未遂犯を基礎づける客観面と主観面に関する一考察 : 英米未遂犯論と「モラル・ラック(道徳的運)」を めぐる議論を参考に
著者 山田 慧
雑誌名 同志社法學
巻 69
号 3
ページ 941‑992
発行年 2017‑07‑31
権利 同志社法學會
URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000428
( )未遂犯を基礎づける客観面と主観面に関する一考察同志社法学 六九巻三号二四九九四一
未 遂 犯 を 基 礎 づ け る 客 観 面 と 主 観 面 に 関 す る 一 考 察
――英米未遂犯論と「モラル・ラック(道徳的運)」をめぐる議論を参考に――
山 田 慧
Ⅰ はじめにⅡ モラル・ラックをめぐる議論状況Ⅲ リーガル・ラックをめぐる議論状況Ⅳ 若干の検討Ⅴ むすびにかえて
Ⅰ はじめに イギリス(イングランドおよびウェールズ)やアメリカ合衆国では、未遂犯を処罰するにあたり、行為者の主観面が
( )同志社法学 六九巻三号二五〇未遂犯を基礎づける客観面と主観面に関する一考察九四二
重視される傾向にある
)1
(。そうした傾向は、たとえば、英米の判例および制定法において、不能犯は原則として可罰的であるとされている点に見て取ることができる。英米における、こうした主観主義未遂犯論を基礎づける根拠として、犯罪結果が惹起されるか否かは、行為者の意のままにならない運の産物である点がしばしば指摘される
)2
(。たとえば、ある者が被害者を殺害するつもりで銃を撃った際、被害者が数センチ動けば急所を外れるかもしれないし、弾丸が命中しても、その後に早急な手当てが施されれば、被害者は一命を取り留めるかもしれない。このように、さまざまな偶然的事情の介在を経て惹起される結果の有無に照らして、行為者に異なる非難を加えるのは不公平であり、行為者が結果を惹起しようとして当該行為に出たことこそを重視すべきであると論じられるのである。こうした考えから、未遂犯は既遂犯と同等の刑に処されるべきであるとの主張も展開されている。
このような、英米における主観主義未遂犯論の根底には、﹁行為者がコントロールを及ぼしていた事象に対してのみ非難を加えることができる﹂との原則(コントロール原則︹
co nt ro l p rin cip le
︺)がある )3(。裏を返せば、運により非難の帰属判断が左右されてはならず、したがって、結果が惹起される危険性を未遂犯の処罰根拠と捉えることもできないと考えられているのである )4
(。こうした思考は、道徳的非難の帰属判断を左右させる運は存在するのかをめぐる道徳哲学・倫理学上の議論に端を発している。今日まで続く道徳哲学・倫理学上の議論において、このような運は﹁モラル・ラック(
m or al lu ck
)﹂または道徳的運と呼ばれている )5(。
もちろん、こうした思考は、英米における未遂犯論に特有のものではない。たとえば、ドイツにおいても、﹁結果﹂の犯罪論体系上の地位の問題をめぐり、ヴェルツェルの目的的行為論を基礎に、違法判断の対象から結果を排除すべきであるとの主張が展開されてきた )6
(。しかし、今日の英米を中心とした刑法哲学の領域においては、結果という客観面を重視する立場への批判として﹁モラル・ラック﹂をめぐる問題が指摘されるにとどまらず、客観面を重視する立場から
( )未遂犯を基礎づける客観面と主観面に関する一考察同志社法学 六九巻三号二五一九四三 の反論が複数示され、議論の深化が見られる。そして、﹁モラル・ラック﹂をめぐる問題が、未遂犯論における主要論点の一つとして位置づけられるに至っているのである。違法論の対立を軸として、もっぱら、行為または結果の﹁危険性﹂に焦点を当ててきた日本の未遂犯論が一種の閉そく状態にあるように思われることに照らして、英米未遂犯論のこうした現状を参照しておく価値は認められるのではないだろうか。
英米刑法哲学における、未遂犯の分析を念頭においたモラル・ラックに関する議論は、二つのレベルに整理して把握することが適切である。第一のレベルとして、刑法上の非難の少なくとも一部には道徳的非難が含まれることを前提としたうえで、道徳的非難の帰属を左右する運、すなわちモラル・ラックが存在するのか否かをめぐり議論が展開されている )7
(。後に触れるが、一九七〇年代に、イギリスの哲学者であるバーナード・ウィリアムズ(
B er na rd W illi am s
