セビリャ商人ギルドの貿易独占
その他のタイトル The Monopoly of Trade of the Seville Merchant Guild
著者 木田 和男
雑誌名 關西大學商學論集
巻 3
号 3
ページ 260‑282
発行年 1958‑08‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/00021800
問 題 の 所 在 と 対 象 の 限 定
スペイン国内において絶対主義権力が勝利をおさめた時代は︑同時に︑
代であり︑新大陸より莫大な量の責金属︑とりわけ︑
この際﹁銀﹂の対価としてスペインから新大陸へ送られたのが主として﹁工業生産物﹂であり︑その中でも特に織
ー物類と金物類が枢軸的な地位を占めていたことは研究史上すでに実証ずみの事柄に属すぷ︒このようなスペインー
新 大 陸 間 貿 易 ︑ いわゆる西印度貿易は︑王室の緊密な庇護のもとに﹁西印度商館﹂
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セビリャ商人ギルドを軸心とするスペイソ商人の独占圏として展開されていったのである
スペイン工業︑就中︑毛織物工業は大きな刺戟を受け︑ が︑この遠隔地間商業の急速かつ大規模な発展によって︑
②一時期︑史家によって﹁初期産業革命﹂
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と呼ばれる程華々しく開花し︑十六世
紀中頃には︑毛織物工業はスペインの﹁国民的工業﹂にまで成長するに至った︒しかしながら︑このようなスペイ
ン工業の隆昌も長くは続かず︑十六世紀末より次第に衰退に向い始め︑十七世紀に入るとともに加速度的に没落し
ていったが︑それに伴ってヨーロッパの国際関係におけるスペインの比重も低下の一途を辿り︑ l n d i a s
を 起
点 と
し て
︑
﹁スペイン人の領 ﹁銀﹂がスペインヘもたらされるようになった︒ところで︑
セビリャ商人ギルドの貿易独占
セビリャ商人ギルドの貿易独占︵木田︶
アメリカ大陸の探険と征服が進捗した時
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土に太陽の没することなき﹂
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偉容を誇った帝国も十七世紀
以降永続的衰微の状態に陥った︒
スペイソ工業における繁栄と衰退との魚激な交替というこの特徴的な事態をわれわれほ︑
よいのであろうか︒本稿では︑この問題を解くための︱つの手掛りとして︑ セビリャ商人ギルドの貿易独占をとり
③あげ︑それがいかにスペインの国民的発展に阻止的役割を演じたかを明らかにし度いと思う︒
山 大 塚 久 雄
﹁ 近 代 欧 洲 経 済 史 序 説
﹂ 改 訂 阪
︹ 上 ノ 一
︺ 三 七 ー 九 頁 参 照
②
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7 1.⑱アダム・スミスは﹁国富論﹂第四編第七章第一一一節において﹁人口の多い繁栄する植民地の貿易を独占しても︑それだけでほ︑
一国の製造業を起すに足らないこと︑否それを維持するにさえ足らないものであることは︑スペイン及びボルトガルの例が十
分にこれを示している︒スペインとボルトガルとは︑多少大きい植民地を領有していなかったときには︑製造業国であった︒
ところが最も豊富にして最も肥沃な植民地をもつようになってから︑この両国はそうではなくなったのである︒惟うに︑スペ
イソ及びボルトガルにおいては︑独占の悪影響に他の原因も加わって︑恐らくは︑植民地貿易の好影響をほゞ消してしまった
らしい︒﹂とパラドキッカルに述ぺているが︑本稿では︑スミスのいわゆる﹁独占の悪影響﹂を特にセビリャの商人ギルドを中
心に検討することにする︒
西 印
度 貿
易 は
︑
セ ビ リ ャ 商 人 ギ ル ド の 貿 易 独 占
コロソブスの発見以来︑探険と征服とが進むにつれて︑次第にその巨大な姿を世界史の上に現わ
すようになったが︑最初︑
セビリャ商人ギルドの貿易独占︵木田︶
七
一体︑どう説明すれば
一 五
0 三年セビリ スペイン王室はポルトガルの例に倣って王室による貿易独占を企て︑
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ャに﹁西印度商館﹂を設け如︒しかしながらこれは成功をおさめ得なかった︒元来︑王室独占ほ︑ボルトガルの東
印度貿易の如く︑古い文化を有し︑統治の行届いた入口桐密な地方とのいわゆる﹁商館﹂
可能であるが︑先ず探険と征服を行い︑続いてコミュニティの建設にとりかからねばならないような新大陸では︑
