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柳宗元の文学と楚越方言 : 唐代中期・9世紀初における中国西南少数民族の言語文化

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滋賀大学経済学部研究年報Vol. 4 1997 一57一

柳宗元の文学と竿頭方言(上)

一誌代中期・9世紀初における中国西南少数民族の言語文化一

戸 崎 哲 彦

はじめに

 感触(768∼824)と柳宗元(773∼819)は唐代を代 表する古文家の双壁である。かれらの推進した 文学活動つまり四望両漢の文章に言語規範を求 めんとした“古文”による創作の気運は,誌面 期に一時衰退したものの,北陸に至って再評価 され,後の文学を方向づけた。とりわけ欧陽修 (1007∼1072)・早智石(1021∼1086)・蘇献(1036∼       の 1101)ら高級官僚の貢献は大きく,後にかれら は“唐宋八大家”と称される。このような新し い風気のもとに韓・柳の詩文集も整備され,重 1)ただ,かれらに先行する韓・柳の評価としては,  早くは久保得二(天華)『支那文学大綱第十五巻・  韓柳』(大日本図書1904)の「韓藍同時及び以後  の古文家」 「宋初の古文家」が,韓・柳以後の唐  人では孫樵・三二を,宋初では柳開・穆修・ヂ’沫・  帽子欽を挙げ,「柳開はじめて風気を開くの功を  負う」 (p216)というように,北宋初の穆修(9  79∼1032)・直読(947∼1000)などが有名であ  るが,すでに五代に始まっていた。宋・呉処厚『  青箱雑記』二に「(襲)穎は文学を自負す……太  宗朝,朗州に知たりしとき,士は窄に其の門に造  り,独り丁謂のみ文を賛して見えんことを求む。  ・・・… (穎)曰く“唐の韓・柳自り後,今,子  を得たり ”と」という。襲穎は「先ず江南に仕  え,朝に帰して侍御史と為る」(『青箱雑記』二,  また『宋詩紀事』三)つまり南唐(937∼975)に  仕え,後に北宋初の太祖朝・太宗朝(976∼996)  に仕えた人であるから,おそらく柳開(開宝六年  973挙進士)よりもやや早く活躍していたであろ  う。したがって韓・柳の評価と併称は晩唐・五代  (南唐)・宋初に脈絡しているのであって全くの  断絶した後の再評価ではない。 ねて出版されるようになる。早いものとしては 専修(979∼1032>・毒手(1084∼1149)らによるも のが有名である。  しかしどうも運算に比べて柳文は読み難かっ たらしい。これは『柳集』の初期の校勘者に共 通してみられる感想である。たとえば沈晦は穆 修が編んだ四十五巻本を柳宗元の盟友・劉禺錫 (772∼842)が編んだ原『柳宗元集』だと認め, その「四明新本『河東先生集』後序」(政和四年 1114)に「韓文は遷しば名士の手を経,頃ころ 余は又た雛勘を為し,頗る完質せり。唯だ柳文 は簡古雅奥にして,刊則し易からず」と校勘の 難しさを漏らしている。さらに南宋においても 張阿仁「韓柳窪釈序」(紹興二六年1156)には 「論文は崩しば校正を経,往往にして価するに 私意を以てし,多く其の真を失う。余は前に郡 武教官に任ぜられ,日に会たま離勘を為して頗 る備悉せり。並に音釈を考正して,正文の下に 刻す。惟だ柳文は簡古にして校し易からず,其 の用字は奥僻,或は暁ること難し」,また亭々 「柳文音義序」(野道三年1167)にも「韓・柳は文 章斉駆し,当代の学士大夫の宗師とする所なり。 其の文為るは高古にして,用字は贅牙なり,読 む者は之を病む。而して柳は尤も甚だし」とい う。このような感想を抱いたのは校正者・注釈 者だけではない。経学を一新した大儒・朱蕪に 至っても「文の最も暁り難き者,柳子厚に如く は無し」(『朱子語類』一三九)と感想をもらす。  柳文はなぜこのような同種の感想をいだかせ たのであろうか。それにはいくつか理由が考え られるが,すでに宋人が指摘しているように, まず韓・柳の用語の違いに求められる。韓愈は

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一58一 滋賀大学経済学部研究年報Vo1.4 1997 儒家経伝の語彙・表現を好んで用いるが,いっ ぽう柳宗元は韓愈とは違って騨:儂文の名手でも   ラ あり,奇古・華美な語彙を好むところがある。 柳宗元が修学時代から 『文選』所収の漢代に 流行の辞賦作品を愛読し,その影響をかなり受 けていることは,「賦」(巻川)・「問答」(巻十五) ・「騒」(巻十八)のジャンルの作品につぶさで ある。また,柳宗元が自らの古文規範として挙 げるものも特徴的である。儒経伝や『史記』 『漢書』などは当時の常識,あるいは古文家・ 韓愈らと共通するものであるが,その他に『国 語』・『荘子』・『楚辞』を重ねて挙げている。 これらの書には語彙・表現・思想などにおいて 一つの共通性を認めることができる。『楚辞』 『荘子』は楚系の文学であり,群系文学には南 方の民族宗教的色彩が強いことは周知の通りで あるが,『国語』にも同じような傾向がある。 『国語』は『春秋左氏伝』が韓国の歴史を中心 にして内伝とよばれるのに対して外伝とよばれ るように魯国だけではなく「楚語」「越語」な ど南方の歴史を含むものであり,また「楚語」 「国語」に限らず全体的に原始的神秘主義的な 内容が多い。柳宗元が『楚辞』「天間」に答え る「天対」を書き,『国語』を批判した「非 『国語』」を著しているのも実はそのような愛 好の現れである。さらに「天対」「非『国語』」 などを始め多くの作品に『山海経』の語彙・知 識がうかがえるのも,同種の愛好を示すものと いえよう。このような偏愛が用字・表現などに おいて天文を「奥僻」にしているといえるが, そもそもそのような古典の民俗宗教的な内容に 興味を抱いている作品が多いという内容の問題 が「則り難き者」にしているといえる。  このような用字・内容の他に,撰文難解の原 因の一つとして挙げたいのが,論議を中心とし た南方方言の影響である。張敦顧「韓柳音釈序」 が「其れ本音を用いずして他音を仮借する者有 2)拙稿「柳宗元の古文運動の軌跡」(拙著『一代中  期の文学と思想』滋賀大学経済学部1990所収)。 れば,悉ごとく其の処を原ぬ。或いは来たる処 を知らず,而かも諸韻(r切韻』等)・『玉篇』 ・『説文』・『信管』も亦た載せざる所の者, 則ち之を悪く。尚お慮かるに膚浅にして南北語 音の誰を辮ずる弗し。其の間に謬誤無からざら ん」といっているのは方言の問題に触れるもの で,その早い例である。柳宗元における方言の 紹介と使用は富里よりも多く,柳文の一特徴で あるといえる。柳宗元における方言の愛好は, 博覧・副馬文の愛好に較べれば,柳文を難解な ものにしている主要なものではない。しかし宋 人がそれに注して解説を加え,あるいはその解 釈をめぐって議論すること,しばしばである。 また逆に聖人乃至今日の民族学・民族言語学が 南方の言語文化を説明するのに柳文を引くこと もしばしばである。柳宗元における南方方言の 影響は,柳文を難解にしているだけではなく, 深みと面白さを与えるという点で,さらに宋以 後の文学や言語文化に少なからず影響をあたえ ているという点で,柳宗元文学の研究にとって は欠くことのできない一面であり,また貴重な 史料でもある。 工 楚越方言への順応と親近  唐・貞元末(805)冬,柳宗元は雲州に十年, 元和十年(815)からは柳州に五年,疑調され た。永州は今の湖南省の南部,柳州は広西壮族 自治区の中部にある。当時これら南方の地は 「楚・越」とよばれ,帝都長安を中心とする中 華文明の光のとどかない野蛮の地と意識されて いた。罪人の配所の地とされたのもそのためで ある。柳宗元の文学活動の大半はこの長期に及 ぶ既講中にあり,「僕は近ごろ亦た好んで文を 作るも,京城に在りし時と頗る異なる」(33−04 f賀進士王参元失火書」)と自ら語っているように, 既講後は長同時に見られた六朝春気文の余習を 脱して積極的に古文による作品を書くことにな るが,その文章にはしばしば当地の方言が見ら れ,これも長安時代とは「異なる」点の一つと

