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村上春樹「青が消える(Losing Blue)」の文体

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村上春樹「青が消える( Losing Blue )」の文体

The Style of Haruki Murakami’s ‘ Ao ga Kieru ( Losing Blue )’

坂 田 達 紀

Tatsuki SAKATA 要旨  村上春樹の「青が消える( Losing Blue )」は、1992 年に海外の雑誌に発表され、2007 年から は(日本の)高等学校の国語教科書にも採録されている、文字数にして約 4200 文字の短編小説 である。他の多くの村上作品と同様、表面的ないし表層的に読むのは易しいが、その内側ない し深層を理解するのはそれほど簡単ではない、つまり、結局何を言おうとしているのかが単純 には捉えられない小説である。  本稿では、文体論の観点から、この小説の表現・文体の分析・考察を試みた。析出された文 体的特徴は、次のとおりである。  ⑴ 異様な冒頭表現に異化効果およびサスペンス効果が認められる  ⑵ 悪夢が説明抜きで叙述(描写)されている  ⑶ 非現実を現実化する仕掛け(「炭取が廻る」仕掛け)が仕組まれている  ⑷ 様々な意味(寓意)が読み取れるアレゴーリッシュな文体である  ⑸ ユーモアの要素が見られる  「自分のことを生まれつきの長編小説作家だと思っている」村上春樹にとって、短編小説は長 編小説のいわばプロトタイプ(原型・試作品)と考えられるので、上の特徴のうちのいくつか は、当然、長編小説にも見出されることが推測される。したがって、これらの特徴が、いわゆ る「村上春樹らしさ」ないしは「本来の「村上春樹的」小説世界」を形づくる要素と考えられ る、と結論づけた。  加えて、村上春樹が文体によって「見分けのつかない、無明の世界」を明かそうとしている こと、そして、その文体が批評性を持っていることも指摘した。  本稿の分析・考察の結果は、現行の高等学校学習指導要領の「指導事項」に、「表現の特色に 注意して読むこと」という文言や「書き手の意図をとらえたりすること」という文言が見られ ることに鑑みて、この小説を国語教材として用いる際にも役立つものと考えられる。 キーワード:文体的特徴、悪夢の描写、非現実の現実化、寓意、ユーモア、批評性  村上春樹の「青が消える( Losing Blue )」は、文字数にして約 4200 文字の短編小説である。 発表されたのは 1992 年だが、掲載誌が海外の雑誌であったため、2002 年に『村上春樹全作品 1990 ∼ 2000 ① 短篇集Ⅰ』(講談社)に収録されるまで、日本の一般読者が目にすることはほ

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とんどなかった。この小説について、村上自身は次のように述べている。  短い短編小説『青が消える( Losing Blue )』は、1 9 9 2 年にスペインのセビリアで開催 された万国博「EXPO ’92」を特集する雑誌のために書かれたものである。この雑誌はかな り分厚いもので、英「インディペンデント」、仏「ル・モンド」、伊「ラ・レプーブリカ」、 西「エル・パイス」の各新聞が「新聞別冊(サプルメント)」というかたちで共同でつく り、それぞれの言語で発行した。  その雑誌のために、ミレニアムの大晦日を舞台にした短編小説を書いてほしいという依 頼を受けたのが 1 9 9 1 年のことで、「なんでまた今ごろそんなものを?」といささか不思 議に思ったのだが、この万国博のテーマのひとつが「ミレニアムに向けて」というもので、 それで主催者は世界各国の作家、五人か六人に同じテーマで小説を依頼したわけだ。僕は 依頼を受けて小説を書くことはほとんどないのだけど、テーマもなかなか面白かったし、 短いものだったし、仕事の合間でちょうど時間が空いていたこともあり、「ちょっとやって みよう」という気になって引き受けたのだろう。だいたいそのように記憶している。八年 後の世界の話なので、多少近未来っぽい感じのものになった。  僕はその当時アメリカに住んでいたのだが、これをさっと書き上げて郵便でエージェン トに送って、そのまますっかり忘れてしまっていた。その後すぐ長編小説『ねじまき鳥ク ロニクル』の執筆にとりかかったので、忙しくてそれどころではなくなってしまったのだ。 というわけで、この作品は日本の本や雑誌に掲載収録されたことは一度もない。先日たま たま机の引き出しを整理していたらひょっこり出てきて、「ああ、そうだ、こんなものも書 いたっけなあ」と懐かしく思い出した。ちょうどいい機会なのでこの全集に収録すること にした1 )。  「青が消える(Losing Blue)」についての作者自身による「解題」の全文であるが、ここには、 この小説執筆の事情と与えられた大きなテーマ(「ミレニアムに向けて」)とが述べられている。 と同時に、この小説に対する作者自身の中でのある種の位置づけが述べられている。つまり、 「「ちょっとやってみよう」という気になって引き受け」、「さっと書き上げて郵便でエージェン トに送って、そのまますっかり忘れてしまっていた」程度の作品だということである。村上は、 この小説をさほど苦労せずに短時間で書いたのであろう、書いたことすら忘れてしまっていた のだが、10 年ほど経って「「ああ、そうだ、こんなものも書いたっけなあ」と懐かしく思い出 した」のである。「僕は自分のことを生まれつきの長編小説作家だと思っている。もともとが長 距離ランナーのタイプなのだ。長い年月をかけてこつこつと長いものを書くことに自分は適し ていると思う。」2 ) と自覚している村上にとって「青が消える( Losing Blue )」のような短い小 説は、「苦労に苦労を重ね、 瓦を積み上げるみたいにこつこつと書き続ける長編小説の場合と は、やはりコミットの深さが違う。」3)ということになるのであろう。しかし、このことは、「青 が消える( Losing Blue )」に小説としての価値が無い、ということを必ずしも意味するもので はない。「コミットの深さが違う」にしても、短い小説を書くことにはそれなりの価値があるの

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である。村上は、短編小説について、次のような考えを述べている。  僕は短編小説というのはそういう「実験室」的な要素を持つべきものなのだと基本的に 考えている。そこで意図的に、あるいは非意図的にさまざまな実験を繰り返し、その試行 錯誤を呑みこんで長編小説の執筆へと流れ込んでいくわけだ4 ) 。  このような村上の考えによれば、短編小説においてさまざまに実験され、試行錯誤を重ねた 事柄が長編小説に組み入れられていくのであるから、短編小説は長編小説のいわばプロトタイ プ(原型・試作品)ということになろう。村上の場合、短編小説の価値とは、長編小説のプロ トタイプとしての価値だと考えられる。そして、短編小説が長編小説のプロトタイプであるな らば、長編小説に見られるいわゆる「村上春樹らしさ」は、(全てではないにしても、そのいく つかは)短編小説にも当然見出されよう。村上自身が言うところの「本来の「村上春樹的」小 説世界」5 ) を形づくる要素が、短編小説のうちにも存在すると考えられるのである。もちろん、 「青が消える( Losing Blue )」も例外ではない。この小説にも多くの「村上春樹らしさ」が指摘 できるのだが、本稿では、とりわけ文体論の観点からこの小説の表現を分析・考察する。すな わち、この小説はどのような文体的特徴を持っているのか、これを析出することにより、「村上 春樹らしさ」ないし「本来の「村上春樹的」小説世界」とはどのようなものなのかを、その表 現・文体の点で、少しでも明らかにできればよいと考えている。この小説が長い時間をかけて 苦労して書かれたものではなく、「さっと書き上げ」られたものであればこそ、その文体的特徴 は、作者のうちに深く根を下ろして血肉化した文体の特徴、すなわち、もっとも村上春樹らし い、彼特有の文体の特徴と言えるのではなかろうか。  なお、「青が消える( Losing Blue )」は、2007 年に『新 精選国語総合』(明治書院)に採録 されて以来、現行の高等学校国語教科書にも採録されている。このこともあって、主に国語 (科)教育の立場からの論考がすでにいくつか存在するのだが、2009 年 3 月に改訂・告示され た高等学校学習指導要領において、「国語総合」の「 3 内容」の「 C 読むこと」に、たとえ ば、「ア 文章の内容や形態に応じた表現の特色に注意して読むこと。」6)という「指導事項」が 掲げられていることを考えれば、文体論研究の立場で書かれる本稿もまた、国語(科)教育の 一助となるのではなかろうか。  先にも述べたとおり、本稿の目的は、まず、小説「青が消える( Losing Blue )」の文体的特 徴を明らかにすることであるが、分析に先立って、本稿で用いる「文体」という用語について、 どのような意味で用いるのかを確認しておく。というのも、「文体」をどのように定義するかと いうこと自体が大きな問題であり、定義しだいでは、「文体」を客観的かつ科学的に測定するこ とが可能ということにもなるし、逆に、不可能ということにもなるからである7 ) 。

