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(1)

狸︑随︑

− 1 −

収益性は固より否定されるべきではない︒これからの社会において非難されるべき点は︑収益性が経済活動を集約

し品目品種を大幅に制約し︑ユーザーの個々の便益を無視する点である︒即ち大衆の個別性を極度に捨て去り︑没個

性的・インスタント的商品をもって︑収益性を高め︑又︑収益性を高めるためには︑益々没個性的商品を提供する︑

/という悪循環を熱心に追求する点が︑これから問題となる点である︒

多種生産は単純化・標準化・特殊化の初期三s方式と対立する生産方式であって︑いわば多極的・多元的方式であ

る︒この多極的方式に収益性がうまく結びつけば︑収益性と生活の個別的向上とは︑互いに近づいて行く理想型と

これを組織内の出来事として考察すれば︑三s方式を徹底的に持ち込めば持ち込むほど︑組織内活動は単調な繰返

し作業の日々になる︒若年労働力や女子労働力中心0職場を︑B.G音楽の効果で柔げてみても︑︾底が知れている︒

勤労意欲が沸ぎり立つ訳はない︒単純な機能化は非人間的な機械労働による低コストを予期しているが非人間的労働 る︒︾なる︒ 多面的収益性

ダーシッブの開発

第一節多極的リーダーシップ リー

丸岡淳夫

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‑;−3:一

今後も継続しうるためには︑輸出依存率を高めねばならないが︑国内市場の伸びに︑ョリ多くの期待を寄せねばなら

ぬ︒生産規模の拡大に伴って︑成長率が逓減しても不思議ではないが︑市場が常に未飽和の状態に置かれるための保

障は︑生活の個別化を拡大する以外に途はない︒生活の画一化を指向する廉価品による市場開拓は短期に行詰まるの

で︑所得の向上に見合う多様化・多元化生活の開発︑そしてこれに伴う多面的収益性が︑経営の多極的リーダーシッ

プの課題として採り上げられねばならない︒

次表は日本経済の成長振りを示したものであるが︑個人消費の伸び工合に興味がある︒

昭和二八年

二九斗三○

.一一一一

一一一一一

一一一一一一

三四三五

一ニーハ︑

三七三八 第二表日本経済の成長

名目成長率

︵前年同期比︶

・一︲一哲・壱

一つ麦●セ

一一一一●一

一二一・︽

一一一一一●一一一

一つ二・八

一〃一︽・一

・一二つ・ロ

︑一二つ・三

一つ九・壱

一一︽・菅 実質成長率︵前年同期比︶

一つ︿・ハ

ーロニ・︿

︾一一一︲一●一

一一つ︿・五

一つ九・七

一一つ三・・三

一二一一●四

一一五・二

一二一一・九

一つ三・三

一三一・つ 率︵経済企画庁︶

︵季節調整済︶個人消費支出

11

金額伸び率億円%四七︑五九四:三四

五一︑︽壱八五九

.垂五︑三三つ奉三

麦つ︑つ︽一︽︿

.︽五︑一︿九一くつ

七つ︑一二一八八八

看乞︑五九︿︿九

︿壱︑壱四︒一つつ

一つ一︑︲九元︽・一一︽

一一七︑七麦奉#一三四

三一︽︑一三・一垂垂 ︵季節調整済︶国民総支出︵総生産︶11金額伸び率億円%這三︑四三七四︽壱八︑三四壱四九ハゼ︑︿五つ三五九︿︑元二四麦二一二一︑つ︽垂ゼロ一一三︑一︿二昔二一一二一︑七七二︿三一︽つ︑四︽元一つロ一九三︑つ壱壱・一二つ一二一︑八九壱一三二二四壱︑二一︿二一三四

