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県重要文化財 建造物 すみ よし じん じゃ ほん でん 住吉神社本殿 いわき市小名浜住吉字住吉 昭和三十三年八月一日 一棟 住吉神社 附 棟札木簡八枚 三間社流造り 江戸時代 寛永十八年 一六四一 えん ぎ しき 住吉神社は市内に鎮座する延喜式内七社の一つとして知られ ている 拝殿と幣殿は近年の造

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県指定重要文化財(建造物) まん しょう どう どう ( 黒 くろ 田 だ 不 ふ 動 どう 堂 どう )     一棟 指   定   昭和三十年十二月二十七日 所在地   いわき市田人町黒田字別当 所有者   満 照 寺 江戸時代 床面積   三九・一九㎡ 満 照 寺 不 動 堂 は 総 そう 欅 けやき 造 つく り の 一 面 の 長 さ 六・ 二 六 m の 三 さん 間 けん 四 し 面 めん 堂 どう で、 四 周 の 廻 縁 で 造 ら れ て い る。 屋 根 は 単 層 の 宝 ほう 形 ぎょう 造 づく り で茅葺き、 基 き 壇 だん の上に建つ。 周 囲 の 柱 は 粽 ちまき 付 き の 円 柱 一 二 本 が 立 て ら れ、 軸 組 は 地 覆、 腰貫、 内 うち 法 のり 貫 ぬき 、 頭 かしら 貫 ぬき に台輪が回され、木鼻もつけられている。 斗 と 栱 きょう は 出 組、 拳 こぶし 鼻 ばな 付 き、 中 なか 備 ぞなえ は 中 の 間 に 動 物 の 彫 刻 の あ る 蟇 かえる 股 また で、 両 脇 の 間 に は 蓑 みの 束 づか が 配 さ れ、 化 粧 垂 木 は 二 ふた 軒 のき 繁 しげ 垂 だる 木 き ( 背 返 し ) で、 軒 の 出 も 大 き い。 正 面 中 央 に は 観 音 開 き の、 動 物 など浮彫りのある桟唐戸、左右脇の間に格子付 花 か 頭 とう 窓 まど が設けら れ、両脇側面の中の間に板引違戸を付け、その外はすべて 竪 たて 板 いた 壁で、内部の床は板張りである。頭貫、台輪、小壁、斗栱、 丸 が 桁 ぎょう には彩色が施されているが剥落が目立つ。 内部は奥一間通りを内陣として、中央に方一 間 ま の 厨 ず 子 し を造り つけ、 身 も 舎 や 中央に護摩座を置く。二本の 来 らい 迎 ごう 柱 はしら を建て 虹 こう 梁 りょう を 架け渡し、斗栱は 二 に 手 て 先 さき 組 ぐみ と出組 で受ける。竜と唐獅子の掛鼻 が付けてある。来迎柱には金箔を押し、斗栱、 長 なげ 押 し 、虹梁、台 輪など全部に 胡 ご 粉 ふん 下地の彩色が施され華麗を極めている。内陣 には、右手に 利 り 剣 けん 、左手に 索 さく を 把 は 持 じ し、 火 か 焔 えん 光 こう 背 はい を負い、 瑟 しつ 瑟 しつ 座 ざ に坐した本尊不動明王坐像が安置されている。 天 井 は 中 央 が 鏡 天 井、 四 周 は 格 ごう 天 てん 井 じょう と な っ て お り、 こ れ に 飛天や丸竜等の彩色絵が描かれている。 地元に伝えられている記録によると、大聖寺別当不動堂とし て元禄十四年 (一七〇一) に建立されたことがわかる。 元禄期の華やかな建築様式が覗える三間四面堂である。

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県指定重要文化財(建造物) すみ よし じん じゃ ほん 殿 でん     一棟 (附)   棟札木簡八枚 指   定   昭和三十三年八月一日 所在地   いわき市小名浜住吉字住吉 所有者   住吉神社 江戸時代・寛永十八年 (一六四一) 三間社流造り 住吉神社は市内に鎮座する 延 えん 喜 ぎ 式 しき 内七社の一つとして知られ ている。拝殿と幣殿は近年の造営であるが、本殿は江戸初期の 桃山建築の遺構を伝えている。三間社流造り、 屋根は銅板葺き、 棟は箱棟で千木が付けられている。三面に廻縁を巡らし脇障子 や 組 高 欄 も 設 け ら れ て い る。 斗 と 栱 きょう は 平 ひら 三 みつ 斗 ど 、 連 つれ 三 みつ 戸 ど 、 出 で 三 みつ 斗 ど と 多 様 で あ り、 入 側 に は 海 え 老 び 虹 こう 梁 りょう が 架 け 渡 さ れ て い る。 妻 飾 り は 二 重 虹 梁、 大 たい 瓶 へい 束 づか 、 三 ツ 花、 鏑 かぶら 懸 け 魚 ぎょ を つ け、 鰭 ひれ ま で 付 加 さ れ て い る。 正 面 中 央 一 間 に は 金 具 を 打 ち 付 け た 板 唐 戸 が あ り、左右の間軸組三面欄間、脇障子や胴嵌め板には、元文五年 (一七四〇) に後補された四天王、 花、 瑞獣等の彫刻がはめこまれ、 向拝、各円柱、大瓶束等にも後補の唐獅子、象鼻等の掛鼻や 手 た 鋏 ばさみ 等 が 付 加 さ れ 彩 色 も 施 さ れ て 華 麗 を 極 め て い る。 棟 札、 木 簡 の 墨 ぼく 書 しょ 銘 めい に よ る と、 寛 永 十 八 年 ( 一 六 四 一 ) 内 藤 政 興 が 社 殿 を 再建し棟梁田口吉左衛門、 木田与兵衛等が建築に関与している。 建築様式は、三間社流造り 折 せっ 衷 ちゅう 様 よう 式 しき である。

