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「学ぶ」,「教える」,「教材」に関する論理的考察

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「学ぶ」,「教える」,「教材」に関する論理的考察

佐 藤 晋 一

(1980年10月20日受理)

ALogical Analysis of the Concepts Learn , Teach ,and Meteria1

Shin−ichi SAToH

(Received October 20,1980)

は じ め に

教育学が有しているはずである理論的有効性を検証・確定するには,どうしたらよいのであろうか。

一般に,教育学の理論的有効性という問題がとgあげられ,検討されることは少ないと言えるだろう。

しかし,教育学の有しているであろう有効性がいかなるものであるか,そしてそれはいかにして確定 されうるものであるかを明確にする必要があるのではないだろうか。

理論は実践に対する指針であり,理論なしに実践はあり得ないと言われる。教育学に関してもこの ことはあてはまるであろう。が,では教育学が実践にとって指針であり,教育実践は理論なしには行 い得えない,ということの意味するところは明瞭なのであろうか。その主張は定式としてはうけ入れ ることができるとしても,教育理論と教育実践とがいかなる具合に関連するかということが論理的に 明確にされることなしには,単に定式にとどまるのではないだろうか。

もちろん,理論はすべて理論である限り論理的整合性を有しているのであるが,そのことから直ち に理論が有効性をもつという結論がでてくるとは言えないであろう。つまり,論理的整合性は理論が 理論として成立するための基本条件なのであって,そのことが直ちに理論の有効性を保証するのでは ないであろう。論理的整合性は,さまざまのレヴェルにおいて問題とされなければならないからであ る。とりわけ教育学に関してはこの点の反省が必要とされるのではあるまいか。最終的には実践とっ ながるはずであるとされてはいても,そのことは単なる主張にとどまり,肝心の実践との関連そのも のが論証されないままであるというのでは困るであろう。この意味で,教育学を構成している諸概念 を実践との関連において,実践との関連を十分自覚して検討する必要があるのではないか,と思われ る。既にこのことについては,以下のような指摘がなされているのである。

●   ●

「(教育に関する)諸論議の多くに認められる基本的問題点の一つは,関係者すべての間に,共通

●  ●  ●

●な概念整理が充分にはおこなわれず,いやそれどころか,関係者の一人々々において,明確な概念規定 がおこなわれていることさえ一般的ではない,という事実である。すなわち,特定の主張にはやるた

●   ●   ●   ●      ●   ●   ●   ■

めか,その立論の用具として役立てられるべき諸用語の論理的な内容が,自覚的に整理されず,した

がってまた複数の関係者の間にほぼ同一の語義が共有されないままに,それらを用いて内容的な論議

を押し進める場合が,多かったように思われるのである。そしてこのことの問題性は,当該概念が教

育において基本的.中心的な位置を占めている時に,最も大きく,また深くなるはずである。11

(2)

概念が基本的なものである場合,従って実践との関連においても中心的位置を占める時には,確か に「問題性」は最大となるであろう。それ故,いくつかのレヴヱルの内容を包含している概念を,そ の各々のレヴェルにおいて明瞭なものとしなければならないのである。

筆者は以上のことに加えて,さらに教育的諸概念の歴史的形成過程を解明する必要があると考えて いる。このことの解明は,教育理論が歴史的にいかに形成され,展開されて来たかを明らかにするた めの基礎作業であると思われるからである。教育理論はいかなる問題に関して構想され,それらの問 題をいかに実践的に解決しようとして来たのかを,いわばく論理の展開史〉として把握することは教 育学説史の重要なテーマの一つであろう。従来,この点について十分な考察がなされて来たのだろう

 2)か。

本稿では,とりあえず近代教育学における基本概念である「学ぶ」,「教える」,「教材」をとり あげ,それぞれの論理構造と,三者の関連についての検討を進めたい。

1 近代教育学の構造一ヘルバルト教育学を中心として

教育理論が被教育者である子供を中心に据えて論じられ,構想されるのは19世紀以降のことである。

とりわけ,J. Eヘルパルト(1776〜1841)はその教育学を構想した時,明確に陶冶対象としての生徒

(Z6gling)を念頭に据えていたのである。この点は強調されてよいと思われる。ヘルバルト以前に は彼のような明確な意識をもって教育学を構成しようとした人はいなかった,と言えるからである。

しかもヘルバルトは,ダランベール(1717〜1783)が「百科全書序論」(1751)において,「精神の進 歩の歴史的順序よりも精神の働きの形而上学的順序『)に従ってr百科全書」を編纂し執筆するのだと 宣言して以来の方法論を踏襲して,被教育者としての子供そのものの研究に着手したのである。即ち,

単に精神の時間的経過を追究するだけでなく,根本的に精神の論理的展開の内にこそ子供の発展を根 拠づけようとしたのである。だからヘルベルトは「教育学は蕾に心理学に基礎づけられるだけではな くて,同時に実践哲学によっても基礎づけられる」と言うのである。しかも,ヘルバルトにとっては       4)

タ践哲学による基礎づけ,究極的には「諸意志に対する審美的判断のうえに」基礎づけることが重要 なことであった。一方,教育学を心理学的に基礎づけるための課題は次のことであった。

「なるほど人間の心というものは,多くの能力(Vermbgen)の集合したものであると考えるのは 正しくない司だが,通常なされているような,ある種の力,つまりく統治的な力〉を想定して「多く

●   ●   ■

の能力の集合」を説明するという仕方にヘルバルトは反対であり,むしろ「経験に即してみれば相互        5)

ノ均衡して,能力は現われるということを解明」するにはどうしたらよいか,ということが問題なの である。この解明がどの程度うまくいったかどうかについては,つまり「教育学が心理学とどの程 度まで結びつけられるかということに関しては,私の心理学が長年月にわたる教育的実践を通じて,

かつ大部分はここで獲得された経験の結果に基づいて成立し,推敲され,書きあげられたものである        4)

ニいうこと以上には,何事も語られえない」のである。ヘルパルトの心理学には欠陥も含まれている のであろうが,大事なことは子供の精神活動の時間的経過よりは,論理的な法則性に着目して研究を 開始したことであり,このことが教育学の基礎づけにとっての必須条件ととらえられたことであろう。

具体的にヘルバルトは,陶冶可能性をどのように検討すべきであると考えていたか,をみてみよう。

そうすればヘルパルトの意図がより明瞭となるであろう。教育学の基礎概念は「生徒の陶冶可能性」

であり,それは「(人間を構成する)物質の諸要素にまで拡大される。経験的にはそれは有機体の新

陳代謝に関与している諸要素にまで追跡され得る。意志の陶冶可能性の痕跡は高等動物の心意の内に

(3)

       6)

