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仏教文化研究所紀要51 004佐藤, 智水「中国における初期の「邑義」について(下) : 北魏における女性の集団造像」

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Academic year: 2021

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全文

(1)

漢 代 以 降 五 世 紀 ま で の 文 物 、 遺 跡 を 見 て み る と 、 そ こ に 女 性 の 名 前 は お ろ か 、 そ の 時 代 に 行 な わ れ た 事 業 に 女 性 が 積 極 的 に 関 わ っ た 形 跡 を 見 る こ と は ほ と ん ど な い 。 そ の 点 、 南 北 朝 期 に 入 る と 仏 像 を 造 っ て 願 い を 祈 る 造 像 供 養 に お い て は 、 ご く 自 然 に 女 性 の 関 与 を 感 じ 取 る こ と が で き る 。 仏 に 思 い を 寄 せ そ の 仏 の 像 を 作 っ て 自 の 願 い を か な え よ う と す る 行 為 、 そ れ ら を 通 じ て 、 女 性 が 自 己 を 表 出 す る よ う に な り 、 そ の 結 果 、 多 く の 女 性 の 名 前 が 刻 み こ ま れ 、 後 世 か ら 見 る と 仏 教 に 触 発 さ れ た 女 性 パ ワ ー の 発 信 と い う 社 会 的 現 象 を 惹 き 起 こ し た 。 中 国 に お い て 造 像 記 に そ の 名 を 刻 ま れ た 最 初 の 女 性 は 、 金 銅 仏 像 で は 、 北 魏 太 平 真 君 四 年 ︵ 四 四 三 ︶ の 宛 申 造 像 記 の 末 尾 に み え る ﹁ 清 信 士 女 劉 文 姜 、 宛 景 妻 ﹂ で あ ろ う1 ︶ 。 宛 申 兄 弟 は 高 陽 郡 吾 県 任 丘 村 人 ︵ 河 北 省 中 部 ︶ と み え る 。 ま た 、 造 像 の 発 願 主 と し て 登 場 す る 最 初 の 女 性 は 、 北 魏 興 安 二 年 ︵ 四 五 三 ︶ 銘 の 鉅 鹿 郡 下 曲 陽 人 ︵ 河 北 省 中 部 ︶ の ﹁ 清 信 女 趙 路 泉 ﹂ で あ ろ う2 ︶ 。 二 人 と も 清 信 女 と あ り 、 恐 ら く は 寺 院 で 三 帰 五 戒 の 誓 い を 立 て 自 ら を 仏 教 信 徒 と 自 覚 し て い た 女 性 と 思 わ れ る 。 五 世 紀 前 半 の 河 北 地 方 に お い て 在 家 の 女 性 信 徒 が 少 な か ら ず 存 在 し て い た 証 し で あ る 。 石 像 で は 、 同 じ く 興 安 二 年 銘 、 成 休 祖 造 観 世 音 像 記 で 、 そ の 妻 李 蘭 が 最 初 の 女 性 の 名 前 で あ る が3 ︶ 、 女 性 の 石 像 主 と し て は 皇 興 五 年 ︵ 四 七 一 ︶ の 趙 知 法 造 像 記 が あ る4 ︶ 。 一 〇 五 中 国 に お け る 初 期 の ﹁ 邑 義 ﹂ に つ い て ︵ 下 ︶

(2)

女 性 が 造 像 供 養 に 携 わ る 場 合 、 夫 と 共 に 夫 婦 と し て 名 を 連 ね て い る 事 例 が 多 い が 、 当 時 の 社 会 状 況 の 中 で 、 女 性 が 単 独 で 造 像 供 養 を し た り 、 ま た 女 性 た ち が 集 団 を 形 成 し て 共 同 事 業 を 起 こ す こ と の 困 難 さ を 思 う と き 、 北 魏 時 代 に 実 際 に 出 現 し た 女 性 に よ る 集 団 造 像 は ど の よ う に し て 可 能 と な っ た か 、 こ の 点 に つ い て 、 料 を 紹 介 し つ つ 若 干 の 察 を 加 え た い 。 巻 末 に 、 ﹁ 北 魏 に お け る 女 性 の 集 団 造 像 ﹂ と 題 す る 表 を 掲 載 し た 。 二 重 丸 ◎ を 付 し た 造 像 記 が 、 女 性 が 主 導 し た と 窺 え る も の で あ る 。 こ の 表 を 見 れ ば 、 女 性 に よ る 集 団 造 像 が 始 め は 山 西 省 、 河 南 省 、 そ し て 東 は 山 東 省 、 西 は 陝 西 省 に ま で 徐 々 に 広 が っ て い く こ と を 確 認 で き よ う 。 本 稿 で は 、 最 初 に 先 駆 的 な 二 つ の 作 例 ︵ 邑 義 信 士 女 等 造 像 記: 白 盧 恭 等 造 像 記 ︶ を 検 討 し 、 次 に 女 性 主 導 型 と 見 ら れ る ◎ 印 の 四 つ の 作 例 ︵ 王 黄 羅 等 造 像 碑: 尹 愛 姜 等 造 像 記: 張 勝 男 等 百 六 十 餘 人 造 像 碑: 劉 愛 女 等 法 義 兄 弟 姉 妹 造 像 記 ︶ を 解 析 し て 、 女 性 集 団 造 像 の あ り 方 を 地 域 的 環 境 の な か で 察 し よ う と す る も の で あ る 。

北 魏 、 太 和 七 年 ︵ 四 八 三 ︶ こ の 銘 記 は 山 西 省 北 部 に 位 置 す る 雲 岡 石 窟 第 十 一 洞 東 壁 最 上 層 に 刻 ま れ て お り 、 銘 文 に つ い て は 前 稿 を 参 照 さ れ た い5 ︶ 。 こ の 銘 記 の 冒 頭 に ﹁ 太 和 七 年 歳 在 癸 亥 八 月 丗 日 。 邑 義 信 士 女 等 五 十 四 人 ⋮ ﹂ と あ り 、 こ れ が 中 国 最 初 の 邑 義 料 と 受 け 止 め ら れ 、 ﹁ 邑 義 の 信 士 女 等 ﹂ ︵ 邑 義 の 清 信 士 ・ 清 信 女 な ど ︶ と 読 ま れ て き た 。 た だ 、 文 章 中 の 12 行 目 に ﹁ 又 願 義 諸 人 ⋮ ﹂ と あ り 、 17 行 目 に は ﹁ 又 願 合 邑 諸 人 ⋮ ﹂ と あ っ て 、 ﹁ 義 ﹂ と ﹁ 邑 ﹂ と は 異 な る 概 念 と し て わ れ て い る 。 そ う す る と 、 ﹁ 邑 の 義 な る 信 士 女 等 ﹂ と も ﹁ 邑 の 義 信 な る 士 女 等 ﹂ と も 読 め そ う で あ る 。 こ の 読 み に つ い て は 稿 を 改 め て 検 討 す る が 、 い ず れ に し ろ 、 男 性 と 女 性 の 仏 教 信 徒 が 集 団 を 形 成 し 、 協 力 し て 造 像 供 養 に 関 わ っ た こ と は 認 め て よ い 。 こ の 造 像 の 第 一 の 目 的 と し て 、 7 行 目 以 下 に ﹁ 為 國 興 福 、 敬 造 石 形 像 九 十 五 區 、 及 諸 菩 ﹂ と あ る 。 壁 面 の 現 状 を 見 る と 、 最 上 段 に 菩 立 像 を 脇 待 と す る 脚 菩 、 そ の 下 に 一 尊 挙 手 坐 仏 の 並 、 そ の 下 に 二 仏 並 坐 、 に そ の 下 に 文 殊 師 利 菩 ・ 大 勢 至 菩 ・ 観 世 音 菩 の 銘 記 を も つ 三 菩 の 破 坐 像 ︵ く ず し た 形 の 坐 相 ︶ が あ り 、 脚 菩 か ら 三 菩 ま で 縦 に 塔 の よ う に 連 な っ て お り 、 そ の 下 に 造 像 記 の 区 画 が あ る 。 こ の 塔 形 の 両 脇 の 上 ∼ 中 部 に 坐 仏 の 千 仏 小 が ア パ ー ト 状 に 配 さ れ 、 向 か っ て 右 に 四 列 11 段 の 44 体 、 向 か っ て 左 に 四 列 12 段 に 45 体 と 、 整 然 と 一 〇 六 中 国 に お け る 初 期 の ﹁ 邑 義 ﹂ に つ い て ︵ 下 ︶

(3)

並 ん で い る 。 銘 記 か ら す る と 、 こ の 構 成 を ﹁ 石 ﹂ と 認 識 し て い た こ と に な る 。 と こ ろ で 、 破 坐 の 三 菩 像 と 脇 侍 を 除 く 諸 仏 を 単 純 に 合 わ せ る と 93 体 し か な い が 、 現 状 で は 向 か っ て 右 の 中 ∼ 下 段 に 陥 没 個 所 が あ る の で 、 そ こ に 左 と 同 様 に も う 一 あ っ た と し 、 且 つ 二 仏 並 坐 を 二 仏 ︵ 二 區 ︶ と 数 え れ ば 九 十 五 區 と な る 。 次 に 、 銘 記 に は ﹁ 邑 義 信 士 女 等 五 十 四 人 ﹂ と あ る が 、 五 十 四 人 の 名 前 は 勿 論 の こ と 男 女 の 内 訳 も 記 さ れ て い な い 。 と こ ろ が 、 壁 面 の 左 右 の 千 仏 の 下 に 多 数 の 供 養 者 浮 彫 り が 見 え 、 向 か っ て 左 に 、 帽 子 を 被 り ス カ ー ト を 穿 い て 拱 手 し て い る 女 性 供 養 者 が 四 段 に 36 体 、 向 か っ て 右 に ズ ボ ン を 穿 き 帽 子 を 被 っ た 男 性 供 養 者 が 18 体 ︵ う ち 1 体 は 陥 没 部 ︶ が あ り 、 合 わ せ て 54 体 を 確 認 で き る 。 そ の ほ か 大 ぶ り の 僧 形 4 体 が 、 向 か っ て 右 下 に 3 体 、 左 下 に 1 体 あ っ て 、 供 養 者 を 先 導 し て い る 。 こ れ ら 僧 形 に は 邑 師 法 秀 ・ 邑 師 曇 秀 ・ 邑 師 道 育 ・ 邑 師 普 明 の 銘 記 が あ る 。 ま た 、 向 か っ て 左 の 下 か ら 4 段 目 の 女 性 供 養 者 の 先 頭 に 、 同 じ く 小 さ な 身 の の 僧 形 の 人 物 が 手 に 供 物 ︵ 花 ︶ を 持 っ て 立 っ て い る 。 こ の 人 物 は 尼 僧 か と 思 わ れ る 。 供 養 者 が 漢 族 か 胡 族 か と い う 点 は 、 後 世 の 塗 料 に よ る 修 復 が あ っ て 判 断 が 難 し い が 、 女 性 も 帽 子 を 被 っ て い る こ と か ら す る と 鮮 卑 系 胡 族 の 可 能 性 が あ る 。 以 上 、 銘 記 と 壁 面 の 観 察 か ら 、 こ の 集 団 は 男 性 十 八 人 、 女 性 三 十 六 人 の 合 計 五 十 四 人 の 信 徒 が 、 四 人 の 比 丘 僧 と 一 人 の 尼 僧 に 導 か れ て 、 造 像 供 養 を 行 な っ て い る こ と が か る 。 銘 記 の 日 付 け が 八 月 丗 日 と い う の は 、 六 斎 日 に 合 わ せ た も の と 思 わ れ る 。 こ の 集 団 に お け る 女 性 の 位 置 や 役 割 は 、 銘 記 か ら は 判 然 と し な い 。 た だ 、 四 人 の 比 丘 が 邑 師 と し て 大 き く 刻 ま れ 、 一 人 の 無 名 の 比 丘 尼 が 小 さ く 刻 ま れ て い る こ と か ら す る と 、 女 性 の 役 割 を 過 大 に 評 価 す る こ と は 難 し く 、 男 性 の 主 導 と み る 方 が よ い で あ ろ う 。 と は い え 五 十 四 人 の 三 の 二 が 女 性 と い う 集 団 構 成 は い か に 理 解 す べ き で あ ろ う か 。 夫 婦 が 揃 っ て 集 ま っ た 集 団 と え る に は 男 女 の 比 率 が 著 し く バ ラ ン ス を 欠 い て い る 。 奉 為 ︵ ∼ の 為 に ︶ 以 下 に は 次 の よ う な 祈 願 が 刻 ま れ て い る 。 上 為 皇 帝 陛 下 、 太 皇 太 后 、 皇 子 。 徳 合 乾 坤 、 威 轉 輪 、 神 被 四 天 、 國 祚 永 康 、 十 方 伏 、 光 揚 三 寳 、 億 劫 不 隧 。 奉 為 に は 孝 文 帝 と 文 明 太 后 氏 、 そ し て 生 ま れ て 間 も な い 皇 子 ︵ 恂 ︶ が 挙 げ ら れ て お り 、 こ の グ ル ー プ は 文 明 太 后 と 何 ら か の 関 わ り が あ っ た か も し れ な い 。 ﹃ 魏 書 ﹄ 孝 文 帝 本 紀 七 上 に は ︵ 太 和 七 年 ︶ 閏 月 癸 丑 、 皇 子 生 、 天 下 大 赦 。 五 月 戊 寅 朔 、 幸 武 州 山 石 窟 仏 寺 。 一 〇 七 中 国 に お け る 初 期 の ﹁ 邑 義 ﹂ に つ い て ︵ 下 ︶

