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アマングスクについて(調査ノートから): 沖縄地域学リポジトリ

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(1)

Author(s)

当山, 昌直

Citation

沖縄史料編集紀要 = BULLETIN OF THE

HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(40): 29-44

Issue Date

2017-03

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/22068

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アマングスクについて(調査ノートから)

当山 昌直 はじめに 奄美・沖縄各地には、アマグスク・アマングスクと称される丘または小高い山が存在し、 拝所になっている場合が多いがその実態についてはよく知られていない。当山(2013)は、 沖縄島国頭村奥間に所在するアマグスクと称する丘陵(以後奥間アマグスクと称する)を 調査して報告している。この調査の中で、地元ではこの丘陵のことを、グスクという名称 を付けずに、特に丘の頂上部に設置された特定の拝所付近を称してアマンチヂと呼んでい ることがわかった。また、当山(2013)は、アマンチヂから見える河川を挟んでより標高 の高い丘陵地頂上部のチンヌウガミを「天の拝み」の意味として解釈し、アマンチヂから チンヌウガミを遥拝した可能性を指摘した。 本稿では、奥間アマグスクの調査をもとに沖縄諸島内に所在するアマグスクやアマング スク (1) に関する位置や概略について調査した結果を報告する。 本稿をまとめるにあたり、国頭村における調査に際し、現地調査への同行および資料の 提供等で奥間在住の親川栄氏、国頭村奥郷友会会長宮城邦昌氏には大変お世話になったこ とを記して感謝したい。 1.調査ノート (1)奥間のアマグスク(2013 年の調査報告から) 2012 年7月 22 日、11 月8日に現地計測の調査を実施した。奥間アマグスクの調査内容 については、詳しくは当山(2013)を参照されたい。ここでは、当山(2013)の中から、 次の展開に関連する事項について触れる。 拝所内には、ニシヌウドゥン(北の御殿)およびフェーヌウドゥン(南の御殿)と称す る拝所があり、ニシヌウドゥンが高位の拝所となっている。またこの付近をアマンチヂと

TOYAMA, Masanao: Preliminary survey of the Aman Gusuku on the Ryukyu Islands.

(1)  「グシク」 という呼び方は、 地元などで呼ばれている名称からくる。 城 (グスク) 研究等の分野ではグスクと呼 ばれることが多い、 ここでは特に断りがない限り、 「グスク」 と称する。

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呼んでいる。ニシヌウドゥンの入口付近にリュウキュウ コクタンの比較的大きな木が門のように両脇に生えてい る。そこからニシヌウドゥンのイビに向けて両脇にクス ノハカエデが並ぶように生えている (2) 。ニシヌウドゥン からフェーヌウドゥンの間にはリュウキュウコクタンや クロツグなどの植物が多くみられる。一方、拝所周辺の 林内にはソテツも散見されることから、以前は裸地に近 い状態だったことが予想されている。 アマンチヂ(ニシヌウドゥン)付近から参道方向をみ ると正面にチンヌウガミ(152.3 m) (3) がそそり立ってい るのがみえる(図1)。地元では「角の拝み」という意 味にとらえているようである。もし、ニシヌウドゥンと フェーヌウドゥンとの間の尾根部に樹木がなければ、チ ンヌウガミの存在が無視できないほど大きくみえるはず である。当山(2013)は、チンは「角」ではなくティ ンの「天」が変化し、チンヌウガミは、「天の拝み」と 考えており、さらに遥拝する場所と遥拝する対象として、 奥間アマグスクとチンヌウガミとが関連していると推察 している(図2)。チンヌウガミの実態を調べるために 山頂現場に登ったが、そこには拝所と断定できる痕跡は 確認されなかった。 (2)辺戸のアマングスクの聞き取りと現地調査 このグスクについては、沖縄県教育庁文化課編(1983) および外間・桑原(1990)には、具体的な位置や写真・ 地図などがない(4)。筆者の知る範囲では、文献には具体 的な場所が記されていないようである。 2005 年7月に位置確認の調査を実施したが手がかり がつかめなかった。2010 年9月8日に辺戸において聞き取りを行った。共同売店に来店し ていた 80 歳代と思われる女性から辺戸のアマングスクの場所を教えてもらった。名称は (2)  当山 (2013) を執筆したあとに確認された。 人工的に植えたものと考えられる。 (3)  チンヌウガミについては、 アマグスクの調査を実施している中で存在が確認された。 (4)  外間 ・ 桑原 (1990) ではアマングシクと称している。 アマグスク チンヌウガミ 図 1 上 : 奥間アマグスク内のアマンチヂ からみるチンヌウガミ。 下 : 樹木を 取り払った状態でみるチンヌウガミ の想像図 図 2 上 : チンヌウガミからみた奥間アマ グスク、 下 : チンヌウガミ (山頂中 央部の頂)