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 「文体」の定義には様々なものがあるが、たとえば、中村( 1993 )は、「文体」を次のように 定義している。  文体とは、表現主体によって開かれた文章が、受容主体の参加によって展開する過程で、 異質性としての印象・効果をはたす時に、その動力となった作品形成上の言語的な性格の 統合である。 ( 162 頁)  これは、文体論の分野では一定の共通理解を得た有名な定義であり、本稿の「文体」も基本 的にはこの定義を踏まえているのだが、ここで重要なことは、「受容主体の参加によって展開す る過程で、異質性としての印象・効果をはたす時に」とあることである。つまり、端的に言え ば、「文体」とは、受容主体すなわち読者の受け取り方の問題なのであり、読者の読みを度外視 して語ることのできないものなのである。そして、読者は、通常文章を読む際、何がどのよう に書かれているかを読むのであって、この「何」を内容、「どのように」を形式と単純化して呼 べば、内容と切り離して形式だけを読む(見る)ことはしない。内容と形式とはどこまでも一 体不離のものである。したがって、本稿では、内容と切り離した形式面(の特徴)のみを「文 体」とする立場は取らず、あくまでも内容と緊密に結び付いた形式面(の特徴)を「文体」と する。すなわち、拙稿( 2001 )で評論文のそれを定義したのと同様、「言葉と不可分の関係に ある思考の結果生じた思想としての言葉」( 85 頁)という意味合いで「文体」を用いる。小説 の場合、思想とは、言葉(=形式)によって姿・かたちを与えられた考え(=内容)のことで ある。これは結局、評論文の場合と同じであるが、このことをここで確認しておく。  さて、小説「青が消える(Losing Blue)」の文体であるが、何よりもまず特徴的なことは、冒 頭表現の異様さである。第一段落を全文引用する。  アイロンをかけているときに、青が消えた。青はだんだんかすんで薄くなっていって、 それからすっかり消えてしまった。ちょうど機械のバッテリーがあがってしまったときみ たいに。あるいはまるでオーケストラの指揮者が演奏の途中で気を変えて、突然指揮棒を 振るのをやめてしまったみたいに。メロディーが中断したあとも、いくつかの楽器はまだ 名残惜しそうに断片的な音を出していたが、それもやがて力なく消えて、あとには居心地 の悪い沈黙だけが残った― という風に8 ) 。  意味のよく分からない書き出しである。ここには「青が消えた」こととその消え方とが平易 な表現で述べられているのだが、そもそも「青」とは何のことなのか、また、おそらくは青色 のことだとしても、何の青色なのか(それは第二段落で明らかになるのだが)、さらに、なぜ消 えたのか、消えてどうなったのか、といったことが全く分からない。分からないままに読者は、 第 2 文の「青はだんだんかすんで薄くなっていって、それからすっかり消えてしまった。」とい う消え方の描写に重ねて、二種類の(どちらかと言えば縁起の悪い、あるいは、マイナス方向 へと向かう)比喩を用いた消え方の描写(第 3 文および第 4 文・第 5 文)を読まされる。しか

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も、二番目の比喩(第 4 文・第 5 文)は、かなり詳細なものである。通常の小説では、読者は、 冒頭表現によって、その小説世界に馴染み、徐々に同化していくのだが、この小説は逆である。 むしろ、突き放され、いきなり冷や水を浴びせられたように感じるであろう。異様な書き出し である。しかし、異様ではあるが、三島由紀夫がエッセイ「小説とは何か」で言うところの「小 説を読む者の基本的欲求」を刺激する冒頭表現でもある。  われわれが小説を読むとは、半ば官能的、半ば知的究理的な体験である。「どうなるか」 といふ期待と不安、「なぜ」「どうして」「誰が」といふ疑問の解決への希望、かういふ素朴 な読者の欲求は、高級低級を問はず、小説を読む者の基本的欲求と考へてよい9 ) 。  三島はまた、「知りたい。何を? 何をかわからぬが、とにかく知りたい。……さういふ気持 を起させることが小説本来の機能である」10 ) とも述べているが、この言を借りれば、小説「青 が消える( Losing Blue )」の冒頭表現は、「小説本来の機能」を果たしているとも言えよう。つ まり、異様であるがゆえに、小説に向かう読者の姿勢を受け身のそれではなく、より積極的な そ れ へ と 仕 向 け る 効 果 を も た ら し て い る の で あ る。そ の 意 味 で は、い わ ゆ る 異 化 効 果 ( Verfremdungseffekt )のある冒頭表現と言えるのではないか。もちろん、読者は、疑問をすぐ に解決できるわけではなく、疑問を抱えたまま、いわば宙づり( suspended )状態に置かれて先 を読むことになる。したがってまた、いわゆるサスペンス効果のある冒頭表現と言うこともで きるであろう。これらのことが、小説「青が消える( Losing Blue )」の文体的特徴として、ま ず挙げられる。  このような冒頭表現の特徴は、作者の側から言えば、読者の読みをいきなり異化し、宙づり 状態にして、読者を小説の世界へと強力かつ一挙に引き込む手法とも言えようが、ここで指摘 しておくべきことは、村上春樹がこうした手法をフランツ・カフカの小説から学んだのではな いか、と推測できることである。村上がカフカから多大な影響を受け、両者の小説には多くの 類似点が見られることは、拙稿( 2015 )で(村上の「鏡」とカフカの「判決」( Das Urteil )に ついて)指摘したところであるが、「青が消える( Losing Blue )」は、カフカの代表的短編小説 のひとつ「変身」( Die Verwandlung )を髣髴とさせる。「変身」の冒頭の一段落は、次のとおり である。  朝、胸苦しい夢から目をさますと、グレーゴル・ザムザは、ベッドの中で、途方もない 一匹の毒虫に姿を変えてしまっていた。あおむけに寝ている背中は鎧のように固く、首を 少しもたげて見ると、腹は、茶色にまるくふくれ上り、弓なりにたわめた何本もの支柱で 区切られた様子、そしてふくれた腹の上では、毛布はきちんとかかっているわけには行か なくて、今まさにずり落ちる寸前、といったていたらく。図体にくらべて情ないほど細い たくさんの脚が、眼の前にちらついているのは、いかにもよるべない風情だった11 )。  異様きわまりない書き出しである。冒頭の一文で「グレーゴル・ザムザ」が「途方もない一