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と あ っ て 、 閏 四 月 五 日 に 皇 子 が 生 ま れ て 大 赦 令 を 発 し 、 五 月 一 日 に 孝 文 帝 が 雲 岡 石 窟 に 行 幸 し た 記 事 が み え る 。 こ の 頃 の 政 治 の 主 導 権 は 文 明 太 后 が 掌 握 し て お り 、 孝 文 帝 行 幸 も ほ と ん ど 文 明 太 后 と 共 に 行 な わ れ て い た 。 ﹁ 邑 義 信 士 女 等 五 十 四 人 造 像 ﹂ は 行 幸 の 三 カ 月 後 の 八 月 末 日 に 完 成 し て い る か ら 、 行 幸 当 時 の 第 十 一 洞 東 壁 は ふ ぞ ろ い の 小 規 模 が 彫 造 の 最 中 で あ っ た と 思 わ れ る 。 邑 義 信 士 女 五 十 四 人 の 集 団 は 帝 室 の 意 向 を 充 に 意 識 し て 、 皇 帝 と 太 后 の 大 徳 を 讃 え 、 皇 子 の 生 を 祝 い 、 合 わ せ て 国 祚 の 永 康 、 仏 法 の 興 隆 を 祈 願 し た も の と 思 わ れ る 。 石 日 奈 子 氏 は 、 太 和 七 年 は 雲 岡 石 窟 の 開 鑿 を 指 導 し 教 団 を 領 導 し て き た 沙 門 統 曇 曜 が 文 明 太 后 氏 と 対 立 し 失 脚 し た 時 期 で 、 雲 岡 石 窟 造 営 上 大 き な 岐 点 と な っ た 年 と さ れ る6 ︶ 。 す な わ ち 曇 曜 失 脚 の 結 果 、 造 営 中 の 帝 室 関 係 窟 洞 の 計 画 が 中 断 し 、 特 に 第 十 一 ∼ 十 三 窟 に 顕 著 な よ う に ﹁ 国 家 と 皇 帝 の 特 別 窟 か ら 、 一 般 の 僧 や 民 間 の 信 者 た ち に 開 か れ た 大 衆 窟 へ と 転 換 し て い っ た ﹂ と さ れ 、 そ の 鍵 と な る と し て ﹁ 邑 義 信 士 女 等 五 十 四 人 造 像 ﹂ が 例 示 さ れ て い る 。 筆 者 も 沙 門 法 秀 の 謀 反 事 件 ︵ 太 和 五 年 ︶ の 責 任 問 題 か ら 、 曇 曜 は 太 和 六 ∼ 七 年 に 教 団 の 統 帥 的 権 威 を 失 っ た と え る も の で あ る が 、 曇 曜 失 脚 説 が 認 め ら れ る な ら ば 、 ﹁ 邑 義 信 士 女 等 五 十 四 人 造 像 ﹂ と 文 明 太 后 と の 関 係 性 は さ ら に 近 く な ろ う 。 こ の 造 像 銘 に は 女 性 た ち の 個 別 の 名 前 は 見 え な い け れ ど 、 文 明 太 后 が 主 導 す る 北 魏 王 朝 の も と で 、 仏 教 信 仰 を 介 し て 女 性 の 自 己 表 出 意 識 が 高 揚 し て い く さ ま を 感 じ 取 れ る よ う に 思 う 。

北 魏 、 太 和 十 六 年 ︵ 四 九 二 ︶ こ の 造 像 記 は 、 山 西 省 太 谷 県 陽 邑 郷 の 塔 寺 石 窟 に 刻 ま れ て お り 、 山 西 省 で は 雲 岡 石 窟 に 次 い で 古 い 紀 年 銘 を も つ 作 例 で あ る 。 造 形 的 に は 偏 右 肩 の 坐 仏 や 二 仏 並 坐 ・ 脚 像 が 見 え る な ど 、 雲 岡 の 影 響 が 見 て と れ る 。 塔 寺 石 窟 の 造 像 や 銘 記 は 筆 者 前 稿 を 参 照7 ︶ 。 塔 寺 石 窟 は 、 山 西 省 中 部 の 山 間 地 域 に お い て 、 漢 族 の 白 氏 及 び そ れ と 姻 戚 関 係 を 有 す る こ の 地 の 有 力 者 た ち が 、 白 氏 に 協 力 し て 造 営 し た 小 石 窟 で あ り 、 地 方 に お け る 邑 義 の 萌 芽 的 段 階 を 示 す 遺 跡 で あ る 。 太 和 十 六 年 に 北 壁 の A 面 が 彫 ら れ 、 続 い て す ぐ に 北 壁 B 面 、 そ し て 少 し 遅 れ て 東 壁 ・ 奥 壁 の L M N 面 が 彫 ら れ た と 思 わ れ る 。 こ の 集 団 の 性 格 に つ い て は 前 稿 で 詳 論 し た の で 、 こ こ で は 女 性 の 参 加 に つ い て 触 れ て お く 。 塔 寺 石 窟 北 壁 の A 面 の 坐 仏 の 下 に 、 太 和 十 六 年 銘 の 白 や 盧 恭 等 に よ る 集 団 造 像 銘 が あ る が 、 こ こ に は 女 性 の 名 は 見 ら れ な い 。 と こ ろ が 、 A 面 に 引 き 続 き 彫 ら れ た と 思 わ れ る B 面 の 坐 仏 並 坐 の 直 下 に は 、 8 人 の 供 養 者 浮 彫 り が あ り 、 向 か っ て 右 に 4 人 の 男 性 供 養 者 ︵ 先 頭 は 大 き な 一 〇 八 中 国 に お け る 初 期 の ﹁ 邑 義 ﹂ に つ い て ︵ 下 ︶

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人 物 ︶ 、 向 か っ て 左 に は 4 人 の 女 性 供 養 者 ︵ 先 頭 に 子 供 ︶ が 並 ん で い て 、 そ れ ぞ れ 胡 服 を ま と っ て い る 。 こ の 時 期 、 こ の 地 域 の 庶 人 が 婦 人 も 胡 服 を 着 用 し て い た こ と が か る 。 そ の 下 に 刻 ま れ た 供 養 者 の 人 名 は す べ て 漢 族 の 名 前 で 人 を 数 え 、 そ の う ち 25 人 が 女 性 で あ る 。 例 え ば ﹁ 清 信 士 白 宜 妻 楊 香 朱 ﹂ ﹁ 楊 貳 王 婦 冀 明 光 ﹂ ﹁ 張 静 母 趙 賢 姿 、 女 張 祖 ﹂ ﹁ 清 信 士 佛 弟 子 盧 冏 妻 相 里 阿 母 女 ﹂ 等 で あ る 。 彼 女 た ち は 母 と し て 、 妻 と し て 、 娘 と し て 登 場 す る 。 そ の こ と 自 体 は 彼 女 た ち の 地 位 の 向 上 を 直 ち に 示 す も の で は な い が 、 集 団 の 中 に 混 じ っ て そ の 名 を 姓 名 共 に 記 載 さ れ た 女 性 と し て は 中 国 上 極 初 期 の 遺 跡 と 言 え8 ︶ 、 そ の 点 は 見 逃 し て は な ら な い 注 目 す べ き 事 実 で あ る 。 塔 寺 石 窟 は 、 当 時 の 実 情 通 り に 男 性 優 位 の 地 域 社 会 の 実 態 を 反 映 し て お り 、 そ れ だ け に 、 ﹁ 女 性 の 名 を 刻 む ﹂ と い う 行 為 が 他 に 先 が け て 進 行 し て い る こ と は 、 地 域 社 会 の 中 で ﹁ 女 性 の 地 位 や 役 割 に 関 す る え 方 ﹂ が 徐 々 に 変 化 し て い る こ と を 意 味 す る で あ ろ う 。 そ し て 、 北 壁 よ り 少 し 遅 れ て 刻 ま れ た 東 壁 台 座 右 側 と 想 定 す る M 面 に ﹁ 清 信 女 郭 □ 姫 ﹂ な る 女 性 が 現 れ る 。 す な わ ち 、 こ の 地 域 に お い て 清 信 女 と 自 覚 す る 女 性 が 生 ま れ て い る の で あ り 、 女 性 の 地 位 に 関 わ る 社 会 環 境 の 変 化 は 、 微 々 た る も の と は い え 、 奉 仏 事 業 を 介 し て 実 現 し て い る と い う 点 で 、 仏 教 的 囲 気 と 密 接 に 関 わ っ て い る と み て よ い で あ ろ う 。

北 魏 、 太 和 末 年 こ の 造 像 碑 ︵ 以 下 、 王 黄 羅 等 碑 と 略 称 ︶ は 山 西 省 東 南 部 に 位 置 す る 高 平 市 村 採 集 と 伝 え ら れ 、 現 在 山 西 博 物 院 に 展 示 さ れ て い る 。 高 さ 一 八 二 ㎝ 、 幅 八 三 ㎝ 、 厚 一 八 ・ 五 ㎝ の 大 型 造 像 碑 で あ る 。 碑 陽 は 下 部 に 本 尊 の が 彫 ら れ て い る 。 尊 像 は 偏 右 肩 で 禅 定 印 の 三 尊 坐 仏 。 両 脇 を 開 け 、 透 き 通 る よ う な 衣 が 細 い 胸 回 り を 際 立 た せ 、 雲 岡 様 式 の 影 響 を 強 く 感 じ さ せ る 作 例 で あ る 。 脇 侍 菩 は 共 に 薄 衣 を ま と っ て 華 上 に 立 ち 、 内 側 の 手 に 棒 状 の も の を も っ て 高 く 掲 げ 、 下 に さ げ た 外 側 の 手 は 水 瓶 状 の 物 を も つ と い う 珍 し い 形 相 を し て い る 。 正 面 の そ の 他 の 部 は 千 仏 で 満 た さ れ て い る 。 即 ち 上 段 ∼ 中 段 そ し て 下 段 の 本 尊 の 両 脇 ま で 、 隈 な く 坐 仏 の 小 が 並 ん で い る 。 王 黄 羅 等 碑 に は 紀 年 銘 も 祈 願 文 も な い が 、 尊 像 の 形 相 や 文 字 か ら 、 太 和 年 代 の 後 期 か ら 末 期 に か け て の 作 例 と 見 ら れ る 。 碑 陰 は 、 全 体 の 約 三 の 一 に 相 当 す る 上 段 に 、 正 面 と 同 様 の 千 仏 が 彫 ら れ て い る 。 た だ 最 上 段 中 央 に 小 坐 仏 九 体 に 相 当 す る 大 き さ で 、 合 掌 一 〇 九 中 国 に お け る 初 期 の ﹁ 邑 義 ﹂ に つ い て ︵ 下 ︶

