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『明治三十年御題歌共進歌集』について ―諒闇と旧派歌人―

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﹃明治三十年御題歌共進歌集﹄について

1諒闇と旧派歌人1

明治の御世となり、文明開化という新政府の行政方針が打ち出さ れた。明治新政府の政策である文明開化の直前にあったのは王政復 古であった。しかし、近代国家ヘの歩みに新政府が踏み出したなか で、新政府の神祇省は明治五年には教部省に改められ、さらに社寺 の廃立、神官・僧侶の任命昇叙など制度の改革もあったが、宗教政 策の転換にょり、その教部省も明治十年には廃止、事務は内務省に 移管されるなど国学者たちの失望は大きかった。 島崎藤村の﹃夜明け前一は、藤村の父、島崎正樹をモデルとLた ものであるが、代々が中仙道の馬籠宿の本陣や庄屋、問屋をつとめ る財力豊かな名家であった。平田国学の信泰者であった島崎正樹は 新政府で官職を得るが、新政府に不禦募り直訴のために明治天皇 の馬車めがけて自煽を投げ込むという事件をおこし郷里にて幽閉、 ついに明治十九年に牢死している。国学者の夢見た新時代の幻影は 消え、明治の御世は﹁和沈洋才﹂という不思繋一呈にのって進め られてぃくこととなった(大阪天満宮の神官で和歌結社倫社の運 営にあたっていた滋岡従長の印に﹁和塊漢才、一の陽刻がある。天満 はじめに 宮の祭神菅原道真に因むのは当然ながら、明治期に﹁和魂洋才﹂の 語と共に国民に持て嚇されたフレーズであった)。今なお、年頭の 文化一乱である宮中御歌会始(明治期は﹁{呂中歌御金が呼称の場 合が多い)は明治七年に国民一般からの詠進も広く認められように なり、明治十五年からは天皇御製とともに一般の詠進歌が新聞など で発表されるようになった。これらは御会始を起源とするが、室町 時代には中絶しており、正月の独立儀式の記事で確酪きるものは ︹﹂1︺ 閑十年(文他元年)という。 和歌は明治天皇、正賢皇后ともに好まれ、両陛下の御作が国民に 広く親しまれて、近代皇室のありかたが理想的にとらえられるのに {注2︺ 役立った。 本稿は、宮中御歌会の詠進が一備のために無かった明治三十年に 出版された歌集﹃明治三十年御題歌共進歌集﹄について紹介考察 していきたい。旧派歌人たちが、宮中御歌会と諒闇にいかなる態度 をとったのであろうか。さらに、関西旧派和歌の有り様について考 え犬一し

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﹃明治三十年御讐進歌集﹄という和歌集の出版されたいきさ つは、同歌集に附載の﹁0社止巳にあきらかである。次にあげる。 0社告 一本年御題和歌は嘗て広告の通大坂府立博物場美術館内ヘ二十 九年十二見より本年一月迄陳列せし處追々諸国より出品者有 之誓至り皇太后宮陛下の御崩御あらせられしにょりて世間 は諒闇となりて例の御歌会も不被為執行にょり一月十一日以 後は出品者も絶果僅に集りたるのみにて誠に遺憾の事なり 一雲隠集の詠草も募集せしかとも是も一向に出詠者少く候に付 無拠出版を見合候間備集ヘ出詠者は宜敷御承諾あらんこと をメ布ふ 一御題歌集は余り袈少く候に付今般発行の近悩三百人一首二 編と合本として送木す予約金に付ては別紙の通広告差添候也 桐園吟社主 ﹃明治三十年御題歌共進歌集﹄所載の和歌は旧派の和歌らしく、 平穏なだらかなもので朗詠、音読を意識した語調語格を整えたもの で、旧派は﹁口聖局く(しなたかく)﹂ということをよくいう。こう した和歌が並ぶ歌集では、司備﹂であっても、ことだてていう人 がいない場合は、控えめな出版物ならば出版可能な時代であったこ とに明治三十年という時代がおおらかな時代であったといぇよう。 桐園吟社は、大阪における旧派歌人の一人、弾琴緒の経営する和 歌結社であるが、和歌社中であり、和歌専門出版社の名でもあっ

