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刑事「責任化」論の意義と課題: 沖縄地域学リポジトリ

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Title

刑事「責任化」論の意義と課題

Author(s)

小西, 吉呂

Citation

沖大法学 = Okidai Hōgaku(13): 85-110

Issue Date

1992-07-27

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/6581

(2)

|はるばる沖縄からやってまいりました。観光その 他で沖縄にこられた方もいらっしゃると思いますが、そ の沖縄ではすでに桜の花も散りまして、先島では田植え が始まるなど、日々暖かさを増しているあり様です。

事「責任化」論の意義と課題

本稿は、筆者が東京都精神医学総合研究所におけ る「セミナー卵法と精神医学」に招聰されて行なっ た講演(’九九二年二月二四日)の原稿に、若干の 加筆を行なったものである。 講演の機会を与えて下さった研究所の中谷陽二先 生に深謝する。 刑事「責任化」論の意義と課題 わたくしは、那覇市にある日本最南端の大学、沖縄大 学で刑法を教えています。 本日はセミナーに話題提供者としてお招き下さいまし て、心よりお礼申しあげます。何分にも未熟な身ゆえ、 話題提供者としての任に耐えうるか大変不安ですが、曰 頃感じていますことを率直にお話しさせて頂きます。 わたくしの関心は、ここ一年ほど、むしろ脳死や臓器 移植の方面に向いておりまして、精神病者あるいは精神 障害者の責任能力の分野からは幾分遠ざかっています。 もっとも、どちらも医科学の知識が必要とされる分野で ありますため、医療関係の方々には常曰頃から何かと貴 重なご教示を頂いています。その際、法律家と医者との

西吉呂

〈三

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二では、本論に入りたいと思います。まず、「責任

化」という語についてですが、この語は〈[の呂目の四三】のP‐

は○二というフランス語の訳語です。要は、罪を犯した 精神病(障害)者に対して、刑事責任を負担する機会を 与えるという程度の意味をもつものです。おそらく、わ たくしが曰本で初めてこの「責任化」という訳語を用い うかと思います。 です。今回のご報告も、その辺りが一つのテーマになろ 立場の違いのようなものが折に触れ話題にされるところ さて、中谷先生からは、罪を犯した精神病(障害)者 に対する「責任化」について、主としてフランスの議論 を紹介しながら話して欲しいと承っていますので、でき る限りそのように努めたいと思います。ただ、最近は怠 慢のために原書にあたる機会がほとんどなく、不十分な 考察になることを恐れています。その際はどうかご容赦 下さい。 沖大法学第十三号 たと思います。もっとも、その後この語が広く流布した という話は、残念ながら聞いていません。ですから、中 谷先生がこのようにして話題にして下さったことを、あ り難く思う次第です。 わたくしは、当時パリ第二大学の研究員であったポン セラ(而目8}P)が一九八六年のフランス刑法雑誌に掲載 した論文で、この語のことを知りました。そこで、つぎ に、このポンセラ論文を簡単に紹介させて頂きたいと思 います。 ポンセラによれば、’九七○年代のいわゆる「反精神 医学」運動以来、「白衣のもとで拡大される社会統制」 とか「医学的権力による支配」とかいった表現で、刑事 司法の精神医学化あるいは刑事司法への精神医学の介入 に対する批判が、フランスで頻繁に聞かれるようになっ たといいます。ポンセラの主張の中には、こうした精神 医学的知識に対する疑問のようなものが根強くあります。 すなわち、ポンセラは、そもそも法学者が精神医学の助

〈|〈

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けを借りてしか狂気角・」』の)について思いをめぐらさな

いことを疑問視し、狂人(命・口)の言葉(言説、’’一一口表)に

も直接耳を傾けるべきであると主張します。そして、狂

人自身が語ることも、その者の法的地位を決定する上で、

医学的知識に基づく知見とまったく同様に重要であると

いうのです。この点が、ポンセラの主張のエッセンスで あるといえます。ちなみに、ポンセラは、精神病(障害) とはいわず狂気といい、精神病(障害)者とはいわず狂 人といっていますが、それは、精神病(障害)や精神病

(障害)者という医学的知識から生まれた表現を避けるた

めであるとしています。 ここで多少横道にそれますが、去る一月一四曰に、フ ランスの思想家であり反精神医学者であるガタリ(○局‐

茸ロロ)が沖縄で講演をしました。その際、彼は、精神医

学の領域において最悪のことは、医者が白衣を身体にま

とうばかりでなく頭にも着けていることであるとしつつ、 医学的知識を紋切型に適用することの問題性を指摘して 刑事「責任化」論の意義と課題 いたのが思いだされます。 さて、ポンセラは、以上のように論じた上で、さらに フェラトン(届閂『皀・ご)という精神病院への入院歴のあ る実在の人物を例に引きます。フェラトンは、妻と一人 の青年を殺害しました。彼は、フランス刑法第六四条、 これは「被告人が行為の時心神喪失(忌日のど8)の状態 にあったとき、:…・重罪または軽罪とならない」と規定 し、精神病(障害)者の責任無能力原則を定めたもので すが、その規定の適用からまた精神病院から逃れるため に、この殺人の責任を引き受けたい旨の希望を表明しま す。そして、事実、彼は無期懲役を宣告され、現在服役 中であるとのことです。後にも問題にしますが、罪を犯 した精神病(障害)者がこの種の主張なり希望なりをも つこと、つまり責任を負いたいという要求をもつことは、 フランスに限らずわが国でも時々耳にするところです。 ポンセラによれば、この事例の場合、フェラトンのい うことを信じることこそが、彼を法の完全な主体として

〈七

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受け入れることであり、それは、狂気に関する医学的知 識のフィルターを通さず行なわれなければならないと主 張します。

さらに、ポンセラは、「反精神医学」の代表的論者と

されるサズSp隠国)によって詳しく語られているアメリ

カのジム・クーパー(]言○・・℃閂)事件を紹介していま

す。やはり精神病院への入院歴をもつクーパーは、友人 を謀殺しました。彼は死刑の判決を受けたのですが、そ の刑に服したいとする彼の意思に反して、弁護士や精神 医学者は恩赦を獲得し、彼を精神医療に服させようとし ます。この結果、死刑判決は、医療的処遇付きの無期刑 に減軽されました。ポンセラによれば、尊厳に満ちてい たクーパーは、同情をさそう病人にされてしまったので す。クーパーは、首をつって自殺してしまいます。 ポンセラがいうには、クーパーの覚めた要求も、フェ ラトンの悲壮なアピールも、まさに刑法に向けられた 「責任化」の願いを例示するものです。そして、それは、 沖大法学第十三号 さらに狂気を責任無能力とすることの正当性を疑問視す るものであるとポンセラは述べています。 では、このような狂人からの「責任化」の願いは、ど のようにして実現できるのでしょうか。ポンセラによれ ば、この問いに対しては、一二つの返答が可能です。 第一は、狂人の責任無能力原則を維持しつつ、「責任 化」の願いにかなうよう法規を整備し直すことです。つ