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す る 一 尊 坐 仏 が こ じ ん ま り と 位 置 し て い る 。 そ し て 中 ∼ 下 段 に は 造 像 に 関 わ っ た 供 養 者 の 名 前 が 百 余 人 、 七 段 、 17 行 に わ た っ て 整 然 と 刻 ま れ て い る 。 そ の 文 字 は 素 朴 で 骨 太 く 、 き わ め て 印 象 的 で あ る 。 最 下 段 は 若 干 空 い て い て 、 供 養 希 望 者 が い れ ば 追 記 で き そ う な 空 白 と な っ て い る 。 南 北 朝 時 代 の 女 性 の 名 前 に つ い て 、 管 見 の 限 り 先 行 研 究 は な い 。 そ も そ も 漢 族 の 名 前 の つ け 方 に は 男 女 そ れ ぞ れ 一 定 の 傾 向 は あ っ て も 、 明 確 な 区 別 は な い 。 し か し 、 こ の 造 像 碑 の 供 養 者 の 名 前 を 整 理 す る と 、 い く つ か の 特 徴 が う か が わ れ る 。 以 下 、 析 を 試 み る 。 ⑴ 背 面 に は 、 約 一 〇 四 人 の 名 が 刻 ま れ て い る が 、 九 〇 人 は 確 実 に 女 性 と 判 断 さ れ る9 ︶ 。 す る と 残 り は 、 男 女 不 詳 九 人 、 欠 損 に よ る 不 明 五 人 で あ る 。 男 女 不 詳 の 九 人 と は 、 第 一 段 の 趙 賜 ・ 浩 那 ・ 閻 農 、 第 二 段 の 趙 定 光 、 第 三 段 の 郭 胡 、 第 四 段 の 李 榮 光 ・ 孟 斉 王 、 第 六 段 の 王 生 ・ 申 黄 で あ る 。 た だ 、 賜 ・ 農 ・ 光 ・ 王 ・ ・ 黄 の 字 は 、 他 の 女 性 の 名 の 一 部 と し て も 見 え る の で 、 女 性 の 可 能 性 が か な り あ る 。 そ う す る と 残 り の 二 ∼ 三 人 の 男 性 が 百 四 人 の 女 性 集 団 の 中 に れ て い る こ と に な り 、 そ れ は 極 め て 不 自 然 で あ る 。 全 員 を 女 性 と 見 て よ い か と 思 わ れ る 。 ⑵ 都 維 那 □ □ 一 人 、 □ □ □ □ □ 一 人 、 維 那 九 人 が 、 肩 書 き の つ い た 人 物 で あ る10 ︶ 。 そ の う ち 王 黄 羅 ・ 司 徒 好 ・ 王 阿 容 ・ 魚 主 ・ 孟 香 嬰 ・ 畢 都 狃 は 確 実 に 女 性 で 、 趙 賜 ・ 浩 那 ・ 閻 農 が 男 女 不 詳 だ が 、 既 に 述 べ た よ う に 賜 ・ 農 は 女 性 で も 充 あ り 得 る 。 と こ ろ で 、 こ の 集 団 の 代 表 者 と 想 定 さ れ る 冒 頭 の 都 維 那 □ □ と 次 の □ □ □ □ □ 、 そ し て 第 六 段 中 ほ ど の □ □ □ の 部 は 、 よ く 見 る と 意 図 的 に 石 工 に よ っ て 削 ら れ た と か る 。 こ の 剥 脱 部 が い つ 如 何 な る 理 由 で 削 ら れ た の か 、 こ こ に 刻 ま れ て い た 人 物 は 男 性 か 女 性 か 、 現 時 点 で は 手 が か り が な い 。 従 っ て 残 さ れ た 部 に 基 づ い て 、 こ の 集 団 は 都 維 那 一 人 ︵ 或 は 二 人 ︶ 、 維 那 九 人 ︵ 或 は 十 人 ︶ に よ っ て 指 導 さ れ て い た 、 と 捉 え て お く 。 ⑶ 人 名 を 姓 氏 で 整 理 す る と 以 下 の よ う に な る 。 王 ︵ 20 人 ︶ 維 那 2 孟 ︵ 2 人 ︶ 維 那 1 朱 ︵ 1 人 ︶ 畢 ︵ 8 人 ︶ 維 那 1 魚 ︵ 2 人 ︶ 維 那 1 孫 ︵ 1 人 ︶ 浩 ︵ 7 人 ︶ 維 那 1 閻 ︵ 2 人 ︶ 維 那 1 杜 ︵ 1 人 ︶ 郭 ︵ 7 人 ︶ ︵ 2 人 ︶ 董 ︵ 1 人 ︶ 張 ︵ 6 人 ︶ 陳 ︵ 2 人 ︶ 彭 ︵ 1 人 ︶ 李 ︵ 5 人 ︶ 韓 ︵ 2 人 ︶ 聊 ︵ 1 人 ︶ 一 一 〇 中 国 に お け る 初 期 の ﹁ 邑 義 ﹂ に つ い て ︵ 下 ︶

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趙 ︵ 4 人 ︶ 維 那 1 秦 ︵ 1 人 ︶ 令 孤 ︵ 1 人 ︶ 司 徒 ︵ 4 人 ︶ 維 那 1 殷 ︵ 1 人 ︶ 呂 ︵ 1 人 ︶ 申 ︵ 4 人 ︶ 原 ︵ 1 人 ︶ 和 ︵ 1 人 ︶ 牛 ︵ 4 人 ︶ 侯 ︵ 1 人 ︶ 崔 ︵ 3 人 ︶ 皇 甫 ︵ 1 人 ︶ 王 氏 は 王 黄 羅 以 下 二 〇 人 を 数 え て 最 も 多 く 、 そ の う ち 維 那 も 二 人 い て 、 こ の 造 像 碑 立 の 主 導 的 役 割 を 果 た し た 一 族 で あ る こ と が 判 る 。 参 加 者 の 多 さ か ら 言 え ば 、 削 ら れ た 個 所 に は 、 王 氏 に 加 え て 、 維 那 の い な い 郭 ・ 張 ・ 李 の い ず れ か が 刻 ま れ て い た 可 能 性 が あ る 。 以 上 、 王 黄 羅 等 碑 の 供 養 者 名 か ら 、 ほ と ん ど が 女 性 の 参 加 者 と 見 ら れ る と す れ ば 、 五 世 紀 末 の 晋 南 ︵ 山 西 省 の 東 南 部 ︶ の 片 田 舎 で 、 高 さ 2 m 近 い 石 像 を 造 営 す る 造 像 供 養 が 、 女 性 だ け で い か に し て 可 能 で あ っ た か 、 ま こ と に 不 思 議 な 作 例 と 言 わ ね ば な ら な い 。 こ の 造 像 碑 が 採 集 さ れ た 地 域 は 、 現 在 は 長 治 市 か ら 南 に 晋 城 市 に 抜 け る 途 中 に 位 置 し 、 に 南 に 行 け ば 州 市 や 洛 陽 に 通 じ て い て 、 古 来 か ら 通 の 要 路 に あ っ た 。 漢 代 ∼ 晋 代 は 上 党 郡 内 の 南 に 位 置 す る 氏 県 で 、 北 魏 末 期 に 高 平 県 が 置 か れ た 。 こ の 地 域 の 最 初 期 の 仏 像 と し て は 、 沁 県 に 小 さ な 太 和 石 仏 ︵ 無 銘 ︶ が あ り 、 沁 水 県 に は 太 和 十 七 年 の 紀 年 を 有 す る 小 型 の 造 像 碑 、 ま た 市 内 の 羊 頭 山 に は 麓 か ら 頂 上 に か け て 太 和 年 代 以 降 の 小 窟 や 石 像 が 散 在 し て い る 。 い ず れ も 雲 岡 様 式 の 影 響 が み ら れ 、 五 世 紀 の 仏 教 遺 跡 文 物 の 多 く 残 る 地 域 で あ る 。 王 黄 羅 等 碑 と 最 も 関 連 性 が あ る の は 、 高 平 市 寧 郷 南 村 の 資 積 寺 門 前 に 現 存 す る ﹁ 李 道 興 等 邑 子 造 像 碑 ﹂ ︵ 以 下 、 李 道 興 等 碑 と 略 称 ︶ で あ ろ う 。 こ の 造 像 碑 に つ い て は 前 に 拙 稿 で 取 り 上 げ た11 ︶ 。 李 道 興 等 碑 は 高 さ 二 五 〇 ㎝ 、 幅 一 〇 八 ㎝ 、 厚 六 八 ㎝ の 堂 々 た る 大 型 の 四 面 造 像 碑 で 、 四 面 共 に 仏 と 千 仏 が 隈 な く 彫 ら れ て い る 。 碑 陽 で は 下 部 に 偏 右 肩 の 涼 州 式 着 衣 の 三 尊 合 手 坐 仏 が 彫 り 出 さ れ 、 そ の 両 脇 に 太 字 の 銘 記 が 刻 ま れ て い て 、 そ の ほ か は 碑 陽 全 体 に 千 仏 が 整 然 と 浮 彫 り さ れ て い る 。 碑 陽 下 部 の 銘 記 は 、 向 か っ て 右 に ﹁ 大 代 太 和 廿 年 歳 在 丙 子 、 邑 子 等 、 皇 帝 陛 下 、 造 石 像 一 區 ﹂ 、 向 か っ て 左 に ﹁ 興 太 守 李 道 興 侍 佛 時 ﹂ ︵ 北 魏 の 興 郡 は 高 平 一 帯 を 統 括 ︶ と あ る 。 皇 帝 陛 下 の 直 前 に ﹁ 為 ﹂ を 入 れ る べ き で あ る が そ れ は 記 さ れ て い な い 。 こ の 四 面 造 像 碑 の 左 右 の 側 面 に は 、 上 部 に 千 仏 、 下 部 に 供 養 者 銘 が あ り 、 右 側 面 に は ﹁ 都 惟 那 郭 僑 ﹂ ﹁ 都 惟 那 畢 廣 ﹂ ︵ 惟 那 は 維 那 の 音 通 ︶ と い う 二 人 の 世 話 役 以 下 、 一 一 一 中 国 に お け る 初 期 の ﹁ 邑 義 ﹂ に つ い て ︵ 下 ︶

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四 十 三 人 余 り の 肩 書 き の な い 供 養 者 名 、 左 側 面 に も 肩 書 き の な い 三 十 二 人 余 り の 名 が 刻 ま れ て い る 。 そ の 集 計 は 以 下 の 如 く で あ る 。 郭 48 人 ︶ ・ 畢 8 ︶ ・ 陽 5 ︶ ・ 司 徒 2 ︶ ・ 李 2 ︶ ・ 秦 2 ︶ ・ 閻 1 ︶ ・ 申 1 ︶ ・ 王 1 ︶ ・ 楊 1 ︶ ・ 宋 1 ︶ ・ 羅 1 ︶ ・ 陳 1 ︶ ・ 鄧 1 ︶ 名 は す べ て 男 性 で 郭 氏 が 断 然 多 く 、 都 維 那 の 肩 書 や 供 養 者 の 並 び 具 合 か ら す る と 、 郭 氏 と 畢 氏 が こ の 地 域 の 有 力 者 と 見 ら れ る 。 彼 ら は 興 郡 太 守 の 李 道 興 を 勧 誘 し 、 そ の 協 力 の も と に 造 像 事 業 を 挙 行 し て い る 。 李 道 興 は 渤 海 郡 李 氏 と い う 由 緒 を 誇 る 出 身 で 、 一 族 は 早 く か ら 仏 教 に な じ ん で い た こ と は 前 稿 で 察 し た 。 即 ち 、 高 平 一 帯 の 在 地 の 有 力 者 の 郭 氏 ・ 畢 氏 の 呼 び か け で 郡 太 守 の 承 認 の も と に 邑 義 が 結 成 さ れ て い る 。 と こ ろ で 、 李 道 興 等 碑 と 王 黄 羅 等 碑 と は い く つ か の 点 で 関 連 性 が あ る 。 一 つ は 、 所 在 地 に 関 し て 、 李 道 興 等 碑 は 高 平 市 の 寧 郷 南 村 に 現 存 し 、 王 黄 羅 等 碑 は 同 じ 高 平 市 の 村 将 来 と 伝 え る 。 両 者 の 距 離 は 直 線 に し て 約 20 キ ロ 、 意 外 に 近 い 。 二 つ に 、 尊 像 の 形 相 は 共 に 雲 岡 様 式 の 影 響 を 受 け て い る 。 三 つ に 、 刻 ま れ た 文 字 の 素 朴 な 太 字 の 筆 法 が 類 似 し て い る 。 四 つ に 、 供 養 者 の 姓 に 共 通 性 が 見 ら れ る 。 以 上 か ら 、 王 黄 羅 等 碑 と 李 道 興 等 碑 は 極 め て 緊 密 な 関 係 が あ っ た こ と が 想 定 さ れ 、 或 は 同 一 石 匠 グ ル ー プ に よ る 作 例 の 可 能 性 も あ る 。 そ こ で 、 両 方 の 供 養 者 を 細 か に 見 て み よ う 。 ま ず 違 い か ら 見 る と 、 前 者 は 女 性 供 養 者 、 後 者 は 男 性 供 養 者 で あ る 。 次 に 共 通 点 を 見 る と 、 双 方 の 供 養 者 に 重 な る 姓 が 多 い 。 王 黄 羅 等 碑 の 供 養 者 を あ ら た め て 多 い 順 に あ げ る と 次 の ご と く で あ る が 、 王 氏 が 突 出 し て 多 く 、 ま た 姓 に ば ら つ き が 目 立 つ 。 ︵ 傍 線 部 は 両 者 共 通 す る 姓 ︶ 王 20 人 ︶ ・ 畢 8 ︶ ・ 郭 7 ︶ ・ 浩 7 ︶ ・ 張 6 ︶ ・ 李 5 ︶ ・ 申 4 ︶ ・ 趙 4 ︶ ・ 司 徒 4 ︶ ・ 牛 4 ︶ ・ 崔 3 ︶ ・ 孟 2 ︶ ・ 魚 2 ︶ ・ 閻 2 ︶ ・ 2 ︶ ・ 韓 2 ︶ ・ 陳 2 ︶ 秦 ・ 殷 ・ 原 ・ 侯 ・ 皇 甫 ・ 朱 ・ 成 ・ 孫 ・ 杜 ・ 董 ・ 彭 ・ 聊 ・ 令 ・ 呂 ・ 和 ︵ ↑ 各 1 ︶ 李 道 興 等 碑 ︵ 再 掲 ︶ は 男 性 ば か り で 、 郭 氏 が 圧 倒 的 に 多 い が 、 姓 の ば ら つ き は 少 な い 。 郭 48 人 ︶ ・ 畢 8 ︶ ・ 陽 5 ︶ ・ 司 徒 2 ︶ ・ 李 2 ︶ ・ 秦 2 ︶ ・ 申 1 ︶ ・ 閻 1 ︶ ・ 王 1 ︶ ・ 陳 1 ︶ ・ 楊 1 ︶ ・ 宋 1 ︶ ・ 鄧 1 ︶ ・ 羅 1 ︶ こ の 両 造 像 碑 の 供 養 参 加 者 を 見 て い て 、 王 黄 羅 等 碑 に こ れ だ け 多 様 な 姓 が あ る こ と は 、 参 加 し た 女 性 の 多 く が 独 身 女 性 で は な く 、 既 婚 婦 人 で あ る こ と を 示 し て い る 。 ま た 、 都 か ら 遠 い 晋 南 の 地 で 、 ま だ 充 認 知 さ れ て い る と は 言 い が た い 造 仏 供 養 と い う 事 業 に 、 唐 突 に 女 性 た ち だ け で 取 り 組 め る と は 到 底 思 え な い 。 最 も 合 理 的 な 理 解 は 、 こ の 地 域 で 仏 教 信 仰 に 熱 心 な 郭 氏 と 畢 氏 を 軸 に 、 一 つ は 男 性 の 邑 義 、 一 つ は 女 性 中 心 の 邑 一 一 二 中 国 に お け る 初 期 の ﹁ 邑 義 ﹂ に つ い て ︵ 下 ︶

