明治時代の手話関連語彙 古河太四郞・渡邊平之甫・⼩⻄信⼋
28
0
0
全文
(2) (7) ⼩⻄は第 5 期の著作「聾唖教授法の五⼤別」 (『⼩. るから無断で寄宿舎や教室に入らぬよう指示」(11)し. ⻄信⼋先⽣存稿集』)で、聾唖教授法として「手真似. たものだととらえ、 「⼩⻄が手話を否定している」と. 法」、 「指字法」、 「発音法」、 「聴音法」、 「合併法」の 5. 解釈した。しかし、当時の「手話」が現在の「手話」. つを挙げ、 「手真似法」については次のように述べて. と同義であると考えてよいのだろうか。. いる。 3.3「手話」とは何か 「訓辞」とよく似た場⾯で「手話」の⾔葉が用いら. 手真似法(The Manual Method)は⽣徒を教ふるに手 真似、指字及び筆談を以て重要なる方便として、⼼意. れている例がある。片桐貞吉が書いた「唖⽣申合せ」. の発達 ⽂書の了解、筆談の自在を与へるを以て結局. にみられる例で、これは第 4 期に発行された『唖⽣同. の目的とす 手真似、指字及び筆談を用ふる割合は各. 窓会報告』第 2 回に収められている。片桐は東京盲唖. 校相違を免れざれども其目的に至りては同一なり 手. 学校唖⽣同窓会を設立した三人のうちの一人で、初. 真似に自然のと人為のとあり、承知を示すため頭を上. 代会⻑を務めた人物である。. 下に動かし、不承知を示すため頭を左右にふる如きは. 「唖⽣申合せ」には 23 か条の注意事項が書かれて. 各国人が同一を約せずして同一に用ふる類を自然と 云ひ、我聾唖⽣は⽗親を示すに拇を用ひ⺟親を示すに. いるが、第 5 条、第 15 条、第 17 条に「手話」という. は子指を用ふるに、英国聾唖⽣は善を示すに拇を用ひ. ⾔葉がみられるため、この部分を次に引用する。 (平. 悪を示すに子指を用ふる類を人為と云ふ(8)。. 仮名部分は原⽂では片仮名。). このことから、当時、教育用語としては「手真似」. 第五 男⽣と女⽣と外出して道に立ちて手話して居る. が用いられたことがうかがえる。そして⼩⻄は、 「手. 可らす. 真似」には「自然」のものと「人為」のものとがある. 第十五 男女唖⽣は其両親兄弟等が貧困なる事、懲罸 を受けたる事 業の悪事を他の唖⽣徒に手話致す可ら. と考えていた。ここで示された「自然」の例は、今日. す. から見れば妥当とはいいにくいが、当時のとらえ方. 第十七 唖⽣徒諸君が道を歩行して家作の新古着物の. を知るうえで興味深い。. 美悪と人の貧富貴賤を笑ひて手話す可らず(12). 3.2「手話」を否定しているとした例(1). 「訓辞」と「唖⽣申合せ」の例は、いずれも「手話. 前田(1994)は、 「⼩⻄が手話を否定している記述. はいけないが、⼝話や筆談ならいい」という意味では. (9) は多い」 とし、第 6 期にあたる『殿坂の友』第 16. ないようである。こういった話をすること自体がよ. 号、 「講堂講話」の中の「訓辞」にみられる「手話愈. くないのであり、伝達形式の一つである「手話」を選. 多ければ、修業愈少し」という⾔葉を紹介している。. 択することを禁じたものではないといえよう。. この部分を、その少し前から引用する。 (「愈」は「い. では、ここで使われた「手話」の意味は何なのか。. よいよ」と読む。下線部は引用者による。). なぜ「手真似」が使われなかったのか。 「手話」は「し ゅわ」と読むのか、「てばなし」と読むのか。. 本校卒業⽣と雖も寄宿舎へ無断に出入せないで入る. このように、 「手話」の意味が曖昧なため推測の域. には舎⻑に来意を告げ、許可を請ひ帰るには亦暇を告. を出ないが、 「訓辞」の例をもって、 「⼩⻄が手話を否. ぐるを例とし度し、又本校に来る時も無断に各教室へ 入る事なく、先づ校⻑初め職員に来意を告げ、⾯会の. 定している」とするのは適当ではないと考える。. 用事有る時、受持教員に⾯会の用なる⽣徒に⾯会の許. 4. ⼩⻄の「⼿真似」観. 可を得て後⾯会するを例とし、急用に非れば休息時間 を待て⾯会すべく、⾯会には成るべく応接所に於てし 各教室の妨を避くる様⼼掛けられたし。又現在⽣徒も. 4.1「手話」を否定しているとした例(2). 教員の許可なくして外来訪客に⾯会せざる⼼掛有り. 前田(1994)は、 「以下の記述も手話を否定する⼩. たし。一日と一五日とに来校の旧卒業⽣諸君に於ても. ⻄の考えを示すものである」(13)とし、第 5 期の「読. 妄に各教室に入り手話をして修業を妨げざる様⼼掛. 方」 (『⼩⻄信⼋先⽣存稿集』)から次の部分を引用し. けられたし。. ている。これは、 「⼩⻄校⻑が唖⽣教員練習科⽣に対. 手話愈多ければ、修業愈少し(10)。. し講演されたるものの抄録」(14)に収められたもので. ここでは「手真似」は用いられず、 「手話」が用い. ある。(下線は引用者による。下線部の「⾔話」は、. られている。前田はこの部分を、 「卒業⽣に対しては. 「⾔語」の誤植の可能性がある。). 来校した時に教室に入って手話をするのは迷惑であ. 39.
(3) このように、最初に「手真似」を使って説明するの. 聾唖に⾔語を教ふるに二法あり、符牒(手マネ)を 用ふると尋常の⾔語を用ふると是なり、聾唖は吾人交. はいいが、⾔語がわかるようになれば「手真似」を禁. 際上最も要用にして最も簡便の⾔語を欠きたり、然れ. 止すべきだと⼩⻄は主張した。その理由は、先に「手. ども特別の教育を受けざるも符牒を用ふる時は相通. 真似」を用いてしまえばいつも楽な「手真似」を使用. ず、或は通ぜざることあり、符牒は⾔語の根源にして. するようになり、 「⾔語」が身に付かなくなってしま. ⾔話の便あるに及んで廃せられたるものなり、故に⽂. うと考えたからである。. 化の度卑き所には⾔語少くして符牒多し(15)。. これとよく似た例として、第 5 期の「聾唖の⽗⺟の. 符牒に自然と人為との二あり、自然の符牒は各国聾 唖殆んど皆相通ずるものにして国の異同⾔語の相違. ⼼得」 (『⼩⻄信⼋先⽣存稿集』)が挙げられる。そこ. は少しも妨無きが如し(後略). には⽗⺟の⼼得が 16 項目書かれているが、そのうち 「手真似」の⾔葉がみられる 3 項目を次に引用する。. 引用⽂の最初に「符牒(手マネ)」とあることから、 ここで用いられている「符牒」は「手真似」と同義で. (2) 手真似、符牒に慣れ互ひの意思の交換を自在な. あると思われる。. らしむる工夫を要す。 (6) 夙に⾔語を教ふることを努め、既に⾔語を使用. 前田は下線部を指し、 「手話(符牒)は『⾔語の便. するに至りては手真似符牒を廃止することを努むべ. あるに及んで廃せられたるものなり』という⾔辞か. し。 (後略). ら手話主義者ではないことが明白である」(16)と述べ. (10)手真似には種々ありと雑[ママ]ども、之を⼤別. た。しかし、この記述だけから判断するのは早計では. すれば人為と自然との二つとす。人為とは各国に於て. ないだろうか。. 異なるも、自然の方は殆んど一様なるを云う、自然の 方は常人も之を使用し、各国にも通ずる如きものなれ. 4.2 言語教育における「手真似」の使用. ば之を奨励するは可なれども、人為の方は成る可く早. 前田が「読方」から引用した部分とほぼ同内容の記. く之を廃し、発音又は筆談に熟せしむるを宜しとす、. 述が、第 3 期の「聾唖教育」(17)にもみられる。それ. 快、痛、諾、否の如きは通常人も之を容貌に顕はすこ. らを比較すると、第 5 期では「符牒(手マネ)」と書. とあり、⺟親が幼児に接する時に自ら使用するもの亦 少からず、此の如きは禁ぜざるも可なり(19)。. かれたものが、第 3 期では「符牒」であった。また、 第 5 期の「符牒に自然と人為との二あり」の部分は、. (2)では「手真似、符牒」、 (6)では「手真似符牒」、. 第 3 期では「人為」ではなく「人造」が使われており、. (10)では「手真似」が使われており、やはり用語は. 用語に若干の変化があったことがうかがえる。. 定まっていない。. また、 「自然の符牒は各国聾唖殆んど皆相通ずるも. これをみれば、⼩⻄は「互ひの意思の交換を自在」. のにして国の異同⾔語の相違は少しも妨無きが如し」. にするために「手真似」を使用することは必要として. の部分は第 3 期にもみられ、欧米留学を経ても「自然. いたことがわかる。また、 「自然の方」は「常人」も. の符牒」のとらえ方は変わらなかったのではないか. 使用するからとそれを容認し、 「人為の方」は「成る. と推察できる。. べく早く之を廃し、発音又は筆談に熟せしむるを宜. さて、⼩⻄の「手真似法」観は、第 3 期の著作「聾. しとす」と述べ、なるべく早く「手真似」を廃止し、. 唖教育附発音教授」の次の部分によく表れていると. 発音や筆談を上達させるのがよいとした。. 思う。(平仮名部分は原⽂では片仮名。). 「聾唖教育附発音教授」は学校教育、 「聾唖の⽗⺟の ⼼得」は家庭教育について書かれているため単純な. (前略)是等の⾔語を初て解釈するには、 (中略)之に. 比較はできないが、第 3 期と第 5 期の考え方に⼤き. は彼等は勿論、吾人も多く慣用する手真似あり、最初 には此手真似を以て解釈するも可なり、唖⽣に⾔語を. な違いは認められないようである。. 教ふるに手真似を以てするは甚だ望ましき事に非ら. 以上から、⼩⻄は、⾔語がわかるようになれば「手. ざれども、慣用の久しき劇に之を禁止するも彼輩の為. 真似」を禁止すべきだと考えていたが、最初に「手真. め得策にあらず、故に之を以て⾔語を了解せしめたる. 似」を使って説明することは可としていたことがう. 後は断じて之を禁止すべし。然らざれば先入主となり、. かがえる。このような考え方をもって「手話を否定し. 易きに馴れて⾔語を実用すること少なく、従ひて成功. ている」といえるだろうか。確かに、新たに「手真似」. を見ること難しとす、若夫れ唖⽣の為めに新に手真似. を工夫することには批判的であったが、 「手真似」自. を工夫する如きは予は断じて無益の労と⾔はんのみ. 体を否定していたわけではなかったと考えるべきで. 。. (18). あろう。. 40.