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− 5 −

ツプは志向すべきである︒多様な個性的文化の開花に︑依存する経済及び経営を︑経営者は志向すべきであって︑文

化を凋落させる如き画一的活動を厳に慎しむ︑というのが私が強調したいところである︒この発想は︑文化面の発展

ば艇唄でありうるから︑この文化と密着する限り︑経済も経営も︑無限な領域を開発しうるだろうという仮説︑或い

もちろん︑この文化とは今日の中共の如くに厳重に思想的行動的に統制された文化ではなく︑自由を信奉する個人

文化の社会的開花である︒ここで言う自由主義とは︑個々の生活内容の自主的な創造を意味し︑この創造活動の無限

と豊かさとが︑経済と経営の拡大を惹き起こすと解される︒メーカーの独善行為を気随気儘に許すという過程から︑

伝統の自由主義を引き離して︑生活の創造という本来の自由主義へ転回さることを私は意図している︒

伝統の画一主義的生産方式は︑内容の掴み難い個人文化的創造主義を否定し去るであろう︒創造主義の内容は表面

では無規定に見えるが︑これは決して無内容ではないから︑メーカーは規定難を無規定と誤認して︑屡々創造主義の

落し穴に陥いる︒そして中小企業に限らず︑大企業でさえも︑どんな商品でもつくれば売れるという独善に捉われ

る︒戦後の日本経済の荒廃を︑今もなお経営者は忘れていないのかも知れぬ︒ は無限でありうるから︑は事実に基づいている︒

昭和三○年

巳一一一一・

一一一一一

一一一・宮一一一 第三表産業資金の供給と全国銀行勘定︵日本銀行︶

産業資金の供給全国銀行勘定

総額同比内︑貸出同朏

億円七︑五九五

一︷︑︿三奉

二︿︑四つ九

一壱︑一奉九

至 男 君 三 %

億円麦︑三五八

一三︑︽垂二

一三︑︽垂︽

一四︑一三壱

君 臺 臺 三 %

実勢預金同比貸出残高后此内︑殼慌差金夢信后H

億円

一二一︑四一二一一

四つ︑麦二二

四五︑九一︿五

五一︿︑一五四

莞 君 吾 邑 %

億円

一二一や垂︿四

四三︑つ一二

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垂か︑くつ︷

ぢ き 吾 天 %

億円三︑九︽ロ

五︑五壱︿

壱︑三一︿七

元︑一︿︽

棗 彗 皀 天 %

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一 9 一 一

中小企業の活動には多極性が具わっているからこそ︑生活の個性的・個別開発が可能となる︒しかし多極性をいう

語は中小企業と同様に定義し難くい概念である・この多極的説明は量的規模から中爪企業を説明するものではなく︑

リーダーシップの内容から中小企業の活動を解明するものである︒この限りではこの解明は中小企業の通念とは︑ま

るで違った角度から︑中小企業に接近しようとする一つの試みである︒

通念は中小企業を量的に定義し︑量的概念を使って中小企業問題を解明しようとするから︑中小企業問題の本質に

触れない︒特別の国家援助がなければ︑中小企業の悲運は避けられぬというのが︑量的結論としての事実である︒

これに反して︑中小企業を質的に定義すればどういう工合になるか︒中小企業を質的に定義することは︑中小企業

の主体的リーダーシップに触れることである︒

そこで主体的リーダーシップから中小企業を見れば︑中小企業は余りにも漠然として一般に掴み難い印象を与え︑

一義的に定義することの困難さを思わせて来た︒殆んどあらゆる経済の分野︑生活の領域に︑中小企業が関与してい

るので︑量的方法が中小企業を定義する唯一の方法のように映った︒つまり中小企業を一義的に定義することは中小

企業を量的に定義することを意味し︑これが質的接近方法を無視する欠陥を胚んで来たp

これに反して︑旧くから言われる小回わりの利くという中小企業の概念づけは︑一つの質的規定の方法である︒同

様に客からの注文による生産が多くなるにつれて︑中小企業は主体性を失い便利屋的存在になると解するのも一つの

質的接近である︒どう見ても︑大企業のような自主性と統一意思がない場合がこのように多いので︑大企業のように

統一的なリーダーシップを︑中小企業は確立すべきだ︑という要請・勧告がかくて出される︒

だが︑いろいろな好意的勧告にも拘らず︑中小企業を全体として見れば事態が一向に改善されていないのは中小企 中小企業に特有な多極性的活動

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− 1 0 −

しかし中小企業界への新入りは依然として跡を絶たない︒これは何を意味するのか︒社会の豊かさが増し︑生活の

内容が豊富になると︑どこかに隙か出るのだろう︒

中小企業は︑中小企業数という人海戦術で︑生活の間隙を単に埋めるだけだろうか︒われわれは更に生活の開発を

積極的に押し進めることを︑中小企業に期待すべきではないか︒中小企業は誉って自らが葬送した多極性を更めて見

直すときに際会している︒ 出す︒する︒ 業のリーダーシップの本質に則した勧告が欠けていたためである︒

既述のように︑中小企業のリーダーシップは無規定である︒しかしそこに自由がある︒中小企業は身軽だ︑小回り

が利く︑尻が軽い︑便利だ⁝:母いろいろな特徴的発言をわれわれは屡々聞いている︒しかし︑われわれはこれらの

発言が︑消費者利用者の個別的利益の立場から︑為されている便宜的発言であることに注意したい︒

即ち中小企業のリーダーシップが︑常に生活と密着している点が︑無規定の特徴である︒中小企業が生活と密着す

ればこそ︑深い相互理解が消費者側と企業との間に成立し︑感情の円満な移入が行なわれる︒ゼニの計算づくでない

関係が︑お得意という語に秘められる︒これが旧くからの︑又︑これからの中小企業の在り方の概略である︒

だが︑われわれの生活が一般に既製品の狩り場に変質して来ると︑中小企業の在り方も自ら変わり︑お得意という

語も︑単なる商用敬語にすぎなくなる︒没個性・画一性商品の取次ぎ︑或いは大企業の下請加工専門に︑中小企業が

転化すると︑中小企業は生活から次第に遊離し︑業界におけるョリ大きな資本が︑それ以下のものを業界から︑追い

出す︒自分一代限りで︑息子を勤め人にする︑という中小企業者の悲壮な決心は︑現行の中小企業対策の将来を暗示

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− 1 1 −

資本︒物・人の三経営要素は︑元来︑それぞれ独立した概念体系であり︑行動体系である︒従ってそれぞれの発達

充実に遅速があるために︑絶対的にも相対的にも︑資本以外の二要素が未成熟であった時代は︑資本が支配した時代

と呼ばれたし︑未成熟である国々は︑後進国として︑侵略の対家になったし︑又︑先進国から援助を受けねば自立で

きぬ国々とも見倣されて来た︒

しかし三要素がそれぞれに一人前として充実発展するのに伴って︑それぞれの独立性及び自主性が高まって来る︒

これが経済及び経営の発達である︒従ってそれだけ企業としては︑経営三要素の統合及び均衡維持に苦労するわけで

経営学の発達も︑このような意味で︑促進されて来たものである︑企業が資本要素のみで完全に支配されていたとき

には︑経済学は経済現象のすべてを︑資本によって原理的に説明しえたが︑他の二要素が独立に充実発展して来る

と︑もはや経済学は資本の原理のみで︑すべての経済現象を説明できなくなって︑経済学原理以外の原理︑特に経営

学原理の深い説明を求めるようになる︒

資本以外の要素のうち︑物の要素については技術的︒市場的等の解明が必要であると共に︑人の要素については行

動科学的追求が為されねばならない︒これからの経営の三要素は常に生活との関係で︑その価値判断がなされて来る

ので詞単なる資本I利潤関係から性急に価値づけられることは危険であるp

論理的には︑資本・物・人はそれぞれ異った概念であるのみならず︑資本と物とは死んでいる概念である︒これに

反して︑人は生きている概念である︒死んでいる概念と現在でも生きており︑且つ﹁未来に生きる概念﹂とを合わて

一本にすることは難しくなり︑人間を殺して無主的・唯物的に一本にするか︑それとも人間を生かして︑人間が支配 経営三要素の統合 第二節生きた経営の開発

(12)

