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朝鮮人労働者考

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朝鮮人労働者考

その他のタイトル Some Reflections on Korean Workers

著者 西岡 孝男

雑誌名 關西大學經済論集

巻 12

号 3

ページ 265‑286

発行年 1962‑09‑20

URL http://hdl.handle.net/10112/15476

(2)

( 1 )  

朝鮮人労働者がわが国の労働市場に登場したのは︑第一次世

界 大 戦 以 降 の こ と で あ る ︒

﹁ 福

00

炭山の資本主は現に朝鮮の労働者を 明治三十年︑わが国最初の労働組合として結成された鉄工組

( 2 )  

合 の

機 関

紙 に

と謂ふ労働者は朝鮮より吾国労働世界に来らんとす知らす将来

如何なる現象を呈するや労働社会に影響を及ぼすこと夫以大な

るべし﹂とある︒これは朝鮮人労働者に注目した最初の発言で

朝 鮮 人 労 働 者 考 ︵ 西 岡 ︶ 雇ひ来り使用に供するとかや今尚第二回の依頼を申送り何百名 に日本の賃労働形成に与える意義を考察したものである︒ ついて︑登場の経過︑朝鮮よりわが国への流出の原因︑ならび 以下は︑戦前のわが国の労働市場に登場した朝鮮人労働者に

研究ノート

五 五

に就きうるようになっても︑第一次世界大戦のころまでは︑日 朝鮮は︑明治三十八年の日韓議定書により︑事実上︑日本の あ

る ︒

この文章は︑排日運動を行ったアメリカ労働組合の態

度︑すなわち異民族労働者の低賃金労働に対する脅威感を想起

せしめるものがあるが︑事実においては︑明治時代に朝鮮人労

働者は極わめて少なかった︒わが国の法律制度がこれを阻止し

( 3 )  

ていたし︑またわが国の経済発展は︑明治においては︑外国人

労働者の移住問題を生ぜしめるほど大きなものではなかった︒

植民地となり︑明治四十三年八月二十二日︑日韓併合条約調印

によって︑日本の領土となった︒日本が朝鮮を併合して︑朝鮮

人が外国人としてではなく︑法的に日本人と同様に各般の職業

本に渡航するものは極めて少なく︑.わずかに︑行商または土工

( 4 )  

作業等に従事するものがあるにすぎなかった︒

朝 鮮 人 労 働 者 考

西

  一.

—·-·-一ニ-· 一 ‑ ‑ ‑

(3)

2bb 

こ ︒

i

お い

て ︑

関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第三号

しかし第一次世界大戦下︑賃金の昂騰︑労働力不足に悩む内

( 5 )  

地の資本家が︑低賃金でしかも長時間激しい肉体労働に耐える

朝鮮人労働者を需要したことから︑日本に渡航する朝鮮人の数

が急激に増加した︒その数は︑大正九年以降︑わが国経済が一

転して不況に突入しても低下しなかった︒昭和三年の金融恐慌

時には渡航者数年間一六万人を数えるにいたっている︒もちろ

そのほとんどは労働者であり︑ 調査の示すところによれば︑

( 6 )  

﹁内地に来往する朝鮮人労働者は殆んど農民であって︑何等機

械工業労働の訓練も知識もないもの﹂である︒彼らの大部分

は︑不熟練労働者︑日稼人足︑手伝︑土方として︑都市の下層

わが国の労働市場が来日する彼らに広く開放されていたわけ

ではない︒朝鮮人労働者の多数の渡航は︑そのまま﹁失業の輸

入﹂といわれた︒彼らは来日の当初から過剰人口であり片足

その半数近くを占めたのが︑ 朝鮮人労働者であっ

的ないし社会的基本要因が存在しなければならない︒ だろうか︒そこには朝鮮における彼らの移出を必然化する経済 和四年から十年にかけて行なわれた東京府下の失業者登録制度 は︑つねに被救値的窮乏の泥沼につっこんでいたのである︒昭 アイルランド人において︑朝鮮人労働者の如実の姿をしのぶこ ﹃ イ ギ リ ス に お け る 労 働 者 階 級 の 状 態 ﹄ に お い て 描 く と こ ろ の ︑ に滞留し︑あるいは鉱山労働者となった︒ スラムが現出する︒かくて︑たとえば︑エンゲルスがその名著 ん︑来日朝鮮人中には︑学生・官吏等も含まれているが︑実態 鮮総督府は︑内地渡航希望者は︑かならずその所轄警察署の紹 介状を携帯すべきことを命じ︑携帯しないものの渡航を︑釜山 等の渡航地で取締ったが︑かかる抑制策も︑激しい人の流れを 五千人を最多とし︑東京︑愛知︑福岡︑兵庫︑京都︑山口︑神 奈川︑広島︑北海道の順であって︑沖縄県の十六名を最少と し︑日本各府県とも︑朝鮮人の居住しないところはない状態で

( 7 )  

あ っ

た ︒

大阪︑東京その他の大都市には︑彼ら特有の普請場から拾い

集めた材木類や石油箱︑板切れなどを点綴した堀立小屋による

と が で き る で あ ろ う ︒

彼らのほとんどは農民の出身であるが︑何故︑彼らがこのよ

うに朝鮮の農村から排出する︑あるいはせざるをえなかったの おさえることはできなかった︒昭和三年末には︑大阪府の八万 それはえんえんたる人の流れ︑寄せてはかえす波である

C

五 六

(4)

(1 )

われわれが日本の歴史をひもとくとき︑朝鮮人がわが

国に渡航または移住した記録は極わめて古いことに気

が付く︒例えば︑応神天皇の十四年︵西暦二八四年︶

に︑阿直岐が百済王の使として来朝し︑その翌年に

は︑阿直岐の推薦によって博士王仁が同じく来朝し︑

論語十巻千字文一巻を朝廷に献上している︒中国はす ぐれた文化を朝鮮に分与して︑朝鮮は名目上その属国

であり︑中国の文化は朝鮮を経て日本に輸入されたの

である︒王仁の子孫は河内に居住して西文氏︵カワチ

ノフ︑︑︑ウジ︶を称し代々文筆を以って朝廷に仕えた︒

また︑千三百年前の天智天皇記には︑近江の国蒲生神 前の二郡内に︑百済の移民約二千人を配置したという 記事がある︒さらに千二百四十年前聖武天皇の天平勝 宝六年の記に︑高勾麗人一︑七七九人を︑天正天皇の 霊亀二年に武蔵国入間郡の高麗に移住せしめたという

記事があり︑これらの史実からみても朝鮮と日本とは

古くから交易を行ない︑その間に来往移住が相当行わ れたことが想像されるのである︒あるいは降って︑豊 臣秀吉の文禄・慶長の役には︑これに出征した諸将 が︑朝鮮の陶工その他のものを伴ない帰った︒薩摩

