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鉅鹿およびその他の耿氏について

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鉅鹿およびその他の耿氏について

著者 岡安 勇

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 46

ページ 19‑32

発行年 1994‑03‑24

URL http://doi.org/10.15002/00011189

(2)

後漢の豪族の任官とその勢力形成について、別稿では扶.(1)風茂陵の耽氏一族に焦点をあてて考察を試みたが、本稿ではこの取氏と前漢時代に同宗の間柄であったと推測される翼州距鹿郡宋子県の取氏あるいはそれと関連する取氏の任官・封地などについて考察し、別稿とあわせて後漢時代の耽氏一族の全体的動向を明らかにしたい。またここで考察する距鹿取氏が後漢王朝の支配機構の中にどのように位置づけられていたかについてもふれ、あわせて後漢時代の豪族の性格を求める手がかりとしたい。 はじめに

後漢における豪族の勢力形成とその展開(岡安)

後漢における豪族の勢力形成とその展開

lとくに距鹿およびその他の耽氏についてI

翼州距鹿の豪族である取氏が扶風茂陵の取氏と同宗で(2)あったと考一えられる根拠は『後漢書』取純列伝に、取純字伯山、距鹿宋子人也。……(李)鉄奇之(Ⅱ湫純)、且以其距鹿大姓……。とあり、取純が距鹿宋子の大姓であることは明らかであるが、一方湫算列伝には、取念字伯昭、扶風茂陵人也。其先武帝時、以吏二千石自距鹿徒焉。とあり、扶風茂陵人の臥算もその先は前漢武帝時期までは距鹿に居住していたのであり、居住地域の一致を指摘できる。また臥算の祖先が吏二千石の官僚出身でもあったことに対し、取純列伝には、(歌)純還京師、因自請日、臣本吏家子孫。

岡安勇

(3)

と述べているように、取純の祖先も官僚であったという共通点がある。このように両臥氏はその出自がともに距鹿に求められ、しかもその祖がともに官僚であったという共通項があるところから扶風茂陵の取氏と距鹿の取氏とはもと(3)距鹿の地の同一下で、前漢武帝時代に扶風茂陵に遷徒されて一族を形成した取氏と引き続き距鹿にとどまって一族の維持をはかった取氏とに分岐したと推測することができる。(4)さて、こうして距鹿の取氏は武帝以後少なくとも一一系統に分れたが、そのうち本拠地の距鹿の耽氏について以下に述べてみたい。距鹿の取氏について前掲取純列伝には、耽純字伯山、距鹿宋子人也。父文、爲王葬濟平尹。(歌)純學於長安、因除爲納言士。王葬敗、更始立、使舞陰王李鉄降諸郡國、純父文降、還爲濟南太守。時

李鉄兄弟用事、専制方面、賓客遊説者甚衆。純連求謁

不得通、久之廼得見、……鉄奇之(取純)、且以其距鹿大姓、廼承制奔爲騎都尉、授以節、令安集趙・魏。とあるように、後漢における距鹿耽氏の祖は臥文である。(5)欧文は王葬時代に翼州南隣の一党州済平尹となり、更始皇帝の時には翼州東隣の青州済南太守として任官されている。その後取文の子取純も李軟によって騎都尉の官に就けられ 法政史学第四十六号

て「趙・魏を安集」する任務を負っているが、出身地距鹿は趙に属し、魏は趙に隣接する地域であり、出身地域に勢力を張る豪族であることが官職につく上での判断材料となっている。こうして取純ははじめ李鉄に従っていたが、その後は劉秀の政権樹立に参画していく。その時のことと(6)して取純列伝更始一元(一一一一一)年の条に、

會世岨度河至那郭、純即謁見、世岨深接之。純退、見

官属將兵法度不與官將同、遂求自結納、鰍馬及繍帛數百匹。世湘北至中山、留純椰郵。と記しているように、在地の豪族であった湫純は郡郭に進軍した劉秀に謁見して軍規整ったその部隊を目の当たりにして劉秀への接近を始めている。ところで、那郭の地は王郎が更始元年に天子と自称して自立した所であり、劉秀がこの王郎を倒して政権樹立の端(7)緒をひ一bいた地でもある。王郎の自立に対する距鹿郡宋子の大姓取純の去就について光武帝紀上更始二(二四)年の条には、(二年正月、光武以王郎新盛)……即馳赴之、信都太守任光開門出迎。世耐因發考縣、得四千人、先撃堂陽・貰縣、皆降之。王葬和成卒正邨形亦畢郡降。又昌城人劉植、宋子欧純、各率宗親子弟、擦其縣邑、以奉光