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匹の毒虫に姿を変えてしまっていた」ことを述べ、それに続く数文でその「毒虫」の様子を詳 しく描写して第一段落を終わらせている。毒虫に変身した理由などは一切説明されていない。 これは、先に見た「青が消える( Losing Blue )」の第一段落と同じ書き方である。まず、荒唐 無稽とも言うべき、現実には起こりえない事態を冒頭文で述べ、ついで、その異常な事態を詳 細に描写する、という書き方である。どちらの小説の読者も、書かれている事態をうまく飲み 込めず、第一段落を読んで大いに戸惑うことになるのである。これを異化効果やサスペンス効 果と呼ぶかどうかは別にしても、わけが分からない、という印象をまず初めに抱くことは確実 であろう。  「青が消える( Losing Blue )」と「変身」とのこのような類似性は、偶然の一致と考えるより も、村上がカフカに学び、その書き方を自らの小説で「実験」したのだと考える方が自然であ る。村上はカフカについて、あるインタビューの中で、次のように述べている。  僕は、カフカの書いていることというのは、悪夢の叙述だと思うんですよ。彼の住んで いた世界では、現実の生活と悪夢が結びついていたと思うんです、ある意味では。あの時 代にプラハに住む非常に多感なユダヤ人青年ということで、ある種の特別な状況に置かれ てます。彼が小説の中でやったことには、現在の作家が悪夢について叙述するのと違って、 ほんとに異様なほどのリアリティーがあって、読んでいて、本当にそのまま悪夢の中に入 っていきそうなくらいなんだけれど、彼はその悪夢と自分との精神的な関わり方やら、悪 夢の出所について書くよりは、むしろ悪夢そのものについてものすごく細密に語っていく わけですね。そしてそこに立ち上がってくる恐怖の肌触りみたいなものを、僕らはほとん どそのまま、読んで感じることができるわけです12 ) 。  村上の述べていることを要するに、カフカの書いていることは悪夢の叙述であるが、悪夢そ のものを細密に語っているがゆえに異様なほどのリアリティーがある、ということである。村 上はまた、同じインタビューにおいて、カフカが(架空の)物事のあり方を細かく具体的に描 写することによって、「架空を実在にまで持っていく」とも述べている13 )。結局、同じことを 別の言い方で述べているのだが、いずれにしても、カフカ文学の核心を衝いた鋭い指摘である。 そして、重要なことは、この指摘が村上の「青が消える( Losing Blue )」にもそのまま当ては まる、ということである。「青が消える( Losing Blue )」では、冒頭の「アイロンをかけている ときに、青が消えた。青はだんだんかすんで薄くなっていって、それからすっかり消えてしま った。」から最後の「でも青がないんだ、と僕は小さな声で言った。そしてそれは僕が好きな色 だったのだ。」( 282 頁、太字はママ)に至るまで、青が消えたという「悪夢」が時系列に叙述 されている。消えた理由などは一切説明されずに、ただ青が消えたという事実とその後 1 時間 ほどの間に起こった出来事とが、かなり詳細に描写されている。たとえば、「青が消える(Losing Blue )」の第三段落は、次のとおりである。  僕はそのシャツを長いあいだ身動きひとつせず眺めていたのだが、どれだけ眺めたとこ

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ろで青はもう戻ってはこなかった。僕は寝室のクローゼットの中を見てみることにした。 僕はそこにいくつかの青の服を持っていた。青いシャツや、青いネクタイや、青いスーツ。 淡い青から深い青まで、僕は青という色が昔から好きだったし、みんなも僕には青がよく 似合うと言った。でもそこにはもう青はなかった。それらはみんな白いシャツや白いネク タイや白いスーツに変わっていた。僕は引き出しの中も覗いてみた。そこには青い T シャ ツがあり、青い靴下があり、青いセーターがあり、青いスカーフがあるはずだった。でも そこでも事情は同じだった。それらはみんな、まるで歳月に洗われた見知らぬ人の骨のよ うな白に染まっていた。 ( 277 ∼ 278 頁)  この段落では、「寝室のクローゼットの中」の「青い服」を「青いシャツや、青いネクタイ や、青いスーツ」と細かく列挙し、「それらはみんな白いシャツや白いネクタイや白いスーツに 変わっていた」と描写している。加えて、「引き出しの中」までをも、「そこには青い T シャツ があり、青い靴下があり、青いセーターがあり、青いスカーフがあるはずだった。でもそこで も事情は同じだった。それらはみんな、まるで歳月に洗われた見知らぬ人の骨のような白に染 まっていた。」と一つ一つ中にある物を取り上げて、白くなった様子を描写している。「クロー ゼットや引き出しの中の青い服は、みんな白い服に変わっていた。」と書いて済ますことも可能 であるのに、ことさらに細かく描写しているのである。ここには、明らかにカフカの書き方の 影響が見て取れよう。ただし、「青が消える( Losing Blue )」は、「変身」とくらべて分量的に かなり短いので、描写の細密さという点ではやや手薄な感がある。依頼された分量に制限があ ったのかどうかは分からないが、カフカの手法を取り入れる「実験」がこの小説で成功してい るか否かについては、判断の分かれるところであろう。つまり、青が消えたという「悪夢」が リアリティーを持ちえているか、「架空を実在にまで持っていく」ことができたかどうかは、読 者によって印象が異なると考えられる。そうであるにしても、悪夢の叙述、とりわけ悪夢の説 明抜きの描写という特徴は、「青が消える( Losing Blue )」の文体的特徴として、当然指摘され るべきであろう。  この小説の場合、「悪夢」は言うまでもなく非現実的なものである。青が消えることなど、現 実には起こりえない。村上はこの小説で、最初から最後まで非現実の出来事を描いているので あって、読者が荒唐無稽との印象を抱くとすれば、このことが最大の原因である。現実の世界 しか信じない、非現実の世界など信じない人は世の中に多くいる。そのような人にとっては、 この小説などは荒唐無稽、でたらめ以外の何物でもないであろう。しかし、村上は、また別の インタビューで、「あなたの作品のなかのミステリアスな出来事はすべて現実生活の状況のメタ ファーとしてとらえるべきでしょうか?」14) と問われたことに対して、次のように答えている。  僕の小説に出てくる超自然的な現象は、前の質問の答えにも書いたように、あくまでメ タファーです。実際に僕の人生に起こったことではありません。しかし僕が物語を書いて いるとき、それらの出来事はぜんぜんメタファーではなく、実際にそこで起こっているこ とです。僕の目の前で、僕の中で、それは実際に起こっています。僕はそれを肌にありあ