煌ナ取される。しかし,倫理性にまでの意志の陶冶可能性は人間においてしか認められない」

陶冶可能性を,一方では物質的・生物学的な連続性の中に据えて検討すること,そして他方,人間 に固有の「意志の陶冶可能性」がいかに生物学的連続性から媒介されるのか,更にその固有性をいか に確定するのか,がヘルバルトのテーマなのである。これが,心理学的基礎づけと実践哲学的基礎づ けを前提とするところの,教育学の課題なのである。心理学と実践哲学に依拠はするが,それだけで は十分ではない。心理学と実践哲学は,教育理論の形成にとって必要条件ではあるが,それによって 教育理論が直ちに構成されるのではない。教育学は自己に固有の概念を以って教育的諸事象を説明し なければならない。そのために,さしあたって心理学と実践哲学に依拠するというのである。

この意味で,教育理論の中での子供のとらえ方,あるいはより広く子供に関連する学問の展開を歴 史的に検討する必要があると思われる。このことは,何故ヘルバルトがZ691ing,子供の陶冶可能性 についての研究を教育学の出発点としたか,その意義を明瞭にするためにも大切なことであろう。

この点に関しては,山下徳治の次のような指摘が参考となるのではあるまいか。山下は1929年に        7)

S塔書院から刊行した『新興ロシアの教育』の中で,新興ロシアでは「今日吾々がアメリカや特にウ イソに於て盛んに研究されている児童学Paidology, Padologie(44頁)」ではない児童学が研究され ている,と報告している。アメリカやウィンの児童学は「主として主観的なる実験児童心理学の立場 からの研究の延長か転釈に過ぎない(44頁)」 が,ロシアでは「教育単科大学と総合大学に併置され たる教育科とを中心に一般教育者との密爾たる関係の中に単に科学的興味に惹かれて客観的に又組織 的に児童を研究している(44〜5頁)」くわしく「児童学即自an sichの立場から言へば,それは

●   ●   ●   ●  ●   ●

1.生物学的見地一遺伝学,細胞学,進化論,生理,比較解剖学一からと,

■   ■  ●   ●   ●   ●

2,心理学的見地一旧来の主観主義の心理学,従って比較心理学的一を含むのであるが,それ が又,3.児童と環境一社会及自然一との相関々係に於て研究されている(45頁)」という。

教育概念の分析を行うとき,少くとも上の三点は視野におさめていなければなるまいし,それに加 えるに,そしてこれが最も重要なのであるが,それらを統一的に論ずる論理的観点や表現手段をもつ 必要があると思われる。最後の問題は,今後の私にとっての課題でもある。

皿 学習概念の検討

学習概念は学習一般の法則性をあらわすのか,それとも個々の個体の学習を記述するのか。この点 を明確にしなくてよいのであろうか。この点を曖昧にしたままに学習という概念は使われてよいので

●   ■  ■

あろうか。例えば,個別学習と集団学習を学習形態の相異として論ずることは,両者の学習の論理的

●  o   ●       ●   o  ●  ■

な相異を論ずることにはならないはずである。両者の質的相異を示す論理は何であろうか。この論理        8)

I相異については,N.ウィーナーなどによって興味深い検討がなされている。しかし,教育学の基

■   ●   ●  ●   ●   ●

本概念としての学習概念についてはどのような教育学的検討がなされているのであろうか。

また,家庭教育,学校教育,社会教育という用語が含んでいるlogicalな意味が何かという点を明 確にしないままに,形態上の相異にのみ注目してそれらの概念を使用するのは,便宜的にはよいので あろうが,それでは依然として各々における〈教育〉の意味,つまりく教える〉こと,〈学ぶ〉こと の意味はハッキリしないであろう。このことは,家庭学習,学校学習,社会学習という用語が通常は 使用されないこと,少くとも三者は一連の用語としては使用されないことから考えても言えると思う。

●   ●

家庭学習という用語は,明らかに便宜的なものである。家庭教育というと,そこには何かが含まれて

(4)

●   ●       o   ●

いるような感じを与えるが,それは感じであっても論理であるのだろうか。主観的には,家庭,学校,

社会という〈場〉のちがいが学習そのもののちがいであると感じられることはありうる。しかしなが ら,そういう感じが妥当性をもつためには,学習がそれぞれの場においてそれぞれの固有の論理構造 をもつことが論証されねばなるまい。

この問題は,更に一人一人の子供の学習の態様(現象形態)が相異なるという事実は,直ちに学習 の論理構造そのものも個別的なものであるということを証明したことにはならない,ということに関 連を有する。学習の論理構造は個別的・個性的であるということが論証されるならば,〈それ故に〉

学習の態様も相異なるのだと言うことができるだろう。しかし,学習の態様が相異なるのは,学習の 論理構造そのものが相異するからだ,とは主張しえないであろう。

この点は重要なことである。十人の子供がいればその十人はそれぞれ異った学習の態様を示すとい

●   ●

う事実と,学習とは本質的に個別的な事柄であるという論理的仮定一説明原理は,いかにして結びっ くのかを論証することこそが問題である。両者は論理学で言う〈ad hoc>な論理でとらえられうる ものではない。学習が本来個別的なものであるという説明原理は,一体成立しうるのかどうかを問題

としなければならないはずだからである。現象的には一人一人の子供の学習が異なるものとしてとら えられるという事実に関する説明原理が,果して妥当か否かが問題とされなければならないからであ る。現象的な相異は必ず本質的相異に対応するのであろうか。同一の根拠から異った現象が生ずるこ と,異った現象を同一の法則性を以って把握することは教育学においては認められないのであろうか。

さまざまな形態において把握できるところの,否さまざまな形態においてしか把握できないとも言 えるであろうところの学習という現象を,いかにして論理的に,体系的・統一的に把握したらよいの であろうか。何故,学習という営みは,さまざまな,一見,全く個別的な営みでしかないと思われる ほどの現象形態をとってあらわれるのであろうか。

皿・1・「予見可能性にもとつく行為」としての学習

学習は,アト・ランダムな,無目的的な無方向な営みではない。しかし,このことが直ちに人間の 学習の特質であると断定はしえないであろう。人間のみならず「ほとんどすべての生物の合目的行動 は,自然の予見可能性にもとついて行われている。これは生命が環境のエソトロピーの増える向きを 時間の向きとして生きている理由である。生命は因果性を自覚しないものでも因果律を利用して生き ているのである。これを行うには,単に未来を予知してそれに適応して自由に行動を決定するという 受身の立場もあるが,さらに今日種をまいて明日収穫しようとする能動的な場合もある。そして受身 の場合にも,能動的な場合にも,自分の体に自由な能動性を賦与するために,エントロピーを低くし

       9)