(4) ところで、⼩⻄が「快、痛、諾、否の如き」を「自. 例は、 「手真似」を擁護する論述の前置きとして書か. 然の手真似」に⼤別できるとしたのは、 「手真似」、 「符. れていることから、これは⼩⻄の考えというよりも、. 牒」とは手を使って表すものに限らず、もっと広いも. 当時の一般的な考え方を書いたものという感じを受. のだととらえていたからではないかと想像できる。. ける。. また、 「符牒」が「手真似」よりも広い意味で使われ. 5. 樋⼝⻑市と東京聾唖学校. た時期があった可能性もあり、このことについても 今後考えていければと思う。. 5.1 樋⼝⻑市からみた⼩⻄の言語教育観 前田(1994)は、 「⼩⻄は手話論者であると誤解さ. 4.3 欧米留学後の「手真似」観. れていたこともあったようである」(24)とし、その例. ⼩⻄は欧米留学を経ても「自然の符牒」のとらえ方. として樋⼝⻑市が書いた「正誤弁」を挙げている。し. は変わらなかったようだと先に述べた。しかし、 「手. かし、 「正誤弁」からの引用はせず、 「(樋⼝は)誤解. 真似」を擁護しなければいけないという思いは、欧米. を解くと題し、⼩⻄が手話に反対していたこと、挨拶. 留学後むしろ強まっているようである。. 程度は手話でやっていたのでそれが誤解されたのだ. ⼩⻄は、第 5 期には「手真似」の禁止について明確. ろうと述べている」(25)とのみ紹介している。樋⼝は. (20) な批判を述べている。 「聾唖教授法の五⼤別」 では、. 本当に「⼩⻄が手話に反対していた」と書いたのだろ. 手話を否定したミラノ決議に対し、 「此決議は果して. うか。. 聾唖自身に便利たり幸福たるか俄かに判じ難きもの. 樋⼝⻑市は、⼩⻄の後任として東京聾唖学校⻑を務. あり」と述べ、遠回しではあるがミラノ決議への疑問. めた人物であり、 「正誤弁」は『盲唖教育の師⽗ ⼩⻄. を呈した。そして、聾唖者同士の間にまで「手真似」. 信⼋先⽣ ⼩伝と追憶』に収められている。. を厳禁しようとするのは「無用の干渉」であってむし. 樋⼝は「正誤弁」で、 「時折耳にすることのある先. ろ「残酷の感」すら覚えるとし、 「手真似」の厳禁は. ⽣に対する誤解について、二三解明しようと思ふ」と. 「教育者の単純なる理論」であるとも批判している。. 述べ、その最⼤なる誤解は「先⽣を以て聾唖⾔語教育. また、同じく第 5 期の「欧米聾唖の教育概観」(21). 上の手話論者と為す誤解である。先⽣は手話論者で. では、 「独逸流」いわゆる「⼝話法」をやんわりと批. はなく、実は筆談論者であり⼝話論者であつたので. 判し、聾唖者にとっての「手真似」の廃止とは、日本. ある」(26)と語っている。ここには「聾唖⾔語教育上. 人が日本語を禁止されたようなものだと述べている。. の手話論者」と書かれてあり、 「⾔語教育上の」とい. さらに、 「唖ばかりから出来て居る会」が独逸政府に. う前置きがあることに注意する必要がある。. 向かって「手真似」を認めるよう建白したことに触れ、. また、「正誤弁」には次のような記述も見られる。. 「独逸流」は聾唖者にとって喜ばしいことではないの で、自分もその方法には躊躇していると⼼情を語っ. 畢竟するに、手話は自然的なるは教育的手段として. ている。. 用ふるも可なれど、方法的手話の如き教師の勝手に創. さて、⼩⻄の「手真似」観を考えるにあたり、もう. 造したるは排すべく、聾唖者間の慣用的手話は、これ. 一つ触れておかなければならないことがある。それ. を彼等の間に許すべくまた教育上にも利用すべしと. は、 「手真似」の必要性を認識していた⼩⻄ではある. いふのである(27)。. が、一方で「手真似」を見下したかのような表現も残. ここから読み取れるのは、⼩⻄は教師が勝手に創. していることである。4.1 で紹介した「読方」の引用. 造した「方法的手話」は廃止するべきだと考えていた. ⽂には、下線部に続いて「⽂化の度卑き所には⾔語少. が、 「自然的なる」手話、 「聾唖者間の慣用的手話」を. (22) くして符牒多し」 (⽂化が低い所では、⾔語が少な. 教育手段として用いることは認めていたと、樋⼝が. く符牒が多い)という記述があり、 「聾唖教授法の五. みていたことである。つまり樋⼝は、⼩⻄を「聾唖⾔. ⼤別」には、 「畢竟手真似は⾔語発達せざる野蛮の余. 語教育上の手話論者」とみなすことは誤解だと述べ. (23) 習にして人⽂の進むに従ひ漸次廃止するもの」 (つ. ているが、 「⼩⻄が手話に反対していた」と述べてい. まり「手真似」とは、⾔語未発達な野蛮な習慣の名残. るわけではない。. であり、⽂明が進むに従い廃止するものである)とい. とはいえ、⼩⻄は「符牒」、 「手真似」を「自然」と. った記述もみられる。⼩⻄のこの「手真似」観につい. 「人為」の二つに分けたが、樋⼝は「手話」を「自然. ては、当時の社会や教育界における「手真似」観とも. 的」、 「慣用的」、 「方法的」の三つに分けているため、. 併せて考察していく必要があると考える。特に後の. 41.