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県指定重要文化財(建造物) こう ぞう さん じゅうの     一棟 指   定   昭和五十六年三月三十一日 所在地   いわき市高倉町鶴巻 所有者   高 蔵 寺 江戸時代・安永三年 (一七七四) 高 蔵 寺 観 音 堂 は、 寺 伝 に よ る と 大 同 二 年 ( 八 〇 七 ) 徳 一 に よ っ て 開 か れ、 以 後 観 音 霊 場 と し て 栄 え た。 応 永 年 中 ( 一 三 九 四 ~ 一 四 二 七 ) に 堂 塔 の 改 修 が 行 わ れ、 江 戸 時 代 に は 幕 府 よ り 朱 印 三〇石を拝領している。地元の長子村で作られた 相 そう 輪 りん の 伏 ふく 鉢 ばち に 刻 銘 さ れ て い る 銘 文 か ら、 安 永 三 年 ( 一 七 七 四 ) に 建 立 さ れ た こ とがわかる。 塔 は 三 間 四 面 の 三 重 塔 姿 で、 屋 根 は 柿 こけら 葺 ぶ き で あ っ た が、 現 在 は 銅 板 葺 き に 修 理 さ れ て い る。 初 重 の 四 周 に は 擬 ぎ 宝 ぼ 珠 し 高 こう 欄 らん を 付 し た 縁 ( 後 補 ) が あ る が、 二 重、 三 重 に は 高 欄 が な い。 対 辺 四〇㎝の八角形の心柱と、各層とも十 二本の円柱を建て、 切 きり 目 め 長 なげ 押 し ・腰貫・台輪を回し、 斗 と 栱 きょう は 尾 お 垂 だる 木 き 付 つき 折 せっ 衷 ちゅう 様 よう 三 み 手 て 先 さき 組 ぐみ で 中 なか 備 ぞなえ はない。軒は 二 ふた 軒 のき 繁 しげ 垂 だる 木 き ( 拮 はね 木 ぎ 無し) 、初重正面中央には両 開きの桟唐戸、左右脇の間に雲版様の 花 か 頭 とう 窓 まど 、両脇面側の中の 間に引違戸を付け、 その外はすべて板壁で、 床は板敷きである。 内部には観音堂から移した比較的大きな 厨 ず 子 し があり、心柱は 初重の本梁で受けている。四天柱と天井はなく、厨子の中には 木造徳一大師坐像が安置されている。 相輪は 露 ろ 盤 ばん 、 伏 ふく 鉢 ばち 、受花と 宝 ほう 輪 りん が大きく、その上に 蓮 れん 弁 べん と 火 か 焔 えん 宝 ほう 珠 じゅ をおく。 高蔵寺三重塔に比肩すべき塔は、県内には東和町の隠津島神 社三重塔 (県指定) と、会津高田町の法用寺三重塔 (県指定) の二棟 が存在するが、浜通りにおいては江戸時代唯一のもので、建築 様式は当時の折衷様を主体とした地方色を表現している貴重な 建造物である。

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県指定重要文化財(建造物) きゅう ぐち じゅう たく     一棟 指   定   平成十九年四月六日 所在地   いわき市鹿島町下矢田字散野 (いわき市暮らしの伝承郷内) 所有者   いわき市 江戸時代後期 桁行   一二・七二m、梁間   七・八七m 床面積   一〇〇・二五㎡ この住宅は、もとは遠野町入遠野字中野地内にあって、当地 方特産の磐城延紙の生産をしていた兼業農家だった樋口家が昭 和六十一年まで暮らしていた。 創建年代は、棟札等の資料が無く明らかではないが、樋口家 の口伝などから十 九世紀前半と推定される。 当 時、 棚 倉 藩 領 だ っ た こ の 地 方 の 製 紙 産 業 は 有 名 で あ っ た。 天 明 八 年 ( 一 七 八 八 ) 幕 府 の 巡 検 使 に 随 行 し た 古 川 古 松 軒 の 記 録 の中に 「この辺の民家少し宜し」 と書かれた所の民家であろう。 土 間 に は 竈 かま と 楮 こうぞ 竈 がま が あ り 竈 柱 が 建 つ。 板 張 り の 中 の 間 と 勝 手、そして上座敷と奥座敷と、 直 すご 屋 や 平 ひら 入 い り三間取りの当時の農 家の典型的平面形で、主体部の変格は少なく創建時の部材が多 く残っている。規模が小さいにも関わらず大きな改造が少なか ったのは、住居としての完成度が高かったためと思われる。 したがって、創建時におけるこの地方の兼業農家の生活様式 を知る上で貴重な民家である。

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県指定重要文化財(絵画) けん ぽん ちゃく しょく はなわ いち ぞう     一幅 指   定   昭和三十年二月四日 所在地   いわき市勿来町窪田西殿町 所有者   個人 江戸時代・文政四年 (一八二一) 総縦   一七二・七㎝、総横   五五・七㎝ 塙保己一は江戸中期の国学者で、本姓荻野氏、のち師匠・須 賀 一 の 姓 を 名 乗 り 塙 氏 と 称 し た。 延 享 三 年 ( 一 七 四 六 ) 武 蔵 国 児 玉 郡 保 木 野 村 ( 埼 玉 県 本 庄 市 児 玉 町 保 木 野 ) に 生 ま れ、 通 称 寅 之 助、 七歳で失明し、十 二歳で母を失った。江戸へ出て雨宮検校須賀 一の門人となったが、 音曲・針治には意を用いず文学に専念し、 山岡明阿や賀茂真淵などに師事した。後、幕府の許しを得て和 学講談所を興し、多くの門下生を教授し、屋代弘賢・中山信名 な ど の 碩 せき 学 がく を 出 し た。 『 皇 親 譜 略 』『 花 吹 松 』『 蛍 蠅 抄 』 等 の 著 があり、古書の校正刊行も少なくない。また、古書の散逸を防 ぐため 『群書類従』 六三五巻の刊行を全うしたが、 『続群書類従』 は資料の収集のみで刊行には至らなかった。 文政四年 (一八二一) 二月総検校となったが、同年九月十二日七六歳で没した。法号 は和学院心眼明光居士、正四位を贈られた。 本図は中回し 金 きん 襴 らん 、天地 緞 どん 子 す 仕立である。画像は頭巾をかぶ り、 中 ちゅう 啓 けい を持った総 検 けん 校 ぎょう の正装を斜向に描いたもので、温雅 な大学者の風貌が良く表現されている。画面の右下には「住吉 内 記 」「 藤 原 広 定 」 の 方 印 が あ る の で、 住 吉 広 貫 の 筆 で あ る こ と が わ か る。 広 貫 は 土 佐 派 の 画 家 で、 初 名 は 広 定 ( 弘 定 ) ・ 内 記 と も 称 し た。 古 土 佐 の 風 を 慕 い 手 腕 を ふ る っ た 幕 末 の 絵 師 で、 土 佐 派 近 来 の 妙 手 と 賞 さ れ た。 文 久 三 年 ( 一 八 六 三 ) 七 一 歳 で 没 した。 保己一の総検校就任は文政四年二月で、 九月には没したため、 この間の作品と思われる。時に住吉広貫二九歳であった。

