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ナボコフとプラハ

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ナボコフとプラハ

諫 早 勇 一

ウラジーミル・ナボコフは1919年にロシアから亡命した後、イギリス(22 年まで)、ドイツ(37年まで)、フランス(40年まで)の3カ国に暮らし、

1940年アメリカに移住した。その意味で彼のヨーロッパでの亡命生活は何よ りもこの3カ国と結びついているといってよい。しかし、15年間暮らしたド イツは別として、彼の生活にとってチェコスロバキアはフランス、イギリス にも劣らない重要な意味を持っていた。なぜなら、そこには彼の母エレーナ とオリガ、エレーナの妹たち、末の弟キリルが暮らしていたのだから。

1921年チェコスロバキア政府は大統領トマーシュ・マサリクの提唱で、ロ シア(及びウクライナ)のインテリゲンチャを物質的に援助することを決め、

翌年5000万コルナをそれに当てる法案が可決された1。そもそもチェコスロ バキア政府がそのような措置を決定した背後には、第一次大戦と内戦を戦っ たチェコスロバキア軍がロシアから金貨を持ちかえった償いという意味があ ったらしいが2、その事情はさておき、チェコスロバキアに住むという条件 で著名な亡命者の未亡人にも年金を支給するという提案は3、夫を不幸な事 故で失った4失意のエレーナ・ナボコフにとって魅力的なものだった。1923 年10月母と妹のエレーナがまずプラハに移り、同年中にはもう一人の妹オリ ガと末の弟キリルもそれに続いた5。以来母エレーナは1939年に没するまで プラハに過ごすことになり、ナボコフにとってチェコスロバキア、そしてプ ラハは何よりも愛する母の住む国と町になった。

そして、ナボコフ自身母の死までに7回ほどチェコスロバキアを訪れてい る。まず1923年12月に弟キリルを連れてプラハを訪れたのが最初の訪問で、

この時は翌年1月下旬まで家族とともにここに滞在した。1924年には7月と

「言語文化」4-4:683−702ページ 2002.

同志社大学言語文化学会©諫早勇一

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8月にそれぞれ10日から2週間ほどチェコスロバキアを訪れているが、7月 はヴェーラとの婚約を報告するためだったらしい6。この時ナボコフと母は プラハ近郊のドブジホーヴィツェのホテルに泊まっているが、ドブジホーヴ ィツェには8月にも滞在し、丘を散策しながらくつろいだ時を過ごしている7。 ヴェーラとの結婚は翌1925年4月で、同年8月には彼女を連れてプラハを訪 れ、今度は同じくプラハ近郊のラードチョヴィツェの小さな別荘で2週間を 過ごした8

このように母のプラハ移住から2年足らずの間にナボコフは4回チェコス ロバキアを訪れているが、5度目の訪問は5年後の1930年5月のことだった。

Boyd  はこの時母がすっかり変っていて、宗教によって蘇ったように陽気だ ったことを伝えているが9、父の死後ずっと喪に服したように沈んだ母しか 知らないナボコフにとって、その変化は好ましいものだったろう。6度目の 訪問は1932年4月だったが、この時の印象はやがて長篇小説『絶望』(1934)

に結実することになる10。そして、最後はパリからスイス・オーストリア経 由で1937年5月22日にプラハを訪れたもので、既に4月末にベルリンを脱出 していた妻ヴェーラと息子のドミトリイ(1934年生まれ)とここで合流した11。 そして、6月23日ナボコフは母と最後の別れをした後、マリアーンスケ・ラ ーズニェを経て、6月30日一家でパリに到着する12。以来母危篤の報を受け ても、ナボコフはプラハを訪れることはなかったし、母の葬式にも出席でき なかった。Boyd  は言う。「父の非業の死以来、彼のヨーロッパ生活における 最大の悲劇は、母を養うことも、自ら望むほど多くの時間母と一緒に過ごす こともできなかったことだった」13と。プラハに住む母のことはずっとナボ コフの頭から離れなかったが、自分の家族をようやく養えるほどの貧しさで は、母の生活費を補助することさえ容易ではなかった。だが、一つ解決策が あっただろう。彼の一家もチェコスロバキアに住めば、問題の多くは解決し たはずなのだから。

石川達夫氏が『黄金のプラハ』で語っているように、「中世以来、プラハ への賛辞を惜しまなかった人々は枚挙にいとまがな」14かった。しかし、ナ

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ボコフのさまざまな発言を見る限り、彼はチェコスロバキアにそしてプラハ に決して好印象を持っていたとは考えられない。むしろ、その発言の多くは きわめて否定的なものである。例えば、最後のプラハ訪問の直前に当たる 1937年2月20日に妻ヴェーラに宛てた手紙では、「何年もかけて、かくも多 大な努力の末に、ようやくロンドンやパリと太いパイプをつくったというの に、突然すべてを投げ棄てて、何もないチェコスロバキアの荒れ地に行かね ばならないなどということがあっていいものだろうか」15と語り、老齢に達 した母と同居する可能性をきっぱりと否定している。「何もないチェコスロ バキアの荒れ地」に当たる英語16は the wilds of Czechoslovakia17だが、この表 現は6度目のプラハ訪問の後に書かれた『絶望』の記述を彷彿させる。