(4)

武。於是北降下曲陽、衆梢合、樂附者至有數萬人。とあり、湫純は宗族とともに宋子県を挙げて劉秀に帰順している。また取純とともに帰順した宗族について湫純列伝には、

世岨自薊東南馳、純與從昆縦訴・宿・植共率宗族賓客

(9)一一千餘人、老病者皆載木自院、奉迎於育。と記されているように、宗族の中の老病者には万一の時の(Ⅲ)ために棺桶まで用一息させ、他に賓客をあわせて二千余人を率いて貰県で劉秀を迎えたというから、湫純は宗族全員を(u)引き連れて劉秀に帰順してきたものと考えられる。こうして劉秀に従った湫純に対して、上掲の記事に続いて、

秤純爲前將軍、封取卿侯、訴・宿・植皆偏將軍、使與

純居前、降宋子、從攻下曲陽及中山。とあるように、取純は前将軍となり同時に取郷侯に封じられている。臥郷の地名は古来から司隷河東郡に置かれたも(Ⅲ)のとして見》えるが、取純の封ぜ、われた取郷はその出身地銀(旧)鹿に隣接する常山郡にあることか一b、湫純およびその宗族のために根拠地距鹿から近距離のところに新設された封地と考えられる。また、この時には取純の従兄弟の取訴・取宿・取植はみな偏将軍に任じられているが、これと同じ時期に大功を挙

後漢における豪族の勢力形成とその展開(岡安) げたという理由で劉秀から官職を与えられたものとして取算列伝(二四年の条)に、光武見(耽)算等説日、當與漁陽・上谷士大夫共此大功。乃皆以爲偏將軍、使還領其兵。加(歌)況大將軍・興義侯、得自置偏稗。算等遂從抜那郭。とあり、「大功」に対する論功行賞が「偏将軍」の官職授与であったところから、宗族を挙げて帰順した臥純の行動は劉秀によって大きく評価されていたことが理解できる。こうして劉秀の諸侯となり前将軍に拝された取純は、取純列伝に、是時郡國多降那郭(王郎)看、純恐宗家懐異心、迺使訳・宿歸僥其魔舍。世耐問純故、對日、窺見明公軍車臨河北、非有府滅之蓄、重賞甘餌、何以聚人者也、徒以恩徳懐之、是故士衆樂附。今那郵自立、北州疑惑、純錐畢族歸命、老弱在行、術恐宗人賓客半有不同心

者、故幡僥屋室、絶其反顧之望。世岨歎息。

とあるように、当時翼州の郡国の多くが那郭の王郎政権に(川)(旧)はいる状況下で一示族全員を劉秀のもとに集結させ、その帰心を断念するために距鹿の一族の住居を焼却させて宗族の劉秀への忠誠と結束の固さを示したのである。こうして臥純の宗族は全て一団となって行動していたと

一一一

(5)

思われ、歌純列伝に河内郡射犬聚に従軍した時のこととして、時赤眉・青犢・上江・大形・鐵脛・五幡十餘萬衆並在射犬、世岨引兵將撃之。(欧)純軍在前、去衆螢數里、賊忽夜攻純、雨射螢中、士多死傷。:::世岨明旦與諸將倶至螢、勢純日、昨夜困乎。純日、頼明公威

徳、幸而獲全。世岨日、大兵不可夜勤、故不相救耳。

軍誉進退無常、卿宗族不可悉居軍中。廼以純族人臥仮爲蒲吾長、悉令將親属居焉。とあり、取純の軍が赤眉などに襲撃された時に救出に来た劉秀が「卿宗族不可悉居軍中」と言っているとからも湫純の部隊には臥氏の根拠地の距鹿郡末子からここ河内郡射犬(旧)聚まで約一二一一一○キロメートルもの行程を宗族全員が行動をともにしていたことがわかる。宗族の安全を図った劉秀は(Ⅳ)取純の封建された歌郷から約四八キロメートル離れた常山郡蒲吾の地に宗族を遷し、さらに宗族の一員の歌仮を蒲吾の県長に任じている。この遷徒は取氏の安全・保護の面ばかりでなく、地方統治の一手段として取氏一族による在地支配が認められたものとも言えるであろう。一方、景丹列伝に、更始立、遣使者恂上谷、(景)丹與連率取況降、復爲 法政史学第四十六号