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県指定重要文化財(彫刻) もく ぞう しゃ にょ らい ぞう     一躯 指   定   昭和三十年十二月二十七日 所在地   いわき市平四ツ波字石森 所有者   忠 教 寺 鎌倉時代 (十三世紀) 像高   五七㎝ 磐 城 山 忠 教 寺 は、 寺 伝 に よ る と 徳 一 に よ っ て 開 か れ た 寺 で、 現在は臨済宗の寺である。 釈 迦 は 仏 教 の 開 祖 で、 「 釈 しゃ 迦 か 牟 む 尼 に 」 ま た は「 釈 しゃく 尊 そん 」 と 称 し、 仏 ぶっ 陀 だ ・ 世 せ 尊 そん ・如来等の尊称がある。釈迦はインド北方の小国カ ビ ラ 城 に て、 父・ 浄 じょう 飯 ばん 王 のう 、 母・ 摩 ま 耶 や 婦 ぶ 人 にん の 太 子 と し て 生 ま れ た が、 生 後 七 日 に し て 母 ぼ 后 こう に 死 別 し た。 幼 名 を 悉 しっ 達 たる 多 た と 称 し、 学術武技を修めたが、 内省的で長ずるに従って瞑想的になった。 十九歳の時結婚して一子をもうけたが、人生の無情や苦に対す る省察はいよいよ深く、解脱の道を求めて出家した。苦行林で 六年、 仏 ぶつ 陀 だ 迦 か 耶 やー の菩提樹下に静座して内観につとめた。その時 多 く の 魔 の 妨 害 を 退 け、 解 脱 の 明 智 を 内 証 し て 仏 陀 と な っ た。 その明智は一切の存在を相依相待の縁起として把握することで あって、人生のあらゆる問題をこの根本原理の上に如実に観察 することであった。そののち入滅に至るまで、万人の強化に専 心したのである。 この釈迦如来坐像は、木造寄木造りの 漆 しっ 箔 ぱく 像 ぞう である。お 顔は 額に 白 びゃく 毫 ごう があり、眼は 玉 ぎょく 眼 がん で 端 たん 厳 げん の相を示している。 通 つう 肩 けん の 衲 のう 衣 え は写実的である。手印や面部、胸など肉身部は後世の修補 で、一部に削り直しがあったのではないかとみられるが、鎌倉 時代の制作と思われる。 元 禄 元 年 ( 一 六 八 八 ) に、 磐 城 平 藩 主・ 内 藤 義 孝 が 寄 進 し た も のである。

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県指定重要文化財(彫刻) もく ぞう しゃ にょ らい ぞう およ なん そん じゃ りゅう ぞう しょう そん じゃ りゅう ぞう     三躯 指   定   昭和三十年十二月二十七日 所在地   いわき市山田町蔵ノ内 所有者   楞 厳 寺 南北朝時代 (十四世紀) 中尊像高   八四・八㎝、脇侍各像高   九四㎝ 釈迦如来は 普 ふ 賢 げん 菩 ぼ 薩 さつ と文殊菩薩を 脇 わき 侍 じ とする場合と、本像の ように迦葉と阿難の二尊を脇侍とすることがある。 迦 葉 尊 者 は 摩 ま 詞 か 迦 か 葉 しょう 尊 そん 者 じゃ と も 呼 ば れ、 頭 ず 陀 だ 第 だい 一 いち で、 樹 神 に 祈って得た子である。はじめ 婆 ば 羅 ら 門 もん の学士としてその真髄を極 めたが、釈迦の説法を聞いて道を改め、仏門に入り、その深奥 を極めて釈迦十大弟子の随一と称されるに至った。 釈迦の没後、 仏門の長者に押され、 阿 難尊者とともに仏教の教典を編集した。 阿 難 尊 者 は 釈 迦 の 従 弟 で、 生 せい 来 らい 怜 れい 悧 り 、 博 はく 学 がく 強 きょう 記 き で あ っ た。 後年釈迦について仏門に入り、釈迦五五歳の時より二〇余年間 侍者となり、東西の 化 け 導 どう に随行した。後に釈迦十大弟子に数え られ、迦葉尊者についで仏門の長者に押されたという。 中 尊 は 木 造 寄 木 造 り、 漆 しっ 箔 ぱく の 坐 像 で 玉 ぎょく 眼 がん 入 り、 施 せ 無 む 畏 い 印 いん を 結 ん で い る。 衲 のう 衣 え は 首 か ら 両 肩 に さ が る 通 つう 肩 けん で あ る。 白 びゃく 毫 ごう ・ 肉 にっ 髻 けい が あ り、 切 付 の 螺 ら 髪 ほつ は 頭 に 比 す れ ば 大 粒 だ が 刻 み が 浅 い。 顔・胸・手等には後世修理の金箔が残っている。光背・台座は 江戸時代の補作と思われる。 阿難尊者立像は、金剛合掌で壮年の僧形で、迦葉尊者立像は 目縛印掌で腰を少しかがめた老僧の姿に造られている。いずれ も玉眼入り彩色の像で、円光背と台座は江戸時代の補作と思わ れる。 本像の制作期については、衲衣の処理に保福寺の薬師如来坐 像 (県指定) や、惣善寺の阿弥陀如来坐像 (県指定) と相通ずるもの があることから、南北朝時代の作と思われる。