『絶望』の冒頭で主人公ゲルマンは商用でプラハを訪れ、この町の郊外を 散策する。丘陵地を散策するゲルマンの眼には、遠く靄に霞むプラハの町が 見えるが、全体の印象は Dreary  and  barren  country18( Унылые, бесплодные места19)  というものだった。この日のことをゲルマンは後にも語っている が、そこでも on a patch of sickly grass near Prague20(начахлойтравезаПра- гой21 )  とある。ナボコフにとってチェコスロバキアの野はなぜかやせた、

不毛なイメージを連想させるようだ。

さて、プラハの丘の散策といえば、詩人ツヴェターエワとの散策が思い起 こされる。この思い出はロシア語版の自伝『他の岸辺』(1954年)に「春の 強い風が吹いたある時、1923年だったろうか、プラハのどこかの丘をツヴェ ターエワと奇妙に抒情的な散策をしたことがあった」22と記されているが、

英語版の自伝23では削除され、代わりに「二重スパイの妻で天才的な詩人だ ったマリーナ・ツヴェターエワは30年代終わりにロシアに戻って、そこで死 んだ」24とあるに過ぎない。ただ、この記述が事実だったことは Boyd によっ て確認され、1924年1月24日という日にちまで特定されている25。そして、

スタルクはこうした記述をもとにツヴェターエワとナボコフは言われている26 以上にお互い同士尊敬しあっていたと論じ、ツヴェターエワの転居後、ナボ コフの母の一家が彼女のアパートに引っ越したという事実まで指摘している27。 その転居理由がスタルクのいうように、「ツヴェターエワがとても好きだっ た、町の見える山の上のアパートが、ナボコフにも気に入って」28いたため

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かどうかは速断できないが、ツヴェターエワとの思い出にまつわるプラハの 丘はけっして陰鬱な色合いに染められてはいない。だが、その後ナボコフに とってはチェコスロバキアだけでなく、プラハの町自体も否定的なイメージ に塗り込められることになる。

Boyd  はその浩瀚な評伝の中で、ナボコフ自身がプラハに関して述べた記 述を二つ引いている。一つは1932年4月8日と11日に妻ヴェーラに宛てた書 簡で、それを根拠に Boyd  は「この町の美しさに惹かれなかった彼は、この 町をあいかわらずみすぼらしくて、泥に汚れたように感じ、古くてきたなら しい記念碑の上のカラスに閉口していた」29と語っている。もう一つは1971 年4月に Alan Levy が行ったインタビューからの引用で、ここでナボコフは プラハのイメージを「寒々とした川にかかった寒々とした橋、雨、どこかの 礼拝所の濡れたガーゴイル」30と要約した。チェコスロバキア、そしてプラ ハはナボコフにたえずみすぼらしく、寒々とした印象を与えて続けている。

もちろん、ある町を美しいと感じるか、うす汚れて感じるかは多分に主観的 なものであり、ナボコフがプラハの町の美しさを認めなかったからといって、

プ ラ ハ の 町 の 価 値 が 下 が る も の で は な い 。 だ が 、 こ こ で 「 ガ ー ゴ イ ル gargoyle 」という語が用いられていることは注目してよいだろう。

ガーゴイルは「樋嘴」などと訳され、怪物のような奇怪な形をした雨樋で、と りわけ11世紀から13世紀にかけての中世のゴシック建築に特徴的だった31。 一般にはフランスのノートルダム寺院

のガーゴイル(もはや雨樋の機能は失 っている)が有名だが、プラハ城にあ る聖ヴィート大聖堂も壁一面ガーゴイ ルに溢れている32。しかし、ガーゴイ ルはけっしてプラハ独特のものではな く、むしろ全ヨーロッパ的なものだか ら、ナボコフが寒々としたプラハのイ メージとこれを結びつけているのは奇 妙に思える。また、ナボコフが建築、

あるいはゴシックについて積極的に論

聖ヴィート大聖堂のガーゴイル DK Eyewitness Travel Guides: Prague, Dorling Kindersley, 2001, p. 100.

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じたものは現在知られていないから、ナボコフが特にゴシック建築に嫌悪感 を抱いていたとは考えられない。とすれば、ここでプラハのイメージとガー ゴイルとを結びつけているのは、何か歴史的・芸術的背景を踏まえてのこと ではなく、あくまで見た目のイメージによるものと考えるべきだろう。首を 長く伸ばして口を開けた怪物のうつろで物悲しいさま、それがナボコフにと っては寒々としたプラハのイメージと重なり合っていたにちがいない。

ただ、チェコスロバキアと建築という観点からは、短篇「雲、城、湖」

(ロシア語題名は「雲、湖、塔」、1937)にも一言触れておく必要があるだろ う。この作品はナチス政権のもとで、善良な亡命ロシア人が旅行中にドイツ 人たちから迫害を受け、人間であることにも耐えられなくなるという悲劇的 な話だが、主人公は旅先で偶然見つけた、窓辺から城と湖が見える家に生涯 暮らしたいと切望する。そして、その城と湖は1937年ナボコフが最後にチェ コスロバキアを訪れて、マリアーンスケ・ラーズニェに滞在した際の印象が もとになっているとされている33。Shrayer はそのモデルとなったボヘミアの 古城をいろいろと探求しながら結論には至っていないが34、チェスのルーク のような平たい「塔」を備えた古城のイメージは、聖ヴィート大聖堂のよう なたくさんの尖塔を飾ったゴシック風の建築とは著しいコントラストをな す。もし短篇の主人公同様ナボコフにとってもこのボヘミアの古城が好まし いものだったとしたら、それはゴシック的なものへの反感の裏返しになって いる可能性は否定できない。