まり、狂人の言葉に耳を傾けるということは、防御権を

最大限に尊重する方向へと法を前進させるのに寄与しま す。それは、実際上、刑事訴訟法の改正に基づいて行な われることになります。たとえば、①被疑者が精神鑑定 を拒否する権利を認めること、②被疑者が鑑定報告書全 体の閲覧を行なう権利を認めること、③被疑者が刑法第 六四条に基づく予審免訴の決定に上訴する権利を認める こと、④裁判を受ける権利を認めること、です。ポンセ ラは、以上四つの改革を例示しています。ちなみに、こ れらの改革の中には、わが国の精神医学者や刑法学者の ヘヘ ノノ

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|部が主張しているものもあります。この点は、後述し

たいと思います。

狂人からの「責任化」の願いを実現する第二は、狂人

の責任無能力原則を放棄してしまい、狂気を制裁論に結

び付けることです。ポンセラは、その例としてスウェー

デン刑法を紹介していますが、その第三一一一章第一一条は、

狂気を責任無能力とはみていないものの、「精神病、精

神薄弱、または精神病と同等と考えざるをえない程に重

大な性質のその他の精神異常の影響下に」罪を犯した者

に、特殊な制裁を規定しているということです。この場

合、管轄裁判所は、精神医療施設への収容、開放下の精

神医療処遇、保護観察、罰金の中から制裁を選択するの

であり、拘禁刑は認められていません。つまり、狂人の

刑事責任は認めつつも、彼に対する制裁を医療的形態で

執行するというものです。

狂人からの「責任化」の願いを実現する第三は、狂人

のための特例的・賦課的な法的地位をすべて排除するこ 刑事「責任化」論の意義と課題 とです。この考えにたてば、狂気は、前述の第一のよう

に責任論とも第二のように制裁論とも結び付きません。

狂人は、あらゆる法主体と同様に、自らの触法行為に責

任を負うのです。ポンセラによれば、これは、狂気につ

いての最もモデストな解決であると同時に、法が採用し

うる最も人格を尊重する解決です。加えて、この解決に

は、詐病の問題を片付けるという利点もあるとしていま す。このように、狂気に対する例外としての法的地位を 刑法の領域からすべて削除することこそが唯一の目的で あるとして、ポンセラは論文を結んでいます。 以上が、ポンセラ論文の要約です。お分りの通り、非 常に徹底した内容になっており、後にも問題にしますよ

うに、現実離れしているようにすら思われます。ところ

が、この論文が発表された同じ年に、オモンテ(四目已自‐

註)という精神医学者が、フランスの精神医学雑誌の中

で、今お話ししましたようなポンセラ論文と関連する主 張をしています。このオモンテ論文も、やはりごく簡単 ′、 ナヒ』

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に紹介しておきたいと思います。 このオモンテ論文は、精神病(障害)者を取りまくフ ランスの法制度を批判的に検討するとともに、精神病 (障害)を理由に予審免訴あるいは無罪とされた犯罪者の 臨床例を紹介し、このような一見恩恵的。人道的にみえ る措置が、実際には必ずしも本人の利益にはならないこ とを示唆する内容となっています。 まず、オモンテは、わが国の精神保健法に相当する一 八三八年法を検討しています。この法律によれば、措置 入院は、「公の秩序および人身の安全にとって危険であ る」個人を収容するものとされていますが、オモンテは、 この法のもとでは、精神病(障害)者は話したり要求し たりする主体としてではなく、もはや人格をもたない気 の触れた者(P房弓の)として扱われると主張します。そ して、ここから次のような帰結が導きだされるといいま す。①街から遠く隔たり、高い塀で囲まれた精神病院へ の封じ込め、②公民権や法的権利の剥奪lこれはいわ 沖大法学第十三号 ゅる欠格条項としてわが国でも問題にされるところです I、③責任(感)の消失lわたくしは病院内の代理行 為と呼ばれるものを想起しましたl、④他者との関係 の断絶、⑤社会目標の喪失、⑥アイデンティティーの消 滅、⑦願望の取り下げ、です。要するに、精神病(障害) 者は、自分の意思を抑圧され、その要求を認められない とオモンテは述べています。精神病(障害)者は、話す ことはできても、その申し入れは、「妄想に冒され、非 現実的で、理解できないもの」、したがって、誤ってい るものとして受け取られるのです。そして、病院への収 容は、こうした精神病(障害)者の地位を強化するもの となります。オモンテによれば、以上が一八三八年法か らの帰結です。 オモンテは、さらに責任無能力原則を定めた前述の刑 法第六四条をも問題にしています。オモンテによれば、 この条文にみられるイデオロギーは、表面的には善意と いうことです。つまり、犯罪者は司法の手から免れ、罰

九つ

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せられずに済むのですから。しかも、患者は措置入院に より治療を受けるのです。これも、やはり積極的な事柄 です。しかし、オモンテによれば、それにもかかわらず、 この第六四条の消極的効果を認めないわけにはいきませ ん。その消極的効果とは、話すことのできない者、言葉 をもたない者に耳をかさず、その者を理解しようとしな いことです。つまり、理性を欠いているがゆえにその者 には言葉が通じず、またコミュニケーションもできない と考えることです。ちなみに、このくだりは、ポンセラ 論文の内容と非常に類似しているといえましょう。さら に、オモンテは、このようにして刑事罰を免れた者が、 これを架空の処罰で代替する事例、たとえば、自傷行為 に走る事例を精神分析的にいくつか検討しています。そ して、精神病(障害)者は、こうすることで自ら責任を 負担していると考えられるということです。 ところで、以上のオモンテのような主張は、他のフラ ンスの精神医学者にもみられます。たとえば、イベール 刑事「責任化」論の意義と課題 (国弓の耳)は、精神病(障害)者の行為が刑法第六四条の 「重罪または軽罪とはならない」という文言によって否定 される点を指摘し、ここから、罪を犯した精神病(障害) 者が法律上の地位を失い、社会から消し去られると嘆い

