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8 70 伝 統 蔑 観 地 拡 張 策 残 覚 醒 育 家 全 維 改 革 モ デ ル 特 物 質 覚 展 進 歩 勢 力 魅 了 十 分 や ぼ 張 ぼ 張 へ 始 家 建 設 モ デ ル 権 指 デ モ ク シ 遂 げ 進 受 支 配 階 級 朱 奉 華 夷 界 観 存 観 求 華 夷 秩 序

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近代における日

· 朝漢学者の交流と影響

 

   

 

 

はじめに

  韓 国 は 三 国 時 代 に 漢 字 を 受 け 入 れ て 以 来、 長 い 間 漢 字 を 使 用 し て い た。 朝 鮮 時 代 に 世 宗 大 王 が ハ ン グ ル を 発 明 し て か ら も、漢字は使われ続けた。下層民と女性はハングルを使用したが、支配階層と士大夫は漢字を使用した。また、支配階層と 士 大 夫 は 漢 字 を「 真 書 」 と 呼 ん だ が、 こ の よ う な 名 称 は 漢 字 で 書 い た「 文( 文 書、 文 学 な ど す べ て の 記 録 物 )」 の み が「 ほ んもの」であるという意味であった。   「 真 文 」 と は、 そ の よ う な 意 識 が 形 象 化 さ れ た も の で あ る。 朝 鮮 時 代 の 士 大 夫 が「 真 文 」 = 漢 字 で 形 象 化 し た も の は、 中 国がアジアの文明国であり覇権国という考え、つまり「中華」の空間の中であった。そのなかには、また中国は文明の施恵 者として、朝鮮はその施恵を受ける唯一の国であるという認識があった。中国文明の施恵の中で、漢字を通じて文明を受け 入 れ、 そ れ を 土 台 と し て 文 物 と 文 化 を 発 展 さ せ て き た と い う 自 負 心、 所 謂「 小 中 華 意 識 」 は 朝 鮮 士 大 夫 の ア イ デ ン テ ィ ティーの一つであった。   近代期に入って、朝鮮は、明治維新以後、欧米文明をうけいれ文明国の隊列に入った日本を目睹した。それにより以前か

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らもっていた伝統的日本蔑視観を変えなければならなかった。朝鮮は西洋の植民地拡張政策の中で生き残るためには変化す べきであると覚醒した。すなわち、政治、社会、教育など国家全体を変えなければならなかった。朝鮮にとっては、先発国 である日本が行った明治維新が朝鮮の改革のモデルになった。特に、物質文明における目覚しい発展は、朝鮮の進歩勢力を 魅了させるのに十分だった。いまや朝鮮は「中国に学ぼう」という主張から「日本に学ぼう」という主張へ変わり始めてい た。   近代に朝鮮の自主国家を建設しようとした人々の中には、日本をモデルとしようとした人々がでてきた。その中で、朝鮮 の漢学知識人は、文明国、主権国を目指し、デモクラシーを成し遂げるため、日本との交流を通じて先進の文化を受け入れ ようとした。当時の朝鮮の漢学知識人は朝鮮の支配階級であり、朱子学を信奉しながら華夷論的な世界観をもっていた存在 であった。このような、彼らの対日観の変化は、また新しい朝・日関係を求めた。日本でも、中国を中心した華夷的な秩序 から脱した新しい国際関係、つまり万国公法に基づいた関係を、朝鮮と結ぼうとした。双方の要求に相応しく、方法を模索 するための様々な動きが始った。本研究はこの動きの一つとして朝・日「交流」に注目した。   「 交 流 」 と い う の は 新 し い 世 界 に 接 す る こ と と 言 え る。 近 代 初 頭 朝 鮮 人 と っ て 発 見 さ れ た 日 本 は、 明 治 維 新 を 通 じ て 換 骨 奪 胎 し て、 「 文 明 の 国 」 に な っ た の で、 彼 ら 朝 鮮 人 の 持 論 を 覆 す ほ ど の 衝 撃 を 受 け た。 そ の 結 果 朝 鮮 人 に は、 西 欧 の 侵 略 に 対抗して白人種と競いだすほどに発達した文明を持った日本、進歩的な政治制度を取り揃えた日本は、警戒の対象であり、 同時に羨望の対象にもなった。   本 研 究 は ま ず、 朝 鮮 が 日 本 に 文 明 を 伝 え る と い う 優 位 的 な 立 場 か ら、 文 明 国 と し て 日 本 を 認 識 し つ つ、 「 学 日 = 文 明 国 日 本を学ぼう」の思考へと変わり始める時期までを研究の対象とする。   本 研 究 は、 朝 鮮 と 日 本 の 漢 学 者 が 互 い に 交 流 し て 影 響 を し た こ と に 関 す る 研 究 で、 主 に 旅 行 · 使 節 団 来 日 時 の 著 作 及 び 朝 鮮に輸入された日本側文献を対象とした。そのために朝鮮と日本の多様な文献と人的交流及びその過程について考察し、こ

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れによって朝鮮と日本との近代をめぐる様々な言説を明らかにする。   さらに、朝鮮と日本の交流を通して「植民言説」が伝播されたという仮説を証明した。また、日本の植民言説の土台であ る 明 治 儒 学 の 様 相 を 究 明 し よ う と し た。 明 治 維 新 の イ デ オ ロ ギ ー で あ る 明 治 儒 学 が、 「 ア ジ ア 」 を め ぐ る 三 国 連 帯、 同 種 同 文論を主なキーワードとして、日本の近代化だけではなく東アジアの近代化とも密接な関係を持つことを究明しようとする ものである。

  「同文」と「善隣」という言説

  朝鮮と日本、そして中国は長い間漢字を媒介として言語生活を共有して来た。近代的社会への変革は漢字が支配した東ア ジアの秩序を崩すことから出発したと言っても過言ではない。漢字すなわち儒学の言語である漢字から脱することは、中華 的秩序との断絶を、そして新しいアイデンティティを捜すための第一歩を意味するものだった。しかし実際にはそんなに簡 単なことではなかった。新しい政治環境が形成されて、社会が急いで西欧化を目指して改革を行っても、言語環境は変わっ ていかなかった。当時の日本を例として近代期アジアにおける漢字の位置を吟味して見よう。   明治維新と言えば「文明開化」と同義語のように思われ、旧時代の学問の中心であった漢文は一斉に退潮したと考え られがちであるが、事実はそうではない。すなわち維新政府の顕官たちは、それぞれ各地の藩黌で漢学修行をしてきた エリートたちである。したがって彼らの価値観の根底には旧漢学の教養が厳然として存在し、それについての強烈な愛 着 が ま つ わ り つ い て い た。 そ こ で 新 時 代 に な っ た と は 言 え、 彼 ら は「 漢 語 」 を 使 っ て 文 章 を 作 ら せ れ ば 漢 文 調 で あ っ た。明治の初年はもっぱら漢文や漢文直訳が流行した。また全国諸藩の人々は、互いに交通し会合する必要があった。

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しかし各国にはそれぞれの方言があって、話す言葉が理解できず、非常に会話の障害となった。そこで漢語が流行って そして維新以降にはこれらの人々が多く要路にたったため、ついに漢語が上流社会の言葉となったのであ る ( 1 ) 。   日本の言語環境と同じように、朝鮮においても漢字は書き言葉と教養の言語であった。当時東アジアの国際情勢の中から 漢字の位置を見てみよう。ロシアの南下及びイギリスの中国侵略などから可視化された西洋の侵略に対する朝・中・日の危 機感に対しても注目しなければならない。西洋列強の侵略により崩れていく中国。明治維新の混乱の中にあった日本。そし て「 衛 正 斥 邪 」 的 立 場 で 鎖 国 し た 朝 鮮。 そ れ ぞ れ 相 異 な っ た 状 況 に あ っ た 三 国 を、 一 つ に 集 結 さ せ る こ と が 可 能 だ っ た の も、漢字により言語生活がまだ有效だったからである。漢字は話し言葉には使用不可能だったが、長い間占めてきた書き言 葉の地位は健在であった。たとえ後に朝鮮と日本で漢字廃止論が沸き上がってもこの地位を譲ることはなかった。   東 ア ジ ア の 書 き 言 葉 と し て、 漢 字 の 位 置 と 役 割 は「 同 文 論 」 と い う こ と で よ く 現 わ さ れ て い る。 「 同 文 」 に は 久 し く 朝・ 中・日が漢字を媒介しての共同体意識が含まれてい る ( 2 ) 。   しかし近代期の同文論は、中国から日本に発話者が変わったという点で、伝統的なこととは異なった。これに対して、さ らに具体的に明らかにしよう。   一 つ 目 は、 「 同 文 」 は「 同 教 同 文 」 で あ る こ と で あ る。 日 本 発 に よ る と、 東 ア ジ ア は、 漢 字 と い う 言 語 に よ っ て 形 成 さ れ た共同体論を越え、 「儒教」という思想の共同体論が主張された。   次は一八八一年三島中洲が朝鮮朝士視察団の一員だった厳世永と崔成大に与えた漢詩である。この詩を読みながら同文論 に対する考え方を見てみよう。 同教同文情好親。 相逢似異邦人。