だが、これ以上ゴシックへの深入りは控え、ガーゴイルに話を戻そう。実 はガーゴイルは寒々としたプラハのシンボル以上のものを示唆しているかも しれないのだから。

ナボコフの作品中いわゆる独裁国家を扱った代表的な小説には『断頭台へ の招待』(1935−36年)、『ベンドシニスター』(1947年)があり、短篇でも

「独裁者殺し」(1938年)が同様のテーマを扱っている。そして、『ベンドシ ニスター』に関して、インターネット・フォーラム( NABOKV-L  )で興味 深い指摘があった35。主な論点を引いてみよう。

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I have a rather clear, personal, mental image of the early scene in «Bend Sinister» in which Krug tries to cross a bridge which spans a river dividing his home city. In my mind, the scene is set in Prague, on the Charles Bridge. ... Nabokov’s mother died in Prague in May of 1939, so the city would still have been very fresh in his mind at the time of writing Bend Sinister in 1945. In the «Introduction» to the TIME edition of that novel, Nabokov calls our attention to Kafka by affirming that the novel, like Invitation to a Beheading should not be compared to the works the author he calls «the great German writer». Clearly, «the crazy-mirror» world of Bend Sinister is no real place at all, but an imagined small, westernized country recently under the yoke of a soviet-style tyrant, where the language of the country is «a mongrel blend of Slavic and Germanic». This seems as close to mid-twentieth century Czechoslovakia as anywhere else.

つまり、ここで Schuman  は、プラハが『ベンドシニスター』の舞台のモ デルになっていると推察し、作品の冒頭に出てくる橋をカレル橋ではないか、

と推論している。その根拠36は十分とはいえないが、この推論は無視できな い。そして、実は『ベンドシニスター』第3章にもガーゴイルが登場してい るのだ。そこで語り手は O my strange native town! 37と呼びかけた後、その町 に特徴的なものを列挙しているが、そこに the  exuded  gargoyle 38も挙げられ ている。既に述べたように、ナボコフにとってガーゴイルはまずプラハの町 と密接な結びつきをもっていたのだから、小説の舞台としてプラハが念頭に 置かれていた可能性はなおいっそう大きいと言ってよい。

さらに、短篇「独裁者殺し」の結末に近い第16章にはThat day his fiftieth birthday was to be celebrated, and already people, looking against the snow like black quarter notes, were creeping out into the streets39(下線は引用者)という 記述があるが、おそらくナボコフが妻ヴェーラに宛てた書簡を根拠に、雪の プラハの町でナボコフが見た光景を Boyd  はBy day he gazed out at people crossing the Vltava, like musical notes on a page against that background of snow40

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(下線は引用者)と描いている。雪を背景にした(黒い)音符のような人々 のイメージは酷似しており、「独裁者殺し」の舞台となった町もプラハをモ デルにしていた可能性がある。とすれば、独裁国家を扱ったとされる代表的 な3作品のうち2つもがプラハと浅からぬつながりを持つことになり、プラ ハはナボコフにとって独裁国家の首都という芳しからぬイメージを担うこと になる。そして、この文脈で考えれば、ガーゴイルは被抑圧者のシンボルと もとらえられかねない。ガーゴイルと結びつくようなプラハのイメージは否 定的な色彩に塗り込められている。

もちろん、ナボコフのヨーロッパ亡命時期のチェコスロバキアを独裁国家 と呼ぶことはできないし、ナボコフ自身がこの国をそう考えていたはずもな い。とはいえ、ナボコフのほぼ一貫したチェコスロバキア嫌い、プラハ嫌い を考えるとき、その理由をたんなる風土的な理由(やせた土地、寒々とした 光景)に帰するだけでは不十分だろう。そこにはもっと別の理由もあったに ちがいない。

さて、プラハはロシア人亡命者たちにとってパリ、ベルリンにつぐ「第三 の中心地」41とでもいうべき存在だったが、グレーブ・ストルーヴェによれ ば、この地はしばしば「ソビエト文学志向」42と言われていたという。また、

マレヴィチは、プラハのロシア人は亡命者の中で「もっともラジカルな部分」

であり、ユーラシア主義のような「あらゆる亡命の〈異端〉はまさしくプラ ハから発した」43と述べている。とすれば、ナボコフにとって憎むべきは

(ロシア人亡命者たちに暖かい救いの手をさしのべてくれた)チェコスロバ キア政府ではなく、プラハを中心に活動する亡命ロシア人たちではなかった のか。以下しばらく当時のプラハの亡命ロシア文学界を眺めてみよう。

プラハの亡命ロシア文学を考えるとき、まず注目されなければならないの は、1920年9月に新聞として創刊され、その後週刊誌から月刊誌へと変貌し ながら1932年5月まで連続して刊行されて、「現代雑記」( Современныеза- писки)につぐ総合雑誌の地位を占めていた「ロシアの意志」(ВоляРоссии) と、その文芸欄を足場に親ソ的な立場を標榜していたマルク・スローニムで

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ある。そして、それにつぐのがカレル大学で教鞭をとっていたアルフレッ ド・ベームと、彼が主宰する文学サークル〈詩人の庵〉( Скитпоэтов )44だ ろう。なお、ナボコフの末の弟キリルは〈庵〉の正式メンバーであり45

