サント・ニ-ニヨ
《ラ・グアルデイアの聖なる子》事件
-その実在性について1.
林 邦 夫 (1988年10月5日 受理)
The Case of EI Santo Ni虎o de La Guardia : Diditreallyexist? (1) Kunio HAYASHI は じ め に サント・ニ-ニヨ 前稿1)において我々は《ラ・グアルデイアの聖なる子》事件(以下, (事件)と略記)に関する 諸史料を提示し,それらに史料批判を加えて依拠するに足る史料を確定し,次いで(事件)に関す る研究史を(事件)の実在性という論点から整理し,今後の我々自身の見解を固める上で検討の必 要があると判断される諸研究を決定した。本稿はこれを承けてこれらの諸研究に批判的検討を加え, (事件)の実在性に関する私見を明らかにすることを目的としている。2) Ⅰ (事件)の実在性に関する諸研究 この課題に入る前に,前稿成稿後に参看した6点の文献(※を付したもの)の検討を新たに加え て,更めて従来の諸研究を列挙しておく。 (1) Lindo (1848)3
(2) Jos6 Amadorde los Rios (1875)41
(3) MenSndez Pelayo (1887-80, 1895) (A)1877-80年。 (B)※ 1895年。6) Lope de Vega のごメディアEINi免oInocente deLa Guardiaに関する記述の中で,事件の実在性について,史料 1を部分的に引用した後に次のように述べている。 「この残忍な事件が厳然とした史実であること を理解するのには,この短かい抜粋で充分である。 (中略)ラ・グアルデイアの犯罪〔の実在性〕 を疑うことは殆ど出来ない。それは細部に至るまで裁判によって証明されたのである。被告人らの 供述は完全に一致しており,最初の最も重要な供述は拷問によって引出されたものではなかった。
それは仮令,孤立したものであったとしても〔つまり習慣的に行なわれていたのではないにしても〕, 憎悪に基づく悪魔的・迷信的な否定出来ない行為であった。残酷な者どもの一人の言うところによ れば,それによって「すべてのキリスト教徒が苦しみ,彼らの教えが滅びる」ことを実現せんと欲 した一種の呪術・妖術なのである」。著者の実在説の立場が,ここでも揺ぎなく維持されているこ サント・ニ-ニヨ とは明らかである。なお著者は虚構説に立つLeaに触れ, 「私見によれば予断をもって《聖なる子》 が「拷問と絶望によって生み出された単なる想像の産物にすぎなかった」ことを執鋤に示そうとし ている」と批判している。 (4) Fita (1887)' (5) Loeb (1887)* (6) Lea (1889, 1905-06)9) (6a)※ RodrigoAmadordelosRios (1904)10)史料1に基づいて(事件)の経過を記述し,最 後の部分で次のように述べて,実在説の立場をとっていることを示している。 「殉教を語る際には, ユダヤ人に対するキリスト教徒の明らかな敵意がないかどうか疑う余地があるにしても,文書が実 在していることは,遺憾ながら,事実の確実性を納得させる。まして私が特に言及している漬聖行 為〔即ち(事件)〕が犯されるずっと以前や以後に,無知の娘,迷信と狂信の母であり,多くの犯 罪の原因や起原となった野蛮に導かれて,それらを実行することがイスラエルの子孫の間で習慣と なっていたことが証明されたのであれば尚更のことである」。 (7) Sabatini (1913)id (7a)※ Walsh (1930)12)イサベル1世の伝記において著者は(事件)に触れ,史料1に基づい て(事件)を記述しているが,その前に次のように述べている。 「〔Fitaが1887年に史料を公刊した〕 その時以来,それが民衆の神話,或いは〔1492年〕 3月31日の勅令〔ユダヤ人追放令〕を正当化す るために異端審問長官によって堰を切られた反ユダヤ人プロパガンダの一つであったと主張するこ とに成功するのは,最早不可能となった」。著者が実在説に立つことはこの一節から明白である。 (8) Roth (1932, 1937)13) (9) Starkie (1940)14) (10) Llorca (1942)15) (ll) Baer (1945)16)
(Ha)※ Romerode Castilla (1943)17)一応,史料を利用しているが,前出Walshへの依拠が大 きいように見受けられる。実在性に関する見解を表明した箇所は次の通りである。 「Fita師がJuce Francoの裁判の一件書類(今日まで識者の間で知られている唯一のもの)を原文書から転写して 公刊した1887年までは,事件は民衆の神話,或いは異端審問長官が1492年勅令を正当化するために 利用した,信悪性のない反ユダヤ人プロパガンダであると見倣されていた」。 1887年以後は原史料 公刊によって(事件)の実在説が確認されたという見解が言外にあり,実在説であると言える。 (12) Lopez Martinez (1954)18)
サント・ニ-ニヨ 林: 《ラ・グアルデイアの聖なる子》事件 3 (13) Longhurst (1962)19) (14) Caro Baroja (1962)20) Azcona ¥ 21) (16) Kamen (1965, 1985)22)ノ (17) Sudrez Fernandez (1968, 1980)23) 17a)※ Beinart (1971)24)現代イスラエルの代表的なスペイン・ユダヤ人史家による事典の執 筆項目である。とくに(事件)の実在性について言及している訳ではないが, 《ラ・グアルデイア サント・ニーニヨ の聖なる子》を, 「スペインの民衆によって聖人として崇敬されるようになった血の誹誇(blood ・libel の被害者」としている。 「血の誹誇」はユダヤ人が過越祭の犠牲にキリスト教徒の子供を殺 害してその血をすするという伝説をさす言葉であり,元々事実無根の誹譲という立場から用いられ る用語であるから,著者が虚構論者であることは言うまでもない。 ニーニヨ (17b)※ Gutierrez (1971)25) 『スペイン教会史事典』の「ラ・グアルデイアの子供」の項目で (事件)の経過を適確に纏めている。 (事件)の実在性を疑問視する見解のあることには全く触れ ておらず,歴史的事実として記述していると言える。現在のスペインの最も権威ある教会史事典の 中でかかる記述が見られることは,スペインにおける実在説の有力さを如実に示している。 Carrete Parrondo (1977) 26) (19) Kriegel (1978)27) Leon Tello (1979)28) 藤田一成(1983- ¥29) これらの諸研究を実在説・虚構説に分けて示すと以下のようになる。
(A)実在説 (2), (3), (4), (6a), (7), (7a), (9), (10), (lla), (12), (14), (15),
(17), (17b), (20) (B)虚構説 (1), (.5), (6), (8), (ll), (13), (16), (18), (19), (21) 論者の数の上だけから見れば,実在説がやや優勢ということになる。 論者の信仰と所論との関係を見ると, (6a), (7a), (17b)はスペイン人であり,カトリックであ ると推断出来,またアメリカ人の11a はカトリックであり 30)以上の4者はすべて実在説に立っ ている。またユダヤ人の17a は虚構説に立っている。従ってカトリックの論者-実在説,それ 以外の信仰の論者(プロテスタント,ユダヤ教徒)-虚構説という前稿で指摘した傾向はここでも 妥当している,と言える。 さて,本稿で新たに加わった5人の論者について,本稿での検討の対象とすべきか否かについて 判定を下そう。 (6a), (7a), (Ha)は一応,史料1を利用して(事件) ・裁判の経過を記述してい るものの, (事件)の実在性に関する立入った議論は殆ど行なっていない。また(17a), (17b)は 事典の項目という性質上,当然であるが前3者と同断である。従ってこれらを検討対象とする必要 はないと判断される。そこで前稿で提げた(5), (6), (7), (ll), (12)*' (21)が,そのまま