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知っているが、具体的な場所はわからないという。ただ「あの辺」ということで大ざっぱ に指さすだけであった。付近の道路の状態を聞いて、考えられる場所を中心(北緯 26 度 51 分 43 秒、東経 128 度 15 分 34 秒)に半径約 200 mの範囲を調査した。グスクと思われ る場所がみつからなかったので、現地で農作業をしていた 70 歳代と思われる男性にアマ ングスクの位置について聞いたところ、ご存知でなかった。その男性は区長も経験した方 で、王府の行事等についても詳しかったが、アマングスクの名称についてもよく知らなかっ た。少なくともこの辺ではないだろうとのアドバイスがあった。情報収集のため再度共同 売店に戻ったところ、90 歳代と思われる女性が売店のイスに腰掛けていたので尋ねてみた。 最初は、なぜアマングスクのことについて聞くのかふしぎそうな顔をしていた。というの も、昔は辺戸以外からもアマングスクへ拝みに来る人がいたが、今はだれも拝みに訪れる ものはいなくなった、と話した。筆者がこのように場所を尋ねるのは珍しかったのかもし れない。拝みをしていた当時のことも覚えているので、場所についても具体的であった。「国 道 58 号線から下りの左側に右に入る小道がある。国道から小道に入る前にちょうどその 場所から小高い丘がみえるが、それがアマングスクだ」と話した。また「降りていくとビニー ルハウスがみえるが、それとは逆のもう一方の道から行く」と具体的な道順まで教えてく れた。筆者は、すぐに小高い丘を確認し(図3)、女性の説明と現地の状況とが一致した ことから、そこがアマングスクと考えた。早速丘の内部を踏査したが本部層の古い大きな

アマングスク

イヘヤ

図 5 辺戸のアマングスクの位置 (矢印で示す) とアスムイ (イヘヤ) の位 置。 破線矢印はアマングスクからイヘヤをみた方向(地図は国土地理 院 1992 年 5 月1日発行 1/25,000 地形図を使用) 図 3 辺戸のアマングスク(2010 年9月8日) 図 4 辺戸のアマングスク内の様子(2010 年9月8日)

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石灰岩塊が露出し、樹木と蔓性植物が繁茂していたため、 歩くことが困難な状態であった(図4)。GPS や国土地理 院の地図から確認した位置は北緯 26 度 51 分 37 秒、東 経 128 度 15 分 43 秒の地点であった(図5)。短い踏査 時間ではあったが、拝所を思わせるような香炉などはみ つからなかった。また、外間・桑原(1990)で指摘され ている海からやってきたアマミキヨを意識して海岸方向 を注意して観察したが、樹木に遮られていることもあり、 特に手がかりとなるような情報は得られなかった。 当山(2013)は奥間のアマグスクを調査するなかで、 アマグスクからみることができる神が降臨する(または 神体)と考えられる丘が存在する、または存在する可能 性を指摘している。したがって、アマグスク自体は遥拝 する場所であり、そこからみえる神が降臨する(または 神体の)丘はセットになっていると考えた。そこで、筆 者は 2013 年9月8日に再び辺戸のアマングスクを調査 した。すぐ側の畑からはアスムイ(安須森)の一角が観 察されたが、アマングスクの頂からは樹木に阻まれてア スムイの方向は何も見えなかった。ところが同年 10 月 7日から8日にかけて沖縄島北部と与論島の間を通過し た台風により、沖縄島北部では樹木が倒れたり、塩害で 枯れたりするという大きな被害をこうむった。辺戸のア マングスクにおいても、覆っていた樹木の枝が折れた り、または枯れたりしたが、このことによりアマングスクからアスムイの姿がみえるよう になった。同年 10 月 28 日には辺戸のアマングスクの頂からアスムイの姿(あとで「イヘヤ」 であることがわかる (5) )を確認することができた。 一方、辺戸のアマングスクについては、これまでの文献では場所の明示がなかったが、 老人からの聞き取りによって、場所が明確になった。さらに 2013 年 11 月、国頭村辺土名 在住の研究者親川栄氏は、我々が観察している辺戸のアマングスクに隣接する畑の所有者 UK氏と連絡をとり、この丘がアマングスクと呼ばれていることを確認している。このよ (5)  平凡社地方資料センター編 (2000) などの文献を参照した。 仲松弥秀ノート (沖縄県立図書館所蔵) の 1986 年 6 月に複数の方に聞き取り調査をした資料にはイヘヤと思われる名称について 「伊平屋 (イハ) オー 嶽、 イワオー、 イハ、 イハワゥ嶽 (イハワ御嶽か)」 など複数の名前が記されている 図 6 辺戸から宜名真に向かう国道 58 号 線。 右手はアマングスク付近、 更に 海岸へと続く。 国道沿いの左手沿い にアマングスクからの視界を遮るよ うに丘の稜線が続く イヘヤ 丘の稜線 図 7 上 : 辺戸アマングスクの頂からみる 「 イ ヘ ヤ 」 (2013 年 12 月 8 日 )。 下 : 樹木を取り払った状態でみる 「イヘ ヤ」 の想像図