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檀君開国国源遠。 箕氏化民民俗醇。 探水討山経万里。 觀風察政滞三旬。 一朝送別尤惆悵。 再会難期海外 賓 ( 3 ) 。   上の詩は、三島中洲が、厳世永と崔成大が帰国する際、餞別として書いたものである。ここで彼が言った「同文同教」と い う こ と は、 朝 鮮 と 日 本 が 漢 字 文 化 圏 だ け で は な く、 同 教、 す な わ ち 儒 教 の 文 化 圏 の 一 員 で あ る と い う 意 味 も 含 ま れ て い た。   「同種同文論」が黄人種の漢字文化圏ということに比べて、 「同文同教論」は儒教文化圏という意味が強い。金允植が三島 中洲に唱和した詩でも、そのような意識を再び確認することができる。 地異文相同。   事竆変則通。 三 島 中 洲( 一 八 三 一 年 一 月 二 二 日 ― 一 九 一 九 年 五 月 一 二 日 ) は、 漢 学 者、 東 京 高 等 師 範 学 校 教 授、 新 治 裁 判 所 長、 大 審 院 判 事、 東 京 帝 国 大 学 教 授、 東 宮 御 用 掛、 宮 中 顧 問 官、 二 松 學 舍 大 学 の 前 身 と な る 漢 学 塾 二 松 學 舍 の 創 立 者 で あ る。 重 野 安 繹、 川 田 甕 江 と と も に 明 治 の 三 大 文 宗 の 一 人 に 数 え ら れ る。 本 名 は 毅 で、 字 は 遠 叔、 通 称 貞 一 郎、 中 洲 は 号 で あ る。 一 八 七 七 年 九 月 に 中 村 敬 宇、 重 野 安 繹、 川 田 甕 江、 鷲 津 毅 堂、 阪 谷 朗 廬、 川 北 梅 山、 南 摩 綱 紀 ら と 邸 内 に 経 国 文 社 を 興 す。 そ し て 翌 月、 一 八 七 七 年 一 〇 月 一 〇 日、 四 八 歳 の と き、 漢 学 塾 二 松 學 舍 を 創 立 し た。 一 八 七 八 年 一 月 東 京 高 等 師 範 学 校 の 漢 学 教 授 と な る。 一 八 九 九 年 三 月、 文 学 博 士 の 学 位 を 受 け る。 一 九 一二年八月、東宮侍講を辞し、宮内省御用掛を拝命する。   (4)

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大功須歲計。   吾道貴時 中 ( 5 ) 。   金允植にとって日本は、 「地異文相同」かつ「吾道」の国であって、三島中洲にとって朝鮮は、 「同教」の国であった。   上のように同文論は漢字を言語として見る段階を越えて、儒教文化圏という概念に包合された。儒学者である金允植と三 島中洲の間に、これほど共通した意識が持たれる理由は、西欧化の脅威にされた儒教、すなわち東洋精神にたいする脅威に 互いが深く共鳴したからだと考えられる。   二 つ 目 は、 日 本 発「 同 文 論 」 は ア ジ ア 連 帯 主 義 の 線 上 か ら 出 た と い う こ と で あ る。 で は、 日 本 発「 同 文 論 」 の 特 徴 は 何 か。それは同文の国家である朝鮮と日本、そして中国が連帯して、西欧すなわち「異種異文」の侵略に抵抗しなければなら ないというのである。しかし朝鮮が内憂外患の危機にあるにせよ、日本との連帯を選択するまでには、外交的な葛藤をめぐ るさまざまな問題があった。例えば朝鮮にとって特に、日本が壬辰年(一五九二年)に朝鮮を侵略した過去と、強制的に江 金 允 植( キ ム・ ユ ン シ ク、 一 八 三 五 年 ─ 一 九 二 二 年 ) は、 一 九 世 紀 か ら 二 〇 世 紀 前 半 に か け て の、朝鮮の政治家 ・ 思想家である。本貫は清風金氏、字は洵卿、号は雲養で、文集に『雲養集』 、 『 天 津 談 草 』、 『 陰 晴 史 』、 『 壬 甲 零 稿 』 な ど が あ る。 甲 申 政 変 の 時 に 袁 世 凱 の 援 軍 で 開 化 派 を 排 除 し た。 甲 午 改 革 の 金 弘 集 内 閣 の 外 務 大 臣 で あ っ た。 一 八 九 六 年 露 館 播 遷 の 時 に 乙 未 事 変 を 座 視 し た と い う 理 由 で 済 州 島 に 配 せ ら れ た が 一 九 〇 七 年 赦 免 を 受 け た。 日 本 か ら 子 爵( 朝 鮮 貴 族 ) を 授 け ら れ る が、 3・ 1独 立 運 動 の 時 に 韓 国 独 立 請 願 書 を 日 本 政 府 と 朝 鮮 総 督 府 に 提 出 し て、 弾 圧 後 に幽閉、爵位を剥奪された。一九一五年 經学院大提学 になり、学士院賞を与えられた。 ( 6)

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華島条約を締結した当時(一八七五年)がそれである。   朝 · 日 間 の 連 帯 の た め に は そ の よ う な 問 題 か ら 脱 し な け れ ば な ら な か っ た。 三 島 中 洲 が 一 八 八 〇 年、 第 2次 修 信 使 で あ っ た金弘集に送った漢詩には、過去の朝・日関係に対する批判と、そして互いに連帯をしなければならない理由を次のように 唱えた。 晋秦構難非今日。韓魏連和是此時。 紛紜旣往鬩牆事。付与吟筵酒一 巵 ( 7 ) 。   彼は過去朝鮮と日本の争いはあったが、それは「鬩牆事」すなわち、兄弟間の争いのようなことで、昔のことと見たので ある。また彼は「紅塵四隣 暗 ( 8 ) 」のような絶体絶命の状況で、東アジアが生き残るためには、合従連衡をすべし、そのような 連帯が成し遂げられれば、ようやく「東洋波浪穏」になると言った。   以上のように、歴史上で同文論は、漢字を書き言葉としてコミュニケーションを形成し、漢字文化圏の中での疎通によっ て、アジアの連帯を企てる言説である。コミュニケーションの場合、直接対面の時は、筆談、漢詩のやり取りなどのかたち があり、間接的には、知識の流通、漢字で著作された刷り物によって知識を流通させる方法があった。一八八一年朝鮮朝士 視察団が日本を訪れた折、収集した資料を漢学者たちに漢訳を依頼し た ( 9 ) ことはそのような例の一つである。   そ し て、 こ の よ う な 日 本 発 同 文 論 が 目 指 し て い た の は、 ア ジ ア の 連 帯 で あ っ た。 朝 鮮 · 中 国 · 日 本 の 諸 国 は ア ジ ア 連 帯 主 義の実現を理想にし、明白な対西洋戦線を引こうとした。   し か し な が ら、 こ れ ら 三 国 が、 東 ア ジ ア に 占 め て い た 力 学 関 係 に 照 ら し て み る と、 こ の 理 想 は 実 現 で き な か っ た。 日 本 は、朝鮮と中国に対して武力で脅かし、強制的に条約を締結するとか、侵略と挑発行為をしたことにより、日本とは、同士