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義 を 形 成 し て 、 そ れ ぞ れ が 造 像 事 業 に 取 り 組 ん だ 、 と い う 解 釈 で あ ろ う 。 王 黄 羅 等 碑 で は 維 那 二 人 を 擁 す る 王 氏 の 女 性 が 最 も 多 い の に 対 し 、 李 道 興 等 碑 で は 王 氏 が 一 人 と い う の は 、 彼 女 た ち が 他 所 か ら 高 平 の 有 力 者 に 嫁 い で き た か ら と い う 事 情 が え ら れ る 。 王 黄 羅 自 身 は 郭 氏 或 は 畢 氏 に 嫁 い だ 女 性 で あ る 可 能 性 が 充 あ る し 、 同 様 の 例 は 浩 ・ 張 ・ 李 ・ 趙 氏 ほ か に も 言 え よ う 。 王 黄 羅 等 碑 に 紀 年 銘 や 祈 願 文 が 刻 ま れ て い な い の も 、 二 つ の 造 像 碑 が 造 像 供 養 と し て は 一 体 で あ っ た か ら と す る と 納 得 で き る 。 即 ち 、 王 黄 羅 等 碑 は 、 郭 氏 及 び そ れ と 結 束 し て い た 畢 氏 や 陽 氏 ・ 司 徒 氏 な ど の 当 地 の 有 力 者 に 嫁 い だ 夫 人 た ち を 軸 に 、 夫 た ち の 支 持 を 得 て 邑 義 集 団 を 築 き 、 造 像 供 養 に 参 加 し た の で は な い だ ろ う か 。 以 上 の よ う に 見 れ ば 、 王 黄 羅 等 造 像 碑 は 女 性 独 自 の 発 想 と 行 動 力 で 実 現 し た も の で は な い こ と に な る が 、 そ の 点 を 差 引 い て も 、 女 性 が 邑 義 の 運 営 に 維 那 と し て 参 画 し 、 一 定 の 役 割 を 果 た し た そ の 積 極 性 は 充 認 め ら れ る べ き だ と え る 。

北 魏 、 景 明 三 年 ︵ 五 〇 二 ︶ こ の 造 像 は 河 南 省 の 龍 門 石 窟 古 陽 洞 南 壁 窟 頂 の 奥 壁 寄 り に あ り 、 高 さ 63 ㎝ 、 幅 37 ㎝ 、 深 さ 7 ㎝ の の 中 に 三 尊 脚 弥 勒 像 が 坐 し て い て 、 の 向 か っ て 右 に 三 角 状 の 題 額 を も つ 碑 形 の 造 像 銘 記 が あ る 。 碑 形 の 大 き さ は 高 さ 約 50 ㎝ 、 幅 約 20 ㎝ 。 銘 記 を み る と 、 唯 那 ︵ 維 那 と 音 通 ︶ の 尹 愛 姜 ら 二 十 一 人 が 、 景 明 三 年 六 月 廿 三 日 に 共 同 で 造 像 供 養 を 行 な っ た こ と が 記 し て あ り 、 人 名 は す べ て 女 性 で あ る 。 即 ち 、 こ の 銘 記 は 女 性 の み の 集 団 と 確 認 で き 、 且 つ 造 営 年 月 の 明 確 な も の と し て は 中 国 最 初 の 作 例 と い え る 。 換 言 す れ ば 、 最 も 古 い 女 性 単 独 の 邑 義 で あ る 。 因 に 、 廿 三 日 は 六 斎 日 に 当 る 。 彼 女 た ち の 邑 義 の あ り 方 を 、 名 前 等 の 整 理 か ら 探 っ て み よ う 。 尹 愛 姜 等 造 像 記 は 文 字 の 摩 耗 や 窟 壁 の 疵 に よ っ て 、 判 読 困 難 な 個 所 が 多 い 。 移 録 に は 以 下 の 三 点 を 参 照 し た 。 京 都 大 学 東 方 文 化 研 究 所 、 水 野 清 一 ・ 長 廣 敏 雄 ﹃ 龍 門 石 窟 の 研 究 ﹄ ︵ 座 右 宝 刊 行 会 、 一 九 四 一 年 ︶ 所 載 の ﹁ 龍 門 石 刻 録 録 文 ﹂ ︵ 略 称 ﹁ 龍 門 録 ﹂ ︶ 。 劉 景 龍 編 著 ﹃ 古 陽 洞 ﹄ ︵ 略 称 ﹁ 古 陽 洞 ﹂ 。 科 学 出 版 社 、 二 〇 〇 一 年 ︶ 。 毛 遠 明 注 ﹃ 漢 魏 六 朝 碑 刻 注 ﹄ 第 三 巻 ︵ 略 称 ﹁ 毛 遠 明 ﹂ 。 装 書 局 、 二 〇 〇 八 年 ︶ 。 こ れ ら 三 点 は 数 か 所 で 読 み が 異 な る た め 、 い く つ か の 拓 本 を 見 比 べ て 、 筆 者 自 身 が 以 下 の 如 く 点 を 施 し た 。 一 一 三 中 国 に お け る 初 期 の ﹁ 邑 義 ﹂ に つ い て ︵ 下 ︶

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1 景 明 三 年 六 月 廿 三 日 。 □ □ □ □ □ □ □ 子 、 唯 那 2 尹 愛 姜 、 唯 那 張 雙 □ 、 □ □ □ 、 □ 妙 姿 、 王 容 、 王 午

題 額 ︶ 3 好 、 楊 醜 姜 、 郭 容 、 劉 豊 、 王 □ 、 □ 轉 好 、 王 足 趙 、 尹 4 容 、 桃 、 胡 歎 郷 、 尹 醜 姜 、 尹 醜 女 、 程 曇 妙 、 尹 顯 姿 、 5 尹 陵 姜 等 廿 一 人 、 各 為 七 世 母 、 所 生 眷 属 、 亡 者 生 天 、 6 生 者 福 徳 、 □ □ 石 弥 勒 一 區 。 普 為 終 生 、 咸 同 此 願 。 5 行 目 に ﹁ 廿 一 人 ﹂ と あ る の で 、 1 行 目 に 一 人 、 2 行 目 に 六 人 、 3 行 目 七 人 、 4 行 目 六 人 、 5 行 目 一 人 、 の 二 十 一 人 と な る 。 1 行 目 の ﹁ □ □ □ □ □ □ □ 子 ﹂ に つ い て は 、 ﹁ 龍 門 録 ﹂ № 587 は ﹁ 比 丘 尼 蘇 □ 子 ﹂ と し 、 ﹁ 古 陽 洞 ﹂ № 2271 は ﹁ □ □ □ □ □ 郭 □ 子 ﹂ と し 、 ﹁ 毛 遠 明 ﹂ № 0387 は こ の 部 を ﹁ 約 闕 七 文 字 ﹂ と し て 移 録 し て い な い 。 ﹁ 龍 門 録 ﹂ の よ う に ﹁ 比 丘 尼 ﹂ と 読 め れ ば 集 団 の 性 格 も か り や す く 、 ま た そ の 可 能 性 は 充 あ る が 、 現 時 点 で 確 実 に 比 丘 尼 と 読 め る 拓 本 を 知 ら な い12 ︶ 。 従 っ て 、 こ こ は 前 記 の よ う に 留 保 し て お く 。 2 行 目 の ﹁ □ 、 □ □ □ 、 □ ﹂ の 部 に つ い て 、 ﹁ 龍 門 録 ﹂ ﹁ 毛 遠 明 ﹂ は 共 に ﹁ □ □ □ □ ﹂ と し て 解 読 不 可 を 四 文 字 と し 、 ﹁ 古 陽 洞 ﹂ は 解 読 不 可 を 五 文 字 と す 。 そ の す ぐ 下 の ﹁ 妙 姿 ﹂ に つ い て は 、 ﹁ 龍 門 録 ﹂ は ﹁ 妙 婆 ﹂ 、 ﹁ 毛 遠 明 ﹂ は ﹁ 妙 安 ﹂ 、 ﹁ 古 陽 洞 ﹂ は ﹁ 妙 姿 ﹂ と し て い る 。 筆 者 は 拓 本 に よ り ﹁ 妙 姿 ﹂ と す る 。 3 行 目 は 、 ﹁ 龍 門 録 ﹂ は ﹁ 好 。 揚 醜 。 姜 郭 容 。 劉 豊 。 王 密 。 盛 轉 好 。 王 足 趙 。 尹 ﹂ と し 、 ﹁ 毛 遠 明 ﹂ は ﹁ 好 、 楊 醜 姜 、 郭 容 、 劉 豊 、 王 寧 □ 、 □ 轉 好 、 王 是 趙 、 尹 ﹂ と す る 。 ﹁ 古 陽 洞 ﹂ は ﹁ 好 楊 醜 姜 郭 容 劉 豊 王 □ □ 轉 好 王 足 趙 尹 ﹂ と し て お り 、 筆 者 は 文 字 の 読 み は ﹁ 古 陽 洞 ﹂ に 従 い つ つ 、 自 ら の 句 読 点 を 施 し た 。 4 行 目 は 、 ﹁ 龍 門 録 ﹂ は ﹁ 容 。 。 胡 歎 郷 。 尹 醜 安 。 尹 醜 安 。 程 曇 妙 。 尹 顕 安 。 ﹂ と し 、 ﹁ 毛 遠 明 ﹂ は ﹁ 容 、 桃 、 胡 歎 郷 、 尹 醜 姜 、 尹 醜 、 種 □ 妙 、 尹 顕 姜 、 ﹂ と し 、 ﹁ 古 陽 洞 ﹂ は ﹁ 容 桃 胡 歎 郷 尹 醜 姜 尹 醜 女 程 □ 妙 尹 □ 海 ﹂ と し て い る 。 筆 者 は 各 種 の 拓 本 を も と に 前 記 の よ う に し た13 ︶ 。 二 十 一 人 の 構 成 を み て み よ う 。 1 行 目 を 別 に し て 数 え る と 、 肩 書 き を 有 す る 人 物 は 、 唯 那 の 尹 愛 姜 と 張 雙 □ の 二 人 で あ る 。 姓 を み る と 尹 6 人 ︶ 、 王 4 ︶ 、 張 1 ︶ ・ 郭 1 ︶ ・ 胡 1 ︶ ・ 楊 1 ︶ ・ 劉 1 ︶ ・ 1 ︶ ・ 程 1 ︶ 、 不 明 3 ︶ 一 一 四 中 国 に お け る 初 期 の ﹁ 邑 義 ﹂ に つ い て ︵ 下 ︶