②到底成立し得ないものである︒このため︑西印度商館ほ王室の貿易統制の機関に変質し︑セビリャの商人が専ら貿
易に従事するようになった︒このような西印度貿易に従う商人の間で︑組合
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o をつくろうとする動きが︑
一 五
二 0 年代より現われ︑ 一五四三年の八月に至ってついに王室の特許を得て﹁西印度貿易商組合﹂
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の 結
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われた︒ここで一言断っておかねばならないが︑当時のヨーロッパ
と密接不可分の関係にあり︑ スペイン語のコンスラドという言葉も本
④来ギルド・コートを指していたのである︒従ってコンスラドの結成ほ︑当然︑ギルド︒コートの設立をも意味する︒
ところで︑従来西印度貿易に伴って起る運賃︑保険︑合資︑契約︑手数料等に関する商人間の諸紛争の裁定は︑西
印度商館の司法官
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の権限に属していたのであるが︑
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の紛争も益々頻繁になり︑司法官の仲裁判定の遅滞が﹁商人に重大な損害﹂を与えるようになった︒このような事
⑤情が組合結成の大きな動機となったことは確である︒しかし︑それとともに︑否︑それにもまして︑西印度貿易に
よって得られる高率の前期的な利潤を確保するためには︑組合に結集して独占力を強化する必要があったのである︒
前述のように︑新大陸との貿易は︑最初から西印度商館の監督の下にセビリャ一港を通じて行われてきた結果︑
貿易によって得られる﹁法外な利澗﹂はすべてセビリャ商人達の掌握するところとなったが︑
促進のために︑ 一五二九年に勅令を発して︑ カルロス一世は貿易
コルニャ︑ビルバオ︑サンセバスティアン︑カルクヘナ︑マラガ︑カ 6 ディス等の港に対して直接西印度へ向けて船を送ることを許可した︒この勅令ほ︑実際には︑種々の事情によって のギルドは︑ギルド・コート
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セビリャ商人ギルドの貿易独占︵木田︶
西印度貿易の急速な発展に並行して取引上
七四
か つ
︑
セビリャ商人ギルドの貿易独占︵木田︶
カディスよりの輸出はすべてセビリャ・ギルドの﹁規約﹂
七五
颯等のようないわゆる地方物産
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殆ど活用されていなかったようであるが︑それにも拘らず︑ セ ビ リ ャ 商 人 達 は ︑
かかる政策が﹁やがて密貿易の温床となり︑貿易の減退をひきおこすに違いない︒現にビスカヤ地方の船がポルト
ガルを経てひそかに帰航し︑ スペイン関税を逃れている﹂と非難して︑執拗に勅令の徹回を国王に要請した︒其の
⑧一五七三年に勅令の徹回が行われた︒ま
た︑カディスの商人は︑西印度貿易が開かれるようになった当初から︑ セビリャの特権的地位に対して激しく抗争 ︐ し︑カディス港が貿易の起点終点として最も適していることを主張して譲らなかった
6事実︑港としてほ︑グヮダ
ルキビルの河口附近の危険な砂洲を越えて河を二十リーグも遡らねばならないセビリャに較べて︑直接大西洋に向
って開いた広くかつ深い入江に位置するカディスの方が遥かに優れていたのである︒ところが︑西印度貿易の進展
に伴って船舶の規模も次第に大きくなったため︑底が浅くしかも屈曲の多いグヮダルキビル河を遡航することが技
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術的にも困難となった結果︑王室もカディスの主張を一部容れざるを得なくなり︑一五三五年カディスに﹁西印度
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審 判
所 ﹂
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を設置してカディス港からの輸出を認めることにした︒
は︑西印度商館を動かしてカディスからの輸出品を︑
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に限定しようと試みた︒其の後︑後に触れる船団制茫
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が実施されるようになった時︑
ルドはこれを利用して輸出の制当制を強行して︑
ぶ ど
