特集中国社会の矛盾と展望│││││││││││││││││││││││││││││││││││││││││
発展 ・ 苦悩 ・ 展望
世界第二位の経済大国に躍進した中国は︑利益の多元化が進み︑格差が急速に拡大した︒ その結果︑さまざまな社会矛盾が深刻化し︑大きな社会不安が引き起こされた︒ 中国の社会学界を代表する研究者がその矛盾と問題の根源を考察し︑習近平政権の対応や中国社会の行方について深く語り合う︒
李 路路
︿中国人民大学教授﹀×張 静
︿北京大学教授﹀×馮 仕政
︿中国人民大学教授﹀×李 暁東
︿島根県立大学教授﹀司会唐燕霞︿愛知大学現代中国学部教授﹀ 唐 今回の特集のテーマは「中国社会の矛盾と展望」です︒いったいどのように中国を理解すべきなのかという点について︑日本では中国脅威論︑そして中国崩壊論という正反対の二つの論調が存在しています︒その一方で多くの日本人は︑現在の中国は理解しがたいと感じており︑さっぱり見当がつかないといった状況なのです︒本日お集まりいただいた先生方は︑皆さん中国社会について研究なさっている社会学の専門家でいらっしゃいますので︑それぞれご自身の研究の視 点から現在の中国社会について議論していただき︑日本人の中国理解を様々な角度から促進していただければと思います︒改革開放から三十数年来︑中国は飛躍的な経済発展を遂げ︑人々の生活水準は大幅に向上し︑様々な領域で非常に大きな発展を遂げたと言ってよいでしょう︒しかし︑急速な経済発展とともに多くの社会問題も生じ︑階層の多元化に伴って利益の多元化が進み︑貧富の格差が拡大し︑社会的矛盾がますます顕著になっています︒現在︑中国社会の矛盾は 例えば教育︑医療︑社会保障︑就業や労使紛争︑群衆衝突事件︑集団陳情などといった民生の面に集中しています︒そこで先生方には︑それぞれご関心のある視点から︑現在の中国社会には主にどのような矛盾があるのか︑それらの問題の根源はどこにあるのか︑そうした問題や矛盾をどう解決すべきなのか︑中国社会はいったいどこへ向かっているのか︑今後の中国社会にはどのような展望があるのか︑といったことをお話しいただければと思います︒
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 馮 仕政[Feng Shizheng]
馮先生は社会運動の研究がご専門ですから︑まず馮先生に社会運動という視点から︑現在の中国に起こっている群衆衝突事件あるいは集団陳情の問題についてのご見解をお話しいただきましょう︒現在の中国の群衆衝突事件や集団陳情の問題をどう見るべきでしょうか︒どのような問題が存在しているのでしょうか︒
大衆路線と法治の矛盾││││││●
馮 では︑まず集団陳情の問題から話しましょう︒
集団陳情は︑確かに重大な社会問題の一つです︒しかしその根源は︑中国共産党が実施している大衆路線の必然的産物という点にあるのです︒つまり︑大衆路線と法治という路線は内在的な矛盾と衝突を抱えるものだと私は考えています︒中国共産党によれば︑大衆路線には二つの基本的な側面があり︑その一つは大衆の教育と指導︑もう一つは大衆への配慮と同情です︒この二つめの側面から見れば︑たとえ大衆が落後しその要求が道理に合わない場合であっても︑共産党は大 衆に同情しそれを許さなければならず︑真心をもって大衆に応じなければならないことになります︒最近流行の言い方をすれば︑大衆の「感情に寄り添う」ことが必須となるのです︒このことだけを見ても︑法治との衝突が存在しています︒なぜなら法治の最も基本的な条項は︑誰に対しても差別なく接し︑規則と手続きに沿って処理することが必要であり︑そこには同情や配慮といった問題は存在せ ず︑真心をもって「感情に寄り添う」といった問題も存在しないはずだからです︒こうしたことから︑中国で起こっている面白い政治現象にお気づきになるかもしれません︒つまり︑大衆路線を目指すとその一方で法治が犠牲になり︑法治を目指すとその一方で大衆路線を放棄しなければならないといった現象です︒ 現在︑国家のイデオロギーに関する語りのなかでは︑大衆路線と法治路線はともに肯定されています︒政治の面から言えば︑大衆路線は中国共産党にとって最も根本的な政治路線であり組織維持の路線でもあるため︑党と国家にとって必須のものであり︑まさに国家の基盤です︒しかし別の面では︑改革開放が実施された現在︑党や国家も国内政治や国際政治の趨勢に順応して法治を前面に押し出し︑法治を基本的な国家統治の方針にまで高めようとしています︒ところが︑かつて相当長い期間にわたって「法治」の理念は︑党の指導にとって脅威となり︑それを消滅させるものとして疑いの目を向けられていたのです︒イデオロギーに