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りと感じることができます。僕はそれを目撃し、描写します。  小説を書くことは、夢を見ることに似ているかもしれない。それは現実には起こってい ないのだけれど、それを見ているときには、その人にとっては、その夢の中の出来事は、 実際に起こっているのです。つまり、小説家とは、覚醒しながら夢を見ることができる人々 なのだという言い方もできます。それは特別な資格であり、特別な能力であると、僕は考 えています15 )。  「超自然的な現象」を「メタファー」と捉えることは、合理的な理解のしかたである。「メタ ファー」であれば、読者は納得することができ、また、安心することもできよう。しかし、「僕 が物語を書いているとき、それらの出来事はぜんぜんメタファーではなく、実際にそこで起こ っていることです。」と村上が述べていることは重要である。村上にとって小説を書くことは、 「超自然的な現象」・「現実には起こっていない」ことを、「実際にそこで起こっていること」と して描くことなのである。読者の側からすれば、「超自然的な現象」が「実際にそこで起こって いる」と感じられるかどうかが問題となろう。実は、村上は、読者にそのように感じさせるた めのある種の仕掛けを、小説の中に仕組んでいる。それは、一言で言えば、非現実を現実化す る仕掛けである。あるいは、三島由紀夫に倣って、「炭取が廻る」仕掛けと比喩的に言ってもよ い。以下で説明する。  三島は、先の「小説とは何か」の中で、「言語芸術においてこそ、われわれは、夢と現実、幻 想と事実との、言語による完全な等質性 0 0 0 に直面しうるのである。」16)と述べているが、これは分 かりやすく言い換えれば、言語芸術である小説においては、夢や幻想といった超現実・非現実 が現実・事実そのものになることがある、ということである。そして、そのような小説こそが 「みごとな小説」17)だと言うのであるが、実例として、柳田国男の『遠野物語』第二十二話を挙 げている。これは、ある家の亡くなった曾祖母が、納棺されたにもかかわらず、いつもの格好 をして裏口から家に入ってきた、という内容のごく短い怪異 である。この中の「裾にて炭取 にさはりしに、丸き炭取なればくる〵 〳 とまはりたり」という一節に着目して、三島は次のよ うに述べている。  (前略)人々は死の事実を知つてゐるから、そのときすでに、ありうべからざることが起 つたといふことは認識されてゐる。すなはち棺内に動かぬ屍体があるといふ事実と、裏口 から同一人が入つて来たといふ事実とは、完全に矛盾するからである。二種の相容れぬ現 実が併存するわけはないから、一方が現実であれば、他方は超現実あるひは非現実でなけ ればならない。そのとき人々は、目前に見てゐるものが幽霊だといふ認識に戦慄しながら、 同時に、超現実が現実を犯すわけはないといふ別の認識を保持してゐる。これはわれわれ の夢の体験と似てをり、一つの超現実を受容するときに、逆に自己防衛の機能が働いて、 こちら側の現実を確保しておきたいといふ欲求が高まるのである。(後略)  しかし「裾にて炭取にさはりしに、丸き炭取なればくる〵 〳 とまはりたり」と来ると、 もういけない。この瞬間に、われわれの現実そのものが完全に震撼されたのである。

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 すなはち物語は、このとき第二段階に入る。亡霊の出現の段階では、現実と超現実は併 存してゐる。しかし炭取の廻転によつて、超現実が現実を犯し、幻覚と考へる可能性は根 絶され、ここに認識世界は逆転して、幽霊のはうが「現実」になつてしまつたからである。 幽霊がわれわれの現実世界の物理法則に従ひ、単なる無機物にすぎぬ炭取に物理的力を及 ぼしてしまつたからには、すべてが主観から生じたといふ気休めはもはや許されない。か くて幽霊の実在は証明されたのである18 )。  要するに、われわれ読者は、「裾にて炭取にさはりしに、丸き炭取なればくる〵 〳 とまはりた り」という一文のあることによって、幽霊の実在を認めざるをえない、もはや現実にのみ安住 することは許されず、超現実ないし非現実の存在を受け入れざるをえない、と三島は言うので ある。「炭取の廻転」は、非現実を現実化した、という意味で、「現実の転位の蝶番のやうなも の」19 ) だと言うのである。そして、「小説がもともと「まことらしさ」の要請に発したジャンル である以上、そこにはこのやうな、現実を震撼させることによつて幽霊(すなはち言葉)を現 実化するところの根源的な力が備はつてゐなければならない。」20 )と三島は述べている。  このような三島の考えを「青が消える( Losing Blue )」に当てはめたならば、ここにも「炭 取の廻転」に相当する表現があることに気づく。たとえば、第二段落を見てみよう。  そのときアイロンをかけていたのはたまたま青とオレンジのストライプのシャツだった ので、青が消えたことに僕はすぐに気づいた。最初は― 同じ立場に置かれたら誰だって きっとそう思うはずだ― 自分の目がどうかしてしまったのだろうと思った。神経を集中 してじっとひとつのところを見ていたせいで、視力が一時的に狂ってしまったのだろうと。 僕はアイロンのスイッチを切り、そのシャツを持ってもっと明るい部屋に移動した。そし てソファーに腰をおろしてしばらく目を閉じ、何度か深呼吸をし、それから目を開けてシ ャツをもう一度よく見てみた。でも同じことだった。そこにはもう青は存在しなかった。 僕が手にしているのは、オレンジと白のストライプのシャツだった。かつて青であった部 分は、棍棒で殴られて記憶を失ってしまったようなとりとめのない白にとって換わられて いた。 ( 277 頁)  「僕」は、青が消えたという非現実に遭遇して(第 1 文)、そんなことは常識的にはありえな いことなので、現実の埒内で何とか(そうした事態は幻覚のせいだと考えて)納得しようとし ている(第 2 文・第 3 文)。つまり、「自己防衛の機能が働いて、こちら側の現実を確保してお きたいといふ欲求が高ま」っているのである。しかし、冷静に再度確認しても、やはり青は消 えていたのであって(第 4 文∼第 9 文)、「幻覚と考へる可能性は根絶され、ここに認識世界は 逆転し」たのである。いまや非現実は現実のものとなった、ということである。したがって、 この第二段落、とりわけ、その第 4 文∼第 9 文こそは、非現実を現実化する、「炭取の廻転」に 相当する表現、「現実の転位の蝶番のやうなもの」と考えられるのである。ただし、三島が「し かもその力(現実を震撼させることによつて幽霊(すなはち言葉)を現実化するところの根源