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と い う 異 姓 者 の 集 団 で あ る 。 そ し て も う 一 人 1 行 目 、 そ こ に は 必 ず や 何 か 肩 書 き を 持 つ 人 物 が 刻 ま れ て い た と 思 わ れ る 。 そ れ を ﹁ 龍 門 録 ﹂ で は ﹁ 比 丘 尼 蘇 □ 子 ﹂ と す る が 、 蘇 は 異 体 字 の ﹁ 蘇 ﹂ に も 見 え 、 ま た 、 つ く り の 部 の ﹁ お お ざ と ﹂ を 根 拠 に す る と 、 ﹁ 郭 ﹂ に も ﹁ ﹂ に も 似 て い る 。 そ の 肩 書 き は 今 は 完 全 に 摩 耗 し て い て 、 ﹁ 唯 那 比 丘 尼 ﹂ な の か ﹁ □ □ 都 唯 那 ﹂ 或 は ﹁ □ □ □ 唯 那 ﹂ な の か 、 脚 像 の 周 辺 に 供 養 者 の 浮 彫 り も 見 え ず 手 が か り が な い 。 た だ 言 え る こ と は 、 二 十 人 ば か り の 女 性 た ち が 世 話 役 と し て の ﹁ 唯 那 ︵= 維 那 ︶ ﹂ を 擁 し て 邑 義 を 結 成 し 、 自 ら の 規 律 と 協 力 に よ っ て 、 龍 門 古 陽 洞 の 窟 頂 に 造 像 供 養 を 完 遂 し た 、 と い う 事 実 で あ る 。 冒 頭 不 明 の 人 物 が 比 丘 尼 と す る と 、 女 性 た ち は こ の 奉 仏 事 業 を 尼 僧 の 指 導 の も と に 行 っ た こ と に な る 。 指 導 し た 僧 ・ 尼 僧 の 名 が 必 ず し も 造 像 銘 に 刻 ま れ る わ け で は な い の で 、 取 り け 女 性 の み の 集 団 の 場 合 、 こ こ に 比 丘 尼 の 刻 字 が な く と も 指 導 す る 尼 僧 が 存 在 し た と 見 て よ い 。 と こ ろ で 、 こ の 二 十 一 人 の 女 性 た ち は ど の よ う な 繫 が り で 集 団 造 像 を 完 成 し え た の で あ ろ う か 。 龍 門 石 窟 古 陽 洞 の 開 窟 当 時 に お い て は 、 誰 も が 自 由 に 費 用 を 投 じ て 造 像 供 養 が 可 能 だ っ た わ け で は な い 。 当 然 な が ら 、 古 陽 洞 造 営 を 始 し た 人 物 や 有 力 な 支 援 者 等 と 何 ら か の 関 係 を 必 要 と し た で あ ろ う 。 古 陽 洞 の 開 鑿 は 北 魏 孝 文 帝 が 南 伐 を 中 止 す る 見 返 り に 遷 都 計 画 を 随 従 の 臣 下 た ち に 承 諾 さ せ 、 首 都 洛 陽 城 の 設 計 画 を 命 じ た 太 和 十 七 年 ︵ 四 九 三 ︶ 十 月 一 日 の 詔 が 契 機 と な り14 ︶ 、 比 丘 成 と そ の 賛 同 者 に よ っ て 国 の 為 の 造 像 供 養 が 計 画 さ れ た こ と に 始 ま る 。 古 陽 洞 の 造 営 を 指 導 し た 比 丘 成 の 当 初 の 設 計 プ ラ ン は 、 西 の 奥 壁 に 二 十 尺 規 模 の 本 尊 ︵ 像 高 約 五 ⅿ ︶ を 彫 り 出 し 、 十 六 尺 程 度 の 脇 侍 菩 ︵ 像 高 約 四 ⅿ ︶ 二 体 、 そ し て 左 右 の 北 壁 ・ 南 壁 に そ れ ぞ れ 四 大 を 並 べ 、 そ の 上 に 天 井 近 く ま で 千 仏 を 配 置 す る も の だ っ た と 思 わ れ る 。 と こ ろ が 、 旧 都 平 城 か ら 移 住 し た 王 侯 ・ 官 人 や そ の 夫 人 た ち か ら 喫 緊 の 要 請 を 受 け て 、 本 尊 と 基 本 設 計 の 四 大 の 造 営 を 継 続 し な が ら 、 そ れ 以 外 の 部 に 大 小 さ ま ざ ま な を 彫 り 出 す こ と と な っ た 。 そ の 結 果 、 門 口 付 近 の 北 壁 中 上 段 、 南 壁 中 上 段 、 そ し て 窟 頂 に か け て 、 ふ ぞ ろ い の 像 が 太 和 末 年 ︵ 四 九 五 ∼ 四 九 九 ︶ か ら 景 明 年 間 ︵ 五 〇 〇 ∼ 五 〇 三 ︶ に か け て 彫 り 込 ま れ た 。 こ れ ら の 像 の 大 半 は 平 城 か ら 移 住 し た 王 族 ・ 官 僚 と そ の 家 族 た ち に よ る も の と み て よ い 。 尹 愛 姜 等 造 像 は 南 壁 天 井 で 奥 よ り の 窟 頂 に 刻 ま れ て い る が 、 こ の 区 画 は ﹁ 廣 川 王 太 妃 侯 氏 ﹂ 及 び 廣 川 王 家 に 近 し い 人 々 の 領 域 の よ う に 思 わ れ る 。 こ の 領 域 の 大 き な は 南 壁 千 仏 の 右 上 隅 を 侵 食 し て 造 ら れ た ﹁ 廣 川 王 太 妃 侯 氏 為 亡 夫 賀 蘭 汗 造 像 ﹂ ︵ 脚 菩 像 ︶ の ほ か 、 ﹁ 廣 川 王 太 妃 侯 氏 一 一 五 中 国 に お け る 初 期 の ﹁ 邑 義 ﹂ に つ い て ︵ 下 ︶

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為 己 身 及 孫 息 造 像 ﹂ ︵ 脚 菩 像 ︶ が あ り 、 小 は ﹁ 国 常 侍 臣 王 神 秀 造 像 ﹂ 、 ﹁ 国 学 官 令 臣 平 乾 虎 造 像 ﹂ が あ り15 ︶ 、 二 つ と も 奉 為 に ﹁ 為 太 妃 廣 川 王 、 敬 造 釋 牟 尼 像 ﹂ と 記 し て い る 。 国 常 侍 も 国 学 官 令 も 諸 王 の 側 近 に 侍 従 す る 官 で 、 北 魏 で は 下 級 の 官 位 だ が ︵ そ れ ぞ れ 従 八 品 、 従 九 品 に 相 当 ︶ 、 廣 川 王 家 と は 格 別 の 恩 遇 関 係 に あ っ た こ と が 窺 わ れ る 。 こ の 廣 川 王 関 連 の 区 画 に は 、 そ の ほ か 十 余 の 中 小 の が あ る が 、 簡 単 な 銘 記 や 銘 記 の 全 く な い が 多 い16 ︶ 。 そ の 中 で 、 こ の 域 に 王 神 秀 造 像 や 平 乾 虎 造 像 よ り も 大 き め の 女 性 邑 義 の を 彫 る に は 、 彼 女 た ち 自 身 か 指 導 の 僧 尼 、 或 は や 夫 た ち が 太 妃 侯 氏17 ︶ や 王 家 の 侍 従 官 と 極 め て 近 し い 関 係 に あ っ た 可 能 性 が あ る 。 女 性 だ け で 邑 義 を 形 成 す る に 当 っ て は 、 特 に 未 婚 の 場 合 は 母 、 既 婚 者 の 場 合 は 夫 家 や 舅 姑 の 認 知 と 協 力 な ど 彼 女 た ち を 取 り 巻 く 環 境 と の 調 整 は 不 可 欠 で あ っ た と 思 わ れ る 。 そ れ を 少 し 探 っ て み よ う 。 尹 愛 姜 な ど 尹 氏 六 人 は そ の 名 前 か ら 姉 妹 か 或 は 従 姉 妹 の よ う に 想 像 さ れ 、 古 陽 洞 で は 、 景 明 三 年 ﹁ 孫 秋 生 等 造 像 記 ﹂ ︵ ﹁ 古 陽 洞 ﹂ № 2296 ︶ 中 に ﹁ 尹 文 遠 ﹂ 、 紀 年 銘 の な い ﹁ 嚴 雙 珍 ・ 尹 文 和 造 像 記 ﹂ ︵ 同 № 1901 ︶ 、 永 平 四 年 ﹁ 尹 伯 成 妻 姜 造 像 記 ﹂ ︵ 同 № 1874 ︶ な ど に 尹 氏 が 見 え る が 、 廣 川 王 家 と の 直 接 的 関 係 は 確 認 で き な い も の の 、 ﹃ 魏 書 ﹄ で は 北 魏 王 室 と の 姻 戚 関 係 二 例 を 見 い だ せ る18 ︶ 。 ま た 、 構 成 員 に 王 容 ・ 王 午 ・ 王 足 趙 な ど 王 姓 の 女 性 が 四 人 お り 、 国 常 侍 の 王 神 秀 と 同 族 か も し れ な い 。 次 に 、 彼 女 た ち の 身 と 関 わ っ て 碑 形 と そ の 題 額 が あ る 。 ﹁ 女 ﹂ と い う 題 額 は 他 に 類 例 が な く 南 北 朝 を 通 じ て 唯 一 の 事 例 で あ る 。 そ も そ も 題 額 は 碑 石 の 体 裁 と し て 継 承 さ れ て い た 様 式 で 、 造 像 記 に 用 い る 伝 統 は な か っ た 。 そ れ が 龍 門 古 陽 洞 で は い く つ か 作 例 が あ る 。 始 平 像 一 區 ︰ ︰ 太 和 廿 二 年 ﹁ 比 丘 成 造 像 記 ﹂ ︵ ﹁ 古 陽 洞 ﹂ № 1842 ︶ 女 ︰ ︰ 景 明 三 年 ﹁ 尹 愛 姜 等 廿 一 人 造 像 記 ﹂ ︵ ﹁ 古 陽 洞 ﹂ № 2271 ︶ 邑 子 像 ︰ ︰ 景 明 三 年 ﹁ 孫 秋 生 等 二 百 人 造 像 記 ﹂ ︵ ﹁ 古 陽 洞 ﹂ № 2296 ︶ 弥 勒 佛 像 ︰ ︰ 景 明 四 年 ﹁ 比 丘 造 像 記 ﹂ ︵ ﹁ 古 陽 洞 ﹂ № 1850 ︶ 邑 子 像 ︰ ︰ 景 明 四 年 ﹁ 邑 主 馬 振 拝 等 造 像 記 ﹂ ︵ ﹁ 古 陽 洞 ﹂ № 2521 ︶ 邑 子 像 ︰ ︰ ︵ 景 明 ︶ ﹁ 邑 主 楊 大 眼 造 像 記 ﹂ ︵ ﹁ 古 陽 洞 ﹂ № 2023 ︶ 釋 像 ︰ ︰ ︵ 景 明 ︶ ﹁ 魏 靈 藏 法 紹 造 像 記 ﹂ ︵ ﹁ 古 陽 洞 ﹂ № 2024 ︶ 邑 像19 ︶ ︰ ︰ ︵ 景 明 ︶ ﹁ 邑 師 惠 □ 造 像 記 ﹂ ︵ ﹁ 古 陽 洞 ﹂ № 2282 ︶ 一 一 六 中 国 に お け る 初 期 の ﹁ 邑 義 ﹂ に つ い て ︵ 下 ︶