「ロシアの意志」にも詩を発表していたが、ナボコフは1931年2月25日に母 に宛てた手紙の中でキリルの詩を酷評した後、「もっとも、〈ロシアの意志〉

でぼくが読んだ詩はみんなおんなじレベルですが」46と述べて、「ロシアの意 志」への侮蔑をあからさまにしていた。また、ナボコフ夫人のヴェーラは旧 姓がスローニムでマルク・スローニムの遠縁に当たったが47、マルク・スロ ーニムに対する夫の敵意(ヴェーラの伝記を書いた Schiff によれば、スロー ニムは毎月ソ連から金をもらっているとナボコフは信じていたという)に応 えるように、自分とスローニムとの間には一切血のつながりはないと主張し ていたという48。ナボコフとプラハの亡命ロシア文学界の間には深い溝があ ったにちがいない。

ただ、だからといって「ロシアの意志」やスローニムとナボコフの間に何 らかの文学論争があったわけではない。ナボコフとアダモーヴィチやゲオル ギイ・イワーノフとの確執、雑誌「数」とナボコフとの敵対については幾度 か論じたことがあるので49、ここでは繰り返さないが、「ロシアの意志」は 雑誌「数」のようにナボコフを酷評してはいなかったし、スローニムはアダ モーヴィチとは違って50ナボコフの作品に一定の理解を示していた。たとえ ば、「ロシアの意志」1931年3-4号では、Ал.  Н.  (ノヴィク)が「雑誌文学」

と題した記事の中で「現代雑記」が若い世代に扉を開いたことを歓迎しなが ら、「最も面白い若手作家」として「シーリンとガズダーノフ」51(シーリン は亡命作家時代のナボコフのペンネーム)の名前を挙げているし、スローニ ムも「ロシアの意志」1929年10-11号に掲げた「文学日記−亡命の若い作家 たち」という論文の中で、シーリンは「いささか単調な詩人だが、なかなか 悪くない散文作家」52だと留保つきながらその価値を認めている。もちろん、

その賞賛は手放しにナボコフを亡命の若手作家の第一人者とほめたたえるも のではないが、「ロシアの意志」が1932年に廃刊となったことを考えればそ れもある程度理解できよう(ナボコフは1929-30年にかけて「現代雑記」に 連載された『ディフェンス』によって一躍亡命文学界全体に及ぶ名声をうる

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が、『断頭台への招待』、『賜物』といった傑作が発表されるのはまだ後のこ とだ)。少なくとも表面的にはナボコフとプラハを拠点とした「ロシアの意 志」、スローニムやベームとの間に敵対関係は見出せない。

だが、公にはされなかったとはいえ、スローニムをソ連のスパイとみなす ほどナボコフは内心では彼らを嫌っていたとしたら、その原因はどこにある のか。それを知るためにまずスローニムの文学的立場を整理してみよう。

亡命ロシア文学史の権威ストルーヴェによれば、1926年頃から亡命文学の 可能性・未来についての論争が白熱化したというが53、その中で最も亡命文 学に否定的な立場をとり、未来はソ連文学にあると主張したのがマルク・ス ローニムだった。「ロシアの意志」1931年7-9号に掲載された彼の論文「亡命 文学に関する覚書」から引けば、彼は「亡命文学の偉大さ、その救済的な意 義」54は幻想に過ぎないと考え、それは「使命を果たしたり、文化を救済し たりするどころか、ゆっくりと滅びつつある」55と説く。そして、亡命文学 が発展しなかった理由を「よかれ悪しかれロシアで起こっている文学発展の プロセスから、肉体的にも精神的にも切り離されている」こと、「亡命作家 の生活が、生きた国民的環境からまったく孤立し分断された状況下に流れて いる」56ことに求める。スローニムによれば、ロシアの小説は「つねに日常 的で、国民的で、〈現代的〉、すなわち現実の生活内容に満ちた小説」57だっ たから、「生活の生きた流れ」58からの断絶は致命的になる。亡命文学はロシ アではまったく知られず、「ロシア芸術の発展に寄与する可能性を物質的に 奪われて」59おり、若い世代はそうした「自分の状況のあらゆる困難と悲劇 性」60を十分認識しなければならない。これまでの亡命文学を総括すれば、

それは13年間に「一つとして文学的傾向も、偉大な芸術的価値も、生きた理 念も創り出さなかった」61と言わざるをえない―そうスローニムは主張する。

もちろん、1920年代のロシア亡命文学をどう評価するかに関しては、スロ ーニムの主張にも理はあるし、1920年代のソ連文学が亡命文学に比して多彩 で生き生きとしていたという評価も可能だろう。だが、問題はそうした評価 以上に、スローニムの文学観にある。スローニムは文学を国民生活と切り離

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せないもの、かなりの程度まで現実生活を反映したものとしているが、ナボ コフの文学観はそれとは相容れない。また、スローニムは論文の結末近くで、

「こうした若者は、同時代人の拍手や歴史による死後の報償を期待すること なしに、働き、書くだけの力を己のうちに見出せるだろうか」62と疑問を投 げかけているが、この問いかけこそナボコフにとって反駁せねばならない俗 論だったのではなかろうか。それを検証するために、時代は下るが彼の代表 的なロシア語小説『賜物』( 1937-38, 195263)を眺めてみよう。