上谷長史。王郎起、丹與況共謀拒之。況使丹與子算及冠恂等將兵南歸世岨、世岨引見丹等、笑日、那郵將帥數言我發漁陽・上谷兵、吾柳應言然、何意二郡良爲吾來。方與士大夫共此功名耳。秤丹爲偏將軍、號奉義侯。とあるように、王郎政権の存廃を左右する漁陽・上谷二郡の軍事力が劉秀側に加わったことによりにわかに形勢は逆転して劉秀が優位に立つことになったのである。ただし、王郎勢力を排除するまでにはいたっていなかった。そこで、王郎攻略について献策したのが耽純であり、王郎列伝二四年の条には、明年、光武自薊得(王)郎撒、南走信都、發兵恂秀縣、遂攻柏人、不下。議者以爲守柏人不如定距鹿、光武乃引兵東北團矩鹿。郎太守王饒檬城、數十日連攻不剋。歌純説日、久守王饒、士衆疲敞、不如及大兵精規、進攻那郭。若王郎已謙、王饒不戦自服笑。光武善其計、乃留將軍都滿守距鹿、而進軍那郵、屯其郭北門。……遂抜那郵。(王)郎夜亡走、道死、追斬之。とあるように、劉秀は耽純の進言により王郎の本拠地那郭を攻撃し、ついに王郎を撃破することが出来たのである。こうして河北平定を実現させた劉秀は更始帝と相対する

(6)

勢力として台頭すると、配下の武将たちには劉秀を帝位に推戴する行動がみられるようになる。光武帝紀建武元(二五)年の条には、於是諸將議上尊號。馬武先進日、天下無主。如有聖人

承敞而起、錐仲尼爲相、孫子爲將、猶恐無能有益。反

水不收、後悔無及。大王雌執謙退、奈宗廟肚穣何。宜且還薊即尊位、乃議征伐。今此誰賊而馳驚撃之乎。光武驚日、何將軍出是言。可斬也。武日、諸將蓋然。とある通り、諸将の中の馬武が真っ先に劉秀に帝位推戴を発議しているが、劉秀はその要請に応じる姿勢を全く示し(旧)ていない。さらにこの後の記事にある諸将の要請にもかか(旧)わらず劉秀は帝位に就くことを認めていない。ところが、これに続く光武帝紀には、取純進日、天下士大夫損親戚、笄土壌、従大王於矢石之間者、其計固望其撃龍鱗、附鳳翼、以成其所志耳。今功業即定、天人亦應、而大王留時逆衆、不正號位、純恐士大夫望絶計窮、則有去歸之思、無爲久自苦也。大衆一散、難可復合。時不可留、衆不可逆。(歌)純甚誠切、光武深感、日、吾將思之。とあり、これまで度重なる帝位推戴の要請にも応じなかった劉秀が、取純の説得には辞退することなく帝位に就くこ

後漢における豪族の勢力形成とその展開(岡安) (卯)とを許諾しているのである。こうして取純は劉秀の即位に関与する重要な役割を果たしていたことがわかる。劉秀が即位すると取純も翼州河間国にある高陽に封建されてい(別)づつoこの後、取純は幽・翼州内外の鎮定作戦に従事しているが、臥純列伝建武二(一一六)年の条に、(皿)遣騎都尉陳副・瀧撃將軍都隆徴(劉)場、揚閉城門、不内副等。乃復遣(歌)純持節、行赦令於幽・翼、所過並使努慰王侯。密勅純日、劉揚若見、因而收之。純從吏士百餘騎與副・隆會元氏、倶至眞定、止傳舍。場(羽)構病不調、以純眞定{示室之出、遣使與純書、欲相見。純報日、奉使見王侯牧守、不得先詣、如欲面會、宜出傳舍。時揚弟臨邑侯讓及從兄細各擁兵萬餘人、揚自侍衆強而純意安靜、即從官属詣之、兄弟並將輕兵在門外。場人見純、純接以禮敬、因延請其兄弟、皆入、廼閉閤悉諌之、因勒兵而出。眞定震怖、無敢動者。とあるように、取純は光武帝の命を受けて節を持し、前漢景帝七代の孫の真定王劉揚とその弟臨邑侯劉譲、およびその兄弟を謀反の廉で珠殺している。しかし、耽純の母は真定王劉揚・臨邑侯劉譲と兄弟関係にあるから、臥純は自分を信用して面会に来た伯父(あるいは叔父)を殺害したこ

(7)