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県指定重要文化財(彫刻) もく ぞう こん ごう しゃ みょう おう りゅう ぞう     一躯 指   定   昭和三十一年九月四日 所在地   いわき市勿来町酒井出蔵 所有者   蔵皇神社 鎌倉時代 (十四世紀) 像高   八七㎝ 蔵 ざ 皇 おう 神 じん 社 じゃ の 創 建 は、 大 同 二 年 ( 八 ○ 七 ) に 大 和 国 金 きん 峯 ぶ 山 せん か ら 菊 田 郡 犬 養 山 に 蔵 王 大 権 現 を 奉 ほう 遷 せん し た と 伝 え ら れ る。 正 嘉 二 年 ( 一 二 五 八 ) の 火 災 に よ っ て 社 殿 そ の 他 が 焼 失 し た た め、 現 在 の 地 に 遷 座 し た と い う。 ま た 当 社 は、 蔵 王 社・ 蔵 王 堂 と も 称 し、 出蔵寺境内の堂宇の一つであったが、明治初年の神仏分離の際 に蔵皇神社となった。 本像は岩座に立ち、御尊顔は三面で 忿 ふん 怒 ぬ の形相をあらわして いる。眼は彫眼で、髪は怒って逆立つさまをたたき出しの手法 で一気に彫りあげている。 衣 え 文 もん の刻みは流暢を欠き、粗雑な感 じは免れない。後頭部や肩の後の部分は荒削りで、 鉈 なた 彫 ぼ りを思 わせる。右手は腕の一部を残しているが、左手は肩の付け根か ら欠け、足も先が欠け顔にも損傷がある。髪の一部に朱彩、眼 や歯の凹部に白彩が残されていることから、当初は彩色の像で あったと思われる。 本像は三面ではあるが六臂でも五目でもなく、頭上に馬王の 髻 もとどり もないことから、これは三面の蔵王権現像で、金剛夜叉明 王としたのは誤りである。 また本像の制作期は、 裳 も 裾 すそ の衣文や様式からみると、文保二 年 ( 一 三 一 八 ) の 長 谷 寺 ( 常 磐 上 湯 長 谷 町 ) の 十 一 面 観 音 立 像 ( 県 指 定 ) や、 原 町 市 泉 竜 寺 の 十 一 面 観 音 立 像 ( 県 指 定 ) に 通 ず る も の が あ り 、鎌倉時代末期の作と思われる。

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県指定重要文化財(彫刻) もく ぞう やく にょ らい およ りょう わき ぞう     三躯 てん りゅう ぞう         二躯 指   定   昭和三十六年三月二十二日 所在地   いわき市平上高久字作ノ入 所有者   浄 日 寺 平安時代 (十二世紀) 薬師如来像高   七五㎝ 脇侍像高   八八~九〇㎝ 天部像高   八九㎝ この薬師如来像は、明治初期に廃寺になった薬王寺末寺の日 光 山 自 性 院 光 山 寺 ( 真 言 宗 智 山 派 ) の 薬 師 堂 に 祀 ら れ て い た。 同 寺は、日光権現 (現在の日光神社) の別当であった。江戸中期の記 録によると薬師堂は三間四面で、一間四方の拝殿があった。 薬師如来は寄木造りの坐像で、 肉 にっ 髻 けい が大きく豊かな顔、 衣 え 文 もん の流れるようなひだは彫りが浅く、 よく藤原様式を伝えている。 膝裏に「奉修福   文和二癸己   六月一日   仏子孫四郎   絵師覚 山 」 等 の 墨 ぼく 書 しょ 銘 めい が あ る。 文 ぶん 和 な 二 年 ( 一 三 五 三 ) は、 南 北 朝 時 代 の 動乱期であった。また、 「修福」は「修覆」の意と思われる。 脇 わき 侍 じ の日光・月光は同じく寄木造りの小形像で、一木造りの 面影をのこしている。 二 天 部 の 一 つ は 頭 部 を 欠 く が、 持 国 天 と 多 聞 天 と 思 わ れ る。 五躯とも損傷が多く、光背・台座・ 侍 じ 物 もつ を失っているが、白水 阿弥陀堂の諸仏と共通点がみられ、貴重な遺品である。

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県指定重要文化財(彫刻) もく ぞう じゅう いち めん かん のん りゅう ぞう     一躯 指   定   昭和三十六年三月二十二日 所在地   いわき市常磐上湯長谷町堀ノ内 所有者   長 谷 寺 鎌倉時代・文保二年 (一三一八) 像高   一七二㎝ 本像は長谷式十一面観音像で、寄木造りの彫眼、足はさし足 で、材質はカヤ材を用いる。口唇に朱を、鼻下のひげと肩にか かる 垂 すい 髪 はつ は墨で描いた、いわゆる檀像彫刻である。寄木の手法 は両肩、腕、及び背面を合せ、頭部も耳の前で前後に張り合わ せ、 内 うち 刳 ぐ りを施しさし首になっている。 宝 ほう 冠 かん は三方に二重の菊 花が刻まれ、十面の 化 け 仏 ぶつ は当時のままである。腕は豊満で丸み を 帯 び、 上 じょう 膊 はく 部 ぶ に 腕 わん 釧 せん を 彫 り だ し、 肩 か ら 腰 の 衣 え 文 もん 、 腰 か ら 下の 裳 も はゆるく反転して彫りが深い。 天 てん 衣 ね は仏体と同木である が、接合部に破損がみられる。彫刀の冴えは見事で、鎌倉末期 の特色である写実的表現に優れている。 像の胎内・足先の裏面に六七三字の 墨 ぼく 書 しょ 銘 めい があり、その一部 は次のとおりである。 「奥州東海道岩崎郡長谷村観音堂徳一大師建立所也」 「文保弐 年 戌 午 二 月 十 日 奉 造 立 始、 同 戌 午 三 月 十 七 日 大 願 畢 」「 造 立 檀 那 滝 山 千 日 大 峯 一 僧 祇 行 人 大 阿 闍 梨 頼 賢 慶 南 房   仏 師 大 輔 法 橋 能 慶」 「祖父隆泰   隆時   隆綱   泰久   祖父永真祖母明連比丘尼」 これら長文の墨書銘により、長谷村観音堂は徳一大師の創建 で、 仏 像 の 造 立 は 文 保 二 年 ( 一 三 一 八 ) 、 檀 だん 那 な は 大 峯 山 で 千 日 修 行をした頼賢慶南房で、仏師は能慶であることがわかる。そし て、岩崎氏と僧が造立に関与したことが明確になり、岩崎氏系 図の欠が補われ、 造立の年代、 檀那、 結縁衆、 作者が判明した。 これ程墨書銘の多い類例も少ないことから、仏教文化と歴史的 資料の両面から極めて高い評価をうけている。近年、光背・岩 座・ 錫 しゃく 杖 じょう が補われ像容を一新した。