ています。また、ラパール(幻呂已&)によれば、刑法

はその決定によって、精神病(障害者)者を抹殺してき たと主張しています。 以上、フランスの状況を紹介してきましたが、この種 の「責任化」とそれに関係する考えは、例のサズらによっ てもすでに主張されているところです。サズは、「精神 病(白の二巴】旨のの⑩)を免責条件と考えるのをやめよう。 犯罪者を責任ある人間として扱うことによって……われ われは人間であり続ける唯一の機会を彼らに与えるので ある」と述べています。要するに、「反精神医学」の立 場にあるといわれてきた人達には、わが国も含めて、以 上のような主張は決してめずらしくはないようです。 ところで、フランスの「反精神医学」は、精神分析学 ブTj -

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や言語学、さらには政治思想やマルクス主義などからの 影響も強く非常に難解でして、わたくしの力量では十分 にフォローしかねます。ポンセラやオモンテの論文も、 こうしたジャンルの思想家lラカン(盲目)などl からの影響を感じさせます。たとえば、「人間の存在と いうものは、狂気なくしては理解されえないばかりでな く、人間がもし自らの自由の限界として狂気を自分の内 に担わなかったら、それは人間の存在ではなくなってし まうだろう」とか、「狂気は、全体として、それ自体が 一種のコミュニケーション、要求の表現である。精神病 者はこれまで十分にはコミュニケーションについたこと がない。それ故、彼らのコミュニケーションは解読が困 難なのである」とか、「人は自分が構成するのではなく、 それによって自分が構成されている、ある法によって住 まわれている」とかいった表現が、そうした思想家の文 献には、しばしばでてきます。ただ、本報告のテーマは 「責任化」ということですので、この点にこれ以上立ち入 沖大法学第十三号 一一一そこで、話をもとに戻しますが、わたくしの素朴 な理解によれば、ポンセラやオモンテらの主張は、ある 意味で非常にラディカルであり、その評価には慎重でな ければなりません。 刑事責任は法的非難を受けとめることによって成り立 つとされますが、触法行為の際、すべての精神病(障害) 者にそれが可能であったのでしょうか。責任を担えない 精神病(障害)者はいなかったのでしょうか。また、わ が国では、責任能力と区別して受刑能力として議論され る次のような派生的疑問もわいてきます。すなわち、精 神病(障害)者は刑罰の意味をどの程度理解できるので しょうか。通常の刑罰を科すことで、精神病(障害)者 そして社会に利益はあるのでしょうか。刑罰を科すこと が無意味であり、むしろ医療の対象にした方が良い精神 立ち入る能力もありません。 る必要はないでしょう。また、わたくし自身、実際に

九一一

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病(障害)者はいないのでしょうか。とくにこの疑問に

関連して、精神病(障害)がみすごされたため刑務所に

やられた受刑者と接する医師は、彼らが通常の受刑者と

変わらず処遇される現実的悲惨さをしばしば指摘してい

ます。したがいまして、受刑能力との関連では、精神病

●●●●●

(障害)者にふさわしい刑罰l精神病(障害)者に特別

な刑罰ということになればそれは最早伝統的な意味での

刑罰とはいえなくなるでしょうがIや制裁l前述した

スウェーデン刑法などが参考になるでしょうlの設定、

あるいは交通刑務所になぞらえられるような特殊刑事施

設の創設といった新しい課題の展望が、やはり不可欠な

のではないでしょうか。さらに、精神病(障害)者は訴

訟能力に欠けるところがないのでしょうか。こうした疑

問が次々と浮かんできます。

要するに、本人に通常の責任と刑罰を負担させること

の現実的可能性が問われるでしょう。ここで思いだされ

ますことは、かって一部の犯罪学者が、殺人のような犯

刑事「責任化」論の意義と課題

罪を犯すことはそれ自身余程のことであるので、犯罪者

は皆精神異常者であるとしていたことです。おそらくは、

このようにすべての犯罪者を例外なく精神異常者とみな

すことも、ポンセラのようにすべての犯罪者を例外なく

責任能力者とみなすことも、どちらも極端な理解であろ

うと思われます。 さらに、すべての精神病(障害)者が「責任化」の要

求をするのでしょうか。たとえば、クーパーのように死

刑の責任さえ要求するのでしょうか。むしろ、死刑を始

めとした種々の刑罰から逃れたいと希望するのが普通で

はないでしょうかlここから詐病の問題があらわれま

す1.死刑のように明らかに自己に不利益な要求を本

人がしている場合でさえも、自己決定をしているからと

いう理由で放置するのは、望ましいことでしょうか。さ

らに、そうした要求を認めることは、本人を尊重するの ではなく、単に「わがまま」を許すことにはならないで しょうか。また、そうした要求は、本当に真意のあらわ ナヒJ ̄  ̄  ̄

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れなのでしょうか、それとも病気のあらわれなのでしょ うか。この点は非常に微妙な問題ですが、一般の臨床精 神医学者は、その多くを病気のあらわれとみているよう です。いずれにせよ、わが国のように死刑を存置してい る場合には、この取り返しのつかない非人道的刑罰を軽 減するための便法として、責任無能力原則は、|定の意 義をもつものとはいえないでしょうか。現在、例の「連 続幼女誘拐殺人事件」の被告人が裁かれようとしていま すが、世論は、彼に対する死刑の責任をつよく主張し、 他方、弁護側は、彼をいわゆる「気違い」に仕立てて刑 罰の軽減をはかろうとしていることが、印象深く思い 起こされます。 ところで、「反精神医学」の考えがいくつかの国で臨 床に移された際、その経験は、一般に失敗であったとの 評価を受けているようですが、ポンセラらの主張は、そ うした失敗を今度は刑法の領域にもたらすことにはなら ないのでしょうか。この点も懸念されます。 沖大法学第十三号 他方、フランスの精神医学や刑法学において、「責任 化」という考えが一般化しているかといえば、必ずしも そうは思われません。ピネル(ロロの一)やエスキロール (固めP已弓・])らを源流とする、いわゆるオーソドックス な精神医学やそれを参照した刑法学からみれば、そうし た考えは異端視されているとさえいえます。したがって、 ポンセラらの主張は、「反精神医学」者を中心にこうい う考えもあるという程度にとらえておくのが無難かもし れません。むしろ、今後の成りゆきこそが、注目され るところです。 ただ、ポンセラらの主張は、それらを、むしろ問題の 所在を鮮明にするための知の構築物あるいはフィクショ ンとしてとらえれば、それはそれで興味深いものだと思 います。フランスと日本の国情・文化・法制度などの違 いは決して無視できませんが、それにもかかわらず、わ たくし自身は、こうした考えから相応の影響を受けつつ、 自分なりの考えをまとめてきました。それは、まだ途上

