中止未遂の任意性についての一考察(二・完)
著者 王 昭武
雑誌名 同志社法學
巻 60
号 8
ページ 285‑374
発行年 2009‑03‑31
権利 同志社法學會
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011706
中止未遂の任意性についての一考察(二・完)二八五同志社法学 六〇巻八号
中止未遂の任意性についての一考察(二・完)
王 昭 武
(四五五七)
目 次一 はじめに二 判例の動向
1判例の流れ
三学説の状況 2判例の整理
1内部的動機説
2上六以巻六号) (説観主〇
3客観説
4限定主観説
5新しい客観説
6折衷説
7不合理決断説
四検討 8山口説
1減免根拠との関係
﹁2
任意性﹂の定義
3フランクの公式の当否
4学説の検討
5私見
中止未遂の任意性についての一考察(二・完)二八六同志社法学 六〇巻八号
(四五五八)
五 限界事例における具体的帰結
1驚愕・恐怖心等による中止
2発覚のおそれによる中止
3止中くづ基に変化の態事な利有
4中るよに﹂れずは待期﹁るゆわい止
わ) 号本上以(にりお六 5止中るよに思意の発他
3
客観説(一) 主張の内容 客観説は主観説に対置するものであり、行為者の認識した外部的事情が一般人にとって通常障害となる性質のものか否かを基準とする見解であり、従来からの通説であるといわれている (
。 1)
この見解を主張したのが牧野博士であり、その見解を発展させたのが木村博士である(草野博士もこの見解を支持していた (
社減に対する刑の必要的免止の根拠を﹁行為者の反犯中)。新牧野、木村両博士は、派、の主観主義犯罪論から 2)
会性﹂(=行為者の社会に対する危険性 (
)、﹁犯人の危険性 3)(
的客見にのもな的観・そ的会社ういと﹂出う験わ本基、は初当ちなとす。るあでのたし上経のな験上通﹂常いし﹁一般 にこるめ求﹂の滅消・少減にとのより、任意性判断基準を﹁経 4)
には犯罪論において主観主義の立場を採りながら未遂に至った犯行中止の意思の任意性を客観的に判断しようとするのである。もっとも、その後一般にもひろがりを見せ、客観説は、社会的責任論をとらない論者によってもかなり広く支
持されるようになった。ただ、その内容は、論者によって異なり一定していない。判例にも、形式的には、客観説によるとみられるものがあり、とくに最高裁判所の判例は、この立場をとっていると解される(最判昭和二四年七月九日刑
中止未遂の任意性についての一考察(二・完)二八七同志社法学 六〇巻八号 集三巻八号一一七四頁、最決昭和三二年九月一〇日刑集一一巻九号二二〇二頁。なお、大判昭和一二年九月二一日刑集一六巻一三〇三頁)。
具体的には、本説は、外部的事情を、社会一般の通念上、内心に強制的影響を与えるようなものかどうかにより区別し、中止の意思に対して、社会一般の通念上、強制的影響を与えるような外部的事情が動機となってやめた場合には、
その外部的事情は一般人にとって外部的﹁障害﹂であることになり任意性が否定され、強制的影響を与えないような外部的事情が動機となってやめた場合に任意性が肯定されるとする。つまり、﹁犯行中止に至った行為者の主観的な意思
を基本に犯行中止における意思の任意性を判断するのではなく、犯行中止の意思を一般的経験という客観的フィルターを通して任意性の有無を判断しようとする立場である (
、っういとかうどかたし止中てよに思意の己自、てっがたし﹂。 5)
本来主観的であるべき問題を﹁社会一般の通念﹂という客観的基準によって決しようとするところにこの説の特色があるといわれ (
。れるあもで以所るば呼と﹂説観客、﹁ 6)
そこで、客観説における判断の対象は、外部的事実そのものではなく、あくまでも外部的事情への行為者の表象(中止時に行為者に認識された事情)であり、この点は主観説と同様である。ただ、判断の基準は行為者本人の認識ではな
く、一般人である。つまり、客観的基準により行為者の主観を評価して任意性の有無を判断しようとする客観説は、判
断基準を主観説の﹁行為者の主観的意思﹂を﹁通常人の一般的経験﹂に切り換えることになった。
本説によれば、﹁危険性の有無といふことは、倫理性の有無と関係なく成立することいふまでもない (
﹂から、行為者 7)
の中止の動機などは任意性の判断にとって重要でない。たとえ、行為者が犯罪の継続を望まなかったとしても、中止した事情が経験則上犯罪の障害といえるならば、任意性は認められない。すなわち、主観説と同様に、中止動機の価値の
いかんは問われない。
(四五五九)
中止未遂の任意性についての一考察(二・完)二八八同志社法学 六〇巻八号
本説は、客観的基準によって判断するのであるから、一般に容易に違法性減少説と結びつくものといわれているが (
、 8)
実際上、責任減少説からも主張されている (
。 9)
未に中はのるす別区てっ従か未うどかのたっ終に遂未て止遂っる止中、方一、りなにとこれのさ大拡に当不が囲範立成 よに主らか場立の論理法刑義観下主、は士博野牧、ずま以の害止障な的質物、をと遂未中よと遂未害障。たじ論にう
⑴
遂は悔悟に出た場合でなければならないとする宮本説は中止犯をあまり狭く理解することになるから妥当でない。それゆえ、﹁経験的な標準に依って事を論じ、未遂になるに至った関係が犯罪の既遂となることに通常妨害を与えるべき性
質のものであるかどうかに依って区別を為すべきことになるであろう。ここに経験的な標準とせられるものについては、相当因果関係を論ずる場合において根拠とした考え方の原理に依るのである。⋮⋮一定の原因に因って犯罪の完成
を見るに至らなかったことが経験的に考えて一般なことであるや否やという考え方に依るべきである﹂として、﹁経験的な標準﹂という判断基準を示した (
。 10)
博士はさらに、発見を恐れて実行をやめた場合、期待はずれのためやめた場合、流血を驚愕してやめた場合という論争を免れない三つの類型を分析し、いずれも障害未遂であるという結論をつけた (