− 1 2 −

する資本・物として︑これらを統合するかの︑二者択一に企業は迫まられる︒

このように三要素の統合の仕方で︑経営は化石となったり︑生きた経営になったりする︒惟うに︑人間は︑生産す

る人間としても消費する人間としても︑漸く一人前に成長し︑資本及び物による単純な支配に最早甘んじなくなって

いゑこれが人間の魂の目醒めである︒しかし経営者の立場から言えば︑人間を資本と物との山の谷間に埋没せしめ

資本と物の支配の下に人々を黙々と働かせる︑という資本家的な伝統的管理手法に︑大きな魅力を感じ︑いつ迄も経

営を死んだままに放置したがる︒そして利潤の多きをもって有為有能な経営者と自負する習癖から︑多くの経営者は

脱却しようとしない︒かくして人間の不幸が拡がる︒

冒頭で触れたように︑三要素はそれぞれ一貫した理念によって活動するが︑各々の独立発展に伴って︑上の企業理

念は体系として︑活動は組織として︑別箇に理解される︒組織が大きくなるのに伴って︑組織の殆んど全員が︑上の

理念を理解せずに銘々勝手に行動するようになるからである︒各自が上の理念をしっかりと把握しておれば︑理念と

組織とを厳密に区別する必要は認められないが︑実際はそうでないので︑社員の働き方を管理しなければ︑理念とし

ての体系と現実の活動としての組織とは︑水と油とのように︑離れ離れになってしまうことを経営者層は恐れている︒

経営学の発展を︑私は三要素の﹁結合←化合←統合﹂の過程であると跡づけたい︒先ず手工業的生産・流通の初期

が結合段階であり︑大企業的生産・流通の化合段階がこれにつづく︒そして最後のものとしての大・中・小・零細企

業の全企業体による生産・流通の統合の段階がこれからの段階となり︒豊かさを社会の隅々にまで浸透させるのが︑

これからの統合段階の本質的特徴であると私は考えたい︒大企業中心でつくられる〃偉大なる社会〃は︑単に見せか

けの社会であり︑従ってこの偉大なる社会における貧乏退治は容易でない︒けだし豊かさを社会の隅々までという細

かい配慮が︑大企業の大組織にとっては︑不可能な重荷となるからである︒

仮りに大企業が分権P委譲制を採用しても︑中以下の企業が未成熟では︑切角の分権・委譲制も骨抜きになる︒そ

I

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− 1 3 −

経済は非情であるという伝説と論理とを︑大人の世界の真理であると︑われわれは信じて来た心経営者も人間であ

るとわれわれは信じたいが︑しかし経営者は資本と物との虜になって︑人間性を喪失することによって出世した人々

であると︑人々は思い込むから︑世間では往々にして経営者を非人間と信じ込んでいる︒経営者が悪いのか︑組織の

運用され方が悪いのか︒この是非を論ずる以前に︑われわれが真剣に考えねばならぬ問題はないだろうか︒

この問題は組織と人間との関係にほかならない・つまり組織は人間を単なる自動人形にするのか︑それとも組織は

人間を真に人間にするのか︑という問題がこれである︒集権制は人間から自由な判断を奪い去る意味で︑組織人を自

動人形にする可能性を大きくしている︒そして上と下との距離が長くなるのに伴って︑働く者の自動人形化は愈々激

しくなる︒エリートへの敵視︑学歴への抵抗︑教育ママのエリートへのひたむきな情熱⁝.:社会の何かが狂っている

と若い人達は真剣に考える︒その何かとは︑一体なにか・

前節で人間疎外から個人疎外を論じた︒個人疎外が云々される段階になると︑組織の個人締め付けが既に深刻にな

っていると思わざるをえない︒資本と物とは人々を締め付けるだろうし︑人々を奴隷にさえする︒しかし資本も物も 生ける骸という語がある︒トップの人達から見ると︑組織が如何にも生きているように見えても︑組織に組み込ま

れた非エリートの人達や消費者利用者から見ると︑組織は化石のように生気がないものとして映る︒社会全般が何か

しら欲求不満に陥いることは︑全般の組織が化石となり︑個々の生活から全く懸け離れたものになったことの証拠で

ある︒ こで大企業が分権・委譲制をとることと平行して︑中小企業が成熟すれば︑流通過程を介して︑国民総生産は社会的に分権p委譲の効果を見せること童この統合段階に︑われわれは大いに期待している︒

幻の経営

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− 1 4 −

・委譲から生まれ︑集﹄

同じ理屈が適用される︒ 組織の硬直を救う道は只一つ・集権制を分権制に振り替えることであるp自主的活動に組織の基本活動を求め︑個々の自主的活動を統轄する機能として︑経営者のリーダーシップを認めることが新しい組織の道である︒われわれが欲しいのは﹁組織人像﹂である︒上位のポストが段々と少なくなって行く組織においては︑組織人の将来には暗胆たるものがある︒六人に一人の割で︑上位ポストが用意されると考えるだけでも︑社員に対する動機づけは鈍る︒つまり六人に五人が落伍者だと判定されることは︑社員にとっては堪えられない恥辱である︒しかしこの屈辱に堪えねばならぬとしたら︑若い人は酒か競馬か競輪か︑何かに自分を忘れねばならぬ︒自分が自覚されるからへ屈辱を忍ばねばならぬのであるから︑自分を忘却するか︑死ぬか︑を彼は選ばねばなるまい︒果たして自己疎外がわれわれを心底ばならぬのであるから︑自分を忘却全から幸福にしてくれるのであろうか︒ 没価値的であり没個性的であるから︑個々の人々に対して差別的な締め付けをしない︒資本と物とは無差別的締め付