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県指定重要文化財(彫刻) もく ぞう かん のん さつ はん ぞう ( 滝 たき 見 み 観 かん 音 のん )     一躯 指   定   昭和三十八年三月二十日 所在地   いわき市小名浜林城字大門 所有者   禅 長 寺 室町時代・応永十七年 (一四一〇) 像高   六四㎝ この観音菩薩は、滝見観音とも称されている。半跏像とは左 足をふみ下げ、右足を折ってその足首を左膝に乗せて坐った像 をいう。本像は鎌倉時代末期から室町時代にかけて盛んに画題 に選ばれた滝見観音を彫刻したもので、従来の仏像とは趣が異 なり、絵画的・鑑賞的に表現されている。このような例には鎌 倉 市 東 慶 寺 の 木 造 水 月 観 音 像 ( 神 奈 川 県 指 定 ) 、 郡 山 市 中 田 町 駒 坂観音堂の水月観音像 (県指定) などがある。 禅長寺仏殿に安置されている本像は、右手を右斜め後方につ き、左手を膝の上において体をやや斜横に倒し、岩座の上に半 跏して滝を眺めている姿である。 ご尊顔はやや面長な豊頬で、可愛らしく美しい。細い切れ長 の眼には 玉 ぎょく 眼 がん が入っている。頭の 宝 ほう 髻 けい は高く 宝 ほう 冠 かん をいただき、 胸には 瓔 よう 珞 らく を付けている。膝に掛かる衣や岩座に長く複雑に垂 らした彫りの浅い衣には、土紋彩色による花鳥文や唐草文が盛 りあげの手法によって表現され、当代の典型的な特徴がみられ る。光背は雲文を透し彫りにし、 化 け 仏 ぶつ を配している。 胎内に造像銘札があり、次のように記してある。 (表面墨書)   西方仏師   備後律師院尊作之 (裏面墨書)   応永第十七年正月十三日   造立丁 (花押) 本 像 は 応 永 十 七 年 ( 一 四 一 〇 ) 一 月 十 三 日 に 仏 師 院 いん 尊 そん が 制 作 し た も の で 、当 時 の 典 型 的 な 様 式 手 法 を 示 し 、室 町 美 術 の 先 駆 的 役 割 を な す 作 品 と し て 美 術 史 上 重 要 で あ る 。ま た 、当 時 禅 長 寺 が 鎌 倉 建 長 寺 の 末 寺 で あ っ た こ と か ら 、来 路 は 極 め て 明 確 で あ る 。な お 、当 寺 は 江 戸 時 代 初 期 に 大 覚 派 か ら 妙 心 寺 派 に 転 派 し た 。

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県指定重要文化財(彫刻) もく ぞう しょう かん のん さつ ぞう     一躯 指   定   昭和五十一年五月四日 所在地   いわき市遠野町上遠野字根小屋 所有者   円 通 寺 室町時代 (十 四世紀) 像高   七八㎝ 檜 材 寄 木 造 り、 両 袖 先 と 膝 部 を 矧 は ぎ 合 せ、 頭 部 は 首 柄 で 体 部 に 差 し 込 む。 高 い 宝 ほう 髻 けい を 結 い、 宝 ほう 冠 かん 、 首 と 胸 に 瓔 よう 珞 らく を 付 け、 玉 ぎょく 眼 がん を 入 れ る。 姿 勢 は 左 手 を 軽 く 結 ん で 蓮 れん 華 げ の 蕾 を も ち、 右 手で花を開こうとする通例の像容となっている。 注目されるのは面長な女性的顔貌、両肩を被って流れる柔ら かい 衣 え 文 もん の表現と、その両袖、 裳 も 裾 すそ を台座から垂れる 垂 すい 下 か 様 よう 式 しき に な っ て い る こ と で あ る。 勝 行 院 ( 常 磐 湯 本 町 ) の 釈 迦 如 来 坐 像 ( 県 指 定 ) の 場 合 は、 両 袖 先 を 直 接 長 く 垂 ら し、 裾 先 も 二 重 に 垂 下するが、この像の場合は、一度両膝にかけて 裳 も 懸 かけ 座 ざ 風 ふう に垂ら し、裾先の垂下も短く一重になる新しい様式を示す。 ま た 、 浄 智 寺 ( 鎌 倉 市 山 ノ 内 ) の 過 去 ・ 現 在 ・ 未 来 を 象 徴 す る 三 世 仏 像 ( 弥 陀 ・ 釈 迦 ・ 弥 勒 ) や 、 覚 園 寺 ( 鎌 倉 市 二 階 堂 ) の 日 光 ・ 月 光 像 の 場 合 は 、 両 袖 先 の 垂 下 は な く 、 裳 裾 の み を 左 右 対 称 に 長 く 垂 ら す 方 式 を と っ て い る か ら 、 垂 下 方 式 も 種 々 あ っ た こ と が わ か る 。 円 通 寺 は、 大 同 二 年 ( 八 ○ 七 ) 徳 一 の 開 基 と 伝 え ら れ、 永 享 十 二 年 ( 一 四 四 〇 ) 二 月、 真 言 宗 願 行 流 佐 久 山 方 の 宥 徳 上 人 に よ り 再 建 さ れ、 土 地 の 豪 族 上 遠 野 大 炊 頭 の 庇 護 を 受 け た と い う。 聖観音はこの再建期の室町時代初期の制作と考えられる。高い 宝髻、面相、 耳 じ 朶 だ の薄い造り、台座などはその時代の特徴を示 している。 ともあれこの聖観音坐像は、北関東の仏像彫刻史上、垂下様 式の一つの展開過程を示す貴重な資料である。これはやがて両 袖 先 だ け を 垂 下 す る 相 応 寺 ( 安 達 郡 大 玉 村 ) の 薬 師 如 来 坐 像 ( 宝 徳 四年 (一四五二) 四月) に影響をあたえたものと推定される。