焼︑有田焼︑その他︑筑前の高取焼︑小倉の上野焼︑

平戸焼︑萩の萩焼など︑いずれも朝鮮人の手によって 創始されたものである︒かかる朝鮮人の来往の原因

朝鮮人労働者考︵西岡︶

五 七

は︑一︑朝鮮における社会的地位が高かったものが︑

わが国の招聘によって来たもの︑二︑本国の虐政︑租

税負担の過重ないし本国が減亡したためきたもの︑

三︑捕虜となってきたもの︑に大別されるであろう︒

やがて徳川幕府の鎖国政策によって朝鮮との交易は中

絶されるが︑古来︑朝鮮より日本に渡来したものの数

はおびただしいものにのぼるであろう︒これらはいず

れも全く日本人のなかにとけこんで︑今日ではその痕

跡をとどめていないし︑本稿の主題とする朝鮮人労働

者とは異質のものである︒ここにいう朝鮮人労働者と

は︑単に朝鮮より来往したものではなく︑故郷である

朝鮮をはなれてわが国の労働市場に登場したもの︑資

本主義と運命をともにした無産の労働者である︒

( 2

)

﹃労働世界﹄明治三十年十二月一日︑第一号六ページ︒

( 3

)

明治三十二年七月二十八日勅命第三五二号︵条約若ハ

慣行二依リ居住ノ自由ヲ有セザル外国人ノ居住及営業

ニ 関 ス ル 件 ︶

第一条外国人ハ条約若ハ慣行二依リ居住ノ自由ヲ有セザ

ル者卜雖従前ノ居留地及雑居地以外二於テ居住移転 ︑︑︑︑︑︑ 営業其ノ他ノ行為ヲ為スコトヲ得但ツ労働者ハ特二 ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ 行政官庁ノ許可ヲ受クルニ非ザ>パ従前ノ居留地及 ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ 雑居地以外二於テ居住ツ又ハ其ノ義務ヲ行フコトヲ

得 ︑ ︑

(5)

268 

関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第三号 この但し書に相当する条約または慣行により︑居住の 自由を有しない外国人は︑明治時代︑朝鮮人ないし中 国人以外には︑事実上︑ほとんど皆無といってよい状 態であった︒明治政府は一貫して不許可主義の方針を

と つ

て い

た ︒

( 4 )

日韓併合後︑いちはやく朝鮮人労働者に注目して︑そ の募集を行なったのは︑明治四十四年の摂津紡績会社 てあるといわれる︒第一回の応募者は︑わずかに十六 人であった︒︵武田行雄﹃内地在住朝鮮人問題﹄社会

政策時報第ニ︱三号一

O l l i

︒ ヘ

ー ジ

︶ ︒

( 5 )

以下において内地とは︑本州︑四国︑九州︑北海道︑

沖 縄 を 含 む ︒

( 6 )

大阪市社会部﹃朝鮮人労働者問題﹄大正十三年︑ニ︱

ペ ー

ジ ︒

( 7 )

内務省調︑なお︑渡航︑帰国の差引残高の内地在住朝 鮮人は︑大正二年末にわずかに︑三︑六三五人にすぎ なかったものが︑大正六年末には︑八︑八七八人とな り︑年々漸増と激増の差はあれ︑増勢を示し︑昭和三

年末には︑二三万八︑一 0

二人と大正二年当時の六十 五倍となっている︒昭和九年末は五三万七︑五七六人

で あ

る ︒

ろこし︑馬鈴薯さえも売りつくし︑収穫期に入るまでは︑草の 根︑木の根を食って︑飢えをしのぐ時期である︒また︑秋稲の 収穫期前を稗嶺といい︑この時期に食糧に窮し他から借り入れ なければならない窮民を秋窮民という︒

( 1 )  

朝鮮総督府の調査によれば︑昭和五年における春窮民の数 は、自作農家の一八•四%、自作兼小作農家の三七•五彩、小 作農家の六八・一%︑総農家戸数の四八・三%に当たる膨大な

も の で あ る ︒

﹁断片的に報告される諸事実についてみれば︑膨大な春窮民 はいまや草根木皮ですらもとめられないものの如くである︒全 鮮に張りめぐらされた森林保護網は餓えたる農民がその糧とす べき草根木皮の採取すらも不可能にしている︒平常でも貧窮農 の食物は馬鈴薯︑とうもころし等であり︑最上の部で満州粟︑粉

( 2 )  

米であるところが︑春窮期にはこれすらも喰えないのである﹂︒ は春困民という︒朝鮮の貧農が︑米も麦も︑そして粟︑とうも を春嶺といい︑このとき︑食糧に窮乏するものを春窮民あるい

朝 鮮

に は

﹁春窮民﹂という言葉がある︒麦の収穫の端境期

五 八

(6)

朝 鮮 人 労 働 者 考 ︵ 西 岡 ︶ し父祖蓄積の餘に出ずるものありと雖も︑抑も亦此の種醜穂

五 九

家に巨富を蔵して紳を垂れ︑朱を施き朝殿に錨翔するもの蓋 のを萬石君と云ふ︒今の大官と称し全国各地に土地を所有し 換の程度しか知らなかった︒わずかに重要の都市において︑封 にせる者は︑勿論︑新に一官を得て地方に赴く者も︑誅求掠 奪是れ勉め︑私利を計るに忙はしく︑其の期の満つる頃には 既に所謂萬石君となりて京城に帰臥するもの敢て珍とするに 足らず︒小作米の千石を得るを千石君と称し︑萬石を得るも くりかえされた動乱と災害︑飢餓は︑ますますその生活を悲惨 な

ら し

め た

自給自足的村落生活が一般の状態であり︑商品流通も発達せ

ず︑生活の必需品の生産は農村家庭内で営まれ︑農民は物々交

建的支配層たる王朝︑両班の需要に応ずる手工業が中世的ギル

( 5 )  

ド生産の形態で存在していたにすぎない︒ そこにはなんらの内発的発展力は存在しなかった︒弧立した A ことは意想外にあり︑従来地方の豪族として其の家を世々 ﹁中央政令の欽治せざる韓国に於て︑土地兼併の盛に行はる 他の権門家をいう︒李朝中葉以降︑官途にあたる両班は︑その の末期︑中央政令の行なわれざるに乗じて︑彼らは苛敏誅求に 努め︑私利をはかり︑土地の兼併を行なった︒

( 4 )  

総督府の調査はつぎのようにいっている︒ の事を敢てしたる輩なり︒﹂ ともに彼らによる封建的な私的土地所有が確立拡大していった の

で あ

る ︒

かかる封建的土地所有のもとでは︑農民は生活意慾を喪失す

ることが当然であったし︑おくれた営農方法がそのまま踏襲さ

れたから︑農業生産の発達はまった<阻止された︒李朝下の朝

鮮農村は︑アジア的生産を基礎とする︑過重な封建的搾取のも

とにおける極わめて貧しい農奴的封建社会であった︒いくどか 官職によって土地を授けられ︑これを農民に耕作させた︒李朝 班とは︑大官たる文班すなわち文官︑武班すなわち武官︑その 制を特徴とし︑官僚︵両班︶の先頭に李王朝がたっていた︒両 に転売した︒かくて︑全国の農地が両班の手に集中され︑名実