けをする︒この意味では︑資本一般や物一般に対する抵抗はあっても︑個々の上司に対する抵抗は論理づけられてい

ない︒精々︑資本の走狗の如き奴という非難の語を︑散発的に聞かせる程度の理論であり︑究極的には資本一般を憎

悪する理論となる︒マルクス経済学の論理的構成は︑概ねこのような主旨に出るものである︒従ってこの理論は︑組

織による個人の締め付けの課題を︑当時の組織が未熟であり︑小規模であったために︑議論の日程に上ぼせることが

なかった︒だが︑組織が神秘な拘束力を具えるようになった今日では︑マルクス時代とはまるで違った事情の下の資

本の理解をもたざるをえない︒

経営者が集権制をその論理から反省したときに︑彼の信念とする経営が幻の経営であり︑殆んどの社員達を非人間 幻の経営から一日も早くわれわれは足を洗いたい︒それには分権・委譲を徹底することである︒真の責任は︑分権

委譲から生まれ︑集権制の下では免除される︒同様に集権制では所罰もありえない︒自動人形を処罰しえないのと

I

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− 1 5 −

経営は︑無生命もしくは非人間の再生産にその主体性を見出すべきだろうか︒経営の主体を資本I利潤に置くとき

には︑経営の主体性は︑資本l利潤に連がる単なる財の生産にあるのであろうか︒生活の外装から眺めると︑成る

程︑現代の人々は︑老若男女を問わず︑確かに恵まれた人間的な生活を営んでいる︒社会が物質的に前進したこと

は︑財を身につける点よりみれば︑誰の目にも明らかである︒昔の王侯貴族の生活以上の生活を︑普通の人々でも享

楽している︒しかも昔の半分以下の労働の代償として︑このような生活に耽けることを許されている︒

歴史的には︑貧しさから離陸するために︑われわれは財の生産の拡大を至上命令として受取り︑資本l利潤感覚に

よって︑生産を一般に普及させ︑且つ大々的に促進して来た︒この歴史的な経緯からみると︑財の訣乏による非人間

的な苦しみを︑先進国の人々は︑余程の天変地異がない限りへ再び味うことはないと︑われわれは楽観する︒しかし

われわれはこれで天下泰平を悲歌できるか︒豊かさに埋没され行く人間性への哀愁がないのだろうか︒資本I利潤感

覚第一の支配時代の終焉は︑新時代の黎明の訪れを告げるものではないか︒ダム建設で水没して行く伝来の農地や家

屋に訣別する人々には︑新しい輝しい生活が待つていなければならない︒

新しい時代と新しい生活への突入!だが待望の突入のリーダーは果たして誰か︒第二のレーニンやヒットラー 生まれない︒ にしている事実に到達するであろう︒生きた経営I経営者の伝統的信念の深い反省と人間の信頼から生まれる︒人間不信の世界からは︑非行が生まれても︑これを防止することは困難である︒幻の経営が社会の基本形式である限り︑人々は何かが狂っていると思いつづける︒

主体がある生活へ

生命のない社会から︑そして経済から︑生きた経営と大衆の生活が生まれる筈はない︒人間疎外から個人の自主は

(16)

−16.−

豊かな財物へそして膨れ上がった財布で喪われた人間性の回復!このスローガンがこれから生まれようとするリ

ーダーシップの唯一の︑しかも正しいとく罪ではなかろうか︒過去のリーダーシップは︑それなりに価値をもってい

た︒従って単純に過去のそれを否定し去ることは妥当でない︒過去のそれを否定することは︑ョリ良きものを産み出

す意味をもつ場合に許される・

過去の︑又︑現代の集権制の最大の欠陥は︑トップの座に坐わるもののみが常に主役であり︑一般の社員従業員

は︑一般の公務員と同じように︑その他大勢の端役であったり︑裏方である点にある︒政治・経済上の個人崇拝も︑

演劇上のスター礼讃も︑一向に変わりはない︒総べての人々唾スターになりたいという甘い夢をもっている︒現実

の厳しさとは︑かかる夢を踏みにじる残酷さを意味している︒たとえ人々の夢が如何に甘いものであろうと︑人々の

切ない夢をわれわれは少しでも叶えさせてやりたい︒このための努力が生きた経営であり︑この夢を実現する場を提

供するのが︑多極的リーダーシップである︒

新しい組織では︑経営者は単なる脇役に引き下がる︒この転換は経営者の価値をョリ低く評価することではない︒

むしろ経営者をョリ指導的な地位へ押し上げることを意味している︒

新しい組織では組織の全員が主役である︒かくして現われる社会生活では︑貧富︑老若︑男女の別に拘りなく︑個

々の人がスターである︒このように組織の全員︑社会の全人口が︑それぞれ主役でありスターでありうるためには︑

卓越した演出者が多数に必要となる︒指導者・経営者グループは︑かかる意味で最も貴重な価値を担って来る︒これ か︑それとも毛沢東などの権力主権者だろうか︒権力的集権的リーダーシップが転換しなければ︑人間らしい自主生活は永劫に人類を見捨てるだろう︒嘗っての貧しさにも︑貧しさを頒ち合う人間らしさはあった︒宗教はこの貧しさに耐える心を支えて︑人々を勇気づけた︒しかし豊かさに耽ける今の人々の心はどうだ︒人々は豊かさに身も魂も減ぼしはじめている︒