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県指定重要文化財(彫刻) もく ぞう しゃ にょ らい ぞう     一躯 指   定   昭和五十一年五月四日 所在地   いわき市常磐湯本町三函 所有者   勝 行 院 南北朝時代 (十四世紀) 像高   八五㎝ 勝行院を開山した円鏡は寺の近くに釈迦堂を建て、堂内に釈 迦 三 尊 を 安 置 し た。 こ の 釈 迦 堂 は 寛 政 十 年 ( 一 七 九 八 ) に 火 災 に 遭 い 、 文 化 年 間 ( 一 八 〇 四 ~ 一 八 ) に 再 興 し た 。 し か し 、 勝 行 院 が 戊 辰 の 役 で 焼 失 し た た め 釈 迦 堂 を 移 し 、 一 時 勝 行 院 の 本 堂 と し た 。 釈 迦 如 来 坐 像 は 寄 木 造 り の 漆 しっ 箔 ぱく で、 玉 ぎょく 眼 がん を 入 れ、 肉 にっ 髻 けい は 低 く小さく、うずまき型の 螺 ら 髪 ほつ の線が額正面の生えぎわで軽くカ ーブする。面貌は鼻すじがとおり、口元は引き締まる。 両肩から腹部に流れる 衣 え 文 もん の彫刻、腹帯をのぞかせ、定印の 指 の 爪 先 を 長 く 伸 ば す な ど、 中 国 宋 風 の 影 響 を 強 く 反 映 し た、 鎌倉末期から南北朝時代にかけての特徴を示している。ことに 特徴的なのは、両袖先と 裳 も 裾 すそ の先を幅広く長く垂れる 垂 すい 下 か 様 よう 式 しき になっていることである。垂下様式は中国宗画の後期宋朝様式 の影響を受けて、禅宗高僧の肖像画、彫刻に影響をあたえ、特 に鎌倉を中心に制作された。両袖先と裳裾を直接垂下する様式 が古く、ついで台座の上で矧ぎ合わせた裾先のみを 裳 も 懸 かけ 座 ざ 風に 垂 下 す る 新 し い 様 式 が 発 展 し た。 先 行 形 態 の も の に は 光 厳 寺 (東京都あきる野市) の釈迦如来坐像 (康安二年 (一三六二) 、 法印運朝銘、 像 高 五 一・ 五 ㎝) 、 来 迎 寺 ( 神 奈 川 県 鎌 倉 市 ) の 地 蔵 菩 薩 坐 像 ( 応 安 四 年 ヵ、 絵 所 宅 間 掃 部 法 眼 浄 宏 作、 像 高 一 〇 二 ㎝) な ど が 見 ら れ、 勝 行 院の釈迦像は前者に勝るとも劣らない。 光厳寺の釈迦像同様猫背で胸幅は広く、量感も充分で堂々と しており、南北朝時代を下らない制作年代と思われる。飛天透 し彫りの光背、 台座も中国宋風を模倣した同時代のものである。 地元の伝承では、運慶の作と伝えられてきた。

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県指定重要文化財(彫刻) もく ぞう にょ らい りゅう ぞう     一躯 指   定   昭和五十九年三月二十三日 所在地   いわき市四倉町玉山字牧ノ下 所有者   恵 日 寺 鎌倉時代・文永元年 (一二六四) 像高   五二㎝ 甚光山恵日寺は真言宗智山派の寺で、 徳一の開基と伝えられ、 永 徳 年 間 ( 一 三 八 一 ~ 八 四 ) に 甚 恵 が 中 ちゅう 興 こう し た 寺 院 で あ る。 江 戸 時代には二〇石、門末四五ヵ寺を有し、昭和二十年に本堂は戦 災に遭い、本尊であった大日如来も共に焼失した。本堂が再建 されたのは昭和三十九年であった。 この阿弥陀如来立像は、木造寄木造りの 漆 しっ 箔 ぱく 像 ぞう で、八角形の 台 座 に 立 ち、 火 か 焔 えん 様 よう の 舟 形 光 背 を 負 っ て い る。 玉 ぎょく 眼 がん 入 り の 目 はやさしく、ふくよかな頬は慈しみのある御尊顔である。 本像の特徴は胴部と下脚部が別々に造られ、下脚部を胴部に 差し込むようになっていることである。 衣 え 文 もん を写実的に表現す るためにこのような手法をとったと思われる。 脚 部 の 内 側 前 部 に 花 押 が あ り、 胴 部 の 内 側 背 部 に「 奉 迎 年   ハ、 文永元年 才次 甲子 八月十五日、公慶」の 墨 ぼく 書 しょ 銘 めい がある。文永元年 ( 一 二 六 四 ) に 造 ら れ た 仏 像 で、 在 銘 で は、 い わ き 市 内 最 古 の 仏 像である。 な お 本 像 は、 承 応 三 年 ( 一 六 五 四 ) 会 津 の 桂 林 寺 の 僧、 単 誉 が 恵日寺に寄進したものであり、胎内には一三枚の印仏が納めら れていた。