関する語りのなかで双方の路線が両立していたとしても︑双方の路線に内在する矛盾は政治的実践に大きな困難をもたらします︒私は以前︑陳情処理にあたる政府幹部の研修クラスで講義をしたことがあります︒その講義のなかで参加者たちが最も関心を寄せたのがこの問題でした︒参加者たちが言うには︑今の大衆は自分たちの要求が理に適っていようがいまいが︑合法であろうがなかろうが︑とにかく陳情にやって来るとのことです︒一部の大衆は︑確かに法もわからず理もなく︑役人が道理や法に沿って対処しようがしまいが自分の要求が達成されるまでしつこくやって来るといい︑なかには社会の安定を維持しなければならないという政府の立場を利用して︑故意に「陳情問題」をつくってやって来て︑政府を脅迫しようとする者もいるそうです︒多くの事例が法にも理にも適っていないにもかかわらず︑大衆路線を宣言している以上はそれらに同情して許し︑真心をもって対応し︑陳情者を追い返したりもできず︑忍耐力をもってこみ上げる怒り を抑えなければならない︒こうした状況が︑陳情業務にかかわる者たちを大変に苦しめているのです︒ 陳情制度の改革を提起する者もおります︒陳情対応部署を撤廃して社会の矛盾と紛争の解決機能を司法システムに合併するというのが︑一つの案として出されています︒先ほどお話しした陳情処理にあたる政府幹部の研修クラスで︑ある研修生がこの案の是非について私に問いました︒私は︑発想は素晴らしいが実際には無理だろうと答えました︒というのも︑現在大衆路線が動揺しているなかで︑司法システム自体がその機能を保持できなくなってきているからです︒中国ではこれまでずっと司法改革が実施されてきていますが︑その改革の路線や主旨が一貫しないのです︒肖揚が最高人民法院の院長であった期間︑彼による司法改革は法治主義と専門主義の路線を行くものであり︑例えば司法解釈の役割強化︑健全な司法試験の確立︑法廷審問モデルの改革など多くの制度が成立しました︒しかし︑王勝俊が最高人民法院の院長と なってからは︑司法改革は大衆路線を採るようになりました︒なかでも私が特に注目すべきだと考えるのは︑以下のような点です︒第一に︑「能動的な司法」の強調︑つまり裁判官が座って告訴を待ち︑その後法廷で審理するというのではなく︑積極的に大衆のなかに入って行き︑農村の現場に分け入り︑「大衆の感情を理解し」「大衆の恨みを取り除く」という点︒第二に︑「判決による真の問題解決」を強調した点︒この重点は「真の問題解決」というところにあります︒現代の司法は手続きを特に重視するため︑その重点は「判決」におかれます︒通常は二審終審制であり︑二審の判決が出ればそれに納得しようがしまいが基本的にはどうにもなりません︒しかし︑ひとたび「真の問題解決」を目標に据えれば︑手続きを超えたところで結果を追求しなければなりません︒第三に︑「調停優先」の強調︑調停率を裁判官や法院の評価基準とした点︒調停には︑これといった手続化された規則があるわけではないので︑一般的には裁判官の説得力に