李朝五百年にわたる政治は︑中国的な中央集権的官僚支配体返遠を怠ったり︑子孫にその土地の支配権を譲り︑あるいは他 胎

す る

がんらい官識を辞すれば土地を返還すべきであるのに︑その かかる農民の貧困は︑とおく李朝時代の土地制度の荼乱に胚

(7)

2,7.0 

の要求であった︒したがって︑朝鮮経済の資本主義化は︑国権 として︑あるいは工業製品の販売市場たらしめることは︑必死 という帝国主義的自給政策の必要から︑日本人の手によって開 非活動的なー—朝鮮経済に衝撃を与えたのは、先進資本主義経 済︑とくに日本経済の進出であった︒

一 年 ︑ 鮮の近代化への転換点である︒日本は同条約に基づき︑明治十 明治八年の江華条約は︑日本の朝鮮進出の第一歩であり︑朝

釜山を開港場とし︑第一銀行の支店を同地に開設︑爾

来︑日本は経済的に不断の進出をつづけた︒明治二十七︑八年

の日清戦争以降は︑朝鮮の輸出入における日本の地位は確固た

るものになった︒朝鮮は日本に︑米その他の農産物︑鉱産物︑

水産物等の食糧︑原料を輸出し︑日本は廉価な綿製品等を輸出

した︒朝鮮経済の開発は︑膨張する日本人口に対する食糧供給

始された︒すでに軍国主義的段階に達した日本資本主義にとっ

て︑狭陰な国内市場で打破し︑朝鮮を食種および原料の供給地

意識のもとに強行せざるをえなかったし︑国権的強力の作用す

るところに飢えた資本が待機し︑両者は互いに︑影の形にそう

( 6 )  

ごとく︑封建的朝鮮経済に衝撃を与えた︒ かかる封建的な自然経済的なーーよどみきった︑停滞的かつ 関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第三号

じたものではなく︑植民地の必要のために外来的に輸入せら る産業革命は︑かならずしもその経済発展の内面的必要から生 による朝鮮経営の基礎的工作が確立する時期であるが︑朝鮮総 督府をはじめ︑道︑郡と系統的官庁に配置された多くの日本人 指導者は︑国権的意識に極わめて旺盛な人々を以ってされたの で︑併合を契機として実施された資本主義化の諸政策は︑なに ものにも妨げられることなく権力的に整然と行なわれた︒土地 所有権の確立︑税制の整理︑貨幣の統一︑契約の自由︑等々は こ

れ で

あ る

これら資本主義的諸整備の進歩にともない︑朝鮮の経済は︑

産業革命の試練期に入った︒自足的経済から貨幣経済へ︑自家

用消費生産より市場生産へ︑土地所有権の移転とこれにともな

う農民離村︑手工業の破壊と機械工業の勃興︑独立的小農小工

業者の消滅と資本家階級の新興︑旧秩序の分解と新秩序の建

設︑これはいずれの国といえども︑その産業革命期に経験した

ところで︑あえて朝鮮に限るものではない︒しかし朝鮮におけ た︒併合から第一次大戦にいたる時期は︑経済的には日本資本 督統治のもとに︑憲兵警察制度︑ いわゆる武断政治を行なっ 明治四十三年の併合後︑日本はいちじるしく中央集権的な総

六 〇

(8)

係を合法化する結果となった︒

村︑一族の共有地であった莫大な森林︑原野︑草原や農民の実

朝鮮人労働者考︵西岡︶

際の占有地までも勝手に自己の私有地として申告した︒所定の

六 に住んだものが多かった︒これらの地主は︑古風な形容を以っ てすれば︑﹁白衣長管﹂︑ながい経済の惰眠をむさぽっていた︒

のみならず彼らは︑従来︑

在来地主の多くは︑地方農村に住居せず︑京城その他の都市

あった︒しかしそれは同時に︑両班や豪族の封建的農奴制的関 法的な所有関係にかえ土地の帰属を明白にしようとするもので 価格の調査︑国地形地貌の調査︑となる︒従来の朝鮮において 了をみた︒調査事業は大別して︑日土地所有権の調査︑口土地 ヵ月の継続事業としてはじめられ︑大正七年十月事業全部の完

土地調査事業は︑総督府の手により明治四十三年より八年十

れ︑産業革命による生産組織の変化︑土地所有関係の変更の結 果︑勢力を占むべき新興資本家階級が事実上植民者である点に

特色かある

C

の培養土壊として生長発展せしめられ︑したがってそこには新 きたされた新しい資本制的なものは︑封建的な諸関係を︑一っ

まず朝鮮経営の基礎的工作の一っとして行なわれた︑大規模 の土地調査事業について述べよう︒

は︑土地私有権が確立されておらず︑土地の帰属そのものすら 明確でなかった︒李朝中葉以降︑次第に土地の売買と兼併が増 加してきたが︑極わめて不明確な私文書の授受によって土地の 売買が行なわれ︑その結果︑偽造の文記が横行する弊も生じて

( 7 )  

いた︒土地調査事業は︑かかる古い封建的土地所有関係を近代

︱ つ は ︑ 在 来 地

期限内に規定された複雑な様式によって申告できない実際の耕 作者である農民は︑従来の世襲的保有から分離され︑不安定な 小作契約下の小作人としての立場におかれた

{J

またこの開︑日

本人経営の土地会社の大土地占取も行なわれた︒土地調査の過 程で︑農民の没落︑階級分化が激烈なかたちで進行したのであ る︒土地調査事業は︑日本にとって朝鮮統治の基礎確立のため に必要な最初の荒療治であったが︑当然︑そのしわをつよく農 民によせ︑階級分化の推進力として作用したのである︒

朝鮮の地主は︑大きく二つの型に分かれる︒

主ともいうべきもので︑李朝の両班貴族豪族を淵源的主流とす る土地所有群である︒他は主として日本から渡来した外来の企 業的地主すなわち営利的な土地投資家である︒突如として持ち しい資本制的なもののなかに︑多分に封建遺制的なものを膠着

( 8 )  

せしめているのであった︒

(9)

272 

な け れ ば な ら な い ︒

貧しい収入の上にかかる重い負担がかかったのであるから︑朝 産高は約一石︑内地の二石余りに比較すればその半分にすぎな 風水害等の天然的災害が多い︒したがって一反歩当りの米の生る︒その報酬は表面は地主の負担であるが︑実際には地主から

その主な役目は小作料の査定徴収および保管を司どることであ

う面積は内地における一戸あたり約一町に比較すれば約五反の 調 査 に よ れ ば ︑ 大 体 ︑ ︱町五反程度である︒この一町五反とい れ︑小作人の生活は著しく不安定であった︒ は︑地主の権力がより強く︑小作権の異動がさかんに行なわ あった︒南鮮地方のように︑裏作が可能で耕作の容易な地方で

を可能ならしめた最も重要な基底たるべきものであった︒

小作料は最高七割︑普通五割の高率であるが︑大正十三年の 調査によれば︑地主のとうぜん負担すべき公課を小作人に負担

( 9 )  