本稿での検討対象となる。これら6人の内訳を見ると,虚構説4,実在説2となり,全体の傾向と は逆に虚構説の方が多くなっている。これは,実在論者がそれまで確たる史料がなかったために実 在性が疑問視される余地のあった(事件)が,史料1の出現によって実在性が完全に証明されたと いう立場に立ち,史料の内的批判にまで踏み込んでその可信性を吟味することを殆ど行なっていな いことによる,と思われる。史料1の内的批判を行なっているのは専ら虚構論者であり,実在論者 の議論はこれらの虚構論者とりわけ(5)に対する批判という形をとっている。しかしこの批判の中 には(5)が実在論者の論拠を予想して,それに批判を加えたものに対して更に反批判を加えると いうものも含まれている。そこで以下では,まず実在論者の批判にも論及しながら虚構説の論拠に 批判的検討を加え,次いで実在論者の論拠に同様な検討を加え,最後に我々の見解を提示すること にしたい。 Ⅱ 虚構説の検討 虚構論者4人の内,最も詳細な議論を展開しているのは(5)であり,他の論者の論拠の中には(5) の論拠をそのまま繰り返しているもの,多少ニュアンスや表現は異なるものの基本的には同一の論 / 拠と見倣し得るものがかなり多い。そこで(表1)において4人の論拠の関連性を示す。ここに示 された後三者の論拠の内, Loebの論拠と重複しない独自の論拠にLoebの論拠を併せたものが, 虚構説の総体ということになる。 ところで(事件)の実在性という場合に, (事件)の具体的内容が予め明確になっていなければ ニ-ニヨ ならないが,これは① (子供)の殺害と心臓の易り出, ②その心臓と聖別されたホスチアによる魔術 の実施, ③心臓とホスチアによる魔術を依頼するためそれらをサモーラのラビに届けようとしたこ と,の3点から成ると言ってよい。32) ②③は①が前提となっており, ①が虚構であれば自動的に② ③も虚構となる。従って(事件)の実在性の検討にとっては, ①の実在性が眼目となる。勿論①-③は連関しているから, ②③への疑問が①への疑問にもなるということはあるが, ①の虚実が, ① を繰る議論のみで決定され得るのであれば, ②③を練る議論は不要となる。そこで以下では,徒ら に議論が煩雑になるのを避けるため,虚構論の論拠のうち, ①に直接的に関わりのある論拠に限定 して検討を加えることにする。これらの論拠は, ①に具体的に関わるもの(例えば十字架の材料) のみでなく,時期的に見て①に至るまでの論拠(例えば誘拐者の問題)と(事件)全体に関わる論 拠(それは当然①にも関わることになる。但しこの場合,裁判の方式や異端審問官に対する論者の 批判など実在性の問題と直接的には関わらない論拠は除く)をも含めて考えることにする。かかる 基準から検討対象となる論拠を抽出すると く表1)で*を付したものがそれになる。これらの論拠 は, 〔B〕史料相互間或いは供述相互間の矛盾という史料そのものがもつ疑問点と, 〔A〕論者が史料 に基づく考察によって見出したそれ以外の疑問点とに大別出来る((表1)参照)。以下では〔A〕〔B〕 ニ-ニヨ の順序で批判的検討を加えていく。この場合,批判的検討とは個々の論拠が(子供)の殺害の虚構 ヽ
サント・ニ-ニヨ 林: 《ラ・グアルデイアの聖なる子》事件 表1 虚構説の論拠の対照表1) L oeb L ea B aer 藤 田一成 (D ョ - (砂 ゥ ョ ーョ CD ョ (D ■㊥ ■⑤ ④ ④ ∼㊥ * 〔B 〕 ⑤ ④ * 〔B 〕 ① ㊤ ① ⑥ , ② ㊥ ① ㊥, ② ④ ゥ ョ (診* /y ① ④ ①■④, ② ⑥ ●㊤ ② ■㊥ ㊤ * 〔A 〕 ④ ㊥ * 〔B 〕 ② ⑧ ② ④ ●㊤ ●④ ゥ ゥ 6 ) ㊤ * 〔A 〕 ④ * /I ョ 2) ■② ④ 2) ① ④ 2) ① ⑦ ④ * ■〔B 〕 @ ョ ② ① ゐ ⑥ @ ョ ② ⑥ ⑥ * /y ① ㊤ 由 * /y ① 径) ④ * /y ① ⑥ ㊥ * /I ① * '/ ⑧ * /I ⑥ * /I ① ⑥ ① ㊤ ① * // ① ㊤ ① * ク ョ * ① * /y ① ⑥ ⑧ ④ ① ⑨ ③ ④ ⑥ * 〔A 〕 ⑤ ⑥ ㊤ * /y (D * * ㊨ ⑤ ④ ⑥ ① ④ ⑥ ㊨ ⑥ * 〔A 〕 ③ ゥ 独 自の論拠 ② ㊤ ●④ ④ ② ④ ③ ∼⑨ ③ ⑥ 哀〔A 〕 1)各論者の論拠を整理した番号・記号は前稿で用いたものをその まま使用する。 2)時の問題については各論者の取上げ方が区々であり,細かな照 応関係を示すことは難かしいので,一括して時の問題として対照 させることにする。 5
性の根拠とは必ずしもならないことを示す試みとなる。 【A】 〔Ⅰ〕 (21)③⑥33)藤田氏は4人のユダヤ人が当局のでっち上げた架空の人物ではないかと推察さ ニ-ニヨ れている。34)人の内, (子供)の殺害に関わったのはTazarteとPerejonの2人である。この2 人が架空の人物であれば,彼らが関与した殺害そのものの虚構性の根拠となろう。 ところで史料4には, (事件)の起った当地であるラ・グアルデイアの教会の説教壇で,祝祭日 1 にBenitoの判決文を読上げるよう異端審問官が命じた,と記されているが35)これからして異端審 問官は当地の住民に(事件)を周知させようとしていたことが窺われる。かかる異端審問官が,人々 に(事件)の内容に疑念を抱かせる結果となる架空の人物(Perejonは当地の住民)を態々でっち 上げるであろうか。 〔Ⅱ〕(5)⑤㊤36)殺害に関わりのある様々な証拠品が発見された形跡はなく,史料1を見ると, 異端審問官がこれらの物品の行方について被告らに訊問していることも確かにない。しかしそれは 異端審問官がそれらが元々存在しないのを知っていたからだと断定出来るであろうか。現代の刑事 裁判であれば自白の証拠能力が制限されており,それが証明力を得るには物証などの補強証拠を必 要としょうが,当時は自白が最も重要な要素であり 37)有罪性を明らかにするための完全な証拠と 見倣されていたのである。従って異端審問官にとって証拠品の探索は必ずしも必要な作業ではなく, この場合もとくに探索は行なわなかったとも考えられる。裁判の行なわれているアビラと(事件) の地ラ・グアルデイアとは直線距離で140kmも離れており,簡単に探索の行なえる状態にはなかっ たのである。以上から,証拠品の不存在が直ちに犯罪の虚構性を意味するとは限らない,と言えよ う。 〔Ⅲ〕(5)⑥㊤38)この間題については(7)が矛盾の解消に努めており, 1488年にサモーラの Abenamiasに渡すべく託されたホスチアと, 1490年5-6月にBenitoが逮捕されたときのホステ アとは別物であるとすることで時間のズレを解消しようとしている。39)しかし1488年に託されたホ ステアに関する異端審問官の間に番えて, Yuceは, Benitoがサモーラへの途次,アストルガで逮 捕されたと彼に話した,と供述しており 40) Sabatini説には無理がある。強いて考えれば,同じサモー ラに2度ホスチアが同一人物によって届けられる企てがあったとするしかない。しかしそれなら第 1のホステアは無事届けられ,妖術がなされたと考えねばならないが,現存史料からはかかる事実 は全く窺えず,支持し難い。 さて, Loebは Yuceが1491年7月19日の供述で殺害が3年前の四旬節に行なわれたと供述して ニ-ニヨ いると言っている。この日の供述は,三つの部分から成り,その第3供述が(子供)の殺害に関す るものなのであるが,ここでYuc6は訊問に答えて,犯行の時を「四旬節,復活祭の前に」41)と言っ ているのみであって3年前の四旬節とは明言していないのである。恐らくLoebは第1供述が3年 前の出来事として語っている会合(心臓とホステアによる妖術の実施42)をYuceの判決における 第2の会合(心臓とホスチアによる妖術の実施43)であると見倣し,そして第2の会合が第1の会
サント・ニ-ニヨ 林: 《ラ・グアルデイアの聖なる子》事件 7 合の15日後であるというYuceのその後の供述1491年11月2日付)44,を念頭に入れて,第1の会 合も3年前と推断したものと思われる。しかし第1供述における会合では心臓はAlonsoが1人で ニ-・ニヨ 何処からか持参したことになっており,全員による(子供)の殺害によって易り出した心臓を用いた 第2の会合とは根本的な違いがあり,第1供述のいう会合が第2の会合とは断定出来ない。従って ニ-ニヨ (子供)の殺害も3年前であると確定し難い。 次にLoebは1490年6月6日のBenito供述は45)は逮捕の当日か翌日のものであろうとしている が,これは根拠のない想像にすぎない。史料1に含まれる最も早い日付のBenitoの供述が1490年 6月6日付のそれであることは事実である。しかし史料1は飽く迄, Yuc6に関する裁判文書なの であり,そこに他の被告の供述が含まれているのは,その内容がYuceに関わりのある限りにおい てなのである。従って上記の事実は,単にYuceに関わりのある最も早い日付のBenitoの供述書 が1490年6月6日付であることを示すのみであって,この供述が逮捕後のBenitoの最初の供述で あることを示すものでは必ずしもない Benitoの逮捕の時期は,同日以前であることは確実であ るが,いつであったかは不明であるとする他はない。このように殺害の時期, Benito逮捕の時期 が必ずしもLoebの推測通りとは限らないので,彼の議論が成立つとは言切れない。 〔Ⅳ〕 (5)⑥④46) Loebも言っているようにdonDavid-Devidde Perejonというのは仮定であ り,確実ではない。ここで問題になっているのは1490年10月28日付のYuceの供述47)であるが, Loebはこれを誤読している。この供述では, MoseがAlonsoを訪ねたときに, 「donDavidが死ん