)と、アメリカ合衆国の哲学者であるトマス・ネーゲル(T ho m as N ag el
)は、道徳的責任に影響を与える運は存在すると論じ、コントロール原則に再考を促した。結果の惹起が道徳的非難の程度を決するうえで重要性をもつと言えるなら、未遂犯を処罰するうえでも、結果が惹起される危険性を重視しうると言えよう。第二のレベルとして、刑法上の非難または責任の帰属判断には、その公的な性格から、道徳的非難の表明以外の要素が反映されうることを前提としつつ、刑法上の非難あるいはそれに伴う制裁(刑罰)には、運の介入を許す特別な性質があるのか否かをめぐって議論が展開されている。すなわち、既遂犯と未遂犯は、同等の道徳的非難に値するが、結果の有無に照らして、法的には異なる扱いをすることが許容されるとの見解が唱えられているのである。こうした法的非難または責任に影響を与える運は、﹁モラル・ラック﹂になぞらえて、﹁リーガル・ラック(le ga l lu ck
) )8(﹂と呼ばれることもある。結果の有無が、リーガル・ラックとして刑法上の非難または責任に影響を与えることを合理的に説明できれば、未遂犯においても、結果が惹起される危険性をその処罰根拠と捉えることが可能になろう。
( )同志社法学 六九巻三号二五二未遂犯を基礎づける客観面と主観面に関する一考察九四四
そこで本稿では、まず、道徳的非難の帰属が運によって左右されてよいのか、つまり、モラル・ラックは存在するのか否かをめぐる議論を整理する。次に、同等の道徳的非難に値する者を、法的には異なって扱ってよいのか、つまり、リーガル・ラックは存在するのか否かをめぐる議論を概観する。最後に、そうした議論の整理をふまえ、未遂犯の本質を問い直すうえで、いかなる示唆を得ることができるか、若干の検討を加えたい。
(
( ら志同﹂︱唆示のか法論議るけおに学哲社学刑)。照参を頁九二二六六一〇二(号五巻八法 1拙お開展的史歴の罰処犯遂未るけに判国衆合カリメアびよおスリギイ、例稿︱﹁未遂犯の本質に関) る一考察英の米刑法および、はていつに向動す e th.455; Andrew Ashwor, “, aCriminal Attempts and tht p13emy Ashworth and JerndHreorder, A7th ed.,20wPrinciples of Criminal Law2)() Role of Resulting Harm under the Code, and in the Common Law” (1988)19 Rutgers L. J. 725, at p.733.(
( 二。照参も頁六六一)四〇〇 3、門書応用倫理学講義七問い﹄(岩波店編、はていつに則原ルーロトンコ﹃郎脇徳俊介﹁こわれものとしての道︱一道徳上の運につい) ︱﹂高橋久て cee aking th“TCsequenon 67p.t p, a9ingyolorim C967w-695; Andre. L Ashworth, . &rimnd C aawLal inrimhe thT, “ishad. KH. Ce or” J84Sa9419nfwLraDe thofk ucd 4())
ndfu. Rf. Lali C880020” nel Oss. ceucns Uhen thad tkeice Wev79 M Ck auct Lanultes“Rd, ornforw1rend; A679-179p.t p, aor Issinasssl AsfuesccSu() hen Sl. ute et ahLawpteSs.,Criminal in alue Vand Action n edt p19Le thy h“Wz, at Keoo, 93ls aee. S412., i, as”() Criminal Liability”, inThe Structure of Criminal Law36(R. A. Duff et al. eds., 2011), at p.38.(