依存することになります︒肖揚が院長であった時期には︑調停はこのようには取り扱われていませんでした︒当時の原則は︑「調停できるものは調停し︑判決を下すべきものは判決を下す」︑言い換えれば︑当事者が調停を望まない︑あるいは調停が不成立であった場合には直接法的手続きに入り︑調停が再考されることはないというものでした︒けれども︑「調停優先」が言われるようになって事態はすっかり変わってしまいました︒このような司法改革路線は︑実際大衆路線の精神を踏襲したものであり︑特に大衆への愛情や同情そして許しを強調したものでした︒しかし︑こうした発想自体は素晴らしいのですが︑それを実践する段となると司法の手続きに衝撃をもたらすことになります︒というのも現在︑末端の法院には不満がたまっており本来の法廷での審理だけでも手が回らないほどで︑そのうえ「能動的な司法」「判決による真の問題解決」「調停優先」というのでは︑法院までもが陳情対応部署となってしまうからです︒今の多くの学者 はただ法治の学術理論や理想から「陳情制度の司法化」を提起しており︑大衆路線がもたらした衝撃の下で司法制度が「陳情化」しそうになっていることに気がついていないということです︒司法制度自体が危うい状況のなかで陳情制度に関連する役割を司法システムに組み込むことは︑司法の強化をもたらさないばかりでなく司法を弱体化させてしまい︑法治の強化をもたらさずに法治の弱体化をもたらすのです︒もしも大衆路線と法治路線がその理念や論理のうえで内在的な矛盾を抱えていることに気づかず︑組織と制度という視点からのみ机上の理論を展開するのであれば︑どんなに努力をしても見当違いの徒労に終わるでしょう︒張 矛盾が普遍的に存在することの根本的原因は︑社会的行為の基礎となる共有の原則が成立していないからです︒一つの例を挙げてみましょう︒私が指導する修士課程の学生の一人がちょうど卒業したばかりなのですが︑彼女の修士論文は民事調停に関するもので︑法院における離婚調停の根拠となっている基本原則と は何か︑判決および調停の根拠となる原則に区別はあるのかを研究したものでした︒二十数例の離婚案件を分析した結果︑彼女は大部分の離婚案件が調停の過程を経ていたことを発見しました︒そして面白いことに︑裁判に持ち込まれた案件の結果はすべて離婚という判決になり︑調停に持ち込まれた案件の結果はすべて和解となり︑まったく離婚にはならなかったのです︒これに加えて︑末端の法院においては判決と調停の基本原則に大きな違いがありました︒判決においては婚姻法の条文を根拠としており︑一方調停においては判決では使用されない多くの原則も根拠としていたのです︒それらは例えば︑裁判官が一つの家庭が離散すれば不安定をもたらすだろうと考え社会的安定の原則を持ち出したり︑子供が片親となったら面目が立たないだろうと諭して社会的名誉の原則を持ち出したり︑親が離婚したら子供が独立するまでの教育をどうするのだと言って未成年の教育に関する原則を持ち出したり︑あるいは離婚させずに和解させることが法院
張 静[Zhang Jing] ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
の政治的評価になるという原則であったり︑さらには望まない離婚を強いられた当事者が裁判官に復讐するといった可能性を防ぐために裁判官の安全という原則を持ち出したりといったもので︑調停では通常離婚はさせなかったのです︒
これらの案件から︑たとえ法院のシステムにあっても確実かつ明白な善悪の境界線が存在するわけではないことが見てとれます︒調停の目標は結果を得ること︑つまり家庭の仲を取り持つことにあり︑行為の是非を明らかにすることではありません︒相矛盾する原則が遍在しているにもかかわらず︑それを認識しておりません︒このことは︑私たちの社会において︑何らかの目標を追求するために是非の基準を犠牲にすることが正常なものであることを示しています︒例えば︑私は今朝も矛盾する原則を目にしました︒今︑大衆路線の教育が推進されており︑大衆に寄り添わなければならない︑大衆の要求や考えを真面目に聞かなければならない︑自身の業務への取り組みを改善しなければならないと言われていま すが︑今日のある新聞の社説では︑イデオロギーの領域では敵に向けた剣先を光らせ︑決して譲歩してはならないと書いてあったのです︒いったいどうしろというのでしょう︒大衆に従うのか︑それとも譲歩しないのか︒こうしたあらゆる原則が互いに衝突するという事態は︑今日では常態化しています︒原則が成立しないのであれば︑行為規範も成立し難くなります︒こうした点が︑社会秩序をめぐ る根本的な問題の在り処ではないかと思っています︒李暁東 