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四さて、精神病(障害)者の触法行為の中でも、と りわけ熱心に議論されるのは、精神分裂病者のそれです。 この背景には、触法精神病(障害)者の半数以上を占め るとされる精神分裂病者の責任能力が、裁判上も学説上 も最も激しく争われるという事情が存在するといえましょ う。そこで、まずこの問題の検討から始めたいと思いま す。 この点に付き、ある著名な精神医学者は、「単純明快 な原則」と称して精神分裂病者即責任無能力者を主張し、 の点を、最初に確認しておきたいと思います。 や尊厳の回復にこそ寄与すべきであるという点です。こ 者に対する安易な処罰の貫徹にではなく、彼らの主体性 この「責任化」に基づく問題設定が触法精神病(障害) たいと思います。その際、常に留意していますことは、 ご了解頂いた上で、以下では、その一部をお話ししてみ にあるものでして不十分なものですが、その不十分さを 刑事「責任化」論の意義と課題 それが精神障害者に対する人道的態度であると述べてい ます。また、この主張に賛成する学者も少なくありませ ん。しかし、このような主張に対しては、以下のような 種々の疑問を禁じえないところです。 根本的には、分裂病者即責任無能力者という「単純明 快」とされる原則が、触法分裂病者、ひいては触法精神 病(障害)者一般に対する差別や偏見を助長するのでは ないかという疑問があります。精神病(障害)を根拠と して、不起訴あるいは無罪とされた者が、それだけの理 由で、将来においても類似の触法行為を繰り返すかのよ うに受け取られるのは、このことを端的にあらわしてい るように思われます。また、刑事責任無能力とされると、 あらゆる人格性が無に帰せられたように考える風潮が世 間にあり、この現実は侮り難い力をもっているとか、責 任無能力は社会的な慣習からの免責を意味し、人間的・ 世間的に非社会人化されることに等しいと幾人かの精神 医学者が述べているところでもあります。さらに、精神 ナし =

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病(障害)者を責任無能力とすることが人道的であると の指摘も、精神病(障害)者が歴史的にいかに悲惨な扱 われ方をしてきたかという事実を踏まえつつ、その後の 医療施設での強制的措置にまで射程を及ぼして考えるな らば、やすやすとは主張できないでしょう。この点は、 後にもう一度触れてみたいと思います。 このように、分裂病者が無罪とされ、あるいは不起訴 とされることは、本人にとって望ましいとばかりはいえ ないと思われます。「責任化」の主張は、正当にもこの 点に気付かせてくれるのです。もっとも、わたくしは、 先に紹介したポンセラ論文のように、触法精神病(障害) 者を一般人と同様に起訴し有罪にすべきであるとまで、 踏み込んで主張する意図は毛頭ありません。さしあたり、 精神分裂病者即責任無能力者の原則が、彼らに対する偏 見や差別と深く関わるのではないかという視点をもつこ とで足りるでしょう。 以上では、精神分裂病を責任無能力と結び付けること 沖大法学第十三号 によってもたらされる疎外的因子を指摘しましたが、精 神分裂病という精神医学的概念にも、以下のような問題 がみられます。 まず、ある精神医学者が主張しているように、「『分 裂病者』というラベルをはられただけで、もうその人は 世間の人から色眼鏡でみられる。病気が治って普通の姿 に一戻っていても、『あの人は気狂い」、なのである。:…・ 世間の人は……彼の全存在を否定してしまう」という側 面に注意しなければならないでしょう。 さらに、分裂病者即無能力者の原則は、分裂病不治論 と結び付いているといった周知の問題を抱えていること にも留意しなければなりません。「精神分裂病、即責任 無能力ないしそれに近い考え方は、精神分裂病が深刻か つ不可逆的な人格荒廃を伴う疾患であるとする見解に裏 打ちされて初めて成り立つ見方であるが、いまではこの ような疾病観は、とうてい通用するとは思えない」とあ る精神医学者が述べているのは、端的にこの点を批判し

九一〈

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てのことでしょう。 では、そもそも精神分裂病とは、どのような病気なの でしょうか。皆さんよくご存じの通りですので、まさに

釈迦に説法ですが、標準的な精神医学書から要約してみ

ますと、分裂病とは脳の器質的変化が想定される内因性

精神病の一つであって、主として青年期に発病し、妄想

や幻覚などの特異な症状を呈し、しばしば慢性。進行性 の経過をたどり、やがては人格の特有の欠陥状態や荒廃 状態に至りうると考えられているようです。 しかし、近年、このような定義ではほとんど対応しき れないほどに、様々な問題がこの精神分裂病をめぐり生 まれてきているように思われます。この点もみなさんが よくご存じの通りです。 確かに、精神分裂病という言葉のニュアンス自身、 「一生治らないおそろしい病気」であるかのようなショッ キングさを含んでおり、病名告知に際しても微妙な問題 がありましょう。このような事情もあり、近年では、精 刑事「責任化」論の意義と課題 神分裂病という病名は変更した方が良いとの率直な意見 も表明されるに至っています。分裂病という暖昧で偏見 の多い言葉は、患者の主体的立場を尊重しようとする側 は使うべきではないと主張する精神医学者もいます。 さらに、ある病者が分裂病という病名を消したいと思 えば、いくつかの病院をハシゴすれば十分であるとか、 分裂病は診断者によっては非定型精神病や「境界例」に 解消されてしまうことも稀ではないと述べる精神医学者 が存在するまでに、分裂病の暖昧さも認識されています。 ちなみに、古い話になりますが、あの金閣寺に放火した 僧は、鑑定で精神病質(分裂病質)と診断され責任能力 が認められたため服役しましたが、その後刑務所で分裂 病が発見され、出所と同時に京都の洛南病院に入院させ られたということです。洛南病院の小林淳鏡という医師 によれば、犯行時からすでに精神分裂病に冒されていた であろうとしています。このような診断上の微妙な問題 は、犯罪精神医学関係の書物をひもといてみますと、相

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変わらず多数紹介されていますが、精神医学や精神鑑定 の意味を問い直すきっかけになったりもします。 ところで、健常者と変わらない寛解分裂病を生みだす