・堂村奥、下以頁五七一)七九九、文雄成﹄(︱ていつに由事却阻罰処的正一﹁﹂イ先彦威根曽﹃編かほ夫則橋高生拠る根リスにおけギ未犯の処罰遂 に事法学者題同よる、様の問、刑なた頁扱三)一四八以ま下どを参照。をう身念一と件条罰処観客︱性罰可と的概て罪語文献とし邦松原芳博﹃犯、 mluckal or六)九〇〇二(号七二〇理運倫学医学哲学医﹂題問の)、頁か古為一〇二、社曜新﹄(門入学哲の行田のなとこたしが私はれそ﹃也徹( 的徳ダの運的徳道るけおにスミス・ア題﹁人蔵田長)、3(注掲前・脇門問ムと八良と誤過療医﹁同、頁一四一)道〇報﹂倫理学年心五集(二〇七 て的運に抗しト︱コンロール道徳六﹁聡間福、頁件九)六九九一(巻条、に報五頁五二一)一〇〇二(集〇五年基任づく道徳的責の学再検討﹂倫理六 5要て富井松、てしと献文語邦るいじ男論ていつに﹂クッラ・ルラモ﹁美﹁紀拠部学文学大島広﹂︱運的徳道と根道の性能可難非︱説序論任責的徳)
( )未遂犯を基礎づける客観面と主観面に関する一考察同志社法学 六九巻三号二五三九四五 田口守一先生古稀祝賀論文集[上巻]﹄(成文堂、二〇一四)六九三頁以下、増田豊﹁犯罪論における法益侵害結果の重要性︱最もラディカルな結果無価値論としての結果免責主義の言語ゲーム︱﹂法律論叢七六巻一号(二〇〇三)一頁などがある。(
n Uelzeb. G70mzuel s Wtsan Hürt frifchtsurta: F ffpersonalenrec. 2g 40., Sht7419, ines((松原・前掲注) , S214., ff812.hlu7319ß; Ascussahtec ffaurme Uom vreehr Ldendinta SumZn, anfm Knrd unonchungen zutruktur vr S Uegg unndrüsbhtecnr)( 1169. Aufl. 19ie, S.62 ff.; Dht, s Wecafrtre Schtseu Das Del,elzaranHthEt Zegm Unrechtsbriferf: Untersu-t inwiei, Hlgrfolinskd unsus- ngdluan6() )
( 一。照参も下以頁〇 5・、一七八頁以下増前田)・5()・掲注 7te. Zalta eds., Winr E2013, at. 2.. N1, “anSe, ink”ucLal orMe, inelk. Na KDThe Stanford Encyclopedia of Philosophy)) (
/edcklual-ors/mrientu/e .htrdfoan.sttola/ps:/tp <
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(
8 C1 Philosophyom10pass42, at p.48520” al David Enoch, “MorLuck and the Law.()())
Ⅱ モラル・ラックをめぐる議論状況 刑法上の非難の少なくとも一部が、道徳的非難によって基礎づけられると仮定したうえで、英米における主観主義未遂犯論が前提とするように、犯罪結果やその危険性は、運によってもたらされるものである以上、非難の対象とされるべきではないと言えるであろうか。
冒頭で触れたように、こうしたモラル・ラックの存否をめぐる議論は、英米では、一九七〇年代におけるウィリアムズとネーゲルの問題提起に端を発したものと言われる。ウィリアムズは、ある行為から結果がもたらされるのは運の問題である一方で、道徳的な評価を加える際に、行為から生じる結果が重視されうる点を指摘した )1
(。たとえば、画家のゴーギャンが、画家として大成するために家族を捨ててタヒチに一人旅立ったとして、その選択が正当であったと判断さ
( )同志社法学 六九巻三号二五四未遂犯を基礎づける客観面と主観面に関する一考察九四六
れるのは、ゴーギャンが結果的に画家として大成した場合に他ならないというのである。また、ウィリアムズは次のような事例もあげた。注意深い運転を続けていたトラックの運転手が、急に道路に飛び出してきた子どもを轢いてしまった場合、その運転手は、自分に全く落ち度がなかったとしても、惹き起こしてしまった結果に対して後悔の念を抱くはずである。周囲の者は、不慮の事故を起こした運転手が落ち込むのを見て、励ましの言葉をかけることもあろうが、当該運転手が、それにより﹁事故は偶然により生じたのであるから、仕方のないことだ﹂とすぐに開き直ってしまうと、その運転手には、不信の目が向けられるのではないかというのである。
他方で、ネーゲルは、ウィリアムズが着目した、結果の惹起を左右する運(結果に関する運︹
re su lta nt lu ck