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柳宗元の文学と楚越方言(上) (戸崎 哲彦) 一59一 なっているといえる。かれは当地の方言・言語 文化を紹介し,また自らその語彙を意識的に, あるいは無意識の裡に使用している。  柳宗元は長安で生まれ育った北方人である。 「長安を去ること尚お四千里」(23−01「同呉武陵 贈李睦州詩序」)の彼方にある永州に来た当初, 自然・気象・風土・習俗など,かれには目にす るものが位倒に感じられただけでなく,耳にす るものも奇異に感じられた。(30−04)「灯下翰林 挽書」には南方隠州の風土・風俗にやや慣れて 順応していった様を次のように語っている。   今,已に三十七(歳)なり 。……蛮夷中   に居ること久しく,炎熱に慣習し,耳目毛・       おも   重腿は,意うに以て常と為す。忽ち北風の       あた   長に起こり薄寒の体に中るに遇えば,則ち   羊腸は惨懊たり,毛髪は薫條たり,盟然と   して注視し,’離婁として以て世襲と為す。   意緒は殆ど中国の人に非らず。楚・越の間、   声音は特異にして、鳩車陣諜たり。今、之 を聴くも始[悟?]然として怪まず、已に   与に類と為れり 。家生の小童,皆な自然   に曉曉たりて,昼夜に耳に満つ。網人の言   うを聞けば,則ち暗介して走り匿くれ,病        おのの   夫と難も亦た画然として之に導く。 柳宗元は視覚だけでなく聴覚でも過敏に“異郷” を感じた。南方の言語体系は北方と異なってお り,北方人には「特異」に響いた。早くは漢・ 劉安『准南子』務君民に「胡人(北方異民族)に 知聖なる者有り,而して人は之を駈と謂う;越 人(南方異民族)に重遅なる者有り,而して人は 之を診と謂う。多き者を以て之を名づく」とい うのは早い例であり,北方ではおっとりした話 し方が一般であり,逆に南方では早口が一般で あるという言語風土の違いをつげている。しか したしかに南方の言語は北方方言の影響をうけ て発展・変化している。少なくとも唐代中期ま で最も影響の大きかったものには西晋末の永嘉 の乱と糊代の天宝の末の安史の乱があり,この 時期には大量の北方人が移住して官話化を進め る要因になった。ただし湖南省における移住は 今の常徳地区から長沙にかけての北部地域に集 中しており,言語においても永恒等南部地域は 今日に至るまで「外部からの方言の浸食・同化        のが最も少なかった」とされる。しかも大量の 移民は身分階級制社会にあっては上部階層を中 心とするものであり,庶民との間には一定の隔 たりがあった。したがって当時の永州の土民の 言語に至っては固有の方言性を強く保っていた はずである。  このような南方・永州の言葉は北方人・柳宗 元にとって「鵬鮮魚諜」であったという。「鳩 舌」(けつぜっ/畳韻語)とは鳥名で,「百舌」(モズ) ともいう。「陣課」も鳥が餌を啄む「陣」と喧 燥をいう「諜」による畳韻語(タウサウ/zhao4z ao4)の形容詞,つまりモズの購りのように喧し く聞こえること。この四字句は『孟子』縢文公 上の「今や南蛮規舌の人,先王の道を非とす」 を踏まえたものである。このような北方人の南 蛮の言語に対する印象から「鳥語/悪言/鳥声」       のなどという言葉がうまれた。柳宗元より数年前 に永州の南西,広東省の西北部にある連州陽山 県に流された韓愈も「陽山は天下の窮処なり, 小吏十余家,皆な早言・凹面」(「送区冊序」)とい い,同じ感想を抱いている。ただし「障諜」は 柳宗元の造語ではなかろうか。同韻語(一アウ/ 一ao)を組み合わせた構成はその音声的特徴をと らえて工夫したものに違いない。柳宗元は後に 黒駁よりさらに遠い南方の地・軒並に左遷され るが,その地ではさらに言語不通であった。柳 州での作(42−45>「柳州胴眠」詩に次のように嘆 いている。 3)周振鶴・游汝傑「湖南省方言区画及其歴史背景」  (『方言』1985・4,p266・269)。 4) 『周礼』野州「菅平」に「掌……与鳥言」(鄭注  に「夷狭之入或暁鳥獣之言」)をはじめ,『後漢書  』度尚伝「椎髪語語之人」(唐・李動注に「国語  謂語声似鳥也」)・「南蛮西南伝」論に「血続雛脚  之倫,山居鳥語之類」,『淫書』司馬容伝に「巴・  蜀・蛮・捺・渓・僅・楚・越,鳥声・禽呼,言語  不通」など。

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一60一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.4 1997 01 郡城南下生通津 辞別殊音不可親   07愁向公命問重課 暴投章甫嶺文身」   (郡城 南下して通津にi接す,異服・殊音 親   しむ可からず。……墨磨に向いて重訳を問うを   愁い,章甫を投じて文身と作らんと欲す。)  当地の言葉は北方人には「殊音」特殊な音声 であり,「八潮」つまり何人もの通訳を介さな ければならなかった。このような感想は随所に 見られる。たとえば(01−03)「唐聖歌鼓吹曲十二 篇」は李唐創業当初の南方統一を頒えたもので あるが,永世での作であり,其六「苞耕」にい う「蟹夷短信」,および其十二「東攣」(贈州,隠 州の西)の東謝蛮についていう「暉艦九繹重」 も,甲州での生活実感に裏打ちされたものであ る。「聯劉(イ・ヲッyilwo4)とは,宋・童宗説 の注に「言の不明なるなり」ということである。 この語はおそらく韓愈「赤藤杖歌」に「演王国 宮避使者,脆進再拝連単嘲」という愼(今の雲南 省)の言語を形容した「喘岬」と同じく,中国 人にとって意味不明である南方異民族の言語を 音写したものであろう。ちなみに(19−02)「弔屈 原文」に「牝鶏纈章魚,孤雄和味」,唐・儲光 義「射錐詞」に「認容岬即吟,時見当飛起」と いうように「ロ伊優」「喉曝」なども鳥の鳴き声          の の擬声音に使われる。ただし韓愈の「嘔㈲」は 押韻のために転倒して使用したもので,一般に は柳宗元の用法のように「呼喘」であったろう。 この慣用表現的な擬声語は高い音調を印象的に 捉えたもののようであり,いっぽう先の「陣諜」 は重々しい音調にもとれるが,むしろ会話の騒々 しさを捉えたものであろう。盟友・劉貯砂も柳 宗元と同時に同じく南方,朗州(湖南省西北部)・ 連州(広東省西北部)に流されており,「竹枝詞九 首並倉」に「肩章は激許なること呉声の如く, 愴狸にして分かつ可からずと錐も,而ども思い を含みて宛転たり」,「歴陽書事七十韻」に「本 5) 『楚筆』ト居に「曝嘲・直兜」と見え,二語と  も笑うさまという(漢・王逸注)。 呉風俗劉,兼楚語音愴」という「愴」も騒々し        のいことをいうものである。  上の「書」で注意したいのは,越州に来た五 年目の元和四年(809),すっかり当地の言語に 慣れ「恰[情]然として」当地の民と「已に与 に類と為れり」とまでいっていることである。 「三生小童」についていう 「曉曉」とは早く 『詩』羽風「鴎号鳥」に見える,小鳥の騒がしい 鳴くさまをいう擬態語,ここでは「壬生小童」 が土地の言葉にすっかり慣れている描写である。 「三生小童」とはいわゆる「家礼奴」のことで        のあり,柳家に仕える笹目一広く家人ともいう   の産んだ子供のこと。子供は方言をすぐ に習得したが,子供だけでなく,柳宗元も永州 方言にかなり聞き慣れてきた。「已に与に類と 為れり」とは,永州方言が聞き取れたでけでな く,永州方言で当地の民と話ができるまでになっ ていたことを想像させる。その例証の一つとし てまず挙げたいのが「尾」の用法である。  (1>「尾」  永州での作(29−01)「游黄楽部」に次のような 記述がみえる。          まさ   魚数百尾有り,方に来りて石下に会す。       の その下に百家注本系統では「〔旧注〕:楚・越 の人は魚を窺うるに“尾”を以てし,“頭”を 6)『陳書』周鉄樹伝に「周鉄虎不知何許人,梁世  南渡,語音愴重,替耐過人」という「愴重」と同  じで荒く重々しい音調をいうように思われる。た  だし,三二の「愴」は平声で,「愴重」の「愴」  は畳韻語で去声であろうか。 『四韻』平「唐」韻  に「愴:愴嚢,乱也」,平「庚」韻に「“呉人罵  楚人日愴” (心添『漢書音義』)」というように,  平声であり,病人の蔑称でもあった。 7) (40−03)「祭呂衡州温文」に「家人三児」とあ  り,柳宗元の家僕に裏児なる者がいた。また,(18−  04)「宥蝦明文」に「家船憧」と見える。同一人  物とは限らない。なお,「∼児」 「家憧」といっ  ても児童とは限らない。 8)テキストについては拙稿「『柳宗元集』考」(『彦  根論叢i』289・290,1994),拙著『柳宗元甲州山  水游記考』(中文出版社1996)「テキストについて」。