トおくのである(28頁洞 (ここで言われているエソトロピーの増加とは「物理量の差異が減ってい くこと,一様化,平均化すること,組織が壊れてゆくこと,エネルギーが散逸すること,無秩序化す       9)

驍アと,混合化すること等(24頁)」を意味する。)

このような生物学的な基礎のうえに,人間の学習行為が成立したし,成立しているのである。人間 においては,人間の「内部的要求の要素がある程度意識のコソトロールの内にもたらされ,行動決定 が意識の機能となって,単なる内部的要素だけでは定まらなくなる。そこで反省,知識,目的意識等 々が組合わされて,自由の性質が飛躍的に拡大される。その上,自由の行動結果の影響が,他生物に        9)

芒rにならないほど大きなものになる(28〜9頁)d

人間においては自己の行為の決定(判断)とそれの自己自身への反映が特徴的なことである。自己

決定がいかにして可能となったのか,これは専門的学問による解明をまつとしても,生物としての人

(5)

間が他の生物と共通するレヴェルから,人間に固有のレヴェルへと展開してくること,このことを学 習の概念を検討する際に十分に考慮すべきであろう。言うまでもなくその際,生物学的側面が人間に 内在していることを無視してもいけないし,過度に強調してもいけないであろう。

自己の行為の決定(広い意味での)が自己自身に反映する仕方は,<他の生物とは比較にならない ほど大きなものになる〉のであるが,まさにこの決定(判断)とそれの自己自身への反映という論理 的構造は,学習概念の形成にとって本質的な問題であろう。

学習とは,まさしく自己の行為の決定そのものと言ってよいであろう。が,この自己の行為の決定 はいかにして行われるのであろうか。この決定(判断)は一意的に行われるのではなく,〈反省,知 識,目的意識等々の組み合わせ〉によって行われる。では,その組み合わせが妥当であるか否か,つ まり学習がうまくいったか否かは,どのようにして知ることができるのであろうか。どのようにして 確定しうるのであろうか。このことについては,渡辺 慧氏の示唆的な文章がある。

「人間もしくは社会のシステムにおいては,原因の事象と結果の事象が交換可能であるような発展 を想像することができない。こうした意味において,時間の非可逆性は物理系よりもさらに強固なも のなのである。その結果,原因は結果を想起せしめるが,その逆は不可という事実が,原因は力能も しくは力をもつという観念を与える。このように,力の観念は,時間の非可逆性と密接に関っており,

      9)

エ因は結果に時間的に先行しなければならない(とされるのである)(204頁週 哲学者たちも科学

者たちも一様に,因果関係や「予言的もしくは因果的記述を合法的な企てと考えるけれども,遡言的

もしくは逆因果的記述についてはそのように考えようとしない。しかし,彼らは,なぜそうなのかと いうことを決して疑問としない。筆者は,この偏好に紺してはどんなア・プリオリな理由もないこと を,また前者は単に経験の中で有益であり実行しやすいのに過ぎず,一方後者はそうでないのだとい        9)

、ことを敢えて主張する(204頁)引

学習がうまくいったか否か,そのく原因〉を追究する際,普通には学習者が所有すると仮定される

〈力能もしくは力〉という概念の導入によって説明されるケースが多い。そしてこのことは,とりわ け学習がうまくゆかなかった場合の説明の際に典型的にあらわれると言えよう。が,その力能,力な る観念自体がいかに生じたものであるかを渡辺氏は示唆しているのである。

社会的・人間的現象にあっては何故予言的・因果的記述が「法則論的に可能であり」,遡言的・逆       9)

果的記述は法則論的に「不可能である(235頁)」のかを,力能という概念を用いて論証しようとす ることはできないのである。論理的には意味をもたないのである。学習概念の検討にとっても,これ らの点は重要であろう。学習がなぜ,うまくいったのかあるいはゆかなかったのかを,結果から説明 しうるのであろうか。言うまでもなく,力能の観念を使用せずにである。

渡辺氏によれば,予言的・因果的記述の場合は,どの答えもそれが正しいという可能性をもってい るだけでなくて,そのような答えについてそれが真であるか否かを決めることができる。しかしその 逆の,遡言的・逆因果的記述の場合は「どんな答も正しい可能性をもつが,どの答についても真であ ることは不確か(205頁)」なのである。「エソトロピーが増大する系では予言が有効性をもつ理由は,

次のように考えられる。エソトロピーの増大は,終期巨視状態が多くの微視的状態から成っているこ

とを意味し,それは逆に,いかなる初期巨視状態から出発したとしても,この多くの微視的状態をも

った終期状態に到達する確率が大きい,ということを意味する。つまり,巨視的状態に関する予言確

率分布は,多対一対応に非常によく似た構造をもっている,ということでもあるQ(中略)予言確率

分布が大きなエソトロピー状態にある終期状態に到るような多対一対応の構造をもっていれば,大き

なエントロピー状態から出発して逆に遡る遡言は一対多となるわけで,遡言的な巨視的初期状態は広

(6)

      9)

トに拡がってしまう。それゆえ,遡言は有効性を失ってしまうのである(252〜3頁)司

このことを我々は日常的にはさまざまの形で経験している.例えば,何かを行ってそれがくうまく いった〉時,何故うまくいったかを説明することよりは,〈うまくゆかなかった〉時,何故うまくゆ かなかったかを説明することの方が容易であり,説明の意味ももっともらしいと感じられるのは周知 のことである。だが,何故そうなのかは判然としない。やはり,渡辺氏の指摘するようなことが根拠 にはあるのかもしれない。学習に関して考えれば,失敗例の方がその原因・理由の追究は比較的容易 であると経験的には感じられるからかどうかはともかくとして,何故〈うまくいったのか〉とはあま り考えられていないように思う。考えたとしても,なかなか確からしい答がないように思われるのが常で ある。答は不定のように思われる。教えるという場合も,できる子供に対する指導よりは,できない 子供に対する指導という面の方が前面に出るように思われる。が,どうしてなのであろうか。そもそ も,〈できる〉ということに対してく教える〉ということがどのような論理的関連を有するのか,あ まり考えられないのではないだろうか。

言い方を変えよう。〈できない〉という事態に関しては,教えることや教えた人間の問題がずいぶ んことあげされたりする。〈できない〉こととく教えること・教え方・教える人〉はいろいろな形で 結びつけられて論じられるが,その反面〈できる〉ことと〈教える〉ことはそれほどではない。どう してなのであろうか。この問題は,学習の概念を明確にするうえにきわめて重大な点であると言える のではないか。学習が,うまくいったりゆかなかったりするのはどうしてであるのかを十分に検討し ないと,学習概念は経験的な,ad hocな,記述的な概念にとどまるのではあるまいか。そうすると 最も困るのは教師である。学習の概念がそのようなものにとどまるなら,〈教える〉という概念も不 明瞭なままに放置されて,単なる記述概念にとどまってしまうと思われるからである。