で以来,こうした事柄について教えて呉れる人がいなくなった」とAlonsoが語ったと, Mos6が Yuceに1年半程前に話した,と供述されているのであり, 3年程前にAlonsoがYuc6に暫く前に donDavidが死んだと述べたのではない。 Loebは殺害を3年前1488年)としているのだから, ∼ 正確に読んでいれば,かかる疑問は起こらなかった筈である。 〔Ⅴ〕(5)⑧⑥48)半年の間に3回会合Lでいるのだから,しばしばという程でもなかろう。多く の人間の往来といっても,夜間のことであり,それも11人が一緒にではなく三々五々移動したと考 えれば人目につきにくかったと言える。洞窟はラ・グアルデイアの集落から離れた所にあった筈で, 夜中にかかる場所に集まるのを他人が目撃する可能性は極めて少ないと思われ,明かりについても 同様である。 ニーニヨ 〔Ⅵ〕 (5)⑧㊤49) (子供)の監禁場所をYuceはAlgodor河畔にある囲い牧地(dehesa)と供述 している50)が, LoebはFita51)に従ってこの場所をテムプレーケからMora-向かう旧道がAlgo-dor川と交わる付近と考え,更に殺害現場をラ・グアルデイアーOcafia間の道がEscorchon (現在 のCedron)川と交わる付近と想定し,距離を含めて犯人の足取りを次のように推定している。即ち, テムプレーケ -監禁場所- (13km) -テムプレーケー(4-5km) -ラ・グアルデイア ー(3-3.5km) -殺害現場- (3-3.5km) -ラ・グアルデイア。これで合計の移動距離は36-38km となり, 8時間を要するというのである。 Loebはこの行程が特に誰を念頭に置いたものか明記し ておらず,最小に見積ってもこれだけはかかるということかも知れないが,トレードからJuanが
ニ-ニヨニ-ニヨ (子供)を誘拐してきたとすると,彼の行程と考えることも可能である。つまり,トレードで(子供) ニ-ニヨ を誘拐し, Moraを経てAlgodor河畔に至り(子供)を隠し,テムプレーケまで行きYuceかMose の家に潜み,暗くなってから監禁場所-向う,という行程である。 ニ-ニヨ これに対して次のような行程を考えることが出来る。まずく子供)だけ残してくるというのは考 ニ-ニヨ えにくく, Yuceの供述52)にあるように2人で誘拐してきて, 1人が(子供)と共に残り,もう1 人がラ・グアルデイアまで戻り,帰宅の遅れる理由を取繕う。暗くなってから,残った者がテムプ レーケを経てラ・グアルデイアまで戻り,そこから犯行現場まで赴く。かかる行程を考えればテム プレーケと監禁場所の間を往復する必要はなく、なり,合計距離が13km短縮され 23-25kmとなる。 ところが現今の地図でラ・グアルデイアーテムプレーケ間を測ると 5kmではなく10kmはある。 すると合計距離は 29-30kmとなり左程短縮されなくなってしまう。 しかしここでフランコ兄弟が商業・運送業を生業としていたことを想起しょう。 YucSの供述に ニ-・・ニヨ よれば荷車でムルシアまで往復し,鰯棒を運び53) (子供)の誘拐のときも小麦をトレードに売り に行っている。54)ラ・グアルデイアからトレードやムルシアまでの距離を考えれば,この荷車は荷 馬車と見倣してよいのではなかろうか。 Loebが36-38kmの距離の移動に8時間を要するというの は,徒歩での移動を想定したものであろう。しかし荷馬車が使用されたと考えれば,所要時間はずっ と短縮するであろう。暗くなるのを待って,監禁場所から一気にテムプレーケを経て,ラ・グアル デイアまで荷馬車を飛ばし,そこからは徒歩で殺害現場まで向かう,と仮定すると一晩の内に犯行 を遂行するのは可能なのではなかろうか。 〔Ⅶ〕(5)⑧④55)所謂(ritualmurder)の一般的形式に(事件)が合致していないからといって 直ちにそれが虚構である,ということにはならない。
サント・ニ-ニヨ 林: 《ラ・グアルデイアの聖なる子》事件 9 〔Ⅶ〕 (5)⑧⑥56) Yucdとの会話でBenitoが全く警戒心をもたずに本心を明かしたという前提は 受容れ難い。 Benitoは自分と同じ嫌疑でYuceが逮捕されたのは知っていた筈であり,何よりも Yuceが逮捕されたのは,最初に逮捕されたBenitoが自らの異端行為にYuceが関わりのあること を示す供述をしたからであろう BenitoはYuceが自分と同様に訊問・拷問にかけられることは承 知していた筈であり,自分がYuceに語った内容が異端審問官に伝わらない,などと考えていたと は思われない。 【B】 これらは様々で多岐に亘るが,ここでは犯行の順序に従って,これらを(表2)において示した 七つの疑問点に纏めて,順次検討を加えていく。虚構論者がこれらの矛盾を論拠として掲げている のは,矛盾が生ずるのは虚構の事柄を各人が述べているからだ,という推断が背後にあるからであ る。つまり事実であれば各人の供述に食違いは生じない,という前提があるのである。しかし仮令, 事実であろうと,記憶の錯誤,罪のなすり合いなど様々な理由で各人の供述の間に矛盾が生じるこ とは当然あり得る。従って矛盾の存在が直ちに供述の虚偽性を証明する訳ではない。そこで以下の 検討は,これらの矛盾を何らかの合理的な説明で解消出来ないか,を試みることに向けられる。 ニ・-ニヨニ-ニヨ 〔Ⅰ〕 (子供)の素姓 (子供)の素姓について明確に述べているのは,史料1の中のOcanaの ニ-ニヨ 供述と史料9である Ocanaのこの供述は, (子供)の殺害にユダヤ人が中心的役割を果たしたこ / とを印象づける内容となっていて,他の被告の供述に比して著しく偏りが見られる。自′らを含めて コンペルソが事件ではユダヤ人の追随者でしかなかったことを強調し,保身を図るために虚偽の供 述を行なったのではないか,と推定される。従ってその内容の信悪性は低く,信用し難い。 次に史料9であるが,この史料は実は非常に厄介な史料なのである。七編の裁判文書の要約であ るから史料1に存在する様々な矛盾を一挙に解消して呉れると思いきや,むしろ逆にこの史料のた ニ・-・ニヨ めに矛盾が拡大してしまうことが多いのである。その典型的な例がこの(子供)の素姓の件である。 史料9のもととなった七編の裁判文書がどの被告のものなのかについては不明であり Fita, Loebは夫々異なった推測をしている57)史料1はYuce, Ocana, Benito, Juan, Qaの5人の被告
ニ-ニヨ
の供述を含んでいるが,この中で(子供)の素姓を明示しているのは上記のOcafiaの供述以外に
ニ-ニヨ
はなく, Yuc6は く子供)の母親について訊問され, Juanが言わなかったので知らない,と答えて いる。58)従ってYuce以外の4人の裁判文書の中に史料9の伝える知見がある,とは考えにくい。 残りのAlonso, Garcia, Lopeの3人の裁判文書の中にそれがあって,他の5人の共犯者の裁判文 書にはない,というのも極めてありそうにないことである。 3人の死者の裁判文書の中にあること ニ-ニヨ は言うまでもなくあり得ない。更にホスチアを手渡したJuanGomezは(子供)の殺害には参加し ニ-ニヨ ておらず,仮に彼の裁判文書があったとしても,その中に(子供)の素姓に関する知見があること はまずあり得ない。以上, (事件)に関わりをもった12人の裁判文書のどの中にも,かかる知見が ニ-ニヨ 見られるとは思えないのである。考えてみるとこれは自然なことであろう。 (子供)の誘拐は身代 ニ-ニヨ 金目当てのものではなく,身体のみが必要なのであるから, (子供)の素姓を確認した上で誘拐
表2 矛盾する供述一覧表
項 目 供 P述 内 容 供 述者1) ■■史料2)■ L oeb 備 考 ■
〔Ⅰ 〕 -秦姓
㊦父親 A lonso M artin M ose
Y uce 〔40〕■ ⑤㊦ ⑦① 0 Ca丘a ⑦子供 Juan
父 親 A lonso de P asam ontes 母 親 Juana L a G uindera / ⑨不 明 史料 9 〔50〕 p.306. p.83. 互 纂 ㊦ 3 ∼ 4 歳 Y uce 〔15〕 ⑦(む p.42. ⑦ 1■1歳 Y uce 〔29〕 A vila 〔 ㊦ M ose O Ca氏a 〔4d〕 ゥゥ ⑦① 0 Ca点a 港 ⑦ Juan Y uce 〔50〕 p.82. S anchez pp.305-306. ■誘 拐 * Juan 〔59〕 〟 O ca触 〔65〕
⑳ Juan と G arcia Y uce 〔51〕 者 ㊤ Juan と B enito ㊥ キ ンタナール近辺 のユ ダヤ人 Juan と B enito Ll59] 史料 9 1′「Ⅳ ㊦ トレー ド Y uc6 〔50〕 ⑤ ㊦ ⑦(D p.82. S anchez p.306. p.44. 〕 諺 '/ 、Juan と B enito 〔甲〕 /y 0 C綿A ■ 〔65〕 拐 場 ■所 * /y ⑦ キ ンタナ- ル 1\ Juan 0 Ca缶a 〔59〕 史料 b 〔40〕 ㊥ リー リヨとラ ●グアルデ イア Y uce 〔15〕 ′「 ㊦ ラ ●グアル デ イアか ら D os B arrios に向 か う道か ら右手 に少 し離 れた所 一 にある洞 窟 Y uce G a Juan 0 Ca缶a B enito 〔15〕 〔36〕 〔20〕 ■〔23〕 〔65〕 〔26〕 ⑤① p.40. S Anchez Ⅴ 〕 ⑦ ラ ●グア ルデ イアか ら D os B arrios 犯 ■ ■に向か って右手 にあ る両地 の間 にあ る洞窟 行 現 ⑳ ラ ●グ アル デ イ アか ら 0 Ca缶a に向 か っ て右 手 にあ る C arre O cana の 洞窟 場 ㊤ C arre O ca点a-Pの 洞 窟 ′右 手 に あ る C arre O cana の洞窟 ㊥ V illapalom as の道 という 坂 の岩 山 にあ る洞窟 ′Ⅵ「 ①十 ㊦教会 か ら盗 んだ垂 木 と車軸 の断片 B enito 〔26〕 ④ ④ (D ⑥ p.42. ⑦ オ リーブの木材 1 Juan 〔20〕 〕 犯 辛 架 の ⑳木材 Y uce 〔15〕 /y O cana 〔23〕 行 の 細 ● 部 木 /y G a 〔36〕 ② の十 ㊦釘 づ け笹 した 、 B enito 〔26〕 ゥ ョ ⑦(9 p.42. ⑦縛 りつ けた Y uce 〔15〕 つ字 け架 方へ 〟 Juan 〔20〕 /y 0 Ca丘a 〔23〕 /y G a 〔36〕