︺)に加えて、道徳的非難の実践においては、さらなる運の存在が前提とされている点を指摘した )2(。たとえば、犯罪意思を実現しうる状況に遭遇することは運の問題であり(行為状況に関する運︹
cir cu m st an tia l lu ck
︺)、さらに、犯罪を行うような気質を獲得することは、生まれや生育環境などの影響を受けるという意味で運の問題である(犯罪要因に関する運︹co ns tit ut iv e lu ck
︺)。しかし、犯罪意思を実現しうる状況に遭遇したことを所与の前提として道徳的非難は加えられ、また、好ましくない気質を有していること自体も道徳的非難の対象とされる場合があると指摘したのである )3(。そして、ネーゲルは、コントロール原則が要求するように、道徳的非難の帰属判断から運の介入を徹底して排除しようとすれば、結果に関する運以外の運も排除されない理由はなく、そうすると、人は責任主体でなくなってしまうと述べた。ここからネーゲルは、道徳的非難の帰属は、その前提として要求されるように思われるコントロール原則に照らせば、本来、非難が帰属されえない事象を対象とする逆説的な実践であると結論づけたのである )4
(。
このように、ウィリアムズとネーゲルの問題提起の態様は異なるが )5
(、共通しているのは、道徳的責任の帰属判断に影響を与える運の存在を肯定している点である。こうした問題提起を発端に、モラル・ラックの存在をめぐっていかなる
( )未遂犯を基礎づける客観面と主観面に関する一考察同志社法学 六九巻三号二五五九四七 主張が展開されているのであろうか。以下では、その議論状況を整理してみたい。
一 モラル・ラックの存否をめぐる直観的な対立
⑴ モ ラ ル ・ ラ ッ ク の 存 在 を 否 定 す る 根 拠 と 問 題 点
モラル・ラックは存在しないと説く見解、すなわち、結果の有無は道徳的非難の程度に影響を与えないとする見解は、コントロール原則を重視し、行為者の意のままにならないことに対して非難を加えることはできないと唱える。カントは、﹁道徳的な善は、善き意思のみによって決まり、その目標とされる事象が実現されることによってそれが善となるわけではない﹂と述べたが )6(、コントロール原則は、こうしたカントによる叙述にその淵源が見出されると一般に評価される。なぜなら、同様のことが悪しき意思にもあてはまるからである。つまり、道徳的な悪は、悪しき意思のみによって決まり、目指された不当な結果が運の影響のもと実際に生じたからといって、その悪が増大するわけではないとされるのである )7
(。したがって、英米における主観主義未遂犯論を支持する者からは、既遂犯と未遂犯は、結果を惹起する意思に基づきそれを試みたことに変わりはない以上、道徳的非難において違いはなく、運に依拠した法の適用は回避されるべきであるから、両者に同等の刑罰を科すことが比例性の原則(
pr in cip le o f p ro po rti on ali ty
)にも適うと主張されてきた )8(。また、他人に対して十分に配慮したうえで行為していた者には、その行為からたまたま結果が惹起されたとしても道徳的非難は加えられないにもかかわらず、行為者に非難可能な意思(有責性︹
cu lp ab ilit y
︺)が認められれば、結果の惹起それ自体が道徳的に重要とされる根拠は見出しがたいとの指摘もある )9(。
しかし、こうしたモラル・ラック否定論には次のような批判が加えられている。まず、あくまで善なる意思について述べたに過ぎないカントの主張に、コントロール原則の淵源を見出すことができるのか疑問が示されている )₁₀
(。また、よ
( )同志社法学 六九巻三号二五六未遂犯を基礎づける客観面と主観面に関する一考察九四八
り問題視されているのは、モラル・ラック否定論において、コントロール原則が恣意的に適用されている点である。つまり、ネーゲルが指摘したように、道徳的非難の帰属判断から運の影響を排除すべきであるのなら、意思を形成し、行為を試みた以降の運(結果に関する運)だけでなく、意思の徴表やその形成に影響を与える運(行為状況に関する運および犯罪要因に関する運)も排除されない理由はない。そうすると、いかなる者に対しても道徳的非難を帰属できなくなってしまう。モラル・ラックの存在を否定することで、もっぱら行為者の意思または試みが非難の対象であると主張するためには、こうした道徳的非難におけるパラドックスをいかに解消するのかを説明する必要があると指摘されるのである )₁₁