最近の治療技術の進歩などから、分裂病即責任無能力。

精神病質即有責という古典的な二分法に拘泥することは 問題であるともいわれます。加えて、外来治療を受けな がら社会生活を営んでいる分裂病者が珍しくなくなって きたとの指摘もなされています。しかも、治療環境をめ ぐるこうした変化は、精神医学全般に及んでいるように 思われます。すなわち、ある精神医学者によれば、従来 の精神医学の疾病分類が現在の精神的異常に対して明確 な輪郭を提出できなくなっており、まさにこれまでの精 神病概念は破綻してきているとされ、また、別の精神医 学者によれば、昔は精神病と精神病でない者がはっきり 分かれていたが、今は境界例やボーダーライン。ケース のように精神病か神経症か分からないような者が多いと もされているのです。 沖大法学第十三号 以上のような様々な事情を考慮しますと、精神分裂病 者即責任無能力者という原則を主張しても、どれほど意 味があるのかは、疑わしいといわざるをえません。結局、 分裂病もその概念の暖昧さを踏まえつつ、症状に応じて その責任能力をきめ細かく個別的に判断することの必要 性が強調されるべきであるように思われます。 そして、「責任化」を主張する意義は、刑法における 精神病(障害)の意義を以上のように相対化する上で、 一定の有意義な役割を担っているといえましょう。こう した分裂病や精神医学的概念をめぐる混乱がある程度解 消されない限り、精神病(障害)に対する恐怖や偏見の 除去にも限界があるように思われます。精神医学が分裂 病や精神病(障害)の暖昧さから抜け切れず、刑法がこ れらに拘泥するならば、精神病(障害)者に対する差別 の問題は解決されないでしょうし、それは間接的に社会 全体の利益をも損なうことになると思われます。たとえ ば、病(障害)者による触法行為の反復といった事柄も、

九〈

(16)

この問題に連なるでしょう。この問題は、後述したいと

思います。

もっとも、安定した責任能力判断の意義は、法的安定

性の面からも、とくに強調されるべきです。将来、精神

医学の発展に相応して、精神分裂病者即責任無能力者。

精神病質者即責任能力者といった妥当性の疑われる「古

典的」原則に代わるような、新しい原則の確立される曰

が待ち望まれるところです。 ところで、こうした分裂病や精神病(障害)をめぐる

議論は、刑事制度における精神鑑定および起訴。不起訴

の役割にまで、その射程を及ぼすことが必要です。以下 では、この問題を検討してみたいと思います。 この精神鑑定をめぐっては、一般にこれが精神病(障

害)者のために行なわれるものであるとされてきました。

しかし、この点は一概にいえることではありません。た

とえば、被鑑定人を真犯人であるかのように記載し、冤 罪に導いたと考えざるをえない鑑定も少なくないので 刑事「責任化」論の意義と課題 す。 さらに、鑑定で心神喪失になることを、被鑑定人は必 ずしも望んでいないとの指摘が、たびたびなされてきま した。それは、精神病(障害)者であるよりも犯罪者で あるほうが「名誉」であると思う被鑑定人が多いことや、 実際上も、精神病院ではいつ退院できるかわからないが、 刑務所ではその心配がないからだとされます。この問題 は、また、先のポンセラ論文やオモンテ論文をも思い起 こさせます。こうした精神病(障害)者が多数いるとは 考えにくいのですが、問題の所在を明確にする上で、無 視できない重みをもっているといえましょう。 いずれにせよ、このように触法精神病(障害)者が積 極的に罪を償いたいと希望する実例をもって、まさに 「狂気の沙汰」と形容する法学者もいます。確かに、|部 の精神医学者も、こうした事例を「病識の欠如」として、 それ自身を病気の影響に帰せしめてきました。しかし、 こうした理解は、必ずしも妥当であるとは思われません。

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この場合、多数者の論理を少数者に押し付けていること にはならないでしょうか。鑑定する側の判定基準や診断 的枠組で鑑定される側を一方的に評価判定し、被鑑定者 はただ観察対象として客体化されるだけという構造が、 このような精神鑑定状況には存在するといえないでしょ うか。いずれにせよ、触法精神病(障害)者が、自ら罪 を清算したいと申しでるような事例を、安易に狂気の振 舞いとして処理してしまうことは、精神病(障害)者が 正当な判断力を常に喪失しているかのようにみなすこと でもあり、それこそ「狂気の沙汰」とでも皮肉りたいよ うな、障害者に対する偏見を窺わせます。こうした対応 は、自己の犯罪行為を刑罰を受けることによって償おう としている人にその途を閉ざし、ひいては、自殺に導く こともあると精神医学者により厳しく非難されるほどで す。確かに、一般には精神病(障害)者は「気違い」と して、つまり終始「気が狂っている」存在として認識さ れています。しかし、一般人の心の動きが常時変化して 沖大法学第十三号 いるように、精神病(障害)者でも判断や記憶を明蜥に 保持している場合はないのでしょうか。分裂病者の思考。 行動の中にも健康で正常なものと病的で異常なものがあ ると精神医学者がしばしば指摘しているところでもあり ます。さらに、先にも触れました、精神病(障害)をめ ぐる軽症化の進行なども考慮しますと、安易に狂気の振 舞いとして処理してしまう対応は問題を残しているよう に思われます。そして、「責任化」の主張は、まさにこ の点を強調しているものといえましょう。 一○年前の話になりますが、沖縄でも、精神病院に入 院中の患者が、院内において他の患者を殺害し、マスコ ミもこれを大きく取り上げたことがありました。この患 者は以前にも他の病院や一般道路上で殺傷行為をするな どしています。患者は事件の度に不起訴となり措置入院 に付されました。殺人の動機として、相手は誰でもよかっ たこと、被害者には何の恨みもないこと、殺人は自分の 受けている不当な苦しみを裁判の場で訴える手段にすぎ

一つ□

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なかったこと、などを彼は語っています。そして、他の 殺傷行為の際にも、同様のことを述べており、さらに刑 罰によって責任を負担したいとも取れる発言をしばしば 行なっていたということです。しかし、そうした発言は 受け入れられず、また、実際に受け入れようもなく、事 に及んだというわけです。この院内殺人に先立つ路上で の殺人未遂に関連して、患者は、自己の行為をまるごと 病気の為せるわざとして処理されることへの不満を、取 り調べた当局に電話で次のように訴えています。「もし も-し、殺人未遂を犯した者ですが、……話のわかる刑 事をだして下さい。……今、S病院からです。:::弱い 者ばかりいじめて、卑怯じゃないですか。.…:あんた達 がその気なら、ぼくにはぼくの考えがありますよ」と。 この訴えからは、妄想に支配されて行為に及んだ者にも、 それなりの考え。いい分があるのであって、それを汲み 取ってもらえなかったことへの反発、少し大げさに表現 しますと、自己の言動や意思が無効化されたことの無念 刑事「責任化」論の意義と課題 さが、窺えるようです。 結局、この患者は、また同じ病院に措置入院となりま した。病院側の対応は、院内の一画に準刑務所的な独居 房を作り、保安管理の専門家でもない看護士に予防拘禁 的監視を行なわせるというものでした。事柄の性格を考 えますと、病院側としては、このような措置以外に選び ようがなかったと思われますが、この措置自身はいわゆ る保安処分と変わるところがなかったといえます。この 患者はその後どのような人生を送ったのでしょうか。 ここで多少横道にそれますが、精神病(障害)との関 係が何かと取り沙汰される通り魔的犯行、たとえば、 「新宿バス放火事件」や「深川通り魔事件」なども、同様 の根で連なっているように思われます。つまり、社会か らもまともに相手にされず、疎んじられ、邪魔者扱いさ れ、社会の底辺に押しやられた者が、自分の存在を主張 したり、他者とコミュニケーションを取る手立てとして は、暴力的攻撃という相手へのぶつかり方、エネルギー 一つ一