とになる。また、この記事から距鹿の取氏一族は漢帝室の一族とも姻戚関係をもち、翼州一帯に勢力を有する豪族であったことが窺われる。この劉氏の謀反を平定したあと歌純は光武帝に地方統治を願い出る。耽純列伝には、純還京師、因自請日、臣本吏家子孫、幸遭大漢復興、聖帝受命、備位列將、爵爲通侯。天下略定、臣無所用志、願試治一郡、蓋力自效。帝笑日、卿既治武、復欲修文邪。廼秤純爲東郡太守。時東郡未平、純硯事數月、盗賊清寧。とあり、東郡太守に任命された。東郡は党州治下の郡であるが、翼州と隣接し、以前歌純が平定した済陰郡・定陶の地もあり、湫純には旧知の土地であった。そのようなわけで、「時東郡未平、純硯事數月、盗賊清寧」したという現象も取純が翼州距鹿の勢族であり、その武勲も周辺に知れわたっていたからこそ生じたことと考えられる。この後数年間取純は東郡を統治し、歌純列伝には、(建武)四年、詔純將兵撃更始東平太守萢荊、荊降。

進撃大山濟南及平原賊、皆平之。居東郡四歳、時發干

長有罪、純案奏、園守之、奏未下、長自殺。純坐免、以列侯奉朝請。 法政史学第四十六号

とあるように、東平・大山・済南・平原の賊を平らげたが、発干の県長の処置を誤ったために東郡太守を免ぜられた。しかし、続く湫純列伝に、從撃董憲、道過東郡、百姓老小數干随車駕涕泣、云願復得欣君。帝謂公卿日、純年少被甲冑爲軍吏耳、治郡廼能見思若是乎。と記されているように、歌純の東郡統治には土地の多くの百姓から支持が寄せられていたのである。建武六年には翼(別)州琢郡高陽から翼州渤海郡東光に封土が変更され、建武八(三一一)年には取純列伝に、東郡・濟陰盗賊薑起、遣大司空李通・横野大將軍王常撃之。帝以純威信著於衞地、遣使秤大中大夫、使與大兵會東郡。東郡聞純入界、盗賊九千餘人皆詣純降、大兵不戦而還。璽書復以爲東郡太守、吏民悦服。(光武)十三年、卒官、論日成侯。子阜嗣。とあるように、東郡・済陰で盗賊が起こると、前述したようにやはり東郡治世の成果を評価されて百姓からも信頼の厚い取純が大中大夫の官に拝されて鎮圧を要請されることになった。さらに、取純の東郡到着によって盗賊九千余人が降伏すると、光武帝はふたたび取純を東郡太守に命じたのである。これは耽純および距鹿耽氏の在地社会における

(8)

さきに掲げた取純列伝にあるように取純には湫訴・耽宿・湫植の三従兄弟があった。欧純が劉秀の前将軍に拝されると彼ら従兄弟もみな偏将軍となっているのはすでに見たとおりである。それではそれ以後の動きについて考察を加えてみたい。(妬)まず、臥純の従兄である歌訴が臥純とともに劉秀に従っ

て偏将軍になったことは前述したが、そのすぐ後に臥訴は

赤眉鎮圧に従事し、都窟列伝に、及赤眉西人關、……光武簿赤眉必破長安、欲乘聾井關中、而方自事山東、未知所寄、以(都)禺沈深有大度、故授以西討之略。乃秤爲前將軍持節、中分麿下精兵二萬人、遣西入關、令自選偏稗以下可與倶者。於是以韓飲爲軍師、李文・李春・程慮爲祭酒、漏惜爲積弩將軍、奨崇爲驍騎將軍、宗飲爲車騎將軍、都尋爲建威將軍、取訴爲赤眉將軍、左干爲軍師將軍、引而西。とあるように、鄙禺の下の赤眉将軍として赤眉鎮圧に従軍して長安の守備についた。また臥純列伝に、 統制力に依存した任命であることを示すものである。この後五年間東郡太守をつとめて歌純は卒している。