せしめるもの六割七分︑また︑水利組合費︑種子︑金肥代も多 くは小作人の負担である︒小作人の耕地面積は︑朝鮮総督府の 広さであるが︑朝鮮の気候は乾燥的で︑旱害多く︑山野が荒廃

しているため水害が少なくなく︑さらに寒冷︑雹害︑病虫害︑

い︒年の収穫が内地の半ばにすぎない朝鮮において︑小作人の 鮮の小作人の生活は内地のそれよりはるかに苦しかったといわ

不在地主制度の多い朝鮮では︑小作地に舎音を置いてこれを 管理させ︑また秋収員を派遣して小作料の徴収を行なわしめる

ことになっていた︒舎音は︑地主の農村在住の土地管理人で︑

の報酬では満足せず︑﹁妄りに小作地を移動せしめて移作料を 取り︑或いは桝料として小作料納付の際之を徴し或いは検見の 際酒食代として提供せしむる等︑地主と小作人との中間に介し

( 1 1 )  

て種々なる方法で不正の利得をなす﹂︒小作人が地主に対して

弱い立場にあるだけ︑その弊害が甚だしいのである︒

かかる地主の経済的ないし経済外的強制こそ︑在来地主の存在

はれざらんことを期するが故に︑極はめて苛酷なる条件にも甘

( 1 0 )  

んじて服するに至る﹂状態である︒地主の命令は至上のもので あり︑これに反するものは耕地の取上げであり︑生活の断絶で

習の上にあぐらをかく︑過重な小作料と従属的な小作関係

l

に地主の好意を繁ぐことにのみ努力し︑相争って其の地位を奪

関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第三号

料であった︒多年の横暴と極端な搾取をつづけてきた伝統的慣 彼らの存在を可能ならしめたのは文字どおり半封建的高率小作

朝鮮においては小作権を認めない慣習になっているので︑

﹁小作権異動の如きは全く地主の意の尽にして:・⁝小作人は常

(10)

るに至った︒すなわち︑大正九年︑南鮮地方に発生した争議を

端初として漸次各地方に波及し︑争議件数大正十二年には一七

六件︑同十三年には一六二件に達した︒このように頻発する小

作争議の最大の原因は︑小作慣行の欠陥または小作権の異動に

た ﹁

農 場

外来地主は︑東洋拓殖︑不二興業︑不二農業︑鮮満開拓をは

じめとする組織的資本で︑大規模な土地投資を行なって生成し

﹁土地会社﹂である︒朝鮮における農業開発の主導

者は︑総督府官僚とこれら外来地主である︒そこには資本制的

なものと権力的なものとが︑あたかも車の両輪のように︑同時

併 行

的 に

作 用

し た

これら外来地主と小作人との間の小作条件は︑極わめて精細

厳重なものであった︒地主は日本内地における需給を考慮し

て︑官庁と連絡しつつ栽培品目︑種子を定め︑生産技術のすべ

( 1 2 )  

ては︑地主の命令どおり行なわれなければならない︒このため

農民は︑すべての生産手段︑すなわち種子︑肥料︑農具︑農糧

資金︑耕牛などを地主から借りなければならない︒小作料は収

穫物の六割と決定され︑しかもその品質については︑極わめて

朝 鮮 人 労 働 者 考 ︵ 西 岡 ︶ もとづくものに他ならなかった︒

品を優先的に地主に対して返済する義務がある︒農民はこの残

量をさらに商品化して貨幣に換え︑租税公課その他の現金支

出︑あるいは粟その他の食糧の購入にあてる︒春がおとずれる

ころには︑食糧がつき︑やむなく地主に食糧を借り︑食いつな

ぎする︒農耕期になれば︑いっさいを地主の前貸によって生産

( 1 3 )  

を繰りかえすのである︒かかる農民の実態は︑前借奴隷であっ

た︒これらの地主から貸付を受けるものは︑いずれもそうとう

高利であり︑細農はますます疲労困懲におちいったのである︒

荀も恒心なければ放辟邪移為さざるなし﹂と︒外来地主の農場

( 1 4 )  

を調査した久間健一氏はつぎのようにいっている︒

﹁私は嘗って黄海道に於ける巨大なる米作農場に於ける小作

人の所謂﹁不正手段﹂なるものを調査したことがあるが︑この

不正手段の内容を仔細に吟味すると︑それは結局貧故の盗みと

云った感じが強い︒生活の云ひ知れぬ窮乏は農民の精神生活を

喝︑狡智怨恨︑陰謀等一っとして道徳的廃頬ならざるはない

の で

あ る

﹂ ︒

凡 ゆ る 悪 の 源 泉 た ら し め ︑ そこにあるものは猜疑︑欺岡︑恐 孟子日く﹁民の如きは則ち恒産なければ︑因りて恒心なし︑ このような小作慣行の不合理は︑地主小作人の紛争を醸成す厳格である︒小作料を控除した自己の所得分よりさらに借入金

(11)

2.  7 4  

関西大学﹃経済論集﹄第十巻第三号

( 1 )

朝鮮総督府﹃朝鮮の小作慣行﹄下巻︱︱ページ

0

( 2

) 社通九・三・ニ六︑﹃日本経済年報﹄第一七輯︑二八

三ー四ページより引用

C

, ︵

3 )

朝鮮の社会階級は︑李朝時代︑両班︑中人︑常民およ び賤民の階級に分かれていた︒中人とは地方官等︑限 定された官職にあるものをいい︑常民は農工商を業と

するもの︑賤民は最下級民に属し︑白丁︑奴婢︑偏優︑

僧侶の類という︒この間における階級的観念は極わめ

て厳格で︑各階級にしたがって冠婚葬祭︑衣服ないし

言葉の末にいたるまで区別されていた︒たとえば︑賤 民の住家は︑住居瓦葺にしてはならぬとか︑衣服につ いては︑両班は淡青色のものを使用するが︑常民以下

は色物の上衣を着けてはならぬ︑とかである︒常民は

両班から極端に蔑視され︑たがいに婚姻を許さないば

かりか︑同席で食事するとか︑語りあうのさえきらっ

た︒常民に属する小作農民は︑社会的にはなはだしく

低い地位にあった︒

( 4

)

朝鮮総督府﹁小作農民に関する調査﹂八六ページ︒

( 5

)

﹁全然土地を離れ工業技術のみを以て社会的生存の基

礎とし︑之に基づいて権利と地位を保持する手工業者 に至りては僅かに重要の都市に於て之を見るのみ﹂

︵福田徳一︱‑﹃韓国の経済組織と経済単位﹄経済学全集︑

第四巻︶︒

( 6

)