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うに、これまでの観察や聞き取りなどから、ここを「辺戸のアマングスク」とする結論に至っ た。 2013 年 12 月8日、親川栄氏をはじめ、地元の方々も一緒に辺戸のアマングスクを再度 踏査した。アマングスクは、畳大の大きな本部層の硬い石灰岩の転石が重なるように形成 されており、頂から西側は手前の丘の稜線の樹木に隠れてアスムイをみることができない (図6)。頂部の大きな転石に登ってはじめて、アスムイの姿がみえるようになる。頂の正 面部からみえるアスムイは、「イヘヤ」である(図7)(6)。10 月の台風の影響で、覆ってい た枝葉がなくなり、「イヘヤ」のすがたが、みえるようになったのである (7) 。図4にも示す とおり、アマングスク内には古いソテツの株が散見されることから、以前は裸地に近い状 態であったことが想像される。 おそらく、辺戸の「イヘヤ」が奥間の「チンヌウガミ」に相当し、辺戸のアマングスク が奥間のアマグスクとに対応していると考えられる。つまり、辺戸のアマングスクにも奥 間でみられるような神の降臨するより標高の高い丘とのセットが存在していることが考え られる。おそらく、昔、辺戸のアマングスクの参拝者も、アマングスクの頂からアスムイ の「イヘヤ」を拝んでいたと思われる(8)。 (3)奥のアマングスク 2010 年3月 11 日、国頭村奥の猪垣観察会に参加する機会があった。集合場所の奥の民 具資料館で奥の地名地図をみながら説明を受けていた時に、「奥の地名地図」の中にアマ ングスクが明記されていることを見つけた。沖縄県教育庁文化課編(1983)や名嘉(1996) にも記録がないグスクである。 午後5時前ではあったが、急きょ現地に赴いて調査を 実施した。アマングスクはかつて山側と稜線で繋がって いたと思われ、現在では切り通し道によって切り離さ れたかたちになっている(図8)。グスク内に道はなく、 崖をよじ登るようにして中に入ったが、林内は矮小化し た雑木が繁茂しており、視界が悪く、歩行が困難な状態 であった(図9)。海側に進むと崖になっており、海を (6)  外間 ・ 桑原 (1990) には、 安須杜 (あすもり) のシチャラ嶽、 アフリ嶽、 宜野久瀬嶽 (ぎのくせたけ) の三 つの御嶽が記されているが、 さらにその北西側にあるイヘヤについては触れられてない。 仲松弥秀ノート (沖 縄県立図書館所蔵) の 1986 年6月辺戸で複数の方に聞き取り調査をした資料には 「伊平屋 (イハ) オー嶽、 イワオー、 イハ」 とイヘヤと思われる名称が記されている。 (7)  数年後には再び樹木で覆われて観察できなくなる可能性がある。 (8)  仲松弥秀ノート (沖縄県立図書館所蔵) の聞き取り資料にはトウシの神として 「シザラお嶽、 ヒノクシお嶽、 オ オお嶽、 イハワゥ嶽 (イハワ御嶽か)」 があげられている。 図 8 奥のアマングスク(2010 年 3 月 11 日)

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一望することができた(図 10)。グスク内では、香炉などの拝所を思わせるようなものは 観察されなかった。 一方、8月 25 日から 27 日に奥で実施された祭事「シヌグ」調査のために訪問したとき に再度前記の「奥の地名地図」をみると、アマングスクの近くにタチガミという山名があ ることが分かった。奥の地名に詳しい宮城邦昌氏に聞 いたところ、アマングスクからタチガミをみることが でき、昔はアマングスクから拝んでいたらしい、との ことであった。 2013 年 10 月 28 日、辺戸のアマングスクにおいて、「イ ヘヤ」を確認し、その足で奥のアマングスクの調査を 行った。奥のアマングスクは前記のとおり、林内は矮 小化した雑木が茂っており、頂上からの観察は困難で あった。そこで、タチガミとアマングスクの頂上部を 結ぶ直線上にあると思われる岩に登り、観察をしたと ころ図 11 に示す光景がみられた。もし、アマングスク の頂上部が開けていたら、タチガミはもっとはっきり と姿をあらわすかもしれない。アマングスクとタチガ ミの位置を図 12 に示す。 図 9 奥のアマングスクの内部(2010 年 3 月 11 日) 図 10 奥のアマングスクから海側をみる (2010 年 3 月 11 日) アマングスクの稜線 立神 図 11 上 : 奥のアマングスクの頂部とタチ ガミをみる(2013 年 10 月 28 日)。 下: 樹木を取り払った状態でみる付近 の想像図 アマングスク タチガミ 図 12 国頭村奥のアマングスクとタチガミの位置。 破線矢印はアマングスク からタチガミをみた方向。 破線矢印の起点付近から図 11 上の写真を 撮影した (地図は国土地理院 1992 年 5 月1日発行 1/25,000 地形図を使用)

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宮城ら(2016)には、奥のアマングスクについて、次 のように記されている。「(一部略)アマングスク:奥領 域の北西端に位置する。フパダチバマとユッピバマの境 をなすユッピヌタターの南側に位置する小さな岩山の名 称。頂上にはかつてウコール(香炉)があり、南側のタ チガミにタンカー(遙 ママ 拝)する場所であったと伝え聞く が、現在はウコールなど痕跡は確認できない」(9)。 2013 年 12 月8日、宮城邦昌氏の案内で奥のタチガミ を調査した。その結果、タチガミは、国頭に広くみられる名護層の上に残っている琉球石 灰岩の尖塔だということがわかった(図 13)。そのような意味でも周囲の地形とは際だっ た形をしているものと考えられた。なお、タチガミおよびその周囲には香炉等の拝所と思 われるような痕跡は確認されなかった。 また、タチガミの意味は、「立神」と表されるものと思われる。宮城ら(2016)にも記 されているとおり、奥のアマングスクは、遥拝する場所であり、タチガミ(神体または神 が降臨する)とセットになっているものと思われる。そのような意味では、外間・桑原(1990) のいう「アマミ族が海からやってくる」ということと、今回のアマングスクの観察結果で は異なった見解が導かれることになる。 (4)伊是名島のアマグスク 筆 者 は、 当 山(2013) を ま と め る中で、国土地理院の地図に示さ れる伊是名島の「天城」および「大 野山」については、奥間の事例と 対比して、「アマグスク」と「神山(う ふやま)」の可能性があることを考 えていた(図 14)。 2013 年 11 月 28 日に沖縄県地域 史協議会が伊是名島で開催された。 その日に宿泊場所の宿主のIさん から「天城」と「大野山」につい て次のような情報を得ることがで (9)  宮城ら (2016) はアマングスクの東斜面にアマングスクダーという小さな湿田跡があることを記している。 ウフヤマ アマグスク 図 14 伊是名島のアマグスクとウフヤマの位置 (地図は国土地理院 1992 年 6 月1日発行 1/25,000 地形図を使用) 図 13 タチガミの頂上部からみるアマング スク方面 (2016 年 12 月 8 日)

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きた。 「天城」はアマグスクと呼んでいる。そこは、子ども の時に上って遊んでいた。そこには拝みをする人もいた。 島の外からのようだった。ただ、祖母からは、アマグス クでは遊んでもよいが、近くにあるウフヤマ(大野山) には絶対に入らないようにと言われていた。どうも神様 が降りてくるらしい。また、祖母はウフヤマは語っては いけない山だ、とも言っていた。だから、島外から研究 者がみえても話そうとはしなかったのではないだろうか。 もう、今の時代になって語ることができるようになった のかな。しかし、ウフヤマについては、(祖母も詳しく 話さなかったので)よくわからない、という話が聞けた。 2013 年 11 月 29 日、伊是名島のアマグスクおよびウフ ヤマ付近を踏査した。アマグスクの頂上部には、アンテ ナ施設が設置されており、拝所の痕跡は残っていなかっ た(図 15)。ただ、アンテナ施設の金網の中には賽銭と 思われる 10 円硬貨が2、3個みられた。おそらく、拝 所のあった位置にアンテナ施設が施されたことによるも のと思われる。 頂上部に設置されたアンテナ施設の周囲はリュウキュ ウマツなどの樹木で囲まれており、周囲を見渡すことは 難しい。この頂上部からウフヤマ方向をみると、樹木の 間からその姿を確認することができた(図 16)。 ウフヤマについては、周囲を踏査したが、頂上にあが る道は確認されなかった。伊是名島内の他の山と比較し て、あまり人の手が入ってない状態であり、異なる様相 を呈していた(図 17)。 伊是名島における調査は、限られた時間内における 調査のため、聞き取りをはじめ、十分な資料がそろっているとはいえない。名嘉(1996) は、伊是名島勢理客にアマグスクが分布していることを報告している。上江洲(1989)に は、大野山(ウフヤマ)の山頂(大山うたき〈上の御嶽〉)と大野山の西南麓(タノカミ 〈下の御嶽〉)が報告されているが、アマグスクについては記述がみられない。伊是名島の 図 15 アマグスクの頂上部にあるアンテナ 施設 (2013 年 11 月 29 日) アマグスクの稜線 大山(うふやま)の稜線 図 16 上 : 伊是名島のアマグスクの頂上 からウフヤマをみる(2013 年 11 月 29 日)。 下 : 樹木を取り払った状態 でみる付近の想像図 図 17 ウフヤマを南東側からみる (2013 年 11 月 29 日)