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的な力― 引用者註)は、長たらしい抒述から生れるものではなくて、こんな一行に圧縮され てゐれば十分なのである。」21 )と述べていることに照らせば、「青が消える( Losing Blue )」の 場合はやや冗長に過ぎようか。その意味で、「実験」が成功しているかどうかは、一概に判断で きない。そうであるにしても、非現実を現実化する仕掛け、「炭取が廻る」仕掛けが、いちおう は仕組まれている。このこともまた、小説「青が消える( Losing Blue )」の文体的特徴のひと つとして、指摘されてしかるべきであろう。  村上春樹は、「現実と非現実の境界のあり方みたいなところにいちばん惹かれる」22 )がゆえ に、実際、多くの小説で(全てとは言わないまでも、ほとんど全ての小説で)非現実の世界を 描いている。「青が消える( Losing Blue )」もまた、非現実の世界を描いた小説であり、その文 体的特徴としてまず指摘すべきことは、Ⅱで述べたとおりである。読者は、そのような文体に よって、冒頭から一気に非現実の世界に引き込まれ、よりリアルに非現実の世界を感じて、そ れこそ一気にこの短い小説を読み終えることであろう。何ら難しい表現があるわけではない。 込み入ったストーリーがあるわけでもない。この小説に書かれていることを、表面的ないし表 層的に理解することは容易である。単に、青色が消えるなどという、荒唐無稽な絵空事が書か れているだけである。しかし、多くの場合、読者は、読み終えた後に、この小説の意味すると ころを考えるであろう。いったいこの小説は何を言おうとしているのか、と。いわば小説の内 側ないし深層を読もうとするのである23 ) 。それは、三島由紀夫の言う「小説を読む者の基本的 欲求」を満たそうとすることであり、読みのごく自然な流れである。あるいはまた、この小説 を国語教材として用いる場合にも、高等学校学習指導要領には、「国語総合」の「 3 内容」の 「 C 読むこと」に、「エ 文章の構成や展開を確かめ、内容や表現の仕方について評価したり、 書き手の意図をとらえたりすること。」24 ) という「指導事項」が掲げられており、「書き手」が 「なぜこの文章を書いたのか、なぜこのように書いたのかということにまで迫る」25 )ためには、 当然必要なことである。  一般に、ある抽象的な概念を、具象的な事柄によって表現することをアレゴリー(Allegorie) と呼ぶが、荒唐無稽な非現実の世界が具象的に描かれた「青が消える( Losing Blue )」から何 らかの意味を抽出するとすれば、それはまさにアレゴリーの問題である。たとえば、ヴァルタ ー・ベンヤミンは、『ドイツ悲劇の根源』において、古典主義の時代、ゲーテが「寓意の中に、 考察に値いするようないかなる対象をも見出しえなかった」26 ) のに対して、アレゴリーの重要 性を精緻かつ稠密に論じた。いわばアレゴリーの名誉回復ないし復権を図ったのである27 ) 。し かし、考えてみれば、小説では、抽象的な(その小説全体を貫くような、一定程度まとまりの ある)概念(すなわち主題)が直接的に語られることは稀であって、語られるのは具象的な事 柄が大半を占める。別の言い方をすれば、小説では、説明ではなく、描写がその表現機能を中 心的に担う28 ) 。読者が、その語られた具象的な事柄(描写)から、そこに込められた抽象的な

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意味を読み取ろうとすることは、ごく当り前のことである。むしろ、それこそが真に小説を読 むことであると言っても過言ではない。したがって、小説という藝術ジャンルにおいてアレゴ リーが重要であることは、ベンヤミンを俟つまでもなく、当然のことと言えよう。とりわけ、 村上春樹は、自身にとっても「ある種の というか、わからない部分」29 ) を小説という形式で 描く作家であるから、アレゴリーの重要性は、よりいっそう高いものと考えられる。つまり、 村上の小説をアレゴリーとして捉え、そこから如何なる意味(寓意)を読み取るかがきわめて 重要なのである。それは、村上にとっても読者にとっても、「ある種の というか、わからない 部分」である何かを、できる限り解明して、その小説を表層のみならず深層までをも含めて分 かろうとすることである。  では、小説「青が消える( Losing Blue )」をひとつのアレゴリーと考えたならば、ここから どのような意味(寓意)が読み取れるであろうか。  この小説では、「青」が消えて「白」に変わった、そのありさまを描写する際、「白」につい ては、不吉とも言うべき比喩を用いて形容されていることに気づく。四箇所を挙げる。  僕が手にしているのは、オレンジと白のストライプのシャツだった。かつて青であった 部分は、棍棒で殴られて記憶を失ってしまったようなとりとめのない白にとって換わられ ていた。 (前掲第二段落)  そこには青い T シャツがあり、青い靴下があり、青いセーターがあり、青いスカーフが あるはずだった。でもそこでも事情は同じだった。それらはみんな、まるで歳月に洗われ た見知らぬ人の骨のような白に染まっていた。 (前掲第三段落)  でもそこにはもう青い海の姿はなかった。サングラスをかけてマイタイのグラスを手に にっこりと笑っている僕らの背後にあるのは、まるでシベリアの氷原のような茫漠とした 白い広野だった。 ( 278 頁)  でも今では、ブルーラインの何もかもが白に変わっていた。白い電車が白い壁の中を走 り、白い制服を着た駅員が白い切符を売っていた。それは僕に古い記録映画で見たスター リングラードの冬季攻防戦を思い出させた。 ( 280 頁)  最後の引用箇所は、厳密には比喩ではないかもしれないが、それはいま扨措く。問題は、こ れら四つの引用箇所(下線部)が、生命ないし生命力の消失を連想させることである。端的に 言えば、死をイメージさせるのである。一方で「青」は、「海の青、空の青。」( 279 頁)であ り、「淡い青から深い青まで、僕は青という色が昔から好きだったし、みんなも僕には青がよく 似合うと言った。」(前掲第三段落)、そのような色としてプラスに描かれている。「コンピュー ター・システム」の中の「総理大臣」でさえもが、「青はまことに美しい色であります」( 281 頁)と言うのである。このような「白」と「青」の対照、とりわけ「白」のイメージの不吉さ

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は、「こんな風に青という色を失ったまま― そして僕以外の誰ひとりそれについてとくに心配 もしていない(僕にはそう思えた)まま― 新しいミレニアムに入ってしまったら、なんだか すごくよくないことが起こるんじゃないかという気がしたのだ。」( 281 頁)という「僕」の不 吉な予感を喚起する。そして、「白」と「青」の対照は、「総理大臣」が引用した若山牧水の短 歌「白鳥は哀しからずや/空の青/海のあをにも染まずただよふ」( 281 頁)にも読み取れるの だが、よくよく考えてみれば、「空の青/海のあを」とは、地球の「青」そのものである。その 「青」が「白」に変わるということは、この地球から生命が無くなることを暗示しているのでは なかろうか30 ) 。それは、大地震や異常気象といった自然災害によるのか、それとも、核利用の 失敗や戦争といった人為的なものによるのかは分からない。分からないが、この地球は次の千 年のうちに死の星になってしまうのではないか、それがどこかでひそかに進行しているのでは ないか、われわれは新しいミレニアムを迎えて浮かれてばかりいる場合ではないのではないか、 といった「僕」の不安と焦りがこの小説全体から読み取れる。いわば地球滅亡への不安と焦燥、 それに対する警告、これらのアレゴリーとして、小説「青が消える( Losing Blue )」を読むこ とが可能なのである。  あるいはまた、別の読み方も可能である。たとえば、「コンピューター・システム」の中の 「総理大臣」の言葉に着目してみよう。「僕(岡田)」が「公衆電話から内閣総理府広報室に電話 をかけ」る場面を引用する。  僕はクレジット・カードを使って公衆電話から内閣総理府広報室に電話をかけ、総理大 臣を呼び出してみた。もちろん総理大臣が本当に電話に出てくるわけではない。国民の疑 問や苦情に、総理大臣がひとつひとつ個人的に答えてくれるコンピューター・システムを NEC が新しく作り上げて、実用化されたのだ。声も合成だが、本当に総理大臣の声に聞こ える。 「青はまことに美しい色であります、岡田さん」と総理大臣の声は静かに言った。「ご存じ でしょうか。私の好きな短歌にこういうものがあります。『白鳥は哀しからずや/空の青/海 のあをにも染まずただよふ』、なんという美しい短歌でしょう、岡田さん」 「ねえ総理大臣、青がなくなってしまったんですよ」と僕は電話に向けて怒鳴った。 「かたちのあるものは必ずなくなるのです、岡田さん」と総理大臣は言い聞かせるように 僕に言った。「それが歴史なのですよ、岡田さん。好き嫌いに関係なく歴史は進むのです。 石油だってなくなります。ウラニウムだってなくなります。コミュニズムだってなくなり ます。オゾン層だって、二十世紀だって、ジョン・レノンだって、神様だってなくなりま す。スイング・ジャズだって、LP レコードだって、人力車だってなくなります。岡田さ ん、どうして青がなくなってはいけないのですか、岡田さん。明るい面に目を向けなさい。 何かがひとつなくなったら、また新しいものをひとつ作ればいいじゃありませんか。その 方が経済的だし、それが経済なのですよ、岡田さん」 ( 281 ∼ 282 頁)  「コンピューター・システム」の中の「総理大臣」は、青が消えて苛立つ「僕(岡田)」とは