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とはならなかった。   一八七六年、朴珪寿に代わって書いた姜瑋の次の文は、朝・中・日が互いに「信頼することができない」とする姿勢を示 している一例である。 下 示 日 本 領 事 初 入 中 国。 請 開 舘 交 市 定 條 約 時。 有 勿 侵 属 国 一 條。 今 彼 之 遣 使 中 国。 稱 以 修 好 朝 鮮 云 者。 以 其 曾 有 条 約 也。故自明此挙之爲修好。而其意万一不如意。而至於動兵。則亦欲発明於中国曰。朝鮮先失。故不獲已而至於用兵。非 日本之違約於中国也。其意必如此。然則我不先動。彼雖以兵船恐喝。必不至於先発加兵矣。此一段教意。誠是今日日本 称兵之肯綮也。亦今日処事之機要也。今按大清政府。復日本政府書云。貴大臣推念中国和好之情。詳述用意。無非信守 我両国条規。敦睦不渝。又曰。日前貴大臣晤称弁事。固要照約。此一条語。卽指年前条約而云然 也 )(( ( 。   上 記 に よ る と、 朝 · 中 · 日 間 は 条 約 を 結 ん で 互 い に 侵 略 し な い こ と に し た が、 も し 自 国 の 目 論 見 が 外 れ た 場 合 に は、 「 違 約」を言いがかりにして相手の国に兵力を出動させたりした。 以此觀之。彼情雖極叵測。亦顧畏条約。我不先失。則彼亦不敢軽動。今日所恃而從事者。惟此一段而已。捨此則頃刻激 変。無可爲者矣。日本政府所云。窃祈朝鮮国以礼接我使臣。不拒我所求。以能永保平和也。若不然而事遂至敗。則韓人 自取不測之禍必矣。此一段。不可專帰之恐嚇語。誠亦日本称兵之骨子語也。曰。不拒我所求。其所求者何事也。若知其 所求之事而聴從。則必不動兵。不爲聴施。則必然動兵。此今日事機。必至之勢也。然則今日之事。宜决於此。而彼之所 求。若係難從之請。則此当奈何 乎 )(( ( 。

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  日本は朝鮮に、自分たちの要求を聞き入れたら平和を永遠に保障してやるが、そうでなければ、不祥事が突発すると脅し た。けれども、日本が朝鮮に要求することは、朝鮮側が聞き入れにくいことであった。果たして日本に対抗したとたん、日 本は軍隊を出動させた。   強制的な条約の取り結びにより、同文論の虚像が崩れた。その瞬間、同文圏というのは「想像の共同体」で、実体もなに も な い こ と に 気 付 か な け れ ば な ら な か っ た。 も ち ろ ん ア ジ ア 連 帯 も 同 じ で あ っ た。 そ れ に も か か わ ら ず、 次 々 に 朝 · 日 関 係 は同文の国で、そして善隣の国であるとして、アジア連帯は形骸化された。東アジアに近代以前までは、中華主義に根ざし た中国発「同文論」がその場所を占めていたが、近代には日本の膨脹政策に根ざした日本発「同文論」に変わってき た )(( ( 。   このような日本発「同文論」に対する受信者として、朝鮮の反応はどうであったのか。朝鮮にアジア連帯を主な内容とす る黄遵憲の『朝鮮策略』が伝わって、朝鮮の開化勢力に大きな衝撃を与えた。黄遵憲は興亜会のメンバーで、アジアの諸国 が日本を中心に連帯しなければならないという持論をもっていた。   一八八〇年修信使の一員である朝鮮の開化思想家、姜瑋(一八二〇─一八八四)が興亜会に参加し、また一八八一年朝鮮 末 松 謙 澄( 一 八 五 五 ― 一 九 二 〇 ) は 明 治・ 大 正 時 代 の 政 治 家。 名 は 正 式 に は「 の り ず み 」 と 読 む。 号 は 青 萍。 東 京 日 日 新 聞 社 に 入 社 し て 文 才 を 発 揮。 伊 藤 博 文 に 認 め ら れ て 官 途 に つ い た。 一 八 七 八 年 駐 英 公 使 館 書 記 生 見 習 と し て 渡 英 し、 翌 年 ケ ン ブ リ ッ ジ 大 学 に 入 学。 文 学・ 語 学・ 法 学 を修め、滞英中『源氏物語』 (抄)を英訳刊行した。一八八六年帰国後、内務 ・ 文部両省に勤め、 一 八 八 九 年 に は 伊 藤 の 長 女 と 結 婚。 第 1回 衆 議 院 議 員 選 挙 以 来、 3回 連 続 当 選 し、 一 八 九 六 年 か ら は 貴 族 院 に 転 じ た。 一 八 九 二 年 以 後、 第 二 ~ 四 次 の 各 伊 藤 内 閣 で 法 制 局 長 官・ 逓 信 大 臣・ 内 務 大 臣 を 歴 任。 一 九 〇 七 年 子 爵。 演 劇 改 良 会 の 設 立、 イ ギ リ ス の 女 流 作 家 バ ー サ・ M・ ク レ イ の 小 説『 谷 間 の 姫 百 合 』 や イ ギ リ ス 人 ア ン デ ル の『 日 本 美 術 全 書 』 の 翻 訳、 『 防 長 回 天 史 』 の 編 纂 な ど、幅広い活動でも知られる。 ( 14)

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朝 士 視 察 団 が 興 亜 会 も 訪 問 す る ほ ど、 興 亜 会 に 対 す る 関 心 が 高 か っ た。 『 興 亜 会 報 告 )(( ( 』 に は、 一 八 八 〇 年 か ら 一 八 八 六 年 ま でにかけて朝鮮人の参加と活動に関してその報告が記されている。   たしかに、朝鮮はある程度には、アジア連帯論に国運をかけていたといえる。それから、朝鮮は開港以降、開化の準備を するため、日本に公式的な使節団を 4回、また非公式的な使節団も派遣した。しかし、日本の植民政策は東アジアの浪漫的 な夢を再び崩してしまった。そのかわり、朝・日は「内鮮一体」という新しい関係を作りはじめた。植民地初期、日本側で 注目される人物には末松謙澄がいた。   彼は一八七六年江華島条約で朝鮮を訪問して朝鮮人と付き合っ た )(( ( 。一九〇五年以後には、朝鮮人の訪日時、彼の家である 芝城山館で大規模な宴会を開催したりした。当時、大勢の朝鮮と日本の顯官及び漢学者たちが参加して、多数の漢詩を唱和 し た が、 後 に『 善 隣 唱 和 』 1( 一 九 〇 八 )・ 2( 一 九 〇 八 ) と『 納 涼 唱 和 集 』( 一 九 〇 八 )(( ( )、 『 軽 妙 唱 和 集 』( 一 九 〇 八 )(( ( ) が 出 版された。末松に対する朝鮮人の思いは、一九〇九年観光団の一員として来日した鄭万朝の詩に残っている。 望公甞若古人然。得読篇章賴阿連。 (去年家季來遊多得詩文而歸) 脣齒相依修旧好。心肝一泻話新縁。 古文政値今昭代。左海曾与此盛筵。 会見兮衣爭繍句。鷄林千載永流 伝 )(( ( 。   鄭万朝は彼の弟鄭丙朝を通じて末松についてすでに知っていたし、特に、朝鮮側に彼は詩人として認識されていたことは とてもおもしろい。末松の上記の著作から見て、日本が朝鮮を「兄弟国」と呼名した が )(( ( 、その一方では、一九〇八年に朝鮮

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人 は、 日 本 と の 関 係 に 対 し て「 同 文 国 」 · 「 善 隣 国 」 か ら、 「 兄 弟 国 」 と し て 認 識 す る ほ ど に 至 っ た こ と が 分 か る。 例 え ば 「脣歯相依元旧 誼 )(( ( 」「兄弟情誼曠千 古 )(( ( 」等々の言葉で述べられていることである。これはまさに植民地支配のレトリックのひ とつであったと言えよう。

 