(。
⑵ モ ラ ル ・ ラ ッ ク の 存 在 を 肯 定 す る 根 拠 と 問 題 点
モラル・ラックは存在すると説く見解、すなわち、結果の有無は道徳的非難の程度に影響を与えると捉える見解は、行為により惹起された結果が、日常的な道徳的非難の帰属判断において重要なファクターと位置づけられている点を強調する。しかし、﹁単に偶然により生じてしまった事象は非難の対象とされない﹂というコントロール原則を完全に否定することもできないとすれば )₁₂
(、なぜ、惹起された結果に照らして道徳的非難を帰属させてよいのか明らかではないとの批判が向けられてきた )₁₃
(。
二 モラル・ラック否定論・肯定論における問題点を克服する試み
⑴ 道 徳 的 非 難 の パ ラ ド ッ ク ス の 解 消
モラル・ラックの存在を否定すると、道徳的非難の帰属主体が消滅してしまうとの問題点に対して、結果の惹起に照らした処罰の是非という観点からは、以下のような説明が試みられている。⒜ 証 明 問 題 へ の 還 元
第一に、運の影響のもとで生じた客観的な行為や結果は、行為者が犯罪意思を有してい( )未遂犯を基礎づける客観面と主観面に関する一考察同志社法学 六九巻三号二五七九四九 る証拠として要求されるとの説明が見られる。こうした説明は、何ら犯罪行為を行わなかった者、実際に犯罪行為を行った者、犯罪行為を行ったうえで結果を惹起した者は、本来的には同等の非難に値することを前提としている。つまり、コントロール原則を、﹁コントロールの及ばない要因を取り除けば、犯罪意思を有し、犯罪行為に至っていたであろうと言える者に非難を加えることができる﹂という趣旨を示すものとして理解するのである )₁₄
(。その一方で、運の影響を受けたとはいえ、何ら犯罪行為を行わなかった者に対して現実に非難を加えることができないのは、その者が、本当に犯罪を行う意思を有しているのか、あるいは状況が整えばそれに乗じて犯罪行為に出るのか確信できないからであると説く )₁₅
(。さらに、道徳的非難を基礎づける犯罪者の心理状態の認定にはなおも限界があることに照らして、惹起された結果が、行為者の心理状態を証明する明白な証拠となると主張される )₁₆
(。
しかし、このように道徳的非難の帰属判断に対する運の介入を単なる証明問題に還元させる見解に対しては、行為者の意思の証明を、もっぱら客観的に現れた事実に基づかせる根拠はないとの批判が加えられている )₁₇
(。また、行為者の心理状態が、将来的に何らかの態様で容易に認定できるようになったとしても、結果の惹起は道徳的非難の程度に影響を与えるとの直観は拭いきれないとの指摘もある )₁₈
(。さらに、実際に行われた犯罪行為や惹起された結果から行為者の心理状態が証明されるとの理解は、そうした心理状態を有するに至ることもまた運の影響を受けることについては明確に説明しておらず、ネーゲルが指摘した道徳的非難のパラドックスは解消されていないのではないかとの疑問も呈されている )₁₉
(。加えて、既遂に向けた最終行為にまで至れば、行為者の犯罪意思は十分に証明されていると言うことができ、さらに結果の惹起まで求める理由はない点や、結果が惹起されてはじめて行為者の意思が認定できるというのであれば、未遂犯は刑が減軽されるのではなく不処罰となってしまう点 )₂₀
(、さらには、行為者がいかなる意思を有していたのか明らかでない場合に、その証明を結果が惹起されたことの証明に代えることは、合理的な疑いを超えた証明を求める刑事司法
( )同志社法学 六九巻三号二五八未遂犯を基礎づける客観面と主観面に関する一考察九五〇
の原則と抵触する点なども指摘されている )₂₁
(。
b 結 果 に 関 す る 運 の み の 区 別
第二に、右の説明方法とは異なり、行為状況に関する運や犯罪要因に関する運の影響は、道徳的非難を加えるための前提と捉えることが可能であるが、結果に関する運の影響については、同様に解することはできないとの説明が見られる。この説明によれば、実際に犯罪意思を有していない者、あるいは、犯罪行為を行っていない者は、そもそも道徳的非難に値しないことになる )₂₂(。というのも、犯罪意思を形成し、それが発現するに至る過程には、確かにさまざまな偶然的事情が介在するものの、それでもなお、人は、自身の﹁意思﹂や﹁行為の選択﹂に対してコントロールを有していると言えるからである。これに対して、結果に関する運は、自らの意思に基づいて行為を選択した後に介在してくるものであり、行為から生じた結果そのものは、行為者のコントロールが決して及ばないものである以上、道徳的非難の対象とされてはならないと説明するのである )₂₃