た。弾希は一再撰類陌女早集初編﹄の刊行が出版事業的にあ

一、﹃明治三十年御題歌共進歌集﹄ たり、﹁類題秋草集﹂は初編で二編の刊行を止め、明治二十二年か らは﹃近世三百人一首﹄の刊行がはじまり、続けて﹃明治五百人一 首﹄(明治二十三刊)・﹃明治五百人一首二編﹄(明治三十工年刊) や﹃和歌千草の花﹄(明治二十六年刊)が類題和歌集として﹃類題 鮑玉集﹄﹃類題鴨川集﹄以後の刊行物として企画が展開するわけだ ︹注5︺ それらの麹集とは別に宮中御歌会(宮中御歌会・宮中歌御会) 力 の御題詠進歌集﹃御代の花﹄の毎年刊行が明治十七年からはじまり、 これは順調な事業展開であった。また、私家版歌集の出版請負、委 託刊行などを細やかに一荏して、これら不良在庫の無い私家版出版 業務にょって、旧派歌人の歌集を多く今に残すこととなった。 さて明治Ξ十年、皇太后宮陛下御崩御にょって﹁例の御歌会も不 被為執行にょり﹂、﹃御代の花﹄も発刊取り止めとなった。いわゆる 一倫にあたり、歌排音曲は勿論のこと一切の華やかな雅事は取り止 められ、宮中御歌会もその例に漏れない。 しかし、弾琴緒は﹃御代の花﹄が発刊できぬなかで歌集発刊をあ きらめられずに、苦しい一策を立てたのが、﹃明治三十年御題歌 共進歌集﹄の発刊であった。近代国家大日本帝国宮中行事としての 形が定着しつつぁるなかで、和歌四詠進が取り止めとなったのは皇 室墓ポからは当然な成り行きであるが、既に一霊和歌は集りつつ あった。﹃御代の花﹄は中止して、﹃御代の花﹄の書名は偉って﹁花﹂ の華やかな字をはずし、﹁共進歌集﹂とおとなしく控えめな書名で 発刊したわけだが、必ず雌入読者がいて、和歌作者たちにょる買い 取りの部数翁けることを踏んでの出版ではあるが、発行部数は多 くなく、現存部数も少ないようである。弾琴緒の桐園社版では異装 本や特装本、色々な装丁本が、どんな歌集にもよく見られるが﹃明

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治Ξ十年御題歌共進歌染﹄の場合は特装本というものの存在自体 が立認闇﹂には相応しくないために、黛六版はなかったようである。 また﹃明治三十年御題歌共進歌集﹄自体、その刊行経緯から十 四丁という苅冊で、序文践文もなく、禦凹との合冊(﹁近世王百人 一首﹂との合冊)という桐園社版には珍しい休裁となっている。次 その輩赴をあげる。 、 こ

書名・﹃明治Ξ十年御題歌共進歌集全一(器四方器)

書形・中本一冊(﹁近世三百人〒回﹂との合冊) 丁数・十四丁(﹁近世三百人一首﹂序文一丁、本文二十四丁と の合冊、合冊の鞭一菜あり) 刊記・明治三十年十月二十一日印刷 正価三十五鉞