開化の悩み、欧米化と儒学

  前 章 で は 同 文 論 を 中 心 に、 近 代 東 ア ジ ア の 情 勢 と こ れ を 取 り 囲 む ア ジ ア 連 帯 主 義 に 対 し て 論 じ た。 当 時、 開 港 し た 朝 鮮 は、日本の開化を鏡にしようとした。なぜなら、日本が、朝鮮の「東道西器」的な開化と、中国の「中体変用」的な開化が 追い求めた理想の実現を示した実例と見えたからである。開化の実態を調査するために派遣された朝鮮朝士視察団の報告書 には、開化をめぐるいろいろな悩みがよくあらわれている。 最 近 通 西 之 時。 朝 議 不 一。 或 有 攘 外 不 納 者。 或 有 開 門 請 納 者。 及 其 通 西 以 後。 或 有 政 法 之 悉 倣 西 人 者。 或 有 仍 守 旧 制 者。謂以開港鎖港之党。開化守旧之論。而互相傾軋持久抵捂。党是時。関白之餘党。內以做乱。欧米之强敵外而侵虐。 執政幾人。臆決倡起。排衆議挾主威。朝庭之上。是非靡定。野衖之間。議論紛紜。甚至大臣。街路喫劒。不爲改意。仍 許通和。頗傚西法。今日改昨日之法。明日改今日之法。所以鎖港守旧之人。更不敢参烈於朝議。而開港開化之徒。超迁 官秩爲世顕。用現今或有開悔以一遵西法。自以爲恥。有急進漸進之論而殆若騎虎難下云。是白 斉 )(( ( 。   日本の場合も、開化の過程で「開化」と「守旧」の争いがあって、また徳川幕府の反発も強かった。西欧の侵略を目の前 に 置 い て 開 化 を め ぐ る 様 々 な 論 争 を し た 末 に、 開 化 を 始 め た が、 昨 日 作 っ た 法 を 今 日 直 し て、 今 日 作 っ た 法 を 明 日 直 す の

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が、常であった。朝鮮でも「守旧」と「開化」勢力の対峙は激しかった。特に西洋の西学と東洋の儒学のはざまで、開化論 者にして漢学者である者の悩みは深くならざるを得なかった。   一八八一年朝鮮朝士視察団のメンバーだった崔成大が三島中洲を訪問し、筆談した内容を中心にこれを調べて見よう。筆 談 集 は『 三 島 中 洲 · 川 北 梅 山 · 崔 成 大 筆 談 録 』 で、 二 松 学 舍 大 学 21世 紀 C O E プ ロ グ ラ ム で 発 刊 し た『 三 島 中 洲 研 究 』 vol. 4 ( 2009 )に載せられてい る )(( ( 。   一八八一年七月九日崔成大は菊町の三島中洲宅を訪問した。この当時三島中洲は法務省の仕事をやめて、東京大学に出講 していた。崔成大は司法視察を担当した厳世永の随員として来日した。彼は一八三四年出生して字は士行、号は雲皐であっ た )(( ( 。   「筆談」十五に は )(( ( 、儒学と西洋の近代的技術の関係に対する討論が載せてある。内容は次の如くである。 十五 毅   弟 元 修 儒 學 者。 然 多 年 在 法 官、 讀 洋 律、 又 與 洋 人 接、 知 其 長 短 如 道 德 則 周 孔 不 可 不 奉。 但 其 技 術 取 洋 所 長。 恐 公 平。貴意如何。 成大   古今天下、安有抛道德尙技術而致治之理乎。寧互濟之則無怪耳。 長顒   評曰、万世不易之論。 毅   然老莊亦自称道德釈氏耶蘇亦然。故余以周孔爲真道德。 成大   不能弁似是之非、則何足道哉。 長顒   使周孔在今日則必不唱道德。而真道德在其中。如何。 成大   同我亞細之国尙矣。無論幷与西人而入我道德之域。道德弥天地則更有何功利技術之可論乎。

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長顒   功利技術不可不論。但以道德爲根柢則不陷詐 譌 )(( ( 。   上記のなかで、三島中洲は、西洋の長所と短所を把握して技術のみを取り上げ るという「和魂洋才」を主張した。反面、崔成大は道徳(儒学)を捨てて、技術 のみを追うことはできないと主張した。すると三島中洲は、老莊及び釈迦、キリ ストも皆「道徳」であったが、本当の道徳は儒学であると言った。崔成大も似而 非ではない真正な道徳を分別するようになれと。さらに西洋の技術を東洋に受け 入れたように、儒学の道徳も全天地に及ぶようになると述べた。川北梅山は「公 利」と「技術」というのが、非常に重要なことであるが、道徳(儒学)を根本と していなければ偽りに陥ると考えた。   崔成大は開化と言えども、技術と道徳を仕分けることができないと思って、三 島中洲の論理に傾いた疑問を払拭できなかった。しかし、三島中洲はすでに明治 維新の技術的発展を日常的に経験したので、崔成大とは違う主張ができた。崔成 大は西洋の技術を学ばなければならないことに対して、よほど懐疑的であった。 崔 成 大 の よ う な 態 度 に 対 し て、 三 島 中 洲 は「 養 生 」 の 古 典 的 論 理 で 駁 し た。 「 筆 談」十七は「西器」についての討論である。 十七 毅   聖 人 代 天 生 養 斯 民、 古 帝 王 製 網 罟 來 耜 諸 器、 皆 所 以 生 養 之 也。 西 人 製 器 〈朝鮮朝士視察団(1881 年)〉

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械爲生養之具、是奉古聖人之遺意。我取之助生養亦聖人之遺意也。 成大   豈其然乎。不其然乎。 成大   先生固戱我蔑裂也。 毅   決非戱言。僕持論如此耳。蓋取長捨短之說也。溫故知新、聖人之教、本來然。 成大   其長其短、固在我之如何取捨、何庸取法於西人乎。在昔晠世未聞取長於西也。 毅   此論也非今日所尽。待数年再会之後、更尽之。 成大   惟天而已耳。 毅   弊国十数年前議論、皆与先生一致。明治初政、矯枉甚過、遂心醉西制、百事模效之。今則稍悔之。是漢学之所以再 興也。於是始有取長捨短之論。 成大   先生衷曲之言、今始得聞。向前所云長短之論、僕豈深信也哉。貴国之稍悔当爲弊邦鑑轍之明証也。 長顒   評曰、是的確之論、不得不左 袒 )(( ( 。   三島が西洋の技術で国民の生活を向上させるという主張に対して、崔成大は、西洋から技術を学ぶ必要を認めなかった。 三島中洲は、日本も崔成大のような議論を持った人が多かったと言った。明治初期には、西洋一辺倒の開化政策が施された が、今はそのことを後悔して、漢学が再興されていて、これがちょうど「取長捨短」だと主張した。   三島中洲は技術と道徳(思想)に二元化して、西器の有用性を高く評価したが、崔成大は西洋を拒否する立場を主張して いた。彼にとっては、東洋にあるものを捨ておいて、敢えて西洋にあるものを求める理由が納得できなかった。崔成大の思 惟がアジアを対象にして成り立っているのに対し、三島中洲は脱アジア的であった。その理由は彼らの対西洋観の相違から 来たものであった。

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  次に「筆談」二十一を見てみよう。 二十一 毅   苟主忠信、雖洋人与同胞耳。況同種同文同学之国乎。 成 大   大 抵 人 之 有 行、 不 及 於 中 人 以 上、 則 其 烏 能 事 々 忠 信 言 々 篤 敬 然 苟 以 忠 信 篤 敬 爲 心。 其 離 不 遠 復 之 有 期。 可 不 貴 哉。至如西人是一種異類、不欲聞之。斯文不堙、則天將有徇鐸之日也。 毅   西人固与東人異種。然自天視之。均是人耳、古人所以有一視同仁之言。 成大   桀犬吠尭尭可吠之者乎。 長顒   一視同仁。豈有尭舜之別乎。 成大   有穀則稗亦有之。 長顒   穀則養之。稗則除之。只在方略如何而已。 成大   所以天將徇鐸之耳。 長顒   桀犬私其主耳。非公平之論。故有一視同仁之說。愚說不滿。高意慙謝々々 成大   莫非是野人高談。請扯丙之。 毅   無敵国外患者。国必忘。今有洋夷猖獗于外。無乃我亞細亞之幸乎。 成大   誠然高論也。 成大   惟修攘是図而 已 )(( ( 。   三 島 中 洲 は、 「 一 視 同 仁 )(( ( 」 的 な 考 え 方 で、 西 洋 人 も 教 化 が 可 能 で あ り、 も し「 忠 臣 」 と い う 道 徳 に 感 化 さ れ た 西 洋 人 が い