今お二人の先生がお話になった内容は︑一つの核心的な問題に関係してくると思います︒大衆路線は党の方針であり︑法治は国家の政治的統治の形態にかかわる問題です︒両者に存在する矛盾は体制に内在する構造的な矛盾︑根本的な問題ということができるでしょう︒実際に︑この問題は今日だけの問題というわけではなく︑歴史にも似通った矛盾の構造を見ることができます︒古代においては︑しばしば裁判を行う場に額が掛かっており︑額には「天理︑国法︑人情」という言葉が書かれ︑国法と人情は同じように判決の基準となっておりました︒同時に︑人情はむろん時代の道徳基準を反映したものでした︒中国の伝統的な法制は︑法治を重視する法家と徳治を重視する儒家が結びついたものであったと言うことができます︒それを踏まえれば︑先ほど話題にのぼった陳情や調停はともに人情に訴えた面であるともいえ︑言い換えれば︑大衆路線とは大衆に近づくこ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 李 暁東[Li Xiaodong]
とであり︑大衆の感情や考え方に関心を向けることこそが人情なのです︒そうであれば︑社会秩序の維持には規則が必要であり︑法は平等に守らねばなりません︒人情だからといって優遇を求め︑例外を作るのは︑矛盾を生み出します︒現代の法治から見れば︑法が情けをかけることはありません︒法の尊厳や権威を維持するために︑非理性的︑非合理的な面を排除する必要があるのです︒しかし︑ここ数年︑社区で調査をする中で︑私は調停が民衆の生活の中でやはり多くの問題を解決していることに気付きました︒隣近所や夫婦の問題は︑時に誰が正しくて誰が間違っているか判断できない場合があります︒調停はジョン・スチュアート・ミルが『自由論』の中で批判したような社会が個人の自由に対して抑圧することを招く恐れを備えている一方︑民主主義の根本的な原則︑つまり対話を表す面ももっているようだということを調査の中で感じました︒というのも︑調停は対話のための機会と空間を生み出すものであるからです︒ しかしながら︑話を戻せば︑私もやはり中国社会の問題として人情に重きを置きすぎ︑法治の意識が希薄であるということを感じるので︑全体から言えば︑法治の強化は必然的な流れではあるが根本的な問題は人々の意識を変化させることにある︑というお二方の考え方に同意いたします︒ただし︑これを解決するには長い時間が必要になるでしょう︒その過程において︑例えば陳情制度についてい えば︑これを司法制度自体に組み込めば互いに矛盾が生じるでしょう︒それでもやはり陳情制度を残すべきでしょうか︒またもし残すのならば︑陳情制度はどんな結果を生むのでしょうか︒馮 多くの場合︑陳情制度は問題を解決すると同時に更なる問題を作り出すように感じます︒陳情行為の一番の目標はできるだけ早く矛盾を解消することにあり︑解決のプロセスが法治にかなっているかどうか︑解決の結果が正義や公平にかなっているかどうかは︑二の次です︒国家からしてみれば︑現在の政治にとっての大きな圧力は︑社会の安定を維持しなければならないということですから︑どのような方法を用いようが︑早急に矛盾を解消することが最も重要となります︒このようなある種の圧力の中では︑多くの場合︑陳情行為も公平だとか︑正義だとか︑法治だとか考えていられなくなります︒だから︑陳情問題やその他の社会矛盾を解決する中で︑頻繁にいい加減な現象が起こります︒中国語で言うところの「愛哭的孩子有奶吃」︵泣く子に
乳を与える︶︑「小鬧小解決︐大鬧大解決」︵騒ぎの大きさによって解決方法を変える︶なのです︒合法かどうか︑合理的かどうかにかかわらず︑ともかくも騒ぎ︑その騒ぎが大きくなればなるほど︑社会の安定に対する脅威は大きくなり︑得られる解決方法もより良いものとなるのです︒今はインターネットもあり︑事が起これば簡単に人の目をひきつけることができます︒一人が無理やり陳情をし︑結果的に特別扱いを受ければ︑たちどころに広まってそれが手本となり︑絶対に引くな︑絶対に妥協するな︑恐れず騒げば︑さらに良いものが待っている︑ということを人々に知らしめるでしょう︒最大の利益を得るために︑皆がこのようなある種の瀬戸際作戦を取り︑政府のデッドラインを探り続けているのです︒この試みにおいては︑「偶発的な武力騒動が起こること」も避けられず︑双方ともに見たくもなかった結果に到ることもあります︒私はネット上である事件を見かけました︒ある農民が家を建てるために農地を占有したのですが許可を得 