サント・ニ-ニヨ 林: 《ラ・グアルデイアの聖なる子》事件 ll 項白 ■供 述 内 容 供述者1) 史料2) L oeb ..備 考 〔Ⅵ 〕 ■ ③ 開血 ⑦Yuce Y uceが腕を支えていた 0 Ca氏a Y uce 〔40〕 〔59〕 ⑦④ p.42. 者管 切 ⑦A lonso 〔15〕 /> Juan 〔59〕 ④ 出心 ㊦Juan Juan 〔20〕 ⑦㊤ pp.42-43 /y '/ 〔44〕 者臓 別 〟 /> 〔59〕
⑦Juan が切開き, Garci′a が取出した セuCb 〔15〕
⑤ 容 ㊦鍋と茶椀 Y uc」 〔15〕 ⑦① p.42. p.118. 犯 ■ ⑦鍋と鉢 Juan 〔59〕 行 の 細 器 申鍋 ㊤鍋と椀 O ca缶a 〔23〕 史料2 ⑥ 死 ㊦絞殺 ◆ B enito 〔26〕 I ④① ⑦㊥ ⑦とくに供述なし Y uCb 〔15〕 部 /y Juan 〔20〕 H / 0 Ca缶a 〔23〕 〟 Ga 〔36〕 ⑦ ㊦光 0 CA缶a 〔23〕 ④④ ■⑦① p.44. 照 明 ⑦ローソク (複数) Y uc6 〔15〕 ㊥教会から盗んだ1 本のローソク■ B enito 〔26〕 ⑧ 被 い ㊦カッパ Y uc6 〔15〕 ⑦① p.44. ョ^ * B enito 〔26〕 I ① 者埋 葬
㊦G arcia とJuaふ Y uc」 〔15〕
⑦① p.43. ⑦A lonso とJuan Juan 〔59〕
② ㊦本文に記述 Y 中Cb 〔15〕 由④ p.43. 死 体 1 ⑦ ク 0 Ca缶a 〔65〕 Sanchez p.305. ゥ B enito 〔26〕 のJ 哩 葬 哩 葬 場 ゥ ョ Juan Yuce判決 〔59〕 史料9 所 ョ 史料4 pp.113-114. ㊥ ク 〔63〕 p.102. ㊨ /y Benito判決 史料2 p.119. 1)ここでいう供述者は,供述内容の語り手のことであり,例えばMos6がそう、言ってい たという内容のOcanaの供述についてはMos色を供述者とし,備考欄に証言者のOca缶a を示す。 2)史料1については文書番号で各供述を示し,必要な場合は備考欄に頁数を示す。史料 2, 4, 9については該当箇所の頁数を備考欄に示す。 ニ-ニヨ する必要はなく,キリスト教徒の子供であれば誰でもよかったのである。従って被告が.(子供)の 口からその素姓を聞出すことは可能であったかも知れないが,それが被告らの関心事ではない以上, 知らないままに殺害したとしても不自然ではない。
ところで史料1に含まれる証拠は被告らの供述のみであり,恐らく他の裁判文書も同断であろう。 だとすると裁判文書の要約である史料9が,もとになった裁判文書にない知見を含むという奇妙な ことになる。ところが史料9には,被告の1人を連行していき,埋葬場所を示させた,という被告 の供述以外の内容がある59)が,これは異端審問所による捜査を記載したものと言えよう。何故かか るものが裁判文書の要約である史料9に含まれるのか,判断がつきかねるが,ともかくもかかる記 ニ-ニヨ 事がある以上, (子供)の素姓も異端審問所の捜査で判明したということもあり得よう。しかしそ れならせめて判決文にはかかる知見が明記されて然るべきではなかろうか,という疑問も起こる。 それとも判決後の捜査で判明し,本来の裁判文書に追補されたのであろうか。しかしアウト・デ・ ニ-ニヨ フェ翌日の日付をもつ史料4には, 「Dominguezが(子供)がどこの生まれかを貴殿方に言うだろう」 という,既に素姓が判明していることを窺わせる記述がある60)従って判決前に既に判明していた \ とすれば,何故判決文に記載されなかったかが問題となる。判決文を読むと,対象となった被告当 人(史料1の場合はYuc6)を除いて, (事件)に関わりのある被告の名や,土地の名などの一切の 固有名詞が明示されていないことに気付く。今日の我々の考えからすると,事件については具体的 に固有名詞を明示して記述するのが当然のように思うが,異端審問官の考え方はどうもそれとは異 なっていたように思われる。彼らにとっては判決の対象となっている被告当人の罪状が明らかにな ればそれでよく,事件の具体的経過を客観的に明らかにすることを必ずしも必要とは考えていな ニ-ニヨ かったのではなかろうか。このように考えれば, (子供)の素姓が解明されていても,それが判決 文に記載されないことはある訳で,史料9と史料1 (Oca飴供述を除く)が矛盾するとは必ずしも ニ-ニヨ 言えない。従って(子供)の素姓については,史料9の記述を受容れることで矛盾は解消する。 〔Ⅱ〕 (字諒)の年齢61) Fitaは, Yuceが11歳と述べた,というAvilaの証言は,ヘブライ語 の2をAvilaが11と聞き間違えたのだ,と推測している62)が,これならば2歳と3-4歳となり, 大きな矛盾はなくなる。 ニ-ーニヨ 〔Ⅲ〕 (子供)の誘拐者 ⑦は〔Ⅰ〕で述べた理由により信用し難い。 ㊥はキンタナ-ル在住のユ ダヤ人としているが,これはMos6のことであろうと思われる。Moseはテムプレーケ在住であるが, ニーニヨ 父親の居住地と混同したのであろう。(子供)を駿馬に乗せてきたという点で⑦と㊥は一致しており, ㊥は㊦をもとにした′のではないかと推測され,それ故, ㊦と同様に信用し難い。 ⑦は本人自身も含 めて3人の供述が」致しており,倍悪性が高い。 ⑦と㊥㊤は,相互に矛盾するものではないと考え られる。 ㊤はJuanとBenitdが共にトレードに行き,夫々に子供の誘拐にあたったが,実際に誘拐 したのはJuanであったとしている。 ㊥もYuceがBenitoとGarciaとを取違えていたと考えれば, ニ-ニヨ ㊤と同じことになり, (子供)と囲い牧地に潜んでいたのをJuanとし,戻った者をGarcia (Benito) とすれば, Juanが連れて来たという⑦と矛盾しなくなる。従って誘拐はJuanが中心となってBe-mtoの補助を得て行なった,とすれば矛盾は解消すると思われる。 ニ-ニヨニーニヨ 〔Ⅳ〕 (子供)の誘拐場所 ㊥は異端審問官から, (子供)の殺害の当時に子供が失綜した噂が なかったか,と聞かれて答えたものであり,はっきりと誘拐と結びつけている訳ではないが,フラ
サント・ニ-ニヨ 林: 《ラ・グアルデイアの聖なる子》事件 13 ンコ兄弟は荷車でムルシアまで往来しており,子供を連れて来ることは出来るであろうし,空棒も ニ-ニヨ 積んでいた,などと述べて,彼らによる誘拐を灰かしている。しかし,(子供)は1人なのに失綜 場所を2箇所挙げ,また供述も彼らが誘拐しようとすれば出来た,という可能性を示唆しているの みであるから,考慮対象から外してもよいと思われる。それにYuce自身,後の供述⑦ではトレー ドを誘拐場所としているのである。㊥は例のOcanaの供述であり信用し難く,Yuceと同様にトレー ドとする供述も行なっている。以上の㊥㊥を除くと,残りは何れもトレードであり,矛盾は解消す る。 〔Ⅴ〕犯行現場Loebの引用に誤まりがあるので,各被告の供述内容を史料に即して詳しく見 ると,(表2)に示したようになるDosBarriosはラ・グアルデイアとOca飴との中間にある町 であるから,CarreOca飴を洞窟の名前とすれば,前4者は全く一致するVillapalomasという地 名は現今の地名にはないようであり,これについて註釈した論者も皆無であるので,何処であるの か全く不明である。しかし犯行現場として現在,聖所となっている洞窟は,註2)で述べたように 急な坂道を登った所にあり,仮にこの坂道がVillapalomasの道と呼ばれていたとすれば,Benito の供述も前4者と矛盾しなくなる。 ニーニヨ 〔Ⅵ〕犯行の細部(子供)の殺害に関する細部についてLoebの指摘している矛盾に対して, Sabatiniはそれが2年も前の出来事であれば不可避であると述べている。wSabatiniは触れていな いが,それがローソクの光のみで照らされた薄暗い洞窟の中で,11人もの人間によって行なわれた のであれば尚更のことであろう。しかしこれ程重大な犯罪であれば,その記憶は各被告の脳裏に,鮮 明に刻印されている筈だという反論もあり得ようLopezMartinezはとくにここの被告の供述間 の矛盾のみに触れている訳ではないが,矛盾があるのは却って異端審問官が作為を施し,′仮構の事 件を控造したの'ではない証拠である64)と大雑把でやや居直り的な議論を行なっている。L。ebが詳 細に矛盾を指摘している以上,それに対する反論も,個々の矛盾を逐一解消していくという方向で 成さるべきだと思われる。著者は最近の論者の中では最も強硬にコンペルソの危険性を説き,異端 \ 審問設立の正当性を強く主張してやまない論者である。かかる立場の著者が,(事件)の実在性は 詳細に検討するまでもなく明らかであるという予断をもっていると推測することは,あながち的外 れでもなかろう。著者は,矛盾がなければそれを理由にして実在性を主張し,矛盾があればあった のでそれを逆手にとって実在性を主張したのではなかろうか。′ 我々はこれらの方法とは裸を分ち,個々の矛盾の解消に努めていくことにする。 ①十字架の木-Benitoの供述は1491年9月24日付の拷問を加えられて行なったものであり, ニ-ニヨ 内容的に見て殊更に反教会的(教会からの木材とローソクの窃盗),でく子供)に対して残酷であ る(十字架への釘づけ,絞殺)ことからして,異端審問官に迎合した疑いがあり,信悪性に乏しい と判断される。従ってBenitoの供述の方を虚偽とすることで矛盾は解消される。 ②十字架へのつけ万一これも①と同様にBenitoの供述を虚偽とすればよい。但し,腕と脚を 縛り,手と足を釘づけにしたと考えれば元々矛盾がないとも言え,史料9はそのように記している65) 。