一一耽純以外の取氏一族の動き

後漢における豪族の勢力形成とその展開(岡安) (歌)植後爲輔威將軍、封武邑侯。宿至代郡太守、封遂郷侯。(歌)訴爲赤眉將軍、封著武侯、從都禺西征、戦死雲陽。凡宗族封列侯者四人、關内侯者三人、爲二千石者九人。とあるように、臥訴は著武侯にも封じられていることがわかる。取訴の封じられた著武がどこであるか判然としないが、もし王葬時代に定襄を改名して著武としたその地であ(妬)るとすれば、赤眉討伐の従軍地域の関係から井州内の地に封土を与えられたのではないかと思われる。距鹿取氏の活動地域と封土を表示した「矩鹿郡宋子の歌氏一族活動地域一覧表」に見られる通り取氏の活動地域と封土は河北に集中しているが、臥訴の場合は赤眉討伐に加わったため例外的封地になったと考えられる。つぎに、取宿は前述したところからも耽訴とほぼ同様の行動を取っていたことが知られるが、その後のことについて前掲史料にみられるように、歌純が地方官として東郡太守に就任したのと同じように取植は代郡太守に任官され、翼州に隣接する党州の遂郷侯に封じられている。また、臥植は取訴・臥宿と同様偏将軍となっていることは先にみたが、臥純列伝に、初、(歌)純從攻王郎、堕馬折肩、時疾發、廼還詣懐

(9)

鉋鹿郡宋子の耽氏一族活動地域一覧表

法政史学第四十六号

年 氏名 郡名 県名 郷名 記事

欧文 党)I、’

洲I 済平 済南

(11k文)為王葬済平尹。

純父文下、還為済南太守。

。■『ロ一一}』|ロ『。』}三・。}・3-一一一一一一一5-5’5-6’-8l8-8l8l9-0-22一’一|’|l-2-2l2-2l’2-2’2’2-2-3-3』』→』『|』』一一『』一一一一一一一 翼州

ノノ ノノ ノノ

ノノ

司隷 施州

ノノ

尭州 糞州 党州

三'二'二]

尭州 葹州 党什’

趙国 L|]山国 距鹿 常|」」国 矩鹿 距UlE [|」|」」同 河内郡 術'11国 河間国 済陰 真定郡 東郡 來平国 太'」」

済南 平原 束NII 渤海 束Hll

lIlj郵 慮奴 末子 下曲|場

南平 高|場 定陶

発干 東光

lMIl

射犬衆

世祖北至中'11、留純''11籾。

(純)馳帰米子、llu従兄訳・宿・植倶詣上所在虚奴 奉迎於貰

拝純為前将軍、封IIMlll侯。

(DII与(11)()純居前、降宋子、従攻下曲陽及中山。

ノノ ノノ

時赤眉・11ii植・-M二・大形・鉄1M五W|i十余 万衆在射犬、世相引兵将l瞥之。(lll()純軍在前 行到南平柳、諸将復固請之。……11)(純進日

|M1即位、封純高陽侯。

1繩||永於済陰、下定陶。

真定王劉賜・臨邑侯劉譲謀反、iiLim将軍1111(純誹之。

廼拝(W<)純為束祁太守。

詔(lIil<)純》’ Y兵盤更始來平太守萢荊、荊降。

進盤太山済南及平原1Mt、皆平之。

ノノ

届束郡四歳、時発二「長有罪、(11k)純案奏 乃更封(欧)純為東光侯。

璽普復以為束郡太守。

『一『『。-一一一一6一’一一一2一一一一一 11k訳 菰州

ノノ ノノ

ノノ

司隷

「|]ⅡI区I 鈑鹿 距鹿 距腿 [|]山国 左115期

盧奴 貰県 末子 下曲陽 雲陽

(純)馳帰末子、与従兄訴_:_宿・植倶詣上所在腹奴 奉迎於貰

使与(11りく)純居前、降末子、従攻下曲賜及中山。

(李宝弟)殺将軍W<訳。

ノノ

W<宿 魂jトト’

ノノ ノノ ノノ

幽州 葹州

中|」」国 鈑鹿 距鹿 鉋IIE 中111国 代郡 済北国

虜奴 貰県 末子 下曲|場

遂郷

(純)馳帰米子、与従兄訴・宿・植倶詣上所在虜奴 奉迎於fit長1

使与(11)()純居前、降宋子、従攻下曲|場及中山。

ノノ

(11リ|()宿至代郡太守、封遂郷侯。

奉迎於貰

使与('111()純居前、降宋子、従攻下曲陽及[|]山。

ノノ ノノ

劉永於済陰、下定陶

(10)