ておらず︑非合法でした︒過去何年にもわたり︑政府は何度も強引に取り壊そうとしたのですが︑騒ぎが大きくなりすぎて︑取り壊しに到りませんでした︒その後︑政府はついに取り壊しを決意しました︒取り壊す際︑取り壊しにあう農民の義弟が現場に居合わせ︑義弟は片手にガソリンタンク︑片手にライターを持ちながら︑そこに勇ましく立ち︑無理やり取り壊すなら焼身自殺をする︑と脅したのです︒この義弟は本当に焼身自殺をしたかったわけではないのですが︑不注意で本当にガソリンに火をつけてしまい︑自分を燃やしてしまいました︒そして︑メディアの報道によって︑最終的には大きな群集事件にまで騒動が広がりました︒このような事件は自らにより大きな政治的圧力と社会的圧力をもたらすことになりますから︑当事者は想像もしておらず︑政府も明らかに望んでいませんでした︒しかしそれにもかかわらず︑結果的に発生してしまったのです︒はっきりした規則や秩序がないため︑規則や秩序に則らずに事を進め︑皆がそこで「騒ぎ」 と「探り」を入れた結果であるといえます︒このような予想外の事件が発生すると︑これが広まりいっそう大きな社会的矛盾を作り出します︒李路路 ではなぜ今これほどまでに調停が強調されるのですか︒馮 「判決による真の問題解決」を求めるからでしょう︒社会矛盾と衝突がひどければ︑法律の手続きはより煩雑になり︑時間もかかる上︑どのような結論が出るのかもわからない︒時間のかかる解決策では急場はしのげません︒国家は最初こそ力を入れますが︑結果だけを見て手順は重んじないという状況が生まれます︒李暁東 だからひたすら「安定の維持」が強調され︑安定を維持した結果︑真剣に考えなければならない矛盾が覆い隠されるのです︒公と私の問題││││││││││●
張 矛盾を覆い隠すことによって︑社会の危機的状況はよりいっそう見えないものとなります︒この原因を探ってみると︑政治における合法性の確保と社会に
おける法治に基づく管理の問題が同列に論じられることにあると考えられます︒二つの問題が混同して処理されると︑社会問題の政治化は避けられなくなり︑社会の管理において道徳的な意味での重荷が生じます︒つねに政治的な結果を考えなければならないために︑厳格な法治を実行しようにもできないからです︒法治社会においては︑この二つの問題は異なる構造に分け︑違う仕組みを用いてそれぞれ解決を図ります︒政治的な合法性を投票や代表制で解決すれば︑政治的な合法性は堅固なものとなり︑社会の管理をうやむやにして解決する必要はありません︒それぞれに分かれた構造の下では︑社会の管理は法治を経由して実行されますが︑法治の厳格化は政治の合法性にとって負担となるものではなく︑むしろ政治の合法性に有利にはたらきます︒このような解決方法においては︑政治の合法性と社会の管理は互いを促進するものであり︑相互の利益を損ねるような関係ではありません︒しかしながら︑中国ではこの二つの領域が混同され︑互いに break downさせる関係が作り出されています︒政治の合法性という課題は︑政治の仕組みを通してでは解決できないため︑社会の領域における処理にゆだねられることになります︒当然基準はあいまいです︒もし制度化されたルートをもつ政治体制が政治的に正当な問題を解決するならば︑真の代表制によって政治的合法性はしっかりと確立されていき︑厳格な法治や社会管理という面において政治の合法性の問題を心配する必要がなくなります︒ 今日の大半の社会問題は︑構造の未分化に関係があると言ってもいいでしょう︒この問題の重要性を認識していないため︑合法性を強化しようとしたとき︑必然的に法治や社会管理がおろそかになるという結果を招きます︒とても簡単なことです︒例えば二件の立ち退き世帯があり︑あなたは立ち退きを管理する者であるとしましょう︒そのうちの一人はとても従順で︑あなたは基準どおりに彼に立ち退き費用を支払います︒もう一人は立ち退きを拒否しており︑彼を抵抗させ ないために︑あなたはこっそり彼に多く支払います︒表面的には二人とも管理者に服従しており︑あなたの管理者としての立場は脅かされていませんが︑さらなる矛盾が生み出されています︒つまり︑規則が一様ではないため︑前者の立ち退き世帯は立ち退きに同意するのを止めます︒規則が確立できず︑原則が成立しなければ︑そこからくみ取れる意味は︑手段を選ばず目標を達成することは特に問題がないというものになります︒だからこそ私はこれが全面的な危機であると述べるのです︒ 最近経験したある事柄がこの問題を上手く説明してくれるでしょう︒北京大学の中国社会の授業で︑私は学生に中央テレビの『焦点訪談』という番組を見せました︒番組の内容は︑湖南省の末端で起こった問題についてでした︒この地域には新たに建設された開発区があり︑一五名の公務員が募集されました︒公募の知らせは多くの若者の目に留まり試験が行われました︒試験結果が発表された後︑成績によって就職希望者の面接が予定さ
れたのですが︑面接後︑成績のよかった就職希望者は採用されず︑採用者のうち一三名が現地の役人の親戚や子供でした︒記者の調査で発覚したのですが︑面接は現地の役人によって行われ︑彼らは互いに協力して情報を交換して︑自分の子供や親戚を残し︑最終的には優秀な成績だった者が淘汰されることとなったのです︒番組終了後︑私はすぐさま授業中にアンケートを取りました︒このようなやり方を受け入れられないと思うか︑それとも理解できるあるいは受け入れられると思うか︑という設問でした︒驚いたのは︑約一二〇人のクラスで︑三分の二の学生は受け入れられると答えたのです︒私は授業中に討論の時間を設け︑双方に自分が支持する理由を述べさせました︒すると︑ある学生が立ち上がり言ったのです︒保護者は皆自分の子供を愛しており︑愛とは人間の持つ正常な感覚で︑これは中国人の素晴らしい伝統でもあるのに︑保護者が子供を愛する気持ちを抑制せよというのかと言うのです︒明らかに︑多くの学生は私的活動と公的活 動との役割の違いを区別できておらず︑二つを同列に論じることが当たり前となっています︒ 私的活動と公的活動の役割が分かれていないということは︑必然的に公的道徳と私的道徳との区別もないということです︒社会学者として我々は公務員の行為や公的道徳の問題についていっそう注意を払うべきでしょう︒なぜなら公的道徳は大多数の人々の利益と関係があり︑公的道徳が担う責任は私的道徳とは異なるからです︒例えば︑行政官の買春は︑一般の人の買春行為とは性質が異なります︒というのも︑行為の規範が異なるため︑その行為が代表するものも違うからです︒一般の人は自分に奉仕し︑自らのみを代表しますが︑役人は公衆に奉仕し︑公共の組織を代表しており︑その行為規範も自ずと異なります︒これらの問題を混同すれば︑社会の規則を打ち立てるのにミスリードを引き起こします︒規則がなければ制約を受けなくてもよいので︑自ずと権力者に有利にはたらきます︒規則による管理がなければ︑国家の 近代化に向けた体制転換をどうやって支えればいいのでしょうか︒ 規則を軽んじるのは我々の歴史とも関係しています︒行動に決まりがなく︑つねに指示を仰ぐというのは︑社会を管理するのに広く行われてきた方法です︒過去の管理構造は分割請負で︑郷村では行政村が村を単位︵所属先︶として管理し︑都市では一人ひとりが自分の勤務先を持っているので︑勤務先が単位として従業員すべての管理責任を負っていました︒このような体制においては︑政府の役割は指揮をとることだけで︑具体的に言えば︑指示を出すこと︑命令を下し文書を出し予算をつけることですが︑そのような行為の対象は単位に対してであって一般大衆一人ひとりに対して直接というわけではありません︒言い換えれば︑政府の仕事は単位からの指示請求と伝達を受けることで︑政府が管理しているのは単位であって一般大衆ではないため︑当然一般大衆に応える責務体制も整備されません︒このような単位︑かつ固定化された対象に対して行われてきた管理体