判一的験経とるす見、は解見の士博。 11)
断の対象として客観的な外部の事情のみを問題とし、行為者の心理状態についてはこれを考慮していないかのように見えるが、先の第二、第三の類型についての博士の見解から分かるように、博士は判断基準を﹁経験上一般的に﹂にして
いるものの、外部的障害により行為者に生じた動機・心理という主観的なものを判断の対象に置いていたといえよう。
木村博士は、物理的な障害による中止以外のあらゆる中止が中止未遂とされてしまう不都合を回避するためには中止
の意思が強制されたものかそうでないのかを区別すべきであるとして、以下のように論じた。
(四五六〇)
中止未遂の任意性についての一考察(二・完)二八九同志社法学 六〇巻八号 博士は、﹁中止﹂を二段階に分けて論ずる。すなわち、刑法四三条但書が﹁自己の意思﹂によって犯行を中止した場合が中止未遂であると明記しているから、第一段階では、行為者の意思とは全然関係のない事情によって犯罪が不完成
に終った場合は、すべて障害未遂であり、それは中止未遂の成立を考慮する範囲から排除されるべきである。第二段階では、行為者の意思に関係ある事情によることと行為者の﹁自己の意思により﹂とは必ずしも同じでないから、どのよ
うな場合が任意な意思による犯行中止であるかを問題とし、これを一般の経験によって客観的に判断すべきであるとする (
で象なくして行為者が表(る認識)したる事情﹂は情あ象。しかし。判断の対は事﹁客観的に存在したるで 12)(
。 13)
このようにして、上記の意味における客観説は、新派の主観主義犯罪論・社会的責任論に基づく一種の責任減少説であったといえる。ここでの責任の内容は﹁反社会性﹂ないし﹁行為者の危険性﹂であるから、行為者に対する道義的非
難がなお可能な場合であっても、右の意味での責任が減少(消滅)したと認められる場合には、中止未遂の成立する余地があることになる。すなわち、﹁責任を反社会性という意味で理解することにより、牧野・木村博士は中止未遂の成
否と中止動機の倫理性との関連を切断しよう﹂としながら (
基すたいつび結がと準と的観客る ( 険題問を性危、る観主義犯罪論と行、﹁為者の社会に対す主 14)
害のべて、﹁木村博士所と説の新味は、障比解と見である。もっも﹂、牧野博士のの 15)
未遂と中止未遂との区別を、犯罪が行為者の意思によって完成しなかったのかどうかに求めることで、牧野博士の見解
ではやや漠然としていた客観的判断の対象が動機という主観的事情であるべきことを明らかにした点にある﹂といわれている (
。 16)
ただ、注意すべきなのは、同じく新派の主観主義犯罪論・社会的責任論に基づく一種の責任減少説からの客観説であっても、実際問題に適用した際に、両博士の﹁見解は必ずしも一致せず、むしろかなりの振幅が見られる (
﹂ということ 17)
である。たとえば、発覚のおそれによる中止についても、牧野説では、すべて、経験上一般に犯罪を不完成ならしめる
(四五六一)
中止未遂の任意性についての一考察(二・完)二九〇同志社法学 六〇巻八号
もので、中止犯ではないとされる (
・﹁、発覚によって早け晩﹂告発・逮捕てわ説を対して、木村でのは、さらに場合に 18)
処罰を免れないと考えた場合は障害未遂、発覚の﹁暁﹂は告発・逮捕・処罰等により社会的不名誉を蒙ることをおそれた場合は、中止犯だとされている (
・機などの道徳的動の憐場合のほか、迷信愍・村情たがって、木説。では、後悔・同し 19)
刑の恐怖・肉体的嫌悪・怯懦・窃盗の客体の価値への失望などの場合にも、なお中止犯の可能性が留保され、具体的には、判例のうち、たとえば、出血を見て強姦を中止し(最判昭和二四年七月九日刑集三巻八号一一七四頁)、または流
血を見て翻然と中止した場合(大判昭和一一年三月六日刑集一六巻二七二頁)はいずれも中止犯を認めるべきだとされるのが注目される (
。 20)
同、客観説をとったとして、も直ちに牧野・木村博士としかし罪その後、客観主義的犯論。からも支持を受けている
⑵
様の立場に立つことを意味するものでもなく、﹁その内容は、論者によって異なり一定していない (﹂。 21)
第一に、刑事政策説から支持するものとして、たとえば、井上博士は、﹁経験的にみて、一切の意志が全然外部的刺
戟によらずに自治的・自己設定的に構成されるということはありえない。意思の発動も、他の意識現象一般と同様、必ず外部的刺戟に対する反応によってのみ構成されるのである。それ故、外部的障害によるものなりや否やは、経験的に
考察することは必要である (
般一)説防予殊特・防予場(立説策政事刑、てしと﹂の 22)(
から客観説を支持する。 23)
第二に、学説上、違法性減少説の立場から客観説を支持するものもみられる (
平断(人般一を準基の判性法違、はれそ。 24)
均人・通常人)の判断におく見解が有力であるによって﹁その見解の延長線上に、任意性の判断基準を﹃一般の経験上﹄ないし﹃社会一般の観念﹄(社会通念)におく見解が違法減少説から主張される﹂ことになったからであるといわれて
いる (
減場説合併の説策政事刑と説少性立法違は士博原西、ばえとた。の 25)(
犯の止中は由理なもお免減的要必の刑、﹁らか 26)
(四五六二)
中止未遂の任意性についての一考察(二・完)二九一同志社法学 六〇巻八号 の場合違法性が減少するからであると解し、その減少の理由は、さらに、実害が発生しない点と、その不発生が行為者の合規範的意思の表明にもとづく点とに求める。したがって、自己の意思によりということを、客観説︹主観説︺より は狭く、主観説︹限定主観説︺よりは広く、結局折衷説︹客観説︺の程度において理解することとなる (
般至準について、﹁実行の中止にっのた原因たる動機の内容が、一基説をすとして客観説観持支る博客。士は、にらさ ﹂()者筆は︺︹ 27)