明治三十年代︑主として土地経営の有望な南鮮の土地

の買収に従事した日本人地主の経験談ほ︑当地の情況

の一端を説明している︒

﹁当時この全南に開拓のため来て居った内地人農場の

空気は︑今の満州の武装移民を思ひ出すのでありま

す︒私共が土地の買収に出ますには︑腰にピストルと

望遠鏡を下げまして︑而して二里三里の田舎に出掛け

て農湯としての有望なる土地がどこにあるかを探しに

行くのですが︑その時には︑どこの山で内地人が殺さ

れたとか︑人質に日本人が何人も拉致されたとか︑必

ず耳に致したものであります︒﹂朝鮮最会報第九巻︑

第十一号︑始政二五周年記念︑農事回顧座談会号︑四

ニ ペ ー ジ ︒

また︑明治四十二年︑朝鮮を視察した神戸正雄氏の記

述によれば︑﹁母国人ニシテ朝鮮二於テ巨万ノ富ヲ成

セル者ノ履歴ヲ聞クニ︑市街地ノ買収ニョルモノ比較

的穣当ナル手段ヲトルモノナリ︒其他^高利貸・白銅

貨偽造・人参盗坂及密売︑殻物ノ量目詐取等ニョッテ

産ヲ興セルモノトス﹂︵神戸正雄﹃朝鮮農業移民論﹄

明治四十三年︑阪本楠彦﹃日本農業の経済法則﹄一四

ページより再引用︶といわれる状態であった︒朝鮮に

おいて日本人が会社組織をもって事業を営むもの︑明

治四十三年現在においてその数一

0

二に達している

(12)

︵朝鮮総督府﹃施政三十年史﹂五三ページ︶︒

( 7

) 細川嘉六﹃植民史﹄現代日本文明史第十巻︑二四六ぺ

ー ジ

( 8 )

百町歩以上の大地主を在来地主と外来地主とに分ちそ の戸数をみると︑昭和七年前者三

0 八︑後者七九九と

なっている︒︵田辺勝正﹁朝鮮における小作間題と其 の対策﹂﹃社会政策時報﹄第一八三号四八ベージ︶︒

( 9

) 朝倉昇﹁朝鮮農民運動の展開﹂﹃農業経済研究﹄第三

巻第四号八 0

七 ペ

ー ジ

( 1 0 )

塩田正浜﹁朝鮮の小作問題﹂﹃朝鮮﹄第一八七号一

0

五 ペ

ー ジ

( 1 1 )

朝倉昇前掲論文一三五ページ︒

( 1 2 )

︵1 3 )

久間健一﹁朝鮮における巨大地主の農民支配﹂

会政策時報﹄第二三九号五三ページ︒

( 1 4 )

同﹁朝鮮農業における地主的職能の調整﹂

時報﹄第二二九号一三

0

ペ ー

ジ ︒

﹃ 社

会 政

策 山に火を放って︑そのあとの土地に耕作したものが火田であ

り︑そこへ種子をおろしこれを収穫しで生活するものを火田民

朝鮮人労働者考︵西岡︶

朝鮮には古来︑火田民といわれるものが存在する︒

﹃ 社

六五

火田の寿命を終わるものとして︑その耕作期間も︑ながいもの つ︒かくして雪もとけ陽春となれば︑かねて物色しておいた樹 し︑食糧を借り受け︑しからざるものは付近の有力者︑または

平地帯における農民が当年の収穫をすませ︑収穫物の大半を

という︒朝鮮においては古来︑社会の劣敗者︑逃窟者︑あるい は隠遁者が深山まで侵入し︑

原生林に火入耕作する慣習があ り︑日清戦争当時︑交戦地帯の住民が逃げて︑多数︑高山幽谷 に入りこみ︑火田耕作を始めたころから︑にわかに盛んになっ

( 1 )  

た︑といわれる︒

食いつくした一︑二月の候︑家主はわずかばかりの家財道具を

とりまとめ一家全族を引きつれて︑雪の北鮮奥地にはいりこ

む︒目的地についたときは︑ほとんどその日からの食糧に窮す

るのが常態である︒この場合︑彼らは︑親戚知己がおれば寄寓

地主に泣きついて収穫物を担保として食糧と農耕資金を前借り

し︑かろうじて生計を維持しつつ四︑五月の火入れ耕作期を待

木をきり倒し︑そのやや乾燥するのを待って火を放ち焼けてで

きた灰と林地固有の腐蝕質を肥培力とし︑開墾初年の馬鈴薯ま

たは粟の作付けからはじまり︑順次︑地力の衰粍するにしたが

い痔地にたえうる作物を選び︑最後にそばの収穫をもってその

(13)

276 

民 と な っ た も の も あ る ︒

( 3 )  

朝鮮総督府の調査によれば︑昭和六年末現在で︑全鮮におけ れた労働者であって職を失ったものが︑付近の山に入って火田 窮民であって入山するものがあり︑土木工事または鉱山に雇わ いきずまって新生活を求めるものが多く︑また︑都会における 果︑劣敗者となって窮迫して郷里を立ちのくもの︑重い負債に 大正︑昭和年代に入り︑平地帯にあるものが︑生存競争の結 草根︑撤芽を漁りて食し︑衣服の如きは単に身に纏ひて寒を漸

全鮮農家階級の推移状況をみると︑大正三年には︑地主一・

火田民の生活は︑あたかも水草を逐って放浪した遊牧時代の原 <凌ぐに過ぎざるものを着用し︑露命を繋ぎ居る状態⁝﹂と︑ これまた朝鮮農民窮乏化の象徴である︒ 関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第三号

で十数年を出ず︑通例は四︑五年にとどまり︑さらに他の適地

を求めて移動し︑火耕をくりかえす︒その農法は︑極わめて原

始的な数千年の昔と異なるところのない掠奪農法である︒

( 2 )  

総 督 府 の 調 査 は い う ︒

遅 る

A

は勿論にして︑教育︑衛生等に対し没交渉にして︑社会

の共同生活を為し得るやも疑る 4 程にて︑貯蓄銀念は一般に欠

如 し

︑ 全

く 生

活 に

余 裕

な く

︑ ⁝

・ ・

・ 食

糧 欠

乏 し

来 る

時 は

︑ 樹

実 ︑

始人さながらの生活である︒ の一割五分を占める広さである︒その耕作戸数二六万九千九百 余︑火田民一三九万九千四百余人であった︒

かかる火田民が膨大な数を示し︑

苦しい生活をするよりも︑山地帯に入って火田耕作する方が︑

という結果にほかならなかっ 生きてゆくことが容易である︑

( 4 )  

こ ︒

( 1

)

朝鮮総督府﹃調査月報﹄第一巻第四号一 0

三 ペ

ー ジ

( 2

) 同 一

0

九 ペ

ー ジ

( 3

)

﹃ 施

政 三

十 年

史 ﹄

0

七 ペ

ー ジ

( 4

)

橋本伝左衛門﹁朝鮮の火田﹂東京帝大農林経済研究室

パンフレット第六号ニページ︒

八%︑自作ニニ%︑自作兼小作四一・一彩︑小作三五・一%で

あったものが、昭和五年には\地主三・六%、自作一七•六彩、 ﹁由来火田民は交通不便の地に居住するを以て︑世の文化に は︑おどろくべきことといわなければならぬ︒それは平地帯で それが年々増加したこと る火田面積︱二万四千余町歩︑すなわち朝鮮における耕地面積 六六

(14)