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− 1 7 −

が﹁生きた経営のイメージ﹂である︒働き甲斐のある企業と唾人間の甘い夢を多分に盛り込んでいる︒

人間追求の生産力の大展開

従来は物的生産力の展開にリーダーシップがあり︑組織の総力をこのために結集することが︑リーダーの役目であ

ると理解された︒これは戦時経済において最も強烈に表現された︒そしてこのようなリーダーシップの表面的理解

は︑集権制l優尭少数と無能力な多数との制度的関係Iと不可分に結びついて︑言の財貨窪時代を︑見事

昔から無力な多数を動員するには︑集権制が最も効果的な知恵であり制度であった︒そして組織がョリ多くの人手

を必要とし︑又︑ョリ高い技術水準を要求するようになると︑集権制がョリ強力︑且つョリ合理的な中央集権制に切

り替って行くことは︑理論的にも利潤計算的にも︑充分に是認されて来た︒かくて製品やサービスに対する社会的評

価を度外視して︑社会から孤立的に︑組織活動の生産性の向上に経営者が眩惑された結果︑経営者は単純に集権制を

信奉して︑物的生産力の拡大に︑組織の総力を投入する誘惑に負けてしまった︒だが︑その結果として獲られたもの

は︑工場や店舗の外観が立派になったことと︑社員従業員が秩序正しく働くようになったことだけではなかったか︒

時代と共に生産力の追求の仕方が変わるのは当然である︒われわれの生活の中で浮び上がる物財という表面的なも

ののみを追求する生産力の展開に︑人々は大きな疑問を投げかけるべきであった︒手遅れは既に露呈されている︒各

種の公害問題の如きは︑物財の表面的追求の悲しむべき結末である︒

社会全体が︑そして経営者が︑人間追求の生産力の展開に転換せぬ限り︑公害などの人間を滅ぼす各種の罪悪は︑

日本の地上からは永久に消え去ることはない︒しかし現在では︑社会全体も経営者も︑物的生産力の強力展開に︑い

ささかも疑問を抱いていない︒不思議なことには︑社会全体も経営者も︑全く罪の意識がない︒そして国家は経営者 は︑集権制l盾につくり出した︒

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(19)

− 1 9 ‐ −

隅に出現したのである︒もちろん︑この世界は︑未熟そのものであり︑多くの改良・改善・修正を俟っているけれど

も︑これが完成のための一応の目途は既についていると言えよう︒最少の費用で︑国富を高め︑大衆の生活を上昇さ

せるためには︑言う迄もなく︑人々の生活を均質にし︑規格化することが︑最も効果的である︒維新以来百年︑貧乏

国の日本が多くの先進国に追いつくために辿ったところの︑均質化の方向は決して間違ってはいなかった︒だが︑今

迄に正しかったことが︑いつ迄も︑正しいとは言えない︒︑ここにリーダーシップの転機がある︒

そこて人間の追求が次代の課題となる︒しかし人命を奪ったことに対する賠償金が高くなったというようなこと

が︑人命を尊重する凡べてではない︒人命を絶対に傷つけないように︑社会全体が努めたときに︑はじめて人命が尊

重されることになるのと同様に︑人間に対する経営者の考えI生産力Iが人間尊重を志向したときに︑はじめて人間

尊重が常に此岸にあると言うべきである︒

経営者が人間の確立を︑唯一の目的として︑追求して行って︑個性的・非規格の人間世界がはじめて出現する︒こ

れは人間を益々個性的に完成させようと努める教育と文化の発展と殆んど矛盾しなくなり︑教育文化と経営とは互い

に相携えて︑人間生活の向上に貢献しうることになる︒もちろん︑個別化・個性化への努力を︑推進するための費用

は︑規格化推進のための費用よりも︑遙かに高くつくことは︑特別に喋々する必要はなかろう︒従って個別化の追求

は︑貧しい国々や地方では︑全く夢物語であることも容易に認められるところであろう︒

一般論としてのリーダーシップの経済的課題は︑物質を追求するか︑人間を追求するかの択一にある︒従って前者

の課題は︑後進国の貧しさから生まれた課題であり︑貧しさより離陸しようとする民族の悲願そのものである︒これ

に反して︑後者の課題は︑先進国の豊かさを拡げる課題であり︑豊かさに潜む貧困を根こそぎ取り除いて︑豊かさを

心の隅々にまで深めて行く国民の庶民的ビジョンである︒

物質の追求は︑ヨリ多くの機械や設備の投入を予期するから︑リーダーシップは低コストを目標にマスプロ街道を

(20)

