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明治初期東京の洋算塾について : 開学明細書を中 心として

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(1)

心として

著者 青木 光行

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 18

ページ 81‑92

発行年 1966‑03‑20

URL http://doi.org/10.15002/00011765

(2)

明 治 初 期 東 京 の 洋 算 塾 に

l l

関 学 明 細 書 を 中

J I

西洋数学

i l

洋算は西洋人との接触により、また「西洋数学を

遍述した中国の暦算書の移入」により我が国に紹介されてきた。

しかし本格的な洋算の伝習は幕末期の幕府海軍による長崎伝習ま

でまたなければならない。更に洋算の普及発展の基盤をなしたも

のに明治五年八月の「学制」頒布、すなわち一切の学校教育の上

で「洋算専用」を布達したことである。これは我が国近代教育史

上特筆すべきことがらである。

3本稿は「明治六年一月東京府関学明細書」を中心L

しし

て東

京府

下で洋算を教授する私学教育機関

l l

洋算塾の実態の一端を捉え

ようとしたものである。なほ本稿の表はすべて「開学明細書」を

もとに作成した。

明治初期東京の洋算塾について(青木)

し 、

と して!

lI

主円

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明治初期東京府下にはおよそ千二、ゴ一百校の私学が関学してい

たと推定される。このうち算術関係の私学は明治五壬申年「本籍

職分総計留」によれば五十二校、同六年一月一日調「朱引内外戸

籍職分総計留」には六十九校とある。しかし算術の内容、和洋算

のいずれであるか不詳である。「開学明細書」には和算・洋算の

別が記されているのでこれによって調べてみるこ之とする。まづ

中学区別に明細書提出校数並びに算術を教授する校数を調べると

第一表のようになる。すなわち提出校数九百九十九校のうち百七

第一表明細書提出校数

///中学区一

校数

//

//

//

//

一 明 細 表 一 二 一 提 出 校 数 算 術 関 係 一 校 数

A

(3)

法政史学第一八号

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第 五 番 中 学 区

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同 傭 教 員 分 布 図 第 六

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洋 情

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530 頁 参 照 第 五 + ニ

「 東 京 市 史 楠J市 街 篇 p

,

(4)

十九校約一割八分が算術を教授していることになる。しかし百七

十九校のうち算術のみ教授する私学は三十六校に過ぎない。コ一十

六校の内訳をみると和算二十二校、和洋算四校、洋算十校とな

る。また他教科を兼ねる百四十二校のうち洋算を教授する所は四

十六校である。すなわち「開学明細書」には洋算を教授する私学

が六十校あることになる。これは算術関係校数の約三分の一にあ

たる。また明細書を提出した私学全体の約六分、百校あればその

うち六校が洋算を教えている計算になる。勿論六十校中には洋算

専門校や洋算が主になるもの、反対に他の教科が主で洋算が従に

なるものもある。これを中学区別にみてみると第二表のようにな

る 。

第二表

中学区 洋算関係校数

一 内 訳 一 洋 算 の み 一 洋 和 算

一洋和算と他教科

一 洋 算 と 他 教 科

計 四

_[_, I _ .

;

[ 7 9

他教科との組合せを和算とともに調べてみると第一一一表のような

結果を得る。

明治初期東京の洋算塾について(青木)

第三衰

算 算 算 算 算 算 算 算 算 算 算 算 算 算 算 算 算 算 算 算 算 算 算 |

| 教

科 算術と他教科との組合せ

算 其 英 明j仏 英 英 英 英 英 独 英 英 英 英 英 筆 筆 筆 英 筆 筆 筆 の

他 筆 支

読 支 読 皇 英

支 測 支 独 支 支 支 支

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八 洋和算

一 四

一 一 一

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一 一 五

一四

一 一 二 四 三 九 一 一 一 一 一 一 一 一 二 二 二 二 三 三 四 四 五 二 六 六 五 六 九

(5)

法政史学第一八号 計

七九 九

一一

算(算術)筆(筆道)白玉(皇学)支(支那学)読(読書)

釈(釈学・仏教)英(英学〉独(独乙学)仏(仏蘭西学)

測(測量学)訳(翻訳書)

洋算は英学・独乙学・仏関西学等の洋学・和算は筆道・支那学

・読書等の教科との組合せが多いというように洋算と和算ではか

なり教科の組合せに相違がみられる。

洋算塾を開学・または教科に洋算を採用した年次を調べてみる

と第四表に示したような結果が得られる。

第四表洋算塾聞学洋算採用年次

備考

ー 】L.