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対照的に冷静である。それは、余裕すら感じさせるほどである。そして、一見まともに聞こえ て、その実どこか珍妙かつ怪しげな理屈を用いて「僕(岡田)」を落ち着かせ、青が消えたこと から「僕(岡田)」の意識を逸らそうとしている。重要なことは、この「総理大臣」の言葉が、 青が消えたことを前提としている、ということである。つまり、青が消えたのは事実であり、 「総理大臣」はそれを知っているのである。知っていて、「歴史」や「経済」の前では、青が消 えたことなど大したことではない、些細なことだというように、「僕(岡田)」を説得しようと するのである。「僕(岡田)」にとって青は、「昔から好きだったし、みんなも僕には青がよく似 合うと言った」、そういう色である。最後の「でも青がないんだ、と僕は小さな声で言った。そ してそれは僕が好きな色だったのだ。」という箇所からも、その思い入れの強さ、自分にとって かけがえのないものであるとの思いが伝わってくる。しかし、最高権力者である「総理大臣」 にとっては、「僕(岡田)」のような一個人の思いよりも、「歴史」や「経済」の方が大事なので ある。一個人は、「私はただの駅員です」( 280 頁)、「私は何も知りません。そういうことはも っと偉い人に聞いてください。中央コンピューターに聞いてください。私は青のことなんてこ れっぽっちも知らないんですよ。私はただ言われたとおりに働いているだけです」( 280 ∼ 281 頁)と言った「ブルーラインの地下鉄」( 280 頁)の「駅員」のように、物事を疑ったり考えた りすることなく、主体性を持たずにただ「偉い人」に従うことしか許されないのであろうか。  ここで参考にすべきは、村上が 2009 年、エルサレム賞受賞の際に述べた、「もしここに硬い 大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。」31) という言葉である。かなり有名になった言葉だが、村上は、この言葉を次のように解説する。  (前略)こう考えてみて下さい。我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにひとつの卵な のだと。かけがえのないひとつの魂と、それをくるむ脆い殻を持った卵なのだと。私もそ うだし、あなた方もそうです。そして我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにとっての 硬い大きな壁に直面しているのです。その壁は名前を持っています。それは「システム」 と呼ばれています。そのシステムは本来は我々を護るべきはずのものです。しかしあると きにはそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させるのです。冷たく、効率よく、 そしてシステマティックに32 )。  村上は、一人ひとりの人間を「かけがえのないひとつの魂と、それをくるむ脆い殻を持った 卵」に、その前に立ちはだかる「システム」を「硬い大きな壁」に、それぞれたとえている。 「卵」は、「壁」にぶつかれば、いとも簡単に割れてしまう。「壁」に対して、あまりに無力であ る。「壁」は強大で、「卵」は弱く小さい。そのような「壁」が、時として「卵」を「冷たく、 効率よく、そしてシステマティックに」割る、一つ一つの「卵」がかけがえのないものである にもかかわらず。それゆえ、村上は、「私は常に卵の側に立ちます。」と言うのであるが、上の 引用箇所に続けて、村上は、次のようにも述べている。  私が小説を書く理由は、 じ詰めればただひとつです。個人の魂の尊厳を浮かび上がら

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せ、そこに光を当てるためです。我々の魂がシステムに絡め取られ、貶められることのな いように、常にそこに光を当て、警鐘を鳴らす、それこそが物語の役目です。私はそう信 じています。生と死の物語を書き、愛の物語を書き、人を泣かせ、人を怯えさせ、人を笑 わせることによって、個々の魂のかけがえのなさを明らかにしようと試み続けること、そ れが小説家の仕事です。そのために我々は日々真剣に虚構を作り続けているのです33 ) 。  先にも確認したように、「僕(岡田)」にとって青は、「昔から好きだったし、みんなも僕には 青がよく似合うと言った」、そういう思い入れの強い、かけがえのない色である。青は、「僕(岡 田)」の魂そのもの(を表象している)と言っても過言ではない34 ) 。その青が消えてしまった いま、「僕(岡田)」の魂は、どれほど傷ついていることであろうか。しかし、「コンピュータ ー・システム」の中の「総理大臣」は、そのようなことには全く頓着しない。「歴史」や「経 済」などという大仰な言葉を用いて、青がなくなってもかまわない、と「僕(岡田)」を説得し ようとし、「岡田さん、どうして青がなくなってはいけないのですか、岡田さん。」などと言う のである。これでは、「僕(岡田)」の神経は逆撫でされるばかりであり、その意味で、「僕(岡 田)」の魂は、二重に傷つくことであろう。つまり、この場面は、「我々の魂がシステムに絡め 取られ、貶められ」ようとするありさまを、具象的に描いたものと解せるのである。青が「卵」 に、「コンピューター・システム」の中の「総理大臣」が「壁」に対応するのは言うまでもな い。したがって、「青が消える( Losing Blue )」は、個々の人間の魂の尊厳を「システム」が踏 みにじる、ということに光を当て、警鐘を鳴らした小説とも考えられるのである。まさに村上 が「小説を書く理由」そのもののアレゴリーと言えよう。なお、この小説では、「壁」すなわち 「システム」を、「コンピューター・システム」で表象している。「システム」という語の符合 は、意図的なものであるかどうかは断定できないが、上のような意味(寓意)を読み取るうえ で、大きな手がかりになることは確かである。このことを指摘しておく。  さらにまた、小説「青が消える(Losing Blue)」をアレゴリーとして読む場合、別の意味(寓 意)を読み取ることができる。上では、青を一人の人間の魂、そして、その青が消えたことを 人間の魂の尊厳が貶められたこと、と読んだが、人間が自分の来し方、その時どきの思い出を 大切にすることもまた、魂の尊厳にかかわることではないか。小説中の「僕」は、自分の過去 (の思い出)を大切にする人間として描かれている。あるいは、過去にこだわって、気持を簡単 に切り替えられない人間として描かれている。二箇所を引用する。  それから僕は書斎に行って、引き出しからハワイに旅行したときの写真アルバムを出し てみた。そこには僕とガールフレンドが、水着姿で海岸に寝ころんでいる写真が沢山入っ ているはずだった。白いビーチ、青い海、椰子の木。僕らは去年そこに二人で旅行に行っ たのだ。 ( 278 頁)  僕はひとりぼっちだった。そしてそれは 1 9 9 9 年の大 日の夜だった。新しいミレニア ムを迎える記念すべき夜だった。世界中の人間はひとり残らずみんなどこかのパーティー

