山村 の集落移動に蘭する地理学 的研究
一 奥 羽 山 脈 東 側 の場 合 一
平 井 君 硬
Ⅰ
は じめに経済高度成長 と人 口の都市集中のかげで山村 は若年層の流出,人口構成 の老齢化,・女性化 出稼 ぎの激増 とい った一連の過疎的現象が続いている。しかし山村は清澄 な郷域 と開発可能な 諸資源 をもち,今後国民生活や国土開発上極 めて重要な地位 を占めるものと考えられる。岩手 県胆沢町 と衣川札 それに和賀
郡
湯田町と沢内村 の奥羽山脈東側では以前 にはダム建設 による 集落移動が行なわれ, 山村振興法の適用 をうけてか らは集落再編成 による集落整備のための移 動 が計画 され一部では実施 されてい る。これ らの地域になぜ集落移動が行 なわれ るのれ 集落 移動の要因は何かを各地域 における実態調査 から分析 して考察 してみたい。Ⅱ
各詞査地域 の柵 と集蒋移動 の実藤1
胆沢町石淵地区の湯合石淵地区は胆沢扇状地の西部に位 し,山林 と原野が大部分 を占め耕地は蜂臥 相 星 筋 節 鼻筋 包まんのわずかしかないD蜂谷は古 くは平家 の落人伝説 をもつ隠田集落であり下嵐江 は旧秋田街道の宿場集落 であ った。この地域には
2
度の集落移動が行 なわれている。1
度 目は一 万3iJrA速攻 l・‑il令勧 rJSJ3‑メ ) ぷj +一一 叫
削
七も史汝 J・‑Fi強働 く′ガ‑J4!)/77北上川練合開発 の‑琴 として昭和
21
年に着工 されたダムによるも ので, このため下嵐江,谷子沢, 石潤野,尿前等の下流地域 の産業 振興のため水没の運命を負 うこと にな った。下嵐江は水没対象は16 戸 で,7戸は佐 々木,9戸は高橋の姓 であ り,家屋 の水没は
5
戸, 全耕地 を失な ったのは1
戸,一部 買収 は10
戸であ り,移転 先は「 国 1
」に示 した。移転年は23
‑28
年である。谷子沢は6
戸 の うち4戸は土地の高い場所 に上が り, 2戸は尿前に下 りた。これ ら2
戸は生活保護者 と失業者であ り,移転先は23
年 である。石淵野は3
戸のうち2
戸 さ埴 谷へ 1戸は尿前 に移転 した。尿前では1
戸が同部落内に移転 している。水没前 の生活状況 は,水田 平均40α
, 畑95α
で米, ヒエ,ア ワ,大豆 などの食糧 の自給体制 はできてお り,共有地で は山菜, きのこを作 り,各戸平均2
頭 の短角牛 を飼育 してお り,製炭業 も盛 んであ った。昔は 炭焼きの仕事 が専業 で,マタギや盛業 が副業にな って いた。水没補償 関係で犠 移転兵家2 6 戸 の うち水没 は13
戸,失 な った宅地 は13884m
9,耕地18 . 6ha
,山林 ・原 野52 . 8h
?で 教育親閲である′ト学校 も移転 しなければ ならなか った。水没農家26
戸に支払 われ た補償金 は, 土地買収,建物移転 その他 をあわせて228
万円であ る。昭和40
年では, ダム周辺又 は ダム 奥地 で生活する13
戸 は耕地 も少 なく食韓の自給す らできかねてお り,炭焼 きで年 間9
万 円,4 ‑ 11
月 は営林署 の伐採夫 として働 き,1
か月1 5 , 000‑ 25 , 000
円の収入 をえて比較 的安定しているとはい うものの12‑3月 までは失業保険 を受けている。生活苦や絶望か ら自 殺 する者 も出て きた。ダム周辺 をはなれて農業に従事 した者 は8
戸あるが集団入植 の計画 もな く各戸バラバ ラに移住 したため営農が安定 していない。移転後 の頚業 では営林署関係 が多 く, 家族数は平均1
戸に6
人で,厚生関係 をみる と生活扶助世帯6
戸,医療扶助2
戸,失業保 険鈴音 9
名 であ り生活は苦 しいものであ った。2
度 目の移勤は昭和42
年に山村振興法の適用 を受 けての集落整備 のための移動であり,町営住宅への移転 をさしてい る。昭和43
年 と44
年に それぞれ10
戸づっ計20戸 の住宅 が建設費3
千万円で建設 された。対象地域 は蜂谷,下嵐江 谷子沢 の全戸である。住宅‑の入居は夫婦単位 で43
年 と44
年 に (表1
)の通 り移転 してい (表1)
町営住宅入居世帯数 る。経 旨規模 をみると,蜂谷 では水田平均3 ・ 4
反,畑部 落
S43 S44
蜂 谷
3
世帯 7世帯3
谷子沢4
下嵐江
1
5 . 6
反 で,山林は平均1
町位である。採草地入会地 と して60町歩位 あり家畜 のえさや家屋 のかや などに利 用 され ている。世帯主 の職業 は,農業 や営林署作業員 が多 く,夏は営林署で 日雇 して,冬は失業深険で暮 し てい る。年間蕗収入は,一番多い人で74万円,少 な い人では1