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アマグスクについては重要な御嶽の範中に含まれていな かったことが考えられる。 限られた資料の範囲内ではあるが、伊是名島のアマグ スクとウフヤマは、遥拝する場所と神が降臨する場所と がセットになっているよう思われる。今後、伊是名島の アマグスクとウフヤマについては、さらに調査が必要と 思われる。 (5)阿嘉島のアマグスク 阿嘉島のアマグスクについ ては、沖縄県教育庁文化課編 (1983)や名嘉(1996)にも記 録がないグスクである。 2005 年 1 月 に 阿 嘉 島 を 訪 問し、その帰路の前に「天城 amagusuku」の道路標識を目撃 したことが調査のきっかけと なった。2008 年8月4日、安 渓遊地・貴子氏らと一緒に再 び阿嘉島を訪問してアマグス クの位置(図 19)と拝所を確認し、その後、島の神人にあっ てアマグスクについて教えていただいた。 神人の話によると、アマグスクは屋嘉比島方向 (10) を拝 むのと久場島方向を拝む祠が別々にあり、アマグスク自 体が御嶽ということではない。拝むのは屋嘉比島(方向) と久場島ということ。特に久場島については、島の頂上 に神様が降りてくる。それで、アマグスクからお通しを する。久場島の頂上には香炉がある。そこには毎年阿嘉 島の人が拝みに行っている、ということであった。 (11) (10)  阿嘉島におられる与那嶺正次氏によると屋嘉比島ではなくて、 唐船を拝むところという。 (11)  仲松弥秀ノート (沖縄県立図書館所蔵) の 1981 年 7 月阿嘉島垣花武栄氏 (明治 33 年生) への聞き取り 資料には 「アマグスク アマチヂグスク or  フスチヂヌグスクと古老は云っていた。 毎年清明季に久場島頂上拝 所に詣でるが、 天候悪しき場合はアマグスクにある遥拝所で 『御とおし』 する」 と記されている。 図 18 天城 amagusuku と書かれた道路標 識(2008 年8月4日) 図 20 阿嘉島のアマグスクの祠から久場 島をみる(2015 年 6 月;城間恒宏撮影) アマグスク 図 19 阿嘉島のアマグスクの位置 (地図は国土地理院 1986 年 9 月 30 日発行 1/25,000 地形図を使用)

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また、アマグスクに類する拝所が渡名喜島や久米島にもあるらしいが、と尋ねると、神 人は阿嘉島のアマグスク(久場島とセット)が(この辺では)一番位が高いはずだ、とい う意味の話をしてくれた。 図 20 は、アマグスクにある久場島方向に向いた祠である。向きや位置関係からわかる ように明らかに久場島を遥拝していると思われ、アマグスクは遥拝する場所と考えられ る (12) 。 阿嘉島のアマグスクも、他の地域と同じようにアマグスクは遥拝する場所で、その先に 神が降臨する場所(久場島)があり、遥拝する場所と降 臨する場所のセットになっていることが理解される。し かし、聞き取り調査もまだ中途であり、まだ調査不足の 点は否めない。今後の詳細な調査が待たれる。 (6)渡名喜島のアマグスク 渡名喜島は、2010 年7月 28 日から 31 日の滞在期間 で聞き取り調査を行った。島の古老に話を聞いたところ、 山を指し示しながら場所を教えてくれた(図 21)。昔は、 道があり上まで登れたが、今では山道を利用する人もな く、道は茂みで覆われて入れなくなっている、という。 上に登って確かめたいと話したところ、ハブが生息して おりあぶないのでやめなさいといわれた。また、もし登 るとしても、しっかり準備して、冬の寒い日がよいだろ うと説明してくれた。次回の調査にむけて、7月 30 日、 義中山の北北西において、山道の入口の確認をするため 付近を踏査したが、藪が多く(図 22)、山道は確認でき なかった。 結局、渡名喜島のアマグスクの現場を調査することはできなかったが、当真(1983)に 当地のアマグスクの記述があるので次に記す。 渡名喜村の西海岸側にあり、タカタンシと呼ばれる岩山(標高 63.7 m)から直線距離にして約 200 m南に位置している。グスクの北、南、西側の三面は急傾斜をつくっているが、東側の一面 のみは一段高くなった尾根へと続き、やがてその尾根は標高 137 mの義中山にいたる。〈略〉グス クが立地しているところは標高 55 m、集落との比高 50m を測り平坦面を形成している。古老のは なしによれば、かつてこの平坦面を中心に長方形の石塁が張りめぐらされていたということであ (12)  座間味村史編集委員会編 (1989) には、 天城之宮 〈アマグスク〉 (久場島御通所) と記されている。 図 21 左側は義中山、 中央部がアマグス クのある山、 右側には火守番遺跡 が所在する山がみえる(2010 年 7 月 30 日) 図 22 義中山山頂北北西 200m 付近から 南側を撮影(2010 年 7 月 30 日)