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県指定重要文化財(彫刻) もく ぞう やく にょ らい ぞう     一躯 指   定   昭和五十九年三月二十三日 所在地   いわき市小名浜住吉字新町 所有者   保 福 寺 鎌倉時代・ 正 しょう 中 ちゅう 三年 (一三二六) 像高   七二・八㎝ 保福寺の薬師如来坐像は、木造寄木造りの 漆 しっ 箔 ぱく 像 ぞう で、柔和な 顔 容 を 示 し て い る 玉 ぎょく 眼 がん 入 り の 像 で あ る。 胎 内 に は 薬 師 小 咒 の 種 しゅ 子 じ ( 梵 字 ) や、 「 □ □ 三 年 丙 寅 卯 月 二 十 八 日 比 丘 善 来 生 年 七 十 □」 の 朱 しゅ 書 しょ 銘 めい があり、 また 「檀那隆連   比 び 丘 く 善 ぜん 来 らい 造立」 「仏子院誉」 の 墨 ぼく 書 しょ 銘 めい 、応永二十一年 (一四一四) の修理銘がある。 檀 だん 那 な 隆連は、 暦 応 三 年 ( 一 三 四 〇 ) の 岩 崎 隆 連 女 子 弟 熊 訴 状 ( 岡 本 氏 文 書 ) に よ る と、 「 岩 崎 郡 内 金 谷・ 津 々 良 ( 綴 ) ・ 秋 山・ 後 田 ( 御 殿 ) ・ 高 坂・ 輪 蔵 (宮町地内) 」と記され、 六ヵ村の地頭であった。また、 「仏子」 は「仏師」である。 仏 師 院 誉 は 慶 珊 寺 ( 横 浜 市 金 沢 区 ) の 十 一 面 観 音 像 の 胎 内 銘 に 「 正 しょう 慶 きょう 元 年 ( 一 三 三 二 ) 、 院 恵 子 院 誉 」 と あ り、 当 時 東 国 に 進 出 してきた院派 (七条大宮仏所系) の仏師院恵の子で、鎌倉において 父とともに活躍していたが、磐城においても造仏していたこと が知られる。 「 □ □ 三 年 丙 寅 」 は、 指 定 当 時「 文 永 三 年 ( 一 二 六 六 ) 丙 寅 」 と 考 え ら れ て い た が、 惣 善 寺 ( 常 磐 湯 本 町 ) の 本 尊 阿 弥 陀 如 来 坐 像 ( 県 指 定 ) の 銘 文「 建 武 弐 年 ( 中 略 ) 比 丘 善 来 春 秋 七 十 九 」 の 記 事 から、正中三年 ( 嘉 か 暦 りゃく 元年・一三二六) と確定した。 保福寺は住吉城主小川 ( 北郷氏) 刑部大輔の開基になるという。 小川刑部は、 始め北郷館 (内郷内町) の城主で、 文禄五年 (一五九六) に 住 吉 舘 に 移 っ た と い う。 本 像 は 正 中 三 年 ( 一 三 二 六 ) 小 川 氏 の 祖 で あ る 岩 崎 隆 連 に よ っ て 北 郷 の 保 福 寺 に 安 置 さ れ て い た が、 このときに小川氏が住吉へ移したものと思われる。

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県指定重要文化財(彫刻) もく ぞう にょ らい ぞう     一躯 指   定   昭和六十一年三月三十一日 所在地   いわき市常磐湯本町三函 所有者   惣 善 寺 南北朝時代・建武二年 (一三三五) 像高   四一・六㎝ この像の脚部と体幹部の裏にそれぞれ銘文があり、脚部裏に は以下のように記されている。 □□ (元徳) 二年庚午十二月□廿□日□比丘善来七十□        春秋七十九 建武貳年乙亥正月廿四 定 日 比丘善来需識 □□□七十九     是 時 性浅□□衛門 ( 降 連 力 ) □□ 元徳二年 辛 (ママ) 未 十二月□□□□□□□□□□□□ 銘 文 か ら こ の 像 は、 建 武 二 年 ( 一 三 三 五 ) に 完 成 さ れ た も の と 考 え ら れ る。 元 徳 二 年 ( 一 三 三 〇 ) は、 こ の 像 の 造 立 を 発 願 し た 年か、 あるいは造立に着手した年にあたると思われる。なお 「比 丘 善 来 」 は、 保 福 寺 ( 小 名 浜 住 吉 ) の 薬 師 如 来 坐 像 ( 県 指 定 ) 等 の 銘 文中にもみられる銘である。 左 手 を 膝 上 に お き、 右 手 を 胸 前 に あ げ、 そ れ ぞ れ 第 一、 二 指 頭を捻じ、右足を上にして 結 けっ 跏 か 趺 ふ 坐 ざ する。構造は頭体幹部を通 して前後に二材を 矧 は ぎ、像底は上底式につくる。 三 さん 道 どう 下を通る 線で前後材とも頭部を割 矧 は ぐ。両肩先より地付まで通して堅に 各一材を体側に矧ぎ、脚部は横に一材を矧ぐ。両手首を各袖口 に挿し込み矧とする。 両手首より先は後補で、両手袖口部の材を欠失し、面部には 焼 損 も み ら れ る。 『 石 城 郡 誌 』 に よ る と、 安 永 八 年 ( 一 七 七 九 ) と 明治の戊辰戦争の二度災害を受けている。像の損傷は、これら の 時 の も の と 思 わ れ る が、 両 頬 の 肉 付 き は 豊 か で ひ き し ま り、 衣 え 文 もん の彫出も太く、力強い造形をとどめている。

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県指定重要文化財(彫刻) もく ぞう みょう おう がた りゅう ぞう     一躯 指   定   平成十四年三月二十九日 所在地   いわき市勿来町酒井出蔵 所有者   出 蔵 寺 平安時代中期 (十世紀) 像高   一五〇・八㎝ 出蔵寺は大桜山蔵王院出蔵寺と称する、真言宗智山派の寺院 である。 本像は、磐城三十三観音十番札所・出蔵観音堂に安置されて いる。一面 八 はっ 臂 ぴ で、山形に髪を逆立てた 怒 ど 髪 はつ をあらわす。やや 右上方を向いた面貌は両眼を見開き、 口を閉じ、 牙をのぞかせ、 怒 り の 表 情 を あ ら わ に し た 姿 を み せ て い る。 左 肩 よ り 条 じょう 帛 はく を か け 裳 も を ま と い、 や や 左 足 を 踏 み 出 し、 腰 を 右 に 捻 じ て 立 つ。 八臂は全て失われ、また両足首から先は欠失している。眼は彫 眼、幅広の 天 てん 冠 かん 台 だい を彫出し、現状は素地をあらわす。 構造は頭体を通して一材で彫出された一木造りで、 内 うち 刳 ぐ りは 施されていない。胸部と腹部は厚みがあり体躯の奥行きも十分 で、量感に富んだ造形感覚をみせているが腰部以下は摩滅のた めやや量感を損なっている。荒々しく重厚な造形は平安前期の 作風を思わせるが、造立年代は十世紀と考えられている。 ま た、 出 蔵 寺 か ら 分 離 し た 蔵 ざ 皇 おう 神 じん 社 じゃ に 伝 わ る 木 もく 造 ぞう 金 こん 剛 ごう 夜 や 叉 しゃ 明 みょう 王 おう 立 りゅう 像 ぞう ( 県 指 定 ) と 同 様 に、 本 像 も そ の 技 法 と 作 風 か ら 在 地 で制作されたと考えられる。 なお本像は、その像容から明王として造られたものとみられ る。