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た ら、 彼 ら も 自 分 た ち と 同 胞 に な れ る と 述 べ た。 崔 成 大 は「 同 種 同 文 」 な ら 可 能 な こ と だ が、 「 異 類 」 で あ る 西 洋 人 に 限 っ ては、とうてい不可能なことである。そのうえに、もし儒学が湮滅することがなければ、いつか、きっと孔子のような人が また現われて儒学を再興すると期待した。   三島中洲と崔成大は、文明開化において西洋の技術の役割に対する見方において衝突したが、開化の時、同教すなわち儒 学を根本にしなければならないという点では共鳴した。彼らは朝鮮と日本とで各々土台を異にしていたが、西欧一辺倒の開 化に反対していた。なおまた、儒学をアジア的価値として想定して、開化を根底において把握した観点は同じであった。彼 らは長い間漢文教育を受けた結果、儒学的な世界観が身に付いていて、漢文の読み書きに自由な存在だったからである。彼 らが学んで信俸し、語っている「斯道」=「儒学」に対しては具体的な言及がなかったので、推測しかできないのでこれに 対しては言及を省きたい。ただ、両方とも双方の差より「儒学国」という亜細亜共通の土台に着目したとみえる。   そ の 結 果、 彼 ら の 討 論 の 結 論 は、 ア ジ ア の 当 面 課 題 は「 修 攘 」 と い う と こ ろ に あ る と い う こ と で あ る。 「 内 修 外 攘 」 は 国 内的には政治と儒学を修めて国を堅固にし、国外的には、外国の侵略を食い止めるということであった。

 

日本の文化に対する再認識

  近代初頭、朝鮮は修信使及び朝士視察団を派遣して、日本を調査し、そのような過程を経て日本に対する具体的な知識を 得ていた。朝鮮通信使が派遣された時の朝鮮は、日本を野蛮国という蔑視的な視線で見ていて、文化に対しても評価する価 値さえないと卑しめていた。ところが、江華島条約以後来日した朝鮮の外交団は、日本に対するこのような態度を改めるほ かなかった。返って自分たちが卑下の対象になるとか、笑い物になっているということを悟るようになっ た )(( ( 。朝鮮の「小中 華」としての自負心は崩壊する一方で、日本は眩しいくらいの文明発展を誇っていた。

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このような状況下で朝・日間には、相互の文化に対する新しい評価が生まれた。本章では三島中洲と森槐南を例に挙げて明 らかにしよう。   三 島 中 洲 は 前 章 の「 筆 談 」 で 見 た と お り、 自 分 を「 儒 学 者 」 と し て 認 識 し、 朝 鮮 人 も 彼 を「 儒 学 者 」 と し て 受 け 入 れ て いった。一九〇八年に申箕善は 「 寄日本三島侍講 」 を『大東学会月報』 2号に、この詩に和韻して 「 和呈申副將 」 を同じ雑 誌に掲載し た )(( ( 。申箕善の 「 寄日本三島侍講 」 には、儒学者である三島中洲に対する敬意が表されていた。   三島は崔成大とは直接に会って自分の詩と著作に話し合ったが、申箕善の場合は三島の著作を読んで〝儒学者〟という評 価をしたことだ。申箕善のように三島の著作を読んだ記録は、金允植にもあった。金允植が徳富蘇峰に送った手紙には三島 中洲の文集を読んだことが記されてい た )(( ( 。朝鮮人は三島中洲を儒学者として認識し、そのため日本の儒学に興味を持ち、そ の底力に注目したと思われる。   次は漢詩人としての森槐南に関して述べる。朝鮮の漢学者が森槐南と初めて知り合ったのは、森槐南の記録によると、一 九〇八年である。彼は一九〇八年七月二九日、金允植と出会って以後、八月二九日まで酒宴に参加して、数々の詩をやりと り し た。 『 槐 南 集 』 に よ る と、 金 允 植 の ほ か 鄭 丙 朝 も こ の 酒 宴 に は 一 緒 だ っ た。 金 允 植 の『 東 槎 謾 吟 』 を み る と、 こ の 日 の 前に、彼との出会いがあったことを知ることができ る )(( ( 。   そして一九〇九年四月に、朝鮮人觀光団が日本に来た時、森槐南は芝城山館の宴会に参加して朝鮮人との交流を行った。 その時に酬唱した漢詩は『善鄰唱和』 1(一九〇九.六、秀英舍)に殘っている。   また、七月には彼は伊藤博文に隨行して、朝鮮と満州を歴訪するため、朝鮮の地を踏むことになった。森槐南の『浩蕩詩 程 』( 鴎 夢 吟 社、 一 九 〇 九 ) と『 槐 南 集 』、 『 大 東 学 會 月 報 』 に 朝 鮮 人 と の 出 会 い が 記 さ れ て い る。 彼 は そ の 時、 鄭 万 朝 · 呂 圭亨 · 鄭丙朝 · 金沢榮と会って、金允植とは再会をした。   彼はハルビンで伊藤博文が安重根に狙撃を受けたとき、彼も銃傷を負って、それが原因で死亡した。かれは隨鴎詩社を主

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宰し、明治漢文学において中心的存在であった一方、 『紅樓夢』を日本語に翻訳して日本の紅学の基礎を築い た )(( ( 。   ま た 彼 は 森 春 涛 を 引 き 継 い で 清 詩 を 追 求 し た が、 父 で あ る 森 春 涛 が「 神 韻 」 を 重 視 し た こ と に 比 べ て、 「 性 霊 」 を 重 視 し た。しかし、彼らは共に濃艷な色彩が著しいと評価されて明治中後期に、詩壇の主流になったと言われ る )(( ( 。   以上のように、森槐南は明治時代の有名な詩人であり、官吏を兼ねて活動した人物であった。彼の様々な面の中で朝鮮人 にとっては特に詩人として認識されていたようである。   金沢栄が一九〇九年七月、森槐南に送った「用春畝太師韻贈森槐 南」を見てみよう。 清詞字字響琅然。塵裏真驚 蜕 骨仙。 誰識成連千載後。希音遺在海東 辺 )(( ( 。   特に、金沢栄は中国に亡命し抗日運動をした人物で、彼の漢詩こそ当時の森槐南に対する朝鮮側の普遍的な見方を見せて 森 槐 南( 一 八 六 三 年 一 二 月 二 六 日 ─ 一 九 一 一 年 三 月 七 日 ) は、 名 古 屋 で 生 ま れ た。 父 は 森 春 濤 で、 名 古 屋 藩 の 儒 学 者 で あ り、 母 は 女 流 歌 人 で あ る 森 清 子 で あ っ た。 彼 の 名 は 公 泰、 字 は 大 來 で あり、 通稱は泰二郎(泰次郎)である。別号に秋波禪侶 · 菊如澹人である。鷲津毅堂、 三島中洲、 清 人   金 嘉 穂 な ど に 修 学 し て お り、 彼 の 父 親 に 漢 詩 を 学 ん だ。 そ し て 父 の 勧 め で、 外 国 語 学 校 に 入 学 を し た が、 外 国 語 で は な く、 漢 詩 文 や 中 国 俗 文 学 を 読 む の が 好 き だ っ た。 一 八 歳 の と き、 太 政 官 に 出 仕 し た 後、 枢 密 院 属、 帝 室 制 度 取 調 局 秘 書、 図 書 寮 編 集 官 式 部 官 な ど を 歴 任 し、 帝 国 大 学文科大学講師に委嘱された。 ( 36)