の経験上、意思決定に対して強制的影響を与える﹂かどうか (
準どわなす、にかうか﹁﹂るあに係関のち経必経基ういと﹂上験の験般一﹁﹂、準標な的然りがに者為行該当上験経﹁と 観判の説の客の来従う基断動準を、中止と機となる要因い 28)
から﹁経験上必然の関係にある﹂に切り換えることにし (
た 29)(
。 30)
第三に、責任減少説から本説を支持するものは少なからずあり、そのうち、前田教授はより詳細に自説を展開してい
る。
前田教授は、責任減少説が必ずしも主観説と結びつくわけではなく、責任判断は、一般人を基準に判断する説も有力 であるにつれて、﹁国民の納得する非難可能性という観点からは、そして中止未遂には政策的考慮が内在している以上、むしろ一般人を基準に考えるべきである (
刑と説合併の説策政事場説立少減任責、てしと﹂の 31)(
から客観説を支持する。そ 32)
こで、教授は、①責任減少説に立ち任意性を責任の問題として扱うとしても、行為者本人を基準に任意性を判断すべき
ではないこと、②後悔・悔悟の念等の倫理的動機は任意性の要件として必須ではないこと、③減免することを国民一般の側で納得することも必要であることという三点 (
。根るいてけづ拠を説自、てっよに 33)
さらに、任意性の判断基準は国民の規範意識に則って具体的に論じられなければならず、そして、他の減免事由とのバランス、さらには一般的な諸量刑事情との比較をも考慮すべきであるという原則論を提示しながら、任意性の判断は
非常に微妙で、どちらともいえないという場合が考えられるから、﹁その際には、行為者の悔悟の情の存否が重要な意
(四五六三)
中止未遂の任意性についての一考察(二・完)二九二同志社法学 六〇巻八号
義を有する﹂ことになり、﹁一般人なら通常思いとどまる事情が存在しても、悔い改めたり反省した上で犯行を中止し
た場合には、少なくとも量刑上減軽を認め得る﹂として、﹁一般人ならば思いとどまるとは必ずしも考えられない事情﹂が存した場合に反省して中止した場合には、中止犯として必要的減免を認めるべきである﹂という例外を認めている (
。 34)
第四に、違法性・責任減少説の立場から本説を支持するものとして、たとえば、川端教授は、﹁実質的観点から違法性減少または責任減少との関連を考えてみると、事後的な合義務的行為といえるためには、単に故意を放棄しただけで
は足りず、一般的には遂行の障害とならないような事情を認識しているにもかかわらず、あえて遂行を取り止める行動に出る点にこそ、﹃法敵対性﹄の緩和による責任の減少がみとめられるのであるから、ここに責任減少説と客観説の実
質的関連を見出すべきである (
・性説少減任責地法見違、てしと﹂の 35)(
元衷にて次の用は、客観説は折説いとほぼ同一の結論に到達するお ( し適客観説を妥当と解てかいる。ただ、﹁実際のら 36)
﹂とも指摘している。 37)
第五に、総合説の立場に立つ板倉博士 (
いしけづ置位と﹂説観客ら新が﹁るす述後を説自、はな 38)(
を己のものかどうかによって、自の性意思による中止未遂かどうか質るながげようとしな原因い、、と社障碍上念通会 、﹁遂を罪犯、りまつ 39)
判断するのである﹂として、実質上は客観説と変わらない見解を示している (
。 40)
第六に、斎藤教授は、法的性格についての独自の見解、すなわち﹁必要的減免の主たる理由を社会心理的衝撃性の減 少に、従たる理由を政策的妥当性に求める (
るよ例(識認実事なうる逮すと的然蓋上象現、捕犯いうげ遂を的目もておのてっ放に既、険危罪をるめ止ⓐ、てしとの す正を﹂説観客よ修、﹁てっ出にと提なした。﹂わち、﹁いわば修正客観説こ 41)
見通しの認識。錯誤による認識も含む)なしに止めたか否か、を原則的基準としつつ、補正的に、ⓑきっかけの如何を問わず、広義の後悔に(も)よって止めれば良い一方、ⓒ犯罪遂行上の都合(さらに良い客体・手段・機会への計画変
更など)で止めたに過ぎない場合は除く、というのが妥当﹂である (
とする。 42)
(四五六四)
中止未遂の任意性についての一考察(二・完)二九三同志社法学 六〇巻八号 (二) 批判 客観説は従来の通説であるといわれるが、厳しく批判されている。その批判は主に、第一に、﹁﹁自己の意思より﹂と いう主観的要件の判断にあたって、行為者の意思が度外視されることとなり、方法論的には妥当でない (
るの考えしべき性質も害のでない﹄のかと障ずもい﹂なはで確明﹁常いったい何が﹃通必 ( 、に二第、とこ﹂ 43)
ことという二点に集中してい 44)
る。
具体的に、第一の批判として、たとえば、①外部的障害が働く場合であっても、なお行為者の﹁内心﹂から中止する ことが可能であるから、行為者の﹁意思﹂を捨象して判断するのは妥当ではないこと (
にを意思によ﹂るという主観的要素客己は質本の任責、の観るす断判に的の自いやな﹁、社会通念で一人の立場から般 の行為者本人重主観面を視し、② 45)
反すること (
法失文の本来の意味をっうてしまい、適当でなといこは、客観説のやり方﹁と自己の意思によ﹂るい 46)(
観し性説は他の行為者のなた、経験を不当に絶対視する客ら険反りあは来、各人各様の応かの仕方こそが重要である危 ( ③本、 47)
、 48)
そもそも﹁自己の意思により﹂という行為者本人の反応が一般的に決められるべきではない (
せ観は弱気な行為者の場合には、客説るによっては妥当な結論を導き出いあ程事心理過酷経て物をを断する極端に冷判 人、④一般たと異なっこと 49)
ないこと (
論要により﹂という主観的件意に代替することは方法思の客己一般人の反応という観、的基準をもって﹁自⑤ 50)
的に誤り (
な測く、それを推さでせるものにすいのな基、その客観的準もは任意性そのぎ 51)(
す責に当該行為者も中止したとき、任場ら定否を性意任か減点観ういと少合る憐止るあの情から中憫すのが一般的でる 、、⑥例えばに被害者対すこと 52)