− 2 0 −

蟇進する︒もちろん︑この理想が矛盾なく実現するためには︑生産物を受取る側の人間が︑物質の均質化に平行して

均質化され︑無差別化されることが条件である︒こうなれば︑物質追求のリーダーシップは万々才で︑品質管理の創

始者並びにこの普及に当って来た仲間の人々は︑それぞれの頌徳碑を︑国民の手で建立される筈となる︒

だが物質追求リーダーシップの不幸な誤算は︑人間が物質の均質化と平行することを拒否して︑独自の差別化︒個

別化・個性化の逆コースを選ぶところにはじまった︒経営者は物質追求のためには︑教育と文化の発展を求めざるを

えないし︑教育と文化の発展は逆に物質の無差別的追求を阻止する役目を演ぜざるをえなかった︒かくして経済人は

文化人と︑しばしば必要以上に︑憎み合う宿命に置かれ︑自由の錦の御旗の争奪が︑両陣営間で繰り拡げられた︒

だが教育と文化とは︑人間の社会的勢力を︑バラバラに分散させるから︑文化人が言論のみで物質追求に抵抗して

も︑大衆が物質に依存する以上︑到底︑文化人に勝ち目がない︒文化人は本質的には左翼的ではない︒例えば紅衛兵

達による文化人非難の如きは︑文化人の非左翼性を曝露したものである︒このようにして︑文化人が物質的勢力を人

間的に改編できなければ︑彼の知性は物質文化を呪いながら︑意味のある自殺か意味なく殺されるかの択一に︑その

身を委ねるだろう︒アメリカにもあったし︑日本にも起ったところの︑若人による無意味な大量殺人の狂行は︑文化

人の暗い運命を暗示しているかの如くである︒

これに反して︑人間を追求するリーダーシップは︑物質たる経済財がもつ社会的勢力を︑人間的に改編し︑人間性

に奉仕させるところにその意義をもっている︒教育と文化の発展によって︑人間の質は今迄よりも遙かに上昇するか

ら︑これに従属する経済財も︑ョリ高度な﹁人間財﹂でなければならなくなる︒わが国の国民生活審議会︵大原総一

郎会長︶は昭和四一年二月に二○年後の生活像を予想して︑各種の生活像を沢山に盛り上げているが︑そのうちで

/も︑二○年後に一人一個室の住宅︑高校進学率九○%︵現在七一・七%︶を予想している如きは︑控え目の数字であ

るが︑われわれとしては︑注目に値いするものと思っている︒

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(22)

P

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鐸″″

せ︑胃袋をインスタント食品で満たすようになる︒平均以下の欲求は︑平均以上の欲求と同じように︑大企業によっ

て爪弾きされ︑大衆は並みの欲求で︑平凡なアパート生活をつづけるべく余儀なくされる︒悪平等生活︒好ましくな

い平凡生活が︑大衆の生活イメージとして大衆に教え込まれる︒日本の学校給食の如きが︑三度もつづく日が︑来る

日も来る日もかと思うと︑切角の食事も不味くなる︒

これからの大企業の製品は確かに安くなるだろうが︑戦時中に統制物資から受けたような重圧感を︑変化の乏しい

商品から人々は受けるであろう︒大企業化社会が大手を振って発展すれば︑豊かさと共に芽生えて来た多極的・多元

的社会のイメージは︑前世紀の遺風として︑単純に葬り去られよう︒かくて統制的・一元的社会の出現で︑人々は何

か異常な事件の発生を求め︑生活の裏面に好奇の目をかがやかし︑社会全体を無気力さで蔽いつつむ︒人々の未来へ

の甘美な夢は︑空虚な現実で破られて︑刹那的肉体的興奮と感傷とで︑人々はその日を無事に暮すことが出来れば幸

せだと思い込む︒朝夕のラッシュ時に押し合い︑空ろな目で鈍く仕事をする社員従業員の集団!これはフィクショ

ンではなく︑既に日本の部分社会として成長している現実である︒わが国の高校以下の生徒児童園児の社会はこの部

分社会の一部でもある︒受験I入学I入社l栄進I部長l重役という無限の夢の重圧で︑幼児の時から︑彼等の生活

から個性は親の手で既に奪われ︑彼等は大企業の恰好な餌にされて了う︒心身障害者・精薄児C非行少年.:の増加

で︑大企業社会の恥部が︑大衆にさらけ出され︑人々はそのニュースを聞くたびに︑政治の貧困を歎く︒

真に幸せな大衆社会は個性志向の社会である︒既に述べたように︑企業の体質として個性志向の社会において適格

な企業は︑中以下の無数の企業である︒しかし中小企業は︑資本要素が中以下であるために︑大企業化社会では駆逐

される運命の下に今日では置かれているけれども︑個性化志向の多極的・多元的社会が︑強力に展開ざれ推進される

ならば︑中小企業は一挙にその頽勢を挽回しうるだろう︒そして却って︑資本の劣性の故に中小企業では物・人の二

要素がヨリ自由奔放にへヨリ自主個別的に︑活動しうるだろう︒

I

I

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一一、23−

このようになると大企業では素気なく扱われた個別生産が︑中小企業の手によって︑大衆のために充分な満足さを

もって遂行される︒中小企業の活動が︑このように活発になれば︑︑大企業に固有な領域が︑中小企業に固有な領域と

並んで栄え︑無理に歪曲したような経営を互いにやらずに済ますことが出来る・歪曲された労働や背伸びの労働や生

活から︑人々は解放されて︑自分自身の道を充分に楽しむ︒これが個性志向社会の姿である︒

こうなるためにも中小企業の使命は重大である︒中小企業が胸を張り︑又︑一般に働く人々が︑それぞれの職場で︑

働き甲斐を感ずるように︑リーダーシップはありたい︒このような社会をわれわれは切に志向している︒

人々は美しいものに憧れ︑:社会的に高い地位を欲しがり︑億の金に目が眩み︑スピードの魔性にとりつかれる︒⁝

消費という行為の底には︑何か無限への挑戦欲がある︒自分の力の限界を試めしてみたいという欲求が︑たとえ︑そ

れが外なる社会的なものであろうと︑内なる我の如きものであろうとも覇又︑漠然と雑然としておろうと︑或いは整

然たるものであろうとを問わず︑憧れの領域が日に日に拡がりつつあること︑並びに時々刻々に深まりつつあること

多極的・多元的開発が可能になるためには︑右の憧れの領域の拡充が絶対の要件となる︒今日に至るまで︑われわ

れは〃開発″という用語によって︑ひどく悩まされつづけた︒そして︑資本の拡大再生産をもって単純に開発と考え

て︑一にも開発︑二にも開発と︑人々は工場の新設や誘致に努め︑過剰生産の虜となって藻掻いている︒そして増産

による市場価格の低落で︑経営者は青息吐息の心境に追い込まれる︒

このような状況が今後もつづけば︑日本の新産業都市が行き詰まっているように︑社会全体が破局に陥いるであろ

う︒一○○億ドルを超える貿易の拡大が強行されなければ︑資本も技術も労働力も空回わりするだけで︑日本経済の に現代の特徴がある︒ 個性的需要開発の意味とその費用

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d,

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この開発を推進するためには︑生産力が高水準にあること︑並びに生産力が高い流動性をもつことが︑生産力の問