同同年十月二十七日発行

大阪市東区高器三丁目五十九番厩

編輯兼発行者 耳1 、'乏^^ 大阪市南区鰻谷東ノ町百七十五番屋敷 εⅡ届1老 一、剛田^羽1 ーの巻末には二つの広告文が附載されており、その広告文もあげ てみたい。 桐園珍蔵短冊帖毎年一月初会二陳列シテ 来会者二展観セシム 記、木下長啼子、佐川田昌俊、山本舟木、鳥丸光廣卿、岡本 宣就等ノ古築ヲ編入シ其他ハ元禄以来明治年代ノ有名家ヲ蒐 輯ス但明治年代ノ現存人ハ加へス 一此集詠名姓名ノ傍二某門"寵シタルハ歌人t需卜古学小伝及 鑑定得等ニヨリ記載ス又某門人ナルヤ詳ナラサルハ、記セス 一此集ハ悉皆短冊ノミニテ短冊帖一憂置ス依テ契沖、東麿、 省一長、篤胤等ノ五大人ハ表具シテ幅トナルヲ似テ此集 .ー. 、 ニハ編集セス 一明治維新前ハ江戸卜云ヒ維新後ハ東京卜称スルヲ似テ其歌人 ノ年代ニヨリニ様二記セリ見ン人イプカシムコト勿レ 一此集中二入タル古今有名家由詠自筆ノ短冊ハ余分沢山有之二 依リ望人ニハ相当ノ価ヲ以一驫与致スヘシ因テ其人名ヲ記シ

テ御譽ヲ乞

短冊番に﹁叢﹂などという昂が捺されたものを、今も短冊専

門の古美術店の売品のなかに見かける。これはこの展観品や弾琴緒 出版歌集に所載の和歌短冊であることを示すものであり、このこと (注6) については小林強氏の﹁架蔵短冊資料点描﹂に既に指摘がある。短 冊裏面に︹叢﹂などとした豆印が捺されていて、印(豆印)の種 類鷲種かあり、印の色に朱や女'ど数種があるのは、所載歌集が 異なるからである。こうした弾琴緒の編集にょる刊行歌集掲載の短 冊で売品になったものの光価はやや﹂局めに設定されていたようで、 和歌も秀歌で美短冊に限るからであろう。次の広告は巻末半丁、奥 付の手前に載る。 雲7緒撰輯

0明治五百人一首嘉上美濃紙摺美本一冊

近世三百人一首二編

歌数内譯春部七十四首夏部三十二首

秋部六十四首冬部四十一首 亦都一十二首雑部六十七首 一此契初編ヨリ範囲ヲ広クシ南朝以後ノ故人浄ヘ郡師、樂凹

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定価金四拾銭

但出詠者二限リ正価郵税共前 短冊〆切三十年十一月Ξ十日限金Ξ十二銭郵便切手ハニ割増此 書ハ前編ノ通皇族華族以下有位ノ貴紳及有名宗匠ヨリ現今ノ歌人達 五百名ヲ集メ秀歌一首宛精選シ西季恋雑二部分シテ出版ス尤此轡ハ 去明治二十六年予約広告シテ九分方募集済ノ處先年来多忙ノ為メ出 版延期セシカトモ既二当今撰歌済ニテ何時ニテモ出版可致候間前記 ノ期日迄四季恋雑ノ秀歌六葉ヲ上等短冊ニヲ之レニ予約金ヲ附ヘ テ至急御郵送被下度伏テ希望ス 但出詠老十名以上ヲ紹介スル諸君ニハ本書一部ヲ呈上スヘシ ﹃近也三百人一首﹄の初編の短冊も売品として捌かれたとすると、 合冊された﹃明治三十年御題歌共進歌集﹄は桐園社出版としてし たたかな経営工夫が込められていることになる。 また、﹃明治五百人一首二編﹄の広告文末尾に﹁但出詠老十名 以上ヲ紹介スル諸君ニハ本宝旦部ヲ呈上スヘシ﹂などと明文化され ているところはまとまっての注文には面勢ない人物からのものも あったのであろう。大阪朝日新聞には頻りと広告を載せていた桐園 社出版物は、メディアを通じての賊買者を募り、それは新派歌人だ けではなく旧派歌人たちも朝日新聞にょって過情世事を知り出版物 を郵送にょって買い求める時代であり、和歌結社という小さな世界 で和歌の社中歌集を上梓するという旧来からの出版システムを保ち つつ、もう一方では新聞にょって多数の購買者の獲得に盛んに励む。 (住7) 西村天囚(時彦Y 磯野秋渚の編にょる﹃古今歌話﹄はもともと 大阪朝日新聞の投稿欄で、読老投稿であるが投稿者氏名も載り﹁桐 園﹂(弾需)もその一人であった。編名は投稿の採用不採用の選 考基準には歌話のおもしろさより、歌話の要である和歌の良し悪し に重きを置いたという。当時の読者の高い見識も、編者の見識も窺 え、文化欄にはレベルの高さを誇った大阪朝日新聞が読者に支えら れた新聞であったといぇよう。 世の多数の理解老を占めていた旧派は近代国家の国民行事である 宮中歌御会に参加するという人々の心持を充足させる歌集の中止に は踏み切れなかった結果の出版というのが﹃明治Ξ十年御題歌共 進歌集﹄といぇそうである。また、出版社経営者としての弾琴緒は 既に少なからぬ和歌が集められているなかでの、歌集刊行中止には 踏踏があったということであろう。 ﹃御代の花﹄という題名で、年々に勅題の題那和歌を編集してき た弾琴緒発刊の歌集が、一倫にょって中止になることを惜しんでの 発刊という経緯があったわけだが、所載される和歌は﹁諒闇﹂に抵 触しないのであろうか。﹁本年御題和歌は嘗て広告の通大坂府立博 物場美術館内ヘ二十九年十二月本年一月迄陳列せし﹂と作者染筆の 短冊が大阪(坂)府立博物場美術館での陳列展覧が行われたという 点は近代的な企画といぇよう、百枚にも及ぶ短冊の陳列された様は 壮観であったろうが、これらは展覧後そっくり弾琴緒コレクション となるわけであった。 では﹃明治三十年御題歌共進歌集﹄に所収の和歌をみていきた 同書には序文巻頭など一切無いため(弾琴緒の刊行歌集には珍 0 V ニ、﹃明治三十年御題歌共進歌集﹄所載和歌