る理由がないこと (
類、れらせ寄く多も判批の似るにいかほ。るあでれそはどな、て 53)(
。 54)
第二の批判として、たとえば、①客観説はいったい外部的事情、外部的事情への表象、表象にともなう内部的事情の
どれを客観的な判断の対象とするかを、﹁必ずしも明確にされないままに任意性の確定がなされている﹂から、それは
(四五六五)
中止未遂の任意性についての一考察(二・完)二九四同志社法学 六〇巻八号
正当でないこと (
用うにかられて止めたよな驚場合には、客観説適愕・発怖たとえば、犯罪の覚、をおそれ、または恐② 55)
した場合の実際的帰結は必ずしも一致せず、むしろかなりの振幅が見られるから、そこに﹁きめ手を欠く不明確さがのこされ﹂、いったい何が経験上一般であるかの判断の基準は、必ずしも明らかでないといわざるを得ないこと (
、などは 56)
それである。ほかに、同様の批判も多くかけられている (
。 57)
その二点以外に、第三に、行為者本人の意思が度外視される客観説のやり方は刑事政策説の趣旨を達成できないとの 批判もある。たとえば、強い迷信に基づいて中止した行為者にとっては、その中止は必然であって、通常人が他の外部的刺激に強制されて中止した場合と事情は同じであるはずであるから、その行為者に﹁黄金の橋﹂をかける意味はない (
。 58)
4
限定主観説(一) 主張の内容 心理的任意性概念を採る以上の諸説に対し、規範的任意性概念を採るのは、限定主観説ないし規範的主観説である。 本説は宮本博士に首唱されたものであり、その結論は判例に大きな影響を与えて、判例の基本的態度にもなっている (
を数受け続け、少説判であるといわれた批い問がこの説は世にわいれて以来、厳して ( 。 59)
、衰かろこどるえてっ至に在現、 60)
動機の倫理性を薄めること(脱倫理性)に努めることによって、かえってもっと注目されるようになってきた感がある。
限定的主観説は主観説をベースにしながら、それに限定を加えるものである。もっとも、主観説は中止の動機が必ず
しも道徳的悔悟でなくても自発的・積極的な中止である限り、中止犯を認めてよいとするのに対し、限定的主観説は、その範囲を制限しようとして、﹁自己の犯罪の実行の着手を不可なりとする感情即ち自己の行為の価値を否定する意識
(規範意識 (
、がると、行為者の性情内に部的障害(悔改、慚愧よれのこよる中止のみが任意中)﹂止である、とする。に 61)
(四五六六)
中止未遂の任意性についての一考察(二・完)二九五同志社法学 六〇巻八号 恐懼、同情、憐愍、その他これに類する感情)として作用したこと、つまり﹁広義の後悔﹂によることが必要とされる。このような見解は当初、中止に至った動機を﹁倫理的に是認すべき動機﹂また﹁広義の後悔﹂に限定した点で、一般に
限定的主観説とよばれたわけである。
しかし、任意性と倫理性を混同し、法文上書かれていない要件をたてることによって中止犯が成立する範囲を狭くし すぎるという批判 (
場未作用したと合に中止遂しを認めよう﹂としてて ( も念観害障るす対に罪犯と定少識しながら、宮本博士以後の限主を観説は﹁行為者の規範意思が多意 62)
要道でま棄放の意犯かと悟悔的徳な格厳、﹁め努に化弱の性理倫、 63)
求されているのではないという点において、できるだけその範囲を広く留保しようとする一般的傾向をうかがうことができる (
調ま、法敵対的意思の放棄た脱は規範意識の回復を強し離主らりわけ、近年の限定観﹂。説は動機の倫理性かと 64)
するようになり、任意性を以前よりゆるやかに解釈しつつある方向にあるとみられる。
者の意任の思意るけおに際止の中行犯てっもを観主の者性判為は為行ていおに味意的範規説断本宮、てし対にのたしを 行て的士博本宮つ立に論罪犯義よ主観主、は説観主定限にっい野おに味意な的理心が説小て。るあで解見たれさ張主
⑴
の主観を問題としたのである。
博士は、任意性は﹁中止者の動機に対する刑法的立場から見た一種の評価的観察である (
在、らに自説を展開する。その一は犯て罪の実行の動機たる事情が不存さし犯る者が類を中止す行事を次の三種に分情 かいう観点実ら、犯罪行﹂と 65)
のための中止(たとえば殺人の実行に着手したところが人違いであった場合)、その二は、犯罪の実行の動機は備わるが、その実行に伴う外部的障害を発見したための中止(たとえば窃盗に忍び入ったところが家人が目を覚ました場合)、そ
の三は、犯罪の実行の動機たる事情は備わるが、行為者の性情が内部的障害として作用したことによる中止(悔改、漸
(四五六七)
中止未遂の任意性についての一考察(二・完)二九六同志社法学 六〇巻八号
愧、恐懼、同情、憐憫その他これに類する感情)。そして博士は右の第三の場合に限り任意の中止を認める。その理由は、
第三の場合には内部的な事情が﹁結局自己の犯罪の実行の着手を不可なりとする感情即ち自己の行為の価値を否定する意識(規範意識)として働いた訳であるから、斯かる場合こそ犯人の反規範性は通常の未遂罪の場合に比し軽微なもの
として、刑の減軽又は免除を與へることが相当﹂だからである (
たし現表で葉 ( 義言ういと﹂悟悔の広う。を識意範規な﹁よのこは士博 66)
を理犯行中止の動機に倫性にが必要であり、倫理性はめでたまり、博士の見解は。中止未遂が成立するつ 67)
具備しない犯行中止の動機の場合には障害未遂であるということになる。
。的たれさ唱提らか論罪犯義の主観主、てつかは説観もでにあてれさ持支もてっよ論る罪犯的義主観客、がるい 主定限た早ちいを説観主的範規れ受さ示が士博本宮、後戦くけ、授にうよのこ。たっあで教継中、士博伯佐はのだい
⑵
佐伯博士は、任意性判定基準は中止未遂の特典的効果の理由と関連づけて考えなければならない (違法場立の説少減任責・て、性 ( っ立に点発出ういと 68)