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くれる資料だと思われる。   一九〇九年七月、森槐南は枢密院議長であった伊藤博文に随行して朝鮮を訪問したが、金沢栄は彼の漢詩に対して、上記 の詩のように評価した。そして『韶濩堂文集』の「雑言」では、森槐南の詩の水準が、朝鮮・中国と比べても劣らないと述 べた。 宇宙間声調之同。猶人性之同。泰西之詩。吾不知已。如日本之詩之工者。其声律之諧。未異於中国朝鮮。吾見森槐南之 詩而知其然 耳 )(( ( 。   金沢栄を始め、森槐南に対するこのような評価は、日本の文学(文明)を朝鮮・中国に比べて劣等だという伝統的な認識 から脱したものだった。朝鮮と中国及び日本の文学(漢詩)の水準を同等だと認めたのである。このように彼は森槐南を通 じて日本の文学を再評価したのである。 詩 人 と い う 視 点 か ら の 森 槐 南 に 対 す る 評 価 は、 彼 の 輓 詩 に お い て も っ と も 著 し か っ た。 『 毎 日 新 報 』 に 異 例 的 に 6 日 間 に か けて朝鮮人が森槐南を追悼する輓詩が載せられた。   輓詩の中で彼に対する朝鮮人の評価をさらに見てみよう。次頁の〈表一〉の輓詩をみると森槐南は「詞林宗 匠 )(( ( 」、 「滄海詩 人 )(( ( 」、 「 八 斗 文 章 )(( ( 」 と 呼 ば れ て、 「 優 れ る 詩 人 」 と し て 高 く 評 価 さ れ た。 し か し こ の よ う な 評 価 は は た し て 客 観 的 で あ ろ う か。あるいは日本の官僚なので、過大に評価されたのであろうか。   彼の漢詩は父の友人であった金嘉穂に中国語を習ったことに基づいている。そのため彼は漢詩を中国語の発音どおり読め た し、 戯 曲 な ど 日 本 人 が 理 解 し に く い 中 国 文 学 に 対 し て も 詳 細 に 理 解 し て い た。 当 時 の 知 識 人 た ち よ り 漢 詩 の 声 律 に 明 る かったし、また文学的水準が高かったので朝鮮人により彼の詩は高く評価されたのだと考えられ る )(( ( 。

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  それゆえ森槐南に対する高い評価の裏面には、当時統監 府官僚あるいは日本人との酬唱の折には、漢詩文はかろう じて意思疎通の書き言葉に過ぎなかったのと比べて、森槐 南に出会ってはじめて、所謂「文学的交流」ができるよう になったのであると思われる。例えば、金沢栄は彼に「詩 酒」を一緒にすることを勧めた後「会向滄溟碧酒。与君同 唱浪淘沙」と言ったことにも明らかである。   かりに韓半島を取り巻いていた情勢が悪くなかったら、 あるいは日本が朝鮮を侵略するというようなことがなかっ たら、金沢栄が詠んだように二人は友情を交わしながら、 悠悠自適の幽趣を満喫することができたかもしれない。   朝鮮漢学者と日本人が楽しんだ「宴会」という空間は、 非常に政治的な空間ではあったが、金沢栄のように政治と 文学を分離させようとした人は多かった。彼らは宴会を朝 鮮と日本間の交流の場と認識して、漢詩を取り交わした。 彼らの目には、この空間に一緒にいた日本人は、征服者あ るいは支配者という政治的人物ではなく、どこまでもただ の詩人であった。宴会で朝鮮と日本の詩人たちは詩で話し 合い、詩でお互いを評価したのである。 番号 作家 題目 出典 1 李完用 槐南先生森博士輓章 每日新報 1911. 3.28 2 朴斉純 二 每日新報 1911. 3.28 3 趙重応 三 每日新報 1911. 3.28 4 高永喜 槐南先生森博士輓章 每日新報 1911. 3.29 5 任善準 同 每日新報 1911. 3.29 6 朴箕陽 同 每日新報 1911. 3.29 7 兪吉濬 同 每日新報 1911. 3.29 8 朴斉純 同 每日新報 1911. 3.29 9 趙民熙 槐南先生森博士輓章 每日新報 1911. 3.30 10 金有済 同 每日新報 1911. 3.30 11 久芳直介 同 每日新報 1911. 3.30 12 李正在 槐南先生森博士輓章 每日新報 1911. 3.31 13 成夏国 同 每日新報 1911. 3.31 14 具羲書 同 每日新報 1911. 3.31 15 鄭万朝 槐南先生森博士輓章 每日新報 1911. 4. 1 16 呂圭亨 槐南先生森博士輓章 每日新報 1911. 4. 2 〈表1〉41

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  しかし、彼らがこの空間を私的な空間として想像しても、実際にはイデオロギーの磁場の中にあったので、そこから脱す ることはできなかった。すなわち芝城山館と翠雲亭などで行った宴会は政治的な意図の下に開かれたのであり、森槐南は詩 人 で あ る よ り も 日 本 帝 国 の 臣 民 で あ っ た )(( ( 。 に も か か わ ら ず、 朝 鮮 漢 学 者 に と っ て は、 同 文 同 教 の 東 ア ジ ア 人 で あ り 兄 弟 で あったのである。

 

おわりに

  本研究は、朝鮮と日本の漢学者が互いに交流して影響を与え、また受けたことに関する研究であり、彼らの朝鮮と日本と の近代をめぐる様々な言説を明らかにしたものである。   第一章では、近代東アジアを理解するキーワードとしての「同文論」を考察した。東アジアの書き言葉として、漢字の位 置 と 役 割 は「 同 文 論 」 と い う こ と に よ く 現 わ れ て い る。 「 同 文 」 で は 久 し く 朝・ 中・ 日 が 漢 字 を 媒 介 と し て 共 同 体 意 識 が 生 まれている。しかし近代期の「同文論」は、中国から日本に発話者が変わった点で、伝統的な「同文論」とは異なったので ある。近代以前までは、中華主義に根ざした中国発「同文論」が東アジアを占めていたが、近代には日本の膨脹政策に根ざ した日本発「同文論」に変わってきた。日本発「同文論」によると、東アジアは、儒教という思想の共同体により日本を中 心 に 連 帯 し て、 西 洋 の 侵 略 に 対 抗 し な け れ ば な ら な か っ た。 し か し、 日 本 の ア ジ ア 植 民 政 策 が 実 施 さ れ た 1908 年 に 朝 鮮 人 には、日本との関係は「同文国」 ・「善隣国」から、 「兄弟国」と認識するほどに変わっていった。   第二章では、文明開化をめぐる朝・日漢学者の見方がどうであったかを明らかにした。朝・日漢学者の間では、文明開化 において西洋の技術の役割に対する見方が衝突した。三島中洲を始め、日本の漢学者は西洋の技術を導入して国民の生活を 養 う こ と を 主 張 し た が、 朝 鮮 側 は、 技 術 と 倫 理 が 分 け ら れ な い と い う 点 を あ げ て 西 洋 の 文 明 移 入 に 対 し て 警 戒 を 厳 重 に し

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た。そのためそのような恐れは西洋の技術導入を拒否することに繋がった。しかし、開化の時、同教すなわち儒学を根本に し な け れ ば な ら な い と い う 点 で は 互 い に 共 鳴 し た。 彼 ら は 朝 鮮 と 日 本 と で 各 々 土 台 を 異 に し て い た が、 「 脱 亜 入 欧 」 の よ う な西欧一辺倒の開化に反対したことでは同一であった。特に、彼らの考えるアジアの当面課題が「修攘」という点とにおい ては。   第三章では、朝・日の関係が変化したことに伴った多様な動きのなかで、交互の「認識」が切り替わった点について解明 し た。 朝 鮮 は 修 信 使 及 び 朝 士 視 察 団 を 派 遣 し て、 日 本 を 調 査 し、 そ の よ う な 過 程 を 経 て 日 本 に 対 す る 具 体 的 な 知 識 を 得 て い っ た。 眩 し い ば か り の 文 明 を 誇 っ て い た 日 本 と 出 会 っ た 朝 鮮 は、 「 小 中 華 」 と し て の 自 負 心 が 崩 壊 さ せ ら れ は じ め た。 こ のような状況で朝・日間には、相互の文化に対する新しい評価が生まれた。朝鮮人にとって、三島中洲という巨儒と森槐南 という偉大な詩人の発見は、このような脈絡を通して理解が可能である。   朝鮮の近代化に関する研究では朝・日を中心にした研究が多い。そのなかで、本研究は近代期における「漢学者」の役割 を明らかにした。東アジアの近代に「漢学者」は、守旧的で反近代的な存在として想定されたりした。あるいは漢学者より 「漢字=書き言葉」だけが、研究上、話題の焦点となった。   このような理由から、近代期漢学者の役割に対しては、とくに心を引かれることは少なかったようである。しかし、東ア ジアの知識人である漢学者が発話した近代の言説は、漢字という伝達装置によって急速に波及した。東アジアという世界の 近 代 化 の 中 で 一 部 分 で は あ っ て も 相 互 に 影 響 を 与 え 合 っ た 諸 国 の 漢 学 者 の 出 会 い は、 実 は 彼 ら 自 身 の 変 化 は い う ま で も な く、自国にも変化を引き起こしたと言えよう。