『賜物』は主人公フョードル・ゴドゥノフ−チェルディンツェフが作家と して成長していく過程を中心に据えた一種の教養小説だが、その主人公の性 格上作品にはナボコフ自身の見解とほぼ一致すると考えられるさまざまな文 学観・芸術観が満ち溢れている。たとえば、よく引用される第3章に埋めこ まれた64詩(「おお、誓っておくれ、作り話を信じると、フィクションだけ に忠誠を貫くと、己の魂を牢獄に閉じ込めず、手を伸ばして壁だ、などと言 わないことを。」65)は疑いもなく、虚構(フィクション)をたたえるナボコ フの文学観を反映して、「最良の芸術は幻想的なまでに欺瞞的で、複雑だ」66 といった後の彼の発言とも響き合う。こうしたナボコフの文学観がスローニ ムのリアリスティックな文学観と相容れないことは明らかだ。だが、それよ りスローニムの発言と比較して注目されるのは、ロシアとの関係についての 主人公の発言だろう。同じ第3章でフョードルはロシアの現実を嘆いた後に こう考える。

「もうこれっきり祖国への一切の憧れを断ち切るべきだろうか。あ らゆる祖国と手を切るべきだろうか。ぼくとともにあり、ぼくの内に ある祖国、銀色の海の砂が足の裏の皮膚につくようにつきまとい、眼 や血の中で生き続け、人生のさまざまな希望の背景に深さと奥行きを 与えてくれる祖国を除いては。」67

文学は祖国との生きたつながりなしには発展できないというスローニムの 見解に対して、フョードルは正面から反論を試みる。作家にとって必要な祖 国とは、現実のソ連やそこに住む人々の生活ではなく、思い出の中のロシア、

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たとえ物理的に切り離されているとしても、今なお心の中で呼びかけること のできるロシアだとするフョードルの考え方は、スローニムの主張と真っ向 から対立する。さらにまた、若い世代の作家たちは「同時代の拍手」なしに 創作活動を続けられるだろうか、という問いかけには第5章でこう答える。

「もちろん、ぼくにとってロシアの外で暮らすことは他の人よりず っと楽でしょう。なぜなら、いつか帰れるとちゃんとわかっているか らです。第一に、ロシアの鍵を持って出ていますし、第二に、百年後 にせよ、二百年後にせよ、いずれ自分の本の中か、あるいは少なくと も研究者の脚注の中くらいでは、そこで暮らせるにちがいないからで す。」68

この自信に満ちたフョードルの発言は、作家はたとえ同時代人(正確に言 えば、同時代の祖国の人々)に評価されなくても、創作できるという宣言と 読めるが、以上の文脈から考えれば、スローニムの主張に対する確信に満ち た反論と考えてもおかしくない。『賜物』がどこまでスローニムを意識して 書かれたかはわからないが、『賜物』執筆時(『賜物』の執筆は1933年頃から 準備が開始されたと言われる)に反駁すべき俗論の提唱者としてスローニム のイメージが浮かんでいた可能性は大きい。ナボコフが亡命ロシア人のプラ ハを忌み嫌った一つの大きな原因にスローニムの存在があったことは間違い ないだろう。

さらに、スローニムへの反感を明かす事実がある。既に述べたようにスロ ーニムはナボコフに一定の理解を示し、2番目の小説『キング、クィーンそ してジャック』(1928)を「とても成功した小説」69と評してもいた。だが、

ナボコフを論じるとき、彼は外国文学の影響を持ち出すのが常だった。先に 引いた「覚書」でも、彼は若い世代を「ロシアの西欧派」と呼び、彼らの中 に「西欧的な精神、フランス文学やドイツ文学、あるいはイギリス文学の影 響」70を看取している。後に「特定の作家が私に特定の影響を及ぼしたこと はけっしてなかったと私は信じている」71と語るナボコフが、そうした影響 関係の指摘に神経質だったことは容易に想像できるが、とりわけ『キング、

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クィーンそしてジャック』に「いささかドイツ表現主義的な気配」72を感じ るというスローニムの主張には激怒したことだろう73。『絶望』の英語版に 寄せた序の中で、ナボコフは「文学〈派〉の専門家たちは〈ドイツ印象派74 の影響〉を根拠もなく引き合いに出すことは、今回お控えになった方が賢明 だと、念のため付け加えておこう」75と述べているが、明らかにこの発言は

『キング、クィーンそしてジャック』に加えられた批評への恨みがきっかけ になっている。スローニムに対する敵意はかなり根深いものだったと考えて よい。では、次にベームについても簡単に触れておこう。

今日ではドストエフスキイに関する論考76などで知られるアルフレッド・

ベームは、プラハで〈詩人の庵〉(後に〈庵〉)という文学サークルを主宰し、

若い作家、詩人たちの指導にも貢献した。〈庵〉には一定の文学的傾向はな く、アクメイズムに引かれるものや、未来派に引かれるものなど詩人によっ てその詩風はさまざまだったと言われるが77、パリの詩人たちに比べればソ 連の詩人たち(マヤコフスキイ、エセーニン、パステルナークなど)の影響 が強かった78のは、「ロシアの意志」やスローニムの活躍するプラハという 地理的条件もあったのだろう。ベームはほんの最初のうちだけ「ロシアの意 志」に寄稿して79、その後はこの雑誌と距離を保ったが80、1920年代におい ては亡命文学よりソ連文学に優位を認める点でスローニムに近い立場をとっ ていた81。しかし、1930年代になると次第に立場を異にして、1928年以降事 態は亡命文学に有利に展開し始めたと主張するようになる82。さらに、亡命 の若い世代に期待をかけて、ポプラフスキイらパリの詩人たちにも理解を示 していたから83、スローニムに比べればはるかに亡命文学に好意的な立場に あったと言えよう。結局、ベームはけっしてソ連志向の評論家とは言えない から、ナボコフが彼に特別な反感を抱いていたとは考えられない。ナボコフ にとって憎むべきプラハを象徴するものは何よりもスローニムだったのだろ う84