(5) 樋⼝からみた⼩⻄の⾔語教育観が正しいかどうかは. つまり、誰が見ても「なるほど」とわかるのが「自然. 慎重に判断しなければいけないだろう。. 的手話」、聾唖者同士の社会共通の⾔語となったもの. ところで、 『盲唖教育の師⽗ ⼩⻄信⼋先⽣ ⼩伝と. が「慣習的手話」、⽂章の順に並べたものが「方法的. 追憶』は⼩⻄の追悼集であり、⼩⻄が永眠した 3 か月. 手話」と考えられていたようである。. 後の昭和 13(1938)年 10 月に発行されている。これ. ここでは「慣用的手話」ではなく「慣習的手話」と. は、聾者関係の 3 団体(日本聾唖教育会、社団法人日. いう⾔葉が用いられているが、すぐ後の段落には次. 本聾唖協会、東京聾唖学校同窓会)が追悼特集号を合. のような記述もみられることから、この二つは同じ. 同で編集し、それぞれの機関雑誌の付録別冊として. 意味として用いられていた可能性が高いと考えられ. 発行したものである. る。 (「天爾波」は「てには」、つまり助詞の「てにを. 。. (28). 樋⼝の「正誤弁」はその冊子に収められているので. は」のことだと思われる。). あるが、不思議なことに「正誤弁」には追悼の⾔葉が. 本校に於ても最初より自然的及慣用的手話を採用し. ない。そのため、これが追悼特集号のために書かれた. 来れり、然るに⽣徒の増加し慣用的手話の多きを加ふ. ものだろうかという疑問が残る。冒頭に「他の寄稿者」. るに従つて取捨選択の必要を⽣じ、特に教授用語とし. という⾔葉がみられることから、これが何らかの. (29). て読本の解釈をなすには天爾波を加へ過去現在未来. 冊子に投稿するために書かれたものであることは想. の時を示す語を加へざるべからざるより自然に方法. 像できるが、それがこの追悼特集号のためだったと. 的手話を馴成せり、教師等は常に手話の統一に注意し. いう確信はもてない。いつ、何のために「正誤弁」が. 各自が工夫したる所及び⽣徒等が使用し居る所の内 より適良なるを選びてこれを教授用語としたり(32). 書かれ、それがなぜ追悼集に載ったのだろうか。逆に、 もし特集号のために書かれたものだったならば、な. ここからは、東京聾唖学校では最初から「自然的手. ぜ追悼の⾔葉がないのだろうか。. 話」、 「慣用的手話」は用いられていたが、教授用語と. 樋⼝は昭和 12(1937)年に東京聾唖学校⻑の職を. するには助詞や時制を加えざるを得ず、次第に「方法. 辞しており、翌年⼩⻄が永眠した頃には⽂部省視学. 的手話」が工夫されるようになったことが読み取れ. 委員として川井訓導事件に関わっている(30)。こうい. る。. ったことも「正誤弁」の謎と関わりがあるのかもしれ. ところで、忘れてはいけないのは、 『六十年史』に. ない。. は「発音及び⼝談」についての記述や、⼩⻄が「筆談 主義」であったという記述もみられることである。. 5.2 東京聾唖学校における「手話」の使用. 「⼝話科の⽣徒には『発音日記』と題して之を持たし. 「自然的手話」、 「慣用的手話」、 「方法的手話」につ. めて朱字を墨字に改むるによつてその進歩を自覚せ. いて、東京聾唖学校『六十年史』では次のように説明. しめ」(33)といった記述もある。また先に述べたよう. されている。. に、「手真似法」は「⽣徒を教ふるに手真似、指字、. 抑も所謂手話は聾唖者には殆んど固有とも称すべき. 筆談を以て重要なる方便」とする教授法であり、 「手. ⾔語にして家庭にありてはその⺟及び周囲の人との. 真似」だけを用いる教授法ではないとされていた。. 間の交際は一にこれによりて行はる、しかも其方式極. 前田(1994)は東京聾唖学校の様子が書かれた⽂献. めて自然にして人為的の技巧に乏しく何人が見るも. を引用し、 「⼩⻄が手話を否定しているにもかかわら. 「成る程」と肯かるゝが多し、世に自然的手話(Natural. ず、手話にとって替わる具体的な方法が存在なかっ. Sign)と称するもの即ちこれなり、而して斯かる語を. たからか、実際東京聾唖学校では手話が主に使用さ. 有する聾唖者同志が相会する場合には、その語は漸次 普通性を帯び来りて彼等社会共通の⾔語となりこゝ. れていたのである」(34)とまとめている。今、このま. に所謂慣習的手話(Conventional Sign)を⽣ず、然るに. とめに対する評価を行うことは難しく、今後の課題. これ等手話は一般の評の如く、「⽂法もなく⽂章にも. の一つとしたい。. ならず」唯単語を一定の秩序なく羅列するのみ、従つ. 当時の学校における「手真似」、 「手話」の使用状況. てそのまゝにては常人に通用せざるは勿論之を⽂章. はどうだったのか。また⼩⻄と他の教師間に考え方. に直訳するも亦用をなさず、是に於て⽂法に適ふやう. の相違はあったのだろうか。こういった点について. 品詞を分ち数性格等を附し普通の⽂章の順に排列し. も今後調べていければと思う。. たるが即ち所謂方法的手話(Methodical Sign)にして、 手話法(中略)は即ちこれなり. (31). 42.
(6) 6. おわりに. しの花』 『殿坂の友』第 2 巻、明石書店、平成 24(2012) 年、360〜395 ページ (4) 「読方」 (明治 38(1905)年) 『⼩⻄信⼋先⽣存稿集』昭. ⼩⻄は、⾔語教育において全⾯的に「手真似」を使. 和 10(1935)年、181〜186 ページ. 用する考えではなかったが、 「⾔語」による意思疎通. (5)樋⼝⻑市「正誤弁」 『盲唖教育の師⽗ ⼩⻄信⼋先⽣ ⼩. が困難な段階における「手真似」の必要性は認識して. 伝と追憶』昭和 13(1938)年、33〜36 ページ. いた。また、 「手真似」の中でも、 「自然」のものは重. (6)⼩川克正「⼩⻄信⼋年譜稿」岐⾩⼤学教育学部治療教育. 視し、 「人為」のものには批判的であった。このよう. 研究室『治療教育研究紀要』第 16 号、平成 7(1995). に⼩⻄の「手真似」観は単純ではなく、 「⼩⻄が手話. 年、16〜19 ページ. を否定している」という前田の指摘は適当ではない。. (7) 「聾唖教授法の五⼤別」(明治 34(1901)年) 『⼩⻄信⼋. また、第 3 期、第 5 期に⼩⻄が用いた教育用語は「手. 先⽣存稿集』昭和 10(1935)年、89 ページ (8)同上、90 ページ. 真似」であった。この時期、 「手話」という⾔葉が「手. (9)前掲(2) 、61 ページ. 真似」とは別に用いられたことを考えると、この二つ. (10)前掲(3) 、54 ページ(復刻版 386 ページ). には使い分けがあったはずである。前田が「訓辞」で. (11)前掲(2) 、61 ページ. 使われていた「手話」の例をもって考察を行ったこと. (12)片桐貞吉「唖⽣申合せ」、 『唖⽣同窓会報告』第 2 回、. は適当ではなかったといえよう。. 明治 27(1894)年、17 ページ. ところで、本稿で引用した⼩⻄の著作物等は第 3 期、. (13)前掲(2) 、61 ページ. 第 5 期、第 6 期のものである。東京聾唖学校の『六十. (14)「⼩⻄校⻑が唖⽣教員練習科⽣に対し講演されたるも. 年史』は昭和 10(1935)年の発行で、第 7 期にあた. のの抄録(⼩⻄先⽣の⼝述を三浦浩⽒が筆記せられた るものを更に石川倉次先⽣が借りて筆記せられたるも. る。『六十年史』では「手話」のみが使われており、. の) 『⼩⻄信⼋先⽣存稿集』昭和 10(1935)年、110〜. 「手真似」の⾔葉はみあたらない。いつ、なぜ、 「手真. 232 ページ. 似」から「手話」に変わったのか。また、「手真似」. (15)前掲(4) 、183 ページ. という⾔葉が用いられた時代の「手話」は何を意味す. (16)前掲(2) 、61 ページ. るのか。読み方は「しゅわ」か、 「てばなし」か。そ. (17)⼩⻄信⼋「聾唖教育」 『⼤日本教育会雑誌』第 81 号、. して当時の「手真似」は今日の「手話」とどう重なる. 明治 21(1888)年、877〜878 ページ. のか。. (18)⼩⻄信⼋「聾唖教育附発音教授」 『⼤日本教育会雑誌』. さらにいえば、当時の学校では実際にどのような. 第 83 号、明治 22(1889)年、135 ページ (19)「聾唖の⽗⺟の⼼得」『⼩⻄信⼋先⽣存稿集』昭和 10. 教授法が用いられていたのか。また学校⽣活におい. (1935)年、227〜228 ページ. て⽣徒たちはどのように「手真似」を使っていたのか。. (20)「然れども此決議は果して聾唖自身に便利たり幸福た. そしてそれらはどういう⾔葉で呼ばれていたのか。. るか俄かに判じ難きものあり、実に手真似は各国⺠が. これらは今後の課題である。. ⾔語不通の外国に行き必要に迫られ種々の工夫をなし 彼是相通ぜんことを勉むるは世の能く知る所にして米. 本稿の元となったレポートは、近畿聾史研究グル. 国印度人の如きは今尚互に手真似に依頼すること多し. ープ「第 12 回講演会&勉強会」および日本聾史学会. といふ、畢竟手真似は⾔語発達せざる野蛮の余習にし. 「2013 聾史セミナーin 広島」でいただいた助⾔を受け. て人⽂の進むに従ひ漸次廃止するものなれば学校に於. て加筆修正をほどこしたものである。. て之を奨励するは教育の本旨に非るも聾唖同志の間に. 最後になりましたが、本稿の作成にあたりご助⾔. 迄之を厳禁せんとするは無用の干渉にして寧ろ残酷の. をいただいた皆さまに、この場を借りて厚くお礼を. 感なき能はず、されば我々は教育者の単純なる理論の. 申し上げます。. みを傾聴し聾唖者自身の不利を顧みざる如きは宜しく. 引用文献. て之を聾唖者に強ゆることはなさゞるも聾唖者が慣用. 避くべきことと信じ 好んで自ら種々の符牒を工夫し する符牒を借りて説明の方便とすることをば恥辱とせ. (1)東京聾唖学校『六十年史』昭和 10(1935)年、369 ペー. ざるなり」 (前掲(7) 、92〜93 ページ). ジ. (21)「千⼋百⼋十⼋年に伊太利のミランで聾唖の⼤会があ. (2)前田朋子「⼩⻄信⼋の聾教育論 ―⾔語教育方法を中⼼ に―」 『広島⼤学教育学部紀要. つて其時に聾唖の為めには手⽂字といふものを廃さな. 第一部(教育学)』第 43. くてはならぬという議があつた、独逸流といふのは発. 号、平成 6(1994)年、61 ページ. 音一方で致します、 (中略)けれども其実際を見ました. (3) 「訓辞」 (講堂講話) 『殿坂の友』第 16 号、⼤正 5(1916) 年 28〜63 ページ(東京聾唖学校同窓会誌. 所では、私が先刻申しました独逸仏蘭⻄に行つて困つ. 復刻『⼝な. た時には唖の人から案内をして貰ふと⼼易く物がわか. 43.