(。刑法の行為規範の名宛人としては、﹁自律(
au to no m y
)﹂があり、合理的な選択を下すことのできる者が想定されており、モラル・ラックについて論じる刑事法学者は、このことを所与の前提として、結果に関する運のみに焦点を当てる傾向にある )₂₄(。
しかし、こうした説明に対しては、決定論が真ではないとして、意思や選択には自身のコントロールが及んでいるとしても、意思や選択に至るまでの過程に、いくぶんかの偶然的事情が介在していることは否定しがたく、そうした偶然的事情の影響のもとで形成された意思や選択を道徳的非難の対象としてよい根拠が十分に示されていないとの批判が向けられている )₂₅
(。また、結果に関する運を排除すべき根拠として、被害者に向けて銃を撃ち、命中させた者と、狙いを外した者がしばしば比較されるが、そうした事例の比較は、道徳的判断における一般論を導きうるものではないとの指摘も見られる。つまり、ある行為から結果が惹起されずに終わる原因は、運以外にも考えられるというのである。たとえば、被害者を毒殺しようとした者が、不注意にも、毒であることを示すラベルが貼られたボトルを手渡したがために、
( )未遂犯を基礎づける客観面と主観面に関する一考察同志社法学 六九巻三号二五九九五一 被害者がそれに気づいて、犯行が失敗した場合、その失敗の原因は、行為者のコントロールが及ぶものなのではないかとの疑問が呈されている )₂₆
(。
⑵ モ ラ ル ・ ラ ッ ク の 存 在 を 基 礎 づ け る 積 極 的 な 根 拠
他方、モラル・ラックの存在を積極的に根拠づけようとする主張には次のようなものが見られる。
⒜ 応 報 的 な 感 情 、 民 主 主 義 的 な 同 意
結果の惹起が道徳的非難の程度に影響を与える根拠の一つとして、不正な行為から結果が惹起されれば、公衆はそれに応じて憤慨を覚えること、また、未遂犯を既遂犯よりも軽く処罰する法やその運用は、一般的に支持されていることが指摘される )₂₇(。
しかし、こうした公衆が抱く感情は、被害者にどれほど感情移入するか、または、結果の惹起に至った経緯をどれほど認識しているかによって変わってくるのであって、モラル・ラックの存在を肯定するほど一般化できるものではないとの批判がある )₂₈
(。また、結果の惹起に対して公衆が抱く感情を一般化することができ、実際に、未遂犯に対して刑を減軽する実務が支持されているとしても、道徳的非難を帰属させるうえで、結果の惹起を重視することが﹁正しい﹂との結論は導きえないと指摘されている )₂₉
(。
b 公 衆 が 抱 く 感 情 の 一 般 化
こうした批判を受けて、惹起された結果に対して抱かれる感情を一般的なものとして説明しようとする試みが見られる。冒頭で触れたように、イギリスの哲学者であるバーナード・ウィリアムズは、自身が結果を惹起した際に生じる後悔の念(行為者の後悔︹ag en t-r eg re t
︺)に着目し、結果の惹起は道徳的責任の程度に影響を与えると論じた。たとえば、過失なく歩行者を轢き殺してしまった運転手は、自分に落ち度がないことを認識していても、自身が結果を惹起したことに対して後悔の念を抱くはずであり、そのような感情を全く抱かないとすれば、その運転手には不信の目が向けられる。つまり、行為者は、他でもない自分が惹起した結果そのものに対して何ら( )同志社法学 六九巻三号二六〇未遂犯を基礎づける客観面と主観面に関する一考察九五二
かの義務を負うというのである )₃₀
(。ウィリアムズが、こうした指摘により、結果に関する運が道徳的﹁非難﹂に影響することを根拠づけようとしたのかは不明である )₃₁
(。もっとも、﹁行為者としての人間の履歴は、あらゆる意思の産物が、意思の産物でないものによって取り囲まれ、支えられ、部分的にはそれらによって構成されている、ひとつの網の目に他ならない )₃₂
(﹂とのウィリアムズの指摘は、モラル・ラックの存在を肯定しようとする論者に影響を与えている。すなわち、道徳的非難の実践は、行為者が、﹁自分は﹃完全に予測できない結果を伴う、因果的に複雑な世界 )₃₃