対為するに至った行者放の心情・動機に棄を無図、任意性の有はか、﹁その犯罪的企ら 69)
する規範的ならびに可罰的評価に基づ﹂いてなされなければならないとして、限定主観説を支持する (
いの犯の成立範囲が狭められると批中判を念頭に置きつつ、﹁ここに止、意徳中止犯の任くは道性的同悔で一なはと悟 。、は士博、でこそ 70)
う広義の後悔とは、なんらかの規範意識が働き自己の行為に対する価値否定の感情が働いたという意味で、決して厳格な道徳的悔悟とか犯意の放棄とかまで要求するものではない (
﹂と強調している。 71)
中教授は、責任減少(消滅)一元説の立場 (
をと、つつし識意をこ授るあ﹂で能可が判教はる格性理倫ので味意な厳、﹁てし決もれわれわ批するあでのもるえがと は支。るす持定を説観主こ限、そ任で、﹁それか意性と倫理性をとりちら 72)
要件としているわけでは﹂なく、﹁ただ、なんらかの意味で自分の行為の価値否定的動機を要件とするだけで﹂あると
(四五六八)
中止未遂の任意性についての一考察(二・完)二九七同志社法学 六〇巻八号 強調した (
。 73)
倫準とだ当適不はのるすと基観をのもたび帯を彩色的理の点倫ざ脱。﹁るれら見がき動すめかを立定の準基なた新、ら ういの成の遂未止中が﹂悔後義を広、﹁後のそ、もとっも立必とと﹂悔後の義広、﹁もてしいずなはでのもるめ狭もし
⑶
理性﹂の方向に向って、佐伯博士等より大きな一歩を踏み込んだのは内田博士である。本稿においては、従来の限定主観説と区別するために、その内田博士を代表とする現在の限定主観説を﹁新しい限定主観説﹂と呼ぶことにしたい。こ
の﹁新しい限定主観説﹂は、単純に任意性の範囲を拡げようとすることではなく、倫理性の要否という点で従来の限定主観説と質的に異なる。その意味において、﹁新しい﹂限定主観説と呼ぶことにしたわけである。
内田博士は、違法性・責任減少説の立場 (
分法応にけかび呼の﹄、﹃てを﹄思意害侵益法じ﹃た侵十で﹄思意避回害益放法⋮﹃﹄⋮思意るす棄﹃いんたっい、﹁が抱 義支、つつし持主を説観ず定限、必のしあいなは要必るでも﹂悔後﹁か広ら 74)
なりと考えるべきである﹂とする (
、﹁わのである。ただ、そこでさるれかった﹂と考える必要があるる ( おとう問てをなわち、博士は、﹁後悔﹂に代え動。機の﹁法益尊重的﹂性格の有無す 75)
。 76)
このように、宮本博士の見解が﹁広義の後悔﹂という表現によって自己の行為の価値に対する何らかの否定的評価の
必要性を問題としているのに対して、内田博士の見解は犯罪の実行の着手時に自己が抱いた故意に対する否定的評価の必要性を問題とするものである点で、両見解には観察対象の実質的な違いがあることがわかる。この違いは、たとえば
窃盗に着手した者が当時たまたま親の命日にあたることを思い出し、他日に犯行を延期する意思で中止したという例における任意性の有無の判断に反映する。宮本・佐伯両博士によれば、問題は行為者が着手した窃盗行為の価値に否定的
評価を下したかどうかであって、故意が終局的に放棄されたかどうかは重要ではない。したがって親の命日に犯罪を犯
(四五六九)
中止未遂の任意性についての一考察(二・完)二九八同志社法学 六〇巻八号
すことをためらって後日の犯行を思いつつ中止したときでも、規範意識の覚醒が障害となって中止したのであるから、
任意性を肯定しうる。それに対して、内田博士では、行為者が故意そのものに否定的評価を下したかどうかが問われるから、単に、縁起が﹁わるい﹂などと考えた場合は、任意性を欠くことになる。しかし、﹁このように具体的事例の解
決では異なる結論に到達することはあっても、両見解は中止動機の内容を評価するという方法論をとることでは一致している (
やる広義の悔悟﹂を要求す傾る向を、﹁もうすこしゆる﹁あ、にずれにせよ、博士はこ﹂。れまでの学説・判例い 77)
かに考えてもよい (
﹂としている。 78)
さらに、内田博士の試みに続き、近時、﹁広義の後悔﹂という倫理的色彩を帯びたものを基準とするのではなく、そ の代わりに何らかの形で責任を減少させるにふさわしい動機を示せばよいとして、限定主観説を支持する者が見られる。たとえば、法定量刑事由説に立つ西田教授 (
さ、減低を難非任責的法のからんなくなは要必るあで機動的理倫、﹁は 79)
せるような動機であれば足りる﹂として、﹁責任減少説・法定量刑事由説をとる見地からは、この限定主観説をもって妥当とすべきである﹂と主張する (
。 80)
論法上の責任を倫理的、道義的に捉える立場からは、刑かつの限定主観説は、﹁中止犯法、的性質を責任減少に求め
⑷
理必然的な帰結である (。持説からの支他を受けているも もいるけれどな、少数がら、れてさ、持いわれているが、実際上本﹂説は主に責任減少説から支と 81)
たとえば、先述した佐伯博士以外に、違法性減少説と刑事政策説の併合説をとる齊藤教授 (
定れ的動機に基づく中止が要求さる倫べきである﹂から、任意性に一理はいらを認めててことかる、罰の免除に関し刑 は中止犯免必要的減は、﹁ 82)
の規範意識を考慮した限定主観説を支持すべきであるとする (
思意意の己自﹁てれ離を﹂識範規、﹁は授教、に的体具。 83)
(四五七〇)
中止未遂の任意性についての一考察(二・完)二九九同志社法学 六〇巻八号 により﹂を解することはできないとして、その﹁規範意識﹂については、﹁良心﹂ということを中心に考えている。つまり、﹁良心は、人間の客観的に対する関係でなく、主体に対する関係でと捉えるべきではないかと思うからである。 そこから、外部的・物理的障害によった場合には、中止未遂は成立しない。中止未遂における﹃自己の意思により﹄という文言の解釈は、﹃良心﹄ということを根拠に考えるべきで﹂あるとする (
。 84)
また、総合説に立つ林教授 (
ろじなと機動がれこ、生てが思意の守遵範規はっ中ますあできべるす解とる味止意を合場た出に為行た護益法、に対保 にす益法、ちわな、、任責害はと性意任侵基意思反、りなくなが意思的範規反くづは、﹁ 85)