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これに対してセビリャ商人
カディスヘの割当トン数を出来るだけ少くすることに努め︑なお t
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に従うことを要求した︒
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セビリャ商人ギ
このように︑他の諸都市との競争を排除して文字通りの独占を維持する必要性が︑セビリャ商人達を駆って組合の
ハ出
形態をとるに至らせたということが出来る︒以下続いて︑新大陸市場を支配下におこうとするセビリャ商人ギルド 後セビリャ・ギルドのこの主張は︑ フェリペニ世によってうけいれられ︑ 一旦組合をかたちづくるや直ちに︑
セ ビ
リ ャ
商 人
ギ ル
ド の
貿 易
独 占
︵ 木
田 ︶
の異常なまでの独占欲を見ることにしよう︒
スペインは一五八 0 年から一六四 0 年に至る六十年の間ボルトガルを併合していたが︑
の間も注意深く西印度貿易からポルトガル人を排斥するために種々画策した︒例えば一五八九年にギルドは国王に
﹁ティニラ・フィルメに入った二十一隻のポルトガル船が︑商船隊によってもたらされるスペイン商品の
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市場を破壊している﹂と訴え︑ボルトガル商品を没収してスペインヘ送り返すよう要請している︒また先に述べた
セビリャの独占に対するカディスの蚕食を快しとせず︑海に開いたカディス港は強風や海賊を避けることが出来な
いと非難し続けた︒たまたま︑ カディス港は一五八七年にかの有名なドレイクに襲われて港内の全船舶を焼払われ
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るという大被害を蒙り︑続いて一五九六年と一六二五年にもイギリス人の劫掠を受けたが︑これらの一連の事件が
セビリャの商人達の乗ずるところとなったことは想像に難くない︒其の後︑完全な独占を回復しようとするセビリ
ャ商人ギルドの王室に対する圧力は益々強くなり︑
おいても﹂すべてグヮダルキビル河を発してグヮダルキビル河に帰ることが厳しく命ぜられた︒そして二年後にカ
りhu
ディスの西印度審判所はついに閉鎖されてしまった︒さらに︑
になるであろう﹂と唱えて強硬に反対したために︑ 一六六四年に再びもとの特権を回復しようとした時︑
砂"3.の付与は︑密貿易を助長し︑戦時に敵国に対して輸出を許すようなものであり︑必ずや国庫収入を減少させるよう
餅h uマラガの企図もついに実現しなかった︒しかしながら︑セビリ
ャの此の主張が単に独占を維持しようとする﹁商略﹂に過ぎないことは︑
を許可しなかった理由を︑ て い た マ ラ ガ が ︑
王室側が﹁それ︵ジブラルクルに対する特権の付与︶は商船隊を衰類させるものではな マラガと同じようなジプラルクルの請願 セビリャのギルドは︑﹁マラガに対する特権 一五七三年以来︑新大陸との直接貿易から駆逐され 一六六四年に至って︑西印度商船隊は﹁如何なる状況のもとに
対 し
て ︑
セビリャ商人ギルドは此
七六
いが︑この市︵セビリャ︶の貿易商組合の商取引を減少させて組合に損失を与えるものである﹂からであると率直
⑳に表明しているのを見ても明らかであろう︒
こうした極端に排他的な態度は︑
市場圏の間における取引に厳重な統制を加えようと図った︒いうまでもなく︑西印度貿易によって一層高い利潤を
得るためには︑新大陸内部においても市場を相互に孤立分散させておく方が有利であったのである︒われわれはそ
の 一
例 と
し て
︑
七七
植民地相互間の交易
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c U も向けられ︑植民地間の諸分散
スペイン領アメリカとフィリッビン群島との貿易︑
げることが出来る︒周知のようにロペス・デ・レガスピが一五五六年セブ島にサン・ミゲルをおこし︑続いて一五
七一年にマ︱ーラ市を建設して以来︑新大陸とフィリッピソとの貿易がさかんに行われるようになり︑
を通じて廉価な東洋物産
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とりわけ︑中国の絹織物︑綿織物等の織物類が大量にもたらされるよう
になっ勺︒はじめ︑この貿易はアカプルコ︑︒^ナマ︑カリャオ等を拠点として行われていたが︑東亜の物産との競
争によって利益の損われるのを怖れたセビリャ商人は︑王室を動かして一五八七年に南アメリカとフィリッビンあ
固く禁じさせた︒ いわゆる﹁アカプルコ貿易﹂に対する制限を挙
フィリッピン