ト ー

1

一六

八 四

上表に天保・弘化・安政・文久年間に一校ずつ開学しているが

塾主の履歴より考察してみるとこの年間に洋算を採用したとは考

えられない。また年代未詳の六校も塾主の履歴からみて明治年間

に開校したのではないかと推察される。故に明治になってから洋

算塾を開学、または洋算を採用したところが大部分であるという

ことになる。なお表にある明治年間の四十八校についてみてみる

と明治元年に一校、同二年にコ一校、同三年に二校、同四年に四校

・同五年に三十六校・同六年三月迄に二校という内訳になる。明

治五年に開学・採用したところが最多数で全体六十校の六割を占

めている。明治五年の三十六校を月別にしてみると第五表のよう

第五表明治五年月別開学数

校|月

四一

五一

六一

七一

八一

九一

O

一 二 三 計 一

一四

一三

一一

一一

一二

四一

四一

七一

一一

一一

六一

になる。これより明治年間の四十八校のうち「学制」頒布前に洋

算塾を開学・洋算を採用したところが一二十一校、以後が十七校と

いう結果が得られる。

ではどのような身分階層の人々が洋算塾を経営したり教員をつ

とめたのか。「開学明細書」に塾主とある経営者の身分について

調査してみると第六表のような結果が得られる。

(6)

第六表洋算塾経営者身分一覧表

一/

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一 二 一 二

一 一

計-

身 分 一

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一 一 一

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士 族

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一七 (

五 ) 一六O

( 一 二 九 一

()内は経営者白から洋算の教授にたずさわっている人数

_ . _ _ .

、 ノ

計 備

すなわち士族出身が最多数を占め、次いで平民・華族という順

8位になり、神官・僧侶・医者出身はみあたらない。華族出身には

白から洋算を教授する者はいないが、各身分で洋算を教授してい

るものは()内に示した通りで計三十九名となる。経営者自ら

洋算を教授しない所は洋算教員をやとって指導教授にあたらせて

いる。それ故四十七名の傭教員がいる。これは府下の私学に二百

十三名の傭教員がいるが、それの約二割二分にあたるものであ 傭教員四十七名の身分について調してみると第七表のように査 る 。

なる。傭教員の大多数は士族出身であり、また二十一歳から三十

歳台が約六割二分もしめている。

なほ経営者と傭教員の年齢空調べてみると第八表のような結果

を得る。すなわち洋算は和算と比較して青年層の人々が多い。こ

明治初期東京の洋算塾について

( 青 木 )

1

外! 不平士|身 /

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表-1 卜

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算術塾経営者傭教員年齢

八五

(7)

法政史学第一八号

れはこれから発展せんとする洋算と廃滅せんとする和算|便利な

計算器としての算盤を除く!との差を明示している。

「開学明細書」には経営者・傭教員の出身地が記入されてい

る。これを調べてみると第九表のような結果を得る。全体では東

京府出身三十一名が一番多く次いで静岡県十五名、浜松県八名以

下表の通りである。特に傭教員の場合は北は東北、南は九州と全

国各地方に及んでいる。なほ傭教員の中に英国人一名がいる。す

第九表洋算塾経管者傭教員出身地 一 一

経 営 者

一 一 一地 方

一府

一世

間算

動|凶第一一傭教員!

小 計 一総 一援せず一教授一

一一

一 青 森 一 一 二 三

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北 一白 川 一一日二↑三

- 置 賜 一一一 一 一 東 京 一一

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一 三 一関 東 一印 膳

一 一

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↑ 群 馬 一 畠

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一 静 岡 一 一

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一 一 愛 知 一

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一 一 同 町 一 一

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七 四 七 なわち東京府貫属士族村岡良辰の墨水学

校(

郷恥

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討軒

先)

に 教 員 英 国 人

英語学イドウィン・サイモンドソン

壬申三十四歳

(8)