朝 鮮 人 労 働 者 考 ︵ 西 岡 ︶ これによって九二

0

万石の産米増殖をはかろうとするものであ ち四

0

万町歩を改良し︑またあらたに開墾千拓によって開田総問題の解決を第一義的目的としていた︒

六 七

を産米計画で賄おうというものであり︑なによりも内地の食穏 歩は降雨の如何によってその収穫の多少が決せられるいわゆる

0

万石の供給を受けなければならない︒その差額の五

00

万石 漑の設備を有するものわずかに三

0

万町歩︑残余の︱ニ︱万町達していた︒十年後の内地人口の増加を考慮すれば︑

1

00

穀輸入を受け︑その輸移入額は︑大正九年当時︑五

00

万 石

腹業が主たる産業であるけれども︑土地の改良が怠たられ︑農も︑明治三十年以後は︑国内産米の不足を補うため外国より米 から実行に着手された朝鮮産米増殖計画である︒朝鮮は由来︑ かかる階級分化促進の一因とも考えられるものは︑大正九年

耕の方法も粗放的であった︒沓︵水田︶一五四万町歩のうち灌

天水益である︒増殖計画は︑これら天水沓の約三分の一すなわ

計 八

0

万町歩の事業を三十ヵ年間に完成しようというもので︑ を有するのもまた当然であった︒豊葦原瑞穂国を誇ったわが国

産米計画において国家資本による耕地の改善が主として水利

組合によって強行された︒大規模水利は関係土地の兼併もしく の発達を意図する以上︑植民地の産業開発が︑資本主義的特徴 ︱町歩に減少している︒零細窮乏化の過程が明瞭である︒ ものであることは当然であった︒そして植民地が資本主義経済 あって︑植民地政策としてはまず第一に腹業が改良せらるべき 戸の増加をみ︑その結果︑農家二戸当りの耕地面積は︑大正十 朝鮮人口の八割は牒業に従事する︒胆業は朝鮮の主要産業で 自作兼小作三一彩︑小作四七・八%となり︑自作兼小作の減退 いちじるしく︑地主︑小作が激増している︒多数の農民が土地 を喪失し︑その結果︑階級分化がさらに激化したのである︒耕 地面積は︑大正十三年末の四五六万五千町歩から昭和八年末に は四八五万五千町歩と二八万七千町の増加をみたが︑この間︑ 農家戸数は︑二七

0

万四千戸から三

00

万 九

千 戸

へ ︑

約 一

1

0

三年末に一・六八町歩であったものが︑昭和八年末には一・六 備えうる︑因思想善導ひいては朝鮮統治の上に多大の貢献をな

( 3 )  

す ︑ の 諸 点 に あ っ た ︒ 経済ひいては朝鮮経済の向上をはかる︑固朝鮮内の需要増加に める︑国内地移民問題解決の一助とする︑四朝鮮における農業 は ︑

H

帝国食糧問題の解決に資する︑口貿易関係を順調ならし る︒この計画の促進理由として朝鮮総督府の発表したところ

(15)

278 

た ︒ 産 米 増 殖 計 画 は ︑

﹁ 昭

和 七

年 に

と共に︑反面この営業が生活維持の補充的立場にあるため︑そ ﹁地主の高率小作料収取を可能且つ確実ならしめる条件である これを要するに︑自然経済の破壊と農産物の商品化であっ 炭製造︑漁業︑製織︑木材運搬等も行なわれたが︑

そ れ

は ︑

関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第三号

なく大地主に収奪され︑膨大な農民の土地離脱が行なわれたの

生ぜしめた︒この計画実施後︑大正十四年末まで六年間の土地

改良面積はわずかに九万町歩にすぎなかったが︑他方︑内地に

対する米の移出は激増したのである︒朝鮮人がこの交換過程で

立 っ

た と

こ ろ

は ︑

( 4 )  

幣﹂であった︒すなわち朝鮮人は品質内地米に近い高い朝鮮産 ﹁より少なき食物上の享楽とより多くの貨

米を売って︑廉価な雑穀を買ったのであり︑それだけ彼らみず

から食う自由は制限されたのである︒

﹁昭和二︑三年頃より起りたる財界の不

( 5 )  

況につぐに昭和五年の大豊作の影響﹂という内地の食糧需給状

況によってその進行が事実上停止し︑さらに︑

( 6 )  

ける内外地の大豊作は益々米穀統制問題に拍車をかけ﹂︑昭和

九年五月をもって中止されるに至っている︒増殖計画は︑

課の増加は︑朝鮮の多数の農民の生活を破壊したのであった︒

しかも朝鮮の人口は併合いらい急激な増加を示し︑増加率は

( 7 )  

内地のそれをはるかに上廻っていた︒さらに第一次世界大戦以

農業恐慌も深刻なかたちであらわれてきた︒零細農民が前記

て︑階層分化の進行にともない大量の零落農民が︑不完全就業

にある農民として欝積させられたのである︒

農村における過剰人口の圧力はその人口支持力のほとんど極

限にまで押しやられていた︒朝鮮農民が収入の不足を補う副業

としては︑わら細工および日雇い労働が一般化し︑その他︑薪

の労働に対する支払は極わめて低廉なるを普通とする:・⁝牒村 て︑いわゆる飢餓的商品生産者としての役割を果す過程におい のごとく︑対内地貿易における商品的生産物の生産の主役とし ために︑その唯一の重要産物である米を売るの必要をますます 朝鮮農民にそれだけ多くの租税納付に必要な貨幣を収得しうる 降の本格的な景気変動の波にゆさぷられる時代に入ってから︑ ならない︒その他︑租税増徴︑ことに朝鮮酒に対する増税は︑ の貨幣負担を課した︒農民はまず水利組合費を支払わなければ であった︒また計画の実行それ自身が︑朝鮮農民に︑より多く 国食糧問題の解決﹂には資したが︑貨幣経済の突然の侵入と公 おいて灌漑田の創出は遂行されたが︑地域内の零細所有が容赦

﹁ 帝

は協同なくしては実行し難いところである︒アメリカ式規模に

六 八

(16)

( 8 )  

過剰労働力消化の見地からは︑ほとんど無きに等しいもの﹂で

( 1

) 善生永助﹁朝鮮農家階級の推移﹂﹁朝鮮﹄第二四二号︑

五 一 ー ニ ペ ー ジ ︒

( 2

)

田辺勝正﹁朝鮮に於ける小作問題とその対策﹂﹃社会

政策時報﹄第一八三号︑四八ページ︒

( 3 )

矢内原忠雄﹁朝鮮産米増殖計画に就て﹂﹃農業経済研

究﹄第二巻第一号︑七ページ︒

( 4

)

同 一

五 ペ

ー ジ

( 5

) ︵6

朝鮮総督府﹃施政三十年史﹄三一 0 )

ベ ー

ジ ︒

( 7

)

﹁併合当時の明治四十四年に於ては︑一千三百八十三

万余人であった総人口が︑昭和八年末には二千二十万

余人に増大し二十五年間に於て実に二倍の膨張を呈し

た﹂︵高橋亀吉﹃現代朝鮮経済論﹄三九三ー四ページ︶︒

(8 )