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邑 子 像 ︰ ︰ ︵ 景 明 ︶ ﹁ 邑 主 魏 桃 樹 造 像 記 ﹂ ︵ ﹁ 古 陽 洞 ﹂ № 2067 ︶ ︵ 空 白 ︶ ︰ ︰ 太 和 十 九 年 ﹁ 丘 穆 陵 亮 夫 人 尉 遅 造 像 記 ﹂ ﹁ 古 陽 洞 ﹂ № 1840 ︶ ︵ 空 白 ︶ ︰ ︰ 太 和 廿 二 年 ﹁ 北 海 王 元 詳 造 像 記 ﹂ ︵ ﹁ 古 陽 洞 ﹂ № 1843 ︶ ︵ 空 白 ︶ ︰ ︰ 景 明 三 年 ﹁ 廣 川 王 祖 母 太 妃 侯 造 像 記 ﹂ ﹁ 古 陽 洞 ﹂ № 2272 ︶ 以 上 見 た と こ ろ 、 題 額 は 古 陽 洞 の 中 で 初 期 の 堂 々 た る 造 像 記 に 集 中 し て お り 、 像 主 の 身 が 高 い か 或 は 邑 義 造 像 に 顕 著 で あ る 。 尹 愛 姜 ら の 邑 義 が 題 額 を 持 つ こ と か ら す る と 、 彼 女 た ち の や 夫 た ち が 身 と し て 全 く の 庶 人 で あ る 可 能 性 は ほ と ん ど な い 。 題 額 の ﹁ ﹂ は 男 子 の 徳 性 で あ る ﹁ 悌 ﹂ を 女 性 に 置 き か え た 表 現 と 思 わ れ 、 ﹁ 女 ﹂ は 構 成 員 が 実 の 姉 妹 の よ う に 、 信 仰 に も と づ く 仲 む つ ま じ い 関 係 、 即 ち 仏 法 を 機 縁 と し た 〟 義 姉 妹 〝 を 期 待 し て の 表 象 と え ら れ よ う 。 男 性 の ﹁ 邑 子 像 ﹂ に 相 当 す る 女 性 の 邑 義 造 像 に ふ さ わ し い 題 額 の 標 記 で あ る 。 次 に 、 尹 愛 姜 等 造 像 記 の 内 容 を 見 て み る と 、 初 期 邑 義 に 特 有 の ﹁ 為 皇 帝 ﹂ や ﹁ 為 国 ﹂ の 句 が な い こ と に 気 づ く 。 末 尾 に ﹁ 普 為 終 生 、 咸 同 此 願 ﹂ ︵ 終 生= 衆 生 ︶ と あ っ て 、 僧 尼 の 指 導 が あ っ た こ と が 垣 間 見 え る が 、 祈 願 も 個 々 人 の 願 い で は な く 、 構 成 員 全 体 に 共 通 す る 願 い 、 そ れ も 当 時 の 人 々 が 仏 教 信 仰 に 寄 せ る 最 も 標 準 的 な ﹁ 亡 者 生 天 、 生 者 福 徳 ﹂ に な っ て い る 。 造 像 供 養 を す る に 当 っ て 、 女 性 た ち が 素 直 に 弥 勒 像 を 造 っ て 祈 っ て お り 、 特 段 に 王 朝 や 皇 帝 を 気 づ か う 必 要 の な い 身 環 境 に あ っ た と 言 う こ と も で き よ う 。 以 上 の 察 に よ っ て 、 尹 愛 姜 等 造 像 は 北 魏 王 朝 乃 至 王 家 に 仕 え る や 夫 を 持 つ 婦 女 子 が 、 恐 ら く は 尼 僧 の 指 導 の も と に 集 ま っ て 造 像 供 養 を 行 っ た と い う 理 解 で 、 さ ほ ど 的 は ず れ で は な か ろ う 。 と こ ろ で 、 尹 愛 姜 等 の 像 は 窟 の 天 井 に あ っ て 、 供 養 を す る 時 は 10 ⅿ 余 り 離 れ て 仰 ぎ 見 る こ と に な る 。 蝋 燭 を 灯 し て も あ ま り 光 が 届 か な い 時 は 、 鏡 を っ て 照 ら す な ど し た の で あ ろ う か 、 造 像 完 成 の 儀 礼 の あ と 、 の ち の ち に 供 養 者 や そ の 子 孫 が ど の よ う な 関 わ り 方 を し た の か 、 そ の 点 の 料 は 極 め て 少 な く 今 後 の 課 題 で あ る 。

北 魏 、 正 光 三 年 ︵ 五 二 二 ︶ こ の 石 像 ︵ 以 下 、 張 勝 男 等 造 像 碑 と 略 称 ︶ は 、 大 型 の 四 面 造 像 碑 で 山 東 省 博 市 臨 区 の 斉 国 歴 博 物 館 に あ り 、 一 九 九 九 年 に 臨 鎮 の 農 家 一 一 七 中 国 に お け る 初 期 の ﹁ 邑 義 ﹂ に つ い て ︵ 下 ︶

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か ら 出 土 し た と い う 。 筆 者 は 二 〇 一 一 年 三 月 五 日 に 龍 谷 大 学 の 長 谷 川 岳 教 授 ・ 市 川 良 文 准 教 授 と 三 人 で 博 物 館 を 訪 問 し 、 許 可 を 得 て 、 寒 風 の な か 調 査 に 従 事 し た20 ︶ 。 我 々 が 訪 れ た 時 、 こ の 張 勝 男 等 造 像 碑 は 館 の 南 外 の 路 面 に 横 向 き に 仮 置 き さ れ て い た 。 そ の た め 碑 陽 ・ 碑 陰 と 左 側 は 熟 視 で き た が 、 右 側 は 見 る こ と が で き な か っ た 。 造 像 碑 は 最 下 部 が 破 損 し て い て 、 現 状 で は 高 さ 184 ㎝ 、 幅 75 ㎝ 、 底 厚 67 ㎝ で あ る が 、 脱 落 し た 本 尊 の 足 先 及 び 華 紋 様 の 台 座 部 が 側 に 残 っ て お り 、 そ れ を 足 す と 通 高 240 ㎝ と い う 大 造 像 碑 で あ る 。 北 魏 の 正 光 三 年 正 月 六 日 の 銘 が あ り 、 山 東 省 の 大 型 石 像 と し て は 最 初 期 の 作 例 と 言 え る21 ︶ 。 碑 陽 は 一 尊 挙 手 の 如 来 立 像 で あ る が 、 足 先 と 頭 部 が 失 わ れ て い て 、 尊 顔 を 見 る こ と は で き な い 。 銘 記 に よ れ ば 本 尊 は 釈 像 で 、 残 高 は 88 ㎝ 、 本 来 の 高 さ は 135 ㎝ 前 後 で あ っ た と 思 わ れ る 。 碑 陽 に は 刻 ま れ た 文 字 は な い 。 碑 陰 は 、 上 か ら 三 の 一 程 度 の 領 域 を さ ら に 四 段 に け て 、 小 坐 仏 が 一 段 に 五 体 ず つ 計 二 〇 体 並 ん で い る 。 そ の 下 の 三 の 一 程 度 の 領 域 に 祈 願 文 が 15 行 、 さ ら に そ の 下 の 残 り 三 の 一 の ス ペ ー ス に 供 養 者 名 が 四 段 18 行 に わ た っ て 刻 ま れ て い る 。 碑 の 左 側 は 、 上 下 十 二 段 に け ら れ 、 段 ご と に ほ ぼ 三 体 ず つ 計 三 十 六 体 の 坐 仏 が 彫 り 出 さ れ 、 の 境 界 ︵ 畦 道 形 の 縦 空 間 ︶ の 所 々 に 、 そ れ ぞ れ の 坐 仏 に 対 応 す る よ う に 供 養 者 に よ る 個 別 の 銘 が 刻 ま れ て い る 。 碑 の 右 側 は 地 面 に ほ ぼ 接 し て い て 、 わ ず か な 間 か ら 覗 く こ と し か で き ず 、 詳 細 な 調 査 は 次 の 機 会 を 待 つ こ と に し た 。 碑 陰 の 祈 願 文 を 見 て み よ う 。 銘 記 の 日 付 け は 、 末 尾 に ﹁ 大 魏 正 光 三 年 ︵ 五 二 二 ︶ 正 月 六 日 ﹂ と あ っ て 、 北 魏 の 粛 宗 孝 明 帝 の 治 世 で あ る 。 文 意 は 、 ま ず 初 め に 釈 尊 が こ の 裟 婆 世 界 に 出 現 さ れ た 由 来 を 説 き 起 こ す ︵ 1 ∼ 4 行 ︶ 。 次 に 、 青 州 斉 郡 臨 県 の 清 信 士 女 張 勝 男 が 百 六 十 余 人 を 率 い て 仏 道 に 帰 依 し 、 資 産 の 一 部 を 割 い て 、 師 僧 ・ 母 ・ 一 切 衆 生 の 為 に 釈 牟 尼 石 像 一 体 を 奉 造 し た こ と を 記 す ︵ 4 ∼ 8 行 ︶ 。 ま た 次 に 、 心 を 込 め て 造 っ た 尊 像 ︵ 仏 ︶ と 供 養 者 の 誠 心 が 響 き 合 う こ と を 願 う と し ︵ 8 ∼ 10 行 ︶ 、 ま た 次 に は こ の 造 像 の 功 徳 を も っ て 、 亡 者 は 濁 世 の 塵 を 洗 い 流 し て 彼 岸 に 託 生 し 、 仏 に 遇 っ て 正 法 を 聞 く こ と が で き ま す よ う に 、 ま た 現 存 す る 供 養 者 及 び そ の 眷 属 は す べ て 、 寿 命 が 永 く び て 身 心 共 に 安 穏 で あ り ま す よ う に 、 と 祈 願 し ︵ 10 ∼ 13 ︶ 、 最 後 に 一 切 の 衆 生 が こ の 福 徳 に あ ず か り ま す よ う に 、 と い う 常 套 句 で 締 め く く っ て い る 。 こ の 祈 願 文 に つ い て ま ず 確 認 す べ き は 、 発 願 主 が 青 州 斉 郡 臨 の 清 信 士 女 ︵= 清 信 女 ︶ 張 勝 男 と い う 女 性 で あ る こ と 、 及 び 彼 女 が 百 六 十 余 人 を 勧 率 し て 、 師 僧 ・ 母 ・ 兄 弟 の 為 に 釈 像 を 本 尊 と す る 造 像 碑 を 造 っ た 点 で あ る 。 臨 県 は 、 北 魏 の 青 州 斉 郡 の 郡 治 で 、 現 在 は 博 市 域 の 臨 区 と な っ て い る 。 こ の 発 願 主 張 勝 男 は 清 信 士 女 ︵= 清 信 女 ︶ と 自 称 し て い る の で 、 一 一 八 中 国 に お け る 初 期 の ﹁ 邑 義 ﹂ に つ い て ︵ 下 ︶