ロシア亡命文学の世界においてプラハが特異な地位を占めていたことはこ れまでもしばしば繰り返されてきた。亡命文学界ではマヤコフスキイら未来

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派の人々はボリシェヴィズムとのつながりが強すぎるとして概して不評だっ たが、「ローマン・ヤコブソンはチェコでフレーブニコフとマヤコフスキイ を宣伝した」85し、ボリシェヴィズムの克服のためにソ連に帰国することを 亡命者たちに呼びかけた文集「道標転換」(1921)が刊行されたのもプラハ においてだった86。さらに、パリの「現代雑記」がエスエル(社会革命党)

右派と言われる人々によって刊行されていたのに対し、プラハの「ロシアの 意志」はエスエル左派と呼ばれる人々の手中にあって、ブーニン、メレシコ フスキイら保守的な旧世代の人々を意図的に排除しており、それがナボコフ が「ロシアの意志」誌上に作品を掲載しなかった理由の一つとも目されてい た87。また、亡命諸雑誌が革命後に導入された新正字法の採用を拒み続ける 中で、早々と1924年に「ロシアの意志」は新正字法を採用している88。亡命 プラハの異端性はさまざまな面からも明らかだろう。

だが、1920年代にスローニム、ベームを中心に亡命文化の第三の中心地と 呼ばれるほど文化的に発展を見せたプラハも、1930年代に入り恐慌の嵐に襲 われると急速にその勢いを失い89、1932年には「ロシアの意志」も廃刊にな る。ベームの〈庵〉は1940年まで存続していたとはいえ、メンバーの多くは プラハを離れ、最後までチェコスロバキアに残った人はわずかだったという90。 ナボコフがプラハへの嫌悪感をあらわにし始めるのはこの1930年代であり、

おそらくその背後には1920年代の亡命プラハの親ソ的雰囲気、そして亡命文 学を貶め、ソ連文学に喝采した彼らがもはや見る影もないほど力を失った現 状に対してこみ上げてくる怒りの感情があったのではなかろうか。

Field  によれば、プラハの思い出はしばしばナボコフの夢に現われたとい う。だが、その夢に現われたアパートの窓から見える景色は91、けっして明 るい色に染まってはおらず、むしろ「独裁者殺し」の主人公が見た雪の中の 行進のように、悪夢に近いものだったかもしれない。

1    Дандова, М. ПомощьроссийскойэмиграциивЧехословакииирусские

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материалывколлекцияхЦентральногогосударственногоархиваПраги. В кн.ЗарубежнаяРоссия1917-1939гг., Санкт-Петербург, 2000,стр. 420.

2    John  Glad   Russia Abroad: Writers, History, Politics.    Hermitage  &  Birchbark  Press, 1999, p. 174.

3  Brian Boyd  Vladimir Nabokov: The Russian Years.  Princeton UP, 1990, p. 220.

4  ナボコフの父ウラジーミル・ドミトリエヴィチ・ナボコフは1922年3月、ベルリ ンのフィルハーモニア・ホールで右翼の凶弾から僚友ミリュコーフを庇おうとし て殺された。

5  Boyd, op. cit., p. 220.

6  Ibid., p. 233.

7  Ibid., p. 234.

8  Ibid., p. 243.

9  Ibid., p. 354.

10  Ibid., p. 378.

11  Ibid., p. 438.

12  Ibid., pp. 439-440.

13  Ibid., p. 507.

14  石川達夫『黄金のプラハ 幻想と現実の錬金術』、平凡社、2000年、p. 10.

15    引用はドミトリ・ナボコフ/マシュー・J・ブルッコリ編『ナボコフ書簡集 1 1940-1959』、みすず書房、2000年、p. 17より。

16  手紙はロシア語で書かれていたが、ドミトリ・ナボコフが英訳したもの。

17    Nabokov,  D.  &  Bruccoli,  M.  (  ed.  ) Vladimir Nabokov: Selected Letters 1940-1977.

Weidenfeld & Nicolson, 1990, p. 18.

18  Vladimir Nabokov  Despair.  Penguin Books, 1981, p. 16.

19  ВладимирНабоковОтчаяние.Вкн.ВладимирНабоков:Собраниесочинений русскогопериодав5томах,Том3, Санкт-Петербург, 2000,стр. 399.

20  Despair, p. 46.

21  Отчаяние,стр. 423.

22  ВладимирНабоковДругиеберега. ВС.с.Том5,стр. 317.

23  Conclusive Evidence( 1951)及びSpeak, Memory(1966)

24  Vladimir Nabokov  Speak, Memory: An Autobiography Revisited.  Everyman’s Library, 1999, p. 225.

25  Boyd, op. cit., p. 221.

26  たとえば、シャホフスカヤは「(ナボコフは)彼女の存命中、彼女にあまり興味 を持たなかった」し、ツヴェターエワの方も「ナボコフに特別の関心は抱かなか った」と述べている。cf. Зинаида ШаховскаяВпоискахНабокова.    La  Presse Libre, 1979, p. 117.

(15)

27  Старк,В.Набоков- Цветаева:заочныедиалогии«горние»встречи. Вжур.

Звезда, 1996 ( 11 ),стр. 152.

28  Тамже.