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にでかけていた。家に残ってひとりでシャツにアイロンをかけている人間なんて僕くらい のものだ。僕は少し前にガールフレンドと喧嘩別れをして、それでものすごく落ち込んで いたから、とてもパーティーにでかける気になんてなれなかったのだ。年号が 2 0 0 0 年に なったからといっていったい何が変わるというのだ、と僕は思った。そんなものただの日 付の違いにすぎないじゃないか。カレンダーを一枚めくるというだけのことじゃないか。 それで世界が何か変わるっていうわけでもないんだ。くだらない。 ( 278 頁)  「僕」は、「ガールフレンドと喧嘩別れをして」もなお、彼女との旅行の思い出が詰まった「写 真アルバム」を捨てない(あるいは、捨てられない)人間であり、「新しいミレニアムを迎える 記念すべき夜」なので「世界中の人間はひとり残らずみんなどこかのパーティーにでかけてい た」にもかかわらず、「喧嘩別れをして、それでものすごく落ち込んでいたから、とてもパーテ ィーにでかける気になんてなれな」い人間なのである。良きにつけ悪しきにつけ、「僕」にとっ て過去は相当に重いものであり、その過去を簡単に忘れて、未来に目を向けることなどできな いのである。村上自身は、自分の過去について、たとえば、「一九六〇年代という時代には、確 かに何か特別なものがあった。今思い出してもそう思うし、その時にだってそう思っていた。 この時代には何か特別なものがあると。」35 ) として、次のような「実話であり、それと同時に寓 話であ」り、「我らが一九六〇年代のフォークロア(民間伝承)でもある」36 ) 文章を書いている。  僕は何も回顧的になっているわけではないし、また自分の育った時代を自慢しているわ けでもない(いったいどこの誰が何のために、あるひとつの時代を自慢しなくてはならな いというのだ?)。僕はただ事実を事実として述べているだけだ。そう、そこには確かに何 か特別なものがあったのだ。もっとも― 僕は思うのだけれど― そこにあったもの自体 はとりたてて珍しいものではなかった。時代の回転が生じさせる熱や、そこにかかげられ た約束や、ある種のものがある種の時期に生み出すある種の限定された輝かしさ、そして 望遠鏡を逆から覗いているような宿命的なもどかしさ。英雄と悪漢、陶酔と幻滅、殉教と 転身、総論と各論、沈黙と雄弁、そして退屈な時間待ち、エトセトラ、エトセトラ。どの 時代にだってそういうものはちゃんとあったし、今でもちゃんとある。でも我らが時代(と いういささか大仰な表現を許していただきたい)にあっては、そういうものがひとつひと つ、くっきりと手に取れるような形で存在したのだ。ひとつひとつ棚に載っていたのだ37) 。  1949 年生れの村上春樹は、1960 年代を「確かに何か特別なものがあった」「我らが時代」と 呼ぶ。この時代に強い思い入れのあることが分かる。もちろん、過去のある時代に思い入れが あるのは、村上だけではない。人間は誰しも、自分の過去に、過去のある時代に、程度の差こ そあれ、思い入れがあるものではないか。過去があればこそ現在があり、現在があればこそ未 来は開けるのであって、過去・現在と断絶した未来などというものは無い。したがって、未来 が大事であることは言うまでもないが、過去もまた、現在の自分を形づくってきたという意味 において、決して忘れ去られてしまうべきものではなく、大事にされてしかるべきものなので

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ある。「青が消える( Losing Blue )」の「僕」にも、それがいつの時代かは分からないが(おそ らくは 1980 年代か 1990 年代であろうか)、深く思いを寄せる、大切な過去の時代があるのであ ろう。そういうかけがえのない過去の時代があればこそ、「 1 9 9 9 年の大 日の夜」、「新しい ミレニアムを迎える記念すべき夜」であるのに、「家に残ってひとりでシャツにアイロンをか け」ながら、「年号が 2 0 0 0 年になったからといっていったい何が変わるというのだ」、「そん なものただの日付の違いにすぎないじゃないか。カレンダーを一枚めくるというだけのことじ ゃないか。それで世界が何か変わるっていうわけでもないんだ。くだらない。」などという理屈 をこねているのである。つまり、新しいミレニアム(未来)にばかり目を向け、過去は忘れ去 ってしまったかのように「どこかのパーティーにでかけて」浮かれ騒ぐ「世界中の人間」に対 して、批判的にならざるをえないのである。このように考えれば、青は、かけがえのない過去 を表象していると言えるのではなかろうか。新しいミレニアムを迎え、誰も過去になぞ見向き もしない今、「僕」にとってかけがえのない過去は、誰とも共有できるものではなくなり、もは や消え失せてしまったに等しいのではなかろうか。過去が忘れ去られ、消えてしまうことに対 する「僕」の喪失感と孤独感、これらを小説「青が消える( Losing Blue )」の最後の箇所にあ りありと読み取ることができる。  僕はわけのわからないままどこまでも通りを歩いた。やがて町中の時計が十二時を打っ た。みんなが一斉に歓声をあげ、歌を歌ったり、物を投げたり、抱き合ったり、シャンパ ンを抜いたりした。新しいミレニアムがやってきたのだ。誰も消えた青のことなんか気に してはいなかった。  でも青がないんだ、と僕は小さな声で言った。そしてそれは僕が好きな色だったのだ。 ( 282 頁)  以上のように、小説「青が消える( Losing Blue )」は、かけがえのない過去が消えることへ の喪失感と孤独感、そのアレゴリーとして読むこともまた可能なのである38 ) 。  ここまで、小説「青が消える( Losing Blue )」をアレゴリーとして読む場合、ここからどの ような意味(寓意)が読み取れるかということについて、三つの読み方を示してきたが、これ ら以外にも様々な読み方ができる。たとえば、今井( 2007 )は、次のように指摘している。  寓意がポイントになる。消滅する青は、『 1 9 7 3 年のピンボール』の〈僕〉の旧式でか まわないという配電盤の選択と同様、もはや許容されなくなった個人の選択、とすること はできる。消滅という現象からは、民衆が大イヴェントに注目している陰で些細を装って 進行する画策、〈政治〉を回避する官僚機構、用意した範疇外の選択は排除する村上春樹の いう〈国家の論理〉(「都市小説の成立と展開」「海」82・5 )が浮上する。また、初出を考慮す ると、キリスト教的イヴェントに脱宗教的にかかわる日本人像の対象化も見える。だが寓 意の本質は任意性であり、特定の内容補填はそれを損なう。 ( 245 頁)