教授書籍スベルリンプック・地理書・算術書

英語学・数学・諸学科免状所持給料一ヶ年百五十メキシカ

9

ン弗ト相定明治五壬中十

A月官許之上一履

、とある。専門は英語学となっているが教授書籍の中に内容は不詳

であるが算術書とある。なほサイモソドソンと村岡良辰の聞には

どのような契約がとりかわされたのか不詳であるが府下居留外国

人調査が行われた際提出された「外国人傭人人名書」には

英 国 人 イ ド ウ ィ

γサインドソン壬

申年

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一十

期限

型一

一日

当肝

刊日

一K

第六大区十小区須崎町弐番屋鋪借家 傭中止宿場所U

右雇入之義壬申十月廿八日官許英語其他諸学科為教師同区同所

士族村岡良辰雇入私学開業仕候

此段取調申上候第六大区十小区戸長

M

M

壬申十一月

とあり雇八期限・宿舎が記載されている。

洋算を教授する経営者や傭教員八十六名は如何なる教育機関また

は教師について洋算を修行したのか。まづ出身教育機関を調査し

てみると第十表の如き結果を得る。

第十表洋算教員出身教育機関名

一ーー 門

岡 同

同 L

経 営 ほ 官 庁 内 総 計

一 私 学 一攻 玉 塾

( 近 藤 真 琴

) 一三一

一七

一二

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一 一 一 関 係 一慶応義塾(福沢諭吉)

五一

百二

明治初期東京の洋算塾について(青木〉 ↑

天 求 合 社

( 福 岡 泉 半

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隣 塾

( 中 井 幸 太 郎

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一 一

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(9)

法政史学第一八号

|日 滞 係 学 鹿 高 静 浜 石

校 校 校 校 校 関

県 学 松 県 学 問 県 学 松 県 洋 学 児 島 洋 学

私学・陸海軍

・大

学関係洋算教育機関についてはすでに小倉金

之助博

士の

「維新前後に於ける洋算の教育

機関

の研

究」

があ

る。

第十表に土木司測量所というのがあ

る 。 これは前記小倉金之助博

士の研究の中には何も記されていない。同所出身で洋算塾昇量軒

(綿

一山

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一)