③血管を切開した者 Ocanaの供述は例の信用し難いものであり, YuceとJuanが一致して供 述しているAlonsoの方を採ることで矛盾は解消する。 Yuceが腕を支えていたというのも, Yuce が血管を切開したという供述と関わっており信用し難い。 ④胸を切開し心臓を易U出した者- Juan自身が自らの所為としている以上,こちらが採らるべ きであり, Yuceの供述は記憶違いと考えられる。何れもJuanが関与している点で共通しており, 大きな矛盾とは言えない。 ⑤血を容れた器 Loebの引用に誤まりや不足があるので正確に示すと(表2)のようになる。 こうして見ると,鍋という点ではすべて一致しており,その他の違いは各人の主観や記憶によって 生じることがあり得る程度のズレであると言えるのではあるまいか。 ニ-ニヨ ⑥ (子供)の死因一絞殺と供述しているのはBenitoのみであり,しかもこの供述は既述の信 悪性が低いと判定した供述の中で行なわれたものである。従ってBenitoの供述を虚偽として斥け ニ-ニヨ ることで矛盾は解消する。なお,他の被告は(子供)が出血死したと供述している訳ではなく, Loebがそう推測したということである。 / ⑦洞窟内部の照明66)-ローソクの本数の違いは取るに足らない違いであり,またローソクの明 かりを光と表現したと考えれば, 3者の供述間に矛盾はなくなる。またBenitoはローソクを教会 から盗んだものと述べているが,これについては既述のようにこの供述を含む供述全体の信悪性が 低いので虚偽と考えてもよいし,或いはYuc6はローソクの出所にはとくに触れていないのだから, Yuceの供述と矛盾する訳ではない,とすることも出来る。 ⑧洞窟入口の被い-何れも布状のもので入口を被ったという点では共通しており,大きな食違 いはないと考えられる。 ニ-ニヨ 〔Ⅶ〕 (子供)の死体の埋葬 ①死体埋葬者一何れもJuanが入っており,残りは何れもJuan の兄弟である。 Juanが相手を誤認する等がないと考えれば, Yuceが兄弟であり,恐らくは容貌が 似ていたのではないかと想像されるAlonsoをGarciaと誤認したものと考えられる。 ②死体の埋葬場所- SabatiniはLoebに対する反論として,史料9の記述を引合いに出して, ( 被告を連行して埋葬場所に連れて行く,という調査を行なっていると指摘しているが67)これはや や揚げ足取り的な反論である。確かに史料9にはかかる記述がある。しかしLoebはこれに言及し ており,これについては勿論,承知していたが,それを含めて考えても充分な調査がなされたとは 言い難い,という意味のことを言いたかったものと思われる。 さて,埋葬場所に関しては(表2)にあるように多くの言及がある。 ㊦⑦を原文に即して示すと, 夫々, ㊨ 「ラ・グアルデイア渓谷にそれ〔死体〕を埋葬した。その渓谷を通ってEscorchon川が 流れている」, ⑦ 「それ〔死体〕を渓谷に埋葬した」となる。ややニュアンスの違いはあるが,同 一の場所を示している考えることは可能であろう。同じく㊥㊤を原文に即して示すと, ㊥ 「Santa ニ-ニヨ MariadePera 〔教会〕のブドウ畑の近くにそれ〔(子供)〕を埋葬した」, ㊤ 「SantaMariade ニ-ニヨ Pera 〔教会〕の近くにそれ〔(子供)〕を埋葬するために運んだ」となり,これは無理なく同一の
サント・ニ-ニヨ
林: 《ラ・グアルデイアの聖なる朝事件 15
場所を示すと考えられ得る。 Loebは㊥②を,埋葬場所が確認されていないという意に解し,これ と埋葬場所を確認したとしている史料9との矛盾を指摘している。夫々の原文を示すと, ㊥"lo levaron a enterrar en lugar secreto la misma noche, donde del no se pudiese aver noticia", ② ``en-terraronle de noche ocultamente en lugar remoto donde no se pudiese aver noticia"であるが,この 後半の部分をLoebは「その場所〔埋葬場所〕については判っていない」と解釈しているものと思 われる。これを次のように解釈出来ないのであろうか。即ち, ㊨ 「彼らは同日の夜,人々に知られ ていないような秘密の場所にそれ〔死体〕を運んで埋葬した」, ② 「人々に知られていないような 遠い場所に,それ〔死体〕を夜密かに埋葬した」。仮にこう解釈することが可能なら,異端審問官 は埋葬場所を確認していたが,敢えてそれを判決文に明記しなかった,と考えることが出来よう。 ニ-ニヨ それでは何故,明記しなかったのであろうか。 (子供)の素姓の所で述べたように,判決文には固 \ 有名詞の使用を避けるという一般的傾向が認められ,埋葬場所もそれに従ったということがまず考 えられる。次に埋葬場所を明示することが,意味のないことだと考えられたのではないか,という ことが想像/される。この判決文が読上げられたアウト・デ・フェはアビラで開催されている。アウ ト・デ・フェに参集した群衆は殆どがアビラ市とその近郊の住民であったろう。アビラとラ・グア ルデイアは直線距離で140kmも離れているから,このような遠い土地の具体的場所を示したとして も,観衆には全く判らず,無意味なことであったと考えられる。判決文が当日の観衆に与える効莱 をも充分に念頭に置いて書かれたと推定することが許されるなら,犯人であるコンペルソやユダヤ 人の悪業を強調することが何よりも肝要であり,それと直接には関係のない埋葬場所の明示は強い て行なわれなかった10)ではなかろうか。以上で㊥㊤と㊦∼㊥との矛盾は一応,解消されよう。 次に㊦⑦と㊦㊤の間の矛盾はどうであろうか。両者は一見すると全く別の場所を示すように見え るが,これが同一の場所を違った方法で表現したとは考えられまいか。例えば, 「ラ・グアルデイ ア渓谷にあるSantaMariadePera教会の近く」,というのを異なる角度から表現したと仮定する のである,Loebによればこの教会はラ・グアルデイアの北東1/4里(- 1km)の所にあるという。68)と rl ころが渓谷のあるEscorchon (Cedron)川までラ・グアルデイアから2.5km以上あり,この教会は 渓谷にはないことが判る。従ってこの解釈は成立たない。 それでは何れかを事実,残りを虚偽とすることで解消は出来まいか。まず供述者について見てみ よう。 ⑦はYuceの供述であるが,これはJuanとGarciaがTazarteの間に答えて埋葬場所を話す のを聞いた,という内容である. ⑦はGabriel Sanchezが聞いたOcaiiaとJuanとの会話の中での Ocanaの言葉である。 ㊥はBenitoの供述。 ㊤はQa, Yuce, Benito, Oca触, Juanの5被告全員の
、 対決訊問で,他の被告を前にしたJuanの供述である。ところで埋葬場所は埋葬者が最も良く知っ ているという判断に異論はなかろうが,埋葬者については前述のように2種類の供述があるが,何 れにせよJuanの入っている点で共通している。史料1にはGarciaやAlonsoの供述は全く含まれ ていないから,結局Juanの供述が最も信悪性が高いことになる。ところがJuanは⑦と㊤で異なっ たことを述べているのである。しかし⑦は本人の直接の供述ではなく,供述の時期も㊤より早いの
で,より信想性が劣ると考え, ㊤の方を事実と見倣し得よう。次に㊥㊥との関連で考えてみよう。 ㊥には「そこ〔埋葬場所〕を耕すことを許さないよう貴殿方にお願い致します。何故なら,両陛下 や枢機卿閣下に見て頂かねばなりませんから。」という一節がある69)。放っておくと耕されてしま う恐れのある場所といえば, ⑦⑦よりは㊥が相応しい。以上から, ⑦⑦が虚偽で㊥㊤を真実とする ことで矛盾が解消するかに思われるが,これが成立つためには何故,虚偽の供述がなされたかにつ いての合理的な説明が必要である。換言すれば,何故YuceとOca飴は虚偽の供述を行なったのか ということの説明である。 ニ-ニヨ まず両者が意図的に虚偽の供述を行なうことは考えられようか。両者は(子供)の殺害を自供し ており,今更,虚偽の場所を示しても保身の役に立つ訳ではない。また埋葬場所が何処であるかと いうことで,特定の被告の罪が重くなる訳でもないから,罪のなすり合いとも関係がない。それで は単なる錯誤であろうか。犯行の細部に関わることならともかく,埋葬場所というような重大な事 柄で,しかも複数の人間において同じような錯誤が起こるのは極めて考えにくいことである。だと すると第三の可能性,即ち㊦∼㊤のすべてが虚偽である,という可能性が排除されないことになる。 しかし少なくとも異端審問官は㊥㊤を埋葬場所と判定したようである。それではそこから肝心の ニt・-ニヨ (子供)の遺体は発掘されたのであろうか Loebは死体が実在したのかを問題にし,それを埋葬 場所の問題として捉え直し,それを繰る供述間の矛盾を指摘している訳であるが,さて抑々死体は ニ-ニヨ 実在したのであろうか。