かつメキシコから中国の織物類をペルー
ティニラ・フィルメに送ることも
1 1一五九一年にペルーは再び︑副王の特殊の免許状を得た湯合に限り︑ メキシコから東洋物産を輸
入することを認められたが︑輸入品はペルーで需要のない商品でなければならなかった︒しかもなお其の後に︑
ジア地域との直接貿易の禁止ほ︒^ナマ︑グヮテマラ等の中米にまで及ぼされ︑さらに一五九三年には︑
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ンとメキシコとの通商も一年に僅か二隻の船︑それも積載量が各々三 00 トンを超えないものという限定をうける
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に至った︒このアカプルコ貿易の禁圧と並んで︑
セ ビ
リ ャ
商 人
ギ ル
ド の
貿 易
独 占
︵ 木
田 ︶
るいは中国との直接貿易を厳禁させ︑
スペイン貿易政策史上の最悪の例といわれる﹁プェノス・アイレ
れた︒ところが︑
其 の
後 ︑
一六五九年に西印度商館とセビリャ商人 一年に一度百トンにも満たぬ船僅か二隻分の商品割当に甘んじな
一 六
ち︑植民当初から甚だしいョーロッ︒^商品の不足に見舞われ︑多数の移住者が﹁インディアンのように獣の皮を身
にまとって﹂生活していたラ・プラク地方では︑移住者達の再三の陳情によって︑
地物産の中︑年間二
000
ブッシェルの穀物︑五
00
クォークーの獣脂及び二五トンの干肉をプェノス・アイレス
港を通じてプラジル︑ギネア等に輸出し︑その対価として彼等の必要とするあらゆる商品を輸入する権利を許可さ
セビリャ・ギルドは︑プェノス・アイレスに輸入される商品がペルーに再輸出されて﹁セビリャ
の貿易に大なる損害を与えている﹂と主張してこのプェノス・アイレスの特権に強く反対した︒そのため︑
八年にプェノス・アイレスの特権もとりけされ︑
ければならなくなった︒しかもなお︑
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トゥクマンに税関を設けて︑プェノス・アイレスからペルーヘの再輸出には
既にセビリャ及びプェノス・アイレスで課せられた規定のアルモハリファスゴ税やアヴェリア税
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y 翌 の上にさらに五 0 彩の関税を徴収するよう要求し t
攻 撃
し て
︑
は︑年間百万ペソに上るペルーの貴金属がアンデスを趣えてプェノス・アイレス港の密輸商人の手に渡っていると
⑳ついに此の良港を閉鎖させてしまった︒ラ・プラク地方の植民者達は︑十七世紀中︑過剰な植民地物産
の販路を開くために︑くりかえし懇願を行ったが︑ セビリャ商人の権力はあまりにも強くて︑その願の実現を許さ ︐ n3 なかった︒そのため︑豊穣肥沃な土地も長い間拓植されないままに放置されねばならなかったのである︒
以上に見てきたようなセビリャ商人ギルドの貿易独占の結果︑新大陸におけるョーロッ︒^商品は常に著しい供給
不足の状態に陥り︑植民地の人々は絶えずその高価格に悩され続けた︒しかも︑植民地における輸入品の価格は︑ ス
問 題
﹂
q u e s t i o n o f B ue no s A i r e sも ま
た ︑
セビリャ商人ギルドの貿易独占︵木田︶
一 六
0 二年に漸く︑豊富な植民 セビリャ商人ギルドの圧力によって行われたものである︒すなわ
七八
セビリャ商人ギルドの貿易独占︵木田︶
品がスペインの貿易に一層大きな打撃を与えた︒ このような密貿易ほ︑
七九
主としてボルトガル︑
フ ラ
ン
セビリャでスペイン商人の名義を借りて取引を行うことが膜 セビリャ商人の利益のために︑
一 五
三 年六月の法令で商人が﹁思いのままに﹂定めて差支えないことが保障され 0
ており︑植民地当局が公定価格を強制することは厳重に禁止されていた︒ことに一五七四年スペイン領アメリカで
アルカバラ税
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が課せられるようになって以後︑この販売税よりの収入を増大させること以外に関心をも 墨 っていなかった王室は︑無暴にも商人の価格釣上げを支持さえしたのであるそれでもなお植民地の人々が﹁その
地の生産物を手放すのは︑主としてヨーロッ︒^品を買いたいから﹂であり︑彼等が﹁ヨーロッ︒^品に対してヨリ多
くの支払をすればする程︑彼等の生産物に対して実際に得るところはヨリ少いということになり︑
罰高価は直ちに彼等の生産物の安価ということになる﹂︒このようにして営まれる貿易が莫大な利潤を生ずるであろ
うということは容易に想像される︒セビリャ商人が西印度貿易によって得る利潤は︑往々にして三 00 彩にも上っ
圃n3 .