う。このような意思があったことを根拠として責任の減少を認め、刑の減免を与えることによって、将来同一の状況が生じたときに、法益保護または規範遵守の意思が生じるように動機づけようとするのである﹂として、﹁法益保護また
は規範遵守の意思が生じ﹂ること、すなわち規範意識の回復を重視し、実質上は限定主観説に近い見解を示した (
。 86)
的で﹂的務実、﹁りあで度態本る基の例判は説本、にかほあ (
⑸
。関るいてれさ持支く多に者係務実、にうよるいてれわいと 87)
たとえば、責任減少説と刑事政策説の併合説を採る河村検事 (
意せ範規が型典の度態格人るさ少減を任責、﹁は)時当( 88)
識の覚醒、すなわち、限定的主観説の言うところの広義の後悔に基づく中止であることは疑いがなく、政策説と法律説
を総合して考える立場からは、限定的主観説を完全に排除することは困難であ﹂り、客観説および新しい客観説によっては妥当な結論を導き出せず、限定的主観説なり主観説が正しいとする。しかし、限定的主観説的立場によっても、広
義の後悔のみが中止の動機である場合だけでなく、それが主たる動機である場合にも任意性を認めてよいとして任意性を広く認めようとする (
。 89)
(四五七一)
中止未遂の任意性についての一考察(二・完)三〇〇同志社法学 六〇巻八号
(二) 批判 先述したように、限定主観説がこの世に問われて以来、厳しい批判を受け続けている。本説に対する批判は、①中止動機の任意性と倫理性とを混同すること、②法文上書かれていない要件をたてることによって中止犯が成立する範囲を 狭くしすぎる点で刑法の謙抑性にも反すること、という二点に集中されている。したがって、本説は﹁責任減少説においてのみ認めうる基準であり (
い観って、限定主説とに至る必然性いらな任﹂、しかし、責減か少説をとったは 90)(
といわれ 91)
ている。
まず、限定主観説(宮本説)に批判を投げかけたのは、木村博士であり (
博判野平はのたしなを批な的型典のへ説本、 92)
士である。限定的主観説に対して、平野博士は、﹁このような規範意識とか真摯さとかというものを強調することに疑問を持つ。それは倫理の問題であって刑法の問題でないものを持ちこむおそれがあるのではないであろうか。倫理の問
題としてもそれはいわゆる﹃心情の倫理﹄であって、責任の倫理ではないのではなかろうか。違法な結果を発生させないようにすること、それがまさに法律上の責任だからである (
はけでともの法行現、かほたかげ投を判批な的本根のと﹂ 93)
必ずしもこのような規範意識ないし広義の後悔を必要としてないのであり、また刑の必要的減免のみが規定されているに過ぎないからこのように限定して解釈する必要はないのであり、また実際上も中止犯の成立範囲が狭くなり過ぎると
いう批判もした (
平どで容内るす似類と士博野たんっとほ、は判批の後以れそ。あ 94)(
。 95)
上述した二点の批判以外に、さらに、③﹁中止未遂を褒賞のために置かれた政策的規定であると解し、中止後の事情 をも考慮して、反省や悔悟の念が認定される場合のみを中止未遂と断じることは、法律上の必要的減軽若しくは裁量的免除事由たる中止未遂と単なる量刑事由とを混同することとなり (
が元﹂のもるな異る次あ﹁来本はれそ﹂、で 96)(
という批 97)
判、および、④本説では倫理的に価値のある動機に基づいて中止がなされた以上、たとえ結果が発生してしまったとし
(四五七二)
中止未遂の任意性についての一考察(二・完)三〇一同志社法学 六〇巻八号 ても同じ取扱いがなされるべきことになるが、現行法上中止未遂は未遂犯の一種であるから、既遂に達した場合にまでこの規定を類推適用することは困難である (
という批判もなされている。 98)
5
新しい客観説(一) 主張の内容 新しい客観説は香川博士によって主張され (
に授れさ持支に的面全る教い両谷中・子静村木、て 99)(
ものである。この見解 100)
は、牧野・木村両博士を代表とする従来の客観説は任意性の判断対象が明確でないと批判したうえ、①中止に至った事情、②その事情の表象、③その表象にともなう内部的事情を区別して、③の内部的事情、すなわち外部的事情を行為者
がどう受けとったか、その受けとり方を客観的に判断し、外部的事情が意思に強制的影響を与えたかどうかを検討すべきであるとして提出されたものであり、﹁新しい客観説﹂と呼ばれるわけである。要するに、判断の対象は外部的事情
への表象にとどまらず、その﹁表象から動機成立に至る心理の動きまでも取り込もうとする﹂ものである (
にて的事情﹄を判断の対象とし、内それを客観的に判断すること部﹃﹃﹄本説の特徴は、﹁の象表の各様各み人、ずらな 。、てっがたし 101)
よって、任意性を判断す﹂るところにある (
。 102)
香川博士は、牧野・木村博士と同様に責任減少説を採り、しかし両博士とは異なりこの責任を道義的責任概念として理解する(責任減少一元説 (
るに為者の法的義務再止び合致しようとす行中中、士は、そこで、止)。犯の減免根拠を博 103)
意欲の表れとして捉える (
例に﹁るすとだきべるよとしこるす価評に的観客新い)れ判・説通の時当、はそ客。たし唱提を﹂説観を程過的理心( 少の己自、﹁め求に﹂に減の意責、﹁てっよに任よ思行情事部内の者為、こてしと釈解の﹂りと 104)
であった客観説に対して、外部的事情への﹁表象﹂のみならず、行為者の具体的﹁うけとり方﹂を問題にすべきである
(四五七三)
中止未遂の任意性についての一考察(二・完)三〇二同志社法学 六〇巻八号
という主張を展開したのである。
博士の主張する﹁新しい客観説﹂の主なる内容は、次のようなものである。 第一に、客観的判断の対象についてである。およそ中止未遂を認めるにあたって重要なのは、単にやめたことではな くて任意にやめたことであろう。そうであれば、強制的影響を与える事情の表象にともなう行為者の﹁内部的事情﹂こそが重視されるべきである (