史料9には, 「裁判上の職権をもってかの主犯の1人をかの く子供)が埋 葬された現場に連行した。そしてそこですべての事柄の真実と証明が見出された」70)とある。何が ニ-ニヨ 一体見出されたのか,思わせぶりな書き方で全く判らないが,少なくとも異端審問官から見て(子供) の殺害を確証し得るに足る何かがあったとしか言いようがない。これと内容の類似した史料4には, ニ-ニヨ 「〔(子供)が〕埋葬されたと, JuanFrancoが示した土地のあの隅を,そこにははっきりと認めら れる墓穴が現われたのだが,耕すことを許さないように」71)という一節がある。ここでも墓穴(hoyo) と異端審問官が判断した窪みがあったということが判るのみで,そう判断する根拠となるものが発 I ニーニヨ 掘されたのかどうか,全く判断のしょうがない。しかし仮に(子供)の死体やその他のもの(衣服 など)が発掘されたなら,明記して然るべきだと思われる。それとも余りの惨さに敢えて記さなかっ たのであろうか。史料9のみ見れば,そのような推測が成立つかも知れないが,史料4と併せ読め ば,かかる推測は無理であろう。何も死体の状況を記述する必要はない訳で,只一言,死体が見出 されたと記せば良いのである。また仮に死体などが発掘されたならば,殉教者の聖遺物として大切 に保存され,今日まで伝わっていて然るべきではなかろうか。結局,異端審問官が埋葬場所と確定 ニ-ニヨ した所からは, (子供)の死体は発掘されなかったと言ってよいのではないか,と思われる。 ニ-ニヨ 実は史料4そのものの中にこれを窺わせる部分がある。 「我らの主が驚嘆すべき仕方で(子供) ニ-ニヨ の遺骨を示すことを喜び給わんことを」という一節72)がこれであり,実際には(子供)の遺骨は発 掘されなかったが,神が奇跡をもってどうかそれをお示し下さい,という願望を表明したものでは ニ・・-ニヨ ないかと推測される。史料7は荒唐無稽な記事が多いが, (子供)の実在については一片の疑問ももっ
サント・ニ-ニヨ 林: 《ラ・グアルデイアの聖なる子≫事件 17 ニ-ニヨ ていない史料であると言える。その史料さえ, 「我らが主は(子供)に関しては何物も残らず,現 ニ-ニヨ われず, (子供)が骨と肉の形で〔そのままで〕天国の聖なる栄光を享受しに行くことを密かに望 み給うたのであった」73)と述べて,死体が発見されなかったことを認めているのである。またPisa の『トレード史』も「祝福されし遺体は現われず(心臓も同様),見出されなかった。そこで真撃 で敬慶な人々は,我らの主なるイエス・キリストがそれを三日目に復活させ,自らとともに天上の 至福へと導き給うたのだ,と信心深く信じた」74)と述べている。 ニ-ニヨ (子供)の死体が発見されなかったのは,実在論者にとって非常に不利な事実であり何らかの合 理的説明がなされる必要があると思われるのだが,管見の限りではかかる説明は全くなされていな い。そこで敢えてここで合理的説明を加えることを試みてみよう。まず埋葬場所は真実のものであ り,埋葬から発掘の時点までの間に死体が消失したことは考えられようか。埋葬後,何らかの理由 (例えば野獣)で撹乱が加えられたとしても,跡形もなく死体が消え去ることは考えにくいことの ように思われる。次に被告らの供述した埋葬場所がすべて虚偽であるとしても,なお死体が存在す ることはあり得る。それは被告らが故意に真実の埋葬場所を教えなかった場合である。動機は考え にくいが,死体が発見されて聖遺物として崇敬されるのを妨害しようとした,ということが例えば 挙げられる。しかし,被告全員が一致してかかる深謀遠慮を働かせた,ということは極めて考えに ニ-ニヨ くいことに思われる。結局, (子供)の死体は元々存在しなかったと考えざるを得ない。 ニ-ニヨ 以上,我々は(子供)の殺害に関して虚構論の提出している疑問点やその根拠について逐一検討 を加え,疑問の解消に努め,またその根拠が必ずしも殺害の虚構性を示すものではないことを論証 してきた。また指摘されている史料間や供述間の矛盾についても,殺害の経過を辿りながら,その ニ-ニヨ 解消を企ててきたが,寛に最後の(子供)の埋葬場所と死体の問題においてその企てが破綻せざる ニ-ニヨ を得ないことを確認した。 (子供)の殺害という事件において,死体は最大の罪体であろう。それ サント・ニ-ニヨ が発見されず,しかも元々存在しなかったと考えざるを得ない以上,《ラ・グアルデイアの聖なる子》 は実在せず,当然のことに(事件)も虚構であると推断するのが妥当であろうと考える。 しかし実在論者からも, (事件)が実在していたと判断する根拠が提出されている。そこで以下で, これらの論拠に検討を加えていこう。 Ⅲ 実在説の検討 実在論者は多くが,史料1の存在そのものを論拠と考えているため,更に踏み込んで具体的論拠 を挙げている者は極めて少なく,管見の限りではSabatiniのみである。そこで以下で彼の三つの 論拠に検討を加えていく。 〔Ⅰ〕 (7)④75) Sabatiniは被告間の供述に細かい点で矛盾はあるが,基本的事実において一致し ていることを論拠に掲げている。即ち,被告らが全く虚構の事件を供述しているのなら,このよう な一致はあり得ないというのである。基本的事実とは何を指すのか必ずしも明らかでなく,埋葬場
所などは私見によればそれに含まれるべきだと思うのだが,この点については既述のように供述は 矛盾しているのである。それはさておくとすれば,基本的事実とは本稿で既に指摘した三つの要素 をさすものと思われ,確かにこれについては供述に矛盾はないと考えられる。これについてLoeb は反論を加えているが Sabatiniは充分にそれを伝えていないので,ここで紹介しておくと, Loebは, ①獄吏による被告への灰かし, ②被告同志の獄内での会話, ③対決訊問,といった機会 によって,架空の事実に関する被告間の供述が一致することはあり得るとしているのである。76) ① はかかることが行なわれたことは史料上は確認出来ず,従って肯定も否定も出来ない。 ②は,今日で は同一事件の被告が獄中で会話を交わし得る,ということは考えられないことだが,確かに史料的に 確認出来る。はっきりしているのは, YuceとBenito, JuanとOca飴の間の会話の存在である。77) ③は, Sabatiniがこれのみ取上げて反論を加えているものだが, Loebの主張に関して誤解がある ように思われる Loebは, 「対決させられた被告たちが,証言の公式聴取後,互いに言葉を交わし, 再会を喜んでいることは調書がいつも記録している。この対決訊問は,被告が互いに示し合わせ, 異端審問に必要な証言を準備するための会話の機会を与えることを,まさに目的としていたのでは ないか,と問うことさえ出来よう」78)と述べているのであって, Sabatiniのいうように被告だけに しておき,共通の了解を形成させたと,主張しているのではない。しかしこのLoebの主張に対し ては,次のような反論があり得る。即ち,対決訊問は各被告が個別に基本的事実を供述した後の時 期に行なわれていること,また上のLoebの引用からも明らかなように被告間の会話は,被告らが 一致して事実関係を認めたことが異端審問官によって確認された後でなされていることである。し かし, ①②,更には史料上は確認出来ないものの異端審問官による誘導訊問の可能性などを併せ考 えれば,被告らが虚構の(事件)について大雑把な共通のイメージを形成することは出来たと言え よう。 〔Ⅱ〕(7)⑥79)これは〔Ⅰ〕と関連しており,被告らが無実であるならば,自分らが犯してもいな い罪を,しかもそれによって刑死するような罪を示し合わせて自供するなどということは考えられ ないというのである。これは一見,説得力のある尤もな考えのように思われるが,現今の菟罪事件 からも明らかなように被告が様々な理由から犯しもしない罪を自供することはあり得ることなので あり,ましてや被告の権利に充分な配慮が払われていたとは思えない当時の裁判においては考えら れ得ることではあろう。しかし1人の被告の場合と異なり,少なくとも5人の被告が一致して虚構 の罪を自供するとなると,考えられ得る程度は狭まるとは思われる。
所で, Loebは被告が虚構の罪の自供を示し合わせている証拠として, Gabriel Sanchezが聞いた と供述しているJuanとOca飴との会話80)を挙げている。しかしこの会話を虚心に読むと, 2人が 互いに供述内容を話しているのみで,供述内容を事前に示し合わせているとは必ずしもとれない。 同じ事件の被告が話を交わせる状態に置かれたならば,互いに異端審問官から何を訊問され,どう 答えたかを話すことは極く自然のことに思われるからである。だが深読みすれば,互いが打合わせ た通りに話したかを確認し合っている,ととれないこともなく,この間題については判断がつきか
サント・ニ-ニヨ 林: 《ラ・グアルデイアの聖なる子≫事件 19 ねるとする他はない。 〔Ⅲ〕 (7)⑦81)獄中で重病に陥ったYuceはラビの派遣を医師Avilaを介して異端審問官に依頼 し,異端審問官はヘブライ語を解する修道士Alonso Enriquezを偽ラビAbrahamに仕立てて送り 込んだ。82)従ってラビが現われたとき, Yuceはこれが本当のラビであると信じ込んでおり,ラビ / に語った内容は真実であると見倣し得るのである。 Yuceはラビから投獄理由を尋ねられ,それに 答えているのだが,その内容についてはその場に居合わせた, Avila, Enriquez, _Yuce自身の夫々