たということである︒
このような植民地における深刻なョーロッ︒^商品の欠乏状態と︑そのために得られる法外な利潤は︑却って外国
商人の激しい競争を招くもととなった︒そしてあらゆる密貿易禁止策にも拘らず︑外国の資本が﹁日一日と﹂セビ
バnし
リャの独占に喰い入るのを防ぐことが出来なかった︒外国商人達は︑ スペインの密輸業者と結んでカディスやサン
・ルカルで港内の彼等の船から商品をひそかに西印度商船隊に積み替え︑商船隊の帰航の際に同じような方法でそ
の商品の対価として金銀棒塊を受取るか︑あるいは︑
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5 6
々あったようである︒しかし︑それよりも諸外国から直接スペイン領アメリカに大量にもたらされるョーロッ︒^商
イ ギ
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︑
ス︑オランダ等の商人によって営まれたのであるが︑彼等はヨーロッ︒^商品を廉価に供給したので︑植民者達から
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︒ ^
品 の
はなかったのである︒前節で少し触れたとおり︑
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中 は
︑
セビリャ商人ギルドの貿易独占︵木田︶
り
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熱狂的に歓迎されたばかりか︑時には植民地当局から支持をうけることすらあった︒たとえば︑
は﹁ボルトガル其の他の諸外国からもたらされる貨物が︑
銀其の他の植民地物産と交換されることが当局者によって許可されている﹂とサン︒ドミンゴのアウディエンシア g
a u d i e n c i a
に対して警告を発している︒こうした密貿易は︑植民地地域の拡大に伴って益々大規模にかつ広汎な範
囲にわたって行われるようになった︒
ルトガルの港を出帆する船の数が︑毎年二 00 隻にも上ったということである︒しかも︑これらの織物類がすべて
フ ラ
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︑
イ ギ
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︑
閲
る︒かかる事態に立ち至って︑
こ の
よ う
に ︑
十七世紀の初頭には︑
フランダースからとりよせられたものであったという事実は︑まさに注目に値する事柄であ
セビリャの商人達は︑ イス︒^ーーヨラをはじめ西印度諸島の各地で受取られ︑金
南米太平洋岸向けの絹織物︑
﹁スペインの経済的衰類は政府の無力による密貿易の跳梁に
基くものである﹂とする十七世紀の一般的な見解に賛意を表しているが︑独占を維持しようとする彼等自身の狂気
閲染みた努力こそ外国の競争を招来する大きな誘困をつくったというべきである︒
セビリャの商人ギルドは︑独占の設定によって︑ただにスペイソ国民の大部分を﹁彼等の資本の一
困部分を振り向けることを便利とする当該貿易から排除﹂してその経済的発展を妨げたのみならず︑外国資本の攻撃
を受けて自らの市場を狭める結果になった︒しかも︑彼等の利害そのものも︑自国の生産的土台に密着したもので
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工 業
は ︑
毛織物等を満載してボ
忽然として開けた新大陸市場
における厖大な需要と︑その対価してもたらされる金︒銀のインフレ的効果との二重の刺戟要因によって急速な発 隣 展を遂げたが︑その生産物の価格は︑金・銀の流入の増加に伴って絶えず騰貴していったため貿易商人にとって り
nu
は高価な自国の生産物を買うよりも廉価な外国商品を買い付けて︑それを西印度へ再輸出する方が有利となった︒
八〇
一五六三年に国王
め て
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七 ビ
リ ャ
商 人
ギ ル
ド の
貿 易
独 占
︵ 木
田 ︶
セビリャ商人達と王室との関係を検討することにしよう︒
八
もとより︑商人資本には自国工業の保護育成など思いもよらぬことである︒
箇
3
の法則﹂なのである︒かくしてセビリャ商人ギルドの利害ほ︑次第に国民的利害より遊離して︑仲介商業
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の方に傾いていった︒メルカドに従えば︑ セビリャの商人達ほ西印度へ送るために︑フランダース︑ ︐ 3
ス︑イクリア等から主として織物類を大量に仕入れていた︒そしてハップスブルグ王朝の後期にほ︑西印度商船隊