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柳宗元の文学と楚越方言(上) (戸崎 哲彦) 一61一 以てせず」という注がある。これは魚を数える 時の名四詞の用法について,「頭」が言下の標 準語である北方語であるのに対して「尾」が 「三越之間方言」南方方言であることをいう。  そもそも半泊は人の物に対する特徴の把握と 分類を反映する類別詞である。「頭」は役畜・ 家畜など頭を見て数えるものとして広く動物の 差宿詞として使うが,厳密には区別があった。 世代では『大唐六典』三「尚書戸部」員外郎に 「馬十匹,騙十五頭……馬六匹,騙十頭」とい い,また永隆二年の安元壽の奏(r唐会要』七二 「馬」)に「馬一十八万四千九百匹,牛一万一千 六百頭」,天宝十三載の朧右郡牧都使の奏(『唐 会要』七二「馬」)に「総六十万五千六百三頭匹 口。馬三十二万五千七百九十二匹…・牛七万五 千一百一十五頭・…駝五百六十三頭,羊二十万 四千一百三十四口,螺一頭身というように使わ れている。これによれば馬は「匹」,牛・駝(ラ クダ)・騙(ロバ)・螺(ラバ)は「頭」,羊は「口」 というように,明らかに区別されている。この 用法は現代中国語でもほぼ同じである。いっぽ う魚については注にいうように「頭」を用いた。 『唐六典』四「膳部郎中員外郎」に「凡親王已 下常食二上有差」として親王の場合の食料規定 についてF毎日細上米二升;梗米・二審,各一 斗五升;粉一升;油五升;塩一升半;酷二升; 蜜三合;粟一斗;梨七瀬;蘇一合;乾棄一升; 木釘虚根;二十斤;葱・韮・鼓・蒜・蓄・椒土 類,各馬差。毎月給羊二十口;猪肉六十斤;魚 三十頭,各一尺;素話斗」という細目規定の中 に見える。『唐六典』は唐朝の公式の職務規程 集にして律令・開元礼と並ぶ重要な法規であり, 9) 「頭」を魚の量詞として使うのは,『北史』  「林邑伝」に「酒二壷,川園頭」と見え,また劉  世儒の労作『魏晋南北朝量詞研究』(中華書局196  5)には「子真表献金魚一頭」(『南斉書』祥瑞志)  「有大魚十二頭入会稽上三江」(『南斉書』五行志)  のこ列を挙げるが(p91),「尾」を使った例は見  えないだけでなく,そもそも量詞としては収録さ  れていない。 その中に見えるということは,「頭」はたしか に元和年間においても魚を数える場合の正規の 量詞であったといえる。逆にいえば「尾」は公 文書には用いない語であって,宋人の注にいう ように南方の方言ということが考えられる。  しかし,「尾」が当時の楚越方言であったこ        のとを裏付ける他の史料を知らない。ただ,わ が国でも魚を数える場合,獣・虫など広く用い       びる「匹」の他に「鯛一尾」というようにも使い, また現代中国語でも「条」についで「尾」を使 うことが多く,たしかに今日でも西南地方に集      の 中している。出代あるいはそれ以前で魚の量 詞として「尾」を使った例は,柳宗元が最初で あるとは断定できないが,少なくとも後世に影 響を与えるような文人で使った例としては極め        ユユ て珍しいのではなかろうか。今日に通じる「尾」 の用法は杭州に遷都した南宋からの普及とも考 えられるから,柳宗元の影響ということはでき ない。しかし柳文は宋代に重ねて出版されて盛 んに読まれるようになり,かつ「無慮銘記」を 含む山水遊記は『文苑英華』の収録と校語に見 10)判子太・李行健『普通話基礎方言基本詞彙集(5)』  (語文出版社1996)によれば魚の弔詞で「条」を  用いる地域が圧倒的に多いが昭通・大理・昆明・  蒙自(以上は雲南省)・畢節(貴州省)では「尾」  を用いる(p4610)。 11)たとえば北宋の古文家・李観(1009∼1059)  「裏込必丞」詩に「君授南康府,舟維察孟浪。……  一過盧山南,聞縮織白湯。……徽橘山千苞,直垂 研千尾」は魚を「尾」で数えたものであるが,李  襯は四十軍南城(今の江西省)の人であり,盧山 南の南康軍での接待を詠んだものであるから,南  方方言である可能性が高い。いっぽう北宋・蘇戟  「過新点一州郷人任山中」詩に「却下関山入寄州,  為買三三三百尾」などは「二三」水牛を「頭」で  はなく「尾」で数えたものである。なお,三族語  でも牛と魚の国詞は同じく[t‘au]と発音される  が(毛宗武『漢瑠銀建(勉語)』四川民族出版社1  992),これは「頭」であると思われる。ちなみに  馬は[p‘ei]で,これは「匹」に当たる。「条」  に相当するものは路・va ・頭髪などの[t‘iu]で  ある。広く調べる必要があるが,古代の用法が少  数民族の言語の中に残っているように思われる。

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一62一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.4 1997 られるように柳宗元の古文を代表する作品とし て定評を得ていた。したがって宋人の「尾」字 の使用に正当性を与えたというような効果があっ たという意味において少なからず影響を与えて いるであろう。  このように,唐代における魚の名量詞として は牛等と同じく「頭」を用いるのが標準語であ り,南方方言である「尾」を柳宗元が使用して いることは確かである。しかし,じつは柳宗元 は「頭」を使っていなかったわけではない。同 じく雲州での作(29−05)「至小丘西小石潭記」に 次のようにいう。       ばか   個中の魚は百許頭可り,皆な空遊して依る   所無きが若し。 この「頭」は当時の標準語の用法であるから, もちろん宋人の注はない。このように柳宗元は 「頭」「尾」ともに使っているわけであるが,注 目したいのはその時期である。「頭」を使う 「至小丘西小石位記」は連続する作品(29−02) 「始得西山宴無記」中の記載によって元和四年 (809)中の作であることは明らかであり,いっ ぽう「尾」を使う「游黄渓記」は元和八年(813) 中の作であると文中に明記されている。すると, 永州に来て五年目の作品では標準語である「頭」 を使っているが,九年目の作品では当地の方言 である「尾」を使っているということになる。 先の旧注はおそらくこのような用語の違いに注 意して加えられたものであろう。これによって 柳宗元が方言を使っているだけでなく,方言に 馴染んでいったことがわかる。この変化の意味 は重大である。たしかに「楚・越の間,声音は 特異……已に与に類と為れり 」という言の如 く,柳宗元は思わず方言を使ってしまう状態に あったのではなかろうか。かりに「〔旧注〕: 楚・越の人は魚を数うるに尾を以てし,頭を以 てせず」という「旧注」の内容が柳宗元自身の 加えたもの,いわゆる「自注」であるならば, 意識して楚越方言を使ったということになる。 しかし「旧注」は後人おそらく宋人の加えた注        ゆであり,自注ではなかろう。  じつはこの両「記」の問に柳宗元には大きな 変化があった。かれは永州滞在の五年目の秋頃 から「甘んじて永州の民と為る」という決意を するとともに永州城内を離れて城の西にある瀟 水に注ぐ愚渓のほとりに居を構えて暮らすよう    の になる。おそらくこの頃から,当地の言語文化 への接近はいっそう進み,古文の中に方言を用 いるようになったのである。しかし柳宗元が当 地の方言を用いるのはこれに止まらない。これ は当地の方言に日常親しんだ結果,無意識の裡 に用いた一例にすぎない。あるいは意識的に用 いたのであれば,「尾」の方が主に役畜に用い られる北方の「頭」よりも古雅であると判断し た,あるいは「尾」の方が特徴を捉えて類別的 であると判断して用いたのかもしれない。いず れにしても「頭」から「尾」への変化は,「之 を聴くも恰[悟]然としで怪:まず,已に与に類 と為れり 」という,柳宗元が冬越方言に慣れ 親しんだ確かな例として注目に値する。  そこで,語彙を中心にして柳宗元の楚越方言 使用について考察してゆくが,方言の認定につ いては本人・後人の説明の形態によっておよそ 次の三つのレベルに分けて考えることができる。 (1)方言について意味・発音などを作者が自ら 解釈・説明あるいは補足的説明をしているもの。 したがってこれらは当時ほとんど知られていな かったものと考えることができる。(2>作者自 ら説明を加えてはいないが,宋人が注を加えて 方言であるとして説明しているもの。したがっ てこれらは当時あまり知られていなかったもの である。(3>自らの説明も宋人の注もないが, ほんらい方言であるもの。したがって当時すで 12)詳しくは拙稿「『柳宗元集』に見られる“自注”  に関する諸本間の異同について」(『滋賀大学経  済学部研究年報』1,1994)。 13)拙稿「柳宗元『終に三州の民と為るに甘んず』一  『西山』発見と『愚渓』移居の裏にあるもの一」  (『東方学』86,1993)。