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仏 寺 で 三 帰 五 戒 等 の 在 家 の 戒 を 受 け た 女 性 と 思 わ れ る 。 女 性 の 名 前 ︵ 勝 男 ︶ に み え る 〟 男 〝 は 男 児 を イ メ ー ジ す る も の で 、 勝 男 と い う の は ﹁ す ぐ れ て 元 気 な 男 児 を 産 み ま す よ う に ﹂ と い う 期 待 と 願 い を 込 め て 命 名 さ れ た と 思 わ れ る22 ︶ 。 こ の 祈 願 文 に よ っ て 、 我 々 は こ の 四 面 の 大 造 像 碑 が 女 性 の 発 願 と 勧 進 に よ っ て 造 営 さ れ た こ と を 確 認 す る こ と が で き る 。 碑 陰 の 下 部 を 見 て い こ う 。 こ こ に は 六 十 一 組 の 夫 妻 と 一 組 の 母 子 、 そ し て 単 独 名 の 男 性 二 人 、 あ わ せ て 百 二 十 六 名 の 名 前 が 刻 ま れ て お り 、 そ の う ち 八 組 の 夫 妻 の 下 に 二 行 書 き の 小 文 字 で 唯 那 ︵= 維 那 ︶ と 書 き 込 ま れ て い る 。 例 え ば ﹁ △ △ △ 妻 〇 〇 〇 唯 那 ﹂ の 場 合 、 こ の 唯 那 は 夫 で あ る △ △ △ に 付 け ら れ た の で は な く 、 妻 の 〇 〇 〇 の 肩 書 き と 見 る べ き で あ る 。 そ の 証 拠 と し て 、 冒 頭 に ﹁ 傅 雙 虎 妻 張 勝 男 唯 那 ﹂ と あ り 、 こ の 唯 那 は 祈 願 文 に あ る 発 願 主 張 勝 男 に 最 も ふ さ わ し い 。 ま た 、 唯 那 が 夫 た ち の 肩 書 き な ら ば △ △ △ の 前 に 記 せ ば よ い こ と で あ っ て 、 他 の 邑 義 の 事 例 で は 全 て そ う な っ て い る 。 こ の 時 代 、 い か に 女 性 が 主 役 と い っ て も 妻 の 下 に 夫 の 名 を 刻 む こ と は 論 外 だ っ た の で あ ろ う 。 と も あ れ 、 こ の 地 に 嫁 い だ 女 性 八 人 が 集 団 造 像 供 養 の 世 話 役 ﹁ 唯 那 ﹂ と し て そ の 役 割 を 果 た し た こ と が 読 み 取 れ よ う 。 碑 陰 の 名 前 を 概 観 す る と 、 ま ず 官 位 や 爵 位 を 有 す る 者 は 皆 無 で 、 ま た 胡 族 出 身 を 思 わ せ る 人 物 も い な い 。 す べ て 漢 族 と み な し て よ い 。 男 性 は 全 部 で 六 十 四 人 、 女 性 は 全 部 で 六 十 二 人 、 全 体 で 百 二 十 六 人 と な る 。 そ の 中 で 傅 氏 が 抜 き ん で て 多 く 、 男 性 六 十 四 人 中 、 半 以 上 の 三 十 四 人 が 傅 氏 で あ る 。 こ こ で 先 に 確 認 し て お く こ と が あ る 。 祈 願 文 に あ る 張 勝 男 が 率 い た ﹁ 百 六 十 余 人 ﹂ の う ち に 、 彼 女 た ち の 夫 は 含 ま れ る の で あ ろ う か 。 碑 の 左 側 に 刻 ま れ た 供 養 者 は 多 く 見 て も 三 十 六 人 ︵ う ち 八 人 は 碑 陰 人 名 と 重 複 ︶ で あ り 、 未 見 の 右 側 ︵ 調 査 で 探 っ た 感 じ で は 刻 字 は 極 少 ︶ も そ の 程 度 と す る と 、 碑 陰 の 夫 た ち を 含 め な い と 到 底 百 六 十 余 人 に は 達 し な い 。 従 っ て 、 碑 陰 に 刻 ま れ た 夫 君 た ち 男 性 も 、 こ の 造 像 事 業 に 参 加 し た 供 養 者 と み な し て よ い と 判 断 す る 。 碑 陰 に 単 独 で 記 さ れ た 人 物 ︵ 傅 祖 と 鹿 法 可 ︶ が い る が 、 こ の 二 人 は 男 性 と 見 ら れ る こ と も 、 こ の 判 断 が 妥 当 で あ る こ と の 証 し と な ろ う 。 男 性 を 姓 氏 別 に 多 い 順 か ら 並 べ て み る と 次 の よ う に な る 。 傅 34 人 ︶ ・ 馬 10 ︶ ・ 鹿 6 ︶ ・ 張 4 ︶ ・ 魏 2 ︶ 各 1 ↓ 王 ・ 閻 ・ ・ 曹 ・ 田 ・ 鄧 ・ 李 ・ □ 一 一 九 中 国 に お け る 初 期 の ﹁ 邑 義 ﹂ に つ い て ︵ 下 ︶

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こ の 傾 向 か ら 、 こ の 造 像 供 養 の 主 役 で あ る 張 勝 男 の 嫁 い だ 傅 氏 一 族 が 、 と り わ け 熱 心 に 関 わ っ て い る と み な し て よ い し 、 大 石 像 碑 の 造 営 事 業 に は 多 額 の 費 用 を 要 す る こ と を 慮 す る と 、 傅 氏 の 経 済 力 と そ れ に 連 携 し 協 力 し て い る 馬 氏 、 鹿 氏 、 張 氏 の 存 在 が 浮 か び 上 が っ て く る 。 因 に 、 四 段 5 行 目 の 鹿 法 可 は ﹁ 田 錢 二 百 ﹂ と み え 、 彼 は 石 像 を 安 置 す る 土 地 用 に 単 独 で 銭 二 百 を 布 施 し た こ と が か る23 ︶ 。 こ れ に 対 し て 、 女 性 は 次 の よ う に な る 。 ︵ * は 唯 那 一 人 に 相 当 ︶ 張 14 人 * * ︶ ・ 鹿 10 ︶ ・ 馬 5 ︶ ・ 王 5 ︶ ・ 傅 4 ︶ ・ 3 * ︶ ・ 閻 2 * ︶ ・ 孔 2 * ︶ ・ 孫 2 ︶ ・ 燕 1 * ︶ ・ 1 * ︶ ・ 1 * ︶ 各 1 ↓ 韓 ・ 崔 ・ 曹 ・ 段 ・ ・ 趙 ・ 陳 ・ 程 ・ 田 ・ 鄧 ・ 牟 ・ 孟 女 性 は 張 氏 が 最 も 多 く 、 次 に 鹿 氏 が 続 く 。 男 女 を 比 較 し て 見 る と 、 男 性 が 十 二 種 の 姓 を 数 え る の に 対 し て 女 性 は 二 十 四 種 で 、 女 性 の 姓 の ば ら つ き が 顕 著 で あ る 。 こ れ は 造 像 供 養 が 行 わ れ た こ の 地 、 臨 に 、 他 所 か ら 嫁 い で き た 夫 人 た ち が 参 加 し て い る か ら だ と 言 え よ う 。 も う 一 つ は 、 唯 那 と い う 世 話 役 の 肩 書 き が す べ て 夫 人 た ち で あ る こ と か ら 、 夫 人 同 志 の 呼 び か け も 多 様 な 姓 の 女 性 の 参 画 に つ な が っ た と 思 わ れ る 。 こ こ で 造 像 供 養 事 業 に 当 っ て 、 ど の よ う な 経 緯 が あ っ た か を み る た め 、 参 加 者 の 姻 戚 関 係 を 整 理 し よ う 。 か り や す く す る 為 に 、 本 文 末 に 、 姻 戚 関 係 図 を 図 示 す る 。 線 に っ て 示 し た 数 字 は 、 碑 陰 の 供 養 者 の 夫 婦 関 係 か ら 割 り 出 し た 婚 姻 の 件 数 で あ る 。 こ の 図 を 解 析 す る と 、 こ の 造 像 供 養 事 業 が 完 璧 に 傅 氏 と 張 氏 を 軸 に 行 わ れ た こ と が 判 然 と し て く る 。 ま ず 、 傅 氏 と 通 婚 関 係 に あ る 氏 族 を 見 て み よ う 。 傅 氏 張 氏 ↑ 女 ⋮ 8 例 傅 氏 鹿 氏 傅 氏 ︵ そ の 他 ︶ ↑ 女 ⋮ 5 例 ↑ 女 孫 氏 1 例 女 ↓ ⋮ 2 例 ↑ 女 氏 1 例 一 二 〇 中 国 に お け る 初 期 の ﹁ 邑 義 ﹂ に つ い て ︵ 下 ︶

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↑ 女 燕 氏 1 例 傅 氏 馬 氏 ↑ 女 氏 1 例 ↑ 女 ⋮ 2 例 ↑ 女 孔 氏 1 例 女 ↓ ⋮ 1 例 ↑ 女 氏 1 例 ↑ 女 趙 氏 1 例 傅 氏 閻 氏 ↑ 女 韓 氏 1 例 ↑ 女 ⋮ 2 例 ↑ 女 程 氏 1 例 女 ↓ ⋮ 1 例 ↑ 女 田 氏 1 例 傅 氏 王 氏 ↑ 女 牟 氏 1 例 ↑ 女 ⋮ 3 例 ↑ 女 孟 氏 1 例 次 に 、 張 氏 ・ 鹿 氏 ・ 馬 氏 を 軸 に 複 数 事 例 を 見 て み よ う 。 張 氏 鹿 氏 張 氏 魏 氏 ↑ 女 ⋮ 2 例 女 ↓ ⋮ 2 例 女 ↓ ⋮ 2 例 鹿 氏 馬 氏 張 氏 馬 氏 ↑ 女 ⋮ 1 例 女 ↓ ⋮ 2 例 女 ↓ ⋮ 2 例 一 二 一 中 国 に お け る 初 期 の ﹁ 邑 義 ﹂ に つ い て ︵ 下 ︶

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以 上 、 こ の 大 石 像 碑 造 営 に 参 与 し た 人 々 の 姻 戚 関 係 か ら 、 い わ ゆ る 臨 の 有 力 者 と 思 わ れ る 張 氏 ・ 傅 氏 ・ 鹿 氏 ・ 馬 氏 を 軸 と す る ネ ッ ト ワ ー ク が 浮 か び 上 が っ て き た 。 た だ し 、 唯 那 の 肩 書 き を 有 す る 婦 人 は 、 こ の 有 力 一 族 と は 合 致 し な い 。 唯 那 を 引 き 受 け た 女 性 は 、 発 願 主 の 張 勝 男 の 他 に 、 も う 一 人 の 張 氏 ︵ 傅 妻 ︶ 、 そ の 他 は 燕 外 姫 ︵ 傅 榮 仁 妻 ︶ 、 姫 ︵ 傅 定 周 妻 ︶ 、 孔 姫 ︵ 傅 楼 妻 ︶ 、 閻 椀 香 ︵ 傅 強 妻 ︶ 、 ︵ 傅 端 妻 ︶ 、 そ し て 法 生 ︵ 馬 助 妻 ︶ の 八 人 で あ る 。 実 に そ の う ち 七 人 が 傅 家 に 嫁 い だ 夫 人 た ち で 、 し か も さ ほ ど 有 力 な 或 は 由 緒 あ る 家 格 の 出 と は 思 わ れ な い24 ︶ 。 こ れ は 如 何 な る 事 情 に よ る も の で あ ろ う か 。 そ れ と 共 に 、 張 勝 男 と い う 女 性 が 何 故 に 発 願 主 に な り え た の で あ ろ う か 。 祈 願 文 に は ﹁ 青 州 齊 郡 臨 縣 清 信 士 女 張 勝 男 ﹂ と あ り 、 ま た 出 土 地 が 山 東 省 臨 鎮 と い う 事 実 は 、 こ の 造 像 碑 の 制 作 地 が 当 の 臨 で あ る こ と を 示 し て い る 。 そ れ は 即 ち 、 張 勝 男 の 嫁 ぎ 先 の 傅 雙 虎 の 居 住 地 が 臨 で あ り 、 ま た 供 養 者 と し て 多 く の 傅 氏 が 名 を 連 ね て い る こ と か ら 、 参 加 し た 傅 氏 一 族 の 多 く も 臨 に 居 住 し て い た と み て よ い 。 と こ ろ で 造 像 碑 の 供 養 者 に 官 位 ・ 爵 位 を 有 す る 者 が い な い こ と は 既 述 し た が 、 婚 姻 関 係 の ネ ッ ト ワ ー ク を 結 成 し て い る 張 氏 ・ 傅 氏 は 、 臨 地 方 で は ど れ ほ ど の 有 力 者 な の で あ ろ う か 。 山 東 半 島 の 有 力 氏 族 と 言 え ば 、 ま ず 瑯 耶 の 王 氏 や 諸 氏 、 泰 山 の 羊 氏 が 想 起 さ れ る が 、 西 晋 末 の 動 乱 以 降 、 五 胡 十 六 国 の 興 亡 な ど で 、 旧 来 の 名 族 は そ の 一 部 或 は 大 部 が 江 南 に 避 難 す る 一 方 、 本 貫 地 に と ど ま っ た 郡 県 の 大 姓 ・ 大 族 の 多 く は 南 北 朝 時 代 に は 衰 滅 し た 。 例 え ば 、 青 州 齊 郡 ︵ 臨 ︶ に つ い て み る と 、 漢 ∼ 西 晋 で は 姓 氏 、 主 氏 、 氏 、 劉 氏 な ど が 文 献 に 見 え る が25 ︶ 、 4 ∼ 5 世 紀 に は 在 地 豪 右 と し て の 姿 は 見 え な く な り 、 代 わ っ て 河 北 の 人 士 が 宗 族 を 率 い て 断 続 的 に 黄 河 以 南 に 移 住 し 、 山 東 省 一 帯 は 複 雑 な 住 民 構 成 に な っ た 。 特 に 青 斉 地 方 に は 亡 命 政 権 の 南 燕 が 広 固 ︵ 青 州 ︶ を 都 と し た こ と も あ っ て 、 周 辺 に 多 く の 移 住 民 が 旧 郷 ご と に 集 住 し た 。 南 燕 を 滅 し た 劉 宋 王 朝 は そ の 青 州 に 移 住 民 の 為 の 僑 州 と し て 冀 州 を 置 く ほ か 、 出 身 地 ご と に 僑 郡 や 僑 県 を 設 置 し た 。 北 魏 は こ の 地 を 奪 う と 、 そ の 冀 州 を 斉 州 に 改 め た が 、 青 斉 地 方 の 張 氏 や 傅 氏 も そ う し た 移 住 民 の 一 族 だ っ た 可 能 性 が 極 め て 高 い 。 ま ず 臨 の 張 氏 を み て み よ う 。 張 氏 に つ い て は 、 張 ︵ ∼ 四 七 四 ︶ と い う 人 物 が い る26 ︶ 。 張 の の 張 華 は 、 後 燕 崩 壊 時 ︵ 三 九 八 年 ︶ に 南 に 渡 り 南 燕 に 仕 え て 左 僕 射 を 勤 め た こ と か ら 、 移 住 先 の 僑 住 地 は 広 固 ︵ 青 州 ︶ 周 辺 だ っ た と 思 わ れ る 。 張 華 に は 十 人 の 子 が い て 、 う ち 三 人 は 南 燕 滅 亡 後 に 劉 宋 に 仕 え 、 の ち 北 魏 に 帰 降 し て い る 。 な か で も 張 は 、 劉 宋 の 泰 山 太 守 ∼ 青 冀 二 州 輔 国 府 長 ∼ 帯 魏 郡 太 守 ∼ 東 徐 州 刺 な ど を 歴 任 し た が 、 北 魏 献 文 帝 の 天 安 元 年 ︵ 四 六 六 ︶ に 魏 将 の 尉 元 に 帰 順 し て 、 上 客 の 厚 遇 を 受 け 、 や が て 北 魏 に 仕 え て 東 徐 州 刺 に 除 せ ら れ 、 ま た 爵 位 一 二 二 中 国 に お け る 初 期 の ﹁ 邑 義 ﹂ に つ い て ︵ 下 ︶