いつでも,いかなる場合にも学ぶことや教えることがうまくゆくと言えるのなら,うまくゆかない のは教師のせいだ,指導の失敗が原因だと言ってよいかもしれない。しかし,もし,必ずしもっねに 学習がうまくゆくとは限らないとするならば,それが何故なのかこそが追究されるべき問題であって,

〈教える〉ことの方に責任(原因)を転嫁してすませることのできる問題では,決してない。また,

安易に学ぶことを教えることとを結びつけて考えるのもおかしい。況や,学習がうまくゆかなかった ことと教えることを結びつけて考えることは,一面的であるし,結びつけうるかどうかよほど慎重に 考察されなければなるまい。この点に関して,直接的には失語症の研究に関してなされたものではあ るとはいえW,R.ブレインの指摘は,教育学においても尊重されるべき方法論的なポイントであろう。

ブレイソは言っている。「最初に病的現象から正常機能を類推しておきながら,次にはその正常機能       10)

病理現象の説明に利用することはできない司      学習に関する情報は,できる,できない,どちらと

も言えない,という三態において与えられるのであり,それらの相互の態様の論理的関連を十分に検 討せずに,ブレインの指摘する如きことに満足していてはならないと思われる。

尚,生命がエントロピーを低くしておくということと,エントロピー増大系では予言的因果的説明 が有効であるということとは一見矛盾するようにみえるが,この点は渡辺氏に従って次のように考え        11)

@      である。つまり「生体は,エソトロピーておきたい。 「生命の特性の一つは,学習能力(168頁)」

      11)

@       なのである。が,エソトロピー減少系を含むものがすべが減少する部分系を含んだもの(182頁)」

て生体ではない。「生体は部分的にしか,エントロピー減少系では」ないので,「ある変数の取り方        11)

ノよっては因果的であり,ある変数の取り方では逆因果的になる(193頁)司       生命生存の必要条件の       9)一つは「物理的環境が因果律(予言可能性)を許容するということ(62頁)」 にある。それに対し

      9)

ト「エントロピーの減る環境は因果律を許容しない(62頁)」 「予見できなければ生物は生存できな

(7)

い」生物は「宇宙または宇宙のこの近傍でエソトロピーの増えている時間の方向を,過去から未来へ       9)

?ゥう方向として生きている(25頁)」からである。つまり「生物(複数)の時間の向き(成長・老 化その他で定義できる)はすべて同一である。そしてこの向きは物理系のエントロピーの増える向き

      9)       9)

ニ一致している(66頁洞 「両方向の一致は生命のための必要条件(61頁)」なのである。

皿・2・学習の「予見性」が何故必要なのか

これこれのことを学ぶなら,これこれの手続きに従えばこれこれの状態に到達しうるという予見性 がない場合に,子供がいかにポテソシャル・エネルギーをもっていても学習が成立しうるのであろう か。子供が予見性について意識しているか否かは別として,である。子供は学習のプロセスにおいて 既に学びとったものを手がかりにしながら次のレヴェルへと到達する。これは,予見性(広義の因果 性)を利用していることではないか。個性をもった多くの子供が,おしなべて一定の理解の域に達す

●   o  o   o

るという事実をいかに説明したらよいか。一人一人の子供が意識的に予見性を利用したからであろう か。そうであってもなくても,いずれにせよ多くの子供が一定の理解の域に達することが偶然の事象 だとするのは無理であろう。やはり,学習の際には何らかの予見性が機能していると考えてよいであ ろう。教えることは,そういう論理性を抜きには不可能であろう。教える側は,子供がどのような道 スジを経て理解に到るかをすべてにわたって予見し尽すことはできないとしても,結果的にはそこに 到達するであろうという予見性をもっているのではないか。

では一体,その予見性はいかにして与えられるものなのであろうか。子供の意識の中にア・プリオ リに与えられているのだろうか、,そうは考えにくい。子供は無意識的にではあっても予見性・論理的 関連性があることに,いかにして気づくのであろうか。おそらく,時間的には子供は予見性に対して,

まず受動的適応をする,そしてそれは種々の形でサポートされるのだろう。だが,ある時点からは能 動的に予見性を利用しはじめる。判断などはその良い例であろう。自からの判断に基づく行動をなし てゆくのは,予見性への能動的適応であろう。自己制御が予見性との関連でなされているのであろう。

問題は,だから,能動的な適応がいかになされるかの分析となろう。他方,教えることにとって,予 見性は何故信頼しうるに足るものなのであろうか。ア・プリナリに自明のことなのであろうか。

これらのことにとって,興味深い指摘がある。「帰納法においては,一つ以上,ときには多数の仮 説が競争しているわけであるが,実験的証拠が集まってくると,それらの仮説のうちの一がだんだん 本当らしくなってくる。すなわち,それらの仮説の信頼度をそれらの確率として考えれば,帰納によ って確率がだんだん少数のものの上に集中していくわけである。そういう過程を表わすのにはエント ロピー関数を用いるに勝る方法はない。エソトロピーが大きいというのは,確率がいろいろの可能性 の上に拡がっているということで,エントロピーが少ないというのは,確率が少数の可能性の上に集 中しているということである。したがって,帰納法における確率でエソトロピーを定義すれば,帰納 過程はエソトロピーの減少として特徴づけることができる。

ひとたび帰納によって経験から学ぶことがエソトロピー減少として把えられることがわかると,他 の種類の学習現象もエントロピー減少として把えられるであろうと考えるのは自然なことである。

(例えば)T字迷路にネズミを入れてやれば,左の出口から出てくる確率と右の出口から出てくる確

率とが半分半分である。しかし,食餌を左の出口に必ず置いておくと,だんだん左へいく確率が増え

て,しまいには1になってしまう。これは明らかに確率の集中であって,エントロピー減少の現象で

ある。このように学習現象は,物理的でない広義なエソトロピーの減少として特徴づけられるのであ

る。学習というのは行動または組織化ということであり,その組織化がエソトロピーの減少として把

(8)

えられたのである。学習現象は非物理的エントロピー現象のほんの一例にすぎない(58〜9頁)『)「学 習の場合は,いろいろの反応の確率でエントロピーを定義すれば,確かに学習とともにエソトロピー が減ることが見える。実際,学習の段階が進むにつれて,確率がますます少数の可能性(反応行動)に 集中されて、・く1讃,エント。ピーは騨が少数の可能性に集中姻滑る程小さくなる(169−17・頁)』)