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るが、段々畑築成の際に大部分 の石塁が土どめ用の石材として 取り壊されてしまったというこ とである。このグスクの北北東 約 150 mの距離には、近世の火 番守跡、だと云われる標高 70 mの「ヒータティヤー」の丘が 存在する。 当真(1983)の標高、距離、 方向の説明にしたがって、タ カタンシ、火番守跡、アマグ スクの位置関係を国土地理院 2万5千分の1の地形図で検 討してみた。その結果、地図 上に、タカタンシはA、火番 守はB、アマグスクはCに位 置を特定することができた(図 23)。次に、アマグスクから遥 拝するとしたら、どの聖域を 拝 む だ ろ う か、 仲 松(1983) をもとに検討してみた。仲松 (1983)には、今回の対象(今 は伝承されてないと考えられ る 神 体 ま た は 降 臨 す る 場 所 ) となりそうな御嶽(または神) として、出砂島の御嶽、ニシ ムイ(佐事御嶽)、里(大御嶽)、 大岳(中森ネークヮ嶽)、大本 田(シメー嶽)があげられている。この中から渡名喜島最高峰である大岳および仲松(1983) によって確認され、未解明の大本田の二箇所についてアマ グスクからどのようにみえる か検証してみた。図 23 にはアマ グスクから大岳および大本田方向を点線の矢印で示して いる。国土地理院 2 万 5 千分の1の地形図上に図 23 に示す点線矢印上に沿って5mm(1 cmは 75 mに相当)ごとの標高を記し、グラフ化した(図 24)。

A

C

B

図 23 渡名喜島のアマグスクの位置とその周辺。 A : タカタンシ、 B : 火番 守跡、 C : アマグスク、 点線の矢印はアマグスクから大岳や大本田 方向をみる場合の視点方向 (地図は国土地理院 1987 年 5 月 30 日発行 1/25,000 地形図を使用) 0 50 100 150 200 0 125 250 375 500 625 750 875 1000 1125 1250 1375 1500 標 高 ( m ) 距離(m) 大岳 大本田 図 24 アマグスクから大岳および大本田方向をみた場合の視線

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図 24 から明らかなように、大岳、大本田の山頂部は、アマグスクからでは途中の義中 山に遮られて見えないことがわかった。これら二つの御嶽を外すと、アマグスク(阿嘉島) から離れた島(久場島)を遥拝するという点を考慮すると遥拝する対象の場所として、出 砂島の可能性がある。また、アマングスク(辺戸または奥)の向かいにある高い山頂(ア スムイまたはタチガミ)を遥拝するというタイプと同様であればニシムイの可能性も出て くる。里の御嶽については、仲松(1983)にもあるように里は集落と深いつながりがある 御嶽であることから、神が降臨する所または神体とするような聖域としては考えにくい。 渡名喜島のアマ グスクについては、伝承もほとんど残ってないこともあり、検証は困 難である。本来、アマ グスクに立って周囲を観察しなければならないが、実際現場にお ける調査は実現しなかった。図面上である程度検討はできるが、やはり現場で直接観察し なければ、見落としてしまうこともあると思われるので、今後の聞き取り調査も踏まえた 現地調査に期待したい。 2.考察 外間・桑原(1990)は、稲作をたずさえて[九州から]南下してきたアマベ[海人族]が、 尊称されるようになってアマミク[神]になったという考察をしている。また、アマング スクを[アマミクの]居住地として解釈している。 今回、当山(2007,2013)の報告を皮切りに、外間・桑原(1990)とは異なる視点から 考察すると、筆者が改めて調査したアマングスク(アマグスク)は、外間・桑原(1990) のいう「アマミク神」とは別の性格をもっている可能性が考えられた。 (1)「アマングスク」のグスク名称について 最初に、アマングスクの名称の意味を検討したい。名称はアマンとグスクに分けること ができるだろう。アマン(13)については、おそらく当山(2007)に報告した創世神話とも関 係しているかもしれない (14) 。このことについては、引き続き課題として残しておきたい。 一方、グスクについては、名嘉(1996)の研究史の中で諸説が紹介されているが、大き く分けると防御的な性格と聖域的な性格とに分けられる(當眞,1997;当山,2013)。今 回のグスクは、どちらかというと聖域的な性格をもつものではあるが、御嶽というところ まではいかない、石垣も施されていない小さな遥拝場所である。阿嘉島のアマグスクにつ いては、仲松ノートに「アマグスクにある遥拝所」と記されており、アマグスクから遥拝 (13)  オカヤドカリを示す 「アマン」 と神話上の 「アマミキヨ (アマミク)」 は別物であることは、 崎山 (1993) によ って指摘され、 当山 (2007) ではそれを支持している。 それがアマングスクの 「アマン」 とどのように関係し ているかについては、 別の機会に検討したい。 (14)  「アマン」 に関する崎山氏の論考は崎山 (2017) を参照されたい。

(14)