(7) 月前に此の盲唖学校⻑の⼩⻄君が亜米利加に来られ. る、どうも外の人に案内をして貰うと色々気が置かれ たり⾔葉が通ぜぬから唖の人に案内を頼んで能く分つ. まして亜米利加で⾯会を致した」と述べている(1)。. て仕合せをしたことが、彼地でも学校では禁じて居り. 当時、東京盲唖学校は唯一の官立校として欧米の. ますから致しませぬが、外へ出ますと手真似を固より. 教育制度・教育方法摂取の窓⼝であった (2) 。明治. やつて居ります、でありますから手真似を全く禁ずる. 29(1896)年、すでに東京盲唖学校⻑だった⼩⻄は、先. ことは理想としては宜しうございますが、私共には日. 進諸国の実地を見聞・調査することを希望した。幸い. 本国語を使つてはならぬ、独逸語を以て話せというの. ⽂部省から留学を命ぜられ、同年 12 月 22 日に横浜. と同じことであらうと思ひます、余り一方に偏して独 逸流といふことは如何であるか シカゴの博覧会の時. を出航、米国を振り出しに英・仏・独において盲・聾. に唖ばかりから出来て居る会からして独逸政府に向つ. 教育を中⼼に視察を行い、明治 31(1898)年 9 月 28 日. て亜米利加のやうに佛蘭⻄と独逸の折衷したるものに. 帰国した。⽂部省からの発令は、 「盲唖教育研究のた. して貰ひたいといふことを建白したといふこともある. め満一年半米国、英国、佛国及独逸國へ留学を命ず。. さうでございますが、聾唖自身に取りましては理想の. 白痴孤児及貧児の教育法をも兼ぬ(外国留学中本官棒. 方でも余り喜ばしくないことがあるかと存じます、私. 三分の一支給)」というものであった(3)。. も今それに躊躇の体で居りまする」(「欧米聾唖の教育. ⼩⻄はアメリカに 10 ヶ月余り滞在したが、その間、. 概観」 (聾唖教育講演会第 1 回全国聾唖⼤会報告、明治. ベルに何度か⾯会する機会を得た。本稿で取り上げ. 40 年 2 月 20 日発行)『⼩⻄信⼋先⽣存稿集』昭和 10. た書簡に記された明治 30(1897)年 3 月 18 日のシカゴ. (1935)年、13〜15 ページ). での⾯会は、最初の⾯会である。. (22)前掲(4) 、183 ページ (23)前掲(7) 、92 ページ(前掲(20)を参照). 欧米留学は、⼩⻄の聾教育に対する考え方にどの. (24)前掲(2) 、61 ページ. ような影響を及ぼしたのだろうか。本稿では、留学中. (25)同上、61 ページ. に書き送った書簡を中⼼に、彼の思いを読み取ろう. (26)前掲(5) 、33 ページ. と試みた。. (27)同上、34 ページ. 残念ながら、⼩⻄の業績を記した伝記は出版され. (28)前掲(6) 、15 ページ. ておらず、 『盲唖教育の師⽗ ⼩⻄信⼋先⽣ ⼩伝と. (29)「本邦盲唖教育育ての親⼩⻄信⼋先⽣の教育上の御功 績並に現代稀に見る御高徳は周知の事柄ではあり、且. 追憶』に略歴が記されている程度である(4)。『⼩⻄信. つ他の寄稿者の筆の先にも必ず現はれることと思ふが. ⼋先⽣存稿集』(5)には、「欧米聾唖教育の概観」、「欧. 故に、余は殊更にそれ等を避け、時折耳にすることのあ る. 米聾唖技芸の発達」が収められているが、欧米留学に. 先⽣に対する誤解について、二三解明しようと思. ついての詳細な記述はない。また、⼩⻄が欧米から書. ふ。」 (前掲(5)、33 ページ). き送った書簡についての先行研究も今のところ目に. (30)山崎一穎「信濃教育界に於ける森鴎外 ―<川井訓導事. していない。. 件>の波紋―」 『跡見学園女子⼤学紀要』第 28 号、平成 7(1995)年、53 ページ. 2. ⼩⻄と篠⽥利英. (31)前掲(1) 、373 ページ (32)同上、374 ページ. ⼩⻄が留学中に日本にあてた書簡は、 『東京茗渓会. (33)同上、370 ページ. 雑誌』や『教育時論』、 『唖⽣同窓会報告』等に掲載さ. (34)前掲(2) 、61 ページ. れているが、本稿では『東京茗渓会雑誌』173 号(6)、 174 号(7)に掲載された篠田利英宛の書簡から読み取れ. —————————————————————. ることをまとめた。. ⼩⻄信⼋が⾒たシカゴの聾教育. 篠田利英と⼩⻄の関係は深く、篠田は『盲唖教育の. 〜『東京茗渓会雑誌』掲載の書簡から〜 —————————————————————. 師⽗ ⼩⻄信⼋先⽣ ⼩伝と追憶』で、 「⼩⻄さんと は無二の友だちである」と語っている(8)。東京師範学 校時代からの友人であり、家も近かったという。. 1. はじめに. 篠田は⼩⻄に先立ち、明治 20(1887)年に米国に留学 している。その際、⼩⻄は篠田に米国の盲聾教育につ. 明治 31(1898)年 10 月 10 日、アレクサンダー・グラ. いて質問し、篠田の回答が『⼤日本教育会雑誌』第 81. ハム・ベルが東京盲唖学校を訪問した際、⼩⻄信⼋は. 号に掲載されている(9)。また、⼩⻄に頼まれたベルの. 学校でベルを出迎えた。ベルは講演の冒頭で、 「数箇. 44.