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(1)   村山吉広、 『漢学者はいかにいきたか』 、大修館書店、一九九九、三─七頁。 (2)   『中庸』 、‘今天下車同軌。書同文行同倫。 ’ (3)   三島中洲著   石川忠久編、 「送厳世永崔成大帰朝鮮」 、『三島中洲詩全釈』第 2巻、二松学舍、二〇一〇、四六四─四六五頁。 (4)   三島中洲については http://ja.wikipedia.org/ で検索、彼の写真は http://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/jinmeiroku/mishima-chuushu u/mishim   a-chuushuu.htm で検索した。 (5)   金 允植、 「次韻奉和三島侍講」 、『金允植全集』 1、亜世亜文化社、一九八〇、三九五頁。 (6)   金 允植と彼の写真については http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%85%81%E6%A4%8D   で検索した。 ( 7)   三 島 中 洲 著   石 川 忠 久 編「 八 月 二 十 九 日 暖 依 村 莊 宴 集 席 上 賦 贈 朝 鮮 修 信 使 金 宏 集 」、 『 三 島 中 洲 詩 全 釈 』 第 1 巻、 二 松 学 舍、 二 〇 〇 七、 六五六─六五七頁。 ( 8)   三 島 中 洲 著   石 川 忠 久 編、 「 步 朝 鮮 金 星 使 嘉 鎭 號 東 農 韻 寄 題 其 澄 亞 亭 意 謂 澄 清 亞 細 亞 故 及 」、 『 三 島 中 洲 詩 全 釈 』 第 2 巻、 二 松 学 舍、 二 〇一〇、四三五頁。     ‘澄亞名亭子。寓言微意明。紅塵四隣暗。碧水一池清。奉使在他国。思君望旧京。東洋波浪穩。長喜徹邊營。 ’ ( 9)   『 東 京 日 日 』 六 月 二 五 日、 狐 塚 裕 子 の「 一 八 八 一 年 朝 鮮 朝 士 視 察 団 の 来 日( 二 )( 『 清 泉 女 子 大 学 紀 要 』 57、 清 泉 女 子 大 学、 二 〇 〇 九、 四頁)から再引用。 ( 10)   姜瑋、 「代申大官上桓斎朴相国珪寿」 、『古歡堂収草文稿』巻之三補遺、韓国古典翻訳院 http://db.itkc.or.kr で検索した。 ( 11)   姜瑋、 「代申大官上桓斎朴相国珪寿」 、『古歡堂収草文稿』巻之三補遺、韓国古典翻訳院 http://db.itkc.or.kr で検索した。 ( 12)   朴暎美、 『日帝强占初期漢学知識人の文明觀と対日認識』 、檀国大学校博士学位論文、二〇〇六、参照。 ( 13)   黑木彬文 · 鱒澤彰夫解説、 『興亞會報告(復刻板) 』、 不 二出版、一九九三、一二八─一三五─一五六頁。 ( 14)   末松謙澄と彼の写真は http://ja.wikipedia.org/ で検索した。 ( 15)   末松謙澄、 「贈韓人高永周氏時爲江華 留 守裨將」 、『靑萍集』卷 3、隨鴎吟社、一九三二。     ‘把筆共談天下事。好問忘恥吐心腸。… 両 国尋盟今将成。實是交鄰第一策。 ’ ( 16)   『善隣唱和』 1、秀英舍、一九〇八。 ( 17)   『善隣唱和』 2、秀英舍、一九〇八。 ( 18)   『納涼唱和集』 、秀英舍、一九〇八。 ( 19)   『軽妙唱和集』 、秀英舍、一九〇八。 ( 20)   鄭 万 朝、 「 與 諸 同 行 赴 末 松 靑 萍( 謙 澄 ) 家 招 宴 主 人 先 題 索 和( 末 松 能 詩 爲 日 本 翰 墨 風 流 主 人 是 日 東 京 文 人 画 家 皆 会 )」 、『 茂 亭 存 稿 』 卷 之 五。

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( 21)   末松謙澄編、 「借韻和靑萍」 、『善隣唱和』 、一九〇九、秀英舍。     ‘大火西 流 灝氣橫。三韓使者上帰程。觀光応思資開化。調鼎那忘補聖明。 ’ ( 22)   鄭万朝、 「芝城山館雅集次主人原唱韻」 、『善隣唱和』 1、一九〇八、秀英舍、四頁。 ( 23)   李 承旭、 「芝城山館雅集次主人原唱韻」 、『善隣唱和』 1、一九〇八、秀英舍、六頁。 ( 24)   許東賢編、 『朝士視察団関係資料集』 12、日本国聞見条件、国学資料館、二〇〇〇、一七四頁。 ( 25)   『三島中洲 · 川北梅山 · 崔成大筆談錄』 、『三島中洲研究』 vol. 4 、二松学舍大学 21世紀COEプログラム、二〇〇九。 ( 26)   李 櫶 永、 『日槎集略』 、韓国古典翻訳院 http://db.itkc.or.kr で検索した。 ( 27)   段落の数字は『三島中洲 · 川北梅山 · 崔成大筆談錄』に従って日本語翻訳を参考した。ただ「筆談」という表題は私意で付けた。 ( 28)   『三島中洲 · 川北梅山 · 崔成大筆談錄』十五、七七─七八頁。 ( 29)   『三島中洲 · 川北梅山 · 崔成大筆談錄』十七、七九頁。 ( 30)   『三島中洲 · 川北梅山 · 崔成大筆談錄』二十一、八三─八四頁。 ( 31)    一視同仁は韓愈の「原人」からでて、すべての人を差別なく平等に愛することをいう。 ( 32)   陶徳民、 『明治の漢学者と中国』 、関西大学出版社、二〇〇七、二四頁。 ( 33)   申 箕 善、 「 寄 日 本 三 島 侍 講 」 、 大 東 学 会 月 報 』 2号、 大 東 学 会、 一 九 〇 八、 三、 五 〇 頁: 三 島 中 洲、 「 和 呈 申 副 将 」 、 大 東 学 会 月 報 』 2 号、大東学会、一九〇八、三、五二頁。 ( 34)   金允植、 「与末松子爵」 、『雲養集』続集巻 3。五九五頁。     金 允 植 は『 中 州 集 』、 『 独 抱 樓 詩 文 』、 『 秋 聲 窓 詩 鈔 』、 『 藤 島 餘 芳 』、 『 韡 村 先 生 遺 稿 』、 『 北 陸 游 草 』、 『 梯 雲 取 月 集、 『 碧 堂 絶 句 』 を 順 番 に 手に入れて読んだことがあったそうである。 ( 35)   金 允植、 『 金 允植全集』 1、亜細亜文化社、一九八〇、三七一─三九六頁.韓国古典翻訳院 http://db.itkc.or.kr で検索した。 ( 36)   森 槐 南 の 写 真 は http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai95/bnk/kainan.htm l で 検 索 し た。 彼 に 対 す る 情 報 は 溝 部 良 惠 の「 森 槐 南 の 中 国 小 說 史 硏 究 に つ い て 」( 『 中 国 研 究( TheHiyoshireviewofChinesestudies )』 № 1、 慶 應 義 塾 大 学 日 吉 紀 要 刊 行 委 員 会、 二 〇 〇 八、 三、三三─六七頁)を参照した。 ( 37)   溝部 良 惠、上揭書。 ( 38)   猪口篤志 著   沈慶浩 外訳、 『日本漢文学史』 、ソミョン出版、二〇〇〇、七三一頁。 ( 39)   ホクァンス( 호광수 )、 「滄江金沢栄の亡命漢詩に表された状況性」 、『中国人文科学』 32、中国人文学会、二〇〇六、六、二二〇頁。 ( 40)   金沢栄、 「雜言」 9、『韶 濩 堂文集』巻 8。三四七頁。韓国古典翻訳院 http://db.itkc.or.kr で検索した。 ( 41)   朴 暎 美、 「 森 槐 南 に よ っ て 見 た 愛 国 啓 蒙 期 知 識 人 の 対 日 認 識 」、 『 漢 文 学 論 集 』 33、 槿 域 漢 文 学、 二 〇 一 一、 一 八 一 ─ 二 〇 二 項。 表 及 び 内容はこの論文を参照した。