予見性の必要は,生命維持の基本的条件として確率の集中が存在しているからである。学習は確率 を集中させることなのである。学習が成立した,うまくいったというのは確率がある点に集中したこ とである。うまくゆかないのはその逆のことである。その意味では,予見性のない学習はない。

では,学習において予見性はいかに機能するのであろうか。反省,知識,目的意識等の組み合わせ によって予見・判断するのであるが,それがある点に集中するのはいかようにしてなのだろうか。学 習の論理構造の分析とは,まさしくこのことの分析であろう。何を最も確からしいと判断したかとい うこと,教えられることなどは,自己の行動に対してどのような関連にあるのか。しかも,自己の行 動は結果的にある点への集中を前提としたものなのである。

Ch. S.パースは,哲学者としてこれらの問題に取り組んでいた。パースは「私たちの推理能力は,

生まれながらにそなわったものではない。それは修得するのに手間のかかるむずかしい技術なのであ

       12)る。もしかすると,あらゆる能力のうちでも最も修得のおくれる能力かもしれない(53頁)」      と言っ

ている。パースによれば「一般に,生まれながら正しく推論を行うということは事実だが,それは偶 然にすぎない(57頁)。ヨ)というのは,真理はそれが人によって正しいと認められなくとも真だし,偽 の結論は正しいとみなされても偽であるから。そこで,真偽の判別をいかに行うかがパースの探究の重 大なテーマとなる。正しいと思うから正しい,誤りだと思うから誤りだということは主観的にはそれ でよいとしても,一たび実践と関連づけられるとその妥当性がどれほどのものであるか,明らかになる。

それ故にパースは言う。「私達が,ある能力をもっているということの現実的な証拠は,たんに私

■   ■  ■   o   ●

達がそういった能力をもっているように感じられるという事実だけである。しかし,このような証明 は,そういった感じが教育や過去の観念連合の結果なのか,それとも一種の直観的な認識なのかを区 別できる能力を,そういった感じ自体の中に,想定しようとすることに他ならない。換言すれば,そ のような証明は,証明すべきことがらを,前もって前提しているのである。そういった感じは絶対に 確実なものであろうか、,さらに,そういった感じにかんして下された判断は絶対に確実なものであろ

      12)

@       問題とすべきは,〈そういった感じ〉はいかに形成されたのか,真偽の判別はどううか(104頁渇

すれば可能なのか,である。「子供は一応,大人のもつ知覚能力をそなえていると考えられる。とこ

。・・・…      12)

ろで,子供に,自分のしていることに,どのようにして精通したかを,たすねてみたまえ(107頁洞 パースはきっと子供はもともとそうできたのだと答えるにちがいない,と言う。その間は子供に向け

られるべき問ではないのである。

しかしながら,パースが言うように,どのようにしてそうなったのかがわからなければ,逆にどう してそうならなかったのかは,ますますわからないはずである。パースは自己の哲学を体系化するに は及んでいないというが,彼の問題のとり上げ方は正当であろう。パース的に言えば,学習のく真 偽〉,そして〈有効性〉をいかに判別し論じたらよいのか。これらの問題は学習の本質にかかわる。

皿.3・学習の有効性について

学習が予見性に支えられるというのは,目的的であるということであって,目的的であるというの

は少くとも学習が何らかの有効性との結びつきを含むということである。この有効性の問題は学習理

論にとって,偶然的な事柄ではない。むしろ学習がうまくいったか否かの判断基準の一つであると言

(9)

えよう。学習という行為に関する判断の理論とでも言えようか。

学習において,〈わかる〉ということは何を意味し,指し示すのか。〈わかる〉というのは,どう いう事態なのか。これに関しては,時間的・空間的な分析をする必要があろう。

まず,わかるというのは百%わかることを示すのか。大体わかる,なんとなくわかるというのは曖 昧なわかり方であって,拒否されるべきなのか。いわば空間的な拡がりがあってはいけないので,焦 点は1点に必ず合っていなければならないのかどうか。次に,わかるということは,わからない状態 からの脱却だとすると,わからないレヴエルからわかるレヴエルにまで到達するのには一定の時間が かかるわけである。が,この時間間隔はいかにして定まるのか。少くとも無限の時間の幅がゆるされ

●   ●

ることはあるまい。学習が実践である以上,この問題は当然論議されなければならないだろう。

わかるということが,厳密さをもたねばならないことだと言う言明は,何を意味するのか。この厳 密さとは曖昧さを拒否するということなのであろうか。しかしそれなら,厳密であって曖昧ではない というのは,どういうことなのか。この点について,パースは言っている。わかるということが,わ からないということの反対概念であるというのは,何も説明したことにならない。それは単なる言明 にすぎない。何事も「確定的なものと不確定なもの」とに区別しうる。確定的であるとは「あるもの の何らかの性質がそのものに(普遍的に,肯定的に)述語づけられる場合,あるいはづけられない場 合」を指す。不確定であるというのは「確定的でない,それ以外の場合」で,これは更に「一般的な

,もの」と「あいまいなもの」とに区別される。一般的なものの場合には「排中律が適用できない。ど の命題も,その命題がいったん確定された限りは,真か偽かでなければならない。しかし,命題が確

●   ■

定されず不確定な状態にとどまっている限り,その命題は真でも偽でもない」のである。それに対し て,あいまいなものの場合には「矛盾律が適用されない。どの命題も,その命題がいったん確定され た限りは,真であり同時に偽であるということは不可能である。しかし命題が確定的な状態に達する

・…@      12)

までは,その命題は真でもあるし,偽でもある(255,257頁洞

パースにならえば,わかるというのは確定的概念なのか不確定な概念なのかを考察せねばならない。

そして,不確定な概念ならばそれが一般的なのかあいまいなのか区別せねばならない。学習概念を構 成する際,このパースの指摘を十分にふまえねばならないと思われる。わかるというのはわからない ことの反対概念だ,というのは単なる言明にすぎない。従って,わかるということはどんな少しのこ とでもわかることだと言うのは意味をなさない。一体,わかることとわからないこととは,互いに反

対概念なのだろうか。この点については,Wヴインデルバントの言う否定判断論が参考となろう。

肯定は単に否定の反対概念ではないし,否定も単に肯定の反対概念ではない。むしろ両者にとっては

,漁llp。血t(無関心点)・こそが対極脆なのである.それは判断中止の点であるから醤)っまり,

ある範囲まではわからない状態であって,それをこえた場合をわかる状態だと考えるのは妥当性をも つかどうかである。この考え方は,真理そのものにそのような境界があるということを主張するのか,