ニ-ーニヨ 3者による供述83)があり,実在論者はここでYuceが(子供)の殺害を告白している,と考えるの であるが,これに対してLoebは次のような反論を加えている。84) ④Yuceは死が近いと思い込み,自己の罪を告白して赦免を得るためにラビを呼ぶように依頼し た,とキリスト教徒は考えるかも知れないが,ユダヤ教にはかかる告解はないし,死ぬ者は赦免を 求めず,ラビがそれを与える権限もない。 ⑥Yuceがヘブライ語で話したのは,秘密を打明けた証拠である,即ち, Avilaがヘブライ語を 解することを知らぬYuceは,彼に内容を悟られまいとしてヘブライ語で話したのだ,と主張され るかも知れないが, Yuc6は恐らく無学な若い職人であることからして充分にヘブライ語を話せた とは思えず,ヘブライ語で話したといっても幾つかの単語を交えた程度であったと思われる。かか る話し方はスペインのユダヤ人,とくに下層の人々の通常の話し方であり,何ら不思議はない。 ㊤YuceがAbrahamに自分が語ったことを口外しないように依頼したのは犯行を犯した証拠であ るという主張がなされるかも知れないが,この依頼がなされたというのは2人の密偵の証言による ものであり,俄かに事実とは見倣し得ないし,仮に依頼したとしても,それは異端審問官が無害な 言葉を悪用することを恐れたためである。 ④Yuceは「イエスになぞらえて殺害されたキリスト教徒の子供の死の加担者(共犯者)であっ たとして告発されている」と述べているのみであり,犯行を自供している訳ではない。 ㊥もしこれが自供ととり得るならば,九一年もの間, Yuceが犯行を否認するのを異端審問側が 許した筈がない。 J ①Yuceは「イエスになぞらえて殺害された(と人々が主張している)キリスト教徒の子供」と いう意味で述べたのに, AvilaとEnriquezはそれを「イエスになぞらえて(実際に)殺害された キリスト教徒の子供」という意味にすり変えたのである。 Yuceは無学なため動詞の条件法に充分 通じておらず,誤解の余地のない表現が出来なかった。 ニ-ニヨ ⑧Yuceがフランコ兄弟が(子供)を殺害したと信じていた可能性はあるし, YucSがフランコ兄 弟が殺害したと吹き込まれ,それを信じていたこともあり得る。85)この場合でも「フランコ兄弟が ニ-ニヨ 殺害した(子供)の件で自分が逮捕された」ということになり,自供したことにはならない。 ⑥Yuceに対する質問-の回答も,フランコ兄弟への告発に同意していることを示しているにす ぎず,自供している訳ではない。 以上のLoebの議論を順次,検討してみよう。
④ユダヤ教についての知見に乏しい我々には判りかねる所もあるが,ユダヤ人研究者の言であり 妥当であろうと思われる。しかしキリスト教徒の死とのアナロジーでYuceが告白をしたと考えて いる実在論者は管見の限りではなく,あらずもがなの反論ではある。 ⑥Yuceは一般にスペイン語で供述しており,何故このときにヘブライ語を交えて話したのか, 判然としない。スペイン在住のラビであれば当然スペイン語は話せた筈で,殊更にヘブライ語で話 さねばならぬ理由はないのである。 Yuc6の供述の中にヘブライ語の出てくる例は他にも少数だが 存在はする。しかしそれらは殆どが他人の話したヘブライ語をそのまま繰り返している場合や,ユ ダヤ教の宗教用語といえる言葉を用いている場合なのである。86)所で, Yuceはこのときの会話で どの程度ヘブライ語を使ったのであろうか。 Avilaの供述では, nahar, otohaysという単語,それ に口外しないよう頼んだときに少なくとも使っており, Enriquezの供述には, 「半ばヘブライ語で, 半ばスペイン語で」とあり,また確実に使った単語としては, nahar, oddohaysが挙げられており, Yuc6自身の供述では, mita, nahar, otohaysという単語が挙げられ,またここでは異端審問官が ヘブライ語で言った言葉で何を言おうとしたのか,という質問をしており,これだと少なくとも核 心部分はすべてヘブライ語で語った,ともとれる。このように供述によって差異があるが,これら に共通する確実に使用された三つの単語に限ってみても, otohays (oddohays)はキリストを指す 場合にユダヤ人が使う言葉であるから広義の宗教用語と見倣して除くとしても nahar (千 供), mita (死)といった単語に殊更にヘブライ語を使う必然性は全くなく,秘密を語ったのを Avilaに悟られまいとした配慮ではないか,という疑惑が生ずるのである。しかし次のように考え ることも出来よう。即ち,偽ラビのAbrahamは自らの正体を破られないためにラビらしく見せよ うと考え, Yucsにヘブライ語で語りかけたのではなかろうか。そうすればYuceがそれに引摺ら れてヘブライ語で話そうと努めたということはあり得ることに思われる。 ㊤Avilaは医師, Enriquezは修道士であり,全く異端審問所側の人間という訳ではなく,特にそ の証言の信想性を疑わねばならぬ理由はない。また悪用を恐れたというのも説得力を欠く。身に覚 えのないの罪で拘留されているのなら,ラビを通じてそのことが異端審問官に伝わるのはむしろ望 むところではなかろうか。 ニーーニヨ ④三つの供述の中にあるYuceの語った内容を虚心に読めば,自分が(子供)を殺害した,とい う明確な表現はなく, Loebの主張はあたっている。 ㊥これも説得力のある議論である。 ニ-ニヨ ①この場合には(子供)の殺害そのものを全く知らないという意味にとれるが, Yuc6が後に異 ニ-ニヨ 端審問官に答えた供述では,フランコ兄弟ら6人のコンペルソによる(子供)の殺害のことを言っ たのだと述べており, ⑧のように解した方がより整合的であろう。この場合でもLoebの言うよう にYuc6が自供したとはとれないし, ⑥についても同様である。 ニ-ニヨ 以上,若干の疑問は残るものの, Yuceが(子供)の殺害を自供したとは解釈出来ない,という Loebの主張は全体として見ると首肯すべきであろうと考えられる。
サント・ニ-ニヨ 林: 《ラ・グアルデイアの聖なる子≫事件 21 以上, 3点に亘って,実在論の論拠と考えられるものについて検討を加えてきたが,その結果, これらの論拠は何れも必ずしも(事件)の実在性を証明するものではない,という結論を得た。 お わ り に サント・ニ-ニヨ 我々は《ラ・グアルデイアの聖なる7サ事件の実在性に関して考察を加えるのに,従来の諸説を ニ-ニヨ 実在説と虚構説とに大別し, (子供)の殺害に関する議論に焦点を絞って夫々に批判的検討を加え てきた。かかる方法を採ったのは, (事件)の実在性に関して予断を抱くことなく,出来る限り客 観的な立場から判断を下すことを目指したからである。その結果,我々は結局,現在のところでは (敢えてかかる留保を付したのは,前稿で指摘したように87) (事件)に関する根本史料が一部しか 残存していない乃至,未発掘であるという現状を踏まえているからである),虚構説をとるという 結論に立ち至った。しかし,本稿での記述から明らかなように従来の虚構説には部分的ながら誤謬 や疑問点もあり,我々は従来の虚構説をそのまま受容れる訳ではない。更に虚構説をとる場合に重 大な疑問点がまだ残っている。それは第1に, Benitoがもっていたホステアの問題である。 (事件) が全く虚構なら何故Benitoはホスチアなどをもっていたのか。従来の虚構論者はこの点について は全く口を喋ぎ,合理的な説明を加えていない。第2に,被告らが何故,犯しもしない罪を自供し たのか,という問題である。これについては虚構論者は一定の説明を加えているが,我々から見る と充分に説得的であるとは思えない。これらの問題について我々は一定の見通しをもっているが, 紙幅の都合のため,これについては続稿において明らかにしたいと思う。 註 サント・ニ-ニヨ 1)拙稿「《ラ・グアルデイアの聖なる子》事件覚書一史料と研究史について-」 『鹿児島大学教育学部 研究紀要 人文・社会科学編』第38巻, 1986年〔以下,前稿と略記〕。 2)本稿では,前塙の(表1)に示した被告の呼称,史料1-9の番号,研究者の論点の整理に使った記号 などをそのまま使用する。また前稿の訂正は(訂正)として示す。なお,ここで前稿に対して以下のよう な追補・訂正をしておく(研究史の追補は本文のⅠで行なうのでそれ以外のもの)。 ① (表2) (前稿26頁)の文献の内,トレードで公刊された2, 5, 6については, CP6rezPastor,
La imprenta en Toledo. Description bibliogrdjica de las obras impresas en la imperial ciudad desde 1483 hasta nuestros dias, Madrid, 1887 ed. facsimil, Toledo, 1984, pp.372, 312, 359に目録化されているが, 5 については書名が次のようになっている Novena al Santo Inocente Martir Cristobal, Nino de la Guardia. a honor suyo y aumento de la devocion. Dedicada al Santo Ni如por un devoto presbitero prebendado de la santa iglesia de Toledo Primada de las Espanas. Con un breve res滋men de la historia del Santo Ni如Inか cente Cristobal.また6の著者名は, Felipe Torralbaとなっている.なお, Franciso de Pisa, Description de la imperial civdad de Toledo, Primera Parte, Toledo, 1605 rep. 1974, lib. IV, cap. XXXVI,が(事件)