(﹄に存在している﹂と理解していることを前提に行われると論じられるのである。そのうえで、被害者への感情移入の程度とは関係なく、ウィリアムズの言う﹁後悔﹂を行為者が感じる﹁べき﹂であると考えられるのは、偶然によるものであれ、結果を惹起した者に対する重い非難の帰属が正当化される(コントロール原則は、哲学的なフィクションである)ことを意味しているとの主張も展開されている )₃₄
(。さらに、行為者のコントロールの及ぶ事象に対してしか責任を問えないとすれば、他人に対して十分に配慮することを徳目として要請することができなくなり、悲惨な社会が到来することになるのではないかとの懸念も示されている )₃₅
(。
しかし、これらの主張にも批判が多い。まず、ウィリアムズの言う﹁行為者の後悔﹂は、行為者に全く落ち度がなくとも感じられるものであるから、自身の行為は正当なものであったとの認識と両立するはずである )₃₆
(。そうであるとすれば、﹁行為者の後悔﹂は、道徳的﹁非難﹂を行為者に加えてよい根拠にはならないのではないかとの疑問が呈されている )₃₇
(。また、行為者の後悔や自責の念といった感情が、実際に惹起された結果と結びつけられる必然性はないとの指摘もある。たとえば、Xを含む五人に無作為に銃が配られ、そのうち一つにのみ弾丸が入っており、どの銃に弾丸が入っているか誰も知らず、捕虜に対して五人が一斉に発砲し、その捕虜が死亡したという場合、Xは、自身に配られた銃に弾丸が入っていようがいまいが、同程度の自責の念を感じるのではないかというのである )₃₈
(。さらに、モラル・ラックを否
( )未遂犯を基礎づける客観面と主観面に関する一考察同志社法学 六九巻三号二六一九五三 定する社会が悲惨なものになるとは限らないとの反論も見られる。というのも、モラル・ラックの存在を否定しつつ、なお、社会の人々に対し、犯罪結果を惹起しうるような行為に出ない義務や、いかなる環境に置かれても、より善く行為できる素養を育む義務を課すことはできるからである )₃₉
(。
⒞
徳同す的非難が帰属されることに意るしていると説明するのである応道 ₄₀) 者行た出に為行該当つし定を想とこるじ生が果結の定一為つは対、に結帰の為行のそ、し相にい道ー性と徳うディーラ ィのそ、し対にー結ラー、デのノジカはーラブンャをギ果い受とらか為行の身自、に様け同のるてしを意同の旨るれ入 けた出に賭拠根試るすうよし示提をいもよてし定肯をクッラつみと見につし定想を険危らけ負るけなる。すれわち、賭 こういとるあで平公不がとしるせさ入介を運に断判属帰題問ラ点公・ルモらか点観の性平、をしといないてきでくょ払「 risk assumption
非こモ、のでまれの難ル)」 ( 定 想 の 険
ラ・的す徳道、は拠論るとラうよし定肯をクッ危
(。こうした説明によれば、道徳的非難を加えるためには、行為者が、行為やその結果に影響を与えうるすべての要因にコントロールを及ぼしている必要はなく、﹁不法行為を避けるための公平な機会﹂を有していたと言えれば足りる )₄₁
(。そして、こうした機会を有していたと言えるのは、行為者が、行為を行う理由(規範)の意味を理解する能力をもち、そうした能力の発揮が著しく阻害される状況になかった場合であり、これは、刑法上の免除事由(
ex em pt io ns
︹精神異常、未熟、抑制のきかない怒りなど︺)および免責事由(ex cu se s
︹強制、強迫、無知など︺)がなかった場合に他ならないとの主張も展開されている )₄₂(。
しかし、一見、説得力がありそうなこうした説明に対しても、﹁結論の先取りに過ぎない﹂との批判が向けられている。すなわち、結果が生じる危険を認識しつつ行われる行為が一種の﹁賭け﹂になるのは、結果の有無が道徳的に重要であることを前提としているからに他ならないと指摘されている )₄₃
(。モラル・ラック否定論者からすれば、結果を惹起しうる行為に出た時点で、当該行為者の道徳的非難の程度は確定されるのであって、道徳的な﹁賭け﹂という考えは否定され
( )同志社法学 六九巻三号二六二未遂犯を基礎づける客観面と主観面に関する一考察九五四
るというのである )₄₄
(。
⒟