(8) 写真が米国で購入できなかったことを、篠田は後々. このため、シカゴ市教育委員会は明治 8(1875)年1月、 シカゴ市立の通学制の聾学校を創設。その後、⼩規模. まで残念がった(10)。. 校を増やしていき、⼩⻄が訪れた明治 30(1897)年には. さて、本稿で取り上げる書簡が書かれた年月日は、. ⼩規模校が数校あり、教育方法は手話法から併用法と. 『東京茗渓会雑誌』からは確認できない。この書簡の. ⼝話法に移っていた。当時、シカゴ市の教育委員会は、. 一部が掲載された『教育時論』(11)に「メイヂ三〇ネン. 通学制と寄宿制の折衷を考えていた。また、⼝話法の. 五ノ五 シカゴ」と書かれており、明治 30(1897)年 5. 成果と普及に賛同しつつも、手指モードと⼝話を併用. 月 5 日にシカゴで書かれたものだろうと考えられる。. する併用法も否定されるべきではないという立場を. なお、これらの書簡はほぼ片仮名により記されて. とっていた。. いるが、本稿で引用する際には漢字と平仮名に修正. しかし、中産層の親はこのシカゴ市教育委員会の方 針に不満を抱いており、明治 28(1895)年前後から州法. し、現代仮名遣いに改めた(仮名論者である⼩⻄は不. 制定運動が起こった。法案には、⽣徒一人当たり年間. 本意であるかもしれないが)。 また、部分的に句読点、. 150 ドルの州補助を規定する内容が盛り込まれた。こ. 濁点および余白を加えた。. の法案作成は、中産層の親からなるシカゴ聾児親の会 (1895 年 12 月設立)が主要な役割を担っている。親の. 3. 19 世紀末のシカゴの聾教育. 会は、イリノイ州立聾唖院の指導法は「併用法に限定 されており、親の学校選択を制約している」と主張し、. ⼩⻄は、当時のアメリカ全体の状況を、 「私が米国. 親と地方自治体が主導する通学制聾学校の設置を望. へ参った時(明治廿九年)には官立一校、州立及公立. んだ。彼らが州議会にあてた公開状にみられる法案趣. 五十四校と私立及昼間学校三十四校ありました」と. 旨には、ベルの⾔葉が引用されていた。当時、ベルは. 語っている(12)。また、シカゴにおける就労状況として、. 通学学校運動に深く関わっていたのである。. 「亜米利加のシカゴなどでは五人か六人⼤きな郵便. ベルと通学学校運動との関わりについて、 『孤独の. 局で手紙の選り分けをさせる」といった記述も残っ. 克服』に次のような記述がある。. ている(13)。 上野(2001)は、 『聾教育問題史』に、当時の状況を次. ベルはシカゴの通学学校運動には強い興味を抱いた。. のように書いている。. 彼はその運動の支持者に、組織を作り、ロビー活動を 行い、世論を盛り上げ、また法案を起草するに際して. 時代は純粋⼝話法へと進んでいた。一⼋⼋〇年のミ. の戦略や戦術について、的確な助⾔を与えた。彼はま. ラノ国際会議の影響は、アメリカには劇的な変化はも. た自分の出席によって、会に重みが加わるという効果. たらさなかったとはいえ、各地に通学制の聾学校が増. を狙うこともあった。一⼋九九年までには、「シカゴ. え、また従来の寄宿制の聾唖学校でも確実にスピーチ. 両親の会」は通学学校に対する州の補助金を獲得し、. の指導は増えた。一⼋七〇年代、聾唖院は聾唖学校と. 州教育委員会の教育⻑を有能で理解のある人物に変. 名称が変わり、一⼋九〇年にはいると聾唖学校は聾学. え、シカゴの通学学校全体の⻑に会の立てた候補者を. 校と変わっていった。一⼋九〇年の A・G・ベルの「ア. 据えた(18)。. メリカ聾スピーチ推進連盟」の結成も⼝話法の普及に 拍車をかけた(14)。. 4. ⼩⻄が⾒たシカゴの聾教育. 安藤(2001)も、 「ベルは 1887 年 7 月、シカゴ市教育. (1) シカゴの聾学校. 委員会の招きで行った講演の中で、聾児を公立学校、. ⼩⻄の書簡によれば、シカゴには公立の聾唖学校. すなわち通学制公立聾学校で教育することの利点を. が 5 つあり、⽣徒数は 30 人、50 人で、少ない場合に. 述べた」(15)と書いている。. は 12、3 人を 1 つの⼩学校の 1 室か 2 室に集めて教. 19 世紀中期以降のシカゴの状況は、木村ら(2009). えているとのことである(19)。これは市立の通学制の. (16)に詳しい。以下は、木村らの論⽂をもとにまとめた. 学校をさすのであろう。. ものである。. また⼩⻄は、私立は 2 つあり、その一つを「マカエ. 弘化 3(1846)年、州中央部に位置するジャクソンビ. ン オラル スクウル」と⾔い、3 歳から 7 歳までの. ルにイリノイ州立聾唖院(17)が開設されたが、当時シカ. 子どもを 30 人集めた学校で、朝送られてきてから帰. ゴは人⼝急増期であったため、過密化が問題となって. るまで、多くの練習⽣徒により、幼稚園保育と、⼩学. いた。また、年々増加する不就学児の問題、さらに指. 教育とを行っていると述べている(20)。この「マカエン. 導・管理上の問題や多様な聾児への対応を迫られ聾教. オラル. 育施設の質的・量的拡充の必要性が⽣じていた。. スクウル」は、木村ら(2009)の論⽂にある、. M・マコーウェンが「1883 年に国内で初めて聾幼児. 45.
(9) に⼝話法を適用した私立学校をシカゴ郊外で設立し. そして、3 月 18 日、⼩⻄はついにベルとの⾯会を. た」(21)ものではないかと考えられる。. 果すことができた。そのときのことを⼩⻄は、 「数年. ⼩⻄は、この「マカエン オラル スクウル」につ. の望みを達し、うれし涙にくれた」と記している(26)。. いて次のように書いている。. ベルとの⾯会の席で、⼩⻄は「日本の話をしてほし い」、 「通訳を手配するから、日本語で話してほしい」. 当地、女学校はもちろん。ある⼩学校にては料理法を. と⾔われた。そこで、日本の学校の沿革を話し、遊学. 教へおり、マカエン スクウルにてツンボに料理を教. の趣意を述べ、学校⽣徒の成績を示したところ、 「日. ふるさま、誠に殊勝なり。皆、教師の⼝先を見て、数. 本に聾唖学校があることさえ知らない者が多いのに、. 名の⽣徒が菓子をこしらへ、スウプを製すなど、誠に. こんなにまで進歩しているのか」と皆驚いたという。. 見事なり。我が女学校にても、この方を加へんことを 望む. (22). その後、国語の話や発音の話に移るのだが、その部分. 。. に⼩さな⽂字で書いている。. ⼩⻄は最初、州立聾唖院と盲院へ行く予定はして. マカエン. いなかったが、電報で招かれて、一週間、客として滞. スクウルは. 一も手真似を許さず。私はこ. れがために止むを得ず、話しぶりを覚えたるかと思は. 在することとなった。シカゴから 300 マイル離れた. る(27). ジャクソンビルにあるその学校について、⼩⻄は次 のように紹介している。. 手話の全⾯禁止により、⽣徒らが「止むを得ず」⼝ 話を身に付けたと書いているあたり、⼩⻄がこの学. ジャクソンビールにて、五〇〇のツンボが院⻑の手真. 校の方針を手放しで評価しているようには読み取れ. 似にて、毎朝説き示すバイブルを合点するするさま、. ない。. 二〇〇のメクラが音符を見ずして、いと⻑き、⾯白き. 次に⼩⻄が、漢字の弊害について話を始めたとこ. 音楽にのりて唱歌し、四〇人のうち一〇人がバイオリ ンまたはめいめい違ひたる楽器を用いて、一の狂ひな. ろ、その場の人々は⼤いに関⼼を示し、共感する者も. く演奏せし、妙へなる技を見。セント ルーイの盲の. 多かったという。 「このように優れた仮名⽂字がある. 編細工などを見たる後にては、いかなる学校を見ても、. のに、なぜそんなに難しい漢字を使っておられるの. 感服するほどのことを未だ見出さず(23)。. か」と問われ、⼩⻄は次のように書いている。. そして⼩⻄は、この学校を「世界第一の聾唖院」とも. これに答へ、そは我が国の博士たちの怠りともいはん. 評した。. か、ある者は 10 年前に仮名の会、ローマ字会を起こ. このように、⼩⻄はいずれの学校にも⻑所を見出. し、支那⽂字を捨てんと企て、試みたれども、今は皆. しており、いずれかの学校の肩をもつ様子はない(こ. 跡形もなく、極めて遺憾のこととすと、⾔ひしに(攻. こでは、⼩⻄の用語を尊重し、 「聾唖院」、 「盲院」を. 略)(28). 用いた。以下、同じ)。. その後、日本仮名の話で⼤いに盛り上がり、⼩⻄はこ. 安藤(2001) (24)によれば、ベルもこの学校を評価はし. のときの話を「なかなかに忙しく楽しく送れり」と締. ていたようだ。明治 20(1887)年 7 月シカゴで行った. めくくっている。. 講演の中で、「ジャクソンビル(イリノイ州)の州立寄 宿制聾学校が『世界最⼤』であり、『最も効率的で、. (3) 州⽴聾唖院⻑の辞職. 最も経済的に運営されている施設の一つである』」と. ⼩⻄が招かれて州立聾唖院と盲院を訪れたとき、. 前置きした上で、未就学児の問題を指摘し、通学制の. そこは先に述べた州法制定運動や通学学校運動の渦. 利点を述べたという。. に巻き込まれていた。 ⼩⻄が到着したとき、出迎えた盲院の院⻑は、 「グ ランド将軍から日本の素晴らしさを聞いている」と、. (2) ベルとの面会. ⼤層歓待した。院⻑に語りかけられた⾔葉と、そのと. ⼩⻄は初め、シカゴに⻑く滞在する気はなかった. きの自分の思いとを⼩⻄は次のように書いている。. が、 「マカエン スクウル」の校⻑、教員らから「3 月 18 日 アレキサンドル グラハム ベル⽒が来られ. 貴君が時の許す限り、ゆるゆる留まりて、観察を遂げ、. るので、それまで滞在してほしい」と切に請われ、留. また貴国のごとにつき、我にも教員、⽣徒らにも話し. まることにしたという(25)。. たまはれと、袖を顔に当て、涙を拭ひし時の感は、嬉. 46.