的決四二和昭裁高最るれさと例判表判代の説観客、は士博、でこそ。年 105)(
を利用しながら客観 106)
的判断の対象を説明する。同事案においては、客観的判断の対象となりうるものは、﹁(イ)このばあいの﹃事情﹄とは、﹃被害者の陰部に挿入した二指﹄が鮮血にそまっていたことであり、(ロ)その事情の﹃表象﹄とは、その﹃二指を見た﹄
ことから﹃その出血に驚愕﹄したところまでが対象となろう。そして(ハ)表象にともなう﹃内部的事情﹄とは、驚いたからどうしたのかがこれである﹂に三分割することが可能である (
示そを応反たっな異れぞれ、もてし対に象現じ同。 107)
すのが実情であるから、右の(ハ)にある内部的事情を客観的評価の対象とする方が適切であると主張する。
すなわち、博士の﹁新しい客観説﹂では、問題は、ある外部的事情それ自体が一般に中止の原因となるべき性質のも
のかどうかではなく、またそのような事情の表象が行為者の意思に対して強制的影響を与えるかどうかでもなく、客観的評価の対象として重要なのは、そうした事情の表象による驚愕の結果、それが中止するについて行為者がどううけと
られたかという行為者のうけとり方、いわば行為者における内部的事情そのものである。つまり、本説は、﹁客観的判断基準を採用することを正当としつつ、その場合の判断の対象が、外部的な事情の認識によって行為者の生じた具体的
心理であるべきことを強調するものである (
﹂。 108)
第二に、客観的判断にある判断基準についてである。これについては、博士は詳細な論述を展開しなかったが、﹁そ
れは、客観説の﹃一般的経験的﹄判断であり、それが意思活動に対して中止に対する﹃強制的影響﹄を与えるかどうか
(四五七四)
中止未遂の任意性についての一考察(二・完)三〇三同志社法学 六〇巻八号 であると解されているようである﹂と理解されている (
。 109)
第三に、本説と客観説との区別についてである。両説の異なるところは﹁内部的事情﹂までを判断の対象にするか、
それとも﹁表象﹂にとどまるかにある。具体的に、従来の客観説においては、﹁外部的事情の﹃表象﹄のみが主観的事情であり、その表象にもとづく﹃動機の内容﹄は、中止行為者の﹃個人的心理状態﹄という実体を考慮することなく、
一般的経験的に外部から推断される。これに対して、香川博士は、﹃表象﹄にもとづく﹃各人各様に示された反応の仕方﹄つまり﹃個人の内部的動機過程﹄という実体を﹃客観的﹄に評価されるのであり、理論的には、ここに明白な相違がみ
られる﹂といわれている (
。 110)
第四に、フランクの公式についてである。博士は、フランクの公式にあるその﹁可能性﹂が、﹁物理的﹂、﹁心理的﹂ ないし﹁倫理的﹂意味のいずれなのかが明確でないと批判する (
。 111)
(二) 批判 新しい客観説は、﹁意思の任意性の判断について行為者の内部的変化の状況を基礎に、行為者がそれによって犯行を 中止したことを客観的に判断しようとするものであ﹂り、﹁従来の客観説の主張を一歩進めたものであ﹂る (
と評価され 112)
る一方、しかし、そこに﹁言うところの客観的評価というのが具体的に何を意味するのか必ずしも判然としない憾みがあ﹂り (
曖そ性を残したのであり、の明点では、主観説よりも確不﹃ろの﹃客観的評価﹄の基、﹁準﹄の点では、むしそ 113)
昧であるともいいうる (
﹂と批判されている。 114)
ほかに、﹁心理的概念を採るが故に、例えば、客体の価値が予定より低いために失望して止めた場合にも任意性を認 めること等の合理性が疑問視されている (
のの応を重視するでのあれば、発覚反人、﹂、﹁にうよの説同各にらさ、とこ 115)
(四五七五)
中止未遂の任意性についての一考察(二・完)三〇四同志社法学 六〇巻八号
おそれや恐怖・驚愕による中止の場合にも中止犯が成立することになってしまうであろうが、そこまで中止犯の成立す
る範囲を広げることは疑問である (
。投るいてれらけかげが問疑のどな、とこ﹂ 116)
6
折衷説(一) 主張の内容 折衷説は、主観説と客観説を折衷したものであり、故意(少なくとも未遂犯における故意)を主観的違法要素と解し、中止犯の法的性格について違法性の減少を認める立場から主張されている。本説は、限定主観説は﹁自己の意思により﹂
という中止行為の任意性の要件に悔悟等の倫理性を入れる合理的根拠がなく、また、客観説は行為者の主観の変化が外部的障害の影響を受けざるをえないのに主観的要素を考慮しないとするところに問題があると批判して、基本的に主観
説に立脚する。ただし、違法性の判断は客観的に行わなければならないとの理解を前提として、違法性減少説の立場から客観説の考えも導入する点で主観説と異なる。具体的には、外部的事情への行為者の表象を判断の対象とし、たとえ
ば、実際には誰も来なくても、警察官が来たと行為者が思って中止すれば、やはり障害未遂である、すなわち﹁外部的事情とその表象がくいちがったばあいには、表象を基礎とする (
フび、がるあで様同と説観客よお説観主はで点るすと﹂ 117)
ランクの公式を用いながら﹁できるか﹂﹁できないか﹂という行為者本人の認識を客観的に判断すべきであるとする点で主観説と異なり、さらに、あくまで現に﹁できる﹂という気持ちなのか﹁できない﹂という気持ちなのかを判断する
標準が客観的でなければならないというにすぎないとする点で客観説とも異なる。したがって、﹁そこには、減免根拠に関する二元説、とくに違法・責任減少説との親和性を認めうるようにも感じられる (
﹂といわれている。 118)
折衷説も長い道のりを経てきたものであり、上述した主観的違法要素を客観的に判断しなければならないという考慮
(四五七六)