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の積荷の六分の五は外国商品によって占められていたということである︒いまや︑セビリャ自体が︑﹁外国人にとっ
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M口
て︱つの西印度﹂
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に過ぎなくなったのである︒
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る 国
々 は
︑
ではない︒例えば︑
スペイン工業に大きな威圧を加え︑その圧殺に拍車をかけることとなったのは明らかである︒
いうまでもなく︑この一大商業の外飾と光輝との全部をもつものである︒しかしながら︑
地悪い制限によって排斥を受けるにかかわらず︑他の国も︑この商業の実際上の利益を享受することは︑決して稀
スペイソ及びボルトガルの植民地は︑
⑫諸国のそれとなるが如きこれである﹂という結果に陥った︒そのために︑十七世紀に入るとともに︑
ランダ等の工業の隆々たる繁栄に圧倒されて︑
インの﹁国民的災厄﹂なるに至るのである︒ ﹁アメリカの植民地を領有し︑直接に東インドヘの貿易を営ん
イギリス︑オ
⑬スペイン工業は見る影もなく衰え︑職を失った浮浪者の氾濫がスペ ところで︑以上に述べてきたようなセビリャ・ギルドの独占政策は︑常に絶対王制の政治権力を産婆役として現
われているが︑これは︑
セビリャの商人達が王室財政の有力な支柱をなしていたからに他ならない︒以下︑節を改
スペイン及びボルトガルの産業の奨励となるよりも他の
既にアダム・スミスも明快に指摘しているように︑ こ れ ら の 事 情 が ︑
一 切
の 意
フ ラ
ン
﹁高く売るために安く買うことが商業
セビリャ商人ギルドの貿易独占︵木田︶
山セビリャに﹁西印度商館﹂が設けられたのは︑ヘャリソグによれば︑セビリャが港として優れていたからではなくて︑当時 カスティリャで﹁最も富裕にしてかつ人口祠密な都市﹂であったからであるということであるが︑あるいわ︑その背後にセビ
リャ商人達の積極的な﹁西印度商館﹂誘致運動があったかも知れない︒
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22 ー註.なおポルトガルの初期の東印度貿易の形態に関してほ︑最近ミネソク大学から英訳出阪された︑一五
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勿論︑此の場合でも︑西印度よりの帰路は︑従来通り︑セビリャ
に直航することが厳しく要求されていた︒
切フランス沿岸に近いビスカヤ地方では海賊に襲われる危険性が大きかったため︑商人によっては︑この特権を利用する﹁誘 因﹂が小さかったし︑また︑地中海岸の諸港は︑当時船舶の規模も小さく︑地理的にハンディキャップがあるため到底︑アン
ダルツアの諸港と競争出来なかったということである︒
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9 2 .
法的には︑これらの諸港の船舶も西印度商船隊に参加する権利を
有していたのであるが︑セビリャ・ギルドは輸出割当制を実施して自由な参加を拒んだ︒
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c i t . , p . 9 2 . 皿西印度貿易の開かれる以前には積載量一
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トソにも満たなかった船舶が僅々︱︱
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年程の間に二
00
トンを超えるようにな
ったため︑大きな船はセビリヤ市の河下八リーグの処で積荷を半分卸さなければ河を遡ることが出来なかった︒また
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r d e B ar ra me da という名の通り︑その附近の砂洲は有名な難所で其処を越すために時として一カ月以上も掛ることが
あったといわれる︒
八
一 ... " 旦
Haring,op. cit., pp. 9‑10. R. S. Smith, op. cit., p. 92.塁塁
Haring,op. cit., p. 10. R. S. Smith, op. cit., p. 92. n. 7, n. 9.茎
R.S. Smith, op. cit., p. 110.塁
ibid.,p. 93. n. 13.里
Haring,op. cit., p. 10.§ ibid., p. 14.