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の爆発させ方しか残されていないともいえるのです。

「バカャロー、なめやがって」と「新宿バス放火事件」の 犯人は叫んでいます。彼らは、社会全部を敵に回してい るようなものです。そこまで追い詰められているといえ ましょう。このような触法行為が精神病(障害)者の一

種の自己表現であるとしますと、それを病気に帰せしめ

て、いわば無効化してしまえば、自分の存在基盤は失わ

れたり危うくされざるをえませんlもっとも、犯罪の

すべてがそのような深い意味付けを与えられるわけで

はありませんが1.触法行為予防対策上も、考えさせ られてしまいます。そして、この点に留意しつつ、責任 能力の問題については、これを個人の側の問題としての み規定せず、国家・社会との関係においてとらえること

や、犯罪の責任を個人に帰属させることの意味などが国

家。社会の責任と対比して研究されなければなりませ

ん。 おそらく同じようなことは、病院内でも、たとえば問 沖大法学第十三号 題行動という形で起こるでしょう。周囲から不当に低く 評価されたり子供扱いされ、それらを感じ取り悩みを深 める……。そうした悩める自己を問題行動という形でし か表現しえないのではないでしょうか。しかも、そのい わば稚拙な問題行動が病気と結び付けられて、他者との 関係性という文脈では取り上げられないとすれば、ある 精神医学者が主張しているように、本人はその問題行動 から社会性など何も学べないように思われます。精神病 院は、精神病(障害)者に何を行なっても許してもらえ るという現実認識の甘さを植え付ける場なのでしょうか。 対等な人間であることのあかしである責任の取り結びが 準備される必要はないでしょうか。ここでは、オモンテ が入院患者の責任喪失を訴えていたことが、思い起こさ れます。ある精神医学者が示唆していますが、精神病

(障害)者が法制度上責任無能力者として扱われてきたこ

とは、精神病(障害)者が社会的関係を取り結ぶことが できないことを公的に承認したようなものであって、皮

|C一一

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肉にも障害者の社会復帰を阻害する要因になっているよ うに思われます。 以下では、こうした前提的問題に留意しつつ、主とし て起訴前の鑑定について、ごく簡単な考察を行ないたい と思います。起訴前鑑定(裁判前鑑定、簡易鑑定)の重

要性が、近時強く認識されるに至っているからです。確

かに、ここ数年、心神喪失で第一審無罪が年間一○名に 満たないのに対して、不起訴は四○○名前後にのぼるの をみても、この点はうなずけます。 この起訴前鑑定をめぐっては、種々の弊害が指摘され てきましたが、本報告との関連でとくに重要な問題は、 |般に犯罪事実がはっきりしないにもかかわらず、「奇 妙な人物が犯した理解し難い事件」として、事件が秘密 裏に処理される恐れであるように思われます。ある精神 医学者は次のように述べています。「起訴前鑑定により、 心神喪失になった被疑者が、裁判を受ける権利も喪失す るのは、問題であると思う。……不起訴になることで真 刑事「責任化」論の意義と課題 実は争われず、犯人とされた精神障害者は措置入院させ られることで口封じが行なわれるのである」と。ここか ら、精神鑑定を拒否する権利や裁判を受ける権利が、オ モンテ論文に登場していたように、わが国でも主張され たりするのです。これは公判での鑑定に関連しますが、 すでに紹介しました「金閣寺放火事件」で、弁護人の精 神鑑定請求が許可されたのに反抗する形で、当の放火僧 は、自分は気など狂っていないので鑑定は受けたくない 旨の主張をしていました。結局、鑑定は実施され、精神 病質者として服役したのは、お話しした通りです。 もっとも、このような事情を考慮して、鑑定を経ずに 精神病(障害)者を努めて起訴すべきであるとの結論を 導くのは、非常に短絡的で危険なことです。起訴前鑑定 が、被鑑定人に救急医療を受けさせる良い機会になるこ とも否定できないからです。また、国家刑罰権の発動を、 起訴というような形で要求することも問題でしょう。こ こで重要なことは、精神病(障害)者にとって起訴前鑑

一○一一一

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定の意味が、公判での鑑定以上により本質的であるとい うことを確認しておくことのように思われます。 以上のように、精神分裂病問題、精神鑑定問題と徐々 に考察を進めてきますと、精神病(障害)者を刑事免責 することが人間愛に満ちた人道的配慮であるとのよく耳 にする理解は、大きな陥奔と隣り合わせであることが了 解されます。 もっとも、一面においてこれまで指摘してきましたよ うな問題を含む精神医学の現状ではありますが、勿論、 その成果は決して全面的に否定されるべきものではなく、 種々の局面において十分に評価。尊重され、またその将 来的発展は大いに期待されるべきです。以下では、この 点を触法精神病(障害)者への医療的対応の問題と関わ らせて、お話しすることにします。 アメリカでは、精神病院の脱施設化が進められた結果、 精神病(障害)者の犯罪者化が進行しているとの指摘が なされています。そして、わが国でも、新しい精神保健 沖大法学第十三号 法以降、この種の動きがでてきているといわれます。た だ、こうした指摘から、ただちに隔離優先の主張を展開 したり、さらには司法処分が必要であるとの主張をすべ きかどうかは、慎重に検討されなければなりません。こ うした一連の動きに関しては、信頼しうる統計なり資料 なりの蓄積と整理に一層努めるべきでしょうし、また、 仮にこれが事実であるとして、それは、従来あまりにも 隔離されすぎていた精神病(障害)者が、一般人並みに 社会的接触を持ち始めた兆候ともみなしうるでしょう。 他方、本人がかってのように病院に再び戻されても、十 分な医療が確保されなければ、隔離に伴う社会防衛の効 果は期待できましょうが、本人にとっては何の意味もな いと思われます。そもそも、医療がもっぱら病気という 病者の不利益救済のために奉仕するものであり、精神医 療もその例外ではないとしますと、精神医療が社会防衛 の道具となることは、やはり許されないと思われるので す。

一○四

(22)