題としては不可欠である︒そして追加資本の調達が︑常に用意されていることが︑資本側の事情として更に要求され

る︒しかし中小企業がかかる諸要件を具備することは︑一般に困難であるので︑中小企業の固有領域を開発するため

の︑特別な費用を確保することが切に望まれる︒日本の中小企業の今日の貧困には︑色々な原因が数えられるが︑個

性開発の費用がへ税制の上で全く無視されで来たことも︑容易に軽視出来ない・

それでは中小企業の個性開発の費用の解釈は如何にあるべきか︒大企業化社会では〃生産費十利潤″以上に高い価

格を︑メーカーは要求できないのみならず︑その価格も過剰生産のために下落気味である︒このような情況において

は︑大メーカー以下の市場価格しか要求しえない中小企業の前途は︑極めて暗いといわねばならない︒のみならず大

企業は流通費用の節約をはかり︑市場の悪化に対処するので︑中小企業の立場は︑益々悪くなる一方である︒

かくして︑中小企業が生きる道・は︑個性化社会しかないことは︑既述の如くであるが︑価格面からこれを説明すれ 慶的な性質の競争だろうか︒ 奇跡の復興成長は︑一編の夢物語として忘れられる︒耐

開発が経済の成長をいつ迄も支えうるためには︑購買や消費を促す欲望の深層に在る憧れ︑或いはビジョンの︑絶

えざる拡充が絶対に必要である︒未知なもの︑新奇なもの︑楽しいもの︑心も体もゾクゾクするようなもの︑甘いも

の︑便利なもの⁝・・・このような無限なものへの思慕が︑財やサービスの開発の底になければならない︒

しかし開発は自分独りで秘やかに楽しむが如き性質のものではない︒外なるものへの追求と︑内なるものに対する

熱愛との︑激しい相互作用の賜物として︑開発が推進されねば開発の普遍化は起こらない︒憧れの領域の拡充は内外

共鳴の相互作用の結果である︒従って例えばマーケット・リサーチの如きも︑開発の真義を無視しては︑A社の製品

をB社の製品と取り替えるだけの意味しかもたなくなり︑社会的には殆んど無意味となる︒自由競争とはかかる内弁

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一一25−−

ぱ次のようになる︒個性化志向の豊かな社会においては︑社会は潜在的・深層心理的欲求を︑個別的に刺激されるこ

とを心から歓迎するし︑かかる商品に対しては︑特別な費用を寛大に払うことを一向に厭わないのみならず︑却って

これを自慢にさえする・このように個々人がその主観的評価によって︑並みの大企業商品よりも︑喜んで特別余分に

支払う上積み額が︑中小企業の開発費用である︑そしてこの上積みを含む生産費に︑利潤が加えられる︒上のように

社会が中小企業に対して︑大企業の画一商品に対してよりも︑ョリ多額の支払いを了承するわけは︑中小企業の製品

lこの典型的な商品は婦人向の呉服や貴金属類や宝石等1が︑人々の個別的欲求をヨリ良く満足させるからである︒

ここに個性化志向社会が中小企業に対して与える輝かしい光明がある︒

食うとか暖まるというような︑財の表面的な効用よりも︑ずっと奥深い個人的な憧れや欲求を満たしてくれる財に

対して︑人々はョリ多額の金を喜んで支払う︒このように個人の主観の差異による財の評価差異は︑個性化の進行と

共に︑益々拡大することに︑われわれは特に注意を払いたい︒デラックス化が益々顕著になることは︑社会に対する

自己の存在のョリ強い主張として解される︒

中小企業の存在理由は︑ここにあると共に︑高い経営費用をペイしうる理由もここにある︒しかしこの経営費用は

飽く迄も費用であって利潤ではないから︑これをも生計的に食い漬ぶすことは企業の自殺を意味する︒

一般に日本の中小企業の病気の原因は︑開発費用とそれに伴う利潤の求め方に留意せずに︑低価格という土俵の上

で︑大企業と無鉄砲に競争するところにある︒中小企業は無鉄砲に大企業と競争する積りで︑低賃金政策を強行したり

メーカー不明の粗悪品模造品の生産に狂奔するが︑所詮これは中小企業が自らの首を縛ぱる道である︒ゞ

自由主義基調の社会的拡大

大企業化社会は︑統制社会と同じく︑個性というわれわれの唯一の生命を奪い去る︒人間尊重は没個性的人間尊重

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− 2 7 −

I

これからの社会では︑高度の経済成長が︑大衆生活の自主軌道の確立を志向しなければならない︒この自主軌道に

おいては︑大企業と中以下の企業の活動領域が︑互いに独立し乍ら︑互いに影響し合うと予想されるが︑現状では不

幸にも大企業の単独領域に転化しそうである︒

企業活動が個別化することを︑今日の人々は生活のビジョンとしている︒自分だけは︑或いは自分の息子だけは︑

特別だという誇りを人々は強く抱いている︒だがこのことは︑大企業の画一製品の存在を頭から否定するものではな

く︑大企業の画一製品と中小企業の個別化製品との連立を望むことを意味し︑﹁人間の個別性﹂を追求する自由主義

の良さをここに見付ける︒人間の個別性から生産を検討する意味で︑経済と経営の基調として︑自由主義が社会的に

拡大されることを私は熱望してやまない︒

中小企業が大企業と異った役割と奉仕とを人々に対して果たすときに︑自由主義はその真価を発揮するのである︒

そうでなければ経済は社会に生活に奉仕すべきだ︑と政府がいかに規定しても︑現実の経済の動きは︑非奉仕の路線

を辿らざるをえない︒このように自由主義が確立するためには︑中小企業が自立し︑自らの採算をその固有な経済活

動によって確立する心構えを身につけなければ筬らない︒一人一個室の住宅︑一住宅一電話︑一家族二台の自動車と

カラーテレビ・⁝..ゞ