(10) しと⾔はんか、憐れと⾔はんか、我誠にその時の感を. ⼩⻄にとっては、院⻑ほどの立場にある者が、議会に. ⾔ひ表すことを得ぬなり(29)。. おける「一時の感情」によって辞職に追い込まれる様. ここには「盲院の院⻑」と書かれており、聾唖院と. 子は信じがたく、恐ろしさすら感じたようであった。. は別かもしれないが、このとき聾唖院の院⻑は辞職. ところで、疑問が一つある。辞職した「院⻑」とは. に追い込まれていた。先に引用した⼩⻄の書簡に、. 誰で、後任は誰だったのかという点である。木村ら. 「ジャクソンビールにて、五〇〇のツンボが院⻑の手. (2009)は、前述の M・マコーウェンが「退職したシカ. 真似にて、毎朝説き示すバイブルを合点するさま」と. ゴ聾唖学校⻑の後任として 1897 年に着任した」と書. あるため、⼩⻄が訪れたとき聾唖院の院⻑はまだ学. いている(33)。また、先に引用した『孤独の克服』にも、. 校にいたようである。しかし、⼩⻄は「院⻑は私が行. 「シカゴの通学学校全体の⻑に会の立てた候補者を. きしとき、辞職提出せり」(30)とも書いている。辞職に. 据えた」と書かれていた。これらを考え合わせると、. 追い込まれた理由については後に述べる。このこと. 辞職したのはシカゴ市立の通学学校の校⻑だと考え. を考えるとき、盲院の院⻑の涙と、⼩⻄が書いた「憐. られる。しかし、⼩⻄が書いたのは「州立聾唖院」の. (あは)れ」の⾔葉が特別な意味をもつ気がしてくる。. 院⻑の辞職であった。一人の人物がいくつかの学校 の⻑を兼ねていたのだろうか。または、この時期退職. (4) イリノイ州議会. したのは一人ではなかったのだろうか。これは今後. 明治 30(1897)年 2 月〜3 月頃に行われたイリノイ州. の課題としたい。. 議会を⼩⻄は傍聴したようである。そのときの様子 を、⼩⻄は次のように書いている。. 5.⼩⻄とベル. ぜんたい、ベル⽒が来たれるは、シカゴ聾唖の⽗⺟が. ⼩⻄の書簡では、ベルの通学学校運動には一切触. 一会を設けをり、ジャクソンビールの州立学校へ手放. れられていない。また、ベルとの⾯会時に、聾教育に. し送るを好まず、シカゴに一⼤校を設けんとて、ジャ. ついて語り合ったという記述もない。⼩⻄はベルに. クソンビールを暗に攻撃しつつあるのみならず、二月. 対してどのような思いを持っていたのだろうか。. 半ば、衆議院に建白をなし、それを討議のせつ、ジャ. ⼩⻄もベル同様、⼝話教育に期待を寄せており、欧. クソンビールの院⻑が、そのビルを散々に非難し、数 年の閲歴を述べて州立聾唖院を弁護せるを、議員が聞. 米でも積極的に視察を行った。 『⼩⻄信⼋先⽣存稿集』. かばこそ、もはや聞くに及ばず、席を退きたまへなど. にも、欧米における視話法の使用状況が載っている. と、途方もなき申し出にあひ、院⻑は遺憾を含みて退. (34)。では、⼝話教育以外についての考え方はどうだっ. き、シカゴの聾唖教育会⻑ワスブルン、名だたる美人. たのだろう。. がしゃあしゃあと演説し、クレンガ(ツンボの⺟)聾唖. 都築(2012)は、 「ベルは、寄宿舎の聾学校は閉鎖すべ. の⺟の会⻑が、どもりに近き⼝つきにて話し、二五〇. きであり、聴覚障害者の教師を失職させ、手話の使用. マイルのスプリンタヒールドに(イリノイ州の首府)あ. をやめるべきであると提案した」(35)と書いている。都. りて、絶へずシカゴなるベル⽒に打合せ、電話をなす など、勇ましくもあり(31)、 (⼩さく書かれた⽂字には. 築が指摘するこの 3 点について、⼩⻄はどう考えて. ( )を付した。). いたのだろうか。. そもそもベルがシカゴを訪れたのは「シカゴ聾唖の. (1) 寄宿舎の聾学校は閉鎖すべき. ⽗⺟」に招かれたためであり、⽗⺟の目的は州立聾唖. ⼩⻄は帰国後、 「⼩学校附設盲唖学校論」を主張す. 院の教育に反対し、自分たちの意に適った学校の新. るようになったが、寄宿制の聾学校の閉鎖は全く考. 設を州に働きかけることであった。そして、自校を弁. えていなかった。. 護した州立聾唖院⻑は、議員から退席を命じられる. 「注意すべきことは⼩⻄の⼩学校附 加藤 (1974)は、. こととなり、その後、辞表を提出するに至っている。. 設論には、一九世紀末から二〇世紀初頭に欧米に広. ⼩⻄は続けて、この州議会の感想を次のように書. がる盲・聾教育の通学制学校運動にみられる寄宿制. いている。. 盲・聾学校の隔離主義に対する批判はまったく欠落 して」(36)いたと指摘する。. かくまでに美人の⼒が一院⻑の辞職を促すに⼒を持. なお、安藤(1982)は、 「ベルは、必ずしも寄宿舎制に. てるかと思へば、我が行く末も恐ろしく思はる、憐れ、. 反対し、通学制への一本化を主張していない」(37)と書. 我が国にては、学務管理の一院⻑、校⻑の閲歴を重ん じ、一時の感情に屈せざらんことを望むこと切なり(32). 47.
(11) 6. まとめ. いているため、都築の指摘が妥当ではない可能性も あることを頭に入れておく必要がある。. ⼩⻄が訪れたときのシカゴは、聾教育の転換期で. (2) 聴覚障害者の教師を失職させるべき. あった。従来の寄宿舎制の⼤規模校から通学制の⼩. ⼩⻄は聴覚障害者の教師の育成に⼒を入れ、彼ら. 規模校に移る時期であり、手話法や併用法から⼝話. の活躍に期待をしていた。それは、 「⼩⻄校⻑が唖⽣. 法へ移行する時期であった。さらに、親の会が教育に. 教員練習科⽣に対し講演されたるものの抄録」の「聾. 関わり出した時期でもあった。. 唖教員となるものの⼼得」で、 「聾唖の⽣徒には聾唖. ⼩⻄は州立聾唖院や「マカエン. の教員でも充分に役に立つということを世人に認め. オラル. スクウ. ル」などを視察した。⼩⻄の姿勢には、いずれかの主. させるは一に諸君の成業如何にあります」(38)と述べ. 張に肩入れしている様子はなく、いずれの学校関係. ていることからもうかがえる。このため、聴覚障害者. 者とも良好な関係であった様子がうかがえる。. の教師についても、⼩⻄とベルの考え方は一致しな. しかし、州議会を傍聴し、州立聾唖院⻑が辞職に追い. い。. 込まれる事態を目の当たりにしたときには、恐れす ら感じている。州立聾唖院に同情し、その教育成果を. (3) 手話の使用をやめるべき. 絶賛した。. ⼩⻄は「ジャクソンビールにて、五〇〇のツンボが. 念願のベルとの⾯会を果すこともできたが、⼩⻄. 院⻑の手真似にて、毎朝説き示すバイブルを合点す. はすでにベルとの考え方の相違に気づいていた。そ. るするさま」に感⼼した。また別の書簡に、イギリス. してそれはベルも同様であったと思われる。それで. の聾唖学校を訪問したときのことを、 「⽣徒一百六十. も、共通する部分も決して少なくなく、⼩⻄はベルか. 一人を講堂へ集め、予が来観の意を手真似にて談し」. ら多くを学びとろうとし、ベルもそれに応えたのだ. (39)と書いており、 「手真似」を自然に受け止めている。. と思う。. さらに、⼩⻄は「ド、レ、ペー⽒二百二年誕⾠記念. ⼩⻄はベルについて『日本之⼩学教師』に次のよう. 会記事」に掲載された「ど、れ、ぺー⽒の伝」で、 「ど. に書いており、考え方の相違を超えてなおベル⽗子. れぺい⽒の手真似法の名は世界に排斥せられたるも. を尊敬していることが読み取れる。. 其応用の復活は遠からざるかと察します」(40)と述べ、 「手真似法」の復活に期待を寄せている。このように、. ⽒は亜米利加聾唖発音上進会といふを組織し、毎年夏. 手話の使用についても、⼩⻄とベルの考え方は一致. 期講習会を開きて莫⼤の私資を投ぜり、故に全国少壮 の聾唖教育者翕然として会頭と仰ぎ、ガルローレット. しない。以上から、⼩⻄とベルの考え方には、共通す. ⽒と対立するが如し。予は⽒にシカゴ、ミルトーキ、. る部分と、全く相反する部分とがあったことがわか. 華盛頓等にて種々の助⾔と教示を辱うしたり、其⽗君. る。. ビル⽒には華盛頓にて⾯会し、私淑の君子として尊敬. また、⼩⻄はギャローデットの⽗、トーマス・ホプ. 措かざるところなり(44)。. キンズを尊敬していた。 「⼩⻄校⻑が唖⽣教員練習科 ⽣に対し講演されたるものの抄録」(41)に、仏、独、英、. 7. 今後の課題. 米国の「聾唖教育元祖」についての話が収められてい. (1) 欧米での視察先を調べる. る。それぞれ、 「ド、レピー」、 「サミュール、ハイニ. ⼩⻄は⼝話法による通学制聾学校の視察を重視し. ッケ」 「トーマス、ブレードウッド」、 「トーマス、ホ. ていたようである。それはイリノイ州立聾唖院の訪. ブキンス、ガルローデット」を紹介した後、⼩⻄は「以. 問を最初予定していなかったことや、通学制聾学校. 上四名は聾唖教育の⼤家にしていずれも尊敬すべき. の先進地であるウィスコンシン州ミルウォーキーを. であるが私は佛国のド、レピー⽒と米国のガルロー. 訪問している(45)ことから推測できる。⼩⻄の訪問先. デット⽒を最も尊敬し又模範と致したく存じます」. をさらに調べることにより、欧米留学の目的を明ら. (42)と述べている。. かにしていきたい。. ちなみに、⼩⻄はワシントン D.C.滞在時にギャロ ーデット⼤学に⻑期間通って情報収集すると共に、 附属⼩学校で実習を行っている. (2) 欧米の教育に対する思いを読み取る. (43)。. ⼩⻄がアメリカ視察を詠んだ歌が『唖⽣同窓会報 告』に掲載されている(46)。書簡に加え、こういった史. 48.