それとも人間の主観的な感じ・印象を,即ち,わかったというのは学習者がアイマイにではなく厳密

●   ■   ●  ●   ■

にある事柄を把握したと感じたことを指す概念なのか。

しかし,曖昧な状態から明瞭な状態へと進むという感じは否定できない。だから,問題はそのよう な感じを何故もつに至るかではあるまいか。そもそも,わかるというのはわからないことの反対概念 ではなく,人間の認識の度合いを表現する用語なのではないか。事実そのものの中に曖昧な部分と厳 密な部分とがあって,しかもそれを区別するメルクマールが存在していて人間はただそれを見つけれ ばよいのであろうか。そうだとしたら,曖昧な状態から明瞭な状態へ進むという感じはありえない。

現実に,我々はまちがいを犯しながらわかる状態に到達する。まちがいであるかないかの判別が可

(10)

能であるのは何故か。否,何故判別しなければならないのか。何事かを学ぶということ,わかるとい うことは,まちがいであることがわかるということを意味するのか。まちがいだとわかることは重要 であるが,何故重要なのか。まちがいだとわかることは同時に正しいということがわかることではな いからであろう。つまり,まだわからないことが判明するからである。わからないことがわかるとい

うのは問題がハッキリしたことであって,何が正しいかわかったことではない。

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結局,何かがわかるというのは,何が正しいかがわかることではないだろうか。ある事柄が否定的 なことだということがわかるというのは,何が正しいかがわかることにとっての必要条件ではあるが,

十分条件では決してないのではないか。実践にとって最も大切なのは,どちらであろうか。

さて,あることを正しいとわかったのかどうかはどのようにして判定しうるのだろうか。一般に,

子供が何事かを正しくわかった,学習したかどうかはいかにして判定しうるのか。

このことは,学習が時間とどのような関連をもつかを考えると,より明らかになろう。何かがわか るという場合,論理的に時間の経過が前提とされているが,この場合の時間は抽象的な時間であって 現実的な時間ではない。では,現実的にはわかることにどれだけの時間が許されるのか。個人の生存 しうる時間の間にわからなければ,個人にとっては学習は成立しないQつまり,学習の予見性は有限 の時間において機能し実現しなければならない(ここに個的学習と社会的・歴史的学習とを区別する 一つの本質的な点があるのではないか)。この意味では,初等教育は将来のための準備段階であると いうとらえ方は十分なのかどうかということにもなろう。

個体が有限の生命体であるということの他に,学習という営み自体が時間の無限性を許容しない論 理を含むのではあるまいか。学習も実践である。実践は時間的空間的条件が限定されなければありえ

●  ■  ■

ない。同時にあそことここに存在することはできない。実践は,いま・ここで行われるのである。実 践が有効であったかいなかの判断も,だからまずこの条件の中でなされねばならない。いま・ここで

という条件は,学習にとって単に付加的な条件ではなく,何かもっと重要なことではないか。

学習を論理的法則として考えるというのは,形の論理として考えることである。実際に学習を行う のは学習者であり,学習者がいつ・どこで・どのように学習するか,あらかじめ規定しておくことは できない。これは偶然事象であろう。つまり,学習を論理法則として把握するというのは,それは具 体的な個体についての理論ではないということである。が,学習は個体を媒介とする。ただこの個体 は,任意の個体なのである。そうでなければ論理法則としての学習はあり得なくなる。

更に,実践としての学習が成立するためには,教材が介入せねばならない。何を教材として選択す るかに関しては,時間が本質的関与をするだろう。何かを選択するというのは,それがいつ学習され てもよいということではないからである(この点については,後に改めてふれる)。

学習自体の論理構造にとって,特に時間の問題は重要であろう。経験的には真理を学ぶから学習に は意味があるのだと言えるとしても,何を正しいと判断するかということは自明のことではない。何 を正しいとするか,何を学ぶべきかの判断は,学習にとって決して外そう的な事ではないだろう。

皿 教材について

皿・1・教材というもののとらえ方

教育学において,教材の概念の検討は十分に行われて来たのだろうか。少くとも,教えることと学

ぶこととを教材との関連において論理的に論ずることは十分になされて来たのだろうか。

(11)

あらゆる事が個人の興味・関心の,自発的学習の対象になりうるのか,なりえないのか。なりうる とするのは,学習者である子供にはあらゆる事柄をうけ入れることのできるキャパシティが備ってい ると前提するからであろう。何故そのようなキャパシティが備わっているかはともかく,そういうキ ヤパシティが存することは,子供が何に対しても興味・関心を示すことによって明らかであるとされ る。だが,子供が示した興味・関心の総量としてキャパシティを特徴づけることができるのだろうか。

実際上,すべての子供が一様な興味や関心を示すことはない。興味や関心がすべての子供について一 様なものとして観測はできない。この矛盾をどう考えたらよいか。

興味や関心は個人に関する限りは,個別的・個性的な,固有の現象として観測できる。一般的な,

一様な現象としては観測できない。自発的学習についても事情は同じであろう。何故,個人にとって あらゆるものが一様に興味・関心の,自発的学習の対象となりえないのか。一一人の子供に即して言え ば,あらゆることに対して一様な興味・関心を示さないのは何故か。それは個性を有するからだ,と 言うのであればすべての子供は自己自身がうけ入れることが可能なもの一般について,個性という制 限条件をもつことになる。だが,それでは学習はある特定の子供が個性に即してうけ入れることがで きるという事態についての理論でしかなくなるだろう。それ故,学習理論は子供の数だけあることに なる。とすると冒頭の前提と矛盾する。キャパシティとはすべての子供についての仮定だから。

あらゆることをうけ入れることのできるキャパシティ,とは何を意味するのだろうか。現実的には 子供は,ある何かをしか興味・関心の,自発的学習の対象とすることができない。それらの総量がキ ヤパシティだというのはトートロジーであろう。興味・関心に基づく学習,自発的学習というレヴェ ルで考える限り,選択される教材の問題は背後にあって,まだ前面に出て来ない。子供が何を選択す るかは,あらかじめ予測し尽せない,子供が選択してはじめてそれが確定される。この点だけに注目 すれば,自発的学習において教材の選択は自発的になされると考えてよいだろう。しかし,選択され た教材そのものに関して考えてみると,どうであろうか。教材そのものはアト・ランダムなものでは なく,それ自体の有する論理性がある。そういった教材のどれかが,子供によって任意に選択される ということが自発的学習を特徴づけるとしても,教材そのものは任意に構成されるものではなく,体 系性・法則性を有している。だから,教材の選択が自発的に,興味や関心にもとついてなされる,と いう意味は,アト・ランダムになされることではなくて,所与のものの中からまず何を選ぶかが任意 になされるということではあるまいか。任意に選ばれた教材ではあっても,それの任意の個性的解釈