沢村東平﹁朝鮮農業の労働組成﹂﹃社会政策時報﹄第

二 0 八号︑一三一ベージ︒

たるものであった︒

朝鮮人労働者考︵西岡︶ 第一次世界大戦の大正七︑八年の頃から︑朝鮮に︑鉱業︑似 農村における過剰人口を吸収すべき都市産業の発展は︑徴々 あ

っ た

六九 義工業が発展したのは昭和六年の満州事変以降のことである︒ るが︑そのほとんどは中小工場である︒朝鮮に大規模の資本主 る︒第一次大戦後︑日本人資本家の朝鮮半島に進出したもの ﹁土地も安かった︑米も食糧

も安かった︑其の上会社令で許可制度を採ったから︑権利関係

も加はって朝鮮の企業熱は斯くも昂まったと見られる︒併し労

( 1 )  

銀の安かったことが主因をなしたのは間違いない﹂と述べてい

鉱業における日本鉱業︑日本金属︑三菱製鉄︑工業における朝

鮮紡織︑小野田セメント︑日本陶器︑大日本製糖がその主なも

の で

あ る

しかし︑朝鮮民族独立運動の最も大きな現われである大正八

(2) 

年の万オ事件は︑日本資本の朝鮮進出に対し非常な不安を与え

た︒工場数は︑明治四十三年一五一︑大正六年一︑三五八だっ

たのが︑大正十年二︑三八四︑昭和三年に五︑三四二になってい

労働者数は︑昭和六年六月現在でも常時一

0

人以上の労働者

を使用する工場は︑一︑一九九︑労働者六五︑三七四人︑鉱山二 ついて総督府機関誌﹃朝鮮﹄は︑ 鉄・造船等の大中各種の工業が内地より到来した︒その原因に 業の無かった朝鮮に︑紡績・製糖・製紙・製粉・セメント・製 通業︑建築業の各産業が発展し︑それまでに何等の見るべきエ

(17)

a a o  

対して︑休憩時間は如何に配置され︑かつどれだけの時間であ わなければならない︒では︑この︱一時間余りの実労働時間に 民的窮乏の反映に他ならない︒ これら年少女子労働者の実働労働時間は︑ 状態を明らかにし得ないが︑前記の調査からも低賃金長時間労 労働者が八%︑一五オより一八オまでが六一彩を占めている︒ 製糸女工の賃金は五

0

銭 以

上 で

あ っ

た ︒

一五銭である︒これに比ぺこの調査時である昭和八年の内地の めて低い︒平均二五銭︑養成工は最高一五銭︑最低七銭︑平均 ころすらある状態であった︒これらの労働に対して賃金は極わ 束時間︶︒朝鮮における労働保護法規としては︑朝鮮鉱夫労務 二時間の激しい労働を終えて綿の如くなった身体を休ませる寄 間以内のものは︑‑一九九工場中六七工場︵五彩強︶であっ 労働条件を前記の工場労働者についてみると︑就業時間九時 の休憩時間が存するのみであり︑午前中に休憩時間を与えてい 関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第三号

一三︑その労働者三

0

0

九 三 人 ︑ . 合 計 事 業 場 一 ︑ 四 ︱ 二 ︑ 労 働

者数九五︑四六七人にすぎない︒この他に︑道路・河川・水道

•鉄道・港湾・開墾等の土木工事及び砂防工事、建築工事等に

( 3 )

従事する労働者数︑推定約六万人といわれる︒

て︑約半数は︱二時間以上の就業ということになっている︵拘

扶助規則︵昭和十三年︶と朝鮮船員保険法施行規則︵昭和十五

年︶の二つのみで︑工場法は施行されなかったから︑工業の女

子児童労働に相当の長時間労働が行なわれたのも当然の成行き

で あ

っ た

( 4 )  

総督府の一調査によれば︑製糸業においては︑一四才未満の

最長︱二時間三〇

分︑最短九時間三

0

分︑平均︱一時間以上である︒内地の製糸

H

場の約六

0

彩 が

0

時間であるのに比すれば︑相当長いとい る所は二︑二の工場にすぎない︒しかも朝食の時間が概して短 かく︑昼飯の時間も大部分は三

0

分にすぎない︒しかも此の中

には休憩時間も食事をとる時間も含まれている﹂といってい

る︒朝六時から途中わずかの朝食の時間をのぞき約六時間働き

昼食をかっこんでさらに働くことになる︒年少の女エ達が約一

宿舎は、一人当り平均一 ·O 八畳、狭いところは 0• 三畳のと

朝鮮の労働状態を示すこの種の調査は入手し難く︑全般的な

働が一般化していたことを推知しうる︒それも︑朝鮮における

雇用機会の狭さ︑古い隷属的要素を多分にもった半宿命的な農 ろ う か ︒ 前 記 調 査 は ︑

﹁ 多

く の

工 場

は 午

後 に

0

分 乃 至 二

0

分 七〇

(18)

朝鮮人労働者考︵西岡︶ 力によってやむなく移動するもの︑悶業から見放されたもので 年々没落の運命をたどらざるをえない下層股民は︑窮乏のは 六

﹃朝鮮﹄第一七八号︑七 註

( 1

)

牧山正徳﹁朝鮮の労銀問題﹂

六 ペ

ー ジ

( 2 )

大正八年二月︑東京における朝鮮人留学生が独立運動

会議を開き︑独立請願書︑決議文等を貴衆両談院︑各

国大使館︑各新聞社に郵送した事件が発生した︒これ

を契機として朝鮮における貴族︑学生が︑三月一日︑

京城︑平壊︑鎖南浦︑宜川︑義州︑元山等において︑

独立宜言書を発表︑万オを高唱する示威行進が行われ

た︒この運動は都市だけでなく田舎にも波及し︑三月

から四月にかけて最高潮に達した︒この万オ事件によ

って︑日本の朝鮮統治方針はそれまでの武断政治から

文治政治に大きく転換した︒

( 3

)

命萬兼﹁朝鮮社会事業︵下︶﹂﹃刺鮮﹄第二ニ︱号︑六

九 ペ

ー ジ

(4 )

陸芝修﹁製糸労鋤について﹂

六 号 ︑ 第 七 号 ︒ ﹃調査月報﹄第九巻︑第

て︑最後の手段として離村した︒彼らは内からの押し出される

する意思を有する出稼的性格の労働者である︒彼等が朝鮮にお 多くは故郷の家に妻子を残し︑何がしかの金を得れば再び帰鮮 京城のような大都市の目ぬきの場所にみすぼらしい乞食が網集 こ

ろ で

あ っ

た ︒

汽車︑汽船の運賃を除いた所持金は︑世帯主において皆無のも

の四三%︑五円以下のもの一︱%︑単身者において皆無のもの

( 1 )  

︳ ︱

‑ 四

% ︑

一 ︳

円 以

下 の

も の

0

形︑といった状態である︒しかし

いて受ける賃金と内地において受ける賃金との間に著しき差が

( 2 )  