人住いの鼻葉の5,4
万円で,平均‑戸 当 り36 , 3
万円で生活は楽ではない.住宅20
戸に払 昭和45
年 では68人入居 してお り,冬期 間 はここです ごし,雪 どけから又山に上 って元の家で生活 してい るが子供達は1
年中 ここです ごすほ うが多 く,婦人連は歩いて30‑40
分 のところにある元 の田畑 に通勤耕作 してい る。町営住宅‑ の移転 の理由には,経済変動 のた め製炭業では生計がたて られな くな ったこと, 児 童数 の減少 による学校経営 の困難それによる統合 問題がおきたこ と,尿前から4Kmの山の奥地 で の生活 は冬期間 3mにも及ぶ豪雪 のため外部 との交通 は遮断 され医療,教育, 日常生活あら ゆる面に支韓 をきたすなどがあげ られ る。 このよ うな生活基盤 のは っき りしてY、ない小集落は
現代社会 に対応 できな くなるのである。 この移動は町 の方針による半強制的なものであ った ら しいので住民 の意御 査 をしてみた。まずほ とん どの人が入居 を喜んでお り,良い点 として学 校 の通学に便利,医療韻関に不 自由 しない,文化生活が営 める,交通の虜 がよい,安心感 があ る等 をあげてい るが,その反面二重生活で金 がかかる, うるさい,住宅が
15
坪で狭い等 の不 満 もでてい る。将来 の生活設計では,畜産 の振奥 と焼石 を中心 とする威光開発 の促進による村 の新興 をのぞむ声が多 く,又将来 に対す る不安 としてIも 人口過疎や嫁キキン,村 の老齢化等 をあげてい る。 この地区は最近5
か年 の人 口をみてみると,215
人か ら156人 と減少 して いる。 これ はほとん どが中卒者 の村外就職に伴 な う人 口減少 であるが昔年層 の流出は大人達に 一抹の不安 を与 えているのである。2 衣川村 の藩合
衣川 は北上川 との合光点 よ り上流6Jhの地点 で分枝 し,南股川,北投川 とな り川沿いに平均
700m内外 の平坦地 をつ くり耕地 を形成 している。従 って地形 は上流部 に広 く下流部 にせ ま
く扇状地 をな し,南股川,北濃JIlとも数多 くの支流 を有 して, 地勢 は極めて複誰である。高山 はすべて西北に任 し,衣川 の水源 をなしてい る。洪水 の波害 は9
月 が最 も多 く,7‑8‑10
月がこれ に続 く。昭和22‑23
年 のカザ リン台風 によ り大紋害 をうけたため,北上川水系衣 川流域内 の耕地101650ha
の災害防止の目的で5か所 にダムが建設 され ることにな った。村内 では,
1・5・2
号ダムがすでに完成 し, あと3・4号ダムが残 っているだけである。衣 川における集落 夢動 はダム建設によるもので,1
回 目は1
号ダムによる増沢部落の移動 である。増沢は古 くは源氏 の落人で姓 はほとん ど佐 々木で平泉中尊寺 の秀衡塗 りの発生地である。 ダム 水没当時 は
51
戸 の うち漆器業 は8
戸 あ り,農業 が21戸,製炭業 が13
戸で農山村 の生活 で あ った。水没戸数は42戸 で外材‑ の移転‑の移転 は36戸, 内村‑は6戸で,移転 は昭和30 年 に行 なわれた。残存戸数は, 当時9
戸であ ったが,現在では6戸だけである。移転後 の職業 では産業が最 も多 く25戸 あ り,漆器業 はわずか3
戸だけである。農業 がふえたのは移転先が 扇状地 であるこ とが関係 している。2回 目は2号 ダム建設による移動 で,水没補償の対 象は43 戸 そのうち水没戸数 は11戸で,移転先 は (図2)に示 した。移転者 の頑業は商業 と農業が半
々で移轟前 と変わ っていない。家族執或は一戸平均5
人で,生活毎度 は水没者移転先詞書によ ると良好 である。3
号. 4号 ダムによる移転は,1‑2
戸 であるから移動 と呼べない。.ここで 脚光 をあぴてきたのは4号 ダムが建設 され る予定の大森地区で,以前は農業生産の拡大 がのぞ めず,下 の清原 もしくは外材‑の集団移住が計画されたこともあ ったが,昭和46
年 に運輸省 の青少年旅行村 の指 定 をうげ,宿舎やキ ャンプ碁 として今新 しく生 まれかわろうとしている。ここで間唐 になるのは,増沢 のダムの奥地 の人々で,根雪 が
1‑4
月 まであり, この期 間は若 干 の炭焼 きをするがほとん どは干葉や大阪方面に出稼 ぎしてい る。経営規模は微 々たるもので,田
7 .
