由な都市共同体を獲得していったlこれが{H本の)私どもの世代が勉強しはじめた一九六○年ごろのヨーロッパ中世都市論の伝統的図式となっていたのであります。このような商業取引活動が、前段でも触れたレーリヒの言うヨーロッパ「中世の世界経済」というかたちで一斉に花開(四)くのは中世の中期であり、ピレンヌが「商業のルネサンス」と呼んだ現象でありました。レーリヒの所論は、彼が研究を開始した時期の経済史学界で影響力を持っていたビューヒャーらの段階論lレーリヒ(卯)はライプッィヒ大学でビューヒャーの講義も聴いているIなかでもその「都市経済」という構想に対する強力な批判であったこと、すなわち中世の経済が各地に散在する都市とその周辺農村との間の小規模な商品交換を中心としたという考え方に反対し、一流の重要な諸都市の商人層が広い世界に眼を向けて活躍した遠隔地商業こそがこの時期の経済をおし進める力であったと主張するものであったことは前節でも触れておきました。この主張は、一九三一一一年の論文「中世の世界(Ⅲ)経済」で一番よく纏って展開されていますが、著者レーリヒのユニークな中世都市論を開陳し、かつては都市史の研究者(犯)にとって一種の古典ともされた名著『中世ヨーロッパ都市と市民文化」のなかでも随所で強調されていることを指摘しておきたいと思います。 だくつもりでおります。

ヨーロッパ中世の「都市共同体」と商人集団(魚住) Ⅱ「中世の世界経済」と商人の系譜

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イングランドの成功した商人であり、後に聖ゴドリクと呼ばれるようになった人についてであります。数少ない史料のなかでも最も具〈口のいいものの一つですので、この種の問題に興味を持つ多くの学者たちが言及しておりますが、ピレンヌもその「中世都市」の「商人」という章でやや詳しく紹介しています。佐々木克巳氏の流麗な見事な翻訳がありますの(泌)でその一部を読ませていただきます。「彼丁ゴドリク)は、十一世紀の末頃、貧しい農民の子としてリンカシャに生まれ、そしてまだ年端もゆかぬうちから、生計の資を探しだす工夫をしなければならなかった。あらゆる時代の数多い他の貧しい者たちと何じょうに、彼も、波によってうちあげられる漂着物を待ちうける浜辺の拾い屋であった。次いで、恐らく何か幸運な拾い物をし ます。 (a)聖ゴドリク文書記録のほとんどを聖職者階層に負ったヨーロッパ中世では、商人たちの社会的出自までも含む伝記の類はほとんどありません。ご承知のように、中世のヨーロッパでは、物を書き残したのが主として聖職者であり、その聖職者たちの主たる関心事が信仰や道徳の問題であり、聖者たちの事蹟や精々国王や高級貴族たちの動きであって、少なくともお金儲けの話、営利活動などではなかったとすれば、それは自然の成りゆきと一言ってよいでありましょう。それでも皆無というわけではなく、幾つかの史料が見つかっています。ここでは、さし当りそのなかの最も有名なお話を一つ引かせていただき たか、ほとんどなかったことlピレンヌの場合は、メロヴィング朝期までは存在した西ヨーロッパの流通経済が力ロリ(鋼)ング朝以降完全に衰退したとする’ことを意味するのでありますが、それではここに登場する商人たち、それ以前の社会には存在しないで、この時期になって新しく登場する商人たちは、一体どこから、どの階層から出てくるのか?その社会的出自をどこに求めるのかが、当然に次の興味の対象となるでありましょう。学界は、この問いにたいする完全に説得的な結論を出すにはいたっておりません。 法政史学第六十号

(2)商人の出自

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(妬)ゴドリクの突然の回心の本当の原因は分かりませんが、ピレンヌjD示唆しているように、商人という職業故に絶えず追求し続ける富への誘惑と厳しい宗教倫理の間に繰り返し演じられた苦しい葛藤の結果であったことは充分に想像されるのであります。ともあれ彼が回心して隠者となり聖者とまで言われるようになったことが、当時の伝記の対象とされることになった原因であり、私たちは、その伝記によって、成功した中世中期の遍歴商人の一人が貧しい農民の出であったこと

ピレンヌは、中世中期の人口増加と結びつけながら、遍歴商人たちのルーツを、この時期に土地から引き離され農業で(加)生きてゆけなくなって危険な放浪生活に身を任せざるを得なくなったような人びとのなかに求めたのでありました。封建 になった原因であり、を知るのであります。 でありました。シ通りであります。 た後であろう、彼は行商人に早変わりし、安物商品をかついで国内を遍歴している。時が経つにつれて、彼は小金を貯め、そして或る日のこと、遍歴の途中で出合った商人の一団に身を投ずる。彼はその商人団の後について、市場から市場を、大市から大市を、町から町を、廻って歩く。このようにして職業商人となった彼は急速に莫大な利益をあげ、その結果、同業者の仲間に入り、彼等と共同で一糖の船に商品を積み、イングランド、スコットランド、デンマーク、フランドルの海岸に沿って沿岸貿易を企てることができるようになる。この組合は望み通りに繁栄する。その取引の内容は、物資を、その物資がそこでは希少であることを組合が知っている外国へ輸送すること、そしてその代わりにそこで、それに対する需要が最も多く、従ってまた最も有利な儲けをあげることのできる場所で売り捌くことを心がける商品を手に入れること、である。数年経つと、安く買い入れ、非常に高く売るというこの慎重な習慣は、ゴドリクを非常に裕福な人間にした。恩寵に心動かされて、彼が、それまで送ってきた生活を突然に放棄し、自分の財産を貧者に分け与え、そして隠者になるのは、その時である」当時の多くの商人たちは、自分たちは自分たちの生き方の故に、永遠の救いを得られないのではないかという不安を感じており、来世にたいする恐怖を持っておりました。死後の魂の救済は、現在からは想像もできないほど、リアルなものでありました。その為に遺言によって慈善施設を寄付したり祭壇を作らせたりする人や団体も沢山あったことはご承知の