制は︑今日の現実社会にまったく適応できていません︒様々な社会的流動性によって︑先に述べたような従来の管轄区域から人が溢れ出し︑公共領域へと入ってきていますが︑溢れ出た人たちと政府との間で組織的つながりのルートがなくなってしまうという状況が起こっています︒なぜなら︑以前は単位が政府を代表して人々の要望に反応し︑公共制度とかかわりのあるあらゆる事柄はすべて単位を通して行わなければなりませんでした︒例えば︑南方へ出稼ぎに行ったとすると︑単位を離れてしまうことで政府とつながりを保つことができなくなります︒社会の組織内での立場に変化が生まれ︑様々な権利を実現するためのルートが絶たれるに等しい状況が起こるのです︒法律上は権利を持っていますが︑実現するための具体的なルートが欠けているということです︒一例を挙げれば︑単位を離れた人々は国の住宅積立金制度を利用できるでしょうか︒無理です︒彼らのために手続きを行う機関がいっさい存在しないからです︒貴州省に暮らすある 農民は︑貴州省では権利を有しており︑宅地を持ち︑彼の子供が学校に入る際も補助が受けられます︒しかし︑他の地域へ出稼ぎに行ったとしたら︑もともと彼が持っているこれらの権利を行使することはできません︒新しい場所では代わりに責任を持って実行してくれる単位がないからです︒このような組織の管理構造の問題は︑今日の公的責任を負うことの難しさを生み出しており︑公共社会に入ってきた多くの人々は公共制度の保護のもとで自らの権利を行使するすべをもっていません︒これらの人々に問題が生じても誰も助けてくれません︒以前はすべて単位が管理していたので︑このような矛盾は見られませんでした︒当時は公共社会ではなく︑単位社会だったからです︒今日の状況はすでに大いに異なり︑公共社会が出現しています︒公共領域と社会管理│││││││●
唐 都市部の単位に属する者が公共領域へと流れ込み︑社会の構成員となるという状況を背景にして︑政府はここ数年 「社区︵コミュニティ︶建設」を推進しています︒社会建設・社会管理を強化しようとしており︑これは先ほど述べた背景の中でとり得る政府の最良の選択です︒しかしながら︑問題はこれが一部の人の問題しか解決しないことであり︑単位に属さない者の住宅積立金などの問題は依然として解決するのが難しい状況にあります︒社区レベルでの社会保障とは︑主に社会的弱者に対する保障︑例えば生活保護の類のことですが︑社会的弱者の住宅問題などはやはり解決が難しいと思われます︒これらの矛盾に対して政府はどのような新しいプランを出しているのでしょうか︒張 社区は大金を投じてこれらの社会的弱者に配慮しているというべきでしょう︒しかし︑割り当てがしっかり行われているかどうか精査する仕組みが完全ではないため︑社会保障に依存して生活するという現象を多数生み出す一方︑まだ都市部の登記制度に加入できていない出稼ぎ農民は社会保障を受けるルートをもちません︒なぜなら︑出稼ぎ農民は戸籍が
なく社区にさえ属していないからです︒馮 このような社区の保障の問題は戸籍の問題と結びついています︒中国には多数の流動人口が存在しており︑彼らは戸籍がおかれた社区で生活したり働いたりしているわけではありません︒このような人々は︑戸籍と実際に働いたり生活したりしている地域とがかけ離れており︑流入した場所でも彼らを見つけることができないし︑戸籍のある場所でも見つけることができず︑「どこにも居場所がない」のです︒このため︑社区の保障で面倒をみることができません︒彼らは実際には公共制度のカバーするシステムに入っていないのです︒深圳の某社区では︑居住人口が数万人いますが︑その多くは外地から来た人々で︑その土地の戸籍を持っているものはわずか二︑三千人です︒現地政府の社区の保障は︑これら戸籍をもつ二︑三千人を対象にしているにすぎず︑居住人口すべてというわけではありません︒現地政府の行政上の成績も戸籍を持つこの二︑三千人の評価を基準にしています︒「安定の維持」が進めら れる中で︑外地から当地へやってきた「流動人口」はつねに監視の対象ではありますが︑サービスの対象ではありません︒李暁東 確かに︑現在進められている都市の社区建設の中で︑流動人口はその流動性ゆえに当地の社区に溶け込むのが難しく︑社区居民委員会に言わせれば︑流動人口の人々については管理が第一であり︑社区サービスが話題にのぼることはほとんどなく︑また「社区自治」についてはいうまでもありません︒李路路 