(12) 料からも⼩⻄の欧米の教育に対する思いを読み取っ. (15) 安藤房治『アメリカ障害児公教育保障史』風間書房、 2001 年、74 ページ。. ていきたい。. (16) 木村素子,岡典子,中村満紀男「19 世紀末アメリカ中⻄ 部公立通学制聾学校における⼝話法イニシアティブと. (3) 帰国後に報告したことを調べる. その背景」 『障害科学研究』33 号、2009 年、25〜43 ペ. 明治 32(1899)年、京都盲唖院の⿃居嘉三郎院⻑. ージ。. あてに⼩⻄が送ったと思われる年賀状である(47)には、. (17) 木村ら(同上)は、 「聾唖学校」と書いているが、Asylum、. 手書きの⽂字で、版画の絵の建物が東京盲唖学校で. のちに Institution と呼ばれた慈善的な教育施設は School. あることと、その版画がシカゴの「オフシ」の手彫り. とは区別したほうがわかりやすいため、 「聾唖院」に訂. であることが記されている。⼩⻄はシカゴ滞在中に. 正して使用した。 「学校」ではなく「院」を用いること. これを作成し、帰国後に備えたのかもしれない。 年賀状には「トキ イマサラニ. ナニト. シラヌ. タニノ. ナカマシ. キミガ. とした。用語については、前掲(15)26、27 ページに詳し. ウグヒス. く書かれている。 (18) Bruce『孤独の克服』唐津一監訳、NTT 出版、1991 年、. ミソノニ」. 394 ページ。. と書かれているが、自分自身を「時知らぬ谷の鶯」と. (19) 前掲(6)、55 ページ。. 例えたのであれば、それはどんな意味なのだろう。. (20) 同上、55 ページ。. ⼩⻄は同年 12 月 21〜26 日京都盲唖院を訪れ、留. (21) 前掲(16)、29 ページ。. 学の報告を行っているが(48)、同院では、その 1 年余. (22) 前掲(7)、56 ページ。. り前にベルが講演を行っている。⼩⻄はベルの講演. (23) 同上、55、56 ページ。. 録(49)を読んだかもしれない。ベルの影響を受けたで. (24) 前掲(15)、74 ページ。. あろう教員らに向かって、⼩⻄はアメリカの教育を. (25) 前掲(6)、56 ページ。 (26) 同上、56 ページ。. どう語ったのだろうか。. (27) 同上、57 ページ。. このように、帰国後、欧米の教育について何を報告. (28) 同上、57 ページ。. したかを調べることにより、⼩⻄が目指そうとした. (29) 同上、56 ページ。. 教育を探っていきたい。. (30) 同上、58 ページ。 (31) 同上、57、58 ページ。. 註. (32) 同上、58 ページ。. (1)近畿聾史研究グループ編『ベル来日講演録』 、2013 年、9. (33) 前掲(16)、29 ページ。. ページ。. (34) 前掲(5)、120、187 ページ。. (2) 加藤康昭「日本の障害児教育における『統合』の思想」. (35) 都築繁幸「欧米の聴覚障害教育とコミュニケーション」. 『世界教育史体系<33>障害児教育史』講談社、1974 年、. 『聴覚障害教育の歴史と展望』第 17 章、ろう教育科学. 311 ページ。. 会編、風間書房、2012 年、341 ページ。. (3) 『盲唖教育の師⽗ ⼩⻄信⼋先⽣ ⼩伝と追憶』昭和 13. (36) 前掲(2)、313 ページ。. 年、6 ページ。. (37) 安藤房治「アメリカにおける通学制公立聾学校の設立. (4) 同上、4〜12 ページ。. について」 『弘前⼤学教育学部紀要』 、48 号、1982 年、. (5) 『⼩⻄信⼋先⽣存稿集』昭和 10 年、7〜34 ページ。. 30 ページ。. (6)「⼩⻄信⼋君の書翰抄」 『東京茗渓会雑誌』第 173 号、明. (38)「聾唖教員となるものの⼼得」前掲(5)、112〜113 ペー. 治 30 年 6 月、55〜61 ページ(復刻版)。. ジ。. (7)「⼩⻄信⼋君の書簡抄(承前)」『東京茗渓会雑誌』第 174. (39)「⼩⻄⽒の英京通信」 『教育時論』第 476 号、明治 31 年. 号、明治 30 年 7 月、53〜59 ページ(復刻版)。. 7 月、23 ページ。. (8) 篠田利英(談)「思い出」 『盲唖教育の師⽗ ⼩⻄信⼋先⽣. (40)「ど、れ、ぺー⽒の伝」 「ド、レ、ペー⽒ 202 年誕⾠記念. ⼩伝と追憶』昭和 13 年、44〜46 ページ。. 会記事」聾唖倶楽部『聾唖界』第 1 号、⼤正 3 年 1 月、. (9) 「盲唖教育に就き質問の回答」『⼤日本教育会雑誌』第. 23 ページ。. 81 号、明治 21 年、923〜930 ページ。. (41) 前掲(5)、114〜127 ページ。. (10) 前掲(6)、56 ページ。. (42) 同上、124 ページ。. (11)「東京盲唖学校⻑⼩⻄信⼋⽒の書翰」 『教育時論』第 441. (43) 「⼩⻄信⼋の米国通信」 『教育時論』第 458 号、明治 31. 号、明治 30 年 7 月、24〜27 ページ。. 年 1 月、28 ページ。. (12)「(4)米国聾唖教育の元祖」前掲(5)、123 ページ。. (44) ⼩⻄信⼋「現今米国に於ける二⼤聾唖教育者」 『日本之. (13)「欧米聾唖技芸の発達」 、同上、34 ページ。. ⼩学教師』第 55 号、明治 36 年 7 月、50 ページ。 「華盛. (14) 上野益雄『聾教育問題史』日本図書センター、2001 年、. 頓」はワシントン。. 128 ページ。. (45) 同上。 「ミルトーキ」は「ミルウォーキー」と思われる。. 49.