ヨーロッパ中世の「都市共同体」と商人集団(魚住)

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在は、(羽)した。K・シュルッは、まずトリーアの、次いでヴォルムス、ケルンなどライン沿岸地方の事例によって中世都市の成立・発展過程における大量のミニステリアールたちの存在を実証し、彼らの指導的役割を評価し、かっこのミニステリアールたく”)ちが都市商人層と利害を共有しつつ、しばしば都市領主と対立した様相を明らかにしました。シュルッのミニステリアール論は、ヨーロッパ中世都市史研究の視角にかかわる私の関心を大きく刺激する発言であり (b)カール・フォン・デア・ザルッガッセためらその時点で私に明白な答えをだすことを祷躍わせた事情というのは、六○年代末のころ、K・シュルッ(【ロ三mの言一N)が提起し、七○年代初頭からドイツの都市史研究学界に大きな波紋を投げかけることとなった中世都市史におけるミニスけにん(、)テリアール(家人)問題にかかわる.ものでありました。封建領主権力を支える重要な柱の一つとされるこの家人層が中世都市の成立・発展に一定の役割を果たしたことは、前段でも一一一一口及したニッチュが、その荘園法説とのからみですでに百五十年近く前に指摘し、シュモラーも認めていたことでありましたが、その後の都市史研究の関心が専ら都市領主に対抗すしゅうれんる商人団体という側面に収敞されるなかで次第に無視されたり、それどころか、封建的要素の一つとされる家人たちの存在は、自由のルーツとなるはずの中世都市の未熟さの表れとして厄介視きれ、研究の対象から外されてきたのでありま ゴドリクのような具体的な事例は他にはほとんど見出されないという弱点はありましたが、それを否定する逆の反証もないままに、商人の系譜を農民層、どちらかと一一一一口うと下層の農民層に求めるというのが、二十世紀七○年代までのほぼ一般化された説明として定着したと申してもよいかと思います。私自身は、しかしながら、次に触れるような事情を考慮しながら、この問題、中世中期の商人の出自に関する答えは「まだ分からない」というかたちで保留しておりました。 社会の枠組みからはみだしたアウトサイダーたち、そのなかで有能で好運でもあった人びとが団結を通して成功し、やがて一定の場所に定住して契約団体を作り、封建領主に対抗しつつ自由な都市共同体を実現してゆくという構想に繋がってて一定の場所に定住,いったのであります。 法政史学第六十号

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(卯)ましたが、ここではその問題ロロ体に立ち入ることはいたしません。私見の一端は私の旧稿を参照していただければ幸いであります。後段でもう一度ちょっとだけ言及させていただきます。ここでのテーマとの関連で注目しておきたいのは、彼(、)が行論のなかでミニステリアールたちが自らも商取引にかかわっていたとする示唆であります。グルントヘルシャフト報告を進める前に、ここで一つだけ挿入して想い起こしておいていただきたいのは、土地領主制(荘園制)研究の動向(犯)であります。私たちが半世紀以上の土日、学生であったころに読んだ書物では、中世前期の古典荘園(ヴィリカチオン制)の自己完結性が、従って当該時期の商品流通の欠如が強調されていた、という印象でありました。ビューヒャーの段階説の「封鎖的家内経済」というのは、このような荘園のイメージに立っていたのでありましょう。個々の荘園は、人体に譽えて言えば、国家/社会の細胞であるから、その一つ一つのメカニズムを解明してゆけば、その総和としての社会の解明ができるなどという議論、これは批判サイドからのレッテル張りであったと思いますが、「古典荘園細胞説」などという椰楡も聞いたように覚えています。近時の荘園研究は、しかしながら、ワインや塩などの地域的特産物に言及しながら、個別荘園間の商品取引活動の存在を指摘する傾向になっていることに注目したいと思います。としますと、その商品取引の実務を担ったのは荘園庁の役人たちlそのなかには当然ミニステリアールたちが多数いたはずlであり、彼らは、領主の壷を扱いながら、時には自分たちの物品をついでに商うことも可能でありました。このようにして中世中期、すなわち都市の形成期にいたったミニステリアールたちは、商取引のノウハウを心得た経験者でありました。私たちは、農民層を出自とする商人ないし商人集団の存在を否定しないとしても、ここで見たようなミニステリアール階層を出自とする商人という可能性も考えないわけにはゆきません。しかも成功の可能性を考慮に入れるならば、後者の重みはおのずと大きくなるはずではないでしょうか?私がシュルッの最初の論文に接したときに脳裏をかすめたのは、このような思いでありましたが、その段階でも設問l商人の出自に関する私の答えは、先ほど申しましたように「分からない」であり、その後も、例えば教室などでこの問題に触れるときの私の見解は、依然として逵巡しながらの「分からない」であり、その分からないとする背景的事情の説明