えい言いるのではなかたというのであるてと ₄₅) でいたがい言はと﹂たっあ害のもるよに運は死の者の被。こ場対ぼ及をルーロトンコてししに結のそ、は者為行、合果 しが死亡該た場合、当害者し被てしそ、中命に者害被害被で者れの該当、﹁以るあのもる上さ合想亡結は果理的に予死 っまらに者害被、のか離距近至度程ぐるす発銃て、が丸弾たし砲め口定をい狙、け向をあば張でえするわけある。たと のは、行為て果などをなの排きべるれさ除通いおに則原、結常す主はいなぎ過に﹂運﹁るとになの想定きでい異常なも でんの及はルーロトンコて者為行、もし対に果結、るていれと言ルーロトンコ、りまつ。るあもとこるさ摘指が点るえ「
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(。こうした説明は、﹁合理的に予想される結果﹂に着目する点では、右の﹁危険の想定﹂に依拠した説明と前提を同じくするが、結果は運に依存するものではない(行為者は結果を運に委ねる︹賭けに出る︺のではない)とする点で異なる。つまり、﹁異常な因果の流れをもたらす運が介在した場合にのみ、道徳的非難は否定される﹂として、﹁モラル・ラック﹂の意味を消極的に理解するものと言えよう。
しかし、モラル・ラックの意味を消極的に解したとしても、異常な事態が生じる可能性がある以上、結果に対してコントロールが及んでいるとは言えないとの批判がある )₄₆
(。また、右の説明によれば、﹁通常生じることが見込まれる結果が実現したこと﹂は運の問題ではない以上、そのようにして生じた結果は非難の対象とされる。しかし、このことは同時に、﹁予想外の事態により結果が生じなかったこと﹂は運の問題であり、こうした﹁たまたま結果が生じなかったこと﹂は道徳的非難の対象にならないことを意味する。そうすると、たとえば、ある程度の至近距離からの狙いを定めた発砲がたまたま外れたとしても、道徳的非難を加える際、結果が生じなかったことは重視されないとの帰結に至るのではないかとの疑問が呈されている )₄₇
(。結果に対してコントロールを及ぼしていると説明できる場合があったとしても、なお、
( )未遂犯を基礎づける客観面と主観面に関する一考察同志社法学 六九巻三号二六三九五五 運の影響により道徳的非難の程度が左右される事態は生じるのであって、その正当化根拠はいまだ示されていないとされるのである )₄₈
(。
三 モラル・ラックをめぐる議論の現状 これまで見てきたように、モラル・ラックの存在を否定することに伴う、道徳的非難のパラドックスを解消する試みには、多くの疑問や批判が加えられている。他方、モラル・ラックの存在を肯定する積極的な根拠を、コントロール原則を否定することで示そうとする試みにも、また、コントロール原則に照らして示そうとする試みにも、看過しがたい問題点が指摘されている。したがって、モラル・ラックの存否をめぐる議論は、互いに証明責任を転嫁せざるをえない状況にあり )₄₉
(、コントロール原則と日常的な道徳的判断の実践のどちらが正しいのかをめぐる直観の対立にとどまっているとの評価も見られるのである )₅₀
(。
(
( .(が頁九〇一)〇一〇二号る一究研論為行﹂︱解読とあ約。)要 33al Bernard Williams, “MorucLk” inMoral Luck201981, at pp.23-1﹃と徹田古、てし説﹁解・約要()(也バ道ム徳的運﹄︱ズアーリィウ・ドー) ナ
( .八)がある。)九 “M NThomas791924orag ink”el,Lal uc2Mortal Questionsて一﹄(勁草書房、し九とと書訳翻)((かこ、リ永井均﹃) ウモでなあるとはどのようコ p.-Nagel,. n.2, at p3332op. cit3) (永井・前掲注(
2)・五二 es, “Andrew MichaLatusel Mk”mor, inJaucLal The Internet Encyclopedia of Philosophyーとから、余分なカテリゴでがあ(るあ(摘のとる指 、する運は為行状況にに関関、果因たしうこがたじ論てけつるす可運せこるあで能結が明説りよにわと合み組の運るす関に因要罪犯びと問の論定題 lucausal ck関か﹂にいする運(果るらてい行する状況にかれに決定づけ関に因すゲ決、をーリゴるカのこ、はルテー在ネ運︹の存︺)も指摘した。 . ル非的徳道、は)ゲーネ、たま頁の難四程と先、が人、﹁てし運度るえ与を響影に - 五
Feiser et al. ed.,2001), at 2.b.iii
http://www.iep.utm.edu/moralluc/ <
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