後漢における豪族の勢力形成とその展開(岡安) 宮。帝問卿兄弟誰可使者、純塞從弟植、於是使植將純誉、純猶以前將軍從。とあるように、取植はその後も取純に従っていたことがわかる。そして岑彰列伝建武二(二六)年の条に、秋、彰破杏、降許郡、遷征南大將軍。復遣朱帖・實復及建威大將軍歌笄、漢忠將軍王常、武威將軍郭守、越騎將軍劉宏、偏將軍劉嘉・取植等、與彰井力討都奉。とあるとおり、この時点まで取植は依然として偏将軍の官職にあったことがわかる。ところが朱祐列伝建武四年の条には、率破姦將軍侯進・輔威將軍取植代征南大將軍岑彰 團秦豐於黎丘、破其將張康於察陽、斬之。とあって、この時には歌植は輔威将軍としてあらわれ、先の偏将軍から遷官しているのが認められる。さらに前掲史

料でもわかるとおり輔威将軍となる一方、耽植は翼州安平

国内の地の武邑侯にもとりたてられている。さて、つぎに臥純の後嗣についてみてみると、取純の子の取阜は東光侯の後を継いでいる。しかし封土はその後更められ、『水経注』巻三十には、准之西有平阿縣故城、王葬之平寧也。建武十三年、世耐更封取阜爲侯國。とあるように、湫阜は父取純の死亡した光武一一一一(一一一七)

年に予州に隣接した揚州の平阿県に移されたと指摘があ

る。とすると、臥阜は父耽純の死の同年に封土を変更されたことになる。また臥純列伝には、(歌)阜徒封筥郷侯、永平十四年、坐同族取款與楚人顔忠識語相連、國除。とあるように、光武一三年以降のいつ頃かは特定できないが筥郷侯に封じられていることが分かる。筥郷の土地がどこであったのかは判然としないが、建武一三年楚の平阿に封じられたことと永平一四(七一)年には同族の歌款や楚の顔忠らとともに楚王英の謀反の罪に連座して封土を失っ

(W()植後為輔威将軍、封武邑侯。

歌仮 翼州 常山国 蒲吾 廼以(1111()純族人111(仮為蒲吾長、悉令将親属居焉。

歌嵩 翼州 距鹿 W〈嵩、字文都、距鹿人。

歌阜 翼州 渤海 東光 東光侯

W(敦 (Ilik阜)同族

歌肝 高亭 粛宗追思(111()純功、紹封(1M()阜子肝為高亭侯。

取騰 翼 高亭 帝復封弟騰

高亭 (I1ll(騰)子忠liiil

取緒 翼 高亭 (W(忠)卒、孫緒嗣。

湫武 翼 翼州長史

(11)

ているところから、筥郷も楚の地にあったと思われる。そうすると耽阜の封土は取氏一族の中で歌訴と同じく例外的に出身地炬鹿郡から離れていたといえる。取阜の嗣子については取純列伝建初二年の条に、建初二年、粛宗追思純功、紹封阜子肝爲高亭侯。肝卒、無嗣、帝復封肝弟騰。卒、子忠嗣。忠卒、孫緒嗣。とあり、取阜の子取肝を高亭侯とし、以下取肝の弟湫騰、その子取忠、その孫取緒がそれぞれ後を襲っている。ここで耽阜の封土筥郷が臥肝の時から高亭に移封されたようである。ところで、これが王葬の時翼州高陽を改めた別称と(妬)しての吉向古一であるとすれば、もと祖父歌純の封地であった高陽に復帰し、以後四代にわたって封地を継承できたことになる。なお、取阜の封土喪失事件に関連して寒朗列伝に、永平中、以謁者守侍御史、與三府橡属共考案楚獄顔忠・王平等、辮連及燧郷侯取建・朗陵侯減信・護澤侯都鯉・曲成侯劉建。とあり、さきに掲げた取阜関係の史料と類似しているが、ここでは歌阜ではなく「取建」とあり、また封爵も筥郷侯ではなく「燧郷侯」とあるのはさきの歌阜の記事から判断 法政史学第四十六号

(泥)して誤りがあるiとする見方もある。しかし、「湫阜」を「取建」と誤り、同時に「菖郷侯」を「燧郷侯」に誤るという二重の誤りを犯すことは考えにくいのであり、むしろ「燧郷侯取建」は燧郷侯臥宿の嗣子であったと判断するのが妥当と思われる。このほか、距鹿取氏一族に属すると考えられるものに取臨・臥武がある。臥臨は『三国志』魏書東夷伝の霊帝建寧二(一六九)年の条に、玄菟太守歌臨討之、斬首虜數百級、伯固降、属遼東。とあるように、玄菟太守となっているが、玄菟郡は翼州に隣接した幽州内の郡である。また湫武については衰紹列伝初平二(一九一)年の条に、(畑)(翼州牧韓)馥長史臥武・別駕閏純・騎都尉沮授聞而諫日、翼州錐鄙、帯甲百萬、穀支十年。衰紹孤客窮軍、仰我鼻息、譽如嬰兒在股掌之上、絶其哺乳、立可餓殺。奈何欲以州與之。(卯)とあり、翼州長史となっているのが見える。ここの歌臨や歌武も先に考察した歌氏の任官同様翼州またはそれに隣接する幽州に任官しているところから、距鹿出身の取氏一族であったと思われる。なお、『三国志』蜀書簡雍伝には、