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( 42)   朴箕陽、 「槐南先生森博士輓章」     ‘詞林宗匠仰槐翁。四海詩名百世風。天不仮年今忽去。東溟一夜捲文虹。 ’ ( 43)   兪吉濬、 「槐南先生森博士輓章」     ‘滄溟詩人森大来。李仙杜聖共徘徊。一朝駕鶴帰天上。浩蕩余風万里哀。 ’ ( 44)   趙民煕、 「槐南先生森博士輓章」     ‘八斗文章世共欽。十年交誼我偏心。哀詞遠和山陽曲。赤阪青山何処尋。 ’ ( 45)   溝 部 良 惠、 「 森 槐 南 の 中 国 小 說 史 硏 究 に つ い て 」、 『 中 国 研 究( TheHiyoshireviewofChinesestudies )』 № 1、 慶 應 義 塾 大 学 日 吉 紀 要 刊 行 委員会(二〇〇八。 3)、三三─六七頁。 ( 46)   次 の 漢 詩 は 森 槐 南 が 伊 藤 博 文 に 随 行 し、 朝 鮮 を 訪 ね た 途 中 に 書 い た も の で 日 本 帝 国 の 臣 民 と し て の 使 命 感 が よ く 見 え る。 『 毎 日 新 報 』 に載せた輓詩、德富蘇峰の「森槐南逝く」をみてみよう。     ‘ 極 望 鷄 林 霧 半 披。 布 帆 不 動 鳥 飛 遲。 未 知 風 色 何 時 変。 漫 詫 巌 形 当 面 奇。 国 弱 誰 扶 傾 厦 急。 海 平 全 忘 倒 瀾 危。 群 山 万 壑 空 屛 障。 眼 看 九 天雲下垂。 ’ < 参考文献 > 『善隣唱和』 1、秀英舍、一九〇八、 『善隣唱和』 2、秀英舍、一九〇八、 『納涼唱和集』 、秀英舍、一九〇八、    『軽妙唱和集』 、秀英舍、一九〇八、 『大東学会月報』 、大東学会、一九〇八。 金沢栄、 『韶 濩 堂集』 、韓国文集総刊   三四七。 金 允植、 『 金 允植全集』 、亜細亜文化社、一九八〇。 ―――、 『雲養集』 、韓国文集総刊   三二八。 姜瑋、 『古歡堂収草文稿』 、韓国文集総刊   三一五。 李 櫶 永、 『日槎集略』 、韓国古典翻訳院。 三島中洲、 『中洲文稿』 、二松学舎、一九一七。 ――――、 『中洲詩稿』 、二松学舎、一九九二。 末松謙澄、 『靑萍集』 、隨鴎吟社、一九二三。 森槐南、 『浩蕩詩程』 、鴎夢吟社、一九〇九。

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―――、 『槐南集』 、文会堂書店、一九一二。 許東賢編、 『朝士視察団関係資料集』 12、日本国聞見条件、国学資料館、二〇〇〇。 『三島中洲 · 川北梅山 · 崔成大筆談錄』 、『三島中洲研究』 vol. 4 、二松学舍大学 21世紀COEプログラム、二〇〇九。 三島中洲 [ 著 ] 、石川忠久編、 『三島中洲詩全釈』第 1巻、二松學舍、二〇〇七。 三島中洲 [ 著 ] 、石川忠久編、 『三島中洲詩全釈』第 2巻、二松學舍、二〇一〇。 山口角鷹編、 『三島中洲 : 二松学舎の創立者』 、二松学舎、一九七七。 三島正明、 『最後の儒者 : 三島中洲』 、明徳出版社、一九九八。村山吉広、 『漢学者はいかにいきたか』 、大修館書店、一九九九。 猪口篤志 著   沈慶浩 外訳、 『日本漢文学史』 、ソミョン出版、二〇〇〇。 陶徳民、 『明治の漢学者と中国』 、関西大学出版社、二〇〇七。 三浦   叶、 『明治の漢学』 、汲古書院、一九九八。 ――――、 『明治漢文学史』 、汲古書院、一九九八。    町田三郎、 『明治の漢学者たち』 、研文出版、一九九八。 ――――、 『明治の青春』 、研文出版、二〇〇九。 朴暎美、 『日帝强占初期漢學知識人の文明觀と対日認識』 、檀国大学校博士学位論文、二〇〇六。 ホクァンス( 호광수 )、 「滄江金沢栄の亡命漢詩に表された状況性」 、『中国人文科学』 32、中国人文学会、二〇〇六。 溝部 良 惠、 「森槐南の中國小說史硏究について」 、『中国研究( TheHiyoshireviewofChinesestudies )』№ 1、 慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会、 二〇〇八。 狐塚裕子、 「一八八一年朝鮮朝士視察団(紳士遊覧団)の来日( 1)外務省の対応を中心に」 、『清泉女子大学紀要』 56、二〇〇八。 ――――、 「一八八一年朝鮮朝士視察団の来日(二) 」、 『清泉女子大学紀要』 57、清泉女子大学、二〇〇九。 ――――、 「一八八一年朝鮮朝士視察団(紳士遊覧団)の釜山集結と新聞報道」 、『清泉女子大学人文科学研究所紀要』 29、二〇〇八。 ――――、 「一八八一年朝鮮朝士視察団(紳士遊覧団)の日本派遣─日本側から見た派遣経緯」 、『清泉女子大学紀要』 51、二〇〇三。 『 三 島 中 洲 研 究 』 : 二 松 学 舎 大 学 21世 紀 C O E プ ロ グ ラ ム「 日 本 漢 文 学 研 究 の 世 界 的 拠 点 の 構 築 」: 研 究 成 果 報 告 vol. 1 、 二 松 学 舎 大 学 二 松 学 舎 大学 21世紀COEプログラム事務局、二〇〇六。 『 三 島 中 洲 研 究 』 : 二 松 学 舎 大 学 21世 紀 C O E プ ロ グ ラ ム「 日 本 漢 文 学 研 究 の 世 界 的 拠 点 の 構 築 」: 研 究 成 果 報 告 vol. 2 、 近 世 近 代 日 本 漢 文 班 編 二松学舎大学 21世紀COEプロ   グラム事務局、二〇〇七。 『 三 島 中 洲 研 究 』 : 二 松 学 舎 大 学 21世 紀 C O E プ ロ グ ラ ム「 日 本 漢 文 学 研 究 の 世 界 的 拠 点 の 構 築 」: 研 究 成 果 報 告 vol. 3 、 近 世 近 代 日 本 漢 文 班 編 二松学舎大学 21世紀COEプログラム事務局、二〇〇八。 『 三 島 中 洲 研 究 』 : 二 松 学 舎 大 学 21世 紀 C O E プ ロ グ ラ ム「 日 本 漢 文 学 研 究 の 世 界 的 拠 点 の 構 築 」: 研 究 成 果 報 告 vol. 4 、 近 世 近 代 日 本 漢 文 班 編

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二松学舎大学 21世紀COEプログラム事務局、二〇〇九。 『 三 島 中 洲 研 究 』 : 二 松 学 舎 大 学 21世 紀 C O E プ ロ グ ラ ム「 日 本 漢 文 学 研 究 の 世 界 的 拠 点 の 構 築 」: 研 究 成 果 報 告 vol. 5 、 二 松 学 舎 大 学 二 松 学 舎 大学 21世紀COEプログラム事務局、二〇一〇。 付記   本研究は日韓基金第 10-0031 号の支援によって行われました。   【キーワード】    ・ 同文論   ・アジア連帯主義   ・開化   ・儒学   ・アジアのアイデンティティー

参照

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