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県指定重要文化財(彫刻) もく ぞう くう ぞう さつ ぞう     一躯 指   定   平成十五年三月二十五日 所在地   いわき市平下高久字志農田 所有者   虚空蔵堂奉賛会 鎌倉時代後期~南北朝時代 像高   八六・二㎝ 下高久志農田の虚空蔵堂は、真言宗に属する満願寺境内の堂 宇の一つであったが、明治初年に廃寺となり、堂宇だけが残り 現在に至っている。 堂 内 に 安 置 さ れ て い る 木 造 虚 空 蔵 菩 薩 坐 像 は、 単 たん 髻 けい を 結 び、 大きな木製の五山宝冠をいただく。 宝冠は前面部を別材で彫り、 頭 部 に 載 せ、 背 面 部 は 本 体 か ら 彫 出 さ れ て い る。 天 てん 衣 ね 、 条 じょう 帛 はく を か け、 裳 も を ま と う。 右 手 は 胸 前 に か ま え 剣 を 持 ち、 左 手 の 掌 たなごころ の 上 に 宝 珠 を 載 せ、 右 足 を 上 に し て 蓮 れん 華 げ 座 ざ 上 に 結 けっ 跏 か 趺 ふ 坐 ざ する。両耳後と体側を通る線で頭体幹部を通して前後に二材を 矧ぎ合せた寄木造りの構造で、眼は彫眼とする。また三道、頭 髪を彫出する。 現 存 す る 修 理 銘 札 に よ り、 本 像 は 享 保 元 年 ( 一 七 一 六 ) に 修 理 されたことが知られ、銅製の大振りな宝冠と胸飾り、さらに木 製宝冠の前面部、また両手指先の一部、両手持物、彩色はこの 時の補修と思われる。 本像は 髻 もとどり が大きく、充実した面貌を現し、また胸・腹部も 奥行きのある重厚な造形が認められる。全体にやや地方的な作 風がみられ、在地の制作と考えられるが、この地方における虚 空蔵信仰の広まりを物語る作例として貴重である。造立は鎌倉 時代後期、あるいは南北朝時代に入ると思われる。

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県指定重要文化財(工芸品) もく ぞう へん がく もん ざん ぜん ちょう こく ぜん 」「 かい 」    二面 指   定   昭和二十八年十月一日 所在地   いわき市小名浜林城字大門 所有者   禅 長 寺 安土桃山時代・天正七年 (一五七九) 普門山額   縦   四六・二㎝、横   八〇・五㎝ 海會額   縦   三四・〇㎝、横   五六・一㎝ 普門山禅長寺は、磐城における臨済宗妙心寺派の 名 めい 刹 さつ で、大 同 二 年 ( 八 ○ 七 ) 徳 一 の 開 基 と 伝 え ら れ る。 文 永 年 間 ( 一 二 六 四 ~ 七 五 ) 遠 峰 禅 師 が 中 ちゅう 興 こう し、 弘 安 年 中 ( 一 二 七 八 ~ 八 八 ) に は 亀 山 上 皇 の 勅 願 所 と の 伝 承 が あ る。 ま た 天 正 七 年 ( 一 五 七 九 ) 七 月 に は 正 おお 親 ぎ 町 まち 天 てん 皇 のう の 勅 願 所 と な り、 江 戸 時 代 は 朱 印 地 三 〇 石 を 有 し、 多 く の 末 寺 を 擁 し て、 門 前 に 下 げ 乗 じょう の 牌 を か か げ て い た。 ま た 中世には、鎌倉の建長寺とは本末関係にあった。 木造扁額の一は「普門山   禅長護   国禅寺」と三字ずつ三行 に彫られ、額縁は比較的簡素である。その二は「海會」と横に 檜板に彫られ、文字は 漆 しっ 箔 ぱく 押である。額縁は天地に雲竜、左右 は雲文の彫刻があって重厚である。両額の文字はともに正親町 天皇の 宸 しん 筆 ぴつ である。 正 親 町 天 皇 宸 筆 に よ る 寺 号 書 の 下 か 腸 し は 天 正 七 年 ( 一 五 七 九 ) で、 禅長寺住持は育芳正頤であった。これは当時の住職の位牌裏に ある次の刻銘によって知ることができる。 当山開基特賜勅願処宸翰護国海会之華額   並諸刹位之徴命者 也。惟時天正七稔己卯仲   冬念有八日   見住育芳正頤 また勅願寺については、正親町天皇の 綸 りん 旨 じ がある。 奥州岩崎郡普門山禅長寺事、任先規、可被属諸山之位、殊勅 願地之上者、可奉祈叡算万安   宝祚延長者也、仍綸命如件、 天正七年七月十二日    右中弁 (花押) 前建長寺正頤和尚禅室

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県指定重要文化財(工芸品) どう せい わに くち     一口 指   定   昭和三十年十二月二十七日 所在地   いわき市田人町黒田字別当 所有者   満 照 寺 南北朝時代・明徳二年 (一三九一) 径   一九・七㎝、厚さ   七・三㎝ 鰐口は神社・仏閣の堂前につるす金属製の梵音具である。扁 円形の中空で、下方に横長の口があるのでその名がある。鰐口 の前には布で編んだ綱をつるし下げ、参詣者が綱を振り動かし て打ち鳴らす。 この鰐口は青銅製小型で、表面外周の右側に「羽黒山満照寺 法 印 宥 保 開 山 」、 左 側 に「 明 徳 二 年 辛 未 年 」 と 刻 銘 が あ り、 そ の中央には型式化した 蓮 れん 華 げ 文 もん の 撞 つき 座 ざ がある。 田 人 町 黒 田 に は 円 通 寺 ( 上 遠 野 ) の 末 寺、 羽 黒 山 満 照 寺 が 唐 沢 にあり、また、別当には同じく円通寺の末寺である明王山大聖 寺があった。大聖寺は、村内の御斎所熊野権現の別当も兼ねて いた。両寺は明治初年に合併して明王山大聖寺から山号を、羽 黒 山 満 照 寺 か ら 寺 号 を と っ て、 新 寺 を 明 王 山 満 照 寺 と 改 称 し、 別当の大聖寺跡に建立した。 こ の 鰐 口 は、 明 徳 二 年 ( 一 三 九 一 ) に 法 印 宥 保 が 羽 黒 山 満 照 寺 を開山したことを示す、室町初期の作として重要である。

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