(12)

翼リII1l距鹿郡宋孑県のIMI<氏一族(距鹿大姓)

歌仮(歌純の族人)蒲吾長 耽款(耽阜と同族)

臥肝77高亭侯 ②’⑦臥純(伯山)歌阜

←〆 ①歌

(更始騎都尉・前将軍東・歌郷侯)高陽侯筥前将軍・東郡太守・東光侯 光侯、37平阿侯郷侯、71国除 王萎済平尹更始済南太守⑪歌騰歌緒高亭侯

歌武(文威)191翼州牧長史

中心 ⑫歌

高亭侯・32大中大夫・東郡太守・37卒

臥臨169玄菟太守歌訴偏将軍・赤眉将軍・著武侯④⑧歌宿歌建

傭将軍・代郡太守・遂郷侯⑤歌植26偏将軍・28輔威将軍・武邑侯

歌嵩(銀鹿の人)

||員巡蝿呈黒むIC噸曇e熟R聖置戸UWe幽霊(垣蝋)

(13)

本稿で取り上げた翼州距鹿郡宋子県出身の歌氏一族は、後漢の祖である臥文からその子臥純の時代に劉秀の河北平定の軍事行動に参画し、後漢成立に当たって重要な役割を果たしている。その結果、歌氏には封地が与えられることになるが、その封地は原則として翼州あるいは幽州・党州の河北地域の土地が用意されていた。また後漢成立前後の戦乱期は別にして、臥氏への任官も原則として出身地の翼州を中心とする河北地域を統治する地方官職である傾向が見受けられた。このように後漢時代の距鹿歌氏の活動地域を追跡してみると、そのほとんどが出身地の翼州を中心と 簡雍字憲和、琢郡人也。……。とあり、ここに斐松之が注して、或日、雍本姓取、幽州人語謂臥爲簡、遂随音建之。とあるように、幽州では「歌」を「簡」といい、ここの簡雍ももとは欣雍であったということから、翼州に隣接する幽州琢郡に後漢末期にも取氏の存在していたことがわかる。最後に、以上考察してきた距鹿歌氏一族の系図を掲げておくことにする。

おわりに 法政史学第四十六号

する河北地域に限定されることが判明する。これは距鹿の湫氏一族が翼州さらには隣接する河北諸州に影響力を有する在地の豪族としての性格が強かったことに由来するものと思われる。すなわち後漢時代の矩鹿取氏(別)は「在地支配型豪族」とでも一一一一口うべき存在であったと思われる。一方、後漢王朝は政権樹立当初から在地に影響力を持つこのような豪族の存在とその重要性を認識し、王朝の地方統治にこの「在地支配型豪族」の地方社会における統治能力を活用したのである。つまりこれは、後漢王朝が「在地支配型豪族」として在地にその存立基盤を持った豪族を地方社会の支配機構の一端に位置づけたものとして理解すべきであり、本稿で考察した距鹿の取氏一族が後漢末期まで存続し得たのもその政策の反映と言えるであろう。

(1)未発表。近く発表の予定。(2)以下に掲げる史料のうち『後漢書』を出典とするものは本論では本紀または列伝・志のみを記すことにする。(3)『謝承後漢書』鄭弘伝に「武帝時、徒強宗大姓、不得族

=二

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居」とある。(4)『漢書』王商伝に「前頻陽臥定上書言(王)商與父傅通…・・・」とあり、また『後漢書』漏異列伝に「於是北地諸豪長臥定等、悉畔院鴛降」とあり、左嬬翔頻と北地郡にも欧氏の存在が確認される。(5)『漢書』地理志上の党州済陰郡の条に「(王)笄改定陶日済平」とある。(6)『後漢書』光武帝紀上参照。(7)『後漢書』光武帝紀上など参照。(8)ここの李賢注に引かれた『東観記』には、「王郎畢尊號、欲收純、純持節與從吏夜逃出城、駐節道中、詔取行者車馬、得數+、馳歸宋子、輿従兄所・宿・植倶詣上所在虜奴、言王郎反状」とあるように、「従兄」とする。(9)「育」は「賞」の誤りという。施之勉『後漢書集解補』第一一冊(中国文化大学出版部、’九八四年)三九七頁参照。(皿)ここの李賢注参照。なお『三国志』蜀書諜周伝には「歌純・劉植之徒、至干輿病商棺」とある。(u)張鶴泉「東漢宗族組織試探」(「中国史研究』’九九三年第一期)でも「臥純が宗族全体の統率者に違いない」と理解している。(皿)『漢書』巻二十八上地理志には河東郡皮氏の条に「取郷、古耽國、晉献公滅之、以賜大夫趙夙」とあり、『後漢書』郡国志一河東郡皮氏の条に「皮氏有耽郷」とあるが、