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柳宗元の文学と楚越方言(上) (戸崎 哲彦) 一63一 にかなり普及していた,あるいは標準語化して いた。以下,この三つのレベルに沿って柳宗元 の方言使用の実態について考察してゆく。

ll地方言語文化への興味と紹介

 永州は南方の僻:地にあったとはいえ,その城 内は他の州城と同じく王都長安をモデルにした, いわば都市空間であった。柳宗元がその中に約 五年間幽閉され,後に州城から出で郊外に住む ようになる。永州に来た当初は先に触れたよう に大きなカルチャーショックも受けたが,当地 の文化・風土により広く深く触れるようになっ たのは城外に居住するようになってからであろ う。郊外を散策しては地方言語文化に興味を示 すと同時にそれを紹介するようになる。 ② 「渇」  後に「永州八議」あるいは「豊州輪島」とよ ばれるようになる,柳宗元の代表的な作品群の 中に(29−06)「衷雪平記」と題するものがある。 その中で,永州城の南西を湾曲して流れる瀟水 にある特殊な入り江の面白さを描いて次のよう にいつ。   楚・越の問,方言に“水の反流する者”を   謂いて“渇”と為す。音は衣褐の“褐”の   若し。 「反流」を「支流」に作るものがあるが,正し くない。さらに,「音若書褐之褐」を正文では なく注文とする説もあるが,かりに注文であっ        ユ うても後人の加えたものではなく,自注であろう。 この「記」は「楚・越の問」の「方言」でいう 「渇」を紹介したものであるが,柳宗元はその 語義だけでなく,発音にも興味を示している。  この「渇」について,音・義ともに柳宗元が 説明していて明らかであるためか,宋人は注を 加えていないが,仁人がこの方言に興味をもつ 14)拙稿「『柳宗元集』に見られる“自注”に関す  る諸本間の異同について」(前掲)。 ていなかったわけではない。早く南宋・程大昌 (1123∼1195)はその著『演繁露』七「場」の中 で詳細な考証をしている。   柳文永州「衷山場」;書して“渇”に作れ       あっ   ば,音は“易”なり。“渇”なる者は“遇”       し   なり,水を遇(圧)して通行せざら使むるな   り。柳は蓋し此の“場”字の古に非らざる   を疑うならん。故に恵めて書して“渇”と   為し,而して又た自ら之が音を為して,読   みて当に“易[褐?]”と為すべしと日う。   案ずるに,『自証』(十六)「煙水」に「千金   場」の制を著わして“喝”と日う。蓋し穀          し   水を遇して東流せ使むる者なり。其れ“場”   と書すれば,正に“場”字為り。子厚(柳   宗元の字)は宣に其の来たることの古からざ   るを疑いて遂に“渇”と書するを以て雅と   為すならん。 また。これと同じ説は同『演繁忙』十五「場」 の中でも   遇は即ち場なり。土を以て水を塞ぎて邊   (圧)を為す。何れの世にか土(土偏)を加え   て場と為せるを知らず。故に柳子厚の「衷        もち   家憲」を記して猶お解釈するを須うるは,   恐らく人の喩らざればなり。 と,重ねて説かれている。柳宗元がいう「渇」 は当時一般に使われていた「場」字と同じで 「遇」の意味であるが,「場」字の由来が古雅で ないために「渇」字を用いた,というのが程説 の主旨である。また程説によれば,この「渇」 はどうも柳宗元自身の用法と考えているようで あるが,必ずしもそのようには断定できない。 「渇」字の音・義を文字通りに解釈すれば,『説 文』に「尽くるなり」というように,「激」(ケ ッ)「蜴」(ケッ)と同系で「つきる〉かわく」であ り,その義の音は『広韻』に「苦易の切」 (*khat)「渠列の切」(*kiat)というように,当時は 牙音(k一)であった。しかし永州での用法では 「反流」つまり逆流の意味で使われている。そ こで程大昌は意味が通じる「土易」字にその語源 を求めた。「土掲」は流れを圧することで堤防の

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一64一 滋賀大学経済学部研究年報Vol,4 1997 ことであり,「反流」とは必ずしも同じではな いが,派生義としては考えられる。いっぽう音 については,語語の「渇」は「褐」と同じ,つ        ユのまり[*hat]という喉音であるという。「場」 は「遇」(at)と同じであるが,「褐」の喉音(h一) が弱化すれば,「褐」と「土易」は通じる。また, 今日の南方少数民族の中には「圧」を[hat]       のに近く発音するものがある。しかし本来「場」 であったならば,なぜ「喝」を用いていないの であろうか。  そもそもこの「渇」は当地の地名であり, 「反流」を意味する方言であるが,この字は柳 宗元が当てた字ではない。すでに当地で使われ ていたが,文字通りに解したのでは音・義とも に通じないために説明を加えているのである。 そこで「渇」の音ではなく「褐」の音であると いうことは「易」(「胡葛切」喉音’hat)と同じで ある。つまりこの永州の「渇」字は「水」に杁 い音は「掲」であることを示す形声字である。 そこで永州の「渇」は当時の「渇」音とは異な り,本来の「水」(流〉反流)意符と「局」音符に 従っているから,古雅であると思われた。臆説 を敷街すればこのように考えることができる。 しかしこのような「渇」字の用法は古い形が永 仁に残存していたというよりも,形声法による 新しい遊字・当て字ではなかろうか。この点に ついては後に他の字の例とともに再考する。  衰家渇の名は宋代でよく知られており,紹興 十四年(1144)に永州に流された江藻に「藻血管 15)日本漢字音では「渇」と「褐」はともに「カッ」  と読まれるが,それは平安時代の「か」行が唇音  (p一>f一)であって喉音(h一)と牙音(k一)が区  別されていなかったことに由る。 16)中央民族学院少数民族語言研究所第五研究室  『壮評語土語言詞彙集』(中央民族学院出版社198  5)「圧」(p254)によれば壮語では[?a:t],臨  高田では[?at]という。いっぽう中央民族学院  苗揺語研究室『苗揺語方言詞彙集』(中央民族学  院出版社1987)「圧」(p82)によれば拙吟(歩努)  は[kat]という。 雅祠町尽九日恵花恵三跡詩,町鳶衰家渇・鈷錘 潭爪垢……」(『浮渓記』二九)と題する詩があり,        ユつ また宋の類書『五色線』下にも「衰家渇:見 『柳子厚集』, “楚越之間方言,謂水衷家褐 [渇?]反流者為渇云,音若衣褐之褐”」と引 いて紹介されている。さらに後に清『康煕字典』       ラも「又『広韻』 “胡割切,音褐”。柳宗元『蓑 家渇記』“壁越方言,謂水之反流者貸室”」(巳 集上水部)として引く。このように楚越方言「渇」 は柳宗元「衷家憲記」とともに広く知られる所 となった。その後世への影響は少くない。  (3)「黄」と「王」  先にも引いた(29−01)「游黄心嚢」は,柳宗元 が三州城の東約七十里にある山渓「黄渓」に遊 んだ時(元和八年813)の作である。それに次のよ つにいつ。   伝うる者は曰く:“黄神は王の姓,(王)萎    よつぎ   の世なり。葬は既に死して,神は更めて黄   氏と号し,逃れ来たりて,其の深慮なる者   を択びて潜む焉”と。始め葬は嘗て曰わく:        むすめ   “余は鼻茸の後(後喬)なり。故に其の女に   号して黄皇室主と日う”と。黄と王とは声      ちか          は相い隠し,而して又た本つく有り,其の   伝言する所以の者は益ます験あり。 このような考証は唐代永州地方で「黄」(r広韻』 下平「唐」韻「三光切(huang)」)と「王」(「陽」韻 「雨光切(uang)」)の発音が近かったことによっ て着想されたものであろう。これも「垣越問方 言」であり,現代に至っても大きな変化はない。 ちなみに「柳宗元与湖南方言」(r光明日報11975. 7.10)に「現在,湖南のある地区の方言で王・ 黄の両字の読音は,ただ近いだけでなく,同じ である」という。ただし,この音韻現象は湖南 省南部だけのことではない。広東省一帯に至っ 17)撰者未詳,明・毛晋『津逮秘書』所収。 18)『広韻』の「渇」に「二割切,音褐」という文  はなく,これは『広韻』入声十二「掲」韻にいう  「掲:何也,胡葛切,十一。褐:色聴」に拠った  ものであろう。