︲大企業化社会におけるマスプロ的利潤概念を︑中小企業の個別的生産に当て嵌めるところに︑社会の利潤認識の甘

さと厳しさとがある︒そして個別的生産における特別な生産費をも利潤と見倣して︑中小企業を儲けすぎると非難す

る︒利潤の計算から云えば︑紳士の既製服も婦人の特別誰の服も同じであり︑ウールお召も友禅も変わりがない︑と

いう国税当局や消費大衆の常識的な考え方は︑デザイナーや友禅作家からは︑大きな間違いだと非難されよう︒ 中小企業の利潤に対する社会の認識

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− 2 8 −

これに反して中小企業では資本規模が中小であるために︑資本よりも客と直結する物及び人の経営二要素の在り方

に︑あらゆる注意を払わざるをえなくなる︒昔からの商人道は︑物や人に対するかかる細心な管理によって築き上げ

られたものである︒中小企業が利潤を獲る道には権道はない︒繁栄の道は只管に客の生活に奉仕することであり︑生

活の個性化と利益とを尊重するところにある︒中小企業のかかる経営態度が社会の大衆認識に反映されたときに︑︾中

小企業はそれに相応しい利潤を適正利潤として確保しうるのである︒ 多極的・多元的リーダーシップは︑利潤の在り方が画一化されないことを証拠立てようとしている︒経営三要素の組合せが︑︐多様であり︑無限である︑ことの反映として利潤格差が生まれる︒特に中小企業では資本要素が比較的に劣勢であるために︑企業の繁栄は経営者の創意とリーダーシップ如何にかかるところが多くなる︒結果的には︑利潤の平準化は中小企業の世界では消えて︑利潤の格差が甚だしくなるか︑大企業に食われて没落して行くか︑のいずれ

大企業が利潤を挙げるためには︑物及び人の生産性を高めて︑資本の全効率を高めることを必要とする︒大企業の

眼中にあるのは資本の生産性であって︑資本の巨大さが経営者の目を眩惑させ︑経営者のリーダーシップを資本の力 大企業化の社会では︑利潤は産業や規模に拘らず平準化すると予想される︒この予想は︑大企業化社会は貧しさと

共に発展して来た︑という事実を前提としておって︑貧しさがいつ迄も社会に蔓延して絶無にならぬという認識があ

る︒この根本の認識が変わらぬ限り︑中小企業による個別化社会の出現は︑.まだまだ遠い未来の話である︒利潤の平

準化は大企業に有利で︑中小企業には不利である︒もし社会の大衆が利潤の平準化を強力に支持すれば︑彼等はその

代償としての生活の奴隷化を購うであろう︒大衆はいつ迄も満員の電車でエネルギーを消耗して︑定年を迎えること

かに落着く︒ になる︒

へ偏向させる︒

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籾︑一般論としての適正利潤は︑社内的には経営三要素の均衡から成立し︑社外的にはこの均衡が生活の安定向上

路線からズレていないことによって︑大衆からまず妥当として是認される︒この適正利潤観は︑資本の自律運動とし

ての非人間的・唯物的な極大化利潤観や最大化利潤観の効果を否定する︒儲けられるだけ儲けてやれ︑搾れるだけ搾一・ってやれという搾取的利潤観を︑適正利潤観は否定する︒例えば社会通念が適正と考えうる一○%というような利潤

率を基本に︑経営三要素を計画的に均衡させるのが︑適正利潤観による経営リーダーシップである︒これは搾取的利

潤感では到底みられないものである︒

機械設備を陳腐化するまで酷使してはならず︑最低生活線の低賃金を労働者に強要してはいけないし︑株主の過大

な配当要求に屈服できぬ︑という建前で︑経営三要素の均衡が成立し︑この均衡の上に適正利潤が成り立つ︒この場

合︑六%から一○%が適正利潤率として世人の黙諾をえ易い幅であるが︑適正利潤観は適正利潤率を超過する分の︑

経営三要素への社内還元︑/並びに価格引下げ等による社会への還元を含んでいるので︑これは極大化利潤観とは対立

する︒適正利潤観は上の意味での社会性を帯びているので︑国民経済にある総資本の適正配分︑資本の偏在是正に役する︒適正利潤や

立つ概念となる︒

ところで中小企業の適正利潤の在り方はどうか︒中小企業が生活と強力に結びつけば結びつくほど︑企業利潤に対

する人々の感情は好転し︑例えば一○%以上の利潤をも︑適正利潤と見倣して非難しなくなる︒このようになれば適

正利潤の平準化は弱くなって︑適正利潤帯におけるの上下間の格差は開いて来る︒

嘗っては利潤極大化思想が︑経営者を動機づけ︑勇猛たらしめたが︑今後では適正利潤という一定の幅の内におけ

る高率利潤への衝動が︑経営者を勇しく駆り立てる︒このことは適正利潤の平準化の困難な中小企業において特に顕

著となる︒いずれにせよ中小企業が生活における人間性尊重を経営第一義とする限り︑中小企業は大企業よりも有利

な適正利潤をうる筈である︒これをねたんで高率の税金によって利潤の平準化を国家の政策が狙うときには︑中小企

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業による国民生活向上の夢が︑無残にも踏みにじられて了う不幸が国民に訪れる︒

従って中小企業に対して︑大幅な利益控除を認めなければ︑経済へ奉仕する意欲が︑高い税金によって︑中小企業よ

り全く消え去るであろう︒なお︑かかる控除措置に関して︑大企業は協力を惜しむべきではなく︑むしろ自らが中小

企業の利益控除を発議するだけの雅量が望ましい︒中小企業が滅びては︑大企業も自滅するであろうからでもある︒

︵昭四二・一・五︶

参照

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