ヨーロッパ中世の「都市共同体」と商人集団(魚住)

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この人物については、彼が後年ブラバントのヴィレールという所にあるシトー派修道院の大修道院長になったころに書いた本人自身の自伝ぐ冨冨【&が残されており、それ以外にもいくつもの証一一一一口があって史料には恵まれているようでありシェッフェンコレークます。同名の父親カールは、ケルン市参事会や参審人団体、さらにリッヘルェッヘという特権集団のメンバーであっただドームカピテルけでなく、都市領主たる大司教の徴税役人でもあり、また司教座聖堂参事会のミニステリアールでもありました。カールは、ミニステリァールたちの一員であることの証明できるこの父親ともども、ケルン市民としてマルティン地区(中世商人の集中する居住区)に居を構えて商業活動に専念した有力市民でありましたが、二八四年に回心して修道士になった後も、今度は修道会の要請に従ってその商業的活動に献身しなければならなかった人物であります。修道会のグ(弱)一フンギァ(修道院付属農場)の経営に成功し、破綻に直面した傘下修道院の財政を立てなおすなどのはたらきを通して、シトー会の発展存続に尽くしたのでした。ところで回心を遂げたカールが最初に門をたたいたのは、トリーアに近く、ケルンとの経済的結びつきを持ったシトー会のヒンメロート修道院でありましたが、彼が信望篤く敬愛される人物であったために、彼にならってシトー派修道会に (弧)-」た。 に終始してきたのでありました。ミニステリアールたちの商業活動に関する示唆はあっても、個々の商人に具体的に立ちいった実証研究が充分ではないと考えたからでありました。本日の報告では、しかしながら、もう一歩踏み出して、ミニステリアール出自の可能性に大きく軸足を移す方向で、従(犯a)前の通説の見直しを提唱しておきたいと田⑫います。ごく近年になってですが、ヨーロッパの、とくにドイツ学界の最新の研究動向の一端に接した結果であります。(鋼)K・シュルッは、一二年近く前(一一○○○年六月)、当時私が勤務していた大学の研究所が主催したシンポジウムの統一テーマ(「中世都市と宗教集団」)に則して「シトー派修道会と都市」をめぐるドイツ学界の関心と研究の状況を話してくれたのでありますが、その報告のなかで、同修道会の一修道院長であり、その出自がケルンの市民、しかも父親の代からはっきりと分かるミニステリアール層に属したカール・フォン・デア・ザルッガッセという人物についてやや詳しく言及しま 法政史学第六十号一一一

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(1)通説批判の動向ところで、中世都市の形成、発展に主導的役割を果たした商人集団をこのように捉えなおすことは、ヨーロッパ都市論の研究視角、中世都市のイメージにも微妙な影響をおよぼすことになるでありましょう。短絡的の誇りを承知であえて一言で申しあげれば、「ヨーロッパ中世都市像の転換」l自由都市論から封建都市論への軸足の移動lであります,最初の段落で概観しましたように、ヨーロッパ学界の研究動向は、「中世都市」が封建社会のなかで発生した「近代の自 入ったケルンの指導的門閥層の子弟も少なくなかった模様でした。ケルンの上層市民とライン地方のシトー会修道院が互いに親近感を持ち近い関係にあったことを示唆するエピソードであります。修道院の方では、ケルン上層市民の加入を通して都市への進出が容易になったのでありました。カール・フォン・デア・ザルッガッセの家族の財産は、ヒンメロート修道院にとって明らかに重要な役割を果たしました。ザルッガッセにある彼の両親の家はライン河港へも直接通ずるホイマルクト(市場広場)に面した中心地にあり、ヒンメロート修道院は、多分二八五年のあと間もないころに、その辺りシユタットホーフに最初の都市居館を設立して都市での活動の拠点としたのでありました。シュルッ氏がこの騎士にして市民という特異な人物に着目したのは、彼の最初のミニステリアール論文に接して以来はじまった学問的対話のなかで私が提起した質問と要請にたいする氏の応答の一環であった、と私は考えております。中世都市の指導的市民層となる商人の出自がミニステリアールであることを明確に示す事例でありました。私は、研究の現段階では、通説の言う農民階層出自の商人グループの存在を排除するものではありませんが、ミニステリアール層に由来する商人たちの活動と彼らがヨーロッパ中世都市の形成、発展に果たした指導的役割を改めて強調して(弧)(”)おきたいとおもっています。と同時にこれらの商人個々人だけではなく、ドイツにおける最近の研究が示すように、組織としての修道会自体が都市とも密接にかかわりつつ中世ヨーロッパの商品流通に関与している事実にも注目してゆきたいと考えております。