を記述しているが,素材としてはYepes,その他にYepesには収録されていない史料9 (vn testimonio de tres secretariosと表記されている)を既に利用しているのが注目される。 (訂正) 2の出版年1620-1628。 サント・ニ-ニヨ ② (聖なる子)の聖所(前稿27頁)。殺害現場とされた洞窟は,ラ・グアルデイアから1km離れた所にあり, Oca由一ラ・グアルデイア間の道の左手の急な坂を500m登った地点にあるという。石灰質の丘に掘られ た洞窟で中央の内陣と四つの側面の礼拝所から成る。元々は羊飼いの洞窟か通行者の避難所であったと推
deEspana,t. IV, pp.2350-2351. (訂正) 5月20日-3月25日, 9月20日-9月25日./I
③史料(前稿27-37頁)。史料2 , 7 , を含む手稿文書Biblioteca Nacional, codice Aa105はSebastian de Orozcoの作成した写本であるが,この写本の多くの部分が下記の文献の中で最近活字化された(文書 整理番号は現在ではM S. 9175) 。 Sebastian de Horozco, Relaciones historicas toledanas. Intro, y transcrip. de Jack Weiner, Toledo, 1981.上記史料は夫々 ibid., pp.39-45,29-56にある。
3) E.H. Lindo, The History of the Jews of Spain and Portugal, London,1848 rep. New York,1970, pp. 273-274. √
4) J. Amador de los Rios, Historia social politica y religiosa de los judios de Espana y Portugal, 3 tomos, Madrid,1984, HI,pp.317-318n. 1 〔1960ed.,p.723n.1〕.
5) M. Menendez Pelayo, Historia de los heterodoxos espaかIes, 2 tomos(BAC, tomos 150-151) , 3 a ed., Mad-rid, 1978, 1, pp.642-643 (la ed., 3 tomos, MadMad-rid, 1877-80).
6) Id., Estudios sobre el teatro de Lope de Vega, 6 tomos, Santander, 1949, II ,pp.72-88.引用箇所は, ibid,pp.78-79,72 n. 1.初出は, Obras de Lope de Vega publicadas por la Real Academia Espafiola, t. 5, Madrid, 1895, pp. xix-xxx (Lope de Vega Carpio, EI Nino Inocente de La Guandia. A Critical and Anno-tated Ed. by Anthony J. Farrell, London, 1985, pp. 4, 13 n. 2に拠る).
7) I. Loeb, "Le Saint Enfant de La Guardia", Revue des丘tudes Juives, 15, 1887, p. 204.
8) Ibid.
9) H. Ch. Lea, ``EI Santo Ni如de La Guardia", in Id., Chapters from the Religious History of Spain Con-nected with the Inquisition, Philadelphia, 1890 rep. New York, 1967. (初出は, English Historical Review, 4, 1889) ; Id., A History of the Inquisition of Spain, 4 vols., New York, 1906-1907 rep. 1966, I, pp. 133-134. 10) R. Amador de los Rios, "EI Nino de la Guardia y su martirio segun los documentos", Espana. moderna,
192, 1904, pp.42-75.引用箇所はibid., p.74.
ll) R. Sabatini, Torquemada and the Spanish Inquisition. A History, London, 1913, revised ed., Boston and New York, 〔1924〕 , pp. 298-394.
12) W. Th. Walsh, Isabella of Spain. The Last Crusader, New York, 1930, Chap. XXV.引用箇所は, ibid., p.346.
13) C. Roth, A History of the Marranos, Philadelphia, 1932, 4th ed., New York, 1974, p. 52 ; Id., The Spanish Inquisition, London, 1937, rep. New York, 1964, p. 57.
14) W. Starkie, La Espa如de Cisneros, Trad, por Alberto de Mestas, Barcelona, 1943, 19552, pp. 196-201.
15) B. Llorca, ``La Inquisicion espa缶ola y los iudios o ` Marranos'", Sefarad, 2, 1942, p. 117 n. 3.
16) Y. Bear, Historia de los judios en la Espa触cristiana, traducida del hebreo por J. L. Lacave, 2 tomos, Madrid,1981, II, pp. 62ト638 ; Id., A History of the Jews in Christian Spain, 2 vols., Philadelphia, 1961, II , pp. 398-423. (1st. ed. in Hebrew, 2 vols., Tel Aviv, 1944-45 ; 2nd. ed. in Hebrew, Tel Aviv, 1959)
17) M. Romero de Castilla, Singular suceso en el reinado de los Reyes Catolicos, Madrid, 1943, caps. V y VI.
引用箇所はibid., p.63.
18) N. L6pez Martinez, Los judaizantes castellanos y la Inquisition en tiempo de Isabel la Catolica, Burgos, 1954, pp. 194-199.
19) J. E. Longhurst, The Age of Torquemada, Kansas, 1962. pp. 118-128.
20) J. Caro Baroja, Los judios en la Espana moderna y contempordnea, 3 tomos, Madrid, 1962, 19782, I,pp.181-188.
21) T. de Azcona, Isabel la Catolica, Madrid, 1964, p.414 n. 123.
22) H. Kamen, The Spanish Inquisition, New York, 1965 rep. 1971, pp. 42-43 ; Id., Inquisition and Society in Spain in the Sixteenth and Seventeenth Centuries, London, 1985, p. 268.
23) L. Suarez Fernandez, Historia de Espana, tomo XVIII (2), Madrid, 1969, p. 252 ; Id., Judios espanoles en la Edad Media, Madrid, 1980, pp. 226-268.
24) H. Beinart, "La Guardia, Holy Child of" en Encyclopaedia Judaica, Jerusalem, 1971, Vol. 10, cols. 1359-1360.