塾、

王東

京府

貫属

士族

小野

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歴に

「明

治三

庚午

年正引一克土木司測量所御開成修業相願、同四辛未年九月中測量所

被廃」とある。これによって何頃開校し、また廃校になったかを

知ることができる。とにかく表の如く沼、津兵学校出身者数と同人数を出していることは当時の重要な洋算教育機関

の中

一つ

に入

るべきものであろう。

次に師事した教師名をみてみると本邦教師五十四名、外国人教

師十名という結果を得る。この中には洋算ではなく和算や英学等

を教授した教師も含まれている。そのうち洋算を教授した主なる

教師名をあげれば近藤真琴、福田泉(理軒)、福田半(治軒)、小

笠原賢蔵、神凹

孝平

、小宮山昌寿、佐々木二

郎(

綱親

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外人

教師

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る。

八 八 四

当時東京府下の代表的な洋算教育機関をあげれば、まず福沢諭

吉の慶応義塾、中村正直の同人社とともに東京の三大塾の一つに

挙げられている度会県貫属士族従六位海軍中佐近藤真琴の攻玉塾

がある。攻玉塾

は 、

初塾主近藤真琴幕府ノ軍艦操練所ニ通学スルヤ、同学ノ士蘭書

ヲ読マサレハ航海術-一通暁スル事能ハサルヲ見ル者、四谷坂町 稲垣家ノ邸内ナル自宅ヲ訪ヒ

学ハ

ン事ヲ請フ者アリ、乃ハチ勤

仕ノ余暇ヲ以テ蘭学ヲ教授ス、実-一文久三年春夏ノ交ナリ、是

ヨリ数学航海ノ諸術-一及フ、慶応二年冬始メテ英学ヲ置ク、後

米リ学フ者漸ク増シ二十余人、明治元年八月鳥羽へ移転スルニ

ヒテ

塾ヲ閉ス、明治二年十月兵部省ノ召ニ応シテ出府シ海軍

操練所出仕

ヲ命

セ一

フル

ルニ

及ヒテ旧門人来ル者アリ、文新タニ

教授ヲ請フ者アリ、乃チ麹町ナル鳥羽藩邸ノ自宅

-一

於テ

務ノ

間ニ業ヲ援夕、爾来入門ヲ請フ者アルモ居宅ノ狭キヲ以テ謝絶

セリ、十一月築地海軍操練所管内元一橋邸ニ於テ官邸ヲ賜フ、

兵部省特更ニ生徒ノ教授及ヒ寄宿-一使ナルカ為メニ広キ所ヲ以

テセラル、是時ヨリ塾名ヲ攻玉塾ト称シ前-一記シタル学科ヲ修

メシム、当時田中義廉、本山漸等皆私-一塾ヲ置キ生徒ヲ養フ、

皆海軍操練所ノ予備校ノ姿ヲナシ生徒

ノ増

等総テ兵部省一一具

状ス

(中

略〉

明治

四年

三月芝新銭座町六番地(改正後拾壱番地〉

ナル

慶応義塾

ノ家

作ヲ

福沢諭吉ヨリ譲

一フ

レ、

四 月十六日同地へ

転ス、当時ノ寄宿生四十八人通学十余人アリ

(10)

とある如く海軍操練所創設の任に当った田中義廉(義門・大介〉

同所出仕本山漸(漸吉)と同様に海軍操練所(明治三年十一月海

軍兵学寮と改称)の予備教育機関として開学したものである。

「開学明細書」の履歴には。

天保九年戊成ヨリ安政二年乙卯迄皇漢学小浜撲介え従学・嘉永

二年己酉

ヨリ

同四年辛亥迄漢学堀池柳外え従学、同六年奨

丑ヨ

リ安政四年丁己迄蘭学高松譲庵え従学、安政四年丁巳ヨリ文久 三年奨亥迄兵学木村兵部太輔え従学、文久三年焚亥ヨリ算術ニ

志ス同年実亥後半年一一シテ幕府軍艦操練所翻訳方被申付翌年測

量算術教授方トナル、慶応元年ヨリ英学ニ志ス、同三年丁卯冬

ヨリ明治元年戊辰二月迄英国測量士官グランドえ従学、其他算

術測量ハ多ク原書ニ就テ相学ヒ英学亦対訳辞書等相学ヒ候故是

ト申ス教師姓名難書記、幼年入学ヨリ凡三十一年修業、明治二

M年十一月ヨリ開業

とある。この攻玉塾には愛知県貫属海軍大助教前田亨、堺県貫属

海軍兵学寮中防教白藤道恕等現役の海軍兵学寮教官や浜松県貫属

国中矢徳等計二十四名の教員がいて洋算をはじめ皇漢学、英学を

教授している。

攻玉塾の他に主なるものを挙げてみると青森県貫属士族岸俊雄

の有

新館

(輔

ト献

一詳担

掛区

、印擁

県貫属士族鏡光照の義伐堂

( 鳩 一 に

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貫属

士族

海軍

兵学

大助

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坪正

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在斎

(糊

長野

伏誌

献金

E

、攻

塾の分塾すなわち「近藤莫琴塾手狭且窮生

ニテ入塾致兼候弘司

γ

収容した東京府貫属士族中井幸太郎の有隣

明治初期東京の洋算塾について(青木)

塾へ

喜一/番地従五位秩回映季邸内借地」 大区小七/区飯倉狸穴町二浜松県貫属士族鈴木秀実の至誠舎一 一

{第

五大

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一小

、樋口一心斉枠直口藤次郎(五六)の経天舎

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神 田

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る。

以上

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算を

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科を

従と

する

/能町二丁目十二番地、tところであるが洋算を従とするところには華族石川総管(僻献訂)

の勤

学義

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南区

当日

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一議問

、東京府管下商福沢諭吉の慶応義塾

(醐

二政

臨刊

日都

配)

、東

京府

貫属

士族

斎藤

実頴

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一候

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東京

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族古

谷孝

治の

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学社

(耕

翻駄

一世

九一

九日

刊一

一」

酌地

)、

東京

府貫属士族宮内大侍医伊東方成弟伊東保義の伊東氏塾(嶋崎恐慌一

前伊)、相川県管下女部省五等出仕司馬盈之の春風社(鴎嗣…臨調刊一

時世)、京都府下華族東本願寺住職大谷光勝の真宗東派学塾(間一殺

区浅草松蒲町四番)等がある。以上はいずれも「開学明細書」今一提出町東本願寺境内、した私学であるが未提出校の中で著名なものに福田理軒の順天求

合社(時糊絞一昨和服)、一時開校した浜松県士族尺振八の共立学舎

(糊

綜…

一者

間)