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しい、諒闇に触れるという事情から細かい配慮がなされたわけであ る)いきなり和歌の配列があるが、巻頭一丁は第一等から第十等に 選ぱれた秀歌が誓。巻頭一丁をそのまま次にあげる。 御題歌共進会歌集明治三十年 杉、呆二禾多;寸

第一等上野国勢多郡

君か代の千出をかさぬるいろとみむ松かけひたす竹かはのみつ

第二等伊予国湯泉郡

潮見琢磨 あすか川水にうつれと松暴のいろはふち瀬とかはらさりけり

第三等越後国北蒲原郡

菅業廣

ケ昊寸 川かみの旧江いはむらのいは根松なみのみとりに影っつすなり

第四等摂津国武庫郡従七位阿部光忠

西宮町 いす、川か、みの淵にかけみぇて千代もおいせぬ松のいろかな

第五等三河国渥美郡

富田築羽 戸田t工寸 池みつのみとりいろこきひとむらは汀のまつのうつるなりけり

第六等大阪市南区

加納鶴處 鰻谷西ノ町 くみとりてさ、けまつれや仙人もよもきか島のまつのしたみつ

第七等陸奥国南津軽郡

宇野祐三 L、叛fす 亀あそふ山したみつにあしたつの巣こもる松のかけそうつれる 白Ⅱ寸半jキ

建野廣

第八等Ξ河国賓飯郡

山本一鴛

丕野

みなそこにひそめる龍かとはかりに岸の老まつかけひたすなり

第九等羽後国山本郡

水元勝光 峯.^1J 神垣のまつをひたせるみたらしの水はそこまてみとりなりけり 艮音5禾Ⅱヲ

第十等石見国邑智郡

矢上都 なかれゆく水には色のうつれともまつのみとりは汲れさりけり 全丁表S 一玉) この第一等から第十等までの十首は、身分や地域を越えた秀歌で、 これらあとは東京からはじまる地域別、さらにその地域での身分高 位の人々から並ベられている。はじめに但し書きがある。その部分 も含め、次にあげたい。 0集歌此集中には高吟秀詠もあれども予約外の分は撰歌に入れ ざるもあり又弊海し難きあり導一に適せざるあり﹁て にをは﹂及係結辞の雙るあり自他の反対せし歌もあれ ど其侍載鍔す