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 あるいは、須貝( 2010 )の次のような指摘もある。ここでは、青に「文化」、「約束事」とい う意味(寓意)を読み取っている。  青が青であるという事態は「文化」、「約束事」に他ならない。二十世紀から二十一世紀 に時代が変わるということを通じて、二十世紀の「約束事」が消滅してしまったという事 態は「言語論的転回」のゆくえを暗示している。 ( 7 頁)  もちろん、この小説には、わずかではあるが「パブロ・ピカソ」の「〈青の時代〉」や「アメ リカかフランスの旗」への言及がある( 281 頁)ので、これらの青から何らかの意味(寓意) を読み取ることもできよう。このように、小説「青が消える( Losing Blue )」からは様々な意 味(寓意)を読み取ることが可能なのであるが、ここで重要なことは、どの意味(寓意)を読 み取ることが正しく、どの意味(寓意)が間違いであるかを決することではない。村上が「テ キストの役目は、それぞれの読者に咀嚼されることにあります。読者にはそれを好きなように 捌き、咀嚼する権利があります。」39 )と言うように、この小説からどのような意味(寓意)を読 み取ったとしても、それは読者の「権利」なのである。重要なことは、様々な意味(寓意)が 読み取れるということ、それ自体である。つまり、「青が消える( Losing Blue )」は、様々な意 味(寓意)が読み取れる、あるいは、様々な意味(寓意)の読み取りを読者に要求する、そう いう小説だということである。したがって、その重要な文体的特徴として、いわばアレゴーリ ッシュ( allegorisch )な文体である、と指摘することができるのである。  なお、ここで一点、追加して指摘しておきたいことがある。それは、この小説にはある種の ユーモアが感じられる、ということである。分かりやすい例を挙げれば、先に引用した「コン ピューター・システム」の中の「総理大臣」の言葉である。「総理大臣」は、「かたちのあるも のは必ずなくなる」ことを例証しようとして、「石油だってなくなります。ウラニウムだってな くなります。コミュニズムだってなくなります。オゾン層だって、二十世紀だって、ジョン・ レノンだって、神様だってなくなります。スイング・ジャズだって、LP レコードだって、人力 車だってなくなります。岡田さん、どうして青がなくなってはいけないのですか、岡田さん。」 と述べているが、ここに列挙された「かたちのあるもの」は、相互に属性や範疇を異にするも のである。たしかに、「石油」と「ウラニウム」、「 LP レコード」と「人力車」は、それぞれ同 じ属性・範疇のものと言えるかもしれないが、しかし、それ以外は、本来並列できないもの、 いわば次元の異なるものが無理やり同列のものとして列挙されているのである。とりわけ、「か たちのあるもの」の例として「人力車」を挙げることにはどこかしら間の抜けた味わいが感じ られようし、そもそも、「コミュニズム」や「二十世紀」や「神様」などは「かたちのあるも の」なのであろうか。きわめてユーモラスな例の挙げ方である。これ以外にも、「新しいミレニ アムを迎える記念すべき」「 1 9 9 9 年の大 日の夜」に「僕」が「ひとりでシャツにアイロン をかけている」という場面設定のしかたや、「別れたガールフレンド」( 279 頁)が「僕」に言 った言葉「あなたってどうしてそんなに辛気臭い人生を送らなくちゃならないの?」(同前)の 「辛気臭い人生」という表現のしかたなども、読者によってはユーモアが感じられるのではなか

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ろうか。  村上春樹は、ユーモアについて、次のような考えを述べている。  『悪霊』はドストエフスキーの作品の中でも、もっともユーモアの要素を多く含んだもの であると僕も思います。カーヴァーもチャンドラーも、見事なユーモアのセンスを持って います。カフカの小説は、構造全体が奇妙な滑稽さを含んでいます。ユーモアというのは、 僕の小説の中でも、きわめて大きな役割を果たしています。本当の意味での「シリアスさ」 は笑いの要素がなくては成立しないのではないかとさえ思えます40 ) 。  「青が消える( Losing Blue )」は、ハッピーエンドの明るい小説ではない。上で読み取った意 味(寓意)にしても、不安感や焦燥感、警鐘、喪失感や孤独感というように、ネガティヴなも のばかりである。いわばバッドエンドの、相当程度にシリアスな小説と言えよう。ユーモアの 重要性を認識している村上は、この小説にも意図的にユーモアの要素を取り入れることにより、 「本当の意味での「シリアスさ」」を成立させようとしたのだと考えられる。と同時に、ユーモ アによって、「僕」の置かれた危機的な状況(それは取りも直さず、読者である現代人の置かれ た危機的状況である)をずらし、あるいは相対化し、乗り越えようとしているのではないだろ うか。ともかくも、小説にユーモアの要素を取り入れることは、村上の自負ですらある。  僕の文章にもし優れた点があるとすれば、それはリズムの良さと、ユーモアの感覚じゃ ないかな。それは今に至るまで、僕の文章について基本的に変わらないことだという気が します41 ) 。  以上、村上は、小説にユーモアの要素を意図的に取り入れ、それを自負しているのである。 したがって、ユーモアの要素が見られることもまた、小説「青が消える( Losing Blue )」の文 体的特徴として、当然指摘しておくべきであろう。  本稿では、村上春樹の短編小説「青が消える( Losing Blue )」について、文体論の観点から の分析・考察を試みた。これまでに析出された文体的特徴を整理すれば、次のようになる。  ⑴ 異様な冒頭表現に異化効果およびサスペンス効果が認められる  ⑵ 悪夢が説明抜きで叙述(描写)されている  ⑶ 非現実を現実化する仕掛け(「炭取が廻る」仕掛け)が仕組まれている  ⑷ 様々な意味(寓意)が読み取れるアレゴーリッシュな文体である    (読み取った意味(寓意)は次の①∼③)

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  ① 地球滅亡への不安と焦燥、および、それに対する警告   ② 個々の人間の魂の尊厳を「システム」が踏みにじること、および、それに対する警鐘   ③ かけがえのない過去が消えることへの喪失感と孤独感  ⑸ ユーモアの要素が見られる  以上の⑴∼⑸が本稿で析出された「青が消える( Losing Blue )」の文体的特徴であるが、Ⅰ で述べたように、村上春樹の場合、短編小説は長編小説のプロトタイプと考えられるので、こ れらの文体的特徴のうちのいくつかは、長編小説においても見出されるものと推測される。あ くまでも推測であるが、おそらくは⑴以外の⑵∼⑸の特徴は、多くの長編小説にも見られるの ではなかろうか。詳細な検討は別の機会に譲るとしても、少なくとも、これらの特徴が「村上 春樹らしさ」ないし「本来の「村上春樹的」小説世界」を形づくる要素である、と言うことは できるであろう。  なお、上の⑷に関連して、一言附言しておく。本稿では、小説「青が消える( Losing Blue )」 をアレゴリーとして読み、三つの意味(寓意)を読み取るとともに、これら以外の意味(寓意) も読み取れる可能性のあることを指摘した。このことについて、これだけ多くの意味(寓意) が読み取れるのは、〈読みのアナーキー〉、さらには、ああも読めるがこうも読めるという、ナ ンデモアリの〈エセ読みのアナーキー〉ではないか、との批判があるかもしれない42 ) 。〈読み のアナーキー〉および〈エセ読みのアナーキー〉とは、ロラン・バルトが論文「作品からテク ストへ」で提示した「還元不可能な 0 0 0 0 0 0 複数性」43 )という概念に起因する、恣意的かつ無秩序な読 みを指す。しかしながら、先の今井(2007)が指摘するように、「寓意の本質は任意性であ」る のである。別の言葉で言えば、様々な意味(寓意)が読み取れるからこそアレゴリーなのであ る。ここで、村上春樹の言葉を、先に引用した箇所を含めて確認しておく。  テキストというのはひとつの「総体」、英語で言えば whole です。いわばブラックボック スです。それの役目はあくまで、ひとかたまりのテキストとして機能することです。テキ ストの役目は、それぞれの読者に咀嚼されることにあります。読者にはそれを好きなよう に捌き、咀嚼する権利があります。それがもし読者の手に渡る前に、著者によって捌かれ、 咀嚼されてしまったら、テキストとしての意味や有効性が大幅に損なわれてしまいます44) 。  村上がここで述べていることは、きわめて重要である。読者がテキストを好きなように読む のは読者の「権利」なのである。そして、そのテキストが様々に読めるということは、それだ けそのテキストの意味や有効性が大きいということなのである。これは、バルトの言葉遣いで 言えば、「容認可能な複数性」45 ) ということになろうが、本稿もまた、この立場に立っている。 このことを附言しておく。  最後に、小説「青が消える( Losing Blue )」の持つ批評性について述べておきたい。この小 説に寓意性とともに批評性が見られることは、すでに多く指摘されている。たとえば、鎌田 ( 2011 )は、次のように述べている。

参照

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