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Haring,op. cit., p. 17. R. S. Smith, op. cit., p. 92.忌
R.S. Smith, op. cit., p. 92. n. 8.忌
Haring, op. cit., pp. 143‑146.‑I<縣
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Earl J. Hamilton, American Treasure and the因
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思 図
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思
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ここ Price Revolution in Spain 1501‑1650, p. 37. n. 2 Haring, op. cit., p. 146. R. S. Smith, op. cit., p. 94. Haring, op. cit., pp. 140‑143. R. S. Smith, op. cit., p. 94.
Earl J. Hamilton, op. cit., p. 36. n.
1.
Haring, op. cit., p. 143.ibid., p. 137.
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3胆苗似基凝団
11ギギ嵐Wilhelm Roscher, The Spanish Colonial System, translation edited by Edward Gaylord Bourne, p. 34. R. S. Smith, op. cit., p. 94.Haring, op. cit., pp. 111‑112.
ibid., p. 115.
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7 一五
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四ー五五の五二年間にセビリャから西印度へ向けて出帆した船の数を検べると︑最も多い年︵一五四九
年︶で一〇一焦亡に過ぎなかった/
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o p . c i t . , p . 9 4 . 閲 ア ダ ム
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﹁ 国 富 論
﹂ 大 内 訳 岩 波 文 庫 版 国 一
1一
七七 頁 閲スペイソにおける物価騰貴は︑勿論︑アメリカよりの金︑銀の流入だけが原因ではないが︑金︑銀の輸入の力.ーヴがほぼ物 価のカーヴに照応していることからも︑それが最大の要因であったと言い得るだろう︒
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聞 R.T•Davies`op.
c i t . いわゆる﹁価格革命﹂はセビリャー他のスペイン各地ー他のョーロッパ諸国へと波及していった のでスペイン︑殊にセビリャの為替関係は常に不利であった︒
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﹁ 資 本 論
﹂ 長 谷 部 訳 青 木 文 庫 版
⑨ 四 六 八 頁
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⑫ ア ダ ム
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﹁ 国 富 論
﹂ 大 内 訳 岩 波 文 庫 版 国
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︱ 六 九 頁
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の推定によれば︑一六
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八年におけるスペインの浮浪者の数は︑一五
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に上ったということであるが、その後職業的乞食 picaro の数は急速に増大しているといわれる。 R.T•Davies,
o p. c i t . , p p 2 .
72 ー
2 7 3 .
かくしていわゆる﹁悪党小説﹂
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a が黄金時代のスペイソ文学の特徴をかたちづくることになる︒
セビリャ商人ギルドの貿易独占︵木田︶
八四
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セ ビ リ ャ
・ ギ ル ド と 王 室 と の 関 係
西印度からスペインヘもたらされる金・銀は︑ 王室特権収入やアルカバラ︑アルモ^リファスゴのような課税等
の方途を通じて王財政を潤おしたが︑﹁アメリカの財宝﹂の量の増加に伴って︑イギリス︑オランダ等新教徒国の海
賊︑スペイン人のいわゆる﹁コルサリヨス・ルテラノス﹂
C o r s a r i o s L u t e r a n o s
によって受ける被害も大きくな
カルロス一世は西印度へ向う商船の護衛艦隊
ar ma da de d e f e n s a , a rm ad a c o n t r a c o r s a r i o s
を創設
図する必要性を痛感して︑一九ニ︱年にその準備を命じた︒しかし︑これは王室のみの力で為し得るものではなかった
ので︑翌二二年と二五年とに︑西印度貿易に利害を同じうするセビリャ輸出商人のグループと王室との間に護衛艦
③隊建造の契約が成立し︑一五二六年に﹁六十七名のセビリャ商人と他十二名の者の費用で﹂艤装が整った︒其の後︑