ここで、精神病(障害)者が不幸にして触法行為に至っ た原因をごく簡単に考察してみますと、とりわけ治療の 中断に問題のあることが関係者によりしばしば指摘され てきました。この点は、皆さんがよくご承知のところで

す。たとえば、継続的な治療がなされている分裂病者の

触法行為の発生頻度は、一般人口のそれと比較してもか

なり低いものであり、行為の内容も凶悪なものが少ない

ことは広く認められているといわれています。したがっ て、病(障害)者の触法行為を防止するには、治療中断 を最小限にすることが必要になりますが、そのための対

策としては、公的機関へのかかりやすさ、医療の継続の

しやすさ、再受診への動機付けなどに配慮し、さらに、 軽快・寛解後も継続的治療の重要性を本人に説き、その 実行を促すことや、家族の協力のもとに病(障害)者の 変化に注意し、主治医との密接な連絡を維持することの 意義が、一般に指摘されています。加えて、精神病(障 害)者に対する社会の偏見から、精神病院への入院や通 刑事「責任化」論の意義と課題 院を避け、治療の手遅れや中断に至ることも指摘される ところから、より根本的には、社会の病(障害)者への 態度・眼差しが問われなければなりません。この点は、 すでに何度か指摘してきたところです。他方、精神医療 の地域化あるいは地域医療充実の問題も、触法行為防止 上、極めて重要な課題であるとされています。たとえば、 地域で週一回のデイ・ケアを行なうだけでも、再犯防止 には有効であると医療関係者は強調しています。 したがいまして、このようなきめ細かい精神医療の対 応があれば、入院中心主義に後退しなくても、さらには 司法処分に頼らなくても病(障害)者の触法行為は防げ るのではないかと思われます。勿論、そのためには相当 の人的・物的資源が必要ですが、これを理由として解決 の展望を拒否するのではなく、|歩一歩地道な努力を重 ねていくべきではないでしょうか。ただし、こうした方 向さえも、結果として治安対策を担うのではないかとい う懸念にも留意すべきです。あくまでも、本人の利益を ■■■■■■■■■ (:=) =

(23)

目指した任意的な医療的・福祉的対応の問題であること

を確認しておく必要があります。

なお、これに関連して、いわゆる処遇困難患者の問題

にも触れざるをえません。彼らを念頭にして司法処分を

考えている者も少なくないと予想されるからです。処遇

困難患者の定義自身必ずしも明確ではありませんが、あ

る精神医学者によれば、その者の示す様々な問題行動の

ために、治療活動に著しい困難をもたらす患者であると

されます。要するに、病院をてこずらせる患者というこ

とでしょうか。確かに、触法精神病(障害)者に関して

は、この者を一般の患者と一緒に処遇することは治療環

境の悪化をもたらすとの指摘がたびたびなされ、「重度

の」処遇困難患者についても、現在の医療体制では対応

困難なケースであるので、対策が急がれるとの意見が表

明されています。しかし、処遇困難患者の集中化に反対

しながらも、選別はせずに治療に当たるということは、

保安処分に反対する者がどうしても潜り抜けなければな

沖大法学第十三号

らない課題である以上、また、処遇困難患者の集中化に

よる一部病院の保安施設化を防ぎ、処遇困難患者のレッ テルによる偏見を助長することを防ぐ必要性からも、彼 らに対しては、たとえ現実が厳しくても、何とか精神医 療がエネルギーを割いて対応していかなければならない のではないかと考えます。とりわけ、処遇困難患者と呼

ばれている者の多くが、かって人権を無視され医療の場

を与えられてこなかった結果のあらわれであるとすれば、

なおさらそうでしょう。さらに、臭いものに蓋とばかり

に「精神病院の厄介者」を放りだして、特殊病院などで

別個に処遇しようとしても、その効果のほどは疑わしい

ものです。治療環境が悪化し、治療のモラルが低下し、

治療スタッフと患者との信頼関係が失われるなどの懸念

があります。処遇困難患者について、司法処分をはじめ

とした特別の措置を想定していくというのは、やはり早

急な選択ではないでしょうか。多くの医療関係者が、処

遇困難患者を抱える苦労を承知しながらも、病院を新設

(24)

五本曰のご報告を終えるにあたり、その基本的性格 をまとめてむすびにかえたいと思います。 今曰の責任刑法は、触法精神病(障害)者を、その意 思の不自由さ・薄弱さ、その意思の喪失を根拠に排除し てきました。極端に表現しますと、精神病(障害)者は 「哀れみや保護の対象」か、「危険や恐怖の対象」かのど ろです。 関を整備する必要性が関係者により指摘されているとこ 員の配置に特段の配慮や工夫をするなど、現存の医療機 が不十分であることも確かなようです。建物の構造や職 ことは、積極的に評価されるべきでしょう。ただ、現状 することによって対処しようとすることに消極的である 以上、極めて不十分でしたが、触法精神病(障害)者 を取り巻く精神医療の問題点を指摘してきました。要す るに、彼らを安易に危険な存在とはみず、医療体系の中 での対応を展望しようと試みたものです。 刑事「責任化」論の意義と課題 ちらかであったと思われます。要するに、マイナスのイ メージしかなかったのです。しかし、すでに批判的に検 討してきましたように、触法精神病(障害)者の定義、 彼らの意思の喪失、責任無能力制度の保護的理解などは、 いずれも問題を含むものでした。加えて、こうした論理 は、それ自身、正常者とされる側・一般人の側からのも のです。そこでは、精神病(障害)者の働きかけは「正 常者」の論理で組み替えられ、その主体性・独自性は否 定ないし無視されざるをえません。 これに対して、「責任化」の主張は、そうした伝統的 な責任刑法の内容に「理解され尊重される対象」という 側面を加味しようとするものであったといえましょう。 根本的には、刑法その他の諸法律が、外に追いやってし まった部分、つまり意思の不自由なり非理性なりをみな おそうとするものであったわけです。その限りでは、わ たくしを含めて、異論は少ないであろうと思われます。 ただ、今曰、いわゆる健康管理社会に抵抗する形で、 |□造

(25)