8丁,畑2
丁5
反,大部分 は山林 地帯で私有林 ・共有林 が60
町歩,午 をも っている戸数 は3
戸で頭数 は6
頚 である。昭和23
年には小 中学生 が150
人 もいた杭 現在は小学生3
人, 中学生4
人 とわずかである。学校 は北 濃 にあ り,1‑2
時間かか る。■診療所 は村 の中心 の音戸にあ り冬期 は大変 に 不便 である。住民の大部分 i榊 の嶺極 的 な働 きによる集団移転 をのぞんでい るが,村 の方針 ではそこまでい ってい ない。3 沢 内村 の場合
沢 内村 は周囲 が腹峻な山地 にかこま れ た盆地 で, 中央部 を南 に流れ る和賀) 川沿いに大小 の集落が散在 し,慮面積 の うち8170が山林 で占められている。昭和
40
年 の国勢調査 で8 . 6
70,45
年 には10
70
と 急激 な過疎化‑速度 を早 めている。 この村では人 口の流出 をふせ ぎ山間の豪雪地帯 の改善 と し て新 しい集落再編成の事業 が国の経済企画庁 の指 定の下 に行 なわれてい る。沢内村 の長瀬野地図も 県道か ら4‑6Knも山間部 にあ り,冬季 の
4
か月余は積雪3m
の豪雪によ って交通が杜 絶する極 めて辺地性 の高 い散居集落である。招和40
年 の人口は475
人で35年 に比べ ると4 . 5
70減少 し, その後 も人 口流出がっづ き44
年には447人 までに減少 してい る。世帯数 も40
年の85戸か ら41年には1戸 が離村 し, さらに,3
戸が村内移転 し,現在81
戸である。就業人口の
78 . 3
70が斯 業 に従事 し, その うち農業専従者は132
人 で中高令者が多い。義 家67
戸,非農家14戸で1
戸当 り耕地面積 は148haと少 ない。土地利用 は,水田99ha, 草地76
加, 山林254ha
等である。住居は1000
tnnの宅地 に約180
㌦の木造家屋がほ と ん どであ I)大半 は古 く新改東期 をむかえている。今まで豪雪 ない し生活便益の低 さを理 由とす る拳家離村移 住は数件讃生 し,所期 学卒者 も男子後継 ぎを残 してほとん ど碓村 してい る。 この ため生産及 び生活 の基盤 としての集落 を泉沢地区に移転 し新集落を形成 し,生産 と生活 の分離 をめざす ことにな った のである。新兵蕗 は八年確東部 に約11
万m2の用地 を所得達成 し, この 用 地に約70
戸の住宅が建て られている。宅地 は1
戸平均670m
Zで新集落‑ の蕗転は (表2)
のよ うに45
年度 か ら2
度膳にわ けて行 な うもので,順序 は交通条件のも っともわ るい両沢地(表
2)新集落‑の移転計画 (沢内村 )
地 区 】掩戸数(司 移 転 計 画 摘 要
第
1
次 第2
次S45 S46
計S48 S49
計長瀬野
47 ‑ 28 28 6 6 12
離村希望7
申 沢34 ‑ 7 : I 7 12 ll 23 ‑
〝4
合 計81 ‑l 35 35 18 17 35
〟ll
(単位戸 )
区および公営住宅入居者,住宅連番 靭来者,移転緊要度の高い順序 にお こなわれ る。現在は
3 5 .