約二十年間︑この護衛艦隊が︑西印度方面から帰航する商船をセント・ペルデ附近で迎えて海賊の防禦に当ること 囚 となったが︑護衛艦隊の出動は極めて不規則で護衛の効果を十分にあげ得なかった︒そこで一五四三年に西印度貿
易商組合が結成されて以後︑組合の役員が国王に商船の保護を要請する責任を負うようになった︒しかし︑なお海
度はついに永久的なものとなり︑
八五
賊の難が後を絶たなかったので︑組合は船団制実施の運動を起したが︑これが功を奏して︑一五六一年頃からこの制
固スペインの貿易形態の︱つの特徴をかたちづくったのである︒そしてセビリャの
商人達は︑この制度を利用して商船や貨物の規模及び数量︑出帆の時期等をすべて彼等の都合のよいように統制し
ていった︒というよりは︑組合の船団制実施運動の背景には最初からかかる意図が含まれていたというべきであろ
セビリャ商人ギルドの貿易独占︵木田︶
は定められた保証金を納めねばならないが︑その期間内に生じ
︐
た利益金は︑請負に参加した者の間で分配して差支えなかった︒このようなアジェントによるアベリア管理権の取
得 は
︑ 王室の財政窮乏に乗じて行われたものであるが︑それによって組合は利益を得ようとしたばかりではなく︑
商船隊に対する統制力を一層翠固にしようと図ったことは言うまでもない︒
また︑組合は︑輸出入商品に対する西印度商館の煩雑な検閲を免れるためにも種々力を尽した︒従来︑検閲に先
立って予め商品報告書類
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を出しておくことが必要であったが︑組合は︑
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王に提供し︑これと引換えに商品報告書類の提出義務の免除を受けた︒しかし︑其の後もなお依然として検閲は厳 ガリア女王のための騎馬行列﹂ アシェントが成立すると︑その請負人
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て ︑
ったかを窺い知ることが出来る︒
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セビリャ商人ギルドの貿易独占︵木田︶
う︒この船団制は︑もともと戦時の緊急措置として採られたものであるが︑
船団を編成しなければ出帆の許可が与えられないことになっていた︒しかるに︑植民地統治の最高機関たる﹁西印
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が︑単独出帆
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許可状を多数発行していたので︑セビリャ 6
のギルドはこれに対して再々厳重な抗議を申込んでいる︒このことによっても組合がいかに貿易の統制に熱心であ さて︑スペイン王室は︑この護衛艦隊の費用を賄うために︑西印度貿易に対する輸出入税としてアベリア
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i a という税を設けたが︑ギルドはこのアベリア管理権を掌中におさめようと企て︑西印度枢機会議を通じて屡々交渉
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︒
一五九一年から一六四二年に至る間の少くとも三十六年間は︑ 組合と国王との協定
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が成立し︑組合がアベリアの一轄管理権を得て︑西印度商船隊の防衛に当っていたと思われる充分な証拠がある︒
に際してその費用二 0 万ダカットを国 一六二九年の﹁ハン 一五二五年頃から既に西印度商船ほ︑
八六セビリャ商人ギルドの貿易独占︵木田︶
八七
ついには強制登録制度の徹 ﹁植民地への出荷準備の整った商品の品質及び数量を公にすることは貿易を壊減させる
ことになるであろう﹂と主張して︑検閲の緩和を国王に強く要求した
3このようにして︑屡々他の諸都市の密貿易
を戸高く非難した組合自体が︑王室によって課せられる重い関税の負担を出来るだけ逃れようとしたのである︒そ
の結果︑十七世紀の中頃より︑輸出品の品質には殆どあるいは全くかかわりなしに︑積荷の総重量若しくは嵩に基
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いて商品価格を推定する方法が一般にとられるようになった︒諸商品の中でもとりわけ新大陸からもたらされる銀
に関しては︑厳密な登録制度が実施され︑若しこれを犯して銀の不正輸入を行う者があれば︑財産没収︑国外追放
廃を策すに至り︑ 等の刑に処せられたが︑組合は︑このような受刑者の特赦︑減刑に奔走したばかりか︑
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一 六
六 0 年にその実現に成功した︒これによっても分るように︑セビリャの商人達は︑国家の重
金主義政策には何等関心をもっていなかったのである︒否︑それどころか︑彼等は銀を樽に詰めてオリーヴや葡萄
5u 酒の如く見せかけ︑大量に国外に搬出して巨富をつくったといわれている︒前節において述べたアカプルコ貿易の
禁圧もプェノス・アイレス港の閉鎖も︑銀の流出そのものよりも彼等の取引の減少を怖れての策動であったことは ハ
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疑 い
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セビリャの商人ギルドは︑前述のアペリアの管理権の他に︑西印度貿易における種種の課税権を有していたが︑
これらの課税権は殆ど王室に対する資金調達の代償として獲得されたものである︒組合の経常支出は︑輸出に対し
Caて誅税されるウナ・プランカ・アル・ミリャル
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といわれる
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五彩のギルド税からの収
入で賄われていたが︑其の上︑組合は︑公証役
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