私は以前︑北京市の社区建設における特定事業資金についての使用評価に関わった際︑あるプロジェクトを知りました︒それは流動人口と社区人口に対して管理を行うデジタルシステムで︑ある地域では数千万元をかけてデジタル監視システムを整備し︑出入りの際に身分証と本人とを照合し︑身分証がない場合でも貸し出された部屋に住んでいるのが誰かわかるようになっており︑理論上は変化の状況も毎日報告されています︒この監視システムは全国へ広まっていくとのことです︒ 張 このような監視システムはテロ行為や犯罪の抑制に役立ちますが︑その他の社会の安全や社会の管理については︑例えば信用の管理という点においては︑効果がないでしょう︒中国ではクレジットカードで光熱費を支払うことはできず︑必ずデビットカードを使用しなければなりません︒クレジットカードの借り越し状況を管理することができないからです︒クレジットカードの使用機会はデビットカードに劣りますが︑その原因は信用管理メカニズムが完全ではないということにあります︒この二種類のカードの違いに社会の管理能力の欠如が反映されています︒李路路 だからこそ︑私たちが先ほど話していたように︑大衆路線に進み大衆から支持を得ようと考える一方で︑多くの大衆がないがしろにされるという状況が起きていると私は思うのです︒馮 このような現象は人民政府のロジックから説明が可能です︒「人民政府」の前提には敵と私という二つの立場があります︒つまり国民全体を敵と大衆という
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 李 路路[Li Lulu]
二つの基本的な立場に分けているということです︒もし「大衆」の陣営に区分されれば︑様々な優遇を受けることができ︑場合によっては不合理な要求も通るかもしれず︑重大なミスも許してもらえるかもしれません︒しかし︑敵対分子の陣営に区分される︑あるいは危険な人物だとみなされたら︑国民としての資格に基づき与えられるべき様々なものが剥奪されるかもしれません︒
貧富の格差と社会の公平性││││●
唐 張先生の先ほどの話題に関連して言えば︑張先生は現在の中国社会においては規則が厳しくなく︑原則も成り立たず︑危機的状況が出現しているとおっしゃいましたが︑他の先生方はこの問題をどのようにお考えでしょうか︒中国社会には様々な問題が存在していますが︑中でも最も大きな問題は日本でもかなり関心を集めている貧富の格差の問題です︒日本では数年前︑特に小泉改革の頃から格差が次第に拡大しており︑中国の貧富の格差に対しても大きな関心が寄せ られています︒貧富の格差を測る重要な指標はジニ係数ですが︑このジニ係数が〇・四の警戒線を超えたとき︑社会はある種の危機的状況に突入し︑社会に動揺が引き起こされる可能性が生まれます︒中国のジニ係数は〇・四の警戒線をはるかに超えていますが︑現在のところ巨大な危機的状況は表面的には起こっていないように見えます︒そのため先生方にこのような現象をどのように捉えればいいか教えていただきたく思います︒動揺が起こる直前にあるということでしょうか︒それとも︑ジニ係数が言うところの社会的動揺が起きていないというのは何か中国の特別な要因によるものなのでしょうか︒李路路 私が見たところ︑貧富の格差というような問題は中国社会が目下直面している最大の問題ではないと思われます︒貧富の格差の問題は︑一方では生活が立ち行かなくなるということであり︑これは貧しい一部の人々について言えることです︒もう一方では︑相対的格差もしくは相対的剥奪感という問題で︑これ は中国社会が抱える本質的問題ではないと考えます︒笑い話を一つしましょう︒収入が自分より数十倍︑数百倍高い人がどんな生活を送っているのかまったく知らず︑そのような人とも直に接することがなければ︑貧富の格差は中国の社会問題でこそあれ︑主たる問題とはなりません︒一番問題なのは同じ社会的関係の構造にいる人々の間の社会的関係が不平等であることです︒例を挙げれば︑身近な