束京正二位

池田茂政 葉かへせぬ松は常磐のいろみぇて水にも千代のかけそうつせる

同従三位侯爵

前田罰応 やまみちもとほくひらけてゆけとく松の影みるたにかわの水 老旦隆]k Ⅱ召

同正三位伯爵

わし津山のほる朝日にはま松のかけみるなみはみとりなりけり

(6)

同正三位

前田利聲 色かへぬときはの松もたに川のみつのなかれにかけうつるなり 諏訪忠元

同従五位

ちとせ川おなしみとりの水のうへにうつるもひさし岸の松か枝

青木修

同下谷区上野

桜木町 濁なきみその、池にえたたれて千とせのかけをうつすまつかな 先光清風 ﹁ ゐるたつのすかたもさやに池水にうつる松か枝かけのとかなり

同下谷区

申橋隆美 中根岸町 こ、のへの御池のみつにかけうつる松こそ君か千代のともなれ 豊田三叔 雁Ⅱ 朝日かけさすやみとりのかけみぇて松に千年をちきるいけみつ

東京従四位子爵

大河内かす子 プく河内信好叫 千年ふるときはの松のかけみぇつしたゆく水もおなしみとりに

同子爵土岐頼知

土岐常磐子 室 天皇のめくみもふかきいけみつにちとせをしめる松のかけかな

同同氏

同米子

息女 さくら田のみほりにうかふ松かけは治る御代のすかたなりけり

同同氏

同いく子

息女 君か代のめくみそふかきいけ水にうつれる松のかけゆたかなり

同従四位男島

泗井鉄子 酒井忠淳息女 ときはなる松のちとせのかけとめてことさらすめる昆陽の池水

同従五位

諏訪晴子 諏訪忠元室 さ、浪もた、ぬ御園のいけみつにときはの松のかけそうつれる 河合象子 東京 朝つく日にほへるいけのさ、波に千代のかけみる岸のまつか枝 牧野かつ子 Ⅱ そこきよき池のみきはのまつか枝はかけも常磐のみとり也けり 和歌の配列は身分にょり、男性の後に女性が並ぶが、宮中御歌会 の常連の前田利嗣県軽承昭、家族全員の和歌が並ぶ諏訪忠元など 轟の人々のあとに河合象子(かわい・きさこ)のように後に女学 校教師になって一冊歌集令河合象子歌集﹄)を後年上梓しているが、 近代諮一や近代和歌結社とは関わりを一生持たずに人生の歩みに常 に心の記録として詠み続けた人の若い時の一餉が拾えるのは、﹁旧 派歌人﹂と一括りにされてしまう近代の和歌にこうした人々の詠み があったということを考えたい(奥浜名湖に流れ込む、都田川の河 口から一加前方﹁みおつくし橋﹂の手前に河合象子歌碑が建つ)。 (;主S) 大阪には小野利教など、大阪朝Π新聞に投稿者として知られた歌人 がいて、宮中旧派歌人の中心を占めた桂園派だけではなく、また新 派の星菫派や根岸短歌会などにも属さない歌人が多くいたのであ る。それらも近代日本の朱ノみのなかの人々である。 東京だけで、十八首、次の京都は非常に少なくΞ首弾琴緒の本