●  ●  o  ●

が許されるのであろうか。任意の理解・解釈が原理的に許されるのであれば,当然任意の評価がなけ ればならない。しかしながら,教材そのものがアト・ランダムな構成をもたないのなら,任意の理解 や評価は主観的には許されるようにみえても,それは感じにすぎないのではないか。

ある教材の理解のされ方は任意にではない,と言えるだろう。このことから理解は,興味や関心の みに拠ってなされるのではないということが予測される。理解のされ方には何らかの制約性がある。

●   ●   ●

この制約性こそが逆に学習の可能性を規定するのではないか。つまり多数の子供による共通の理解は この制約性があるからこそ可能なのであろう。この制約性は何に根拠するのであろうか。それは知識 というものが成立するために必要な基本的条件に原因するのかもしれない。無条件に妥当な知識がな い,任意の適用範囲を有する知識がないということは,無条件の,任意の理解はないということであ ろう。ということは結局,個性的・自発的学習というものがもつ限界があるということではないか。

学習の成立は,ある特定の個体についての観察そしてそれにのみ妥当する事柄に根拠をおいて論じ

●  ●  ●   ■

られるものではあるまい。また,固有性をもった個人が,たまたま共通の興味や関心を示すという事

実が,学習の一般性を根拠づけるのだろうか。学習が人間一般に可能である根拠は,人間の主観的な

(12)

       14)

、面にあるのだろうか。少くとも主観的側面にのみ根拠を求めうるとは言えないだろう。教材につい て言えば,何故ある教材についての一般的理解が可能なのかを,子供の心的メカニズムを論ずること で解明できるのだろうか。それを明らかにするには教材のもつ論理構造や機能を,つまり,学ぶこと 教えることと教材との論理的関連を分析せねばならないだろう。そして,学び・教えることの中で教 材がもつであろう本質的作用性・機能性を明らかにせねばならないであろう。

山極真衛は,ヘルバルト及びヘルパルト派の教育学のオリジナリティについて論じたものの中で,

●  ●

こう言っている。訓練が心と心との間の直接的作用であるのに対して「教授は教師と生徒とが,同時

●   ●  ●   o  o   ●

に処理すべき第三者(教材)の介在する間接的」作用であることは「ヘルバルト以来一般に認められ       15)

ト来た(55頁)。(傍点は引用者による∂」しかし「厳密には,全く教授なき教育,即ち第三者を介し ない教育の如きは殆んど考えることができない。訓練と難も何等かの第三者を借りる(55頁洞 「第 三者に就いて見れば,訓練に於ては,それはいわば単なる手段である(とも見えよう一引用者)が,

       ●  ・  ●  ●  ●  ●  ●  ・  ●      15)

ウ授の場合は,それ自身独立的の存在と意味を有し(55頁)(傍点は引用者による)」ている。 ヘル

       15)バルト派においては,「第三者」のこのような意味が「十分に認められて居ない(55〜6頁)」

けれども「教授に於ては教材其者が独立的の存在を有するものとして,その独立の意味が認識せら れ」ねばならないし,教材のもつ「教育的効果も,先づ第一には教材の意味を通して起らねばならな い(56頁)雪)のだから,その教育的有効性の検討はどこに焦点をおくべきか明らかだと言うのである。

果して山極のこの指摘は,どれだけ顧慮されて来たであろうか。直接的にはヘルバルト派の教授学 にふれた文章ではあるが,ここには教授学,ひいては教育学にとって示唆的なものがあると言えよう。

1皿・2・ 教材のもつ論理性と機能性について

教材の有する論理性と機能性については,既にエリ・エス・ヴィゴツキーが示唆に富む見解を示し ている。彼は生活教材と学習教材との区別を主張し,この相異性に注目しながら発達の問題を論理的 に把握しようとしたと言えよう1 F)もっとも彼が重視したのは,発達の把握であって教材の把握ではな いのでこれについての十分な考察はみられない。

小倉金之助も注目すべき指摘をしている。「数学の教材なり,方法なりを規定するものは何かと言 えば,それは二つの要求である。一つは内部的の要求,一つは外部からの要求である。内部的の要求 とは,数学自身の発展に伴って,理論や応用が進歩もし変化もするから,その方からだんだん内容や 方法を変えてゆかなければならないというのである。外部からの要求とは,これは種々のものに分た れるが,ごく大雑把に言うと,他の種々の科学の発達,変化,特に社会状態の変化である。この変化 により,社会が数学に要求するものが変ってくる。かように内部の発展と外部からの要求との間を注 意深く分析し,その関係を瞭かにして,内部的のものと外部的のものとの統一を図り,総合的に考え       17)

ト数学の教材及び方法を改造することが必要なのである(132〜3頁週

小倉の発言は戦時下のものであるけれども,論理的には貴重な指摘である。教材が内部的要求と外 部的要求とによって規定されるという観点,そして両者の統一を図り,教材を改造してゆくという観 点は教育学にとって自明のものとなってはいないかもしれない。が,現代において例えば物理学や数 学の分野では,資本主義国社会主義国のいずれにあってもノーベル賞受賞者の多くが初心者向けの教 科書を積極的に書いているのは,単なる偶然の一致なのだろうか。そのことには種々の問題もあり,

必ずしも理想的状態であるとは思われない。とは言え,単なる利益追求のためになされているのでも あるまい。日本においても,〈家永・教科書裁判〉があり,同和教育や平和教育は教科書問題という

18)

形において問題となっている。更に,伝習館高校問題があって,係争中である。

(13)

教材を規定する内的要因と外的要因は,当然学ぶことに対しても教えることに対しても規定要因と して作用するだろう。内的要因は,まず何と言っても学ぶこと・教えることに恣意性を許容しない条 件となる。学習者の恣意的理解が許容されない。所与のものとして,それをそれとして正しく理解す ることが,教材に関してまず必要である。これらのことは家永・教科書裁判においても,何を教材と するか,その規定の仕方をめぐるヴィヴィッドな問題となっている。極めて大まかに言って,真理と 教材は相即すべきで,ここにはあらゆる権力的介入を認めないという考え方と,真理は尊重するが何 を教材と決定するかに関しては教育的な配慮が介在する必要があり,それについて責任を負うのは国 であるという考え方とに大別できよう。この論争において,内的要因については学問それ自体に関る かたちで十分に展開されているとは言い難い。というより,内的要求についての判断基準を一義的に 確定しえないので困難なのであろう。その問題は自然科学にあっても人文・社会科学にあっても共通

の困難であろう。

一義的に決定しえないというのは,小倉に従えば数学自身の発展,理論や応用の進歩や変化が一義 的には決まらないからであり,何を確定的な知識とするかあるいはしないかの判断も,Wハイゼン