29  Boyd, op. cit., p. 378.

30  Ibid., p. 235.

31  School of Information and Library Science at the University of North Carolina - Chapel Hill のホームページによる( http://ils.unc.edu/garg/ )。

32  プラハ城付近の土産物屋にはガーゴイルのレプリカも売られていた。

33  Nataliia Tolstaia & Mikhail Meilakh  Russian Short Stories.  In Vladimir E. Alexandrov ( ed. ) The Garland Companion to Vladimir Nabokov, Garland, 1995, p. 656.

34  cf. Maxim D. Shrayer  The World of Nabokov’s Stories.  Univ. of Texas Press, 1999, pp.

143-152.

35  Sam Schuman  Bend Sinister: One More River To Cross: Hasek, 12 Mar 2001.

36    Schuman  は Kafka  と Hasek  についても言及しているが、ここではその部分は割 愛した。

37  Vladimir Nabokov  Bend Sinister.  Penguin Books, 1974, p. 41.

38  Ibid., p. 42.

39   The Stories of Vladimir Nabokov.    Vintage,  1997,  p.  457.    なお、ロシア語版でも черные, какноты, нафонеснега と雪を背景にした音符のイメージは保たれて いる。см.ВладимирНабоковИстреблениетиранов. ВС.с.Том5,стр. 373.

40  Boyd, op. cit., p. 221.

41  Andrew Field  VN: The Life and Art of Vladimir Nabokov.  Queen Ann Press, 1987, p.

76.

42  ГлебСтрувеРусскаялитературавизгнании.  YMCA-Press, 1984, стр. 357.

43    Малевич, О.М. КвопросуоролиА.Л. Бёмаврусскойкультурепервой половины XXвека(А.Л.Бёмвпражском«Ските»). Вкн.ЗарубежнаяРоссия 1917-1939гг.,стр. 310.

44  1922年に結成され、1940年まで存続した。もともと参加者には詩人だけでなく、

小説家もいたので、1928年頃からたんに〈庵〉( Скит )と呼ばれるようになった。

см. Белошевская, Л.Н. «Скит»Вкн.ЛитературнаяэнциклопедияРусского Зарубежья 1918-1940: периодикаилитературныецентры, Москва, 2000,стр.

431.

45  Тамже,стр. 432.

46  Boyd, op. cit., p. 362.

47  Stacy Schiff  Véra ( Mrs. Vladimir Nabokov ).  Random House, 1999, p. 87.

48  Ibid., p. 194.

49    拙稿「ツヴェターエワ博物館と雑誌「数」」、「同志社外国文学研究」第75号、

(16)

1997年、86-98ページ、「亡命と文学―第一次ロシア亡命文学をめぐって―」、川 端香男里、中村喜和、望月哲男編「講座スラブの世界第1巻 スラブの文化」弘 文堂、1996年、235-264ページなど参照。

50    ドリーニンによれば、アダモーヴィチもナボコフに理解を示した時期があった という。см. Долинин, А.А.Платазапроезд. Беглыезаметкиогенезисе некоторыхлитературныхоценокНабокова.  Вкн. Набоковскийвестник, Вып. 1, Санкт-Петербург, 1998,стр. 8-10.

51  Ал. Н.Журнальнаябеллетристика. Вжур.ВоляРоссии, 1931, 3-4,стр. 376.

52    МаркСлонимЛитературныйдневник. Молодыеписателизарубежом.  В жур.ВоляРоссии, 1929, 10-11,стр. 115.

53  Струве,указ.кн.,стр. 199.

54  МаркСлонимЗаметкиобэмигрантскойлитературе.  Вжур. ВоляРоссии, 1931, 7-9,стр. 616.

55  Тамже,стр. 617.

56  Тамже.

57  Тамже,стр. 620.

58  Тамже,стр. 621.

59  Тамже,стр. 618.

60  Тамже,стр. 627.

61  Тамже,стр. 619.

62  Тамже,стр. 627.

63    「現代雑記」に1937-38年にかけて連載されたが、第4章が掲載を拒否されたた め、完全な形で刊行されたのは1952年。

64    小説中には散文のように記されているが、実際には韻律と押韻を持つ詩になっ ている。cf. Anna Maria Salehar Nabokov’s Gift: An Apprenticeship in Creativity. In Proffer, C. ( ed. ) A Book of Things about Vladimir Nabokov, Ardis, 1974, pp. 70-83.

65  ВладимирНабоковДар. ВС.с.Том4,стр. 357.

66  Playboy Interview, 1964. In Vladimir Nabokov Strong Opinions, McGraw-Hill, 1973, p. 33.

67  Дар,стр. 356.

68  Тамже,стр. 526.

69  Литературныйдневник,стр. 115.

70  Заметкиобэмигрантскойлитературе,стр. 626.

71  Life Interview, 1964. Strong Opinions, p. 46.

72  Литературныйдневник,стр. 115.

73    ただし、ドイツ表現主義の影響を指摘したのはスローニムだけではない。ミハ イル・ツェトリンも1928年「現代雑記」に掲げた『キング、クィーンそしてジャ

(17)

ック』の書評の中で同様の指摘を行っている。см. Цетлин, М.В.Сирин.Король, дама,валет. Книгоиздательство«Слово»,Берлин, 1928.Вжур. Современные записки, 1928, 37,стр. 537.