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柳宗元の文学と楚越方言(上)(戸崎 哲彦) 一65一 ても同様であり,さらに広東語だけではなく, 周辺の少数民族の諸言語においても広く見ら     れる。  この地域における“黄・王”同音現象につい て言及した文人は柳宗元以前にはいないのでは なかろうか。少なくとも広くは知られていなかっ た。というのは,宋・朱翌(1097∼1167)『猜覚寮 雑記』上に「黄・王の分かたざるは江南の音な り,宿外は尤も甚だし。柳子厚『黄渓記』に……       よと,此を以て之を考うれば,唐自り以来已に然 り 」といって柳宗元「五黄油島」を引いて説 明していることからも明らかである。朱翌は安 徽省桐城県(長江下流域)の人,一説に北江省郵 (今の寧波市)の人,つまり江南の事情に詳しく, かつ秦桧に憎まれて広東の詔州つまり「嶺外」 に十九年忌流されていたから,かれの報告は現 地での経験に基づくものであると考えてよい。 ただし南方における“黄・王”同音現象は「自 唐以来」ではなく,唐以前の早期から始まるも のであろう。ちなみに,日本漢字音においても 「黄」は漢音でクワウ(*huang)と読むが,「黄 金・黄疸」というように呉音ではワウと読み, いっぽう「王」もワウ(*uang),また「天皇」 を「テンノウくテンオウ」といい,「王子」を 19)劉錫…蕃『嶺表紀蛮』(商務印書館1934)「野蛮言  語之比較」(p139)によれば,漢語の「皇帝」は  飼語で「王底」(wangdi),苗語で「岡底」(wa  ngdi),狗億語で「木注」(muwang),壮語で  「岡参」(wangdie)と音域できるという。また  今日の科学的な調査・研究による『尊卑語族語言  詞三碧』(中央民族学院出版社1985)「皇帝」(p19)  ・『苗揺語論言詞彙集』(中央民族学院出版社198  7)「皇帝,王」(p34)によれば, 「皇/王」の  発音は壮語・布依語で[vu:o],泰語・瑠語(布  努)で[VOO],蝉茸で[VO:O],苗語で[vaO],  偏語・仏俺語で[wa:D],苗語(湘西)で〔wao]  であって「王」に近く,毛難語で[hwa:e]で  あって「皇/黄」に近い。なお,色彩「黄」(p2  71・p28)は壮・布依語[hen],泰語[1aO],  黎明[ze:O],個・仏俺・毛難語[ma:n]など  であり,「皇」とは本来的に異なる。 「皇子」(オウジ〈ワウジ)ともいうように,呉音 では「黄/皇/王」は同じである。したがって 古くから南方の広い地域において「黄・皇」と 「王」は通じており,*huangではなく*uangと        発音されていたと思われる。このように長江以 南の南方方言の発音に「黄/王」の区別がない ことは,わが国においては早くから知られてい た可能性があるが,中国では,朱翌がいうよう に,柳文の記載がそれに注意して明記した最も 早い例に属すといえよう。  (4)「歩」  永州に流されて九年目の元和八年(813)の作 (28−09)「永州鐵櫨歩志」の冒頭に次のようにい う。     ほとり   江の済、凡そ舟の靡ぎて上下す可き者、   “歩”と日う。永州の北郭に歩有り, “鉄   鐘[嘘]歩”と日う。余は舟に乗りて来た   りて居ること九年,往来するに其の鉄王   [櫨]為る所以の者を求むるも有る無し。   之を人に問うに,曰く「蓋し嘗て[鉄を]   鍛する者有りて居り,其の人去りて櫨殿つ    こと   る者,年を知らず 。独り其の号のみ有り   て冒して消せり」と。 この「歩」は「あゆむ」という意ではなく,江 の岸辺にあって,舟を停泊してそこから上り下 りできる中継地であるというから,いわゆる船 着き場に当たる。つまり後の「埠頭」のことで       りある。これについてはすでに考察しているので, ここでは簡単に触れておく。  柳宗元が自ら解説を加えているように「歩」 が雌蝶周辺つまり楚越の問の方言であることは 確かであるが,宋人は更に注を加えており,韓 20)この他,胡(ウu>コhu),和(ワwa>クワ  hua),回・会(エwe>クアイhuai),恵(エwe  >クエイhue1)など,呉音には漢音に見られる  喉音(h一)が消失していることからも推定される。 21)拙稿「なぜ船着場を“埠頭”というのか」(『彦 根論叢』308,1997)。