「狂気である自由」や「狂気となる自由」といった主張さ

え、精神医学者や精神病(障害)者自身から提起され始

めています。そして、この視座からは、たとえば、精神

的健康の義務を国民に課したとされる精神保健法第二条

のこの削除も主張されるところです。しかし、わたくし によれば、このようないわゆる狂気肯定論も、伝統的な

「狂気」否定論同様、一面的です。それは、ややもすれば、

健常者社会を否定することによって、病(障害)者と健

常者との交流や連帯を阻害し、主張を独善的。排他的な

ものへと転落させてしまうおそれがあるように思われま

す。もっとも、こういう主張がでるほどにまで、精神病

(障害)者はこれまで軽んじられてきたともいえます。そ

して、まさにこの点の確認と理解が、今後も引き続きわ たくしたちの課題として残されているといえましょう。 ご清聴ありがとうございました。 沖大法学第十三号 〈文献〉 (1)本稿に関連する筆者の研究は、以下の通りである。 ①拙稿「(文献紹介)ポール。イベール『刑事精神医学 鑑定と刑法六四条』」法と政治三四巻一号一五五頁(一 九八三)。 ②同「フランスにおける精神病者の刑事『責任化』(息の‐ ○・口“三三・・)をめぐる動向lポンセラ論文を契機 としてl」法と政治三八巻一号一六九頁(一九八七)。 ③同「『精神障害』者に対する刑事『責任化』について」 沖大法学八号一頁二九八九)。 ④同「触法精神障害者の刑事責任能力に関する序論的考 察」沖大法学一○号一三頁(’九九一)。 (2)本稿の思索をまとめるにあたり参照した文献は以下の 通りである。それらの文献をも含めて、筆者の「責任化」 研究との関連で重要な文献は、とくに前掲注(1)の拙稿 ④において詳細に提示されているので、参照して頂ければ 幸いである。 而○ご○の」PFの9局。』一℃のロロ」の己{。』』の。□」ヨロロロ○の臼す]の ご○凰芯耆勾・の・○・一]①②9℃・の」・ 出口日ロ○三の旧の己の望○ケ○一】PEP]の⑩]○厨の(』P]。】・ レロロ・日。□・己の旨○ケ○・一]①のPご○]・」←』》ロ。.』》己・]臼・ mNpmN5P三』〕すの二竜一口ごユロの]○ず』□す]・]@m』一己・]酉『.

一つ〈

(26)

青木薫久「精神保健法に関する二つの問題」精神神経学 雑誌九二巻五号二九六頁二九九○)。 石川信義『心病める人たちl開かれた精神医療へl』 ’九頁(岩波書店、’九九○)。 伊藤順一郎、佐藤壹三「再鑑定で分裂病型人格障害(D SMIⅢ)と診断された殺人未遂。傷害事件の一例」臨床 精神医学一八巻一一号一七三六頁(一九八九)。 内沼幸雄「強迫症状が主要犯行契機となった分裂病患者 の強盗致傷事件の再鑑定例」臨床精神医学一八巻二号一 七四四頁二九八九)。 小澤勲「金沢学会以降の二○年l臨床現場からの報告 I」精神神経学雑誌九一巻一一号九二○頁(’九八九)。 小田晋「精神保健法における精神障害者の責任能力、行 為能カーとくに同意の能力をめぐってI」臨床精神医学 一八巻六号七八九頁二九八九)。 小野江信介「単科精神病院における処遇困難例の実態」 法と精神医療四号八六頁(’九九○)。 樫葉明「精神医学の限界」法と精神医療二号六九頁(一 九八八)。 加藤能男「精神分裂病者の犯罪と予防」柴田洋子編『分 裂病犯罪の精神鑑定』二八一頁(金剛出版、一九八七)。 栗本藤基「『精神分裂病』という概念の批判l『陰陽原 理』を軸にしての試みl」精神医療一七巻二号八九頁(’ 刑事「責任化」論の意義と課題 九八八)。 小林淳鏡「金閣放火僧の病誌」犯罪学雑誌一一六巻四号二 八頁二九六○)。 庄田秀志「病院内殺人事件をめぐる問題」沖縄精神医療 九号二○頁二九八一)。 鈴木伸治「赤堀裁判における精神鑑定に象徴される精神 鑑定状況」精神神経学雑誌八一巻四号二六一一頁(’九七九)。 高臣武史「精神保健法と人権」社会精神医学一二巻二号 一二頁(’九八九)。 高木隆郎「精神分裂病遺伝説への重大な疑問ll中田修教 授への反論l」朝日ジャーナル八月二七日号一○○頁(’ 九八二)。 田原明夫「精神保健法下における課題」精神神経学雑誌 九○巻一一号一○’九頁二九八八)。 中川之子ほか「刑事鑑定例からみた地域精神医療につい ての一考察」社会精神医学一二巻二号一六二頁(一九八九)。 中田修「最近のわが国における責任能力判定の傾向」精 神医学三一巻一○号一一○○頁(’九八九)。 中谷真樹「触法分裂病患者の治療的背景とその処遇l公 立病院における調査から(第二報)l」臨床精神医学一八 巻八号一一二九頁(一九八九)。 中谷陽一一「責任能力論と治療観」精神医学三一巻一○号 一○九四頁二九八九)。

一つ九

(27)

九号九○三頁(一九八九)。 浜原昭仁ほか「石川県・大阪府における処遇困難患者の 実態調査l全国アンケート調査との比較l」精神神経学 雑誌九二巻八号五三八頁(一九九○)。 伴義聖「精神障害者による犯罪の実情(下)」ジュリス ト七五四号一○五頁(’九八二。 福島章、村松友視『血が酩酊するとき〔精神鑑定講義〕」 六三頁(朝日出版社、’九八五)。 藤縄昭「寛解期分裂病者の責任能力」島薗安雄ほか編 『精神科MOOK’七法と精神医療』’二七頁(金原出版、 六九頁(’九八二)。 中村希明『犯罪の心理学lなぜ、こんな事件が起こるの かl」’三四頁(講談社、’九九○)。 仲村肇「精神障害と刑事責任能力」沖縄精神医療六号二 九頁二九七九)。 中山宏太郎「刑事精神鑑定についての一考察」精神医学 一一○巻一二号一三七四頁(’九七八)。 西山詮「刑事責任能力と保安処分」精神医療二巻一号 宮崎隆吉「「ボーダーライン」概念の歴史的変遷につい て」精神医療一五巻四号二八頁(一九八六)。 森山公夫「『精神分裂病』パートH1なおるということ 松本啓「総合病院精神科の設置を望む」精神医学三一巻 九八七)。 沖大法学第十三号 I」精神医療一七巻二号五七頁(一九八八)。 山田敏雄「合衆国における精神障害者の治療を受ける憲 法的権利Iより制限的でない環境からコミュニティを基盤 とする治療を受ける権利l」明治大学大学院紀要二五集 (1)三五六頁(一九八八)。 一一つ

参照

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「欲求とはけっしてある特定のモノへの欲求で はなくて、差異への欲求(社会的な意味への 欲望)であることを認めるなら、完全な満足な どというものは存在しない

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きも活発になってきております。そういう意味では、このカーボン・プライシングとい

・毎回、色々なことを考えて改善していくこめっこスタッフのみなさん本当にありがとうございます。続けていくことに意味