ヨーロッパ中世の「都市共同体」と商人集団(魚住) Ⅲ中世都市像の転換

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プラーニッッを頂点とする自由な遠隔地商人重視の中世都市論に対しては、西欧の学会自身のなかで、かなり以前、恐らく二十世紀の六○年代には、その再検討の要請が起こっておりました。すでに別の機会に述べたこともある報告の一部(虹)をかいつまんで繰り返させていただきます。フランスでは、すでに十九世紀になされたさまざまの個別研究を通じて、コミューンを封建的〈の宮の命の己巳の》とする考え方が示唆されており、またコミューンによって成立した都市そのものを「集合領主制」(の①伺口2回①8』}の&ぐの)(A・リュ(蛆)、ンエール)として捉えるような考え方も提示されておりました。プチ・デュタイは、自治論の観点からするコミューン論を拒否し、コミューンは宣誓共同体以上でも以下でもない、と主張しました。プチ・デュタイによれば、中世のコミュー たのでありました。 由」の揺篭であり、封建社会の異物であるという視点と結びついておりました。それを受けた日本の学界では、第二次大戦後の先学たちの精力的な紹介を通して、どちらかと言うと、ヨーロッパ、とくにドイツ中世の「自由都市」という側面が強調されて流布し、日本の「封建都市」と対比されてきました。とくに日本の中世都市における「自由」と「自治」の有無をめぐる議論もあったようですが、多分、日本史の方々の多くは、日本の中世都市は封建社会を構成する大事な要素(犯)の一つと考えていらっしゃるような印象を持っておりました。ドイツの自由な「中世都市」というイメージは、吉同校世界(鋤)史の教科書の記述などにも反映されてきたように田⑬います。私自身は、三十年ほど前の一九七○年のころ、ベルリンの学生たちに日欧比較史の講義をする準備の過程で原田、豊田(側)諸先生のご本を勉強しながら、日欧の中世都市はこんなにも大きくちがうのであろうか?。とまず素朴に驚きもし、同時にこれは何かが変だ、日本の都市についてももう少しいろいろな角度からの突っ込んだ研究が必要なのかもしれないけれども、私自身は本来西欧を専攻する者である以上、ドイツやヨーロッパの中世都市についても、もっと根本的に違った角度から考えなおしてみる必要があるのではないか?と考え始めておりました。日本の都市史と比較してもう少しパラレルな比較のできるドイツ中世都市史を描くことはできないであろうか、という思いにとらわれていたのでありますが、実はその少し前からドイツやヨーロッパの都市史学界でも、従来の通説を大きくゆさぶる可能性を秘めた研究動向が始まってい 法政史学第六十号

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ンは、そのなかに必ずしも「自治」の観点を含むものではなく、共同の利益である平和を求める相互援助のための集団に(蛆)すぎず、コミューン特権の付与ということも都市自治とはかかわりのないもの、とされたのでありました。他方、コミュー(“)ン特権の付与を通して王権が都市との封建的結び付きを強化した、という指摘も示唆的でありました。私たちは、何よりも、封建制の廃棄を最大の課題としたフランス革命自身が中世都市の「特権」を廃棄しているという事実を想起しておきたいと思います。一七八九年のデクレ(忌貝①(政令)は、廃棄すべき封建的特権の内容を列挙していま(幅)すが、そのなかで中世都市の諸特権も数筥えあげていたのであります。ついでに申しますと、中世都市で問題となる「自由」lドイツ語で言えば甸鳳三というのは、実際には、現在の私たちが識っているような近代的抽象概念とはおよそ異質なものであり、現実には句昌彦①言口つまり複数で数え上げられるさまざまの「特権」であった、と一一一一口ってよいと思います。ベルギーの学界では大御所ピレンヌを批判することは難しいという雰囲気もありましたが、それでも第二次大戦後の実証的研究に基づくピレンヌ批判が徐々に表れてきており、都市の多様なタイプ、都市と農村の密接な連繋などが明らかに(妬)されつつある、と報上□されております。ドイツにおいても、プラーニッッ学説に対する批判が二十世紀の六○年代以降、さまざまなかたちをとって出てまいりますが、五○年代中葉にポレーミッシュ(問題提起的)な力作、蔓高罵言言ミミミさ忌冒冒菖のミミ(ヨーロッパ都市の初(仰)期史)を上梓したE・エンネン(ロロ三両目のご)のなかにも、すでにその端緒が見出される、と私は考えています。彼女は、遠隔地商人の役割を高く評価することではプラーニッッの考え方を継承しましたが、プラーニッッがそれを過度に強調したと批判し、自らは、商人たちを中心とするゲノッセンシャフトリヒな共同体的原理と都市領主の百日ロのロのへルシャフトリヒな支配原理の結び付きl複雑に絡み緊張に満ちた結びつきのなかに中世都市の成立を考えたのでした.プラーーーッッが都市領主と市民たちの対立面に注目したとするならば、エンネンは両者の結びつきという側面も見失ってはならない、と示唆したわけであります。ちなみに、都市成立史のトポグラーフィシュな研究との関連で言えば、商人定住区ヴィ(蛆)クミ一戸と領主権力の拠点たるキヴィタスロぐ一己のないしブルク団員、という両要素の融合を強調したのでありました。繰返し言及してきましたように、ヨーロッパ中世都市史の伝統的な通説は、遠隔地商人たちを都市の指導層と考えてま