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一66一 滋賀大学経済学部研究年報Vol,4 1997 醇(詰訓本)は「野人は“水際”を呼びて“歩” と為す」といい,雪面聴(百家注本)は「“帰心” の若きの類,是れなり」とする。このように補 説するのは南方方言「歩」の用法が当時あまり 知られていなかったからである。ただし,これ は柳宗元が始めて解説し紹介したのではない。 つとに梁・任防(460∼508)『(新)藻魚記』下に 「上虞県(会稽郡,唐の越州)に“石母野”有り, 水際は之を“歩”と謂う。 “逆歩”は二二に在 り,詞人は瓜を江畔に尽る,因て以て名づく焉」 と見える。韓注が「水際」をいう呉方言である といい,孫注が呉の「瓜歩」を例として挙げた         のもこれに拠ったものであろう。柳宗元も『述 異記』の記載,あるいは呉地方の用法でもある ことを知っていたのかも知れない。薩州あるい は楚越といわずに単に「江の濫」というのは, 「江」つまり呉(長江下流地方)などを含む長江流 域以南の地方での用法であることを示している 22)すでに日野開三郎『続唐代邸店の研究』(汲古  書院1970)に「湖北と瓜歩」(p64∼81)と題す  る詳しい研究がある。ただ,任肪『述異記』下の  「“丁丁”在呉中,呉別丁瓜於江畔,因以耳穴」  に拠って「瓜歩」の名が瓜を費っていたことに由  来するという説,また瓜歩と同じく揚州にある  「瓜洲」との関係についての説は検討の余地があ  ろう。『元和郡県図志』二四「准南道」に「揚州・一・  瓜洲鎮:在県南四十里江濱。昔三下洲村,蓋揚子  江中之興野也,状如瓜字,遥接揚子渡口,自開元  以来漸為南北襟喉之地」というように,沙洲の形  が「瓜」字に似ていたと考えるのがよかろう。  「瓜歩」の「歩」は船着場であるから,瓜の産地  あるいは積み出し港である可能性も考えられるが,  しかしそれでは「瓜洲」が説明できない。長江河  口は千百年の間に海に向かって伸張を続けており,  最初は孤歩あたりが河口で「瓜」字の沙洲ができ  ていたが,後に数十キロ東に土砂が運ばれて瓜字  の沙洲を形成し,そこも丁丁と呼ばれるようになつ  たのであろう。最初は瓜歩あたりが長江の東の終  点にして南北に通じる要衝であったが,後に河口  が延びたことと,瓜洲あたりに階・揚帝によって  杭州から洛陽に通じる運河が整備されたことによ  り,下口の要衝は瓜洲に移って瓜歩の本来の意味  が忘れられてしまったのではなかろうか。 ようにも思われる。この船着場を意味する南方 方言の「歩」はおそくとも三国呉・晋から,し かも長江下流から中流域およびその南は今日の ベトナム北部にまでの中国南部の広い地域で使 われていた。しかし北宋ではほとんど知られな くなっていたようである。そのことは韓愈が書 いた柳宗元の鎮魂碑ともいうべき「柳堀曽池廟 碑」(巻三一)をめぐる議論からも推察される。  宋・欧陽修『半平録事:尾』(嘉祐1056から治平 1067の間)八「唐韓国羅池廟碑」に「今の世に 『昌黎先生(骨導)集』を伝えて此の碑を載せ, 文は多く同じ。惟だ製本のみ“歩脚新船”を以 て“渉 〔有新船〕”と為し,“欝憤丹分蕉黄” は“蕉”下に“子”を加う。当に碑を以て是と 為すべし」という。これは「渉」字ではなく 「歩」字が正しいことをいう。「渉」に誤写され て伝わったのは,やはり当時一般に「歩」の意 味が知られていなかったからであろう。欧陽修 は碑文(実物あるいはその拓本)を証拠としている が,数十年後の呉細塵『筆箱雑記』(元祐二年1087 自序)三でもこの問題を取り上げ,「早退之『黒 暗廟碑』に“亀有新船”と言う。或いは“歩” を以て“渉”と為すは,誤れり。蓋し帯下は水 津を言いて“歩”と為す。……揚州に“瓜歩” 有り,洪州に“観歩”有り,閏中は水母を謂い て“渓歩”と為す」と,例を挙げて説明する。 韓愈「唐正議大夫尚書左削孔公(戴)墓誌銘」(巻 三三)に「十二年,国子祭酒自り御史大夫・嶺 南節度等の使を拝す。……i蕃舶の“泊歩”に至 るとき,下碇の税(入国税・港湾使用税)有り」と いう「歩」も,宋人の注に「“歩”,水陸渡処」 とあるように,外国船のような大型船の入港に ついていうが,同じく船着き場をいうものであ り,韓愈の用法には整合性がある。しかし,南 方方言「歩」を使用したのは,しかも解説して 使用したのは柳宗元の方が早いであろう。韓愈 「墓誌」は長駆四年(824)の作であるが,韓愈は 県南節度使・孔織の所管である潮回刺史であっ た時(元和十四年819)に広州の「歩」を伝聞して いたであろう。いずれにしても韓愈のいう「歩」

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柳宗元の文学と楚越方言(上)(戸崎 哲彦) 一67一 は柳宗元「永州鐵櫨同志」の作(元和八年813)よ りも後のことであり,さらにいえば韓愈「柳州 早早畢生」(長息三年823)における「歩」の使用 は柳宗元「永州鐵半歩志」で「歩」が知られる ようになったことによる,つまり先例として意 識したものかも知れない。  また,宋代古文家で韓・柳らの唐代古文を宣 揚し宋代古文を主導した欧陽修(1007∼1072)の 友人・梅重臣(1002∼1060)「送畑中楽屯田講壇州」 (r宛陵先生集』五八)に次にようにいう。   09皆聞柳宗元 山水尋団飯   11其記若青丹 因來問罪歩       あ   (皆な聞く柳宗元,山水を尋ねて飲かずと。其   の「記」は青丹(彩色絵画)の若し,因て来りて   潭・歩を問う) この「潭・歩」は柳宗元の(29−03)「鈷鍋登記」 や「永笹生卑下志」をふまえたものである。梅 尭臣自身は古文家というよりも詩人として有名 であるが,柳宗元の古文にも親しんでいたらし い。柳文にあってもとりわけ山水遊記に対して は,すでに北宋中期に高い評価が与えられてい たことがわかる。  さらに「歩」についての辞書的説明に至って も明・張自烈『正字通』(辰直下「止」部)の「歩」 に「又た水際渡頭も“歩”と日う。柳宗元『鐵 櫨歩志』に……」と柳文を引証し,清『康煕字 典』もそれを踏襲する。じつは『元和郡県図志』 (元和旧年813)三八「嶺南道」五にも「欽州(広西 南部)……霊山県……今春四十里,之を水歩と 謂う。即ち断れ欽州より北来する人,流を源り て舟を舎て陸に登る処」とあり,この「酔歩」 も舟を停泊させて上陸して行く場所のことであ るから柳宗元のいう永州の「歩」と同じもので あるが,このような簡潔な説明があるにも関わ らず,後世ではもっぱら柳文の用例が使われて いる。このように宋人およびそれ以後の人が南 方方言「歩」の用法を知ったのは『述異記』 『水経注』や『元和郡県総勢』などではなく, かれらが愛読した韓・柳ら作品によってである。 かくして一方言が古文大家の用語と認められて 正当性を得て広く使われるようになってゆく。  (5)「鈷鋼」  「鈷鍋潭」という語は,柳宗元の作品の中で も(29−03)「鈷鍋潭記」・(29−04)「鈷錫潭西小丘記」 など,とりわけ宋代以後に高く評価されて有名 となった「永州八記」に見えることによって,         柳宗元の命名による「愚渓」の語と同じく,い わば柳宗元山水遊記文学の代名詞のようなもの にまでなっている。この「鈷鍋」もおそらく当 地の方言であろう。この語については先の「渇」 「黄/王」「歩」のような正文あるいは自注に, 方言であることをいう直接の説明はない。しか し本文中に「鈷銀潭」の描写があり,それが間 接的な解説になっている。「鈷鍋潭記」の冒頭 に次のようにいう。   鈷導管は西山の西に在り。其の始め,蓋し       よ   量水は南自り奔注し,山石に抵りて屈折し   て東流す。其れ顛委は勢い申しく,露語す   ること益ます暴れて,其の涯を畏みしもの   ならん。故に労は広くして中は深し。畢に   石に至りて乃ち止む。流沫は輪を成し,然   る後に徐うに行く。其の清くして平なる者,   且に十畝ならんとす。 この冒頭部分の記述は題にいう「藤野潭」を承 けてそれがいかに形成され,いかなる形状であ るかをまず説明する,序のような導入部分であ る。このような説明法は,すでに読者には「三 顧というものがいかなる物であるか分かって いることを前提にして,この潭がいかにその鈷 鍋に似ているかを説明するもののように思われ る。では,鈷銀とは何なのか。  (5−1)萢成大の“型斗”説  今日では「鮭鍋」とは「慶斗」(ひのし,旧時 のアイロン)のことであるとするのが定説となっ ている。それは当地を訪れた南宋・萢成大(1126 23)本来は「再三」あるいは「染渓」。(24−07)「愚  渓詩序」に見える。詳しくは拙稿「柳宗元の『愚』  称について」(『彦根論叢』283・284,1993)。