あり︑かつ朝鮮の貨幣価値が高いことは︑貧窮股民をほとんど

徒手空挙で渡航せしめた最大の経済的要因であった︒ 東京府の調査によれば︑彼等が最初内地への渡航に際して︑ するもの多く︑日本在住朝鮮人の約九割は︑南鮮民の占めると となったのである︒地理的関係から南鮮の窮農民で日本に渡航 ことが︑やがて満州に新しい政治的な危機を生み出すきっかけ していた︒困窮にたえかねて朝鮮から大量の流民が流れ出した

1

万人︑細民四

00

万八千人︑窮民三

0

万人に達する︒ことに た︒朝鮮総督府昭和元年調べによれば︑朝鮮全土における乞食 民となり︑またあるものは都市に集中して窮貧民層を形成し あった︒故郷の股村をあとに満州や日本に出︑あるものは火田

(19)

181 

食事付二円五

0

銭の賃金を支払はざるぺからざるに朝鮮人を使

り︑新たな工事を追って転々とするのを常とした︒集団的に就 と︒多くは︑人夫請負人︑工事場の下請人︑飯場頭等の手によ る勢力は︑確かに︑内地人失業者が所謂不熟練労働者として土 のである︒然りと雖も︑現在彼等が土方︑人夫方面に於て有す

﹁ 労

を 思

ひ 立

て る

も の

あ り

: ・

・ ・

・ 普

通 の

日 傭

農 夫

を 使

用 す

れ ば

︑ 一

用するときは食事を被傭人側の自弁としてもなほ日給一円五

0

銭にても毎日五時より日没まで着実に労働に従事し然も相当の

成 績

を 収

む る

の 利

益 あ

り ・

・ ・

・ ・

・ 地

主 が

朝 鮮

人 の

使 用

を 思

ひ 立

つ は

︱つは労銀の低廉に着眼せる結果ならんも同時に又此方法によ

り幾らかなりとも小作争議の繁を脱せんとするものなり﹂︒

彼らは︑きわめて不規則かつ不安定な仕事にしかありつけな

いとしても︑大阪︑東京︑福岡の大都市に集中した︒在日朝鮮

人労働者中︑工場労働に従事するものの数はその全数に対して

小部分であって︑工場内に労働するものもその工場直接の生産 風潮あるに悩み一部の地主中には内地人に代へて朝鮮人の使用者のストライキをみることも稀ではなかった︒しかし一般に移 如実に示すものである︒ ﹁近時頻々として小作争議の発生する ないし二名の朝鮮人労働者の解雇に反対して一斉に朝鮮人労働 不利な条件の下に甘んじ︑労働に従事しなければならない︒が んらい農民である彼らを︑小規模家族労作経営であるわが国農 業が受け入れた事例は少ないが︑つぎに引用する大阪府下の農

( 3 )  

業労働者の事例は︑内地渡来朝鮮人労働者の労働態様の一半を る︒差別撤廃を要求して多くの争議が発生した︒事業場で一名 動作習慣等の相違から︑内地労働者と比較された場合︑つねに 近代産業労働者として必要な能力と技術はなく︑さらに言語

関 西

大 学

﹃ 経

済 論

集 ﹄

第 十

二 巻

第 一

︳ 一

除き︑多くは助手として︑又︑工場雑役として︑何らの熟練を

( 4 )  

要しない筋肉作業に従事した︒朝鮮人労働者は一般に︑企業に

最後に雇われ︑企業整備に最初に解雇される︒職業の自己選定

の余地が極わめて少ないが故に賃金は最低にまでおしさげられ

動が激しく労働組合を結成しても多くは一時的集合にすぎなか

( 5 )  

っ た

在日朝鮮人の約七割は︑土方︑人夫といった自由労働者であ ︒

( 6 )  

った︒大正十三年大阪市社会部の調査に日く︑彼らは︑

の安きを最大要件となす如き︑余り質の良からざる土木業者の

間に•…・・内地人土方、人夫の最下級の者の手下に使用されるも

方︑人夫の業に入らんとするものを遮るには充分である⁝⁝﹂ の衝に当るものは少なく︑硝子工場︑繊維工場等に働くものを

(20)

情に精通するにつれて単独に就業するようになった︒これらの 働を求めるのを常とした︒

労働市場に賃金の低いものが競争にあらわれるとき︑賃金は その低きに定まる︒かくしてあまり多くの熟練を要しないでた んに体力だけではたすことのできる多くの仕事が︑内地人なみ

( 1

) 東京府社会課﹃在京朝鮮人労働者の現状﹄一九ーニニ

ペ ー

ジ ︒

(2 )

中央職業紹介事務局﹁東京府下在留朝鮮人労働者二関 スル調査﹂︵大正十三年︶ニー三ページによれば︑賃 金差はつぎのとおりである︒

朝鮮人労働者の内地に於て受ける賃金

一般人夫最低一円八 0

銭最高二円五

0

銭普通二円 鮮地に於ける賃金 朝鮮人労働者考︵西岡︶

低賃金要因を形成したといってよいであろう︒ ることは︑戦前のわが国賃労働の本来的な低賃金に附随しての になったのである︒彼らが都市労働市場の底辺に横たわってい の賃金ではなくて︑朝鮮人なみにちかい賃金で行なわれること 外労働者の労働市場に内地人自由労働者の間に交り︑日々の労 ものは大都市の一隅の木賃宿に居住し︑街頭に早朝開かれる屋 業し︑したがってその生活も集団的に営むもの多く︑内地の事

一般労働最低七 0 銭最高一円六 0 銭普通一円

( 3

) 大正十三年内務省社会局﹃労働運動年報﹄一〇六ー七

ペ ー

ジ ︒

( 4

) 大阪府はわが国で最も朝鮮人の多いところである︒大 阪市社会部の昭和六年第三回労働統計実地調査によれ ば︵昭和六年十二月大阪地方職業紹介局﹃管内朝鮮人 在住状況調﹄七ー九ベージ︶︑調査工場のうち朝鮮人 労働者を使用しているもの四五%︑そこに働く朝鮮人 労働者は日本人一

00

に対して朝鮮人八•四の割合で ある︒工場の業態別にみると︑窯業三六・ニ%と最も 多く︑硝子工場は性とんど全部朝鮮人を使用してい る︒これについで金属工業︑繊維工業︑化学工業の順 で︑女子労働者の四九%は繊維工業に働いている︒こ のように朝鮮人労働者が︑窯業︑金屈︑化学等に多く 働いていることは︑これらの工業中に︑劣悪な労働条 件のもとに過激な労働に従事する朝鮮人労働者を受け 入れ歓迎する条件が存在したからである︒エナメル︑

琺瑯︑硝子︑鍍金︑肥料︑メリヤス等の施設も悪く生 産工程も幼稚な中小工場に︑彼らは労働に従事してい た ︒

( 5 )

朝鮮人労働者は︑言語風習の相違から日本人労働者と

完全な意思の疎通をみる場合が少なく︑争議の場合に

おいても全く別個の行動をとることが多かった︒した

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