       ・…  。19)ベルクによれば「観測のしかたによって,はじめてきめられる」      からである。即ち,知られるべき

ことは既に確定していて,人間はただそれを見つけ出せばよいのではないので,知られるべきことは 観測によって決められるのである。観測によって決めるというのは,そもそも一義的なことではない ということである。観測するものと観測されるものとの関係が基本的に重大な事となるからである。

にも拘らず,一度決められればそれは確定的なものである。ただ,決めることには時間的・空間的 要因がからんで来る。何をどの範囲において決めるのか,決めることにとって時間は無制限に許され ているのか。その上,学問そのものが複雑な現象を扱うものである場合には,それが原因となって決 めることがむずかしくなることもある。教科書裁判においても,だから論争はほとんど人文・社会科 学の分野においてなされていると言える。Nウィーナーは,これらのことについて言っている。「現 象が観察者とある程度以上離れている(切り離しうる)」場合は,観察が現象に何の影響も及ぼさな いと考えてよいが,人文科学や社会科学においては「観察者と観察される現象との結合を最小にする

      20)

アとが最も困難になる」ので,その場合「観察者は現象に大きな影響を与えうる司

時間的・空間的要因の外に,重要なものとして実践との関係があるQここでは問題はより複雑にな る。何をどの範囲において学ぶ・教える対象とするのか,その決定のために時間はどのぐらい許され ているのか,いま・ここで有効たるべき実践判断とは何かという問題が重層されるからであり,この 判断が実践者を含めたすべての事態に影響を与えるからである。ある実践条件のもとで何をするか,

に際して求められる判断とその有効性,この問題を論理的にまえもって論じ,予測し尽すことができ るだろうか。もし実践条件のすべてを前以ってコソトロールできるのなら,可能であるかもしれない。

だが,少くとも自己自身が下した判断が,自己をその中に含む実践に対してどのような影響を与える かをあらかじめ確定することはできないであろう。何を教材とするのかの判断は,内部的要因に関し てだけでも,相当の困難を伴っていると言えよう。

次に,外部的要因について考えよう。そもそも,外部的要求であるのに教材に対する規定要因とし て作用するのは,何故か。また,いかに作用するのか。外そう的,偶然的にかそれとも内的要因が作 用するための不可欠の作用なのか。というよりは,教材が内的要因のみによっては十分に規定されえ ず,外的要因によっても規定されるのは,どのような理由によるのかと設問すべきかもしれない。

いま・ここで有効たるべき実践判断の問題は,既に外的要因と接している。いま・ここでという条

件は,我々の如何ともしがたい所与である。自己自身も自己にとっては所与である。一般に初期条件

(14)

は所与であって,その代りに我々はそれらのうちのどれかを選択することができる。ここに判断や実 践の自由が必要とされる理由が存する。実践にとって,いま・ここでという歴史的・社会的条件,そ して類的存在としての人間の問題は必然的なもので,それらがなければ実践は成立しない。その上,

これらの要因にとって,何を学ぶかの判断が有効性をもたねばならない。歴史,社会,人間にとって Wertfre iな判断はありえまい,もしそれがありえたとしてもそれは実践の論理にとって意味がある のだろうか。この三者にとっての有効性や有効な作用とは何か。本質的には,実践そのものの中で問 題とされるべきことであろう。その際,もちろん,その時その時における有効性と,あるべき有効性 とは必ず相即するとは限らない。だからと言って相即しないことに拘泥し,その時々の有効性を否定

●   ●   ●   ●   ■  ●   ●  ●

的にみるのは,相即しないことにいかなる原因があるかを忘れたものであろう。かくあるべきことが あらゆる場合に事の是非の判断にとっての基準となるのだろうか。三者にとって有効であるというこ とは,それら一つ一つのものについて1対1対応的に有効であるということから自動的に結果するだ ろうか。歴史という観点でみれば矛盾だがある社会にとっては正しいとか,社会にとっては矛盾だが 個人にとっては正しいとか,人間にとっては矛盾であっても個人にとっては正当であるということは,

日常しばしば経験することである。ただ,この逆のケースは必ずしも体験しやすくないので,このこ とに含まれる問題性の認識は前者のケースに比してむずかしいのかもしれない。個人や人間が正しい と考えて実践したことが間違いであったと判明するには,時間の経過も必要であるし……。

●   ●   ●

従って,三者にとっての有効性の問題は,一見矛盾した形をとることもあろうし,度合いもさまざ まに論じられようQ個人と社会・歴史との関係が緊張したものである場合には,有効性の確認は相当 に困難ではあろう。とは言え,何を学び・教えるかの判断はそれら三者に関する有効性という観点な

しにありうるのだろうか。たとえ矛盾したものと写ったとしても,あることを有効だと決めることが 実践の前提となる。何が有効であろうかを見極めることより,いま・ここで何を有効と決めて,それ を手がかりとして問題解決にあたるかが重要であろう(言うまでもなく,このような時間・空間的に 限定されたところでの判断が,いかにして普遍性と関連しうるかは重要な論点である)。

さて,何を学び・教えるかを決めた瞬間には,その対象の学習に要する時間的限度が与えられたこ とになる。ある有限の時間内に学びとられねばならないのである。学ばれるべき諸対象はそれ自体と しては等価であるが,〈これを〉と指定された時からは優先順位が生じたことになる(個人の興味関

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心に基づく学習にはこの論理はなくてもよい)。あらゆることを一度に学ぶことは不可能だし,学び・

教えるという実践に内包される論理として,いま・ここで何を学ぶかを決めることが不可欠なので,

それ故に優先順位が決まるのである。一定の時間内に,現実に対する有効な対応をしなければならな いのである。これとは反対に,何を・いつ・どれだけ時間をかけて学んでもよい,というのは個体の レヴエルでの,しかも限定された場合における学習に関してのみあてはまるのではないだろうか。

何を・いつ・どれだけの時間内に学ぶかという条件なしに,学ぶ・教える行為が成立しうるのだろ うか。この条件は主観的なものではなく,客観的に与えられるものであろう。この条件に対応したも のとして,では,〈発達段階に応じた教材配列〉があるのだろうか。なるほど,ここでは学習の質的

・量的展開と時間の経過とが関連づけられているように思われる。だが,発達段階というものはあら ゆるものの学びとりを許容する概念なのであろうか。いわば一定の方向性をもたない,あらゆる方向 の可能性を許容するのであろうか。

これらのことに関しては,Rヤーコブソンの失語症の研究は興味深いものであろう。特に,言語

       21)

K得あるいは習得障害の不可逆性の問題は最も重要な点である。EH.レネバーグは言語習得の生物

学的側面についての研究において,ヤーコブソンの指摘を広範囲にわたって裏付け,特にく言語学習

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