74    ドイツ印象派 German  Impressionists  はもちろん「ドイツ表現主義者」 German Expressionists のパロディ。

75  Foreword to Despair, p. 10.

76    1938年にベルリンのペトロポリスから刊行された彼のドストエフスキイ論

(Бем, А.Л. Достоевский: Психоаналитическиеэтюды. )は、1983年にアーデ ィスからリプリントされている。

77  см. Малевич,указ.статья,стр. 309.

78  см.Белошевская,указ.статья,стр. 433.

79  см.Струве,указ.кн.стр. 70.

80  см.Зверев,А.М.«ВоляРоссии». Вкн.ЛитературнаяэнциклопедияРусского Зарубежья1918-1940:периодикаилитературныецентры,стр. 80.

81  см. Малевич,указ.статья,стр. 310.

82  см.Струве,указ.кн.стр. 205.

83  см. Малевич,указ.статья,стр. 311.

84  さて、ナボコフとアダモーヴィチ、ゲオルギイ・イワーノフ、そして雑誌「数」

との間には公然たる敵対関係があったのに対し、スローニムとの間には目に見え る論争は何もなかった。その理由を断定することはもちろんできないが、一つだ けナボコフとユダヤ人の奇妙な関係を指摘しておこう。ナボコフの父はポグロム に抗議しただけでなく、さまざまな点で親ユダヤ的であり、ナボコフ自身が後に ヨーロッパからアメリカに渡れたのもその父の恩に感謝したユダヤ人組織の助け があったからだった。そして、亡命時代のナボコフを支えてくれた人々を眺める と、アイヘンヴァリド、ゲッセン、フォンダミンスキイなどユダヤ人が目につく。

スローニムがユダヤ人だったこと、それが公然たる論争を妨げた原因の一つだっ た可能性も考えられる。cf. Field, op. cit., p. 114.

85  Малевич,указ.статья,стр. 310.

86  см.Струве,указ.кн.стр. 30.

87  см.Тамже,стр. 65.

88    МаркСлоним «ВоляРоссии».  Вкн. Полторацкий, Н.  ( ред.  ) Русская литературавэмиграции:сборникстатей, Univ. of Pittsburgh, 1976,стр. 296.

89  cf. Glad, op. cit., p. 179.

90  см.Белошевская,указ.статья,стр. 432.

91  cf. Field, op. cit., p. 286.

(18)

なお、この論文は2000年度同志社大学学術奨励研究「スラヴ世界における文化の 越境と交錯―東スラヴを中心に―」(研究代表者 諫早 勇一、研究分担者 松 本 賢一、日野 貴夫)の成果の一部である。

Набокови Прага

Юити Исахая

Чехословакиябыладорога Набокову, потомучтоздесьс 1923 года жили его мать, сёстры и брат.  Он посещал Чехословакиюсемьраздосмертисвоейматери (1939). Ноему совсемненравилисьниЧехословакия, ниеёстолицаПрага.

ОннехотелжитьсматерьювПрагеисчиталПрагуунылой ибесцветной. Прагапреждевсегоассоциироваласьунего смокрымигоргульями(gargoyles)настенахсобора.Горгульи болеехарактерныдляевропейскойготическойархитектуры, анедляПраги.НопочемужеонсвязывалПрагусгоргульями?

По-моему, во-первыхпотомучточудовищныйигрустный облик горгульи очень подходил Прагесточки зрения Набокова.  Ногоргульипоявилисьиванглийскомромане Набокова«Bend  Sinister», который изображаетстрану, где господствуеттиран. Ивегорассказе«Истреблениетиранов»

столицастраны,вкоторойгосподствуетдругойтиран, тоже напоминает Прагу. ТаквпониманииНабокова Прагабыла тесносвязанасостранамитиранов,агоргульисимволизировали притеснённыйтираномнарод.  НоЧехословакиявтовремя

(19)

былавовсенедеспотическим государством.  Почему же НабоковненавиделПрагуисчиталеёстолицейдеспотического государства?  Можетбыть, деловтом, чтоонненавиделне Прагучехов,аПрагурусскихэмигрантов.

С 1920 годапо 1932 годв Прагеиздавалсяжурнал«Воля России»иеголитературнымотделомзаведовалМаркСлоним, дальнийродственник жены Набокова.  И «ВоляРоссии»и Слоним небыли враждебнонастроены к Набокову и даже понималидостоинстваегопроизведений. НовобщемСлоним высокооценивалсоветскую литературу и думал, чтоэмиг- рантскаялитератураумирает, несоздав«ниоднойкрупной ценности».Онутверждал,чтописателидолжныбытьсвязаны с«живойструёижизни»Родины,аотрезанностьотРодины смертельнадляних. Онсомневался,смогутлиписателимолодого поколенияписать,«ненадеясьнарукоплесканиясовременников».

Нотакиеутверждениябыливовсенеприемлемы для Набокова.

Онответилнанихвромане«Дар».Геройэтогороманауверен, чтоемунужнаРоссиятольковнёмисним, а надеетсяон тольконабудущихчитателей.

Прагарусскихэмигрантовпроцветалав 20-годы, нов 30- годыэмигрантыуезжалиизПрагипоэкономическимпричинам, иуровенькультуры русскихэмигрантовзаметноснизился.

НабоковненавиделПрагу,гдехозяйничалиСлоними«Воля России»,исчиталпадениеуровняеёкультурызаслуженным наказанием.  Егоненавистьк Прагеисходиланетолькоиз еёнастроения, ноиизеёлитературныхобстоятельств.

(20)

Nabokov and Prague

Yuichi ISAHAYA

Key words: nabokov, prague, russian emigration

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