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一68一 滋賀大学経済学部研究年報Vo1.4 1997 ∼1193)が旅行記『膠鶯録』に「皆皆は慶斗な り,潭の状は之に似たり」と記し,また「豪渓 亭亭一石澗耳,蓋衆山之水流出子中」と題する 詩の自注で「鈷鍋は慰斗なり,潭の形は之に似 たり」と述べているのに始まる。そもそも「鍋」 字は『説文』・『平温』・『玉篇』・『切韻』・ 『唐心』・『広韻』・『集韻』などには収録さ れていない。下って清弓蓼文英『正字通』(康煕 九年1670)に至って一おそらく字書としては初 めて  「錫」字が採られているが,その類集 上「金」部に「鍋二鋳と同じ。柳宗元に『永当 鈷鍋潭記』有り。萢成大『駿驚録』に曰く: “鈷鍋は慰斗なり,潭の形は之に似たり”と。 旧本(明・張自制『正字通』)は闘く」といい,『康 煕字典』も「鍋:『正字通』“同鋳。柳宗元……” 」として『正字通』をそのまま襲用する。つま り,「鍋」の字および「鈷鍋」の語は柳宗元に 始まり,その語義解釈では萢成大の「慶斗」説 が採られてきた。そうならば永州周辺では「婁 斗」のことを「群舞」とよんでいたことになる。 しかし,どうも「鈷鍋」は「炭斗」などではな い。永州周辺で「炭斗」を「鈷鍋」に近い音で よぶことがなく,いっぽう釜・鍋の類を「鈷鍋」 に近い音でよぶものがある。したがってこれも 本来は楚越の方言であり,鍋・釜の類を指すと       ラ考えてよい。以下,その根拠について述べる。  (5−2) ‘‘疑斗”と夏越方言  「隠蟹」は早くから使われていた。『晋書』 七五「韓駅伝」に「伯,数歳のとき,大寒に至 り,母は為に嬬を作りて,伯をして慰斗を捉ら し 令む。……火は雨中に在り,而して柄は尚お熱 し」というように種火を入れて柄を持って衣服 に当てて鐡を伸ばす器具,今日のいわゆるアイ ロンのことであり,晋・杜預「奏事」に「薬園 臼・操葉・炭斗・釜・翁・銚・樂・鋸銅,皆な 24)すでに拙著『柳宗元永州山水游記考』(中詠出  版社1996)「『鈷鍋』の解釈をめぐって」(p330∼  343)で考察しているが,今それを方言・少数民  族の言語などの資料によって補足する。 亦た民間の急用なり」というように当時すでに 家庭の日用器具として普及していおり,梁・簡 文帝「採桑」詩に「忌跣行極論,慶肉親撮」と いうように南朝つまり長江流域以南の地でも使 われていた。したがって唐代の永州にもあった と考えてよい。また,一般的な器物であって広 く知られているために地名に用いられることも 多かった。早く北i魏・騨道元(?∼527)『水聖遷』 二八「汚水」中に「注ぎて淵と為る。今の婁斗 破,凝れなり」,三二「肥水」に「北のかた慰 斗湖を蓬る」というように淵・湖のように深く 水を湛えた地は「慰斗∼」と名づけられていた。 それは清・楊守敬の「疏」に「『名勝志』土州 (宣城県の南)下,慶斗破は形は慶斗に似たり」 というように形状が似ていたからである。この ような例から永州の潭=淵の呼び名となってい る鈷鍋も萢成大がいうように「婁斗」のことだ と考えられないこともない。そうならば永州あ たりでは「慰斗」のことを「鈷錫」とよんでい たということになる。          そこで最近の調査資料に拠って,「慶斗」を いう湖南・広東・広西・貴州・雲南など南方の 諸方言およびそれらの地域に集中している壮イ同 語族を中心とする少数民族の語音とその関係を 表1「輿斗を意味する中国西南部の方言と少数 民族の言語の関係」にして掲げる(声調は省略)。 まず方言についていえば,先に見たように「慶 斗」という言葉が早くから普及し,今日でも全 国的に見られるが,その他には「烙鉄」という 地域が比較的多く,次いで「慰鉄」「慰頭」が 二・三の地域に見られる。その中で「奨斗」は 特殊であり,全国的には  資料は東南部の調 査が不十分一広西壮族自治区・柳州のみに見 られるが,柳州では「弓懸」も使われていると 25)方言については陳列太・李行健『普通話基礎方  言基本詞彙集(3)』(前掲)「製斗」(p2879)。少  数民族の言語については,『壮洞語族語言詞三遷』  (前掲)「二三」(p120),曽暁楡・三二祥『三水  詞典(三野)』(四川民族出版社1996)「慰斗」(p  238)o

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柳宗元の文学と楚越方言(上) (戸崎 哲彦) 一69一 表1’”獲斗”を意味する中国西南部の方言と少数民族の言語の関係 西南部地域 墨黒を意味する語の関係 少数民族 湖北省 ?@部 隅濃叢叢天門1yn tau婁斗宜昌lynt∂u 畏斗     1 @   1 鰍浮撃氏@tau I壮 語(広西・武鳴) Rins3u l布隠語(貴州・望楼)    …jin teU l泰 語(雲南。宏徳) 鰍盾氏@dau l臨高話(海南・臨高) 壮泰語支 湖南省 k 部

常徳lyntOU 婁降

a首iyndau製頭

    Izunda:U l黎 語(海南・楽東) 黎語支

別個語族

貴州省

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M陽h。t・i、       烙鉄 齔w・・u婁斗   yn tou畢節1       野口 婁斗 ?S 沒l 烙斗? 伺水語支 広 西 s 族 ゥ治区

桂林;弧tou畏斗

州!yR tAU 覆斗

Vlt‘aηtAU饗斗

1。㍑ t桐語(貴州。椿江)    きlo taU  i水 語(貴州・水慶) 撃盾買ソu 【 〃 (貴州・三洞) 舶゙動態要語(広西羅城)    }th・・g tau【毛難語(広西’東下) @   「 @   1 @   } @   1 @   1 @   1 雲南省

蒙自ht3u製斗

ゥ明lit∂u畏斗

蝸插dt。。喫斗  1 広東省

香測t加tau即死

いう。柳州における「婁斗」は少数民族と関係 があるのではなかろうか。そこで少数民族の用 語について見れば,壮泰語支の/jin tau/系の 発音は「輿斗」と同系と考えて間違いなかろう。 ちなみに壮泰語支の[∼tau][∼da:u][∼se u]などは,「漏斗」を壮語で[lau tau],点 語で[}e uteu],布依語で[1θuteu]という       うのにうまく対応するから,「斗」のことであろ う。イ同水早早の仏画族・毛難族の/thau tau/ 系は柳州の「愛斗」と発音が極めて近く,かつ 地域も同じ広西二三自治区にあって極めて近い から,同系語と考えられる。貴州省熔江県(湖 南・広西との界)の個族語[lothe]は同じ貴州省 貴陽市の方言とほとんど同じである。いっぽう 不明なのが貴州省欝三布依族苗族自治区の水嚢 /lo tau/であるが,貴陽方言・個族語の発音/ 26)『壮個語族語言詞彙集』(前掲p114)。 10一/と地理の関係から見れば「烙斗」と同系語 ではないかとも想像される。  このように方言・少数民族語で「炭斗」を意 味する語は幾つかあるが,その中に「速目」に 似た発音は認められない。しかもこれら少数民 族の発音はいずれも漢語に極めて近く,漢語を 反映したもの,借用語であると考えられる。た だし永田周辺あるいは湖南省の少数民族には苗 瑠語族もおり,今その資料を欠くが,壮個語族 にして漢語からの借用語である可能性が極めて 高いから,苗瑠語族においても同様のことが考 えられる。借用語であるということは物ととも にその言葉が入ってきたのである。「炭斗」と いう器具は漢民族においては早くから家庭の必 需品であったが,それは衣服文化と密接に関係 しており,周辺の少数民族には後にそのような 文化とともに入ってきた。しかし今日に伝わる 慶斗を意味する語と発音の中に「鈷鐸」に通じ