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拠地の大阪は二十一首と多い、京都には邦光社など華族や旧派でも 旧来からの遠藤千胤など香川景樹の桂園派の勢力が強く、弾琴緒な どは論外視さえしていたような節がある。邦光社歌集には弾琴緒の 和歌は低くはない扱いを受けてはいるが、大阪での歌人とみなして いたようである。和歌の中、心は京都であり、大阪で和歌を集めるな どは認めていなかったのではないのか、﹁邦光社大阪﹂と銘打った ものもあるのは、京都を中心とするからである。﹃邦光社歌会第二 集﹄(明治二十二年九月十五日出版・述藤千胤薯作者兼発行者)な ど開くと、大阪は正六位山内芳秋からはじまり渡辺資政、滋岡従長、 弾琴緒、松岸恭明(萩原広道の晩年の弟子で広道の原稿を多くもつ ていた)、平瀬春愛(蠣婦大尽の粋名で花柳界にも知られ、茶人に は平瀬露香で知られる。茶道具では﹁千草屋﹂の名で扱われものは 平瀬露香旧蔵をしめすJ、﹁国学和歌改良不可論﹂の著で旧派歌論 の中心的存在となった武津八千穂(ふかつ・やちほ)、河内一宮で ある枚岡神社の名門神官家として宣教講釈で名を馳せた水走英忠、 旧派女流歌人として多くの門人を抱えた天満宮の滋岡八千子など数 だけでも三百五十一首会言五十一人)も集めているのには、弾琴 緒の桐園出版物の規模は遠く及ばない。﹁邦光社歌会第一至には 弾琴緒の義父(妻の父にあたる船場の医者)笠原百春も入り、大阪 の三百五十一首中に第六首に弾琴緒の和歌が採られていること師 琴緒はそれなりの位地に置かれており、中村良顕は十二首目という 弾琴緒よりも軽い扱いであることは、弾琴緒の出版物に比較する時

には少なからぬ驚きを禁じえない。再び一明治三十年製変進

歌集﹄に戻りたい。 (庄聖 では、大阪の二十一首をあげる。中村良顕を頭に据えるのは弾琴 緒の編集物であるなら当然のことであろう。船場の富裕な商家の旦 那に交じり、天満の天満宮の神職たちが並ぶ(寺井・滋岡)のも大 阪らしい。また住吉神社宮司の津守国美男爵が載るのも諒闇でこと だてぬ出版には都合がよかったことかと思われる。では、大阪の部 分をあげる。