後漢における豪族の勢力形成とその展開(岡安) 前後漢書とも常山郡には「臥郷」の地名は見えない。(B)『後漢書」李賢注には「梛元注水經日、成郎北有臥郷、光武封歌純爲侯國、俗謂之宜安城。其故城在今恒州藁城縣西南也」とある。(u)『後漢書』王郎伝に「立(王)郎爲天子。・・・…移撤州郡日……於是趙國以北、遼東以西、皆從風而摩」とある。(旧)『東観漢記』巻十には「耽嵩、字文都、距鹿人。……王葬敗、盗賊起、宗族在兵中、穀食磯貴、人民相食、宗家數百人、升合分糧。」とあり、臥純の宗族の一員に耽嵩なる人物の存在したことがわかる。(旧)讃其壌主編『中国歴史地図集』第二冊(地図出版社一九八二年)に拠り、直線距離で求めた。(Ⅳ)潭其醸主編『中国歴史地図集』第二冊(地図出版社一九八二年)に拠り、直線距離で求めた。(旧)『後漢書』光武帝紀建武元年の条参照。(Ⅲ)『資治通鑑』光武帝紀建武元年の条にはこの記事に続いて「行到南平疎、諸將復固請之。王不許」とある。(別)『三国志』蜀書諸葛亮伝にも、「(諸葛)嘉日、昔呉漢・欣算等初動世帆即位、世岨酔讓、前後數四、臥純進言日、天下英雄隅隅、翼有所望。如不從議者、士大夫各歸求主、無爲從公也。世岨感純言深至、遂然諾之。」とあり、劉秀に対する耽純の帝位推戴の要請が受け入れられて即位に至ったことが記されている。(Ⅲ)『後漢書』臥純列伝参照。

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(明)校点本『後漢書』寒朗列伝校勘記には[按、集解引惠棟説、謂耽純傳宿封燧郷侯、非建也。坐楚事爲歌阜、以東光侯徒封筥郷侯。「随」當作「筥」、建當作「旱」]とある。(羽)ここに引かれた『英雄記』には「耽武字文威。聞純字伯典。後衰紹至、馥從事十人棄馥去、唯恐在後、濁武・純杖刀拒、兵不能禁、後令田豐殺此二人」とある。 (〃)『漢書』地理志上啄郡の条には「高陽、芥日高亭」とあ (妬)注(7)参照。(邪)『漢書』地理式 (胆)『後漢書』光武帝紀李賢注には「楊、景帝七代孫」とある。なお『後漢書』光武帝紀および『資治通鑑』には「劉楊」とある。(閉)『資治通鑑』光武帝建武二年の条の李賢注には「男子謂姉妹之子爲出。純母蓋眞定宗室之女、故楊不疑而來見純。」とあり、臥純は劉楊の甥であるとする。(別)東光侯となった経緯について『続漢書』には「上令諸侯就國、純上書自陣、前在東郡案殊啄郡太守朱英親鳳、今國属啄、誠不自安。制書報日、侯前奉公行法、朱英久吏、曉知義理、何時當以公事相是非。然受堯舜之罰者不能愛己也已更揮國土、令侯無介然之憂。乃更封純爲東光侯」とあるように、啄郡における自己の身の危険を感じた欣純が封土の変更を申し出たことによる。 法政史学第四十六号

る。 る。 『漢書』地理志下定襄郡の条には「定襄葬日著武」とあ (釦)「後漢書』衰紹列伝初平元年の条に引く『英雄記』には「別駕從事歌武」の名が見える。(別)伊藤敏雄「魏晋期における在地社会と国家権力」(『歴史学研究』六四五・六五一号、青木書店、一九九三年)には後漢の豪族の性格について学説史をふまえたまとめがあるので参照されたい。

参照

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