するという意味から、前記の遥拝する場所という性格を裏付けていると考えられる。 以前、歴史研究者の糸数兼治氏にアマングスクについて説明すると、彼は「ここでいう グスクは美称ではないだろうか」と助言してくれた。筆者は、アマグスクについては、聖 域的ではあるが、御嶽のような聖域とまではいかないと考えており、糸数氏のいう「美称」 が妥当と考えている。 奥間のアマグスクにはアマンチヂと称される本体があり ( 当山,2013)、それは例えば アマン丘頂(地形的な形を表す)と意味することになる。このアマン丘頂を美称で呼ぶと したら「アマングスク」ということにならないだろうか。 いずれにしても、今回のアマングスクやアマグスクのグスクは「美称」 (15) とする性格を持 つものとして扱うことにする。 (2)アマングスクについて アマングスクは、どのような性格をそなえたグスクだろうか。奥間のアマグスクでは拝 所として、辺戸のアマングスクや伊是名島のアマグスクにおいては拝んでいたという伝承 が伝わっている。一方、阿嘉島のアマグスクは久場島を、奥のアマングスクはタチガミを 遥拝していることが確認されている。これらのことからアマグスクは、御嶽というよりは 遥拝する場としての性格が強いことが考えられる。それでは、どこを遥拝するかというこ とである。すでに奥間アマグスクについては、アマグスクからチンヌウガミを遥拝する可 能性が高いことが当山(2013)によって指摘されている。今回はそのことを考慮しながら 注意して調査を行った。その結果は、奥のアマングスクや阿嘉島のアマグスクではすでに 述べたとおりであるが、新たに、辺戸のアマングスクにおいてはアスムイ(イヘヤ)、伊 是名島のアマグスクでは大野山(ウフヤマ)を遥拝している可能性があることがわかった。 ただし、調査した渡名喜島については、現場に入れないこともあり、また伝承も伝わっ ておらず手がかりを得ることはできなかった。阿嘉島のアマグスクのように離れた島を遥 拝することも考慮すると、渡名喜島においては出砂島も視野にいれた調査が必要である。 いずれにせよ、アマングスクは、それ自体が拝所というよりは、地理的に離れた場所に ある神が降臨する所(または神体)を遥拝する場所であるということである。このように 遥拝する場所と神が降臨する場所(または神体)の二つの丘、または山がセットとして存 在しているということである。これらの地形的な存在の形態を「対構造」と呼んでおきたい。 (3)対構造について 沖縄諸島でみられたアマングスクのような対構造は、奄美大島笠利に所在する「アマン (15)  他には 「尊称」 という考え方もあると思われるが、 ここでは 「尊称」 も含んだ広い意味でとらえたい。

(15)

デー」にもみられる。 町(2010)によると、「アマンデー」 を漢字で解すると「奄美嶽」とし、 古くは国絵図の「あまみ嶽」という 地名が、現在のアマンデーとほぼ重 なった位置にあると記し、大島北部・ 笠利の節目村落背後の小山とされて いる。現地で確認すると、図 25 のA の位置に文化財指定の標識がみられ、 その表示には「アマンデー」の文字 が確認され、石碑には「阿摩美姑天 神最初天降地 (16) 」と記されている(図 26)(17)。このように、アマンデーの位 置については、文化財指定の標識や 石碑(18)があることから、図 25 のAが 「アマンデー」の場所と認識されていると考えられる (19) 。 奄美のアマンデーは、おそらく沖縄のアマングスクと 同様な性格を有しているものと考えられる (20) 。名称の「ア マン」は共通し、「デー」は、嶽や岳にかえられるとしたら、 沖縄の奥間にみられるような「アマンチヂ」の地形を示 す「チヂ」と類しているかもしれない。アマンデーを遥 拝する場所と仮定した場合、神が降臨する場所としては 図 25 のBに示す大刈山の山頂部が考えられる。2007 年 8 月 28 日に大刈山の山に登ったところ、頂上には「『阿摩美姑天神最初天降地』 奄美大島 文化発祥地 (故)昇曙夢著 大奄美史より」と刻まれた石碑(21)とその側には無銘の石があっ た(図 27)。 (16)  町 (2010) によると、 明治 34 年、 「節目村村中」 九名によって奉建されという。 また町 (2010) には石碑 の持つ意味についての考察も記されている。 (17)  阿摩美姑降臨については、 湯湾岳との関係について昇 (1949) にも詳しく記されているが、 アマンデーの 情報は少ない。 (18)  外間 ・ 桑原 (1990) には 「大刈山中腹のアマンデー (奄美岳) にある石碑」 と記されている。 (19)  国土地理院の地図ではアマンデーや奄美嶽(岳)の名称は無く、大刈山(標高 180 m)の表示になっている(図 25)。 (20)  外間 ・ 高桑 (1990) は、 アマンデーはアマングシクの類縁語とし、 変形したものと考えている。 (21)  「阿摩美姑天神最初天降地」 と記されているがアマンデーの石碑をもとに作成したと思われる。 図 26 奄美大島笠利のアマンデー。 奄美 市の文化財に指定されている(2006 年 8 月) B A 図 25 奄美大島笠利のアマンデー (A) と 「阿摩美姑天神最初天 降地」 の碑が建つ大刈り山の頂上部 (B)。 破線矢印はア マンデーから山頂部をみた方向 (地図は国土地理院 1989 年 8 月 1 日発行 1/25,000 地形図を使用)