火阪東区

中村良顕 瓦町二丁目 かけうつす松の千とせをわかみつにもひとり司くみやそへけむ 安井朗安

同同区

平野町一丁目 苔ふかきいはねのまつのψξきてみとりいやますたにの青ふち

大阪東区

伊藤齋庸 高麗橋二丁目 ときはなる松のしたゆく河みつはいつも千年のかけひたすなり 米岡斯近

同同区

府立博物場 幾千代かまつのみとりをうつすらん五十鈴の川のきよき流れに

吉田基

同同区

今橋二丁目 たけ川の水にちとせをちきるらむまつも常繋のいろをふかめて

同同区

福島正察 茄麦汀 千代やちょすめるか、みの池水に御代のさかえをうつす松か枝 中山正次

同同区

なみた、ぬ与謝のうみ辺のはま松は千尋の底にかけうつすなり

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同同区

高麗橋Ξ丁目 松か枝のかけをうかへて千代まても清くすむらん常磐井のみつ 飯田政子

同同区

備後町 まつか枝のみとりをうつすいけ水に君か千とせをうたふとも鶴

同西区立売堀楠原志朗

北通一丁目 浪た、ぬ御池のみつにかけさしてしつけき代をや松もしるらん

同同区江戸堀平井美英

南通一丁目 さ、ら波千代をよせくるいけ水にみきはの松のかけそうつれる

同同区江戸堀崎山しう子

北通二丁目 澄わたる御池のみつにかけみぇて千代もさかえむ園のおいまつ

同南区八十九翁真鍋豊平

天王寺村 くもりなきか、みの池にかけとめて千年の色をみするまつかな 吉田好信

同同区

難波新地 住の江にうつろふまつのふかみとり深きめくみの御代そ久しき 寺井種清

同北区

天満神社 まつか枝のみとりうつしてみかは水かはらぬ御代の影そ久しき 滋岡従長

同同区

武内鶴子

同神ネ

岩ふちのみつはいよくみとりにて、一しほふかき松のいろかな

同大阪北区中之島八十翁甲斐高嶺

六丁目 老松のすかたをうつす御園生のいけのか、みは千代もくもらし 牛尾光碩

同同区

樋上町 あまつ日のひかりか、やく水の上に松の千年のかけそうつれる

同同区天満橋筋北山竹窓

二丁目 波た、ぬみにはの池のみつの面に常嬰のまつのかけそうつれる

同同区天満橋筋同きく子

二丁目 あおふちの千尋のそこに影みぇて峰よりうつるまつのむらたち 玉澤冬子

同同区

相生町 門まつのみとりのかけそうかひけるまつ汲あくる若水のうへに 大阪の歌人のなかの配列に弾琴緒の和歌は見えないが、弾琴緒の 和歌はこの位置には置かれず、巻末に妻や娘の愛子とともに置かれ ている。﹃明治三十年御題歌共進歌集﹄が諒闇のなかで出版され たという特殊な事情が働いたからかもしれない。また和歌作品に も、やはり慎重な吟味が働いていればこそ和歌配列の前にもことさ 三、旧派歌人にとっての和歌

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らの語、﹁近世三百人一首第二編﹂も添えられたようである。、禽の なかで出版された本はさほどにも売れる気配がなく、、倫のために 企画した歌集の﹁雲隠集﹂は頓挫して、他の歌集﹁近世三百人一首 第二編﹂と合冊してょうやく出版に漕ぎ着けた﹃明治三十年御題 歌共進歌集﹄は所収歌数が少なく、薄い装丁(内題は﹁御題歌共進 会歌集﹂が十四丁、﹁近世三百人一首第二編﹂は二十四丁、それぞ れ分冊して刊行できるような丁付になっている。合冊でも合計Ξ十 八丁Jの本となった。末尾に据えられた弾家の人々の和歌をあげる。 0追加

大阪市東区届橋

単考1 糸 三丁月 老まつの千年をうつすいけ水はかはらぬ御代のすがたならまし

同同琴緒妻

同椛子 Ⅱ かけうつす水のか、みに松か枝は千代ヘてのちに老をしるらむ

同同同女八歳同愛子

朝日川みとりふかむる老まつは千代よろつ世もかけうつすらん 弾琴緒家の男子は、みな夫折で愛娘の愛子が和歌の学統家学を継 ぐこととなるわけだが、和歌の添書きには﹁八歳﹂とあり幼稚な作 を宥恕願うという旧派らしい配慮がなされている。時折、佐佐木信 綱短冊の幼な書きに﹁六才﹂﹁七才﹂と認めた自筆をみることがあ るが、﹁歳﹂はなく﹁才﹂の用字に警ましいものがある。竹柏園 歌会で大人達に交じつて鎖座した子供の和歌が披講にょっ磊み上 げられたことを思うと、旧派にとって和歌とは人格形成や人物修 養、礼儀作法習得なども併せ持った学芸であったことに改めて思い 至る。現在でも茶会の大寄せ雫勢しい少年が中年の人々に交じつ て白扇を誓緊張した面持ちで参﹂座しているのをみると、かっての 旧派の月並歌会もこうした風書珍しくなかったのであろう。﹃明 治三十年御題歌共進歌条﹄﹁東京﹂のところにまとまってのせられ ている諏訪家や士岐家上いう華族工永では受おお稽古のように噌 ︹注H︺ むのが、和歌であった。宝塚音楽学校でも小林三二翁は、自ら文学 趣味があったためであるが、生徒たちの瓣台での名前は百人一首か ら採ることを定め、音楽学校の講義のなかにも和歌と書道を学ばせ たことは知られているが、音楽学校はじめのころ、ヅカ生達に手ほ どきをしたのが愛子であったと弾家では伝えている。 弾家の船場の家(料理の二度出し亊件で廃業になった﹁珍吉兆﹂ の場所は、もと弾家のあった所で、﹁吉兆﹂の創業者の湯木貞一と 小林一Ξは親交が深く﹁吉兆﹂の上客で、卦丁内では小林を﹁神様﹂ と呼んでいたという。偶然ながら勤務先の南アフり力共和国で、 N HK放送︹衛星放送]を通して、弾家当主の弾泰幸氏が﹁建物も変 わっていないし、なつかしく﹂ニユースに映る﹁船場吉兆﹂を盲 になったということをうかがったJ には見事奈白体のヅカ生達の 手紙が多くあったともいう。 ﹁雪月花﹂の組の名も大阪の女学校には多かったが、タカラヅカ より前からそうした名前で組分けがあったとかいう学校もあり伝承 伝朋の域を出ないこともあるかもしれないが、そうした環境情緒が 風を生むのではないだろうか。現在、ヌ里組があるが、﹁宙組﹂ の創凧は一九八八年一月一日、東京宝塚劇場の建替えを機に増設さ れた組であり、小林一三翁は預り知らぬことである。武庫川女子大 学附属高校では、生徒は今でも登校下校にあたり校門で深々と直立 礼をする。昔は名門女学校では皆今でも﹁タカラヅカと武庫女﹂