戸 が入居 している。4
湯 田町の場合湯田町は海抜
200
m以上 の高地にあ り周囲 を山で とりか こまれて,総画帯 304.69
Ⅱ㌔の うち86
70は海抜300
m以上の山岳地帯である。急峻な山あいに大小37の集 落 が分散 し,
その分散度 は8 . 2虚に1
集落 と極めて高い。集落の型態 も散居で,1
集落平均52
戸である。なかで も基礎集落圏 の圏外 に集落があ り,今後 のあ り方 が問題にな ってい る。北上川 の支流和 賀川 が沢内村 の和賀岳に源 を発 し,町の中央部 を流れ て,川尻地区で直角状 に東 におれ,北上
川
に合流 している。湯田町における1回 日の集落移動 は昭和24
年に北上川総合開発 の一環 として和賀川 に建 られたダム建設によるものであ り, ダムによ って水没する住家は,
622
世帯 で農地124‑
払3200
人におよぷ集団移転や道賂 鉄道 の付観 発電所 あるいは鉱業権 の 祷併 とその範囲,規模 は極 めて大きなものであ った。補償問題 も32年に妥結 して住民は移動 を滞始 した。個人補償 の絶顔は13
億円 といわれ1
世帯 あた り230万円である。水没者 の村 外移転 は287世帯で県内ではほ とん どの地 域に,県外 でも北は北海道か ら南は静岡 まで広範 囲 にわた ってお り,県内‑ 214世帯,県外‑は61
世帯移転 してい る。水没563
世帯 のう ち農業 は62世帯 (11
70)にす ぎないがほとんど5反内外 の零細農家で林業 ・日雇 などの賃 金収入で生活 を支 えている。移転後 は24世帯 に減少 し,38
世帯 は廃業又 は転職 した。2
回 目の移動 は新 しい過疎対黄 としての集落整備によるもので,これ は国や県の補助 によ.'T緯事業 費1
億4
千万円ですすめられている。経済企画庁 が沢内村 で実施中の集落再編成モデル事業に 次 いで2番 目のもので, (図3)のよ うに,長栓,大水上両地区25
戸,128
人 を湯之沢地 区に移転 させる計画である。長軌 大水上地区は冬季は3mの頑雪 があ り,交通は全 く杜絶す
るため小学校4
年以上は湯本 に下宿 して通学 している. 平均耕作面積 はL4baで米 を主作 目と しているが収量は10a当 り350晦内外 であ るため,農家 の大部分は国有林労倫者 と土建業
の日雇 として従事 し,農業 に対す る依存度は低 く,10
戸中9戸である。又畜産 も1‑2頭の 肉牛 の飼育 で零細規模 である。医療機関,′ト中学硬‑は4‑6血もはなれてお り,月常生活物資 も
4‑6
Knはなれた湯本温泉 で 買わ なければならない等 の理由で 湯 之沢 に集落 が移転 することにな っったので ある。現湯之沢
19
戸9 4
人 に移転者 を加 えて44
戸222
人 の新陽之沢集落 ができる。皿
集落移動の要顔 と意義 これ らの地域 叩集落移動 は,直 凄的にはダム建設や集落再編成 に よ って行 なわれ るものであるが, 内部的には数 々の要因 を含 んでい る。 これ らの地域はともに豪雪山 村 で冬期 間は讃雪による交通杜絶 の状旗にあ り,経営規模 も小 さく 零細 であるoそのため若年層 の人 ロ流出 は相次ぎ過疎が著 しく進展 され る。 この地域 での生活 の向上 は望めず移毎するよりほかに方策 はないのである. ダムによる移劫の湯合 は必ず しも生活向上 がなされたわけではなく今後 のダム建設上考 えてゆかなければならない問題 である。一方集 落 再編成 による移動 の場合は基本的 には住民 の生活 向上 をはか ることが目的 であるか ら過疎 的現 象が深刻にな っている地域では山村振輿 をはかるこ とか らも必要 であ り今後益々行 なわれ るものと思 われ る。
Ⅴ む す び
今後にお ける全面的な都市化‑ の進展に対応 し,山村 では従来の狭域的かつ孤立的 な地或社 会か ら, よ り広域的かつ連 帯的 な開かれた社会‑の発展 を目増す必要 があ り, このためには都 市 と全集落が人的にも物的に も有機的 に連結 され,最末端 の基謹東 蕗において も常 に密度 の高 い情報 と物的施 設 が確保 され なけれ ば ならない。そ して山村 における人 口減少や地域住民 の生 活 水準 の向上 と生活欲求 の多盲動ヒに対応す るためには,中核都市 を中心 とす る広戒的かつ重層 的 な生活圏体系 を設定 し,交通と過言網 と公共的施設の違備 によ って地威 住民 がつねに都会的サ ービス を享受 しえる生活環境 を実現す る必要 がある。そのためには辺び な山間集落では集落再 編成 による集落移動 も必要 にな って くるD都市では過密 の解書を生 じる山村 では人 口の流出 と 通性的貧困 の岳痛頭 の中にあるとい う現状か らみれば, これ らの問題 を解決するには国家 の財
政投資による積極的 な山村 の振興が図 られ なければな らない と考 えられ る。
i i i
i:
1
山村振興調査会(1965) 2
山村振興調査会(1964) 3
胆 沢 町(1963) 4
湯 田 町 (1962)5
衣 川 村(1970) 6
沢 内 村(1970)
参 考 文 献 日本 の山村問題
豪雪 山村 のす がた と進路 石淵 ダムにおける水没補償の実態 湯 田ダム建設 と水没対策 に関す る報告書 衣川防災 ダム全体実施設計書
集 落再編成 計画 一新 しい農村 コミ ュニテ ィ‑の接 近 ‑