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﹁ 平 陸 侯 ﹂ を 賜 与 さ れ た 。 張 は そ の 人 柄 を 青 斉 の 人 士 か ら 信 頼 さ れ 、 の 疏 族 末 流 ま で も み な 尊 敬 さ れ る よ う に な っ た 、 と い う 。 は 北 魏 興 四 年 ︵ 四 七 四 ︶ に 没 す る が 、 こ の 頃 に は 南 渡 し た 清 河 の 張 氏 は 青 斉 地 方 に お い て 高 い 評 価 を 得 て い た こ と が 判 る 。 た だ 、 長 男 の 張 敬 伯 は の 亡 骸 を 冀 州 清 河 の 旧 墓 に 埋 葬 す る こ と に 固 執 し 、 許 可 を 得 る ま で 五 六 年 か か っ て い る 。 こ の こ と は 、 張 一 族 に と っ て 僑 住 地 は 仮 の 居 住 地 で あ っ て 、 あ く ま で 本 拠 地 は 冀 州 清 河 郡 、 と い う 意 識 が 強 く 残 っ て い た こ と が 窺 わ れ る 。 南 渡 し た 清 河 張 氏 に は も う 一 人 注 目 す べ き 人 物 が い る 。 斉 郡 臨 人 、 張 烈 ︵ 字 、 仙 。 四 六 二 ∼ 五 三 八 ︶ で あ る27 ︶ 。 張 烈 も 清 河 東 武 城 に 本 貫 を 有 す る 張 氏 で 、 烈 の 高 祖 ︵ 五 世 祖 ︶ 張 希 は 前 燕 の 尚 書 右 僕 射 、 曾 祖 の 張 恂 は 後 燕 の 散 騎 常 侍 を 勤 め た が 、 後 燕 の 崩 壊 時 に 慕 容 徳 に 従 っ て 南 渡 し 、 や が て 斉 郡 臨 に 僑 居 し た 。 南 燕 が 四 一 〇 年 に 滅 亡 し て 以 降 、 劉 宋 王 朝 か ら は 採 用 さ れ ず 、 一 族 は 半 世 紀 以 上 も の 間 窮 乏 生 活 を 余 儀 な く さ れ た 。 こ の 間 、 烈 は 士 大 夫 と し て の 学 問 修 得 に 励 み 、 崔 ・ 房 叔 と 並 ん で 青 州 の ﹁ 三 ﹂ と 称 さ れ た28 ︶ 。 や が て 、 張 烈 は 北 魏 孝 文 帝 の 時 代 に 推 挙 さ れ 、 帝 に 認 め ら れ て 名 ﹁ 烈 ﹂ を 賜 っ た 。 ま た 洛 陽 遷 都 後 は 軍 事 の 才 も 発 揮 し て 、 宣 武 帝 の 初 め に ﹁ 清 河 県 開 国 子 ﹂ に 封 じ ら れ 、 邑 二 百 戸 の 封 土 を 賜 っ た 。 こ の 頃 か ら 臨 の 張 氏 一 族 は 僑 住 地 で の 地 歩 を 盤 石 に し た と 思 わ れ る 。 そ の 後 、 烈 は 老 母 を 看 る た め 官 職 を 離 れ る こ と 十 余 年 、 こ の 間 に 二 度 青 州 一 帯 に 飢 饉 が 広 が り ︵ 昌 二 年 六 月 、 翌 三 年 四 月 ︶ 、 官 民 共 に 大 恐 慌 を き た す が 、 張 烈 は 粥 を つ く っ て 飢 民 に 賑 恤 し 、 多 く の 命 を 救 い 、 郷 里 の 民 に 称 え ら れ た こ と が 記 録 さ れ て い る 。 孝 明 帝 の 代 に は 実 権 を 握 っ た 元 叉 に 阿 附 し て 給 事 黄 門 侍 郎 や 光 禄 大 夫 を 歴 任 、 ま た 出 で て は 州 刺 に 赴 任 し た 。 そ し て 任 期 を 終 え た 孝 昌 三 年 こ ろ 、 老 年 を も っ て 郷 里 ︵ 臨 ︶ に 還 り 、 兄 弟 同 居 し て 親 族 に 慕 わ れ 、 十 年 ば か り の 後 、 東 魏 の 元 象 元 年 ︵ 五 三 八 ︶ に 没 し た 。 さ て 、 先 述 し た よ う に 、 張 勝 男 等 造 像 碑 に み え る 斉 郡 臨 の 張 氏 は 、 一 定 程 度 以 上 の 財 力 を 持 つ 有 力 者 と 見 な さ れ る が 、 当 時 の 臨 で は 清 河 東 武 城 の 張 氏 以 外 で 有 力 な 張 氏 は 見 出 せ な い の で 、 張 勝 男 は 上 記 の 張 や 張 烈 に 直 接 関 係 す る か 、 或 は そ の 疏 族 で あ っ た と 思 わ れ る 。 ま た 張 勝 男 は 造 像 碑 に ﹁ 青 州 斉 郡 臨 ﹂ の 人 と 明 示 し て い る の で 、 ﹃ 魏 書 ﹄ の 記 事 と の 整 合 性 を 慮 す る と 、 張 で は な く 、 張 烈 の 一 族 、 或 は そ の 疏 族 の 可 能 性 が 高 い 。 ﹃ 魏 書 ﹄ に よ っ て 張 烈 の 生 活 ぶ り を 見 て み よ う 。 ① 張 烈 の 家 産 は 膨 大 で 、 客 な ど の 用 人 を 多 数 か か え 、 相 当 な 財 力 を 有 し て い た 。 ② 兄 弟 同 居 を つ づ け て い て 、 弟 の 張 僧 晧 も し き り に 産 業 を 営 ん で 巨 万 の 資 産 を 蓄 え 、 北 魏 朝 か ら の 仕 官 の 誘 い を 三 回 断 わ り 、 世 間 か ら 一 二 三 中 国 に お け る 初 期 の ﹁ 邑 義 ﹂ に つ い て ︵ 下 ︶

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﹁ 徴 君 ﹂ と 評 さ れ た 。 ③ 飢 饉 の と き に は 自 の 貯 蔵 穀 物 を 提 供 し て 飢 民 に 賑 恤 し て お り 、 郷 里 の 民 を 大 事 に 思 う 気 持 ち を 有 し て い た 。 ④ 張 烈 は 子 孫 の た め に ﹁ 家 誡 ﹂ 千 余 言 を 作 り 、 朝 に 贈 官 を 求 め な い こ と 、 ま た こ の ﹁ 家 誡 ﹂ を 石 に 刻 ん で 碑 と し て 残 す こ と を 遺 言 し 、 子 の 張 質 は そ の 指 示 を 遵 守 し た 。 ⑤ 烈 の 兄 弟 は み な 倹 約 に 努 め 、 自 た ち 男 性 の 車 馬 や 衣 服 は 粗 末 だ っ た が 、 夫 人 や 婢 妾 た ち の 方 が む し ろ 良 質 な 着 物 を 着 て い た 。 以 上 、 張 烈 の 処 世 観 や 人 格 を 垣 間 見 た が 、 こ れ ら と 張 勝 男 と の 直 接 の 関 係 を 抽 出 す る こ と は 難 し い 。 た だ 、 一 族 に 一 定 程 度 の 資 産 が あ る こ と 、 女 性 の お し ゃ れ に 寛 容 で あ る こ と 、 し い 民 に 賑 恤 し て い る こ と 、 一 族 の た め に 没 後 に 碑 を 造 る 事 業 を 行 っ て い る こ と 等 か ら 、 活 動 的 女 性 の 張 勝 男 が 張 烈 一 族 か 或 は そ の 疏 族 で あ る 可 能 性 は 高 い と え る 。 次 に 、 傅 氏 を 見 て み よ う 。 漢 代 以 来 の 名 門 で 著 名 な 一 族 に 北 地 郡 泥 陽 県 の 傅 氏 が あ る が29 ︶ 、 山 東 の 傅 氏 と は ほ と ん ど 関 係 が な い 。 一 方 、 河 北 で 四 世 紀 か ら 清 河 の 傅 氏 が 台 頭 し 、 五 世 紀 に は 清 河 の 傅 永 ︵ 四 三 四 ∼ 五 一 六 ︶ と 傅 竪 眼 ︵ 四 六 一 ∼ 五 二 七 ︶ が 現 わ れ 、 共 に ﹃ 魏 書 ﹄ 巻 七 十 及 び ﹃ 北 ﹄ 巻 四 十 五 に 列 伝 が 立 て ら れ て い る30 ︶ 。 列 伝 で は 、 傅 永 は 清 河 人 、 傅 竪 眼 は 本 清 河 人 と 記 す が 、 二 人 と も 本 貫 は 冀 州 の 清 河 郡 で 、 僑 住 地 は 山 東 の 東 清 河 郡 に あ っ た31 ︶ 。 傅 竪 眼 に つ い て は 近 年 、 博 市 で そ の 墓 誌 が 出 土 し て い る32 ︶ 。 そ の 墓 誌 と ﹃ 魏 書 ﹄ に よ れ ば 、 傅 竪 眼 は 祖 傅 融 の と き 黄 河 を 渡 っ て 斉 州 の 盤 陽 に 移 り33 ︶ 、 そ こ に 居 を 構 え て 、 郷 閭 の 人 々 に 尊 重 さ れ た と い う 。 伯 や た ち は 劉 宋 に 仕 え た が 政 争 等 で 不 遇 の 死 を 遂 げ た こ と も あ り 、 傅 竪 眼 は 献 文 帝 の 天 安 元 年 ︵ 四 六 六 ︶ 、 安 都 が 北 魏 に 降 る に 従 っ て 入 魏 し た 。 や が て 北 魏 鎮 南 将 軍 の 王 粛 に 見 い だ さ れ て 幕 下 の 参 軍 と な り 、 太 和 末 年 に は 統 軍 と し て 王 粛 に 従 っ て 征 伐 に 当 り 東 奔 西 走 し た 。 そ の 後 、 宣 武 帝 ∼ 孝 明 帝 の 代 に は 、 梁 州 ∼ 南 州 ∼ 益 州 ∼ 岐 州 ∼ 梁 州 の 刺 を 歴 任 し 、 北 魏 の 西 南 部 国 境 地 帯 の 少 数 民 族 を 綏 撫 す る こ と に 貢 献 し た 。 孝 昌 三 年 ︵ 五 二 七 ︶ 任 地 の 梁 州 で 六 十 七 才 で 病 没 し た 。 傅 竪 眼 墓 誌 の 左 側 に は 、 以 下 の よ う な 刻 字 が あ る 。 ︵ 点 筆 者 ︶ 一 二 四 中 国 に お け る 初 期 の ﹁ 邑 義 ﹂ に つ い て ︵ 下 ︶

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