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だけがしていることと生徒は胸をはる。自己品格の堅持とは身だし なみに近い、関西の家庭における旧派和歌の習得は品格と教養の身 だしなみであった。 1 小川剛生﹁南北朝期の和歌御会始について﹂(﹃和歌文学研究﹄ 袷号、一九九九年六月) ドナルドキーン﹃明治天皇を語る﹄(新潮新書)・﹃明治天由乏 <1>(新潮文庫) ﹁9 弾琴緒1明治期旧派歌人にょる出版事業1﹂(﹃京大坂 の文人1続々々1﹄所収、二0 - 0年二月六日刊、和泉書院) 管宗次﹁弾琴緒﹃再撰類題秋草集初編﹄について﹂(﹁武 庫川女子大学生活美学研究所紀要﹂第加号、一弓一 0年十一 打十六日刊) 馨武至﹃類題和歌私記(東海学園国語国文馨第四篇)﹄﹁明 治類題集一、弾需﹂(昭和四十七年八月一日刊、馨武至 ^元イテ、 小林強﹁架蔵短冊資料点描﹂(大取一馬編﹃中世の文学と学問﹄ 龍谷大学佛教文化研究馨巧、平成十七年十一月十日刊)の 項目﹁弾琴緒の撰集関連の短冊の紹介︺にょる。 西村天囚・磯野秋嘉﹃古今歌話﹄(明治三十九年十月十日刊、 発行柳原喜兵衛・篠崎純吉) ﹃続浪華摘英﹄只葬打兼編集三島聴恵・大正五年十二月刊) 木村三太郎﹃浪華の歌人﹄(昭和十八年四月三十日刊、全国 2 3 4 5 6 書房) 9 岸田浩子・管宗次﹁明治期旧派女流歌人滋岡八千子について、 (﹃武庫川国文﹄四十五号、平成七年Ξ月十五日発行)・﹃武庫 川女子大学付属図書館蔵滋岡文書目録﹄平成十年二月二十 六日刊、島津忠夫・管宗次編) 木村三太郎﹃浪華の歌人﹄(昭和十八年四月三十日刊、全国 0 書房) 小林三二﹃私の行き方﹄(二000年八月刊、阪急電鉄総合 1 開発事業本部コミニケ︼ション事謙) (付記)本稿をなすにあたり弾家の方々(禦幸氏・弾昌子氏)に は感謝申し上げる。不運な経緯で和本や短冊の多くは散逸してし まったが、三十年以上に及ぶコレクション蒐集にお世話になった中 尾松泉堂の中尾重宏氏、玄海楼主人の野元淳氏には謝意を述ベた 短冊蒐集のなかで故中尾堅一郎氏に教えをいただいたことは、 0 し 筆者にすべて新知識であった。伊丹の旧家(伊丹にあって弾家とも 関わり深かったというが、霜不詳)から大量の国学和歌関係の資 料が出てきたときには、中尾堅一郎氏は、まだご健在で伴林光平関 係資料のことなどをうかがっていたが、その直後、筆者が病に倒れ たため調査研究は頓挫することとなった。また宝塚歌劇団花組の蘭 寿とむ様、生活美学研究所の笈田愛様(旧姓矢田部)には、ご厚情 賜ったこと御礼申し上げる。 7 8 (すが しゆうじ ノ

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