があ

る。

第二表洋算塾六十枚の生徒のありさまについて調べてみること

とする。まず一校あたりの生徒数についてみると一人以上五十人

以下が三十八校で一番多く全体の約六割三分にあたる。次に百一

人から百五十人迄が七校となる。これを表示すれば第十一表の通

りで

ある

八九

(11)

法政史学第一八号

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また総人数をまとめれば男子生徒数三千二百八十六人、女子生

徒数七百六十四人、総計四千五十人となるが、しかしこの生徒の

全部が洋算を学んだということははなはだ疑問になってくる。例

へば

玉江

屋能

女塾

(綿

十一

麻布

一叫

山中

都心

蹴)

の場

合、

生徒

総数

百七

十名

その

内訳をみると筆道生徒人員百六十二名、英学生徒人員七名、洋算

生徒人員一名と記されて

いる

ではどの位洋算を学んだかという

と正確な数を知ることは困難であるが、わかる範刷内の十三校の

洋算生徒人員及び年齢を調べてみると第十二表の如き結果を得

る。すなわち洋算生徒は男子で二十歳以上の者が圧倒的に多数を

しめているのである。

九 第十二表洋算生徒年齢別一覧

/’年齢

一 一 一

一 一

一一ト///

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百 九

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一一む 川

一千 民

一配劃

なほ六歳から九歳迄は学制に規定せられている公教育機関の下

等小学に、十歳から十三歳迄は上等小学に、十四歳から十六歳迄

は下等中学、十七歳から十九歳迄は上等中学に相当するものであ

る 。

. . . . . .

. J

洋算塾ではいかなる内容や教授用書籍がどのような順序で教授

されているかeまづ教科内容についてみると加減乗除から代数・

幾何学・コ一角術・微分積分にまで及んでいる。そして等級が設け

られて教授されている。例として勤学義警の洋算教授等級を示せ

教授概略第一等

三等

四等 重学微

分 積 分 円 錐 方 代 数 幾 何

高等代数

(12)

五 等 三 角 法 六 等 代 数 学 七 等 対 数 用 法 開 平 開 立 八 等 比 例 小 数 分 数

初 等 加 減 乗 除 となる。なほ等級の設け方やその内容には塾によって多少の差が

ある

次にどのような教授用 。

書籍

が使用されたか。攻玉塾の例をとっ

てみれば「算術測量八海軍

兵学寮官板教室

盲(四

一日

著算

初 学 英 ホットン氏チャンブル氏米ロビンソン氏」とある。他の洋算

塾でも攻玉塾と同様に洋書が使用されている。特に米国のロビン

ソン

(国

z

・問

σ

5 8

。ロ

)、

ダビ

lス

(の

・巴

m w i o ω

)、

英国

のチ

ンプル(

n z s z

書)の教科書

g

が多く使用されている。勿論洋 の算術書ばかりでなく日本人の手になる洋算書も編纂使用されて いる。例えば「算術教科書として維新時代の数学を代表するに足

る名著寸

γ

いわれる塚本明毅撰の「官筆算訓蒙」(明治己己九月沼津学校刊行)がそれである。これは「方今筆算頗る世に行はる

るといへども、いまだ編成の書あらず、人々皆西籍より訳して是

を援

くる

故、

度量貨幣等

を算

する

に、

多く彼に詳にして、却て我

国の制度を遣し、特に幼学に便ならざるのみならず、又日用に切

ならず、是を以て今此書を編して、専ら幼学入門の資となす」を 目的として編纂されたものである。総目録には「巻一

数 目 加 減 乗除、巻二分数諸法、巻三比例諸法、巻四差分雑題、巻五開方連

級、対数用法」とある。 幾何学

明治初期東京の洋算塾についてハ青木)

岸俊

雄の

有新

館で

は「

師一

時比

例法

附分

数術

問題

」(

明治

四〉

、「

間一

分数

術附

小数

術(

明治

四)