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いりました。そしてその社会的出自は、人口増加の結果士地から離れざるを得なくなった農民たちの末育であり、封建社会の枠組みから外れたところから上昇してきた人たちであると考えられたのでありました。しかし六○年代末から七○年代になりますと、この中世都市の指導層そのもの、指導層の中味の再検討をしようという動きが出て参ります。私が先程、通説を揺るがす可能性を秘めた研究動向が始まっていたと申しましたのは、この動きを念頭においてでありました。この問題に関して、ドイツの都市史学界に深刻な、ちょっと大袈裟かもしれませんが、衝撃的なと言ってよい問題提起(⑲)をおこなったのは、この時期に公刊されたK・シュルッの「ミニスーナリアール層」に関する一連の論稿でありました。シュルッのミニステリアール論については、前段の商人の出自のところですでに言及いたしました。ここでは研究史の流れのなかで、というコンテキストで、もう一度簡単に纏めさせていただきますcミニステリアール(家人)層というのは、中世初期の非自由民を出自としながら、国王、司教その他の封建領主に用い(卯)られて次第に一種の社会的特権層となっていった者たちでありましたが、、ンユルッ論文は従来の常識に反して、トリーア、ヴォルムスなどライン地方の司教諸都市の指導層のなかにこのミニステリアールたちが多数存在して重要な役割を果たしたことを明らかにしたものでありました。従前のミニステリアール観は、シュルッ氏の言い方を借りれば、第一に、それベアムテが非自由人であることを強調し、第一一に、領主の役人たる性格を近代社会のそれとだぶらせ、第一二に結局のところ封建世界に属するものと考えるものであったのですが、シュルッ論文は、このようなミニステリアール像を、都市史研究との関(別)連で新しい角度から見なおすことを提唱したのでありました。一言だけ解説風に敷桁しますと、このように非自由人で(都市)領主の役人としてその利害を代表する立場にあったミニステリアールが、都市領主に対抗して自由を獲得しようとした市民層の指導者である筈はないというのが従来の常識であり、中世都市を自由の萌芽と捉えようとする潮流のなかにあった主流学説がこれを無視しようとしたことは自然ななりゆきでもあったのでした。シュルッ氏の主張はドイツの学界に大きな反響を呼び、ミニステリアール問題は、早くも一九七○年秋の西南ドイツ都市史学会大会シンポジウムの共通のテーマとなり活発な議論を喚起することになりました。偶々ベルリン滞在中であった私は、フライブルクで開かれたこの学会に出席する機会を得て一二日間にわたる熱気あふるる烈し 法政史学第六十号一一ハ

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い討論に胸をおどらせつつ聴きいったことを想いだします。一つの共通テーマをめぐってあれほど真剣にかつ激しくかわ(皿)された学〈君討論は、私の経験ではちょっと類のないものでありました。もっともミニステリアール層の重要性を都市史研究のなかで提唱したのは、K・シュルッが最初であったわけではなく、すでに前段でも言及したK・W・ニッチュのいわゆる荘園法説にまで、つまり百五十年ほど以前に遡るものでありました。荘園庁の所在地を最初の都市集落の芽生えと考えたニッチュは、初期の都市住民は原則として荘園法の下に組み込まれて多かれ少なかれ不自由という指標を負っており、これらの住民たちの内部では、都市領主に仕えてその都市の料地の管理を任されたこれまた非自由人のミニステリァールたちが指導的地位を獲得した、と説明しました。ミニステリァールたちのなかでも主として軍事奉仕を義務づけられた者たちが後の騎士身分に転化していったのに対し、主として管理機能を営み、聖職者たちとともに司教の顧問的役割を果たした者たちは、その司教が都市領主であったような場合、その下の都市シュタットラー卜パトリッイアートの経済的、政治的発展と密接にかかわり、その結果、例えば後の市参事〈云や都市貴族(ないし門閥)層のなかで大きな影〈岡)響力を獲得していったのだ、というのがニッチュの主張でありました。(別)ニッチュのこの主張は、例えばG・シュモラーなど若干の有力な学者たちの賛同を得たものの、間もなく批判者の数の(弱)方が多くなり、なかでもG・ベローを筆頭とする論者たちの徹底した批判にさらされるなかで学界への影響力を無くしたシユタットレヒトことも、うえで一一一口及した通りでありました。中世都市ないしその都市法の起源を余りに一方的に荘園庁や荘園法に求めようとしたニッチュの構想を批判したこれらの論者たちはその限りでは正しかったけれども、しかし同時にニッチュの設問の実りゆたかな芽までも否定してしまったことは誤りであったと指摘して、ニッチュがかつて見出したミニステリアー(邪)ル層の役割の再考を促したのが、、ンユルッ論文の出発点でありました。(訂)シュルッ論文の詳細については、私の旧稿などを参照していただきたいと田心いますが、ともあれ、彼は、まずトリーァとヴォルムスに関して、次いでバーゼル、フライブルク、ケルンなどにも視野を拡げつつ、克明な実証的操作をおこなって中世都市の指導者たちのなかにミニステリアール層が数多く存在したこと、そればかりか、しばしば市民たちの先頭に立って自分たちの主人である都市領主に対抗した事例を多数検証してみせたのでありました。一○六六年空位となったト

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今までお話してきたこと、そしてそれが本日の報告では中心的トピックの対象範囲であったのですが、それはヨーロッパ中世都市史のなかでも、どちらかというとその初期史I都市の成立から最初の発展期(地域や個々の都市によって差異はあるでしょうが)大まかに一一一一口って十一世紀末から十二・十一二世紀までのころを念頭にしたものでありました。この時代を背景に「都市共同体」の三三三一プラーニッッーというタームで記述された「共同体」l遠隔地商人の主導するlの中味が問題となり、それが封建社会に属する蔀市)領主とどのようにかかわったのかが問われたのでありまし 法政史学第六十号一八