中止未遂の任意性についての一考察(二・完)三〇五同志社法学 六〇巻八号 がその根底にある。ただ、同じ折衷説といっても、論者によってその中身は必ずしも同様ではない。平野・植松両博士によって提唱され、福田博士を代表とする折衷説は、﹁外部的事情を表象した結果、行為者ができると感じたか、でき ないと感じたかという、行為者の現実の意識の過程を客観的に判断し、できると感じたと認められるにかかわらず中止したばあいを、自己の意思により中止したものと解すべきである (
のあ実現の者為行﹁てったに断判の性意任、てしと﹂ 119)
意識の過程を客観的に判断﹂すべきであると述べることにとどまり、﹁そこでいわれる客観的とはいかなる意味か﹂が明確にされていないきらいがある (
ろずた。博士は、ま行出為者本人が﹁やしをはえ近、大谷博士、。それに明確な答最 120)
うと思えばできた﹂と感じたかどうかを判断してから、さらに一般人の立場から見て﹁やろうと思えばできた﹂と判断すべきであるとして、二段階に分けて(いわゆる﹁二重のフィルター﹂をかけて)任意性の有無を判断する手法を提示
した (
。 121)
論述の便宜上、本稿においては、右の折衷説を﹁第一の折衷説﹂(いわゆる福田説)と﹁第二の折衷説﹂(いわゆる大
谷説)にわけて論ずることにしたい。
⑴
第一の折衷説 刑事政策説ないしはその理論的内容としての違法性減少説で理解する平野博士 (そう、りとを場立い意といならなか任性にだを﹂持気たいい判の人犯﹁は断ほとのがこ思に自発性意認られるというめ よ自己の意思にはり﹂と、中止は、﹁ 122)
の対象とし、それが﹁﹃できない﹄という気持であるか、﹃できる﹄という気持であるか﹂との基準に基づいて行われるべきだと、主観説を支持す (
る 123)(
故るす解と素要法違的観主を意場け立おに遂未、は士博、しかし。る 124)(
から、﹁犯人のいだ 125)
いた気持が﹃できない﹄という気持であるか、﹃できる﹄という気持であるか、の判断の標準が客観的でなければなら
(四五七七)
中止未遂の任意性についての一考察(二・完)三〇六同志社法学 六〇巻八号
ない﹂として、主観説を基本としながら、その判断標準が客観的でなければならないと主張する (
。そこで、博士は折衷 126)
説に近い見解を示した。
違法性減少説と刑事政策説の併合説を採る福田博士 (
の行かたっあでうどが思意の者為、は﹄りよに思意の己自﹃、﹁は 127)
問題である﹂から、行為者の意思が度外視されるのは妥当ではなく、﹁外部的事情の表象によって、行為者の意思がどのような影響をうけたかを検討しなければならない﹂とする点で、行為者の意思を問題とする主観説は妥当であるが、
しかし、﹁自己の意思により﹂とはいっても、自己の意思によるものかどうかを行為者の主観的な判断によって決定するのではなく、﹁﹃自己の意思により﹄という主観的要素が、違法性を減少せしめるものとして、違法性の要素と理解さ
れる以上、その判断は、客観的でなければならないであろう。すなわち、外部的事情を表象した結果、行為者ができると感じたか、できないと感じたかという、行為者の現実の意識の過程を客観的に判断し、できると感じたとみられるに
もかかわらず中止したばあいを、自己の意思により中止したものと解すべきである﹂として、折衷説を支持する (
。 128)
ほかに、植松博士、大塚博士は、違法性・責任減少説と刑事政策説の総合説の立場 (
とは説少減性法違授教石立、らか 129)
刑事政策説の併合説の立場 (
法違説少減任責・性場、立は授教田井、らかの 130)(
るいてし示れ ( いぞれそを解見近に説衷折の一第のこ、らか 131)
。 132)
⑵
第二の折衷説 最近、違法性減少説と刑事政策説の併合説を採る大谷博士 (、なとかたじ感といきうで、かたじ感とい、きをし断判に的観客識行意の実現の者為るでを結情表象した果、行為者が 、﹁説観主しはと説衷折客とて観説を折衷は、外部的事、 133)
できると感じたと認められるにかかわらず中止した場合が中止未遂である﹂と解する学説であると定義して、本説が妥
(四五七八)
中止未遂の任意性についての一考察(二・完)三〇七同志社法学 六〇巻八号 当であるとする (
。のるす開展を説自にうよ下以に的体具、は士博。 134)
まず、﹁自己の意思により﹂は、外部的障害への表象について行為者本人が﹁やろうと思えばできる﹂と感じたかど
うかの問題であり、主観説を任意性判断のベースにすべきである。さらに、博士は、違法性の判断は客観的に行われるべきだという見地から、単に主観的基準で判断するだけでは足りず、客観的基準でも行うべきであると強調する。すな
わち、﹁任意性の要件は違法性を減少させる主観的要素であるから、行為者本人が外部的障害を認識した結果、①﹃やろうと思えばできた﹄と感じたかどうかを明らかにし、②一般人の立場から見て﹃やろうと思えばできた﹄と判断しう
るときに任意性を認めるべきである﹂として、判断の基準と手順を明らかにする (
。 135)
具体的には、任意性を認めるためには、﹁第一に、行為者本人が﹃やろうと思えばやれる﹄と感じたことが必要であ﹂
り、﹁第二に、行為者本人が﹃やろうと思えばやれる﹄と感じたことが認められても、直ちに任意性は認められない。外部的障害が一般人から見ても犯罪の完成に妨げとならないものであることが必要である。外部的障害があるにもかか
わらず行為者が﹃やれる﹄と判断しても、その障害が一般人にとって通常の犯罪の完成を妨げるものであるときは、任意性の要件は満たさないのである (
べー二重のフィルタ﹂うをかけて判断す﹁い基とまり、主観的準﹂。、客観的基準つ 136)
きであるとする。ついでに、博士は、その意味で﹁ドイツのフランクの公式は、任意性の判断にとって有用なのである (
﹂ 137)
と述べた。
これまで曖昧にされてきた折衷説における主観的基準と客観的基準との関係、および客観的基準の具体的な内容が、
博士によってはじめて明確にされた。
(四五七九)