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一 70一 滋賀大学経済学部研究年SU Vol.4 1997 るものが見られないということは当時の永州で 絹平を「鈷鍋」といったことを否定する積極的 な根拠にはならない。  (5’3) 「鈷鍋」と「鈷鋳」の関係  では,仮に「周章」でないとすれば何なのか。 そもそも萢成大の「上下=疑斗」説は従来の説 に対して唱えられたものである。「鈷芋餌記」 には宋人の注があり,百家藤本系統では「張 (春月)曰く:“鈷”,音は古。 “鍋”字は単項 に皆な“母”に従う者無し。『唐韻』は“鋳” に作り,下に注して“鈷鋳なり”と云う。“鍋” は疑うらくは回れ“鋳”ならん。莫蒲・莫朗の 二切あり,並に注して“鈷鋳なり”と云う。 “鈷鋳”は乃ち鼎具なり」といい,また音辮本 系統でも「播(緯)導く:“鈷”,音は古。“鍋”, 諸他に“母”に従う字無し。『集韻』は“鋳” に作り,蒲補・母朗の二切あり,並に注して “鈷鋳,温器なり”と云う」という。つまり, 「鈷錫」の「鍋」という字は字書には見えない が,「群舞」というものがあり,その「鋳」に は「莫息切」(モ*mo)・「莫朗切」(モウ’mOO) の二つの発音があるから,前者で読めば「鈷鍋」 と「鈷鋳」は同音であって鼎具・温器を指す, という説である。「温器」とは『広韻』下平八 「父」韻に「鍋:温器」というから,鼎の類い と考えてよい。  この推測的な説に対して立てられたのが萢成 大の説であり,当地を訪れて実物を見て知る者 の説として今日まで支持されてきた。ちなみに 賢母願「韓副耳釈序」は南宋初期の紹興女子二 六年(1156),播餌「三文音義序」は乾季丁亥三 年号1167)の作,萢成大が永州を訪れたのは上道 九年(1173)のことである。しかし萢成大の説も 柳「記」にいう「潭」と「慰斗」との形状が似 ているという,自己の経験と知識に照らした判 断に過ぎず,当地の人に確認したわけでもない らしい。また仮に当地の故老に語源・由来を尋 ねたとしても,下僧〇〇年前の柳「記」の記述 以上の回答は期待できなかったであろう。  そこで問題となるのが発音である。当時たし かに「鋳」が「莫芝切」(モ*mo)と読まれてい たのならば,「鈷鋳」は『唐韻』に見えるから, 当時一般に知られていたということになり,そ れは「鼎具」のことであった。ただ旧注が引く 唐・原価『唐韻』(開元二〇年732)で今日知られ る残巻にこの部分は残っておらず,確認するこ とができないが,唐・長孫納言『箋注本・切韻』 (神龍二年706)には「鋳」の音について「莫補反 (*mo)」(上十「姥」韻)と「摸朗反(*moe)」(上三       の六「蕩」韻)の二つを挙げて「鈷鋳:焼器」とし, 北宋・陳豚革『大広益会玉器』に「鈷:何魯切。       ラ鈷鋳,釜」「鋳:莫朗切。又端補切」とする。 「焼器」が具体的にどの器具を指しているか明 確ではないが,「釜」と「鼎具」とは基本的に 同じであり,「慰斗」とは明らかに異なる。  (5−4)「鍔」と「鋳」の音韻関係  では『唐韻』等がいうように「錘」に「莫時 切」の音があったのかどうか。明・上元声『方 言拠』続物に「漸界の人は鍋を謂いて野物と為 す。鈷,音は借;鋳,音は母」という。これは 「鈷鋳」が「佑母」と発音されることをいう。 つまり『唐韻』等がいうように「鋳」は「莫蒲 切」と発音されていたわけであり,「鍋」は 「母」を音符とする形声字であということにな る。「鍋」を指すというのは『唐韻』の「鼎具」 や『玉野』の「釜」に近く,『切韻』の「焼器」 に属する。明代に存在したということはそれ以 前からすでに存在していたと考えてよい。  次に,北宋・銚寛『西単帯語』下に「『宜都 山水記』に“恨山渓に釜灘有り。其の石の大な る者は釜の如く、小なる者は鈷摸の如し”と。 柳子厚『鈷鍋潭記」, “鍋”字は字書に之れ無 し。『集韻』(四韻)に“鋼・鈷”,並びに音は胡, “黍稜の器。夏は瑚と日い,商は漣と日い,周 は箆篁と比う。[或いは鈷に作るは,瑚に作る 27)高祖護『唐五代韻書集乳』(学生書局1994)に  拠る。 28)四部叢刊本(元刻建安鄭二本)に拠る。梁・顧  野口『玉篇』の記載であったかどうかは,「金」  部が残存(古逸叢書本)していないために未詳。

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柳宗元の文学と楚越方言(上)(戸崎 哲彦) 一 71一 に通ず]”と,又た(r集韻』姥韻)“鋳: 音は満補の切。鈷鋳,温器”と。素建の篤くの          のみ  如く大小なるを謂う爾」と見える。つまり柳 「記」にいう「鈷錫」は『宜都山水記』にいう 「鈷摸」と同じで釜の類ではないかという。「摸」 は「莫蒲切」に通じる。これは張・溢らの注に 先行する説として貴重である。ただしこれには 二つ問題がある。一つは「摸」は平声「莫胡の 切」(広韻』模)であり,上声ではない。「鈷」を 「胡」音というのも同じである。しかし「鈷鍋」 (ともに上声)と「年下」(ともに平声)は本来同じ 物を指し,ただ地方によって声調に変化があっ たことによると考えられる。次に晋・衰山松 『宜都山水記』は逸書であるが,北魏・麟道元 『水経注』三七「埋水」の「恨山渓」の部分に 「又た東して釜瀬を翻る。其の石の大なる者は 釜の如く,愚なる者は弓斗の如し」と,ほぼ同 様の記述が見える。『水野注』では「弓馬」と いい「館下」には作っていない。しかし「史記』 李将軍列伝の「不麗日才智自衛」の南朝宋・楽 々「集解」に孟康の説を引いて「銅を以て錐器 を作る。一斗を受く。昼は炊飯して食し,夜は 撃ちて持ち行く。名づけて弓斗と奮う」,唐・ 司馬貞「索隠」は魏・張揖『坤倉』を引いて 「錐は温器なり,単寧有り,銚に似て縁無し」 といい,また『説文』に「錐:錐斗なり」,『広 韻』平「宵」韻に「錐:弓斗也,温器三足市有 柄」という。「弓」と「銚」は音が通じる。つ まり「ヨ斗/銚斗」と「錐斗」は同じ「温器」 であった。これは『集韻』が「鈷鋳」を「温器」 といっていたのと同じであり,さらに『玉篇』 のいう「釜」,「唐韻』のいう「鼎具」と同じで ある。『宜都山水記』がいずれに作っていたか は分からないが,「弓斗」「鈷摸」ともに鍋釜の ような炊事用具であることは間違いない。  これらは「鈷鋳」が「鈷鍋」と同じ,あるい は極めて近い音で発音された例であるが,いず れも唐以後の例である。しかし,「鋳」には階 29)明・毛晋『津逮秘書』六所収に拠る。 『切韻』・唐『唐韻』にいう「莫補反」の発音 がかなり早くからあった。前漢・揚雄(一53∼18) 『方言』三に「蘇・芥,草也。江准・南楚之間, 日蘇;鼻息而西,半日草,或日芥。南楚・江湘 重訳,謂之葬」,十「卉,芥,草也」といい, その「葬」字について西晋・郭瑛(275∼323)は 注して「亡母」とする。この注は「葬」の音を

示すものであり,他の条の注の例からみて

「(芥)臨摸母反(mo)」ということである。する と「葬]を音符としてもつ「鋳」も「庶母の反」 で発音されていた可能性が極めて高い。したがっ て「鈷鋳」を*komoと発音していたのは階b 唐からではなく,さらに古く晋・漢まで遡るこ とができ,また逆に宋・明まで続いていたので ある。  (5−5)「鈷鋳」言語文化の地域分布  では,これらの例と永州とは関係があるのか どうか。じつはこの音韻現象は通時性があるだ けでなく,地理的にもある共通性が認められる。 『切韻』系の韻書がいうように「鋒には早くか ら「摸朗反」(*mong)の他に「莫補反」(*mo)と いう発音があったことが知られるが,全国的に この二種類の発音があったわけではない。先の 三絶・郭瑛によれば「葬」を「摸母反」(*mo)と 発音していたのは「南楚・江湘の間」,つまり 長江流域および以南の地である。また,明・岳 元声『方言拠』が「鋳」を「母」と発音すると いう「漸界の人」は長江下流域,古くは越とよ ばれた地である。北宋・挑寛『西渓叢語』が 「鋳」を「摸」とする『宜都山水記』は宜都(今 の湖北省西南部),長江中流域,古くは楚とよば れた地である。  この他にも「鈷鍋」を含む地名は多い。南島・ 王象之『輿地紀勝』五七「梛州」(今の湖南省南 東部)に「軽銀泉:梛墨東百余里に在り。山下 に一年有り,方圓十包里,潔白は石壁哨回し, 其の泉は深遽澄清にして測る噛し。名づけて古 聖泉と日う」という「古鍋取」も,周辺が岩に 囲まれて深い泉となっている構造上の特徴から 見て,柳宗元のいう「鈷錫潭」と同じ命名法で

参照

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いない」と述べている。(『韓国文学の比較文学的研究』、

〔付記〕

2014 年度に策定した「関西学院大学

社会学文献講読・文献研究(英) A・B 社会心理学文献講義/研究(英) A・B 文化人類学・民俗学文献講義/研究(英)

山本 雅代(関西学院大学国際学部教授/手話言語研究センター長)

向井 康夫 : 東北大学大学院 生命科学研究科 助教 牧野 渡 : 東北大学大学院 生命科学研究科 助教 占部 城太郎 :

関西学院中学部 2017年度 3年生 タッチフットボール部 主将 関西学院中学部 2017年度 3年生 吹奏楽部 部長. 巽 章太郎