フ#1クトプルクグラーフリーァ司教の後任をめぐる反乱において新司教に反抗したディートリヒ(トリーア教〈戸の管理人・城代)やその背後にあって関与したミニステリァールたち、十二世紀の前半に大司教の威信を危険にさらすほどの力を持ったルートヴィヒに代表(閉)されるド・ポンーア家などがその事例でありました。ミニステリァール層の存在は、当初、積極的にはライン河流域地方の司教都市に的を絞って検証され、次いで類似の現象がニュルンベルク、レーゲンスブルク、ゴスラール等について指摘される程度でありましたが、個別研究の進展につれ(”)てその妥当範囲も拡がりつつあると一一一一口ってよいと思われます。またベルギーやフーフンスにも同様な現象が見られなくもありません。以前水野(現斎藤)綱子さんが明らかにされたベルギー・トゥルネイの「聖人衆」(言日のの□①の巴昌)と呼ばれ(㈹)る社会層も同じ系列に属するものと老違えてよいでありましょう。ところでシュルッ自身は、このミニステリアールたちが商人たちと利害関心を共にしたことを強調し、あるいは自ら商業活動に携わったことを示して、彼らが封建世界に属するとする従来の理解の修正を求めながら、そのミニステリアール層を含む都市の市民たちが都市領主に対抗するという図式を描いており、その段階では、大筋としてドイツの伝統的な中世都市論の枠内に留まっていると思います。私自身はそれを読んだとき、彼が注目を喚起したミニステリアール層の存在を別の枠組で捉えなおすことによって従来のヨーロッパの伝統的視角からとは異なる中世都市像を描きだす契機とすることができるかもしれないという思いにとらわれたことだけを由,しあげておきたいと思います。

(2)都市共同体の変容l「ツンフト民主主義」の内容

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ところで本日の報告の重要なキーワードが中世都市の「共同体」である以上、「ギルド」ないし「ツンフト」を避けて通(随)るわけにはゆかないでありましょう。「ギルド」ということばが商工業の団体に則して登場するのは、西ヨーロッパの中世中期以降でありました。十一・十二世紀に始まる市場や都市の発生と前後するころ、ヨーロッパ大陸北西部を中心に史料的確認をみる商人集団l前段で紹介した聖ゴドリク一十一世紀末リンカシャー出生一の伝記の伝える商人集団などl(侭)と、やや遅れて職種別の纏まりをみせる都市手工業者の同職ギルドであります。ゲノッセンシャフトリヒ(横の仲間結合的)な共同体形成に関心の強かった十九世紀・二十世紀初頭のドイツの学界は、この現象に注目し、「ギルド」は、商工業者たちの間に結成された各種の商人たちや手工業生産者たちの同業組合を指す研究上の学術用語となりました。と同時にドイツ語の用法では、商人のギルドを⑦臣①、手工業者のそれをツンフト国目津(後(“)述。英語ではn国津、一}」)と呼称することが共通の了解となって定着しました。ただし「ツンフト」については、後ほど一一一一口 冒頭のまえおきでも触れましたように、「共同体」概念も歴史の産物であり、そのあり方も歴史の展開のなかで変容するはずであり、その意味づけも当然に変化するものであります。中世の「都市共同体」そのものも時代の経過のなかで実質的内容を変えてゆくはずであり、また「共同体」の①白囚昌①という概念を適用すべき具体的対象も常に同じとは限りません。単純な一例をあげれば、今日の報告で主たる考察の対象とした「都市共同体」の発展の一応の到達点とも一言える、そして市民の共同体の中核的拠点となった「市参事会」の日日日(は、中世末から宗教改革期研究の文脈では、多くの場合、むし(い)ろオプリヒヵイト○ヶ口、丙①耳(政治的統治権力)であり、「ゲマインデ」に対立するものでありました。そのときには、当然「ゲマインデ」とは具体的に何であったかを問わなければならないでありましょう。本日の報告では、「共同体」ないし「ゲマインデ」一般の体系的な考察はもちろん、本題とした中世都市史の全時期を詳論する余裕も用意もありませんが、以上のことを念頭におきながら、中世都市共同体の後半部分’十三世紀後半から十四・十五世紀を対象とする研究動向の一端を素描して、若干のコメントを提供することで締括らせていただきたいと考えております。 た。

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ツンフトの起源をめぐっては、不自由な隷属民手工業者の荘園法的緊縛からの離脱ということから説明しようとする論者(K・W・ニッチュ、G・V・シュモラーなど)と自由な手工業者の団体形成を主張する学説(G・V・ベロー、F・〈冊)コイトゲンなど)との激しい論争が続いたのち、後者が多くの承認を見いだしたのでした。時期により地域による差異はありますが、ツンフト特許状の分析を中心とする研究成果から、十四・十五世紀までには、通常一つの都市に数十のツンフトが成立していること、一つのツンフトの成員は十数人から三十人程度であったとする報レールリングゲゼレマイスター生口も残されています。システムが成熟した段階では、徒弟↓職人↓親方という階層構成も整備され、親方だけが正規のツンフト構成員とされています。中世末期から近世初頭にかけては、この階層システムは必ずしも十全に機能せず、親方になれない多量の職人層を生みだし、親方層との深刻な対決関係を生みだす結果となったことにも留意しておきたいと恩 及するような「政治的ツンフト」にのみ使うこととし、それ以前の手工業のギルドは「同職ギルド(組合)」と呼ぶことと(髄)して商人ギルドと区別する方がよいとする幸忌見もあることをお断わりしておかなければなりません。「ギルド」(商人ギルド)は、もともと遠隔地を遍歴する商人仲間が自衛、相互扶助の目的で結成した人的団体でありましたが、彼らが定住地を建設する過程で当該地の居住民をも巻き込むかたちで地縁的な結合体に転化し、都市共同体の成立に連なったこと、そしてその商人たちがその後の都市の発展のなかで都市領主に対抗しつつ市参事会を牛耳る指導層と(髄)なった(H・プーフーニッッ)とするのが一一十世紀中葉の主流学説の骨子であったことは前段で述べた通りであります。「ツンフト」(同職ギルド)は、組合員の労働時間や製品の品質・価格を厳格に協定して成員間の過当競争を排し(対内平等原則)、農村ないし非組合員の商品生産を禁ずる(ツンフト強制。対外独占原則)ことで自分たちの共存共栄をはかることを基本とする団体でありました。十二世紀の前半には職種ごとの自主的な仲間団体として発生したようであります。なお純粋な手工業者以外にも、例えば雑貨商(小売商)、ビール醸造業者、漁夫、魚小売商といった職種も成立しておりま(師)1」た。