、「

西洋

開諸

附対

数用

法並

表一

冊」

(明

治五

)を

算法刊行使用している。このうち「西洋比例法」土前記塚本明毅の「筆算法t算訓蒙」とともに文部省「小学教則」の算術教科書に指示されて

いる

七 明治初期各地方に於いては「洋算を知らざる訟で、これを

以て偏阪の地に至りては一も筆算を用うる所なし」という状態で

あったため、以上みてきた内容をもっ東京の洋算塾、それは府下

全体の私学からみれば数こそ少ないが「将来和算を以て立ち難き

を思ひ、心甚だ動く、きれど就て洋算を修むる

A h

師なし、遂に

東京に出でてこれを修めんこと今一決するに至れり」と和算家遠藤

利点が明治五年二月上京し岸俊雄の有新館に入学し洋算を修学し

た如く、我が国洋算修学の中心地をなすものである。これは我が

国に於ける洋算の普及発展の基盤ともなったものである。

( 注〉

(1

) 日 本 学 士院編「明治前日本数学史」第五巻・三九八頁

(2)小倉金之助著「数学史研究」第二料・一七一ーl

一七

三頁

。 沼田次郎著「幕末洋学史」八二l一O

七頁

(3)「開学明細書」は学制の学区制にもとづく中学区毎(東京 府は第一大学区で第一番中学区

より

第六番中学区に区劃されて

いる)にまと

めら

れて都政史料館に保存されている。これは中

(13)

法政史学第一八号

学区毎に「明治六年一月東京府開学明細書」と題して全七巻七

冊が同館より刊行されている。第一巻には四十六頁にわたって

石川悌二氏の詳細な解説がなされている。第七巻は別巻附録索

引である。

(4)学制頒布前後東京府下の私学数を記したものには次のよう

なものがある。「日本教育史資料」に「是歳(明治四〉末東京

府許可ヲ得シ家塾私塾ヲ総査ス其数凡七百七十五校」ハ第七分

冊・九一頁〉。明治五年十一月府下概況調には「中学二ケ所・

小学十八ケ所・私学四十六ケ所・家塾千百十五ケ所」(「東京

市史稿」市街稿第五十一ニ・七五四頁)。「文部省第一年報」同六

年三月は私学五十二、家塾千百二十八ケ所、十月以降は公立二

十九校に対して私立十八校、変則私学百二十校、家塾千有余と

ある

(5〉「東京市史稿」市街篇第五十三、一七四頁。

(6

〉右同、第五十三、一九二|二二

O

頁。

(7)これで東京府下の私学全部が明細書(表)を提出したもので

なくまだ相当数の末提出があることは注(4)や「日本教育史資

料」巻二十三の「東京府私塾寺子屋一覧表」との参照によって

も明らかである。

(8)「開学明細書」より私学経営者の身分をみれば平民三九O

名、士族三五九名、華族六名、皇族一名、不詳一四七名とな

る。真宗東派学塾大谷光勝は華族の部に算

入し

た。

ハ9)「開学明細書」第六巻、二二七!一三八頁。なほ墨水学校

にくる前、すなわち明治四年六月より一ヶ年間、加賀金沢の中

1 c

学東校で英学数学を教授している。「稿本金沢市史学事編第二1

四六八i

四七

一頁

(叩)「東京市史稿」市街篇第五十四、一八三

11

一八

四頁

(U)小倉金之助著「数学史研究」第二料、一七一l

一九

一頁

(ロ)「開学明細書」第六巻、四!五頁。

(日)「日本教育史資料」第九分冊、四一二一一

l

四コ

二二

頁。

ハU

「 開 学 明 細

書」第二巻、四一l

四二

頁。

(日)右問、第二巻、九九頁。

(日)右岡、第一巻、一八三|一八五頁。英学洋算は沼津兵学校

出身静岡県士族岡敬孝が教授している。

(げ)学制第二十七章、同第二十九章。

(日〉「開学明細書」第六巻、一四頁。

(四)右向、第二巻、一九八!一九九頁。

(却)小倉金之助著「数学史研究」第二耕、ニニニ

l

二二

三頁

同著「数学教育史」二九一ーー二九二頁。

ハ幻)海後宗臣、仲新編纂「日本敬科書大系近代編、第一O

巻 、

算数

以い

」一

一二

頁。

ハ幻)遠藤利貞遺著「増修日本数学史」六三九頁。

ハお〉右問、六五八

l

六五

九頁

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