(13) 引用に当たり、旧字は新字に改めた。. (46) 東京盲唖学校唖⽣同窓会『唖⽣同窓会報告』第 6 号、 明治 31 年、27、28 ページ。. 2.各資料にみられる⼿話関連語彙. (47)⼩⻄が京都盲唖院⿃居嘉三郎院⻑に宛てたと思われる 年賀状。所蔵先:京都府立盲学校資料室。. それぞれの資料が書かれた時期は、 「盲唖教育ニ就キ. (48)盲聾教育開学百周年記念事業実行委員会編集部会編『京 都府盲聾教育百年史』、94 ページ下段、註 106。. 質問ノ回答」と「聾唖教育」は明治 21(1888)年(5)、 「聾. (49) 前掲(1)、41〜87 ページ。. 唖教授法の五⼤別」は明治 34(1901)年(6)、「⼩⻄校⻑ が唖⽣教員練習科⽣に対し講演されたるものの抄録」. 参考文献. は明治 38(1905)年(7)と考えられる。以後、それぞれ【質. 復刻『東京茗渓会雑誌』第 18 巻、現代情報社、発行年不明. 問ノ回答】 【聾唖教育】 【五⼤別】 【講演の抄録】と略. 近畿聾史研究グループ編『ベル来日講演録』、2013 年. す。. 『⼩⻄信⼋先⽣存稿集』昭和 10 年 『盲唖教育の師⽗. ⼩⻄信⼋先⽣. ⼩伝と追憶』昭和 13 年. 東京盲唖学校唖⽣同窓会『唖⽣同窓会報告』第 6 号、明治. (1)【質問ノ回答】に見られる語彙 明治 21(1888)年の【質問ノ回答】は、当時アメリカ. 31 年 1 月 聾唖倶楽部『聾唖界』第 1 号、⼤正 3 年 1 月. 留学中の友人篠田利英に⼩⻄が質問し、篠田からの. 安藤房治『アメリカ障害児公教育保障史』風間書房、2001 年. 回答を⼩⻄が雑誌に投稿したものである。つまり⼩. 上野益雄『聾教育問題史』日本図書センター、2001 年. ⻄が書いたのは質問のみで、回答は篠田利英が書い. 『世界教育史体系<33>障害児教育史』講談社、1974 年. たものだ。前書きの部分に「既ニ昨年中数種ノ書籍ノ. Bruce『孤独の克服』唐津一監訳、NTT 出版、1991 年. 恵贈ヲ得」と書かれており、篠田から送られたアメリ. 『聴覚障害教育の歴史と展望』、ろう教育科学会編、風間書房、. カの書籍を当時⼩⻄が参考にしていたことが窺える。. 2012 年. 【質問ノ回答】中の使用語彙は、 「手話法」が 4 回、 「手真似」が 2 回、「音話法」が 2 回である。. —————————————————————. ⼩⻄の質問は「唖⽣ニハ手話法ヲ主トスルカ、音話. ⼩⻄信⼋が用いた⼿話関連語彙. 法ヲ主トスルカ。」であり、 「手話法」と「音話法」は. 『⼤⽇本教育会雑誌』・『⼩⻄信⼋先⽣存稿集』. セットで用いられた。これは当時欧米で行われてい. から —————————————————————. た教育方法を翻訳した⾔葉ではないかと考えるが、 誰が最初に翻訳したのかは現時点では不明である。 質問の回答は篠田が書いたものであるが、 「手真似」 を用いたのは 2 回であった。それは、 「唖人ノ教師ヲ. 1.はじめに. 用フル時ハ、話ハ⾯倒ダカラトテ時ニ手真似ヲ持出 スコトアルベシ」、「⽣徒入校ノ日ヨリ出来ル丈ケハ. 『⼩⻄信⼋先⽣存稿集』に収められている「⼩⻄校. 手真似ヲサセヌ様ニ骨ヲ折ルコト肝要ナリト」の部. ⻑が唖⽣教員練習科⽣に対し講演されたるものの抄. 分であり、いずれの「手真似」も教育上のマイナス要. 録」(1)には、 「手話」 「手真似」 「符牒」という語彙が混. 素として書かれている。. 在している。これは明治 38(1905)年頃、当時練習科⽣ だった三浦浩が⼩⻄の講義を筆記したものが元とな. (2)【聾唖教育】に見られる語彙. っており、⼩⻄が一定期間内に語った講演の抄録で. 同じく明治 21(1888)年の【聾唖教育】では、「聾唖. あるにも関わらず語彙が混在している。何故か。. ニ⾔語ヲ教フルニ二法アリ」とし、 「符牒」を用いる. そこで、 「手話」 「手真似」 「符牒」を始め、手話関. 方法と「尋常ノ⾔語」を用いる方法を挙げている。 「符. 連語彙について使用状況を調べることとした。また、. 牒」について、図 1 のように説明している。. 同じく『⼩⻄信⼋先⽣存稿集』に収められている「聾 唖教授法の五⼤別」(2)や、『⼤日本教育会雑誌』に収 められている「聾唖教育」(3)、「盲唖教育ニ就キ質問 ノ回答」(4)についても使用語彙を調べた。 なお、先行研究については調べられておらず、今後 の課題であることを最初にお断りしておく。また、語 彙の読み方が不明なものも多く、これも今後の⼤き. 図 1【聾唖教育】. な課題である。. 50.
(14) 「自然ノ符牒」については、次のように説明してい. により「⽗親」や「善」を示したり、 「子指」により. る。アメリカの書籍の翻訳ではないかと思えるよう. 「⺟親」や「悪」を示したりすることだとしている。. な⽂⾯である。. この部分を次に引用する。. 喜怒哀楽ノ情ノ自然ニ顔⾯ニ発スルハ顔⾯種種ノ筋. 手真似に自然のと人為のとあり、承知を示すため頭を. 肉ノ弛張ニヨリテ変態ヲ呈スルガ如シ、独リ顔⾯ニ止. 上下に動かし、不承知を示すため頭を左右にふる如き. マラズ身体ノ運動之ニ伴フコトアリ、(中略−⻄野). は各国人が同一を約せずして同一に用ふる類を自然. 事事物物其殊徴特性ヲ見出シテ之ヲ表示スルコト極. と云ひ、我聾唖⽣は⽗親を示すに拇を用ひ⺟親を示す. テ巧ミナリ。. には子指を用ふるに、英国聾唖⽣は善を示すに拇を用 ひ悪を示すに子指を用ふる類を人為と云ふ. 上記の引用⽂に続けて、 「書籍」 「帽子」 「⿃」 「犬」. 「指字」の説明としては、 「⻄班⽛の僧」や「アベ・. の表現方法を示し、 「校⻑」と⼩⻄自身の「符牒」を. ド・レピー」を紹介した後、古川太四郎、丹羽確九郎、. 紹介している。さらに、 「湯屋」 「⼤工」 「砂官」を紹. 奥好安が工夫した「指字」を紹介している(「丹羽確. 介した後、 「以上ノ符牒必ズシモ自然符牒ト云フ可ラ. 九郎」は「丹羽雄九郎」の誤植と考えられる)。. ザルモノアレドモ、概ネ各国ニ通ジ自然ニ出ルガ如. 「符牒」が用いられているのは次の部分である。. シ、故ニ斯クハ云フナリ」と書いており、挙げた例が 必ずしも「自然符牒」とはいえないことを示している。. されば我々は教育者の単純なる理論のみを傾聴し聾. 「人造符牒」については、 「指話」と同義とし、丹. 唖者自身の不利を顧みざる如きは宜しく避くべきこ. 羽雄九郎の「指ヲ以テ片仮名ニ擬」す方法や、古川太. とと信じ好んで自ら種々の符牒を工夫して之を聾唖. 四郎の「指いろは」を紹介している。. 者に強ゆることはなさゞるも聾唖者が慣用する符牒 を借りて説明の方便とすることをば恥辱とせざるな. (3)【五⼤別】にみられる語彙. り. 明治 34(1901)年の【五⼤別】では、「The Manual. 教育者が工夫するものや、教育者が説明時に用いる. Method」を「手真似法」と訳している。そして、 「予. ものを⾔い表すには、 「手真似」よりも「符牒」の方. は手真似法といふ方分りよしとすれども其実符牒法. が適当だと考えたのであろうか。. が適当ならん」とも書いており、 「手真似法」という 名称が⼩⻄の工夫であるかのように読み取れる。. (4)【講演の抄録】にみられる語彙. 【五⼤別】の「手真似法」の章では「手真似」が 15. 明治 38(1905)年の【講演の抄録】の「読方」では、. 回、 「手真似法」が 4 回使われており、 【聾唖教育】で. 「符牒(手マネ)」と「指字」について図 3 のように説. 使われた「符牒」は 2 回、 「符牒法」は 1 回となって. 明している。. いる。. 「符牒に自然と人為との二あり」と書いた後、 「自然. 「手真似法」について、図 2 のように説明している。. の符牒」の説明はあるが、 「人為の符牒」の説明はな い。また、 【聾唖教育】に見られた「自然の符牒」の 例を同じように紹介しているが、それが「自然」か「人 為」かの説明はなくなっている。 「指字」については【聾唖教育】の「指話」の説明 と酷似している。. 図 2【五⼤別】 「自然の手真似」の例として「承知、不承知」を挙 げており、その範囲は【聾唖教育】に比べて狭くなっ ている。また、 【聾唖教育】では「人造符牒」は「指. 図 3【講演の抄録】. 話」を指したが、ここでいう「人為の手真似」は、 「拇」. 51.
関連したドキュメント
このように,先行研究において日・中両母語話
鎌倉時代の敬語二題︵森野宗明︶
ところが,ろう教育の大きな目標は,聴覚口話
強者と弱者として階級化されるジェンダーと民族問題について論じた。明治20年代の日本はアジア
第四。政治上の民本主義。自己が自己を統治することは、すべての人の権利である
非自明な和として分解できない結び目を 素な結び目 と いう... 定理 (
太宰治は誰でも楽しめることを保証すると同時に、自分の文学の追求を放棄していませ
7.自助グループ