(的)い士{す。ツンフト親方層は、発展する都市共同体のなかで中堅的地位にあったのでありますが、自分たちの経済力を自覚するよ 法政史学第六十号

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うになると、市参事会の議席を独占して寡頭政支配を主導する門閥商人層に対抗して自分たちの参政権を要求するようになりました。ドイツの学界は、このときの手工業者たちの蜂起を「ツンフト闘争」ロ自陣百日耳と名付けました。闘争のピークは十四世紀中葉でありました。北ドイツでは商人勢力が強くて、始めから問題にならなかったり、圧殺されてしまった場合が多いのですが、南ドイツやスイスの一部では、ツンフトが市参事会を掌握し、市参事会員の選出をツンフトからという体制lツンフト支配制白目言『鮠三(チューリヒのツンフト体制やケルンのガッフェル三一体制など-1を創りだしたり、そこまではゆかないまでも、市参事会に一定数の代表を送りこんだり、別途、重要事項を議論する集会を併置することに成功した場合もありました。このような状況をⅡして、ドイツの学界では「ツンフト革命」■目津【のぐ・一二目が語られ、ツンフト民主主義国冒{aの’(わ)日・丙『昌のが話題となるほどの評価が与えられました。ただし「ツンフト支配制」の場谷口には、商人も含む全市民がいずれ(、)かのツンフトに属することになった点に留意する必要のあることを申し添えておきます。ついでに付言しておきますと、先ほどちょっと触れた意見l「政治的ツンフト」と「同職ギルド」を区分しようとするIは、たった今述べたツンフト闘争に結集し、ツンフト支配制の創建にいたる組織を「(政治的一ツンフト」と呼ぶこととし、それ以前の手工業者団体を「同職ギルド」として区別しようとするものでありました。ツンフト民主主義論にたいしては、Eミシュヶ三二儲三一が重大な反論lツンフトの「共同体」的性格にかかわるlを提出しております“彼はMニーバーを参照して「時間的余裕の有無」シ三三s三の問題を示唆し、さらに都市の対外政策にも必要な参事会員の教養と経験という観点を加味しつつ、ツンフトを土台とする制度や組織のなかで実際に決定的な役割を果たし得たのは、ほとんどの場合、個々のツンフトの最も裕福で時間的ゆとりもある人びと、(犯)商業活動で成功している人びとであった、ツンフト体制を手工業者たちの支配と同一視してはならない、と警土口しました。中世後期の都市内部の紛争対立の性格を見なおす過程で「ツンフト闘争」ないし「ツンフト革命」という概念を「市民(ね)闘争」、「市民革命」に代えることを提案したK・チョック(【自一nN。【)の発一一一一口もマシュヶの主張の補足的支持となりました。(汎)ツンフト民主主義をめぐる論争は終わってはおりません。ここでは、マシュケの立論は政治組織の人的構成を余りにも

ヨーロッパ中世の「都市共同体」と商人集団(魚住)一一一

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ゲマインデ最後に概括しますと、当初の都市領主支配の時代を脱して「共同体の時代」に入ったヨーロッパの中世都市は、十一一・十一一一世紀市参事会を拠点に都市の自治・自立を確立する商人層(ミニステリァール層を含む)主導の時期を経験したあと、十四世紀中葉以降、市参事会に手工業親方層を加えたいわゆる「ツンフト支配制」(ウェーバーの「平民都市」に相当)に移行する場合とそうでない場合もありましたが、いずれにしても十五世紀末ないし十六世紀以降には、多くの場合、市参事会そのものがオプリヒカイトに変質し、別途横の繋がりを原理に結合する新しい「共同体」の①日囚己①が市参事会に対抗するという図式が描かれるのではないかと考えているところであります。ヨーロッパの中世都市は、このような「共同体」の内実の変化をともないつつ、近世の国家(ないし領邦国家)体制に組みこまれ、国家の変容にあわせて近・現代の都市に連なってくることとなり、その過程で多かれ少なかれその共同体的性格を払拭してきたのでありました。 (だ)土生1」た。 強く押しだし、政治的決定の内容的変化の問題を等閑視した、とする批判のあること、また近代の労働者政党の議員たちでも、実際に労働者である場合は少ないけれども、その政党は労働者の利害を代表し得るし、実際に代表している(K・シュルッ)というコメントもあることを示唆しておきたいと思います。「ツンフト体制」を持つ都市の市参事会員たちの世論依存度も小さくありません。市中の酒場やツンフト会館が都市の政治の直接的反響を見出し、部分的には、事実上の準備のされる場所とさえなった、というのも傾聴に値する指摘であり