(16)

また、山頂に向かう登山道には鳥居が建られていることから (図 28)、山頂付近は聖域としての性格を持つものと考えられ る。図 25 のA地点からB地点が見える(遥拝できる)かどう かを調べるためAからB地点の簡易的な地形断面(22)を作成した (図 29)。図 29 で示されるように、もし樹木がなければA地点(ア マンデー)からB地点(大刈山山頂)を遥拝できるはずである。 すなわち、山頂とアマンデーはセットになっていることが考え られ、おそらく古い時代は神が降臨する場所として山頂を遥拝 していた可能性がある。 このように、奄美大島笠利のアマンデーについては、沖縄諸島にみられるアマングスク と比較検討した結果、アマンデーと大刈山山頂とが、遥拝する場所と神が降臨する場所と いう対構造になっていることが考えられた。 アマンデーに関しては、対構造を示唆する伝承などはほとんどないものの、沖縄島にみ られるアマングスクのように、そこからより高い頂きを遥拝することができるという地形 的な特徴に着目すれば、沖縄諸島で観察された対構造と同様なものをなしていると考えら れる。 まとめ アマングスクについては、外間・桑原(1990)において詳しく述べられているが、その 後の研究は皆無に等しい。これは、史料をはじめ、伝承もほとんど残っていないことが、 (22)  A地点からB地点は、 樹木に被われているため、 それを取り除いた状態で観察する。 図 27 大刈山の山頂に施された 「阿摩美 姑天神最初天降地」 を記した碑と 無銘の石(2007 年 8 月) 図 28 山頂への登山口にある鳥 居(2007 年 8 月) 0 50 100 150 200 0 125 250 375 500 標 高 ( m ) 距離(m) アマンデー(奄美大島) 図 29 奄美大島のアマンデーから大刈山方向をみた場合の視線 (点線 矢印)

(17)

研究の進展を妨げているものと思われる。今回、筆者は、少ない史料や伝承をもとに、現 地調査を踏まえて考察した結果、アマングスクは、地形的には丘または山になっており、 遥拝する場所として機能していたのではないか、という結論に至った。その遥拝する対象 として、遥拝する場所より高い頂きを有する丘または山を、神が降臨する場所として拝ん でいることが考えられた。筆者は、これらの相対する地形的な存在形態を便宜的に「対構造」 と称した。ただし、今回は、それを検証し、詳細に検討をするには到らなかった。「対構造」 については、今後の調査の視点として、暫定的なものとしておきたい。いずれ、奄美諸島 や沖縄諸島に分布するアマングスクの今後の調査によって、明らかになっていくものと思 われる。 文献 平凡社地方資料センター編(2000)辺戸岳・安須森.pp.483-484.平凡社地方資料センター編,日本 歴史地方大系第 48 巻 沖縄県の地名.平凡社. 外間守善・桑原重美(1990)沖縄の祖神アマミク.築地書館.206p. 町健次郎(2010)明治期における奄美大島開闢神話.沖縄民俗研究,(28): 57-79. 宮城邦昌・島田隆久・斎藤和彦(2016)沖縄島国頭村奥の伝統的地名.沖縄大学地域研究所彙報,(11): 7-80. 仲松弥秀(1983)渡名喜村落の形成.pp.691-709.渡名喜村史.渡名喜村 名嘉正八郎(1996)図説 沖縄の城 よみがえる中世の琉球.那覇出版社.290p. 昇曙夢(1949)大奄美史.奄美社.576p. 沖縄県教育庁文化課編(1983)沖縄県文化財調査報告書第 53 集 ぐすく グスク分布調査報告(Ⅰ) ──沖縄本島及び周辺離島──.沖縄県教育委員会.189p. 崎山理(1993)オセアニア・琉球・日本の国生み神話と不完全な子─アマンの起源─.国立民族学博 物館研究報告,18(1): 1-14. 崎山理(2017)日本語「形成」論-日本語史における系統と混合.三省堂.293p. 当真嗣一(1983)アマグスク.pp.155-156.沖縄県文化財調査報告書第 53 集 ぐすく グスク分布 調査報告(Ⅰ)──沖縄本島及び周辺離島── . 沖縄県教育委員会. 當眞嗣一(1997)いわゆる「土から成るグスク」について─沖縄本島北部のグスクを中心に─.沖縄 県立博物館紀要,(23): 1-18. 当山昌直(2007)琉球のオカヤドカリ類に関する民俗的伝承について(試論Ⅱ).史料編集室紀要,(32): 1-20. 当山昌直(2013)国頭村奥間のアマグスクにおける民俗的調査(予報).沖縄史料編集紀要,(36): 41-60. 上江洲均(1989)村と御嶽.pp.249-300.伊是名村史編集委員会編,伊是名村史下巻(島の民俗と生活). 座間味村史編集委員会(1989)信仰.pp.399-430.座間味村史編集委員会編,座間味村史 中巻.

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