(1)三のウの閂三・》三ゴ可&昌冨員の§房&畳.←シ&・]①豊昏ロ・戻函・害のS邑葺.(2)屋壽§烏吻言壽ミミ②』ミミ房』受Cl・以下の叙述は、上掲屋箒・苫や尾形勇他編『歴史学事典、l身分と共同体」弘文堂、二○○三の該当項目(の白日都市など)を参照。(3)三回目日》の.門・ぐ・》の田&(&討鳥「②冒亘ミベ司園員垣苫□冒冴&冒員・]⑫ヨーヨ](4)z房呂.【・壽》言喜ミミ言冒三国震穏ミミミ目・ミミ恥・冒雪誉ミミ》]⑪$ 法政史学第六十号

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(Ⅲ)の。Bす貝斤》二・マロミミミミミ」【目貫日一身ミ冨局.。]⑪S(田)勺冨目の.四・》ト湧昌言ミミ(ご自彊田》]嵩「(佐々木克巳訳『中世都市l社会経済史的試論」創文社、’九七○)など。(Ⅲ)”◎己、》「「ご房&畳啄雪菖ミミニニミミミ》]@$所収の諸論稿。□のHの.》□弓馬ミ目登②s③mご昌試三s⑮【ミニミ号②団曽西§窪言いミニニミミミ・胃のm・ぐ・幻言m・伊・P国目ロ号シ・ご・・]①量魚住・小倉訳(前掲注(9))(妬)前掲魚住・小倉訳「訳者あとがき」。(咄)祠一目一日)国..【目坤ロ目口の四」」のこ■Qの威已房&①向己、のgの印のどの呂旦(日已のQ①島●冒嵐のs①ロの忌日のご曰]]・口ロロ]四・]昌昌ロロロの昌薑Nm‐記の.⑦シ》国。・のP]①き(鯖田豊之訳『中世都市成立論」未来社、’九五九)》□の円の.》句目高のの、亘呂(のロ日ロ①貝の&のロの〔&(》い路Pのシ国□・$》ご全己の局の.》□の』の貝の&①の冨日、の白の一己の》』湯記Pのシ国Q・@』(上記二編は林毅訳「中世ドイツの自治都市」創文社、一九八一一一)》□の局の..□(⑮&豊冴の言のヨミミミミ、宣冒『.ごm←(灯)三〕洋の一の》四・》□{、烏言&③尋&信圃&一向言』召」(世良晃志郎訳『ドイツ法制史概説」創文社、一九七一)(肥)『の【8□(円の貝甸・》○○口、の口』○口の(日のgo□の□の亘のS}Hの口SBpのBmSmぐ巴の。〔ロミミ酋団菖読三○鼠]い]①雪 (7)の一①『穴①.○・.DBS置冴&、の§gい§い&昌閂・》]霊函(8)、ロnケ①円。【・・□(③同菖冴討吝忌量西具専一ご寿豊)量啄S巨詳]、墨(9)mgm・句:三三①亘(①』一s①二①盲「三のs畳・日己①【の:三.寓言薫量隷一ミミ書ミミ.ご記(瀬原義生訳「中世の世界経済」未来社一九六九)已円の。》□(馬ミ弓言&&ごs忌三【ミミミミ⑫国富穏冒昌吻ミミミ言(ミ》]①三(魚住昌良・小倉欣一訳「中世ヨーロッパ都市と市民文化」創文社、一九七八)(、)のS白○一一g四・四・○・(注(5)参照)(Ⅱ)後述注(〃)の文献参照。(E)の。Bす貝斤》二・マロミミミミミ」【目貫日一身ミ冨局.。]⑪S(田)二の目の.四・》ト湧昌言ミミ(焉苫愚田》]嵩「(佐々木克巳訳『中世都市l社会経済史的試論」創文社、’九七○)など。(Ⅲ)”◎己ね.「「ご房&曼号己言ミニニミミミ・]@$所収の諸論稿。□のHの:□弓馬ミ&登②s③mご昌試三s⑮【ミニミ号②団胃項§窪言い言 (5)のSBC一一の【》の..□①宣言の(①1回一言庁巨呂の己□(の弓のの①ごく○日]◎・亘の]←・]昌【宮己の具□①【の.)□一の①(筐(の巨貝の局亘のS&一sの[目・苣忌二s①【■①ロの、富ヰロロロ&のシロワ呂皀巨二mm旨の【坤の〕のどの白ロゴQ益の印巨ロぬく目]]、つロの]』つつ》□の円の.》の(【塁ウ目、田口}耳のgQsのご・一穴のづ『三の、冨沖}一s①幻のぐ○一三・三日]四・]畳【盲目の【(・『・耳『猪]の三など。一一一論文とも□臼の。.□曾冴曼賜m蔵書ミミミミミミミN蔓.ご巴所収。最後のものは瀬原義生訳「ドイツ中世都市の成立とツンフト闘争』未来社、一九七五に訳出されている。(6)、①]○コ『》の.ぐ・雪国員向日の(①ほこロ、□のRQの目のSgの白ロゴの瓜四のの巨口、.顛酌、、.]認の》□①円の.》ロミ[盲、當是冒黄亘冨房&§mミミミミ冨吻量、》

ヨーロッパ中世の「都市共同体」と商人集団(魚住) ]⑭@回

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